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[21873] 【R-15】ルナティック幻想入り(東方 オリ主)
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/12/29 00:30
・この作品は東方プロジェクトの二次創作です。

・作者の東方知識はWin版及び書籍の物だけなので、原作設定と違う勘違いをしている所もあるかもしれませんが、その時はご指摘などお願いします。

・独自の設定・解釈・考察なども存在します。

・オリ主物です。

・題名を見ての通り、幻想入り物です。

・キャラ崩壊及びカリスマ崩壊注意。

・R-15程度のエロ・グロ・欝表現があります。

・4年ぶりぐらいに小説書いたら吃驚するぐらい書けなくなっていたので、文章力と言う面では楽しめる程の物では無いかもしれませんが、ご容赦願います。

・と言う事なので、自身でも執筆速度が掴めず、更新速度は未定となります。

・誤字・脱字の報告も歓迎です。

・以上の事を了解した方は、どうぞ、御覧ください。


2010/09/12 1話投稿
2010/09/19 2話投稿
2010/09/26 3話投稿
2010/10/03 4話投稿
2010/10/31 5話投稿
2010/11/14 6話投稿
2010/11/22 7話投稿
2010/12/05 8話投稿
2010/12/12 9話投稿
2010/12/29 10話投稿



[21873] 人里
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/09/19 18:05
「これは、家では買い取れませんな」

 店主が、俺の野菜の一つを手にとったまま、勿体ぶって首を振りながら言う。
相も変わらぬ答えに、俺は汗をぬぐうついでに、リヤカーから手を離した。
するとリヤカーは前方に傾き、そして僅かに土を跳ね除け停止する。
確認した訳ではないので聞いたか読んだかした話なのだが、あらゆるものには重力があるのだという。
ならば当然リヤカーにも重力があり、地面がリヤカーを引っ張ると同時に、リヤカーも地面を引っ張り、それが僅かに土を跳ね除けたのだろう。
なぜなら重力とは、物と物とが惹きあう力であるからだ。
そして困ったことに、俺には少しばかり重力が足らないらしい。
今は特に、目の前の店主との間にだ。
にやにやと笑みを浮かべた店主は、手にとった俺の野菜を掲げながら、芝居がかった調子で言う。

「いやぁ、確かにこいつは見事な胡瓜です。
この太陽の光をいっぱいに吸った緑色、手にとっただけで分かる瑞々しさ、対してこの手触りのしっかりさ。
きっと囓ったらぱきっ、と音を立てて割れて、噛めばまるで水が口の中で弾けるようになるんでしょうな、そうでしょう。
夏妖精が気まぐれに祝福を与えていったと言うのも、分かります、分かりますとも、権兵衛さん」

 なら、何が悪いのか。
何処かで自覚しながらも、俺は、しかし、目で問いかけざるを得なかった。

「でも、でもですよ、権兵衛さん。
家に野菜を売りに来る皆さんは、夏妖精の祝福なんて気まぐれで、美味い野菜を作っている訳じゃあないんですよ。
何年も続く努力を重ねて重ねて、その上でお天道様の気分に付き合って、食いにやってくる動物の気まぐれを運良く避けて、それでやっとの事で美味しい野菜を作れるんです。
いや、貴方が努力していないって言いたい訳じゃない。
権兵衛さん、あなた、まだ此処に来て……幻想入りして、一年も経っていないって言うんでしょう?
聞けば外の世界は、殆どの人が農耕になど手を出さないと言います。
里に住んでらっしゃる外来人の方々も殆どがそうですし、手だってほら、私たち商売人よりも綺麗なぐらいなもんですよ。
貴方だって、多分幻想郷に来るまでは畑いじりなんて、するどころか考えもしなかったに違いない。
で、だ。
私にだって扱える農作物の量、と言う物は決まっていましてね。
どうやっても、一人の商売人が腐る前に売れる量の野菜なんて言うのは限られている。
しかも元々、私は既に限界に近い量の野菜を仕入れています。
となると、ですね。
やっぱり、夏妖精の気まぐれなんかでできる美味い野菜よりも、より努力を重ねておられる人の作った野菜を買い取りたいと思うのが人情なんですよ。
いや、本当に申し訳ないと思うんですがね」

 夏妖精の気まぐれも動物の気分も似たような物ではないのか、と思ったが、俺は口を開きかけるだけでやめてしまった。
どうこうと理屈を捏ねてはいるが、この商人が言いたい事は、自分は人情家であると言う事と、俺の野菜を買い取りたくないと言う事なのだ。
なにより雄弁に、声色とはうって変わった眼の色がそう言っている。
まるで、害虫が寄ってくるのを目にしたような、苦みばしった眼の色だ。
これを、普段一人で過ごしてばかりの俺の弁舌で覆すのは、果てしなく不可能に近い物事であるように思えた。
それよりはむしろ、他の商家を回って野菜の引き取り手を探す方が早いのではないかと思える。
しかし勿論、一番平易な未来であった、春にも野菜を買い取ってもらえた此処で夏野菜も買い取ってもらう、と言う未来が消えてしまったと言う事実は、やたらと重く肩の上にのしかかってきた。
酷い、疲労感だった。
やっと、体から搾り出すような声で、言う。

「分かり……ました。他を、当たってみる事にします」
「おぉ、そうですか! ではでは、お気をつけて!」

 喜色満面で言い、店主は手に取っていた胡瓜を俺のリヤカーへと戻す。
その様子が、先程までと違って全身で喜びを表しているようであるのを見とって、俺は内心でため息をつく。

 ――しかし、いつもの事だ。

 そう言い聞かせるだけにして、俺は無言のまま礼をし、再びリヤカーの取っ手に手をやり、それから深く息を吸い込んでから、リヤカーを押し始めた。
それでも、少し行き、店主の視界から外れた辺りで全身の力が抜けてきてしまった。
再びリヤカーと地面との重力が熱烈に強くなり、俺は実際のため息を付き、背中とリヤカーとの間の重力を強くするに努める。
これから、他の商店を回らねばならない。
その為には、店主の目が放っていた悪意を体から放出する必要があり、それには力を抜いて意識を漂わせるのが一番良いと、体感で俺は知っていた。
その通りに暫く呆けていると、先程の商家の方から、嬉しそうな店主の声が聞こえてくる。

「おぉ、外来人の方ですか!
おや、幻想郷に来て初めて農耕に手を出した、と。
それでこの野菜を作られたのですか、それはそれは、努力もしたのでしょうが、運にも恵まれましたなぁ。
えぇえぇ、勿論買い取らせてもらいますとも!
いえ、勿論ずっと農耕を続けている里の人の野菜に比べれば見劣りしますがね。
この私、幻想入りしたばかりで何も無い貴方を見放す程、人情の無い男であるつもりは無いのですよ。
あっはっは! そうですか、ありがとうございますとも。
それでは内約ですが…………………」

 もう一度ため息をついて、俺は体を休める場所を変える事にした。
俺には、少し重力が足らないらしい。
直接的に言うと、俺は里の人間に嫌われていた。



      ***



 幻想郷には様々な物が落ちてくる。
降ってくるのでは無い。
置かれるのでもなく、捨てられるのでもない。
それは人間の意図しない所で手を離され、そのまま誰にも気づかれずに落下するので、落ちてくる物なのだ。
その、落ちてくる物と言うのは本当に様々で、生物無生物、時には亡者でさえも混在している。
無生物であれば無縁塚に多くが落ちてゆくのが常であるのだが、生物はと言うと決まった場所に落ちている事が無く、人里から妖怪の山まで様々である。
何処へ行くのかは、結局のところ、運の一言につきる。

 俺の運が良かったのかと言うと微妙な所で、良くも悪くもあった、と言うのが正解に近いだろう。
俺は、運悪く、魔法の森に落ちたらしい。
らしいと言うのは魔法の森の瘴気にやられてすぐに意識を失ってしまったらしく、気づけば人里で介抱されていたからである。
聞けば、運良く、通りかかった妖獣に食われるよりも先に、魔法の森の魔法使いに助けてもらったのだそうだ。
伝聞形なのは、運悪く、その魔法使いとやらと出会う機会が無く、直接礼を言う事すらできていないからである。
ついでに、もう一つ運の悪い事に、瘴気にやられてしまったからなのか、俺は自分の名前が分からなくなっていた。
いや、正確に言うと、分からなくなっていた、と言うのとは少し勝手が違う。

 ――名前を亡くした、と言うのが、一番しっくりくる。

 何せ俺が覚えていなかったのは、名前だけでなく、名前が関連するであろう事柄全てであったのだ。
それは多くの外の世界での記憶を含み、俺は両親や居たであろう友人の事も、通っていた筈である学校の事も、殆ど覚えていない。
それであれば普通記憶喪失と断ずるのであろうが、それは何となくだがしっくりこない。
普段一番使う物だからか、無くて一番困る物だからか、名前と言う言葉が入らねば、この現象を説明するのに言葉が足りないような気がするのだ。
そして名前と言う概念には、名づけられる前と後と、忘れられたと言う三つの状態が存在する。
そのどれにも当てはまらないように思える故に、名前を亡くした、と、そう言うように俺はしている。
恐らくは、それは正当な行為なのだろうと思う。
何せ俺はと言えば、何故か博麗神社に行っても外の世界へと戻る事ができず、それはこの名前を亡くした事象が原因なのだと思う、と巫女は語っていたのだ。

 以来俺は、自分の事を、七篠権兵衛と名乗っている。



      ***



「はぁ………………」

 深いため息をつくのも、これで何度目になるだろうか。
恐らく数えきれない程の幸せを口腔から逃しながら、俺は五軒目の商家で断られた後、小休止とばかりにリヤカーを置かせてもらって茶屋で涼んでいた。
残暑の陽光が傘に遮られ、ちりんちりんと風鈴の涼し気な音が鳴っている。
冷えた茶を手に取り、ごくりと一口喉を潤し、もう一度ごくりとしてから、口から湯のみを離した。

 春野菜で試したことがあるのだが、俺の家はどうにも漬け物が上手くゆかない。
代わりに何故か野菜が腐りにくかったので飢えずにすんだが、何時までも野菜が腐らない保証などないので、夏野菜もある程度売って金子に変えておかねばならない。
だと言うのに、この五軒、ずっと断られっぱなしだった。
幸い買う方はたまに足元を見られる程度で済んでいるが、売る方は春に春野菜を一軒目の商家へ持っていった一度しか売れていない。
最早俺には、人里で物を売る事など不可能なのではなかろうか、むしろ今まで通り何故か野菜が腐りにくいのを期待して、白米を我慢して糊口を凌いだ方が適当な事柄なのではないだろうか、と思い始めた、その時であった。
視線を足元にやりながら考えていた俺の目前に、人影が差し込んだ。
面を、上げる。

「久しぶりだな、権兵衛」
「慧音、さん?」

 絹のような白髪の上に、四角い帽子と赤いリボン。
そこには、里の賢者であり、俺にとっても大恩人である上白沢慧音さんが立っていた。

「こちらこそ、お久しぶりです。先月ぶりでしょうか。お元気そうでなによりですね」
「あぁ、そちらもな。何時だったか、野菜ばかりで白米も肉も魚も食わずに居たと言う時を比べると、随分顔色も良さそうだ」
「いやだなぁ、慧音さん。その事は言いっこなしですよ」
「いいや、こればかりは合う度に言わせてもらわないとな。
あの時の君の顔色ときたら、まるで冥界の半死人のようで、到底見れたもんじゃなかった。
こればっかりは無かった事にする訳にはゆくまい。
君がもっと確り幻想郷に根付けるまで、口酸っぱく言わせてもらうぞ」
「ははは……。酢の物は苦手なんですがね。とりあえず、隣にどうぞ座ってください」
「あぁ、ありがとう」

 と、俺は弱りきりで頭を掻いてみせるながら、少し腰をずらし、慧音さんの座る分を開けてみせた。
すると慧音さんは、片手で僅かな風に靡く髪を、もう片手でスカートを抑えながら、俺の隣に座る。
僅かに、慧音さんの髪がふらりと広がり、何とも言い知れぬいい香りがした。
何だって女性と言うのは、こういい匂いがするものなのだろうか。
と言っても、幻想郷に来て以来まともに会話した女性と言うのは慧音さんぐらいなので、もしかしたら彼女だけがそうなのかもしれない。
だとすれば、俺は何と言うか、身分不相応に良い思いをしているようで、恐縮する次第であった。
とりあえず、と慧音さんは店員に声をかけ、冷たい茶を頼む。
合わせて俺も、口を開いた。

「ああ、店員さん、まんじゅうも二人分頂けますか?」
「って、あー、いいのか?」
「急にまんじゅうが怖くなりまして」
「くす、なら仕方ないか」

 俺の割と寂しい懐事情を知っている慧音さんは心配の声をかけてくれるが、ちっぽけな男のプライドと言う奴を察してくれたのだろう、小さく微笑むだけで許してくれた。
こういった寛容で懐の広い所を見ると、尊敬の念を抱くと共に、俺の小さい心に劣等感が沸いてしまう。
里の守護者として皆に慕われ、長い年月を経て素晴らしい知識を持ち、一手に幻想郷の歴史の編纂を引き受けている彼女。
その力は妖怪を退け、その知恵は寺子屋を通じて里人に伝えられる程に、大きい。
対して俺は、里の嫌われ者で、妖精の気まぐれさえなければ自分の食い扶持すら稼げない凡人。
勿論力は普通の男並で、知恵も外の世界の同世代でも平均的な程度でしかなかった。
どう考えても大きすぎる差で、それを自覚するたびに、この人の前に居る事が申し訳なく感じてしまう。
勿論慧音さんはそんな事気にもしないと言うのに、だ。
――ため息を、飲み込む。
頭を振って曇りを振り払うと、誤魔化すように茶を飲み、それを喉奥へと押し流した。

「最近、どうだ? そろそろ夏野菜の収穫の時期だと思うが、いいのができたか?」
「ええ。ちょうどここに置かせてもらっているリヤカーと一緒に、持ってきています。
良かったら、お一つと言わず、いかがですか?」
「お、よく出来ているじゃあないか。――本当にこれを権兵衛が?」
「ええ。春にも春妖精の気まぐれがありましたが、何故か、夏にも夏妖精の気まぐれがありまして」
「そうか――。夏妖精、か」

 声色に何か冷たい物を感じたので、俺は瞬きながら目を慧音さんへとやる。
疑問の目を感じたのだろう、ああ、と言って、慧音さんは困り顔で口を開いた。

「いやな、普段から妖精の悪戯で被害を受けると聞く事が多いと、妖精のお陰で、と言う事を聞くのが新鮮と言うか、奇妙な感じでな」
「あぁそうか、畑は妖精に被害を受ける事だってあるんですね」

 普段気まぐれに祝福を与えてゆくのを見てばかりだったので、それは想像の外だった。
もしかしたならば、商家が俺の野菜を引き取ろうとしないのには、俺ばかり妖精の祝福をうけていると言う事で妬みを買っているのも一因なのかもしれない。
それなら、俺は商家の人々を責める事はできないかもしれない。
今さっきだって俺は、慧音さんの寛容さに感謝すると同時、妬ましさも感じていたのだ。
当然、商家の人々の嫉妬と同じ穴のムジナである。
と言っても、想像の中での事でしか無いのだが。

「で、今日はこれから野菜を売りに、か。もう少し早く出た方が、涼しくて良かったんじゃあないか?」
「――えぇ。今更ながら、そう思っています。先に後悔なんて、器用な事はできなかったでしょうけど」
「尤もだ。後悔とは、後で悔いると書く。悔いると言う事は、過去に迷いを置いてきたと言う事だ。
迷いとは、現在にある物だけが触れられて、未来の物にも過去の物にも触れられはしないが、過去の迷いは感じる事だけはできる。
その感じる感覚が、後悔だ。
それを先んじてしてしまえば、それはただの悔いならず、未来に触れる事、すなわち未来予知になってしまう。
あらゆるものが確率であると既に実証された現在、未来予知とはありえない事だ。
だから、先に後悔などと言う事は間違っても出来はすまい」

 と、講釈を垂れ流していた慧音さんだったが、言い終えてから講釈の長さに気づいたのか、顔を赤くし小さくなってしまう。

「あぁ、すまない――。ついつい長々と解説を始めてしまって。
これだから寺子屋でも、授業が分かりづらいだのつまらないだのなんて言われるんだろうな。
本当に、すまない」
「いえ、俺は慧音さんの講釈は好きですよ? 面白いと思いますし」

 と、そこで慧音さんは、ばっと顔を上げてぱちぱちと目を瞬く。
それがあんまりな様子だったので、くすりと微笑んでしまう。
と言うのも、卓に手をつき身を乗り出し、白髪をゆらりと揺らすその様子は、普段の慧音さんと違って何処か子供っぽくさえもあったのだ。
美しいと言うより。
可愛らしい、と言った感じ。
そんな慧音さんが珍しくて、こちらとしても自然と笑顔になる。
焦った様子で続ける慧音さん。

「ほ、本当かっ。本当だよなっ」
「本当ですよ。こんな事で嘘をついたって、何の得にもなりゃあしません。
それどころか、死後の銭が減るわ、鬼に嫌われるわ、頭突きをされる可能性があるわで、損するばかりでしょう」
「そ、そうか……。いや、すまない、最近は妹紅にも講釈を遮られてばかりでな、気にしていたんだが――」

 一旦区切って、慧音さんは花咲くような可憐な笑顔で言った。

「ありがとう」

 ――。絶句。まるで、そこにだけ光が差したかのような、輝かしい笑顔だった。
その光は残暑の陽光よりも尚強く、慧音さんの白髪がきらきらと輝く様子は、まるでそれ自体が光を放っているかのよう。
花弁のような唇があ・り・が・と・うと動く様は、桜が舞い落ちるように可憐で、白磁の肌の上に浮いている様がそれを余計に引き立てている。
答えが帰ってこないのに疑問詞を浮かべる慧音さんの表情に、ようやく俺は言葉を取り戻した。

「どうも、いたしまして」
「くす、そうか。それじゃ、怖ーいまんじゅうも食べ終わったし、そろそろ行こうか」
「行こうかって、何処へ?」

 首を傾げる俺に、おかしそうに慧音さんが言う。

「野菜を売りに行くんだろう? 付きあわせてもらうよ。どうせこの後も月に一度の飲み会さ、ついでよ」



      ***



 滅多に里に来る事の無い外来人は、割と里に歓迎されている。
と言うのは、外来人は特殊な知識を持つ人が多く、珍重されるからだ。
それは時には学んだ知識ではなく、身につけていた道具であったりもするのだが、不思議と里にたどり着く外来人は、里の役に立つ知識を持っている。
例えば農耕の、革新的なやり方。
例えば今まで捨てていた物を、食べ物として活用する知識。
例えば建築に関する詳しい経験。
幻想入りした当初に、わざわざ貴重な薬を使ってまで俺が介抱されたのも、その知識を期待されての事だった。

 ――しかし。俺は、いわゆるハズレの外来人だった。
名前を亡くしていたとは言え知識は同年代の平均以上にはあったのだが、それでも里の役に立つような事を俺は知らなかった。
かと言って外の世界に追いだそうにも、俺は外の世界に戻れない、いわゆる不良物件である。
俺は、知らず、里の人達の期待を裏切ってしまっていたのだ。
そして当然、期待はずれの外来人をどうすればいいのか、と里人の間で議論が交わされた。
里には食っていくのに余裕が無い訳では無いのだが、だからと言って好き好んで、人一人を養う程の金を、役立たずの外来人に使おうなどと言う好事家が居る訳でも無かったのだ。
俺は、訳がわからないままに知らない場所に身一つで放り出され、しかも何もしていないのに期待はずれだと言われ、気づかぬうちに薬代と言う負債を負ってしまっており、更には呆然と俺を押し付けあう会議を見ている事しかできなかった。
正直に言って、その場で泣き出さなかったのは奇跡だっただろうと、今でも思う。
数日続く会議のうち、俺はお先真っ暗と言って過分では無い状況を悟り、絶望に満ちたまま会議の終わりを待っていた。

 そんな俺を引き取ると言ってくれたのが、慧音さんだった。
難色を示す村人を押し切り、寺子屋のテキスト作りや資料の整理に人が欲しい、と言って俺を拾ってくれたのだ。
今度こそ、俺は情けなくも泣いてしまった。
このまま放り出され、妖怪とやらに食い殺されてしまうのではないか、それでなくとも馬車馬のように働かされて乞食のような生活しか送れないのではないか、と思っていた俺にとって、彼女の示した仕事や生活は、あまりにも輝かしかったのだ。
泣き出してしまった俺を抱きしめ、しょうがないな、と零しつつ彼女が俺の頭を撫でてくれたのは、今でも覚えている。

 新しい生活が始まり、俺はすぐに彼女を尊敬するようになった。
名前さえ亡くしてしまった、何一つ無い裸一貫の俺に比べ、彼女は人の尊敬を集め、人の役に立ち、人を守っており、明らかに価値のある人だった。
なにより人格者であった。
数日の会議のうちにやや疑心暗鬼の気ができてしまった俺だったが、彼女の誠実さに触れるうちに、すぐに健全になれたのだ。
俺は、稚拙ながらも俺が全力で作ったテキストや資料を受け取る慧音さんを見て、彼女の役に立てる事を誇らしく思い、また、何時か彼女と対等な場所まで上り詰め、恩返しをしてみせよう、と決意をする事になったのであった。



      ***



 慧音さんにお裾分けする分を除いた野菜は、すぐさま売れる事となった。
当然といえば当然と言えよう、里の守護者たる慧音さんが隣にいるのだ、商家が屁理屈を捏ねて買い取らないと言うどころか、気を使って無理にでも買い取ろうとするぐらいだろう。
とは言え、だ、俺はまるで慧音さんを野菜を売る為のダシに使ってしまったような事になってしまい、申し訳なく思う他なかった。
別にやましい心持ちがあった訳ではないのだが、まるで彼女を利用してしまったかのような状況は、正直に言って心苦しい事この上無い。
商家にも卑怯者、と目で罵られんばかりの視線を浴びせかけられ、あぁ、秋の収穫はどう売ろう、と考えて、それからまるで慧音さんを疎ましく思ってしまったかのような考えに、更に自己嫌悪に陥る。
野菜が売れこそしたものの、複雑な心境であった。

「しかし、良かったな。これで秋の収穫までの貯蓄は十分だろう?」
「ええ。これも慧音さんのお陰ですかね?」
「? 何がどう、だ?」
「美人は三文ぐらいは得って事ですよ」
「早起きと同じぐらいって事ね」

 とは言え、それをおくびにも出す訳にはゆくまい。
努めて顔面の筋肉を明るい表情を作るようにしながら、慧音さんと談話しつつリヤカーを引く。
現在はお裾分けの為に慧音さんの家へと向かっている最中であった。

「と言えば、権兵衛、君はちゃんと早起きするようになったか?
何時だったかな、家に来たばかりの頃は、たまに吃驚するぐらい寝坊する時があっただろ。
驚いたぞ、とっくに起きて散歩にでも行っているのかと思っていたら、昼ごろ起きだしてきた事は。
永遠亭の姫君かと思ったぐらいだぞ?」
「はは、流石に暑いからと言って、床で寝たり、氷柱に張り付いたりはしていませんよ。
いい加減、朝起きるぐらいは何とかできるようになっています。
まぁ、と言うのも、家の前にはちょうど良い目覚ましがあるからなんですが」
「目覚ましって?」
「切り株ですよ。朝兎が飛んできては、すごい音を立てて頭をぶつけてゆくんです。痛そうにして、帰ってゆくんですけどね」
「そのうち朝を待ちぼうける事にならないといいんだがな」
「生憎俺は今の所、夜が止まった経験は無いですね」
「そりゃあ良かった。っと、もう着いてしまったな」

 言われて気づくが、既に慧音さんの家の前まで着いていた。
久しぶりに会話らしい会話をしたからだろうか、時間がたつのを忘れてしまっていたらしい。
慧音さんとの会話が心おどるものであったと言う事も確かだろうが、矢張り会話が久しぶり過ぎる事が主な要因だろう。
人は、人と関わらないと、緩やかに腐敗してゆく。
例えば言葉を忘れたり、表情の作り方を忘れたりした人間を思い浮かべるといい。
そんな人間と、正常な人間とは、果たしてコミュニケーションが取れるだろうか?
答えは、否だ。
人間関係を作れない存在とはつまり、最早重力の存在しない、人間以下の存在に過ぎない。
精神の腐敗した、人間。
発酵とは微妙に違い、食べる所も残らない、完全な腐り方。
俺が辛うじてそんな風になっていないのは、矢張り月に一度は慧音さんと会話する機会があるからだろう。
再び慧音さんへの感謝の念を新たにしながら、リヤカーから野菜を持ち出し、慧音さんの後について家へとお邪魔する。

「では、お邪魔します」

 先導していた慧音さんが、ぴくりと動きを止める。
何気ない一言のつもりだったが、それは俺の腐った感性による主観でしかなく、慧音さんにとっては違ったらしい。
どうしたものかと困惑する俺に、ゆっくりと振り向きながら慧音さんは言った。

「………………あぁ。どうぞ、としか、今は言えないんだったな」

 泣きそうな声で言う慧音さんに、しかし俺は、返す言葉が無かった。
全くもってその通りだし、しかもそれは、外から強制力があったのも確かだが、俺の意思がそこにあったと言う事も確かであるのだ。
であれば、今更言う事など、何も無い。
何も無い、筈なのに。
俺の口は何か言葉を紡ごうとして、むにゃむにゃと動き、しかし言葉らしい言葉を発する事は出来なかった。
俺は、何を言おうとしたのだろうか。
俺は、何を言うべきだったのだろうか。
どうすれば、目の前の女性から、僅かでもいい、僅かでもいいから悲しみを減らす事ができたのだろうか。
それが分かる程の知能があれば、そも、俺は彼女を悲しませる事も無かっただろうが。
それでも、思ってしまう。
俺は、果たしてあの時他にどうするべきだったのだろうか。



      ***



 おかえり、と言う言葉を慧音さんから聞くようになって、数週間が経った。
俺は毎日のようにテキストを作ったり資料を整理したり、その感想を寺子屋の受講生に聞いてフィードバックをしながら過ごしていた。
今と比べ、とてつもなく充実していた、と言って間違いない毎日だっただろう。
少なくともその間には俺は里人から謂れなき悪意を受けることは無かったし、寺子屋の人々は明るい子供や紳士的な知識人などが多く、対話するだけで心あらわれる事も多かった。
それもある日、突然に途切れる事になる。

 その日、俺は夜の散歩をしていた。
と言うのも、慧音さんが俺に、夜の仕事があるうちは相手もしてやれず、しかし灯りを消すわけにもゆかないので寝るにも不都合、そこで散歩はどうだと勧めていたからである。
夜は妖怪の時間と言っても、里の中であれば安全で、しかも、何らかの発見が無かったとしても、夜の灯りがぽつぽつと点った道を歩いてゆく行為は、何処か郷愁を思わせて、粋であるように思えた。
と言う事で、その数週間、俺にとって夜の散歩は最早日課となりつつあったのだ。

 ちょうど、散歩の折り返しの辺りを過ぎて、帰ろうとしている途中だったと思う。
俺は突然に名前を知らない男に声をかけられた。
と言っても、俺は慧音さんの所に厄介になっている外来人と言う事で有名だったので、俺が相手を知らなくても相手が俺を知っていると言うのはよくある事だったので、特に警戒もせずに振り向いたと思う。

 いきなり、殴られた。
その数週間、防犯と言う物を意識する必要すら無かった俺は、当然の帰結として思いっきりぶっ飛ばされ、ふらついて膝を付いたと思う。
そのまま押し倒され、俺は顔を避けてそこら中をぼっこぼこに殴られた。
いきなりマウントポジションを取られた上、喧嘩と言う物に縁のなかったらしい俺は、抵抗する間もなくすぐに動けなくなり、しかし意識は残っている程度の状態になる。
すると男は、俺に向かって汚い口調で、以下のような事を言った。
お前が慧音先生にどれだけ負担をかけているか分かっているのか。
あの立派な人にたかるなど、人間のクズめ、お前に慧音先生に養われる資格など無い。
これは里の総意だ。正義なのだ。お前をこれから里から離れたほったて小屋にぶち込んでやる。

 当然俺は、幾許かの反論を用いた。
負担をかけているのは分かっているが、それを軽減しようと努力をしている事。
あの人は立派な人だから、望んでもいないのに、強制的に俺が一人暮らしをさせられようものなら、激怒するであろう事。
どちらもそこそこに意を得た反論であったハズだったが、男はせせ笑うだけでこちらの反応を一向に気にする事はなかった。
そればかりか、続けてこんな事を言う。
努力だと? バカバカしい、お前のしている事がどんな事なのか、これから見せてやるとも。
そしたらお前は、自分から慧音先生から離れようとするだろうさ。
そうでなければ最低以下のクズだ、妖怪の餌にでもしてやるとも。

 男の言葉が本気であると悟った俺は、どこぞへ連れてゆこうとする男に、とりあえずは従う事にした。
勿論機会を伺って逃げたり、大声を出したりしようと思いはしたのだが、逃げようにも足腰は歩くのがやっとで、口元は男の掌で塞がれていたのだ。
どうしようもないままに俺が連れられてきたのは、慧音さんの家だった。
一体どういう事だろう、と内心首を傾げる俺を、男は慧音さんの書斎が見える窓へと連れてゆく。
そこでは慧音さんが、様々な種類の紙に何やら文字を書いたり図表を書いたりしていた。
それがどうしたのかと思う俺に、男は素晴らしいまでの笑顔で言ってみせた。

 あれをよく見ろ。お前の作った物だろう?

 ――それは。
事実だった。
確かに俺が毎日苦労して作り上げたテキストや資料を横に、慧音さんはそれを新しい紙に書き直したり、書き足したり、図表を付け加えたり――つまりは、俺の仕事を手直ししていたのだ。
俺は、その時、ようやくの事理解した。
慧音さんが寺子屋の作業に人が欲しいと言っていたのは、本当にただの方便だったのだ。
しかも自分で作れば一度で済む物を、二度手間を要してまで必要と言い張って。
しかも俺が気にするといけないから、俺に夜の散歩を勧め、その時間の間に済ませるようにして。
――俺は、段々と目の前がぼんやりとしてゆく事に気づく。
殴られすぎて意識がどうにかなってしまったのではないかと思うが、違った。
俺は、泣いていたのであった。

 一つだけ弁解をさせてもらうとすれば、この時俺は、慧音さんに、一片たりも騙されたと言う憤りを感じ無かったという事を言わせてもらおう。
俺は、ただただ自分の無力さが悲しかったのだ。
慧音さんに負担をかけるばかりで、努力と称してやっていた事も、その実全く実を結んでいなかった事が。
慧音さんに何時か恩を返そうという話が、此処に居るままではどうやっても叶いそうになかった事が。
俺には、慧音さんと対等の所に立てない事が、どうにも悔しく、耐え難い事のように思えた。
そしてそれに対処する為には、どうしても、慧音さんの元に居ては不可能であるように思えたのだ。

 その後のことは、正直言って、よく覚えてはいない。
気づけば俺はほったて小屋に住むことになっていて、里人を通じてその事は慧音さんに伝わっていた。
どうやって彼女を説得したのかも覚えてはいないが、しかし、彼女の顔がどうにも悲しげだった事だけは、覚えている。
それがどうにもできない事が悔しくて悔しくて、どうすれば良かったものなのか、俺は今でも考えてばかりいるが、答えは未だ出ていない。

 それからは、ご存知の通り、月に一度満月の日に慧音さんが家に来る以外に会話する事すらなく、奇妙なほどに里人と縁のないまま、もう半年近くが過ぎている。



      ***



 日が落ちた。
昼と夜との境界線上の黄昏が姿を消し、白黒はっきりとついた夜が姿を現す時間だ。
ふと顔を上にやれば、夜空にはぽっかりとまぁるい満月が浮かんでいる。
これは聞いた話なのだが、この世の月とは偽物であり、天蓋に映しただけのまがい物であるのだと言う。
所で、多くの中秋の名月を見る時は雨であり、丸い物であるだんごを見て、本物の満月を想う事が粋だと言うのだそうだ。
であらば、天蓋に映った偽の満月しか見れない俺達は、偽の満月と言う丸い物を見て、その奥にあるのであろう本物の満月を想像している事となる訳で、つまりは誰もが粋な人間になれる一時であるのだろう。
逆説、真の満月の力を借りている妖怪達には、そして慧音さんには、この天蓋の月は、一体どのように見えているのだろうか。
そんな事を考えている俺の目前で、正座して目を瞑った慧音さんが、なにやら俺には理解できない言語でぶつぶつとつぶやいている。
その頭には一対の角が生えており、片方には赤いリボンが巻き付けられていた。

 ハクタク、と言うのだそうだ。
その獣はあらゆる病魔を退ける力を持ち、あらゆる知識を持つと言われる妖獣なのだと言う。
その姿は人面に牛の体、やたら多い目に角に顎鬚を蓄えていると言うが、目前の彼女はワーハクタクだからだろう、額の二本の角しか共通点は見当たらない。
慧音さんとしてはそれをどう思っているのか知らないが、月下美人を拝める俺としては、よくぞそこまでに留めてくれた物だと大自然のさじ加減に感謝したいところである。

 さておき、ワーハクタクである彼女は満月の夜だけハクタクの力を発揮し、歴史を創る程度の能力を得るらしい。
これは慧音さんから聞いた話そのままなのだが、歴史とは、ただあるだけでは歴史にならず、誰かの手によって初めて歴史となるのだと言う。
例えば時の権力者が創る歴史が、一番分かりやすいだろう。
自身にとって都合の良い歴史は残し、都合の悪い歴史は削る。
そのように人為的に手が入って初めて歴史はできるのだが、この幻想郷には彼女以外に歴史に手をだそうなんて好事家なぞ、稗田家ぐらいしか居ないらしい。
従って殆どの歴史を彼女が創らねばならないらしく、満月の夜はその作業に追われているのだ。

 と、言っても。
俺の見る限り、彼女は、ほったて小屋に正座して、月明かりに照らされながら、ただぶつぶつとつぶやいているようにしか見えない。
恐らくはその中では俺には想像もつかないぐらい高度な事が行われているのだろうが、外面だけで言ってしまえばそんなものである。
さて、慧音さんが歴史の編纂を一区切りつけるまで、手持ち無沙汰である。
と言っても、あの名前も知らない、ついでに言えばあれ以来あった事も無い里人に放り込まれたこのほったて小屋は、とてつもなく簡易的な出来であり、暇を潰すような場所が存在しない。
床がある。
壁がある。
あとは慧音さんに貰った小さな箪笥と、畳まれた布団に、中心にある囲炉裏。
ついでに、やたらとでかく、今は全開にして月明かりを取り入れている窓、と言うか鎧戸ぐらいか。
床の間どころか畳すらなく、流しもない、まさにほったて小屋である。
これで隣に倉庫がついていなかったら、俺は取れた野菜で圧死していたかもしれないぐらいの狭さだ。
うむ、また暇になった。
と思った所で、慧音さんが一つうなずき、瞼を開く。

「っと、こんなもんか。悪いな、権兵衛。何時も場所を貸してもらって」
「いえいえ、こちらの方が何倍もお世話になっている事ですし。確か、人の居る場所だと落ち着いて歴史の編纂ができない、んでしたっけ」
「ああ。どうも自宅に居ると、子供がからかいに来たりする事もあるもんでな。
それに、矢張りこういった作業は、普段の仕事をする場所とは別の場所ですると、はかどるもんなんだ」
「はぁ、なるほど」

 分かったような分からないような。
首を傾げる俺を見ながら苦笑し、慧音さんは横にのけてあった瓶に手を出す。

「まぁ、こんな満月の夜に、小難しい話ばかりと言うのも窮屈だろう。美味しいお水を飲もうじゃないか」
「ええ、世にも珍しい酔っ払う水ですね」
「そう、鬼とて喉から手が出る、酔っ払うお水さ」

 俺も彼女に同じくして、部屋の端の方に寄せてあった瓶と、先程川で洗ってきた赤い杯とを持ってきた。
つまりは、酒盛りの準備である。
つまみも何も無い、酒だけ、二人だけの飲み会であるが、これもまた毎月一度の恒例行事であった。
二人して互いの盃に互いの瓶の酒を注ぎ、軽く顔の高さ程度に持ち上げ、唱和する。

「「乾杯」」



      ***



 このほったて小屋に一人暮らしをするようになって以来、俺はどうにも人と縁がなかった。
まず、近くに人が居ない。
それだけならばまだしも、当初の俺は何時しかの会議を思い出し、あの里人の里の総意と言う言葉を否定しきれなかったので、里に近寄ろうにも怖くていけなかったのだ。
なので俺は、取りあえずはと中途半端な己の知識を元に、出来る筈の無い農耕に手を出し始めたのである。
――果たして、それが当然のごとく失敗していたならば、俺はどうしていただろうか。
里人に頭を下げて農耕の知識を教わりに行く事になっただろうか。
恥も外聞も誇りも投げ捨て、慧音さんに土下座してまた住まわせてもらっただろうか。
はたまた、そのどちらもできないまま、実力に比さない誇りに殉じて餓死していただろうか。

 結果的に、その問の答えは闇へと消える事となった。
と言うのは、春告精を代表とする春の妖精達の気まぐれで、枯れ果てる筈だった家の作物が出来てしまったからだ。
いや、しまった、と言いつつも、それは勿論幸運の類であったのだが……兎も角、俺は一人のまま誰とも関わらずに、生きる糧を得る事となった。
生活できる、となると、当然俺が里人と積極的に関わる理由は薄れる事となる。

 少し、経緯を話すとしよう。
妖精の祝福があっても、慣れない畑の農耕は著しく俺の体力を奪った。
何せ、体力も低く朝から夜まで一日中働く事すらままならず、かといって、表情を削ぎ落としながら無心に野菜の世話を続けて尚、妖精の祝福を必要とするほど、俺の農耕の腕は低かったのだから。
当然、朝起きれば畑に出て、夜まで働いたあとは寝るだけの生活が続くだけである。
無論のこと、俺には里人と関わる時間も機会も無かった。
精々が野菜を売って、得た金で買い物をするぐらいであったが、その細い蜘蛛の糸すら、俺は掴めなかったのである。
と言うのも、俺の社交性の低さ故か、里人との間には義務的な会話しか成立させる事ができず、気の利いた言葉や、そうでなくとも世間話のようなものをする事すら出来なかったのだ。
俺は一人のまま、精神を腐敗させてゆく事となった。

 そんな俺の生活の唯一の慰めは、矢張り、慧音さんだった。
特に最初のうちは度々にこのほったて小屋に顔をだしてくれて、時には俺の適当すぎた農耕のやり方に口を出してくれたり、時には疲れ切った俺に酒を持ってきてくれたりした。
それでも俺の精神が腐敗してゆくのは、止められはしなかったが。
何せ、この満月の夜の飲み会が始まった時、まだ一人暮らしを初めて一月と経っていない頃だったと言うのに、再び慧音さんの情けによる方便である事すら考えられずに快諾していたのだから。
もっとも、今思えば、わざわざ時間を慧音さんが忙しい満月の夜に指定しなくても良かった訳で、つまりは恐らく、ようやく事俺は真実慧音さんの役に立てているのだろうが。
と言っても、流石に実感の湧かない役に立ち方な上、どちらかと言えば俺の方がより助かっているように思える部分もあり、未だ俺は彼女に恩を返せたとは思えていないのだが……。

 兎に角、月に一度の約束が出来てから、俺の精神の腐敗は止まった。
と言う事で、先にもまして、慧音さんは俺にとっての恩人であった。
月に一度とは言え、心を潤わせる機会が確実にあると言う事実は、俺の心にとって大きな慰めとなった。
仕事にも精が出て、夜寝る時も、泥のように何も考えずに寝るのではなく、慧音さんとの次の会話や酒の味を想像して楽しみにしながら眠る事ができるようになった。
生活に、メリハリができた、と言えば分かりやすいか。
無感動で無重力な生活から、重力が低いのは変わらぬようでこそあるものの、情動の動く生活へと。

 そしてそれ故に、俺はより慧音さんに恩を返さねば、と思うようになる。
恩は積もるばかりで全く返せる見通しはつかないものの、当初に比べれば幾らか生活はマシになってきた事もあり、このまま生活が上向きの向上線を辿り続けるのであれば、何時かは慧音さんに恩返しが出来るほどになるだろう。
少なくとも、経済的に自立し、おんぶ抱っこにしかなれない状況から抜け出す事ぐらいは、視界の端に見えた程度ではあるものの、見通しがつくようになってきた。
なればこそと、兜の緒を締める気持ちで、俺は再び慧音さんへの恩返しをするため、毎日を過ごすことになったのであった。



      ***



 満月を肴に、酒を口に含む。
すぐに飲み込むのは、少しばかりもったいない。
僅かに口の中で転がし、香りを舌触りを楽しんでから、飲み込む。
喉を、アルコールが焼く感覚。
酒とは元々、触れる物を清める物でもある。
俺達が酒を飲むときに喉を焼く感覚があるのは、生涯のうちに嘘をつき、喉が穢れを持ってしまったから、それを清める為に熱が生まれるためだと言う。
それは確かに仕方のない事で、嘘も無しに生きてゆく事のできる人間なぞ、存在しない。
しかし、であらば、その喉を焼く感覚を愉しむ、と言うのは如何なものなのだろうか。
己が清められる事を喜び、感謝の為に愉しみを感じる、と言う粛々としたものなのだろうか。
己が穢れていると言うのに、喉を焼く快感に不謹慎にも喜ぶ、不心得者の仕業なのだろうか。
それとも、そのどちらも知らず、ただただ与えられた快感に流される白痴の所業なのだろうか。
さて、俺がどれであるかは自分でも分からない。
と言うのも、俺は酒に弱く、毎月の宴会で最後まで記憶を保って要られた試しが無いからだ。
ひょっとしたら己の穢れに泣いているのかもしれないし、穢れを穢れと知りながら陽気に笑い続けているのかもしれないし、はたまた己をよそに誰かの穢れを永遠と指摘し続ける理屈家にでもなっているのかもしれない。
しかし少なくとも、目の前の彼女がどれであるかは、分かる。

「うぅううう………………権兵衛ぇ。私は。私はぁ、駄目な女なんだよぉ」

 慧音さん。泣き上戸の気があった。

「この前だってそうだ、永遠亭の兎にも授業がめっちゃ分かりにくいとか言われたんだ。
なんだ、ただそっと言うだけならば兎も角だ、思いっきり正面から言われたと言う事は、思わずそうしてしまうぐらいに分かりにくかったと言う事だろう?
本当に……本当に、私は駄目駄目さ。
う、ううっ、ぐすっ、しくしく。
――その返事にしたって、私はなんて言ったと思う? 「反面教師?」だ。
ははっ、笑ってしまうよな。
実はそうではないと言ってもらいたかったと言う浅ましい台詞な上に、それを言って、納得までされてしまったんだ。
私は……私は……なんて、駄目女なんだっ!」

 んぐ、んぐ、んぐ、がつん! と盃が床に置かれ、酒が僅かに宙を舞う。
何ヶ月か前にも聞いた話だなぁ、と思いつつも、俺は苦笑気味に盃を傾け、酒を一口。

「――ぷはっ。
慧音さん、最初から誰しもに受け入れられる授業なんて、誰にもできっこありません。
でも人は努力はできるし、貴方はその努力をしているじゃあないですか。
努力は凄い、なんたって、ぴっかぴかの綺麗な手だった俺だって、ここ半年ほどで、妖精の気まぐれ付きとは言え立派な野菜が採れるようになったんです。
慧音さんだって、努力を続ければ何時しかきっと、みんなにわかってもらえる授業をできるに違いないでしょう。
それにですね、慧音さん、昼間も言いましたが、俺は今の貴方の講釈だって、結構好きなんですよ。
だからね、そんな事言わないでくださいよ、慧音さん」

 と、俺らしく然程気の利かない言葉を吐き出していると、ふと、慧音さんの視線が一点にとどまっているのに気づく。
するするとその視線の先を辿ると、その先には俺の手があった。
はてさてどうしたものかと、俺はとりあえず掌を上げてみる。
慧音さんの視線も、つられて上がる。
手を左右に振ってみる。
慧音さんの視線も、つられて左右にふらふらと揺れる。

「………………どうしたんです?」

 と聞くが早いか、ばしん、と慧音さんは両手で俺の右手首を掴んでいた。
盃はどうしたのかと思うが、何時の間やら床に置かれている。
意味不明の、電光石火の早業であった。

「……あの?」
「そうだよなぁ、権兵衛。
権兵衛の手は、私の家に住んでいた頃は、綺麗な物だったよなぁ。
つるつるとしていて、まるで女人の柔肌かと思わんばかりだったが」

 言いつつ、慧音さんは片手で俺の手首を抑えつつ、もう片手の人差し指で、俺の掌をゆっくりとなぞる。

「これは、切り傷かな、大方尖った物にでも引っ掛けたんだろうな、君は少し鈍い所があったから。
これは、うん、火傷の痕か? 全く、薬缶に触る時は気をつけろとあれほど言っただろうに……。
これは、あぁ、擦り傷だな、一体何処でこさえたんだ、こんなもの、家の前の切り株にでも躓いたか?
これは………………。
これは………………」

 ぽつぽつと、次々に慧音さんの口から俺の掌の傷の要因が語られる。
一つ一つ、掌を辿ってゆく指先と共に語られる傷の要因は、そのおおよそが一致していた。
俺でも言われて思い出すようなものがあると言うのには、最早驚くしかあるまい。
この人にとっては、俺なんて何でもお見通しなんだなぁ、と思うと、気恥ずかしい思いが湧いてくるもので、思わず視線を下にやってしまわざるを得ないものであった。

 暫くくすぐったさに耐えていると、傷口の列挙が止まる。
恐らく全ての傷口を挙げてしまったのだろうか、と思い、視線をあげようとするが、それよりも先に、ぐいっと手首を引っ張られた。
妖獣化している慧音さんの膂力は相当な物で、俺は体ごと慧音さんに引き寄せられる。
自然、と言うか不自然、何故にか俺は膝枕されるような形になってしまった。
単純に子供のようで気恥ずかしいと言うのと、その、何と言うか、なんだかいい匂いだとか、大迫力の胸部だとか、太ももの元をたどった辺りを意識してしまい、顔を赤くしてしまう俺。
誘っているのか? と一瞬脳裏に過る物があったが、同時に香る酒の匂いがそれを否定する。
凄絶に申し訳ない気分になりつつある俺に、静かな口調で慧音さんは口を開いた。

「なぁ、権兵衛。お前が私の家を出ていかなければ、お前の手は綺麗なままだったのかなぁ」

 ――……。
一瞬、僅かに心に刺さるものがあったが、それを無視して俺は言う。

「かも、しれませんね」
「いや、きっとそうだっただろう。
――いや、それどころじゃあない、そもそも私さえ居なければ、こんなに傷をこさえることは無かっただろうに」
「いえ、そんな事はありませんよ」

 首を振り、今度こそは力強く返答する。
本当に、そんな事だけはありえない。

「俺は、本当に貴方に感謝しているんです。
感謝し切れないってぐらい感謝しているし、恩だって返し切れないぐらいに感じている」
「違う、違うんだ」

 頭を振る慧音さんにどうしても安心して欲しくて、だから俺は続ける。

「安心してください、貴方が例えどんな事をしていようと、俺はきっと、貴方への感謝を忘れない。
恩だって忘れない。
それだけは、ずっと変わりがありませんとも」
「違う、本当に違うんだ!」

 唐突に怒鳴り声をあげて、慧音さんはどすん、と俺を突き飛ばす。
暴力への忌避より先に、しまった、慧音さんを否定しすぎたか、と後悔の念に駆られる。
仰向けになった俺の腹の上へと、すとんと慧音さんが座り込んだ。
両掌を俺の胸のあたりに起き、覗き込むように俺の目を見ながら言う。

「あぁ、すまない、本当にすまない、突き飛ばしたりして。
でも、違うんだ、本当に違うんだ。
私は、君に感謝なぞされるような女じゃあないんだ。
私は、君に恩義なぞ感じてもらえるような人間じゃあないんだ。
だって、だって、う、ううぅう、うう………………」

 ぽつり、と、俺の頬へと慧音さんへの涙が落ちてきた。
泣き上戸の慧音さんなのだから仕方ないと思いつつも、どうしても申し訳なさが心の中から沸いて出てしまう。
だからせめて、近くにある頭をなでつけるぐらいはさせてもらいたかったのだが、何故か手が動かない。
いや、と言うより――。
体が、動かない。
酔いが回ってしまったのか、と内心首を傾げる俺の前で、何時の間にか泣き止んでいた慧音さんがぽつりとつぶやいた。

「少し、私の告白を聞いてもらえないだろうか」

 ふと、気づく。
何時の間にか、夏だと言うのに、俺の部屋は肌寒いぐらいになっていた。
空気が肌をささんばかりにちりちりと尖り、息を吸うのも少しばかり苦しく感じるぐらいだ。
そういえば、と思う。
俺の腹に馬乗りになった慧音さんは、ちょうど背後に大きな窓をおいており、そこから覗く満月が、ちょうど慧音さんの頭上に登っていた。
その姿はぞっとするほど美しいのだが、昼間の慧音さんと比べると、何処か違和感がある。
厳かと言うか。
艶があると言うか。
それとも、浮世めいた、と言うか。
――それとも、そんな事を思う俺の脳こそ、満月の狂気に毒されているのだろうか。
何処か霞がかってきた頭に、あぁ、俺は本当に酒に弱いんだなぁ、とぼんやり思う。
そんな俺を前に、粛々と慧音さんは語り始めた。

「始めは、出来心だったんだ。
私の家を勝手に出て行った君に、少しばかり腹がたっていたと言うか、寂しかったと言うか、何とも言いつくせないんだが、複雑な心づもりがあって。
いや、だからと言って、許される事をした訳では無いのだけれども。
私は、私は――歴史を、喰った」

 区切って、慧音さんは、もう一度言い直した。

「君と、里人とが話しているのを見て――、その歴史を喰った。
本当に、魔が差したと言うか、出来心だったんだ、本当にすまない。
いや、謝って済む問題では無いのだが、それでも、すまない、本当にごめんなさい。
でも、兎に角、私は、君と里人との会話の歴史を喰った。
一度喰ってしまえば、二度目三度目もすぐにだった。
その瞬間瞬間は何だか適当な理由をつけて、私はすぐに見かける度に君と里人との歴史を喰うようになってしまった。
いや、もしかしたら、そうすれば君が私に泣きついてきて、また一緒の家に戻れるなんて思っていたのかもしれないな。
兎も角、私は君と里人との会話を食べては食べて、眼につく限りは食べて――、ついには、君が生きてゆくのに必要最低限にしか残さず、喰い尽くしてしまったんだ」

 話が続くのと一緒に、慧音さんの体は僅かに前傾を強くする。
と同時に、両掌が胸から徐々に上へ上がってゆき、肩を通りすぎてゆく。

「満月の夜に会おうと思ったのは、それからだ。
歴史の編纂に君の家が便利だと言って、上がりこんで、でも私はどうしても言い出せなかった。
酒の力を借りても、だ。
本当は、謝って謝って謝りまくって、そして君が望むならどんな歴史でも創ってあげよう、とすら思っていたのにね。
でも、結局言えなかった。
ちょっとだけ、それらしい事を言えたけれど、本当にそれだけ。
それだって、あとから、向かいあわないままに気づかれる事が怖くて、その歴史を喰ってしまった」

 ついに慧音さんの両手は、俺の首へと達した。
艶かしく動く指先は、優しく俺の首へと巻きつく。

「次の満月の夜は、どうにか君に告白を出来た。
だけれど。
だけれども、あぁ、すまない、本当にすまない。
私は、君に糾弾されるのが、怖くて怖くて仕方がなかったんだ。
いや、それどころか、君がもしかしたら許してくれるかもしれない、と思うほどに浅ましく、更には、だと言うのに答えを聞くのが怖くて、怖くて、本当に怖くて。
また私は、歴史を喰ってしまったんだ。
私が、君に告白した歴史を」

 ゆるやかな強さで、慧音さんは俺の首を締めていた。
本当にゆるやかなそれは、僅かに息苦しいだけで、どちらかと言うと指の艶めかしい動きの方が気になるぐらいだ。

「それからは、毎月同じことの繰り返しさ。
君に里人との歴史を喰った事を告白し。
でも答えを聞かないままに喋れなくして、夜中には告白した歴史を喰ってしまって。
……ははっ、本当に浅ましい女だろう?
その通りさ。
私は、君に尊敬されるような女じゃない。
私は、君に恩義なぞ感じてもらえるような人間じゃあ、ないんだ!
里の守護者だ賢者だ何だと言われていても、実際の私はそんな、浅ましく、愚かな女なんだよっ!」

 叫ぶと同時に、慧音さんは更に体の前傾を強くした。
ちょうど、頭で月が隠れるぐらいの位置になって、言う。

「だけど、だけれども!
今夜こそ、今夜こそは、絶対に歴史を喰わないでみせる!
本当に、絶対にだ!
だから。
だから、許してなどとは、口が裂けても言わないけれど、せめて、せめて君の手で私を裁いてくれ!
どんな風にしてくれてもかまわない。
女の部分だって、君にくれてやろう。
だから、だからせめて………………」

 蚊の鳴くような小さな声になってゆく慧音さんに、しかし俺は、薄れ行く意識の中、思うのだ。
許す。
許すとも。
貴方は覚えていないのですか?
俺は、言ったのだ。
貴方が例えどんな事をしていようと、俺はきっと、貴方への感謝を忘れない。
恩だって忘れない。
それだけは、ずっと変わりがありません、と。
それはこんな告白をされた今でも、不思議と変わらないのだ。
本当ならもっと憤りを感じてもいいと思うのだが、何故にか、むしろ慧音さんの感じていたであろう、後ろめたさや後悔への憐憫があり、そして、奇妙に安堵すらもあった。
この人も、俺のように、自分を情けないと思い、消えてしまいたくなるぐらいの劣等感を抱えているのだと。
俺は目標としていたこの人と、一箇所でも対等に立つ事が出来ていたのだと。
だから。
だから、俺はせめて、許すの一言だけでも口にしたいのだが、どうにも意識が薄れていってしまい、それができない。
それに悔しい思いをしながら、せめてと、俺は掌を動かす。
ぽつぽつと涙を零している彼女の、角の生えた頭へと手をやり、ぽん、と載せる。
はっと驚いた彼女の両目が見開くのを見ながら、俺はゆっくりと意識を失っていった。



      ***



 朝。
ごっつん、と切り株に兎がぶつかると言う音は、本当に週に三回ぐらいはあるのだが、今日はそれが鳴らないままに起きる事となった。
と言うか、満月の夜が明けた日は、何時もそうである。
さてはて、満月の兎とくれば餅でもついて疲れはてているのだろうか、などと下らない事を考えながら、頭の霞を追いだそうと、頭を振りながら起きだす。
何時もの通り、慧音さんは何故だか正座したまま俺の寝顔を見ていたようだった。
一体どうしたものなのかと毎回思うのだが、聞くと毎回妙な反応があるので、今回も聞いてみる事にする。

「……おはようございます。毎度思うんですが、朝から正座って、どうしたんですか?」
「え? あ、うん、おはよう。いや、そうじゃなくて、と言うか、その、何だ、君は、………………覚えて、いないのか?」
「昨夜の事なら、毎度の事ながら。いやはや、いい加減お酒にも強くなりたいものです」
「………………そう、か」

 と言う反応も毎回の通りで、俺の返しも毎度同じである。
と言うのも、俺は多分幻想郷に来て、この満月の晩酌で初めて酒を飲むようになったのだが、その度に夜の一部の記憶が飛んでしまうのだ。
その事を話すと、いつもの通り、慧音さんは僅かに目を見開いた後、悲しげな笑みを見せる。
あぁ、多分きっと、俺は酒を飲む度に彼女との会話を忘れてしまい、それを共有できない事が彼女にとっては悲しい事なのだろう。
かと言って、覚えていない事で嘘をつくのも、すぐにばれてしまう事は間違い無い。
なので、やれやれ、いい加減慣れて酒に強くならねばな、と、余裕の出来てきた生活に一人用の晩酌の購入費を考えながら、俺はまた新たな一月の生活を始める次第になったのであった。




あとがき

と言う訳で、プロローグでした。
次回からは主人公の一人称だけではなく、三人称も使用すると思います。



[21873] 白玉楼1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/09/19 22:03

 半月に一度、俺は里に出かける。
物入りの為の、買い物の為である。
売り物の方はと言うと非常に困難を極めており、先日慧音さんの力を借りる結果となって、ようやくのこと売り終えることが出来た。
で、買い物の方も困難であるかと言うと、そうでもない。
何とも奇妙な話だが、たまに暴言を振るわれたりはするものの、暴力沙汰にまでなる事などなく、最低限必要なものを買い入れる事ぐらいはできたのだ。
矢張り、金さえあれば大抵の事は解決できると言うのが、確かな事だからなのか。
さてはて、少なくとも俺の弁舌以上には威力の高い金を用いて、今日も買い物を済ませていた最中であった。
しかし金の威力て。
下品な表現だが。

 兎も角。
俺は、日持ちする漬け物だのを買って、次に米を買おうとした、のだが、そこで一悶着あった。
前の客が買っていった米の金額に比べ、俺に提示された金額は五割ほど増されていたのだ。
流石に俺も、それには抗議した。
弁舌の不安もあったし、里人の悪感情を刺激すべきでは無い、と言う考えもあったのだが、流石にそれでは生活が立ちゆかない。
いや、と言うか、俺が気づかないだけで、それまでも不当に金を取られていたのかもしれないが、それにしても、気づいたなら放っておいて良い問題では無い。
だが、米屋との間にも重力が足らないようで、何時もの通りの、確かこんな感じの会話になったのだと思う。

「ちょっとちょっと、米屋さん、そりゃあ無いんじゃないですか。
さっき買っていった人の、五割増しの値段じゃないですか。
いや、特別人によって少しだけおまけをする事だって、逆に水増しする事だって、米屋さん、貴方だって人間だ、ありうるでしょう。
でも、五割だ。五割ですよ。
流石にそれじゃあ、俺の生活だってなりゆかない。
何とかなりませんかね」
「ふぅ………………やれやれ。
今貴方が言った事が、そのまま答えですよ。
貴方に高く売っているんじゃあありません、先程の彼に特別安く売ってあげたのです。
それだけです。
貴方には、適正な、そう、貴方にとって適正な値段で売ろうとしていますよ、私ぁね。
………………。
そう、適正な。
そういえば、風の噂に聞きましてねえ。
何でも何処かの極悪人が、あの慧音先生を利用して、不当に高く野菜を売りさばいていったとか。
いや、あくまでそういう噂があるってだけですよ、うん、それだけです。
ここで貴方に対して見せてる米の値段にだって関係無い、それだけの話って奴ですよ」

 と言われると、俺としては弱い物がある。
記憶によると、俺の野菜が、相場に詳しくないので多分、としか言いようが無いが、平均的な野菜より高く売られたのは、事実だからだ。
と言っても、それは夏妖精の祝福を受けて、平均的な野菜より出来が良かったからなのだが……。
しかしそれを言っても、通じはしまい。
俺は里にとって、慧音さんの温情にすがるばかりか、利用までする極悪人であったのだ。
それでもまだ、何とか生きていけるであろう金額に収まっているのですら、情けと思うべきなのだろう。
野菜の多くを売り払ってしまった俺は、今、里に物を売ってもらえなくなれば、飢えて死ぬか、それとも慧音さんに頼る他無い。
いや、間接的な殺人を自らの手で下すのを嫌ったか、それとも慧音さんがまた利用されるのを嫌ったから、生きてゆくギリギリまで絞りとると言う事になっているのかもしれないが……。
兎も角、俺は、悔しさに顔を歪めながら、提示された五割増しの値段を財布から出す事に決めた。
と言うのも、俺の金が無くなると言う事は、俺の生活に余裕がより無くなると言う事であり、俺が苦しいばかりでなく、慧音さんへ恩返しできる日まで遠のく事になるからだ。
とは言えここで反論しても、俺の拙い弁舌でこの不当な取引を覆す事などままならないだろうと言う予感もあり、それにこの悪意に満ちた目で見られ続ける事にも耐え難い。
仕方無しに銭を数えながら出すと、店主は言った。

「足りませんねぇ」
「は?」
「米は、時価ですので。もう一割、値上がりましたとも」

 俺は、思わず絶句した。
時価? 初耳である。
流石に今度こそは、俺は金を支払おうと言う気にはなれなかった。

「何を言っているんですか、そんな不当な金、支払いませんよ。
さぁ、品物をよこしてください、ほら、早く」
「そちらこそ何を言っているんですか。
不当な金? いえいえ、妥当な金額ですとも、もう二割、支払ってもらいますよ」

 当然のごとく、話している間に増えていた。
俺は手にとった五割増しの銭を叩きつけるように置くと、無言で店主を押しのける。

「おい、こら! 貴様、一体何をする気だ!」
「金は払ったのに、品物はこない。
いやはや、忙しいんでしょうね。
ならその忙しさを埋めるべく、自分の手で品物を探して取ってこようかと」
「なんだと、この卑しい盗人め!」

 叫ぶ店主を無視して、俺は一番近くにあった米俵を一つ担ぐと、再び店主を押しのけ、外に出る。

「おい、聞いているのか、この人間の屑が!
慧音先生に寄生し、やっとこさ切り離したと思えば、今度はその温情を利用する人でなしが!
貴様など生かす価値も無いと言うのに、それでも生かしてやっている里の温情を忘れやがって!
くそ、くそ、クソッタレが! この、盗人めが!」

 しかし叫びながらも、店主は人を呼ぼうと言う気は無いようで、声もそこら中に響くほどの物ではなく、人だかりもできはしなかった。
というのも、これが慧音さんの耳に伝わっては、里としても不味いと思っているからなのだろう。
外を歩いている里人がウジ虫を見るような目で俺を見るが、それから唾を吐き捨てるなりため息をつくなりして、目を逸らすばかりである。
俺は店主を無視してリヤカーに米俵を載せ、それを引いて去ろうとする。
まさにその、瞬間であった。

「物取り――、ですか」

 一瞬立ち止った後雑踏に戻る里人の中、一人、立ち止ったままの少女が居た。
白髪にリボンのカチューシャ、白いブラウスに、緑のベストとスカート。
洋装の出で立ちと似合わず、その背には二振りの刀が背負われている。
容貌は、青白い肌に引き連れる人魂が、この世のものを思わせないのであるが、印象はと言うと、真逆だ。
何というか、真っ直ぐで、鍛え抜かれた直刃の刀とでも言えばいいのか。
生き生きとしていて、竹を割ったような晴れ晴れとした気質な体から溢れてくるような感じで。
容貌と印象、まるで半分づつ死んで生きているような子だ、と、俺は思った。
失礼な感想ではあるが、それが非常に適当な感想であるように、その時俺には思えたのだ。

 兎に角、目の前に立たれて、どうしたものかと首を傾げる俺。
俺は物取りではないとも言おうとしたが、しかし、被害者と言える店主がそう叫んでいる以上、俺の釈明は非常に説得力の無い物になってしまう。
詳しいことを説明しようにも、中身が入り組み過ぎていて、どうやって話せば良いのか分からない。
かといって、目前の少女は、無視して、物取りと思われたままでいたいと思う類の子では無かった。
と言うのも、本当に第一印象でだけなので、その通りに言うしか無いのだが、何と言うか、この子の目の前では、俺は、背筋を伸ばしたくなってしまうような子なのだ。
兎も角そんな訳で、どうにかしようと俺が口を開くよりも先に、少女の口が開かれる。

「――斬る」

 ぱくり、と、擬音でも出そうなぐらい綺麗に、肉が開く。
内側の臓物が、太陽の光に顔を見せる。
不思議と痛いと言う感覚は無かった。
ただ奇妙にふらつくというか、バランスが取れていないというか、まるで重力に捕まってしまったかのように、切られた側の足から、力という力が抜けてゆくのが分かる。
聞けば重力と言うのは、物と物とが惹きあう力であるのだと言う。
なれば今の状況は、俺の肉を地面が捕まえているだけでなく、俺の肉の方こそが地面を捕まえようとしているのではないか――。
血が舞っているのを見るに結構な重症な筈なのだが、俺の脳内は呑気なもので、そんな事を考えながら頭蓋の兜ごと揺れる。
空が舞った。
背中がどすんと地面を捕まえる音がし、白雲の残像が線から点へと姿を変える。
まるで半死人のような白い肌を、更に青くしている、白髪の少女の姿が見えた。
多分。嗚呼、思えば短い人生だった――などと走馬灯を眺めるのが普通であると言うのに、俺の呑気な脳髄はそんな事を考えようともしない。
変わりに、ただただその少女を、綺麗な子だなぁ、などと考えながら意識を締めくくるのであった。



      ***



 土下座と言う物を、俺は二度しかしたことは無い。
と言うのも、俺の記憶が名前と共に葬られて幻想入りした物であるので、幻想入りしてここ半年ほどに二回と言う事である。
一度は、名前を知らない、あれ以来あったことも無い里人にほったて小屋へぶち込まれた後、頭蓋を足で踏まれてさせられた土下座である。
それを土下座と言うのかどうかは諸説あるが置いておくとして、二度目は、春野菜を売る時であった。
夏野菜を売る時と違い慧音さんが居なかったあの頃、俺の野菜を買って欲しいと言う願いに店主が言ったのは、ならまずこの場で土下座して見せろと言う台詞だった。
問答はあったものの、結局、俺は土下座をした。
それは俺の誇りよりも、俺が金を手にし、いくらか生活に余裕を作り、慧音さんが困ったとき何時でも手を貸せるようにする事の方が、大事であったからだ。
そんな自明の理があっても尚、土下座には躊躇するものがあった。
当然と言えば当然である。
躊躇せずに誰でもができるものであれば、それは謝罪の意を含む物にはなりえない。
兎も角そんな訳で、俺のような、人里において底辺のような位置で暮らしているような人間にも、土下座と言う物をする機会は中々ないし、躊躇もするものである。
で、あるが。

「本当にっ、申し訳ありませんでしたっ!」

 起きたら、いきなり土下座する少女が居た。
意味が分からないと思うが、俺も中々に意味が分からない。
何時しか兎が団体で切り株にぶつかっていって、目を回しているのが、どうにもかわいそうで喰うのも気が引け、介抱してやった事があるが、その時整然と揃ったお辞儀を返された時以来の意味不明度だった。
とりあえずは一体何があったものか、と、俺は周りを見渡し、布団の中で胡座をかいて、状況把握に努める。

 家のほったて小屋の倍はあろうかと言う、広い畳部屋。
枕元の蝋燭の灯りに照らされて、俺の寝ている布団の他には、意匠の施された箪笥、床の間には生花にミミズの這ったような字の掛け軸、一方は障子で区切られ月明かりが僅かにさし、二方は襖で仕切られている。
家の板張りのほったて小屋とは次元違いの、豪華な家であった。
この部屋だけで、恐らくは家の数倍の値段がするだろう。
目眩のするような感覚に襲われながら、再び視線を土下座する少女へと戻す。

「ええっと、状況を確認したいんですけどね」
「は、はいっ」
「俺は、そう、米を買いに行って。で。物取りと君に間違られて――、それで、どうしたんだっけか?」

 そう、それ以降の記憶が俺には無かった。
米屋に盗人呼ばわりされ、そしてこの子に物取りと間違えられたのまでは覚えているのだけれど。
その後、一体どうすればこんな豪勢な部屋に連れ込まれる事になるのか、検討もつかない。
しかし少なくとも、意識を失っていた事は確かである。
ならば、あの後俺が目眩でも起こして倒れ、それで介抱されている、と考えれば辻褄が合わなくもないが、土下座される所以が無い。
なら記憶を失っていると言う事で、酒でも飲んでいたのかもしれないが、少女に物取りと間違られた事からの繋がりが分からないし、これまた謝られる道理が無い。

「………………」

 しかし、頭を上げた少女は、居心地悪そうに、口をつぐんだままだった。
何か言葉にならない言葉を口にしようとして、うずいてしまう。
はてさて、どうしたものか。
とりあえず謝られたと言う事は俺が悪い訳では無いのかもしれないが、しかしそうとも言い切れない。
善さとは主観的な物である。
立方体を二次元に切り取ってみよう。
ある面に水平に切り取ってみれば正方形ができるだろうし、立方体の中心を挟んで対となる二辺を通るように切り取ってみれば、今度は平行四辺形ができるだろう。
同じように、ある物事があったとして、それにおいて彼女と言う主観で切り取って悪くても、それが俺と言う主観にとって善かったと言う保証にはならないのだ。

 そして、当然。
俺である。
この、俺である。
慧音さんに迷惑をかけっぱなしの、俺である。
当然、俺が悪くもあった可能性はある。
と言うか、そんな気がしてきた。
とすると、今度は正座する少女に対し胡座をかいている自分はとても無礼な気がしてきて、どうにも座りが悪く、こちらも正座すべきかと、身じろぎする。

