第一話『幽霊の住む家』
「この家さ、出るんだよ」
橙色の空。揺らぐ雲。落ちかけた太陽が滲んでいる。映るものの輪郭を覚束なくさせる夕暮れの空はまるで飽和した砂糖水のようだった。
時刻は五時。この部屋は一軒家の二階に位置しており、その上窓が西側にある。そのため夕日が無遠慮なまでに差し込んでいた。
部屋は空と地続きのように染まっている。強すぎる光が少しだけ目に痛い。
藤堂夏樹は逆光でよく見えない、急に語り出した部屋の主の顔を薄眼で眺めながら、ただ静かに耳を傾けていた。
「夜になると、リビングで変な音がしたりしてさ。一度気になって覗いてみたら人影が動いてたんだ。あれ、絶対幽霊だよ。最近は声も頻繁に聞こえるようになってさ、安心して眠れないんだよ。俺はともかく、幸子……妹になんかあったらと思うと余計に眠れない」
彼の名は金森卓也という。
学校帰りの夏樹とは違い制服こそ着てはいないが歳の頃は同じくらいだろう。声の調子に恐怖は感じられなかった。
見えてはいない。
しかしおそらく浮かんでいる表情は純粋に妹の心配をする兄のものだ。
それが簡単に想像出来るから、夏樹は気が重かった。
「お前さ、除霊ってヤツが出来るんだろ?頼む、どうにかしてくれないか。俺に出来ることなら何でもするから」
言葉と共に、座った状態から軽く握った拳を床につけて勢いよく頭を下げる。正座こそしていないものの体勢はほとんど土下座に近い形だった。
黙って話を聞いていた夏樹も、さすがにそこまでさせては悪いと思い、慌てて口を開く。
「そこまでしなくていいよ。頼むから頭を上げてくれ」
「じゃあ、除霊、頼めるか?」
一瞬、躊躇いがあった。しかし重々しく首を縦に振る。
「分かってる、やるよ。つーかそもそも俺はそのために来たんだしな。契約はちゃんと守るよ」
軽く溜息が零れた。
今回の件は夏樹にとってあまり気の進まない仕事ではある。
正直に言えば、出来れば断りたい類のものだった。
しかし、既に前金で十万円もの除霊料を受け取っている。金を貰っている以上依頼を断ることはできない。それがどれだけ気に入らない内容であったとしても、一度交わした契約を反故にすることは絶対にしてはならないというのが藤堂夏樹の中核を成す思考である。
「すまん、迷惑かける」
「いいって。卓也が悪いってこともないしな」
それは気を使った訳ではなく本心からの言葉だった。
別に誰が悪いという話ではない。
誰かが悪いというのならば、それは気の進まない仕事でありながら受けた自分自身だろう。とは言え普段世話になっている男の頼みを断るという選択肢など初めからない。
結局、今回の依頼を受けたのは当然の流れだったのだ。
藤堂夏樹は中学三年生であり、今年は受験生としてそれなりに忙しい日々を過ごしている。
しかしながら、彼の毎日が忙しいのには受験以外にもう一つ理由があった。今日金森家に訪れたのも、夏樹が持つ中学生らしからぬ後者の理由によるものだ。
結論だけ言ってしまえば、藤堂夏樹は俗に除霊師と呼ばれる存在だった。
夏樹には幼い頃から多少ながら霊感があり、その能力を活用して成仏できない霊を払う、いわゆる除霊というものを行っている。
それは今回のように依頼を受けて行う場合もあるし夏樹自身の意思で行う場合もあった。どちらにせよ彼はまだ小学生だった時分からオカルトじみた世界に足を踏み入れ、今でもそういう生活を続けているのである。
勿論、『俺、実は除霊師なんだ』と喧伝したところで馬鹿にされるだけなのが分かっているため普段は隠している。
しかし夏樹自身が言い回らなくとも長い間続けていれば噂というのは拡がっていくもので、ごく少数ではあるものの彼が除霊師であると知っている人間もいる。そうすれば自然、除霊の依頼をしてくる人間も出てくる。
今回もそういった経緯で夏樹に徐霊の依頼が舞い込んだのであった。
「よし。取り合えず詳しく話を聞かせてもらおうかな」
どかりと腰を下ろし表情を引き締める。
除霊の確約を取れて安心したのか、卓也は先程までの神妙な顔つきから一転、快活な笑顔を見せた。
「夏樹っありがとう!やっぱお前は友達、いや親友だ!」
「なんか俺凄い勢いで出世してるな」
二人は下の名前で呼び合っているが、実の所そんなに親しい間柄ではなかった。
