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[21689] 【ネタ】トリスタニア診療院繁盛記【ゼロの使い魔・転生】
Name: FTR◆9882bbac ID:80e86311
Date: 2010/11/21 20:34
これは100%厨脳が生み出したネタ話です。

・萌えません。
・結構イキバタなので脈絡を期待しないでください。
・家庭の医学事典レベルなので、医学系の考証をしないでください。ボロが出ます。
・クロスオーバーが発生します。
・説教くさいところがある可能性があります。
・ご都合主義があります。
・ロリババアってこうですか!?わかりません!!

等々。

細かいことを気にしない、おおらかな方のみご笑読くださいませ。
細かいことを気にしない、おおらかな方のみご笑読くださいませ。

大事なことなので2回書きました。


9.5 その4はしばらく欠番
9.19 その4の改訂版 公開
11.09 諸般の事情により その8 修正作業中
11.10 その8 修正版公開



[21689] その1
Name: FTR◆9882bbac ID:80e86311
Date: 2010/11/08 01:05
トリスタニアの朝は、日の出とともに動き出す。
往来を行きかう行商や運搬の音を聞きながら、私は目を覚ました。
およそ7時くらいであろうか。
職人に比べれば遅い朝だが、主観的にはかなり早い。

のそのそと芋虫のように起きだして、玄関の外にある牛乳受けから牛乳を取り出す。
左手は腰、正面に向かって斜め45度で立ち、ビンを持つ手の小指は天を指す。
これが様式美というものだ。

身長140弱。
私に胸周りのサイズを最後に訊いた奴は、街外れの墓場に眠っている。
今年で20歳なのに、どこから見ても10かそこらの小娘のこの体。
対抗する手段としては今飲んでいる魔法の薬しか思いつかないのが目下の最大の悩みだ。



「先生!」

人の流れを見ながら私が口の周りに白い髭を作っていると、通りの向こうからでかい声ととも大男が数名駆けてきた。

「何事だい?」

男は顔見知りの鍛冶屋の頭領だったが、後ろに徒弟と思われる体格のいい大男数人が戸板のような板を持ち、その上に一人の青年が苦悶の表情を浮かべて横たわっていた。

「ジャンの奴が昨夜から腹抑えて苦しんでてよ、今朝になったらあまりにも様子がおかしいんで連れて来たんだ。頼む、何とかしてくれ!」

確かに苦しみ方が尋常ではなかった。

「そのまま処置室に運びな。靴はお脱ぎ」

私は院内に戻り、急いで壁にかかった白衣を手に取る。

「テファ!」

「は~い」

打てば響くタイミングでキッチンから朝食の準備中だったテファが出てくる。今朝も相変わらず美少女全開だが、今はそれを愛でている場合ではない。

「大鍋にお湯を沸かしな。終わったらディーを呼んどいで」

「急患ですね。すぐに」

テファが釜戸に向かう間に診察室に患者を運び込み、マスクと手袋をはめる。

「そこに寝かせたら、親方以外は外でお待ち」

聴診器付けて患者の具合を診察し、その間に親方から食べたものや嘔吐などがあったか等を確認する。
聞けば、典型的な症状だった。

「・・・食中毒だね」

「しょ、食中りかい?」

「熱がある。食中りよりもうちょっと性質が悪いね」

O157とかこの世界にあるのか知らんが。

「し、死んじまうのかい!?」

「このままなら下手すりゃ葬式コースだが、心配はいらないよ。この道でおまんまをいただいているんだ、これくらいなら何とかしてやるよ」

私は棚からいかにもポーションな形をした薬瓶を取り出す。

「苦しいかもしれないが頑張ってお飲み」

親方に手伝ってもらいながら無理やりに患者に飲ませた。毒消しの魔法がかかった秘薬だ。
何度かせき込みながらも青年はきちんと飲みこみ、数分で呼吸が落ち着き始めた。

「このまま半時もおいておくといい。力が戻ったら帰っても構わないけど、今日明日は一日静養して、ミルク粥みたいな柔らかいもの以外は食べないこと。酒は禁止だよ」

「もう大丈夫なのかい?」

大丈夫といえば大丈夫だが、私にはちょっとした予感があった。

「この患者はね。大丈夫じゃないのはこれからだろうね。ほれ、おいでなすった」

待合室の方から聞こえた悲鳴のような声に私は呟いた。

「先生、うちの人が!」

あの声は角の酒場のおかみさんだ。運ばれてきた旦那を見ると、苦しみ方が先の男と良く似ている。

「集団食中毒かい。今日は忙しそうだ」

私はため息をついた。

「お湯沸きました・・・まあ、また急患ですか?」

鍋を持って入ってくるなりテファが目を丸くした。
ミトンの手で口元押さえる。可愛いぞ、おい。

「ちょいと今日は大変かもしれないよ。ディーと一緒に、処置室の荷物を奥に片付けとくれ。廊下にも患者を並べなきゃならないかも知れないよ」




その日、運ばれてきた患者は25人。
問診をした結果、全員が市で行商人が売っていた魚の酢漬けを食べていた。
すぐに親方の丁稚を番所に使いに出し、まだ市で商売をしていた商人を抑えてもらう。
細かいところはお役人に任せてこっちはこっちでお仕事だ。

「お疲れさま」

夜になってようやく椅子に座れた私に、テファがお茶と菓子を持ってきてくれた

「ありがとうよ」

お手製のクッキーは実に美味い。

「お食事、もうじきできますからね」

さすががに腹がすいた。朝牛乳を飲んだきりだったのだ。

「すまないね。さすがにもういないだろう」

その時、扉が開いてディーが入ってくる。
長身細身の美丈夫だ。右頬の絆創膏がチャームポイント。

「看板はもう降ろしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、すまないね。頼めるかい」

ディーは一礼して看板を降ろしに出て行く。気の回る男だ。

肩の力を抜いて、両手でカップを持ってしみじみと紅茶を啜る。
それを見たテファがおかしそうに笑う。見た目が美の権化のような娘なだけに、こういう無垢な笑顔はもはや凶器に近い。

「何か変かい?」

「先生、しゃべり方も立ち居振るまいもお婆さんみたいなのに、そういう仕草だけは年相応の女の子に見えます」

「う、うるさいね」

何だか結構失礼なことを言われているような気がする。確かに身長は彼女の胸のあたりくらいまでしかない。
見た目はどう贔屓目に見ても幼女以上の少女未満だ。
この手の商売では何かと不自由ではある。

そんな時にディーが看板を持って入ってきた。

薬の絵柄と、文字を使った看板だ。

文字にはこう書いてある。



『トリスタニア診療院』




[21689] その2
Name: FTR◆9882bbac ID:80e86311
Date: 2010/12/10 17:57
自分が転生したことは早々に自覚した。

これでもネットのSSなどを読んでいたので免疫はできていたが、それでも我がこととなると結構驚いたものだった。

生まれたところはアルビオン。
名前はヴィクトリア。
親父殿はかの有名なプリンス・オブ・モード。私はその嫡女に当たる。
つまり正妻の子だ。
ヴィクトリア・テューダー・オブ・モードというのがフルネーム。

正妻と言っても政略結婚だった父母は仲が悪く、父はほとんど見たことがない。
それでも何度か私の顔を見に来たことはあるが、虫を見るような目で私を見ていたのが印象深い。
その分母は母で燕狩りに血道をあげ、充実した日々を送っていたのだからお互い様だろう。
余計な面倒がない分だけは気楽に幼年期を過ごし、思ったより早く4歳で魔法を使えるようになった。
多くのSSで述べられているように、現代の物理を知っていると魔法への応用が有効であるらしい。
風の国ではあるが、私の属性は水だった。
初めて使う魔法はなかなか面白く、10歳になるくらいの時にはラインに手が届いた。

しかしながら、私が発育不良に悩んでいる15歳の時に事件は起こった。
おとんが愛人のエルフを匿ったアルビオンを揺るがした政治的スキャンダルという奴だ。
私自身何とかしようと思ったが子供の身で何ができるという話であり、時局に翻弄されるままに家の取りつぶしが濃厚になった。
後日、おとんはあえなく処刑。涙はかけらも出なかった。
正直、悲しいとも何とも思わなかった。
私はといえば、雲行きが怪しくなった時点で一方的に離婚を突きつけたおかんと一緒におかんの生家である
アルビオン辺境のとある侯爵家に身を寄せた。

その侯爵がまた問題だった。

モット伯というスケベ野郎のことは皆さんも御存じと思うが、この家の侯爵、そのモット以上の変態で、
真性のペドフィリアだったのだ。

私は外見がもろに彼の好みに合ったらしく、ある夜寝室に召しだされた。
いきなり大の男に組み敷かれては幼女の筋力では如何ともしがたい。
そんな私を救ったのが彼が飾りと思っていた杖だった。
既にブレイドの魔法が使えた私は組み敷かれながらもルーンを唱え、遠慮なく侯爵に斬りかかった。
その時の悲鳴の甘美だったこと。
男性自身を斬り飛ばされてのたうち回る侯爵を置き去りに、私はおかんのところに走った。
そのままおかんを連れて出奔するつもりだったのだが、寝室に逃げ込んできた私に向かっておかんは傲然と非難の言葉をぶつけた。

その時、私は初めておかんがおかんの兄にあたる侯爵に私を売ったのだと理解した。

そうなるともはやこの屋敷は四面楚歌。
慌てて杖を構えるおかんに、私は感情のままにウォーターハンマーをぶつけた。
殺す気だったと思う。
私の成長が止まってしまったのは、その時の精神的なショックのせいかもしれない。
同時に、この時を持って私はトライアングルになった。

壁に叩きつけられてぐったりしているおかんの生死を確認せずに枕元にあったおかんの秘蔵の宝石箱を鷲掴みにし、
次いで自室に戻って鞄に詰められるものをすべて詰めて窓から夜の闇に飛び込んだ。
自由への遁走は紆余曲折はあったが、こちらを子供と舐めた大人の裏をかくことはさして難しくなかった。
宿屋には手配が回ったようだが、誰もやんごとなき身分の小娘が襤褸を着て浮浪児になっているとは思わなかったらしい。
そんな逃亡生活の中、酒場で細かい用事をすることで日銭を稼いでいたら、酔漢からサウスゴータにテファとその母がかくまわれており、それを狩り立てる部隊が派遣される話を聞いた。

その言葉を聞き、心の中に小波が立った。
この重要なイベントを忘れていたのは、まさに痛恨の極みだ。
父の愛妾シャジャルと娘のティファニアを襲った悲劇は、あの作品の中でも数少ない悲しい出来事の最たるものだったと思う。
今からでもいい、助けられるものなら助けたいと言うのが私の偽らざる気持ちだった。
ティファニアのような少女には幸せになって欲しいと原作を読みながら思っていたくらいだ。
しかし、兵隊相手にトライアングルとはいえ小娘の私が正面から殴りこんで何ができるか。
私は思い立った。


ここは使い魔だ。


何が出てくるかは判らないが、運が良ければティファニア親子を助けられる力を手にできるかもしれない。
願わくばドラゴンないしは幻獣、犬猫の類だった場合はティファニアたちの命運はここまでということだ。
意を決して私は召喚を行った。

結果から言えば私は望外の使い魔を呼びだせた。

その力を借りて一気にサウスゴータ領主の屋敷に乗り込んだが、一歩遅かったことを悟る。
その部屋で行われていたことは今思い出しても吐き気が込み上げてくる。
屍姦の真っ最中だった男たちは入ってきた私に驚き、次に笑みを浮かべた。

「これはこれは、大公の御息女ではありませんか。このようなところに何の御用ですか?」

「貴様ら、これが栄光あるアルビオン騎士の所業か。恥を知れ」

「何を言うのかと思ったら。いっそ殿下も混ざりませんか。背教者の娘にして親殺しの咎人とくれば処刑は免れんでしょう。とは申せ、生娘のままというのも不憫、私たちでおもてなし致しましょう」

「あ~、そうか、わかった。要するにあれだ」

怒りが質量を増し、増しすぎて自重で自らを押しつぶして黒い塊となって心の中に転がった。
なるほど、これが憎悪か。
自分の瞳から光が消えて行くのが判った。

「殺していいんだな、お前ら」


下郎どもを皆殺しにし、隠れていたテファを救い出したところに血相を変えたマチルダが駆け込んできた。
一瞬杖を向け合うが、すぐにお互いの正体を理解して杖を収めた。
仔細を話し、アルビオンを脱出するために手を取り合った。
テファの母は私が水魔法で清め、マチルダが着衣を整えて化粧を施してベッドに寝かせ、屋敷に火を放って荼毘に付した。


マチルダが手綱を取る馬車で、私たちはダータルネスを目指した。
道中にかかった追手は私の使い魔が退けた。
人を、何人も殺した。
殺されて当然の畜生も多かったが、中には忠義溢れる若者もいた。
どれも私の罪だ。
いいだろう、その血まみれの手で生きて行ってやる。
私たちは貨客船に荷物にまぎれて乗り込み、アルビオンを脱出した。
それなりの金を払うと船長はにやけてうなずいてくれた。
金の力は偉大だと思った。

たどり着いたトリステインで、私は小さな診療所を始めた。
道中考えていたことだ。
どこかの貴族を頼ることはできない。市井に紛れざるを得ないとなるとそこで生きて行く基盤が必要だ。
マチルダは土の系統、テファは魔法が使えない。
そこでテファには診療所の助手をお願いし、マチルダには得意の土魔法で工房を開いてもらうことにした。
スタッフとしては私の使い魔を付けた。
ブルドンネ街に店舗を買って、私の知識にあるものを商品化してもらう。
ささやかなチート。
鉛筆である。
製法は昔のテレビで見て知っていた。
ありがとう、モグタン。
製品として耐えるものができるまで1ヶ月かかった。
これを商工会の販売ルートに乗せてもらう。
直販をするほどの企業体力がないのでここは既存の販売網に乗ったほうが得策だったからだ。
屋号は昔のゲームから取って『マチルダのアトリエ』とした。

当人は赤面して嫌がったが、私とテファが賛成したので多数決が成立した。
実際、マチルダも内心はまんざらでもないようだったが。


私のほうも何とか体裁を整え、平民の病気や怪我を見る診療所として役人に届け出を出した。
町内会や商工会には概ね歓迎された。
メイジが診療所を開くこと自体が異例なことだからだ。
この時代、民間医療は無きに等しく、治すとなると法外な値段で水メイジに依頼しなければならない。
一般市民の平民には手が出ない治療も少なくなくたいていは効くか怪しい薬を薬師から買うくらい。
このニッチにもぐり込む。
私たち4人くらい食べて行く程度ならさして金はかからない。
手持ちの資産は非常時のために取っておくとして、大店の商人からはたんまりいただくが、
今日の糧にも困る貧民には無償で治療を施す体制で商売をした。
私の場合は前世の知識があるので少なくない部分で魔法一辺倒ではない治療が可能だ。
水の秘薬を高額で売りつける訳ではないお手ごろ価格の治療法が安心を呼んだのか、
程なく違和感なく街の一部に溶け込むことができた。



私としてはここが「ゼロの使い魔」の世界であるという認識はあるものの、幸い貴族としての立場は既にない。
原作キャラに交じってスリルと冒険の日々を送る可能性はないと思っていいだろう。
英雄のような武勇伝は必要ない。賢者の英知も私には無用だ。


こんな言葉がある。

『 光と闇、秩序と混沌、そして剣と魔法の入り交じる世界があった。
 伝説的な英雄と世紀末的な怪物が激しくぶつかり合う世界
  今まさに、世界の攻防は彼ら、選ばれた者たちの手に委ねられようと
  していた。

  だが、そんな英雄物語は彼らに任せておけばよいのだ。
 世界の大半の人間には、英雄も怪物も関係ない。自分たちにできるこ
 とをやり、今日を平和に生きることができれば、皆それで満足なのだ
 から』



けだし名言である。
市井の一市民としては、ただ日々の糧を得ながら生きていければそれで十分なのだから。
まあ、よほどのことがなければ原作組の珍道中に巻き込まれることもないだろうけどね。










そう思っていた時期が私にもありました。



[21689] その3
Name: FTR◆9882bbac ID:80e86311
Date: 2010/09/29 21:05
診療院のルーチンは、午前中は外来、午後は往診となっている。
将来的には金をためて病棟を拡張し、入院設備を備えるようにしたいと思っている。
いかんせん往診というのは移動の時間が馬鹿にならならないし、診られる患者の数も限られてくる。
より重篤な患者から診るようにしてはいるが、道順の都合もあってなかなかうまくいかないこともある。

白衣を着て気だるそうに街を行く私の姿はすでにこの界隈ではおなじみのようであり、たまに商店が
通りすがりの私にいろいろくれるのでありがたい。
そんな戦利品のひとつである洋ナシを齧りながらの帰り道。
今日の往診は高齢のご隠居だった。
老衰が進んで寝たきりになっており、床ずれがひどいので治癒をかけて、こまめに姿勢を変えてあげるよう
家人に指示した。
さすがの魔法でも、天が定めた寿命には逆らえない。

そんなことを考えながら歩いているときだった。
私のすぐ隣に、4頭立ての豪勢な馬車が止まった。
何事かと見上げると、扉が開いてにやけたおっさんが私を見下ろしていた。

「ほほう、遠目で見た以上の器量だな」

「何だね、お前さんは?」

「ふふん、ずいぶんな口をきくではないか」

「用事がなかったら声をかけないどくれ。私は忙しいんだ」

「用事か。そうだな、あるといえばある」

「何のことだい?」

数秒後、私は食べかけの洋ナシを落として忽然と路上から消えた。




「ヴィクトリアが?」

診療院に昼飯をたかりに来ていたマチルダは素っ頓狂な声を出した。
知らせに来たのは八百屋のおかみである。

「そうなんだよ。いきなり貴族の馬車にひっぱりこまれてさ」

「杖くらい持ってたんだろ、あの子?」

「いくら杖があるったって、先生は子供じゃないかい」

「子供って・・・あの子あたしとそう変わらないんだけど・・・」

「とにかく、何とかならないかね。あれ、噂のモット伯だよ」

「モット・・・ってあの宮廷勅使の?」

マチルダも、街娘を浚っては無体を働くスケベ貴族の名前は聞いたことがあった。

「どうする、ったって・・・ねえ」

「その、どこか頼れるところはないのかい?」

「頼るというより、祈るばかりだよ」

「祈る?」

「そのモットっておっさん、無事だといいんだけどさ」

困った顔でマチルダは頭をかいた。




「ふふ、緊張しているのかな?」

居間に通され、私はソファに座るよう言われた。
周囲を見ると、まあ金が唸っていること。置物ひとつとってもうちの年商くらいはあるかも知れん。

「まずは湯浴みをしてきたまえ。詳しい話は夕食後にゆっくりしようじゃないか」

「話、ねえ・・・」

正直、クソ伯父の影響かこの手の野郎には鳥肌が立つような嫌悪感がある。
さっさと帰りたいところだが、まっすぐ帰るのも芸がない。
ここはひとつ趣向を凝らすとしよう。

「あ~、すまんがモットさんとやら。私にも用事があってね。できればそろそろ帰らせて欲しいんだが」

「おや、君はまだ自分のおかれた立場が判っていないようだね」

「わかっているつもりだよ。助兵衛なヒヒ爺に浚われ、夕食後に花を散らす運命にある哀れな青い果実、ってところだろう?」

「・・・ずいぶんはっきり言うね。まあ、そんなところだが」

「悪いことは言わん。私はやめときな。家名が地に落ちても知らないよ」

「はは、なかなか怖いことを言うね」

「判ったらさっさと解放しとくれ。できれば明日の診察は開業したいんでね。早くしないと大変なことになるよ?」

「大変なこと?」

「大変なことは大変なことさね・・・が、どうやら遅かったようだね」

「ん?」

モットが首をかしげるのと同時に、庭に面した壁が爆発するように砕け散った。

「何事だ!?」

「だから言ったのにねえ」

埃の中から、一人の美丈夫が現れる。両手にそれぞれ槍を持ち、猛禽のような視線を周囲に走らせる。

「御無事ですか、主!?」

「問題ないよ」

「我が主がかどわかされるのに気付かぬとは一生の不覚。お叱りは後ほど」

「気にするんじゃないよ。本気でまずかったら助けを呼んださね」

「何者だ、貴様!」

モットのおっさんが杖を構えてわめき散らす。

「己が我が主をかどわかした魔術師か、下郎」

氷のような声でプレッシャーをかけてくる闖入者を、モットは顔を真っ赤にして威嚇する。

「貴様、私を宮廷勅使、『波濤』のモットと知っての狼藉か!?」

「あ~、モットさんや」

私はできるだけ判りやすい言葉を選んで説明する。

「この場はおとなしく私たちを帰らせるのがベストだよ。最悪の事態は、そのまま魔法を使って私たちと事を構えることだが、どうするね?」

「な、生意気な。いいだろう、まずはそこの若造からだ。墓碑銘に刻んでやるゆえ名を名乗れ」

私に促され、男が名乗る。

「トリスタニア診療院 院長、ドクトレス・ヴィクトリアが臣、ディルムッド・オディナ」




正直、使い魔召喚をやった時にこいつが出てきた時は我ながら慌てたものだった。
外見はもろにFate/Zeroのあれだったからだ。
無能な主に召喚された悲運の英霊。
問題は、自害した前か後か。

「俺を呼び出したのは貴殿か?」

自害後のディルムッドは怨霊と化していたので、下手したら魔法を使う奴を片端から殺して回るんじゃないかと思った。
それだけにとっさに随分慇懃な態度に出ざるを得なかった。

「斯様な矮小な身の召還に応じていただき、感謝の念に堪えません。己の分には過ぎた使い魔ということは重々承知。されど、願わくば、少しの間だけ私に力を貸していただけないでしょうか」

「困っている、ということか?」

「さる親子に危機が迫っております。彼女らを救いたいと思っております」

「それは貴殿に縁ある者か?」

「本来であれば私が助ける筋合いはないかもしれません。しかし、座して静観はできません」

「ならば、何故貴殿は起たれるのか?」

私は言った。

「義のために」

その言葉を受け、ディルムッドは私の前に片膝をついて槍を掲げた。

「思いの丈、承りました。今日この時より、我が槍は御身のためにあり。ここに我が忠義を捧げ、その道を切り開く刃となることを誓いましょう」

「良いのですか」

「この身でお役にたてるのなら」

実は、サーヴァントの中で私はこのディルムッドが一番好きだった。愚直なまでの忠義に呪いのように取りつかれてはいるものの、恐らく二心なきことでは第5次のバーサーカー並みではないだろうか。
私は御姫様抱っこの恰好でサウスゴータの屋敷に乗り込み、惨状を目にした。
殺意に身をゆだねようとした時、ディルムッドが私を制して前に出た。

「ここは、私が」

杖を手に下卑た笑いを浮かべる騎士たち10人とディルムッドが対峙した。ただの平民と思った騎士たちを哀れと思った。魔法を使う者にとって天敵となる武具がこの世にはある。
有名なところでは魔剣デルフリンガーであるが、今この瞬間この場に立つディルムッドこそは、恐らく真の意味で魔法使いの天敵であろう。
いたぶる様に飛来したファイアボールやエアハンマーが、その紅い槍に一掃されて消滅する。

破魔の紅薔薇。

これを手に、人外の運動能力を持つディルムッドの前に10人程度の騎士など路傍の石と代わりはない。
騎士たちの表情が恐怖に歪む。私は告げた。

「容赦は無用。楽には殺すな。これは天誅である」

「御意」

勝負は10秒もかからなかった。

両手を飛ばされて腹を裂かれた騎士が悲鳴を上げている。

「た、助けてくれ」

「無抵抗な女を蹂躙した報い、その身が地獄に落ちるその時まで心ゆくまで味わうがいい。因果応報の言葉の意味を噛みしめながら死んでいけ」



そんな出来事以来、私の使い魔として尽くしてくれている無二の忠臣である。
日ごろはマチルダの工房で力仕事と販売を担当しており、いわくつきの黒子は絆創膏で隠している。
無論黒子を隠してもなお魔貌のご利益はすさまじく、営業活動において大いに役立っているのが正直なところだ。
名前は発音しづらいので、うちではディーと呼んでいる。

「ふん、平民風情が吹いたものだな。我が波濤、受けてみるか?」

ルーンを唱えるや、彼お得意の大波が押し寄せてくる。
それを意にも介さず朱槍で一閃する。
おお、おのろいとるおのろいとる。
モットのおっさんは目玉がこぼれそうな表情で起こったことを理解しようとしている。
どう見ても平民の男に、得意の魔法を消されるとは思わんわな。
私は言った。

「ディー、懲らしめておやり」

「御意」





「今帰ったよ」

「おかえりなさい」

私が帰ると、テファがいつものように笑顔で出迎えてくれた。

「ちょっとヴィクトリア、モット伯のところに連れて行かれたんだって?」

「ああ、ちょっとお話し合いをしてきたよ」

泡を食って出てきたマチルダに、手にした置物を渡す。

「重っ!何だいこれは!?」

「モットの親父からの贈り物さ。馬車代だとさ」

純金のライオン像は換金すれば3年分くらいの年商に当たるだろう。

「あんた、ちゃんと穏便に済ませてきたんだろうね?」

マチルダが心配そうに言ってくる。

「言っただろう。しっかり話し合いをしてきたさ。まあ、話せば判る男だったよ」

「・・・ディー、本当に大丈夫なのかい?」

「・・・私の口からは何とも申し上げられません」

心なしか青ざめたディーの説明で、何とかマチルダは納得した。

「さて、すっかり遅くなっちまったね。晩御飯にしようじゃないか」





そんな平穏な一日であった。




[21689] その4
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/09 00:11
一人の老人が夕暮れのトリスタニアの中央広場を歩いていた。
良い身なりをした老人であった。
本来であれば共の者を連れていそうな身なりであり、王都トリスタニアとはいえやや浮いた格好とも言えた。
仕立てが良いマントに、オーダーメイドと思しき帽子を被り、手には上品な拵えの杖を持っていた。

老人は貴族であった。

この辺りは不慣れらしく、手元のメモを確認しつつ視線をさまよわせながら噴水の脇を通って歩みを進め、やがて目当ての建物を見つけた。
そこは、タニアリージュ・ロワイヤル座なる劇場であった。
老人は建物をしばし眺め、やがて溜息を一つついて切符売り場に向かった。

劇場の中は薄暗かったが、座席や人の姿は判別できなくもない程度の照明が灯されていた。
夜の部の上演はやや寂しい客入りであるものの、舞台の上では話題の舞台が絶賛上演中であった。
ステージ上を出し物に視線を向けることなく指定された座席を見ると、前寄りに偏った観客をよそに客席の中ほどに小さな背恰好の少女が見えた。
老人はその隣の座席に腰を下ろした。

「遅かったじゃないか」

前を向いたまま、少女が小声で語りかけて来た。
手には菓子の袋を抱え、時たまポリポリと口に運んでいる。

「・・・いささか場所が好ましくありませんな。芝居小屋での会合など、およそ真っ当な話し合いには見えませんぞ」

老人は露骨に不機嫌な口調で言うが、少女は笑って取り合わない。

「ひそひそ話をするには打ってつけな場所なんだよ。そうでもなければこんな下手な芝居は観に来ないさね」

『トリスタニアの休日』という演目であるが、俳優たちの演技はとても売り物になる水準になかった。

「身も蓋もないことを言われますな、殿下」

「もう殿下は廃業したよ、爺」

思い出した昔を懐かしむように、少女は笑った。
老人の名はパリーと言う。
アルビオン王室の重鎮であるが、ちょうどトリステインに王の名代として折衝に来ていたはずの人物であった。
そして、件の少女ヴィクトリアの知己でもあった。


「まったく嘆かわしい。世が世なら王宮にその人ありと言われたであろう姫君がこのような街の芝居小屋で芝居を見ながら駄菓子を食べているとは・・・」

何だか放っておくとその場でおいおい泣き出しそうだったのでヴィクトリアは話題を変えることにした。

「それで、改まって話と言うのはなんだね?」

ヴィクトリアの言葉に、パリーの視線が別人のように鋭く変わった。
それは宮殿の広間にて、王の言葉を代弁するかのような凛とした気配であった。

「この度は、陛下からのお言葉をお伝えに参りました」

意外な名前を聞き、菓子を食べかけていたヴィクトリアの手が止まった。

「伯父上の?」

「はい。殿下の現状について、陛下は大層胸を痛めておいでです」

幼少期、家族の愛情に欠けた生活を送っていたヴィクトリアにとって、係累の大人で唯一愛情を注いでくれたのが伯父に当たるジェームズ1世、すなわち、アルビオン国王その人であった。
甘やかすとかそうではなく、まっすぐにヴィクトリアの目を見て話をしてくれる人と言うだけであったが、己を政治の道具ではなく一人の人間として接してくれたただ一人の肉親であった伯父がヴィクトリアは好きだった。
会えるのは年に数度であったが、その度に伯父上伯父上となついて回ったものであった。