「――痛っ!」

 と、鋭い痛みが腹に走った。
慌てて抑えるより早く少女が腰を上げ、俺の体を抑える。

「動かないで下さい、貴方は斬られたんですよっ!」
「斬ら、れた?」

 疑問詞を浮かべると、少女はピタリと動きを止め、視線を下にやり、縮まりかえって再び正座する。
深く、深呼吸。
まるで大舞台に向かうような気概で、少女は言った。

「はい。私は、貴方を――、物取りと勘違いして、斬ってしまったのです!」
「はぁ」
「本当に、申し訳ございませんでしたっ!」

 言って、再び土下座。
本当に、はぁ、としか言い様のない感想であった。
斬られた。
多分、正座する隣に置かれた二振りの刀のどちらかか、両方かで。
ずぷりと。
すぱっと。
ばっさりと。
多分今痛かった、腹を。
ちょっと想像の外にある事態だった。
この幻想郷に来て以来、俺の受けた一番の外傷は、名前も知らない里人にボコボコに殴られた事である。
あれは結構痛かったが、それでも殴打の痛みから斬られると言う痛みは、正直言って、想像できない。
まるで、現実感が無かった。

「えっと、俺、本当に斬られたんだよね? 動かなければ痛くない、程度なんだけど……」
「はい、確かに。傷の方は、ちょうど居合わせた永遠亭の薬師の弟子に手当をしてもらったので、数日安静にしてれば、と」

 が、矢張り斬られたと言うのは事実だったらしい。
かと言って実感が湧くかと言うとそうでもなく、何というか、むしろ、転んで腰を打っただけなのに何故だか土下座をされている、と言うぐらいの方がそれらしいようにさえ感じられる。
多分、幻想入りしてから、謝られる事より罵られる事の方が多かったから、と言うのもあるだろうけれど、それよりも、何とも、謝られると言う、その行為自体がくすぐったいような感じなのだ。
それに、だ。

「――………………」

 俺は、面を上げている少女の目に視線をやる。
少女は僅かに顔を強ばらせたものの、決して視線を逸らさず、真っ直ぐに俺を見据えている。
何とも、真っ直ぐな感じのする少女であった。
仕草一つ一つからその気概が伝わってきて、俺に躊躇しつつも土下座して謝ってみせたのも、その印象を助長する。
俺を斬ったと言うのも、記憶から類推するに、その気質故の事と考えれば、当然のことであるように思える。
この少女であれば、物取りなどと聞けば見逃す事などせず、情緒酌量など後に置いて罰を食らわせてやる、と飛んでいきそうだ。
実際、そうしたのだろう。
そしてその結果、無実の人を斬ってしまったと、心の底から悔いているに違いない。
本当に、真っ直ぐで、誠実で、いい子だ。

 対して俺は、どうだろう。
里人には忌み嫌われており、その言い分も、否定しきれない部分があると言う事で、悪人である。
しかも、先の物凄いボッタくりを思うに、俺が貧乏から抜け出し、慧音さんに恩返しをする事ができる未来は、再び暗雲立ち込めるようになったように思える。
つまりは、恩知らずである。
悪人で、恩知らずで、妖精の気まぐれで生きている俺。
そんな俺が、真っ直ぐに生き悪人を斬ろうとした彼女に謝られていると言うのは、どうにも、居心地が悪かった。

 いや、違う。
そんな着飾った話ではなく、もっと手の早い、簡単な話なのだ。
俺は、彼女に劣等感を感じているのだ。
その真っ直ぐさに。
その誠実さに。
何せ俺と彼女の立場が反対であったとして、俺は彼女ほど真っ直ぐに相手の目を見ながら謝る事など、できはしないだろうと言う思いが、確かにあるのだ。
それがどうにも、悔しくてたまらない。
人として彼女より清く、正しく、あれない事が。
それはきっと、幻想入りして、慧音さんと出会ったときからずっと続く、俺の奥底の何処かで渦巻く劣等感からなのだろう。
だから俺は、言う。

「えっと、許します」
「って、そんなに簡単にっ!?」

 驚いた少女が目を見開くが、仕方が無い事なのである。
と言うのも、俺はこれ以上彼女に対して負い目を負わせる事に耐えれそうにもないし、そも、彼女が言う物取りと言うのもあながち間違っていない部分もあったのだ。
よく思い出せば、確かに店主の言い分は法外であったが、俺の行いもそこそこに法外である。
となると、少女の謝罪も半分は正当では無いものになってしまい、そんな物を向けられても、何と言うか、困る。

「とまぁ、そう言う訳で。
どう言う説明を聞いて俺を物取りと勘違いした、と言う結論に至ったかは知らないけれど、君の行為は、半分ぐらいは正当であったのも確かなんだ。
だからと言って謝罪を半分こにするなんて事は、できっこない。
と言う事で、これまでの君の土下座で、帳消しって事にはできないかな。
いやまぁ、それじゃあ君の過払いだって言うなら、俺も謝るのは吝かでは無いんだけれども」
「え? え、え?」

 と、言い分を言ってみせるのだが、彼女はどうしてか目を白黒させるばかりで、了承の意は得られない。
手を胸に当てて目をあっちこっちに泳がせながら混乱する様は非常に可愛らしいので、目の栄養にしつつ答えをじっと待つ事にする。
すると少女は、ぶつぶつと、えーと、この人は斬られたんだよな、私に、しかも物取りって言うのは半分とは言え誤解で、と言うかこの人の言い分でも、半分も誤解だったのか……などと呟く。
状況を確認するごとに、顎に手をやったり、掌を打ったりして髪を踊らせる様を眺めているうちに、やっと少女は俺に向きあってみせた。

「いや、その、やっぱりそれはおかしいです」
「おかしいのですか」
「はい、おかしいです」

 おかしいらしかった。

「貴方は正当な理由なく斬られ、私は正当な理由なく貴方を斬り、そしてその結果がただ謝るだけで済むのは、やっぱりおかしいです。
世の中とは当たり前でなくてはならないのです。
ならば私はもっと重い罰を受けなければ、道理が立たない。
筋道が行かない、理屈が立ちゆかない。
………………と、思うのですが……」

 最後になって自信を失う少女が可愛らしく、内心で笑みが浮かぼうとしてくるが、俺は笑みの重力を強くし、内心の奥深くに沈めるに努める。

「と、言ってもなぁ。俺としては、もう十分過ぎるぐらい謝られたつもりなんだけど」
「いえ、そうは言われても……」
「うーん、何か妙な状況になってきたね。
片や斬られてこれで許す事を願う側、片や斬って許されない事を願う側。
これじゃあ、あべこべだ」
「みょん」
「みょん?」

 と、調子よく続けていると、謎の奇声。
思わずと言わんばかりに反応した少女は、青白かった頬を熟れた林檎のように赤くして、体を縮こませる。
それはそれで実に可愛らしくて幸いなのだが、さてはて、どうしたものかと首を傾げる俺。
何せまず俺が折れるにしても、彼女に与える罰と言うのが思いつかず、そも、俺が劣等を感じている彼女に対し俺が罰を与えると言うのは、むしろ俺に対しての罰である。
対して彼女が折れるにしても、その言い分によれば、その罪過に対し適切な罰が無ければならないらしい。
両方を上手く満たすような事柄を思いつけばそれでいいのだが、そも、彼女の事を殆ど知りもしない俺にとって、屏風の中の虎を退治するに匹敵する難問であった。
だからってお互いの事を知りましょう、から始めてしまっては、日が暮れてしまう。
大体、それじゃあお見合いじゃあないか、と思った辺りで、俺は自分の思考が大分鈍っている事に気づく。
お見合いて。
俺の思考は何処へ向かっているのだ。
と、鈍らな己の思考にどんよりした気分になった辺りで、突然背後から声がかかった。

「あらあら妖夢、お客様に迷惑をかけるものではないわよ」

 跳ねるようにして背後を向――こうとして、脇腹の痛みに悶え、抑えながらゆっくりと声へと視線をやる。
そこには、一人の女が居た。
肩の当たりで切り揃えた、薄桃色の髪。
少女と同じく青白くさえある肌に、髪色を濃くし、丁度血の色にしてみせたような瞳の色。
身を薄い水色の着物で包み、頭には、幽霊の付けるような頭巾を合わせた不思議な帽子を被っている。
一瞬、絶世の美女と言う単語が脳裏に巡ったが、何処かそれは似合わず、何というか――、そう、彼女は、浮世離れした美女であるのだ。
陽気そうになだらかな曲線を描いている眉も、何故か儚く。
エロティックで肉感的な肢体も、何故か薄らで。
浮世。
穢れがない、美女。

「初めまして。私は此処、白玉楼の主、亡霊の西行寺幽々子と申します。
ようこそ、白玉楼へ。部下の非礼をお詫びいたしますわ」

 腰をおろし、頭を下げる彼女――西行寺さん。
その所業一つ一つを取って見てみても、雅と言える趣がある。
例えば膝を付いた後、着物の裾を無闇に広がらせないよう抑え、それからゆるりと、まるで音速の遅いような動きで座るのだが、それが本当に美しいのだ。
ほぅ、と、思わずため息をさえついてしまう。
仕草一つでそこまでさせるほどに、彼女は美しかった。

「そして妖夢、貴方という子は本当に半人前なのね。
まずは謝るよりも先に、自己紹介からでしょうに」

 言われて、俺は思わず妖夢と呼ばれた少女と目を合わせた。
そういえば、俺たちは互いに名前すら知らないままに、斬ったり斬られたり、謝ったり謝られたり、許したり許されたくなかったり、果てには俺など勝手に劣等を感じたりまでしていたのだ。
思わず、目を合わせたまま二人でくすりと笑みを浮かべてしまう。
そして居住まいを正し、まるで段取り通りであったかのように自然に、少女から口を開いた。

「初めまして。私は此処、白玉楼の庭師兼お嬢様の剣の指南役で、半人半霊の魂魄妖夢です」
「初めまして。俺は外来人でして、名前は幻想入りした時に亡くしてしまいました。今では、七篠権兵衛と名乗っています」

 互いに軽く頭を下げたのを合図に、ぱちん、と西行寺さんが手に持つ扇子を閉じる。

「さて、権兵衛さん。この子は納得の行かないようですが、私としても、部下の非礼をそのままにしてはおけませんわ。
かと言って、貴方の意に沿わず、無理に妖夢に罰を与えさせると言うのも、致せません。
ですがせめて、その傷が癒えるまでの間は、この白玉楼でお世話をさせて頂きたいのです。
それでこの件、手打ちとしていただいても構わないでしょうか」
「俺としては願ったり叶ったりで、申し分ないのですが……」

 傷が治るまでの間どうしようかと思っていた所である、治るまでの数日世話になるのは構わない。
しかし魂魄さんが納得が行かないだろうと視線をやると、彼女は視線を下にやり、体を縮こませる。

「妖夢でしたら、罰を求めるのならば自分で考えさせます。
そも、罰とは与えられるばかりではなく、己で考え行う事も含むもの。
だと言うのに権兵衛さん、貴方に罰を与えられる事に固執したのは、この子の未熟故ですわ」

 との事だった。
俺としては、できれば魂魄さんが自罰について考えるのに力を貸してやれる結果であった方が良かったのだが、此処の主と言う彼女の顔を汚す訳にもゆくまい。

「分かりました。では、この件は、それで手打ちと致しましょう」

 深く頷いてそう返すと、ぱちん、と音を立て、西行寺さんの扇子が開く。
と同時、空気が弛緩する。
気づかぬうちに背負っていた肩の上の空気が消え去り、呼吸が楽になる。
そうまで至って、ようやく、俺は目の前の美女に圧倒されていた事に気づいた。
カリスマ、とでも言うべきなのか。
先程まで放射されていたそれがなくなり、目前の物凄い浮世離れした美人が、美人である事には変わりないのだが、何処か親しみやすくさえ感じる美人になった。
何と言うか。
あの世から、現世へ降りてきたような、感じ。
狐につつまれたような変化に目を白黒させている俺と、柔和そうな彼女の目とが、合う。
にっこりと、微笑む彼女。

「じゃあ、妖夢~、おまんじゅうとお茶持ってきて~」

 急降下しすぎだった。
思わず肩を落とし、急な姿勢の変化に、痛みと共に脂汗が滲む。
アホか俺は、と思いつつ、ついでとばかりに俺も魂魄さんに物を頼む事にする。

「えーと、魂魄さん。それじゃあ、俺もついでに何か頂いていいかな。
昼から何も食ってないから、流石に腹が空いて」
「あ、七篠さん、私は妖夢で構いませんよ。それじゃあ、お粥か何かを作ってきます」
「それなら俺も権兵衛でかまわないよ。じゃあ、お願い」
「あぁ、それなら私も幽々子でいいわ。私だけ仲間外れってのも、無いじゃない」

 とまぁ、こんな感じで俺の白玉楼での生活が幕を開けるのであった。



      ***



 さてはて、何はともあれ、俺は斬られた、と言う事になるが、この事を果たしてどう捉えていたか。
怪我をしたので惨事であるか、斬られても生きていられたので好事であるか、それとも斬られると言う体験事態が珍事であると考えていたか。
その、どれでも無かった。
と言うのは、むしろ俺は、久方ぶりの会話ができる、切欠としか思っていなかったのである。
何せ俺は、相変わらず人との出会いが無く、そも先の慧音さんとの会話の後、半月ぶりに漬け物だのを買う時に会話した事になるのだ。
その上悪意の篭められていない、となると、この半月で初の会話である。
俺が妖夢さんを容易く許した理由の一つには、会話に飢えていたと言うのがあったのかもしれない、俺は会話に飢えていた。
と言う事で、俺は、再び握る事の叶った細い蜘蛛の糸を、今度こそは離さずにいられるように、と、努めてこの白玉楼の生活を送る事にする。
望ましくは、慧音さんがそうであるように、定期的に会話なり酒盛りなりをするような仲になれれば良いな、と思いながら。

 そんな訳で、朝。
起きた俺は、妖夢さんの用意してくれた新しい藍染めの着物に着替え、茶の間に二人と共に集まり食事をしていた。
縁側を背負った妖夢さんを起点として、幽々子さん、俺、と三等分に座布団に座る。
中央のちゃぶ台の上に並ぶのは、白米に焼き魚、味噌汁に漬け物、玉子焼きにほうれん草のおひたし。

「これぞ和食、って感じだなぁ」
「? 権兵衛さんは洋食派でしたか?」
「いや、和食派だけど、俺は里外れに一人で住んでいるものだから、自分で料理しないといけなくてね」

 と言うと、それだけで察したのだろう、仕方ないですね、と妖夢さんがため息をついた。
ついで一旦箸を置き、ぴん、と指を立てて、片手を腰にお説教を始める。

「全く、権兵衛さん、料理はきちんとしなくてはなりませんよ」
「いやぁ、面目ない。自分一人で良いんだと思うと、どうにも不精してしまってね。
あの世に住んでいる訳じゃあないんだから、霞を食って生きる訳にはいかないと言うのに」
「あら、あの世に住んでいても、霞をだけ食って生きる訳にはいかないわ。
あの世もあの世で浮世と同じく不自由、五臓六腑のどれを維持するにも、食事は欠かせないもの。
権兵衛さん、貴方は一つでも臓器を置いてゆけて?」
「それは勘弁願いたいですね。何をとっても、困ること困ること。
昔は潰瘍になったら臓器を取ってしまったと言うけれど、俺には考えられません。
特に、やっぱり――」

 言い、一瞬間を置くと、幽々子さんと目が合った。
うん、と同時に頷くと、同時に口を開く。

「「胃が大事ですよね(ですわ)」」
「お二人とも、息がぴったりですね……」

 呆れがかった様子で、妖夢さん。

「と言っても、亡霊の幽々子さんには息が無い訳で」
「無い物が合うなんて、それはそれは、世にも奇妙な事」
「だってここはあの世、この世じゃないんですからね」

 そうですか、と不貞腐れたように、言い、妖夢さんが再び箸を進め始める。
何となく視線がふらりと幽々子さんの方へ泳いでしまい、再び目が合う。

「呆れられてしまった」
「呆れられちゃったわね」

 くすり、とお互い笑みを頬に浮かべ、こちらも止めていた箸を進め始める事にした。
当然、それは苦になるような事は無い。
と言うのも、この料理は絶品で、俺の自炊料理などとは比べ物にならない出来であり、恐らくは記憶に遠い慧音さんの手料理より美味しいぐらいだ。
勿論誰かの手料理と誰かの手料理とを比べるなんて失礼な事でしか無いのだけれども、それでも思わずこんなに美味しい物は何時ばかりか、と記憶を辿ってしまうほどに美味しいのだ。
米は粒が立ち、焼き魚はよく油が乗っており、玉子焼きもふっくらと焼けている。
どれもどれも美味しくて、箸が進むこと進むこと。
よく味わって食べていると、不意に幽々子さんが呟く。

「そういえば、もう秋も見え隠れしてきたのかしら」

 見れば、紅葉の形に切り抜かれた人参を箸で挟み、持ち上げている。
それをぱくりと口にするのを尻目に、妖夢さんがぴたりと動きを止め、思案顔で言った。

「えぇ、妖怪の山でも豊穣神に紅葉神が目撃されたそうですから」

 そんな物まで幻想郷には居るのかと驚きつつも、そのまんまな回答に、思わず俺は視線を妖夢さんへやった。
自信満々と言うか、当然至極と言うか、そんな感じの表情で言っているのだが、はて、豊穣神と紅葉神とやらは幻想郷の風物詩のようなものであるのだろうか。
疑問詞を視線に載せて幽々子さんの方へとやると、仕方ないなぁ、と言わんばかりの微笑みを浮かべている。
と、そこで三度、目があった。
自然、頷いて俺から口を開く。

「秋と言えば、だんだん合服の季節ですね」
「ええ。服を重ねると、徐々に人は重力を弱めてしまう。何でか分かるかしら、妖夢」
「え、ええ?」

 疑問詞をいっぱいにする妖夢さんを尻目に、ならばと視線を向けられた俺が、答えた。

「裸の付き合いと言う言葉があるように、服を脱ぐ事は人と人との重力を強めることになります。
逆説、服を重ねれば重ねるほど、人は重力を弱めてしまうのでしょう」
「その通りよ、権兵衛さん。それはきっと、纏った物の重力が混ざってしまって、ぐちゃぐちゃでよく分からない事になってしまうからなのでしょう」
「エントロピー増大の法則ですね」
「ええ。だから人々は冬に向けて家に篭る事が増えてくるし、その為に冬ごもりの準備をしなくてはならなくなってしまう」
「つまり、俺たちはと言うと、随分と気の早い冬ごもりの準備を、胃にしなくちゃならない訳ですね」

 と、そこで俺と幽々子さんは、空になった茶碗を妖夢さんに差し出す。
え? ええ? と、変わらず疑問詞で頭がいっぱいな様子の妖夢さんに、一言。

「妖夢、ご飯怖い」
「妖夢さん、えーと、白米怖い」
「お二人とも、普通に言ってくださいっ!」

 怒鳴りつつも茶碗を受け取り、厨房へ向かう妖夢さん。
自然、幽々子さんと二人、目を合わせる。

「怒られてしまった」
「怒られちゃったわね」

 今度はくすりとではなく、互いにくすくすと長く笑みが続くこととなった。
お代わりを盛ってきた妖夢さんが困惑するのを他所に、二人して笑みを続けていると、ふと、俺は心の中で張り詰めていた物が緩んでゆくのを感じた。
俺は、気概を持って挑まなければ、この人達と縁を作る事など叶わないだろうと思っていたが、こう、気の抜けた会話をして、お互い笑っていられるのを感じると、何だか、それは違うのではないかと思えるようになってきたのだ。
この二人との間であれば、自然体を以てしても、縁が作れるのではないかと。
俺のような弁舌の立たない嫌われ者であっても、受け入れてくれるのではないかと。
無論、それは冷静に考えれば、間違いであるのだろう。
何せ俺はと言えば、この幻想郷に来て以来、運勢や状況の悪さはあったとは言え、慧音さん一人しか話し相手も確保できないような、人付き合いの下手な男なのだ。
だと言うに、典雅な亡霊姫や、真っ直ぐな庭師にばかり気に入られると言うのは、筋道がゆかず、ありえない事とさえ言っても、大体は合っているだろう。
だが、それでも。
それでも、思ってしまう。
彼女たちは、俺のような程度の低い男でも、その深い懐で、受け入れてくれるのではないだろうかと。
これから、月に一度の慧音さんとの宴会のように定期的に会う事までは構わなくとも、せめて顔を合わせたら、少しばかりの会話を続けるようになる関係になる事も、可能なのではないだろうか、と。
そう思ってしまうぐらい、此処での会話は暖かく、身に染みる思いなのであった。



      ***



 数刻後。
庭掃除に行くと言う妖夢さんを見送り、俺はと言えば、幽々子さんと並んで縁側に座り、茶を啜っていた。
初日、初めて向いあった時に比べると圧迫感のような物は感じ無いものの、矢張り幽々子さんは、動作の一つ一つが洗練されていて、雅である。
例えばお茶を飲む時、すっと湯のみを掌で包むように僅かに持ち上げ、それから底を持ち、ゆっくりと顔辺りまで持ち上げ、それからゆるりと湯のみを傾け、その先にだけすっと口をつけてお茶を飲んで見せる。
俺がそんな事をやってみせればずずずっと下品な音を立てそうなものなのだが、彼女がやると、不思議とすすっと言う上品な音がするのみで、汚らしさは、欠片も感じられない。
流石、と思いつつ、真似をしてみようにも、中々上手く行かない。
元々俺は作法など知らぬ男である、幽々子さんのように典雅な振る舞いを望むのは高望みであったのかもしれない、と内心落ち込みつつも何とか試していると、不意に、幽々子さんが口を開いた。

「権兵衛さん。ちょっと聞いていいかしら」

 突然であったので、一泊、音を開けてしまったが、俺も湯のみをゆっくりと置き、肯定の意を伝える。

「良かった。じゃあ、聞いてみたいのだけれども……、貴方の、名前を亡くした、と言うのは、どういう事なのかしら。
昨日自己紹介の時にそう聞いたけれど、詳しくは聞きそびれてしまって」

 不可思議な問であった。
と言っても、別に隠すような事では無いし、もしそうであってもその事を忘れてしまっているので、俺は率直に答える事にする。

「そう、ですね……。ちょっと感覚的な物なので説明するのは難しいし、長くかかると思うんですが、構いませんかね?
えぇ、はい、それならいいんです。なら、お話しましょう。と言っても、お茶菓子替わりになるような甘い話ではなくて、どちらかと言うと、お茶替わりになりそうな、苦いお話なのですが。
俺が幻想入りした時、俺は、いわゆる記憶喪失状態でした。
自分の名前も過去も全くもって分からず、ただしかし、外の世界の一般常識のようなものはあったので、外来人と分かっただけなのです。
と言えば、普通、記憶喪失と名乗って終わりなのでしょうが、何と言うか、これが感覚的な事で、言葉にしづらいのですが。
ただ記憶を失ったのではなく。
名前、と言うのが、中心にあるように思えるのです。
そして名前には三つ、状態があるでしょう? 名付けられる前と後と、忘れられてしまった状態の三つです。
で、そのどれにも当てはまらないようで、かといって無い、と字を当てると、俺には失う前にも名前が無かった事になってしまうものなので。
――だから、亡くなった。
人があの世へ召されるように、名前が。
全ての状態を捨てて、何処かへと消えてしまって」

 一旦区切ると、俺は茶で喉を潤す。

「だから多分、俺は幻想入りした時、全く新しい自分として、始まり直したんでしょう。
証拠に、俺は、博麗の巫女によっても外の世界へ戻る事ができませんでした。
そして彼女の言葉によると、それは俺が名前を亡くしてしまった事が原因なのだそうです。
ほら、まるで、俺がこの幻想郷に、生まれ直したみたいでしょう?
かつての外の世界に居たらしい俺とは、全く違う俺に。
――新しい名前は、ほら、名無しの男を、名無しの権兵衛って言うじゃないですか。
なんで名無しで始まった俺は、七篠権兵衛と名乗るようになったのです」

 と、一通り語り終えた俺は、再び茶で喉を潤す。
さてはて、気の利かない俺にはこの話の面白さが分からないのだが、幽々子さんには感じ入る事があったらしい。
彼女と言うと、俺の話を反芻しているようで、顎に手をやり真剣味のある表情で庭の土を眺めていた。
手持ち無沙汰になったので、俺は反応があるまで、と庭の方へと目をやる。
残暑も残り少ない今、最後の輝きとばかりに緑濃く木々が茂り、蝉の鳴き声響く庭。
それを見ての第一印象と言えば、顎が外れんばかりの広大さであった。
何せこの白玉楼、屋敷自体ももの凄くでかいのだが、それすら小さく見える程の広大さである。
遠くは霞み、音はただただ蝉の鳴き声が何処かむなしく響き、普段五月蝿く思えるそれすらも、この広大な空間では反響の無さが逆に静けさを思わせる。
屋敷の主とは似てつかぬ、無機質な感覚を思わせる場所であった。
と言っても、それは当然と言えば当然なのだろう、ここは冥界、死後の世界であり、元来有機物より無機物の集まる場所である。
それでなくとも、庭とは侘び寂びの世界の物だ。
侘しくあるのは当然のことで、ならばこの不思議な静けさを楽しもうでは無いか、と、俺は静かに茶を口に含む。

 だが、何故だか、気分は一向に晴れなかった。
俺の心に侘び寂びを感じる粋が存在しないからなのかもしれない、と思ったが、それもどこか違うような気がする。
そう、何と言うか、俺は、まるで、この庭を見ていると――、俺を見ているようになるのだ。
俺は、先の言葉を借りるならこの世界に生まれたその瞬間から、劣って、劣って、劣り続けているように思える。
生まれた完全な状態から、少しづつ、乾燥してひび割れてゆく砂漠の大地のように、珠が欠けてゆく感じに、侘びてゆくのだ。
実際に思い起こしてみれば、そうだった。
俺がこの世界に生まれ落ちてからした事は、何もかもが、上手く行っていないような気さえする。
里人らに蛇蝎のごとく嫌われている事は当然として、慧音さんとの関係でさえ、少し前までは俺が借りを返せそうな兆しが見えていたと言うのに、その兆しは、まるで悪質な喜劇にあるように、あっさりと消え去ってしまった。
大体、俺は今、俺一人でさえ、養えていけるか分からないのだ。
野菜の大方を金子に変えてしまった今、里にこれ以上暴利を求められては食っていけないし、その里との関係は、今回の事で一層悪くなっていた。
俺が倒れた後どうなったのか詳しくは知らないが、少なくとも、前以上に良くなっている事だけはありえないように思える。
俺は、これからずっと、寂びてゆく事しかできないのだ。

 そんな事を考えていると、突然、俺は震えるような寂しさに包まれた。
ぶるりと、まだ残暑が残っていると言うのに体が震え、温かさが欲しくて湯のみに手を伸ばす。
とっさに手を出して、急いで持ち上げようとしてから、ふと、先程幽々子さんがしていたのを真似して、ゆっくりと持ち上げて、すすっと茶を啜ろうとしてみるものの、上手くは行かない。
ずずっ、と、幽々子さんのそれと比べると上品とは言えない音を立てて飲んだ茶は、少し温くなっていて、体を温めるのに足らない。
思わず俺は、縋るようにして幽々子さんへ目をやる。
ふと、目があった。

 ふわりと、包みこむような微笑み。
花弁が開くようなそれを見て、俺は呆けたように口を開いてから、何も言わないままに、その口を閉じた。
何故か、目頭が熱くなる。
いや、熱くなったのは、目頭だけでは無かった。
彼女の笑みを見た。
それだけ、本当にそれだけだと言うのに、体全体から、先程の寂しさが抜け落ちたようであるようで――、救われる、思いなのだ。
はぁっ、と彼女に聞こえぬよう、努めて小さな音で、塊のような息を吐く。
瞬きを何度か繰り返し、僅かに歯を噛み締め、すぐそこまで上り詰めていた涙を、飲み込む。
それから俺は、矢張り彼女は、浮世離れしているのだな、と思った。
何せこんなにも簡単に、人を上へ、温かい所へ、連れて行けるのだ。
余程地面との重力が少なく、もしかしたら今足元を見れば、足が無いのかもしれない、と思うほど。

 そんな感慨に浸っている俺に、ぐぐっと、幽々子さんは身を乗り出してみせる。
ふわり、と桃色の髪が舞い、陽光を反射して輝きながら、女性特有の――つい先日までは慧音さん特有かとも思っていた――いい匂いが運ばれてきた。

「そう。貴方には、ある部分からの、過去の自分が無いのね――。
その事を貴方は、どう思っているの?」
「どう、ですか――」

 言われて、俺は虚を突かれる形になった。
と言うのも、不思議と俺は、此処に来てからも、過去の自分と言うものについて考える事が無かったからである。
かつての俺は、何の違和感もなくスッパリと過去の自分を切り捨て、新しい自分を始めれていたような気がするのだ。
勿論、里人らの会議で酷い扱いを受けた時など、何でこんな事になってしまったんだ、と考えなかったと言えば嘘になるが、それぐらいで――。
いや、本当にそうだっただろうか?
よくよく思い出してみると、幻想入りして以来、俺はたまに過去の自分についての事を聞いてみた事があった気がする。
それもぎりぎり自覚できるかできないか程度のもので、言われて思い返してみれば――、と言う程度の物なのだし。
当然、この幻想郷の誰にも、外の世界の俺の事など分かる筈も無かったのだけれど。
と、そんな具合の混沌とした話を伝えて聞かせると、幽々子さんは何か納得がいったのか、そう、と呟いて姿勢を戻し、ぱちん、と扇子を広げる。

「ありがとうね、権兵衛さん。不躾な質問に答えてくれて」
「いえ、滅相もない。こちらこそ、俺が過去の自分を知りたがっているなんて部分が発見できて、良かったですよ」

 でなくとも、何か幽々子さんの抱える事情に役に立てたのならば幸いである。
と言うのは、先程の俺の言葉を聞いて感じ入る幽々子さんの様子が、何処か真剣味の混じった、それでいて初対面のカリスマのあるものとも違う、何というか、素で事情があったように思えたからだ。
どんな事情なのかは俺如きが窺い知れる事では無いかもしれないが、その役に立てたと言うのならば、嬉しい事この上無い。
何せこの人の笑顔は、何と言うか、非常に軽やかで、ふわふわとしていて、兎に角、救われるのだ。
鬱々とした考えに囚われやすく、そして実際に鬱々とした生活を続けている俺にとっては、とてつもなく貴重な人だ。
どうかこの人と、良い関係を続けられたならばいいな、と思いつつ、俺はその後も暫く、昼ごろまで談話を続ける事にするのであった。



      ***



 夜半。
鈴虫の声が庭に響いては消えてゆくのを眺めながら、幽々子は物思いにふけっていた。

 西行寺幽々子には、自分が無い。
言葉を重ねるなら、過去の自分が無い、と言えよう。
何せ彼女は生まれ――と言うか死に始めてからこの方亡霊であり、その瞬間に生前と言う別の自分とは、恐らくハンカチ無しでは語れぬであろう別れを経験してしまい、全く記憶と言う物が無い。
親友の八雲紫やかつての世話役魂魄妖忌に聞く限りでは、容姿と、能力のおおよそは同一であったらしい。
おおよそと言うのは、単に強化され、人以外も死に誘う事ができるようになっただけであるので、ある程度は似ていると言って構わないだろう。
が、他については何も分からない。
何せ誰も生前の幽々子の事を語ってくれないのである、興味本位程度であった幽々子は何一つ、特に性格などについては生前の己を知らないままであった。
別に構わない、と、幽々子は思っていた。
今でも大体はそんな感じである。
生前がどうであろうと今の自分にとっては関係ないし、興味だって話の種程度にしか無い。
大体紫や妖忌だってどれほど生前の自分を知っているかも分からないのだ、そんな事よりおまんじゅうの方がよっぽど気になる。
筈、であった。

 しかし幽々子は、定期的に過去の自分を知ろうとしているらしい。
らしいと言うのは、自覚が無いからである。
自覚のないままに、例えば倉庫を整理する時に、妖夢に何となくと言ってついていっては昔の資料を探してみたり、何度も断られたのと言うのに、話の拍子に紫に生前の自分について聞いていたり、そんな風にしてしまうのだ。
と言っても、それで知る事は殆ど無いに等しい。
何せ自覚が無いのだ、そこには強い意思も無く、意思が強くなければ強固に隠された事実にはまず達し得ないのだ。
しかし兎も角、幽々子には過去の自分がなく、それを無自覚に知ろうとしているらしい。

 権兵衛もまた、同じであった。
妖夢に斬られると言う斬新な方法で白玉楼の客となった彼は、幻想入りする際に名前を亡くし、一緒に過去の自分も無くしてしまったらしい。
しかも幽々子に聞かれて初めて自覚する程度に自覚なしに、過去の自分について知ろうとしていたと言う。
ついでに言えば、幻想入りと言う観点から紫が多少自分を知っているかもしれない、と言うのも同じである。
だからなのかそれとも関係無いのか、幽々子は権兵衛に何処か親近感を感じていた。
朝食の時、妙に気があったのも、それに拍車をかけているのかもしれない。

 権兵衛から名前を亡くした話を聞いた後、一緒にお昼を食べ、ついでに妖夢を弄り、それからまた縁側でのんびりとし、ついでに妖夢を弄り、他愛のない話をし、ついでに妖夢を弄り、夕食をし、そしてまた妖夢を弄って遊んだ。
その間幽々子はずっと、不思議なほどに権兵衛に心を許していたし、権兵衛も、最初は不意に何処か鬱々とした様子になる事こそあったが、徐々に幽々子に襟を開き、先程に至っては、幽々子の思い上がりで無ければ、幽々子と同程度に互いを思っていたように思う。
まるで、生まれついての親友が一人増えたかのような、不思議な体験だった。

 なのに、だろうか。
それとも、だから、だろうか。
幽々子にはある欲望が生まれつつあった。
それは正直に言って生まれて――死に始めてから初めての体験で、それを思うと、普段にこやかなばかりの幽々子の顔にも、赤みが差してしまう。
似たような感覚はあったものの、ここまでの純度の物は初めてだし、それに、これまでに縁あったのは、乙女の恥じらいと言うより淑女の嗜みであったのだが、この頬の赤みは前者であるように幽々子には思えた。
そんなものが自分に似合うとは少しばかり思えなくて、こんな所紫には見せられないな、と、幽々子はため息をついた。
その溜息にも、憂鬱と一緒に恥ずかしさや甘酸っぱさが含まれているかのようで、そんな事をする自分に、尚更幽々子は顔を赤くする。

「――うん、そうね」

 呟いて、幽々子はその気持ちと向き合う事にした。
すぅっと息を吸い、はちきれんばかりになってから、はぁぁ、と息を吐き出す。
深呼吸を終えて、幽々子は目を閉じ、流していた足を正座に戻し、掌を腿の上にやった。
どうしてこんな事を思うんだろう、と、幽々子は疑問に思う。
私は。
何で。
どうして。
こんなにも。
権兵衛の事が。
私は。
私は――。

 何で私はこんなにも、権兵衛の事を死に誘いたいのだろう、と――。




あとがき

感想来たらキュンキュンきたので、一週間で出来ました。
次は妖夢のターンからかと思われます。



[21873] 白玉楼2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/10/03 17:56

 魂魄妖夢は剣士である。
故に斬るべき時は迷いをも同時に斬っているし、だから今まで、斬れなかった事を後悔する事はあっても、斬った事を後悔した事は一度も無い。
斬るべきでは無かったモノを斬ってしまった時も、それは斬る事により知った事実がある以上、正しいのだと信じてきた。
斬る事を失敗したとしても、斬ろうとした事により生まれた事実がある以上、正しいのだと信じてきた。
それは今の所、ずっと変わらないでいる。
何時しか鬼に、それは師の教えを理解していないと言われたが、それでも変わらないまま。
だから今回、権兵衛の事を物取りと勘違いして斬ってしまった事も、申し訳ないと思いながらも後悔はしていない。
してはいないのだが。

「………………」

 明朝の白玉楼。
肌を切るような冷たさの外気に身を晒し、妖夢は白楼剣を手にしていた。
普段腰にある短刀を右手に持ち、上段に持つ。
そも、迷いを斬る短刀である白楼剣は、威力を求めて斬る剣では無い。
それ故に常には上段に構える事はあまりなく、更には迷いを“斬る”ので突きには向かず、何時でも手首で返せるように小さく斬るのが基本であるが、今は違った。
斬るべき迷いは、己の中にあった。
である故に、この行為は、空気中の迷いを斬る事で、己の中の迷いを具現化せんと言う行為である。

「――っ」

 上段、袈裟斬り。
受けるのも避けるのも難しい、完全な殺傷より斬り裂く事を目的とした一撃。
空気を割り、空気中の迷いを斬り、風音を立て、ピタリと切っ先は震え一つ無く停止する。
しかし斬られた部位の迷いは迷いの真空となる事はなく、刀の後を追うように空気中の迷いが侵入し、斬る前よりむしろ雑然とした迷いが、空気中に漂った。
踏み込んだ足が、じり、と、土を盛る。
切っ先をそのまま上げる裏切上、無限の字のごとく刀が滑り、表切上。
しかし迷いは絶たれた先から埋められ、ただ混ぜっかえされたかのごとく、エントロピー増大の負の連鎖を見せつけていた。
ここ数年、最近の冥界と似た事実であり、至極当然の結果である。
そも、妖夢が断つべきは空気中の迷いではない、己の中の迷いであり、迷いを斬る感覚により己の中の迷いを斬る方法を見つける事だ。
だが、いくら空気を斬っても斬っても、妖夢の中から迷いは消えなかった。
それどころか、ふつふつと膨れ上がる迷いはその量を増すばかりで、消えるどころでは無い。

「………………ぁ、ぅ」

 それに対して弱音を吐こうとして口を開き、しかしそれもまた迷いを増す行為であるように思えて、妖夢は結局何も言わず、言葉ともとれぬ言葉を吐き出すだけで、口を閉じる。
問題は、妖夢が権兵衛を斬った事にあった。
否、もっと正確に言うならば、妖夢が権兵衛を斬った行為自体ではなく、斬った感想にあった。
なぜなら。
魂魄の剣は、迷いを断つ剣である。
迷いの絶たれた正しい世界には、真実が見える。
だから剣は真実を知るために振るわれ、剣は真実を教え、そして剣の主は真実へと至る。
それが魂魄の剣の道理であり、少なくとも妖夢は、そう信じていた。
その道理はストレートな妖夢の性格に合っていたし、だから、この数十年ほど、妖夢はその道理を信じてきた。
魂魄妖忌もそれについて何も言わなかったし、それは己が正しいからだと妖夢は思ってきた。
主である幽々子には半人前と言われてしまうが、それはまだまだ真実を斬り足らないから、真実を知り足らず、故に半人前と称されるのであると妖夢は思っている。
それはとても純粋で迷いの入る余地の無い思いで、少なくとも、妖夢が権兵衛を斬るその瞬間までは、それが妖夢にとって唯一にして最大の真実であるように思われた。

 だが、それは今、崩されていた。
真実は斬って知る。
だから斬って得られる物は真実の他に何もなく、真実とは迷いの絶たれた明らかな物であるのだから、迷いもまた、ない、筈。
しかし妖夢は、権兵衛を斬った時、他に何か得た感覚があったのだった。
それが何かは、今はまだ、妖夢には分からない。
しかし少なくともまだ明らかでない物であり、つまり迷われた部分のある物と言う事で、空気中の迷いを斬る事でそれを知り、そして斬ろうと思っていたのだが、それは今の所全くもって上手く行ってなかった。
とりあえず、と、妖夢はむき出しの白楼剣を納刀。
代わりに、権兵衛を斬った剣である、楼観剣を抜刀する。

 まず妖夢は、常の通りに楼観剣を左手にとり、権兵衛を斬った時と同じように、逆胴に打ち込む。
空気分子が迷いと共に絶たれ、風の音がそれを知らせる。
あの時こうした事は、間違いである。
何故なら権兵衛がその実物取りではなく、しかも幽々子と気の合うような、暖かな善人だからだ。
しかし同時、あの時こうした事は、間違いではない。
何故なら妖夢は斬る事により、そういった真実を得たからである。
逆に斬らねば物取りと知った者を見逃す事になり、それは当然、正しくない事となる。
更には権兵衛を言う人を知らぬままであり、物取りだからと言って確証の無いまま斬る事の間違いをも、知らぬままであった。
故に妖夢は権兵衛を斬った事を申し訳なく思うと同時に、ある部分、肯定する。
そこまではいい、魂魄の剣の道理の通りである。
真実は斬って知る。
妖夢は斬って真実を得た。
斬撃とは、それだけであるべきである。

「……だけど」

 だけれども。
それだけでは、無かった。
あの時妖夢は、何と言うか、表現すべき言葉が見つからないのだが、奇妙な感覚をも得ていたのだ。
心の痛みだとか、罪悪感だとか、少なくともそう言うのではない、と、妖夢は思う。
それは斬撃の後に来る物であり、その感覚を妖夢は知っており、だから違うと分かる。
では果たして、何だったのだろうか?
その奇妙な感覚は、確かにあったと言う記憶はあるのだが、試しに権兵衛を斬った時を再現してみても、蘇らない。
ただただ追憶の中にあるだけで、その掌に必ずあった感覚は、まるで幻であったかのように、掴めない。
斬れない物はあんまりない、とはかつての妖夢の言であったが、幻もまた、今の妖夢には斬れず、真実を知れない物である。

 じりり。
土を踏む、音がする。
その体重から誰が来たのか察し、あーあ、と妖夢は内心で呟きながら、楼観剣を納刀した。
結局その謎の感覚は分からないままに、妖夢の朝の鍛錬は終わりである。
どうすれば分かるのやら、と、ため息混じりに内心で呟くと、その人物の方へと振り向いた。

「おはようございます、権兵衛さん」
「あぁ、おはよう妖夢さん。えっと、訓練の邪魔になっちゃったかな?」

 そんな事はありませんよ、と返しつつ、妖夢は近づいてくる権兵衛に、ぴん、と左手の人差指を立てて言う。

「それより権兵衛さん、朝から散歩と言うのは健康的で宜しいですけど、自分が怪我人だと言う事を、忘れてませんか?
もし、何かのはずみで怪我が開いたら、どうするんですか。
何処に居るのか分からないんじゃあ、助けられようが無いじゃないですか」
「いやぁ、ごめんごめん、ちょっと昔に、夜の散歩が日課だった頃があってさ、なんだか朝目覚めてみると、それが懐かしくって。これからは自重するよ」

 頭を掻きながら言う権兵衛は、非常に優しい人だ、と妖夢は思う。
何せ物取りと間違えて腹を斬られて、それで土下座されただけであっさり許してしまうなど、お人好しにも程が過ぎる。
その上、他人の事は兎も角自分の事にはだらしない所があり、長時間目を離すのはぞっとしない、案外手のかかる人である。
だと言うのに、遣る方無い事に、この男、幽々子と共に妖夢の事をからかってくるのだ。
その辺少し幽々子に似ている所があるが、しかし幽々子と違い、権兵衛の方は考えている事が結構分かりやすく、しかも、何と言うか、「全くもう、仕方が無いなぁ」と思わせるような感じの人なのである。
その仕方が無いなぁも、呆れると言うよりは親しみを感じさせるもので、そう、何だか、世話焼かれ上手な男なのだ。
当然世話焼き上手の妖夢としては好感を抱かぬ筈も無く、反面、斬ってしまって本当に申し訳ない人なのであった。

「えっと、じゃあ、そうだな、ちょっと妖夢さんに聞きたい事があるだけど、いいかな」
「? どうしたのですか?」

 内心で自省を新たにしていた妖夢であったが、権兵衛の言葉に、面を上げる。
それが目的で散歩していたのだろうか、と思いつつ、耳を傾けるに努める。

「妖夢さんは昨日、いや一昨日になるのか、俺が君を許した時にだ、幽々子さんは君に、自分で罰を考えるように言っただろう?
その、もし邪魔でなければなんだけど、その罰を考える事について、俺が何か、力になれれば、と思って」
「………………貴方って、人は」

 開いた口がふさがらない、とはこの事か。
一体この人はどこまで人が良ければ気が済むのだろうか、と、妖夢は呆けたままに思う。
なんだかもう、この人を放っておくのは、それだけで気が引けるように妖夢には思えてきた。
何せお人好し過ぎて、頼まれれば自分の生活を削ってでも、どんな事でも出来る事ならしてやろうとするのではあるまいか。
呆れると共に、自分の世話焼き心がびんびん刺激されるのを感じながら、やっぱり、仕方ないなぁ、と妖夢はため息をつくのであった。

「全くもう、幽々子さまは私が自分で罰を考える事として、あの場を収めたのです。
だから貴方の力を借りては、今度は、貴方の許しを受け入れた事までもがなくなってしまうし、やっぱりそれは、正しい行いではありません。
と言うか権兵衛さん、貴方は他人の前に、自分の事を考えてくださいよ。
料理を全然できないのも勿論、お作法だって、昨日、嫌い箸を一杯してたじゃないですか。
せめて、此処に居る間に、お食事の作法ぐらいは覚えていってもらいますからねっ」
「うっ……」

 やっぱ来なけりゃ良かった、と言う感じに呻き声をあげる権兵衛に、内心でちょっと妖夢の心が晴れる。
何せ幽々子の方はたまに注意する事があっても、それが通じているのかどうかすらも掴み所が無く、注意のしがいが無いのだが、こうやって反応を得られると、自分が矯正してあげなきゃ、と言う気持ちがもりもり湧いてくるのである。
何せこの人は、お布団を畳むのもちょっとだらしない形になってしまうし、着物の着方だって、何だかよれっとしている部分がある。
そのくせ他人の手伝いは得意なようで、食事の時など、お代わりなどで妖夢が席を立っている後ろで、幽々子の欲しい食べ物を目で察して取り分けてやる所など、実に堂に入ったものであった。
全くもう、と、もう一度心の中で唱えながら、半歩下がる権兵衛に、微笑みながら妖夢は声をかけた。

「さて、そろそろ朝食の用意を始める時間です。
途中まで送りますから、大人しく部屋に戻ってくださいね」
「……はい」

 しゅん、と項垂れた権兵衛を見ると、幽々子と一緒にやりこめられた仕返しができたようで、ちょっとだけ嬉しい。
口角をもう少しだけあげながら、先に歩みだす権兵衛の背へ追いつこうと、妖夢は歩き始める。
その際体からすっと力を抜き、自然体になる。
チン、と、音がした。
ふと音源を見れば、右手と右手が握る楼観剣の鞘であり、音の種類は金属的で、丁度鍔鳴りの音であったかのように思えた。
至極当然、力が抜ける以前は楼観剣は鞘に収まっていなかったと言う事になり、つまり、それは。
ごくりと、思わず妖夢は唾を飲む。
今自分は、一体何をしようとしていた?
楼観剣を鞘から覗かせ、一体権兵衛をどうしようとしていたのだ?

 息を吸うのが、酷く重苦しいように妖夢には感じられた。
肺が重力に引かれ下がるような感覚を得ながら、妖夢は、思う。
もし。
もし今自分が楼観剣の鯉口を切っていたなら、多分、あの奇妙な何らかの感覚を得ていただろう。
それは果たして、そのはっきりしない感覚を確かめたいだけなのだろうか。
それだけの為に、無意識に、あのお人好しで世話焼かせ上手な権兵衛を、斬ろうと思えるのだろうか。
ひょっとして、あの感覚を確かめたいだけではなく、単に、あの感覚それ自体を得たいと思ってしまったのではないだろうか。
もし、そうなのだとすれば。
何度も繰り返したいと思い、欲求を刺激する感覚の名を、妖夢は知っている。
だから、思うのだ。
思って、しまったのだ。

 ――魂魄妖夢は、権兵衛を斬る事で、快感を得ているのではないだろうか。



      ***



 白玉楼の滞在も三日目になる。
流石に俺も此処の間取りを覚え始めてきて、ついつい昔の――と言っても、俺は生まれ変わって半年なのだが――ように散歩に出てしまい、ついでに妖夢さんの自罰に関して手伝える所があれば、と彼女を探してみる事にした。
見つけたのは、剣の鍛錬に打ち込む妖夢さんだった。
成程、幽々子さんへの剣の指南役、と言うのも納得できる、凄まじい剣技であった。
感心しつつも、邪魔をしてしまった事に悪い気がしつつも、何か俺にできる事は、と聞いてみた所、俺が世話をするどころか、むしろ自分の心配をしてくさい、大体貴方は云々、と説教をされてしまい、逆に世話を焼かれてしまったようで、参ったなぁ、と思いつつも朝食に集まり、終えた。
食後のお茶を愉しむ幽々子さんに付き合うと同時、洗い物を手伝える身分に無い事がなんだか体が痒いような感じで、楽だから良いのやら、心が焦れて悪いのやら、複雑な感じを幽々子さんの笑顔に癒されている所であった。
洗い物を終えて戻ってきた妖夢さんが、すっと腰をおろすと、幽々子さんへ向かって言う。

「幽々子さま。少々、お話があるのですが」
「何かしら、妖夢?」

 言葉をかける妖夢さんの表情は、何やら深刻そうな顔であった。
さてはて、妖夢さんの深刻な事情と言うと、俺の知る物では自罰についての事であり、それは朝に手伝う事を断られた事であった。
もしかして既に決めてあったから俺の助けが要らなかったのかと思うと、安心する反面、手を貸せなかった事が歯痒くもあり、内心複雑である。
それはともかく、この場合俺はこの場に居ていいのやらどうなのやら、とりあえず腰を浮かそうとするものの、妖夢さんがすぐに居て構いません、と制するので、浮いた腰を落とす次第となった。
とりあえず事情が分からないので、妖夢さんと幽々子さんの顔を視線が行き来する事になる。

 妖夢さんの方は、触れれば斬れるような、真剣のような面立ちだった。
常の青い瞳を幽々子さんへ真っ直ぐと向け、口はびしっと一文字を描いており、姿勢を見ると、礼儀正しく正座している筈なのだが、何処か前のめり気味な感慨を受ける。
対する幽々子さんは、余裕ある表情のままであった。
柔和な線を描く眉と共に血色の瞳で妖夢さんの視線を受け止め、悠然と構える様は、まるで大きな山のように存在感があり、女性に言うには不的確な比喩であるのだが、どっしりと構えている。
とか思ったら一瞬ジト目で睨まれたしまったので、思わず目を見開きながらも、軽く頭を下げておく事にした。
などと馬鹿なやり取りをしているうちに、覚悟が決まったのであろう、妖夢さんが重い口を開く。

「刀を――絶たせていただきたい」

 思わず、視線を妖夢さんの腰の二刀にやってしまった。
刀を。
朝、あれほど見事な太刀筋を見せていた、刀を。
どれほどの年月を注ぎ込まれればあれほどの剣技を成せるのか、素人目にもそれが絶大な物と分かるほどのそれを。
断つ、とは。
一体どんな決意を持ってなされた言葉なのか、測りかねる俺を尻目に、幽々子さんが言った。

「それは……先日言った、貴方自身で考える罰なのかしら?」
「いえ。それとは別に、理由があるのです」
「なるほどね」

 うんうん、と、何か納得したように幽々子さんは頷くのだが、俺にはさっぱり分からなかった。
自罰でないのなら一体どんな理由で、刀を断つなどと言う事になるのやら。
それで通じ合っているのなら俺も主従の深い関係故なんだなぁ、と軽い嫉妬を覚えつつ眺めていられただろうが、妖夢さんの方も、説明を求められると思っていたのだろう、肩透かしされたような表情だった。
矢張り幽々子さんは、時々分からない。
割りと気の合う方だと俺は思っているのだが、それでもこういった、ふわふわした感じの良く分からない言葉が出てくる事がある。
だからと言って俺が彼女に感じる好感は一片足りとも削れる訳でも無いのだが、少し寂しい物があると言われれば否定できない。

「構わないわ」

 と、短く幽々子さんは告げた。
そのあっさり加減に妖夢さんは目を白黒させているようだったが、暫く間を置くと、ありがとうございます、と幽々子さんに頭を下げ、退室する。
さてはて、結局のところ、俺には何の事情も分からなかった。
何やら深刻そうな事情であるので、可能であれば協力をしたいのだが、事情の中身が分からなければそれも叶わず、そも、俺が手を出す事そのものが害悪となる可能性すらある。
なにより、それを幽々子さんへ聞いて事情へ立ち入ろうとする事が、不躾ではないかと言う不安もあった。
俺はこの三日、まるで家族のように親しく二人に歓迎してもらえたのだが、それでも真実に同じ家に住む家族では無く、外部の客と言う立場である。
であるのに家族の間にあるのかもしれない深刻な問題に立ち入って良いかは、疑問だ。
と言っても、そればかりは問題を把握しているらしい幽々子さんへ聞くしか、俺に知る手段は無い。
何せ人の心の問題には随分長いこと付き合いが無く、と言うのも、そも人間の顔を見る頻度すら低い物なのだから。

「幽々子さん。その、少々聞いていいでしょうか?」
「何かしら? 権兵衛さん」

 幽々子さんの言葉は相変わらずの暖かな調子を保っていて、それに俺の不安は、僅かながら和らげられる。

「妖夢さんが刀を断つ、と言う事なのですが。
気まぐれだの訓練だので言ったんじゃあなく、多分彼女に何らかの問題があって、その解決の為に刀を断とうとしているぐらいは分かります。
その、お世話にもなりましたし、出来る事なら、俺は、彼女の力になりたい。
でも、何せ俺は彼女が刀を持つ理由さえ聞いていないので、それに俺が立ち入って良いものなのかすら、分からないのです。
もし分かっておいででしたら、俺が彼女の力になろうとする事が、彼女にとって害悪になるかどうか、教えて頂けないでしょうか」

 幽々子さんは、ぱちん、と音を立てながら、扇子を開いた。
口元を隠し、柔和そうな瞳で俺を見ながら、扇子を左右に揺らす。

「……つまり権兵衛さんは、許される事であれば、妖夢の力になりたい、と」
「はい」
「なら、権兵衛さんが妖夢の事をどう思っているのか、聞かせてもらえないかしら」

 表情は穏やかなままであったが、言葉の調子は、僅かに鋭い物が混じっていた。
俺は、きっとこれが正念場になる、と内心で言い聞かせ、胸をはる。

「俺は然程頭が良くないので、一言には纏められないですが。
そうですね、真っ直ぐで、その目の前では、背筋を伸ばしていたくなる子だと、思っています。
と言っても、妖夢さんからするとまだまだ背筋が曲がっているみたいで、何時もお説教されてしまいますけれど。
でも、その何倍も世話になっていて、だから、叶う事ならばその分の恩を返して、対等に、目の前に立っていたい子だと。
できる事なら、友人としてありたいと、思っています」

 それは、本心だった。
勿論俺が彼女に劣等感を感じているのも事実だし、それ故に顔を合わせると自分が浮き彫りにされるようで、心苦しい部分があるのも確かだ。
しかしそれ以上に、俺は彼女の真っ直ぐさに感銘を受けていたし、細かい事で世話になって恩を感じていた。
だからそれに対して恩を返したいと思うし、彼女に精神的に何か問題ができたと言うのなら、それを解決できるよう力を貸したいと思っている。
俺の言葉を受け取り、幽々子さんが、目尻をすっと下げた、ような気がする。

「くすっ、なら私は友人と思われていないのかしら。それじゃあ私の心も荒野そのものよ、ぐすん」
「いえいえ、とんでもない、叶う事なら友人でいたいと思っているし、幽々子さんの心の潤いとなりたいと思っていますよ」
「なら、人生の友情を確かめ合おうかしら?」
「昼間からとは風情がありますね、と言いたい所ですが、このまま妖夢さんを追いかけたいので、遠慮しておきますよ」
「あらら、乾杯は次の機会にね。じゃあ、妖夢の所へいってらっしゃい」

 およよ、と口元を着物の裾をで隠す幽々子さんには申し訳ないが、実際、このままお酒を飲んで記憶を無くす訳にはいかないので、勘弁してもらう事にする。
と言うか、昨日飲もうとしたら妖夢さんに怒られたし。
臓器が傷付いたばっかりだろう、って。
兎に角妖夢さんを追いたいので、席を立ち、一度礼をすると、俺は襖を開けて、とりあえず朝見かけた辺りを目指して歩き出す事にする。
後ろ手に襖を閉める時、ふと、こんな声を聞いたような気がした。

「そう。なら、いいわよね」

 何が良かったのかよく分からないが、幽々子さんにとって何かが良かったのなら、とりあえず良かったのだろう、と結論づけ、俺は妖夢さんの方へと向かう事にする。



      ***



 幽々子は、妖夢の所へかけ出していった権兵衛の後ろ姿を目で追った後、ふぅ、とため息をつきながら縁側へと視線を向けた。
白玉楼はコの字型に庭を囲んで造られた屋敷であるので、どの部屋からでもよく整備された庭が見え、この部屋からも玉砂利が敷き詰められ、桜の木々が青々と茂る庭が見える。
その静けさに心を落ち着かせながら、権兵衛の前では隠していた、僅かに赤くなった頬を顕にする。
もう一度、ふうっ、と、ため息。
逃げてゆく幸せ以外にも甘酸っぱさがたっぷりつまったそれを空気中に放出しながら、幽々子は考える。

 妖夢が刀を断つと言うのは、理由まで分からないものの、妖夢の顔を見れば彼女が迷いを持った故の言葉であった事が分かる。
であれば、これは妖夢の人の部分が成長するのに必要な事なのだろう。
なので、幽々子としてはこれで妖夢がどうなることかについては、あまり心配していない。
権兵衛も居る事だし、妖夢は妖夢なりに考えて、何らかの答えを出すだろう。
あの子はいつもそんな真っ直ぐな子だ。

 それより問題は、と幽々子は思う。
幽々子が権兵衛を死に誘いたい、と思っている事だ。
そも、幽々子が人妖を死に誘おうと思う事は、そこそこ頻繁にあった。
あったと言う事は過去形であり、死に始めた時に浮かれてついつい命を死に誘いまくった頃があっただけであり、実のところ最近はそうでもない。
さて、その死に誘う理由だが、いくつかある。
好奇心から、と言うのが頻繁だった頃の主な答えであったが、それ以外は、親しくなった命を寿命やら何やらで逃すのが嫌で、なら死に誘い、閻魔の裁判を省略して冥界に住まわせればいいではないか、と言う事からが多い。
その他にも気になったから何となくとか、割りと我侭な理由も多いが、兎も角として、親しさがその理由である事が多い事が事実である。
ならば権兵衛に対して死に誘いたい理由は、それ故なのか。

 違う。
少なくとも、それだけでは無い、と、幽々子は思う。
と言うのも、もしそれだけであったらとっくに幽々子は権兵衛を死に誘い、冥界の住人としているだろうからだ。
その程度には幽々子は我侭な生き方――死に方をしてきたし、それはこれからも変わらないだろう。
だが、権兵衛を死に誘うのに、幽々子は未だ躊躇をしていた。
そしてそれは、何というか、初体験の感情であるので、幽々子にはまだどうにも処理できないのである。

 全く、妖夢を半人前なんてばかり言ってられないわね。
内心でつぶやきつつ、胸の内よりは温度が低いだろう、温かいお茶を嚥下する。
それでも体がぽっと暖かくなるのは止められず、亡霊だと言うのに今の幽々子の体温は少し高い。

 ならば、と幽々子は権兵衛に対して抱いている思いを、分析してみる事にする。
親しみは、ある。
それも長い付き合いの紫と肩を並べるぐらいに、不思議と幽々子は権兵衛に心を許していた。
彼とお茶をするのはそれだけで心おどるし、会話も一度飛び交い始めればぽんぽんと調子よく出てくる。
酒の方は、まだ彼とは体調を理由に交わしていないが、それは世にも楽しい事になるだろうと言う予感があるし、それを思うと存在しない筈の胸の鼓動が主張してくる。
それになにより、沈黙が全く苦痛では無いのだ。
二人で縁側に座り、間に茶と茶菓子を置いて、蝉の鳴き声一つしか無い沈黙を聞くだけであっても、体温がすぐ隣にあると言うだけで、何だか心がほっとする。
時たま視線が絡まりあうのも、茶菓子に伸びた手が絡むのも、何処か暖かく、心地が良い。

 では、他に感情は何を持っているのか。
う~んと首を捻ってみるが、思いつかない。
そりゃあ権兵衛が自分と同じく過去の自分が無いと言うのは親近感を感じる事だが、それ以外の感情を感じる物では無いのだし。

 ならば逆に、どんな感情を持っていれば、権兵衛を死に誘いたくも誘わない、と言う事になるのだろうか。
とりあえず、今すぐに権兵衛を死に誘う事を想像してみる。
見た所霊力や何かの資質は中々ありそうな男であるが、少なくとも今はそれは開花しておらず、ただのなんてことない人間だ、死に誘うのは簡単だろう。
恐らくは何の抵抗もなく権兵衛は亡霊になり、閻魔の裁判を通る事無く冥界に在住する事になるだろう。
ちょっと足が無くなり下駄の音を響かせる事が出来なくなるかもしれないが、困るのはそれぐらいで、ここ数日と変わらぬ毎日が続くに違いない。
一緒にお茶を飲んで、ご飯を食べて、妖夢を弄り倒して……。
それらが期限付きではなく永遠にできる事になるのだ、権兵衛も歓迎してくれるに……違い、無い、だろうか?

