<働乱(どうらん)の時代に>
日本の大手自動車メーカーから受注したエンジンの金型をなぞる手のひらに、わずかな違和感があった。「精度が出てねえな」。12月中旬、中国広東省東莞市にある金型メーカー「アルトラスト」の工場で技術指導する高野晃一さん(65)が声を上げた。
金型は金属などの素材から部品を生産するのに使われる。機械が400台以上並び、約1200人が働く大規模工場。だが、その日本語に反応したのは工程の確認に来ていた日本の自動車メーカーの担当者だけ。高野さんは中国人技術者のリーダーと通訳を手招きし、「表面に傷があるはずだ。確認してくれ」と伝えた。身ぶり手ぶりを交えた指導が始まった。
「中国人への技術の継承は大変でしょう」。その夜、日本料理店で自動車メーカーの担当者が高野さんに話しかけた。「きょうの傷の件のように、感性の部分を伝えることは難しい。でもね、中には理解する技術者がいる。私は彼らを後継者だと思っていますよ」
担当者は「中国の工場に金型を発注することは勇気が必要だったが、日本の技術者がいると心強い」と言ってうなずいた。「メード・イン・チャイナ」の金型で作られたエンジンは、日本ブランドの自動車に積まれ中国を走る。
経営の傾いた長野県の金型工場を飛び出し、中国に渡って10年。中国人技術者のレベルをようやく日本の7割程度まで上げ、特殊な製品以外は独力でできるようになった。主に日本の子会社「アルトラストジャパン」が受注した製品の製造に携わり、6割は日本へ輸出する。
金型は日本製の7割ほどの価格。同社は「品質にこだわるから、鋼材は日本製と同じ。人件費の分だけ安い」という。中国からメード・イン・ジャパンを支える構図だ。
高野さんとともに指導にあたる村上英樹さん(42)も長野の金型工場で同僚だった。日本にいた頃は「仕事がない」「給料が少ない」と愚痴ばかりが口をついた。今は「忙しくて、そんな暇がなくなった」と苦笑いする。
だが、中国で働くことに心から納得しているわけではない。香港で暮らす家族とは週1日しか会えず、日本に建てた家は不在のままローンを支払う。「時々日本のものづくりが懐かしくなる。でも、日本に仕事がない。仕事の達成感を味わえる場所がここにしかない」
アルトラストジャパンはここ数年、日本企業や中国の日系企業から、露骨に品質を下げてコストを抑えるよう求められることがある。品質確保のため素材に日本製も使っているのに「最も安い中国材で見積もりを」「全てメード・イン・チャイナで作ってほしい」という要求だ。
しかし社長の北澤博之さん(60)は「粗悪な鋼材を使用し、品質で迷惑を掛けることはできない」と断っている。中国と日本を行き来していると、メード・イン・ジャパンの底力を実感することも多い。「少し高くても日本製を買う企業はある。日本企業だけが、安くしないと売れないと考えているのかもしれない」と感じる。
「技術を追求する心に国境はない。我々は中国で品質にこだわりを持って働いている」
日本初の炊飯器は55年前、東京都大田区の町工場「光伸社(こうしんしゃ)」が発明し、「台所革命」をもたらした。だが、光伸社は、雷対策機器を製造する「サンコーシヤ」(品川区)に吸収され、今はない。
かつて炊飯器の製造に携わり、同社に残るのは2人だけだ。子会社の会長を務める板坂泰治さん(72)は「開発した三並義忠社長(故人)の苦労は並大抵ではない。よくあの時代にあれだけのものを作った」と振り返る。
三並社長と家族は炊飯器があらゆる気温に適応できるよう廊下や屋根の上にも置いて実験を重ね、実用化に成功した。製品が東芝に納入され、増産に追われていた頃に板坂さんは入社した。
休日も寝る前も炊飯器のことばかり考えていた。1回のモデルチェンジには10人がかりで半年を費やし、月の半分は工場に泊まり込んだ。だが、大手メーカーも次々と参入し、オイルショックの影響もあり経営は悪化する。79年、サンコーシヤの前身「山光社」の傘下に入った。
「工場を閉鎖します。申し訳ありません」。主力の八王子工場は81年に従業員を減らし、山光社の工場内に移転した。幹部だった板坂さんは深く頭を下げた。人員整理にかかわっていたため、辞める覚悟を決めていた。
仲間の説得で思いとどまり、70人とともに移転した工場の朝礼では、従業員を鼓舞し続けた。「光伸社の光を消さないようにしよう」。既に炊飯器事業から撤退し、OA機器の部品製造などを手掛けたが、力尽きた。光伸社は85年、完全に吸収された。
現在のサンコーシヤは、高級炊飯器でシェアトップの三洋CEと同様、国内はほぼ開発機能だけになった。インドネシアで部品を製造し、組み立ても中国で行う。技術革新を続け、国内トップメーカーだが、欧州企業との競争にもさらされている。
「炊飯器の世界では、いまだに三並社長が一番すごい。まねできない先端技術を生み出し、守っていくことが日本の生命線だ。でもそれが最も難しい」
サンコーシヤで今、炊飯器が作られたいきさつを知る人はほとんどいない。開発の原点には、どうすれば手間をかけずにおいしくご飯を炊けるのかという発想があった。
その思いは時代を超え、三洋CEの技術者たちにも受け継がれている。=つづく
毎日新聞 2010年12月31日 東京朝刊