遠い目で過去を見つめていたヴィクトリアに、パリーは一通の手紙に渡した。
封印には、アルビオン王家の紋章が押されている。

「・・・伯父上」

丁寧に封を解き、紙面に綴られた見覚えのある文字を追う。
そこに綴られた文字に、懐かしい声を重ねる。
一度読み、二度読んだ。
三度目にはそこに込められた相手の気持ちを拾うように、時間をかけて丁寧に読んだ。
手紙に書かれている内容を噛みしめ、感情の高ぶりを抑えながらヴィクトリアは俯いた。

そこには、父を討ったことに対する伯父としての謝罪と、国王としての説明があった。

侯爵家にてヴィクトリアがされた仕打ちと、その反撃についても理解の言葉があった。

貴族から平民に落ちての苦労や生活、そして健康に対する心配があった。

そして、ヴィクトリアが望むのならば、国王の権限をもってヴィクトリアが犯したすべての罪に対して恩赦の用意があるので王宮に戻るように、との申し出で手紙は締めくくられていた。

モード公の粛清について、アルビオン国内においてはジェームズ1世は泣いて実弟を誅したことは評価されてはいるが、その老王は、今なお所在不明扱いの姪のことについては話題に出すことを避け、半ば禁忌として取り扱っていた。
実際、かなり早期にヴィクトリアの所在について老王は把握しており、把握すると同時に

『今もって国内において行方が判らぬと言うのであれば、おおかた衆庶に身を落としたのであろう。
また、仮に国外に逃亡したのであれば身を寄せた先方の貴族から話が来るであろうが、それも未だない。
そうであれば、事後の沙汰ではあるが追放の罪科としては充分。
国外にまで手勢を出しての追討は不要である』

としてヴィクトリアに司法当局の手が伸びぬよう手配していた。
加えて、親の因果が子に報いるこの時代ではあるが、一方的とはいえモード公の妻は離縁しており、また、その母を殺めたことについては当事者である侯爵からは事故死との報告が上がっていることもあり、それらを踏まえ、ジェームズ1世は何とかしてヴィクトリアを不遇の現状から救いあげようと考えていた。

他国の、しかも暗黒街の性格が濃いチクトンネ街とは言え、やがては追手がかかるものと思っていたヴィクトリアではあるが、実際にはアルビオンではそのような微妙な扱いとなっていたことまでは知らなかった。


「殿下・・・」

心ここにあらずなヴィクトリアに対し、パリーは静かに声をかけた。

「いかがでございましょうか。陛下のためにも、ここは帰郷いただけないでしょうか」

ヴィクトリアはやや間をおいて答えた。
そこには町医者のヴィクトリアではなく、大公息女としてのヴィクトリアがいた。

「すまない。このような咎人に過分なお取りはからい、名ばかりとは言え、大公息女として感謝の念にたえぬ」

「陛下もお歳です。これが御自身ができる最後の務めとまで言い切っておられました。何卒ご理解いただきたい」

「申し出はありがたい。だが、この御厚情はお受けすることはできない」

「何ゆえでございましょう」

その問いに対し、ヴィクトリアは神に対する誓いのような思いで答えを口にした。

「私にも、失いたくないものができてしまってな」

ヴィクトリアの言いたいことを、パリーはすぐに察した。

「・・・太守の息女と・・・モード公の御落胤でございますか?」

さすがにハーフエルフという言葉を口にしづらかったのか、パリーは言葉を選んだ。

「本来なら気にかける義理も何もないが、もう既にあの者たちとはそれだけのものが通い合ってしまっている。
アルビオンがあの者の存在を受け入れてくれるくらい軟化したわけではあるまい?
二人に対して国外追放で仕置きの折り合いが付いているのであれば私も考えようがあるものではあるが」

その言葉には流石にバリーも黙り込んだ。ブリミル教が隆盛の今日、ハルケギニアにハーフエルフの安住の地はない。
エルフとその縁の存在は、どこまでいっても日陰者であり、宗教上の敵であった。
仮にここでヴィクトリアが二人と離れた場合、可能性の話としてアルビオン政府が二人に牙を剝くとも限らない。
ヴィクトリアの庇護下にあるからこそ、マチルダとティファニアは安全でいられるとも言えた。

「心が揺れる前に答えをお返ししよう。私はあの者たちと共にあるを何よりの喜びとするのだ。
追手を差し向けない御厚情だけでも涙が出るほどありがたいことである。
私たちにとって、このまま静かに人々の中に埋もれて消えて行くことが何よりの望みだ。
王家の血筋と言うことで王家に迷惑をかけるつもりは毛頭ない。
どうか、私のことはお気になさらぬよう陛下にはお伝えしてくれ。
不出来な姪ですみませぬ、幾久しく御健勝であらせられること、遠い地より祈念しておりますと、な」

視線を交わし、パリーはヴィクトリアの力強い瞳に決意の強さを読み取った。
彼もまた、ヴィクトリアを大切に思う者の一人ではあったが、ヴィクトリア自身の心を捨て置いて事を強いるつもりはなかった。

「・・・判りました。私と致しましても、今一度殿下のお守ができぬのは寂しいことではございますが」

柔らかいパリーの物言いに、ヴィクトリアは笑った。

「昔のことはお忘れな」

「さて、どういたしましょうか。こればかりは年寄りの特権ですからな」

そこまで言って、バリーの視線が今一度鋭くなった。

「陛下の方は私の方から話をお通しいたします。これとは別に、御注意いただきたい動きがありますのでお耳に入れておきましょう」

ただならぬ気配にヴィクトリアは眉を顰めた。

「良くない話か」

パリーは頷いた。

「殿下にとって、もう一人の伯父君です」

できれば聞きたくない人物の話題に、ヴィクトリアの表情が硬くなった。

「ハイランド侯が?」

「はい、今では誰もが『無根侯』と呼ぶハイランド侯リチャード閣下の動きがきな臭い。身に覚えはおありでしょう」

「うんざりするほどね」

お互いに、最後は殺す殺さないの関係まで行き着く因縁がある相手であった。

「物騒な輩を雇っているとも聞き及んでおります。くれぐれも御油断なきよう」

「貴重な情報、心より礼を言う。では、私からもひとつ知らせておこう」

「何でございましょう?」

「オリバー・クロムウェルという人物から目を離すな。裏で交差した二本の杖が蠢いているらしい」

さすがにパリーも絶句した。

「・・・真でございますか?」

パリーに向けるヴィクトリアの視線も、また鋭い。

「用心だけはしておくように。こればかりは私では力になれない」

「早速調べてみます」

パリーは立ち上がった。

「では、私はこれにて」

挨拶するパリーに、ヴィクトリアは心からの言葉を告げた。

「いろいろ世話になったね、爺。くれぐれも息災で」

そんなヴィクトリアの心を知ったうえで、老人は笑って見せた。

「永の別れではありますまい。では、またいずれお会いいたしましょう」


パリーの背中を見送り、ヴィクトリアが視線を舞台に戻すと、主人公が静かにヒロインの元を去るところであった。
現実の壁に抗うことなく別れを選んだ二人を見つめながら、ヴィクトリアは静かに菓子を口に運んだ。



甘いはずの菓子は、何故か少し塩味がした。



[21689] その5
Name: FTR◆9882bbac ID:80e86311
Date: 2010/10/22 11:51
「いや、いや、いやよ~~~!」

朝一番の空気を震わせ、野太い声が診察室に響く。

「パパ!我がまま言ってるんじゃないわよ!診てもらわなかったら家の敷居またがせないんだからね!!」

娘のジェシカに叱られて、ごついオカマの店長さんはハンカチを噛みながら渋々と腰を下ろした。

「あ~、気持ちは判るけどね、スカロンさんや」

私は問診票を見直してスカロン氏に視線を戻す。

「これは悪くなりこそすれ、自然治癒はしない病気だよ。切るなりなんなり処置する他ないんだよ」

「だ、だからって・・・そんなの私耐えられないわよ!」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

こういう時は女の方が強い。

「とにかく先生、スパッとやっちゃってください」

スパっという単語に過剰に反応するスカロン氏。

「い、いや、スッパリやるかどうかは患部を見てからだよ」

やたら気風がいいジェシカには私も思わずたじろいだ。
スカロン氏に向き直ると、彼もまた露骨に怯えた仕草をする。

「さて、じゃあ諦めて診察台にお乗り」

「う、うう・・・」

スカロン氏は売られていく子牛のように診察台に向かう。

「女の情けだ、娘さんは待合室にいな。後は任せておくんだね」




待合室に出たジェシカに、テファが他の患者の検温のついでに心配そうに寄ってくる。

「どうでした?」

「もう、覚悟決めてきたはずなのに土壇場で怖気づいちゃって」

「はあ・・・まあ、お気持ちはわかりますが・・・」

そんな会話をしていると、診察室からまたも大声が聞こえる。




『やっぱりダメよ、無理よ、お願い、許して!』

『うるさい人だね、いいからそこで胡坐をかきな』

『胡坐?』

『はい、じゃそのまま後ろにごろん』

『い、いや~~~!女房にも見せたことなかったのに~~!』




「まったく、半年も黙ってるんだから。今朝トイレを見てぞっとしたわ」

「ほっといても治りませんからねえ」

「困ったものよ。どうも椅子に座るときに変だと思ったのよ」

「仕方がないですよ、痔じゃ」





午前中の診察が終わり、ようやく一息となった。
初っ端に濃い患者だっただけに気苦労が多いスタートだった。
正直、アレを見ようがナニを見ようが、医者と言う視点で見ると毛ほども変な気持にならないのは結構不思議だ。
我ながら、プロの仕事をしていると思う。
自分の前世のことはあまりよく覚えちゃいないが、間違いなく医療関係の仕事をしていたのだろう。

実際、この商売を始めて思ったことは、水の魔法は非常に便利だと言うことだ。
ウォータージェットや凍結療法、最近では血流の流れを感じることで患部の様子を把握することもできるようになった。
人間と言うのが水でできていると言うのが非常によく解るという点で、水メイジが治療士になるというのが納得できる。


昼食を食べた後、私はしばらく仮眠をとることにした。
幸いにも今日は往診はない。
夕方まで眠り、夕食のタイミングで起きる。
マチルダとディーがやってくると同時に夕食になった。
テファの料理の腕が、最近ますますあがっているような気がする。

夕食が終わり、今日の後片付けは私とディーの担当だった。

洗い物をしていると、ディーが静かにささやいた。

「主、今日は会合でしたね」

ディーの言葉に私は頷いた。

「いつもどおりさ。明日は休診日だし、ゆっくり話をしてくるさ。お前さんもいつもどおりの巡回を頼むよ」

「御意にございます」





夜、歩く。
寝静まったトリスタニアの街並みは、どこか墓所を思わせる。
夜の私の正装は白衣ではなく、黒いフードつきのマント。
官憲が見たら職質されそうな風体なのは確かだ。

向かった先は街の商工会議所だが、正面玄関ではなく、裏口の小さな木戸から中に入る。
地下に続く長い階段を下りると、昔酒蔵だったのではないかと思われる部屋を改造した会議室があった。

「私が最後かい。遅くなってすまないね」

テーブルについていた3人の男に私は挨拶をした。

「よい、我らが早かったのだよ、『診療院』の」

痩せぎすの老人が口を開いた。

「そう言ってもらえると助かるよ、『薬屋』の」

私は席に座った。
黒服の男が影のように現れて、私の前に他の3名と同様に茶を置いた。
正面に老人、右には固太りの中年の親父、左には見知った筋肉が座っていた。

「では、はじめようか。まずは君からだ、『武器屋』の」

老人が口を開き、私の右側の中年のおじさんが口を開く。

「取り立てて大きな動きはねえな。アルビオンがきな臭いってことで武器は値上がり傾向だが、傭兵の移動は平年並みだ。
今すぐがらっぱちなのが押し寄せてきてどうこうということはないな」

「問題なし、ということかな」

「まあ、落ち着いていると言えるだろうな」

「それは結構。次は君だ、『診療院』の」

ご指名を受けて私は説明をする。

「今週は取り立てて事件はないね。先週はこそ泥が2匹も釣れたが、今週は静かなもんだ。どこぞに屯して悪巧み、ってのも私の耳

には聞こえちゃこないね」

「平穏で結構」

「その代わり、本職のほうじゃ気になる患者がいたよ。恐らく阿片だね、ありゃ。あんたの管轄だよ、『薬屋』の」

「それについてはうちでも今調査中だよ、『診療院』の」

こんな感じで進む夜の会議。早い話がここに集まった4人は街の顔役で、大抵の情報はこの4人の誰かの耳に入るようになっている。

人呼んで『夜の町内会』。

交換された情報は、自然な形でそれぞれが所属するコミュニティに還元されていく。
会の起源はトリステインの建国直後まで遡ることができるそうで、稀に国政にも影響を与えかねない情報が交換されるため、
こうして密会の形をとっているらしい。

私がここに招かれたのは開業して半年後のことだった。
肺の具合がどうとか言って診療院を訪れたのが正面に座る老人。通称『薬屋』。
その彼からスカウトを受けた。
この会の世話人で、名をピエモンと言うが、この会合では通称で呼び合うなら慣わしだ。

武器の価格や傭兵の動きから世情を見る『武器屋』
麻薬や魔法薬など、街の根っこを腐らせそうな危険物についてその流通を取り仕切る『薬屋』
怪我人や病人の動向を中心に街の状態を把握し、かつ強力な手駒で犯罪者や犯罪組織に睨みを利かせる『診療院』
そして、総合的に街の情報をかき集めるのが・・・。

「では、最後に君だ、『魅惑屋』の」

指名された男は体をくねくねさえながら説明に入る。偽名使う意味もないな、こいつには。

「うちも取り立てて大きな騒ぎの話は入っていないわね。私もちょ~っと体の調子が悪くて積極的に動けていないけど」

私はすまして茶を啜った。守秘義務については遵守する主義だからだ。

「では、概ね平和ということでよろしいかな」

全員が頷いたところで散会となった。




その後、武器屋と連れ立って魅惑の妖精亭になだれ込み、朝まで痛飲したのだが、朝帰りするなりマチルダにつかまり、
こってりお説教をもらったのはまた別のお話。



[21689] その6
Name: FTR◆9882bbac ID:80e86311
Date: 2010/09/22 01:10
「あちち」

夏の午後の往診はきつい。
天空で元気に核融合しているお天道様は今日も絶好調で、遠慮とか容赦がまったくないエネルギーをこれでもかと叩きつけてくる。
体が小さい私は簡単に芯まで火が通ってしまう。
やはり早めに金を貯めて入院病棟を作ろうと決意を新たにする。
トレードマークの白衣を着こんでいるのも悪いのであろうが、これはちょっとこだわりたい部分なので脱ぐ訳にはいかない。
その代り、頭の上には大きな麦藁帽子を装備。
我ながら何ともアンバランスな気がしないでもない。

そんな午後、診療院に戻ると入口のところに小さい女の子が立っているのが見えた。
身長は私よりちょっと高いくらい。
髪の色は青。
魔法学院の制服にマント。
手にした大きな杖が目を引いた。

女の子は私に気付いて眼鏡の奥から視線を私に向けてきた。

「急患かね?」

私が問うと、少女は首を振り、値踏みするように私を見て蚊の鳴くような細い声で言った。

「あなたが『慈愛』のヴィクトリア?」

・・・・。
・・・。
・・。
・。

何だか人生初めてだよ、自分が石になったのが判ったの。
ナンデスカ、ソレ?
全身に鳥肌が立ってジンマシンが出そうだった。
そんな恥ずかしい二つ名名乗った覚えないぞ。
誰だ、そんなこと言いだした奴ぁ。
こみ上げる苦いものを何とか飲み込んで応じる。

「・・・そんな大仰な二つ名は知らんが、ここの院長のヴィクトリアなら私だよ」

私の自己紹介を理解するまで時間がかかったのか、少女はややあってから口を開いた。

「相談があって来た」

思いつめたような口調。この少女が言いたいことはそれだけで判る。

ある意味、転生者の視点は神のそれだ。
その力は使い方によって悪魔のそれにもなるものだとこの時思った。
私の中に苦悩が芽生えた。
それを押し殺して声をかけた。

「・・・時間外だが、せっかく学院から来てくれたんだ。話くらいは聞いてあげようかね」

「感謝する」



診察室に通し、魔法で室内の温度を下げる。
アイスティーを出して腰を下ろした。

「とりあえず、扱いは医療相談ということにしとくよ」

診察室でまっさらなカルテを取り出して言う。

「まずは名前を聞こうか」

「タバサ」

簡潔な答えに私は筆を止めた。

「本名かい?」

判ってはいるけど一応確認する。
どの程度の信頼を私に寄せてくれるかがこれで判る。
私の問いに、タバサはしばし悩んで今一度口を開いた。

「・・・シャルロット・オルレアン」

やばいね、これはこっちも本気で対応しなきゃいけないようだ。

「シャルロットだね」

カルテにはタバサと書き込みながら私は続ける。

「それで、質問は何だね?」

「毒について訊きたい」

「毒物?」

「あなたは治療師とは違った手法の治療を行うと聞いた。判る範囲で良いから教えて欲しい」

なるほど、毛色が変わった医者の噂を訪ねて来たということらしい。

「どういう毒を飲んだね?」

「私じゃない」

「ほう?」

「私の母が飲まされた」

そのまっすぐな視線。
どこまでも一途だ。
この娘、無表情で無感情なように見えるが、ある意味一番情熱を持った子じゃないかと思う。

「・・・詳しく聞かせとくれ」

タバサはぽつりぽつりと症状を話し始める。
自分を覚えていないこと。
人形を自分だと思って抱きしめていること。
近寄るとパニックを起こして自分を拒否すること。

ナウシカ原作版のクシャナ殿下も同じ気持ちだったことだろう。
あっちは治しようがなかったけど、でもこの子の母ならば・・・。

「なるほどね」

私はペンを置いた。
話を聞きながら、私もまた、自分の母のことを思った。
私には二人の母がいる。
前世で私を産んでくれた母。
そして、この世界で私を生んだ女。
前世の記憶がなければ正直母の愛情なんてものは鼻で笑っているところだったが、瞼の母はそれをきちんと阻んでくれた。
例えそれがなくても、この子の前でだけはそんなことはしてはいけない。
藁にもすがる思いで尋ねてきた子にその仕打ちでは、あまりにも悲しい話だ。

「知っていたら教えて欲しい。どんな手がかりでもいい」

私は悩んだ。
与えられる情報は幾らでもある。

それがエルフの毒であること。
解毒薬が存在すること。
それを作れるエルフがいること。
それらはすべてガリア王ジョゼフの掌の上にある事。
そして、ヴェルサルテイルの礼拝堂のこと。

だが。
言ってしまえばこの子は絶対躊躇わないだろう。
そのために容易く自分の命すら投げ出すに違いない。
彼女のイーヴァルディの勇者はまだいない。
勇者がいない御姫様が戦いを始めても、悪の竜は歯牙にもかけるまい。
時期尚早というものだ。
しかし、それはこの子をまだまだ続く地獄に見捨てることに他ならない。
恐怖を味わい、苦労を強いられ、艱難辛苦の道を当分歩むことになる。

せめぎ合いが心を蝕む。



しばらく考え、私は言葉を選んだ。

「そこまで長期間精神を冒す毒となると、普通の毒じゃないね」

「え?」

「・・・一般的に手に入る毒じゃない。かなり特殊な手段で調合された薬だろうね」

「対策を教えて欲しい。お金ならいくらでも払う」

「金の問題じゃない。推測でしか言えない事なんだ。いたずらにお前さんの心を乱すだけさね」

「それでもいい。何も判らないよりは、いい」

能面と言う芸術品がある。
見方によって喜怒哀楽すべての表情をその面貌から見てとれると言うが、今のタバサの無表情はまさに能面だった。
泣き出しそうな子供の顔に見えるのは私の気のせいではあるまい。

「少し猶予をおくれ。どれくらいかかるか判らないが、私なりに調べる時間をもらいたいんだよ」

私の言葉に、秒針が1周するほどの時間が流れた後、少女は言った。

「・・・判った」

私はため息をついた。

ある意味、日本人的なずるさだ。
先送りを許容する、卑怯な文化。
ほんの僅かに希望を与え、そして時が過ぎるのを待つ。
これ以外、彼女の心に対して私ができることはない。

「また来る」

タバサは立ち上がり、静かに帰って行った。





夜、窓辺に座ってワインを開けた。
グラスに注いだだけで、夜空を見上げて私は過ごした。

「姉さん?」

風呂上がりの髪を乾かしながらテファが訊いてくる。

「ん~?」

「何だか元気ないね」

「うん」

空に光る二つの月を見ながら、私はさっきからろくに手をつけていないワイングラスに手を伸ばした。
今日のワインはやけに舌に苦かった。



その夜、私は微かにしか覚えていない、前世の母の夢を見た。



[21689] その7
Name: FTR◆9882bbac ID:80e86311
Date: 2010/11/07 20:39
光あるところ影がある。

王都トリスタニアもまた華やかな王都であるからには人々集まり、その輝きの下に影を作り出す。
私が呼び出しを受けて向かった先は、街の外れのあるエリアだった。

時刻は間もなく日付が変わろうかと言うあたりであるが、そのエリアに近づくにつれ、徐々に人通りが増え、明りも勢いを増していく。
白衣の小娘がうろついているとやたらと目立つかと思えば、ここではどんな格好をしていても馴染んでしまうから不思議だ。
チクトンネ街のさらに奥。官憲も迂闊に手が出せない、不文律と言う法で縛られたエリア。

通称『夜の城通り』。

新宿の歌舞伎町やリュティスの暗黒街に比べればささやかなものだが、それでもトリスタニア最大の暗部。
その道では有名な花街は、今日もきらびやかな光を放っていた。



「ごめんよ」

ひときわ大きい娼館『香魔館』の玄関口で声を上げると、出迎えの男が寄って来て私を胡乱な眼で見る。
髪はオールバックで目つきは鋭い。絵に描いたようなヤクザ者だ。
程なく正体を思い出して態度が急変する。

「これはこれは先生、ようこそのお運びで」

「話は通っているのかい?」

「もちろんでございます。どうぞこちらへ」

やたら丁寧に案内され、私は館の中に入った。

媚薬の匂いたなびく館内。多くの男女がよろしくやっている空間と言うのは、何となく空気からして違う。
幼児体験のせいか、そういうものにはおよそ興味がないと言うか、むしろ嫌悪感が先に立つ私としては何回来ても居心地が悪い建物だ。
この手の仕事は人類最古の商売だと言うが、2番が王様、3番が泥棒とくると、医者と言うのも結構古いんじゃないかと思いながら私は歩みを進める。

黄金の女体像だの噴水だの植え込みだのと、やたら金がかかった広い庭を通り、離れに辿りつくと、予想外に落ち着いた室内に一人の老人が床に伏せっていた。

短髪白髪の、目つきが鋭い男だった。
まるでその男の生きざまのような太い声で私に言った。

「やあ、先生。よく来てくれたな」

「まだくたばっていなかったようだね、ハインツの」

だいぶ生気は抜けているものの、まだまだ頑丈そうな老人だった。
名をゲルハルト・ハインツ。
トリスタニアに巣くう、ゲルマニア系マフィア『ハインツファミリー』の大親分。
町内会の伝手で知り合った大立者だ。

「何、俺も歳だ。だいぶガタが来たところにこのありさまだ。流石に俺もここまでかと思ったぜ」

布団をめくると、炭化寸前の酷い火傷が体の半分を覆っていた。
ガーゼには体液が滲んで布団まで汚している。
重度の熱傷。恐らくファイアボールの直撃を受けたのだろう。

「運がいいこった。一個しかない命だが、大事に使えば一生持つよ。気をつけるんだね」

私は治療用の道具を出しながら今度は鋭い視線をハインツに向ける。

「ハインツの。最後の確認だ。その怪我、組織同士の喧嘩出入りのものじゃないね?」

「ああ、俺の手下だったはねっ返りの仕業さ。裏で糸引いてる奴はいるかも知れねえが、俺が生きてるとなっちゃ、自分がそいつらにやらせましたと言う馬鹿はいねえよ」

「トリステイン系の連中の恨みでも買ったかい?」

「トリステインとゲルマニアが嫌い合ってるのは、王族も俺たち筋者も変わらねえよ」

私は頷いて治療を始めた。

裏の世界と接点を持った時、私は『完全中立』を標榜した。
その負傷が組織間の抗争の結果であった場合、不干渉を貫くために一切の面倒は見ないと言うことは関係者には一貫して伝えてある。
そうじゃなければ幾つ命があっても足りやしない。人の恨みはどこで買うか判らないのが世の中だ。

ヤッちゃんの世界では、若手が元気がよすぎると途方もない馬鹿なことをやらかしたりするものだが、今回もそのケースらしい。
ファミリーの新進気鋭の若手の火の魔法使いが、何を考えたのか親父に向かって杖を向け、幹部数人もろともハインツを焼いた。
この辺の話は、町内会で『武器屋』から聞いて裏を取ってある。
私が呼ばれたのも、その時に子飼いの水の魔法使いが死んだためだとのこと。
やってることは国もマフィアも変わりはない。最後にものを言うのは金か暴力だと言うことだ。

ちなみに、マフィアと町内会の間には、ある種の不可侵条約が成立している。
みかじめ料だのショバ割りだのと不当に商人を苛めて回るのがマフィアのようではあるが、ここはトリスタニア、下手なマフィアよりおっかない商人が少なくない。
それでも何回か小競り合いを起こしているが、ある意味最大派閥のマフィアとも言える町内会を敵に回して無事に済むはずもなく、構成員が軒並み毒を食らって全滅する組織もかつてはあったらしい。
ちなみにピエモンはそのころからの武闘派だと聞いた。
そんなピエモンが私を町内会に加えた理由だが、独自の情報網を持つ彼のことだ、恐らく私の出自を知っているからだろう。それが彼のどういう得になるかは私には判らんが。


麻酔をかけて炭化した部位をそぎ落とし、組織に水の秘薬を用いて再生を促す。
治癒の魔法を並行することで真皮から筋組織までこんがりやられた傷を修復していく。

2時間ほどで治療は終わり、ハインツはようやく落ち着いてため息を吐いた。

「終わったよ。3日くらいは大人しくしてるんだね。薬は後で取りに来させとくれ」

「助かったぜ。金はすぐに届けさせる」

「出張手当はちょっと弾んでもらうよ。見送りは要らないからあんたは寝てな」

「すまねえな」



私が帰ろうとしたその時だった。
離れの入り口で案内役をしてくれた男が突然燃え上がった。

何事かと見れば、黄金の女体像の陰から目つきが悪い男が杖を手に姿を見せた。
蛇のような粘っこい目をした男だった。

親分のボディガードが飛び出してくるが、それらが背後から矢を食らって倒れる。
離れの周囲にも数人の敵がいるらしい。

もったい付けたような口ぶりで男が言った。

「余計なことをしてくれたな、先生」

私は驚いた顔も見せずに背後にいる親分に言った。

「ハインツの、追いかけてたはずのはねっ返りにあっさりこんなとこまで迫られるたあ、あんたも焼きが回ったかね。文字通り」

「違えねえ」

ハインツは無理やり起き上がり、杖を手に取った。

そんな私たちをつまらなそうに眺めながら男は言った。

「先生よ、あのままそのジジイががおッ死んでくれれば、俺が頭を張れたんだ。その報い、受けてもらうぜ」

「あいにく、こっちも治してナンボの商売さ。お前さんみたいな仁義外れを治す方法は一つしか知らないけどね」

「水の魔法使いが火の俺に勝てるかよ。御托はあの世で並べなよ、先生」

男が放ったファイアボールを、私は水の壁を繰り出して防ぐ。
すさまじい音と水蒸気が立ち込めた。

「月並みだな。そんなちんけなシールドじゃ俺の火の前じゃもたねえよ」

馬鹿はたいてい饒舌だから助かる。

私は己の中のイメージを練り上げる。



 Empty your mind, be formless,
 shapeless - like water.
 Now you put water into a cup, it becomes the cup,
 you put water into a bottle, it becomes the bottle,
 you put it in a teapot, it becomes the teapot.
 Now water can flow or it can crash.
 Be water, my friend.