 突如生まれた疑問詞に、幽々子の記憶が蘇る。
親しくなった相手と寿命のない付き合いをしたくて死に誘った事は、両手の指では数えきれない程度にはある。
中には当然のごとく幽々子と仲良しのままの相手も居たが、中には逆に幽々子を蛇蝎のごとく嫌うようになった相手も居た。
そんな時は幽々子としては不愉快なので、その相手の事を忘れるなり、輪廻の輪にぽいっと戻してやるなりする事で対処してきたのだが。
よくよく思えば、権兵衛もまた、幽々子の事を嫌う可能性があるのではないだろうか。

「――あっ」

 それは天啓に似ていた。
すっと幽々子の頭の中が晴れ渡り、今まで疑問と言う雲が覆っていた青空が一面に広がったような気さえする。
そう、幽々子は、あの天衣無縫の幽々子が、権兵衛に嫌われたくない、などと言う事を思うようになってしまったのだ。
先の乙女じみた動作さえも自分に似合わない、と思っていた幽々子であったが、これもまた、重ねて幽々子に似合わない所業であった。
西行寺幽々子は典雅で自由で何物にも縛られない女であった筈で、例え親しい相手でもどんな反応があるなんて考えるより先に、ずっと話せるようにと死に誘うような自分勝手な女な筈なのに。
なのに。
今はたった一人、なんてことないただの外来人相手に、嫌われる事が怖かった。

「あら、あら」

 思わず赤くなる頬を片手で抑えながら、湯のみに手を伸ばし、喉を湿らせる。
火照った思考を冷まそうとした行為であったが、お茶が温かいのが悪いのか、一向に思考が冷め止む気配は無い。
そればかりか、どんどんと体が暖かくなり、残暑も残り少ないと言うのに、幽々子の体はじんわりと汗を滲ませていた。
肉と肉の間を汗が滑り落ちてゆくのが、強く感じられる。
ほうっ、と吐いたため息には、さっきから甘酸っぱいものが含まれていて。
もしかして、これは、これは――。

「私は権兵衛さんに、嫌われたくない」

 ぽつりと、幽々子は口に出して言った。
ぶるり、と、今度は体温が下がったかのような錯覚に、幽々子は体を震わせた。
権兵衛、あの人の良い権兵衛が誰かを嫌う所など想像もつかないけれど、だからこそ嫌われてしまえば、人が変わったようになるのではないかと思ってしまう。
まるで、今までの数日が灰色になってしまうような、酷い変わり様に。
そんな想像をするだけで、幽々子は自身の体温が下がってしまうような錯覚に陥った。
亡霊だから常より体温は低い筈なのだけれど、それよりも幾度か余計に。
それは今までの熱に浮かされたような感覚より、常日頃に近い筈なのに、忌避感が募る。
だから、すぐに次の言葉を幽々子は口にした。

「あぁ、でも」

 と、言ってから、幽々子は次の言葉を探した。

「権兵衛さんは、言っていたわよ、ね」

 叶う事なら友人でいたいと思っているし、幽々子さんの心の潤いとなりたいと思っていますよ。
先の権兵衛の台詞を小声で反芻すると、再び幽々子の中に暖かな物が戻ってきた。
大丈夫、権兵衛は幽々子と友人でいたいと思っているし、潤いとなりたいと思っているのだ。
だから、大丈夫。
きっと死に誘ってあげても、笑って許してくれるに決まっている。
そう思うと、幾らか気が楽になるのを幽々子は感じた。
同時、権兵衛を死に誘おうと言う気持ちも、再び湧き出す。
そう、きっと権兵衛は死に誘っても許してくれる。
ならこの決心が揺るがぬうちに、権兵衛を死に誘うべきではなかろうか。

「時は金なり、かしら?」

 呟き、幽々子はふと人差し指で己の唇に触れた。
何故だか、己の唇に触れながら、権兵衛の唇を想像しているだけで、幸せになってきてしまう。
全くはたしないこと、と、自戒しつつも、幽々子は高まる体温に、うん、と呟いた。
もう一度、今度ははっきり口に出して。

「うん、決めた」

 すっと、幽々子の視線がちゃぶ台の上から昇ってゆき、外の、青々とした桜並木の交じる空へと向けられる。
決めた。
今は権兵衛が妖夢の相談に乗ってやっている頃だろうが、それが一区切りつく頃にはきっと権兵衛の傷も治っているだろう。
そして権兵衛が帰ろうとするだろうその時に、権兵衛を死に誘う。
冥界から出ぬままに、ずっと一緒に居られるように。
権兵衛は人の良い男だ、きっと妖夢も喜ぶだろう。
三人一緒に過ごす日々は、間違いなく楽しい物に違いない。

「楽しみだわ~」

 目尻を下げながら言うと、幽々子は再びお茶を啜り、その時が来るまで権兵衛の事を想って過ごす事に決めた。
何せ権兵衛ときたら万能で、居る時は居る時で素晴らしい時間をくれるのだが、居ない時は居ない時で、表情筋を自由にしながら権兵衛を思う時間もまた、格別に素晴らしい物であるのだから。



      ***



 人生を学校に例えるなら、そこでは幸福より不幸がよりよい教師とされると言う。
であらば、俺はよっぽど出来の悪い生徒であったのだろう。
どう少なく見積もっても幸福と同程度以上の不幸を味わっていると思うのだが、相変わらず、俺は人生と言う物に理解が足りず、人の問題に立ち入る事などできる精神的な力量は無かった。
それらの事実は、残念ながら俺であるから仕方ないの一言で説明が済ませてしまえる事実なのだが、問題は、だのに俺が今妖夢さんの抱える問題に手を貸そうとしている事である。
三人寄れば文殊の知恵とも言うが、難易度が高く回答の限られない問題は、多数の市民では無く限られたスペシャリストに解かせるべきとも言う。
さてはて、俺ごときには妖夢さんの刀を断つと言う話がどちらに属する問題なのか分からないが、しかしせめて前者である事を願いながら、妖夢さんの元へ向かう次第となった。

 縁側、朝と同じ庭の辺りを見渡す場所。
そこに妖夢さんが一人じっと正座しており、その腰には常にあった筈の二振りの刀は見受けられない。
刀。
俺を、斬った刀。
その事が妖夢さんの問題とやらに関連しているのであれば、恐らくは俺が対話する事で力にはなれると思うのだが――。
とりあえずそんな事は妖夢さんと話し始めてから考えれば良いので、俺は考えに耽ろうとする頭を振り、お盆の上にお茶を二杯入れて持って行く。

「妖夢さん、ちょっといいかな。お茶を入れてきたんだけど」
「あっ……はい」

 と、驚いた様子の妖夢さんを尻目に、妖夢さんとの間にお盆を置き、尻の下に座布団を敷いて座る。
しかしここに来てから、驚いた様子の妖夢さんばかり見ているような気がする。
はてさて、俺の何処がそんなに不思議な所なのだろうか、と内心首をひねりながら、まずは一口、お茶を口にする。
我ながらそこそこ美味い茶を入れられたと思うのだが、妖夢さんはと言うと、視線をふらふらさせて、兎に角俺を視界に入れないようにしながらすっと口にしただけで、お茶の味まで感じる余裕があるようには思えなかった。
俺の存在が妖夢さんにそうさせていると言うのは心苦しいのだが、しかし、かと言って口火を切らせる訳にもゆかないので、俺から口を開いた。

「妖夢さん、刀を絶った、と言う事なんだけど」
「あう」
「もしそれが何らかの問題があるからであって、もし、その問題に俺が力を貸せると言うのなら――、力を貸させてはもらえないかな」

 本当に微力なんだけれど、と付け加えて言うと、これまた畏まった様子で、妖夢さんはあたふたと視線を跳ねさせる。
こんな時、俺はこんな風に真っ直ぐにしか言葉を発する事ができない俺が、恨めしい。
もう少し語彙があれば回り回って妖夢さんに畏まらせず、リラックスさせた上で話を聞けただろうに。
それでなくとも、幽々子さんのようにふんわりとした雰囲気があれば、それだけでも。
望むべくもない事であるのは、事実なのだけれど。
と、俺の思考が何時もの陰鬱さに浸っている間に、妖夢さんが体制を立て直したようであった。

「その、ですが」
「うん」
「こう、刀を断つ理由と言うのが、ですね。ちょっと、権兵衛さんには聞かせられない類の物でして」

 眉を下げてしまうのを、俺はどうにか自制できていた、と、思う。
努めて和やかな――幽々子さんを思い出して、そんな雰囲気を作れるようにしながら、俺はこう返した。

「そう、か――」

 しばし間をおいて、俺はお茶に口をつける。
ちょっと予想していたのとは違う答えだった。
多分自分以外に聞かせる事に問題があるとか、そう言う話になるかもしれない、とは思っていたのだけれど、俺限定とは。
矢張り俺を斬った事を関係があるのだな、と思いつつ、しかし、ならば仕方ないと俺は自身を納得させる。

「なら、もし少しでも誰かに相談できる事があったら、俺でなくてもいい、その時は話してくれるかな。
君は真っ直ぐな子だから、誰かに聞くべき事は聞くだろうと思うけれど、それでも一応はさ」
「あ、はい……」

 縮こまってしまう妖夢さんに、これじゃあ妖夢さんを恐縮させに来ただけみたいで、何とも言えない気分になってしまうが、それも仕方ない。
とりあえずお茶をずずっと啜り、相変わらず上品な音が出せない事に内心凹みつつ、暫く間を置いてから立ち上がろうとした矢先のことであった。

「あ、あのっ、権兵衛さんっ!」

 身を乗り出すように突然叫んだ妖夢さんに、俺は動きを止める。
不謹慎な話なのだけれど、こうやって必要とされていると思うと、救われた思いだった。
と同時、何とも言えない気分になる。
と言うのも、俺はそも妖夢さんの助けとなるべく来た筈だのに、何故だか俺の方が妖夢さんの動作に救われているのだ。
これじゃあ、あべこべだ。
あべこべ、と言う言葉から一頻り出会い頭のやり取りを思い出し、ついでに妖夢さんの「みょん」を思い出して含み笑いを内心に浮かべ、それから俺は腰をおろした。

「なんだい、妖夢さん」
「その、例えば、例えばなんですけども」
「うんうん」
「魂魄の剣は、真実を知る為にだけあります」

 と、妖夢さん。
なんでも、真実は斬って知る、斬って真実を得た、斬撃とはそれだけであるべきだ、と言うのが妖夢さんの剣の理念の解釈らしい。
と言うか、妖夢さんの、魂魄の剣の解釈だとか。
俺の知る剣の理念など一撃必殺ぐらいで、他に比較するものすら無いので、とりあえず頷く事しかできない。

「で、です」
「うん」
「なのに斬る事に快楽を覚えてしまったなら――、どうすれば、いいのでしょう」

 ?
疑問詞で、頭の中が一杯になる。
えーと、これは、どういう事だ。
意味不明だった。
何時ぞや、氷の妖精が背負った釣竿の先の蝶を追って、目の前に人参を用意された馬のごとく、無限に前進し続けているのを見た時以来の意味不明度だった。
とりあえず俺は湯のみを傾けお茶を口に含み、一旦疑問詞ごと頭の中身を飲み込むに努める。
で、だ。
つまり、その、妖夢さんらしくストレートに解釈するならば。

「妖夢さんは、俺を斬るのが愉しかった――?」
「え!? い、いや、そういう訳じゃあないんですよ? ほ、ほら、ただちょっと、その、喩えって奴ですよ、喩え」
「………………」

 妖夢さん、分りやすすぎだった。
何と言うか、ストレートど真ん中過ぎやしないだろうか。
思わず呆然と開いてしまった口を、両手を使って閉じながら、しかし、と俺は思う。

「妖夢さんは、俺を斬るのが愉しい」
「い、い、いえ、違います、よ?」
「だとして、それが、どう問題なんだい?」
「――は?」

 今度は、妖夢さんが口を開く番であった。
あんぐりと大きく開いた口に、年頃の娘がはたしない、とも思うのだが、よくよく考えれば妖夢さんは俺よりずっと年上な訳で、この場合どう指摘すれば良いのやら、と考えているうちに、次ぐ反応があった。

「いやいや、だって、斬って得るのは真実だけで」
「妖夢さんの話だと、斬ってその後罪悪感を感じるのも、真実を得た故にでしょう? 快楽だと、それは違うのかい?」
「え? あ、いや――」
「いや、まぁ、俺の命にとっては少々問題なんだけれども」

 と言っても、相手がこの妖夢さんである、よっぽどの事が無ければ命に関わる怪我になど至らないだろうけれど。
そんな旨のことを付け足す俺に、彼女はぱくぱくと言葉なしに口を開け閉めして、暫くしてから言葉を飲み込み、顎に手をやって考えこみ、それから怖ず怖ずと口を開く。

「えっと、確かにそうかもしれないです」
「うん」
「でも、権兵衛さんは、信じる事ができるのですか?」
「ん?」
「勘違いをして貴方を斬ってしまった私が――、今度こそ、貴方を斬って命を奪わないと」
「うん、信じられるよ」

 ひう、と、息を飲む音が聞こえた。
目を白黒させ、ぱくぱくと口を開く妖夢さんは、そんな馬鹿な、とでも言いたげにしているけれど、本当にそう思えているのだから仕方が無い。
だから俺は、彼女の目を真っ直ぐに、見据える。
それが彼女自身が持つほどに真っ直ぐでない事が、どうにも申し訳ないのだけれど、それは仕方が無いので我慢してもらうほかなく、全く俺と言う男は、なんともしがたい男なのであった。
だからせめて、言葉だけでも、真っ直ぐに。

「いや、そりゃあ、俺自身ちょっと奇妙にも思う部分だってあるけどさ。
斬られておいてそう考えられるって言うのは、ちょっとおかしいかもしれないけれど。
でも、どうしたって、俺には君が、快楽などに負けて、見境なく剣を振り回すような子には、見えないんだ」
「………………」
「俺は、君を、信じられるよ」

 重ねて言うと、妖夢さんは、そのまま視線を下にやる。
暫く俺は彼女の顔を見続けていたのだが、そこに光る物を見やってからは、視線を庭にやり、茶を啜るだけに努めた。
蝉のなく音に混じって、水滴の落ちる音が一つ二つ、混じる。
局地的な雨の降る音を聞きながら、二、三茶を啜った後、俺は妖夢さんを一人残して、その場を去る事にした。
これ以上の言葉と言う物は、無粋であろう。
粋を感じる心の無い俺にでも分かるほどに、それは自明の理であった。



      ***



 白玉楼の滞在四日目の午前。
そろそろ傷も癒えてきて、もうすぐ俺もあのほったて小屋に帰ろうかとなってきたその頃、俺と幽々子さんと妖夢さんは、三人でちゃぶ台を囲い、お茶を飲んでいた。
互い、小皿に分けた幾つかのまんじゅうをつまみながら、この数日の事を回想し、ぽつぽつと言葉を重ねる。
そうやっていると、何と言うか、もうこの白玉楼の生活も終わりになるんだなぁ、と言う思いがあって、何とも寂しげな感じだ。
しかし、この人達とならばきっと新たな関係を作って行ける、と言う思いがあって、だから同時に、安堵と言うのも変だが、そんな感じの感情もあり、複雑な次第なのであった。
と、複雑な話と言えば、と、思い出す。

「そういえば、妖夢さんのみょんって結局何だったんだ?」
「みょん」

 三度奇声を漏らす妖夢さんに、思わずその顔を覗き込むと、真っ赤にして縮こまっていた。
とてつもなく悪戯心を刺激する表情である。
もりもりと沸き上がってくるそれに、はて、どうすべきか、と幽々子さんに視線をやるが、どうやらみょんと言う言葉の内容は秘密らしく、ウインク付きで人差し指を唇にやっていた。
それがとても魅力的な表情であったので、仕方あるまい、と肩をすくめ、乗り出し気味だった体を戻していると、助け舟を幽々子さんが出す。

「妖夢~、お茶お代わり頂戴」
「あ、はい、ただいまっ」

 と言う事で、謎の敏捷性を見せてこの場を去ってゆく妖夢さんを目で追い、後ろ手に襖を閉めてゆくのを見届けてから、何となく幽々子さんと目が合う。
これまた何となく、くすり、と笑みが湧いてきて、お互い微笑み合う次第となった。
暫くくすくすと笑みを漏らしていると、不意に、幽々子さんの手がちゃぶ台の上の、妖夢さんの小皿へと伸びる。
三つ残っていたまんじゅうを、ひょい、ぱく、ひょい、ぱく、ひょい、ぱく、とあっと言う間に平らげてしまった。
この数日見慣れた筈の健啖ぶりに改めて関心していると、お茶でおまんじゅうを流しこんでいる幽々子さんに、じと目で睨まれてしまう。
いや、別に健康的で良いんじゃないかと、と言うのが正直な感想なのだが、視線がどんどん強くなるのに負けて、ごめんなさいと頭を下げた。
それから頭をあげると、見間違いか、一瞬幽々子さんの頬が赤く染まっていたような気がして、この人も可愛い所があるんだなぁ、と、関心していた辺りで、妖夢さんがもどってくる。
入れてきたお茶を幽々子さんの湯のみに注いで、それから自分も、と言う所ではたと気づく。

「……幽々子様。私のおまんじゅうは、一体どうしたんでしょうか」
「おまんじゅうに足でも生えて、何処かに歩いていっちゃったんじゃあないかしら」
「そりゃあ随分食べにくそうなおまんじゅうですね」
「あら、いらないの? おまんじゅう」

 と言って俺の小皿にも手を伸ばしてくるので、足が生えて来たら怖いですから、と小皿を差し出した。
それは怖い怖い、とおまんじゅうを攫ってゆく手際をぼんやり見ていると、妖夢さんの方は主の様子に何とも恥じ入った様子で縮こまっている。
さっきは幽々子さんが助け舟を出した筈なのになぁ、と、苦笑気味にお茶を一口。
さて、ちょうど全員のお茶菓子も無くなり、後はお茶を飲むゆっくりとした時間だけである。
そして俺の懐には血を拭ってもらった財布があり、傍らには妖夢さんに作ってもらった弁当がある。

 つまりは、そろそろ俺の傷も癒え、旅立ち時である、と言う事だ。
結局、俺はこの人達と仲良くなれたとは思うけれど、しかし、果たして、これから会う機会ができるのかどうか。
妖夢さんは兎も角、幽々子さんは此処の主であり、出かけるのは宴会に呼ばれた時程度で、里に出る事は滅多に無いそうである。
とすると、貧乏臭い俺の家に招くなどできそうもない事から、幽々子さんと会える機会は、彼女に呼んでもらわねば無い事になってしまう。
仕方ない事だ、と言えば仕方のない事である。
何せ片や冥界の管理を任されるほどの地位にある亡霊姫、片や俺はと言えば、貧乏で、里の嫌われ者の、恐らく幻想郷で最底辺近くに生きる外来人だ。
当然、その間には計り知れない程の距離があり、今日こうやってお茶をしている事すら、奇跡に等しい事柄だろう。
これから出会う機会など、まず一生無いと言っても過言では無い、と言うのが道理である。

 しかし俺は、それでも尚、この人達とまた会いたかった。
分不相応な考えだと分かっているのだが、しかし度し難い事に、俺は彼女らに再び茶や酒宴に誘ってもらう事を期待しているのだった。
当然、ならば聞いてみればいいのだが、それも簡単に行かない。
彼女らの懐の広さはこの四日間で見て取れたし、それを思えば、まず間違いなく俺を受け入れてくれるに違いないが、しかしそれで彼女らに悪評が立っても困る。
何せ、俺である。
この、俺である。
人に嫌われる達人で、善行を積もうが悪行を積もうが人に嫌われる事のできる、俺である。
そんな俺を受け入れてくれたとして、彼女らにどんな悪評が立つか分からないのだ。

 と、そんな陰鬱な事を考えながら茶を飲んでいると、ふと、幽々子さんと目が合い、にこり、と笑いかけられた。
胸が、熱くなる。
それが何ともふんわりとした笑みで、俺の考えをまるごと包みこんでくれるような、懐の深い笑みであり、何だか今まで俺の考えていた事が、とてつもなく小さな事であるように思えてくるのだ。
と、言うか。
改めて考えると。
幽々子さんは浮世離れしている事もあって全く気にしないだろうし、妖夢さんの真っ直ぐな気質は、だからどうしたと言わんばかりの受け取り方をしそうな気がする。
……何だか、肩の荷が下りたような、すっと楽になる感覚があった。
硬くなっていた姿勢から自然と力が抜け、見えない繰り糸が背中から外れたような気さえする。
聞いてみよう。
自然にそんな言葉が浮かんできて、俺は、それに身をまかせるままに口を開いた。

「その、幽々子さん」
「? なーに?」
「今回の滞在では、古いほど良いあのお水を交わせなかったですけど。その、次には――、乾杯をしに、お邪魔させてもらってもいいですかね」

 すると、幽々子さんは、一瞬きょとんとしてから、笑みを更に深くして、

「――勿論。楽しみだわ~」

 と、答えてくれた。
俺は、体温が顔に集まるのを感じ、これ以上視線を合わせていると発火しかねないので、幽々子さんから視線を逸らす。
目頭に熱い物がこみ上げてくるのを、幾度か瞬く事によって抑え、肺の中の熱い空気を、深呼吸して入れ替える。
それでやっと言葉を発する事ができるようになり、俺はようやくのこと、返事を返す事ができた。

「ありがとう、ございます」

 と言っても、それで俺が返せる言葉はいっぱいいっぱいで、と言うのも、さっき深呼吸して入れ替えたばかりだと言うのに、温かい物で胸の中が一杯で、他に何も入らなかったのだ。
俺は、思う。
何時か、何年かかるかは分からないし、ひょっとしたら可能かどうかすらも分からないけれど。
何時か、彼女たちに招待されるのではなく、俺の方から彼女たちを招待する事をしてみせよう。
勿論今のままに、床に直接座らせるような家にでは無く、ちゃんとした家を作り、此処ほどではないにしろ、整った場所で。
酒なりお茶なりを、きちんと用意して、せめて、只人の招待と変わらない程度には豪勢にしてみせて。
それは正直かなり難しく、ひょっとしたら冥界に住む彼女らと死んでから出会う方が先かもしれないけれど。
でも俺は、何時か彼女らを招待してみせようと、思うのだ。

 ――………………。
感極まってから、幾らか時間を置いて。
突然沈黙した俺と幽々子さんに、どうしたのだろうと思案顔になっている妖夢さんに癒されながら。
ついに、俺が旅立つ時間がやってきた。
妖夢さんの作ってくれた弁当片手に、白玉楼の玄関に立つ。

「妖夢、遅いわねぇ」

 と、幽々子さんの言う通り、人里まで案内してくれると言う妖夢さんを待っている所であった。
からんからん、と履物の音を響かせるのを聞いて、そういえば幽々子さんが外を歩いているのは初めてみたな、と思い、この際目に焼き付けておこうと、数歩下がって幽々子さんの全体を見ようとする。
すると、何を思ったのやら、つつっ、と、俺が下がった分だけ幽々子さんが寄ってくる。
美人に寄られて嬉しいのだが、足元まで目に焼き付けようと思った俺としては、なんとも複雑な気分である。
ので、もう一度、数歩下がる。
つつっと、幽々子さんが寄ってくる。
思わず、幽々子さんの顔を覗き込むと、こてん、と愛らしく首を傾げられてしまった。
うむ、かわいい。
じゃなくて。
ころっと絆されそうになっていた俺は頭を振ると、もう一度数歩下がる。
幽々子さんが寄る。
数歩下がる。
幽々子さんが寄る。
とやっていて、丁度円を描いて一周してしまった辺りで、妖夢さんが戻ってきた。

「お待たせしましたっ……って、お二人とも何をやっておられるんですか?」
「いやぁ」
「何となく、かしらねぇ」

 何となくらしかった。
まぁ、そんな感じなので、俺も頷いておく事にする。
と、そこで俺は妖夢さんの腰に揺れる二振りの刀を見つけて、あ、と呟いた。
俺が気づいた事に気づいたのか、妖夢さんは、ぽん、と腰の刀に手をやり、花咲くような笑顔を見せた。

「はい。この度を持って、再び刀を持つ事にしました」
「そうか。……良かった」

 万感の思いと共に、言葉を吐き出す。
すると思いの丈は同じだけあったようで、同じようにして妖夢さんも口を開いた。

「はい。これも、権兵衛さんのお陰です。
今にして思えば、私は、権兵衛さんを斬った時、斬る事に快楽を覚えてしまった事に、罪悪感を抱いていたのです。
それはとても大きな罪悪感で、真実を覆い隠してしまうぐらいに大きかったのでしょう。
だから私は、斬る物を失った己の剣を、信じられなくなった。
でも、権兵衛さん。貴方が、教えてくれました。
それでも真実は変わらないと。
私の剣は、依然そこにあると。
簡単な事だったんですよね。
今まで通り、斬って感じる事が真実で、斬って得る物はそれだけ、快楽はその真実の内側にあるものに過ぎない、と。
本当簡単な事で、何で今日一日、私は気付かなかったんだろう、って思って、その、逆に、そんな事に簡単に気づける権兵衛さんが凄いって思いまして、その。
えーと、それに、半人前の私をでさえ信じてくれるって当たり前のように言ってくださって、それで私の罪悪感が初めて拭えて、真実がみえて、だから、その。
と、兎に角、ありがとうございますっ」

 と、最後には本人も何が何だか分からなくなっているんじゃないだろうか、と言う感じの、感極まり方だった。
自然、幽々子さんと目が合い、くすりと微笑む次第となる。
このくすり、も暫く無いのだと思うと寂しさの漂う物になるが、俺はその寂しさを内心に押しとどめ、口を開く。

「こちらこそ、君の力になれたみたいで、良かったよ」

 と言うのは本当に事実で、この真っ直ぐな少女の力になれたと言う事実は、確実に俺の自信となっていた。
何せ、俺が幻想入りして以来、人の力と言えば借りているばかりで、こうやって人の力になれたと言うのは、多分初めてと言っていいぐらいなのだ。
むしろこっちの方から、力にならせてくれてありがとう、と言いたいぐらいなのだが、それは流石に困らせてしまうだろうと自重するに努める。
これで礼の方も満足いったようで、妖夢さんは、はしゃいだ子供のような足取りで、こちらの方へ向かってきた。

「では、行きましょうかっ」
「うん、そろそろ………………」

 行こうか、と。
そう言おうとした所で、がくん、と膝の力が抜けてしまった。
遅れてぱくり、と肉の開く音がし、血がぼどっと落ちる音がする。
頭の中がすーっと澄み渡ってゆき、額が奇妙に涼しい。
落ちた膝をつくと、地面の方からこちらへと迫ってきて、手でそれを抑えようとするのだけれど、叶わず、すぐに肘を折り顔を地面につける事となる。
残暑の日照で熱くなった玉砂利が、頬の形を変えた。
誰かの絶叫が聞こえる。
知っている誰かの筈なのだけれど、それが誰の声なのか分からないまま、俺はゆっくりと意識をうしなってゆく。
最後に見た光景は、前回より更に少しだけ顔を青くした、妖夢さんの顔だった。
それがどうにも真っ青で悲愴な顔であるので、大丈夫だよ、と声を掛けたかったのだが、それすらも叶わない。
せめてと妖夢さんの頭に伸ばした手も、その頭を撫でる事すら叶わず、力を失っていった。



      ***



 呆けていたのは想像の埒外の出来事であったからか。
それとも、その鮮血のあまりの美しさにか。
兎も角、幽々子が呆けて固まってしまっている間に、妖夢は権兵衛を抱え、永遠亭の方へと飛んでいってしまった。
信じてくれたのに、信じてくれたのに、と漏らしながら飛び立つ妖夢を見て、幽々子の方はようやく権兵衛が斬られたと認識したのだが。
妖夢が権兵衛を斬る事に快感を憶えてしまっていたとは聞いていたが、我慢できないほどとは。
とりあえず飛びゆく妖夢を呆然と見送り、それから幽々子は、権兵衛を死に誘う機会を逸した事に気づいた。
本来ならばこの場で、後数十秒もあれば、旅立ちの代わりに、と、死に誘えたと言うのに。
幽々子は、ついつい指を唇に沿わせる。
甘さが含まれた吐息が溢れ、胸元で汗が滑り落ちる。
自然、幽々子の回りには紫の蝶が数匹浮かんでいた。
暫く飛ぶことを忘れたかのように動かなかった蝶であったが、ふと、此処が空中である事に初めて気づいたかのように、翼を動かし始める。
空気中を泳ぎ始めた紫の蝶に、あーあ、と幽々子は思う。
あと少しで、あとほんの少しで権兵衛を死に誘えたと言うのに。

 しかし、と幽々子はぼんやり思う。
権兵衛を死に誘う機会を逸したのは確かだけれども、その機会は果たして一度きりであっただろうか?
いやいや、よく良く考えてみれば、権兵衛を死に誘うのは、何時でも良いのだ。
何せ人の命は長くて百年、対して死んでからの時間はといえば、永遠に等しいほどにあるのだ。
ならば、確実を喫した方が良いに決まっている。
絶対に地獄にも天界にも行かせないため、冥界に死に誘い、そしてその上で、絶対に転生させないようにしまえば良いのだ。
何時しか読んだ本にあった、西行妖の封印する死体と言うのも、どこぞの亡霊を転生させないように封印されているらしい。
ならばそれと同じように、権兵衛の死体もまた、絶対に転生させないよう封印してしまえばいいのだ。
そして何故だかその場所は、西行妖の隣が良いように、幽々子には思えた。

 からんからん、と。
数歩、幽々子が歩くに連れ、その周辺は死に充ち満ちて、草も苔も玉砂利も土も死んでしまい、塵となって消えてしまう。
こんな風に。
こんな風に、権兵衛を死に誘えたら、きっと素敵だろうな、と幽々子は思った。
塵となって消えて、同じものになる幽々子と権兵衛。
その隣には妖夢が居て、何時も小言を言いながら二人に弄られ遊ばれているのだ。
その幻視した光景は、とても尊く、素晴らしいものに思えて。
だから。
幽々子は、思うのだ。

 例え権兵衛が、寿命尽きて死ぬとしても病気で死ぬとしても獣に喰われ死ぬとしても妖怪に喰われ死ぬとしても飢えて死ぬとしても人間たちに殺されるとしても首をくくって死ぬとしても飛び降りて死ぬとしても溺れて死ぬとしても薬を飲んで死ぬとしても首を切って死ぬとしても腹を切って死ぬとしても、何時どうやって死ぬとしても、だ。
絶対に。
それよりも早く。

「ぜったいに、わたしが殺してあげるからね、権兵衛」

 にっこりと、花咲くような笑顔で微笑みながら、幽々子は言った。
それを合図に、幽々子の回りを死で満たしていた蝶が、一斉に空へと駆けてゆき、そして、目の見えないほど遠くまでゆき、やがて消えた。
ふわり、と着物を浮かせながら、くるりと体を回転させる幽々子。
そういえば、と、幽々子は思い出す。
幽々子は確か、権兵衛を死に誘おうと思った時、こう思ったのではないか。
時は、金なり、と。
しかし金の要らないあの世の住人たる幽々子には、こう言うべきだったのだろう。

「急がば回れ」

 至言である。

「くるくる~って、ね」




あとがき
と言う事で、次回から永遠亭です。
慧音のターンはもうちょっと後で。
ちょっと体調が悪い中書き上げたので、次回も一週間で更新できるかはちょっとわかりません。



[21873] 永遠亭1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/11/22 01:26


 恐怖はつねに無知から発生する。
逆説、恐怖を感じると言う事は全知では無いと言う意味である。
故に妖怪の賢者に恐怖してしまった月の賢者は、全知と言う称号はやや過分であり、故にたまには未体験の出来事に出くわす事がある。
それは永琳の探究心による地上人の犠牲による成果だったり、地上の穢れによって地上人をただの道具として見なくなったり、主に地上に降りてから起きた事であったのだが、これもまた、そうだった。

「あぁ……」

 思わず、ため息が漏れる。
湿り気を多分に含んだそれは、永琳の内心を表したかのように、暖かく、滑り気があった。
どきどきと高鳴る胸は今にも爆発しそうで、思わず手袋越しに服の上から抑えてしまう。
こんなにも心が不安定なのは、永琳の記憶にある限り、生まれて初めてかもしれない。
まるで今までの精神の揺れと言うもの全てが余震であったかのようで、その例えで言うなら今の永琳の心は、とんでもないマグニチュードの揺れだった。
理性の手綱を無視して手は震え、唇は開き、頬は紅潮する。
体温が高くなった所為か、汗が頬を伝い、顎を伝い、鎖骨を超え、胸の間を滑り落ちてゆく。
その感触すらも何処か官能的で、艶めかしい。

 なんと美しい内蔵なのだろう、と、再び、八意永琳はため息を漏らした。
半人半霊が連れてきた男、権兵衛は、連れてこられた当時は腹を斬られただけで、永琳の手によれば三日もあれば完治できる程度の怪我だったのだが、今は違う。
その傷の隙間から覗く内蔵の美しさに心奪われた永琳は、早速男の皮膚を鋏で切り、内蔵の色を透過した真皮を切り裂き、ピン止めし、その内蔵を顕にしてみせた。
あぁ、なんと美しい事か。
黄土色の濁った腸の、てらてらとした輝き。
濃血色の肝臓の、宝石のような輝き。
全てが、今までに見たことのない美しさだった。
頬に飛び散った黄色い液体でさえ、舐めとると脳裏が痺れるような快感が走る。
あぁ、美しいものは美味くもあるのだな、と、痺れる脳内で永琳は納得した。

 永琳は手袋を脱ぎ捨てた。
何せ何にしても生の感覚と言うものは何かを隔てた物とは段違いで、快感も勝ると言うのが定説であるのだ、当然と言えよう。
それから永琳は両手をそっと権兵衛の体内に入れた。
まるで高価な宝石を扱うように、そっと永琳は権兵衛の小腸を手に取る。
腸間膜がひきつり、海老のように跳ね上がる権兵衛を尻目に、その重量感に永琳は思わず唾を飲んだ。
心拍音が上がってきているのが、否が応でも分かる。

「私、興奮しているのね」

 呟いてから、永琳は、大きく息を吸い、吐き、体内の空気を入れ替えてから、思い切ってぐっと顔を近づけた。
ぺたっと、永琳の頬が権兵衛の黄土色の小腸に貼りつく。
粘液がてらてら輝きながら頬にへばりつき、血と脂肪の独特の匂いが永琳の鼻をついた。
こんな風に研究心からか思い切りが良い時、永琳は研究者であって本当に良かったと思う。
新しい発見は何時も脳の痺れるような快感を永琳に与えてくれるのだが、今回は格別だった。
この艶めかしい手触り、頬擦りの感覚、どちらも素晴らしいとしか言い様がない。
あぁ。
あぁ、もっと、この感覚を味わいたい。
胸を過る切なさが命じるままに、永琳は思い切って舌を這わせる事にした。

「ん……あぁん……」

 ぺろり、と、小腸の表面の粘液が、永琳の舌の上に乗った。
それを口の中に仕舞うが、すぐに飲み込むのは勿体無い。
口の中で転がし、香りと感触とを十分に楽しんでから、永琳は粘液を飲み込む。
何の変哲もない人肌の温度の粘液は、しかし熱湯を飲み込んだかのような熱量を以てして、永琳の胃へと収まる。
あぁ、私は今、これと一緒になっているんだ。
内心でそう呟き、永琳は目を瞑ったまま、しばし粘液の味の余韻に浸った。

 しかし、恋人の逢瀬のように、この素晴らしい時間にも終わりはやってくる。
さしもの永琳も、これ以上権兵衛を開きにしていては殺してしまう、と言う制限時間はあるのだ。
特に、今権兵衛が負っている傷は、一振りで幽霊十匹分の殺傷力を持つ楼観剣による物である。
惜しみながらも永琳は頬に張り付いた小腸を剥がし、権兵衛の体内に戻す作業にかかる。
ついでに小腸だけでなく腎臓や肝臓の感触も確かめ、その都度その官能的な感覚に身を震わせながら、永琳は作業を続けた。

「あぁ、勿体無い」

 本当に勿体無い、と、続けて呟く。
亡霊姫の手下に連れてこられたこの男は、全部解剖してしまう訳にはゆかない。
何せ蓬莱人たる永琳にとっても、冥界の主は結構な勢力である、下手に敵に回すのは不得手だろう。
ああ、本当はこの男を、バラバラにして瓶詰めにして、ずっと保管してしまいたいと言うのに……。
喉から手が出る、とはこの事か。
せめての慰めとして、幾つかの臓器を取る事をだけ決めて、永琳はため息混じりに権兵衛を修復する作業を始めようとする。

 と、突然そこで、永琳は気づいた。
私の今の言動は、非理性的過ぎはしないだろうか。
内蔵を引っ張りだしては自分が興奮しているなどと嘯き、挙句の果てには頬を当てて舌で舐めるなどとは。
しかも甘酸っぱいため息を漏らし、この時間を恋人の逢瀬のように思うなどとは。
かぁっ、と、永琳の頭に血が昇った。

「違う、違うのよ」

 思わず口走るが、聞く相手は何処にもおらず、当然、返答する相手もいない。
その仕業一つを取ってみても非理性的で、己を窘めたくなるのだが、その事実が更に永琳の頭を湯だたせる。
駄目だ、と永琳は思った。
この男を相手にしていては、兎に角駄目なのだ、と。
こんなにも心をかき乱されるのは、月の賢者とまで言われた永琳にとっては、恥である。
恥とは隠さねばならないものであるので、当然、永琳もどうにかそれを隠そうとするのだが、どうにも上手くゆかない。
その美しい内蔵が眼に入るだけで、頬が紅潮し、心臓が脈打つのを止められない。
せめて顔だけなら、と思ってその平凡な顔に目をやるも、同じことだった。

 あぁ、どうしよう、と思った所で、永琳はちょうど良い事を思いつく。
そうだ、ならば逆の、憎悪の心で睨むようにすれば、同じ非理性であっても、せめて今程の恥では無くなるのでは無いだろうか、と。
早速有限実行、と、永琳は己の中にある憎悪を引っ張り出してきて集めてみて、目の前の開きになった男にぶつけてみた。
何時ぞや、輝夜を連れ帰ろうとした使者よりも憎く。
何時ぞや、永琳に恐怖を味わせた妖怪の賢者よりも憎く。
すると、愛情と憎悪は丁度良く打ち消し合ってくれる、と言う訳では無いものの、ある程度は相殺されるようで、どうにか頬の紅潮は抑えられ、心臓の音の高く響く程にではなくなった。
流石に表情が歪むのは隠しきれ無かったが、先の醜態と比べれば、上出来と言えよう。
良かった、と内心胸を撫で下ろしつつ、永琳は心の中から憎悪を集めてくるのを忘れないようにしながら、権兵衛を修復する作業に努めるのであった。



      ***



 さてはて、ここで一つ考えよう。
俺は残る平凡な人生で、果たして一体あと何回慧音さんと出会ったことを思い出すだろう。
精々あと四回か五回か、少なくとも十回を超える事は多分無いだろう。
果たして一体あと何回太陽を見上げる事があるだろう。
十回はあるかもしれないが、二十回あるかどうかは分からない。
だが、俺ばかりと言わず人は、何事も無限の機会がありえると信じている。
全くもって愚かであり、そしてそれは俺もまた、同じであった。
つまり、要約すると、俺は後悔していた。
なぜ、もっと妖夢さんの事を慮れなかった物かと。

 結局。
俺は、斬られた。
妖夢さんに。
こればかりは疑いようのない事実であり、前提として組み込み考えねばなるまい。
しかし同時に、俺は未だに妖夢さんの事を信じていると言う、不可思議だが困ったことに事実である事も、前提せねばなるまいだろう。
そう、未だに俺は、妖夢さんの事を、快楽に負けて斬る剣鬼のようになるとは思っていなかった。
何故だかは分からないけれど、しかしそう信じられるのは確かなので、しょうがない。
その理由は置いておくとして、とりあえず先の事を考えてみる。
妖夢さんが信じられると言うのならば、俺が二度目に斬られたのは、恐らく彼女の意思による物ではなく、無意識によるものだったのだろう。
勿論そればかりは聞いてみなければ分からないが、しかし当然の理として、俺が妖夢さんを信じる以上、そうなる。
で、あるならば、きっと妖夢さんは、俺を斬ってしまった事で、傷ついてしまったに違いない。
何せ俺に信じると言ってもらったと感謝してすぐの事である、きっとあの真っ直ぐな子は、俺の信頼に答えられなかった、と悔やんでいる事だろう。

 しかし、問題は、俺の方にも僅かばかりはある。
妖夢さんがあれほど深刻に悩んでいたのに、俺が信じてやる事だけで解決できる、と勘違いしていた事である。
何せ問題は、刀を断つと言う程に妖夢さんが罪悪感で目を曇らせていた事と、俺を斬る事に快感を感じてしまった事にあった。
しかし、前者の問題は、僭越ながら俺が解決に力を貸せたと言っても良いが、後者に関しては信じると言うだけ、実際的な方法は何一つ示してやれなかったのだ。
それで問題が半分解決するのならばまだしも、これらの問題は連結しており、俺をもう一度斬ってしまった今、妖夢さんは再び刀を持って良いかどうか悩んでいる事だろう。
これでは、俺が妖夢さんに何一つ力を貸さずに居た方が、問題の解決には早かったかもしれないぐらいだ。
いや、きっとそうなのだろう。
何せ、俺は、俺なのである。
幻想郷の底辺を生きる男なのである。
それでいて誰かの助けになれるなどとは思い上がりも甚だしい、と言うのが当然の理である。
妖夢さんの言であるが、道理が立たない、筋道が行かない、理屈が立ちゆかない、と言う奴だ。

 ならばはて、次に会った時どうしようか、と、役に立つのか立たないのか分からない底辺の思考をしていると、診察室の扉が開いた。
はたと面を上げると、そこには白髪の美女が立っていた。
長い三つ編みにやや鋭い目付きと賢しげな風貌に、赤十字の帽子をかぶり、何故だか赤と紺の二色で割られた服を着ている。
その様相はかつて慧音さんの元に居た頃、里人に薬師の先生と教えてもらった通りの物であった。
つまり。

「権兵衛さん、具合は良いかしら」
「えぇ、もう痛みも無いですし、今にでも動き回れそうなぐらいですよ」

 八意永琳さん。
彼女と俺は、医者とその患者と言う関係なのであった。
と言っても、先程目覚めたばかりなので、それ以外の関係などある筈も無いのだが。
それは兎に角、実際噂通りに凄腕の先生らしく、目覚めてから半刻とたたない今でも、すでに動き回れるどころか、体が軽いとすら感じるぐらいなのである。
いや、本当。
物理的に軽くなっているんじゃないかってぐらいに。
などと阿呆らしい感想を抱く俺に、八意先生は、聴診器だの何だの、鞄から色々な機材を持ち出して、俺を調べ始める。

「そうかもはしれないけれど、一応安静にしておいて頂戴。それに、私を連れてきた子、貴方を斬ってかなり動揺していたわ。とりあえず落ち着くまで、ある程度期間を取った方がいいと思うの」
「そうですか。三度目の正直、と言う言葉もあるのですが」
「二度ある事は三度ある、よ。止めておきなさい」
「二度ある事は三度ある、三度目の正直、どっちも言いますけれど、どっちが本当なんですかね?」
「あら、どっちも同じじゃない」
「?」
「三度とも正直なら、同じ事よ。はい、ちょっと背中見せてくれるかしら」
「それは何か違うような……」

 などと知能の低そうな会話に付き合ってもらって数分、どうやら診察は終わったようで、八意先生は機材を鞄にしまい始める。

「はい、ついでに体も見ておいたけれど、問題なし、健康体よ」
「そうなんですか? 何か妙に体が軽い気が……」
「えぇ、そうなのよ。何の問題も、無いわ」

 重ねて言うからにはそうなのだろうと納得し、俺は直接機材を付ける為に脱いでいた着物を着る。
ちなみにこの着物、此処永遠亭で用意された物で、白玉楼で着ていた物は矢張り血と斬撃で駄目になってしまったらしい。
藍染めの簡素な着物に袖を通すと、俺はくるりと回って、八意先生を正面に捉える。

「ありがとう、ございました」

 頭を下げた。
と言うのも、俺が此処に居る次第なのだが、まず、俺は白玉楼を出ようとする際に妖夢さんに斬られた。
で、妖夢さんは慌てて俺を抱え、幻想郷最高の医者と言っていい薬師である八意先生の住む此処、永遠亭に連れてきたらしい。
そして俺は丸一日に及ぶ手術の結果、この通りにすぐさま健康体になり、妖夢さんの方は一旦白玉楼へ帰されたようだった。
であるので。
俺が礼を言うのは当然であるのだが。
何故だか、八意先生は、顔を歪めた、ような気がする。
それがほんの一瞬であったので俺の見間違いかもしれないのだが、いや、しかし確かに。
どうしたのだろうか。
俺が何かしたのだろうか。
と思ってすぐに、俺は自身の風評に思い至る。
何せ俺は里にとって慧音さんにたかる大悪人であり、八意先生と言えば、里と懇意である薬師である。
であるならば、当然、俺などと会話する事が苦痛であったり、不信を持ったりする事になるだろう。
何せ俺と言えば幻想郷で尤も低い身分の一人であるのだ、そんな男を会話して不快に思わないのが不自然なのである。

「えっと、その、すみません……」
「? 何がかしら?」
「いや、その、不快だったようなので」

 今度こそ間違いなく、八意先生の顔が歪んだ。
視線には明らかに侮蔑の色が乗り、不快感が背後から滲み出る。
まるで背後に何か大きな物が押し留められているような気配だった。
肌を刺す空気に、思わず息を飲む。
俺は、思わず申し訳なさに顔を背けた。
もしかしたら八意先生が不快であったと言う事を指摘したのがいけなかったのかもしれないし、そも、俺が口を聞いた事自体がいけなかったのかもしれない。
俺は申し訳なさに押し潰されそうになりながらも、本当にどうすればいいのか分からなくて、俺は視線をそこら中に泳がすが、しかし当然答えがその辺に浮いている訳などなかった。
こんな時、俺は自分が不甲斐なくて、消えてしまいたくなる。
鎖骨の辺りがすぅっと冷えてきて、全身から力が抜け、兎に角体中の関節が全く自然な状態になり、一切の意思が抜けきってしまったかのようになってしまうのだ。
里に行く時には毎回味わうお馴染みの感覚で、一人で黙々と動いていても、ふとした瞬間こんな無力感を味わう事はあるのだが、此処数日、白玉楼の天国のような日々を過ごした為に、久しぶりの感覚であった。
再び、思い知らされた気分だった。
俺は幻想郷の地面と余程重力が強いらしく、正に幻想郷の底辺に生きているのだと。

「そんな事、無いわよ」
「え」
「礼を言われて不快に思う事なんて、無いわ」

 俺の言葉に重ねて言われたそれに従い、俺は八意先生の顔の歪みを無かった物を考える事にする。
俺は純然たるただの患者に、八意先生は純然たるただの医者に。
こういった事務的な態度はせめて傷つかないように、と里人との間で使い慣れた態度であるので、俺にとっては慣れた物であった。
と言っても、それに慣れてしまえばこそ俺はこうやって駄目になり続けているのかもしれないと思うと、複雑な心持ちであるが、とりあえずそれは無視する事にする。
八意先生もそれに習ったのか、事務的な口調で口を開いた。

「――完治までは、三日とかからないけれど。でも、あの貴方を斬った半人半霊、大分動揺していたようだし、冷却期間を置いた方がいいわね」
「え、でも、お金は」
「心配しなくていいわ、それならあの半人半霊がおいて行った分で足りるから。……そうね、一週間ほど此処に滞在なさい」

 言うと、八意先生は、カルテらしき書類を手に、何やら記入を始めた。
妖夢さんが動揺していたと聞いてそれを心配する部分もあったが、とりあえず、と、俺はその提案に頷く事にする。
時間の解決できる問題は、時間に解決してもらった方が良い。
何せ俺はと言えば、物理的に見ても精神的に見ても、侘び寂びの見本のような侘しさと寂しさなので、解決できる問題と言うのは非常に少ないのだから。
と、そんな事務的な会話を続けていた所であった。
がらがら、と、音を立てて診療室の扉が開く。
思わず面を上げると、そこには絶世の美女が居た。
黒艶のある尻を隠す程の長さの黒髪に、宝石を散りばめたかのように輝く瞳、白磁の肌に、洋服と和服が半分づつ入り交じったような、引きずる程の丈の着物を着ている。
八意先生も幽々子さんもそうだったが、どこか浮世離れした恐るべき美人であった。
此処最近の美人遭遇率に、一体どうしたものやら、と内心呟く俺を尻目に、彼女は気怠げに言う。

「えーりん、何だか慌ただしかったけど、もう終わったの……って、あら、初めまして」
「あ、はい、初めまして。自分は、外来人の、七篠権兵衛と言います」
「そう、権兵衛と言うの。私は此処、永遠亭の主、蓬莱山輝夜よ。呼ぶ時は輝夜でいいわ」

 と、俺を見てから背筋を正して言うので、俺も同じく権兵衛で良いと伝える事にした。
すると、僅かに顔を歪ませてから、俺と視線を合わせないままに八意先生も続ける。

「……輝夜が名前で呼ばせるなら、私も下の名前で呼んでもらう他無いわね」

 と言うので俺も八意先生の事を永琳さんと呼ぶ事にするのだが、しかし恐らく嫌われているだろうと言う予感のある人に、下の名前で呼ばせる結果となってしまった事に、思わず俺は視線を足元におろしてしまう。
はい、と、消え入りそうながらも何とか返事を返す事ができたのは、幸いだった。
と言うのも、それぐらいに俺は、久しぶりの悪意に消耗をしていたのだ。
喉の辺りには何か詰まっているような感覚があるし、理由も無く頭の中が重くなり、手足の先の感覚が薄くなる。
ため息をどうにか飲み込み、体中の力を集めて、どうにか視線を輝夜さんや永琳さんの方へと向ける事に成功すると、何やら、輝夜さんの方は面白そうな目で俺の事を見ていた。
何だか、嫌な予感がする。

「あなた、名前が七篠権兵衛と言うの」
「あ、はい。その、幻想入りする際に名前を亡くしてしまって、それで自分でつけたのですが」
「へぇ、名前の亡い外来人、ねぇ」

 宝石のような目をキラキラと輝かせながら、すすっと輝夜さんは永琳さんの目前にでたかと思うと、合わせた両手を頬にくっつけ、こてん、と首を傾ける。

「ねぇねぇ永琳、この人間、飼ってもいいかしら」

 奇しくも、俺は永琳さんと同時に絶句する事となった。
俺を、飼う?
ペットのように?
思わず、無け無しの反抗心が、ぐっと湧き上がる。
俺はいつも、人と対等にありたいと思っているだけなのに、それすらも叶わないのか、と。
しかし、吐き捨てようとした言葉は、喉の辺りで停止し、急激に力を無くしてゆく。
そうかもしれない、と、心のどこかで思ってしまったのだ。
何せ俺と言えば、先程永琳さんに思い出させられた通りに、兎に角、人に嫌われる事が上手く、人に好かれる事が下手くそなのだ。
だからといって何か力や地位があるのかと言えば、どちらも最底辺で、どうにも救いようがない。
せめて、その言葉を否定して欲しいと永琳さんの方へ視線をやる。
目が、合った。
冷笑と共に、視線を逸らされた。
そして俺が家畜のように扱われているのが当然とでも言うように、会話を続ける。

「輝夜、この地上人は、月の兎とは訳が違うのよ」
「あら、分かってるわよ。でも、名前を亡くしたなんて面白いじゃない。事実、ほら、この男はこんなにも穢れが少ない。地上人としてはこれは異常だわ」
「確かにこの地上人が面白いのは事実だけれど、でも輝夜、ペットなら他にいくらでもいるでしょう」
「永琳? どうしたの、この地上人に何か特別な所でもあるの?」

 暫く躊躇った後で、永琳さんは口を開く。

「里での評判が悪いわ」
「別にそんなの関係ないわよ」
「冥界の客だった男よ」
「別に飼うぐらいいいじゃない、その冥界の下っ端に斬られたんでしょう? この権兵衛とやらは」
「一週間で完治として送り出す、と約束したわ」
「なら私の永遠の魔法をちょこっと応用して、権兵衛にとっての一週間を永遠にすればいいじゃない」
「その………………」

 口を噤んだ永琳さんに、勝ち誇ったような笑みを輝夜さんは浮かべた。

「ほら、いいわよね。権兵衛も、別にいいでしょう? 飼われる事ぐらい」

 俺はと言えば、なんだ、それは、と呆然と口にしようとして、しかし、声を出す事すらままならなかった。
体中から気力を根こそぎ奪われたようで、全身が脱力して、瞼を開けているのですら、残る力をぎゅっと集めて、ようやくの事成し遂げている事なのである。
俺が家畜同然に扱われることや、それが当然のように会話する二人と言う状況は、俺から力と言う力を奪っていた。
そも、俺は妖夢さんの力になれたと思ったら全然そんな事は無かった、と言う事で精神的にダメージを受けていた所であったと言うのに、これではあんまり過ぎて、何の力も残らなかったのだ。
最早俺は反抗心の欠片も起こす力も無く、むしろ、俺と言う底辺の男が、家畜同然に扱われる事が、当然のようにさえ思えてくる。
何せ、俺なのだ。
俺は、俺なのだ。
俺なのだから、仕方ない。
そんな風に力が抜け、寂びてゆく心に、もう俺は抵抗する術などなくて、だから、状況に流されるままに、俺は残る力を集めて、愕然としたままに首を縦に振る事にする。
小さく、もしかしたら分からなかったんじゃあないかと言う程度の首肯であったものの、どうやら俺の意思は伝わったようで、輝夜さんはにっこりと、花が咲き開くような美しい笑顔を見せたと思う。
と思う、と言うのは、最早俺には視線を上げている力すら残っておらず、すぐに足元に視線をやり、後は頭上で交わされる会話を呆然と聞くしか無かったからだった。



      ***



「輝夜、本気なの?」

 しつこく聞いてくる永琳に、輝夜は薄く笑いながら首肯した。
くるり、と回り、着物を床を這わせながら、後ろについていた永琳の方へと向き直る。

「本気よ、勿論。別にいいじゃない、地上人の一人ぐらい。それも、里人じゃなくて外来人だわ、好きにしていい相手よ?」
「それは……そうだけれど。でも、何で」
「一目みて、気に入ったからよ」

 永琳が、顔を歪ませる。
そう、言っている事は間違っていない。
輝夜は一目見て、永琳が権兵衛に見せる反応が気に入ってしまったのだ。
永琳と言うと、月の賢者である。
当然言動も輝夜にですら理解し切れない程に理性的で、不満や怒りなどを顕にする事はまず、ない。
と言うか、果たして千年以上付き添った輝夜でさえ、永琳の感情的な所など、見た事があったかどうか。
侮蔑は、ありはしただろう。
何せ永琳は輝夜と同じ元月の民である、汚れた地上人に対する侮蔑は、あったかもしれないが、それも僅かに雰囲気に滲み出るかどうかと言う程度で、殆ど無かったと言っても過言ではない。
兎も角、それぐらいに輝夜は永琳の感情的な所を見たことなど無かったし、時々機械仕掛けで動いているんじゃあないだろうか、と言うぐらいに、彼女の情動の有無を疑った事すらある。

 しかし、だ。
永琳は明らかに、権兵衛と言う男を嫌っていた。
あの普通っぽい地上人にすら、容易く見抜けるだろうと言う程に、感情を顕にして。
永琳の普段見せないその一面を見る事ができるのが、何と言うか、永琳もそんな風にする事があるんだ、と言う安堵に似た感情があって、新鮮さもあったり、より生の永琳を見れると言う好奇心に似た物もあって、兎に角気に入ってしまったのだ。
それに、永琳の嫌悪と言う感情も、輝夜の世話する優曇華の盆栽が地上の穢れを吸って身をつけるのと同じで、地上の穢れを身に受け始めた事の影響から出始めたのかもしれない。
そう思うと、より永琳の変化を見ていたいし、それに当の永琳が権兵衛を嫌っている以上、権兵衛を引き止める役は自分しかおらず、そう思うと、これも自分のすべき仕事の一つなのではないかと思えるのだ。
蓬莱山輝夜は、何もすることがなかった。
しかしそれは、何もしようとしなかったからであり、ならばしようと思った事はなるべくしよう、と輝夜は思っている。
故に権兵衛をとどめ置くのも、己の仕事の一つとしてみようと思ったのだ。

「仕事、ね」
「輝夜?」

 ふいに呟く輝夜に、永琳が疑問の声を上げる。
顔には嫌な予感がする、と書いてあり、こんな分り易い感情を永琳に浮かばせるのだから、やっぱり権兵衛を飼おうと思ったのは正解だな、と輝夜は思った。

「なら、とりあえず、権兵衛の暇つぶしの相手は、私がしようかしら」
「それなら、そもそもあの男を飼わなければ済む話よ」
「そうね、まず、一日一回は話をするようにしようっと」
「あの男にとって一日は永遠の魔法で狂わされているわ、別に私たちの一日で計らなくてもいいんじゃなくて?」
「それから、どうしようかしら」
「どうもしなくていいわ。飼うのは分かったから、世話まで貴方がする必要は無いのよ」
「そう、世話と言えば、永琳は私の世話をするとき、教育係をしていたわね」
「………………」
「なら、私も権兵衛の家庭教師でもやってみようかしら」

 深い溜息を永琳がつくのを聞きながら、その顔に憎悪が湧いているのに、内心輝夜はぐっと拳を握り締める。
と言っても、家庭教師と言うのは、永琳への嫌がらせで思いついたのではなく、実際に思うままに口にしてみた思いつきなのだが。
しかしまぁ、教師なら、何時ぞや永遠亭の兎相手にやった事がある。
これは腕の見せ所だわ、と、内心輝夜は腕まくりする。
と言っても、あれはすぐに飽いてしまったから、今回もそんなに長く持たないかもしれない。
だがまぁ、いいだろう。
これもまた、輝夜が己のすべき仕事を見つけようとする手段の一つなのだ。
優曇華の世話のように定着するとは思わないが、少なくとも飽いてしまうまでは続ける事にしよう、と、思って、輝夜は気づく。
そういえばあの男、権兵衛と言う名の男も、優曇華の盆栽のように、何処か侘び寂びを感じさせる男であった。
永琳の一言一言に含まれる悪意に心打たれ、寂びてゆくその様は、優曇華の葉も花も実も付けていない見窄らしさに、よく似ていた。
ならば少しはこの仕事も続くのではないかな、と、僅かな期待に心を揺らしながら、思うことにした輝夜であった。



      ***



 夜半。
永琳は、自分の部屋に戻ると、後ろ手に襖を閉めると同時、膝の力が抜けてしまい、座り込む次第となってしまった。
と同時、大きなため息をつく。
ため息の主な成分は場合によって違い、時には甘酸っぱさだの極楽の気分だのを内包している事もあるが、殆どの場合主成分は幸せである。
それ程この世の中は空気中に幸せを吸引する物質があり、人々の幸せはどんどんと侘びてゆく他無いのだろう。
永琳の場合もそれは同じで、輝夜の我侭に小さくため息をするのは常であったが、今度ばかりは深い深い溜息であり、その分幸せもまたごそっと持って行かれた気分であった。
何せ、権兵衛、あの永琳を非理性的にする男と、少なくとも一週間以上屋根を共にする事になったのである。
恐らくは輝夜が蓬莱の薬を飲んで以来となるであろう大事件に、永琳はごくりと生唾を飲み込む。
と同時、誰も見ていない今、表情筋から憎悪の成分を離していいんだな、と気づき、永琳は表情を自由にした。
すぐさま、隠していた頬の紅潮が現れ、口元がだらしなくなってしまう。
誰も居ない自室のみで許される、表情筋を自由にできる時間の到来であった。

 まず永琳は、これはやっかいなことになったぞ、と、内心呟いた。
あの権兵衛と言う男は、兎に角、永琳にとってマズイ男である。
なにをどう以てしてマズイと言うのかは言語化しにくいが、兎に角永琳を興奮させたり切なくさせたり、普段封じている情動を無理矢理に動かしてくるので、マズイのである。
なので本当は二週間は取るべきだと思った、半人半霊との冷却期間や取ってしまった臓器の再生期間を、半分の一週間と言って、とりあえず権兵衛を遠ざけようとしたのだが、それを輝夜の我侭が邪魔をした。
よって、一週間でもとんでも無いと言うのに、それ以上に、権兵衛と屋根と共にする事になったのだ。

「――っ」

 思わず畳の上を転がりだしてしまいたくなる衝動を、必死に自身を抱きしめて抑える。
何かの拍子で今度興奮してしまったら間違いなくその衝動を押えきれないので、慎重に、しかし確実に、肺の中の熱い空気と空中の冷たい空気とを交換する。
暫くその作業のみに没頭し、どうにか頭が冷えてきたと思った辺りで、永琳は考えを再開させる。

 兎に角、権兵衛を一週間以上永遠亭に住まわせるのは、決まった事であるので、仕方が無い。
いや、仕方ないで済ませれる問題では無いのだが、それを置いておいて、更に問題がある。
輝夜が、権兵衛の世話を、果てには家庭教師をすると言い出した事である。
永琳はとっさに、自分が輝夜にしたように、権兵衛の教育係をする所を想像してしまった。
机に向かう権兵衛の後ろから、肌の触れ合わんばかりの距離で、後ろから権兵衛に指導をして。
失敗をすれば権兵衛を窘め罰を与え解剖したり、成功をすれば頭を撫でてやったりと。

「~~っ」

 今度は、衝動を押えきれなかった。
ぽふん、と音を立てて敷いてあった布団の上に転がり落ち、しかしせめてコロコロと転がり出さないよう、布団をぎゅっと抱きしめて、その代わりに力を発散させる。
興奮して荒くなった息が常の通りになるまで、じっとその姿勢で居て、ようやく冷静に考えを続けられるようになった頃、永琳は思考を再開させる。

 兎に角、輝夜は権兵衛の家庭教師をすると言ったが、それが上手く行くとは永琳は露程にも思っていなかった。
何せ、輝夜である。
何かされるのが大得意で、何かするのが大の苦手の姫である。
それが教師と言う、ある程度忍耐の居る上、相手を理解する事が必要な職を全うするのは、到底不可能であるように思えた。
なのでそのフォローをしなければならないが、永琳は権兵衛に近づきたくはない。
そう、だって権兵衛は、こんなにも永琳の心を乱すのだ。
心の乱れとは、すなわち恥である。
こんなに永琳を恥らわせる権兵衛に、永琳から近づくなど、以ての外である。

 それにしても、と、永琳は少し考えを脱線させた。
何だって権兵衛は、こんなにも永琳の心をかき乱すのだろうか。
内臓の美しさから、と言うのは確かにあるが、果たしてそれだけだろうか?
否、少なくとも、それだけではない。
何せ先程、治療の説明をしている間にも、権兵衛は永琳の心を、これ以上無い程に掻き乱したのだ。
特に下の名前で呼んでくれるようになった時など、権兵衛を直視する事すらできなかった程だった。
と言うか、かき乱されているのは、初対面からずっとどころか、こうやって対面していない時でさえも、である。
これではまるで、と永琳はうかつにも思う。
これではまるで、一目惚れのようではないか、と。

「~~っ!」

 今夜最大級の衝動が、永琳を襲った。
きゃ~、と叫びださなかったのが奇跡だろう。
どうにか一線を守りきった永琳は、震えながらぎうっと布団を抱きしめ、深い、深いため息をついた。
今度こそは幸せよりも、甘酸っぱさの方が含有量の多いであろう、ため息を。
なんと言うことだろう、と永琳は内心で呟く。
これではまるで、初な少女のようではないか。
こんな姿、自分には絶対に似合わない。
と言う事はつまり、一目惚れ、なんて事は、絶対に無いのである。
なんだか論理の飛躍が見られるが、それでも絶対は絶対なのである。
なんて事を考えている最中の永琳に、声がかかった。

「お師匠様、失礼します」

 鈴仙の声であった。
吃驚して跳ね起きた永琳は、さっと回りに目を通す。
ぐしゃぐしゃになった布団に髪の毛、皺になった服、じんわりとしみ出してきている汗。
不味い、と永琳の額に冷や汗が混じった。
ちょっと待って、と声をかけて、手早く身支度を整え、それから通す事にする。

「どうぞ、もういいわよ」
「それでは、失礼します。……あれ、お師匠様、汗かいてますけど、今夜はそんなに暑かったですか?」
「そ、そうかもしれないわね」

 流石に湧いてくる汗ばかりは短時間でどうにもできず、鈴仙に指摘されてしまい、再び冷や汗をかく永琳。
それを不思議そうな目で見ながら、鈴仙は続ける。

「で、どういったご用向きでしょうか」
「えぇ、それなんだけどね」

 永琳は、輝夜が新しく飼う事にした権兵衛の事と、輝夜がその家庭教師をすると言う事を説明する。

「教師って、前に家の兎相手にやって、すぐに飽きてませんでしたっけ……」
「えぇ。そんなんだからきっと上手くゆかないと思うけれど、あまり粗雑に扱う訳にもいかないのよ」
「あぁ、白玉楼の客、でしたっけ」
「で、貴方に頼みたい事があるの」

 げっ、と、鈴仙が嫌そうな顔をする。
残念ながらその予感は当たりである。

「貴方に、隠れて輝夜のフォローを頼みたいのよ。あと、作業兎を使って、常の世話も」
「うっ、その、師匠じゃなくて、私が、ですか」

 鈴仙は臆病な兎で、何せ地上人との戦いが怖くて逃げ出したと言う上に、未だに里人とも満足に会話できていないぐらいなので、この返答は予測していた。
と言ってもしかし、どうしても権兵衛の世話をする自分を想像してしまい、永琳は頬を緩めそうになる。
しかし、それを誰かの前で出すのは、当然、恥である。
故に絶大な憎悪でそれを塗りつぶし、どうにか、頬は軽く歪ませた程度で済んだ。
すると何故か、鈴仙が数歩引いたような気がする。

「わ、わかりました……。や、やります」
「えぇ、素直なのはいい事よ」

 まぁ、この臆病な兎の事だろう、大方今の漏れ出した憎悪が怖くて反応したのだろう、と思いながら、永琳は満足気に頷いた。



      ***



 ぱちん、と眼が開いた。
夢とは、現実とは相いれぬ魂の置き場所であり、当然、普通一つしか無い魂は同時に二箇所に置けないので、魂は常にどちらか一方に属する事になる。
夢から覚めると、夢の内容を忘れてしまうのは、その為である。
と言っても、それには一つだけ例外があり、夢から覚めつつある、境界の曖昧な間だけは完全に夢を記憶しているのだ。
しかし当然それは現実に起きる為には捨てなくてはならない記憶であるので、それにならい、俺は夢の記憶を捨て現実に起きだす事にする。
俺は、広い和室の真ん中に、布団の中で寝ていた。
こうまで広い和室と言うのはどうにも白玉楼を思い起こさせるのだが、此処は、どうやら違うようだ。
欄間の意匠が違うようだし、飾られている調度品も、僅かに近代へと針を振ったような感じのする物である。
と言っても、俺に取っての現代と言う感覚――外の世界の感覚を比べると、まだまだ古めかしい物であるのだけれど。

「さて、俺は何処に居るんだっけかな……」

 呟き、上半身を起こしてみる。
すると、布団の脇に藍染めの簡素な着物が畳んであったので、とりあえずそれに着替えながら考える事にする。
脱いだ寝間着と布団を畳んで、とりあえず目覚めはさわやかで、何時になくさっぱりとした感じで、今日は一日良い日になりそうだな、と思った辺りで、そっと襖が開いた。
陽の光に、目を細める。
太陽の光を背負って来たのは、見知らぬ美少女であった。
紫がかった薄い色の髪を膝近くまで伸ばし、瞳は赤く、肌は雪のように白い。
と、そこまでなら普通の美少女であるのだが、此処からは物が違った。
うさみみだった。
しかもブレザーにスカートだった。
意味が分からないと思うが、俺にも分からなかった。
意味不明度の高さが、何時ぞやの妖夢さんのいきなり土下座を軽々と超えてゆき新記録を達成するのを感じながら、俺は少女の言葉を待つ。
待つ。
待つ。
………………?

