インタビュー

人生は夕方から楽しくなる:映画プロデューサー・奥山和由さん

2010年12月27日

 誰しも大切な場所を心に秘めている。生まれ故郷かもしれないし、愛する者と出会った場所かもしれない。映画プロデューサー、奥山和由さん(56)にとって、俳優ロバート・デ・ニーロが経営陣に名を連ねる、東京・虎ノ門のレストラン「NOBU」がそれに当たる。話は07年2月にさかのぼる。店のお披露目パーティーが開かれ、奥山さんも招かれた。デ・ニーロとは9年ぶりの再会だった。

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 「最初、会うことをためらっていたんです。松竹時代からデ・ニーロの映画を撮りたくて準備していたけど、私が98年に役員を解任されたことですべては白紙に。それでも、直後に会ったときは、『協力するよ』と言ってくれた。5年で立ち直れると思っていたんですよ、あの時は。ところが、これだけのブランクがあいてしまって......」

 個室にいたデ・ニーロは奥山さんの姿を見つけると、ドア越しに手招きした。駆け寄るとがっちりと抱きしめられた。デ・ニーロに、手短に近況を報告した。返ってきた言葉は、じかに伝わってきた熱い鼓動とともに、今も心に刻まれている。「オクヤマ、声が掛かるのを待っているよ」

 80年代から90年代にかけて、日本映画界の先頭にこの人がいた。父は松竹の社長。「ジュニア」であっても、圧倒的な実績がその種の批判をねじ伏せた。「ハチ公物語」、「遠き落日」などのヒット作を送り出し、いち早く北野武の才能を見抜き、監督デビューさせた。自らがメガホンを握った「RAMPO」は大ヒットした。作品のタイトルロールの最初に大きく映し出され、パンフレットには<日本のナンバーワン・プロデューサー>の文字が躍った。30代半ばで経営に加わり、名実ともに松竹のプリンスだった。だが、強烈な個性は組織で摩擦を引き起こしていたのだろう、父とともに松竹を追放された。98年1月のことだ。

 「あの時の取締役会は映画みたいでした。味方だと思っていた人がそれこそ手のひらを返した。ひと言でいうと、陰々滅々なんです」

 松竹を離れた後、一時期、別の映画会社に役員として迎えられた。求められたのはリストラの陣頭指揮だった。わずか9カ月でやめた。「非情にはなりきれなかった」。解任前後には「独裁的」などとバッシングにさらされたことを思うと意外な気もする。

 「プロデューサーというのは、弱者に加担できて初めて存在価値があると思うんです。自分自身すら守れない人に勇気を与えるような作品を作りたい。その一点では変わらないつもりなんです」

 では、プロデュースした作品がすべてそうかというと、そうではない。歳月と積み重ねた体験が、<弱者との共感>と言わしめているようにも思われた。松竹という大きな組織を離れてから手がけた作品は、戦場カメラマンを描いた「地雷を踏んだらサヨウナラ」やレーサーが主役の「クラッシュ」など、生と死のギリギリの中で格闘する人間を描く傾向にある。まるで己の魂を投影しているかのように、である。ただ、作品が小ぶりになっていることは否めない。「ずいぶん苦しんだ10年余だとは思っています」

 デ・ニーロと再会してほどなく、それまで手がけた作品のビデオやパンフレットなど、一切捨ててしまった。

 「昔つくった作品にこだわることはやめようと思ったんです。過去よりも未来に執着したい。過去のすべてを上回る『愛着』を、これから生む作品に注ぎ込みたいのです」

 昨年11月、父融氏が亡くなった。膨大な手記が見つかった。リア王のように映画界を追放された者の無念の思いがほとばしっていたという。自身は多くを語らないが、「ゴミ箱に捨てるわけにはいかないでしょう」とも。さながら、父の死の真相を知ったハムレットの心境なのか。慎み深い笑みを浮かべるだけだった。

 デ・ニーロに頼みたい作品は固まっている。たった一人で巨大なマフィアを壊滅に追い込んだ、日系ギャングの話だという。【隈元浩彦】

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 ■人物略歴

 ◇おくやま・かずよし

 1954年生まれ。手がけた作品は約70本。自身の映画製作会社チームオクヤマを拠点に活動している。新作は成宮寛貴、内田有紀主演の「ばかもの」。

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