 


男が続いてファイアボールを練ろうとした時、私の詠唱が一瞬早く完成した。

私の杖の先から一直線に走る細いレーザーのような銀光が男を杖ごと横に薙いだ。
男の目がくるりと裏返り、横一文字に両断された男のパーツがぼとぼとと庭に崩れ落ちた。
背後の女体像がゆっくり傾いで、その上に音を立てて倒れ伏した。

水の鞭の魔法を元に、医療用にウォータージェットメスを研究していて身に着いた魔法だ。
太さ0.1ミリの水流を数万気圧の高圧で打ち出すとこういうことができる。
現実世界でも金属の加工に使われている理屈だ。
土に続く質量系の魔法である水魔法を舐めちゃいけない。
医療用に考えていた魔法を攻撃用に転用しようとしたのは、ある偉大な悪の帝王のアイディアが元だ。
その方の御尊名はディオ様と言う。





「主、御無事で?」

「終わったのかい?」

「既に」

音もなく現れるは我が忠臣。
私が一人片付ける間に野郎の手下数名を片づけてくれていた。
マフィアの本拠地じゃ先に手を出す訳にはいかなかったから、相手に先に手を出させての事後処理だ。
ディルムッドは嫌がったが、これも通すべき筋と言うものだ。

騒ぎを聞きつけて人が集まって来た。後始末は任せてもいいだろう。
警備担当の奴の責任はどうなるのかね。
小指の問題ならまだいいけど、ここはハルケギニアだからなあ。
コンクリの靴とかあるのかしら。

「ハインツの、とりあえず、今回のは貸しにしとくよ?」

「高えもんにつきそうだな、おい」

「だったらこれに懲りて、身の周りはしっかり守るか、年波に従って引退するんだね」

「考えとくよ」







「ああ、徹夜明けの午後の太陽って黄色いわあ」

「夜遊びばっかりしてるからです」

結局一睡もできず、珍しく怒っているテファに鞄を持ってもらいながら、午後の往診に向かう。


そんな一日。



[21689] その8
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/10 22:48
私には二人の姉がいます。

一人は背が高くて、理知的な顔立ちで、一見冷たそうな感じがするけど実はとっても優しいマチルダ姉さん。
もう一人は、歳と見た目が釣り合っていないけど、私たちの中で誰より頼りになるヴィクトリア姉さん。




『♪~~~♪』


一日の終わり、お風呂からヴィクトリア姉さんの歌声が響いてきます。
普通はお風呂と言うのは蒸気を使った蒸し風呂なんだけど、この家はヴィクトリア姉さんの『譲れない一線』ということで大きな浴槽のある湯殿が設けてあります。
何だか貴族みたいだな、と思います。
毎日夕食後に魔法でお湯を沸かして入るんだけど、ヴィクトリア姉さんはどんなに疲れていても必ずお湯を張るだけの精神力を絞り出します。
それだけでどれほどお風呂が好きか判ってしまいます。
聞けば、お風呂に入って大声で歌を歌えば、一日の疲れも吹っ飛んじゃうんだとか。

お風呂と言えば、最初はヴィクトリア姉さんも私やマチルダ姉さんと一緒にお風呂に入ったんだけど、その時に何だかすごく怖い目をして私たちを見て以来、あんまり一緒に入ってくれなくなりました。
『女の魅力がインフレした奴らめ』とか言っていました。
私なんかより体の小さいヴィクトリア姉さんの方がかわいいと思うんだけど、姉さんは『持てる者の理論』とか言って取り合ってくれません。


そんなちょっと良く解らないところもあるヴィクトリア姉さんだけど、実はスクウェアクラスの立派な魔法使い。
先日夜中にいきなり私のところにやって来て、

「テファ、やったよ、スクウェアだよ!」

と大声で騒ぎました。
その日に姉さんがトライアングルからスクウェアにクラスが上がったみたいです。
毎日魔法を使ってお仕事しているし、たまにすごく難しい治療なんかもうんうん唸りながらやってるから、腕が上がるのも当然だと思います。
そのおかげでもっとたくさんの人に疲れることなく治療ができるのが嬉しいみたい。
でも、姉さんの目的はそれだけではありませんでした。
私は今も着けたままのイヤリングを撫でながら思い出します。

ある夜、姉さんは居間で本を読みかけのまま眠ってしまっていました。
起こそうと思った時、開いたページが目に留まりました。

『フェイス・チェンジのルーンについて』

フェイス・チェンジは風と水の複合魔法だそうで、非常に高度な魔法なのだそうです。
水のスクウェアの姉さんでも、風の魔法はまだまだレベルが低いらしく、フェイス・チェンジは使えないのだそうです。
何故姉さんがこの魔法を使おうとしているかといえば、それは恐らく私のためなのでしょう。

アルビオンから逃げてきたけど、私の耳は普通の人にとっては悪魔の印だと言うことで、私は大きな帽子を目深に被って耳を隠し、人目を避けるようにしてきました。
そんな時、ヴィクトリア姉さんが買ってきてくれたのがこのイヤリングでした。
フェイスチェンジの効果のあるマジックアイテム。
姉さんは教えてくれなかったけど、姉さんの手持ちのお金が半分以上なくなっちゃうくらい高価なものだったみたい。
毎日怪しげな古物屋に出向いて何をしているのかな、と思ったけど、これを渡されたときは姉さんが私のことを一生懸命考えてくれていたのを知って何だか嬉しいやら申し訳ないやら。
でも、その時からこのイヤリングが私の寄る辺でした。
街に買い物に出るときも、これがあれば人の目を気にして歩く必要はありませんでした。
親切にしてくれる人たちを騙しているような罪悪感は、少しあります。
でも、姉さんはいつか必ず私が本当の姿を隠さずに街を歩ける日が来ると言ってくれます。
姉さんはああいう人ですけど、身内に嘘をつく人ではないので私は素直にその言葉を信じることにしています。



知らない人が見ればつっけんどんな感じがするヴィクトリア姉さんだけど、本当は誰よりも優しい人だと思います。

姉さんはあまりお金に興味がないみたいで、いつもほとんど利益を乗せないくらいのお金しかもらわないし、生活が苦しい人の場合はもらわないことだってあります。
食べ物も買えないような人には、栄養指導とか言って食べ物をあげちゃったりもしちゃう。
その分、お金持ちの人からの特別な相談の時はびっくりするくらいのお金を請求しています。
あと、私はよく知らないけど、たまに夜出かけて行って、帰ってくるとすごい大金を持っていたりもします。
いくらディーさんが強くても、危ないことしてなきゃいいなと心配になります。

昼間のヴィクトリア姉さんはすごく多忙です。
診療所はいつも患者さんでいっぱいで、中には姉さんと茶飲み話をするためだけに来ているお年寄りもいます。
ただお話をしているだけだけど、それもまた治療の内なんだって姉さんは言っていました。
『心療内科』って言ってたっけ。
午後の往診は動けないお年寄りが多いです。
その人たちの話を聞き、やがて来る日には息を引き取るのを看取るのです。
お医者様と言うのは生死を見つめるお仕事なんだと姉さんの後姿から学びました。


いつもはお婆さんみたいにのんびりな感じのヴィクトリア姉さんだけど、たまにすごく勇敢な時があります。

ある日、

「子供が巻き込まれたぞ!」

って往診の帰りに、大通りで大きな声が聞こえた時でした。

「何でしょう?」

と私が呟いた時にはヴィクトリア姉さんは走り出していました。
大通りの真ん中に、血まみれで男の子が倒れていました。
周りの人の話だと、貴族の馬車に巻き込まれたらしいのです。
姉さんは男の子に取りつくと、状態を確認してすぐに男の子をレビテーションで持ち上げました。

「時間がない、誰か、軒先を貸しとくれ!」

姉さんが大声で叫ぶと群衆の中から見知った顔が飛び出しました。確かジェシカさん。

「うちを使ってちょうだい、夜までは大丈夫よ!」

やっぱりジェシカさんは気風がいいです。タニアっ子というのはみんなこうなのでしょうか。
男の子を魅惑の妖精亭に運び込むや、すごい速さで鞄からグローブとマスクを取り出して着けると姉さんは男の子のシャツをはいでいきます。
私も負けじと準備を急ぎます。

「腹腔内出血・・・内臓もやられてるね。秘薬じゃ間に合わない。時間と競争だわ」

内臓が潰れているのに加え、お腹の中の太い血管が何本か破れてしまって、このままだと出血多量で死んでしまうのだそうです。
治癒魔法で治すには傷が重すぎ、秘薬で治すには時間がかかり過ぎると言っていました。

「テファ、点滴の準備を。空の瓶を吊るしな」

私は言われたとおりに点滴の用意をしました。
その間に姉さんは男の子にペンくらいの大きさの杖を取り出してルーンを唱えました。
魔法で男の子に麻酔をかけて、次いでブレイドでお腹を切開。
血が噴き出してきて姉さんの顔から服を血に染めていきます。
姉さんは動じることなくルーンを唱えて、吹き出す血を空中でボールのように丸めると、そのまま空の点滴瓶に流し込みました。
自己血輸血というのだと後で教わりました。入りきらなかった血は消毒した容器に貯留しておきます。
これに荷物の中から生理食塩水を取り出して濃度を調節して加え、大腿静脈から輸血しました。ラインは4本。

「テファ、脈を取っておくれ!」

脈が弱い。頑張れ。
姉さんは腹部に取り掛かりきりで、程なく破断した太い動脈が数本ある問題の部位に辿りつきました。
すごいスピードだと思う。
姉さんが言うには、多少しくじっても魔法で元に戻せるから気が楽だっていうけど、それにしてもここまで早いのは初めて見ました。
治癒のルーンを唱えると、押しつぶされたように破れた血管がみるみるうちに修復して行きます。
続いて破裂した内蔵や馬の蹄で挫傷した部位に治療を施し、開始から1時間ほどでお腹を閉じて、最後の治癒魔法で切開した部位を塞ぎました。

姉さんは大きく息を吐いて脱力したように座り込みました。ものすごい短距離走をしたみたいな感じでした。

「テファ、脈は?」

脈を取ると、先ほどより強い脈を感じます。大丈夫、生きてる。

「何とか間に合ったかねえ」

しゃがみこんだままマスクを取って、手袋を外しました。そして、控えていたジェシカさんを見つけて声をかけました。

「すまないが、水場を貸してくれないかい。顔を洗いたいんだよ」

「もちろんよ。奥にあるから好きに使って」

「ありがとうよ。テファ、ちょっとだけ頼むよ」

姉さんが奥に行くと、ジェシカさんが話しかけてきました。

「もう大丈夫なの?」

ちょっとだけ不安げなジェシカさん。

「先生の様子からすると、もう大丈夫だと思いますよ」

「本当に?」

「この後先生から説明があると思います。親御さんの方は?」

「表で待っているわ」

「じゃあ、一緒に説明をいただきましょう」

ジェシカさんはほっとしたようにため息をつき、輝いた眼差しで話し始めました。

「それにしても、見ててびっくりしたわ。誰も動けない中で、倒れてる男の子に駆け寄って。どこの英雄さん、って感じだったわ」

「困った人を見ると、先生はいつもあんな感じです」

そう、私もまた、姉さんに助けられた一人です。

「あれは、アレよね、勇気?あとは、優しさ?」

客商売をやっているだけあって、ジェシカさんは人を見る目があるようです。
自分のことじゃないけど、私も少し誇らしい気分です。
私は頷いて答えました。

「はい。先生は勇気と慈愛の人ですから」

何となく言った一言に、ジェシカさんが反応しました。

「慈愛?」

「ええ」

「ああ、それいいわね。『慈愛』のヴィクトリア。なんかいい響きじゃない?」

「先生は嫌がりそうですけど」

そう言って私たちは笑いました。


そんなジェシカさんが「『慈愛』のヴィクトリア」の名前を方々で宣伝しているのを知ったのは、だいぶ後になってからでした。
教会が怖いので手術のことは内緒ということで関係者にはお願いしましたが、こちらの方は勝手に広まっていってしまったようでした。




『♪~~~~~♪』

気付けばヴィクトリア姉さんはいつものメドレーに入っていました。
ヤシロアキって言ってたっけ?
今日はいつになくご機嫌のようです。

「ん?お風呂は今はヴィクトリアかい?」

洗い物を終えたマチルダ姉さんがエプロンを外しながら居間に入って来ました。

「うん。すっかりご機嫌みたい。あ、お茶を入れようか?」

「いや、いいや」

その時のマチルダ姉さんの顔は悪い人の顔でした。
いわゆる、その、黒い笑顔?

「ふふふ、どれ、久々に家族のスキンシップといこうかねえ」

そのまま、タオルを手に浴室に入って行きました。
基本的に意地悪だよね、マチルダ姉さんも。





『わあ、何しに来たんだい、このおっぱいオバケ!』

『ふっふっふ、久々に、あんたの成長具合を確かめてやろうと思ってねえ』

『や、おやめ、や、やめろ~!にゃ~~~っ!!』




じゃれあう姉さんたちの声を聞きながら、私は目を閉じて祈りました。





お母さん、私は今、とても幸せです。
幸せすぎて申し訳ないくらい。
だから、私は祈ります。
今日みたいな日が、明日も明後日も、ずっと続きますように。





「楽しそうですね」

見ればエプロンを外したディーさんが笑っていました。
いつもヴィクトリア姉さんだけでなく、私たちも守ってくれている頼もしいナイトさん。

「ええ。仲がいいです。羨ましい」

「ならば、テファさんも飛び入ってしまってはどうですか?」

あまりのアイディアに、私は吹き出しそうになりました。

「そうね、その手があったわね」

「行ってらっしゃい」

笑うディーさんを残して、私もタオルを手に浴室に向かいました。







*[92]ないか様のご指導により一部修正。
*トラブル回避のため、一部修正。



[21689] その9
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/27 15:45
降臨祭が近い今の季節は、日が落ちるのが早い。
サン=レミ聖堂が午後5時の鐘を鳴らす中央広場を、家路を急ぐ人々に埋もれるように一人の少女が夕暮れ時の長い影を引きずって歩いている。
名工が作った人形のような、美しい面貌の少女であった。
小柄な、まだ10歳ほどの子供に見えるが、実年齢はその倍ほどもあると聞けば誰もが驚きを隠せないであろう。
腿ほどまで伸びた髪は、ボリュームがあり、伸ばしていると言うよりは無造作に伸ばし放題のようではあるが、生来の髪質なのかその輝きは健康的なものであった。
色は濃い目の茶色であり、どことなくこの国の王女アンリエッタのそれを思わせるが、この少女が実際にその王女と従姉妹であると言うことはこの街にいる者はほとんど誰も知らない。
身を包む外套は大人しいデザインでありながらも流行りのもので、トリスタニアの街を歩けば数分に一人は見かけるようなありきたりなものであったが、この少女が着ると何故かその服の格が一段上がる様な不思議な気品を少女は纏っていた。

気品はともかく肉づきはいささか寂しい痩せっぽちな体にどこか老婆のような気だるさを引きずりながら、中央広場からブルドンネ街に足を向けた。
宮殿が見えるあたりで小さな路地を曲がり、すぐのところにある小料理屋の扉を少女はくぐった。

「いらっしゃいませ・・・あら、先生!」

接客に勤しむこの店の娘が元気よく声を上げた。。
向日葵のような笑顔で、夕顔のような少女を迎える。
娘はこの少女を知っていた。もっとも、この少女がトリスタニアに流れてきてから数年、この街の平民で少女のことを知らない者の方が今では珍しいのかも知れない。

「遅くなっちまったかね」

「はい、お連れ様はもうお待ちですよ」

娘は案内に立って店の奥に少女を導き入れる。

「最近は親父さんの腰の調子はどうだね?」

「はい、おかげさまですっかり。小麦粉の袋も前みたいに軽々です」

「また無理しないようによく言っといとくれよ。予防に勝る治療はないんだ」

「あら、でもそれじゃ先生のお仕事なくなっちゃうじゃないですか」

「医者なんて商売は出番がなければそれに越したこたぁ無いんだよ。食うに困ったら皿洗いでもやるからここで雇っちゃくれないかね」

「先生なら着飾って看板娘にしちゃいますよ」

しばし考え込み、少女は困った顔で言った。

「お願いだから服は普通の服にしとくれよ」




料理屋の奥にある、個室の小部屋の前に立って娘が伺いを立てる。

「御連れ様がお見えです」

「お通ししてください」

中から聞こえたのは落ち着いた男の声であった。
声を受けてドアを開き、少女が小部屋に入ると、そこに眼鏡をかけた冴えない中年の男が席についていた。

名をジャン・コルベールと言った。
トリステイン魔法学院で教職を務めており、火の魔法の名人でもあった。

「やあ、待たせてすまないね、先生」

「はは、ここでは私が先生かね」

「白衣を着ていない私は、ただの市井の小娘さね」

「これはまた、ずいぶん博識な小娘がいたものだね」



この店の看板料理はフォンデューである。
煮立たせたブイヨンのスープに肉や野菜などの食材をくぐらせて食べるいわゆるスープフォンデューであるが、感覚的にはしゃぶ鍋のそれに近く、いろいろな旬の食材を食べられることもあって、酒の進む庶民の料理としてトリスタニアでは愛されている。

「お、そうそう」

羊の肉を頬張っていた少女は思い出したようにフォークを置き、鞄から小瓶と数十枚の羊皮紙を取り出してテーブルに置いた。

「酔っ払っちまう前に渡しておくよ。いつもの薬と翻訳だ。忘れちまったらまた先生に一日潰してもらわなくちゃいけないからね」

「いや、これはすまない。では、私も今の内に渡してしまおう」

そう言うと、コルベールもまた鞄から数冊の本を取り出す。

「これは写本だから進呈するよ」

「それはありがたいね」

両者の付き合いは、コルベールがトリスタニアにある少女が経営している診療院を訪ねたことから始まる。
まだ40歳ほどでありながら、コルベールの頭髪は後頭部まで綺麗に禿げあがってしまっている。
日頃はあまり気にした風ではないが、内心ではそれなりに気にしているというのが男心というもの。
何より、コルベールは未だに独身であった。髪はあった方が何かと有利である。
本来であれば貴族であるコルベールが平民相手の診療院を訪れることはあり得ないことではあるが、彼もまた世間体を気にする普通の人間であるため貴族が使う治療師は憚られたうえでの苦肉の策であり、また来るものは拒まぬ診療院の門戸は例え貴族であっても邪険に閉じることはなかったために成立した邂逅であった。
問診を終え、恥ずかしげに視線をさまよわせるコルベールに、院長であるところの少女は論理的な説明を講じた。

脱毛の原因としては、

・髭等の発毛や筋肉の発達を促す睾丸から出る男性を男性たらしめる微量要素が毛の根に影響すること。
・脱毛については微量要因はその量が問題なのではなく、毛の根の感受性次第であること。
・毛穴から出る皮脂が劣化し、目詰まりとなって毛の根が窒息すること。
・男性の場合、成長期の終わりと共に頭皮の成長が止まるが、頭蓋骨は40歳くらいまで成長を続けるため
 頭皮が緊張し、皮膚が無毛皮に変質してしまうこと。
・ストレスによる頭皮の緊張も同様。
・可能性としてはこれらの複合要因であること。

等。

これらを解説し、次いで対処法を示した。
すなわち、

・よく売っている毛生え効果を謳った秘薬は全く効果が望めないこと。
・頭皮は清潔に保つこと。入浴はできるだけ頻繁に。
・早寝早起きに努め、暴飲暴食を慎むこと。徹夜はしないこと。
・入浴の数時間前に精製された植物性オイルを頭皮に刷り込み、マッサージすること。

等。

その上で微量要素の働きを調整する秘薬を調合し、定期的に服用することを持って治療とすると告げた。
ここまで言われてコルベールは呆けたように少女の顔を眺めた。
元より好奇心の塊のようなコルベールは事の仔細を少女と話しこみ、午前の診察時間ぎりぎりまで説明を掘り下げた。
少女の方も嫌な顔一つせずに応じ、話し足りないところはまた次回ということでひとまずお開きとなった。

その後もコルベールが診療院に通う度に会話が弾み、やがては自然科学全般の話となり、次いで双方の求めるものの交換が始まるようになった。
コルベールの方は手持ちの読めない書物を少女が読めることを知ってその翻訳を、少女は平民では王立図書館で読める書物が限られるので国内有数の蔵書を誇るトリステイン魔法学院の図書館からの魔法関係の図書の借り出しを望んだ。

その交換は月に2回の頻度で行われており、双方ともにいける口であることもあって大抵の場合はトリスタニアのどこかの料理屋で会合を持つのが常となっていた。


「それにしても」

コルベールは渡された翻訳を読みながら呟いた。そこにあるのは航空力学の基本理論の解説であるが、それを結構あっさり理解するあたりがコルベールが非凡なところであった。

「どうして君は東方の文字を知っているのかね?」

「いい女には秘密がつきものなんだよ」

見た目がアレなこの少女が言うには違和感がある言葉ではあったが、少女の瞳の光がもつ不思議な魅力を知っているコルベールには、その言葉の裏側にこの少女の持つそれなりの含蓄を読み取る事ができた。
少女にしてみても、前世の記憶のおかげで『召喚されし書物』 である工学系の参考書が読めるのだとは言いづらかった。

「それより、その後の具合はどうだね?」

少女の視線が自分の頭に向かっているのを感じて、コルベールはぴたぴたと頭皮を叩いた。

「おかげでだいぶいいようだ。産毛の勢いが強まって来ているように思うね」

「ターミナルヘアに戻すには数年のスパンで考えとくれよ。すぐに生えるということは体の負担も凄いということだから、下手したら変なでき物ができて死んじまうからね」

「怖いね」

「あんたはまだ間に合うが、完全に根っこが死んでる場合だと足の裏に毛を生やせと言うようなもんなんだよ。そこらの薬売りに騙されてぼったくられるのは勝手だが、体壊して運び込まれるところは私の診療院だから困るんだよ」

「なるほど」

「後はストレスが心配だけど、どうだい、最近夜は眠れているのかい?」

「ああ、あまり寝つきは良くないね。貴族の御子息たちを相手の仕事だ、気苦労はそれなりだよ」

「睡眠不足は・・・判っているね?」

「はは、気をつけるよ」

そんな時、窓の外にちらりと動く白い影があった。

「これはびっくりだね、雪だよ」

「どうりで今日は冷えるはずだ」



少女は窓の外に視線を向け、しばし黙って舞い始めた雪の乱舞を眺めていた。
その視線が、妙に遠くを見ているような気がして、コルベールは声をかけた。

「雪を見て、何か思い出すのかね?」

少し間を置き、少女は口を開いた。

「昔の話さね」

「君の昔話か。そう言えば、君はどこの出だったかね」

「北の方さ」

「アルビオンあたりかな?」

「さて、忘れちまったよ」

「・・・すまない、無粋だったようだ」

「いいんだよ。そう言えば、ちょうどこんな冷えた夜だったねえ」

「何がかな?」

「初めて人を殺してしまった日さね」

ポツリと、石を口から零すような言葉に、コルベールは固まった。
そんなコルベールの強張った表情を気にもとめずに少女はグラスの中のワインを見ながら続ける。

「人を殺しちまった時の記憶ってのは厄介なもんだね。拭っても拭っても油汚れみたいにこびりついて、夜毎夢に出てきて人の眠りを妨げやがる。そうなると酒の量も増えるし、体にもよくないね」

コルベールは無表情になった少女の様子に思考を巡らせた。
この少女も、外見こそ幼くとも、日々人の死に触れる仕事を生業としている。
中には、己の力が及ばぬばかりに命を落とした者がいるのかも知れぬ。
しかし、それだけで日々悪夢に魘されるであろうか。

「後悔、というわけかね?」

探るように問いかけるコルベールを余所に、少女は背もたれにもたれて大きく宙を仰いだ。

「そりゃ、できれば殺したくなんかなかったさ。例え相手が殺されて当然の畜生だと思っていてもね。その時のことは納得できていても、見た光景が本当に何時まで経っても消えてくれやしない。
まあ、消そうと思うこと自体が傲慢なのかもしれないけどね」

「・・・。」

コルベールは、目の前の少女が望まぬ凶状の過去を内に抱えていることを確信するに至った。
医療に関するものとは異なる、自分のそれに近い黒い過去を。
それが、身内に慰み者にされそうになった上での親殺しであったことまでは神ならぬコルベールは知らない。

少女は思い出したように問うた。

「先生。・・・罪ってのは消えるものだと思うかい?」

重い問いであった。
その言葉にコルベールはしばし考え、神に対する宣誓のような口調で告げる。

「・・・どうやっても罪は消えるまい。例え死んでもね。自裁は償いのようで、ただの逃げだ。ならばこそ、少しでも償えるよう、心に刻んで日々を生きるべきなのではないか。少なくとも、私には他に方法は思いつかないね」

「そうだね。罪は・・・あったことは消せないさ。ならば、罪人は赦されてはいけないものかね?」

意外な言葉に、コルベールは微かに息を飲んだ。

「赦すと言うのは難しいことだ。最後に自分を赦すのは、自分しかないのだろう。神か、始祖か、あるいは死んでしまった相手が赦してくれても、恐らく自分で自分を赦せまい」

「では、罪人はどうすればいい?」

「難しい問題だね。私が知っている言葉ではうまくは言えないが・・・そう、消えぬ罪を友とし・・・贖罪の時を積み重ね、やがてその罪を己の血肉とした時に、何とか自分を赦してやれるのではないかと私は思う」

そこまで口にした時、少女が真正面から自分を見ていることにコルベールは気が付いた。

何より雄弁な少女の黒い瞳が、コルベールに自身の言葉をそのまま語りかけているようにコルベールは感じた。
心の奥を、見透かすような闇を湛えた瞳である。

「き、君は・・・」

何を知っているんだ、と問おうとして口を閉じた。

少女の過去の話は嘘などではないのだろう。
コルベールは、少女が医師として磨いた観察眼が、コルベールの所作のどこかに自分と同じ咎人の匂いを嗅ぎつけたのだろうと推測した。
無論、少女がアングル地方であった悲劇のことを前世の知識で知っている等とは夢想だにしなかった。
あの年の、ダングルテールでの記憶は、今なお、彼の心を苛む。
自分が少女に告げた言葉が、そのまま自分に返ってきていることを悟り、コルベールは己が邪気のない罠にはまったことを知った。
コルベールの苦しみを、ほんの少しは自分も判るのだと言う彼女なりの意思表示であるに違いないと思った。


『苦しみ抜いた罪人には、どうか赦しを』


言外に少女が言っているような気がして、コルベールは今一度自分の頭を撫で、自嘲するように笑った。
自分で言いながらも、判っていることであった。
これは、言葉で片付く問題ではないのだ。
もし、この身が本当に解放される日が来るのだとしたら、あの時助けたただ一人の少女が自分に対し、裁きの刃を振り下ろす時に他ならない。


それきり、小部屋から会話がしばし消えた。
ゆったりと沈黙の時間が流れ、フォンデューの微かな泡の音が聞こえた。
やや時を置き、

「あ~、ダメだね」

と少女は今一度宙を仰いで頭をかいた。

「どうにも悪い酔い方をしているようだ。ちと趣を変えようか」

そう言って少女は先ほどの娘を呼び、ホットワインを頼む。
やや考えて、コルベールもそれをオーダーした。



「それじゃ、改めて」

スパイスの効いた熱いワインのカップを少女が掲げる。

「何に?」

受けるコルベールが少女に問い、少女は小首を傾げて言った。

「そうさね・・・いつか来る雪解けのために、ってとこでどうだい?」



カップが合わさる、小さな音が響いた。



[21689] その10
Name: FTR◆9882bbac ID:e07934d6
Date: 2010/09/12 21:00
昼下がり、馴染みの工房のドアを開けると、『アトリエ・マチルダ』の看板の脇にかかった真鍮のカウベルがカランと音を立てた。

「いらっしゃい・・・って、あんたかい」

工房の奥で作業机に向かっていたマチルダが、入って来た女性客を見て笑みを浮かべる。

「そろそろできているんじゃないかと思ってな」

女性客の方はマチルダと違って髪が短く、顔立ちがややきつい。
マチルダを猫とすると、猫どころか猫科の猛獣を思わせる雰囲気である。
名をアニエスと言った。

「いいタイミングだね。昨日出来上がったとこだよ」

マチルダは立ち上がると、作業部屋の奥にある棚から木箱を取り出し、アニエスが立つ受付机まで持ってきた。
木箱を空けると、布に包まれた大ぶりな塊が入っている。
マチルダはそれを手に取り、布を外す。
中から出てきたのは、一丁の拳銃であった。
銃把を向けられると、アニエスは慣れた手つきでそれを受け取った。