「「えっと、あの」」

 と、お互い痺れを切らしたのだが、声を掛け合う形となってしまった。
思わず目を見合わせて、くすり、と微笑み合う。
何だかこんな風に気が合うような仕草があると、それだけで幸せな気分になってしまう。
ちょっと俺の幸せが安くなりすぎている事に危機感を覚えながら、ここのところ、こんなお見合いになってしまう事が多いな、なども考えつつ、口を開く。

「俺は、外来人の七篠権兵衛と言います。起きたら此処に居たんだけれど、君は此処の人でいいのかな」
「あ、うん。私は、鈴仙・優曇華院・イナバです。その、此処、永遠亭の兎のリーダーと言う事になるわ」

 永遠、亭。
その一言で、安っぽい幸せが吹き飛んでしまうような、絶望の嵐が俺の心を襲う。
そうだった、俺は呑気に寝てなどいたけれど、今、俺は、家畜同然に扱われているのだ。
しかもそんな風に扱われるのに反抗する気力すらなかったと言う事実が、俺の価値の低さを指し示しているような気がして、その扱いの正しらしさを証明している気さえする。
何が良い一日になりそうだな、だ。
朝から最悪の気分だった。
これから俺は、どうなるんだろう、と、否が応でも、嫌な想像が俺の中で育ってゆく。
あの俺を人間以下としか扱ってくれない里人でさえ、俺を家畜のようには扱わなかった。
なら、家畜の扱いとはどうなのだろうか。
檻の中にでも入れられて、鑑賞されるのだろうか。
首輪でも嵌められて、何処ぞへ繋がれるのだろうか。
餌は這いつくばって食べねばならないのだろうか。
暗雲立ち込める未来が次々と浮かんでは消え、代わりに俺の頭の中を重くしてゆく。
家畜の気分とはこういう物を言うのだろうか、と思いつつも、思わず膝を付きそうになってしまうのをぐっとこらえる。

「えっと、大丈夫?」

 大分酷い表情をしていたのだろう、優曇華院さんが声をかけてくれた。
しかしその目が何を語っているのかは分からず、と言うのも、視線を足元から上げる勇気すら、俺には残っていなかったのだ。
これでもし、その視線に一片の悪意でもこもっていたら、俺が家畜として扱われるのを更に実感させられるような気がして。
かと言ってずっとうつむいたままで居る訳にもいかないので、意を決して頭を上げると、幸い、少女の目には俺を心配する一念だけがあった。
俺は彼女の心配を疑ってしまった事を恥ながら、兎に角、すっと息を吸い、吐く。
頭の中を真っ白にして、余計な事を考えないように、ただ目の前の少女を心配させない事だけを考えるように努める。

「あ、あぁ。ありがとう、優曇華院さん、大丈夫だよ」
「あー。えっと、鈴仙の方が呼ばれ慣れているから、そっちでいいわ。とりあえず朝食に案内がてら此処について話をしようと思うんだけど、いいかしら」
「ああ、分かったよ」

 頷き、俺は鈴仙さんに連れられ、廊下に出る。
するとその廊下が長いこと長いこと、もしや此処はあの白玉楼のような巨大な屋敷なのではないか、と思える程であった。
関心しつつ、こんなに広いから部屋を家畜ごときに与える事もできたのか、と、考えつつ、先導する鈴仙さんに続く。

「えっと、何から話せばいいのかしらね……。輝夜様の呼び出しが無ければ、基本的に自由にしていていいわ。多分一日に一回はあると思うけど。
えーと、それ以外は、兎の仕事を邪魔しない事、お師匠様……永琳様の言葉には従う事、食事の時間は守る事、それぐらいかしらね。
で、さっきの部屋が貴方の部屋、食堂はあっち、厠はこっち、輝夜様の部屋はそっち。まぁ、分からなければ妖怪兎を捕まえて聞けばいいわ。大抵、暇してたりサボってるのが何羽か居るから。
あー、でも一羽、物凄い腹黒いのが居るから注意してね。まぁ、でも騙された分幸せがもらえるだろうから、別に良いのかな。
………………って、あれ、どうしたの?」

 思わず、俺は途中で足を止めて聞き入ってしまっていた。
基本的に自由?
貴方の部屋?
食堂?
想像とは全く別の言葉が出てくるのに、頭の回転が追いつかない。
俺は、家畜として飼われるのでは無かったのだろうか?
それとも、もしや。
俺は、人として扱ってもらえるの、だろうか?
そう思うと同時、体中から力が抜けて、今度こそ、ぺたんと座り込んでしまう。

「え、え!? な、なんで泣いて……」

 泣いて?
疑問詞と共に目の下に触れると、暖かな液体が流れ出ていた。
そう、か。
俺は、泣いているのか。
そう自覚すると、もうどうにも止まらず、静かに流れていた涙も濁流のように流れだし、喉の奥からのうっ、うっ、と泣き声が漏れ出し始める。

「ご、ごめ、ん、うっ、ひぐっ、うっ、す、すぐに、泣き止むからっ」
「ど、どうしたのよ一体」
「き、昨日、うっ、飼われるって、聞いて、ううっ、家畜みたいに扱われるのかと思って。
こ、これまで、うああっ、里の中でだって、人間じゃないみたいに、うっ、扱われてて、そ、それだけでも、もう、限界だったのに、ううっ。
これから、そ、それ以上に、ひぐっ、酷く、なるんじゃ、とばかり、ううっ、思ってて……、うぐっ、き、昨日の夜だって、本当に、怖くて、ずっと眠れなくって。
そ、それでも、うっ、ひ、人並みに扱ってもらえるって、分かって、ひっく、あ、安心したら、なんか、涙が出てきちゃって」

 全くこんな事で泣いても仕方が無い事だ。
何せ単なる俺の勘違いと言うとてつもなく恥ずかしい事で、その上、永遠亭の人々を人間を家畜のように扱うようだと勘違いしていて、甚だしく失礼である。
俺は泣く前に彼女に謝らねばならないし、鈴仙さんも俺をなじる権利があると言うのに。
ぽん、と肩に手を置かれる。

「あーもう、しょうがないわね」

 と、苦笑しながら、慰めてくれる鈴仙さん。
それだけで、肩越しに人の体温に触れるだけで、俺の涙腺は決壊してしまったらしく、最早涙は、止めようのない量になっていた。
ぽたぽたと廊下に落ちた涙が次第に繋がり合って、広がってゆく。

「あううぅ、ううっ、うあぁあああっ!!」
「大丈夫、もう大丈夫よ」

 掌が肩を離れ、ぽんぽんと、子供をあやすように頭を撫でられる。
たった掌一つ分の体温だと言うのに、それがとてつもなく嬉しくて嬉しくてたまらなくて、俺は、しばらくの間泣き続ける次第となった。



      ***



 で。
数分後。
俺と鈴仙さんは、食堂で俺一人朝食をつつきながら、お互い顔を真っ赤にしてうつむいていた。
鈴仙さんが顔を赤くする理由は分からないが、俺の方はと言うと、もう本当に恥ずかしくて恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
何せ成人前とは言え、大の男が、慧音さんに拾われた時以来の大泣きである。
しかも理由が、勘違いから、ときた。
何とも阿呆らしい理由で、その勘違いだけでも恥ずかしいのに、泣き顔を見せて、しかも慰めてもらっては、二重に恥ずかしい。
そんな訳で、無言のまま朝食を終える次第となった。
折角用意してくれた朝食だと言うのに、味わう事すらできないままであった。
その事に申し訳なさを感じつつ、とりあえず食器を水につけておき、お茶を入れてもらい、鈴仙さんと対面に座る。

「あー、えっと」

 口火を切ったのは、鈴仙さんだった。

「普段の食事はこんな感じで、輝夜様とお師匠様、私と、あと兎のまとめ役のてゐって子が居るんだけど、その四人と一緒に取ることになると思うわ」
「あ、はい。えっと、永琳さんも、ですか」

 俺を嫌っているであろう人の名前に、思わず身構えてしまう。
同時に、昨日の悪意の篭った永琳さんの視線を思い出し、僅かに体を震わせた。
里人達の悪意にも勝るとも劣らない、絶大な悪意だった。
一体俺の何が癇に障ったのかは分からないが、何せ相手が、何をしても嫌われる事のできる特技を持つ俺である、心当たりが多すぎて絞れない。
となると、あの悪意を改善する事は叶わず、食事の度に顔を合わせる事になるのか、と若干気が滅入ってしまう。
勿論嫌われる事をしたのは俺であるので、こんな気の滅入り方は筋の通らない事なのだが、そんな俺に鈴仙さんが安心させるような笑みを浮かべてくれた。

「あー、まぁ、大丈夫よ。お師匠様は理性的な方だから、輝夜様の……えっと、ペットって事になってる貴方には、手出しするような事は無いと思うわ」
「はぁ」

 と言っても、直接的に手出しされずにどれだけの悪意を身に受ける事ができるか、身を持ってよく知っている俺としては、まだ心配であった。
それが顔に出てしまったのか、仕方ないなぁ、と言わんばかりに、鈴仙さんがその端正な顔を崩す。

「はぁ。ま、大丈夫よ。いざって時は、私を頼ってくれてもいいから」
「え、あ、その、いいんですか?」

 鈴仙さんにも立場と言う物があるだろうに、と疑問詞をあげる俺に、花弁の開くような笑顔を見せながら、鈴仙さんは言う。

「あんなに泣いているのを見ちゃあ、私だってほっとけないわよ」

 と言われてしまえば、俺としても顔を赤くしてうつむいてしまうしかないのだが、その際に視界の端に捉えた鈴仙さんの顔も、赤みを帯びていたような気がする。
ひょっとして、鈴仙さんも恥ずかしさをおしてこの言葉を言ってくれたのではないかと思うと、感謝もひとしおである。
――あぁ、この人はなんていい人なんだろうか。
感謝しても感謝してもし足りず、何時かこの恩を返せたらな、と思いつつ、俺の永遠亭での生活が始まったのであった。




あとがき
と、一行目からアクセル全開の話でした。
なんとかギリギリで一週間更新を守れました。
ちょっと筆が乗らず、この調子だと次回の更新にはちょっと間が空くかもしれません。



[21873] 永遠亭2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/10/31 19:52


 蓬莱山、輝夜さん。
俺の住まうこの永遠亭の主である彼女の印象はと言うと、まずは美人だと言う事だろう。
身も蓋もない感想だけれど。
と言っても、本当に浮世離れした美人で、こう、恩のある女性を美しさで比べるのは失礼な気がするが、それでも敢えて比べるのだとすれば、間違いなく俺が今まで出会った中で一番の美人であった。
長い黒髪に宝石の瞳、完璧な眉に柔らかな唇、均整の取れた体、全てが美しく、どこか人の手を離れた、作り物じみた美しさ。
それに拍車をかけるのが、その浮世離れした心だろうか。
なんていうか、俺は幻想郷の人間ではないからか、慧音さんや妖夢さんや幽々子さんとの会話でも、たまに何か、男女の違いとか、年齢の違いとか、種族の違いとか、その辺とは違うような齟齬のような物を感じる事がある。
のだが、彼女と話していると、それともまた違うような、不思議な齟齬を感じるのだ。
なんていうか。
宇宙人と、会話しているみたいな。
と言っても、ちんぷんかんぷんで不愉快と言う訳でもなく、なんというか、そこに俺は、奇妙な親しさのような物を感じていた。
さてはて、何なのだろうかと考えると、思いつくものが一つある。
所詮外来人でしかなく幻想郷に馴染むしか無い俺には、矢張り幻想郷の人たちとは未だ微妙な齟齬があり、そしてそれを解消しなくてはならない。
すると幻想郷の人々とはまた違った齟齬を感じる彼女も、同じように幻想郷の人々との間に間隙があり、それに親近感を感じているのかもしれない。
まぁ、事実はどうなのかは、俺とて自身の心を全て把握しているわけではないので、知る由もないのだが……。
兎も角。
まぁそんな感じなので、俺は彼女に対して、好感とも嫌悪とも違う、何とも言いがたい不思議な感情を持っていた。

 で。
昼食時、俺の顔を見て思い出した、と言う感じに言いつけられた通り、昼食を終えてから妖怪兎さんの案内で、その輝夜さんの部屋に通された俺なのだが。
閉口一番、これである。

「ねぇ権兵衛、家庭教師って、何をすればいいんだっけ」
「はぁ……」

 訳分からん。
襖を開き通された部屋は、白玉楼で慣れたと思った俺をも唸らせる、豪奢な部屋であった。
襖には雄大な障壁画が描かれ、箪笥には所々金箔があしらわれ、中央には荘厳そうな木目残る机がある。
一つ違和感があるとすれば、この豪勢な部屋に、床の間には葉も花も実もつけない盆栽が飾られている事だろうか。
さて、何気に女性の私室に初めて入った俺は、輝夜さんと、低めの机を挟んで対に座布団に座っている訳だが。
やっぱり訳わからんので、とりあえず一般的な回答を返してみる事にする。

「雇い主の求める教養を、対象に教える事ではないでしょうか」
「あー、うん、そうなんだけどね、別に私がやりたくてやる事だし、何を教えてもいいから、何を教えようかなって」
「その、教え子の知識がどれぐらいか計って、教える事が可能で、かつ教えたく、できれば教え子が教わりたい事を教えれば良いのでは」
「そうね。なら権兵衛、何が教わりたいかしら?」
「って、教え子は俺ですか」

 ペットだったんじゃなかろうか、首を傾げる俺に、自慢げに、そうよ、と輝夜さん。

「だからほら、眼鏡よ眼鏡。女教師には必須アイテムよね」
「四角いリボンのついた帽子もいいような」
「二半獣の真似は、焼き鳥が嫌いだから嫌なのよ」
「此処で兎肉を食べると、それはそれで非常に問題なような」
「大丈夫よ、家は鶏肉派。兎角同盟が抗議してきて、五月蝿いのよ」
「亀の毛に抗議されても。存在しない声って五月蝿いんですか?」
「ええ。家には波を操って、存在したりしなかったりする兎も居るからね」
「はぁ。確率を操るって、凄いですね」

 と、そこまで話すと、やや上目遣いに、輝夜さんが目を細める。
そこはかとない色気に、思わず喉を鳴らす俺。

「あら、凡夫っぽい顔だけど、意外と教養はあるのね。でも、質問に答えないのは嫌われるわよ?」
「ああ、すいません。ええと……」
「じゃあ、月流の霊力でも教えてあげようかしら」
「質問は一体何処に」
「嫌いだもの。好き嫌いして、端に寄せておいたわ」
「そして哀れ残り物は捨てられてしまう、と」

 と言うが、月流と言うのは分からないが、霊力の扱いと言うのは魅力的な教えだった。
この幻想郷では、外の世界と違い、人脈、金、権力以外にも、戦闘力と言う物が大きな力として認知されている。
と言うのも、いくらスペルカードルールがあるとは言え、それに参加できるのは霊力持ちだけ、一般人は里を一歩出れば妖怪に食人される可能性が常に存在する。
故に霊力を扱える、つまりスペルカードルールに参加できると言うのは一種のステータスとして認められており、しかもそれは、人脈のように突然崩れ去ったり、金のように里の都合で左右されない、安定した力である。
勿論金ほど利便性の高い物では無いが、この幻想郷に限り、非常に有用な力と言っていいだろう。
是が非でも、教えて欲しい事だった。
が、一つ疑問がある。

「一つ、質問なんですけど。俺って、使う程に霊力があるんでしょうか?」
「あら、貴方結構霊力持ちよ? 紅白程じゃあないけど、鍛えればそのうち白黒ぐらいにはなれるんじゃあないかしら」
「はぁ。モノトーンですね」
「そう、モノトーンなのよ」

 よく分からないが、とりあえず俺にはそこそこに霊力とやらがあるらしい。
紅白と白黒の違いはと言うと、目出度さぐらいしか思いつかないのだが、俺の霊力はよっぽど目出度くないのだろうか。
まぁ兎に角、霊力の扱いが魅力的な教えなのに変わりは無いので、頭を下げて教えを乞う事にする。

「では、ご教授、お願いしてよろしいでしょうか?」
「うーん、もう一声」
「ええと、とてもよろしくお願いします」
「中学生の和訳みたいね」
「何卒よろしくお願いします」
「ううん、もうちょっと月的に」
「ルナティックお願いします」
「うーん、まぁいいわ。じゃあ、月流の霊力の使い方を教えてあげるわ」
「あ、ありがとうございます、先生っ!」

 何だかよく分からないやり取りがあったが、兎も角俺は霊力の使い方を教えて貰えるらしい。
期待の目で輝夜さんを見上げると、ふふん、と得意気な表情をし、胸を張る輝夜さん――いや、輝夜先生。
クイッっと中指で眼鏡を引き上げ、一言。

「で、権兵衛。霊力の教え方って、何をすればいいんだっけ」
「………………」

 結局、初回は永琳さんを呼んで、輝夜先生が霊力講師の授業を受ける次第となった。



      ***



 全く、なんで私が授業を受けなきゃならないのかしら、とぶつぶつ言う輝夜先生を宥めながら、永琳さんの刺すような視線に晒されて三時間ほど。
進みすぎていて全く分からない内容と二人だけで十分な内容に、ようやく、あ、俺いなくて良かったんじゃ? と気づき、しかし何故か永琳さんに出してもらえず、輝夜先生の宥め役を続けて二時間ほど。
たっぷりとした密度の時間に晒され、ちょっとげっそりしながら、輝夜先生が根を上げた事でようやく解放された俺は、永遠亭の中をふらふらと散歩していた。
と言っても、庭を眺めながら縁側を廻っているだけなので、案内は必要なく、一人で気楽なぶらり歩きと言う奴である。
時たますれ違う妖怪兎さんに会釈を返しながら、本当にゆっくりと、永遠亭を回ってゆく。
庭、と言っても、それ程整備された庭は無く、土が面を出しているだけ。
そこだけ見ると白玉楼には見劣りしてしまうが、少し面を上げると、違う物がみえてくる。

 代わりに見えてくるのは、竹林だ。
周囲は鬱蒼とした竹林に囲まれ、夕焼けの日を反射するその光景は、幻想的で、他の光景とは一線を画す光景であった。
竹とは、百二十年に一度花をつけるだけで、それ以外はずっと青々と細いままの身を伸ばすばかりの植物である。
他の植物はもっと早い周期で花をつけ、その茎を太くしたり曲げたり、木となりその幹を大きく広げたりするのに対し、竹は常に真っ直ぐで青々としている。
それは、竹が月の穢れ無さに惹かれる植物だからである。
何故かと言うと、竹は人の見ていない夜、何故か地上の六分の一しか重力の無い月に伸びてゆく事から、分かるだろう。
竹は地上の穢れからできるだけ身を離し、穢れ無き狂気に満ちた月へとその身を伸ばすのだ。
他の太陽に向かって伸びる植物は、太陽に近づき過ぎてその身を焼かれない為、先端を曲げて伸ばすが、対して竹は真っ直ぐ伸びてゆくと言うのも、その事実を裏付ける一因となるだろう。
月と竹との関係は、加えて竹取物語などの物語を見ればよく分かるだろう。
他にも、竹が花をつけるのが、百二十年に一度と言うのも竹の特殊性を表している。
百二十年とは、六十年を二倍した数である。
以前慧音さんに聞いたのだが、幻想郷の記憶は、六十年に一度歴史に変換されるらしい。
何でも六十とは幻想郷の自然の属性全てを掛け合わせた数らしく、それはあらゆる物の再生を意味するのだとか。
物の再生。
切っても切っても生えてくる竹に、何とも似合った事柄ではあるまいか。

 とまぁ、そんな事を考えながら、竹林を眺めながら歩いていると、ついに永遠亭を一周してしまった。
散歩を始める前に見た自室の時計によると、夕食まではまだ時間はある筈だが、さて、どうすべきか。
出来る事なら、炊事はちょっと自信がないが、掃除ぐらいなら手伝おうか、それとも中身があるような無いような感じだった輝夜先生の初回授業の復習でもしようか、と、思い悩んでいた所であった。
急に、ヒョイっと目の前に妖怪兎さんが飛び出してくる。

「あいたっ」

 どん、と。
どうでもいいことを考えながら歩いていた所であったので、そのままぶつかってしまい、尻餅をついてしまった。
思わず痛みに目を顰めるが、それよりも大変なのは、勢い良く体も小さかった妖怪兎さんである。

「だ、大丈夫ですか」
「あーいたいなー、いたたー、骨が折れてるかもー」

 一瞬妖怪だから大丈夫なのでは、と顔色を見て思ったが、どうも聞く限りではそんな事は無かったようだった。
全く腫れているように見えないのだが、彼女が抑えている二の腕は折れているかもしれないらしい。
しかもやけに平坦な声な事を思うと、喉の辺りを傷つけてしまったのかもしれない。
どうしよう、どうしよう、と頭の中でぐるぐると言葉が回る。
まるで地面が無くなってしまったかのように、がくがくと膝が震え、目眩がする。

「と言う訳で、慰謝料と言う事でこのお賽銭箱に――」
「た、大変です、早く治療しないとっ! えっと、腕、ですよね? 立てますよね? それじゃあ、早く永琳さんの所へ行かないと!」
「いや、その、賽銭箱――」
「えっと、立てないんですか? 肩を貸しましょうか? えっと、ごめんなさい、抱っこして連れてゆくには俺の力がこころともないので……」

 と、両手を差し伸べると、ため息混じりに、ぺしん、と手を叩かれてしまった。
思わず、目を見開く。

「はぁ。わたしゃあこれでも健康に気を使ってきていてね、この程度じゃあ怪我なんてしないわよ」
「へ? でも、さっき骨が折れてるかもって」
「“かも”ってね。ただの方便よ。全く、これはこれで面白いかもしれないけれど、ちょっと遊び方を間違ったわ」

 と言って、やれやれを肩をすくめながら立ち上がる、妖怪兎さん。
ローティーンと思わしき幼い容姿に、妖怪兎共通のワンピース、首辺りで揃えた黒髪にぴょこんと生えたウサミミ、ここまでは他の妖怪兎と同じだったが、唯一首から下げる人参のペンダントだけが彼女を独立してみせる。
その彼女の様子には全く怪我が見受けられず、違和感ある動作もない。
そんな彼女に、俺はようやく胸をなで下ろす。

「良かったぁ」
「へ?」
「だって、貴方に怪我は無かったんですよね? それ以上に安心な事なんて無いじゃないですか」

 と言うと、何故か変な顔をする妖怪兎さん。
はて、どうしたのだろう、と首を傾げつつ、俺も立ち上がる事にする。

「あんた、騙された事にまだ気づいていないの?」
「え? あぁ、そう言えば、そう言う事になるんでしょうね。でもまぁ、お互い怪我が無くて良かったですよ」
「……ああ、そう。まぁいいや」

 何故かため息をつく妖怪兎さん。
とりあえず、初対面であるので、遅ればせながら、と自己紹介を始める。

「ええと、この度永遠亭でお世話になる事になった、外来人の七篠権兵衛です。よろしくお願いします」
「うん? あーそっか、お昼には私用事で居なかったしね。私は妖怪兎のまとめ役の、因幡てゐ。趣味は人を騙す事。人間を幸せにする程度の能力持ちの、幸運兎ちゃんさ」

 趣味は人を騙す事、と聞いて一度目を細めた俺だが、最後まで聞いて、ほぉ、と、思わず目を見開く。
兎と言えば、かつて冥界と交信していたと信じられ、尤も生きる事に気を使ったとされる事から、その足が幸運の象徴とされた動物である。
そんな兎の中でも更に幸運と枕詞のつく兎と言えば、クローバーで言えば何十葉のクローバーに相当するものだろうか。
想像を絶する物があるが、少なくとも四十は下らぬに違いあるまい。

 となると、だ。
今、因幡さんが言った人を騙す事、と言うのは、人を幸せにする為に、必要な行為ではないだろうか。
何故なら、幸運とはとても大きな力である。
権力者ばかりではなく、日々をのんべんだらりと過ごす人々にとっても、喉から手が出る程欲しい物だ。
そのため、もし因幡さんが無制限に別け隔てなく幸せを分けてしまえば、恐らく彼女の幸せを得る為に、争奪戦が起きてしまう事だろう。
故に、彼女は人を騙し、その幸せを得るのに制限を設ける事で、争いを防いでいるに違いない。
人を幸せにする為に人を騙すと言う苦行をやってのけるその心には、畏敬の念を抱かざるを得ない。

「因幡さん」
「てゐでいいよ」
「てゐさん。感服しました」
「はぁ?」

 何故か疑問詞を浮かべるてゐさんの手を握り、膝をつき、先程思った事を伝える。

「あー、うん、そーゆーこともあるようなないような」
「くす、率直に肯定しないとは……矢張り謙虚なんですね」
「まー、そんな気がしたりしなかったり」
「所で、先生……いや、師匠と呼んでいいですか?」
「なんですとっ!」

 と、突然なので当然かもしれないが、シェーのポーズで驚くてゐさん。

「い、いや、あの、師匠は勘弁して欲しいかなーって……」
「あ、そうですか……突然すいません」
「いや、頭を下げるのはいいから、どうしてか教えてほしいんだけど」
「では、少し長く、聞きく苦しくあるかもしれませんが」

 と前置き、こほん、と咳払いをし、正座する。

「俺は、この幻想郷に入って以来、色々な人に様々な恩を受けてきました。
人里で慧音さん、白玉楼では妖夢さんに幽々子さん、ここ永遠亭でもそうです。
永琳さんには治療をしてもらいましたし、先程も輝夜先生の授業の手伝いをしてくださいました。
鈴仙さんは、変な勘違いをして失礼な思いを此処の人たちに抱いていたのを解消してもらった上、慰めてまでもらいました。
輝夜先生に至っては、三食と部屋を提供してもらった上、霊力と言う教養まで授けてくださっています」
「いや、輝夜様は強制でなかったかい?」
「そうですけど。でも、結局俺は得ばかりしているので、渡りに船だったと言うか」

 正直、いい加減家の収穫待ちの秋野菜が心配だと言う気持ちもあるのだが、妖精の祝福の為かはたまた変な力場でも働いているのか、家の野菜は奇妙に力強かったり運が良かったりするので、野生動物にでも喰われなければ大丈夫だろうと思う。
なので事実、輝夜先生の“飼う”発言により、俺は得ばかりしているのだ。
正直言って物凄い勘違いをしていたのは恥ずかしく、ついでに鈴仙さんに子供にするように慰めてもらったのも二重に恥ずかしく、思い出す度に赤面してしまうのだが。
とまぁ、そんな感じの事を蛇足として付け加えると、てゐさんは何故かふっと視線を明後日にやる。
はて、何があるのかとてゐさんの視線の先を辿るが、その先にはただただ竹林が静かに揺れているだけ。
まるでとんちんかんな事を言う男を前に遠い目をしたくなった人のようだった。
とりあえず、話が途中なので続ける俺。

「まぁ、兎に角俺は色々な人に様々な恩を受けてきました。
俺は、それをできる事なら返したいし、その努力を怠らないつもりです。
そこで転じて、てゐさんの人間を幸せにする程度の能力と言うのは、誰もに恩を返せ、幸せになる能力です。
つまり、俺の努力を、究極に実らせた形となるのです。
であれば、敬わない訳にはいかないでしょう。
と言って早速思い浮かんだのは先生なのですが、先生と言う呼称には先約があるので、師匠、と、そう呼ばせて頂きたく」
「はぁ……そーなんだねー」
「そして」

 と、一息切り、突発性頭痛を堪えるような姿勢のてゐさんに向かい、記憶にある限り三度目の土下座をする。

「図々しい事とお思いでしょうが。俺に、人を幸せにする事の何たるかをご教授願えないでしょうか」
「とりあえず回れ右して、自分の部屋に帰って飯まで寝な」
「はい、分かりました、てゐさん」

 と言う事で、立ち上がり、てゐさんにもう一度頭を下げ、それから回れ右して部屋に向かう。
と、数歩歩いた所で、急に足先の感覚が無くなる。
うわっ、と、情けない悲鳴。
バキッ、と言う音と共にぐわんと視界が縦揺れしたかと思うと、尻をつく。
右足が踏む筈だった床が腐り落ちていて、そこを踏み抜いてしまったようだった。
ちょ、大丈夫? と、助けにきてくれたてゐさんの手を借り、何とか体制を立て直す。
相当床板が柔らかくなっていたらしく、俺の足に汚れはあっても怪我は無い。
それを見て、あぁ、なるほど、と納得する俺。

「流石てゐさん」
「は? なにあんた、空気で頭でも打ったの?」
「成程、俺が率先して誰か踏み抜く筈だった床板を踏み抜く事で、他のみんなを幸せにする事ができたのですね。
それに俺自身の被害も、少し足が汚れただけで、怪我一つ無い、理想的に近い物とは。
感服致しました」
「……あー、もー、めんどくさいしそれでいーよ。さっさと部屋に帰りな」
「あ、はい。では、ご教授ありがとうございました」

 手をぷらぷらと振るてゐさんに再び頭を下げ、再び回れ右する。
今度こそ真っ直ぐに部屋に帰ろうとすると、すぐ近くの曲がり角に差し掛かった所であった。
デジャヴを感じる事に、急に、ヒョイと、目の前に妖怪兎さんが飛び出してくる。

「あいたっ」

 どん、と。
ぶつかる事こそは回避できなかったものの、今度は咄嗟に身を引き、妖怪兎さんの下敷きになるようにできた。
思わずほっとため息をつこうとしたその時、夕焼けの光に照らされ、空で踊る花瓶が見えた。
掴める位置だったので、咄嗟に手で掴むと。
じゃあ、と。
俺の頭に被る花瓶の中の水。
鼻だの口だのに入ってきて不快な上に、その冷たさに思わず身震いしてしまう。
咄嗟に閉じた目を開くと、とりあえず妖怪兎さんの方が背が低い為か濡れておらず、良かった、と内心で呟いた。

「大丈夫ですか?」
「あ、う……」
「えっと、何処か怪我でも?」
「い、いえ、何でもないですぅっ!」

 ぴょん、と、正に兎のごとく跳ね起きる妖怪兎さん。

「はい、これ。花瓶ですかね?」
「ははは、はい。ありがとうございます! あ、タオル持ってきますので!」

 と、正に脱兎の如く走って行ってしまう妖怪兎さんであった。
何だか顔が赤かったような気がするが、どうしたのだろうと首を傾げ、気づく。

「ああ、流石てゐさん」
「………………」
「成程、あの出会った時のぶつかった事すら、俺が彼女を庇えるように、つまり双方に怪我が無いよう幸せにする為の前兆だったのですね。
感服致しまし……どうしたんですか? てゐさん」

 と、先と同じくてゐさんの力に感服していると、てゐさんが何やら難しそうな顔で俺の事を見ている。
俺はと言えば勿論幻想郷の底辺を這う生き物であり、可笑しな所など探せばいくらでも見つかるだろうが、今の瞬間に見つかった物はと言うと、思いつかない。
はて、一体どうしたのだろうか、と首を傾げる俺に、何だか困ったような笑顔を作るてゐさん。

「……いや、あんたは部屋に帰ってなさい」
「え、でも」
「いいから」

 と、促されては仕方があるまい。
てゐさんの表情は何か困っていると言っているような物で、できる事ならば何か力になりたかったのであるが。
と言う事で、後ろ髪を引かれるような思いのまま部屋へと戻る俺なのであった。



      ***



 ため息をつきながら、因幡てゐは炊事場へと足を運んでいた。
がら、と扉を開くと、むわっとした熱気に包まれた空間がそこに広がっている。
秋もそこそこに深まった今、懐かしい残暑を思わせる空気である。
自然、暑さの嫌いなてゐは苦い顔をつくりながら、中の妖怪兎達の顔を見回す。
一様にてゐに頭を下げる顔の中、先程見た顔を見つけ、てゐはその顔に近づいた。

「どうしたんだい、あんた。権兵衛から、逃げるみたいにしちゃってさ」
「あ、てゐさん……」

 たじろぐその兎は、先程権兵衛とぶつかった兎である。
てゐより少し背が高く、腰ほどにまで黒髪を伸ばしている彼女は、妖怪兎の中でも少し大人っぽい方だ。
が、権兵衛の名前を聞くと、途端に頬を赤く染め、顔を埋めるようにする。
そのギャップに顔を歪めながら、てゐは苛立たし気に腰に手をやると、はっと己の所業に気づいた兎は慌てて手を伸ばし、ぶんぶんと振りながら口を開いた。

「あ、その、違うんです。その、本当は逃げるつもりもなくて、むしろ、会えたのが嬉しすぎて動揺しちゃったと言うか……」
「はぁ?」

 と疑問詞を口に出すてゐに、ぼそぼそと小さな声で答える妖怪兎。
この兎、何時だったか普通の兎の姿を取ってそこらを飛び跳ねに行った時があり、その時切り株にぶつかって目を回してしまったのだった。
起きて、人間の家の中に居る事に気づき、すわ食われるのかと思った所、仕方ないな、とばかりに離してくれた人間が居たのだそうだ。
その人間が、あの権兵衛だと言う。
そういえばそんな事もあったかな、と、ぼんやりとてゐは思い出す。
数カ月程前も、こんな噂があった。
何でも罠に掛かっていたところを、大国様もかくやと言わんばかりの相当な美男子に助けられた、美兎の話だったか。
眉唾物とは思っていたが、実物はこれである。
権兵衛は外来人特有の栄養状態の良さを含めても見目麗しい方ではあるものの、凡庸か美男子かと問われれば大半の人が凡庸と答える程度である。
尤も、単に大国様とまでは言わずとも、ある程度の美男子が良いのなら、妖怪の男を探せばいいだけなので、てゐはそこまで気にしていないが。

「あ、タオル持って行ってあげないと……、でも、水被っちゃったんですよね、着替えとかに鉢合わせしちゃったらどうしよう……、うぅ、手で顔を隠すフリして、指の隙間から見ちゃおうかな……」

 兎も角、疑問も晴れた事だし、欲しい答えが得られなかった以上、この妄想逞しい兎に用は無い。
そのままぶつぶつと妄想を続け、何時の間にか結婚式は和風が良いか洋風が良いかと言う話になっているのを背後に、てゐは炊事場を後にする。
靴を引っ掛け、そのまま外へ。
夕焼けが落ちる様の外は、初秋の涼し気な風が吹いており、てゐに張り付いていたむわっとした暑さの炊事場の空気を吹き飛ばしてくれる。
竹林が風に揺れるさざ波の音を背景に、竹林の中の無数の鈴虫の声が鳴り響く。
暫く瞼を閉じ、風が当たってくるのに任せていたてゐは、ゆっくりと口を開いた。

「七篠権兵衛、か」

 ざざざ、と、てゐの言葉に合わせるように、竹林がざわめく。
奇妙な男であった。
初対面ではなんて騙しやすそうな男なんだ、と思い、嬉々として騙しに行ったのだが……騙しやす過ぎて、一回転してしまったとでも言うべきか。
何とも話が噛み合わず、てゐとした事が、権兵衛のペースに巻き込まれてしまっていた。
まぁ、そこまでは良い。
いや、てゐの本業たる詐欺が行えない相手だと言う事は全然良く無いのだが、とりあえず置いておく。

 問題は、てゐと出会ったと言うのに、権兵衛が全く幸せになる様子を見せない事であった。
部屋に帰れと言えば腐った床板に足を取られ、妖怪兎とぶつかり一人水を頭にかぶる。
本人はこれが幸せにする能力だったのか、などとほざいていたが、無論こんなものが四十葉のクローバー程度の幸せな筈が無い。
勿論見えないどこかで権兵衛が幸せになっているのかもしれなかったが、それは無い、と、てゐの長年生き抜いてきた感が言っていた。

 所で。
妖怪とは、人間と違い肉体ではなく精神によって生きる糧を得ている。
よって肉体的な健康よりも精神的な健康の方が重要だし、病気にかかるときも、精神的な病にかかる方が多い。
その精神的な健康と言うのは、己がこうである、と言う明確なアイデンティティを確立する事である。
例えばシンプルな物で言うと、人間を食らうモノ、人間を驚かすモノ、人間と勝負するモノなどが挙げられる。
勿論精神と言うモノは次第に複雑怪奇となってゆくものなので、高位の妖怪はもっと複雑な自己を持っている事が多い。

 そこでてゐはと言うと、人を騙すと言う事と、人を幸せにすると言う事、その二つが主な己を確立する物である。
対し、権兵衛は、騙すと空回りする。
幸せにしようにも、勝手に不幸に陥ってゆく。
どちらか片方ならば無視のしようがあるが、両方とあっては嫌でも心に入ってくる。
つまるところ、権兵衛と言う存在は、てゐに取って猛毒であった。

「かと言って、無視するって訳にも、いかないんだよねぇ……」

 てゐが呟く通り、無視をすると言う事は、てゐにとって権兵衛が騙す事も幸せにする事もできない、と認める事になる。
今まで人を騙し幸せにしてきたてゐにとって、そんな人間が存在すると言う事は、精神の大きな傷となるだろう。
健康的に生きてきたてゐにとって、その傷は想像だにしない、大怪我となるに違いない。
それはもしかしたら、致命傷となるかもしれないぐらいに。

 てゐは、今にも落ちそうな太陽に目を向け、細める。
大きく息を吸って、吐く。
何故だろう、てゐは、かつて全身の皮が裂けた時以来の死の予感に直面していると言うのに、不思議と心は平穏を保っていた。
以前は、大国様に縋る程に生に飢えていたと言うのに、今は何故か、助けを求めようとは思えない。
ただ、足掻こう、とだけ静謐とした精神の中に思い浮かぶばかりだ。

 竹林に、背を向ける。
紫炎の空に瞳を向け、深呼吸。
ぐっと拳を握ると、歯を噛み締め、てゐは永遠亭の中へと戻ってゆく。
これからきっと、夕食の席で、てゐは権兵衛と顔を合わせるだろう。
騙す事も幸せにする事もできない、あの男と。
そして足掻くだろう。
何とか権兵衛を騙そうと、どうにか権兵衛が幸せにならないかと。
そしたらもしかしたら、奮戦むなしく、てゐはその命を失うかもしれない。
それがどうしてかそんなに恐ろしく無いのは、長生きし過ぎた故か。
自嘲の笑みを浮かべながら、ふと、てゐは思い出す。

「師匠、だったっけ」

 権兵衛がてゐの事を呼ぼうとしていた呼称である。
こんな風になって消えてゆくのだったら、その前の少しの時間ぐらい、そう呼ばせてあげても良かったかな、と思いながら、てゐは永遠亭の食堂へと向かってゆくのだった。



      ***



 幸せとは、何たるか。
人は言う。
幸福であるだけでは十分ではない、他人が不幸でなければならない、と。
ならば俺にできる最も平易である恩の返し方は、俺が不幸である事そのものなのではないか、と率直に思うが、それは間違いである。
なぜなら俺が不幸になろうと、結局俺は恩返しをなし得る事で幸福になってしまうので、俺のあげた幸せの条件は満たされない事になってしまう。
なので、俺はどうにかして恩人達に幸福を返す事を考えねばならない。
その為には矢張り、俺の独力では不可能であろうと言う事が思い浮かぶ。
それだけは疑念を挟む事無く言えるだろう。
何故なら、俺は、俺なのである。
善因も悪因も悪果となって帰って来る、俺なのである。
そんな俺が、どう足掻いた所で、一人で誰かを幸せになどできる筈があるまい。
なので他者の力を借りる事になるのだが、幸いにして、此処永遠亭では、借りる力に事欠かない。
俺如きに霊力と言う珠玉の力を与えてくれると言う輝夜先生。
人間に幸せを与える程度の能力と言う、俺の目標そのものを持つてゐさん。
後者はそのまま借りる事は出来無くとも、彼女が幸せを与える姿は、きっと参考になる事間違いだろう。
何時まで此処に居られるのかは分からないが、それでも出来る限りの事を此処の人々から学ぼう、と決意を新たにした辺りで、部屋の外から呼ぶ声。
先の妖怪兎さんがタオルを手に、夕食の時間を告げに来たのだった。

 それに従い、乾き始めていた頭をタオルで拭いた後、矢張り長い廊下を歩き、食堂へ。
既に席についている輝夜先生、永琳さんに挨拶し、暫く待つと、鈴仙さんとてゐさんも姿を現し、全員でいだたきます、と声を合わせるに至った。
今晩のご飯は、驚くなかれ、カレーライスである。
幻想入りしていたのか、と吃驚しつつ、早速銀のスプーンを手に取り、白いご飯と茶色いルーを半々に掬い、一口。
程良い辛味と旨みが口内に広がり、粒の立ったご飯と共に噛み砕かれ、嚥下される。

「うん、美味しい」

 すると、俺の言葉を皮切りに、鈴仙さんとてゐさんがにこりと微笑み、食事を始める。
どうやら、俺の感想を待っていたようである。
そう思うと嬉しいような恥ずかしいような、と顔を赤くしつつ、水を口に含んで永琳さんや輝夜さんの方に目をやる。
永琳さんは俺と目が合ったかと思うと物凄い勢いで外し、それに落ち込みつつ輝夜さんに目をやると、視線が机の上を泳いでいる。
あぁ、と気づき、俺は机の上にある醤油を手にとった。

「はい、輝夜先生」
「あら、気が利くじゃないの、権兵衛。やっぱりカレーには醤油よね。ソースなんて、ただでさえ茶色いのに何を考えているのかしら」
「や、すいません、俺は何もかけない派ですが」
「の割りには、気が利いたけど」
「何となく、輝夜先生は醤油が好きそうかな、と」

 わかってるわね、ととぽとぽ醤油をかける輝夜さんを尻目に、俺は続けてカレーライスを口にしようと思うと、じっと視線を感じる。
面を上げると、六つの瞳が俺を見ていた。
思わず、腰が引ける。

「あら、師弟初日だって言うのに、随分気が合うんだね」
「私も、何もかけない派だけど」

 と言う二人は興味の視線だが、何も言わないどころか微動だにしない永琳さんは、正直、ちょっと怖い。
しかもその手が伸びたまま固まっているのを見ると、輝夜さんに醤油を取ってあげようとしていた所だったみたいなので、それを邪魔してしまったようで、俺は何ともなしに申し訳ない気分になってしまう。
そんな訳で縮こまりながら、カレーライスをつついていると、不意に輝夜先生が口を開いた。

「師弟って言っても、今日は殆ど何も教えられなかったけど、ね」
「仕方ないわよ、輝夜。霊力講師の授業なんて、たった五時間じゃあ不安なぐらいだわ。本当は、もっと時間を取っても良かったぐらいなんだけど」
「わわ、それは勘弁」
「まぁ、兎達の教育とは訳が違いますからね」

 と鈴仙さんが呟くが、実際のところ俺が一向に霊力を使えなくても困るのは俺であり、輝夜先生は多分他の授業に興味を移してゆくだろう事を考えると、それ程訳が違うとも思えない。
それでも霊力講師の授業を輝夜先生にしてくれる永琳さんは、やっぱり根源的な所で優しいのだろうな、と想像する。
俺には、ちょっと冷たいけど。
中々目も合わせてくれないけど。
発言を無視される事もあったけど。
と、そんな事を考えていると泣けてきそうになるので、軽く頭を振ってネガティブな気持ちを追い出す。
折角の美味しい食事なのに、そんな事を考えながらでは失礼だからだ。
とまぁ、そんな風にカレーをぱくついている俺に、ふふん、と自信気に輝夜先生。

「まぁ、明日からはビシバシと行くから覚悟なさいよ、権兵衛」
「上手く飴と鞭を使い分けてくださると、助かりますけど」
「嫌よ、掃除が大変そうだもの」
「何ですか、それ」
「飴を投げた後、回収するのが手間だわ」
「ああ、汚そうですしね」
「いや、あの、何か違いませんか?」

 と、鈴仙さんが突っ込むのを尻目に、輝夜さんのお茶が尽きそうだったので、急須を手に取り輝夜さんの湯のみにお茶を入れる。

「あら、ありがとう。よくお茶が尽きそうだって分かったわね、硝子なんて無いのに」
「まぁ、何となく。それだけ毎日が飲茶なんでしょうかね」
「それだけ呑気で紅白っぽい毎日だと、明日からが大変そうね」
「明日怖い、明日怖い」

 などとやり取りしながら急須を戻した辺りで、またもや視線を感じる。
面を上げると、矢張り三対の視線が俺を見ていた。
何とか、今度は腰を引かずに済む。
頑張った、俺。

「いやぁ、妬けるねぇ。これが師弟の絆って奴?」
「私も、お茶ぐらい入れてあげるけど」

 と言う二人は兎も角、矢張り永琳さんは無言で停止していた。
それも矢張り、急須のあった場所に手を伸ばそうとしたまま。
またもや永琳さんの邪魔をしてしまった結果となり、何とも申し訳ない気分で縮こまりながらカレーライスをつつく俺。
そんな風に永琳さんとはちょっと気まずい雰囲気になりつつも、輝夜さんやてゐさんは楽しい話を提供してくれ、鈴仙さんは入れ忘れていた俺のお茶を入れてくれたりと世話を焼いてくれて。
こんないい人達に囲まれて、俺はなんと幸せなんだろう、と思いつつ、初めて五人で卓を囲んだ夕食を終えるのであった。



      ***



 鈴仙・優曇華院・イナバは様々な人に囲まれてその実、孤独であった。
輝夜は鈴仙を拾ったが、それは単なる気まぐれ以上でも以下でもなく、永琳は鈴仙を弟子にとったが、それは単に素直に言うことを聞く手足が欲しかったのと、月との交信役が欲しかっただけ。
感情的にも、鈴仙と他者の間には確実な間隙がある。
輝夜は全てに飽きながら自分の仕事を探す事が全てであり、そも、彼女は月兎を対等とはみなしていない。
永琳は鈴仙がどうこう言う以前に輝夜が全ての基準であり、彼女が鈴仙に抱いている感情は道具への愛着に近いだろう。
てゐに至っては、まず彼女に信頼を預けると言う行為自体が愚行である。
と言うか、そもそも鈴仙は非常に臆病で自分勝手であり、月の姫のペットだった頃と同じく、可愛がられる反面、嫌われるのが怖くて他者の心に踏み込めないのだ。
自分で居場所を作ろうとする努力を怠る者に居場所が無いのは、当然の摂理と言えよう。

 そんな折だった。
鈴仙が、権兵衛と出会ったのは。
権兵衛は、鈴仙の目から見て、彼女よりも更に臆病だった。
人の悪意に敏感で、永琳の言葉なき悪意だけで酷く消耗し、被害妄想にまで至った。
そればかりか、その誤解を解いても、失礼な誤解をしてしまった、と、嫌われる事を恐れていた程である。
そんな姿が、自分と重なったのだろうか。
月の姫のペットと言う立場が、同じだったからだろうか。
鈴仙は思わず、泣き出した権兵衛を慰めていた。
そればかりか、不安がる権兵衛に、何かあれば自分を頼れ、などと言ってみせたのだ。

 こんなの、私のキャラじゃない。
私はもっと自分勝手で、冷淡な兎だって言うのに。
それが鈴仙の正直な感想であるのだが、しかし体が勝手に権兵衛の事を慰めていたので、仕方が無い。
まぁ、頼れと言ってしまった事は仕方なく、また、元より師からの命令もあったので、鈴仙は今日一日、狂気を操る程度の能力で存在を消しながら、権兵衛のフォローの為彼の後をつけていた。

 そんな中で、分かった事がいくつかある。
中でも重要なのは、鈴仙は権兵衛が自分と似ていると思ったが、それが間違いであった事だ。
確かに権兵衛は、臆病で、傷つきやすかった。
しかも何だか自己嫌悪の念が強いらしく、時折そんな事を口から漏らしていた。
だがしかし、である。
同時に権兵衛は、人間関係を作ろうとする努力を怠ってはいなかった。
永琳の言葉無き悪意ですら傷つくぐらい傷つきやすく、更に言葉から推察するに、人里でもマトモな扱いを受けてこなかったと言うのに、だ。

 眩しかった。
どうしようもなく、眩しかった。
輝夜の理解不能な言葉を理解しようと努め、理不尽な不満を笑顔を壊さず宥め。
永琳の絶対零度の視線を受けて項垂れながらも、少しづつその悪意の源泉を見極め、せめて不快ではないように動こうと努力して。
てゐとの関係はかなり天然が入っていてズレていたけれど、それでも人を幸せにしようと頑張って。
その努力を惜しまない姿勢は、臆病さが臆病さだけに、際立っていて。

 せめてそんな権兵衛に手を貸してやりたかった鈴仙であったが、臆病な彼女には、それすらもできなかった。
何せ権兵衛は、輝夜のペットであると同時、永琳の憎悪の対象でもあるのだ。
三十年程と言う長い間、表情筋のみの関係とは言え永琳と師弟であった鈴仙には、永琳が感情を表にすると言うだけでも驚きの事態なのだ。
その上その感情が憎悪ともなれば、ただ事ではない。
鈴仙は長い間続けられてきた多くの実験で、永琳の恐ろしさと言う物を骨の髄まで知っている。
無感情であってもあれ程までに恐ろしい人なのだ、この上憎悪を持ってみせたならば、どこまで恐ろしい存在になるのか計り知れない。
故に鈴仙は、永琳に憎まれている権兵衛の肩を持つような行為は、恐ろしくて表立っては出来なかった。

 惨めだった。
ただでさえ自分と似ている権兵衛の輝きが側にあるからか、余計に自分の臆病さが際立って見える。
それでも不思議と権兵衛に負の感情を抱かないのは、彼に輝夜をして飼うと言わしめた魅力があり、その魅力に既に鈴仙がやられてしまっているからなのだろうか。
そんな陳腐な考えに自嘲しながら、茶を啜っている鈴仙に、永琳の声がかかった。

「待たせたわね、もういいわよ。権兵衛さんのフォローの報告だったわね」

 夜半の八意永琳の部屋、鈴仙は権兵衛についての報告をしに来て、師の仕事に区切りがつくまで待っている所であった。
丁度許しが出たので、はい、と頷き、鈴仙は報告を早口に上げる。

「朝、丁度起きた所に部屋に行けたので、そこから食堂まで行動を共にしました。
途中、輝夜様の飼うと言う発言が人権を踏みにじる物と思っていたようだったので、その誤解を修正しておきました。
で、顔を洗って朝食ですが、皆と同じく白米と味噌汁と目玉焼きとサラダを出しました。
食べ方は結構綺麗で、三角食べ、と言うか四角ですがそんな感じに食べていて、あ、目玉焼きには醤油派だったみたいです。
嫌い箸もそんなに無かったかな、礼儀正しく食べて、炊事洗濯は作業兎に任せているって言ったので、食器を水につけて、それから歯磨きしてました。
ふふ、彼、朝ご飯食べた後に歯を磨く派みたいですね。
で、それから午前中は特に何も無いと伝えて別れると、彼は永遠亭の散策に移りました。
あ、でも最初に厠に寄ってからですね。
大だったみたいです。
で、権兵衛さん、やっぱり礼儀正しいんですよね、兎とすれ違うたびにきちんと会釈しながらゆっくり縁側を一周して、それからは兎に聞いて私たち四人の部屋と炊事洗濯の場所、それから入っちゃいけない場所を把握して、とりあえず一回ぐるっと回ってみたみたいです。
気にしていた様子だったのは、炊事洗濯の場所でした。
ちょっとぶつぶつ呟いていたのを聞いた限り、手伝える事はあるだろうか、と思っていたみたいですけど、炊事は料理の腕で、洗濯は女性が多い事で断念したみたいですね。
それでちょっと落ち込んだみたいなんですけど、掃除や風呂焚きなら手伝えるかも、って元気出してました。
それから兎に言って紙と筆をもらって、自室で、多分寺子屋でやってる歴史の復習かな、そんな感じの物を昼食に呼ばれるまで書いていましたね」

 うん? と永琳が首を傾げるのに気づかず、何度かそんな権兵衛が可愛かった、と言いたかったのを我慢している鈴仙は、早口のまま続ける。

「昼食に呼ばれてから終えるまでは、まぁ、半獣と半人半霊と亡霊姫に無事と伝えて欲しいってぐらいで何もなかったですし、一緒だったので省略しますね。
それからもう一度厠に寄って、ちょっと便秘気味だったのかな、もう一回大で、ちょっと時間がかかっていたみたいでした。
で、輝夜様の授業へ向かって、途中何回か兎とすれ違った時も会釈をしてましたけど、特に何もなく輝夜様の部屋に着きました。
ここの経緯はお師匠様も聞きましたか? あ、はい、なら省略します。
で、輝夜様の授業が終わってから、もう一回厠に言って、今度は小だったみたいです、それからもう一度縁側をぐるっと一周して、そこでてゐと出会いました。
あの詐欺兎、いきなり当たり屋の真似して賽銭箱出して……、危うく私が注意しなきゃとも思ったんですけどね、此処がおかしいんですけど、権兵衛さんったら、ちょっと天然入ってて。
てゐの怪我の事を心配して、お師匠様の部屋に連れていかなきゃ、なんて言うもんだから、てゐも諦めたみたいでした。
で、互いに自己紹介したんですけど、此処がまた、権兵衛さんったら天然で。
何でだかてゐの事を師匠と呼んでいいですか、なんて話の流れになっちゃって。
確か、人を幸せにする事を目標としているから、だったかな。
ああ、てゐは断ったんですけどね、師匠。
で、てゐが呆れて部屋に帰れって言って、権兵衛さんはそれに従ったんですけど、腐った床板に足を取られちゃって。
幸い怪我は無かったみたいなんですが……、あそこの掃除担当の兎、許せませんよね。
後で罰を与えておきます。
あ、一瞬てゐの悪戯かと思ったんですが、焦ってたんで違うと思います。
それからもう一回部屋に戻ろうとした所で、花瓶を運んでた兎と、今度こそ本当にぶつかって」

 一旦、鈴仙は言葉を切る。
と言うのも、あの兎がわざとらしく権兵衛の上に乗っかり、しかも顔を赤らめて駆け出すなんて言う典型的な行動を取ったのを思い出すと、ふつふつと心に黒い物が浮かんでくるからだ。
噛み締めた歯を開き、深呼吸で内心の空気を入れ替え、心臓の動悸を落ち着かせる。
たかが地上兎の分際で権兵衛にあんなに大胆に触れ、その上怪我の心配をしてもらえる資格など無いが、それは過ぎたこと。
単に、明日の夕食が兎鍋に決まっただけの事だ。
そう自分に言い聞かせ、何とか続きの言葉を吐き出す鈴仙。

「大事は無かったようですが、権兵衛さんが花瓶の中の水を被ってしまいました。
あ、花瓶は無事でしたよ、権兵衛さんがナイスキャッチして。
で、今度こそ部屋に戻って、今度は輝夜様の授業の内容を、権兵衛さんなりに纏めて書き留めていたみたいです。
まぁ、内容が輝夜様向けだったので、本当にちょっとした概要だけでしたけど。
それから夕食に呼ばれて、これも一緒だったんで省略しますね。
で、それからは厨房でお茶を貰って、暫く自分の部屋の近くの縁側で竹林を眺めながらお茶を啜って、それから兎の呼びかけでお風呂に入りました。
やっぱり彼、礼儀正しくて、ちゃんと体を洗ってから湯船に浸かっていましたよ。
あ、体は喉から腕、体の前、後ろ、耳の後ろ、足の順に洗ってました。
で、湯船に浸かる時は、はぁぁーって、目を瞑って本当に気持よさそうな声出すんですよね。
くす、それとちょっと子供っぽいんですけど、権兵衛さん、小声で百まで数えてから、ゆっくりと体を伸ばすんですよ。
多分子供の頃の癖なのかな。
それからは暫く湯に浸かっていて、十分、いや、十五分ぐらいは浸かっていましたかね。
その後湯から出てから頭を洗って、あ、シャンプーに慣れてないのか、それとも久しぶりなのかな、ちょっと目にしみて渋そうな顔、してました。
で、もう一回髪にタオル巻いて湯船に、今度は五分ぐらいかな、それぐらい浸かってから出てきました。
風呂を出てからは、厨房で水を二杯ぐらい飲んでから、暫く縁側で夜風を浴びて、それから歯磨きをしてから、もう一回縁側で月を見ながらお茶を飲んで、それでもう寝ちゃいました。
ちょっと早寝気味なのかな。
と、まぁ、こんな所なんですけど……」

 と、興奮気味に話を終えると、永琳からは声が返ってこない。
どうしたものかと面を上げると、何故か永琳は、話し始めた時と比べ明らかに鈴仙と距離を取っていた。
どうしてか額に冷や汗を浮かばせながら、重そうに口を開くが、

「そう、ありがとう。下がっていいわ」

と、淡白な答えしか返ってこない。
もしかして、私の話の何処かがおかしかったのだろうか。
だとしたら一体何処がおかしかったのだろうか?
何処にもおかしい所なんて見当たらないのにな、と思いつつ、首を傾げながら退室する鈴仙なのであった。




あとがき
ちょっと間があきました。
と言うのも、間に頻繁に体調を崩していた為です。
皆さんも寒くなってくるこの時期、体調には気をつけましょう。
次回更新でその他板に移動予定です。



[21873] 永遠亭3
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/11/22 01:27


 夜の帳が降りた頃、輝夜は権兵衛と共にあと少しで満月となる月を拝んでいた。
輝夜曰く、権兵衛の学んでいる霊力の扱い方は、月の力を借りた魔法のような物なのだと言う。
本物の月からは大量の満月光線が降り注ぎ、月本来の穢れ無き魔力が得られる。
が、実際に幻想郷の天蓋に写っているのは、偽の月であり、表側だけの半分月でしか無い。
なので普通、表技で地上の生物が得られるのは、太古から続く本来の魔力の欠片に過ぎないのだ。
と言っても、それでも十分に強力であり、吸血鬼なんかはそれでとんでもなく力を増すのだが。
で。
裏技の方はと言うと、技法としての難易度や廃れ度の他に、それを扱う者に穢れが少ない事が必要なのだと言う。
当然、それを教えられる権兵衛は、輝夜曰く穢れは少ないのだとか。
穢れとは、寿命の存在であり、時が進み、変化がある事である。
故に生まれてから徐々に穢れは増えてゆき、数年も放っておけば裏技を扱うなど以ての外なほどの量になる。
一応穢れを抑える技術や穢れを消し去る方法は存在するのだが、それを知るために必要な知能は数歳児では不可能である為、結局の所、その裏技を扱えるのは穢れ無く尊い場所で生きる、月人しか居ない。
が、権兵衛は、例外である。
何せ名前と一緒に存在を亡くしてしまい、七篠権兵衛と己を名付けて新生し、まだ一年と経っていないのだ。
まだまだ穢れ分も少なく、輝夜に教えてもらった穢れを抑える方法を用いれば、どうにかなるのだと言う。
とまぁ、そんな訳で。
空中にぷかぷかと浮きながら、月明かりの元で実演授業と言う次第となった、二人なのであった。

「とまぁ、今更だけど、空を飛ぶのに不具合は無い?」
「永遠分ぐらい遅い話ですね。何せ、一週間が永遠になっているもので」
「音速が遅いのなんて、冥界の住人ぐらいだわ。まぁ、大丈夫って事よね、死んでないし」

 死ぬんですか、とぼやく権兵衛に、しれっとした顔で、片手を肩の高さまで上げる輝夜。
するとその掌の先に、やや黄色がかった白色の弾が浮く。
月光線による魔力を利用した、月弾幕である。
やってごらんなさい、と言う輝夜に従い、今までの復習として、権兵衛は同じように片手を肩の高さまで上げる。
目を瞑ってすうっと息を吸い、集中する権兵衛。
そんな権兵衛を見る時、輝夜は僅かに高揚を憶える。
まず、やや厚い唇がキュっと締まり、僅かに覗いていた白い歯が隠れ、頬が緊張する。
それから背を伸ばし、呼吸に合わせて小さく動く権兵衛の胸を見ていると、なんだかドキドキしてくるのだ。
これが弟子の可愛さと言う奴なのだろうか、と思うと、元々永琳の仕草が見たくて権兵衛を飼う事にしたのだが、それがとてつもなく良い拾い物だったものだ、と輝夜は思う。
実際、権兵衛は吃驚するほど覚えの良い弟子であった。
輝夜自身やその妹弟子には及ばないが、多分月兎である鈴仙よりも才能があるし、弾幕戦で見る限りでは、白黒や悪魔の犬辺りと並ぶのもそう遠くは無い事かもしれない。
そう思い、権兵衛の事が誇らしくなってくると、何だか胸を張りたくなるのは、不思議である。
などと輝夜が徒然と想っていると、権兵衛のちょっと伸びてきたので切りそろえてやった黒髪の間から、閉じた瞼が開く。
その瞳の先には、輝夜の手の先にあるのと同じ、月色の弾幕があった。
思わず、笑みを漏らす輝夜。

「復習成功、ね」
「――は、はい!」

 思わず弾幕を作っていない方の手をぐっと握り、口元を緩める権兵衛。
こんな風に感動して見せる仕草も何だか可愛く、緩みっぱなしになりそうな顔を、何とか輝夜は引締めてみせる。

「今の権兵衛じゃあ満月近くの月でもなければ、普通の弾幕しか作れないでしょうけど。
でも、修練を怠らなければ、そうね、貴方なら十日程で月の登っていない日中でも月弾幕を作れると思うわ。
って、貴方にとって十日は永遠で須臾だっけ。
まぁいいわ、兎も角修練は怠らない事。復習もね」

 と輝夜は言うが、権兵衛が復習を欠かしていないのは、教える身から既に分かっている。
前回の授業を踏まえた質問や理解をしている権兵衛の姿を見ると、彼との間に特別な絆があるよう感じられて、胸が締め付けられるような、しかし不思議と不快では無い気分になるのだ。
擬音で言うなら。
キュン、とでも言うのだろうか。
今回も、確りと前回より月弾幕の色が月度を増しているのを確認し、キュン、と顔を綻ばせる輝夜。

「で、次は基礎の基礎から、基礎に行くわよ。
前回教えた通り、自分の状態を満月に持ってゆきなさい。
相手を新月にするのは、ちょっと私が限界まで手加減をしても難しいから、また今度で」
「はい、先生」

 この先生、と言う言葉も、キュン、と来る言葉の一つである。
最初は戯れで呼ばせていたのだが、権兵衛の素直な反応や、輝夜の言動を理解しようと頑張る姿などを見るうちに、これでないとしっくりこなくなってしまった。
一度さん付けで呼ばせてみたが、その時自分はよっぽど変な顔をしていたらしく、権兵衛が慌てていたし。
兎も角、と輝夜は説明を加える。
自分たち月人は内側に作用する力を得意とし、それとこの月の魔法とを合わせると、まずは己の月度に干渉するのが初歩的な魔法となる。
月度とは、月に満ちる太古の狂気を受け取る度合いの事である。
今の権兵衛は偽の月の満月に少し届かないぐらいの月度であるが、これを操作し真の月の満月まで持ってゆけば、莫大な月の魔力を得る事となる。
勿論、月の魔力は狂気でもあるので扱いが難しいが、波長の干渉し合わない自身の物であれば、然程難易度は高くなく、今の権兵衛でも不可能では無いだろう。
これが相手を真の新月まで持って行く、となると相手の強さによりけりで、しかも効力は相手の月への依存度によるので、一定しないのだが。

「とまぁ、やっぱり復習なんだけど。じゃあ、やってみなさい」
「はい」

 と、そこまで説明してから促すと、権兵衛は静かに頷き、自分の月度を上げ始めた。
月度とは狂気度でもあるので、制御を一度手放してしまうと外部からの干渉無しに正気に戻るのは難しい。
と言う事で、ここが先生役としての、正念場である。
自然、輝夜は権兵衛の様子を仔細に観察する事になる。
権兵衛を正面から、何の躊躇もなく舐め回すように見る事になるが、暴走したら大変なので仕方ないのである。
秋の夜の涼し気な空気の中、じわりと権兵衛の肌に珠の汗が湧いてくる。
それをじっと眺めながら、権兵衛を観察する輝夜。
矢張りと言うべきか、月人の基準から言えば、権兵衛は特別美男子と言う訳でもなく、むしろ凡庸である。
しかしそのやや幼さの残るふっくらとした頬や、丸い眉は、何と言うか、思わず構ってやりたくなるような可愛らしさがあり、悪くない、と輝夜は思っている。
こうやって真剣味のある表情も、勿論嫌いでは無い。
すっ、と冷たい空気が漏れ出すような、瞼の下から漏れ出す眼が描く三日月が刀剣であるかのように思えるような、雰囲気ある顔。
うん、これも悪くないわ、と輝夜が頷くと同時、ぶわっと権兵衛の周りの空気が撓んだ。
暴力的な風が輝夜を襲おうとするが、輝夜がすっと掌を権兵衛へ向けると、風は輝夜の周辺だけ凪いだまま通り過ぎ、空気が弛緩したかのように緩み、それから権兵衛が大きく息を吐きだした。

「すいません、暴走してしまいました」
「そうね、今度はもうちょっと、集中を深める事よりも、持続させる事に力を向けなさい。視野を広げてね」

 本当はこれも先生の仕事のうちよ、なんて言いたい輝夜であるのだが、そんな風に甘やかすと永琳の顔が物凄い事になっていて怖かったりするし、やっぱり権兵衛の為にもならないので、先生をやっている時は、基本的につかず離れずの距離を心がけている。
再び頷いて、汗を拭ってから集中に入る権兵衛。
それをこうやって見守る事は、輝夜にとって最早日課である。
蓬莱山輝夜には、何もすることがなく、それが不満であった。
しかしそれは何もしようとしてこなかったからだと気づき、以来したい事をし続けて己の仕事を探してきた輝夜であるが、これほど己の心を満たす仕事は果たしてあっただろうか。
今はまだ、長く続けてきた優曇華の盆栽の世話の方に心を置いているが、それでも権兵衛との師弟関係が盆栽の世話を超えて輝夜の仕事となる日は、遠くは無いかもしれない。
そうなればどれほど心が満たされる事だろうか、と想像しながら、再び暴走する権兵衛の月度を抑え、実演授業を続ける輝夜なのであった。



      ***



 まずはそっとそれを抱きしめ、手術台の上に置いてやる事から始まる。
がっちりと四肢を鉄の輪で固定し、手術台の上から逃れられない事を確認してから、やっと作業を始める事となる。
始まりの合図として、唇を象った部分に、永琳はそっと口付けた。
布の表面の、ざらりとした触感。
それを脳内で、自身の唇を触れた経験から想像した権兵衛のそれに変換し、永琳は頬を上気させた。

「ん……」

 ゆっくりと、歯の間から舌を出し、それの口腔の内側を舐めとろうとするが、表面だけを形作ったそれは唇に隙間など無く、故に舌が押し留められる事となる。
それが権兵衛の意思による物だと想像すると、寂しい反面、真っ白な紙面をぐちゃぐちゃに汚してやるような快感があり、永琳は頬を笑みの形に歪ませながら、唇を離した。
口紅の紅が、布の唇に残る。
それから、永琳はそっとそれの腹へと手をやり、僅かに押し込む。
綿による均一な圧力が帰ってくるが、それを想像でごまかし、肌と骨を介して内蔵がぐっと弾力を返してくるのを、永琳は感じた。
思わず、涎が漏れ出そうになるのを、ごくんと嚥下する。

「いくわよ……」

 呟き、ぞぷっ、と永琳は、手に霊力を纏い、それの腹へと侵入させた。
圧力によって綿が逃げるのを、妄想で無視し、代わりにつるりとした骨の触感を想像で愉しむ。
そのまま下腹部へとぞぶぞぶと皮を切り裂き、想像の中でだけ溢れる血が、権兵衛の腹部から漏れ出し、ぴちゃぴちゃと床に落ちた。
そしてついに、永琳の掌はそれの――つまり想像の権兵衛の、小腸へと辿り着く。
あの日、永琳が最も長い時間手にした、権兵衛の臓物である。

「くす――、どう、感じるかしら?」

 僅かに、永琳は手に力を込め、小腸を握りしめた。
微動だにしないそれであるが、永琳の瞳には、あの日と同じくびくん、と跳ね上がった権兵衛が映る。
肯定の意を返された、と解釈する永琳は、それを抑えていたもう片方の手で、自分の胸を掴んだ。
服の上からぎゅっと掴むと、その力に従い永琳の胸は形を変え、同時、胸の間に浮いていた汗が、服に吸い込まれる。
すぅ、と、永琳は息を吸った。
あの日の記憶から嗅ぎとった、権兵衛の血と便と、そして男性の匂いが永琳の胸を満たした。

 それから永琳は、それの腹を十字に切り裂き、布製の皮を開いてピン留めし、その中身を顕にした。
と、ここまではほぼ毎日やっている通りなのだが、ここからどの臓器に触れるかは、その日の気分次第である。
ぷるぷるとしたゼリーのような感触の肝臓もいいし、どくどくと脈打つのが分かり、権兵衛の興奮がそのまま感じ取れるようで興奮する心臓もいい。
勿論、王道である、あの日尤も触れた小腸だって構わない。
どれにしようか、と迷っていた永琳の耳に、しかし、予想外の声がかかった。

「お師匠様、失礼します」

 鈴仙の声である。
忘れていた、今日はまだ鈴仙が報告に来ていなかったのだが、あんまり遅いので待ちきれず、日課を始めてしまったのだ。
驚愕し、飛び跳ねそうになるのを抑え、咄嗟にそれを隠そうとするが、それの四肢は鉄の輪で固定されており、外すのは時間がかかるし、音もする。
ちょっと待って、と声をかけようとする永琳だが、どうやら遅かったらしく、すす、と襖を開ける音がした。
咄嗟に、それの唇についた口紅をだけ、拭う永琳。
失礼しま……、と、永琳にかけられる声が、途中で止まった。

「ど、どうしたのかしら、うどんげ」
「あ、いえ、何時も通り、権兵衛さんの報告に来たんですけど……。その、それって」

 鈴仙が指差す先にあるのは、永琳の予想通り、それ――権兵衛を象った、人形であった。
布で綿を覆っただけの粗末な物だが、形は割りと細かく、人体を模して出来ている。
プリントは、全裸の権兵衛の物が刷ってあった。
最初の検診の時に撮った物だからだろう、脇腹に、深い裂傷が刻まれているのが痛々しいが、それ以前にこの権兵衛人形は、腹を十字に割かれ、ピン留めし、綿をむき出しにされている。
これは永琳が、あの日、権兵衛を解剖した時の事を思い出すために、魔法の森の人形使いの技を見よう見真似で作ってみた人形である。
こんな物を見せてしまっては、何と言うか、マズイ。
何がどうマズイと言うのかは上手く言えないが、兎に角マズイのであるので、咄嗟に永琳は口を開く。

「え、えっと、その、あの日権兵衛さんの手術をしたでしょう? その時、ちょっとだけ、気になる事があって。
その、それで、それを思い出すのに、いいかな、と思って、試しに作ってみたのよ。
ほら、権兵衛さんは今、輝夜のお気に入りで、ほいほい解剖する訳にはいかないじゃない」

 本当は権兵衛に直接顔を合わせるのも顔が火照って出来ないと言うのに、ちょっと解剖されてみてくれ、なんて恥ずかしくて言えそうもない、と言うのが理由である。
そも、権兵衛を解剖する想像も、異常に興奮してしまうので、理性的であろうとしている永琳には避けるべきものだったのだが、いや、と永琳は思い直す事にしたのだ。
感情的になる事は避けるべき事で、権兵衛は自分を感情的にする。
しかし権兵衛は輝夜のお気に入りで、一定以上遠ざけておく事は難しい。
ならば権兵衛を避けて感情的になる事を避ける事より、こうやって権兵衛を利用して、その恥ずかしさに耐え、憎悪を醸しだす事なく自然に抑える事ができるようになるよう訓練すべきではないか、と。
そう、これは権兵衛に興奮しないようにしている、訓練なのである。
だからわざわざ、キスなんて物をしているのも、その訓練の難易度を高くする為であり。
想像の権兵衛に色っぽい言葉をかけてなんているのも、訓練の一環なのであり。
こうやって鈴仙に見られて恥ずかしいと思うのも、自分の感情的な部分を知られて恥ずかしいからなのである。
そんな風に思い、それから自分で自分の言葉に叫びだしたくなるほどの恥ずかしさを覚え、それを憎悪で押しつぶす永琳を尻目に、何故か、すすっと数歩引く鈴仙。

「そ、そう、なんです、か」

 はて、どうしたのだろう、と首を傾げる永琳であるが、一体何処がおかしいのか全く分からない。
言い訳を信じられたにしろ、何か嘘を付いていると感づかれたにしろ、真意を悟られたにしろ、引いてしまうような要素は一切合切全く何処にも見つからないのだが。
まぁ、鈴仙の臆病さを考えればこんな事もありうるか、と結論づけ、永琳は鈴仙を部屋の中に誘った。
そして、座布団の上に座り、権兵衛の報告を聞く、と言うと、かなりびくびくとしながら入ってきた鈴仙の顔が、見る見る内に喜色満面になる。
すると何故だか黒い物が湧いてくるのだが、この鈴仙の報告と言うのが、それをすぐに吹き飛ばしてくれる。

「――と言う事で、午前中は殆ど輝夜様の気まぐれに付き合って終わりました。
それからお昼前にちょっと厠にいって、小だったんですけど、結構長かったかな。
で、それからお昼をみんなで取るんですけど――」

 この兎、報告が詳細なのはいいのだが、詳細過ぎるのである。
そも、永琳は、鈴仙に何かあれば輝夜のフォローをお願い、としか言っていない。
だのに鈴仙と言えば自分の存在を消して権兵衛の後を一日中ついてまわっているのだ。

「――で、お風呂で湯船に浸かっていると、権兵衛さん、女所帯で溜まっていたのかな、ちょっと勃っちゃったみたいで。
くす、テンプレ通りって言えばいいんですかね、ざばっと口元まで湯船に沈んで、ちょっとぶくぶくした後、般若心経なんて唱え始めちゃって。
でもあんまり覚えていないみたいで、途中からうにゅうにゅ言っているだけになっちゃってました」

 しかもこのとおり、厠や風呂まで、である。
どうやったのか想像するのもおぞましいが、何故か体を洗う順番だの湯船の中での反応だのまで仔細に語っており、それと、永琳に報告を済ませた後風呂に入った様子が無い事から考えるに、風呂に至っては存在を消しながら一緒に入っているのだろう。
毎度のインパクトのある報告に、のぞけりそうになりつつ、永琳は鈴仙の処遇について考える。
確かに、月兎として月と交信が出来、更に薬師の弟子として有能であり、その能力で権兵衛の行動が分かるのも、利点ではある。
しかし権兵衛に不気味なほどついてまわるその性癖は異常過ぎてとてもついていけないし、大体、権兵衛が心配である。
何せ権兵衛と言ったら自分にとって大切な存在で、と、そこまで思ってから、ぼっ、と顔が上気する永琳。
違う、違うのよ、と、誰に対してか内心で呟き、胸に手をやり自身の内心を訂正する。
そう、権兵衛は、自分を感情的にする貴重なサンプルなのだから、大切なのであって、理由など他にないのだ、と。
と、そんな事をやっているうちに報告が終わったようで、鈴仙は不気味な物を見る目で永琳の挙動を見ていた。
思わず視線を逸らしつつ、こほんと咳払いし、永琳は鈴仙に退室を促した。

「はい。あ、その、そう言えば明日は例月祭ですけれど、何か改めて権兵衛さんに伝えておく事はありますか?」
「あぁ、もうそんなに……権兵衛さんが此処に来て、十日ぐらいになるのかしら。
そうね、まぁ、手伝ってもいいけど………………えーと、うん、無闇に団子を食べないようにだけ伝えておいてくれないかしら」
「はい、わかりました。では、失礼しました」

 何せ団子には妖怪兎達を興奮させる薬が入っているのだ、人間である権兵衛には強すぎる薬であるので、食べてしまうと不味い事になる。
いや、しかし興奮した権兵衛も見てみたいな、と葛藤し、結局曖昧な歯止めをだけかける事にし、鈴仙が去るのを待って再び権兵衛人形の解剖に移る永琳なのであった。



      ***



 例月祭。
月に一度、満月の夜に永遠亭で行われる祭りであり、月において罪人である輝夜と永琳、鈴仙の罪を償うため、薬草の入った餅をつく行事である。
その他に丸いものを兎に角集めて祀る風習があり、故に昼中、鈴仙は権兵衛と共に蔵へと丸い物を探しに行っていた。

「たまには、私も手伝って貰わないとね」

 とは鈴仙の言であり、普段兎達の仕事を手伝っている権兵衛はそれに一つ返事で頷いた。
しかし、その言は多分に嘘であった。
単に、鈴仙が権兵衛と一緒に居られる口実を、作りたかっただけである。
何せ主な鈴仙の仕事は、師の手が足りない時の薬の調合だったり、月に数回の里の置き薬の点検である。
前者は知識の足りない権兵衛には手伝わせられないし、後者は権兵衛を此処から出す許可を永琳にもらいに行く勇気が無くて、出来なかった。
蔵まで歩いてゆく中、久しぶりに存在を消さず、尚食事以外の用事で隣を歩く権兵衛に、鈴仙の心臓は高鳴ってしまう。
別に、権兵衛との約束を守る為に側に一緒に居てやりたいだけで、他意はないのだが、心臓が勝手にドキドキしてしまうので仕方ないのである。

「その、丸いものって言うと、何でもいいんですか? 球体でなくとも、円盤状であっても」
「ふにゃ!? え、えーと、うん、そうよ。前にCDを使っていた事もあったし」
「はぁ」