というより彼らが会話を交わしたのは今日が初めて、それも実に一時間程前のことだった。こんな短い時間で親友になるのなら明日になったら家族か兄弟にでもなっているかもしれない。
正直卓也のこういった調子のいいところには呆れもするが、その物怖じしない感情表現と純朴さは今のご時世では結構貴重な才能ではないかと夏樹は思う。別に羨ましい訳ではないが。
「親友どうこうは置いとくとして。卓也が見た幽霊の話を聞かせてくれよ」
幾分声が低くなった。その響きに空気が変わったことを感じたのか、卓也は静かに頷き、重々しく自身が見たモノについて語り始めた。
*
夜半、奇妙な胸騒ぎに突き動かされ卓也は部屋から出て一階へと続く階段をゆっくりと下りる。
下から音が聞こえたから、もしかしたら泥棒でも入ったのではと思ったのだ。
廊下に着いた時点で音が気のせいではないと気付いた。
ぱち、ぱち。
枯れ木が燃えるような音。
音はどうやら居間から聞こえてくるらしい。
夜の暗さにも慣れた。卓也は音を立てずに前へ進む。
そうして居間に足を踏み入れるが、そこには誰もいなかった。
奇妙な音は気付けば消えている。
代わりに呻くような女の声が響く。
居間には誰もいない。
女の声はだんだんと強くなっている。
一瞬、夜の闇の中で鈍く光るものがあった。
誰もいない。それは間違いなかった。けれどそこには確かに誰かがいる。
何もない。その筈の空間で、うっすらと何かが揺らいだ。
女の声が一際大きく響き。
その先には、青白い、人影が─────
*
「とまあ、こんなとこだ。見た瞬間部屋に戻ったからはっきりした姿とかは見てないけど。女の声ってのは多分合ってると思うぜ」
「女の声、ねぇ」
話を聞き終え夏樹は軽く顎を弄りながら呻いた。別に鬚を蓄えている訳ではないが、その仕草は夏樹が考え事をする時の癖だった。
「俺が話せるのはこれくらいなんだけど、参考になったか?」
「ああ、助かった。ありがとう」
「そっか、ならよかった。でもさぁ、俺こんなことになるまで幽霊ってあんま信じてなかったんだよな。夏樹は除霊師っていうからにはいろいろ見てきたのか?」
「それなりに、ね。俺は昔から幽霊が見えてたから、幼稚園くらいの時は幽霊と生きてる人間の区別がつかなくって、皆の前で誰もいないところに話しかけてるってことが結構あった」
「はぁー、それは洒落にならないな」
「おかげで俺は近所でも噂の変なガキだったなぁ」
今でもやっていることは然程変わらないか、と夏樹は思わず苦笑した。
「幽霊ってやっぱりうらめしや~てのが多い?」
「そんなことはないかな。幽霊を現世に留めるのは未練とか執着とか、そういう死んだ人間が最後に持っていた『想い』なんだ。別に恨み嫉みを抱いて死んだから幽霊になる訳じゃない。愛情とか、楽しいことがしたいとか、そういう明るい理由を持った幽霊だっている。要は方向性に関係なく強い『想い』を持ってる奴だけが幽霊になるんだよ」
「明るい理由って……なんか怖くないなそれ」
「まあ理由が明るかろうが何だろうが幽霊ってのは大概報われないもんだけどな。納得して死ねなかったから幽霊になるんだから」
そう言った夏樹の表情は軽い口調とは裏腹に暗かった。幼い頃から幽霊を見続けてきた彼は、つまりそれだけの数の報われないモノを見てきたということだ。それが感じ取れたからか、卓也は急に、何かを探すように辺りを見回し始めた。
「そういや、幸子遅いな。いや、幸子って俺の妹なんだけど、今日はまだ帰ってきてないんだよな。お前にも紹介してやりたいんだが。あ、手は出すなよ?もし妹になんかしたら全力で殴るから」
「馬鹿言うな、出してたまるか」
「なっ!?夏樹、お前は幸子に不満があるってのか!?」
「お前はどうしたいんだよ……」
夏樹の声が部屋に空しく響く。表情はまだ晴れないがもう先程までの重苦しい雰囲気は完全になくなっていた。
「つーか、お前シスコンだったんだな。それも重度の」
「勿論だ、俺はお兄ちゃんだからな。かわいい妹のためなら何でもするさ!」
シスコンという言葉を完全に肯定され、どう返していいのか分からず夏樹は押し黙った。その様子を見て卓也は声をあげて笑う。
「ま、お前も幸子みたいにかわいい妹を持てば、いや幸子に会えば俺の気持ちが分かるさ」