「・・・ほう」

思わず感嘆のため息が漏れた。調整が施された銃把は、まるで己の一部になったかのように掌に吸いつくように馴染んだ。
そのまま壁に向かって銃をポイントする。
重量のバランスや部品の角度は想像以上であった。
次いで各部を確認するが、パーツのガタつきは全くなく、程よく油が引かれた可動部分の動きも申し分ない。
どこを取っても非のうちどころのない出来栄えであった。

「見事だ・・・期待はしていたが、これほどとはな」

「言っちゃ悪いが、随分悪い鉄が使われてたよ」

マチルダが取りだしたのは、折れた撃鉄である。
アニエスがマチルダの工房に銃の修理と全体的な調整を依頼した発端は、訓練中に撃鉄が折れてしまったがためであった。

「硬度についちゃ充分なレベルと言えるけど、粘りがダメだね。これじゃ衝撃ですぐに折れちまうよ」

「強度については折り紙つきという触れ込みだったんだがな」

「ただ強いだけじゃダメさ。そこらへんのバランスが私ら職人の腕の見せ所でもあるけどね」

『錬金』の魔法には、いささかプライドを持つマチルダである。

「・・・まあ、これを見せられては納得だな」

生まれ変わったかのような仕上がりの拳銃を眺めながら、アニエスは笑った。

本来は武器専門の工房ではないマチルダの店ではあるが、刀剣や鎧などについても器用に何でもこなしてくれるのでアニエスはしょっちゅうこの店に出入りしていた。
マチルダとはかれこれ半年以上の付き合いになるが、魔法使いが嫌いなアニエスも、マチルダにだけはそれなりの敬意を払っている。
ともすれば取っつきづらいくらいプライドが高いマチルダだが、仕事はそれに見合って余りあるものがあるし、何より年齢が同じと言うこともあって二人は妙に馬が合った。
仕事を離れて酒を酌み交わしたことも一度や二度ではない。
どちらもS寄りの性格というのがシンパシーを呼んだのではないかと、両者を知るどこかの水の魔法使いが思っていることは誰も知らない。

「とにかく、気に入ったよ。『工匠』の名は伊達じゃないと言うことか」

「その二つ名は恥ずかしいからやめな」

「ふふ、まんざらでもないくせに。ほら、代金だ」

革袋を机に置き、マチルダが中を勘定する。

「ん? ちょっと多いよ?」

「心付けだ。いい仕事をしてもらった礼だと思ってくれ」

「ふん、じゃあ遠慮なくもらっておくよ」

「っと、すまんが今日はのんびりもしていられん。夜には夜間訓練があるんだ。これで失礼する」

「毎度。兵隊さんも大変だね」

「大変じゃない仕事などあるまい」






腰に感じる頼もしい重さに、街をゆくアニエスの顔がやや緩む。
復讐の誓いを立てて己を磨きあげ、今では『メイジ殺し』として知られるほどの剣と銃の使い手であるだけに、良い武器には普通の女性が豪華なドレスに感じるときめきのようなものを覚えるアニエスであった。
ここしばらくは訓練に明け暮れすぎたせいで体調が芳しくなく、気力で己を支えてはいるものの滅入りがちな毎日であったが、こういう楽しみがあればまだまだ頑張れるような気がした。

アニエスが異常に気付いたのは工房と練兵所の中間くらいであった。
人々が騒いでおり、見れば青空にどす黒い煙が立ち上っているのが見える。

「火事か!?」

アニエスは走り出した。

大通りから一本入った通りのやや大きめの宿屋が紅蓮の炎に包まれている。石造りの建物が主体のトリスタニアであったが、屋内には可燃物が少なくないだけにこうした火災はしばしば発生する。
野次馬をかき分けて火事場に近づくと、家人と思われる女が大声で喚いていた。

「どうした!?」

駆け寄って大声で怒鳴ると、アニエスの軍装を見た女が

「娘が中にいるんです!」

と涙を流しながら縋りついてくる。

「子供が!?」

燃える建物に目を向けると、炎は間もなく2階に回ろうと言う勢いであった。
アニエスの中の、古くとも今なお生々しいまでに鮮やかな禍々しい記憶が甦って来る。
故に、その行動は半ば反射的なものであった。

「水は!?」

周囲に目を向けるが、防火班の到着はまだであり、バケツなども見当たらなかった。
待っていられる時間はあるだろうかと瞬時に思いを巡らし、アニエスは意を決した。

「これを持っていろ!」

泣いている女に剣を預け、アニエスはそのまま建物に駆け込んだ。

アニエスはシャツの袖で口元を覆って走り回るものの、燃えた建物は予想以上に広く、取り残されたであろう少女を探すにはいささか時間を要した。
吹きあがる炎が髪を焦がし、熱気はじわじわとアニエスの肌を焼いた。
1階に姿がないことを確認し、燃える階段を駆け上って2階に向かう。
部屋は8部屋。
アニエスは遠慮なくドアを蹴り開け、3部屋目で少女を見つけた。
駆け寄って抱き上げると、煙を吸ったのか意識がなく、多少火傷はあるものの幸いなことにまだ息はあった。
抱き上げて一気に階下に降りようとした時、アニエスの目の前で階段が炎に屈して崩れ落ちた。
ならばと駆け戻って窓から屋根伝いに降りるかと思った時、ついに天井の梁が崩れはじめ、その内の一本がアニエスの頭を痛打した。
気が遠くなるほどの衝撃にアニエスは膝をついた。

火勢はいよいよ強く、煙も濃密である。
血を流したアニエスは震える膝を叱咤しながら窓を目指すが、もはや窓は煙を吐き出す煙突と化している。
体内の酸素が不足したアニエスは、朦朧とし始めた意識の中で昔日の記憶を反芻していた。
自分に毛布をかぶせて魔法使いの炎に倒れた女性。
そして己を背負って助け出した男の首筋の傷跡。
復讐のために捧げてきた半生であった。
姿も知らぬ炎の使い手を憎み、それを倒す術を磨いてきたアニエスであったが、よりにもよってその炎に屈するかもしれぬと心のどこかで思った刹那、アニエスの目に憤怒の輝きが宿った。

『死んでたまるか。こんなところで死んでたまるものか』

未だ天命を果たしていないアニエスにとっては、諦めると言う選択肢はありえないものである。
しかし、気力を幾ら振り絞ろうとも、酸素が充分に行き渡らぬ筋肉は思うように言うことをきかない。
煙にやられた目からは涙が零れ落ちる。

『まずはこの子だけでも外に出せれば・・・』

と這いずりながらも窓を目指した時であった。

アニエスは背中に階下から吹いた清涼な風を感じた。
顔を上げると、圧倒的な猛威をふるっていた炎が、広がり始めた濃密な霧の中で勢いを失っていく。
火に直接水を放たなくても、熱を奪うことで鎮火が可能なのだとはアニエスは初めて知った。
振り返ると煙の隙間から、天の使いのように階下からふわりと跳んできた白衣を着た茶色い髪の少女が見えた。
2階に立つと同時に少女は今一度ペンほどの長さの青い水晶の杖を振るい、素早くルーンを唱えた。
放たれたミストが、なおも残る2階の炎に襲いかかり、その勢いを殺していく。
火が消えたところで続く風の魔法が煙を屋内から追い出しにかかった。
ミストがアニエスを濡らし、彼女の涙を洗い流した。

「何とか間に合ったかね」

少女の鈴のような声を聞いた時、緊張の糸が切れたアニエスの意識は闇に落ちた。






気付いた時、窓から差し込む光は既に夕方のものであった。
回りを見ると、見覚えのない器具が並ぶ奇妙な一室であった。

「おや、気が付いたかい」

声の出所に目を向けると、机に向かって書きものをしている白衣の少女が見えた。
歳のころは10かそこら。
大ぶりな椅子が不似合いな少女であった。

「ここはどこだ?」

アニエスは単刀直入な性格であったが、返って来た答えもまたシンプルであった。

「診療院だよ」

「診療院?」

「チクトンネ街のトリスタニア診療院さね」

しばし考え、最近巷で平民相手に貴族並みの治療を施す治療師がいるという噂を思い出した。
確か、『慈愛』のヴィクトリアという水メイジ。

「名誉の負傷とはいえ、だいぶ酷い怪我と火傷をしていたからね。とりあえず治療をさせてもらったよ。火傷はきれいなもんだが、頭の打撲が気になるからね。今夜一晩はここで安静にしとき」

「治療・・・」

そこまで言われてアニエスは思い出した。

「あの娘はどうした?」

「お前さんのおかげで大した火傷もしてなかったよ。もう意識が戻って家に帰ったさ。後で改めて挨拶に行きたいと親御さんが言ってたよ。預けてあった剣はそこにあるだろう」

見ると、枕元に愛用の剣が立てかけてあった。

「とりあえず、あの子の分と合わせて礼を言う。おかげで助かった」

「お前さんの分の礼は受け取るが、あの子の分は受け取らないでおこうかね。あれはどう考えてもお前さんの手柄だよ」

「いや、君がいなければ私もあの子も炎の中で焼かれていただろう。恩に着る」

「あの火の中に飛び込む馬鹿にしちゃ義理堅いね。そういうのは嫌いじゃないよ」

少女は笑いながら書きものから顔をあげて振り向いた。

「あんな火事だ、普通はしり込みするだろうさ。それをお前さんは躊躇うことなく火に飛び込んだっていう話じゃないか。怖かっただろうし、階段が落ちて梁が倒れてきた時は絶望の一歩手前だったことだろうよ。でも、お前さんはそこで諦めずに頑張ったんだろ? 
だから、私が間に合ったんだ。遠慮なく自分の手柄にしておきな」

「・・・理屈が好きなようだな」

「理詰めでいかないと、お前さんみたいな奴は判らないようだからね。とりあえず、今夜は経過観察だ。隊の方には使いを出して災害救助中の負傷と伝えてある。町内会からも事情説明の書面が出るから安心してお休みな」

「手回しがいいな」

「何、時間ができた分、お前さんにお説教をしようと思ってね」

「説教?」

少女はアニエスの傍らに寄って来て椅子に座った。

「お前さん、毎日どういう訓練をしているね?」

「訓練?」

「診察させてもらったが、ぼろぼろじゃないかい、お前さんの体」

少女の言葉に、アニエスは当然のことと思って反論する。

「私は軍人だ。体を鍛えるのは当然のことだ」

「その口ぶりからすると、相当本来の訓練以外のこともやっているね?」

「人と同じことをやっていては人の上には立てん」

「おやおや、これまた馬鹿な子だと思ったけど、予想以上だったかね」

頭を振る少女にアニエスは立腹した。

「物を知らぬ小娘に言われる筋合いはない」

声を荒げるアニエスに、少女は眉ひとつ動かさなかった。

「物を知ってるから言っているのさ。これでも医者だよ。いいかいお前さん、よくお聞き」

少女はアニエスの腕を指しながら言う。

「ここの筋肉一つとっても判るけど、明らかなオーバーワークになっているんだよ」

「オーバーワーク?」

「要するに訓練のしすぎだよ。筋肉だけじゃない。脂肪っけもなさすぎるね。お前さん、生理も不順じゃないかい?」

確かに、月経の周期が安定しないことはアニエスの悩みの一つでもあった。

「ではここからがお説教だよ。体が鍛えられていく過程を知っているかい?」

「鍛練を積めばその分血となり肉となるものだろう」

「間違っちゃいないが、合格点はやれないね」

少女は黒板を引っ張り出して来て筋肉の超回復について説明を始めた。
一度破壊した筋肉は、戻る際にさらに強くなって回復する。
回復した時点で今一度破壊すると次の回復ではさらに強くなる。
それを繰り返すことで筋肉は強くなっていくが、回復の最中に再び筋破壊が起こると逆に筋肉は減ってしまう。
これがオーバーワークである。
故に、鍛錬をするときは負荷と同じくらいインターバルが重要となってくる。
これまでは休むことを怠惰と捉え気力を支えに鍛錬に励んできたが、気力で体を支えることは確かに重要なことではあるものの、限界を超えた訓練はむしろ逆効果をもたらすことを説明され、アニエスは驚きを隠せなかった。

「判り易く言うとね」

少女は天井を指さした。

「あそこにリンゴがぶら下がっているとしよう。手を伸ばしても届かない高さだ。それを取ろうと思ったらどうするね?」

「跳ぶ」

「そう、跳ぶしかない。じゃあ、跳ぶ時に人はどうする?」

「大きくしゃがんで・・・」

そこまで口にして、アニエスは少女の言おうとしていることを理解した。

「気が付いたようだね」

少女は満足そうに笑った。

「そのしゃがむ動作がインターバルさ。一見後退しているように見えても、さらなる飛躍のためには助走も必要だって事さね。休息も立派な訓練なんだよ」

それだけ言うと、少女は先ほど書いていた紙をアニエスの枕元に置いた。

「お前さんの体格と筋肉量に鑑みた基礎体力向上のための鍛錬メニューだよ。参考にしておくれ。あとは・・・」

少女はアニエスの眉間に人差し指を突きつける。

「この辺の皺が減るような生き方をするともっといいね。達人ほど変な力は入れないもんなんだろう?」

そう言って笑う少女ではあったが、目が笑っていないことにアニエスは気が付いた。
吸い込まれそうな黒い瞳に、己が内に抱える黒い想念を、読み取られたような錯覚を覚えた。
まるで、圧倒的に上位の存在から問い正されているような奇妙な感覚であった。
それでもアニエスは腹に力を入れて反論した。

「鍛練については理解はするが、こちらは君の知ったことではないだろう」

「メンタルケアも医者の仕事さね。人に歴史ありってことでお前さんにもいろいろあるたあ思うけど、そんな毎日ストレスを定額貯金しているような面構えじゃ、うまくいくものもいかなくなるだろうよ。何事も、ちょっと物足りないくらいがちょうどいいってもんだよ」

「・・・お節介な医者がいたものだな」

アニエスは諦めて寝返りを打った。



その夜、マチルダが帰ってくるなりアニエスを見て大騒ぎとなり、その果てにアニエスの病室で5人で夕食を摂ることとなった。
口が悪いながらも暖かい交流に巻き込まれ、アニエスは微かに覚えている家族の食卓の片鱗をそこに感じた。



それ以来、アニエスは定期健診を欠かさぬようになり、その度に見ため少女の院長から小言を言われて渋面を作るようになるのはまた別の話である。



[21689] その11
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/17 23:17
ある日の午後だった。
午前の診療を終わり、テファと一緒にのんびりお茶を啜っていた時である。
入口のカウベルが音を立てた。

「誰かいる!?」

甲高い、何だかやたらに偉そうな声である。
応対に出ようとするテファを制して私は腰を上げた。
大切なくつろぎの時間を邪魔されて少々不機嫌になったが、そこは客商売の辛いところだ。

「診療時間は終わっているが、急患かね?」

スリッパを鳴らして受付に出てみると、そこに小柄な少女が不遜な態度で立っていた。
トリステイン魔法学院の制服に、仕立ての良いマント。
そして、眉目秀麗な外見に、ピンクブロンドの小柄な娘。
全体的に尊大なオーラを放つ発育不良な外見。
残念な、非常に残念なことであるが、私はこいつのことを知っていた。




何しに来た、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。




「あんたが『慈愛』のヴィクトリア?」

私の記憶にある以上に偉そうな物言いだった。
有力な貴族の娘でありながら、世間の失笑を浴びて生きているとこういうキャラクターが出来上がるのかも知れない。
いろいろと程よくひん曲がっている感じだ。
プライドが高いいじめられっ子というのはこういうものなのだろうか。

「そんな大仰な二つ名は知らんが、ここの院長のヴィクトリアなら私だよ」

「ふ~ん・・・」

ルイズは値踏みするように私と院内を見まわした。
ここまで遠慮というものがないと、むしろ腹も立たないから不思議だ。

「埃臭いところね」

・・・こいつは喧嘩の押し売りにでもきたのであろうか?
私も喧嘩の値段には文句をつけないほうだが、あまり安物は買いたくない気分だ。

「それはどうも。御用の向きは何だね、貴族のお嬢ちゃん。どこぞのどら息子に惚れ薬を盛るつもりなら一本通りを挟んだピエモンのところにお行き」

「誰がお嬢ちゃんよ、あんたの方がガキじゃないのよ」

ルイズは私の身長と、胸の辺りを注視して言った。
どいつもこいつも人を見かけで判断しやがる。
本当にピエモンに頼んで石見銀山でももらって来ようか。
こめかみの青筋を笑顔で隠して噴出しそうなものをぐっと飲み込む。

「病人でもないのならさっさとお帰りな。私ゃ茶を飲むのに忙しいんだ」

「そういうのを暇っていうんじゃないの?」

「お前さんと話し合っているより有意義だよ。さあ、帰った帰った」

「待ちなさい、本題に入らせなさい!」

「受付時間外だよ。第一、ここは病院だ。見るからに健康そうなお前さんが来るところじゃないよ」

「あんた、ヴァリエール公爵家の者にそんな態度とってただで済むと思ってるの?」

「ヴァリエールだかエリエールだか知らんが、急患でもないならさっさとお帰りな」

なおも食って掛かってきそうだったのでサイレントの魔法をかけ、血相を変えるルイズをドアの外に押し出す。
ドアに手をかけて抵抗しようとしたが、杖の先っちょで脇の下をくすぐったらあっさり力が抜けた。
無音の中で悶える娘というのはなかなか見ていて面白い。
そのまま一気に外に追い出して、扉にロックをかけた。


『この無礼者! 覚えてなさい! こんなちっぽけな診療所、潰してやるんだから!』

サイレントの効果が切れたら、何とも小物っぽい怒鳴り声が聞こえて来た。
まあ、ドアをドカドカ蹴らないだけましではあるが。
ちなみにマチルダに固定化をかけてもらってあるから蹴ったら足が痛いだけだけど。
それはともあれ、こんな場末の診療所に何しに来たんだ、こいつ。
原作だとこの辺りに来たのって、使い魔召還の後じゃなかったっけ?
まさかお姉さんの診察の話じゃあるまいな。タバサと違って水メイジを腐るほど抱えているだろうに。

そんなことを考えていたら、外の様子が何だか剣呑な感じになってきた。
ひょいとドアの脇の小窓の隙間から様子を伺う。


「おう、貴族のお嬢ちゃんよ」

見ると、どう見ても堅気には見えない柄の悪い男が何人も集まって来ていた。
もともと風紀が良くない辺りだが、どうみてもやーさんにしか見えない連中が数名。それだけじゃなく堅気の面々も集まっており、穏やかじゃない目つきをしていた。

「下郎が気安く話かけるんじゃないわよ」

鋭いガンたれを浴びせられても、ルイズは気丈に応じている。
まあ、普通に考えれば平民の、しかも最下層の連中が公爵家三女に直接話かけるなど本来あり得ない話ではあるが。

「それはそれは失礼しちまったな。だがな、お嬢ちゃんよ、あんた、この界隈でさっき言ったみてえなことは言わねえ方が身のためだぜ?」

「はあ?」

「この街の連中で、ここの先生に手ぇ出す奴を黙って見ている奴ぁいねえよ。潰すだの何のと物騒な脅し文句垂れてると、おめえここから生きて帰れねえよ?」

「いい度胸じゃない。公爵家三女に手を出そうと言うの?」

ルイズは杖を構えて威嚇する。
世間知らずは怖いなあ。

「下がりなさい。それとも貴族に逆らうとどうなるか思い知らせてほしい?」

その言葉に怯むどころか、男たちの殺気が一段と高まった。

「やってもらおうじゃねえか」

と鼻息も荒く先頭の男がずいと一歩前に出た。


潮時だと思った。
怪我人を出されては大ごとだ。私の仕事が増えてしまう。
私は扉を開けて怒鳴った。

「こら~! 私ん家の前で揉め事はおやめ!!」

私の出現で、連中の上がった血圧が一気に降下した。
何故か怖い生き物を見るような怯えた視線を私に向けてくる。

「だ、だってよ、先生・・・」

「だってじゃないよ! つまんないことでいきり立ってないで、さっさと仕事終えて家帰って嫁さん可愛がっておやり! ほら、散った散った!!」





成り行きで、私はルイズを診察室に入れることになった。
不本意極まる話だが、帰り道でまたひと悶着起こされてはかなわない。
仕方がないので問診表を片手にルイズと対峙した。

「それで、今日は何の病気だって? デリケートなところでも痒いのかい?」

「違うわよ!」

「大丈夫だ、私ゃ医者だよ。秘密は守るさ。一人で悩むこたあない」

「話を混ぜかえさないでよ!」

なるほど、学院の生徒がこいつをからかっていたのがわかる気がする。
すぐにむきになるあたりは苛められっ子属性の典型だ。
まあ、それだと話が進まないので私のほうから切り出してみることにした。

「で、お身内かい?」

「え?」

いきなりな言葉にルイズは固まった。

「見たところ、お前さんは健康体みたいだし、羽振りも悪いようにも見えない。
水メイジに診せる金に困っているようにゃ見えないとなると、お身内で水メイジでも判らない病気を抱えた人がいて、
ちょっと変わった医者である私のところに来たってとこじゃないか?」

この辺は原作知識が役に立つ。
会話のイニシアチブを取るには相手の意表をつくのが常套なんだが、

「・・・どうしてわかるのかは訊かないでおくわ」

お、流したよ。
学業は優秀と言うのは嘘じゃないな、こいつ。

「どれ、詳しい話を聞こうじゃないか」

ルイズが話し出すと、やはり案の定カトレアの事だった。
話しながらやや悔しそうな表情が見えるのは、本当は自分が魔法を使えるようになって彼女を治したいという妹なりの優しさゆえなのだろう。
その分、ルイズが語るカトレアの病状は詳細だった。
正直、原作では体が弱い薄幸の美女であるカトレアだが、詳しい病状はイマイチ判っていない。
水メイジの腕っこきが揃って挑んで歯が立たない病気。
厄介極まる話だ。

病気には細菌やウイルスによるものや生活習慣によるもの、毒物やストレスによるものといろいろある。
しかしながら、これらはいずれも水の秘薬で治すことはできる。
この世界で自分で手掛けてみても、水の秘薬の効果はすごいものがある。
まさにチート。
何しろ、治癒魔法と合わせれば即死級のダメージでもなければ治癒が可能なくらいだ。
この世界の貴族に子供が少ないのも、この辺が影響しているのかもしれない。
貴族に限って話だが、子供の死亡率が極端に低いのだ。
水の魔法で子供を守ることを6000年も繰り返して、そのために貴族の生殖能力が落ちているというのもありえない話ではなかろう。
あるいは魔法が使える代償として生殖能力が低いのか。
普通なら、貴族といえばグラモン家くらいの数の男子は余裕でいるだろうに、トリステイン、アルビオン、ガリアの御三家の王族は不自然なくらいに子供が少ない。
子供がいてもそれは女子だったりもする。
始祖の血ともなれば、子供が一人しかいないなど地球では考えられない話だ。
考えてみれば、屈指の名門貴族であるヴァリエール公爵にしても跡継ぎが生まれるまで頑張った気配がない。
裏を考えると背筋が冷える話だ。

それはともかく、カトレアの病気は水のメイジにも判らず、魔法でも秘薬でもダメとなると原因はもっと根源的なものと思われる。
可能性として考えられるのが遺伝性の先天性疾患だ。
先天性疾患は水の秘薬では治癒しづらい。
水の秘薬は体を正常な状態に戻すものであり、欠損した遺伝子による先天性疾患は疾患の状態こそがある意味正常だからだ。
とはいえ、一口に先天性疾患と言っても可能性が多すぎてこればかりは診てみないと何とも言えない。
現状では、


どこかを治せばどこかが悪くなる。
体の芯からダメになっている。
魔法を使うと負担がある。
調子が悪いと咳が出る。
治療はできないものの、魔法や秘薬で緩和はできる。


そんな情報しかない。
そう言えば、当直の部屋に全巻揃った『ゼロの使い魔』を読んだ奴が引き継ぎノートにカトレアの病気の所見を書くのが流行ったっけな。
ガンだの白血病といった定番から、糖尿病や心臓病、果ては性病とか書いた奴もいた・・・・・・当直って何だっけ?