 突然話しかけられて、思わず変な声を出してしまう鈴仙に、それに首を傾げる権兵衛。
ばくばくと高鳴る鈴仙の心臓。
多分権兵衛は、今自分がどんなに緊張しているのか分からないのだろうな、と思うと、何だか心にもやもやした物が溜まるが、それより先に確認である。
鈴仙は狂気の瞳の能力を解放し、掌を目の上にやって、前方を確認、四方を確認、ついでに居ないと思うが空中も確認。
師の存在波長が自室から動いておらず、監視系の術も使われていないだろう事を確認すると、鈴仙は大きく息を吸い、吐いた。
ここからが勝負どころである。
権兵衛に背を向けて一旦視界から外し、高鳴る胸を押さえ、内心で唱える。
落ち着け、落ち着くのよ鈴仙。
ビークール、ビークール。
落ち着いて、さりげなく権兵衛さんの手を握るのよ。
狂気の能力で自身の波長を操作し、精神を安定的に持って行く。
よし、準備ができた、と振り返る。
すると、目の前に権兵衛の顔があった。

「大丈夫ですか? 鈴仙さん」
「ふぇっ!?」

 思わず、飛び上がりそうなぐらい驚いてしまう鈴仙。
自然、バランスを崩し、倒れそうになってしまう。
そこで、おっと、とその鈴仙を抱き抱えるように抑えて、倒れないようにする権兵衛。
当然顔はすぐ近くになり、権兵衛の吐く息すらも感じられる距離となる。

「ほ、本当に大丈夫ですか?」
「~~~~!!」

 顔を真っ赤にして、鈴仙は声にならない声を上げた。
そんな鈴仙の様子に気づかず、鈴仙が自分でバランスを取れるようになったのを確認し、ほっと安堵の息を漏らしながら、手を離す権兵衛。
自然、あ……、と物欲しそうに声を上げ、鈴仙は権兵衛の手を目で追ってしまう。
すると、それに気づいたのか、ぴたりと手を止める権兵衛。

「あぁ、貧血気味なんですかね? 手を貸しましょうか」
「ふぇ?」

 意図せず願いの叶った形になり、思わず鈴仙は硬直してしまった。

「あ、差し出がましい事でしたら……」
「い、いや、そんな事無いわよ、うん、むしろ差し出て欲しかったっていうか、何ていうか」
「はぁ」

 と、よく分かっていない様子で首を傾げる権兵衛の差し出す手を、掴んだ。
指を指の隙間にすっと割り込ませ、ぎゅ、と握り締める。
僅かに爪を、権兵衛の皮膚が押し込まれる程度に、立てた。
肉の弾力が、静かに鈴仙へと返ってくる。
なんと、今日の第一目標、早くも達成である。
容易さに肩の力が抜けるよりも、飛び上がりたくなるほど嬉しく、思わず口元がつりあがってしまう。
いや、嬉しいと言っても、これは観察の為になるべく近くに居て、権兵衛の鼓動を感じられるようにする為に必要な事なので、別に鈴仙が喜ぶ必要は目標達成の快感の分だけで良い筈なのだが。
まぁ、喜びが足らぬ事に悩む事はあっても、足りる事に悩む事はないだろう、と、鈴仙は己を納得させる。
それから鈴仙は、そうやって型にはめようとする嬉しさが、型からはじけ出すかのように歩き出した。

「さぁ、さっさと蔵に行きましょう! ぼうっとしてると、日が暮れちゃうわ」
「永琳さんのお仕置きは怖そうですしね」

 と、権兵衛の言葉を聞いて思い出す。
昨夜のあの、おぞましい光景。
権兵衛そっくりの形に造られ、毎晩見慣れた権兵衛の全裸の通りのプリントを施された、人形。
まるで権兵衛の腹ワタが飛び出ているかのように、ピン留めされた腹から飛び出る綿。
なんの意味があるのか、それらは大凡その場所にあるべき臓器の色に染められており、赤や黄土色をしていたのが、尚更それが権兵衛を忠実に模していると分かる。
そう、昨夜師の元へ報告へ向かった所、師は権兵衛の人形を作り、それを解剖していたのだ。
なんと、そこまで師は権兵衛を憎んでいたのか、と理解した鈴仙は、権兵衛にそれとなく永琳の危険性を伝えるつもりだったが、さて、どうして言い出した物か、と内心で悩む。
が、そんな折にも、掌から権兵衛の体温が伝わってくるのを感じると、そんな悩みも何とかなるのではないかと思えてくるから不思議だ。
相変わらず、権兵衛は眩しい。
そんな彼の隣に居る事で浮き彫りになる自らの惨めさすら、一緒に居る間は感じられないぐらいにだ。
そんな権兵衛を毎日観察できているなんて、それだけで自分はなんて幸せなんだろう、と思う鈴仙であった。



      ***



 月が顔を見せ始め、夜の帳が降りてきた頃。
今日は例月祭だから休講よ、と言う輝夜先生が盆栽の方の優曇華を世話しに行くので、俺は兎が団子をつくのを手伝おうとしたのだが、永琳さんにそれは止められた。
何でも、例月祭は月で兎が嫦娥の罪を償う為に薬――団子をつき続けているのを真似して行っているらしいので、団子をつくと言う事は、輝夜先生、永琳さん、鈴仙さんの三人の罪を背負うと言う事になるらしい。
それは、まだ此処に来て短い――らしい、俺には今時間の感覚が無いので、詳しくは分からないが――上、立場的にはペットの俺にやらせるのはおかしい事なのだそうだ。
かと言って、外の祭りの音頭を取って、歌ったり太鼓を叩いたりするのも、まだまだ連帯感の無い俺には難しい。
と言う事で。
何故か、永琳さんと二人、縁側に座ってお茶を飲んでいる俺なのであった。

「………………」
「………………」

 気まずい沈黙。
俺と此処、永遠亭の住人との関わりは、輝夜先生が尤も多く、次いでてゐさん、鈴仙さん、永琳さんと縁が薄くなっていく。
輝夜先生とは授業もそうだがそれ以外でもちょっとした話し相手に呼ばれる事も多い為である。
俺の思い上がりでなければ俺はかなり可愛がってもらえており、霊力の教え方もとても親切で、しかも話し上手なので、数時間に昇る話相手も苦にならない、永遠亭で一番仲の良い人だろう。
てゐさんとは偶然でしかないのだろうが、兎さん達の手伝いをしていると、よく出会う。
その際には毎回幸せを人に与える何たるかを教授してもらい、大体初日のように成功を収めているのだが、当のてゐさんが渋い顔をしているのを解消できていないのが玉に瑕と言うぐらいか。
鈴仙さんは結構忙しいらしく、食事以外で滅多に見かける事は無い。
しかし食事の時や、たまたま出会った時など、ちょっぴりズボラな所のある俺の世話を焼いてくれて、親切な人である。

 で、肝心の永琳さんだが。
見かけることは少なくない。
と言うのも、彼女は薬師であると同時、医者の仕事もしており、本人曰く真似事との事だが、大抵の傷は治せてしまう凄腕だと言うので、割りと頻繁に人が運ばれてくる。
他にも色々と薬師として実験をしているらしく、兎を遣って様々な材料を持ち、実験室と銘打たれた区域に入るのをよく見かける。
が、勿論の事、忙しそうにしており、しかも俺に手伝いように無い内容とすれば、自然話す事も無くなる。
たまに暇そうにしているのを見つけて話しかけた事があるのだが、顔を真っ赤にして立ち上がり、目を合わせる事すらせず、急用が出来た、と立ち去ってしまった。
どう考えても、俺は永琳さんに嫌われていた。
正直言って凹んだし、食事の際にそれとなく、俺のどんな所が嫌いか聞いてみようとしたこともあるのだが、取り付く島もなかった。
今では、とりあえず他の三人にどうすればいいのか教えを乞いている所である。
因みに輝夜先生は理由は分からずそれとなく永琳さんに聞いてみると言ってくれ、鈴仙さんも理由は分からないようで、唯一てゐさんだけ理由を分かっている風な仕草だったのだが、呆れたようにとりあえず時間を置くのが一番と言っていた。
と言う事で、とりあえずは本人とは距離を取ろう、と考えているのであるのだが。

「………………」
「………………」

 何故か、永琳さんの方から誘いがあり、断るのも不義理と言う事で、二人きりで縁側に座って、月見をしながらのお茶と言う次第になったのであった。
あったのだが。
目が合えば、湯のみのお茶が溢れんばかりの勢いで目を逸らされ。
置いてある湯のみを取ろうとして手が触れ合えば、目にも留まらぬ速度で体ごと手を引かれ。
話題を振ろうとしてみても、返ってくるのは生返事ばかりで。
最後のは俺の会話スキルがヘボいと言うだけかもしれないが、兎も角こっちが何か極悪な事をしているのではないか、と言う気分になってしまう反応であった。
いや、事実そうなのだろう。
兎さん達に聞く限りでは、永琳さんは厳しい所もあるが優しく理知的な女性で、理由もなく人を嫌う事など想像できないそうだ。
勿論、俺に嫌われる理由の心当たりなど幾百とあり困らないのだが、しかし、すぐに思いつく里人らに嫌われているのと同一の理由であるのなら、何故にこうやって彼女の方から二人きりになるのかが分からない。
何も分からない状況に、どうすればいいのか全く分からず、正直ちょっと泣きそうなのだが、我慢してお茶を飲み込む事で、泣き声を喉奥にまで流しこむ事にする。

「………………」
「………………」

 沈黙の中、響いてくる音は兎の歌と、太鼓のリズム。
どん、どん、どんどかどん。
一つついては輝夜さまの為に~、二つついては永琳さまの為に~。
僅かなズレも無い輪唱が竹林に響き、そのざわめきへと消えてゆく。
普通祭りと言えば騒がしいばかりの物だと亡くなった記憶の断片が言っているのだが、これは何処か神秘的な感じのする祭りであった。
俺の記憶の片隅にある祭りは地上人による地上人の為の祭りであり、神を祀る為の物であった。
対しこちらは、月人であると言う輝夜先生と永琳さん、月兎であると言う鈴仙さんが月から地上へと逃げ出した罪を償う為の物だ。
詳しい事情までは知らないが、祭りの雰囲気が全く違うのは、当然と言えよう。
などと、お茶を啜りながら思う。

 お茶を啜るで思い出したが。
輝夜先生はお茶をする時自室でするのを好む為、こうやって縁側に座って誰かとお茶を飲むのは、幽々子さんとそうして以来かもしれない。
ふとこうやって思い出すと、彼女の上品なお茶の啜り方から、その暖かな雰囲気を思い出し、どうにも会ってみたくなる。
それに、いい加減傷も癒えてきたし、何と言うか、当初あった体が妙に軽い感じも無くなってきたのだ、無事な姿を一目見せてみたい。
とすれば、勿論それを伺いべき相手は、丁度隣に居る永琳さんである。
何せ俺、ペットだの弟子だのと言われていたが、それ以前に結構な怪我人なのであった。
当然、完治の太鼓判を押して良いのは、永琳さんだけだろう。
と言う事で、早速聞いてみる事にする。

「その、永琳さん」
「……何かしら?」
「俺の傷なんですけども。もう、外出しても良いぐらいになったでしょうか? 出来れば今度、慧音さんの所と白玉楼とに顔を見せに行きたいのですが」
「駄目よ」

 即答であった。
しかもなんだかピリッとした言い方であり、思わず腰が引けてしまう。
と、自覚があったのか、永琳さんは何時もの苦虫を噛み潰したような顔に困ったような成分を上乗せするだけに留めて、口を開いた。

「特に白玉楼の方は、妖夢が貴方を切ってしまったのでしょう? 彼女から姿を見に来れるぐらいに落ち着けるのを、待った方が良いわ」
「えっと、では、慧音さんの方は」
「駄目。まだ、取っ……傷付いた臓器が完全には治っていないわ。自覚症状は無くても、貴方は医者が近くに居た方が良い状態よ」
「そう、ですか……」

 思わず、しゅん、と落ち込むのを見かねたのか、永琳さんが、くすり、と笑みを漏らした。

「大丈夫。そのうち私の手が空いたら、付き添ってあげるぐらいしてあげるわ」

 思わず、見惚れる。
もしかしたら、出会ってから、初めて俺に向けられたかもしれない永琳さんの笑み。
普段の永琳さんの理性的な態度から包容力のあるそれを想像していたものの、それはまるで初な少女の見せるような、純真な笑みであった。
ぼうっと、数秒間見つめていただろうか。
何時の間にか目をそらし、顔を赤くした永琳さんが、一言。

「――その、権兵衛さん?」
「へ? あ、はい、ありがとうございますっ」

 はっと正気に戻った俺は、こちらも顔を赤くして、頭を下げた後、顔を体ごと庭へと向ける。
下世話な話だが、最近、女所帯に世話になってばかりで溜まっているからか、ちょっとした女性的な仕草に反応してぼうっと頭をとろけさせてしまう事が多い。
かと言って処理しようにも、外出は許可されておらず、永遠亭の中で処理するにも正直かなり気が引ける。
どうしようもない事なので、とりあえず頑張ろう、とだけ胸に誓って、般若心経を内心で唱えて心を落ち着けようとする。
別に俺は仏教徒であった記憶は無く、事実般若心経も相当うろ覚えなのだが、何だかそれが心を落ち着かせる時の癖になっているようだったのだ。
と、そんな風にしていると、あら、と、何だか悪戯っ気のある声。

「権兵衛さん、何か言おうとしてる事があるのかしら?」
「へ? 何でですか?」
「だって、口をもごもご動かしているんですもの」
「い、いや、な、何でもないんです、これは」

 思わず顔を真っ赤にしながら俯く俺に、くすくすと笑い声を漏らす永琳さん。
物凄く恥ずかしいので、これ以上余計な物事を言う余裕も無く口を閉じる俺。
自然、沈黙が場を支配する事になるが、先程まで永琳さんにあった刺のような物が抜け落ちたかのようで、何処かその空気は優しい。
何と言うか、空気を挟んで隣に居る筈の永琳さんの温もりが、空気を伝わり届いてくるような、暖かな沈黙。
それを永琳さんも感じているのだろうか、ちらりと横目で見ると、竹林を見つめる何処か強ばっていた永琳さんの表情も、柔らかになっている。
永遠亭に来て以来の、優しげな永琳さんだった。
俺としては恥を晒しただけで、何もやってはおらず、何が良かったのかすら分からず仕舞いだが。
それでも、この空気が何時までも続いてくれたら、と思った、その矢先であった。

「お師匠様~、無事例月祭は終わりましたよ~」
「今日は珍しく、てゐも散歩に行かないままに終わりました」

 遠くから、てゐさんと鈴仙さんの声。
同時、しゅばっ! と言う音。
何事か、と永琳さんの方を見ると、明らかに先程までより俺と距離を取っていた。
しかも顔には何時もの平面を貼り付けたような冷たい表情で、内側からじわじわと黒い物が湧いてきそうな顔に戻っていた。
思わず、がくり、と肩を落とす。
不思議そうに俺を見つめてくる二人に、恨みがましい視線を送ってしまう。
とは言え、二人に別に悪い所があるでもない。
何も知らない二人が首を傾げるのに、小さくため息をつく俺。
しかし、そんな俺の中には、僅かばかりながら、希望と言うべき物が芽生え始めていた。
何せ、壊れてしまったとは言え、ついに永琳さんとも俺は親密な空気を作れたのだ。
これまで永琳さん一人と険悪な空気であったのが解消できるかもしれない、と思うと、自然、口元が緩む次第となる。
これからは、永遠亭の人々全員と仲良くしていく事ができるかもしれない。
希望に満ちたこれからの生活に、思わず笑みを浮かべながら、二人と応対し始める俺なのであった。



      ***



 因幡てゐは、焦っていた。
七篠権兵衛と言う、己にとって毒でありながら無視できる物でもない、と言う男を相手にし始めて、十日程。
毎日のように、暇さえあれば兎を手伝う権兵衛の元に向かって権兵衛を騙していたのだが、この男、一向に騙されてくれない。
いや、と言うか、騙されてはくれるのだが、それが一周して戻ってきてしまうような感じの騙され方で、どうにもてゐの方に騙したと言う達成感が湧かないのだ。
例えば。
あ、UFOっ! と空を指さしてみれば、本当に空を正体不明のUFOが飛んでいて、早速権兵衛は輝夜に報告に行くのだが、んな訳無いじゃない、と怒られたり。
ちょっとした歓談の時、乾杯前にピッチャーを空けて準備と称し、権兵衛を誘ってみれば、みんなでやった方が楽しいから、と全員集まり普通の乾杯になってしまったり(ちなみにてゐは怒られた)。
雷雨の時、雷からおヘソを隠すのに自分の前に来い、と言えば、それを周りの兎にふれ回って、何時の間にか円を作って全員のへそを守る形となったのだが、何故か雷が局地的に権兵衛に降り注ぎ、大怪我をしたり。
どれを見てもなんだか騙せているようで騙せていない感じで、その上大体オチとして権兵衛が不幸な目に遭っている。
しかも本人はそれを何とも思っておらず、自分の力が及ばなかったと自虐するか、不幸な目に遭ったのが自分以外でなくて良かった、とニコニコ笑っていたりするので、何とも肩の力が抜ける事であった。
兎も角。
因幡てゐの精神の根幹である人を騙す事と人を幸せにする事、そのどちらもてゐは権兵衛に成し得ていなかった。
この十日、思いつく限りの嘘をついてみたのだが、全くもって、暖簾に腕押しと言うべき結果である。
此処に至って、てゐは自分以外の永遠亭の住人、輝夜、永琳、鈴仙の三人を使って、とりあえず権兵衛を幸せにする方だけでもやってみよう、と思うに至る事になった。
そこで、その三人の権兵衛に対する感情を、改めて探ってみたのだが。

 最初に、身近であり騙しやすい鈴仙。
切欠さえ作ってやれば、あの臆病な割りに寂しがりな兎の事である、容易く権兵衛と仲良くなるのではないかと思っていたのだが。
まず、見つからない。
日中、殆ど見かけるのは永琳からの仕事を請け負っている場面ばかりであり、権兵衛と会わせる暇の無い場面ばかりであった。
はて、どうしたのだろう、と夜中の鈴仙を探ってみて、だ。
怖気が走った。
鈴仙の師への報告と言う物を聞き取ったのだが、あの兎、日中の出来る限りの時間を使って、存在を消したまま権兵衛をストーキングしていたのだ。
しかも言葉の調子から察するに、今自分がやっている事が尾行と気づいておらず、おまけに嫉妬に駆られて、権兵衛と深く触れ合った兎を食材にまでしていたのだ。
最近の兎の減り方や、鍋の頻度やその肉の味がどうもおかしいと思っていたが、こんな所に原因があったとは。
そのあまりのおぞましさに、てゐは鈴仙と権兵衛の仲立ちをしようという発想を捨てた。
てゐは権兵衛を幸せにしようと言うのである、異常者の餌にしようというのではない。

 次に、永遠亭を実質取り仕切る永琳。
彼女は普段の理知的な様相と違って、権兵衛にだけは憎悪を隠しきれずに向けている。
とは言え、愛情の反対は憎悪ではなく無関心。
相応の労苦は必要だろうが、彼女の心を権兵衛に対し開かせる事も、できなくはないだろう、と思ったのだが。
鈴仙と同じく普段の様子を観察しているうちに、てゐは彼女の夜間の日課を知る事となって。
身の毛がよだった。
なんと彼女、明らかに発情した様子で、権兵衛を象った人形を解剖していたのだ。
顔を上気させて、己の胸を揉みしだきながら人形を解剖する様は、成程、確かに権兵衛に愛情を抱いては居るのだろうが、あまりにもおぞましい愛情である。
流石師弟、と言うべきか。
てゐは、永琳と権兵衛の仲立ちをしようという発想も捨てた。
てゐは権兵衛を幸せにしようと言うのである、生贄に捧げようというのではない。

 最後に、永遠亭の最高権力者たる月の姫、輝夜。
彼女だけは、正常な愛情を権兵衛に抱いていたように、てゐには見えた。
何事でもする側ではなくされる側であり、やる事と言っても思いつきばかりですぐに飽きてしまい、続いているのは優曇華の盆栽の世話だけ、と言った所業である彼女だが。
なんと、権兵衛の師匠だけは、未だに続いていたのだ。
それも続くだけではなく、明らかに楽しんだまま。
成程、以前の兎の教育と違い権兵衛に明らかに才があると言うのも理由の一つなのだろうが、それだけでは説明できないぐらいに、輝夜は権兵衛の教育を日々の楽しみとしている。
よっててゐは、権兵衛と彼女との仲を進ませよう、と決める次第となった。

 方法であるが、簡単である。
まず、例月祭の準備として、何時も通り団子をついた。
この団子、常から永琳が、兎達が摘み食いするのを見越して、祭りが盛り上がるよう興奮剤を混ぜてある。
妖怪兎用のそれは人間に対しても十分以上の効力を発揮し、権兵衛が如何に温和な人間でも興奮させてしまうだろう。
興奮した権兵衛と輝夜が出逢えば、何時もと違った進展が見られるに違いあるまい。
と言う訳で、その団子を、いくつかポケットにくすねておく。
兎達に団子を取られないよう注意しつつ、歌って踊り、何時も通りに例月祭を終える。
この時、自分が熱に浮かされないよう、団子を摘み食いしないようにするのがポイントだ。
で、常とは違って熱冷ましに散歩する必要も無いので、鈴仙と共に永琳に報告。
権兵衛が一緒に居たのには吃驚したが、それを覆い隠し、その場から権兵衛を連れ出す。
どうせ片付けまで終わったと報告されてしまっては、権兵衛には例月祭でやる事は無いのだし、権兵衛はてゐに従順についてきた。
そこで十分に二人から離れた辺りで、一番形の良い物を選び、そっとポケットから団子を出す。

「さて、権兵衛よ。人を幸せにするために、一つ訓示をくれてやろうじゃないか」
「はい、てゐさん」

 こんな時、ちょっとだけ自分を師匠と呼ばせてみても良かったかな、と思うてゐだが、その考えを振り払い、権兵衛に団子を差し出す。

「はい、団子」
「はい、団子ですね。……あぁ、成程。
幸せとは皆で分かち合うもの。これを食べて、他の兎の方達と幸せを分かち合い、幸せのなんたるかを知れ、と」
「あー、まー、そんなもんだね」

 ここでどう言って食べさせようか考えていなかったてゐだが、何時ものように勝手に権兵衛が理屈をつけてくれるので、それに乗って団子を手渡した。
こんな風に流されてしまうから、私は権兵衛を騙せないのかもね。
そんな風に思いながら、団子を咀嚼しながら幸せそうな顔を作る権兵衛の顔を見る。
てゐは、食べ物を食べる権兵衛の顔が、そんなに嫌いでは無い。
初日、初めて夕食を共にする時にカレーを食べた時も、最初、彼がカレーを食べる顔を見て、思わず感想を言うまで見惚れてしまったぐらいだ。
何せ、本当に顔中から幸せ光線でも出ているのかと言うぐらいに幸せそうに、食べ物を頬張るのだ。
食器やら素手やらで食べ物を浚い、ちょっと小口気味に口を開いてすっと口の中に食べ物を入れるのだが、それからすぐに小さなえくぼを作って目を細め、幸せを噛み締めるようにゆっくりと食べ物を噛み、嚥下する。
その後、特に最初の一口の後は、何とも幸せそうに小さくため息をつくのだ。
この時もそんな風で、やっぱりてゐはちょっぴり権兵衛の顔に見惚れてしまう。
もっと見ていたいな、と自然と思い浮かび、手がポケットに伸びようとするのだが、それを鋼の意志でてゐは止めた。
妖怪用の薬は普通、人間に対し十倍の効力を持つと言う。
今回の興奮剤はそこまで大きい力を持っていないし、多少は権兵衛も無自覚に霊力でレジストしているだろうから一つなら問題無いが、幾つも与えては不味い。
表情筋の笑顔を作り、てゐは続けた。

「さ、そいじゃあ例月祭が終わったって、姫様に報告に行ったらどうだい? もう報告は行っているかもしれないけど、暇してるだろうしさ」
「そうですね、確かに何時も通り、そろそろ暇を持て余して何かし始めている頃かもしれませんね」

 苦笑しつつ言う権兵衛の言う通り、丁度今時分が、輝夜が盆栽の世話に飽きてきて他の事をしようとしだす頃である。
成程、権兵衛はどうやら、思ったより輝夜の事を理解しているようだった。
そう思うと、何故か、てゐの腹の中でぐねりととぐろを巻く物があった。
これは権兵衛の幸せの、ひいてはてゐの精神の健康の為に好事であると言うのに、何故か、不快感がつのる。
なんだか、これ以上権兵衛を見ていたくない。
先程まで、団子を食べる顔をずっと見ていたいぐらいだったと言うのに。

「ほら、さっさと行ってきな」
「はい、では、失礼します」

 だから、胸の中の黒い物に従い、てゐは権兵衛を急かし、さっさと輝夜の元に向かわせる事にした。
だって、それで権兵衛は幸せになれるのだ。
そうすれば自分も精神的に健康的になり、きっとこの不快感も消えてくれるだろうから。
――その筈なのに。
何故か、胸の中の黒い物は、こびり付いたかのように消えてくれないし、遠ざかる権兵衛の背を見ていると、徐々に増えていっている気さえもする。
大丈夫。
これでいいんだ。
そう思って黒い感情を吹き飛ばす為に、てゐはポケットに残しておいた団子を取り出し、一つ、ぱくりと食べた。
そのまま暫くぼうっと立っていると、興奮剤の作用で体に熱がたまって、どうにも動かしたくなる。
そんな熱を覚ます為に、何時もよりも若干遅い時間の散歩に、てゐは出かける事にした。



      ***



 輝夜の日課として、優曇華の盆栽の世話と言うものがある。
しかし世話と言っても、水をやったり肥料をやったり枝を裁断したりする事はなく、ただ眺めているだけだ。
勿論、優曇華の盆栽の特性としてはそれで十分なので、別にサボっていると言う訳では無いが、特に輝夜が積極的にやるべき事と言うのは無い。
比べて、弟子の権兵衛は、手がかかることこの上ない。
初回以降もちょくちょく時間を取って霊力講師の講義を永琳から受けねばならないし、それに加え、具体的な育成計画は自分で考えねばならない。
しかもそれで失敗してしまえば、失われるのは権兵衛の才覚なのである。
更に、今まで何をやっても永琳が居るから大丈夫だと思っていたが、今回ばかりは永琳が権兵衛に憎悪を抱いている為、恐らくフォローは無いだろう。
となると。
これはもしかして、輝夜が生まれて初めて成す自分の仕事と言えるのでは無いだろうか。
つまり、己の全てを映しだした、初めての存在。

 今の所、それは上手くいっているように思えた。
権兵衛は霊力の才能もあったし、それ以外に話し相手が欲しい時に呼んで居て分かったのだが、結構頭も良い。
すくすくと輝夜の教えを吸収し、霊力としても、教養としても、美しい珠のような形を徐々に取り始めている。
いわば。
権兵衛は、輝夜の宝物だった。

「なんて言うには、まだちょっと早いかしら」

 己の贔屓目の強さに自嘲の笑みを浮かべ、輝夜は縁側で満月を肴に茶を口に含む。
珠のようにとは言っても、まだまだ権兵衛は未熟であった。
師の贔屓目もあるが、権兵衛はもうすぐ氷精や夜雀ぐらいなら相手できるレベルに到達するだろうが、そこからは流石に成長スピードは落ちるだろう。
才能の有無の問題ではなく、位階としての平易さの問題であるので、それは避けられない。
宝物、などと言ってお披露目できるようになるまでは、恐らく二、三年はかかるだろう。
と言っても、それでもかなり才能がある方なので、幻想郷の面々は驚くに違いないだろうが。
驚き、権兵衛を賞賛する面々の顔や、唯一の殺し合いの相手である輝夜を取られて仏頂面になるであろう妹紅の顔を想像し、くすりと輝夜は微笑んだ。
と、そこに影が落ちる。

「輝夜先生。無事、例月祭が終わったようです」
「あら、そう。良かったわ」

 と言って現れた権兵衛の頬は赤く上気しており、はて、どうしたものか、と考え、気づく。
恐らく何も知らない兎にでも勧められて、興奮剤入りの団子を食べたのだろう。
あれは人間には相当辛い筈だが、満月の今、権兵衛ならある程度抵抗して、ちょっとした興奮状態程度に収めているだろう。
しかし、温和な権兵衛の興奮した状態とは、珍しい物である。
むくむくと悪戯心が湧いてくるのを感じながら、それに従い輝夜は口を開いた。

「なら権兵衛、今暇でしょう? ちょっとお茶に付き合いなさい」
「……あ、はい、是非とも」

 と言う息の荒い権兵衛が座って茶を口に含むのを確認して、一言。

「所で権兵衛って、女所帯で性欲をどう処理しているのかしら」
「ぶべふっ!?」

 宙を舞う液体が随分と遠くまで飛んでゆくのを見て、内心ガッツポーズを取る輝夜。

「い、いや、あの、あのですねぇ……」
「くす、冗談よ、冗談。何、それとも私にえっちな事聞かれて、興奮した?」
「してませんっ!」

 いきり立つ権兵衛に肩を震わせ、喉で笑う。
だって、ぶべふっ、ぶべふって。
止まらない笑いを、心の中の権兵衛からかい帳に永久保存しておき、ついでにちょっとだけ着物をはだけてみる。
何時もは顔を赤くしながらもすぐに目を逸らす権兵衛が、固まってしまったかのように視線を留める。
男のねっとりとした視線はあまり好きでは無いが、権兵衛のそれだと、不思議と優越感のような物が勝るから不思議である。
くすり、と再び微笑をもらし、輝夜は口を開いた。

「あら、権兵衛、どうかしたのかしら?」
「――っ!? い、いや、なんでもありませんっ」

 顔を真っ赤にして殆ど体ごと輝夜から目を背ける権兵衛に、再び輝夜は喉で笑う事となる。
そんな権兵衛を見ているとまだまだ悪戯心が湧いてくるのを感じる輝夜だが、まぁ、これぐらいで勘弁してやろう、と権兵衛をからかうのはこのぐらいで止めておく事にした。
自然視線は竹林へ、そしてその上の満月へと昇る。
満月。
貴き月。
ちょっと前、永夜異変と呼ばれる異変を輝夜達が起こすまで、満月とは恐怖の対象であったが、ここ最近はそれを愉しむようになっている。
その変化はなんだか恐ろしく、だから常は雨で満月が出ていない方が安堵する輝夜なのであったが、今は違った。
そんな事よりも、権兵衛と一緒に、こうして月見をできる事が嬉しい。
こんなことだったら、今回の例月祭も永琳に言って薬を混ぜさせず、自分たちも食べるようにすれば良かったかもしれない。
そう思うとちょこっと後悔が滲む輝夜であったが、過ぎてしまった事は仕方ない事、今こうやって権兵衛と満月を愉しめる事に満足する輝夜であった。

「やっぱり、今が一番大事な時なんだ、って思うわ」
「……輝夜先生?」

 脈絡の無い輝夜の言葉に、ようやく顔の赤さが引いてきた権兵衛が、疑問詞を浮かべる。

「過去なんて、安い本を同じよ。読んだら捨ててしまえばいいわ」
「そう、ですか?」

 珍しく、言外に輝夜に反抗する一言であった。
これも興奮剤の力によるものかと思うと一層珍しく思え、輝夜は先を促す事にする。

「そうよ。違うかしら?」
「――違う、と、思います。だって、過去は重要です。
俺がこの幻想郷に入ってきたのも。慧音さんと出会い、恩を授かったのも。白玉楼で、幽々子さんと妖夢さんと知り合えたのも。そしてこうやって、輝夜先生に弟子として貰えているのだって、過去があるからです。
もし俺が過去を低く見てしまうのなら、輝夜先生から受けた恩だって、軽くなってしまう。
それは、俺は、その――、嫌なんです。
俺は、この幻想郷に入ってきてから、皆に受けてきた恩を、大事にしたい。
だから俺は、過去を安く見ようなんて、できるとは思いません」
「そう、かしら」

 不思議と、輝夜は自分の中に黒い物が湧き上がるのを感じた。
団子など食べていない筈なのに、感情的になる自分が居るのが分かる。
膝の上で握りしめている拳の中、爪が肉に食い込むのを感じる。

「でも結局のところ、この世にあるのは今この瞬間だけ。それを楽しめないようなら、何の意味も無いわ」
「違います。過去を美化できないと言う事は、今に比べて幸せな物が無くなってしまうと言う事で、つまり今幸せになるために努力できないと言う事になる。
そうなると生き物を諦めの念が支配してしまいます。そうなれば、負の連鎖として、生き物はずっと悪い方向に行ってしまう事でしょう。
俺も、多分そうです。
これができず過去を大切にしなければ、未来が無くなってしまう」

 何故か、輝夜は不意に泣き出しそうになった。
目尻の辺りにぐぐっと熱いものがこみ上げてきて、喉奥に痛みを感じるようになる。
どうにかそれを抑える事に成功し、それから権兵衛の様子を見るが、権兵衛は自分の言に興奮しているようで、輝夜の様子は悟られなかったようだ。
それはそれで良い筈なのに、何故かその事実が、更に輝夜の涙の力を増す事になる。

「未来。未来だって、そんなに大切にしなくちゃいけないものかしら? 今を大切にする事とは比べ物にならないわよ」
「大切にしたいです。だって、俺は、俺がみんなに恩を返せる未来を求めて、今を頑張れているのだから」

 悲しいのだろうか。
怒っているのだろうか。
最早それすらも分からない感情が輝夜の目頭に温度となって集まり、ぽろり、と零れ出した。

「何でよっ!?」
「輝夜、先生?」

 思わず、口から怒号が飛び出る。
権兵衛が輝夜の方を向き、その様子にようやく気づいた。

「何で、権兵衛はそんな事言うの!? だ、だって、大事なのは、今、過去も未来も、過ぎ去ったか、いずれ過ぎ去る、いくらでもある物に過ぎないのよっ!?」
「――っ! で、でも……」

 何か言おうとする権兵衛に重ねて言うように、輝夜は叫ぶ。

「なのに、そんな物を大事にするなんて――」
「――でもっ!」

 遮るように、権兵衛も叫んだ。

「でも、俺の未来は――、永遠じゃあ、ないんです!」
「――あ」

 突然、疑問が氷解した。
なんでこんなに悲しいのか。
なんでこんなに怒っているのか。
それは。
自分とずっと一緒に居られると思っていた権兵衛が。
こんなにも違う考えなのが、悲しいのだ。
こんなにも違う生物なのが、悲しいのだ。
そう自覚すると、一層悲しさが増してゆくように思えて。
権兵衛の顔が、自分との間にある間隙を、より一層意識させるものであるように思えて。

「……たくない」
「え?」
「見たくないっ! 権兵衛の顔なんて、見たくないっ!」

 駄々っ子のような言葉が、輝夜の口から漏れ出す。
そんな言葉が自分の口から漏れ出すなんて信じられない輝夜であったが、次々と言葉の方は輝夜の口から出ていってしまう。

「見せないで。ねぇ、見せないでよっ!」

 ぱちん、と小さな音を立て、輝夜の手が権兵衛の頬を叩いた。
その弱い力に従い顔を外に向けた権兵衛の顔すらも直視できず、輝夜は視線を下ろす事になる。
なのに、体の向きは権兵衛の方を向いていて、だから権兵衛の下半身は自然と視界に入っていた。
それが、権兵衛が見えてしまうのが、権兵衛がこんなにも自分と違うと言うのを直視するのが嫌で、輝夜の口は次の叫び声をあげる。

「出てって。出てってっ! 今直ぐ、此処から、永遠亭から出てってよっ!」
「輝夜、先生……」

 呟きながら、何をすればいいのか分からない様子で、手を空中でさ迷わせる権兵衛。
視界の隅に入るそれがどうにも煩わしく感じて、つい、それすらも振り払ってしまう輝夜。

「ねぇ、出ていって。出ていってよっ! もう、これ以上貴方を見ていたくないのよ!」

 泣きながら、輝夜は権兵衛の胸を叩く。
全身から力が抜けているかのようで、胸を叩く力は、自分でも驚くほどに弱い。
ぽすん、ぽすん、と権兵衛の胸を叩く手に、権兵衛がそっと掌をかぶせて来たが、咄嗟にそれも払いのけてしまう。
ひょっとしたら、これ以上権兵衛の温もりを知り、同時に権兵衛との間隙を意識してしまうのが、怖かったからなのかもしれない。
何にせよ、権兵衛の手は払いのけられ、その顔は明らかにショックを受けていた。
そんな顔をさせてしまう自分が悲しくて、再び輝夜の目からは涙が溢れ出て、同時に罵詈雑言も口から飛び出しはじめる。
それにも飽きると、最後には叫ぶ力も尽きたのか、ただ涙を流しながらこんな風に輝夜は呟いてみせた。

「お願いだから……、お願いだから、もう出ていって。これ以上、私に酷い事、言わせないでよ……」

 ――それからどうなったのか、輝夜はよく覚えていない。
多分一晩中権兵衛に罵声を浴びせかけ、出て行けと怒鳴っていたのだろうが。
少なくとも。
翌朝には、権兵衛の姿が永遠亭から消えていた事だけは、間違いなかった。



      ***



 数日後。
秋の日差しが竹の間から差してくる中、てゐは日課である散歩をしていた。
世間では落ち葉も溜まる頃であると言うのに、茶一色である地面を軽やかに踏みしめてゆくのが秋の竹林散歩の醍醐味なのだが、その足取りは、不思議と重く、時々止まっては、思い出したかのように進んでいる。
代わりに出てくるのは、何故かため息ばかり。
憂鬱だった。
何時も心の目を楽しませてくれる不変の竹林も、その合間から覗く陽光が反射する煌きも、まるで灰色にしか見えない。
体からは変わらず活力と言う活力が抜け出ているようで、意識せねばすぐに足は止まってしまい、ため息の博覧会が始まってしまう。
どうしたのだろうか。
てゐにとって猛毒である権兵衛が、思い通り幸せとはならずとも、目の前から姿を消したと言うのに。

 ――例月祭の夜。
てゐは権兵衛を幸せにする為、輝夜との仲を進展させようと、興奮剤入りの団子を渡した。
結果、何があったのかは知らないが、翌朝には権兵衛は姿を消していた。
輝夜の説明によれば、ただ教育にも飽きたから放逐したのだ、との事。
しかし説明に反し顔は切なく、今にも泣きそうな顔で言うので、それには全く説得力が無かった。
何があったのか分からないが、兎に角、てゐの行動は相変わらず権兵衛を幸せにする事は出来ず、不幸にするばかりであった。
しかし。
しかし、である。
同時、てゐにとって猛毒である権兵衛が、目前から姿を消したと言うのも、また一つの事実であった。
であれば当然、権兵衛の不健康分だけてゐが健康的になってもおかしくないと言うのに、未だ精神は憂鬱であり、復調の兆しは見えなかった。
その事実にため息をつき、再び止まっていた足を、どうにかして動かし始める。
それがぐっと力を込めないと何時までもその場に座り込んでしまいそうなぐらい難しく、今のてゐにはその程度の活力を搾り出す事すら難しいと言う事実の現れであった。

「あら、てゐじゃない」

 と、そんなてゐに、突然声がかかる。
自然足元をばかり見つめていたてゐが面を上げると、何時の間にかてゐは永遠亭の庭近くを歩いており、縁側に腰掛ける鈴仙が見える範囲に居た。
声をかけられたので返そうと思うてゐであったが、不思議と、何時もなら朗々と滑りだす口が、一向に回らない。
とりあえず、やぁ、とだけ声を返して、視線を足元に戻し、この場を去ろうとする。
本当に憂鬱な時は、人が近くに居ると言う、その事実だけで億劫なのだ。
が。

「あ、その……。ちょっと、聞いてくれるかしら」

 と、続けて言う鈴仙の言葉に、てゐは再び面を上げた。
鈴仙がてゐに相談事と言えば、出会って数年で騙しまくって散々遊んで以来、滅多に無かった物であるので、ふと興味を惹かれ、てゐはゆらりと鈴仙の元へと近寄り、ひょい、とすぐ近くの縁側に腰掛ける。
ただ、鈴仙の顔を見て気遣う程の活力は出てこなくて、結局自分の足を見つめながら、鈴仙の言葉に耳を傾ける事にする。

「その、権兵衛さん。すぐ前まで、あの人が居たじゃない」
「うん。そだね」
「私……、権兵衛さんが最後に輝夜様と話していた時、隠れて見ていたの」
「そう――、だったんだ」

 成程、権兵衛ストーカーの第一人者である鈴仙であるならば、師への報告を終えてすぐに権兵衛の尾行に戻っていてもおかしくはあるまい。
とすると、例月祭の夜、てゐが団子を渡すのを邪魔されなかったのは、結構ギリギリのタイミングであったのだろうか。
そう思うと普通、ギリギリで悪戯を成功させた時のスリルと快感がてゐの背を波打つのだが、今はただ、もしもの世界には権兵衛が興奮せず、そしてその為に此処を出てゆかなかった世界があったのかもしれない、と夢想しただけであった。

「最初は、普通の会話だったわ。ちょっと、権兵衛さんが興奮気味だったぐらいかな。
でも、それはすぐに終わったわ。切欠は、確か、今が大切か、過去や未来が大切か、みたいな話だったかしら。
輝夜様は勿論今が大切だって仰られて。
権兵衛さんは過去や未来が大切だって言ってて。
ふふ、あの人らしいわね、皆からの恩を忘れたくない、皆に恩を返したいって言ってて。
本当に権兵衛さんらしい、可愛い理屈だったわ」
「そうだね」

 確かに、権兵衛ならそう言うかもしれない。
出会った時の、いきなり弟子になりたいとか言い出した権兵衛の口上を思い出し、てゐはそう思った。

「でも、輝夜様――、ううん、あの女は。
権兵衛さんが、ただ皆の恩を大切にしたいって、自分らしくありたいって、そう言っているだけだったのに、いきなり癇癪を起こし始めたわ。
何で、今を大事に思えないんだって。
そう言ったかと思えば、急に、権兵衛さんの頬を――」

 ぎり、と歯ぎしりの音がするのに、てゐの視線はゆらりと鈴仙の顔に移る。
目は血走り歯茎をむき出しにした、夜叉の顔がそこにあった。
それから、急に鈴仙は叫びだす。

「あの女、よ、よりにもよって権兵衛さんの顔を、な、殴って!
権兵衛さんの手を――、ふ、振り払って!
ま、まるで自分が、ひ、被害者みたいな顔して、泣きながら権兵衛さんを罵倒し始めてっ!」

 それから、激怒した鈴仙の口から、意味のない叫びのような怒号が続けて口にされた。
先日自分がおぞましいと言った愛情に起因する怒りにさらされたてゐだが、それにすら反応するのも億劫で、鈴仙の頭に昇った血が降りるまでぼうっと呆ける事にする。
最早てゐは鈴仙におぞましさを感じる事も、その怒りを恐れる事もなく、ただその怒号を聞いて、あぁ、私はやっぱり権兵衛を不幸にしてしまったんだな、と思い知らされていた。
予想はしていた事だったが、憂鬱である。
自分の心が更に深い所へ沈み込んでゆくのを感じながら、ただただてゐは自分の足元を眺めていた。
暫くして、肩で息をしながら、鈴仙が冷静さを取り戻す。

「はぁ、はぁ……。兎も角、そんな理不尽な事で、あの女は権兵衛さんに出てけって言って。
権兵衛さん、困ったんだと思う。
あの人、きっと誰に怒られても、自分に原因があるって思っちゃうぐらい、底なしに優しい人だから。
どうやったら、あの女――輝夜様の怒りを、沈められるんだろうかって。
あんな女の癇癪なんて、放っておけばいいのにね。
――で。
多分、思いつかなかったんだと思う。
だって、思いついたなら、あの人はきっとその方法がどんなに怖い事でも、びくびくしながらかもしれないけど、絶対にできる人だから。
だから、権兵衛さん、部屋に戻って、荷物を纏めて、――永遠亭を、出て行っちゃって」

 と、そこまで話してから、鈴仙は、大きく息を吸い、吐く。
てゐが視線をやると、鈴仙は、今のてゐと同じような、どこまでも沈み込んでいきそうな、憂鬱な瞳をしていた。

「私、ね。権兵衛さんが此処に来た初日、約束していたんだ。
『いざって時は、私を頼ってくれていいよ』って。
でさ、此処を出ていこうとする権兵衛さんを見て、今こそ、“いざって時”じゃないか、って思って、私、姿を表そうとして――」

 鈴仙の言葉が、途切れる。
自然、辺りに憂鬱気な沈黙が充ち溢れ、竹林が風で揺れるさざ波の音だけが残された。
続く言葉を待って鈴仙の顔を見ていたてゐの視線が、徐々に力を無くし、足元へと降りていって。
二人が視線を交わないまま、幾許かの時が過ぎ去った時。
ついに、鈴仙が呟くように言った。

「でき、なかった」

 一度言ってしまうと、決壊したダムのように、鈴仙の言葉は次々に溢れでてくる。

「不意に、お師匠様が今見ているんじゃないか、って思って。
そしたらさ、急に熱が冷めるみたいに、姿を現して私は何ができるんだ、なんて思っちゃってさ。
輝夜様を説得できる訳でも無い。
お師匠様に頼み込んでも、権兵衛さんを嫌っているお師匠様だから、そんな事絶対に無理。
なら、私も此処を飛び出して、権兵衛さんについていけば良かったのかもしれない。
でも、それすらも私には、出来なかった。
此処を離れるのが。
今持っている物を手放すのが、怖くて。
――権兵衛さんと違って、勇気が、無くて」

 勇気。
その言葉に反応して、ぴくり、とてゐは自分のウサミミを揺らした。

「自分で動く、勇気がなくて」

 自分で動く、勇気。
それを聞いて、てゐはそういえば、と思い出す。
焦っていたてゐは、誰かと権兵衛の仲を進展させて幸せにしようと思い、三人を思い浮かべたのだが。
よくよく考えれば、てゐが権兵衛と普通に仲良くなればいい、と言う手段があったのではないだろうか。
何故、それが思いつかなかったのだろうか。
単純に思いつかなかった?
いや、数千年の時を生きたてゐの知恵はその程度の物ではないし、問題も単純である。
実行するかは兎も角として、少なくとも、思いついてみて否定するぐらいはしていないとおかしい。

「本当に私、臆病で」

 臆病?
私は、臆病だったのだろうか――、てゐは、呆然と自分の足元を見つめながら、ふと思った。
そう、先の考えが正しいのなら、てゐは自分が普通に権兵衛と仲良くなればいい、と言う考えを、思いつきながらも自分で封殺していた事になる。
怖かったのだろうか?
今までにない、騙し騙されの関係ではなく、素の自分で接する事と言うのが。
――臆病。
ぶるりと、自分で自分に言い聞かせた言葉に、てゐは身震いする。
だが、しかし。

「でも、だから。だから、次こそは。
うん、次なんて、あるのかどうか、あっても何をすればいいのか分からないけど。
でもね、次こそは私、勇気を出そうと思うんだ」

 ――次。
ああ、そうだ、次があるかもしれないんだ!
それに気づくと、雷が落ちたかのようにてゐの全身に活力がみなぎった。
自然、視線も上がって鈴仙の顔が視界に写り、その顔が、寂しげながらも、何処か決意に溢れた表情である事に気づく。

「次がどんな時か分からない。その時、何をするのが勇敢なのかも分からない。
だけど、決めたんだ。次こそは、次こそは、絶対に、勇気を出して権兵衛さんの力になってみせるんだ、って」

 てゐの視線に気づいた鈴仙が、にこり、と笑いながら、そう宣言してみせた。
そして、ぐいっと体を持ち上げ、庭へと踊り出る。

「ありがとね、てゐ。私の決意表明、黙って聞いてくれてさ」
「いや、私も助かったよ」
「へ?」
「や、なんでもないさ」

 そう言うと、少しの間怪訝な顔をしていた鈴仙であるが、もう一度てゐに礼を言い、散歩でもするのだろう、ゆっくりと庭の周りを歩き始める。
それを眺めながら、呟くように内心でてゐは思う。
礼を言いたいのは、こちらの方だった。
そう、権兵衛との関係はただ距離が離れただけで、まだ切れておらず、次がある、と気づかせてくれたのだから。
ならば、てゐの精神が一向に健康的にならないのも、頷ける話である。
何せただ単に権兵衛が目に見えなくなった所で、それは症状の進行を緩和するだけで、根本的な治療にはなっていないのだから。

 だが、同時に次がある、と言う事は希望がある事をも指し示していた。
だからてゐは、賢しい兎らしく、今度こそは権兵衛と出会った時、権兵衛を幸せにしてあげる為に、色々と準備をする事にする。
――まず初めに、権兵衛を少女性愛に倒錯させる為に、永遠亭のおぞましい愛を教え、大人の女性に不信感を持たせねばならない。
その上でスキンシップと称して権兵衛の体に触れる事を多くし、更にそれを先のような興奮剤を用いるなどして興奮状態にある権兵衛に行い、権兵衛に自分が少女に対し興奮していると錯覚させねばならないだろう。
同時進行で、何処か権兵衛と一緒に逃げれる場所を作るのも必要だ。
何せ永遠亭の女どもときたら自分勝手で、恐らく権兵衛が他の誰と結ばれても、それを信じず迫り来るであろう女ばかりである。
とすれば誰にも見つからない家や、それを手に入れる為の資材なども必要になる事は、当然の事と言えよう。
勿論、権兵衛と二人きりで住まい、二度と他の誰とも出会う予定の無くなる場所なのだ、自給自足ができる事も必須だ。
その為に必要な知識や流言飛語や薬の調達など、やる事は山ほどにある。
こうやってやる事ができると、不思議な事に憂鬱さも吹き飛んでしまう物で、何時の間にかてゐの体には活力が満ち溢れていた。
先程鈴仙がしたように、ぐいっと体を持ち上げ、庭に踊り出る。
太陽を見上げると、灰色だったそれは黄金の光を放ち、これからのてゐの所業を祝福しているかのように見えた。
だから、思うのだ。
絶対に。
他の誰に幸せにされるよりも、早く。

「――ぜったいに、わたしが幸せにしてあげるからね、権兵衛」



      ***



「――ふぁ」

 午睡から覚め、輝夜は意味のない言葉を漏らした。
どうやら、優曇華の世話をしているうちに、少し寝てしまったようである。
幸いよだれなどは垂れていなかったので、少し寝ぐせっぽいのを頭に触れて直し、風にでもあたろう、と輝夜は部屋の外に出ることにした。
縁側を散歩しながら、此処数日の事を思う。

 権兵衛が居なくなってからの数日、輝夜は兎も角、手持ち無沙汰だった。
何時もなら毎日権兵衛に霊力を教えるか、その為の計画を練るか、そうでなくとも権兵衛と話でもしていくらでも時間を潰せていたのに、今となっては、暇ばかりが一日中満ちている。
普段であれば、それでも思いついた事を適当に実行してみるような事があったのだが、それすらもなく、ただ午睡と散歩と食事と睡眠を繰り返すだけの毎日であった。
何と言うか。
何も、する気になれずに。
その事を考えると、権兵衛の事が思い出されて胸が痛むのだが、あの権兵衛に対し、今更どうすればいいのか分からなくて、だから輝夜にはどうしようもない。

 例月祭が明けた朝、権兵衛が居なくなっていた事を知ると、自分が飽きたから放逐したのだ、と、表向き平然としたつもりで屋敷の皆に説明した。
しかし内心では権兵衛に会いたい気持ちと会いたくない気持ちとがせめぎ合って、嵐のような有様になっていた。
権兵衛と、会いたい。
会ってあの、素晴らしい時間を共有したい。
霊力を教えるのだって勿論魅力的だが、そこまで望めなくとも、ただ会話するだけでもいいから、権兵衛と会いたい。
そう思う反面、権兵衛と会いたくない、という気持ちがある。
権兵衛と、会いたくない。
会えば、きっと権兵衛がどうしようもなく自分と違う考えの生物だと、気づいてしまうから。
ずっと権兵衛と一緒に居られる今と言う時間の儚さが、嫌でも実感させられてしまうから。
二律違反の感情は、今でも輝夜の中でせめぎ合い、その勢いは弱まるどころか強まるばかり。
かと言って両方に従う行動など存在するはずもなく、輝夜は表向き何もせず、ただぼうっと優曇華の盆栽を眺める毎日を送っていた。

 散歩の合間も、今は目を楽しませる余裕すらない。
ただただぐるぐると二つの言葉が頭の中を回っており、それが他の全てから輝夜の意識を引き剥がしている。
権兵衛に会いたい、会いたくない。
そんなぼうっとしている輝夜であったが、縁側をぐるぐると散歩している間に、ふと、永琳の部屋の前を通りかかった時、襖が半開きになっているのに気づいた。
普段ならそんな物どうでもいいと思う所なのに、不思議とそこには引きつけられるような感覚があり、ふらふらと輝夜は永琳の部屋へと歩みを進める。

 永琳の部屋は、明かりを取り入れる窓全てが締め切られ暗闇に包まれており、その中に唯一薄緑色の光源があり、それが部屋の机の上にある物を強く照らしているようだったが、外からではよく見えない。
永琳はと言うと机に座ってぼうっとした様子で、じっとその光源近くにある瓶詰めの何かを見つめている所だった。
それがどうにも気になるので、思い切って、輝夜は襖を開けて永琳の部屋に入る。

「か、輝夜!?」

 蠱惑。
永琳が悲鳴じみた声を上げて跳ね上がるように振り返るが、それすらも目に入らない。
ただただ、幾つかある光源の瓶の中にぎゅうぎゅうに詰められた、灰色の腎臓や、黄土色の小腸、濃赤色の肝臓に、目が奪われていた。
自然、ふらふらと部屋の中を横切り、永琳の隣まで行って、先程永琳がしていたように、その内蔵を見つめる事にする。

「そ、その、これは……」
「これは、権兵衛の、よね」

 暫く、戸惑っているようだった永琳だったが、観念したように口を開く。

「――は、い」

 それを受けて、僅かに、輝夜は僅かに相好を崩す。
どうしてか、それは永琳の答えを受けるまでもなく、その事は分かっていた。
次いで、永琳が権兵衛の臓物をぼうっと眺めていた様子を思い出し、ふと、思いつくものがある。

「ねぇ、永琳。永琳も、権兵衛の事が好きだったのかしら」
「ええ!? い、いや、その、輝夜ったら、権兵衛さんの事が好きだったのね。ペットだとか言っていたけど、やっぱりそうだったの」
「答えて。永琳も、権兵衛の事、好きだった?」

 暫く、沈黙がその場を満たす。
光源の電灯が漏らす低い音だけが響く中、暫く百面相をしていた永琳であったが、ついに口を開いた。

「――うん。そうかも、しれないわ」

 言葉面とは別に何処か確信じみた物のある言葉に、輝夜は薄く笑った。
永琳のあの憎悪は、好意の裏返しだったと言う訳だ。
とんだつんでれだな、と内心呟きつつ、輝夜は静かに臓物の詰まった瓶に手をやる。
硝子製の表面を、撫でてみる。
無い筈の権兵衛の内蔵の体温を感じ取れたようで、数日ぶりのそれに、思わず輝夜の口元も緩んだ。

「私も、権兵衛の事、好きだった。
弟子として、話し相手として、なのかもしれないし、永琳程じゃあないのかもしれないけど。
でも――」

 一旦言葉を区切り、輝夜は硝子瓶を撫でる仕草を変える。
ただ体温を感じようとしていたそれから、まるで反応を引き出そうと言うような、扇情的な撫で方。

「でもね、永琳。
あの例月祭の夜、私、権兵衛と口論になっているうちに、気付いちゃったの。
権兵衛が、どうしても私と考えの違う相手なんだって。
どうしても儚い、ただの人間なんだって。
それが、どうにも悲しくって。
権兵衛の顔を見ていると、その事を思い知らされるようで。
だから、出てけ、って言っちゃったんだ」

 指先でつつっと滑るような撫で方を終えると、輝夜は次の瓶を愛でる作業に移る。
再びあるはずのない体温を感じるような撫で方で、硝子瓶の表面を撫で始めた。

「後悔、しているわ。
それでも我慢すれば、権兵衛の顔をもっと見ていられたのかも、なんて思うと。
ふふ、過去なんて気にする事は無い、なんて言ったその当人が、こんなに過去を気にしているなんて、説得力が無かったかな。
――、そう。
私、権兵衛を見ているのも苦しいけど。
権兵衛をずっと感じられないのも、苦しいんだ」

 いくつかある瓶を撫で終えると、再び瓶を元の位置に戻し、それをただただ眺めながら続ける。

「でも、だからって、私、何をすればいいのか、分からないのよ。
ただ権兵衛に会うのも苦しくて。
でも会えない事だって、苦しくて。
だから――」

 何かないかな、永琳、と続けようとして、ふと、輝夜は気づく。
自分が今まで愛でていた物。
権兵衛の臓物。
臓物。
臓物。
臓物!

「――あ」

 天啓が、輝夜に下った。
その瞬間、ぐっと視野が広がり、自分がどんなに小さな事で悩んでいたのだろう、と気づく。
大体、なんでこんな簡単な答えに至らなかったのだろうか――。
そんな自嘲をも吹き飛ばす、満面の笑みを浮かべ、永琳の方へ振り向いた。

「そうだ、永琳、思いついたっ!
そう、思えば簡単な事だったのよ。
権兵衛と会わない事で感じる苦痛はただの苦痛だけど、権兵衛と会う苦痛は喜びも伴なう物。
なら、権兵衛と会う苦痛をだけ無くせば、それで済む筈。
私は、権兵衛と一緒の事を考えられなかったのが、悲しかった。
私は、権兵衛と違う生物である事が、耐えられなかった。
でも、ならば、それは――!」

 輝夜の興奮に困惑する永琳を尻目に、胸を張って輝夜は宣言した。

「同じ、生き物に――蓬莱人になればいいだけの、話だったのよ!」

 一瞬、虚を突かれた形であった、永琳であるが、すぐに思い直す。

「でもね、輝夜。蓬莱の薬はもう――」
「無い。でもね、永琳、思いついたの。蓬莱の薬が無くても、権兵衛が蓬莱人になる方法――」

 言って、輝夜は、己の腹に手を当てる。
僅かに撫で、その体温を感じた後、ぐっと力を込めて、ずぬぷっ、と輝夜は自分の腹に手を突っ込んだ。
びちゃびちゃと飛び散る血に頭を冷やしながら、体をくの字に折りつつぞもぞもとお腹の中を探し、見つけたそれをがしっと掴み、引きずりだす。
血で濡れた輝夜の小腸は、権兵衛の小腸のとなりで、薄緑色の光を受け、てらてらと輝いていた。

「権兵衛に、私達の肝を、食べて貰えば良かったんだわ」
「――あっ!」

 久しぶりに永琳の驚く顔を見て、くす、と輝夜は微笑む。
そう、蓬莱の薬を飲んだ人間は不老不死になる。
しかしその不老不死の人間の生肝を食すと、その人も不老不死になるのだ。
こんなことも思いつかないなんて、私も永琳もお馬鹿だったわね。
そう内心で呟く輝夜の隣、立ち上がった永琳が、同じように自らの腹に手を当てる。
ぶぢゅ。びちゃ、くちゅくちゅ、ずりゅっ!
同じようにして引きずりだされた永琳の小腸が、輝夜の小腸の隣に位置する。
その美しい光景を胸に、輝夜は胸を張って、宣言する。
きっとその行為は、輝夜の嫌いだった永遠を作るのだろうと言うのに、楽しい毎日を作るに違いない。
弟子の権兵衛を毎日鍛えてやって。
暇になれば権兵衛を呼んで、話をして。
日々の事柄で、師弟の絆を実感して。
そんな風に、ずっと一緒に居る為。
ずっと同じである為。
その為に。

「ぜったいに、わたしたちを食べさせてあげるからね、権兵衛」

 それは、これからの幸せの為、権兵衛が同じ考えで、同じ時間を生きれる生き物になるための事である。
当然権兵衛も歓迎してくれ、きっと泣いて喜びながら二人の生肝を食べてくれるだろう。
そう思うと笑みを押えきれず、それから、その前に仲直りしてからかな、と苦笑気味に微笑む輝夜。
その眼前には、権兵衛、輝夜、永琳の小腸が、薄緑色の光に照らされ、ただてらてらと輝いているのであった。





あとがき
区切る所もなく永遠亭編終了まで書いていたら、何時もの倍近い分量になりました。死ぬかと思った。
今回からチラ裏卒業になります。
次回は閑話の予定です。

PS.妖Luna永Lunaに続き、風Lunaもクリアしました。
そろそろルナシューターを名乗って良いでしょうか。



[21873] 閑話1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/11/22 01:33


 上白沢慧音は、憂鬱だった。
慧音には毎月満月の夜には権兵衛と密かな飲み会をすると言う行事があったのだが、今回それはできなかったのだ。
と言うのも、理由は二週間ほど前に遡る。
その日、権兵衛は街に買出しに来ていた。
簡単な位置を把握する術を権兵衛にかけているので、それを把握していた慧音は、何時も通り“偶然”出会おうと思いつつも、急な来客に対応せざるを得ず、動くことがならなかった。
こうなると、常のように権兵衛をつけ回ってその会話の歴史を必要最小限まで喰う事は、出来ない。
とりあえず監視系の術を使って権兵衛を監視しておいたのだが、権兵衛は米屋の理不尽な値上げに、流石に食っていけないと代金の差し出しを拒否した所、盗人と叫ばれ、それを冥界の庭師に聞かれた。
不味い、と思う間もなく、権兵衛は慧音がかけていた術ごと、妖夢に斬られた。
急いで来客を片付け、偶然を装い現場に向かうと、どうやら誤解は解け、近くに居た薬師の弟子に治療され、白玉楼へ連れ去られたのだと言う。
一瞬、反射的に追って権兵衛を取り返しに行こうと思った慧音であるが、相手は慧音よりも強大な力の持ち主である、下手な手は打てない。
しかも慧音の歴史を食べる程度の能力は、当然権兵衛と会話した相手の力が強ければその相手にもバレてしまう可能性がある為、権兵衛と白玉楼の面々との会話の歴史を食べる事もできない。
何せ、相手は慧音如き朝飯前に殺せる亡霊姫なのだ、慧音には、どうか権兵衛が白玉楼の面々と親密にならないよう願う他無かった。
と言っても、慧音は権兵衛の会話の歴史を食べる事に対し、罪悪感を抱いていた。
故に慧音は、権兵衛に自分だけを見ていて欲しい、他の人間との会話など無かった事にしてしまいたい、と思いつつも、反面、こうやって権兵衛に慧音が邪魔できない知古ができると言うのは、望ましい事なのかもしれない、と思った。
と言うのも、そうすれば権兵衛を独占したいと言う気持ちに諦めがつき、今度こそ満月の夜の飲み会で謝罪の歴史を喰わずに我慢でき、権兵衛に裁いてもらえるかもしれないからだ。

 しかし、数日後、そろそろ権兵衛の傷も治ったかと言う頃、兎を伝って慧音の元に手紙が来た。
永遠亭の薬師からの物である。
はて、どういった事か、と首を傾げつつ中身を改めると、そこには驚愕の事実があった。
本意からではないと思われるが、妖夢がもう一度権兵衛を斬った事。
その怪我で、今度は永遠亭に運び込まれた事。
――そしてなにより、権兵衛が輝夜に気に入られ、永遠亭で飼われるようになったと言う事。

 ふざけるな、と、思わず慧音は叫んでしまった。
権兵衛は、他の誰のものでもない、私の、私の物なんだ!
それを、よりによって、ペットのように飼うだと!?
許せるものか、必ず取り戻してやる!
怒りのあまり歯ぎしりをし、目には血管を浮かせ、唾を吐き散らしながら叫んだ慧音であるが。
その後、一人では難しいと妹紅の力を借りに行く準備をする次第になって、ふと、思ってしまった。
自分が権兵衛にしている所業と輝夜が権兵衛にしている所業、果たしてどちらのほうが酷いのか。
里人と権兵衛、結局どちらの手も取れず中途半端にしか助けれないと言うのに、自分以外との会話を奪う慧音。
飼うとは言うが、月兎の扱いを見るに、普通の小間使いとして使われる程度であろう輝夜。
――当然、己の方が酷い所業である。
そう思うと、あれ程慧音の中を暴れまわった怒りも、萎んでしまった。
ありとあらゆる気力が萎え、最後にはただ、憂鬱さだけが残る。
だって、私なんかと一緒に居るよりも、このほうが権兵衛は幸せなんだ。
だから、仕方ない、仕方ないんだ――。
そう思って、慧音は権兵衛の奪取を諦める次第となった。
ただ、せめて、一度でいい。
満月の夜、もう一度だけあの二人だけの飲み会をして、今度こそは己の罪を隠さず告白して、その罪を裁いてもらいたい。
それだけ思って、慧音は権兵衛と出会うのをだけ心待ちにしながら、満月までただただ待っていた。
最後の最後、満月の夜に来てくれるかもしれない、と思い、満月の夜は寝ずにずっと権兵衛の事を待っていたのだけれども。
結局、権兵衛とは会えなかった。

 心配だった。
もしや傷が酷くて、まだ自由に動き回れる程では無いのだろうか。
もしや永遠亭での扱いが酷くて、外出を許されないような扱いをされているのではないだろうか。
もしや輝夜が既に権兵衛に飽きてしまい、迷いの竹林に権兵衛を放り出してしまったのではないだろうか。
そう思うと居ても立っても居られず、何かしようと思うのだが、思いつかない。
自分のような浅ましい女が権兵衛に会いに行って良いのだろうか?
例え行って良くっても、行って一体何をするのだろうか?
傷が酷いと言うなら慧音にできる事は無いし、永遠亭の扱いに慧音が一体どうやって口をだすのだ。
これがたまたま迷い込んだ里人であったならば兎も角、権兵衛は外来人であり、里から離れて済むはぐれ人間である。
そんなに大切なら何故無理にでも囲っておかなかった、と言われれば、慧音は何も言えなくなってしまう。
そして当然、力尽くでは叶う筈も無く。
唯一意味があるとすれば、権兵衛が既に放逐され竹林を迷っていて、しかもまだ妖怪に襲われておらず、飢えてもおらず、更に偶然慧音が助ける事ができると言う、奇跡に等しい場合に限るのだ。
怖かった。
何よりも自分の無力さを痛感するのが怖くて、慧音は権兵衛を心配しながらも、何一つ実行する事はできなかった。

 せめてもの慰めとして、慧音は、権兵衛の家の管理を行っていた。
何故だかほったて小屋の割りには厳かな雰囲気のする場所で、野生動物が近寄らず、妖精なども祝福には来ても悪戯はしにこない場所なので、する事と言えば掃除ぐらいなのだが。
とりあえず、と丁度手持ち無沙汰になった所であった慧音は、今日も権兵衛の家の掃除に行くか、と、戸締りをして家を出た。
満月の前は少し忙しかったので、数日ぶりとなる掃除である。
少し気合を入れながら歩いていると、ふと、慧音に声がかかった。

「や、慧音じゃないか。久しぶり」
「む、妹紅か。――行儀が悪いな」
「うっ」

 妹紅は団子を咥えて歩いており、見るに暇つぶしに里を食べ歩きしていた所だろう。
その行儀の悪さに慧音の眉が角度を大きくするのを見て、妹紅は慌てて団子を食べつくす。
ほら、もう何も無いだろ、と言わんばかりの妹紅に、慧音はため息をつき肩を落とす。

「はぁ。まぁ、今日は説教は無しにしといてやる。が、これからは気をつけるんだぞ」
「あ、ああ。悪かったよ。――って、どうしたの? 説教無しって。何か用事でもあるのかい?」

 何でもない――!
反射的にそう叫びそうになる自分を、慧音はどうにか抑える事に成功した。
胸にうごめく黒い感情を押しとどめ、一気に激しくなった動悸を抑える。
そう、慧音は権兵衛の家を掃除しにいこうと言うだけである、何処に隠す事があろうか。
無い、無い筈、だ、と内心呟きながら、慧音は口を開く。

「その、何度か話したが、権兵衛と言う外来人の事は覚えているか? 彼がちょっと怪我をして永遠亭に行っている間家を空けているから、掃除しにいってやろうと」
「へぇ。じゃあ暇だし、手伝いに行ってもいいかしら」

 やめろ――!
反射的に叫びそうになるのを、辛うじて慧音は抑えた。
と同時、自分の独占欲が己を叫ばせようとした事に気づき、慧音は血が滲まんばかりの力で歯を噛み締める。
惨めであった。
なまじ里の守護者などと高潔そうに呼ばれているからこそ、こうやって自らの醜さを感じると、それが一層醜く見える。
矢張り、こんなに醜い自分が権兵衛の元に顔を出すなど、害悪にしかなるまい。
後一度、権兵衛に裁いてもらうだけにして、二度と顔を見せないようにすべきだろう。
そう胸に決意しつつ、その悲痛さを押し殺す。

「そう、だな。狭い家だから人手が必要って訳でもなくて、手持ち無沙汰かもしれないが、それで良ければ」
「慧音にゃ恩がたっぷりあるからね。返せる時に、返しておかなくっちゃ」

 じゃあ、頼む。
慧音は笑顔でそう言ったつもりだったが、きちんと表情筋の笑顔を作れていたか、やっぱりやめてくれと口は動かなかったか、あまり自信は無かった。



      ***



 厚い雲が空を覆い、陽光を遮っている。
権兵衛の家は、里の中央近くに位置する慧音の家からは少々遠い。
自然妹紅と二人歩く間言葉が口に上り、話題は権兵衛の事となっていた。

