今年の日露関係は大いに荒れた。その極め付きが、メドベージェフ大統領による北方領土の国後島訪問であり、日本政府は「事前に情報をつかめなかった」と河野雅治・駐露大使の責任を問い、更迭を決めた。だがこの決定は、首相官邸と外務省本省による責任転嫁と思えてならない。政府が取り組むべきことは、一官僚の首を切り、みそぎを済ませることではない。
ロシア大統領が11月1日に強行した国後島訪問について、河野氏は本国に「誤った情報を伝えた」という。果たしてそうだったのか。河野氏は「訪問」の4日前のモスクワでの会見で、「訪問に関して精度の高い情報はない」と述べた。ロシア側の話を精査すると、この時点で河野氏の見解は間違っていなかった。
私の取材では、大統領は10月30、31日の東南アジア諸国連合(ASEAN)関連会合でベトナムを訪問した最中かその旅程で国後行きを決めたとみるのが妥当だ。「本当に国後へ行くとは思っていなかった」と、あるロシア側の関係者は打ち明ける。実際、ロシア政府は大統領のベトナム滞在中、本来予定していた帰途の経路を変更した旨を、領空を通過する関係国に連絡したという。
首相官邸に誤った見通しを伝えた責任は、むしろ外務省本省にあると思う。担当部局の幹部は記者団にも「この時期にメドベージェフ大統領が行くとは思わない」と話していたと聞いている。
菅直人首相は河野氏に対し、日本に呼び戻して事情説明を求めた際の対応に激怒したという。毎日新聞も報じた(今月24日朝刊1面)ように、河野氏が「私はロシアに詳しくないので」と口にしたとしたら、プロの外交官として失格だ。だが、そんなやり取りがなぜ漏れたのだろうか。官邸が「河野氏のつるし上げ」を演出したかったとの臆測も流れている。
菅首相もメドベージェフ大統領と同時期にベトナムに滞在していた。もともと首脳会談は予定されていなかったが、大統領の国後島訪問観測が流れていた。首相がその気になれば、大統領に接触し、直接自制を求める機会を持てたかもしれない。実際、温家宝・中国首相との会談は実現させたではないか。
河野氏を切り捨てた格好の外務省は、北方領土問題の解決に向け「新たな戦略」を立て、仕切り直しに臨む。だが、今の日露関係の現状を見れば、秘策はないように思う。
「日本がロシアへの経済協力を強化すれば、領土問題で相手は歩み寄る」。実際、ロシアは日本の高度な技術力にあこがれを抱いている。だが、このような考え方は幻想に近い。メドベージェフ大統領は24日の会見で、北方四島の経済共同開発を呼びかけたが、企業の利潤が保証されない中で、今の日本はかつてのソ連時代のように官民のスクラムが組めなくなっている。リスク覚悟でロシアに来ている韓国企業と比べると、日本企業の慎重な姿勢が目立つ。
「ロシアは2島返還で決着を望んでいる」。このような「通念」も検証が必要だろう。ロシア政府は日ソ共同宣言(1956年)に基づく交渉を主張してきた。宣言には「平和条約の締結後、(ロシアは)色丹島と歯舞群島を引き渡す」と明記されている。
だが、ロシアが共同宣言を持ち出すのは、日本が求める「4島の日本帰属」を確認することを回避したいというのが真意だ。大統領は先の会見で、北方四島の主権を放棄しない考えを示したし、ロシアの官僚は私に「日本が2島で納得しないので、(2島すら返さなくても済むから)実は助かっている」と語った。
領土交渉を巡る見通しは非常に厳しい。だが「ペンペン草も生えない荒野」が広がるようなイメージでもない。気が付かないところで、草の根の関係を支えている人たちがいる。また大木俊治記者(前モスクワ支局)が10月29日「記者の目」で書いたように、ロシア人の日本文化へのあこがれは相当強い。そして彼らの多くは、北方領土問題を含めた自国政府の強硬姿勢を批判する「常識」も持ち合わせている。
ロシアはここ数年、中国やノルウェーを相手に係争地や大陸棚の領有権を折半する解決法を取ってきた。ロシアはいずれの場合も、早期に問題を解決した方が得策だと判断し、一定の譲歩をした。
外交は政府首脳や外交官だけが担うのではなく、民間人を含めた国全体の付き合いである。日本人が考え直すべきなのは、ロシアへの接し方なのかもしれない。現在のように「領土問題を解決するために付き合う」のではない。ロシアとどっぷりと付き合う中で、「日本と手を打った方が有益だ」と相手に思わせる環境が作れれば、光明が見えてくるかもしれない。
今回の「外交的な敗北」を糧に、強大な隣国ロシアとどう付き合うか、真剣に考え直すべきだろう。
毎日新聞 2010年12月29日 0時01分
| 12月29日 | 駐露大使の更迭=大前仁(モスクワ支局) |
| 12月28日 | 外務省有識者委報告後の「密約」論=岸俊光(東京学芸部) |
| 12月24日 | 手つかずの民主党年金改革案=吉田啓志(政治部) |
| 12月23日 | 被爆65年の広島で考える核廃絶=加藤小夜(広島支局) |
| 12月22日 | 電子書籍元年=佐々本浩材(東京学芸部) |