話を聞き終わり、私はカルテを閉じた。

「それで、どうなの? 何か判ったの?」

彼女の問いに対する回答は至ってシンプルだ。

「いくつか心当たりはあるけど、実際に診てみないと何とも言いようがないね」

「じゃあすぐにでも診に行きなさい」

即座の切り返しだった。
この辺の思い切りの良さはこいつの美徳ではあるが・・・。
思い込んだら一直線というのは嫌いではないけど、ちょっと直情的過ぎるね、この子。

「それはできないよ、お嬢ちゃん」

「何でよ」

「いきなり平民の医者が乗り込んで『医者です、お嬢さんを診察に来ました』って言って万事スムーズに済むと思うのかい?」

「私が一緒に行くわよ」

「あんたが行っても一緒だよ」

私は椅子にもたれかかって言った。

「言っちゃ何だが、今も姉君には多くの水メイジが治療に当たっているのだろう?」

「当然よ」

「考えてもみるがいいさ。公爵家ともなればいずれも高名な治療師なのだろう。
それを脇から平民の水メイジがでしゃばってきて『治してあげます』なんてことになったらその者たちの面子はどうなるね?」

ルイズは黙り込んだ。
貴族と平民というカーストが絶対のこの国で、そんなことをした日にゃそれこそ私のほうが身の破滅だ。
ルイズだって公爵や母君からお説教を食らうことだろう。

「それに、それだけの水メイジが取り組んで難しい治療を、場末の診療院の水メイジの手に負えるかというの正直なところさね」

「でも、診てみなければ判らないって言ったじゃない」

「それはそうだけどね」

「じゃあ私と一緒にヴァリエール領まで来なさいよ。私の部屋でこっそり診れば誰にも判らないから」

「悪いがお断りだね。幾らなんでもそんなに何日もここを空けられないよ」

「何でよ」

「お前さんの姉君には他の水メイジがいるが、この街の住人には私の代わりはいないからだよ」

「平民のことなんか放っておきなさいよ」

ああ、この娘はやはり貴族なんだな、と思った。
これが才人と触れ合うことで本当に人の痛みがわかる娘に成長していくのだろうか。
少し不安だ。

「お嬢ちゃん、この診療院の扉を叩く者には貴族も平民もないんだよ」

私は諭すように言った。
医は仁術。アスクレピオスの杖の下では人に貴賤はない。
しかし、ルイズはどうにもそれがお気に召さなかったらしい。
眉を吊り上げて私を威嚇する。

「どうあっても治療はできないというの?」

「現時点では私に打てる手はないよ。姉君がここに来てくれれば話は別だがね」





何気なく言った一言ではあるが、この発言を、私は後々後悔することになる。








[21689] その12
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/10/21 20:09
「むお?」

朝目覚めると、たいてい私は変な声を上げる羽目になる。
寝相が悪いところに延ばし放題の髪が絡みついて、ベッドの上で一人緊縛ごっこになっているからだ。
しかも髪の量が多いのでちょっとした変死体のようになっている。
いっそバッサリ切ってしまいたいのだが、何故かテファがそれを嫌がり、結果として毎朝ひどい目に遭うことになっている。
乱れないように毎晩寝る前に丁寧に編み込んでいるのに、朝になると金田一さんの見つける死体みたいになっているのは何故なのかは自分でもわからない。
バサバサと手ぐしを入れ髪のラインを整えるが、後ろから見ると何だか茶色い髪と相まってゴキブリのようなシルエットになるからちょいと鬱になる。

寝巻のまま玄関ドアを開け、牛乳受けから牛乳を取り出し、道行く人を眺めながら朝の一杯をいただく。
この至福、知らない人には判るまい。

「ちょっと、ヴィクトリア!」

ぐい~っと煽ったその時、その憩いのひと時を邪魔する声が飛んでくる。
見ればビジネススーツに身を包んだマチルダがメガネの奥から鋭い視線を向けてきている。

「おはようマチルダ。今日は早い時間から商談かい?」

「ああ、おはよう・・・じゃない! あんた、何回言ったらそれやめるんだい!?」

「それ?」

「若い娘がキャミソール一丁で玄関先で仁王立ちで牛乳一気飲みなんて、御町内のいい笑い物だよ!」

随分心外なことを言う女だな、こいつ。

「一日のスイッチを入れる儀式なんだ。ほっといとくれ」

「い~や、家人として断固直してもらうよ!」

「うるさい子だね。小姑みたいな」

「誰が小姑だい。さあ、さっさと着替えてきな。まったくもう。今度やったら許さないよ」

「わかったわかった」


キッチンに入ると、エプロンをつけたディーがテファの手伝いをしながら朝食の配膳をしていた。

「おはようございます、主」

「ああ、おはようさん」

こちらもマチルダ同様にスーツに身を固め、その上からエプロンをつけている。
ちなみにイメージは『Fate/hollow ataraxia』のクー・フーリンが紅茶専門店で働いていた時に着ていた制服をモチーフにしている。
デザインはもちろん私だ。
ついでに言えば、マチルダのスーツも私のデザインで、こちらのモデルはバゼットだったりする。
トリスタニアでは浮くと思ったが、何故か妙に溶け込んでいるから結構不思議ではある。

基本的に我が家では朝食と夕食は皆で摂る。
昼食だけはマチルダの工房があるのがブルドンネ街なので、なかなか一緒に摂ることは難しい。
そのためにテファが二人のために弁当を作っており、それを工房で二人で摘む。

「最近はどうだい、仕事のほうは?」

パンをちぎりながらマチルダに訊くと、瓦版を見ながらマチルダは言った。

「ん~、おかげさんで順調すぎて困るよ。お昼食べる時間もないくらいだわ」

その腕前もさることながら、影で行われているトリスタニアの美女コンテストで第3位に食い込むいろいろとダイナマイトなマチルダである。
誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように世の中のおぢさんたちがせっせと工房に仕事を回しているに違いない。
ちなみに美男コンテストは2位に大差をつけて我が使い魔が連勝記録を更新中だ。
そんな二人が経営する工房が暇なわけがないものの、見ればちょっとお疲れ気味のマチルダ。
張り合いがあるのはいいけど、目は輝いていてもお肌は正直だ。
化粧ののりが良くないのは見ていてもわかる。
考えてみれば、私もマチルダもテファもディーも、トリスタニアに流れてきてから休暇なんか取ったことなかったな。

「冬が来る前に、一度どっかに羽を伸ばしに行かんかね?」

「羽?」

瓦版から顔を上げてマチルダが奇妙な顔をする。

「どこかの田舎でのんびりと命の洗濯をするんだよ。旅籠にでも泊まって美味いワイン飲んで、美味しいもの食べて」

マチルダはやや視線を漂わせ、その光景が想像できたらしくニカッと笑った。

「いいねえ、どこにしようか」

「何、何の話?」

脇からティファニアが割り込んでくる。考えてみれば、この子は生まれたときから籠の鳥で、レジャーなんてものは経験したことなかったはずだ。
テファの初めてのレクリエーション。
うん、我ながらいいアイディアじゃないか。

「みんなでお休みを取って、ちょっとどこかに旅行しようという話さね」

「旅行!?」

「のんびりしたところで美味しいもの食べて、ゆっくり体と心を休めるのさ」

テファはしばし考え込み、そしてスイッチを入れたように笑った。

「素敵だわ。すごく楽しみ!」

「どこか行きたいところがあったら考えといておくれ。ディー」

私が呼ぶと、食卓の端に座ったディルムッドが即座に応じる。

「は、留守はお任せください」

「馬鹿言ってんじゃないよ。お前さんも行くんだよ」

「い、いや、しかし」

「女だけの道中なんて物騒じゃないか。忠勇な騎士が一緒に来ないでどうするんだい」

考えてみれば、マチルダがいれば盗賊だの追剥だのがいても怖くもなんともない。
むしろマチルダの性格からすれば狩る者が狩られる者になるだけだが、ディルムッドも私たちの家族だ。おいてきぼりという選択肢はありえない。
とはいえ、忠義に篤いこのフィアナの騎士は、事あるごとに私を上に置こうとする。
今現在食卓で一緒に食事をしているが、それだって紆余曲折が凄かった。
頑として食卓を共にしようとしないので、
「食卓を共にできぬというのであれば雇いを解く。どこへなりとも消えるが良い」
と前田慶次ばりの最後の切り札を使う羽目になった。
彼の信条的に受け入れがたいところを突くあたりは、私もケイネス・アーチボルトを悪し様には言えない外道だと思う。

ちなみに、ディルムッドの召喚については純粋にサモン・サーヴァントの術式によるものであって、聖杯システムのそれとは違うらしい。
実際、私の体には令呪は刻まれていない。
何故に聖杯の力も使わないで英霊を呼び出すことができたのかは判らない。
触媒だってあの時はなかったし、何より、使い魔召喚でまさかこんな霊格が高い存在を呼び出せるとは思ってもいなかった。
おかんの宝石箱の中に場違いな工芸品のように何か彼に縁がある品でも入っていたのかも知れんが、素人の私にはよく判らない。
もしかしたらの話だが、不完全ながらも前世の知識を持った私がここにいることから推測するに、聖杯システムとサモン・サーヴァントのシステムの他に、どこかの誰かが作った転生システムのようなものがあってそれらが混線したのかも知れない。
万が一それがマキリ・ゾリンゲンとやらのデザインしたシステムだとしたら、ブリミルと妖怪ジジイの同一人物説をまじめに考えたくなる話だ。

閑話休題。

正直ありえないこと、判らないことだらけだが、ここにこの高潔な騎士がいてくれて、私にはもったいないほどの忠義を捧げてくれていることは事実だ。
彼が望む誉と勲ある戦いを提供してあげられないは私の不徳の致すところではあるが、できればそんな戦いはないに越したことはないとも思う。
これでも君子の端くれのつもりなのだ。

そんな穏やかな会話が紡がれた朝だけに、穏やかな一日が穏やかに流れるものと私は思っていた。
その時までは。




季節の変わり目は結構体調を崩す人が多い。
贔屓目に見てもハルキゲニアは平民の医療が発達しておらず、多くの場合は民間医療を中心とした自己免疫で治すのが主流のようだ。
お金をかけて病魔と対峙するという感覚が希薄であり、いよいよひどくなって初めて水メイジに高いお金を払って頼み込んで治すというのが定番である。
地獄の沙汰も金次第というが、お世辞にも裕福とは言えない平民の生活において、医療に回すお金は潤沢ではないらしい。
私の仕事が成り立つのもそういう土壌あっての話ではあるが、やはり根付いた感覚はなかなか払拭することがきず、今なお来院する人は二進も三進も行かなくなった重篤な患者であることが相対的に多い。
それだけに、来院した患者には懇切丁寧に原因と病気との因果関係を説明し、予防に努めるよう指示している。
その甲斐あってか、最近は定期的に健康診断に来る人や、些細な違和感でも来院してくれる人も徐々に増えてきた。
あとは暇を持て余したお年寄りが診察時間後にだべるためのサロン化する傾向が顕著だ。この辺は世界が変わってもあまり変わり映えしないらしい。
また、『昼』の町内会では毎度公衆衛生について一席ぶち、その甲斐あってか徐々に街がきれいになってきているので感染症のようなものは今後段階的に減ってくるものと思われる。
何だかんだでトリスタニアの衛生事情は徐々に向上しているようである。

ここしばらくは夏の疲れから風邪をこじらせて肺炎まで起こしている患者が多かったが、幸いにも今日は至って平和であり、診察が終わったお年寄りが、水筒や菓子を抱えてのんびりと待合室で歓談しているような午前中であった。
私もただ問診をして触診し、対処法を伝えるだけで終わってしまう診察を幾人か繰り返すだけで時が進む穏やかなひと時だった。

異変が起きたのは、診察時間が終わろうとしている昼前のことだった。
聴診器で呼吸器の音を聞いていると、何だか待合室の方が妙に静まりかえっている。
先ほどまでは町内お達者クラブな方々がさえずっていた筈なのだが、今はしわぶきひとつ聞こえない。
まるで森の小動物が猛獣に怯えて逃げ出した後のような気配すら漂っているのに気がついた。
はて、今日はこの患者さんで最後なのか?
そんな様子を気にしながらも目の前のお婆さんの診察を終え、カルテに所見を書き込んで受付に声をかける。

「次の人~」

「は、はい」

何故かテファがどもった。
明るく朗らかなテファにしては珍しい。

この時になって、ようやく私の心の中に嫌な予感というのが芽生えた。
野生のジャングルでは私は生き残れないに違いない。

ドアが開いて、次の患者が入ってきたとき、私はすべてに合点がいった。


第一印象は桃色だった。
仕立てのいい、腰がくびれたドレスを着こなし、羽飾りがついた大きな帽子を被っている。
その大きな帽子の下から、思わず引き込まれそうな愛嬌ある美貌がのぞいていた。



ありえん。



真っ白になった思考の中で、私は太ゴシック体でそう思った。
今日の朝から続く穏やかさが嵐の前の静けさだったとしても、この嵐はあんまりである。
むしろ、頭を下げて耐えていれば去ってくれる嵐のほうがまだ可愛げがある。



「はじめまして、カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌと申します」



花のような微笑を浮かべた災厄の化身が、にこやかに自己紹介した。



[21689] その13
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/17 23:18
神様と言うのがいるそうだ。
この世界だと始祖ブリミルというのも幅を利かせている。
困ったことに、そいつらは迷える子羊に艱難辛苦を与えて悦に入る趣味があるらしい。



診察室の椅子に座った美女はにこにこと笑っているが、こっちはポーカーフェイスを作るのが精一杯だった。


カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・ラ・フォンティーヌ。


あのルイズの姉。
ラ・フォンティーヌの当主にして、確か子爵位を持つ立派な貴族。
そして、あの『烈風』の次女。

素直に認めよう。
私はこの娘を侮っていたと。
まさか単身で突撃して来るとは思わなかったよ。
しかも、従者の一人もいないというのは大人物なんだか何も考えてないんだかよく判らん。
まあ、もし彼女のおとんやおかんが一緒に来ていたらテファを抱えて逃げ出すところではあるが。

何しろうちは平民向けの医療施設であり、しかもかなりいかがわしいエリアにある病院だ。
普通なら、そこに爵位持ちの貴族が来るということ自体がまずありえない。
新宿の歌舞伎町の中にある、小さな寂れた診療所を想像してもらいたい。
それこそ、おヤクザ様が抗争の果てに銃創の治療に来るような雰囲気の診療所だ。
今回の彼女の訪問は、そんなところを千代田区千代田一番にお住まいの方々が訪れたようなものなのだ。
そういう方々なら、普通なら同番2号にある病院に行くだろう。
来たとしても、顔を隠したり深夜に訪ねて来たりして、訳ありな医療行為を頼みに来るくらいか。
コルベール先生はこの口と言えばこの口だったが。
彼女と私には、それくらいの社会的立ち位置の違いがある。
にもかかわらず、彼女は来た。
ルイズのような世間知らずの書生ならまだ判るが、家を構える立派な貴族が来るというのはどういうことか。
しかも、呼ばれてから診察室に入って来たところを見ると、この人はこんな服を着ながら待合室の椅子の端っこにちょこんと座って順番待ちをしていたのだろう。
そりゃ、じいさんばあさんも逃げ出すわな。

ゼロの使い魔において、カトレアといえば病弱で薄幸の物静かで優しい女性のイメージがあるが、そこに私の思考の落とし穴があった。
冷静に作品を思い出してみれば、この女性、実はかなりアクティブな人ではないか。
初登場のときは旅籠のドアをバターンと開けて大またで乗り込んでくるし、ルイズたちが逃げるときは鎖を錬金で溶かしたりもしている。
才人に対する一連の対応を見ても、なかなかに行動力がある。
男に生まれていれば、それこそ実力で領地を切り取っていそうな女性だ。
しかし、そうであっても生まれたときからヴァリエール領を一歩も出たことがないはずのこの病める深層の令嬢が、いきなりトリスタニアまで押しかけてくるというのは解せん。
二日がかりの旅というのは彼女にとっては大冒険だろうに。
あのピンクがこのお姉ちゃんに何を吹き込んだのやら。
あるいは、私が恐れるアレが発動しているのだろうか。

「あ~、ミス・フォンティーヌ?」

「カトレアでいいわよ」

にこにこを2割ほどパワーアップしてカトレアが応じる。

「では、ミス・カトレア。もしかして、来るところをお間違えじゃありませんかい?」

そのにこにこがやたら怖いので一応敬語を使っておくことにする。

「ここはトリスタニア診療院でしょ?」

『間違ってないわよ?』と言うような顔でカトレアが答える。

「その通りですが、うちは平民のための診療院ですよ? やんごとなき貴族様にご満足いただけるような診療はやっとりませんが?」

「あら、妹からもらった手紙だと、こちらは患者の受け入れには貴賤の区別をしないところだとあったけど?」

やはりルイズルートか。
余計なことを。
あいつはいつか殺そう、精神的に。

「確かに貴賤の区別はしませんし来る者を拒むこともしませんが、公爵家ともなれば、こんな下世話なところに来なくてもいくらでも腕利きの水メイジの手配がつきましょう?」

実際、公爵家のお抱え水メイジともなればかなりの腕前に違いない。
王室の御典医と比べても遜色のないスタッフがいることだろう。
私も何とかスクウェアの端っこに手が届いているが、実際にはクラスというのは実践の場では意味をなさないこともままある。
特に医療ともなれば経験ほど物を言うファクターはない。
海千山千の治療師で、私より確実な治療をする者だってゴロゴロいるだろう。
所詮、私の技術は前世の記憶とこちらの水魔法のいいとこ取りをした付け焼刃だ。
どうしても深みに欠ける部分がある。
それだけに、本腰を入れて時間をかけて研鑽を積んだ水メイジの実力には素直に敬意を払っている。
私の存在意義は、水メイジからの医療サービスの供給と平民医療の需要のギャップを埋めていることにあるのであって、そういう御大層な方々とは住んでいる世界が根本的に違う。
使っている秘薬だって自作の物がメインだし、効能だって本家に比べれば顧客層の懐具合に合わせているので数段落ちるものばかりだ。
たまにピエモンのところで友情価格で在庫処分のおこぼれにあずかったりもするが、金を湯水のように使える大貴族のお眼鏡にかなう水準の医療は望めない。
それなのに、何を好き好んで平民用の診療所の門を叩くのであろうか。
正直、理解に苦しむ。
そんな私に、カトレアが言う。

「妹の手紙に、ここの診療所はとても独創的なところだって書いてあったのよ」

「独創的、ですか?」

「ええ。見たこともない道具がいっぱいあって、とても普通の治療師に見えなかったってあったわ」

確かに診療所の道具類に関してはこの世界にない道具がたくさんある。
覚えている前世の知識をもとに、マチルダに頼んで作ってもらったものばかりだ。
この世界の医療に流派があるかは知らないが、ある意味ヴィクトリア流医術という感じの世界がこの診療所の中にはある。
そう言えば、あのピンクは酒場で働きながらもきちんと情報収集やるくらい観察力があったっけ。

「私、昔から体が弱くてね。父が国中のお医者様をお呼びしてくれて診てもらったんだけど、なかなか良くならなくて。
もしかしたら、まったく違う治療法をやっているところなら何か違うことが判るんじゃないかな、って思ったのよ」

「買いかぶられては困りますな」

私は本当に困った。
話に尾ひれ背びれがついてヴァリエール領まで泳いでいってしまったらしい。
確かにセカンドオピニオンというのは重要なことではあるが、そこには常に相手の面子というものが付いて回る。
現代日本でもなかなか障害があるのに、中世レベルの精神性しかないこの世界では下位カーストの私がしゃしゃり出た日にゃどんな未来が待っているか予想もつかない、というか予想がつきすぎて怖い。
裏を知らなきゃ幾らでも診察をするが、正直、あえて虎口に飛び込むまでの義理はない。
敵が正面から来てくれるならそれもいいが、搦め手を使われては個人対組織の戦いでは個人には勝ち目はない。
いくらディルムッドが無敵の使い魔であっても、私たちすべてを完全に守りきれるわけではない。
朝の一杯の牛乳に毒が入っているだけでも人は死ぬのだ。
困った顔をする私に、カトレアが微笑む。

「あとは、そんなお医者様がいるのなら、顔を見てみたかった、っていうのもあってね」

言葉の意味を理解するのにきっかり3秒かかった。

「私の顔ですか?」

「ええ。背と胸は自分より小さいけど、とてもはっきりした判りやすい人だと妹が楽しそうに書いていたから興味がわいちゃって」

それはもう楽しそうに言うカトレア嬢。
やはりあいつはいつか殺そう、社会的に。いや、前段についてはむしろ物理的に。
私はこめかみの井桁模様を営業スマイルで隠して応じる。

「こんなそこらに良くある顔のために遠路はるばるご苦労様です。しかし、医者は顔で人を治すのではありませんのでね」

私の言葉にカトレアはコロコロと笑い、そして妙に深い目で私を見つめた。

「本当に面白い人ね、あなた。すごく興味深いわ」

私は脂汗を流した。
嫌な目だ。
私の心の底まで見透かすような深い目。
これは多分ばれているな。
そんな私にカトレアが言った。

「ねえ、あなたってどういう人なのかしら? 見た目は普通なんだけど、心が何だか普通の人と違う感じがする」

私がこの人を恐れた最大の理由がこれだ。
『どちらの貴族かしら?』と訊かれるだけならあしらう術は幾通りもある。
実際、トライアングル以上のメイジで庶民に混ざって暮らしているなんてのは大抵訳ありなのだから、その辺のごまかし方は心得ている。
最悪、出自に触れられても何とか対応することもできると思う。

しかし、たった数分の会話で『中の人』のことまで見通すとは恐れ入る。

人の歴史には、たまにこういう異物が紛れ込む。
五感とは違う何かで物事の本質をつかみ取り、初見で核心に至る事が出来る異能者。
いわゆる直感力のようなものだろうか。
ここまで来ると、宇宙世紀の人ではないかと思うくらいだ。
今回の来訪にしても、恐らくルイズの手紙から『何か』を読みとったからここまで足を運んだのだろう。
確かに、私のところでは普通の治療師とは異なる手法で治療を行っているが、そこに何を感じ取ったのかまでは凡人の私では計りかねるのが正直なところだ。
私のパーソナリティにだって、ピンクがそこまで紙面を割いていたわけではあるまいに。
そう考えると、この女性が得体が知れない何かに思えてくる。

「あら、困らせてしまったみたいね。ごめんなさい」

邪気のない笑顔でカトレアが微笑む。
私は慎重に言葉を選んだ。

「さあ、自分のことは実は自分が一番知らないというのが私の持論でしてね。
己が何者か、どこから来てどこに行くのか、なんてのは青春期の思考遊び程度に止めておくものでしょうや。
難しいことは私には判りません。
私は、ここを訪ねて来た者に治療を施す、ただの町医者でさあね」

そう言うと、カトレアはにっこりと笑った。
『言質は取りました』と言わんばかりの笑顔だった。

「そう、それを聞いて安心したわ。そのためにここまで来たんですもの」

言うなり、カトレアは真っ青になって震えだした。

「じゃあ、普通の患者として、治療をお願い、する・・・わね」

そして、そのまま椅子から崩れ落ちた。



[21689] その14
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/10/27 00:37
走り去る馬車を見送りながら、私は大きく息を吐いた。
隣にいるテファが泣きそうな顔で私を覗き込んできた。

「・・・姉さん、大丈夫? 顔色ひどいよ?」

「ああ、大丈夫だよ」

テファが先生ではなく姉さんと呼ぶ時は、仕事モードから離れた時だ。
身内としての心配が先に立つからには、さぞひどいありさまなのだろう。

私は一端診察室に戻り、部屋の片隅にある洗面台で顔を洗った。
鏡を見ると、水に濡れた自分の顔が見えた。
目が落ち窪み、疲労がこびり付いていた。
精神力をぎりぎりまで消費したのだから仕方がない。

ひどく疲れる一日だった。



*********************************


経験というのは恐ろしい。
脳みそはパニックになっているにも関わらず、体は事態に対応するために機械仕掛けのように動いた。
崩れるカトレアを支え、すぐにレビテーションを唱え、意識が飛んだカトレアを処置室のベッドに運び込んだ。

「テファ!」

大声で呼ぶとテファが慌てて処置室に入ってきた。

「ひとっ走り大通りに出て、この人の馬車を探して来とくれ」

恐らくワゴンタイプの馬鹿でかい動物園馬車を使っているのだろう。

「急変ですか?」

「何がどうなっているのか判らんが、こっちは何とかやってみる。まずは御者からこの子の家に連絡を入れてもらうようにしとくれ。ついでに王城にも連絡しとくれな」

ヴァリエールの名前を出せば、宮廷の水メイジの応援を確保できるかもしれない。

「判りました」

問題のカトレア女史はと言えば、息が乱れ、非常に苦しそうな気配。
取り急ぎ着衣を剥ぎ、聴診器を当てる。
呼吸音にひどいラ音が混ざる。
次に目をこじ開けて瞳孔と目の動きと粘膜を確認し、次に喉を覗き込む。
この急変はアレルギー性のものではないと思うが、念のための確認だ。
アレルギー性の喉頭浮腫でも出ようものなら挿管か気管切開せにゃならんところだが、とりあえず扁桃炎が見えるだけで喉のあたりも大丈夫。
続いて検温しながら触診で各部を診察し、私は思わず声なき悲鳴を上げた。

なんぢゃこりゃ!

体の至るところが炎症を起こしている。
熱は39度8分もあった。
これでは立ってるだけでも辛かろう。
よく平気で歩いてきたな、こいつ。
急いでスピッツで血液を採取して魔法でもって検査する。
病理検査がルーン一つでおっけーと言うのがこの世界のいいところだ。
何と言うチート。
検査して驚いた。
複数の細菌に感染しているではないか。
細菌感染なら打つ手はある。
取り急ぎ秘薬を取り出し、念のためのパッチテストをしてから点滴の形で体内に送り込んだ。
私のオリジナルの薬で、細菌の分裂を抑える効能がある。
抗生物質のそれに近い代物で、大した副作用なく細菌皆殺しと言う優れものだ。ちょっと便秘するが。
抗生物質と言えばペニシリンが有名で、漫画なんかでペニシリンを中世レベルの技術で作る話や青カビをそのまま食べさせたりするヨタ話があったと思うが、そこまでしなくても似たような薬が作れたから私はこっちを利用している。
魔法耐性菌なんてのがそのうち出てくるかも知れんが、その時はその時だ。
とりあえず、まずは炎症を止め熱を下げねばならない。
治癒の魔法を重ねがけして、あとは秘薬頼み。
解熱すら魔法で足りるからこの世界は素晴らしい。
ネギを買ってこなくて済むことは始祖に感謝だぞ、カトレア嬢。

次に調べるのは原因だ。
本当はあまり深入りせずにこの場を凌いで王城か公爵家の水メイジにバトンタッチしたいが、更なる急変を起こされてはかなわない。
魔法というのは恐ろしいもので、うちみたいな零細病院でもある程度の三次救急クラスの患者に対応可能だが、今回のような原因不明な患者の場合はある程度原因を調べておかないと、突然時間切れになる可能性がある。
いつ何時何が起こるか判らないだけに、カトレアの体に潜んだ爆弾の正体と、その導火線の具合くらいは掴んでおいた方がリスクが低い。
そんな打算を考えながら体を詳細に探っていく。
高位の風のメイジは心音で敵の位置を悟るというが、水の高位メイジは触診で人の体の状態をミクロのレベルで把握しうる。
これでも水のスクウェアの端くれ、それくらいの芸当はできる。
両手を彼女の素肌に密着させ、ソナーのように血液やリンパ液の流れを探っていく。
正直、ここまでひどい患者も珍しい。
至るところで炎症を起こしており、そのためか内臓の働きが弱い。
呼吸器は間質性肺炎に気管支炎が少々。
循環器は概ね健康だが、心臓はやや発達不良。運動不足のせいだろう。
腎臓、脾臓、膵臓はよし。
カトレアの病気については以前の私の予想は1型糖尿病だったが、ランゲルハンス島は元気にインシュリンを生み出している。
消化器では腸炎を確認。
肝臓の炎症を調べている時には小さな腫瘍が確認できた。


診察の途中でテファが戻ってきた。
息を切らしていた。
いろんな意味で走るのが苦手なテファだが、全速力で駆けまわってくれたのだろう。

「どうだったね?」

「広場にヴァリエール公爵家の家紋の入った馬車はありましたが、御者はゴーレムだったので、急いで速達郵便で公爵家に詳しいことを書いた手紙を出しておきました。王城の方は、ディーさんに応援を頼んで連絡に行ってもらっています」

テファという娘は穏やかなように見えて、こういったアドリブは結構利く子だ。
フクロウが運ぶ郵便なら、夕方にはヴァリエール公爵家に書面は届くだろう。
それより先に王宮から水メイジが来てくれればそちらに引き継げる。

「上出来だ。すまないが、患者の容態をしばらく診ていておくれ」

テファにカトレアを任せて、私はさらに深いレベルの検査に取りかかった。
採取した血液をより詳細に調べて行く。
床に結跏趺坐の姿勢を取って瞑目し、意識の集中を図る。


Empty your mind, be formless,
shapeless - like water.
Now you put water into a cup, it becomes the cup,
you put water into a bottle, it becomes the bottle,
you put it in a teapot, it becomes the teapot.
Now water can flow or it can crash.
Be water, my friend.