「で、その権兵衛だけど、なんだって急に、慧音が引き取るなんて言い出したんだい?
あたしは後から聞いた話しか知らないけどさ、権兵衛って奴、別に食っていくのに困る程の扱いになるってんじゃあ無かったんだろ?」
「そりゃあ……そう、だが」

 思わず口を噤む慧音。
勿論引き取った事が結果的に良かった事は疑いようのない事実だが、しかし里の有力者である自分があまり強引に里の総意を無視し、無能な外来人を優遇すると言うのは、あまり褒められた手段では無かったのも確かだった。
さて、どういう経緯だったか、と回想にふける慧音。

「自分でも、よく分からないんだ。ただ、どうしても放って置けなかったのかな」
「ふぅん」
「里の会議は数日あったんだが、その幾日目だったかな、丁度私は初めて権兵衛当人と出会ってな」

 今でも目を瞑れば、すぐに思い出せる。
恐怖に心が固まり、今にも泣き出しそうな顔のまま、この世の不幸を全て背負って生きているような顔をした、あの幼い顔。
だが、怯えながらも同時、彼は何処か、判決がどのような物でもあろうと最終的には受けようと言う、粛々とした静謐な部分があったように思えたのだ。
里の議論が、要するに、自分は金を負担したくは無いが、かと言って人を見殺しにする悪人になりたくない、と言う言葉ばかり交わされている中、そんな権兵衛の様子は、何処か神聖なような物にすら思えて。
気づけば、慧音は権兵衛を引き取ると、会議で発言していた。

「結局、同情だったんだろう。それに、私は自分で思っていた以上に潔癖だったから、なのかもな」
「そう、かな。何か違うようにも聞こえるんだけど」
「――そう、か? 妹紅がそう言うなら、そうなのかもな。私自身、よく分かっていない事だし」

 呟き、慧音は目を細める。
初めて権兵衛を見たあの瞬間、思ったのはこの少年を抱きしめてやりたい、と言う思いだった。
慧音は単純に、それを実現させたくて、権兵衛を引き取ると言い出したのかもしれない。
何せそう言った事で、感極まった権兵衛を、慧音は抱きしめる事ができたのだから。
とすれば。
なんと浅ましい事か、と、慧音は自分が情けなくなる。
真摯な悲壮感を抱いていた権兵衛に対し、ただの欲望に身を任せていた自分が、あまりにも恥ずかしくて。
そんな風に自虐の念に慧音が囚われていると、少し言い難そうに、妹紅。

「その、慧音はそう言うけどさ。里の評判は、なんかあんまよく無いみたいでさ、慧音を騙しているとか――」
「当然、本人は善人だ。これ以上無いと言ってもいいぐらいの、な」

 権兵衛の人の良さと言ったらいくらでも語れる物であり、それどころか度が過ぎていて見ていないと安心できない所があるぐらいであるので、胸をはって慧音は言い切る。
恐らく妹紅は噂の通り、慧音が悪い男に騙されていないか心配なのだろう。
なので権兵衛の人の良さが分かるよう、思い出の中から幾つか逸話を紹介してみせる。
最初、寺子屋のテキスト作りを、とりあえずどれぐらいできる物かと一日時間をやってやらせてみれば、不眠不休で仕上げてきて、ぶっ倒れてしまった事。
目覚めてみれば最初はこんな無様を晒してしまったけど、どうか許して欲しいと言う言で、その小動物系な目に、思わず怒るにも怒れなかった事。
体力が年にしては低めで、井戸水を汲んでくるのにも時間がかかるのだが、それにしても遅いと思ったら、近所のお年寄りを見ていられず手伝っていたようだった事。
寺子屋の子供との遊びでは悪人役にされがちで、子供たちが殴る蹴るするのを痛そうにしながらも笑って受け、時折飛び蹴りなんかの危険な技を使う子供を、身を呈して庇ったりしていた事。
まだまだ権兵衛の思い出は底なしにあるのだが、その辺で妹紅の理解を得られたようであるので、最後にこういって、慧音は締めくくる。

「とまぁ、こんな奴でな。悪人どころか、あいつが悪人に騙されないかどうか、こっちが冷や冷やするぐらいだったよ」
「まぁ、権兵衛がどんな奴なのかも、大体分かったよ」

 ついでに慧音がどう思ってるのかもね、と、苦笑気味に妹紅。
慧音はそんな妹紅に、はて、と首を傾げる。
慧音は確かに、権兵衛の事を大切な人間だと思っている。
それどころか権兵衛が他人と喋っているのが我慢ならないぐらいに独占したくて、更にはそれに罪悪感があって、裁かれたくもあると言う、複雑な感情さえあるのだが。
しかし、今の会話からそれが通じる所があるだろうか、と首を傾げる慧音に、再び言い難そうに、妹紅が口を開いた。

「でもさ、慧音。権兵衛ってのがそんな善人なら、なんで嫌な噂なんか流れてるんだい?」
「――っ」

 思わず、口に詰まる慧音。
痛い所を突かれて押し黙ってしまう慧音に、心配そうに妹紅が言う。

「いや、別に、権兵衛が善人だって言うなら、それはそれでいいんだ。ただ、噂みたいに慧音が騙されていやしないかと思うと、心配で――」
「私の――」

 そんな妹紅の言を遮って、慧音は足を止め、口を開いた。
自然、口の中を噛み締め、瞼は閉じ、中の瞳は太陽があるのであろう中空へと向けられる。
映しだされるのは、暗黒の中、幾何学的な残光の模様だけ。
懺悔する心積もりで、慧音は言った。

「私の、所為なんだ」

 言って、瞼を開いて視線を妹紅にやると、彼女はぴくん、と眉をひそめていた。
慧音の権兵衛への好意を知ったから、納得が行かないのだろう。
しかし、これは覆し様のない事実なのである。

「私は、あまりに権兵衛を優遇し過ぎた。
里の会議では権兵衛の事を無能者の押し付け合いみたいに扱っていたと言うのに、私は強引に権兵衛を引きとって。
仕事の方も、権兵衛がまだ慣れていないだろうって、簡単な仕事だったり、私が手直しできる範囲の仕事だけ任せて、土仕事なんかに触らせなくって。
結局私は、権兵衛に対し、里人の嫉妬を掻き立ててしまったんだ」

 他にも方法はあっただろう。
例えば権兵衛には霊力があったのだし、それを指導して、里に有益な力を持っているとしてやるのが、一番簡単だっただろうか。
だが慧音は、それを行えなかった。
下手に力を持って権兵衛が怪我をするのが怖かったのだろうか。
それとも、おぞましい事に、権兵衛に自分を頼って欲しくて、権兵衛が自立できる力を持つのを恐れていたのだろうか。
兎も角、慧音は権兵衛をあまりにも優遇し、里人の嫉妬を煽り続けていた。
その結果が、どうなるとも知らずに。

「それじゃあ、権兵衛が慧音の所を出て行ったのって――」
「ああ。里の、総意による物だ」

 今度は、妹紅の歩みが止まった。
釣られて慧音が足を止めると、困惑した表情の妹紅が眼に入る。

「で、でも、それなら慧音が止めようとすれば、止められたんじゃあ――」
「かもしれない、な」
「かもしれないって、お前、権兵衛の事が大切だったんじゃあないのかっ!?」

 そう、妹紅の言う通り、慧音は我侭を通そうと思えば、外来人の一人ぐらい囲う事はできただろう。
だがしかし、それでは意味が無いのだ。
だって。

「でも、私は――里のみんなも、大切だったんだ」

 その言語に、いきり立っていた妹紅の肩が、下がった。
そう、慧音の権兵衛への思いは、中途半端だった。
いっそ権兵衛をだけ見る事ができれば良かったかもしれないのに、里と権兵衛、両方を手の中に置く事を、慧音は捨てられなかったのだ。
権兵衛には、自分しか見えないよう、会話の歴史を食って独占していたと言うのに。
ならばせめて、権兵衛の歴史を喰うのを辞め、徐々に権兵衛から身を引いてゆくのが筋であると言うのに、それすらもできない。
それならせめて、権兵衛に頼み込むなりなんなりして、一緒に居て欲しいと、土下座でもして頼み込み、里に嫌われようとも権兵衛と一緒に居るべきであるのに、それすらもできない。
だからせめて、慧音は権兵衛に裁かれる事をだけ望んでいるのに、それすらもできていなかった。

「それに、権兵衛も、里人に説得されて、慧音さんにこれ以上迷惑はかけられない、って自立したがっていたそうだしな」
「いや、そうだしな――って、慧音はそれでいいのか?」
「仕方ない、さ。だって、私は、権兵衛も里も、どっちも捨てられない、半端者なんだから」
「だからって……慧音は、権兵衛の事が、好きなんだろ!?」

 え、と慧音は呟いた。
面を上げて妹紅の方を見ると、若干を息を荒らげた様子で、荒い息遣いの音が聞こえる。
好き。
好き。
私が、権兵衛の事を――好き。
不思議な言葉の響きだった。
たった二文字の言葉だと言うのに、その言語を思い浮かべると、胸の鼓動が大きくなり、頬は紅潮して止まらない。

「私は――好き」

 口にしてみると、もっと体が熱くなる。
胸が締め付けられるように切なくなり、思わず体を抱きしめたい衝動に駆られ、その通りに慧音は自らを抱きしめる。
すると泣いている権兵衛を抱きしめた、あの日の事が思い起こされる。
自分よりもちょっとだけ小さな背丈。
反して、手を回すと意外に大きく感じる背中。
抱きしめると丁度肩の当たりに権兵衛の顎が乗り、互いの耳に、髪の毛が触れ合う温度。
好き。
好き。

「私は、権兵衛が、好き――なのかな?」
「え、と。私には、そう見えたけど――」

 面を上げて上目遣いに聞いてみると、困惑気味な表情で、妹紅は言った。
その顔に嘘が無さそうなのを見て、初めて慧音は自分の心を自覚していた。
友人だと思っていた。
庇護すべき相手だと、思っていた。
手のかかる子供に思うような思いなのでは、と、思っていた。
だけれども。
それらを上回る感情が、そこにはあって。
かあぁぁぁ、と、慧音の顔に熱が集まってくる。

「私は、権兵衛が好き」

 繰り返し、口にする。
すると胸の中にあたたかい物が生まれてくるのを感じ、ほっ、と、その熱量を吐き出そうと深い溜息をつく。
汗が首筋を伝う。
生唾を飲み込み、乾いた口でもう一度言う。

「私は、権兵衛の事が、好き――」

 権兵衛を抱きしめた時の、腕の感触が蘇る。
肩をつかむ掌の力を強め、ぎう、と更に強く自分を抱きしめた。

「そう、だな。うん、そう……かもしれない」

 口にする言葉も、もっと自信のある言葉だった筈なのが、切なげな調子になってしまう。
それを心配したのか、妹紅は、優しげな表情で慧音に近寄り、その肩に手を置く。

「ああ。だったらさ、諦めちゃ、駄目だろ。里も権兵衛も捨てられなくたって、まだ出来る事は、ある筈じゃないか」
「――ああ」

 頷き、己を抱く手を下ろす。
空に視線をやると、曇り空の合間から、陽光の光が漏れでていた。
今まで、権兵衛の事を思うと、あまりにも申し訳なく、更に自分が惨めで浅ましく思える為、権兵衛に裁いてもらう事しか考えられなかった。
しかし今からだって、やる事はいくらでもある。
里人にも、権兵衛を直接嫌っている人物よりも、里の風潮がそうであるから嫌っている、と言う人間の方が多い。
ならば一人ひとり説得して回れば権兵衛と里との間を仲立ちする事もできるかもしれない。
加えて、先に考えた通り、権兵衛に霊力の扱い方でも教えてやれば、術師としても里に貢献させる事ができるかもしれない。
それにはまず、権兵衛を永遠亭から取り返すことが必要だろう。
妹紅を、慧音は正面から見つめる。

「そうなったら、妹紅、お前にも力を借りるかもしれないが、構わないか?」
「ま、いいさ。お前には借りがたくさんあるしね」

 軽く肩をすくめて答える妹紅に、慧音は破顔する。
今でも、権兵衛を独占したい、と言う思いはある。
今の状況のまま、里に結びつけられるのが自分だけでありたい、と言う思いが何処からか湧いてきて、慧音を支配しようとする。
だが、それもある言葉を思うだけで、吹き飛んでしまい、権兵衛の事をもっと素直に思えるようになるのだ。
好き。
権兵衛が、好き。
まるで、魔法の言葉だな、と、慧音は思った。
心の中で思うだけで勇気が湧いてきて、体が熱くなる。
立ち止まったまま、慧音は晴れ間からのぞく陽光に、視線をやる。
まるでこれからは何もかもが上手くいく、と暗示し祝福するような、暖かな景色であった。



      ***



 そして、暫く歩いて、いつもの通り権兵衛の家の前まで来て。
その光景に、慧音は全身の力が抜けてゆくのを感じた。
思わず膝をつき、ペタンと尻をついてしまう。
口がぽかんと開き、閉める力すら湧いてこない。

「これは……酷いな……」

 妹紅の声が耳に入るが、まるで意味を成さない。
横をすり抜け歩いてゆく妹紅の後ろ姿が目に入り、それを追って、自然、慧音の視線はその光景を目にする。
――権兵衛の家が、壊れていた。
最早住むことなど出来ない、元の形を少しも残さない形で。

「――あ」

 意味を成さない言葉が、慧音の口から漏れ出す。
権兵衛と語らった床が、無くなっていた。
権兵衛と一緒に温まった囲炉裏が、無くなっていた。
毎夜気絶した権兵衛に寄り添って寝た布団が、無くなっていた。
一緒に生活していた頃から使っていた箪笥が、無くなっていた。
全て、壊れていた。
それも。

「慧音。これ……その、人の手によるものだよ。それも、複数の、普通の人間の」
「――ああ」

 言い難そうに言う妹紅の台詞が、慧音の頭の中に入ってくる。
複数の普通の人間。
この周辺に住んでいる複数の人間なんて、限られていて。
それは当然、里の人間たちしか居ない筈で。
先ほど湧いてきた、慧音の根拠のない自信は、粉々に打ち砕かれていた。
何もかもが上手くいくような感覚は既になく、代わりに絶望だけが此処にある。
全身に力がないと言うのに、不思議と声だけは喉の奥から湧いてきて。

「――ああぁああああぁぁあっ!!」

 叫ぶ。
喉が叫んばかりの声量で。
自分を抱きしめ、掻きむしるようにしながら。
喉から声を絞りきった後には、しかし、重く静謐な沈黙だけが残った。
まるで、慧音の行為全てが無意味であると、あざ笑うかのように。
体の熱量が、目に集まってくる。
それはしばらくの間目尻に集まっていたかと思うと、ぽとり、と地面に落ち、円形の染みをそこに作った。
冷静に考えれば。
慧音には、権兵衛の心配だとか、彼が永遠亭から出る時引きとってやる事とか、考える事はいくらでもあったのに。
最早慧音には、何も考える事も出来なかった。
頭が真っ白になって、先ほどまではあれほどまでに確信を持てた色々な事柄が、何一つ浮かんでこなくて。
ただ一つ。
もう此処で権兵衛に裁いてもらえる事が無くなったのだな、と思うと、慧音はそれが悲しかった。
それをしか、思う余裕は慧音には残っていなかった。





あとがき
投稿が何時もより遅れましたが、無事書き終えました。
閑話なので短めでした。
R-15・グロと注意書きを入れてはと言う声が感想板にあったので、まえがきに追加しました。
今回病み成分薄めでしたが、次回も永遠亭に比べると少なめかもです。



[21873] 太陽の畑1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/12/05 21:55


 ――輝夜先生は、言った。
過去も未来もいくらでもある物に過ぎず、一瞬しか無い今とは比べ物にならない、と。
確かに、理屈で言えばそうなるのかもしれない。
流れてゆくその他である過去や未来と、確実に存在している今と言う瞬間、その価値は確かに今の方が高いのが道理である。
例えば過去の安さを証明する安易な論理に、記憶置換の話がある。
脳みそに、記憶を貼り付ける機械があったとしよう。
それによって人間Aの持つ記憶Aを、記憶を一切持たない人間Bに貼り付ける。
すると、記憶Aを一切体験していないにも関わらず、記憶Aを過去と認識した人間Bが生まれる。
その人間Bが、今現在の自分ではないと言う証明は、当然原理的に悪魔の証明に他ならない。
故に、今俺が感じている過去が本物であるのかどうかは証明不可能である。
証明不可能であると言う装飾が本体を安く見せる事は、言うまでもない事実だろう。
対し今と言うこの瞬間があるのは、今について思考する己が存在する時点で原理的に確定している。
なので、過去は相対的に、今より安い、と言えるだろう。
未来に関しては言うまでもなく、確実に来る事こそ分かっているものの、常に確立の上で不確定であり、あらゆる価値が分散しており、安価である。
故に尤も価値があり、大切にすべきなのは、今であるのだ。

 であるが。
で、あるのだが。
それでも尚、俺は過去を今と同等以上に見る、愚か者であった。
過去。
絶望の淵から慧音さんに拾いあげてもらった恩。
その慧音さんに恩を返せるようになるため、決別した意思。
されど苦難に侘びていった俺を救ってくれた、白玉楼での出会い。
優しさに満ち溢れた永遠亭の人々。
そしてなにより、霊力と言う価値を俺にくれている、今が大切と言う当の輝夜先生。
俺は、それら全てが愛おしくてたまらない。
そしてそれを生かすために未来に夢見る事を、止められない。
そんな愚かな俺であるから、折角真実をと教授してくれていた輝夜先生に反論してしまい。

 そして、輝夜先生は泣いてしまった。
分からなかった。
いや、状況を見るに明らかに俺の所為であると言うのは分かるのだが、俺が愚かであると言う事が、何故そんなにも輝夜先生を悲しませるのか、俺には分からなかった。
いくら考えても分からなかった。
だから当然、泣き喚く輝夜先生の慟哭に、俺は何をすることも出来ず。
ただ、手慰みに掌をやるも、それすら叩き落され。
それでも何も思い浮かばず、俺は、せめて輝夜先生の側に居てやりたかったが、それすらも拒まれて。
出て行け、と何度も言われて。
輝夜先生が常の状態では無いのにも関わらず、俺は、それを真に受けて、永遠亭を出てきてしまっていた。

 俺は、もしかしたら永遠亭に留まるべきだったのではなかろうか。
何せ輝夜先生は明らかに興奮しており、それが収まるのを待てば、輝夜先生は愚かな俺が輝夜先生に何ができるか教えてくれたかもしれない。
それでなくとも、少し冷静になって考えてみれば、あそこには永琳さんや鈴仙さんにてゐさんと頼れる人が居て、彼女らに相談をすれば良かったのかもしれない。
だが、俺はそれをせず、衝動的に永遠亭を出た。
愚行である。
だが、仕方がなかったのだ、と言えば、仕方がなかったのだ。
輝夜先生の泣き声を聞いて、俺は何もできなくて、それがどうしようもなく悲しくて、そんな己への憤りでいっぱいいっぱいで、俺は他に何も考える余裕が無かったのだ。
何と言うか。
明らかに、不自然に興奮している感じで。
外に飛び出て、夜中を飛行しているうちに、少し頭が冷めてきたのだけれども。

 ――いや、と思考を打ち切る。
一度俺が永遠亭を出る、と選択した事は今更変えようがなく、もう引き返すことの出来ない場所に居るのだ。
今更俺が何を言おうとも、言い訳に過ぎない。
ならばせめて、次に輝夜先生と出会った時、多分慧音さんを伝って里に定期的に来る鈴仙さんの話を聞いた上で会いに行った時だと思うのだが、その時に彼女に対し真摯であろうとだけ考えて。
そしてようやく、俺は約二週間ぶりに家に辿り着く次第となったのであった。

 ふぅ、とため息混じりに、眼下遠くに見える自宅らしき影や、収穫前の畑を見る。
空を飛ぶ、と言うのが輝夜先生に教わって以来であるので、当然、初めて見る光景であった。
何と言うかこう、普段狭いなりに大きさを感じている家があんなに小さく見えると言うのは、不思議な気分であった。
ちなみに今は何時かと言うと、最早昼時である。
輝夜先生が泣き疲れて寝て、その彼女を部屋に寝かしつけてから永遠亭を出たので、殆ど夜明けに出発する事となり、当然日中はまだ上手く月の魔力を扱えないので、速度が全然出ない故の結果であった。
普段なら日中でももう少し速度は出せるのだが、徹夜明けでもあった事だし。
それに、なるべく他の妖怪に見つからないよう、高度を取っていた事も一因か。
まぁ、何が言いたいかと言うと、朝飯抜きだったので、いい加減家に帰って昼飯を食いたい、と言う事なのだが。

 徐々に、高度を落としてゆく。
と言っても、未だに縦に高度を落とすのは慣れない物なので、徐々に高度を落としつつ空を飛んでゆく形になる。
すると当然、徐々に俺の自宅が大きく、はっきりと見えてゆくようになって。
一緒に、何だか肌色の細々と動く物達が見えてきて。
なんだか騒音が聞こえてきて。
ゆっくりと、俺の自宅の全景が見えるようになってきて。

「………………え?」

 がくん、と、そのまま落下して死にそうになるのを、辛うじて止める。
代わりに少し縦成分を多くして、まず地に足をつける事だけを考えるようにする。
そして足が地面について歩き出すのだが、兎に角膝ががくがくと震え、歩くのがやっとのことだった。
まるで、頭が宙に釣られているかのように軽く、フラフラとする。
やっとたどり着いた光景は。

 俺の家が、壊れていた。
壁の一枚も残さず、床も踏みしめる場所も残さず、家具も一つ残らず。
ふらりと視線を倉庫の方にやれば、グシャリと潰れており、中の野菜は一つも残っていなかった。
何が起こっているんだ。
意味がわからなかった。
意味がわからなすぎて、何も考えられない。
ただフラフラと、夢遊病患者の様に体を揺らしながら、俺の家の跡へと近づくと、がしゃん、と音がした。
視線をやると、そこには何処か見覚えのある男がいて、その手には何故だか斧があった。
その斧の刃先を辿ると、何故かただでさえ壊れている俺の家へと向けられており、その先には深い刃傷が刻まれていた。
どうやら、刺さっていた斧を引き抜いた所らしい男が、周囲を見て、それからため息混じりに、呟く。
その声にも、何処か聞き覚えがあって。

「もう全員戻ってしまって、俺が最後か。あんま夢中になるもんでもないな……って、お?」

 ふと、目が合う。
気づいた。
俺を、このほったて小屋に放り込んだ、当人であった。
その瞬間、俺は爆発しそうな感情の奔流に巻き込まれた。
何故か泣き出しそうな、今にも叫びたいような、兎に角何かに急き立てられて。
でも、喉から出る声は、今にも枯れんばかりの小さな声だった。

「なんなん、です、か……?」

 ニヤ、と男は笑った。
その表情の奥にどんな感情があるのかは、いとも簡単に見て取れる。
悪意。
常から俺が里人に向けられている物であった。

「なにを、やっているんですか……?」

 男はニヤニヤと笑ったまま答えず、俺へと近づいてくる。
斧をぽい、と捨て、それが転がる音が静かに響いた。

「なんで、俺の家が壊れて……ぶふぇ!?」

 視界が、回転する。
ぐらりと雲が線を形作ったと思えば、俺は後ろに向かって倒れていた。
頬が熱を持ち、奥にある歯がじくじくと痛む。
あの日と同じく、殴られたのだ。
それが分かると同時、反射的に、また殴られては敵わない、と、小さく悲鳴を漏らし、両腕で顔をかばう。
すると、腹に、重い物が突き刺さった。

「いやー、なんていうか、残り物には福がある、って言ったもんだわな」
「げ、ほ、う、うええっ!」

 思わず、両手で腹を抑え、口元からは涎を零しながら、転げまわる。
胃が飛び出んばかりの、痛みだった。
腹を、蹴られたのだ。
そう理解すると同時、咄嗟に霊力で治癒しようとするが、家までの飛行で霊力は尽きており、何もおきない。
それでも時間が経つに連れて痛みは引いてゆくもので、じっと腹を押さえていれば痛みを堪え切れるようになった頃。
がん、と頭に鈍い音。

「お前は、慧音先生の温情を利用する悪人だが、それでもまだ里には手を出していないから、こうやってほったて小屋とはいえ、里に家を与えてもらえた訳だが、な」
「ぎ、ぐ、うううう」

 頭の芯に響くほどの、痛み。
ぽろぽろと落ちてくる土が口に入って、気持ち悪い。
視線を僅かに上に向けると、男の足裏が見え、俺の頭が踏まれているのが分かった。
ぐりぐりと、体重をかけて俺の頭が踏みしめられる。

「ぐ、がぁ……」
「それで身分相応に、惨めに暮らしていりゃあいいのに。
今度は妖精でも誑かしたのか? 野菜は意味がわからん程出来が良いし。
諦めりゃあいいのに、まだ慧音先生の事を誑かし、家に呼びつけた上、野菜を売る時には脅しにまで使いやがる。
それだけでもう、この寄生虫に温情を与えたのは間違いだったんじゃあないか、って話になっていたんだがな。
その上、だ」

 痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
叫ぼうにも叫べず、ただ呻き声をだけ漏らしていた所、頭にかかる体重がふっと軽くなった。
ほっと安心したのも、つかの間。
ぐわん、と男が足を後ろに振りかぶって。
思わず、目を瞑る。
腕を組もうと思うが、間に合わない。

「米屋だったかな? お前を盗人呼ばわりしたら、半人半霊の嬢ちゃんがいきなりお前を斬りだしたんだってな。
危うく殺人の一端を担がされる所だった上、お前を誤って盗人呼ばわりしたなんて、言い訳しなくちゃならなかったんだとさ。
これで決定、家を取り壊せって話になったんだ。
いやー、人数が多いとは言え、朝から昼までかかっちまったよ。
あ、野菜は全部今までの“家賃”として、貰っていったからな」
「――っ!」

 ずが、と、瞼の裏に火花が散った。
ごろ、勢いでと転がって、一回転した辺りで止まる。
いわゆる、サッカーボールキックだった。
どろりとしたものが鼻から垂れてくる。
地面に倒れたままだと言うのに、まるで地面がぐらぐら揺れているかのように安定感がなく、まるで地平線へ落ちていってしまいそうな感覚があり、地面をぐっと掴んだ。
喉の奥に何か引っかかったような感じがあり、気持ちが悪い。
すると、また、足を振りかぶる気配がする。
今度は、咄嗟に頭を守る。

「ま、そういう訳だから。遠慮無く、妖怪たちの餌になっていってくれよな」
「げぶっ!?」

 軽く、宙に浮くかと思うような感覚。
内蔵が潰されるかと思うような、痛みだった。
俺の腹に、もう一度男の足が突き刺さったのだ。
そう知覚すると同時、喉の奥から登ってくる物がある。
どうにか留めようにも間に合わず、せり上がってくるそれは口元にまで達して。
せめて咄嗟に、下を向いて腰を浮かせて。

「う、うおげぇええええぇえっ!」

 俺は、吐いた。
胃がひっくり返ってついてくるんじゃあないかと言うような感覚。
吐く。
吐く。
吐く。
永遠とも思える時間で吐き出された俺の中身は、残っていた永遠亭での最後の夕食のペーストで。
最後、力尽きて腰が落ちた時、それが俺の頬に、髪に、べしゃりと貼りつく。
それでもそれを拭うどころか、吐瀉物がない方へ体の向きを変える力すら残っておらず、俺はそのまま力尽きて、指一本も動かせないまま、固まっていた。
目の前に移る光景は、吐瀉物と壊れ果てた家だけで、ずっと変わらない。
どうやら男は里へ戻っていったようで、視界には映らないまま。
俺の方はと言うと、痛みや吐瀉物の臭さで意識を失うこともできず。
かと言って動き出すどころか、何か考える事すらもままならず。
ただ、じっとそこに横たわっていた。
何をするでもなく、倒れたままでいた。



   ***



 夜になった。
別に誰が来るでもなく、野生動物すら視界を横切らず、ただ太陽の光だけが視界の中で変化していた。
じっと横になっていて、僅かばかりに活力が回復してきたのか、最初に思った事は、輝夜先生に貰った服が汚れてしまって、申し訳ないと言う事だった。
確かに泥と鼻血と吐瀉物に塗れたそれは汚いが、全く呑気と言うか、現実逃避気味と言うか、そんな感じの思考であった。
それは兎も角として。
矢張り思うのは、自虐の念であった。

 俺は、兎に角永遠亭を出て戻ってから、霊力を用いて里の力になるつもりであった。
何せ輝夜先生も軽い妖怪退治程度であれば今でも何とか行えると言う事であるので、即時に力になれる筈である。
これさえあれば里との関係も改善できて、暴利を貪られる事などなくなり、何時かは得た利益で慧音さんに恩を返したり、幽々子さんや妖夢さんを誘って軽い酒宴を開いたりできて。
輝夜先生とも何時かは仲直りできて、永遠亭には通って霊力の扱いを学ぶ事になって。
俺は、そうやって、これから何もかも上手く行けるのだと、思っていた。
俺は、ついに俺にも価値と言う物ができたのだと、思っていた。

 勘違いだった。
確かに、俺には僅かばかりの霊力があるかもしれない。
しかし現実として、俺の家は壊され、そしてそれに対して俺は何も出来ずにこうやってボコボコにされ、しかも折角輝夜先生から貰った服を汚していた。
俺には、価値など欠片も無いのだ。
そう、認めざるを得なかった。

 そんな風に絶望と共に空虚な思いをしていても、体は外気に晒されている。
秋の夜中にじっくりと落ちてきている体温に、僅かな震えが体を走った。
さて、何は兎も角、夜露を凌ぐ家が壊されてしまった訳だが。
俺に、夜露を凌ぐ場所を与えてくれる人は、果たして居るのだろうか?
慧音さんは、そもそも先の男から話が伝わり、俺を里に入れないようにされているに違いなく、しかもこうなった発端が慧音さんに頼ったからだと言うのだ、何とも頼りづらい相手でもあった。
白玉楼は、そもそも俺は冥界に行ったことが無く、頼りに行く方法と言う物が存在しない。
永遠亭は、出ていった矢先で近づきにくいと言うのもあるが、そも、今の俺は朝昼飯抜きな上に昨晩の夕食を吐かされて、更に霊力は尽きたままである。
当然地上から行くとなると迷いの竹林を突破せねばならず、その前に飢えるか妖怪に襲われるかして死ぬのはまず間違いない。

 そも、俺は生きるべきなのだろうか、と、ふとそんな事さえ思う。
事実、俺は里にとって悪であり、排除すべき物であるのに、それに頼らねば俺は生きて行けず、生きる難易度と言う物が天井知らずに高い。
しかも、俺は輝夜先生に霊力の扱いと言う珠玉の方法を授かってさえ、この有様なのである。
この先受けた恩を返す事ができるどころか、受ける恩が降り積もるばかりで、結局返せないままに死ぬ未来しか思い浮かばない。
つまり、生きれば生きるほど、俺は不義理となり、不幸となるのである。
であらば、今直ぐ死ぬのが、俺とその他あらゆる人の為になるのではないだろうか。
そう思うと、ほんの僅かに湧いてきていた活力が抜けてゆき、倒れたまま動く気力が萎えてゆくのを、俺は感じた。

 俺は、死ぬのか。
そう思っても、不思議と恐怖は無かった。
実感が無かったのかもしれない。
空腹と痛みと頭痛こそはあったものの、それはまるで現実感がなく、何処か遠い所で行われている事のようにしか思えないのだ。
このまま、俺は飢え死ぬか、妖怪に喰われるかして、死ぬのだろう。
多くの外来人が幻想入りしてすぐになるのと同じように。
それだったら、俺は幻想入りしてすぐに、矢張り飢えるか妖怪に喰われるかして、死ぬべきだったのだ。
生きて、人から恩を引きずりだして、迷惑をかけるべきではなかったのだ。

 と、そう思っているうちに、ふと思いつく。
少なくとも、俺の家に満月のたびに来る慧音さんは、何時か此処に様子を見に来るかもしれない。
もしかしたら幽々子さんや妖夢さんがお茶の誘いにやってくるかもしれないし、輝夜先生が仲直りをしたいと言ってくれに来たり、鈴仙さんが心配して見に来たりするかもしれない。
そうなったとき、俺の死体があれば、そして恐らく飢えるにしろ直接喰われるにしろ、妖怪によって酷い状態となっている俺の死体を見たら。
それを思うと、せめて俺は何処とも知れぬ場所で、妖怪に喰われて死ぬべきなのだ。
そう思い、俺は身体中から逃げていった活力を、どうにかしてもう一度集める。

「――っ」

 全力を以てして、まず、やっと手を動かす事に成功した。
固まっていた筋肉を、ふらふらと動かしてほぐし、次に掌を地面に突き立てる。
ぐっと力を入れて上半身を起こし、それから、膝を割り込ませて、腰に力を入れ、座った姿勢となる。
それから片膝を抜き出し、足裏を地面に置き、膝に顎を乗せてから、試しに手を地面から離した。
ぐらり、と一瞬体が揺れるが、どうにか手の抑えなく座る事に成功する。
それから載せていた顎をあげ、両手を膝に乗せ、全身の力を込めて上半身を上に上げる。
それにつれてもう片足も上げ、足裏をきちんと地面に載せ、きちんと膝に力を入れ、バランスを取る。
ようやくのこと、立ち上がることができた。
と言うか、立ち上がるだけで、この次第である。

 頬と髪に張り付いた、固まった吐瀉物が気持ち悪いし、喉も乾いた。
とりあえず近くの小川へと歩いてゆき、かがんで顔を洗う。
ひどい顔になっているのだろうと思うが、月明かりがあっても暗くてよく見えない。
とりあえず水をかぶり、それに染みる痛みを感じつつ、鼻血やら吐瀉物やらを剥ぎ落とす。
それから水を乾いた口内に、とりあえず空腹が紛れるまで飲み込んだ。

「野菜は――、持っていったんだって、言ってたっけな」

 それでもとりあえず覗いてみるが、倉庫の方には何も残っていない。
畑の方を見れば何か残っているかと思うが、育ちきっていない野菜すらも抜かれ、持って行かれてしまっていた。
わざわざ石を混ぜたり塩を撒いたりまではしなかったようだが、今腹の減っている俺には、何の慰めにもならなかった。
食べられる野草は、慧音さんに教わっていくつか知っているのだが、霊力で明かりをつけてみるものの、どうやら家の近くの物はごっそり持って行かれたらしく、近くには見つからない。
なら、このまま適当に、歩けるだけ歩くか。
そう思い、俺は妖怪に喰われるためという、無気力な旅路に出るのであった。



   ***



 風見幽香は、普段は強大な力を持った妖怪や、特殊な人間しか相手にしない。
が、一日に少なくとも一度、時たま相手が何であろうがいじめたくなる衝動に襲われる事がある。
相手が人間であろうと妖怪であろうと幽霊であろうと妖精であろうと、何となく攻撃したくなるのだ。
しかも、それがとてつもなく楽しいのである。
弾幕を打ってそれが相手に当たる感触には、頬を歪めざるを得ない。
相手が痛みに呻く声は、天上の音楽のようにさえ聞こえる。
血と脂の匂いには思わず舌なめずりしてしまうし、糞尿を漏らす匂いにはついつい頬が裂けんばかりに笑ってしまう。
以前それを一日に何度も解放した、異様に花の咲いた、六十年周期の大結界異変の時の時は、最高だった。

 そんなだから、幽香は暴力的な衝動を感じた時、満面の笑みで散歩に繰り出す事になる。
今回は、夜の散歩と相成ったので、太陽の畑を離れた辺りで着地し、歩いて獲物を品定めする次第とした。
平坦な地面の森へと入ると、幽香の大好物たる血の匂いが、僅かに香ってくる。
うん、今日も良い散歩になりそう。
そう頷き、幽香は匂いの方へと歩み始める。
満月を少し過ぎたばかりの月は、良い感じの狂気度を以てして降り、森の木々の葉っぱがそれを乱反射して、ちょうどいい塩梅に辺りに降り注ぐ。
足元の土は少し湿り気があり、辺りの木々は怪しげに育っている。
正に散歩日和、というか、散歩月和の様相であった。

 暫く、辺りの景色を愉しみながら歩いた所で、幽香は目的の物を見つけた。
霊力を用いた明かりに照らされ、木にもたれかかって居る人間が一人、それを襲おうとじりじり間合いを詰めている下級な妖怪が二人。
人間は黒髪で、妖怪は金髪と銀髪の二匹か。
何とも都合の良いことに、妖怪二匹は人間を一方的に攻撃しており、弱った人間はそれに抗う事もできず、攻撃を受けている。
その攻撃弾幕は遠目に見て分かるほどに殺傷性を持っており、つまりは、スペルカードルール違反の存在である。
予想外に上等な獲物に、幽香は舌なめずりした。
一応幻想郷には妖怪間の争いには基本的にスペルカードルールを用いた弾幕ごっこを用いる事になっているし、日頃の幽香もそれでストレスを発散しているが、こうやってそれを無視している存在が居る時は別である。
妖怪は、基本的に人里から離れた人間は襲ってもいい事になっているが、この時の妖怪はスペルカードルールに違反している、と言う状態にある。
当然、その妖怪を襲う時は、スペルカードルール無しで殺し合っても良いと言う事になる。
だからといって妖怪を殺したい程いじめたい存在など、幻想郷にも一握り程しか居ないのであまり警戒はされないのだが、その一握りが幽香と言う存在であった。
さて、と言う事で、人里離れた人間も、妖怪二人も、どちらも今日の幽香の獲物であるのだった。
まず幽香は、妖怪の方を仕留める事にした。
自分が強者であると言う確信を持っている妖怪の、その確信を打ち砕いてやるのは、幽香の日常的ないじめ方の一つである。
精神的な物による主柱の大きい妖怪が心を折られて漏らす悲鳴は何時も耳に心地良いが、今回は弾幕決闘以上に何でもして良いと言うお膳立て付きである、肉体的な攻撃を主をしよう。
さて、今回はどんな悲鳴が聞けるだろう、と思いながら、幽香は歩みを僅かに早めた。
ふと、妖怪二人が幽香に気づく。

「あら、こんばんわ」
「「――っ!?」」

 声の無い悲鳴が二つ。
後ろからの挨拶に同時に振り返る妖怪二人であったが、振り返ったその先には、腕を組んだ幽香が既に立っていたのだ。
遅れて幽香が圧倒的速度で移動した余波による防風が、巻き起こる。
地面に落ちた枯葉がぶわ、と巻き上がるのを尻目に、思わず目をふさぎ、両腕で顔を防御する二人。
そんな無謀で卑小な、何の意味もない行為をしてみせる二人に、幽香は思わず頬を釣り上げる。

「そして、少しいじめられていってくれないかしら」

 言って、幽香はちょっと素早い程度の動きで金髪の方の妖怪の腕を掴み、もぎ取った。

「ああぁあああぁあぁあっ!?」

 絶叫。
そんな事している暇があれば逃げればいいのに、金髪の妖怪は蹲って無くなった腕の根本を抑える。
それに一瞬驚いた様子であった銀髪の方は、すぐにキッと鋭い視線で幽香を睨みつけ、叫ぼうとした。

「よくも、やってくれ……」
「はい、プレゼントっ」

 弾んだ声と共に、幽香は握った金髪の妖怪の腕で、銀髪の妖怪の顔を殴りつけた。
あまりの威力に銀髪の妖怪の顔がひしゃげ、ぐちゅりと音を立てて脳みそごとシェイクされ、金髪の妖怪の腕が突き刺さる。
顔から腕が生えた妖怪の、出来上がりである。
ぐちゃぐちゃに生えた歯の白さが月明かりを反射するのも、弾けて飛んでいってしまった為に虚ろとなった眼窩も、中々刺激的で良い光景だ。

「コヒュー、コヒュー……」

 僅かに残った口の残滓のような物から、呼吸音が漏れる。
平衡感覚を失ったようで、そのまま銀髪の妖怪は倒れてしまった。
何を探しているのか、両手はふらふらとさまよい、顎で地面を這いずり回っている。

「アハハッ、最高ッ! いいオブジェね、そう思わない?」

 高笑いをあげながら、幽香はそろそろと逃げようとしていた金髪の妖怪に向けて言った。
びくん、と肩を跳ね上げ、悲鳴と共に飛び立とうとする金髪の妖怪だが、それよりも一瞬早く、ずぷり、と異音。
何が起こったのか分からない、と言う表情で金髪の妖怪が見ると、腹から日傘が突き出していた。

「くす。ねぇ、前から一度やってみたかったのよねぇ、このまま日傘を開いたらどうなるのかなぁ、って」

 言いつつ、幽香は日傘を金髪の妖怪ごと地面に突き立てた。
ぞぶぷ、と肉を裂く快感に満ちた音に、幽香は笑みを深くしながら日傘の機構に手を添える。
そして万力を以てして、受け骨と中軸との接合部を、下ろした。

「ぎゃあああぁあああぁっ!?」
「ウフフっ! もっと、いい声で、鳴きなさいッ!」

 丁度、傘が開くにつれて金髪の妖怪の腹に空いた穴が大きくなり、最後には上半身と下半身が別れるであろう行為であった。
金髪の妖怪は残る片手でどうにか自身が開かないよう抑えるが、幽香はそれより僅かにだけ力を強くして、少しづつ金髪の妖怪の腹を押し広げてゆく。

「い、嫌だ、許してください、が、がああああぁああっ!!」
「ほらほら、このままだと貴方、千切れちゃうわよぅ?」

 満面の笑みで日傘を開いてゆく幽香であったが、金髪の妖怪の必死さが功を奏したのか、次第に金髪の妖怪の腹の穴が広がる速度が落ちてゆく。
そしてついに、日傘の開く速度が停止した。

「や、やった……」
「なーんちゃって、ねっ!」

 バサッ!
一気に開かれた日傘によって、金髪の妖怪は凄まじい勢いで上半身と下半身に弾け飛んだ。
上半身はそのままの勢いで目の前の木に突っ込んでゆき、木とぐちゃぐちゃに混ざった物体となる。
次いで下半身はと言うと、丁度蠢いていた銀髪の妖怪の腹の辺りにぶつかり、そのまま銀髪の妖怪とミンチを作りながら吹っ飛んでいった。

「アハハッ! 我ながら、今日も傑作だったわ!」

 何度か傘を開いたり閉じたりと、付いた肉片を飛ばしながら、幽香は残る人間の方へと歩いて行った。
妖怪どもは肉体的に死んでいるように見えても、彼らは精神の生き物である、未だ死んではいないのだが、十分にいじめられたので満足である。
一方、木にもたれかかったままの黒髪黒目の人間は、死んだ目をして虚ろに口を空け、死人のような顔をしている。
妖怪二人はまだ人間を殺していなかったように思ったのだが、一瞬既に死んでいるのではと思ってしまう程の、陰鬱な表情だった。
しかしまぁ、生きているモノは須らく幽香にいじめられる対象であるので、どんな暗い顔をしていようと、ノってしまった幽香はこの人間をいじめるつもりだった。
顎を掴み、上を向かせ、肉食獣の笑みで顔を近づける幽香。
虚ろな瞳と、目が合う。

「ねぇ、貴方はどんな風にいじめられたい? 四肢を少しづつ削られながら絶叫したい? それとも自分の挽肉で作ったハンバーグ、食べてみたいかしら? 私を満足させてみたら、生きて帰れるかもねぇ」
「……ろしてください」
「……え?」
「ころして、ください」

 思わず、瞬く。
この広い幻想郷でも、自殺志願者と言うのには中々出会えない。
物珍しさにへぇ、と関心しはするものの、まぁ妖怪に殺されそうになって、助かったと思えばもっと凄い妖怪に絡まれれば、死にたくなる気持ちも分からないでもない。
と言っても、このままでは正直、何だかいじめようが無い。
とりあえず、と口を開く幽香。

「えーと、こんな夜中に出てきたんだから、用事ぐらいあったんでしょう?」
「……はい」
「どんな用事だったのかしら?」

 と言って、すぐに答えるかは分からないが、それが分かれば少しはこの男に希望を持たせる事が出来、つまりは美麗な絶叫を聞けると言う事である。
まぁ答えないならば答えないで肉体的な暴力に訴える用意は内心でしてあり、さて、どこから潰してやろうか、どの部分なら後で悲鳴を聞くとき、既に潰れていても影響がないか、と考えている所であった。
意外にも、即答であった。

「妖怪に、喰われに来ました」
「………………」
「………………」

 えーと。
これはどういう事なのだろうか。
思わず停止してしまう幽香であった。

「えっと、聞き間違いかもしれないから、もう一回聞きたいんだけど。こんな夜中に、どんな用事があったのかしら」
「妖怪に、喰われに来ました」
「………………」
「………………」

 再び沈黙。
停止した思考を一生懸命に動かそうとする幽香であったが、意味不明の事態に、考えが一向に働こうとしない。
妖怪に、喰われに来た。
と言うその動機も意味が分からないし、そんな男にどうやって絶望の絶叫をあげさせられるのか、と言うのも分からない。
と言うか。

「――何か、冷めちゃったわ」

 す、と幽香は男の顎から手を離すと、がくんと男の首が下がり、丁度視線が足元へ向く次第となる。
実際、幽香の中にある暴力的な衝動は、何時の間にやら冷めてしまっていた。
と言っても、この男はいじめると決めたのに、このままいじめないで放っておいて、他の妖怪の餌としてしまうのも、何だか自分の物を取られたようで、気分が悪い。
と、少し考え込んでいた幽香であるが、ふと思いつく。
とすれば、家にこの男を持ち帰ってみる事にすべきではなかろうか。
そうすれば、何時か男をいじめる手段が思いついた時、いじめる事ができるのだろうし。
そう考えてみると、この考えが良い考えであるように思え、うん、と一人頷き、幽香は男を殴った。
小さい悲鳴と共に意識を失った男を、脇に抱え込むようにして持ち上げ、空へと飛び立つ。
空は未だ暗く、僅かに欠けた満月の光だけに覆われていた。



   ***



 翌日。
男を寝かせておいたリビングに行ってみると、余程規則正しい生活をしていたのか、朝日が昇ると共に男は起きていた。
部屋の戸を開けると、ぱちりと目が合い、そのままソファの上で男は頭をさげる。

「あ、おはようございます」
「え、うん、おはよう」

 寝ていたら殴って起こしてやろう、どんな殴り方が一番良い悲鳴を上げるだろうか、などと思いながら男を起こしに来た幽香であったが、普通に頭を下げられ、思わずこちらも普通に挨拶を返してしまう。
それからはた、と自分が男を殴り忘れた事を思い出すが、かと言ってこうやって挨拶を返し返されてから殴りだすのも何だか間抜けな絵面で、やる気がおきない。
何だか不完全燃焼な気分だが、とりあえず、と自己紹介の為に口を開く。

「えーと、私は風見幽香。この家に住む妖怪だわ。昨日のことは、覚えているかしら?」
「あ、はい。俺は七篠権兵衛と言う、外来人です。昨日は、えーと、確か、妖怪に襲われていた所を、風見さんに助けて頂いて」
「そうよ」

 言ってから、幽香は肉食獣の笑みを作った。
空気が濃縮し、内側に凄まじい威圧感が圧縮される。
嘘を言えばこのまま引き裂いて喰ってやるつもりで、幽香は問うた。

「それで、聞きたいんだけど。昨日、貴方は何をしに、夜中にあんな所まで来ていたのかしら」

 これで、昨日の言は間違いであり、永遠亭に薬を取りに行ったとか、借金取りから逃げ出してきたとか、そんな理由であれば、楽しい悲鳴を聞ける素晴らしい時間の始まりであろう。
そう思っての質問だったのだが、権兵衛はと言うと、急に瞳から光を無くし、視線を足元にやり、活力が抜けたかのように真っ直ぐだった背筋を曲げると、暗い声で呟くように言った。

「……妖怪に、喰われる為です」
「――そう」

 残念ながら、矢張りと言うべきか、幽香の中でむくむくとせり上がってきていた暴力性は、今の権兵衛の言で萎えてしまった。
まぁ、確認のための質問である、こうであっても予想の範疇だ。
と言いつつ、内心で残念さを隠しきれないまま、幽香は続ける。

「でもね、私はそれを許さないわ。ちょっとの間、ここで暮らしてもらう。そうね、ここに居る間は……花の世話でも、してもらおうかしら」
「……へ?」

 予想外の台詞だったのだろう、目を丸くする権兵衛。
自殺志願者に対する対応としては可笑しい為だろう、と少しだけ思うが、幽香はそんな事は気にしない。
代わりに、次の言葉で恐怖するであろう権兵衛をどういじめてやろうか、とだけ思い、歪な笑みを浮かべる。

「ただし、ここから逃げ出そうなんて思ったのなら……。その時は」

 言って、幽香は掌を差し出し、一気に握る。
すぱぁんっ! と。
その余りの速度に、掌から一気に漏れでた空気が、異音を響かせた。
それから想像できる、血肉や脂の飛び散る光景に、思わず舌なめずりをする幽香。
そんな幽香に、権兵衛はと言うと。

「………………」

 何だか、目を輝かせていた。
僅かに身を乗り出し、口を窄めながら幽香の握りこぶしを見つめるその様は、幼い子どもの憧れの視線に似て、純粋さを思わせる。
てっきり怯えるモノだと思っていた幽香が、肩透かしを食わされた気分で、思わず目を見開いていると。

「……あ、はい、分かりました」

 と、ようやくのこと返事が返ってきて、しかもその中に怯えは一つも含まれていない。
何とも言えない気分に、どう反応すればいいのかも分からず、困ってしまい、所在なさ気にする幽香。
いや、自殺志願者であったのだ、殺されるのが怖くないのは分かるが、だからと言って痛めつけられるのも怖くなくなるのだろうか?
それに単なる自殺志願者であったとしても、それを妨害され、無理矢理に家に拘束されると言うのに、不満の一つも挙げないのは如何なものか。
勿論不満を挙げたならば、それに暴力で答えるつもりであった幽香だが……。
しかし権兵衛が不満な気配をすら漏らさなかったので、振るおうとした暴力の矛先が無くなり、形容しがたい気分であった。
単に不満が高まるのとも違っていて、宙に浮いた暴力を振るえば解消される感覚なのかと言うと、それも違うような気がする。
そんな不思議な気分に包まれ、何とも気味が悪いような感じな中、とりあえず幽香は、権兵衛を朝食の席へと招待する事にした。

 少し時間を経て。
朝食の用意は下手な物を食べさせられたくないので手伝わせなかったが、片付けは当然させるつもりであり、もししないようであったら暴力を持って行動させようとしていた。
が、権兵衛はと言うと、幽香の食べる速度を見て先に食べ終わらないよう配慮するばかりか、互いに食べ終わって割りとすぐに、権兵衛の方から片付けを手伝わせてくれないか、と打診してきたのだ。
これが危うい所を助けられた恩人に対する行動なら理解できるが、権兵衛に対する幽香は、自殺を邪魔しようとする邪魔者である筈である。
一体どうしたものか、と首を傾げつつ了承の意を伝え、権兵衛に朝食を片付けさせ。
お茶が欲しいな、と思った辺りで、権兵衛から声がかかる。

「あぁ、そうだ、お茶を入れさせて欲しいのですが、茶器は何処にあるのでしょうか?」
「……あぁ、うん。下の、左から三つ目の棚に入っているわ」

 ここは一度、殴ってみてから茶を入れろと要求するのもいいかもしれない、と思った矢先の出来事である。
いきなりの暴力に泣き出すだろう権兵衛の想像が崩れてゆき、ため息をつく幽香。
そんな幽香に、不思議そうな顔をしながら、権兵衛が入れた茶を持ってくる。
ちょっと不機嫌気味にぱっと権兵衛のお茶を取り上げ、一口。
不味ければ、熱い茶を権兵衛の顔にでもかけてやろうと思った物なのだが。

「………………まぁ、美味しいわね」
「あ、そうですか? ありがとうございます」

 何とも、権兵衛の入れた茶は熱さも味も幽香の好みに近く、中々美味しかった。
幽香の入れる茶と違い、僅かに濁りがなく透明な感じのする所が、風流である。
が、何だか悔しさが湧いてきて、何と言うか、別に腹ただしい訳でも無いのだが、何とも形容しがたい気分であった。
腹いせにごっごっとお茶を飲み干し、がんっ、と湯のみを机に置き、立ち上がる。

「ついてきなさい。貴方の世話する花壇を教えるわ」

 慌ててついてくる権兵衛に溜飲を下げながら、扉を開け、家を出る。
家を出ると、すぐ近くに広大な向日葵の畑があるが、今は時期柄向日葵は花を落としている。
代わりに、家の周りにある花壇が、色とりどりの花を咲かせていた。
金木犀に秋桜、薔薇に藤袴。
今回、権兵衛に世話させるのは、その中の一つである。
名前も知らない小さな白い花が咲いているそこへと、くるりと家を四分の一周ほどし、足をとめる。

「ここよ。この、小さい白い花が咲いている辺りが、貴方の世話する所」
「小さい、白い花、ですか……」

 言外に名前を問う権兵衛の台詞に、しかし幽香は声を返さない。
幽香は、花を操る程度の能力を持つ。
それを用いれば当然花の言葉を聞く事もできるし、花が人間になんと呼ばれているのかも分かるが、こちらが既に知っているなら兎も角、わざわざ名前を教えてもらおうとは思わない。
と言うのも、花の名前とは人間がつけたものであって、花自身が付けた物では無いので、知らないならわざわざその名で花を呼ぶ事はなかろう、との思いからであった。

「如雨露はそこにあるでしょう? これを使って水やりと、あと、虫がついていたらとってやる事。それと、雑草が生えてたらちゃんと抜いてね」
「はい、分かりました。その、水はどれくらいやればいいんでしょうか」

 反抗したら殴ってやろうかと思っていたので、一瞬手が出てしまいそうになったが、よく考えればただの質問である、花を大事にしようと言う気持ちの現れである。
とすれば、これに暴力を振るう訳にもゆくまい。
何とも言いがたい感情を抱えながら、幽香はため息混じりに告げる。

「……後で教えてあげるわ。他に質問はあるかしら」
「あ、はい。えっと、雑草と言いますけれど、新しく生えてくる花との見分け方は……」

 この後反抗的な質問が出れば即座に暴力を振るうつもりで居た幽香であったが、ずっと花の世話についてや、家事をどこまで手伝って良いかなどの質問ばかりであったため、矢張り権兵衛に対し何も出来ないままに過ごす事となるのであった。




あとがき
大分区切りが悪いですが、なんか予定していた話が60kb超えても終わりそうになかったので、二分割にしました。
一応普段は何時も区切りを意識して書いているのですが、今回はそうではないので、少し見苦しい出来かもしれません。
なるべく早めに2を上げれるよう努力します。
あと表題にR-15を追加しました。



[21873] 太陽の畑2
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/12/29 00:31


 風見さんの家にお世話になるようになって、数日が経過した。
朝も最近徐々に寒くなってきており、既に日は登っていると言うのに、着物一枚ではやや肌寒いと感じる事もある季節となっていた。
けれど、先日は一日雨が降っていた為だろうか、空気は少しじめっとしていて、刺すような、と言う形容は似合わない。
割合過ごしやすい、春に近い季節である。
と言うのも、俺は幻想入りして記憶を新生して以来、秋と言うのも初体験なのだ。
残った記憶――所謂、エピソード記憶では無い意味記憶の方、と言う奴だろうか、それはあるので秋はこんな季節だと言う知識はあるのだが、それが実際に体感するとなると、矢張り感じ入る物はある。

 さて、と言っても何時までも秋の空気に感じ入っていてもしょうがないので、外履きをつっかけ、風見さんの玄関から歩み出す事にする。
風見さんの家を出てすぐに眼に入るのは、広大な向日葵畑である。
と言っても、今は既に枯れて何も無い、ただ土の柔らかそうで広大な背の低い草原にしか見えないが、風見さんの言によると、夏は太陽の畑と称される程に向日葵で一杯になり、目を豊かにしてくれるのだとか。
少しだけそれが見れなくて残念だな、と思いつつ、歩みをすすめる。
風見さんの家は西洋風の作りであり、明るめの板張りの壁に赤い屋根と、スタンダードな家である。
玄関口の方には太陽の畑が広がっているが、逆側に少し行った辺りには川が流れており、用水の平易な作りになっている。
さて、まず俺は家の壁に立てかけてある如雨露を手に取り、それから俺が任された花壇の一角へと歩みを進める。

 俺の担当する花壇は、小さい白い花の咲く場所である。
背丈は低く俺の膝下程度の丈しか無く、半分ほどつぼみで、ぽつぽつと咲き始めたばかりの花も、小さくて控えめ。
派手さや艶やかさは無いが、何処か心をほっとさせるような、穏やかな気分にさせてくれる花であった。
とりあえず、と、俺はその一角の土へと手をやり、その土が乾いている事を確認する。
割りと水はけが良いのか、それともこの花が水を良く吸うからなのか、この花壇は割りと頻繁に水やりが必要になる。
その合図が、大体この土が乾いている事なのだそうで。
先日雨が降ったばかりだと言うのに、早い物だな、と思いつつ、俺はぶらぶらと如雨露を揺らしながら、川まで歩いてゆく。

 合間に幽香さんが手を加えた、艶やかだったり、儚げだったりする花をふらふらと見て歩きながら、花を踏まないよう気を配って、土の露出した場所を歩いて川まで辿り着く。
如雨露を川に沈めてやると、ぼこぼこ、と音を立てて空気の泡が立ち上り、そしてその音に驚いたのか、近くの魚が岩陰から飛び出て、何が起こったのか、と言わんばかりにキョロキョロとする。
その姿が少しだけ可笑しくて、くすりと笑いながら、俺は如雨露の中身を零さない程度に少し目減らし、立ち上がると、再び小さい白い花の花壇まで戻る次第となる。
行きと少し違うのは、あまりぶらぶらと如雨露を揺らすと、中身がこぼれてかかってしまう事である。
一度それをやって、まるで寝小便をしてしまったかのようになってしまい、風見さんに大笑いされた事があったり。
なので、二度とその失敗は繰り返すまい、と、毎回の通り注意して如雨露を運ぶ。

 暫くして、再び担当する花壇の辺りまで戻ってきてから、俺は如雨露の中の水を、花にやる。
と言っても、感覚的には、花に向けて与えると言うよりも、土に与えるので無いと、花がきちんと吸収できないそうだ。
なので如雨露の口を花の背丈より低い辺りにやり、辺りにたっぷりと水やりをする。
風見さんによると丁度一回につき如雨露一杯分程で良いそうなので、水やりを終えると、俺は一度如雨露を元の場所に戻し、それからすぐに花壇へと戻ってくる。
ここからは根気のいる作業で、近くにある雑草を探して抜く作業となる。
膝を曲げ、腰を下ろし、風見さんに教わった通りに雑草を抜く作業に入る。

 と言っても、基本的に毎日やっている事で、しかも場所も然程広く無いので、雑草も簡単には見つからない。
こんな時、俺は無心になって作業するよう心がけているのだが、こうも見つからないと、何だかふつふつと自分の中から浮かび上がってくる物がある。
こんな所で、俺は、一体何をやっているのだろうか、と。
さて、俺のひとまずの人生の目標を考えてみよう。
それは、今まで俺に素晴らしい物を与えてくれた人たちに恩返しをする事である。
これは今まで接してきた人たちの誰を思っても妥当な目標であり、道理の通った目標である。
では続いて、俺の目標達成の為の手段を考えてみよう。
手段。
手段。
手段――。
思いつかない。
何も思いつかないので、とりあえず今までの事例を絡めて考えてみようとする。
慧音さんには寺子屋の手伝いをしたが、それは手直しを要する程酷い出来であった。
妖夢さんには助言をしたが、それは半分ほどしか事態を解決できず、しかもそれによって悪化してしまった気配すらする。
てゐさんには人を幸せにする指導をしていただき、それを実践しようとしたが、てゐさんの助言無しに上手く行った事は無く。
輝夜先生には俺の真に思う所を伝えようとして、泣かれ、決別の言葉まで吐かせてしまった。
そして里人を霊力で守ろうとするも、それ以前にこちらが排除されて。

「俺は……」

 思わず、呟く。
視界が虚ろになり、今にも倒れこんでしまいそうな気分になりつつ、呟く。

「俺は、今まで、何もできていないじゃあないか」

 そう、その通り。
俺は俺なりに恩を返す為に力を尽くしてきたつもりだったが、何一つ実を結んではいなかった。
そればかりか、恩人達にもらう恩は積もるばかりで、一向に減る様子は見せない。
あの、俺を殴る蹴るした里人の言葉が、思い出される。
彼は、俺をこう言った。
寄生虫。
人に寄生しなければ、生きてゆく事すらままならない、惨めな男。
なんと俺にぴったりな言葉だろうか。
ピッタリ過ぎて、笑いすら漏れでてしまう。

「はっ、はは……」
「あら、どうしたのかしら?」
「――っ!?」

 と。
急にかかった声に、思わず俺は飛び退いてしまう。
やってしまってから、慌てて足元を見るが、どうやら咄嗟に花を踏まないように飛び退けたようで、裸の土しか無い。
思わず、はぁ、と安堵のため息をつく。

「びっくりしたぁ。あんまり驚かせないでくださいよ、風見さん」
「あー。だって何だかぼうっとしてるから、思わず、ね」

 と言う風見さんは、何故か片手を振りかぶった形のまま停止しており、奇妙な姿勢である。
握りこぶしを作っているようにも見えなくもないが、まさか風見さんのような優しい女性が俺を殴る筈など無いので、多分この後手が開いて俺の肩でも叩く予定だったのだろう。
まぁ、何にせよ、それはいいとして。
問題は、バクバクと五月蝿い俺の心臓の方である。
驚いたのは勿論だが、恥ずかしい余りにも心臓の鼓動が止まらない。
何せ俺、自嘲の笑みを聞かれてしまったのである。
俺にも一丁前に恥らいと言う物があり、そんなモノを聞かれてしまっては、赤面を免れない。
とすると、この人はそんな俺の顔を目ざとく見つけ、にやりと笑うのだ。

「あら、貴方、顔が赤いんじゃないのかしら? どうしたのかしらねぇ?」
「い、いや、何でもないですよ。本当、何でもないですって」
「そう? でも、何もないのに顔を赤くするなんて、可笑しな子ねぇ」

 くすくすと口元に手を当て、上品に笑う風見さん。
それはそれで可愛らしい様子なので目の潤いとなるのだが、時が時である。
俺は可能な限り風見さんを視界に入れないよう、真っ赤になりつつ足元に視線を会わせる。
すると、なんだか、にやっと笑ったような気配。

「そ・う・い・え・ば。何だか此処に近づいてくる時、笑い声が聞こえたような気がするわ」
「えーと、それは、あれですよ、妖精か何かの声じゃないでしょうか」
「でも男の声だったような気がするわ。どうしてかしらねぇ」
「えーと、えーと……」
「しかも最近聞いたことがあるような声だったわ。それで、何か斜めに構えちゃって、こう――」

 と、風見さんが目を鋭くして空にやり、やや姿勢を左右非対称にし、口元を薄く開けた辺りで、俺は割り込んだ。

「いやっ! そういえば、そろそろお昼の準備をしなくちゃいけないですよねっ! 俺、次の当番でしたよねっ! と言う事で、行ってきますっ!」

 と叫び、失礼しますっ! と頭を下げ、急ぎ足で兎に角風見さんの前から姿を消そうとする。
すると、クスクスと笑い声が追ってくるのだが、それを聞かないよう、俺は両手で耳に栓をしながら走る事に集中する次第なのであった。



   ***



 初日の昼食からだったか。
一度、とりあえず食事を作ってみなさい、と言う風見さんの言に従って以来、それが彼女の口に合ったようで、食事を作るのは当番制となった。
それもこれも、永遠亭に滞在する間、空き時間にこっそりと兎さん達に料理を教わったからだろう。
あれは輝夜先生に好物を食べてもらって、日頃の感謝を表そうとした物である。
結局輝夜先生には作れなかったのだが、霊力が未だに殆ど役立っていないのに対し、これがこんな所で役に立つとは。
人生、本当に何が役に立つのか分からない物である。

 さて、今日のお昼はフレンチトーストにサラダである。
どうやら風見さんはどちらかと言うと洋食派であるらしく、和食派の俺としてはレパートリーの不足に悩む所であり、また、と枕詞に付くが。
牛乳に卵を割り入れて混ぜ、砂糖・塩・胡椒を適当に入れ、パンを浸す。
で、フライパンで焼く。
片面が焼けたらひっくり返し、チーズを載せて焼く。
それだけ。
この手軽さが、別に手を抜いている訳でも無いのに手を抜いている気分になって、何と言うか落ち着かない気分になるのだが、並行してサラダでも作っていると、調度良い感じに手がかかっていい感じである。
と言っても、お手軽料理であるのに変わりは無いのだが。

「って言っても、いいじゃない、美味しいんだから」
「褒めてくれるのは恐縮ですけど……」

 と、上品にナイフとフォークで切り分けて食べる風見さん。
まぁ、その小さな口にトーストを頬張る度に目を細め、美味しそうに食べてくれるのは、大変嬉しい事である。
なのでこっちも、自然とそんな小さな事を気にする事無く、切り分けたトーストをフォークで取り、ぱくりと一口。
うん、美味しい。
こちらも思わず目を細め、口元を緩めて小さく笑窪を作ってしまう。
と、視界の端で、何故か風見さんがフォークを握り締めているのが見えた。
まるでフォークを飛ばして俺の頬に刺そうとしているような角度と手の形だったが、当然優しさ溢れる風見さんがそんな事をする筈も無く、事実それも少しの間で、すぐに皿の上へとフォークは置かれる事となる。
何故かちょびっと、残念そうな顔の風見さん。
はて、もう食べ終わってしまったサラダでももっと食べたかったのだろうか?
それなら言ってくれれば分けたのだが、何せ男の口にした物である、女性と言う物は俺の想像以上にデリケートなのかもしれない。
なのでそれに触れる事はせず、食事の肴として、俺は口を開く事にする。

「そういえば、俺の世話している花壇も、そろそろ半分近くが開き始めました」
「そう。まぁまぁ丁寧に世話をしているみたいだしね、例年より少し早いぐらいかしら」
「あまり早咲きして、花に影響が無ければいいんですが……」

 と言いつつ、風見さんの手元の水が空になったのに気づき、水差しを傾け水を注ぐ。
コップを返して風見さんの顔を見ると、中途半端に開いた口が目に映った。
まるで水が切れたから入れろと命令しようとしていたかのようなタイミングだが、あの優しい風見さんがそんな事する筈も無く、その口ももにゅもにゅと声にならない声を漏らしながら閉じる事となる。
ちょっとふれくされたような顔の風見さん。
とすると、花についての話の続きをしようと思ったが、俺が文字通り水をさす具合になった為、不完全燃焼に終わってしまったのだろうか。
だとしたら失礼な事をしてしまったな、と、思いつつ、かと言って挽回の方法も思い浮かばないので、とりあえずトーストを頬張るのに努める事にする。

「……今日の午後は、ちょっと近くに出かける事にするわ」

 暫く沈黙が続いた後、ふと風見さんがそう口にする。
それから何やら期待の色の篭った瞳で、俺の方へ視線をやる。

「そうですか。では、俺は花壇の世話は後に回して、留守を預かる事にします」
「くす、勿論よ。ここから出ようなんて考えたら……」
「あ、留守のあいだは掃除でもしていようと思いますが、風見さんの私室は勿論手を入れない方がいいですよね」

 と聞くと、何故か肩透かしを食らったかのような表情の、風見さん。
思わず風見さんの口を遮ってしまったのだが、まるで俺をここから出るなと脅そうとしているかのようだったが、温和な風見さんがそんな事する筈もなく、事実ちょびっと何だか遠い目をするだけで、特に何を言うでもない。
多分、俺が聞き違ってしまっただけなのだろう。
とすると、矢張り失礼な事を考えてしまったと思い、夕食は凝った物を作ろうと、罪滅ぼしを考える俺。

「まぁ、それでいいわ。じゃ、ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」

 言って、僅かに先に食べ終わっていた俺は風見さんの食器を受け取り、流しの方へと持って行く。
ついでに霊力でちょろりとお湯を温め、お茶を淹れる。
西洋風の家である此処ではどちらかと言うと紅茶を淹れるのが筋なのだろうが、生憎俺は紅茶の淹れ方と言う物を大雑把にしか知らないので、俺が彼女に出す分においては緑茶である。
一応どっちも発酵が違うだけで同じ茶葉なんだから、どうにか淹れられそうな物なのだが。
と、どうでもいい事を考えつつお茶をリビングに持って行く。
すると、ごっごっ、と早々とお茶を飲み干し、席を立つ風見さん。