「かわいい妹ねぇ……」
満面の笑みを浮かべる卓也とは裏腹に、夏樹は眉間に皺を寄せた。出来れば会いたくはないと考えていたからだ。
そんな面影は欠片も残っていないと思うけど。誰にも聞こえないように夏樹は口の中だけで言葉を転がした。
ふと窓の外に目を向ければ空はいつの間にか暗くなっていた。随分長い時間居座ってしまったらしい。夏樹は立ち上がり軽く制服のズボンを叩く。少しだけ埃が舞った。
「ま、とりあえず聞きたいことは聞けたし、今日は帰らしてもらうな。また明日、いや明後日来る。その時に除霊をやるから」
「……今日じゃ、駄目なのか?」
「悪いな、いろいろ下準備があるんだ。今日は出来ない。俺はそんなに有能な除霊師じゃないからね」
それは謙遜ではなく単なる事実だった。
彼は除霊師を自称し、事実過去に何度も幽霊を払ってきた。
しかし彼自身の能力は決して特別なものではなかった。
夏樹は除霊師といっても法力や陰陽術などが仕える訳ではない。
剣道を嗜んでいるため運動能力はそれなりだが、それもあくまで部活レベル。霊を切り裂くなどといった技も使えない。
そもそも彼には除霊師を名乗れるほどの力がある訳ではなかった。
酒や塩を使えば簡単な邪気払いはできるし、呪具を使えば幽霊を強制的に成仏させることだって一応はできる。しかしそれは夏樹の力ではなく単に道具がそのような力を持っているに過ぎない。
実の所、夏樹自身には『幽霊が見える』『幽霊と喋れる』程度の霊感しか備わっていないのである。
だから彼が除霊をしようとするのならばそれ相応の準備がいる。
話が通じる相手なら説得する。
その幽霊が執着しているものが分かればそれを取り除くことで成仏させる。
どうしようもない悪霊ならば強制的に除霊する。
どんな方法を取るにせよ入念な下調べと準備が必要なのだ。
「……分かった、明後日なら出来るんだよな?」
「ああ、それは間違いなく」
確信を持って頷く。それに安心したのだろう、卓也は暗い雰囲気を吹き飛ばすように快活な笑みを浮かべた。
「でも帰るにしてももう少し家にいたらどうだ?多分もうすぐ幸子も帰ってくるだろうし」
「いいよ、どうせ後で嫌でも会わなきゃいけないんだから」
捨て台詞のように吐き捨てて踵を返す。後ろで何かを言っていたが、その声には耳も貸さず夏樹は足早に部屋を後にした。
*
金森家から出ると辺りは既に暗く、閑静な住宅街は殊更静まり返った印象を受けた。
夏樹は少しだけ肩を震わせた。日が落ちると随分冷え込む。そう言えばもう九月も終わりだ。これから少しずつ寒さは厳しさを増すだろう。それを億劫に思いながらも、しかし今は震えるほどに冷たいと感じる風がどこか心地よかった。
「さて、まずは情報収集か」
歩きながら携帯電話を取り出し電話帳検索、目当ての名前を見つけ発信。コールの三回目の途中で繋がり、電話の向こうがらしゃがれた声が聞こえてきた。
『おう、どうした。夏』
「あ、岩本さん?すんません、ちっと頼みたいことがあるんですけど……」
岩本は夏樹の父親の友人であり、その職業は現役の刑事だった。
夏樹にとっては子供の頃からよく家を訪ねてくる優しいおじさんである。除霊師としての活動も知っており、彼自身には霊感の類はないが、夏樹を信じ手助けもしてくれる一番の理解者でもあった。
電話の向こうの岩本に手早く頼みごとを説明すると、彼は二つ返事で了解してくれた。そして軽く雑談を交わして電話を切る。一連の動作が終われば疲れたような溜息が零れた。岩本との会話のせいではない。今回の件を受けたのはやはり失敗だったかもしれないと今更ながら思ってしまったからだ。
「でもまぁ、卓也とも約束しちまったしなぁ」
もう止めることが出来ないのは分かっている。
それでも気が進まないことには変わりなかった。
どこかすっきりとしない気分のまま夏樹は帰り道を歩いていた。足取りは重い。気分が滅入っているのだと自分でも理解できた。
「どうせ後味悪い結果になるんだろうし。ほんと、報われないなぁ」
誰もいない暗い夜道。
我が物顔で空に鎮座する月を睨みながら夏樹は小さく呟いた。
砂糖水の夕暮れは少しの時間しか味わえない。
その後にやってくるのは塩水のような夜だ。