意識を極限まで研ぎ澄まし、血液の深みにイメージを落としていく。
赤血球、白血球、血小板を『視』ながら、その機能を掘り下げる。
意識の触角が、ザラりとした感触を覚えた。
神経をより先鋭化し、その感触の奥へ精神を差し込んでいく。
精神の視野は、血球細胞の観察を意識下で映像化していく。
神経が焼き切れそうな作業だが、病魔の尻尾を掴みかけた感触に持てる力を振り絞る。
程なく、異常の正体に行き当たった。

免疫機能の要とも言えるリンパ球である、T細胞の数が少なすぎるのだ。

私は全身に冷や水を浴びせられたような感覚を味わった。
易感染と、白血球の異常。
信じたくない思いを抱えながら、次いで胸腺に検査の手を進める。
一つ一つ、石を積むように丁寧に原因を紐解いて、核心に向かう。

引き延ばされた粘つく時間流の中で、私は黙々と検査を進めた。



*********************************




王城から水メイジが駆けつけてくれたのは夕方だった。
お役所仕事と言うつもりはない。
情報の伝達から人選まではそれなりに時間がかかるのはやむを得ない気がするからだ。
幸いにも秘薬が効いたようで、更なる急変もなく処置室のカトレアは穏やかな寝息を立てている。
馬車で駆けつけた王宮の水メイジを処置室に招き入れて状況を説明し、施した措置と投薬の内容を説明する。
点滴は既に終わっており、すぐにでも移動が可能だったので水メイジが乗って来た馬車にレビテーションで保持しながらカトレアを王城の医務室に移送することとなった。
そこで私は何とかお役御免となった。
とりあえず、最悪の事態は脱することができた。
後の面倒は王城が見てくれることだろう。



肩に載った大きな荷物を下ろせたものの、正直、私は疲れ果てていた。
泥のように重い体を引きずりながら、白衣を脱いで診察室の椅子に投げた。
テファがドアから首を出して声をかけてくる。

「夕食、できてるから」

「ああ、すまないね」

キッチンでは、既に帰宅していたマチルダとディーが待っていた。

「ちょっと、大丈夫かい?」

「ああ。今日は二人ともありがとう」

私の顔色が余りにひどいのか、マチルダもディーも心底心配そうな顔をする。
今年で二十歳ではあるが、精神力の成長に比べ、私の体は発育が不十分だ。
それだけに体力は見た目に比例しており、たまに来るカトレアのような重篤な患者の場合はギリギリまで体力を削られることになる。
精神力とて、最後にそれを支えるのは体力だ。


食事を口に運びながら、私は今日の事を反芻する。
結論から言えば、カトレアの病気について、私はその根源に辿り着くことができた。


免疫不全症候群。


それが私の所見だ。
恐らくは生まれつき造血幹細胞に異常を持つために、免疫担当細胞であるT細胞の数が少ないことに起因する症状と思われる。
これでは幾ら水の秘薬で治療をしても治らないのは当然だろう。
体の芯から良くないとはよく言ったものだ。
多少の水の流れを変えても治らないのも頷ける。
罹患と治療のいたちごっこになるのも仕方がない。

残念だが、ハルケギニアの医療では彼女を救う術はない。
以前にも述べたかもしれないが、治癒魔法や水の秘薬は免疫や自己修復機能をベースに原状回復をもたらすものだ。
その効果は地球の医療以上のものがあり、その気になれば癌でもAIDSでも狂犬病でも治すことが可能。
しかし、大元の遺伝情報に異常があっては幾ら手を施しても意味がない。
恐らく、公爵家ほどの治療体制がなければ間違いなく乳幼児期に死亡したであろう重病だ。
むしろ、彼女が今も息をしていること自体が完成された奇跡とも言えよう。
かかった費用や手間暇は、想像を絶するものであったに違いない。
彼女の両親の愛の深さを見る思いだった。

そんなことを考えていたためか、せっかくの食事だったが正直あまり味が判らなかった。
自分で思ったより疲労が深刻なのも原因かもしれない。
それでも食べなければ体力が回復しないので無理やりに胃袋に押し込んだ。
幸い、テファが気を回してくれたのか、夕飯は消化のいいメニューだったので胃もたれは避けられそうだった。

食事が終わるころ、風呂が沸いたとディーがキッチンに入って来た。
いつもは私が魔法で沸かすが、きちんと釜もあるので燃料でも沸かすことができる。
今日はディーが沸かしてくれたらしい。
マチルダの勧めもあり、私はありがたく一番風呂をいただいた。

湯につかると、自覚のなかった体中の緊張がほぐれていく。
湯のぬくもりを感じながら、私は思う。
前世の知識があっても、やはり人一人でできることには限界がある。
今日とて、とてもではないが一人では荒波を乗り越えることはできなかっただろう。
家族がいることが、無性にありがたく思えるのはこういう時だ。

三人の家族に深い感謝の念を抱き、心地よい湯温に身を委ねながら、私はあっけなく眠りに落ちた。



そして、長湯を心配して様子を見に来たマチルダにちょっとだけ怒られた。








そんな私のところに、ラ・ヴァリエール公爵家から召喚状が届いたのは4日後のことだった。



[21689] その15
Name: FTR◆9882bbac ID:9c333d31
Date: 2010/11/17 23:37
取って食われはせんだろう。

そう開き直るまでに1日かかった。
冷静に考えてみれば、私は何ら悪いことをしていない。
幸いにもカトレアは生きたままこの診療所を出て行った。
出て行った先でどうなったかは、平民の私には判らないことだ。
血相変えた彼女のおとんやおかんが杖を持って押しかけてこないところを見ると、死んではいないと思う。
もし死んでいたら、今頃この辺り一帯は『被災地』と化していることだろうし。
また、本当に因縁をつけるつもりなら、召喚状などという面倒なことをせずに直接兵隊をけしかけてくるだろう。
かといってトリステインの貴族様が平民相手にへりくだった手紙をしたためるとも思えない。
そう考えると召喚という手段はちょうどいい落としどころとも思えなくもない。

それでも、私たちはそれなりに緊張を強いられた。
前日になると、マチルダはヴィンドボナの地図を熱心に見分し、テファは大きな鞄を引っ張り出し、ディルムッドは街道筋や国境の警備状況を確認していた。
かく言う私も、手持ちの現金のある程度を宝石に代えておいた。
打ち合わせもしていないのに皆で同じような考えに行き着いているところは不思議だ。
何だか『家族』というより『一味』という字面が似合いそうな気がする私たちだった。


あっという間に時は流れて召喚当日になった。
ヴァリエール領までは馬車で2日だが、今回呼び出された先はトリスタニアにある公爵家の別邸だ。
気が進まない中、とぼとぼと王城を取り囲む貴族屋敷街に向かって川を渡る。
アップタウンより更に王城に近いエリアなぞほとんど来たことがない。
そのため、さすがに今日ばかりは私もきちんと礼服を着ている。
白いブラウスにタイを締め、いつものだぶついたショートパンツではなくきちんと黒いスカートを履き、足元もサンダルではなく革靴だ。
上着も、さすがに今日ばかりは白衣ではなくマントを身に着けている。
いつもならお供はテファだが、今日ばかりはディルムッドに一緒に来てもらった。
工房も今日はお休み。
その扉が二度と開かれない可能性があるのは、工房も私の診療院も同じだ。
もしかしたらの話ではあるが、最悪の場合は今日限りでこの地ともおさらばの可能性がある。
トリスタニアにも愛着はあるが、やはり最後は我が身が可愛い。
何かあったらわき目も振らずにとんずらし、本当にマチルダ・ティファニア組と合流してゲルマニアに逃げ込もう。
そうならないことを祈りながら私は歩みを進めた。


別邸に着くと、私は思わず感嘆の声を上げた。
さすがは大貴族だけあって、別邸の大きさもそれはそれはすごいものだった。
正門の前に行くと、衛兵がポールウェポンを持って誰何の声をかけてくる。
ありがた迷惑にもいただいた召喚状を見せると、衛兵はまじまじとそれを見つめ、少し待てと言って奥に消えていった。

しばらくしてやってきたのは、初老の執事さんみたいな雰囲気の人だった。

「ミス・ヴィクトリアですか?」

予想に反して慇懃な態度だった。
私は召喚状を見せて用向きを告げた。

「お召しにより参上しました」

「・・・こちらへ」

妙に態度が柔らかい。
平民相手とは思えない態度だ。
その態度に何だか引っかかるものを感じたが、とりあえず大人しくついていくことにする。
杖を取り上げられるわけでもないし、ディルムッドと引き離されることもない。
何だか妙だ。

案内された部屋は、豪勢な調度が並ぶゲストルームだった。
これ、貴族用の部屋じゃないの?
と言うより、呼び出した平民風情を屋敷の中に入れること自体が異例だと思うのだが。
座って待てと言われたが、何だか身の置き場がないので私は窓から庭園の様子を眺めていた。
数年前まで住んでいた城の庭にも結構庭木が植わっていたが、この庭もなかなかに贅が尽くされている。
植木の枝ぶりなどは見事なものだ。
かと言って成金な気配が欠片もないところにヴァリエール公爵家の品のよさが伺える。

庭を見ながら時間をつぶしていたが、なかなか呼び出しがかからない。
首をひねっていたら先ほどの執事さんが入ってきた。

「主人の所用が長引いております。もうしばらくお待ちください」

「いえ、お気になさらず。あの、もしよろしければお庭を拝見したいのですが」

「・・・あまり遠くにはお行きになりませぬように」

ディルムッドに部屋に待機してもらってテラスに出てみると、庭はやはり美しく、園丁の匠の技が良く解った。見事なものだ。
飛び石を踏みながら私は植栽の間を縫うように歩いた。
水の属性の私は、植物との相性がいい。
診療所でも景観にも益するのでプランターで花を育ててはいるが、やはりできれば庭が欲しいところだ。
土地持ちと言うのは実に羨ましい。
庭の一角にはかなりの規模の薔薇園が設けられており、まるで映画で見た『秘密の花園』のような雰囲気を醸成していた。
そんな感じで植栽を楽しんでいると、木々の間に見える東屋に桃色の髪が見えた。
カトレアが、椅子に座って無表情で空を見ていた。
先日見た天真爛漫な雰囲気はそこにはない。どこか糸が切れた人形のような空虚な空気があった。
あまり遠くに行くなとも言われたし、近寄ろうかどうか悩んでいると、突然カトレアの表情が一変した。
まるで泣き出しそうな子供のような顔になり、膝掛に包まれた自分の膝を何度も叩く。
その様子に何とも危なげなものを感じ、私はカトレアに向かって歩みを進めた。

近くに寄ると、私の気配を察したのかカトレアは顔を上げるといつも通りのにこやかな表情に戻り、私に向かって話しかけてきた。

「あら、先生。いらしてたのね」

「ありがたくも召し出されましてね。その後の具合は?」

「おかげさまで、今は楽になったわ。あの時はありがとう」

「それは良かった」

私の言葉を最後に、会話が途切れた。
木々が濃い屋敷の随所で、鳥の鳴く声が聞こえる。
私たちは、しばらく並んで庭園を見つめていた。
貴族の庭園らしい、静かで穏やかな空気と時間が、静かに心に染み渡っていく。

「時々、たまらなくなるわ」

思い出したように、カトレアが口を開いた。
抑揚のない、事実だけを告げているような物言いだった。

「どうして私はいつまでたっても良くならないのかしら。侍医の人たちは一生懸命やってくれているけど、現状維持だけで精一杯みたい」

私はあえて何も言わなかった。
かけられる言葉は幾つもあるが、明るい方に話題を振れば、恐らくそれは嘘になる。
この娘には嘘は通用しない。
余計なことは言わずに、カトレアの言葉を黙って聞いているしかなった。

「両親は良くしてくれるし、姉も妹も優しいわ。屋敷のみんなも私のことをすごく大事にしてくれる。
でも、すごく羨ましくなることがあるのよ。
同い年の他の子たちは、皆、お嫁に行ったり、お仕事をしたり、楽しい学校生活を送って、多くの友達に囲まれて」

そこまで言って、カトレアは俯いた。
私にはその呟きが、カトレアが抱える呪詛に聞こえた。
おそらくは、これまでずっと内に貯めていた負の感情なのだろう。
親にも言わず、姉妹にも告げず、侍医たちにも黙っていた、彼女の内なる気持ちが漏れてきたのだと思う。
病める者で、健康を願わない者はいないのだ。
カトレアは治らない。
そして、彼女を知るすべて者が恐れている日が来るのも、今のままではそう遠い日ではないと思う。
それがこの世界の、ハルケギニアの理だ。

私は黙って自分の手の中にある杖を見つめた。
誰にもらったかは知らないが、生まれた時に贈られてきたという青水晶の杖だ。
アルビオンから逃げ出してからこっち、トリスタニアでの私を支えてくれた杖だ。
病気を癒し、傷を癒し、時には人を殺めたりもした私の分身。
医者の看板を掲げていても、必ずしもすべての人を助けられたわけではない。
老いて死にゆく者、手の施しようがなかった者。
そんな者たちの慟哭を礎に、多くの者の笑顔があった。
この杖にはそんなしがらみがこびりつき、既に私には重いくらいの物となっている。
言うなれば、死者を見送る司教の首にかかる聖具のようなものだ。
抱え歩くには、神のような信じる寄る辺がなければ人が持つには重すぎる。
だが、私が神を信じたとしても、神は常に沈黙を守る。
人を助けることは、常に人にしかできないこともこの世の理だ。
この、しがらみに塗りつぶされた杖を、振り続けられるのもまた私しかいない。
死んでいった者たちの事を思えばこそ、私にはこの杖を振るう義務がある。
故に、カトレアが零した、血の一滴のような言葉が私の指針を決めた。


「先生・・・」


しばし、沈黙がおりる。
鳥が囀る穏やかな庭園の中、私たちの周囲だけが時間が止まったようであった。
ややあって、私はため息をついた。

私は天才でも英雄でもなければチートな力を持った異能者でもない。
選ばれた者などでは断じてない、前世の記憶を持っているだけの普通の小娘だ。
だが、私は医者なのだ。
死と言う、神が定めた摂理に対する反逆者なのだ。
浅学で、矮小で、無力ではあっても、アスクレピオスの杖の下に生きる種族なのだ。
それこそが、トリスタニアで生きていくと決めた時に自分に課した誓いに他ならない。
カトレアの呟きの、その先の言葉は聞かなくても判る。
それだけで、私はこの世の理に立ち向かうことができるのだ。
悲しいことに。

私は何も言わずにその場を後にした。
背後でカトレアが一礼をしていたのには気がつかなかった。




「お待たせいたしました」

先ほどの執事さんみたいな人が迎えに来て、準備ができたからと屋敷の奥に案内された。
長い廊下をしばらく歩く。廊下に置かれた置物なども趣味がいい。
さて、いよいよ査問かと腹をくくるが、案内された部屋に入って私は凍りついた。
見上げた天井いっぱいに、無数の薔薇の花が描かれていたからだ。

『ス・ロセ』の間。

貴族の屋敷にはたまにこういう部屋がある。
私が昔住んでいたアルビオンの屋敷にも設けられていた。
何をたくらんでいるんだ、公爵家?
私がこれからやろうとしている事を考えると、ある意味お誂え向きとも思えるが、相手の腹の内がいまいち判らない。
私が予想しうる展開のバリエーションを考えていると、部屋の奥の扉が鈴の音とともに開かれた。
先ほどの執事さんが入ってきて、大きな声で言った。

「ラ・ヴァリエール公爵のお成りでございます」

おいおい、いきなり御大のお出ましか。
正直ちょっとビビりながらも、私たちは頭を下げて公爵閣下の入室を待った。
限られた視界のなか、部屋に入ってきたのは初老の男性で、髪にやや白いものが混じり始めているおじさんだった。

「そう畏まらなくてもよい」

公爵の言葉に私たちは頭を上げた。そんな私たちを見ながら渋いバリトンで公爵が言った。

「お前が我が娘を助けてくれた町医者か?」

「はい。トリスタニアで診療所を営みますヴィクトリアでございます」

「『慈愛』のヴィクトリアか。話は聞いている」

・・・何でおっさんまでそのこっ恥ずかしい二つ名を知っているんだ?
とりあえず、椅子を勧められたので素直に着席した。
ディルムッドは私の背後に控える格好だ。

「さて、早速だが、今日来てもらったのは他でもない。お前が施した娘に対する治療についてだ」

「何ぶん、場末の診療所ですので、至らぬところが多くて申し訳ありません」

「謙遜は良い」

ずいぶん投げ遣りな感じで公爵は言い捨てると、今回の事の経緯を語り出した。
その話を聞くに、カトレアのあまりの無軌道ぶりに私も絶句した。

朝、近場を回ってくると言って馬車で出かけてから、昼になっても帰ってこない。
夕方になってさすがにおかしいと思った屋敷の者が探索を開始。
カトレアの部屋からは『数日家を空けます』との書き置きが発見された。
御者がゴーレムなのを良いことに、そのまま夜を徹して走り、私の診療院に来たというのが今回の経緯だ。
馬もさぞ迷惑だったことだろう。
健康に難のあるカトレアは日々の薬の服用が必須なのだが、それを怠ったがために私の診療所に来た時は、既にいろいろ秒読み態勢だったらしい。
結果として予定調和の通りに昏倒し、私が処置する羽目になったというわけだ。
まるで暢気な自殺のようだ。
幸か不幸か私はカトレアの応急処置に成功したが、下手をしたら私の診療所で貴族のご令嬢が急死するという鳥肌が立つ事態を迎えていたかもしれない。
私もずいぶん薄い氷の上を歩いていたものだ。

「そこで、お前に話を聞きたいという者がおってな。今日来てもらったということだ」

公爵が手元の鈴を鳴らした。
それに応じて扉が開き、50歳くらいの熊のようなでっかいおじさんが入ってきた。
山のフドウみたいな人だ。
マントを着ているところを見るとメイジのようだが、私の感覚に引っかかる雰囲気があった。
この人、水のメイジだ。
それもかなりの高位の。
スクウェアなのは間違いないが、魔法使いをABCDランク法で分類すればA+。
下手したらSくらいは行くのではないだろうか。
ちなみに私はA-、『烈風』さんはSSSという感じだ。

「この者はカトレアの侍医長を務めておってな。長年娘の面倒を見てくれているが、その経験から見ても、今回のお前の治療は驚くほどであったとのことだ」

「過分なお言葉です」

できるだけ謙虚に出ている私に、公爵の許可を求めて侍医長さんが発言した。

「ミス・ヴィクトリア、いや、ドクトレス・ヴィクトリア、君は自分の成果を理解しているかね?」

「と、申しますと?」

「我々は、カトレア様が発病するたびに、容体の安定までに数日を要している。それを君はほんの数時間で容体を安定させて見せた。一体どういう魔法を使ったのか、我々には見当もつかないのだよ」

ようやく査問らしくなってきたな、と思いつつ、私はカトレアに施した診療内容を説明した。
もともとは彼こそがカトレアの主治医だ。詳細を知る必要はある。
治療内容についてつぶさに話したところ、その中の一つに、侍医長さんが反応した。

「点滴?」

「はい。感染を確認したので、当院で作製している秘薬を静注しました」

魔法全盛のハルケギニアにおいて、点滴という手法は一般的ではないものの全くない訳ではない。

「では、君のその秘薬が功を奏してカトレア嬢の容体は安定したということでよいかな?」

「私の見立て違いでなければその通りです」

「では、その秘薬というのはどういう組成か教えてもらえないか?」

「取り立てて大層なものではありませんが・・・」

私は、体内の病原菌の増殖を抑える効能について説明したが、話すうちに室内の気温が目の前の二人の熱気のせいで上がり始めるのが分かった。
公爵と侍医長さんの視線のぎらつきが怖い。
話し終わるや、侍医長さんはいきなり立ち上がった。

「素晴らしい」

まるで神の声を聞いたかのような表情だった。

「そのような切り口の秘薬は初めて聞きますぞ」

それはそうだろう。
実は、始祖以来6000年の魔法文化において、体系づけられた細菌学は存在しないのだ。
この世界にはパスツールもコッホもいないからか、私の中では常識以前の大前提となっている細菌について、水のメイジたちには掘り下げた知識がない。
おぼろげには事の本質を掴んではいるが、具体的な微生物の世界をつぶさに研究している人はいない。
抗生物質と言う発想自体がないのだ。

「それで、君の秘薬というのはどのように作るのかね。是非そのレシピのレクチャーをお願いしたい」

「あ、あの、レクチャーはいいのですが・・・」

私は慌てて話を止めた。

「私は市井の単なる平民です。あの秘薬だって秘薬というのもおこがましいものでして」

「ドクトレス、我々はそのおこがましいものですら作り出すことができなかったのだ」

困惑する私に、侍医長さんは笑って言った。

「何も我々は君を糾弾しようというわけではない。確かに我々とて治療師としての意地やプライドのようなものは多少は持っているが、我々の仕事はカトレア様の治療であり、未だそれを成しえていない以上、そんなつまらんことに拘ってはいられないのだ。我々が望むものは名誉ではなく成果なのだよ」

口角泡を飛ばして語る侍医長さんに、公爵は同意するかのように頷いた。

「娘が治るのであればいかなることでもしよう。例え平民の秘薬であろうと、言い値で買い取ってやる」

「は、はあ・・・」

毒気を抜かれて私は曖昧にうなずいた。
今までどういう目に遭わされるかと怯えていただけに、肩透かしを食らったような気がした。
結構決死の覚悟で乗り込んできたつもりだっただけに、何だかこの段階で自分の気力が燃え尽きてしまったような気すらする。
とりあえず、ゲルマニア行きの話は回避できそうだ。

「秘薬もそうだが、お前の施した治療の詳細についてもこの者たちに語って聞かせてやってもらいたい。手間賃は出す。また、先日の治療の代金も払っていないそうだからな。その分も払ってやる」

「それはありがたいお話ですが、私の秘薬では、症状を抑えることはできてもお嬢様の病を治すことはできません」

「そうなのか?」

「はい、お嬢様の病巣は、もっと深いところにあるようですので」

私の言葉に、二人は凍りついた。
侍医長は震える声で言った。

「も、もしや、君はカトレア様の病根の見当がついていると?」

「おそれながら」

その言葉を聞くや、公爵は荒々しく立ち上がった。

「せ、説明しろ、今すぐにだ!」

顔を紅潮させ、今にも卒倒しそうな公爵が唾を飛ばして怒声を上げた。
医者として、血圧が心配な形相だった。
私は頭をかき、ちょっと口ごもった。

「遺憾ながら、これからお話しすることには現在のブリミル教の教義にそぐわない部分がある可能性があります。
もし聞いていただけるのでしたら、そのことはこの部屋だけの秘密ということでお願いします。
一人が口を滑らせれば、ここにいる者全員が火炙りになる可能性もある話です。
故に、すべては薔薇の下での話ということでよろしいでしょうか?」

私は天井を指さした。
ここは『ス・ロセ』の間。
口外無用の話をするための部屋である。

「構わぬ。さっさと申せ!」

「では」

ここからが正念場だ。
私は立ち上がってマントを脱いだ。
黒板を用意してもらい、私は説明を始めた。

カトレアの病気を語る際、生物学の基本を外すことはできない。
人が細胞によって組織されていることや、血液の役割、そして免疫というものの機能について順を追って説明を重ねる。
次に、人が免疫によってどのようなものから守られているかを知ってもらわなければならない。
細菌やウイルス、異常な細胞の増殖もまた免疫があって初めて抑制できることだ。
侍医長は途中で部下の侍医数名を呼び、脇で私の説明の検証も行わせた。
途中で幾度も質疑応答を交わし、実際に触診で事の真偽を確認してもらいながら話を進めた。
ひたすらしゃべり続け、黒板にチョークを走らせ、何杯か紅茶を飲みほし、数時間後にようやくカトレアの病気の正体について語り終えた。

話終わったとき、居合わせた全員が言葉を失っていた。
恐らく彼らも初めて聞くエントリーの病理報告だからだ。
咀嚼し、消化するまでは時間がかかるだろう。
そんな中で、再起動をいち早く果たしたのは侍医長だった。

「ドクトレス・ヴィクトリア、話はよく解った。君の言うことは嘘ではないと私は信じる」

私の説明をなぞるように幾度となく部下たちと互いの体内の水の流れを確認しながら私の説明の裏付けを取っていた面々だ、疑いの目は誰にもない。

「そこで訊きたい。君はカトレア様の治療法が判るのかね?」

私は頷いた。
このハルケギニアにはカトレアの病気を治す術はない。
ないものであれば、他所から持ってくればいい。
そして私にはその知識があった。
もしかしたら、私が転生をしたというのは偏にこのためであったのかも知れない。
私は話し出した。
カトレアの病を治す、その術を。

造血幹細胞の再構築。

根治にはその技術が必要だ。
私の世界では、その治療法としては自己または型が合う他者の骨髄を移植するやり方が主流だった。
しかし、いかんせん前世の私はどうやら切った張ったの臨床が主戦場だったようで、血液内科や再生医療などの分野の専門的な技術は持ち合わせていない。
概略は知っているが、実際にやってみろと言われれば、とてもではないが一人では無理だ。
公爵を共犯者に引き込んだのは、偏に彼の政治力に期待したためだった。
幸いにも、今回は侍医団とも会うことができた。
一人で無理ならば、人手を集める。
大事を成し遂げるにはどうしたって多くの人の協力が必要だ。
公爵に対しては資金面でのサポートをお願いする。
侍医団は私が知らない多くの魔法を知っている。恐らくはアカデミーにコネもあるだろう。
そんな彼らの力で、造血幹細胞移植か、あるいはそれに比類しうる治療法を研究してもらう。
また、カトレアも確か優秀なメイジであり、属性も公爵の私刑を受けたサイトに治癒をかけているところから水と思われる。
自らの体をコントロールしてもらうことはある程度期待できよう。

その体制を立ち上げ、同時に今後のカトレアの発病について細菌やウイルスに対するより効果が高い秘薬を作って治療法開発の時間を稼ぐ。
カトレアにはすまないが、動物との接触もできるだけ避けてもらわなければならない。

そんなこんなで基本方針を列記する。

・侍医団による幹細胞再生の手法研究
・患者の罹患に関する対抗策の底上げ
・患者本人による自身の体調コントロール
・生活習慣の改善

造血幹細胞の再生については最もリアリティがある手法は親族からの骨髄移植だが、ドナーの確保となると、これはなかなかにハードルが高い。
HLAが合致する可能性の高い存在として姉妹のエレオノールとルイズがいるが、ルイズはともかく、エレオノールは難物だ。
はいそうですかと聞き入れてくれるくらいなら、今頃は彼女も姓が変わっていることだろう。
故に、やるとなると自己骨髄の移植にならざるを得ない。
とは言え骨髄移植は不可逆な手法なので、やるとなるとべらぼうにリスクが高い。
何より、私も研修時を含めてその手技を見たことがない。
まさに最後の手段だし、手法の研究から技術者の育成だけでも数年を要すると思う。

私が推奨したいのは、『治癒』の要領でカトレア自身の生体内で健康な造血幹細胞を増やしていくやり方だ。
これは細胞を『視』ることができる高位の水メイジの技術でもかなりの難度となると思うが、理屈ではできないことではないと思う。
完全に機能がないのならばともかく、カトレアの場合は幾ばくかのT細胞が確認できることから、健康な幹細胞も存在することは間違いない。
この幹細胞をモチーフに、異常な細胞を殺して正常な細胞に置き換えてゆく手法が取れないかと考えている。
これは現代医学では不可能なやり方だが、ハルケギニアならばあるいは、というやり方だ。
実現可能かどうかは最終的には侍医団の判断によることになるだろう。
魔法はイメージだ。
私が知る限りの細胞生物学の情報を高位の水メイジに伝え、彼らの方で研鑽と研究を重ねてもらうのが一番確実だと思われた。
他力本願なやり方だが、正直、カトレアの病気は凡人の私一人で治せるような代物ではない。
これは病魔との戦争だ。
杖を持ち、秘薬を使い、あらゆる手段を用いて戦争をするのだ。
知力、体力、財力、政治力、動員しうるありとあらゆる力を使う。
まさに戦争そのものなのだ。
兵員もまた然り。
戦争は一人では勝てない。勝つためにはどうしても組織が必要なのだ。
勝算については見当がつかないが、カトレアの侍医団の腕前はかなりなものであることは私にも判る。
現状でトリステインではこれ以上の布陣は望めないと思う。
あとは運だ。

以上を説明し、私は一つ息を吐いた。
可能性ゼロを1%にするくらいの事ではあるが、これが私の精一杯だ。

話疲れて椅子に座った私を余所に、公爵と侍医長が熱心に話し合っている。

「本当にそんなことが可能なのか?」

という公爵の問いに、侍医長が答える。

「詳しいところは詰めてみねば判りませんが、理屈では不可能ではありません」

「しかし、もし不首尾に終わったら、わしはお前たちを許せんぞ」

信じるか信じないかは、最後は患者の気持ち一つだ。
医者は無理強いはしない。
何かあった時は、改めてゲルマニアに逃げ出すとしよう。

公爵はしばらく考え、そしてため息をついて手元の鈴を鳴らした。

部屋のドアが開き、入って来たのは桃色の髪の女性。
聞いていたか、カトレア嬢。

「カトレア、わしはお前の気持ちを尊重したい」

公爵の言葉に、カトレアは躊躇うことなく答えた。

「もちろんお受けしますわ、その治療」

迷いなく言い切ったカトレアの視線は、私を向いていた。
ルイズの手紙が発端だったのであろうが、そこから私の知識までを嗅ぎあてる才能は何だか妖怪じみていて不気味だ。
前世で友達だったら、毎週東京競馬場で最終まで楽しい思いができただろう。
もしも私が一国を任された時は、三顧の礼を持って宰相に招きたいところだ。

カトレアはスカートの裾を持って、優雅に一礼した。

「皆さん、いろいろ苦労をかけますが、どうか、今しばらく私に力を貸してください。お願いします」

公爵家次女に相応しい、堂々たる挨拶だった。



窓の外を見ると、もうすっかり陽が落ちていた。
ずいぶん長く話し込んだものだ。

「では、本日はこれで失礼いたします」

と立ち上がった私を公爵が呼びとめた。

「しばし待て、夕餉を食べて行くがいい」

「いえ、憚りながら、身の程を弁えておりますのでご容赦を」

今さら貴族貴族した食事は勘弁してもらいたかったし、私としては何より一刻も早くこの場を出て、今も気を揉んでいるであろうマチルダとテファを安心させてあげたかった。
そんな私の心中を読み取ったのか、公爵はカトレアと侍医たちを下がらせた。
次いで私の背後にいるディルムッドに視線を向ける。

「お前も外に出ておれ」

その言葉にディルムッドが私に視線を向ける。

「恐れながら、この者の前で私は秘密を持ちません。また、知った秘密をこの者が漏らすことはありません」

こればかりははっきり言わないといけないので、私はきっぱりと言った。

「・・・いいだろう」

公爵はひとつ深く息を吐いて言葉を探すように口を開いた。
飛び出した発言はとんでもないものだった。

「どうだ、娘の侍医団に加わる気はないか?」

完全に予想の斜め上の話だったので、私は一瞬呆気に取られた。

「お戯れを」

「戯れではない。先も言った通り、お前の腕は侍医長が目を見張っておるほどだ。カトレア自身もお前のことを気に入っている。少し調べさせてもらったが、街の評判も素晴らしいし、何より、お前ほど医療に造詣が深い者を野に置いておくのは惜しい」