「あ、もう出かけるんですか?」
「えぇ。夕方前には戻るようにするわ。留守番よろしくね」
「はい、行ってらっしゃい」

 と、玄関前まで行って、低空を飛んでゆく風見さんを見送り。
ばたん、と音を立てて玄関の扉を閉じて。
――立っていられたのは、そこまでだった。
がた、と音を立てて背中が扉に当たり、そこからずるずると体が滑り落ち、床に尻をついてしまう。
それから首を支える力が無くなり、がくん、と頭が僅かに前に傾く。
全身から、無理に維持していた活力と言う活力が抜けてゆき、視界すらも虚ろになってゆく。

 暫くはそのまま何も考えず、何も動かず、ただ呆然と口を開けたままでいられたのだが、すぐにふと思い浮かぶ物がある。
それは矢張りと言うべきか、自虐の念であった。
さて、俺の目的は恩返しであり、そして生きていてはその真逆の効果しか生めないのではないか、と言うのが現在の俺の状況である。
であれば当然、俺のすべき事は、二通りに別れる事となる。
それでも何時かは恩を返せると信じ、再び努力を重ねる道。
何からすればいいのか分からない、と言う難易度の高さはあれども、正道である。
対し、これ以上生きていては無意味どころか害悪と決め打ち、自殺する道。
当然、恩を返せる可能性が残る以上は邪道であり、人として選ぶべきでは無いが、一応選択肢としてある物である。
が、今の俺は、不思議な事にそのどちらも行っていなかった。
正道を選ぶにしても、彼女の世話になりっぱなしと言う現状は、道理が叶わない。
邪道を選ぶにしても、ここを出て行くなり彼女を怒らせるなりすれば死ねるのだ、道理が叶わない。
俺は風見さんに拾われて以来、彼女の言う事を聞き、世話をする事ばかり考えているのだ。

 それは、何故かと言えば。
単なる、現実逃避であった。
何故なら、何か無心に作業をしていれば俺は何も考えずに済むし、彼女の言う事に従ってさえいれば、俺は自分の意思と言う物をすら持たなくても済むのだ。
だって、何かを考えると、嫌でも俺自身の醜さを直視してしまい、それだけで、耐え難い程に辛いのだ。
それは時が進むに連れ、益々強まってゆく。
何せ俺は、妖怪に襲われていた無気力な男を世話してくれるような優しい風見さんを、現実逃避の為に利用さえしているのだ。
こうやって屋根と食事を貰っているだけで恩を受けていると言うのに、それに仇で返すような扱い。
そんな事してしまっている自分が、醜くて仕方がなかった。

「う……う、ううっ……」

 自分が情けなくて、思わず涙が出てきてしまう。
しかし、その涙でさえ、今の俺には自分を可哀想と彩ろうとしている、自分を他人事のように捉えた行為であるように思えて、醜く思えるのだ。
だから俺は、ぐしぐしと、涙を拭う。
少ない活力を全身から集めて、どうにか体に力を入れ、ふらふらとしながら立ち上がる。
これ以上自分を醜く思うのが嫌だから。
耐え切れないから。
だから、無心に作業をする事だけを考えて。

「……洗い物、しなくちゃ……」

 ぽつりと呟いて、台所の方へとふらふらと向かう。
まだ目尻に集まってきている涙をぽつぽつと零しつつ、どうにか歩いて行って。
俺は再び、無心に作業を進める事に努めるのであった。



   ***



 甘くさわやかな香りが、風に乗って運ばれてくる。
風に揺れる鈴蘭が、さざ波のような音を立て、さわりと騒ぎ立てた。
無名の丘。
春過ぎには一面鈴蘭で覆われるそこだったが、今では背の低い草が生え茂る草原に過ぎない。
その中心近く、大きな岩がぽつんと置いてある場所で、幽香はメディスン・メランコリーと会話していた。

「わぁ、久しぶりにスーさんの香りだわ。やっぱり、これがないと落ち着かないわ」
「そう。私はやっぱり季節の通りの香りが一番だと、思うけどね」

 六十年に一度の大結界異変で知り合った二人は、こうして時たま会う約束を取り付けている。
幽香としては、自分と同じく花を愛でる事を一番に考える、珍しい妖怪との交流として。
メディスンとしては、春以外にも能力で鈴蘭を咲かせ、スーさんと出会う為として。
双方の利害が一致し、こうして季節ごとに無名の丘の大岩で待ち合わせているのであった。

「そうかしら。向日葵なんかに囲まれるよりもずっといいと思うけれど」
「毒の匂いを撒き散らすよりもずっとマシだと思うけれど」

 と言ってもこの二人、仲が良いのかは微妙である。
メディスンは幽香の尤も好む向日葵なんて花は気持ちが悪いと考えているし、幽香は鈴蘭は好きだがメディスンの撒き散らす毒は臭って仕方が無いと思っている。
だが不思議とこの行事はここ数年欠かさずに行われ、ずっと続いているのであった。

 主な内容はと言うと、お互いに近況報告をし、その感想を適当に言い合うばかりの話である。
メディスンの話の内容はと言うと、人形解放の為の訓練の結果と、定期的に会っていた八意永琳が最近急に姿を見せなくなったようであると言う事。
後者はそこそこに興味深いが、人形そのものには大して関心のない幽香は前者を聞き流すし、メディスンも別に反応を期待していないのか、生返事を続ける幽香に淡々と話し続ける。
それがぽつぽつと途切れてきた辺りで、代わりとばかりに幽香が口を開く。
こちらも毎年代わり映えのない、季節の花の移り変わりやその美しさ、後は喧嘩を売ってきた愚かな妖怪や、幽香の機嫌の悪さの犠牲となった哀れな妖怪の話。
メディスンも生返事を続ける中、一番最近にいじめてあげた金髪と銀髪の妖怪のコンビの事まで話を続け、そこで幽香は僅かに、躊躇するように口を噤んだ。
別に近況を報告するからといって、権兵衛の事まで報告しなくてはならない義理と言う物も無い。
しかし、だからと言って、他のことは何でも話していたのに、権兵衛の事だけ話さないと言うのは、どうにも権兵衛の事を意識しているようで、何と言うか、駄目な感じである。
であるからと言う事で、幽香は閉じていた口を開く。

「此処数日、いじめようと決めたのにいじめがいが無くなっちゃった人間が居てね。いじめがいが出るまで、家に連れて行って、世話しているの」
「へぇ? 貴方が人間を? しかも数日って、まだその人間生きているの?」

 意外そうに反応するメディスンに、幽香は自然渋顔を作った。
自分でも、こんなに何日も権兵衛を家に置いておくつもりは無かったのである。
一応花の世話と言う係こそは考えていたものの、基本的に初日にいじめつくして、そのまま離すなり殺しきってしまうなりしてしまうつもりであった。
だと言うのに、未だ幽香は、権兵衛に一度も手を上げていない。

「なんていうか、奇妙な感じでね。間が外される、って言うか。なんか権兵衛と居ると、萎えちゃうのよねぇ」
「ふーん」

 生返事で返すメディスンに、ピョン、と指を突き立て、幽香は具体例を話す。
最初は嬲って絶望の悲鳴をあげさせようと思っていたが、何でか先に絶望していた事。
とりあえず殴りながら雑用を言いつけようとしたら、何故か先回りして雑用を申し出られた事。
折角のご飯だと言うのに暗い顔をしているからフォークを投げつけようとしたら、トーストを頬張って幸せそうな顔をされた事。
水を入れたり茶を入れたりと新たに雑用を申し付けようと命令しようとしても、自然とそれを行われてしまう事。
つらつらと語られるそれを興味なさげに聞いていたメディスンだが、ふと、疑問に思ったようで、一言告げる。

「そう言えば、その権兵衛って人間の話ばかりだけど、最近は妖怪をいじめたりしてないの?」

 思わず、瞬く。
そう言えば、そうである。
今までの自分は、自然や花々と共にある静かな生活が好きなのと同時、絶望の悲鳴が好きで好きでたまらなくて、定期的に聴きに行っていたと言うのに。

「……して、ないわね」
「それにその権兵衛って言う人間にしようとしてた対応も、何だか温くなってないかしら」

 言われて、思い出す。
最初は生まれてきた事を後悔させてやる事まで想像しながら権兵衛をいじめようとしていたのだが、最近はその場その場でちょっと嬲ってみようと思っているだけである。
とすると。

「……かも、しれないわね」
「このまま行けば、貴方の言っていた、理想の静かな生活、とやらが手に入るんじゃあないかしら」
「理想の、静かな生活」

 反復するその言葉とは、何時ぞや幽香がメディスンに語った生活である。
季節の花々を愛でる事は勿論、それを邪魔される事もなく、わざわざ妖怪をいじめに行くような衝動に襲われる事なく、温和で優しい生活。
それを望む事は、別段おかしな事では無い。
実際、長く生きた妖怪として、幽香の強い嗜虐性は、少しおかしい物である。
通常長生きした妖怪は、自分の生活が侵されない限り、悪戯に戦いを仕掛ける事など無いと言うのに。

 言われてみれば、自分が穏やかになってきている実感は、確かにあった。
誰が相手でも大した理由もなくいじめたくなるような衝動は、ここのところ抑えられていて、権兵衛に対するいじめたい欲と言うのも、徐々にその物騒さを減じていっている。
何故だろう、と、幽香は不思議に思った。
この長い妖怪としての生の中、己の嗜虐性は何時であってもその燻る炎を消す事は出来ず、解消する事によって一見晴れたような事があっても、こうやって穏やかになってゆく事は無かったのだ。
それを。
権兵衛。
ただの外来人一人が、解消しようとしているなどと言うのだろうか。

「そんな事……無いわ」

 期待の裏返しか、否定の言葉が幽香の口から出てくるが、対しメディスンは軽く目を細めて口を開く。

「でも、さっきその権兵衛が幸せな顔をしていたから、攻撃をやめた、なんて言ってなかったかしら」
「? ええ、そうよ?」
「ええそうよ、じゃなくて……。そんなの、何時もの貴方だったら可笑しいじゃない」

 と言われて、幽香は眉をひそめる。
全く、何処が可笑しいのだか分からない。
何せ権兵衛の幸せそうな顔といったら、何だか胸がときめいて、こちらまで笑顔になってしまいそうな感じの笑顔なのだ。
そんな顔を浮かべられて攻撃など、出来るはずもあるまい。
そう告げると、何だか砂糖と塩を入れ間違えたコーヒーを見るような目で見られる幽香。

「貴方最近おかしな物でも食べなかったかしら?」
「失礼ね。私と権兵衛の料理しか食べていないわよ」

 自分の料理がおかしな物でないのは勿論、権兵衛の作ってくれた料理がおかしな物でないのも当然である。
と言うのも、自宅に居て他人が作った料理を食べるなんて、記憶にある限りでは初めての事だったのだが、他所の宴会に混じるのとはまた違った温かみのような物があって、とても美味しく感じるのだ。
その事を知って以来、幽香の作る料理にも力が入るようになってきた。
何故かと言うと、権兵衛の料理に自分が味わっているこの温かい感じを、自分の料理に権兵衛も味わっているのだと考えると、自然と料理に凝るようになってきたのだ。
そうすると、競いあうように権兵衛も徐々に凝った料理を出すようになってきて、ああ、権兵衛も自分と同じ思いで居るんだな、と思うと、自然と顔も綻んでしまう。
兎も角そんな感じな事なので、おかしな物など食べていない、と説明する幽香。
対するメディスンは、少し首を傾げたかと思うと、ああ、と手を打ち一言。

「こういうのをなんて言えばいいのか、って思ってたけど」
「?」
「ごちそうさま。こう言えばいいのかしらね?」

 何のことだか、と首を傾げる幽香に、ため息をつきながらメディスンが告げる。

「気づいていないかもしれないけど。多分貴方、その権兵衛って人間の事が好きなんじゃないかしら」
「は?」
「それも、生まれて数年の私にでも分かるぐらいに」

 思わず口を開きっぱなしにしてしまう幽香。
好き。
好き。
権兵衛の事が――好き。
その言葉が咀嚼されてゆくに連れ、幽香の顔が真っ赤に染まってゆく。
鼓動は高鳴り、じわじわと汗が滲みでて、ぎゅ、と体を抱きしめたくなる。
その衝動に従い、幽香は己の事を抱きしめて見せた。
壊れるぐらい強く、強く。

「好き――」

 実際に口にしてみると、更にどくんと胸が高鳴る。
喉の奥はからからに乾き、自らを抱きしめる腕は、指の先まで力が入る。
吐く息は熱湯のように熱く、湿っていて、口元の辺りのブラウスを僅かに湿らせた。
足を下ろしているのが何だか不安になり、膝を上げて、ぎゅ、と巻き込むように抱きしめる。
丁度、幽香は大岩の上に、体育座りの形になった。

 私は、権兵衛の事が、好き――なんだろうか?
覚えた疑問に、反射的にそんな筈はないと思う。
だって、自分は風見幽香なのだ。
あらゆる存在をいじめる、ちょっとおかしな存在なのだ。
そんな存在が、人を好きなんて言う、穏やかな気持ちを抱けるはずが無くて。
でも、権兵衛は、どうやら、幽香を穏やかにしてくれているような気配があって。

「ちょっと、幽香?」
「ひゃんっ!?」

 急に声をかけられ、思わず幽香は飛び退いてしまった。
少しの間、メディスンの事が頭から抜け落ちていたのだ。
こんな醜態を晒してしまうなんて、と顔を赤くすると同時、そういえば朝に権兵衛も似たような事をしていたな、と思い、更に顔を赤くする。
駄目だ。
何が駄目だか分からないが、兎に角駄目だ、これ以上、何も考えてはいけない。
そう思い、ぶるぶると顔をふるってふわふわとした考えを頭から追い出し、慌ててメディスンに告げる。

「ご、ごめんなさいね、今から急用ができるから、家に帰る事にするわ」
「その前にもうちょっと落ち着いた方がいいような気がするけど……」
「じゃ、じゃあね、また冬に会いましょうっ!」

 強引に別れを告げると、幽香は勢い良く空中へ飛び出していった。
一気に高度を上げ、先程までいた大岩が小さくなるぐらいにする。
下で何かメディスンが言っているが、聞こえないフリをしつつ、自宅へ向けて飛行を始めた。
そうなると、空中を飛んでいる間も暇になり、先程の考えがぷくぷくと浮かんでくる。
そしてついつい、幽香は口に出して言ってしまった。

「好き――」

 なんとも胸の中がふわふわとする言葉で、何とも自分に似合わない言葉である。
だけど気づけばその言葉は口に出されていて、幽香の頭の中を支配してしまう。
好き。
好き。
権兵衛が――好き。
その言葉の事を思っていると、思わず自分の唇に指をやってしまうから不思議だ。
すると、当然のごとく、権兵衛の唇の感触を想像する自分が居て。

「いやいや」

 慌てて頭を振り、ピンク色の妄想を頭から弾きだす幽香。
一旦は静かな心になれて、ふう、とため息をつく幽香であったが、はたと思い出す。
そういえば、当然の事なのだが、これから帰る家には、権兵衛が居るのだ。
勿論家に帰れば出くわす事になり、その顔を見る事は確実で。

「~~っ」

 そうなったら、一体どうすればいいのか、と、幽香は無言の悲鳴をあげた。
自然、飛行速度も遅くなるが、無名の丘と太陽の畑はそう遠い場所では無い、既に赤い屋根の家は視界の中に見えてきている。
これからどうすべきか、とりあえず頭が冷めるまでその辺で時間を潰すべきか、それとも電撃作戦で部屋にひきこもり、その中で頭を冷やすべきか。
どうしようかと悩む幽香の耳に、突如、爆音が響いた。

「何事っ!?」

 思わず目を見開き、音源に検討をつけて遠視の術を使うと、自宅の近く、見覚えのある金髪と銀髪の二人組の妖怪が居た。
その周辺には何時ぞやと同じく、明らかに殺傷用の弾幕が浮いており、その正面には月っぽい色の弾幕を浮かべて対抗する権兵衛の姿があって。
それを視認した瞬間、その叫びが届かぬ物と知って尚、幽香は叫ばずにはいられなかった。

「――権兵衛っ!!」



   ***



 襲撃は、突然だった。
何の前触れも無く分厚い板を打ち付けたような音が響き、家全体が揺れた。
丁度掃除をやっていた俺は、思わず壁に手をついて体を押さえてしまうぐらいの揺れであった。
一体何があったのかと辺りを見回せば、窓の外には金銀の無数の弾幕があって。
それを見て、思い出す。
俺が風見さんに助けられた時、襲ってきていた二人組の妖怪。
俺を狙ってきたのか、それとも風見さんに報復に来たのか、どちらなのかは果たして分からないものの、そういう事だろう。
事態を理解し、慌てて外に飛び出そうとするが、それよりも早く、空に浮いている殺傷用の弾幕が家に飛来する。
思わず、目を瞑って頭を抑えながら、机の下に逃げこむ俺。
と同時、再びの爆音。
暫く連続してそれが続いたかと思えば、ふいに静寂がやってくる。
一向に屋根が落ちてきたり、風が吹きさらす兆しが感じられないのを疑問に思い、ちらりと薄く目を開いた。
すると、傷ひとつ無い風見さんの家の壁が目に入ってくる。
一瞬、意味が分からなくて動転してしまうが、よく考えればこの家には強化の術でもかかっていたのだろう。

 ほっとため息をつき、胸をなで下ろす俺。
あの日と違い俺は全快しているとは言えども、精神的なコンディションが悪い上、実力的にも二人がかりで来られてはやや俺が劣るぐらいなので、戦いになれば恐らくやられてしまっていた所だろう。
と同時、僅かな疑問が胸をよぎる。
俺は、死んでもいいと思っていたのではないだろうか。
いや、むしろ死ぬべきなのではないかと思い、妖怪に喰われる為に元自宅から旅路に出たのではなかろうか。
そう考えると、俺は安堵するよりも残念に思うべきなのではないだろうか。
いや、勿論、風見さんの家が無事であった事自体は、喜ばしい事なのだけれども。

 などと俺が思考に耽っている内に、再び窓の外に金銀の弾幕が生まれる。
と言っても、この家の強化の術を視てみれば、あの妖怪達では傷つけられない程度である事が容易に分かる。
無駄な事を、と思うと同時、弾幕が炸裂した。
ただし、家の周りの花壇に。

「――っ!」

 思わず息を飲む。
そのままの自然を愛する風見さんであるからこそ、花壇に術による結界までは作っていないのでは、と思う。
とすれば。
当然のごとく。
家の周りの花壇は、無茶苦茶になっている筈で――。
と、そこまで思った所で、再び空に弾幕が生まれる。

「させるかぁっ!!」

 気づけば俺は、叫びながら家を飛び出していた。
と同時、拙いながらも霊力を用いて結界を展開。
家の周りの花壇を守ると同時、それに打ち付けられようとしている弾幕の衝撃に備え、歯を食いしばり、目を瞑る。

「――っ!」

 爆音。
爆音。
爆音。
一つそれが響くたびに、体の芯が軋むような痛みが走る。
脳髄が沸騰しそうに熱くなり、目の奥が激痛に痛む。
四肢の末端がふるふると震え、噛み締める歯茎からは血が滲む。
永遠とも思える時間が過ぎ去った後、ようやくのこと、弾幕が途切れた。
肩で息をしつつ、僅かに脱力し、閉じていた瞼を開く。
あまりに力をいれていた為、しばらくの間、視界がチカチカとするのを感じながら、確認していなかった周囲に視線をやる。
粉塵が舞い散り、風に吹かれてゆくに連れ、花壇の有様は明らかになってゆき。

「――……」

 無茶苦茶だった。
甘く顔っていた金木犀の花は、土に塗れて形を崩し。
整然と並んでいた薄桃色の秋桜は、ぐちゃぐちゃに潰れ。
艶やかに咲き誇っていた薔薇は、残らず首を落としていて。
荒廃したその様子は、丁度先の俺の家の惨状を思い起こさせた。
一瞬、既に全滅してしまったのではないか、と血の気が引くが、よくよく見てみると、奥まった方はまだ無事だった。
俺の世話していた小さい白い花も、また。
――不幸中の幸い、とでも言うべきか。
とりあえずそれを確認できた俺は、視線を空に浮かぶ二体の妖怪へと向ける。
金銀の瞳と目が合い、肉食獣の笑みを向けられる。
僅かに震える、背筋。

 あの、俺が風見さんに助けられた日。
俺が野垂れ死のうと歩いていた所、突如弾幕を使って襲ってきた二人組である。
あの時は風見さんにあっさりとやられていたので、あまり強い印象を受けなかったのだが、片方でも結構強く、恐らくは二人がかりではあちらの方が上。
となれば、俺の目指す勝利条件は、風見さんが戻ってくるまで耐える事である。
と言っても、花壇を防御し続けなければいけない俺は回避行動ができず、常に結界を張り続けなければならない。
当然、ただただ耐えているばかりでは、先のように好き放題に弾幕を張られてしまい、こちらの身がもたない。
故に牽制の弾幕で相手に回避行動を取らせ、攻撃だけに集中させないのが上策と言えるだろう。
一番不味いのは近接戦闘に持ち込まれる事なのだが、どうやら体が治りきっていないのか、再び空中に金銀の弾幕が浮かび上がる。
対し、こちらも己の月度を高め、周りに幾らかの月弾幕を浮かべる。
お互い、動かないままに、僅かに沈黙が過ぎ去った。

「折角風見幽香の留守を狙って来たのに――。あんた、あの時の人間? 何で人間があいつの家を守ってんのよ」

 言われ、不意に俺は気づいた。
そうだ、俺は一体何故こんなに必死になって、この花壇を守ろうとしているんだろうか。
相手は相応に強い妖怪である、家に引きこもって震えていても、あの優しい風見さんは責めないかもしれない。
もし怒りを買う羽目になったとしても、恐らくその終点に待ち受けるのは死である、今の俺が忌避すべき事では無い。
そうだ、俺は、一体何で――。
と思うと同時、がくん、と背筋に寒い浮遊感。
一瞬、迷いの余り集中が切れそうになるのを、既の所で持ち直す。
駄目だ、迷っていて勝てる相手では無い。
頭を振って頭の中から迷いを捨て去る俺に、ニヤリと笑みを浮かべる妖怪達。

「あら、怖いのかしら。逃げてもいいのよ? 私たちの目的は、あいつの大切な物をグチャグチャにしてやりたいってだけなんだから」

 と言っても、その内容は的外れな物で、俺の心を揺るがすには足らなかった。
迷いの糸を振り切るようにして、俺は体を僅かに前に動かす。
とりあえず、俺の目的は時間稼ぎなのだから、このまま会話を続かせるのが常道であろう。
意を決して、口を開こうとするが、寸前、金髪の妖怪が口を開く。

「まぁいいや、さっさと片付けちゃいましょう」
「ちょ、ま……!」

 何か言うよりも早く、妖怪達が指揮棒を振るように手を振るう。
それと同時、周りに浮かんだ弾幕が、光の尾を残してこちらへ飛んでくる。
こうなれば、最早覚悟を決めるしかあるまい。
己の口下手さを呪いつつも、俺は弾幕の防衛戦と言う、あまりにも不利な戦いに、身を投げるのであった。

 ……――。
一体、どれほどの時間が経っただろうか。
時間の感覚が無くなる程の間、俺は無数の弾幕を受け止め、少ないながらも誘導性を付与した弾幕を相手に撃っていた。
太陽の畑がその花を散らしており、守るべき範囲が家の周りだったのが幸いしたのか。
辛うじて、今でも俺は花壇を守り続けられている。
と言っても、状態は刻々と悪くなっている。
目はチカチカする弾幕を見続けて霞み始め、四肢には力が入らず、霊力の節約のため、浮く事すらもせずに弾幕を放つ。
耳は永遠とも思える程の時間続いている爆音でおかしくなりそうで、膝はがくがくと震えるのを、背を家の壁にあずけてどうにか立っていられている。
最早、俺の敗北も秒読みか、と思った瞬間であった。

「ぶえっ!?」

 唐突に、悲鳴。
と同時、弾幕が途絶え、金銀で一杯だった視界が晴れやかになる。

「なっ、ぐぎゃあっ!?」

 一撃。
たった一撃づつで、金銀の妖怪達は地に落ちて行った。
そして。
広がる緑の髪。
風にたゆたう赤いチェックのスカートとベスト。
泣きそうな表情で、駆けつけて来る、風見さんが、目に入った。

「――大丈夫、権兵衛っ!?」

 あぁ、良かった、間に合ったんだ。
そう思うと同時、ギリギリ立ち上がっていた膝の震えが止まらなくなり、ずるずると崩れ落ち。
地につくよりも、早く。
日傘を投げ捨てて飛び込んできた風見さんに、抱きしめられる。
少し痛いぐらいの強さで、背中まで回される風見さんの両腕。
疲れた体に心地良い、俺より少し高い感じのする、体温。
ふわり、と、女性らしい甘い香りのする緑の髪が、俺の鼻をくすぐる。

「よ、良かった……本当に、良かった……!」

 余程花壇が残っていたのが嬉しかったのだろう、涙を零しながら言う風見さん。
ついついその頭を撫でてやりたくなるが、疲れの余り腕が上がらず、断念する。
それでも、こんなに喜ばれると、俺の方も何だか嬉しくなってきてしまい、口元が緩くなった。

「ええ。最初の一撃は防げませんでしたけど、それ以外は、ほら、何とか。俺の世話している花壇だって」

 誇らしげな気分でそう言うと、ぎゅ、と、少しだけ俺を抱きしめる力が強くなる。
ちょっぴり痛いぐらいの、力。

「ち、違うわよ……ううっ。勿論、か、花壇が残っていてくれたのも、嬉しかったけど。
でも。でも、それ以上に。ご、権兵衛が無事で、嬉しかったに決まってるじゃないの!」

 ――……?
意味が、分からない。
だって、俺は、俺なのだ。
寄生虫のような男で。
恩を貰ってばかりで、返す事の出来ないような人生しか、送れない男で。

「俺、なんかが……?」

 だから、思わずこんなことを口に出してしまう。
更に、少しだけ、俺を抱きしめる力が強くなった。

「うん。気づいたの。私、権兵衛の事が大事よ。とっても、大切」

 言われて。
何故か、顔面が熱くなる。
体中から熱いものが目尻に集まってきて。
ポロリと。
涙になって、こぼれ落ちた。

「俺が、大切……?」
「うん。大切。とっても、大事」

 気づけば、俺を抱きしめていた風見さんの腕は、俺の頭をかき抱くようになっていて。
泣きながら、俺は風見さんに抱きしめられる形になっていて。
暖かかった。
風見さんの優しさが、暖かくて、嬉しかった。
その暖かさは、今までも何度も俺を包みこんでくれた物で。
俺が恩人と称する、みんなが俺に与えてくれた物で。
それがあんまりにも尊くて、思う。

 俺は。
俺は、一体何故、死のうなんて思ったのだろうか。
だって、俺はこんなにも温かい物を受け取っているのだ。
俺はそれを返したいし、その可能性が僅かでもあるならば、諦めないつもりでいたのだ。
それなのに、一体何故。

 ――それは多分、一言で言ってしまえば、俺は不貞腐れていたのだろう。
何度恩を返そうとしても上手く行かなくって、それどころか俺はドンドンと負債を大きくしていって。
それでも霊力をどうにか手に入れ、これできっとどうにかなると思った瞬間、それも叩き潰されて。
それどころか、家まで無くなってしまって。
本当に、これからどうすればいいのか分からなくって。
その、あまりの難易度の高さに。

 だが、今俺は、再び生きようとする意欲を取り戻していた。
俺は、可能性が僅かでもあるならば、諦めずに恩を返そうとし続けるべきなのだ。
その為に萎えていた気力も、今は燃え上がり、吹き出さんばかりに俺の中を荒れ狂っている。
だって、人はこんなにも暖かい。
それを風見さんが、思い出させてくれたのだから。
だから、俺は、決意表明をする。

「風見さん……」
「うん」
「俺、今まで色々諦めちゃってて。それで、死にたいなんて思っちゃってましたけど」
「うん」
「俺、生きたいです。生きて、みんなに、今まで受けてきた恩を返したいです」

 突然の決意表明である。
妖怪に喰われようとしていた、と言う俺の言からある程度は察していたかもしれないけれど、何の前触れもない言だ。
その上、内容も重く、答えるのに重荷に感じるような物。
答えるのに躊躇したり、迷ったり、そうするのが当然であると言うのに。
躊躇なく、それでいて赤子に言い聞かせるように優しく、風見さんは言ってくれた。

「大丈夫。権兵衛なら、きっとできるわよ」
「――っ!」

 その言葉で、一気に涙が溢れ出てきた。
決壊したダムのように流れ出る涙と共に、嗚咽を漏らし。
風見さんの背に、恐る恐る手を伸ばし、抱きしめて。
人の暖かさが、どれほど尊い物か改めて感じ。
その日、俺は泣き疲れて眠るまで、風見さんを抱きしめながら、泣き続けていた。



   ***



 明るい木目で囲まれた、全て家具は木製であり、所々赤いチェックの柄が入った部屋の中。
窓際に置かれた、矢張り赤いチェックの掛け布団に包まれ、権兵衛が寝ていた。
そのすぐ横にはサイドテーブルに水差しがあり、隣の椅子には幽香が座って、権兵衛の看病をしていた。
と言っても、権兵衛の症状はそう重い物では無い。
単に限界を超えて霊力を使い果たしただけなので、丸一日もすれば起き上がれるようになるぐらいである。
事実、既に何度か意識は取り戻しており、軽い物ならば食事も取れている。
なので一日近く経過した今、もう看病はいいし、寝床も何時ものソファでいい、とは権兵衛の言であったのだが、幽香は頑なに譲らず、権兵衛をベッドの上から動かさなかった。

 すー、はー、と、今日何度目か数えるのも馬鹿らしいぐらいの、深呼吸をする。
それから異様なほどにドキドキと鳴り響いている心臓に手を当て、静まれ、と幽香は瞳を閉じて念じた。
残っていた逞しい花壇の花々の事を思い、心を穏やかな方に持って行く。
するとそれに従い、飛び出そうなほどだった心臓の鼓動はやや収まり、じとじとと体中から吹き出ていた汗は、何とか収まる。
それから、権兵衛の水差しとは別に持ってきたコップに注いである水を口に含み、カラカラになった喉を潤した。
そして、深い吐息。
心が平穏になったのを確認し、えいっ、と幽香は権兵衛の布団の中に手を突っ込んだ。

 権兵衛の、体温が感じられる。
それだけで顔に赤みが広がっていって、最初のうちはそれだけでも耐え切れずに部屋を飛び出て頭を冷やさねばならなかったが、何度かの挑戦を経て耐性をつけた幽香には、これぐらいなら何とかなる。
と言っても、時間が経てばそれだけで終わってしまうので、僅かに焦りながら、権兵衛の手を探す。
しばらく布団の中をごそごそと探っていると、ふと、今までよりも高い体温が見つかる。
それと、これまでの何度かの経験を手繰っていくと、不意に、幽香の指先に温かい物が触れた。
思わず飛び上がりそうになってしまう自分を律しながら、恐る恐るその体温を掴み、先の方へと手繰ってゆく。
すると次第に暖かな物は細くなってゆき、ある所でぱっと開けた形になる。
権兵衛の、掌である。
それを悟ると同時、咄嗟に幽香は手の動きを止め、ひゅ、と息を飲み込んだ。
が、ここまでも何回かは来ているのだ。
こんな所で怖気付いてどうする、と目をつむり、布団に入れてない片手を、心臓の鼓動を抑えるかのように、胸の上におく。
そして、ゆっくりと、権兵衛の手首を滑ってゆくようにして、手を権兵衛の掌まで達させ、その指先を絡めた。
ぎゅ、と、軽く握る。
それだけで心臓がはち切れそうになってしまうような、乙女のような自分を、幽香は僅かな戸惑いと共に受け入れた。

 こうして、権兵衛の体温を感じながら、ゆっくりと目を開く。
小さく上下する胸の辺りを通り過ぎ、視線を権兵衛の顔へやる。
別段、権兵衛は強いていう程の美形では無い。
顔は頼りがいを得ようとするにはちょっと丸いし、眉も丸く穏やかな感じである。
鼻も然程高くは無いし、唇も厚さがちょっと足りないかな、とも思う。
けれど、何となく人をほっとさせるような感じがあって、悪くないと言うか、とても素敵だと幽香は思う。

 権兵衛が襲われているのを見て、幽香は咄嗟に権兵衛を助け、気づけば権兵衛を抱きしめていた。
一歩間違えれば権兵衛が失われていたかもしれない、と思うと、胸の奥が切なくなり、涙をも堪えきれなかった。
あの、幽香がである。
何の理由も無くとも他人をいじめ続ける、ちょっとおかしな妖怪の、幽香がである。
それを思うと、幽香は自分が権兵衛の事が大切なのだと認めざるを得なかった。
こんなにも物騒な妖怪の自分を、穏やかにしてくれる権兵衛の事が、心から大切なのだと。
こうやって掌を握っているだけで、不思議なほど穏やかな感情を抱ける自分を見ると、それを再認識できる。
妖怪に花壇を荒らされた直後だと言うのに、権兵衛を見ているだけで口元は自然と緩み、目は細くなり、肩は下がる。
常であれば、下手人を捕まえて、いじめにいじめつくして相手が発狂するまでいじめて、それでようやく憤りの幾らかが晴れる程度であったと言うのに、である。

 勿論、権兵衛を見ていると心がふわふわとした物に包まれ、落ち着かないのも事実である。
とは言えそれは嗜虐性とはかけ離れたもので、穏やさや温和さと同居できる気持ちなのも、幽香は何となく察していた。
であるので、権兵衛の掌を握るのは、例えその体温に顔が思わず赤面してしまうのだとしても、辞めはしない。
ああ、今、私は権兵衛と繋がっているんだ。
そう思うと、全身からしっとりとした汗が吹き出し、瞳は潤み、喉が乾いていく。
と言っても、別段不快ではなく、むしろ何だか、上手く言語化できないが気持ちいいぐらいなので、幽香が権兵衛の掌を離す事は無かった。
のだが。

「かざみ、さん……?」
「――っ!?」

 思わず手を離し、飛び上がってしまう幽香。
ついでにサイドテーブルを倒してしまい、置いてあったコップと水差しを落としてしまう。
どどどど、どうしよう、と思いつつ、何をすればいいのか分からずに幽香はあわあわと掌を宙に漂わせる。
そのうちに、寝ぼけ眼であった権兵衛の目がゆっくりと覚醒してゆき、ふと、目が合った。
どきん、と、心臓が高鳴る。

「……あ、おはようございます」
「お、おはようっ! ちょ、ちょっとこれ倒しちゃったから、その、片付けてくるわねっ!」

 自分でも半分何を言っているのか分からないままに、サイドテーブルを立て直し、落ちたコップと水差しを拾う幽香。
その後ろを、どうしたんだろう、と首を傾げる権兵衛の視線が追っている事に気づきつつ、慌てて幽香は部屋を出て行った。

 台所まで行って、何杯か水を飲んで、頭を冷やすのに数分。
それから、起きたばかりであろう権兵衛も喉が乾いているのではないか、と慌てて権兵衛の寝ている自室まで水を持ってゆき。
そして水を飲み、一息した権兵衛から、こんな言葉があった。
――少し身支度が整ったら、話がある、と。
真剣味のあるその言葉に、幽香はとりあえず頷き、リビングを権兵衛に渡し、己も自室で、権兵衛と過ごしている間にかいてしまった汗を拭いたり、鏡を見てちょっと髪を直したりとした。
それから互いに身支度が整った辺りで、幽香が紅茶を入れ、権兵衛と向き合う形でリビングのテーブルにつく。
そしてしばらく、紅茶を飲んで気を落ち着かせる次第となっていた。

 紅茶を口に含み、僅かに転がし、香りを愉しみながら嚥下する。
同じようにしている権兵衛も、起き抜けと言う事もあって、もう少し頭がハッキリするまで時間を置きたいようである。
なので自然、幽香の心は、これからされるであろう権兵衛の話の内容へと向く事になる。
さて、話とはなんだろうか?
そう思い、首を傾げる幽香であるが、その内容は中々浮かんでこない。
なんといっても、今の所生活に問題は目立って無く、花壇が壊されたのも問題と言えば問題だが、それも改まって話をするまでもなく、手を尽くして再生できるだけはやってみるつもりである。
とすると、権兵衛が力不足を感じたのであろうか?
いや、それも違う、と、内心で幽香は頭を振った。
幽香の目から権兵衛の霊力の扱いを見たのはほんの僅かだが、何処で覚えたのやら明らかに系統だった術の扱いをしており、成長にも目処が立っているであろうと推測できる。
はて、と一向に見えてこない権兵衛の話の内容に、ふと、幽香はメディスンの言っていた事を思い出す。

 好き。
私は、権兵衛の事が好き。
その言葉を思い出すと、不思議と胸が熱くなり、まるで権兵衛に触れているかのようなふわふわとした気持ちになるから、不思議である。
幽香は、権兵衛が大切だと言う事は自覚したが、好き、とまで行っているかどうかは、自分でも分からなかった。
何せ幽香は、生まれてこの方こんな感じの性格である、異性を恋愛と言う感情で見た事は無いので、判別がつかないのである。
だけど。
もしその通りであるならば素敵だな、と思うし、それに、それに、もしかしたら。
権兵衛の話と言うのも、そんな事なのではないだろうか。

 かぁああぁあ、と、自分の顔が赤面してゆくのを、幽香は感じた。
いや、勿論、それが大した理由のない、自分の妄想に過ぎない事を、幽香は分かっている。
でも、先の権兵衛への台詞。
とっても大切、と言うのは、見方を変えれば、告白の言葉とも取れなくもない訳で。
そう権兵衛が受け取ったのならば、当然、返事を考えるのも自然な話なのであって。

「~~っ」

 己を抱きしめ、悶えたい衝動に抗うのに、幽香は必死になった。
膝の上に置いていた両手を下におろし、血が滲まんばかりに握り締め、顔を俯かせ、ふるふると体を震わせる。
大きく息を吸って吐き、どうにか自身を落ち着かせた。
違う、これはただの自分の妄想なのだ。
だから実現するかは分からないし、今考える必要も無いのだ。
だって、返事は最初から決まっているのだし、って違うっ。
そんな風に思考がズレ出す頭をぶんぶんと振り、どうにか桃色の妄想を頭から追い出す幽香。

「えーと、話、始めて大丈夫でしょうか?」

 そんな幽香に、おずおずと権兵衛が切り出す。
はっと気づいた幽香は、慌てて赤面しつつ、口を開いた。

「だだ、大丈夫よ。ほら、言ってごらんなさい?」

 言ってから、紅茶と共に恥ずかしさを喉の奥まで流しこむ。
何にしても、あの優しい権兵衛の話である。
この穏やかで心優しくなれる生活を続ける為の話である事には違いなく、故に幽香はどんな話が来るのか検討がついていなくても、安心して聞いていられた。
わざわざ自分から、誰かをいじめに行かずに済んで。
驚くほど穏やかな気持ちで、それでいて権兵衛の事を思うと、ふわふわした気持ちになったりして。
こんな生活が永遠に続くと、幽香は確信していたのであるのだから。
だから、促された権兵衛の言葉を、静かに、黙って幽香は聞いていた。

「えっと、この前も言いましたけど。俺は、今まで受けた恩を返す為に生きてきたんですけど、家が無くなっちゃったりして、あんまりにも何をすればいいのか分からなくて、もう妖怪に喰われてしまいたい、なんて思っちゃってました」
「……うん」

 頷く。
家が無くなった、と言うのは初耳だが、権兵衛が自殺志願者であった事は、幽香も初対面から知っている事であった。
当然、幽香は権兵衛のそんな部分が心配ではあった。
勿論自分の見ている前では死なせるつもりなどもう無かったが、それでも。
しかし。

「でも、その、それって、俺が不貞腐れていた、だけだったんですよね。何をすればいいのか、どんなに考えても分からなくって」
「………………」
「でも、その、風見さんに大切って言っていただいて。人の暖かさが、どれほど大きい物か、もう一度思い知って。みんなに、改めて恩を返していこう、って思えるようになったんです」

 との事である。
先日幽香が権兵衛を抱きしめ聞いてやった事の焼き直しだが、権兵衛は幽香の言葉で、生きる気力を持ち直したのだと言う。
それを思うと、幽香の口元が自然に緩んできてしまう。
元々自分は権兵衛からこの穏やかになれる気持ちを貰っていて、権兵衛を大切に思っていた。
それと同じように権兵衛にしてやれる事があり、その事で権兵衛が自分を大切に思ってくれるのならば、それはとても素敵なことだと幽香は思うのだ。

「だから。その、幽香さんにも恩返しをしたい、って思って」
「……うん」
「それには、このままじゃあ、ダメだって思って」

 あれ? と、幽香は内心で首をかしげた。
何か。
何かが、違うような気がする。

「だって、このままじゃあ、俺は幽香さんにおんぶ抱っこのままです。一応、俺には霊力もあるし、持ち歩いていたから、金子も多少はあります。
家を建てるにはちょっと足りないでしょうけれど、数日も練習すれば、雨露を防ぐ結界程度は張れるようになるでしょうし。
それに、冬の間の食材も、自然の物を集めたり、直接里には行けないでしょうけれど、誰か人を頼って買い物をしてきてもらう事もして、厳しくはありますけれど、それでどうにかなりそうな感じですし」
「あ……うん」

 思わず、呆然と頷く幽香。
成程、確かに家の周りに中々の結界を作っていた権兵衛である、温度や雨を遮る結界も、時間をかけて張ると言う前提ならば、然程努力を必要とせずに習得できるだろう。
それでなくとも、管理しきれずに放置された山小屋が、人里外れにいくつかあると聞いたことがある。
それらを利用すれば、冬を乗り切る事も不可能では無いだろう。
食材についても、同じく。
妖怪と対峙できる権兵衛は、里人の手の届かない場所で秋の実りを独占する事ができ、それを上手く活用すれば、この冬を乗り切る事も不可能ではない。
それはそうだけれども。
それは、そうなんだけれども。
何でそんな事を言うのか、理解できない。
意味が、分からない。

「その、霊力を使い切ったばかりですし、まだ数日はお世話になりたいんですけれど。
そのうち、ここを、出てゆきたいと思います」
「………………」

 意味が、分からない。
呆然とする幽香の視線に気づかず、権兵衛は粛々とした様子で続ける。

「その、誤解させてしまうと申し訳ないのですが、決して、風見さんと一緒の生活が、嫌になった、と言う訳じゃあないんです。
ただ、こうやって一方的にお世話をしてもらう形と言うのは、矢張り、なんていうか、健全じゃあない。
生活の細かな所では風見さんに恩を返していけるけれど、それは今こうやってお世話してもらっているのに対する物であって、決して生きる気力を分けてもらうような、大きな恩を返せる物じゃあないんです。
そして、俺は、恩知らずには、なりたくない。
俺に暖かな物をくれたみんなに、それを返せるような、人間になりたいのです。
思えば永遠亭の時も、傷が治ったらこう言い出すつもりでしたし」

 そういえばまだ完治はしていないんだよな、とぼやく権兵衛。
その口から出てくる言葉の意味が、少しづつ咀嚼され、幽香の中に浸透してゆく。
出て行く。
出て、行く。
権兵衛が、居なくなる。
足元が崩れ、無くなってゆくような感覚を、幽香は味わっていた。
頭が釣り上げられているかのように、四肢や尻が椅子や床についている感覚が無く、おぼつかない。
軽い目眩がする。
紅茶のティーカップを握る手が震え、無意識に力が入り、ティーカップに罅を入れた。
かたかたと震える手で紅茶を飲み込み、それでも動揺を押し流せず、僅かに震える声で言う。

「ここを、出て行くと、そう、言うのね?」
「――はい。そうです」

 真剣な顔で、そう答える権兵衛の顔が見えて。
幽香は、視界が赤く染まるのを感じた。
顔から表情と言う表情が抜け落ちてゆく。
代わりに、愉悦のような物が顔へと湧き上がり、広がっていった。
胸の奥から、どん、と湧き上がる衝動に身を任せ、幽香は静かに椅子から立ち上がる。
テーブルを回って、権兵衛の側に近づく。
一瞬、暴力を振るわれるのでは、とでも思ったのだろうか、固い表情をした権兵衛であったが、幽香の浮かべる笑みを見て、怪訝そうな表情になる。
ぽん、と、権兵衛の肩に、幽香は手を載せた。
そしてその、笑みを浮かべた表情を、権兵衛に向ける。
すると安心したのだろう、安堵の笑みのようなものを、権兵衛は浮かべた。
うん、と内心で幽香は頷く。
笑みは大事だ。
何せ笑みが無ければ、その表情が変わる所は見られず、絶望との落差も少しもなくなってしまうのだから。
だから満面の笑みを浮かべたまま。
幽香は、権兵衛の肩を握りつぶした。

「っぎゃあぁあああああぁあぁっ!?」

 天使の歌声のような、心地良い絶叫が響き渡る。
成程、流石は権兵衛である、その絶叫すらも天上の音楽のように美しく、思わず幽香は頬を染めてしまう。
それにこの、肉ごと骨を圧し砕いた感覚も、常よりも圧倒的に扇情的だ。
肉をつかむ、皮と内側の肉がうねる生々しい感覚から、力を込めるとすぐに、奥にある骨の硬さと軟骨の柔らかさの入り交じった、妖艶な感覚へと入れ替わる。
それを圧し砕くのは、まるで白い紙を墨で黒く染めるような、可憐で清廉な物を粉々に打ち砕くような、圧倒的快感だった。
掌には未だ、権兵衛の血肉がこびりついている。
それを剥がさずにそのまま口元まで運び、唇の間から差し出した舌で、舐めとる。
あまりの快感に、腰が砕けるかと思った。
天に昇るような、何とも例えがたい権兵衛の血潮の味に、はぁぁ、と、嬉しさのあまり幽香はため息を漏らす。

「ねぇ、ごんべえ」
「ああぁああぁっ、ぐ、えぇっ!」

 聞こえていない様子で、肩を押さえて椅子の上で転がり落ちんばかりの様子で暴れる権兵衛に、静かに幽香は話しかけた。
そして、肩を押さえていない、だらりと垂れ下がった側の権兵衛の手を、ゆっくりと取る。
先ほど布団の中でそうしたように、極上の絹に触れるような繊細さで、指を絡める。
少しの間そうしてから、幽香は権兵衛の人差し指に、両手を集めた。

「だめじゃない、そんなこと言っちゃあ」

 そして権兵衛の指を折った。

「ぐぎゃあぁああぁっ!?」

 再び天上の悲鳴を上げる権兵衛に、うっとりとした表情で、幽香は次の中指に両手を集める。
この指を折ると言うのも、こりっとした硬軟入り交じった感覚が何とも言えず、快感である。
胸の奥が熱くなり、全身から汗が吹き出し、肌が湿ってゆくのを感じながら、妖艶な笑みを浮かべ、幽香は続ける。

「さいしょに言ったでしょ? ここから逃げ出そうと思ったら、その時は……って」

 そして権兵衛の中指も折った。

「だめなのよ、ごんべえ」

 薬指も折った。

「ごんべえは、わたしのものなのよ。それを、おしえてあげなくちゃ、ね」

 小指を折って、親指も折る。
一気に折ったら、痛みが限界を超えたのだろうか、激しくもがく権兵衛は椅子から転がり落ち、床に体を打つ。
口から血の混じった泡を吐き、限界まで目を見開き絶叫する。
それを追って、幽香は権兵衛の上を跨ぎ、それから膝を折る。
ちゃんとスカートをお尻にひくようにして、権兵衛の上に跨った。
こうすると、権兵衛の上半身がよく見える上に、彼の動きを抑制できて、一石二鳥である。
男性の上に跨ると言うのは、ちょっとはたしなくて、その分顔が赤くなってしまう幽香なのであったが。

「ねぇ、だからごんべえ」

 腫れ上がった肩に触れる。
患部が持った熱を感じると同時、跳ね上がろうとする権兵衛の動きを感じ、静かに幽香は頬を染めた。
それから幽香の手はゆっくりと権兵衛の腕を降りてゆくように触れてゆき、最後に五指全てが折れ、ありえない方向へ曲がっている権兵衛の手に絡んだ。
再び、痛みに呻き、跳ね上がろうとする権兵衛の動き。
下半身を介して伝わってくる振動に、思わず顔を上気させながら、幽香は、折れて不気味に腫れ上がった権兵衛の五指に、己の指を絡めた。

「いろんなこと、おしえてあげるからね」

 折れた指の血の溜まり腫れ上がった部分の感触も、これまた例えようがなく心地良い物である。
それに思わず満面の笑みを浮かべながら、そう言って、幽香は残る片手で、権兵衛に触れる。
伝わってくる体温に頬を染めながら、幽香は、己の嗜虐性の全てを解放した。



   ***



 はっ、と、不意に幽香は正気を取り戻した。
それは果たして、幽香の嗜虐性が全てで尽くしてしまったからなのか、それとも単に狂気に振れ幅みたいなものがあって、急に正気側に戻ってきただけなのか、それは分からなかったけれども、兎も角。
跨っている下には、原型を半ば失いかけ、真紅に染まった権兵衛があった。
自分の意志とは無関係に、幽香の体がぶるぶると震えてくる。
違う。
違う、私じゃない、私はそんな事したくなんてなかった――。
そんな事を内心でつぶやきながら、ぶるぶると震えながら両手を顔の前に持ってくる。
それは権兵衛の血でグチャグチャに濡れており、それは明らかに下手人を幽香と示していて。

「ち、違うの。わ、私、ただ、権兵衛が離れていくのが悲しくって。で、でも、だからって、こんな、こんな事するつもりじゃ――」

 返事はない。
代わりに、血の泡がぷくぷくと音をたてるだけである。

「ここから出て生活するのだって、そ、その、私、応援するつもりだった。それは、も、勿論、寂しいけど、権兵衛の為だからって――」

 返事はない。
ただ椅子からピチャピチャと血の零れ落ちる音が返ってくるだけである。

「こ、こんなつもりじゃなかったのよ! し、信じて、権兵衛。わ、私、貴方の事を傷つけたりしようとなんか、少しも思って――」

 返事はない。
ただ、無慈悲に幽香の声が反響するだけである。

「ご、権兵衛? もしかして、死――」

 その先にある言葉を飲み込み、幽香は恐慌に囚われそうになった。
ぶるぶると頭を振り、その考えを頭から追いだして、権兵衛の口元に耳をやる。
ひゅー、ひゅー、と言う、薄いが確かな、呼吸音。
ほっ、と安堵の色に顔色を変え、顔を離すと、丁度権兵衛が腫れ上がった瞼の間から、薄目をあけている所だった。

「よ、良かった、権兵衛。も、もしかしたら、し、死んじゃったんじゃないかって思って……。良かった、本当に良かった……」

 言いつつ、もし権兵衛が死んでいたらと言う余りにも恐ろしい想像に、幽香の目から涙が溢れる。
傷ついた権兵衛をこれ以上刺激しないよう、優しい手つきで権兵衛に抱きつき、頭を撫でた。
それに反応し、ぴく、と何度か目を開け閉めする権兵衛。

「あのね、権兵衛、そ、その、ううっ、本当に、私、何もする気は無かったの。一発だって、殴るつもりなんて無かった。ましてや、こ、こんないたぶるような事なんて――」

 言っていて、なんて信憑性の無い事だろう、と幽香は思った。
権兵衛には暴力こそ振るっていなかったとは言え、あの妖怪どもを嬲っていた所が初対面である。
それを思うと、権兵衛をいたぶるつもりなど無かったと言う事は、毛程も信じられない事だろう。
何せ、幽香自身、こんなにも自分が穏やかになれるなんて、権兵衛と出会うまでは信じられなかったのである。
当然信じられないのが道理であり、普通であると、言うのに。

「あ――」

 こくん、と。
僅かにだが、権兵衛が頷くのを、幽香は感じた。
そればかりか、ゆっくりと、本当にゆっくりとだが、曲がってはいけない方向に曲がっている腕を持ち上げて。
権兵衛は、折れている指で幽香の頭を、少しだけ撫でた。
血が髪に絡みつくけれど、そんな事気にならないほど、その手は暖かくて。

「ごん、べえ――」

 ありがとう、と。
涙を零しながらそう言おうとした、その瞬間であった。
ぱたん、と、権兵衛の手が地に落ちた。
首から力が抜け、瞼が閉じた。

「――え?」

 疑問詞をあげるも、今度ばかりは返事はない。
僅かに揺さぶってみるも、反応すらなく。
慌てて息を確かめてみれば、そちらはあるのだが、顔のうち鮮血で染まっていない部分は、真っ青で。
まるで、と、幽香は思ってしまう。
まるで、死にかけているかのようで――。

「い、嫌だ! 死んじゃ嫌よ、権兵衛っ!」

 思わず叫ぶものの、だからと言ってどうにもならない事は、権兵衛を嬲った幽香自身が一番分かっている。
ならば治療か、とも思うものの、長らく怪我とはご無沙汰な幽香は救急箱など持っておらず、例え持っていたとしても、今の権兵衛はそう簡単には治せない。
ならば医者にか、とも思うものの、幽香は人間の医者など一人も知らず、数年前に幻想入りしてきたと言う迷いの竹林の医者も知古ではなく、そも、永遠亭の場所すら知らない。

「嫌だ……! 権兵衛、権兵衛、権兵衛っ!」

 動転して叫ぶ事しかできないままに、ただ時間だけが過ぎてゆく。
いっそ行ったら見つけられるかもしれない、と賭けて、迷いの竹林にでも行ってみるか?
いや、幽香は妖怪として強力な力こそあるものの、そういった感などについては普通の鋭さしかないし、そも、幽香自身悪名高い妖怪である。
もしも喧嘩を吹っかけに行ったと思われれば、権兵衛の命は持たない。
感。
感――。
はっと、幽香の頭の中に思い浮かぶ物があった。
幽香の数少ない知古である、紅白巫女。
博麗霊夢。
あれであれば傷ついた人間を見捨てる事はないし、やたら妖怪に好かれる質だから、永遠亭の医者とやらとも知り合いであるのではないか。
そう思うと居ても立ってもいられず、幽香は権兵衛を担ぎ、急ぎ外に飛び出す。

「権兵衛、もうちょっとだけ頑張ってね、権兵衛、あの巫女ならきっと何とかしてくれるだろうから!」

 結界で風の影響を避けつつ、全速で幽香は飛ぶ。
幸い、権兵衛の様態はそう悪くないようで、体温が急に下がる事も無いまま、暫く飛ぶと、博麗神社が見えてきた。
道中、権兵衛に声を掛け続けてきたからか、喉が痛いが、そんな事は言ってられずに、幽香は叫ぶ。

「権兵衛、もう神社が見えてきたから。もうすぐよ、大丈夫よ!」

 そして幽香は、博麗神社の境内に降り立った。
ゆっくりと権兵衛をその場に下ろしつつ、軽く辺りを見回し、霊夢が見当たらないのを見て、声を上げようとする。
上げようとして……一瞬、躊躇してしまった。
ここで声をあげて、自分はどうするのだろうか。
どうせあの感の鋭い巫女である、声をあげたところで、権兵衛が見つかるまで、彼の様態が変わる程の差はあるまい。
問題は、それからどうするかである。
当然、此処に来るまでは権兵衛が気がつくまで付き添うつもりで来た幽香なのだが。
不意に、こんな悪寒に襲われた。

 これでもし、権兵衛に嫌われていたら――自分はどうすればいいのだろうか、と。

 そう思ったが最後、石にでもなったかのように、幽香は動き出せなかった。
確かに先程は、権兵衛が幽香の言い訳に頷き、肯定してくれたかのように思えた。
だが、ただでさえ、意識が朦朧としていただろう時の事である。
その上、加害者たる幽香を刺激しない為、つまりこれ以上傷を負わない為に、幽香に同意してみせたのかもしれない。
一度そう思うと、その恐れは幽香の奥底にこびり付いて、離れなかった。
思わず権兵衛の罵声を想像してしまうと、恐ろしくて恐ろしくて、ぶるぶると体が震えだし、己を抱きしめなければ立つことすらもままならない。
結局、どうするのか決めれずに一人ぶるぶると震えているうちに、幾つか足音が聞こえてきて。
反射的に、幽香はその場から飛び立っていた。

「はぁ、はぁ……」

 暫く無心で飛び続け、気づけば、幽香は家までたどり着いていた。
ゆっくりと地面へ降り立ち、ふらふらとした足取りで、家の壁へと縋りつくように体重を預ける。
自然と涙が溢れてきて、ぽたぽたと地面に落ち、幾つか染みを作った。
確かに、権兵衛に嫌われていたら――と思うと、怖くて仕方が無い。
想像してみる。
冷たい視線で自分を見る権兵衛。
怒りをあらわに、罵声を浴びせる権兵衛。
――己に殴りかかってくる、権兵衛。
どれもが恐ろしくて仕方がなく、がくがくと震える足に、ついに幽香は土に尻をついた。
とうとう首を支える力すらも無くなってきて、天を仰ぎ、頭の体重も壁に預ける。

「違う、そんな事、無い、筈……」

 何とか開いた唇も力はなく、声は尻すぼみだった。
確かに権兵衛は幽香の言葉に頷いてみせたが、ほんの僅かでしか無かったし、単に縦に揺れただけなのを勘違いしてしまったのかもしれない。
頭を撫でようとしてくれたが、それは殴ろうとしてあまりの力の無さに失敗してしまっただけなのかもしれない。
そう思うと、権兵衛に嫌われているかもしれない、と言う現実を否定する言葉は、幽香の中から湧いてでなくなってきた。

「ゆ、許してください……お願いします……」

 そしてなにより、己自身が情けなかった。
本当に権兵衛の事を想っているのならば、なにより権兵衛が心配で、あの場を離れる筈が無かったのだ。
それなのに思わず逃げ出してしまった自分が、本当に惨めで惨めで、顔中から涙や鼻水がボタボタと溢れでてくる。
私は、なんて惨めなんだ。
私は、なんて愚かなんだ。
そう思ううちに、ふと、幽香は思いついた。
思いついて、しまった。
権兵衛に、嫌われるとする。
となると、当然の帰結として。

 もしかして私は、二度と権兵衛と会えなくなるのではないだろうか?

 生来最大級の悪寒が、幽香を襲った。
思わず自らを抱きしめ、それでも震えは止まらず、全身ががくがくと震える。
すうっと四肢から順に体温が無くなってゆき、体を掴む、その指の感覚ですら怪しくなる。
権兵衛に嫌われてもいい。
罵声を浴びせられてもいい。
殴られたって、構わない。
でも、権兵衛と二度と会わない事だけは、耐えられそうになかった。

「ご、ごめんなさいっ! ううっ、ごめんなさい、ごめんなざい、うっ、ごめんなざいっ!」

 鼻声でしゃくりあげながら叫ぶ幽香。
しかし同時、その希望が叶わないであろう事を、他ならぬ幽香自身が承知していた。
何せ幽香は、権兵衛を徹底的にいじめぬいたのである。
それも、もしかしたら死ぬんじゃないかと思ってしまうぐらいに。
多分、多くの人妖をいじめてきた幽香の目から見ると、生き残れはするだろうが、もしかしたら障害が残るかもしれないぐらいに。
そればかりか、幽香は言い訳をしてたが、その言い訳すらも信憑性が無い。
何せ権兵衛を大切と言う当人が、その権兵衛よりも権兵衛に嫌われる空想を恐れて、大怪我をした権兵衛の側を離れてしまったのである。
例え先の言い訳を権兵衛が信じていたとしても、再び幽香を嫌うのに十分な理由であった。

「な、なんでも、じまず、がらっ! ゆ、ゆるじでぐださいっ!」

 決死の願いを込めて、空へ向けて幽香は叫ぶ。
しかし、喉を痛めながら叫んだその言葉には、当然の如く返事は無い。
ただただ、空虚な沈黙がその場に横たわるばかりだった。
自然、力が抜けて、視線が下がってゆく。
丁度その先には、権兵衛が世話をしていた、小さく白い花が群生していた。
涙で滲む視界の中でも、その白い花弁は緑の背景に鮮烈に浮いてみせて。

「あ……」

 ふと、幽香は何時しか会った閻魔の言葉を思い出す。
紫の彼岸桜の下、休憩したいだけと言う幽香に、閻魔は言った。
こんな所で休んだらおかしくなってしまう、いや、貴方は少しおかしくなっているのかもしれない、と。
それから。
桜は、本当は白色になりたいと、思っている、とも。

 改めて、幽香は思い知る。
私も同じように、白色になりたかったのだ。
温和で優しく、穏やかになりたかったのだ、と。
それを思うと、それを成し遂げてくれた権兵衛が、どれほど自分にとって尊い存在だったのか分かって。
そしてそれを自ら引き裂いてしまった自分が、どれほど愚かな存在だったのか身に染みて。
新たに、幽香の目尻から、大粒の涙が零れ落ちる。
完全に体中が脱力し、気力も果て、ただただ呆然と、しかし残る力全てを振り絞り、幽香はこう願うしか無かった。

「ぜったいに、わたしを見捨てないでください、権兵衛」

 それがどれほど難しく、どうしようもない願いだと知りつつも。
そんな幽香の前で、瑞々しく花弁を開いた小さい白い花は、その鮮明な白を見せつけるかのように、ゆらゆらと風に揺れていた。
何時までも。
何時までも。




あとがき
二分割と言いつつ、1の二倍の分量になりました。長い。
次回以降博麗神社編ですが、霊夢のターンと言う訳ではありません。



[21873] 博麗神社1
Name: アルパカ度数38%◆2d8181b0 ID:099e8620
Date: 2010/12/29 01:37


 秋の日差しの中。
紅葉の朱と黄の葉の間から、ぽろぽろと枯葉が舞い落ちる。
風に吹かれて地面の枯葉が舞い上がるのを眺めながら、博麗霊夢は神社の縁側でお茶を飲んでいた。
その隣には、担いできた薬箱を隣に置いて、何やら作業をしている鈴仙が居た。

「全く、神社に置き薬なんているのかしら」
「転ばぬ先の杖よ」
「飛ばない豚はただの豚。使わない杖なんて、ただの樹の枝と変わらないわ」
「つまり食料って事かしら」
「なんて言っても、一昨年は月兎……じゃなくって、狐狸を助けるのに使ったんだっけ。やっぱり必要よね」
「食べれないって事。残念ね」

 と言う事で、ため息混じりに鈴仙は、置き薬のうち減った物や、期限の切れた物を入れ替える。
一応博麗の巫女である霊夢は怪我をしていれば人でも妖怪でも助けるし、人が妖怪に襲われていれば、それが外来人でも助ける。
その際傷を負っていれば、その治療ぐらいはする為、薬を常備してあるのだ。
実際、いくらか薬が減っているのを見るに、ある程度人助けを行っているのだろう。
普段の所を見ているとそうは思えないんだけどなぁ、と思いつつ、淡々と薬を入れ替える鈴仙。

 権兵衛が永遠亭を去ってすぐ、鈴仙は権兵衛の観察をしようとして、権兵衛の家が壊されていたのを知った。
それ以降、里をどうするかは置いておいて、兎に角空き時間を権兵衛を探してきたのだが、見つからないままである。
輝夜と永琳がてゐを使って指示し、妖怪兎達にも探させているが、矢張り見つからない。
そんな訳で最近焦れている鈴仙なのだが、人手は十分となると、矢張り普段の作業を滞らせる訳にも行かず。
恐らく権兵衛の家を壊したのであろう里人になど薬をやる価値は無い、と鈴仙は考えていたが、永琳は別の考えがあるようで、少し薬の種類を変えるだけで、そのまま置き薬の販売を続けるよう言い渡した。
となると、鈴仙としては、従わざるを得ない。
時間が許す限り権兵衛を探したい衝動を押さえて、歯がゆい思いをしつつ、永琳の助手や置き薬の販売を続けている鈴仙なのであった。

 矢張り権兵衛の事を思うと、温かい気持ちになる反面、心配で仕方なくて、切ない気分になる。
そんな切ない気分でため息をつきつつ、鈴仙が置き薬を入れ替えおえて、さて、そろそろここを出るか、という、そんな折だった。
どすん、と何か重い物が落ちる音がした。
ぴくり、と二人して動作を止める。

「今の、何の音かしら」
「……裏、かしらね。なんか、早く見てこないとまずい気がするわ。行くわよ」

 お茶を置いて立ち上がる霊夢の姿に、続いて鈴仙も立ち上がり、その背を追いかける。
何せこの巫女の勘と言う物は、勘だけであらゆる異変の首謀者を見つけ、懲らしめてきた実績ある凄まじい物なのだ。
その彼女のまずい気がする、と言うのは大抵一刻一秒を争うようなまずさである。
慌てて霊夢を追いかけ、角を曲がると、そこには鈴仙が想像だにしなかった光景があった。

「――ご、権兵衛……さん?」

 それは、奇しくも紅白に彩られた光景だった。
血にてらてらと濡れた肌は不気味に膨れ上がり、いくらかの場所では肉の赤が見え隠れしており、それと同じぐらい骨の白がちらちらと覗いている。
呼吸はしているのだろう、上下する胸と、比較的無事な下半身が、それがまだ生きているのだと辛うじて示している。
倍に膨れ上がろうかと言う顔は権兵衛の識別を難しくしていたが、それでも毎日穴が開くほど権兵衛を見てきた鈴仙は権兵衛の骨格を含め、肉体のほぼ全てを把握している。
あぁ、これは権兵衛さんの足だ。
あぁ、これは権兵衛さんの腕だ。
あぁ、これは権兵衛さんの、顔だ、唇だ、耳だ、鼻だ、鎖骨だ、胸だ、乳首だ、ヘソだ、尻だ。
一瞬、現実逃避の思考が目の前の肉塊と権兵衛を結びつけるのを拒否しようとするが、瞼の裏に焼付かんばかりに見つめてきた権兵衛の姿が、それを拒絶し、これを権兵衛と認める。

「権兵衛さんっ!!」
「って、そっとやらないと駄目でしょっ!」

 絶叫し、訳もわからないままに抱きつこうとした鈴仙を、辛うじて霊夢が止めた。
刹那暴れようとした鈴仙だが、霊夢の言葉をどうにか飲み込み、権兵衛に駆け寄り、その変わり果てた体を触診するに留める。
ざっと見るに、幸い、臓器が破裂したり、折れた骨が突き刺さったりはしていないようだ。
これなら自分でも何とかしようと思えば何とかなる程度だと思いつつも、習慣で権兵衛を結界で包み、状態を維持したまま運ぼうとして、ふと鈴仙は動きを止めた。
待て。
このまま権兵衛を永遠亭に連れて行ったら、どうなるだろうか?
鈴仙の脳裏に、憎悪に満ちた永琳の顔が蘇る。
権兵衛の失踪を告げた時、輝夜は焦りを顕に永遠亭を飛び出そうとして止められながら暴れ、てゐはストンと表情を抜け落としたようになって凄まじい速度で妖怪兎に指示を出し始めた。
そこで永琳はどうだったかと言うと、今までにない程の憎悪で塗りつぶされた、般若のような表情となったのだ。
そのあと輝夜を留めて指示を出す姿こそ理性的であったが、その表情は溢れんばかりの激情に満ちていて。
鈴仙の目に、それは逃げ出した憎い解剖材料への憎悪にしか見えなかった。
だから、思うのだ。
このまま権兵衛を永遠亭に連れてゆけば、今度こそ輝夜の知らぬうちに、権兵衛は解剖されてしまうのではないだろうか。
輝夜も頼りになるかと言うと、権兵衛をいきなり殴り、永遠亭を追い出したのもあの女なのだし。
そう思うと気が気でなく、権兵衛を運ぼうと言う手を、思わず止めてしまう鈴仙。
僅かに、息を吐く。
狂気の瞳で四方八方を見やり、術で監視されていない事を確かめる。

「あれ? どうしたのよ、早く永遠亭に連れて行かないと……」
「お願い、霊夢っ! 権兵衛さんを、ここで治療させてっ!」

 故に。
鈴仙は、今度こそ権兵衛を助ける勇気を出そうと、霊夢へ切り出した。

「詳しい訳は私にも分からないんだけど、今の永遠亭は権兵衛さんにとって危険なの。でも、中立地帯の此処なら、手を出す事はできない。だからお願い、権兵衛さんをここで匿ってっ!」

 永琳への恐怖に震えながら叫ぶ鈴仙に、眉間にシワを寄せる霊夢。
僅かに考える様子を見せると、嘆息し、諦めたように告げる。

「確かに、この権兵衛さんって人を永遠亭にやるのは……嫌な予感がするわね。匿うのも嫌な予感がするけど、まだマシかなぁ。仕方ない、匿ってあげるわ」
「あ、ありがとう、霊夢っ! 恩に着るわっ!」
「いーから治療してやりなさいよ。あ、なるべく家を汚さないようにやりなさいよ」
「うん、分かったわっ!」

 霊夢の言を右から左に流し、急いで権兵衛を浮かし、神社の中へと連れてゆく。
幸いにして、これから権兵衛を探しにゆくつもりで、その際もしもの事を考えて一通りの治療用具は持ち歩いて来た。
種々のメスやハサミ、ピンセット、糸などは、足りない物もあるものの、霊力を用いて再現できる物ばかりである。
権兵衛を運び、室内に結界を張り無菌状態にしつつ、ふと鈴仙は思い出す。
そういえば権兵衛との初対面も、永遠亭ではなく里の中で、半人半霊に誤って斬られたのを、こうやって鈴仙一人で治す時であった。
そう思うと、もう一度権兵衛と出会えたように思え、僅かに場違いな笑みを浮かべ、それから鈴仙は治療を開始した。