「買いかぶられては困ります閣下。私はしがない町医者です。無論、協力は惜しみませんが、公爵家の禄を食めるような身の上ではございません」

「謙虚なことだ。しかし、町医者ではいろいろ困る事もあろう。お前ほどの腕ならば仕官の先には困らぬだろうに」

「好きでやっております野良犬です。今の生活が気に入っておりますのでお気持ちだけ頂戴いたします」

「・・・そうか。残念だ」

「申し訳ありません」

「よい。では、今後もよろしく頼むぞ」

「微力を尽くします」

部屋を出ようとする私に、最後に公爵が声をかけてきた。


「帰り道はお気を付け下さい、殿下」


私は一瞬、足をとめた。
この部屋に案内された時から予想はついていたが、やはり覚えていたか、公爵。


「御心配、心より感謝を」


それだけ告げて、私は扉を閉めた。











数年後、カトレアが家族と歓喜の抱擁を交わすのはまた別のお話。



[21689] その16
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/10/10 11:18
― 私はとても不幸な人間だ。 ―





雨が降っていた。
珍しくきれいに仕事が掃けた週の半ばの午後。
私は、工房のデスクで窓の向こうに見える雨に濡れる街並みを眺めていた。
机の上には地図。
今の私の最大の悩みは、先日ヴィクトリアが口走った骨休めの行先についてだ。
年長者ということで行先を調べる役目を請け負ったが、これがなかなか難しい。
トリステインや近隣の観光名所を調べているが、これぞと思うところが見つからない。
本当にゆっくりできるだけの時間を取れば、それこそ火竜山脈の湯治場なんかが選択肢に入ってくるが、ヴィクトリアはあまり診療所を長期間空けることは避けたいようなので選択の幅が限られてくる。
工房もそうそう長い休みを取るわけにもいかないからその意見には同意するが。
そんなわけで熱を帯びた頭を休めていた私のところに、不意に優雅な手つきで愛用のカップが差し出された。

「茶を淹れました。どうぞ」

差し出したのは工房の従業員にして私の右腕であるヴィクトリアの使い魔だった。
この工房において営業と接客はこいつの仕事なのだが、実はこの男、なかなかに接客対応の鬼だったりする。
営業に出ていない限りは受付に詰めているのだが、入ってきた客はまずこの男の面構えにやられる。
当人は意識してのものではないようだが、その微笑みはどこまでも甘く、涼しげだ。
殊に貴族相手の折衝においてはまさに無敵のありさまで、貴金属加工の仕事の時などはその男ぶりを生かして相手の御令嬢や奥方たちからかなり利のある仕事を引き出して来る。
およそ、この世の女の天敵とも言える男だ。
実にけしからん。

「だいぶお悩みのようですね、店長」

そんな私の思考をよそに、自分のカップを片手に対面に座ったディーは地図を覗き込みながら訊いてきた。

「ん~、なかなかいいところが思いつかなくてね」

私も地図に視線を落としながら唸る。
今のところ、ラ・ロシェールの先にあるタルブあたりが有力だ。
酒は美味いし地元料理も気の利いたものがあるようなのだが、宿と名勝についてはちょっと弱い。
私は、ふと思ってディーに訊いてみた。

「参考までに訊くけど、あんたはどういう場所が好き?」

「私ですか?」

キョトンとした顔でディーは訊き返してきた。

「私は特に希望は・・・主のいるところにお供するだけですので」

「それじゃつまらないじゃないか。あんたもアイディアを出しなさい」

「いや、本当に私は・・・」

「何かあるだろう? 見てみたい景色とかさ。自分の中の原風景みたいなものでもいいよ?」

「・・・困りましたね」

ディーは腕を組んで考え込んでしまった。
もうかれこれ4年の付き合いだが、この男がこうして悩む姿は珍しい。

4年。

そう、もうあれから4年だ。
ブルドンネ街の、職人街の一角に工房を開いてそれだけの時間が経過した。
思い返してみれば、慣れない作業ながら手探りで進んできた年月だった。
最初のうちこそ苦労はしたものの、今は固定客も付き、こうして暇しているのが珍しいほどの繁盛をしているのは我ながら意外だ。

『早いもんだねえ』

そんなことを考えながら、この店を開いたころを思い出す。
アルビオンにいたのが、もう遠い昔のことのようだ。


サウスゴータでの最後の夜。
今思い出しても苦い思い出だ。
外出していた私が戻ると、屋敷の敷地内には使用人や兵たちの死体がごろごろしていた。
原因はすぐに判った。
テファ親子だ。
大公からお預かりした、大切な客人。
エルフとか、そんなことはどうでもいい。
気の優しい、聖女のようなテファには、無条件で庇護したくなる何かがあった。
それがエルフの魔力だと言うのなら、私は喜んで地獄に落ちようとすら思った。
そのはずだったのに、先に地獄に落ちたのは私以外の家の者たちだった。
恐れていた日が、予想よりの早く到来したというわけだ。

私は杖を抜き、慌ててテファ親子の居室に向かった。
蹴り開ける勢いでドアを開けると、そこに泣いているテファを抱き締めている少女がいた。
お互いにとっさに杖を突きつけ合った。
恐ろしく冷たい目をした娘だった。
一瞬気押されたが、その伸ばしっぱなしのような無頓着な茶色い髪には見覚えがあった。
それがヴィクトリア・テューダーだった。
大公の娘にして、テファの腹違いの姉。

「あ、あんた…大公の」

「そういうお前さんはマチルダ・オブ・サウスゴータだね?」

幼い外見にそぐわぬ、妙にババくさい喋り方をする子だった。
この子私と歳は2・3歳しか変わらなかったんじゃなかったっけ?
とても15歳の子には見えないほど子供子供した子だったが、その落ち着き具合はさすがに王族の威風を備えているように思えた。
彼女の視線が私を素通りし、私の背後に向けられる。

「ディルムッド、この者は敵ではない」

ヴィクトリアの言葉で、初めて私は背後に男が立っていることに気が付いた、
左右の手には二本の槍。
あのまま魔法を使おうとしていたら、恐らく私は知らぬ間に貫かれていただろう。
その槍兵が、今は私の右腕として働いているというのは妙な話だ。


互いの立ち位置が確認できたところで、私たちは脱出の段取りを話し合った。
どこに逃げるにしろ、この国にティファニアの居場所はない。
そして、その討伐部隊を縊殺したヴィクトリアにも未来はないだろう。
情報が流れるより早くどこかの港にたどり着くか、どこか人目が付かないところに身を隠す必要がある。

私たちは脱出を選んだ。

時間が無かったと言うのに、ヴィクトリアはテファの母を弔うことを主張した。
貴人には貴人に相応しい礼を、と言って魔法を振るって彼女の体にこびりついた男どもの穢れを洗い流した。
服はドレッサーから私が選び、着付けた後で丁寧に化粧を施した。
最後にテファにお別れを促し、発火の魔法で家に火を付けた。
あの時の葬送があったから、テファは自分の心に折り合いをつけられたのではないかとも思う。

その後、紆余曲折を経て今に至る訳だが、太守の娘のこの私が今では異国で工房の主をしている。
思い返してみれば、これもヴィクトリアに言われて始めたものだった。
何故かヴィクトリアは大公の娘などというお姫様のくせに、妙に世渡りを心得たところがあった。
アルビオンを脱出する時の手際や、比較的人口密度が高いトリスタニアを塒とすること、ギルドや商工会への顔つなぎ等、年上の私を差し置いて、まるで世間にもまれた経験があるかのような振る舞いで生活基盤を確立していった。
一体誰に教わったのやら。
訊いたら『診療所を開業したことのある知り合いから教えてもらった』とか言っていたけど、どこまで本当なのかは判らない。

そんな流れの中で、私にあてがわれたのがこの工房だった。
確かに私は土のメイジだし、診療院にいても手伝えることはたかが知れている。
人材の有効活用と言う意味では確かに有効かもしれないが、商売の基礎も知らない世間知らずの私にいきなり店の切り盛りを押し付けるあいつもあいつだと思う。
まして相手は平民たち。
今までろくに接したこともない、ある意味貴族とは別の価値観を持つ生き物だ。
そんな私にヴィクトリアが提示したのが『鉛筆』だった。
何でも、経営において重要なのはいかに市場が求めている潜在需要を見つけ出してそれを満たす商品を売り出せるかだそうで、最初に送り出したそれが軌道に乗ればあとは何とでもなるとか何とか。
鉛筆は、黒鉛と粘土を使って芯を作り、その回りに木を張り合わせて作る。
やや細めのチョークみたいものから、細いペンみたいなものまでいろいろと作った。
芯を作るのは私の『錬金』でも少し苦労したが、構成さえ理解すれば最終的には魔法を使わなくても芯が作れるようになった。
最初はこんなものが売れるのかと悩んだが、商人に卸してみたところ、ものすごい勢いで売れた。
聞けば、こすると落ちるチョークと違い、書いたら消えないと言うことで大工や石工などの職人方面から大好評だったらしい。
目新しさもあってか作った分だけ売れるという状況がしばらく続き、私は嬉しい悲鳴を上げ続けた。
社会的な消耗品として落ち着いた時点で大手の工房に製法を売り、そのパテント料が工房の基礎的な運転資金になった。
基盤ができたら、あとは個別対応だった。
鉛筆の伝手で、あんなのはできないか、こんなのはどうだ、という感じで仕事が舞い込み、それをこなしているうちに徐々に信用が得られるようになってきた。
装飾品や日用品、武器やちょっとした小物に至るまでできる範囲で注文を受け付けているが、出来栄えに対する評判はまずまずのものと自負している。

正直、今は毎日が楽しい。
頑張った分や手を抜いた分が、そのまま自分に返ってくる今の仕事は私の性分に合っていた。
それに、貴族をやってた時は笑い合いながらも相手の腹の底を探るような毎日だったが、職人連中と飲んで騒ぐ時にはそんな変な気苦労はまったくないのもいい。
何か新しいことに取り組む時に下請けを頼む職人連中と頭をつけ合わせて悩むのも、この上なくやりがいを感じる。
天職、っていうのはこういうのを言うのかもしれない。
最近では結構評価してもらえるようになったし、『工匠』なんていう二つ名を言われることもある。
大げさな二つ名だが、腕を褒められるのは悪い気はしない。


そんな毎日の中、今みたいにちょっと時間が空くと、思うことがある。
もし、あの時ヴィクトリアに出会っていなかったら私やティファニアはどういう今を生きていただろうか。
世間知らずで、手に職もなかった私だ。
食べていくには泥棒にでもなるか、男の袖を引くくらいしかなかっただろう。
ティファニアだってどこかに隠れ住むことになったに違いない。
世の中、何がどうなるのか判らないものだと思う。

いろいろあったけど、今は誰に問われても胸を張って『頑張って生きている』と答えられるような充実した毎日だ。
テファやヴィクトリアやディーと馬鹿な話をしたり、アニエスとご飯したり、仕事仲間の職人連中と真面目な話したり、商売敵みたいな関係なのに妙に気の合う武器屋の親父と技術交換したり、お得意さんのジェシカと仕事そっちのけで女同士の内緒話しててディーに怒られたり、そしてたまに皆で集まって『魅惑の妖精』亭で酒飲んだり。
もちろん、ままならないことだって幾つもある。
ヴィクトリアは何回言っても玄関で仁王立ちして牛乳を飲むのをやめないし、テファはテファで風呂に入ると長湯してのぼせるし、ディーは営業先のおかみさんたちの茶の誘いを断るのがいつまでたってもうまくできないし・・・。

うん、悪くない。
こういう生活は、悪くない。
地に足をつけて生きている、という気がする。
恐らく、今の私が本当の私なのだろう。
飾りも、背伸びもしない、ありのままの自分。
それを受け止めてくれる相手が、家族がいることの、何と喜ばしいことか。


そう、私はとても不幸な人間だ。
こんなに幸せなのに、私はまだまだ足りないと思ってしまう。
いつまでも心が潤うことなく、見えないゴールを目指して今日も足掻き続ける飢えた獣だ。
欲張りはいつかしっぺ返しを食らうと判っていても、こればかりは止められない。
我ながら、因果な性分だと思う。



「ここなどいかがでしょうか?」

そんな思考の海に沈んでいた時、ディーの言葉で私は我に返った。

「ん、どこ?」

指差された先にあるのは、ガリアとの国境に位置する大きな湖だった。

「あら、ラグドリアン湖?」

「聞くところによれば、ここは王族の園遊会が催されるような景勝地とのこと。それなりの宿もあることでしょう」

「・・・いいねえ」

私は頷いた。
ここならば距離もそんなに遠くないし、ディーの言うとおり宿もそれなりのところがある。
湖畔でのんびりというのはいいアイディアだと思う。

「うん、いいね。ここにしよう」

「そ、そんなにあっさり決めてよいのですか?」

「いいのよ。あんたと私がいいと言っているんだから。あの子たちだって特に拘りがあるわけじゃないみたいだし」

ヴィクトリアの目的は酒飲んでのんびりすることだし、テファに至っては旅行そのものが目的だ。
秋のラグドリアン湖ならば異論はないだろう。



工房の入り口が開いたのはその時だった。

「うひゃー・・・ちょっとごめんよ」

聞きなれた、鈴のような声が聞こえた。
見れば、傘を畳みながらヴィクトリアとテファが工房に入ってきた。

「どうしたのさ、あんたたち?」

「往診の帰りなんだが、雨脚が強くなってきたんでね。ちょっと宿らせておくれな」

「そこのカフェでクックベリーパイ買ってきたよ」

テファが嬉しそうに手にした包みを掲げてみせた。
私はひとつため息を付く。

「おやおや、これはちょっと豪勢なティータイムだね。ちょうどいい、骨休めの行先、私たちの提案を聞いてもらおうかしら」

「え、どこ? どこ?」

目を輝かせるテファに私は笑った。

「まあ、話すからまずはお座りよ」


私は新たに2つのカップを棚から出し、家族たちのためのお茶を立て始めた。



[21689] その17
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/09 01:33
幸福には翼がある。
つないでおくことは難しい。



何がきっかけになるかは私にも判らない。
それは不定期にやってくる。
しばしば、思い出したくもない夢を、私は見る。
ある男に組み敷かれる夢だ。
のしかかる体温は、夢とは思えぬほど生々しい。
泣こうが喚こうが、私の躰をまさぐり、着衣を剥いでいく手の動きは止まることなく、私の悲鳴が高まれば高まるほどその速度を増していくようですらあった。
この感触の生理的嫌悪感は、筆舌に尽くしがたい。
樽いっぱいにナメクジが入っているナメクジ風呂があったとしよう。
それがナメクジではなく、ゴキブリでも蜘蛛でも蛭でもいい。
この体験と、その樽に首までつかってのんびりするのとどちらかを取れと言われれば、私は一瞬も躊躇わずに服を脱いで手ぬぐい片手に樽に手をかけるだろう。
こればかりは男の人には絶対にわからないであろう感覚だ。
女性であっても、同じような境遇に遭ってみなければ真に理解をすることは難しいだろう。
その時に見た相手の顔は、私にとってはまさに悪魔の顔以外の何物でもない。
人を性欲処理の道具としてしか見ていない、歪んだ顔。
憎悪や憤怒や侮蔑や無念、あらゆる負の感情が私の世界を塗りつぶして、破裂した。

この夢を見るたびに、私は真夜中であっても悲鳴を上げて飛び起きる。
寝汗がひどく気持ち悪い。
今この瞬間もあの男の体温がそこにあるような気がする。
全身を掻き毟りたくなる嫌悪感だ。
荒い息を整え、私は水差しを取って貪るように水を飲んだ。
いつもこの瞬間だけはティファニアに頼んで記憶を消してもらいたいと考える。
精神の深部まで根を下ろしてしまったトラウマは、このままでは一生私を苛むと思うからだ。
将来、どこかで何かを間違って好いた殿方に肌を許す日が来ても、恐らくその瞬間に思い出してしまうことは間違いないと思う。
そう考えるだけで死んでしまいたい衝動に駆られるが、手籠めにされかけたことは事実ではあるものの、貞操を守れたことも事実だ。
あの時の耳朶を打つ豚のような悲鳴の記憶だけが、私の心を少しだけ軽くする。
それでも、花瓶の切り花が少しずつ萎れていくように、私の心が静かに壊れていくような感覚はついて回る。

しかし、これはテファやマチルダには言えない。
言ってはいけない。

テファは優しい子だ。
話の脈絡から、必ず自らを責めるだろう。
マチルダの心情も複雑だろう。
彼女の中では、私が彼女らと行動を共にした動機については、私もまた同じように親を王家に殺された者であるという同族意識が根っこにあると思う。
私とマチルダを結びつけているものはテファの幸せを願う気持ちで同一であるが、アルビオンの王家に対する感情では私のそれとは真逆の感情を彼女は持っている。
マチルダにとって、テューダー家は仇だ。
しかし、私にしてみれば、彼女に対して大公家の不始末で取り返しがつかない迷惑をかけてしまった負い目はあるものの、私自身は王家に対しては悪い感情は持っていない。
すべてはおとんの短慮が発端であり、すべての責任は彼に帰結するのだ。
マチルダには言ったことはないが、おとんの死については私は本当に何も思うところはない。
どこかの知らない誰かが馬鹿なことをやって殺されたくらいの感覚だ。
その気持ちも含めて、テファのところに行くまでの私の過去をすべて話した時、マチルダがそれを大公家縁の者としての勝手な事情と断じる可能性もないわけでもない。
私が、転生者としての神の視点から二人の救済を希求したことも、もちろん言えない。
彼女らを救済したがために、この先の歴史がどう流れるかは判らない。
しかし、アルビオン王家が倒れた時には、喜ぶマチルダの傍らで、私は伯父王を思って悲嘆にくれることになるに違いない。

思考の海に溺れかけ、私はベッドから抜け出して部屋の片隅の戸棚からワインを取り出して開けた。
体の中から消毒するのであれば、アルコールに勝るものはない。
私は手酌で一人、月を見ながら酒を飲んだ。
どうせこの夢を見た後は、いつも朝まで眠気などやってこないからだ。





その日は休診日ということもあり、私とテファは一緒に街に買い物に出かけた。
ラグドリアン湖への旅支度だ。
先日のカトレアの診察の代償について、さすがは公爵家という金額を支払ってもらったため、今の私たちはちょっとしたブルジョワだ。
もちろんある程度は診療院の拡張資金として取っておくが、それでも平民としてはかなり贅沢な旅行が可能なくらいは用意できる。
さすがに泳ぐのは季節的に厳しいので、湖畔で何をするかと言えばのんびりと時間を捨てるようなひと時を過ごすことくらいしかアイディアはない。
私としては、良いワインと美味しい料理、そして穏やかな時間があればそれだけで充分だと思っている。
意外なことだが、ディーはアウトドア料理が得意であり、現地での食事は彼に一任することにしている。
何はともあれ、いろんな意味で楽しみなことだ。

そんな買い物の途中で、私は武器屋に寄った。
顔見知りのよしみで、ちょっとした往診だ。
武器は重量物であるため、職業病的に武器屋の主人も慢性的な腰痛に悩んでいる。
定期的に私のところに来てはいるが、今日はそろそろ膏薬が切れたころだと思うのでついでに届けてやろうと思っていた。

武器屋のドアをくぐると、鉄と錆と油の匂いがした。
初めて入ったテファは興味津々といった感じで並んでいる武器類を眺めている。
ランプの付いた薄暗い店内を見回すが、親父の姿は見えない。

「デルフ~」

私は乱雑に積み重ねられた剣の山に向かって声をかけた。

「あ~? 俺に話しかけるのは誰でえ?」

何とも面倒くさそうな声が剣の山から聞こえてきた。
ずいぶん怠惰な伝説の剣もあったものだ。

「私だよ」

「お、診療所の娘っ子じゃねえか。久しぶりだな」

御存じデルフリンガーは、今この時はまだ一山幾らの剣の中だ。
インテリジェンスソードと言うだけあって口が達者なだけに、人斬り包丁の機能の他にも店番までこなす優れもの。
これが100エキューというのは考えてみれば安い。

「ボヤッキーはどうしたね?」

「ぼやっきーって誰でえ?」

親父の外見のせいで、つい地球のネタを振ってしまったことに言った後で気が付いて私は頭をかいた。

「お前さんの売り主のことだよ」

「ああ、今日は腹の具合が悪いらしい。さっき中に入っていったぜ。出すもの出しゃ出てくるだろうよ」

「そうかい、ありがとうよ」


私が店の奥に大声で声をかけると、武器屋の親父は手を拭きながらすぐに出てきた。

「あんたかい。どうしたんだ、今日は?」

「そろそろ膏薬がなくなるころだろ? 近くまで来たから補充を持ってきたんだよ」

「おお、それはすまねえな」

渡すものを渡して代金をもらう。

「それにしても・・・」

先ほどから全く人が来ない店内を見回して私は言った。

「何だか景気が良くなさそうだね」

「まあな、と言いたいところだがちょっとこの先は判らねえぞ?」

「・・・どういう意味だい?」

「戦争だよ」

いつになく鋭い眼光で武器屋の主人は言った。
その眼は『夜』の輝きを放っていた。
かつてはその道では知られた、伝説の傭兵の眼力に私は一瞬呑まれかけた。

「アルビオンの一部の貴族が独自に議会を立ち上げたぜ」

その言葉に私は背筋に冷たいものを感じた。
本腰入れて動き出したか、『レコン・キスタ』。
クロムウェルが水の精霊から指輪を奪って1年半、散発的な反乱が続いていたようだが、いよいよ一気に王室打倒に向かって動き出したらしい。パリーに与えた警告がどのように機能したかは判らないが、王党派が後手を踏まないことを祈るばかりだ。
ガリアの無能王の差す手を上回るだけの根回しを、テューダー朝のスタッフがやっていればいいのだが。

「近々、有力貴族が連名で、共和制を上奏する名目の意見書をぶち上げるって話だ。早い話が王権を有名無実化する反乱の狼煙だな。こりゃ荒れるぜ」

王権によって国を統べるのはアルビオンだけではない。
レコン・キスタには国境などないだけに、その火がどこまで延焼するかは現時点では判らない。

「・・・どれくらいの勢力が貴族派に転んでいるんだい?」

この世界では情報は売り物だが、ダメもとで訊くだけ訊いてみた。
意外なことに武器屋はすんなり教えてくれた。

「力比べならまだ王党派が有利だが、今はまだ様子見の連中が少なくない。北部連合が転べば形成は一気に貴族派に傾くだろうよ。そうなったら内戦だな。アルビオンは地獄になるぜ」

「北部連合・・・」

私は、口の中に感じる苦いものを吐き出したくなった。
北部連合はアルビオン北方の有力貴族で結束している地域であり、王家との関係はすごく乱暴な喩をすれば、地球のイギリスの感覚で言うイングランドとスコットランドのそれに結構近い。もっとも、王権としては始祖直系のテューダー朝が正当であるため王は頂いていないが。
そして、その北部連合の有力な貴族が、私の母親の生家であるハイランド侯爵家なのだ。

「ともあれ、穏やかじゃないのは間違いねえ。詳しいことはまた会合で報告するからよ。お互い、下手は打たねえよう気を付けようぜ」

刃物のような眼光で私を見る『武器屋』に対し、私もまた『夜』の顔で答える。

「貴重な情報をありがとうよ」

振り返ると、テファが固い顔で私を見つめていた。

「どうしたね?」

私が問うと、テファは困ったような顔で言った。

「今の姉さん、何か恐いわ」

店の棚に嵌ったガラスに映った自分を見て、テファの言っていることが判った。
嫌な目だった。
感情を映さない、無機質な目。
まるで爬虫類のような目つきをしている自分に、さすがに強い自己嫌悪を感じた。

「ごめんよ」

テファに謝り、私は無理に笑顔を作って武器屋を後にした。





夜、工房組が帰ってきて夕飯を食べた後で旅のプランを話し合った。
まずは移動手段。これはせっかくなので馬車を借り出そうということになった。
懐具合がいいので、ブルームタイプの豪勢な馬車でも何とかなりそうなので、今回はそれで湖まで向かう。
平民なら誰もが憧れる贅沢な旅だ。
宿も、平民向けとしてはまずまずの宿が町内会の伝手で手配がつきそうだった。
ここ1年ちょっとくらい前から湖が増水しているのが気になるが、まだ幹線道路は問題なく通れるらしい。
そっちの問題はそのうち然るべき人たちが何とかするだろうと私が思っているのは他の3人には内緒だ。

食後のお茶を飲みながら皆できゃいきゃいと騒いでいた時、チャイム代わりの鈴が鳴った。
はて、夜も9時を回ったあたりに誰だろうか。
急患か?

「私が」

と立ち上がりかけたディルムッドを私が制した。

「いや、急患かも知れない。私が出るよ」

立ち上がってスリッパを鳴らして玄関に急ぐ。
ライトの魔法で明かりをつけ、ドア向こうに声をかける。

「急患かね?」

「お頼み申します」

慇懃な男の声だった。
それだけで平民の客ではないことは察しがついた。
それは同時に、ちょっと訳ありの患者という図式に繋がる。
ドアを開けると、身なりがいい初老の男が立っていた。
どこかの使用人のように見える。

「このような夜更けにどうされました?」

「夜分誠に申し訳ない。当家のお嬢様が急病に倒れまして、直ちに当家までご足労いただきたいのですが」

やや言いにくそうな物言いに、私は首を傾げた。

「やんごとなきお家の御令嬢ですか? 私のような市井の藪医者より貴族のメイジの方が確実かと思いますが?」

「あまり公にはできぬ事情があるとお察しください」

「そちらの家の水メイジは?」

「遺憾ながら、今日は手配がつきません」

「恐れながら、どちらの御家中でしょう?」

「・・・アストン家の者にございます」

男は消え入りそうな小さな声で答えた。
アストン家と言えばタルブの辺りを治める歴とした伯爵家だ。
うちみたいな平民に声をかけてくるだろうか。
私は首を傾げた。

「私も使いの身なれば、申し上げられることと致しましては、さる高貴な身分のご婦人の、女性としての体面に関わる事情でして・・・」

何となく察しがついて来た。
高い身分であろうと平民であろうと、男と女がいる限り、未来永劫なくならないであろうトラブルの類だろう。

「ご懐妊か?」

「それ以上はご容赦ください」

やはり、言葉の端々から読み取れる情報としてはそっち方面のトラブルをどうにか内々で済ませたいらしいと思われた。

「・・・承知しました。支度をしますのでしばしお待ちを」

私は院内にとって返し、相応の準備をして鞄に荷物を詰め込んだ。
詳しいことが判らないので最低限の用意をそろえ、足りなければまた後で補充を取りに戻るということで良しとする。
『高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処する』という奴だ。
充分な情報がなければ診療はできないと門前払いすることは簡単だが、今現在苦しむ患者がいるからには無碍にも断れない。

「急患なの?」

私がごそごそやっていると、診察室にやってきたティファニアが私の様子を見て訊いてきた。

「あまり穏やかな話じゃなさそうだよ。ちょっと行くだけ行ってみるさね」

「一人で大丈夫?」

いかんせんブラインドデートだ。
最低限の安全策は取るつもりだった。

「頼りになる用心棒に来てもらうさ。ディルムッド!」

私が声を上げると、打てば響くのタイミングでディーが現れる。

「これに」

「ちょっと往診に行くから、念のため供を頼むよ」

「御意」



馬車に揺られてしばらく進む。
行く先はアップタウンのようだった。
よほど体面を気にしているのか、馬車には家紋は入っていない。
何があったのか知らないが、そもそもアストン伯爵の家系などは私あたりが知る訳がない。
依頼内容は恐らく堕胎だろうとはあたりはつけているが、子宮外妊娠や切迫流産など、可能性は考えだしたら切りがない。

馬車が止まったのは、屋敷街のはずれにある、古風な屋敷だった。
記憶違いでなければつい先日まで空き家だったはずだが、買い手がついたとは知らなかった。

「こちらにどうぞ」

あまり人の気配がない屋敷だった。
明かりも少なく、建物にも生活感がない。
貴族であればどこかに家紋のレリーフの一つもありそうなものだが、そのようなものも見当たらない。
何だかホラー映画のような雰囲気に、ディルムッドが滑るように寄ってきて囁く。

「主・・・大丈夫でしょうか?」

「気を付けるよ。何かあったら守っておくれな」

「は。一命に代えましても」

そんな会話をしながら、私たちは建物の中に歩みを進めた。
家の中はそれなりに掃除が行き届いており、買ったばかりの屋敷をこれから自分色に染めていこうという気配は感じられた。

ホールから2階に上がり、ある部屋のドアの前に着いたときに執事が慇懃に頭を下げた、

「この先は女性だけということでお願い致します。侍従の方は控えの間に」

この先は女性の寝室ということだろうか。
私はディルムッドに待つように指示し、部屋に入った。

明かりが灯された部屋の中には豪勢なベッドがあり、その真ん中に患者が寝ていた。

「医師のヴィクトリアと申します。お召しによりまかり越しました」

声をかけてもベッドの人物に変化はない。
怪訝に思ってベッドに寄ってみて、私は自分の迂闊を呪うことになった。



寝ていたのは、うまく作られた藁人形だった。



事の仔細は判らない。
ただ確実なことは、ここの家の住人は間違いなく私に害意を持っているということだ。
気配を感じてとっさに懐の杖に手をかけて後ろを振り返ると、そこに黒いマントを着た白い仮面の男が立っていた。
髪が長く、マントの裾からレイピアのような長い杖が見える。
足元には拍車。

私は驚愕した。

訳が判らなかった。

何故だ?