   ***



 薄い午睡のような感覚。
覚醒と睡眠の間。
その境界線上のような、曖昧模糊とした場所に、俺の精神は漂っていた。
何か確りとした言葉を心の奥底から拾い上げ、それについて想おうとするものの、それは既に曖昧な物となって掴み様がなくなっていて、何とも言いがたい物になっている。
かと思えば、急に、ピントを合わせたかの如くぼんやりとしていた物が明確になり、それについて殆ど不随意に感情がふわりと浮かび上がるのだが、しかしやはり、それもすぐに輪郭を無くし、何とも言えなくなり。
そんな事を繰り返しながら、俺は、まるでコーヒーに入れられたミルクのように、確かにそこにある事は変わらないのだけれど、拡散し、輪郭を無くし、ぼんやりとしてゆく。
それは、さながら。
境界を無くしてゆくような。

 しかしそれも暫くすると、確りとした、形ある考えが浮かんでくるようになり、曖昧さが薄れてゆく次第となる。
そんな折でもやはり曖昧なままで、よく分からない、何とも言いがたい物が見えて、それは何と言うか、一言で言えば、目玉だった。
黒目と虹彩を黒縁が覆い、更にその周りを血走った白目が覆い、そして上下の瞼がそれを覆い隠す。
そしてそこからはぴょこんと睫毛が軽いカールをかけて上下に巻かれており、その目玉の輪郭をはっきりとしてみせていて。
目玉。
目玉。
目玉。
幾百幾千幾万もの、目玉。
幾つあるのか数えるのも馬鹿らしいぐらいの量の目玉が俺の全てを覆っており、上も下も右も左も、何処も彼処も目玉ばかり。
ふと、俺は、あぁ、これは赤子の目玉なのだな、と思う。
顔を墨で塗りつぶし、口も耳も糸で閉じられた赤子の生首が、ただただじいっと目玉だけをこちらへ向けているのだ。
それが幾百幾千幾万と犇めき合っており、空間に対して過剰に存在する為、互いにぎゅうぎゅうと押し潰し合い、だから本来薄目な筈の赤子の目玉は、ギョロリと見開いていたり、今にも閉じそうだったり、気まぐれに開いたり閉じたりと、色々になっているのだ。

 ただ一つ、それらの目玉、全てが俺を見ていると言う事だけが、確か。
まるで視線が物理的に存在するかのように確かに、俺は全ての瞳が俺へ向いている事が理解できる。
そのうちぼんやりと視線が眼に見えるようになり、色が付き、その色は紫色だった。
紫色の、どろりとした何かだった。
それが端から俺に突き刺さるのが見えて、それなら視界は紫色一色に染まる筈なのに、不思議と赤子の無数の目玉は視界に入っている。
それは紫色が透過されていると言うより、二重に重なって見えると言ったほうがしっくり来る、奇妙な感じであった。

 そのうち、ぎりぎり、ぎりぎり、と言う音が聞こえる。
無数の音源から、ぎりぎり、ぎりぎり。
何かをこすり合わせるような音で、ぎりぎり、ぎりぎり。
一体何の音だろう、と辺りを見回して、俺は悟る。
この音は、無数の赤子達の、歯ぎしりの音なのだ。
糸で口を縛られて、言葉を出す事が出来ず、だからせめてもの無言の言葉として、ぎりぎり、ぎりぎり、と歯ぎしりをしているのだ。

 不快だった。
しかしだからといって、歯ぎしりの音が不快なのだと分かっても、それが曖昧な事曖昧な事、そう思っていると同時その事実が霧散してゆき、掴みようのない事実になり、そして再びふとした事でその事に気づく。
そんな事を繰り返しても不快さは募るばかりで、どうしようと思ってもどうしようもなく、何一つできないまま漂っていると。
不意に、視界に白い物が入ってきた。

 初めは、風見さんの所で世話した小さい白い花の花弁かと思った。
しかしすぐにどうやら違うと思い、確かめようと手を伸ばすと、それに合わせて白も形を変え、俺の掌へとすっと伸びてくる。
吃驚して手を引いてしまいそうになる自分と、これは安心できる物だと不思議な確信を持った自分がいて、結局俺は、何もしないままその白が俺の手を掴み、指の間に絡まってゆくに任せる。
白は、貴人が付けるような、長い手袋であった。
手袋とその中身は、俺の手を掴み、そっと優しげな力で引き上げる。
釣られて、俺自身もまた、引き上げられていって。

「――あっ」

 ぱちん、と。
目が覚めた。
此処一月程、都合何回目になるのか忘れてしまった、知らない天井が眼に入る。
はてさて、今度は俺は一体何処に居るのだろう、と思いつつ、起き上がろうとして。

「いづっ!?」

 痛みのあまり、再び床に戻る。
全身を覆う、我慢しようがないタイプの痛みだった。
また俺は怪我をしたのか、懲りないものだなぁ、とぼんやりした頭で思いつつ、ふと、起き上がる拍子に感じた視線の方へ目をやる。
目が合う。
視線を辿った先には、呆然とした顔で、俺の事を見つめる慧音さんが居て。

「よ、良かったぁ……。目を覚ましたんだな、権兵衛」

 全身で脱力し、涙をぽろぽろと零しながら、ずるずると椅子に体重を預ける慧音さん。
その姿はよっぽど安堵したのだろうな、と思って、こんなに人の事を心配できるこの人は、凄い良い人なんだなぁ、と、改めてぼうっとした思考で思う。
何せ相手は、この俺なのである。
俺のような、価値のない男を心配してみせるなどよっぽど慧音さんの懐は深い物だと思うし、そんな慧音さんの温情を無闇に引き出している俺は、本当に駄目人間であった。
とりあえず、せめて少しでも動ける所を見せようとして、上体を上げようとする。
が。

「いだだっ!?」

 再び全身を走る激痛に、思わず俺は跳ね上がりそうなぐらいに呻いてしまう。
これが何と言うか、精緻な計算でもされたかのように体中に均等に痛みが響いており、普段ならできたであろう体の一部を動かす事も、ままならない。
当然、失敗である。
とすると勿論、この人の良い慧音さんである、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり。

「いいんだ、いいんだ権兵衛! 寝ていてくれていいんだ。わ、私は、ただ君が無事だったと言うだけで、その、うぐっ、う、嬉しくって……」

 と、俺を心配してみせるばかりか、感極まって涙まで零す事になる。
その姿は断崖絶壁を目前にした人のように悲壮感に溢れており、見ているだけで自然と申し訳なさが溢れてくる。
阿呆だ。
俺は、どうしようもなく阿呆だ。
こんないい人に心配などかけていい筈も無いのに、自分の体の調子一つも把握できずに、涙まで流させてしまって。
そして惨めである。
何せそんな阿呆な事をしでかして、慧音さんを泣かせて、それでいて、彼女を慰める為に指一本動かせない状態なのである。
恩知らずも此処に極まれりと言う事で、せめてもの恥じらいとして赤面しつつ、唯一出来る事である口を動かす事に意識を移す。
しかし、あぁ、口を動かす事だなんて。
俺の苦手分野の中でも筆頭に上がる事だと言うのに。
そんな風に、相変わらず口下手な俺は、せめて相手を不快にさせないよう意識しつつ口を開く。

「――はい、分かりました。こちらこそ、よっぽど心配してもらえたようで、ありがとうございます? でいいのかな?」

 と言っても、よっぽど混乱していたらしく、口から出たのはこんな珍妙な言葉だった。
全く恥ずかしい事この上ないのだが、斜め上なその発言がどうにも面白可笑しかったらしく、ぷっ、と慧音さんが吹出す。

「くくっ、全く、権兵衛にはもう一度寺子屋で生徒役をやって貰わなくっちゃならないかな。普通そこは、心配をおかけしてすいません、とかそんなんだろうに」
「あぅ……。すいません……」

 どうやらツボに入ったらしく、慧音さんはくすくすと笑みを浮かべながら、浮かべた涙を指でこすりとる。
その姿はまるで笑い泣きしていたかのようで、先程の悲壮感はいくらか減じているようで、たまたま道化をできて良かった、と内心で俺はほっとした。
そんな俺を人心地ついたと見たのか、矢継ぎ早に慧音さんは質問を重ねてくる。

「で、どうだ? 喉が乾いたりしたか? ちゃんと水差しは用意してあるぞ? ご飯ならちょっと時間がかかってしまうが。あ、それとも厠か? そ、それだったら、その、一人で行けないだろうからな、私が手伝ってやれるぞ?」
「あ、や、その、ご飯は兎も角、厠は、俺、霊力の扱いを覚えて飛べるようになったので、多分大丈夫かと……」
「そ、そうか……」

 と言うと、気持ちがっかりしたかのように、慧音さんが勢いを減じる。
世話焼きな所のあるこの人なら俺の世話をしたがるかもしれない、と思ってはいたし、俺のほうも流石に不自由なので、失礼にならない程度には世話を受けようと思っていたが、が、流石に厠までと言うのは、羞恥心が勝ったのだ。
とは言え、なんだかしょんぼりした慧音さんを放っておくのには、俺の良心と言うか、後ろめたさが我慢ならず。
丁度喉も乾いていたので、水を飲ませてもらっていいか、と聞くと、まるで尻尾を振る幻視が見えるかのような勢いで慧音さんは頷き、それから自らの姿に思う事があったのだろう、少し顔を赤くしてから、慌てて水差しが差し出される。
すると当然俺は差し出された水差しの先を加えてちゅーちゅー吸う訳なのだが、慧音さんの真っ白な指が、たおやかに水差しを掴み、傾けているその様は、何だか扇情的で、顔が赤面してしまう。
ちらちら視線をやるが、慧音さんはそんな事意識していないでにこにこと笑いながらやっている物なので、俺が過剰に性的な意識をもっているようで、自分がいやらしく感じてしまい、申し訳ない気持ちで一杯だった。
そんな時間を少しばかり過ごし喉を潤してから、少し一息ついて、顔面の熱を放射してから、気になっていた事を口にする。

「それで、その」
「うん?」
「此処って、何処なんでしょうか。永遠亭では、無いように見えるんですが……」

 一応俺の記憶は、風見さんに肩を砕かれた辺りから曖昧になり、風見さんの謝罪の言葉にどうにか頷けた辺りで最後になっている。
その事について思うことはあるが、それは一人で行うべき物であるので、この場は意図的に後に回す事にし、慧音さんの答えを伺う。
するとすぐに、理解の色を浮かべ、あぁ、と慧音さんは一人頷く。

「そういえば、運び込まれた頃から意識が無かったんだっけな。此処は、博麗神社だ。
数日前、誰かが怪我したお前を此処に運んできたらしくてな。
そこで、えーと、事情があってだな。そう、権兵衛、君の怪我が大分酷くてだな、動かさない方が良いとなってな。
丁度居合わせた永遠亭の薬師の弟子が治療をしたそうだ」
「と言うと、鈴仙さんですか」

 と、そう告げた瞬間、慧音さんが僅かに口元を緩めた。
何故だか分からないけれど、慧音さんのような善人の代表格みたいな人の笑みならば、こちらも思わず微笑みたくなってしまうほどの柔らかい笑みであるし、実際に造形もその通りであると言うのに。
何故だか、少しだけ寒気がする。
熱でもあるのかな、と自分の体調を心配するうちに、僅かな沈黙を挟んで、慧音さんが口を開く。

「そう、だな。怪我をして永遠亭に世話になっていたそうだが、矢張り彼女とも面識はあるんだな。……名前で呼ぶぐらいには」
「えぇ、はい。永遠亭では皆さん良くしてくれまして、特にお世話になった四人とも、下の名前で呼ばせてもらうくらいには親しくさせてもらっています」

 これは誇らしい事なので、動かない胸を気持ちだけ張って見せて言う。
何せあの永遠亭の人々はとても尊敬できる人ばかりで、その人達に下の名前を許されていると言うのは、俺には勿体無いぐらい良き事であるので。
すると、何故だか更に僅かに寒気が増え、ぶるりと震えそうになるが、幸いと言うか何と言うか、体が動かない為、寒気に震えて慧音さんを心配させる事も無かった。
はて、どうしたのだろう、と内心で首をひねっているうちに、再び俺は、眠くなってきた。
瞼が自然と重くなり、欠伸は、体に響きそうなので咬み殺すが、それでも慧音さんにその存在は悟られてしまっただろう。
すると何故だか寒気は収まり、不思議と同時に慧音さんも顔から笑みの色を消していた。
気づけば申し訳なさげな顔をして、俺の顔色を伺うように言う。

「まぁ、それはいいとして。その、権兵衛が大変な時だと言うのに、本当にすまないんだが。
私としては、君の傷が癒えるまで、世話をしてやりたいと思っているんだが……。
まぁ、その、なんだ。何もかもを放っておいて、する訳にも行かなくてな。
いや、別に、権兵衛の世話が嫌いと言う訳じゃない、むしろ普段から色々してやりたかったから、都合が良いぐらいでな。
あぁ! 勿論、君が怪我した事が喜ばしいと言う訳じゃないんだ、分かってくれよ。
ただその、権兵衛、君が世話焼かせと言うか、何と言うか、その、なんだ……うん。
まぁ、兎に角。
そんな訳で、私も毎日君を世話しに来る訳にもいかなくて、永遠亭の兎の奴も結構忙しいらしくてな。
そこで、私の友人が暇を持て余していると言うので、彼女に君の世話を頼みたいのだが、いいかな?」

 と、慧音さん。
難しい所であるので、眠気で鈍った思考で、少し考える事にする。
これが軽い物であるなら即答していたかもしれないが、怪我人の世話と言うとこれが結構大変だろうし、慧音さんの友人が俺の容態の変化に気づきでもしなかったならば、俺はその人に大きな十字架を背負わせてしまう事となる。
が、対象は俺なのである。
自虐的な意味では無く、霊力の扱える、俺なのである。
簡単な物なら自己治癒の術も使えるし、容態の変化を霊力で知らせる事も出来、更に厠に行ったりは自分で出来る為、労苦と言う意味でも少なくなるだろう。
それに、折角治した怪我人を放っておく訳にも行かないだろうし、そうなるとこの話を断った場合俺の世話をするのは博麗の巫女様である。
妖怪退治を生業とすると聞く彼女が忙しいか、少なくとも緊急時には忙しくなるだろう事は容易く想像でき、対して慧音さんの友人は暇を持て余していると言う。
慧音さんの謙虚な所を勘定に入れたとしても、矢張りここのところは、慧音さんの友人とやらに甘えておくのが上策と言えよう。
と言う事で、俺は僅かに顎を引き、肯定の意を伝える。

「是非、お願いします。俺として、看病してくれる人が居るのは、心強い物なので」
「そうか……良かった。それなら、そう伝えておく事にするよ。それじゃあ、権兵衛、眠いんだろう? 遠慮無く寝て、早く傷を治すといい」

 俺は再び首を縦に振れるだけ振ると、慧音さんのお言葉に甘えて、重くなってきていた瞼を閉じる事にする。
しかし、この体と言う物は相変わらず言う事を聞いてくれず、眠くなったのですぐに寝れるかと思ったが、そうでもなく、むしろ寝ているんだかいないんだかよく分からない、曖昧な境界の上に意識が立つ事となってゆく。
早く怪我を治す為にも睡眠を多く取ったほうが良いと理解こそできているものの、実践ができないのではお粗末と言う物である。
兎に角寝よう寝ようと意識してみたり、羊の頭数を頭の中で数えてみたり、そんな事を繰り返してみるものの、中々眠りにはつけない。
そうこうするうちに頭の中にぼうっと思い浮かんでくるのは、矢張り、風見さんに対する、申し訳なさであった。

 俺を嬲っていた時、確かに風見さんは嗜虐的な笑みを浮かべていたが、同時に、正気に戻ったと思わしき時、涙を顕に俺に謝り続けていたのも確かである。
とすると、俺を傷めつける行為は、風見さんにとって本意ではなかったのだろう。
それは普段の彼女の優しさに溢れた仕草を見るに、明らかである。
であれば、風見さんに俺が嬲られた出来事は、俺にとっても、彼女にとっても、善果をもたらさず、悪果であったとなる。
して、その悪因は何かと言えば。
切欠は、明らかに俺が切り出した話に間違いない。
何せそれまでは妖怪の襲撃と言うアクシデントこそあったもの、基本的に上手く行っていたのである、当然と言えよう。
で、なら俺がずっと風見さんに一方的に世話になっていれば良かったのかというと、これもまた悩ましい所である。
俺は所謂ヒモ状態だった訳だが、これが健全な状態かと言えば、勿論不健全であると答えが返ってくるだろう。
それを正すのは、基本的に善事である。
が、何故俺如きが離れると言う事に風見さんが取り乱したのか、まで理由を探るとすると、また違う事となるだろう。

 さて、まず、俺は風見さんの元を離れると言う事で、彼女を一人きりに戻す事になるのだが、普通、それだけで人は取り乱す物だろうか。
何せ離れると言ったのは、この俺である。
口下手で、半ば以上村八分にされると言う程対人関係に疎く、それどころか絶望して自死をすら思っているような、果てしなく面倒くさい男である。
そんな、常人であれば邪魔に思うしか無い鬱陶しい存在が離れただけで、風見さんは取り乱したのだ。
それは偏に、彼女が非常に寂しがっていたのであろう事を指し示していたのではないか。
俺は、それを察する事が出来ずに、彼女から離れてゆく事を示す言葉を吐き、彼女を傷つけてしまったのだ。
それを思うと、他にもっとやり方はあり、もっとゆっくりと離れてゆく方法があったのではないか、と思ってしまう。

 それに、何故気づけなかったのか、と言う事を思うと、俺の罪は重くなるばかりである。
これが常人であればまだしも、風見さんの相手は俺だったのである。
半年近く、誰とも関わらない生活を続けて、孤独の辛酸を味わい続け。
その上で蜘蛛の糸の如く垂れる慧音さんの貴重さを誰よりも思い知り。
更には再び全てから見捨てられ、絶望に自死すら思い。
そしてなにより、そこで風見さんに人の暖かさを思い知らされた、この俺である。
当然他人の孤独にも敏感であって然るべきだというのに、俺は全く気づかずに風見さんと一端離れようと口にし。
果たして何の学習もしていなかった、痴呆の如き所業を、顕にして。

 何と俺は、惨めな事だろうか。
人は、学ぶ事が出来る。
何時しか俺が慧音さんに言った台詞であり、俺の希望の源泉の一つである。
こんな惨めな俺でも、物事を学び続けていく内に、恩返しをできるような、真っ当な人間になれるのではないか、と言う希望。
確かに俺は、霊力だの何だのと言う点ではそれを多少なりとも実践できていたかもしれない。
しかし尤も大切な、人との関わり方において、俺は何の学習もしていなかった事を、見せつけてしまったのだ。
愚かであった。
惨めであった。
だが、そう思い続けて、心から希望を無くす事は、それ以上に愚かで惨めなのだと、俺は風見さんに教わったばかりなのである。
それを忘れるような行いは、今まで以上の悪行だろう。
なのでせめて、自虐の念を忘れずとも、それで希望を無くす程に自分を打ちのめす事の無いよう念じつつ、俺はゆっくりと境界の眠りの側へ、意識を移してゆくのであった。



   ***



 始りは、土下座して頼み込んでくる月兎の言からであった。

「お願い、力を貸してくださいっ!」

 と言う鈴仙によると、権兵衛は八意永琳に疎まれ特別に解剖したがられており、恐らく永遠亭にゆけばそれを逃れる術は無い、との事だった。
勿論中立地帯である博麗神社に手を出すような迂闊な真似はしないだろうが、あの人の良い権兵衛である、甘い言葉を一つ二つ投げかけてやれば、あっさり騙され永遠亭に連れて行かれてしまうだろう。
一応鈴仙も慧音も普段どおり生活して誤魔化すが、何時権兵衛が見つかってしまうか分からない。
その時防波堤となるのに、亡霊姫や半人半霊では相性が悪く、半獣では力が足りず、巫女は中立であり、故に輝夜と殺し合える実力を持つ貴方にしか頼む事はできないのだ。
との事であった。
それだけであれば妹紅は首を縦に振るか横に振るか迷っただろうが、最近輝夜と殺し合っておらず暇だった事や、その場に居た慧音の後押しもあり、権兵衛と言う男の護衛兼世話を妹紅は引き受ける次第となった。

 正直面倒だと思わないかと言えば、嘘になる。
妹紅は元々社交的な性格ではないし、不老不死故に人に恐れられ、妖怪どもを殺し続けた時期がある故に妖怪にも恐れられており、マトモな人間関係と言えば慧音に一方的に世話を焼かれるだけである。
だと言うのに、権兵衛とか言う男の側にいて抑止力となれ、と言うのは、ちょっと不安な所があった。
そも、その男の人物評として、慧音も鈴仙も権兵衛を善人と言うが、彼女らの言葉をまるごと信じると此処千年で出会った事も無いような男であると言う事になり、二人には悪いが、ちょっと疑わしい。
不老不死となって千年、妹紅は人の美しい所も見てきたが、それ以上に醜い部分を見続けてきた。
それを思うと、二人の言うように害意を全く持たない聖人のような性格をしており、それでいてちょっと惚けていて愛嬌のある人間など、居る筈が無い、と言うのは妹紅の結論である。
だと言うのにそんな像が伝わってくるというのは、不気味の一言に尽きた。
そんな不気味な人間と、どうやって付き合っていけばいいのやら、と嘆息しつつも、慧音を炊きつけ、力を貸すと豪語した当人である、仕方無しに妹紅は権兵衛の世話に出向く事になった。

 さて、正直なところ、そんな事情から淡々と事務的に権兵衛の世話を済ませたいと思わないでもないが、慧音への義理もあり、親身になってやったり慧音を押しておくべきか、などなど複雑な心持ちで権兵衛の世話をしにきた妹紅である。
ポッケに両手を突っ込み背筋を少し曲げながら、えっちらおっちらと神社前の階段を上り、事前に事情を幾らか話して了解を取ってあった紅白巫女に軽く一言二言、それから権兵衛の眠る部屋にたどり着き。
複雑な内心から、重くなりがちな手をどうにか引っ張り上げて、襖を開いて。

「――あ、どちら様でしょうか?」

 余程暇していたのだろう、すぐに反応があった。
体中そうなのだろう、木乃伊男のように包帯でぐるぐる巻きになった男の顔が、布団からはみ出ていた。
包帯の上からでも分かるほど、顔はでこぼこと腫れており、余程酷い怪我だったのだろう、とすぐに分かる。
不老不死には久方縁のない物であるので、この怪我の程度がどれほどかは見て分からないが、鈴仙の言を聞くなら相当に酷い物となるのだろう。
だと言うのに、不思議と男には、怪我やら病気やらで弱った人間特有の弱々しさと言うのを感じ無かった。
まるで、怪我を屁とも思っていないかのような。
そんな風に浮かんできた、初対面には失礼であろう感想を、内心頭を振って頭から追い出す妹紅。

「私は、妹紅。慧音から、あいつの友人が暇つぶしついでに世話に来るって聞かなかったかい? そいつだよ」
「あぁ、成程。生憎立ち上がれないもので、寝ながらと失礼しますが、外来人の、七篠権兵衛です。これからよろしくお願いします」
「ん、こっちこそよろしくね」

 と言いつつ、妹紅は包帯で隠れている上腫れている権兵衛の、元の顔を想像する。
まぁ、慧音の言う所の、三割引と言う所が妥当だろうか。
と言うのも、慧音の言う権兵衛をそのまま受け入れていると、絶世の美男子となってしまうので、今見えている分でもそこまでではないと分かるのである。
全く、惚気話も大概にしてほしいものだ、と内心苦笑しつつ、妹紅は権兵衛の布団の近くに座布団を引っ張ってきて、その上に座った。
権兵衛に目をやると、目で妹紅を追っていたのだろう、目がぴたりと合う。

「ん、そうね、基本的に私は此処で座って本を読むなり、ぼうっとするなりしているから、何かあれば、すぐに声をかけてくれていいわ。
ご飯を作る頃には、紅白……霊夢の手伝いに行くから、その時だけは居なくなるけれど、勘弁ね。
厠は、月兎に聞いたけれど、オムツと尿瓶で……」
「いえ、飛べるんで、頑張って自分で行きます」
「あぁ、そうかい。ならまぁ、構わないんだけれど」

 と、断固とした表情で言う権兵衛に、それなら、と妹紅は一歩ゆずる。
それから座布団の上で胡座をかき、妹紅はポケットから文庫本を取り出した。
外の世界の書籍である。
大量生産されるようになった書籍は、出版される本の種類も幾多に増え、結果として絶版となり、幻想と成り果てるまでの期間も短くなり始めた。
故にか香霖堂に行けば、何かしらの言語で書かれた文庫本が置かれており、内容を選り好みしなければ、手の届く値段で手に入る。
と言っても人の口が発展し名作が埋もれづらくなった外の世界からこぼれ落ちた幻想である。
本当に内容は選り好みできないようなもので、貪欲な活字中毒者か、余程の暇人ぐらいしか手に取らないのだが。
当然妹紅は後者である。
勿論暇と言っても、おいおい権兵衛の人柄を見て、慧音に相応しいと思えたら慧音の応援ぐらいしてやるつもりなのだが、それはまぁおいおいやっていけばいいと妹紅は思っていた。
何せ、妹紅は不死人である、気の長くなければ務まらない人種である故に。

 ――暫く、妹紅が紙を捲る音と権兵衛の僅かに荒い呼吸の音だけが、空間に満ちる。
時折外を掃除しているのであろう、巫女が箒で掃き掃除をする音やら、お茶を淹れるのに湯を沸かす音やらが聞こえたりする中、静かな時間が経過する。
権兵衛であるが、最初こそは急に現れた妹紅に落ち着かない様子を見せていたが、沈黙を苦にする人種では無いのだろう、すぐに慣れてきた様子で、口を開く事なくじっとしていた。
ふと、文庫本の章替わりの頁を捲る所で手を止め、妹紅はじっと権兵衛の事を見つめた。
ぼうっと呆けた瞳で中空を眺めるその姿は、何と言うか、見ているとすっと手を差し出してやりたい姿であった。
見ていると、胸を打たれるような、そんな可哀想な瞳で、ただただその男は天井を眺めているのである。
何とも、哀愁があると言えばいいのか、哀れであると言えばいいのか、何といえばいいのか分からないけれども。
少なくとも、可愛らしさとかそういう物とは違う部分があるのは確かだろう、と妹紅は思う。
何せ、流石に傷だらけの木乃伊姿では、可愛らしさというものは感じられぬ故に。
さてはて、これが慧音の言う権兵衛の魅力であるのか、それとも長生きしている自分が説教癖を発揮し出したのか、と思いつつも、ついつい口から言葉がついて出る。

「所で」
「――あ、はい」

 呆けていた様子の権兵衛が、僅かな間隙を空けて返事を返し、妹紅へ視線をやる。
文庫本の呼んでいた頁に指を挟んで下ろし、視線を受け止める妹紅。

「家を――里人に壊されたんだろうってのは、私も見て知っている。それから、どういった経緯で、こんな大怪我をするまでになったんだい?」
「えーと、ですね」

 言葉を選びながらなのだろう、所々つっかえながらだが、話し始める権兵衛。
それによると、権兵衛は、里人が家を壊し終わる所に、丁度永遠亭から私事で離れる次第となって、戻ってきてしまったのだと言う。
丁度慣れぬ霊力も使い果たしてしまった所で、嘲笑われ、何も出来ぬままに、どうすればいいのかも分からず、放浪を始めたのだとか。
そこで夜中になり、妖怪に襲われた時、為す術もない権兵衛を助けてくれたのが、優しい妖怪筆頭である、風見幽香だったと。

「待て待て」
「えっ? その、すいません、何がでしょうか?」

 こてん、と首をかしげてから、痛みに悶える権兵衛の姿は、嘘をついているようには見えない。
千年かけて自然と人の嘘が分かるようになってきた妹紅にとってもそれは確かであり、するとあの、宴会でたまに見る物騒そうな妖怪が、優しい妖怪筆頭――?
自然、胡乱気な目で権兵衛を見やる妹紅。
何せ幽香は、宴会でも妹紅が輝夜に対して弾幕ごっこを挑む頻度以上に、他者と弾幕ごっこを行っている、物騒な妖怪である。
意外な一面と言うのもあるのかもしれないが、それにしたって優しい妖怪筆頭は言い過ぎだろう。
そんな妹紅の思いが滲み出てしまったのか、権兵衛が、無事な部分を目一杯使って、不満げな表情を作る。

「……その、本当に風見さんは優しい方なんですよ?」

 顔が無事であれば、ぷくぅ、っと頬をふくらませていただろう所作に、思わず苦笑気味になる妹紅。
するとやれ、凝った料理を嬉しそうに作ってくれただの、やれ、花の世話を凄い優しそうにしていただの、と幽香の優しさとやらを権兵衛が語り出す。
わかったわかった、と流し、続きは、と妹紅が催促すると、渋々と、権兵衛は口を開いた。

「それで、えっと、風見さんの不在時になんですけれど、俺を襲った妖怪が風見さんに嫌がらせをしようと、家を襲いに来て。
俺はそれに応戦して、その、えーと、や、やられちゃって。その、それで、気づけば此処で治療されていた、という事になります」

 視線をふらふらさせながら言い終える権兵衛に、嘘だな、と妹紅は断ずる。
これまで割りと流暢だった口がいきなりどもりがちになり、しかも内容も一気に曖昧になっている。
慧音の言っていた、素直で騙されやすいっていうのは本当なんだな、と実感しつつ、妹紅はじーっと権兵衛の目を見つめた。
口元が、きゅきゅ、と縮まり、次いで皮膚を動かすだけでも痛みが走るのだろう、一瞬目を細める。
それからそろそろと視線を逸らし、気まずそうにヒヨコ口を作る。
あぁ、こいつの嘘って分り易いなぁ、と実感しつつ、妹紅はため息をつき、その部分における詰問を終えた。
別にそこの仔細は妹紅の知りたい所では無い。
問題は。

「さて、ちょっと聞き辛い事を聞くけれども。権兵衛、あんた、里との事、どうするつもり――?」

 権兵衛の、里人への心象である。
無論悪い事は分かりきっているが、それでも慧音が権兵衛と里人との関係に酷く心を痛めていた事を思うと、少なくとも権兵衛側からだけでも再建可能な状態にあって欲しい、と思う。
それで里からの心象が変わると思うほど初な心を持つ妹紅では無かったが、それでも慧音の心の助けになれば、との一念から、確かめる事にしたのだが。

「……当分は、距離を置くしか無い、と思っています」
「へ? あぁ、うん」
「その、家を壊されるまでに俺は里に取って害であると、事実はどうあれそう思われてしまっているのですから。
とりあえずこの冬は、放置された山小屋なりを探して、そこで温度を分ける結界でも張って、やり過ごそうと思っています。
幸い、俺はある程度霊力を扱えますので、里の方達が手を出せない奥地の山の幸を手に入れられますし。
それに、お金の方はあるので、顔見知りを伝って、里でいくらか買い物をしてきてもらう事もできますので。
その、流石に持って行きたい形と言う物はまだ見えていなくて、考えたり、相談しながら過ごそうと思っているのですが……」
「や、ちょっと待って」

 ぐい、と掌を前にやり、権兵衛の言を遮る。
体が悪寒にぶるりと震え、自然、僅かに腰が引けた。
その、これでは。
これでは、まるで。

「距離を置くしか無い、って、まるで関係を続けられたら続けたいって言うように思えるんだけどさ」
「はい、勿論です。
俺は、この幻想郷に入ってきてから、様々な人に恩を受けてきていて、それを返したいと願っています。
それにはまず、自立が必要でしょう。
そして霊力が使えるだけの只人たる俺には、人里の力無しに自立する事は、難しいでしょうから。
少なくとも、誰かに恩を返す余裕ができるような生活は、できそうにありません」

 流暢に返す権兵衛に、妹紅は思わず、絶句した。
声色が、僅かながら震える。

「その……。傷を抉るようで、申し訳ないんだけど」
「? はい」
「お前、慧音と一緒に暮らしていた所を、里から追い出されたんだよな」
「はい」
「暴利を貪られていたってのも、本当?」
「はい」
「家を、里人みんなに壊されたんだよな」
「はい」

 何の躊躇もなく返事が返ってくる。
震える声で、妹紅は思わず吐き出した。

「憎く……無いのか?」
「……はい」

 困ったような声色で言う権兵衛に、再び妹紅は絶句した。
その瞳は、真っ直ぐに妹紅を貫いており、声色に躊躇はあっても震えやどもりは無く――、嘘の気配は無い。
まるで、子供がやんちゃをしているのを苦笑して受け止めているかのような、そんな感じであった。
害意が無いと言うか。
悪意が無いと言うか。
――懐が深いと言うか。

「その、自分でも戸惑っている部分は、確かにあるんです。
普通、こんな境遇にあれば、どんな人間であっても、里を憎く思う筈、なんですよね。
おかしいな、と、そう思いはするんですけれど、でも、不思議と憎悪というものが湧いてこなくって」

 僅かな戸惑いをのせた声色の権兵衛の目には、一切の嘘の色はなくて。
本当に自分でも戸惑っていると言うのが目に見えて分かり。
思い起こされる。
慧音や鈴仙の、権兵衛の人物評。
害意の全くない、聖人。
そこまで言うには、厳かではなく、もっと親しみやすい感じではあるけれども。
同時に何処か、狂わしくて、狂わしくて。
怖い。
恐怖が妹紅の頭の中をぐるりぐるりと回る。
とさり、と指で挟んでいた文庫本は床に崩れ落ち、頁をくしゃりと歪ませる。

「おかしい、ですよね?」

 泣き笑いのような表情を作る権兵衛。
それでやっと、妹紅は、これが七篠権兵衛と言う男であるのだ、と、静かに理解する所になるのであった。
同時に、自分はこれからこの男を見守らねばならないと言う、げに恐ろしき仕事を請け負ってしまったのだ、とも。



   ***



 数日が経過した頃だろうか。
霊力が戻ってきてからは自己治癒の術を併用できて、回復の速度が早まってきたものの、まだ両足のギブスは取れておらず、左腕の肩から先は動かず、右手一本しかまともに動かせない状態で。
それでも、たまに外の空気を吸って茶を嗜むぐらいは許された時分。
丁度外は、秋真っ盛りであった。
鮮やかな赤の紅葉に、黄葉、褐葉が入り交じり、風に揺れてゆらりゆらりと地面へ落ちてゆく。
ため息をつきたくなるような光景であった。
初体験の秋として、俺は風見さんの元で色鮮やかな花々を眺めさせてもらっていたのだが、それとはまた別に、一線を画する美しさである。
無論知識として知る所ではあったのだが、体験は別格であるのか、それとも外の世界ではこれほど見事な紅葉にであった事が無かったのか。
どちらなのか定かでは無いけれども、そんな美しい光景に感動している昼中であったと思う。
右手しか使えない上、口の中を切りまくっているので、本当にちびちびとお茶を飲んでいる所。
少し離れた所で、ぼうっとした妹紅さんに見守られている最中。
ふと、俺はがさがさと枯葉が音を立てるのに気を取られ、林の奥に視線をやった。
二つ、重なって聞こえるそれは徐々に近づいて来る次第に、その姿を見せる事となる。

 一人は少女、と言うより幼女、と言った言葉が似合うぐらいの背丈の少女で、日傘を差し、その影の中で目も覚めるような青い髪に、血のような赤黒い瞳をしていた。
その特徴的なのが、今までに幻想郷で見た事の無いぐらい、完璧な洋装であることだった。
いかにも洋風と言う出で立ちで、赤い模様が所々に入った、真っ白でフリルの装飾が多くついたドレスを着ており、まるで絵本の中のお姫様が本から飛び出てきたような少女であった。
その背後に連れる少女もまた、洋風の世界から出てきたような、見事な紺地のワンピースに白ブラウス、白エプロンの、メイド服を来た少女である。
まるでそこだけ別世界を切り取って貼りつけたような情景であった。
思わず呆けて口を開けて見ていると、二人の少女はゆっくりと近づいてきて、ふと、俺の前で足をとめる。
先頭の背の低い少女が、ちらりと辺りを確認し、口を開いた。

「なんだ、あいつは留守かい? 何時もの勘なら、寄るな寄るな、って駆けつけるに違いないのに」

 言ってから、俺の方へと視線をやり、すっと腕を組む。
その腕の組み方と言うのも、まるで腕が別の生き物であるかのようになめらかに動く物で、美しく、均整が取れている。
それに見惚れながらも、視線を辿るに、俺に言っているのだろうか、と考え、返事をする。

「その、あいつ、と言うのが博麗の巫女様であれば、多分今は賽銭箱のある方の縁側で座っているものかと、思いますが」

 言ってからちらりと妹紅さんに視線をやると、静かにこくんと頷いてくれたので、確かである。
が、少女は訝しげに眉を潜め、組んだ腕をほどき、頬を人差し指でぷにゅ、と僅かに押しながら、漏らす。

「おかしいな。霊夢の奴、勘が鈍ったのかしら。それともそこの不死人か、そこの初対面、貴方が関係しているの?」
「それは分かりませんが……。何せその、博麗の巫女様は、何と言うか、俺を避けているようでして、どうも」

 と言ってから、初対面、と言う言葉に自己紹介をしていなかった失礼に思い至り、あぁ、と口を開く。

「失礼しました。俺は、外来人の、七篠権兵衛と言います。貴方のお名前は?」
「レミリア・スカーレット。後ろのこいつは、十六夜咲夜よ」
「よろしくお願いします」

 と言って、粛々と頭を下げる十六夜さん。
こちらはこんなに礼儀正しく人に頭を下げられる、と言う事に慣れていないので、反射的に慌てて止めようと両手を伸ばしてしまうが、よくよく考えれば、人が礼儀を通そうとしているのに、それを遮るのは頂けない。
かと言って、俺如きに頭を下げるなどしてもらっては、むず痒い事むず痒い事、赤面しながら、果たしてどうすればいいのやら、と迷っていると、そんな俺を無視して、とことこと歩いてきて、ヒョイ、と俺の隣に座るスカーレットさん。
まるで宝石のように貴重で高貴な彼女が、手を伸ばせばすぐ届くと言う所に居ると言うのは、何と言うか、非常に恐縮する限りであり、思わず縮こまってしまう。
そんな俺を気にするでも無く、スカーレットさんは、右手をすっと空中に挙げた。
中指を親指をすっと合わせ、弾こうとする。
すかっ、と、指がすべり、しっ、と言う小さな擦過音だけが響いた。

「………………」
「………………」
「………………」

 何事も無かったかのように、もう一度指をこすり合わせるスカーレットさん。
すかっ。ぺち。すかっ。すかっ。ぺちんっ。
思わず和やかな目になるこちらを他所に、五回目ぐらいでようやく、音らしい音が弾けると、それを合図として、かたん、と小さな音が響く。
すわ、何事か、と目を見開くと、俺の隣に入れたお茶があるのと同じように、スカーレットさんの隣にも暖かな紅茶が淹れてあるのが見えた。
確かに今の今まで何も無かったのに、と思わず辺りを見回すと、一瞬前と同じくスカーレットさんの右斜め前の辺りに居る十六夜さんの手に、円形の黒いトレイがあった。
そのまま視線を十六夜さんの顔にやると、にこり、と微笑みかけられる。
思わず、心臓が跳ね上がる。
それだけで赤面してしまうほど十六夜さんは美しい女性であり、俺はまた、赤面癖があった。
視線を足元にやっている俺を尻目に、紅茶を一口飲んで、スカーレットさんが口を開く。

「それで、ちょっと興味深いことを聞いたんだけれど、貴方が霊夢に避けられているって?」
「はい、スカーレットさん。どうも、確証は無いのですけれど……」
「レミリアで良いさ。で、権兵衛、どういう事なのかしら?」

 面白可笑しそうに言うレミリアさんに、俺の感じるままの博麗の巫女様についてを言う。
俺が初めて博麗の巫女様に出会ったのは、俺が里人の中で役立たずと判明し、なじられながら外の世界へ追い出されようと、博麗神社に連れて来られた時だった。
その時はただただ、初めて出会う弾幕決闘の出来る身分の人、と言うのに圧倒されて、更には外の世界へ出る事も出来ない、と言う事に混乱するままで終わってしまった。
思えばあの時も、必要以上に話を手早く終わらせようとされていたような気もするが、何分混乱の最中であったので、あまり覚えが無い。
そしてそれ以来、俺は彼女に会っていない。
そう、此処数日、博麗神社にお世話になっていると言うのに、俺は彼女の姿を見たことがないのである。
妹紅さんを伝って、別に嫌っている訳では無い、との言を頂いているが、少なくとも、会おうとしていないのは確かだろう。
俺など怪我人であるので、殆ど床に就いているため、見に来るのは平易であるために。
ただ、俺が一度会ってお礼を直接伝えたい、と妹紅さんを伝って伝えた返事が、無いままであると言う事から、避けられているのではないか、と思うのだ。

 一通りの事を言うと、レミリアさんは顎に手をやり、眉間に皺を寄せ、難しそうな顔で考え込む。
幼い外見の彼女がそういった難しい顔をしているのは、何とも似合っておらず、そんな顔をさせてしまったこちらとしては何とも言えない気分になる。
と言っても、この幻想郷は外見と中身の年齢が一致しない人妖は多く、彼女の持つ雰囲気は間違いなくその一部であると告げている。
そう思うと俺の心配は見当違いであり、むしろ礼を失するに値するだろうと言うのに、何故だろうか、俺は彼女を庇護の対象では無い、と考える事ができなかった。
見目に狂わされたのだろうか。
そう思うと、狭量で視覚と言う五感の一つに囚われる己の愚かさに、再び視線を足元に。
これが虫眼鏡であれば既に大火事を起こしているだろうと言うぐらいに、焦点を合わせる。
不意にレミリアさんが口を開き、それに合わせて、俺は視線を彼女に戻した。

「うーん、気になるけど、あいつだからなぁ。頭が小春日和って事しか分からないし。今日みたいな感じよね」
「はぁ。小春日和ですか」

 丁度その日も、小春日和と言って良い、やや暖かで過ごしやすい気温の日であった。
全く関係ない事に飛び飛びになるような、やや飽きっぽい感じの気性は何処か子供っぽく、矢張り外見通りの年齢を思わせる。
そんな俺の感想も気にならないのか、紅茶を一口、口内を湿らせ、レミリアさんは言う。

「まぁ、そんな事より、折角運命の交差路で出会えたんだ、お前の運命を視てやるよ」
「運命、ですか」

 大行な物言いだった。
年を重ねた人の言い方と言うよりも、外見からか、子供がそれを真似て背伸びしているように思える言葉である。
鼻白んだ俺を見やって、ふん、と鼻を鳴らし、組んだ手の甲に顎を乗せる。

「私は“運命を操る程度の能力”の持ち主よ。その程度、訳も無いわ」
「なんと」

 思わず、体ごと乗り出して、パチクリと目を瞬き、レミリアさんを見やる。
嘘の色は無く、その目は拗ねて半目になっている。
運命を視てもらう、と言うのがどのような事柄を意味するのか今一よく分からないが、貴重そうな響きである事は確かである。
慌てて機嫌をとろうと、下手に出る事にする俺。

「素晴らしい能力をお持ちなんですね。俺など、特に吹聴できるような能力はありませんし」
「ふふん。何処が素晴らしいんだ? 言ってみろ」
「運命と言う物が具体的に何かを俺は知りませんが、過去から未来に渡る物である事は何となく察せています。
そこで、未来とは不確定な物で、確率で出来ている事が思い浮かびます。
運命を操る、とは何をどうするのかは分かりませんが、その確率を、少なくとも間接的に操る事が出来るのではないか、と思えまして。
確率とはあらゆる物です。光も電子も、あらゆる物は確率の波によって存在する粒子です。
とすれば、運命を操る能力とは、あらゆる物を操る程度の能力と転じれるのではないか、と」
「ほ、ほほぅ。なるほど、いい事を言うじゃあないか」

 そう言うレミリアさんは、目を閉じながらうんうんと頷いているが、気のせいか、冷や汗が混じっているような気がする。
すると、俺の思うまでの能力では無いのか、とがっかりする反面、それでも俺よりは凄そうな能力に、尊敬の念は禁じえない。
何せ運命である、とりあえず凄そうと言う感情が頭に来る。
それに運命の交差路と言う単語も何だか貴重そうで、いかにもな感じであるし。

「まぁ少なくとも、俺の能力よりも凄まじいのではないか、と」
「そ、そうだな」

 と頷きつつ、レミリアさん。

「で、ちなみにお前の能力は何なの?」

 ……運命を視れるのでは無かっただろうか?
内心首を傾げるが、とりあえず聞かれて困る事では無いので、答える事にする。

「主に“月の魔法を使う程度の能力”です。こんな感じで」

 言って、俺は月度を高め、指を立て、その先に月の魔力を集める。
怪我して寝ている間中暇だったので、ある程度練度は上がっており、陽の下でも容易く月弾幕が生成できた。
小さな小さな満月と言うべきその弾幕は流石に珍しいのか、目を見開くレミリアさん。
この能力も輝夜先生から頂いた術である、思わずふふん、と胸を張っている俺に、レミリアさんは何故か徐々に近づいてくる。
月弾幕を持った手を左右にやるとレミリアさんの顔もそれと同様に左右に動く。
何事か、と首を傾げると、ガシッ、と手を掴まれ、物凄い力で引っ張られた。
幸い傷の浅い所だったので痛みは無かったが、驚いたのと、このままだとレミリアさんの顔に月弾幕がぶつかってしまう、と言う事で、月魔力を体内に還元して、月弾幕を消す。
すると、ぴたり、とレミリアさんの手が止まり、丁度、鼻先に俺の手が来るぐらいになった。
どうにかレミリアさんが無事だった、と言う事で、ほっと一息安堵の溜息をつく。
何せ人形のような凄まじい美少女である、その顔に傷など付けたら、俺はその罪悪感だけで死ねるかもしれない。

「はぁ。どうしたんですか、一体」
「………………」

 と、答えが帰ってこない段になって、初めて俺はレミリアさんの異常に気づいた。
瞬き一つせずに、俺の掴まれた手を睨んでいる。
そして手首を掴むその力は緩むこと無く、万力のような力で俺を、ほんの僅かづつ引き寄せ始めていた。

「レミリア、さん?」

 声が空虚に響く。
どろりと、今にもこぼれ落ちそうでねたねたと粘着質な、赤い赤い目。
それが身じろぎもせずに、俺の指を引っ込めた手を見つめていて。
不思議と、俺の体は、痺れたかのように動かなくなる。
かぱぁっ、と、彼女の口が小さく開いた。
白磁の美しい肌に、口内の赤いグロテスクな肉の色が入り混じる。
その肉の赤の中、溜まった唾液にぬらぬらと光って、奇妙に発達した犬歯が見えた。
それがゆっくりと俺の手へと近づいてきて。
どろりと犬歯から垂れる唾液が、俺の肌に垂れるぐらいにまで近づき。

「お嬢様!」

 十六夜さんの悲鳴に、はっ、と正気を取り戻したレミリアさんが、顔を引いた。
ふと熱気に気づいて振り返ると、座っていた妹紅さんが立ち上がり、その手に不死鳥の如く燃え盛る炎の鳥を手にしている。
レミリアさんが俺の手を離すのと同時に、妹紅さんはその手をぎゅ、と握り締め、炎の鳥を消してみせた。

「ま、一応護衛役って事にもなっているんでね」

 と言ってから、再び座り込み、ぼうっと力の抜けた目になる妹紅さん。
今一状況が掴めないのだが、その言から、妹紅さんが俺を守ってくれたのは、確かであろう。

「あ、ありがとう、ございます」

 と言う事で、とりあえず礼を言っておくと、ひらひらと手を振って返された。
もう一度頭を下げておき、それからレミリアさんの方へ振り返ると、まだ呆然としているようだった。
十六夜さんがレミリアさんの口から零れた涎を、ハンカチで拭っている。
それで俺も、自分の手の甲にレミリアさんの涎がついているのに気づき、ついつい服で拭ってしまいそうになるが、ふと思う所があって、手を止めた。

「吸血鬼、なんだよ」

 と、レミリアさんが言う。
何のことかとレミリアさんを見ると、すまなさそうな顔で、俺の顔を見ていた。

「私は、吸血鬼なんだ。すまないね、無闇矢鱈と血を吸うつもりは無かったんだけど」
「え、その、そうなんですか」

 となると、果たして、先程の俺はどれほどのご馳走に見えていたのだろうか。
吸血鬼と言えば月の魔力に大きく影響される種族であるが、あくまで表側の月の魔力にですら影響される種族とも言える。
対し俺は、裏側の月、つまり表側に漏れ出る魔力の源泉となる魔力を引き出し、それを用いていたのだ。
少なくとも、俺の貧相な想像力で考えられるご馳走には例えられない程に違いない。

「す、すみません、無用心な事をして」
「いや、いいさ。こちらこそ、悪かったね。私は、自分を恐れていない人間から血を吸う事はしない、と決めているんだ」

 とすると、減量中の人間相手に鴨が葱を背負って出てくるような所業である、兎に角平謝りする俺だが、レミリアさんはそれには取り合わず、ふるふると首を横に振る。
どうすればいいのか分からず、困って視界に居る十六夜さんに視線をやるが、気づいてないのか、無視しているのか、何の言葉も貰えず。
すっと立ち上がるレミリアさんを、俺は留める手段を持たない。
俺は、一体何をやっているのだろうか。
健常に立って、歩いている時に人を不快にするのは、分かる。
何せそこには行動があり、結果が出来、何かを成す事になるからである。
となると、心根が屑である俺としては、人を不快にさせる事しかできず、不愉快である。
しかし、怪我をして殆ど身動きできない時にですら、人を不快にするとは、なんという屑野郎なのか。
これでは雁字搦めにして閉じ込めておいても、人を不幸にすることが出来てしまうのではあるまいか。
俺自身の罪深さに沈んでいると、立ち上がったレミリアさんは、日傘を差してとてとてと歩き、くるっとこちらを振り向く。

「それじゃあ、って、お前、その手、私の涎でベトベトだぞ」
「え、あ、これですか」

 動く方の手、つまり右手をあげると、確かにレミリアさんの涎でべっとりと汚れていた。
が、しかし。

「いや、その、気づいてまず、俺の服で拭おうかと思ったんですけど」
「うん」
「何と言うか、高貴な感じのあるレミリアさんの体液な訳で、それを俺如きが、あんまり汚そうに拭うのも、どうかと思いまして」
「はぁ?」
「かと言って、どうすればいいのかも、思いつかなくって。洗い流すと言うのも、吸血鬼に対するとなると、より失礼なのか、とも思えて」

 と言っていると、まるで俺が頓珍漢な事を言い出したかのような顔で、レミリアさんがパチパチと目を瞬く。
まるで偏頭痛でも襲ってきたかのように頭を抑え、眉間を揉みほぐしながら、ため息混じりに言う。

「あー。お前、私の事が怖くなったんじゃあないのか? 吸血鬼だぞ?」
「はぁ。知り合いに幽霊や妖怪も居ますので、それは特に」
「いや、お前、血を吸われそうになったんだぞ?」
「はぁ。まぁ、死ななければ、献血もいいかな、と」
「お前なぁ……」

 と、額に手をやって、天を仰ぐレミリアさん。
しかし、何がどうなったのか、その口元は笑みの形を作っており、俺はとりあえず、レミリアさんが明るい表情を取り戻したのに、安堵するのであった。

「まぁ、とりあえず、依然お前から血を吸う訳にはいかない、って事は分かったさ」

 そう言って去ってゆくレミリアさんと、それに付き従う十六夜さん。
運命の交差路、と言う言葉から、コレが貴重な邂逅であると理解していた俺は、それが最後に台無しにならなかった事に、安堵の溜息をつく。
涎からどうなってレミリアさんの機嫌が良くなったのかは分からないが、去り際に見せた笑みは、幸せそうなそれに見えた。
久しぶりに俺と出会って幸せな形で終える事が出来る人が居て、それだけで、俺は舞い上がるような気持ちで一杯になっていた。
と同時、そう言えば結局、運命を視るとやらをやってもらえなかったな、と落ち込みつつ。
と言っても、それは、レミリアさんの言う運命の交差路、とやらが毎日交差している事を知る、その翌日までの事なのだったが。



   ***



 一週間ほどが経過した。
権兵衛の容態だが、未だに左腕が動かないようだが、早くも両足の骨が繋がり始め、浮きながらならば大抵の動作は出来るようになったようである。
全く、永遠亭の技術力は一体どうなっているのやら、と思いつつ、文庫本の頁をめくりながら、妹紅は嘆息した。
視線をやると、まだ木乃伊男度の高いままの権兵衛が、ぼうっと天井を見上げている。
かと思うと、すぐに妹紅の視線に気づいて、にこり、とこちらに微笑みかけてきた。
内心複雑に権兵衛を思っている妹紅は、作り笑顔でそれに対応する。

 妹紅が思うに、権兵衛は不気味な人間である。
まるで無抵抗に全てを受け入れる、人間とは思えない所があるからだ。
里との関係の事もそうだが、権兵衛自身についても同じようだ。
あまりの不気味さに、思わず何度か食事を抜きにしてみたりもしてみて、少しは不満顔もするのかと思えば、にこにこと困ったような表情をするばかりである。
多分、試しに殴ってみたとしても、こいつは怒るんじゃなく、何が悪かったのかと恐る恐る聞いてくるんだろうな、と、妹紅は思う。
そんな狂的で少しおかしな所がある反面、奇妙な事だが、権兵衛は、人間らしいと言うか、愛嬌のある部分もあった。
ちょっととぼけた所があって、所謂天然が入っている、と言う感じの気性もそうだし、人のことにはよく気づいて気遣う事もあるのだが、自分の事は抜けていてだらしのない所がある男なのだ、この権兵衛は。
例えば、妹紅の服のボタンが取れていたり、リボンが解れそうになっていたりとかにはよく気づくのに、自分が零したご飯粒には気付かなかったり、時たま自分の怪我の事を忘れたような行動を取っていたりするのだ。
最初は権兵衛との問答で彼を不気味とばかり思っていた妹紅であるが、そんな風な権兵衛と過ごすうちに、次第に権兵衛の温和な気性が好ましい物にも思えてきた。
その部分だけを見れば、妹紅としても、友人を預けるにはちょっと頼りないものの、その世話焼きで恩義にあつい部分からか、慧音と同じように友人となれるかもしれない、とも思える。
と言っても、反面、妹紅はあの、最初の問答で見た権兵衛の瞳の事を、忘れることができない。
黒い瞳。
あのドロリと溶け出した、まるで億千万の虫が蠢いているかのような瞳。
白い包帯の中から覗くそれは、まるで今にもぼとりと溶け落ちて床に広がり、瞬く間に部屋中を覆い尽くしてしまうのではないか、と思えるような物だった。

「はぁ……」

 嘆息する妹紅に、こてん、と首を傾げる権兵衛。
その可愛気のある視線を、純粋に微笑ましく思う事ができず、何処か恐ろしくも思ってしまう自分に、妹紅は再び内心で溜息をついた。
と同時、暇つぶしに、と文庫本の頁に指を挟んで下ろし、口を開く。

「あの、吸血鬼達の事だけれど」
「レミリアさん達ですね」
「里との関係を考えるなら、そんなに仲良くしない方が良いんじゃないか?」
「そう……でしょうか?」

 何時もの困り顔になる権兵衛に、見下ろすようにしながら、妹紅は言う。

「あいつらは、里では不気味がられている。まぁ吸血鬼なんて種族とその犬なんだ、当たり前だね」
「では、レミリア……さんは、人里に行かなそうですね。では、十六夜さんは、里を利用できていないのでしょうか」
「いや、できている。食料も普通に買っていくし、細工なんかを見ていく所も見たことがある。でもそれは、あいつらが強いから、里人が手を出されないようにと、遠慮しているからだ」

 事実その通りである。
吸血鬼やその犬に陰口を叩く里人は絶えないが、決して本人の前で言う里人は居ないし、不当な取引を持ちかける里人も居ない。
と言っても、と、権兵衛。

「でも、一応俺も普通の人よりは強いですけど」
「でもお前の場合、その力を使おうって気が無いだろ」

 にべもない返事に、うっ、と権兵衛が呻く。

「絶対に使わないと決まっている力なんて、無いのと同じよ。もしかしたら使うかもしれない、ぐらいは思わせないと、力には意味がなくなってしまう」
「そ、そうですけど……。でも、だからと言って」
「だからと言って、保身を理由に他者との付き合いを選ぶのは、健全じゃあない、って所?」
「……はい」
「なら、里との距離がより離れて、お前の言う恩返しとやらが、より遅くなるだろうと言うのは?」
「………………」

 黙りこむ権兵衛。
その顔が難しく歪んでいるのに、老婆心が過ぎたかな、と思わないでもない妹紅だったが、遅かれ早かれ、里と咲夜との様子を見れば、自分で考えつくであろう思考である。
ならば体がマトモに動かず、考え事の出来るうちにやらせておいた方がいい。
権兵衛の優しく真面目な気性は、千年を生きた妹紅にしても宝石のように貴重だと思えるが、だからこそ、助言できる事はしておきたい、と思う妹紅なのであった。
暫くの時間が過ぎた後、おずおずと権兵衛が口を開く。

「確かに、そういう面はあるのかもしれません」
「ふむ」
「しかし、俺の行動の不義理さは、俺一人を汚すのではありません。俺に手を差し伸べてくれた皆もまた、不義理な人間に手を貸した、目のない人妖として名誉を汚される事になるでしょう」
「……確かに、そうだろうね」

 権兵衛の言う事は事実であるものの、自分の首を締める発言だと分かっているのだろうか。
権兵衛の言の通りであれば当然、今現在、里にとって悪人である権兵衛は、その恩人達にとってどれほどの汚名となっているのだろうか。
最近、慧音と里との仲が少し余所余所しくなっているのに気づいている妹紅は、内心溜息をつく。
同じ思考に至って居たのだろう、びくり、と肩を震わせる権兵衛。

「そうなると、例えお前が暴力を振るえようと、お前が吸血鬼の犬と同じように力を背景に平等な扱いを強いるのも、したくないんだろう?」
「はい、勿論」
「となれば、お前は、ただ里人の悪感情を治めるよう、里に貢献し続けるしかないんじゃないか?」
「――はい、そう考えて、います」

 真っ直ぐな目でそう言う権兵衛の瞳は、妹紅の記憶通り、ドロリと溶け出した黒血で出来ていた。
目を逸らしたくなるのを僅かに震えるだけに抑え、妹紅はゆっくりと口を開く。

「十年も二十年もかかるかもしれないよ」
「覚悟はしています」
「その前に妖怪に喰われて死ぬかもしれないよ」
「出来るだけの努力はします」
「病気や飢えなんかで、苦しむだろうね」
「はい、恐らくはそうなるでしょう」
「そう、か……」

 権兵衛の目の怪しい輝きが陰ることのない事を知ると、溜息混じりに、妹紅は権兵衛から目を逸らした。
権兵衛の思いに、共感する所が無い訳でもない。
はるか昔、不老不死になったばかりの頃の妹紅も、権兵衛ほど無私では無かったものの、そう考えている所があった。
皆は不老不死になんてなってしまった自分を訝しがり、不気味に思うだろうけれど、貢献し続ければその限りではあるまい。
当時の妹紅にとってその手段とは妖怪退治であり、故に様々な村から追い出された時も、最初のうちは己の妖怪退治の腕が足りなかったからだと思い、腕を磨くことに腐心した。
当然、長くは続かなかった。
何時しか妹紅は人間と関係を築こうと思わなくなり、機械的に妖怪を殺し続ける事になり、最後には妖怪退治にも飽きてしまった。
だからだろう、権兵衛の言葉はその瞳と同じく狂わしくもあり、同時に懐かしく、眩しくもあるのだ。
この権兵衛の心も、果たして何時までこの通りに居られるだろうか。
何時か妹紅と同じく心が擦り切れ、他人の事などどうでもよくなってしまうのだろうか。
それとも寿命の短さ故に、死ぬまでその意思を貫き通せるのだろうか。
どちらにせよ、まだまだ権兵衛に助言できる事は多くあるに違いない。
その道は、はるか昔に妹紅もまた辿った道であるが故に。

 不意に、妹紅の鼻を夕食を作る匂いがついた。
そういえば、もうすぐ夕食時か、と、巫女を手伝いに行こうと立ち上がる。
するとふと思い当たった事があって、妹紅は、此処を出て行く前に、ちょっと権兵衛に聞いてみる事にした。

「そういえば、権兵衛」
「? なんでしょうか?」
「お前の術って、一体誰から習ったんだ? 我流にしちゃあ、洗練されていると思うんだけど」

 はて、慧音か、亡霊姫か、意外な所では月の頭脳辺りか、と検討をつけて、聞いてみる。
すると、権兵衛はその恩人が余程誇らしいのだろう、満面の笑みを浮かべて答えるのだった。

「――永遠亭の、輝夜先生に」



   ***



 藤原妹紅は、幸せだった。
何せ死ぬことを恐れる必要がなくなり、飢える心配だって必要なくなった。
勿論死ぬことが無くなって辛いことは一杯あったけれど、今はそんな事気にしない人々の近くで、得難い友人まで得て過ごせている。
更には輝夜という同じ不老不死の相手が居て、退屈せずに何時までも何時までも殺し合いを続けられるのだ。
藤原妹紅は、幸せであった。
満たされている、と言い換えてもいいかもしれない。

 ただ、そんな妹紅にも、ただ一つだけ心配事があった。
それは、宿敵の輝夜が、何時か永遠に居なくなってしまいはしないだろうか、と言う事だけ。
何時しか吸血鬼が月へロケットで行った時なんて、年甲斐もなく輝夜は月に帰ってしまわないだろうか、と盗み聞きにまで行ってしまったぐらいだ。
その時は輝夜が自らを、地上の民なのだと言うのを聞いて、安心したものだった。
これで、輝夜には結局私しか居ない。
どうせ他にやることなすこと消えてゆくんだ、私と殺し合う事だけは無くなりはしない、と。

 そんな折だった。
輝夜の、弟子。
自分に境遇を重ねていた男が、である。
最初はどうせ輝夜の事である、適当に教えたのだろう、と術を促してみせたが、非常に丁寧に教えられたのだろう、権兵衛は精密な術の運用を見せた。
それから聞いても居ないのに、嬉しそうに、輝夜がどれほど良い師であったか、どれほど気にかけてくれたか、を語って見せる。
そしてそれを聞きながらふと、妹紅はここの処輝夜と殺し合いにならなかった事に気づき、その時期が、察するに権兵衛が輝夜に弟子入りした頃からであると気づく。
突然の不安に襲われ、妹紅はその場を飛び出した。
そうでもしないと自分がいきなり暴れだしかねない事を自覚していたからだ。
目的も定めず全速力で飛び回り、兎に角頭を冷やそうとした。
そうして全身が疲れでぐったりする頃になってようやく妹紅は地面に降り立ち、それからそこが永遠亭の敷地である事に気づく。

 確かに、輝夜は権兵衛の事を大切に思っているのかもしれない。
だが、別に輝夜が妹紅と殺し合うのに飽きた訳ではなく、たまたま権兵衛を教える時期と殺し合いをしない時期が合っていただけかもしれない。
例え権兵衛の方が大切であったとしても、たまたま権兵衛が初期の非常に力が伸び易い時であったから、権兵衛が特別可愛く見えただけなのかもしれない。
それになんだかんだ言って、権兵衛は寿命ある人間なのだ。
いずれは朽ち果てる物なのだ、例え権兵衛の方が妹紅との殺し合いより大切でも、いずれそれも終わる時が来る。
そう自らに言い聞かせつつ、その証拠を取る為に、何時かと同じように妹紅は永遠亭の壁に寄り添い、耳をそばだてた。
すると、永遠亭独特の丸い窓辺から、明るい輝夜と永琳の声がする。

「じゃ、今日もお料理教室、お願いね」
「えぇ。輝夜も、今日はサボらずきちんと最後までやってね」
「うっ。だって、折角食べさせる相手の権兵衛が、まだ見つかっていないんだもの。先に権兵衛を探した方がいいと思わない?」
「輝夜じゃ邪魔になるだけよ。昨日も言ったけど、それぐらいならこうやって権兵衛さんへ作る料理の修行でもしてた方がマシだわ」
「はーい」

 矢張り、権兵衛か。
ドロッとした、権兵衛の瞳のような黒い物が腹の中で渦を巻くのを感じながら、妹紅は思う。
しかし、輝夜が料理、か。
あの、何でもされる側で、何かする側には永遠に回らないと思っていた、あのお姫様が。
権兵衛、あのたった一人の外来人に心奪われて。
ぎりっ、と言う音を聞いて、妹紅は始めて気づく。
自分が、血が滲む程に奥歯を噛み締めていた事に。
はぁ、と溜息を吐き出し、妹紅はどうにか体を脱力させる。

「じゃあ、食材の調達から、よ。輝夜、ちゃんと下剤を飲んで腸を空にしてきた?」
「勿論よ。服だって、汚れてもいいように着替えてきたもの」
「はいはい。じゃ、包丁を使って、食材を取り出すわよー」

 ふんふん、と聞き流していた妹紅だが、いやまて、と聞き捨てならない内容の会話に、固まってしまった。
腸を空に?
服が汚れて?
そうこうしているうちに、輝夜達は食材を取り出し終えたらしく、血がびちゃびちゃと飛び散る音がした。
同時、独特の血の匂いが広がり、妹紅は震える唇を噛み締める。
荒い息を整えながら、落としていた腰をゆっくりと上げ、そっと窓を覗き込んだ。
そこには。

「とりあえず、小腸と肝臓からかしら」
「モツにレバーね」

 自らの腹を切り開き、そこから臓物を取り出し、まな板の上に置いている二人が居た。
どうやら小腸から切り出すらしく、包丁をあて、腸の両端を切り落とし、それから裏返してぶつ切りに。
それは普段、妹紅が鳥や猪をバラして食べる時と、似たような所作であり――。
うっ、と酸っぱい物がこみ上げてきて、妹紅は思わず口元を抑えた。
そのまま後ずさるように窓から距離をあけるが、とんとんとリズミカルに鳴り響く包丁の音だけは、未だに妹紅の耳を打ち続ける。
なまじ普通の調理と同じ様子で行っているように聞こえるのが、余計にそれをおぞましく見せる。

 暫くはその何とも言えないおぞましい行為に顔を青くしていた妹紅であったが、やがて、その行為の持つ意味に気づく。
あれは、不死人の肝である。
あれは、権兵衛に食べさせる料理である。
であれば。
その料理を食べた権兵衛が、果たしてどうなるのか――。
当然、同じ蓬莱人になるに決まっている。

 愕然とし、妹紅は背を永遠亭の壁に預ける。
どっと音を立てて背が壁に打ち付けられ、それから、ずるずると重力に引きずられて、落ちてゆく。
自然、体が震えだしていた。
かちかちと歯が勝手に鳴り出し、自身をぎゅっと抱きしめても、止まらない。
涙さえ溢れてきた。
顔にじゅっと体温が集まり、塊になって零れ落ちる。
もんぺに次々と円形の染みが出来てゆき、繋がり、大きな染みへと変化してゆく。

「く、そう……」

 輝夜を見つけてから、三百年ぶりに味わう、孤独感であった。
まるで輝夜と権兵衛の周りにだけ明かりが当たって、自分は周りの暗闇の中からそれを眺めているしか無いように感じる。
恐らく輝夜は、弟子にして同じ蓬莱人である権兵衛と、仲睦まじく過ごす事だろう。
男と女だ、ひょっとしたら恋人にだってなるかもしれない。
その間に、恐らく妹紅の入る隙間など無いに違いないだろう。
そう思うと、もう出ないんじゃないかと思うぐらい出ていた涙が、更に勢いを増して出てくる。

「う、うぐ……」

 込み上げてくる涙に嗚咽しながら、妹紅はゆっくりと立ち上がり、その場を去ろうとする。
それが何とも明るく料理している中の輝夜達と対照的で、まるで自分は敗者だな、と自嘲しながら、ポケットに手を突っ込み、妹紅は歩いてゆく。
その背は時折込み上げてくるしゃっくりに上下しながらで、地面には点々と涙の後がついている。
丁度その反対側では、明るい声をあげながら、とんとんとリズミカルに包丁が音を響かせている。

 きっともう、私は輝夜と殺し合う事なんて無いんだ。

 そう思うと、再び妹紅の胸をぞっと絶望が襲ってきて、今度こそ声を上げて泣いてしまいそうだったので、妹紅は飛んで帰る事にした。
八つ当たりだと知っていても憎くて憎くて仕方のない、あの七篠権兵衛が寝ている神社へと。




あとがき
盛大に、と言うか長々と体調を崩して遅れましたが、更新です。
という訳で、妹紅&紅魔主従のターン開始です。
権兵衛の能力として“月の魔法を使う程度の能力”が今回出ましたが、彼は霊夢のような複数能力者なので、他に能力があります。


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