何故お前が私に絡んでくるのだ?

ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド!


混乱する理性をよそに、本能は全力で声帯を振るわせ、同時に念の波を飛ばした。

「『ディルムッド!』」

叫びながら私が杖を抜くより早く、白仮面が杖剣を引き抜く。

「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ」


そのルーンが眠りの雲の魔法だと理解した瞬間、私の意識は闇に落ちた。



[21689] その18
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/17 22:59
『ディルムッド!』

案内に従って入った控えの間でヴィクトリアの声を聞いたディルムッドは、一瞬で扉に寄ると強烈な蹴りを見舞った。
聖杯システムとは異なる魔術体系で具現化したがために受肉した存在である彼ではあるが、受肉したと言っても英霊である。
その力を凌駕できる存在はこのハルケギニアにはほとんど存在しない。
硬化や固定化がかけられた扉であったが、分厚いそれはディルムッドの前蹴り一つで吹き飛んだ。
いかに魔法といえども、想定を超える衝撃の前ではその効力を失う。
下手な砲弾より破壊力があるディルムッドの蹴りの前にはドア程度は紙と変わらない。

廊下に出ると、そこには5人のメイジが戦闘態勢を整え、杖をディルムッドに向けて構えていた。
ディルムッドの感覚にもひっかからずに布陣を済ませているあたり、明らかな害意を感じた。
先頭に立つのは、ここまで案内した執事であった。

「おとなしくしておれ」

既に詠唱を終えていたメイジたちが、ディルムッドに向かって一斉に魔法を解放する。
その魔法すべてが貫いたのは、果たして、ディルムッドの残像であった。
あまりの速さに動体視力が追いつかないと理解した時には、メイジたちの胸板に真紅の花が咲き乱れた。
トリスタニアの『夜』の町内会の一角の手勢にして、トリスタニアの夜の平穏を預かる一騎当千の精兵にとって、5名程度のメイジなど塵芥に等しい。
その手には紅と黄の双槍。
その二つの牙があるところ、ディルムッド・オディナの前に敵はない。

血煙を上げて倒れ伏すメイジたちを一瞥もせずに廊下を駆け抜けたディルムッドがヴィクトリアが入った部屋にドアを蹴破って飛び込むと、既にそこは無人であった。
開け放たれた窓から夜空を見上げると、上空にグリフォンに跨った白仮面が見えた。
快速を飛ばして高度を上げていくその腕の中に見えるのは、意識を失っている己の主の姿。
見事なまでの逃走であった。
歯ぎしりをしながら紅の槍を構え、投擲の姿勢に入ろうかという時に背後から声がかかった。

「良いのか? お前の主は気を絶している。それを投げたら、あの子は飛ぶこともできずに地に墜ちるぞ?」

後ろを振り返りもせずにディルムッドは応じる。

「笑止。俺が受け止めれば済むことだ」

「落下中の姫君を魔法で狙う連中がいてもか?」

前庭に目を向けるや、どこに潜んでいたのか屋敷の周囲をメイジの傭兵たちが取り囲み、一斉に窓際のディルムッドに向かって杖を構えた。
先ほどと異なり、数十名の多勢である。
先のメイジたちと同様に魔法を使った隠形を使っていたようであった。
ディルムッドはそれら有象無象に鋭い視線を向けたまま、手にした槍を背後の白仮面に一閃した。
閃光と言われるメイジですら反応もできない速さの刺突を顔の真ん中に受け、今まさにエアカッターを放とうとしていた白仮面は遍在の術式を断たれて瞬時に煙のように消えた。

「ならば、貴様らを全員あの世に送ってからお助けするまで!」

滅多に見せない憤怒の表情を浮かべたまま窓から飛び、前庭に軽やかに降り立つと取り囲むメイジたちと対峙する。
その右手には紅の槍。破魔の紅薔薇。
左手には黄の槍。必滅の黄薔薇。
壮絶なまでに美しい男は、羽を広げた怪鳥のような構えで鋭い視線を目の前の生ける障害物たちに向けた。

「トリスタニア診療院 院長 『慈愛』のヴィクトリアが臣、ディルムッド・オディナ ― 推して参る!」




「お医者ってのも大変だね」

時計を見ながらマチルダはしみじみと呟いた。
ディルムッドと連れ立って出かけるヴィクトリアの背中には迷惑そうな気配は欠片もないが、我が身に置き換えて考えたマチルダはヴィクトリアの持つ商道徳に心底感心した。
夜討ち朝駆けの商売を自分がやれと言われたら、恐らくそう間をおかずに音を上げるだろう。

「姉さん、先に寝ちゃっていいよ。明日もお仕事あるんだし、私が起きてるから」

「ヴィクトリアもディーもお前も寝てないのに、私だけ寝られる訳ないだろ」

ソファの上でクッションを抱きしめてゴロゴロしながらマチルダは唸る。
ぞんざいな物言いの中にもマチルダの優しさを感じてティファニアは笑った。

「何か暖かいものでも淹れようか?」

そんな会話をしている時である。
マチルダが寝そべっているソファの上で表情を変えた。
半身を起こして、鋭い目つきで壁を見詰める。
その仕草は、どこか猫が微かな音や匂いに気づいた時の物によく似ていた。

「どうしたの?」

首を傾げるティファニアに口元に人差し指を立てて示しながら、周囲に神経を向ける。
マチルダは土のトライアングルである。
土のメイジとしての純度が極端に高い彼女は、土がらみの状況を把握することに長けている。
地下の水脈等の地中で起こっていることや、大地の振動から周囲の状況を感じ取る事は容易であった。
その警戒網に引っかかった振動があった。
診療院の周囲に展開している不審者の数はおよそ10。
気配を殺す足運びは堅気の雰囲気ではない。
マチルダはゆっくりと立ち上がり、静かにルーンを呟く。
光の粉が宙に舞い、探知の魔法が発動する。
どこにも耳も目もないことを確認し、マチルダは次いでサイレントのルーンを唱えた。
空気中に冬の湖のような凛と澄んだ雰囲気が漂い、あらゆる音が遮蔽されたのを確認してマチルダは居間の真ん中に敷かれた絨毯をめくった。

そこに、四角い開口部があった。

ティファニアやヴィクトリアの身の上を考えると、いつ何時こういうことが起こっても不思議ではないとマチルダは考えていたため、そのための準備も怠っていなかった。
開口部の先には、診療院設立以来マチルダが時間をかけて掘り進んだ脱出のためのトンネルがあった。
静かに開口部を空けてティファニアにハンドサインを送る。
幾度も避難訓練をしているだけにティファニアも心得たものであり、真剣な表情で居間の壁にかかったバッグを手に取った。
中には緊急時用の食料や秘薬、金銭などの脱出用具が入っている実用一点張りのキャンバス製のバッグである。
それと杖を手に、音を立てずにぽっかり開いた避難口に滑り込んだ。
マチルダが続いて穴の中に入り、蓋を締め、備え付けの紐を引っ張ると絨毯が元通りに開口部を覆った。
今そこに人がいるような空気を漂わせた、無人の居間が後に残った。



杖や剣を手にした黒ずくめの男たちが、玄関ドアをアンロックで開いて突入して来たのはその数分後であった。
まだ照明がついた室内に二人の姿がないことを確認し、黒服たちが罵声を吐いて周囲の探索を始めようと診療院の外に飛び出した時である。

「そこまでだぜ。得物を捨てな」

重い男の声が響き、次いで黒服たちを取り囲むように30名ほどの男たちがマスケットを手に展開した。
武器屋の親父を中心に、見るからに腕に覚えがありそうな男たちがその左右にずらりと並ぶ。
その銃口は一直線に踏み込んだ黒服たちを狙っている。
完全に機先を制された形であり、いかにメイジがいようとも戦力的に黒服たちが不利であった。

「妙な連中がうろついてると聞いて来てみたが、この街できな臭えマネするたぁ、物を知らねえ連中のようだな。
どこのどいつか知らねえが、どういう用事で俺たちのマドンナのヤサに踏み込んだのか、こってり教えてもらうぜ、おい」

居並ぶ男たちの目つきは、自分たちのアイドルに粗相を働いた者に対する親衛隊のものである。
駆け付けた傭兵たちは全員、先に行われた影の美女コンテストにおいてマチルダに一票を投じた者たちであった。
先頭に立つ武器屋の親父は黒服たちに鋭い視線を向けたまま、手にした銃を真っ直ぐに突きつけた。

「やんのかやんねえのか、三つ数えるうちに答えを出しな」




ディルムッドは焦燥していた。
本来であれば、防げたはずの事態である。
以前にも主を連れ去られたことがあったが、今度は状況が違う。
明らかな害意を持つ集団による行いである。
連れ去るという行為に照らせばすぐさま生命の危機ということはそうそうないとは思うが、それでも虜として主を拘束されることは使い魔として屈辱であった。
女性の診察とは言え、あの場で主を一人にしたことに対する慙愧が心を蝕むが、悔やむのは主を助けだしてからと気持ちを切り替える。

ディムッドは、ヴィクトリアという主を気に入っている。
思い出すのは4年前。
不遇なる運命を悔い、その払拭だけを願って現界を悲願したディルムッドであったが、呼び出されてみればそこは異世界ハルケギニア。
召喚した者もまた、みすぼらしい襤褸を着た娘であった。
しかし、その主となるべき少女は己に対する数々の下知において、その外見にそぐわぬ器量を示して見せた。
本来であれば手を貸す義理もない弱者のために、己を召喚したという動機づけも心地よい。
何より、あたかもディルムッドの事を良く知っているかのようにディルムッドの忠義と名誉に対し、充分なる配慮を忘れないところも特筆に値する。
性根のすべてが全きの善とは言わないが、悪に対しては果断な対処をためらわず、必要とあらば自身の手すら汚すことを厭わぬ人物であった。
ディルムッドが刃を振るう際、その傍らには常にヴィクトリアの姿があった。
トリステインに盗賊団が流れ着いた際には、その退治の現場には必ず足を運んで自首を勧告するのはヴィクトリアである。
その結果は素直に降伏する盗賊はいないために力ずくの解決になるのが常であるが、己をただの走狗とてけしかけたりはせず、通すべき筋を通す主の姿勢にディルムッドは好感を持っている。
往々にして主の上下関係を気にせぬふるまいに戸惑うこともあるが、そのことからも主の自分を見る目は傀儡に対するそれではなく、揺るがぬ信頼をおく家族同然の存在に対するそれであることが判る。
その主が、今は何者か知れぬ輩の手に落ちている。
一瞬でも早くその身柄を奪還し、不届き者を成敗することだけを考えてディルムッドは地を蹴った。




グリフォンの騎上でワルドは恐怖していた。
もとより、気が進む仕事ではなかったことは確かであったが、それを差し引いてもひどく割を食ったものだと思う。
あれは一体何者なのか。
いや、あれは一体『何』なのか。
正直、得体が知れない。
韻竜と、さしで戦う方が気が楽やも知れぬ。
腕の中で眠っている娘の使い魔の事は、かなり細かいところまで調べたつもりではいた。
トリスタニアで悪事の企みあれば、どこからともなく現れては凶事の芽を事前に摘み取っていく街の守護者にして、そこらの傭兵程度では相手にもならない手練れのメイジ殺し、というのがワルドの知る情報である。
しかし、実際に相対してみれば、それは手持ちの情報とは比較にならない化け物であった。
屋敷に用意した戦慣れした傭兵メイジ40人の手勢は、2分も持たずに皆殺しにされた。
いずれも腕自慢の傭兵である。それを歯牙にもかけずに一方的に葬り去った。
その間に運よく奴の投擲の射程から外れることができたが、奴はそのまま地を駆けて追ってくる。
しかも空を行くグリフォンにも迫ろうかと言う速さである。
念のためと街道に伏せていた手勢が杖を向けるが、遭遇するたびに鎧袖一触に屠られている。
遍在は繰り出せば繰り出すだけ倒されており、自慢の魔法であるライトニング・クラウドですらその槍の前に雲散霧消のあり様である。
いずれも、穂先が閃いたと思った時には決着はついている。
己も閃光と呼ばれる速さ自慢のメイジであるが、あれは次元が違う。
本当の意味での閃光の一撃を見せられた思いであった。
ワルドはまだ健闘している方であり、他のメイジが撃ちだす射撃系の魔法はその影を捉える事すら出来ない。
土魔法のゴーレムが立ち塞がれば、それは一撃で魔術的な結合を絶たれて土塊に戻されたり、穿たれた大穴が修復せずに崩れ落ちたりと、およそ自分が知っている戦闘とは異なる魔性を見せつけられている。
恐らく、直接相対しても自分でも五合と持つまい。
あれは使い魔ではなく、人の形をした『天災』のようなものだとワルドは思った。
踏んではいけない何かの尾を、自分は踏んでしまったのだ。
『メイジの実力を見たければ使い魔を見よ』と言うが、逆もまた然り。
落ちたりとは言え、大公家息女にして、この歳でトリスタニアの重鎮になり、あまつさえヴァリエール公爵家の覚えもめでたいと言う事実に応分するだけの使い魔だと認識を新たにする。
そして、そんな代物が己の命を狙って血相を変えて追って来ていると言う事実に、自然と心臓が鼓動を早める。
捕まれば最後、どんな命乞いもきくまい。
まさに命がけの遁走に、ワルドはさらにグリフォンに鞭を入れた。



追跡劇はトリスタニアでも行われていた。
ティファニアを抱えたマチルダは、背後から迫る追っ手に必死の逃走を図っていた。
二人がくぐったトンネルの出口はブルドンネ街の工房の裏手に繋げてあったが、石畳を持ち上げて路地に出た時、待っていたのは白い仮面の男であった。
手にした杖剣を抜く白仮面に己との格の違いを感じとり、マチルダはとっさにティファニアを抱き上げてフライの魔法を唱えて空に舞い上がった。
魔法や脚力で男に敵うとは思えなかったがための苦肉の策であったが、空を飛んでみれば白仮面の方が飛行速度が速かった。
恐らくは風のメイジ。
トライアングルとは言え土属性の自分より敵の方が速いという現実に、マチルダは奥歯をかみしめた。
正直、打つ手が見つからない。
得意のクリエイトゴーレムをはじめ、土の魔法はどれも素早い相手とは相性が悪い。
背後からプレッシャーをかけてくる白仮面はいたぶるようにマチルダを追いこんでくる。
状況を見るに、遊ばれている気がした。
敵の出方は判らないが、余裕をかましているのだとしたら付け入る隙を見出すこともできるかも知れない。
空中戦から地上戦へシフトするタイミングをマチルダは探り始めた。
アップタウンを超えて貴族の別邸が並ぶエリアまで追い込まれ、今までが遊びであったかのように白仮面が急に速度を上げてきた。

『誘導された!?』

一瞬そんなことが脳裏をよぎった隙を突かれ、白仮面に完全に追いつかれたマチルダは高度を落として回避を図るが、その背中に強い蹴りを受けてバランスを失った。
ティファニアをかばうように落下し、勢いを殺しきれずに豪勢な屋敷の庭の立ち木に突っ込む。
枝を跳ね飛ばして木立を抜け、そのまま花壇に背中から落下し、その衝撃にマチルダは脳震盪を起こして気を失った。
ティファニアが慌ててマチルダの様子を見るが、今は介抱などできようはずもない。
追いかけるように降りてくる白仮面に、ティファニアは杖を向けた。

「近寄らないで!」

マチルダを庇って威嚇するティファニアを気にも留めず、白仮面はゆっくり地に降りた。

「手並みは悪くないが、詰めが甘いな」

「あなたは何者!?」

「誰とは言えないが、お前たちを連れてくるように指示されている。おとなしく従ってもらいたい」

「嫌よ!」

「まあ、そうだろうな。だが、お前たちの大事な同居人は、今ごろラ・ロシェールに向かってフネの中だ。おとなしく従った方がいい」

その言葉にティファニアは息を飲んだ。

「ヴィクトリア姉さんをどうしたの!?」

「あの者の血筋の因果が動きだしているのだ。その因果の咢から逃れるのは、物騒な使い魔を連れていても難しかろう」

ティファニアは思う。
ヴィクトリアの血筋に対して興味を示すとしたら、現時点ではアルビオンしかありえない。
昼間に武器屋で聞いたアルビオンの政変。
予想外に早く、王家の血筋の悪しき影響が己の姉に手を伸ばしてきている。
その尖兵とも思える目の前の男が、自分たちを連行してまともなことに役立てるとは思えない。
ティファニアは自分が知る唯一のルーンを唱える決意をし、杖を持つ手に力を込めた。

足音が聞こえたのはその時である。複数の慌てた気配が迫って来た。
程なく現れた衛兵たちが3人の姿を認めて大声で叫ぶ。

「何者だ!」

迫る衛兵の姿を確認して、白仮面は暢気な調子で呟いた。

「ふん、邪魔が入ったようだな。運が良かったな、娘」

まるですべてが織り込み済みであったかのように呟き、そして、そのまま霧のように消えた。



残るティファニアとマチルダのところに衛兵が駆け寄り、取り囲んでポールウェポンを突きつけた。
遅い時間にいきなり庭に飛び込み、しかも杖を向け合う者たちを放置するからには不審者として警告なく攻撃されても文句は言えない。

「待ってください、私たちは怪しい者ではありません!」

杖を捨ててティファニアは両手を上げる。

「お前たち以上に怪しい者がおるか!」

「経緯はこれからご説明します!」

必死に抗弁するが、説明する暇もなくティファニアは地面に抑え込まれ、その身に縄が打たれた。
気絶しているマチルダにはさすがに手荒な真似はしなかったものの、油断なく得物の矛先が向けられている。

「貴様ら、平民だな? 夜中に貴族屋敷に飛び込み、木々や花壇を荒らしてただで済むと思うなよ」

「悪漢に追われていたんです!」

そんなやり取りをしていた時である。


「何事ですか。夜更けに騒々しい」


凛とした、威厳ある声が聞こえた。
全員が視線を向ける先に、姿勢の良い、貴族の奥方を絵にかいたような女性が立っていた。
上品なデザインの服を纏い髪を結いあげた、眼光鋭い女性である。
貴婦人というより、どこか軍人のような厳格な風格を漂わせた女性であった。
手にした杖の持ち方ひとつとっても洗練された戦人の気配が漂う。
居並ぶ衛兵が一斉に姿勢を正し、二人を取り囲む者以外は全員武器を立てて礼を取った。
衛兵の中の年嵩な一人が貴婦人に応じる。

「お騒がせして申し訳ありません、奥方様。先ほど、敷地に侵入した者たちを捕縛しております」

その言葉に貴婦人はティファニアとマチルダを一瞥し、衛兵に問う。

「風体だけでは賊には見えませんが、賊はそこの二人だけですか?」

「それが、もう一人おりましたが、煙のように消えまして・・・」

衛兵の言葉に貴婦人の眉が微かに動いた。

「風の遍在・・・ただの賊とは思えませんね」

「詳しいことはこの者たちを尋問の後、明朝ご報告に上がります」

そんなやり取りが続いていた時であった。

「泥棒ですか、お母様?」

どこか陽気な声が聞こえたのはその時である。
その声に、ティファニアは聞き覚えがあった。
衛兵の人垣が割れて見えたのは、先日診療院で倒れた若き貴婦人の姿であった。

「あら、あなた、先生のところの受付の子じゃない」


カトレアが月明かりの下で首を傾げた。




[21689] その19
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/17 23:20
【注意:ちょい鬱です】




不覚を取った。
ワルド登場にビビってあっさり術中に嵌るとは、我ながら情けない。

そんな無様な私が気が付いたのは、恐らくは船室と思しき居室だった。
作りはなかなか豪華で、私がアルビオンから逃げる際に紛れ込んだ貨客船とは格が違う。
きちんとしたベッドや豪華な調度などから、相応の規模のフネであろうと思われた。
さて、問題はここがどこかだが。
窓の外を見ても下界は闇が広がるばかりで、ここがどこなのかは判らない。
天測の技能でもあればいいのだが、そんな高度なことはもちろん私には無理だ。

体を起こして自己点検してみる。
着衣に乱れはない。
変なことをされた感触もない。
そっち方面は問題なさそうだが、困ったことに、どこを探しても杖がなかった。
ベッドから床におり、室内をあちこち探しても無駄だった。
虜の身なのだから理解できるが、やはり杖がないのは心細い。
杖がなければ私なんぞ体力的にはただのガキんちょにすぎない。自力脱出は無理だろう。
私は意識を集中して念を送った。

『ディルムッド、どこにいる?』

『主、御無事で!?』

問いかけると、すぐにディルムッドの焦りと安堵の入り混じった反応があった。

『すまないね、不覚を取ったよ。今のところは無事だが、ここはどこだろうね? どうやらフネの上のようだが・・・』

『先の屋敷からグリフォンと思しき獣で連れ去られました。方向を見ますに、ラ・ロシェールに向かうフネかと。間もなく追いつきますゆえ、それまで何卒ご辛抱を』

『殺す気ならこんなところまで連れてこないだろうけど・・・お前のガードを抜けて私を拉致るとは敵ながら大した連中だね』

『面目次第もございません。お叱りは後ほど』

『気にするんじゃないよ。それより、今はお前だけが頼りだ。いい子で待ってるよ』

そんな念話を交わしていたら、ノックもなくドアが開いた。



「やあ、ヴィクトリア。起きたのかい?」



妙にさわやかな声だった。
その声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。
聞きたくもない声が聞こえ、見たくも思い出したくもない顔がそこにあった。
実際の年齢は40歳前後のはずだが、見た目は30歳くらいの若々しい、大輪の花のようなしなやかな美男子。


ハイランド侯リチャード。


4年ぶりに見た私の不倶戴天の仇敵は、朗らかな笑みを浮かべていた。
精神のスイッチが入って吐き気が込み上げ、全身に鳥肌が立つ。
こいつと私は血が繋がっている。
それを考えただけで自分の首を掻っ切って一晩逆さにぶら下がって、一滴残らず血を流し出してしまいたくなる。

「何を怖い顔しているんだい?」

「近寄るな。反吐が出る」

自然と早まる心拍数を感じながら、私は吐き出すように言った。
奴が一歩近づくごとに一歩下がる。
正直、怖い。
寄ってくるこいつが怖い。
これでも相応の覚悟を持って生きているつもりだが、その覚悟を持ってしても抗いがたい恐怖を抑えきれない。
歯の根が合わない。
腕力では勝ち目はない。頼みの杖も、今は奪われてしまっている。
これから己を襲うであろう数々の苦痛を思うと、今この場で自決したいくらいの心持ちだった。
杖が欲しい。
狂おしいほどに。
杖がないことを、これほど心細く思ったことは初めてだった。

「ああ、あの時のことをまだ怒っているんだね」

侯爵は泣きそうな顔で歌うような調子で声を上げる。

「あの時は私がどうかしていたんだよ。君があまりにも可愛らしくて理性を失っていたんだ。許しておくれ」

これほど白々しい謝罪も珍しい。
言葉通りに受け取る奴が何処の世界にいるだろうか。少なくとも三千世界にはいないだろうと私は確信している。
胸に手を当てて深々と頭を垂れる侯爵から、私は目が離せなかった。
体中の筋肉が緊張し、本能が防御態勢を取るよう勧告してくる。
だから、次の侯爵の言葉はすごく予想通りだった。

「・・・なんて言うと思ったかい?」

侯爵は頭を上げるなりにっこり笑い、次いで大魔神のように表情を一変させた。
四白眼の、どこか狂を発したような表情だった。読み取れるのは嗜虐心と憎悪。
侯爵は内からあふれる感情を制御できぬとばかりに、出し抜けに私のどてっ腹に爪先を蹴り込んだ。
いくら腹筋を締めていても関係なかった。
元よりインテリジェンスとマジックポイントの数値に比べ、ヒットポイントやストレングスやアーマークラスが著しく少ない典型的なメイジキャラの私だ。
殊にアーマークラスは深刻だ。
何を言っているのか判らないかもしれないが、要するに、大の男の手加減のない蹴りを受け止められるキャパシティーは私の体にはないのだ。
骨格も、筋肉も、着ているものも、およそこんな打撃に耐えられるスペックを持ち合わせていない。
嘔吐しながら、私はすぐ真後ろの壁に叩きつけられた。

痛い。

苦しい。

重い。

肉体があげられる悲鳴の種類をすべて混ぜ込んだような苦痛が鳩尾のあたりから全身に広がって行く。
これはいけない。
まずいなんてもんじゃない。
内臓は大丈夫だろうか?
痛みがひどくて判らない。
格闘技でボディをやられた苦痛は地獄の苦しみというが、冗談抜きで介錯が欲しいほどの苦痛が私を支配していた。
自己診断しながら、私は痛みに耐えかねて唸り声をあげた。喉から漏れるそれを堪えるには、この激痛は大きすぎた。
しかし、これもまだ序の口なのだろう。あれだけの事をした私に対し、この男がどのような仕打ちをするか。
ひと思いに殺してくれるなら、まだいい。こいつの手下数人に寄ってたかって慰み者にされても、まだ私の心は耐えられるかも知れない。
しかし、こいつは本物の変態だ。
恐らく、殺さぬ程度に私を静かに壊しに来るだろう。
中国に西太后といういろんな意味でごっついおばさんがいたが、あのおばさんがやったような仕打ちくらい、この男は平気でやると思う。
さんざんいたぶった挙句、最後には私を剥製にして飾るか、私の頭蓋骨の杯で晩酌を愉しみそうな男だ。
そんなことを考えていたら、蹲る私の横っ腹を侯爵が遠慮なく蹴りあげてきた。軽いとはいえ、私の体がボールのように吹っ飛ぶような蹴りを出せる侯爵もよく鍛えているものだと思う。
今度はアバラだ。下から4本くらいまとめて逝った。肺に刺さらないといいな。
そんな感じに他人事のように考えてないと痛くて気が狂いそうだった。
私を見る侯爵の表情は愉悦に満ち溢れている。長年の恨みを晴らしているのだからその気持ちも判らないでもないが、あいさつ代わりでこれだ。
本腰を入れたらどんなことになるのやら。
ディルムッドが来てくれるまで、私は生きていられるだろうか。
だが、念話で身も世もなく助けを求めることは最後の矜持として絶対にすまい。
彼は今、彼に可能な最大速力で私を助けに来ている。泣き言を伝えても彼の心を追い詰めるだけだ。
もし死ぬのなら、最期まであの気高い使い魔の主として相応しい者でありたい。


「契約履行前の狼藉はご遠慮いただきたいですわね、侯爵」


もう1・2発も蹴られたら死んでしまいそうだった私を助けてくれたのは若い女の声だった。
涙が滲む視界の中にその姿が見える。ローブをまとった姿はあからさまに怪しい。そして、ローブを着ていてもそれと判る豊満な胸部に私の本能が確信した。
こいつは私の敵だ。
だが、次の一撃に怯えていた私としては、今この時だけは心からこいつに感謝したい。

「動かないで下さい。すぐに楽になります」

女は私の前に跪き、そっと私の背中に触れた。
指輪が輝きだし、雪が解けるように蹴られた部位の痛みが引いていく。何かのマジックアイテムだろうか。
同時に、ローブの中の額が光を放っているのが見えた。
痛みとは他の理由で、脂汗がどっと出てきた。
正直、勘弁して欲しかった。
ワルドの次はこいつか。
私の運命のダムに、知らぬ間に不幸が貯まり続け、今日と言う日に決壊したのかも知れない。

初めて見るシェフィールドは、妖艶に笑っていた。








連れて行かれたのは、フネの中の割に豪勢な会議室だった。
椅子一つでもうちの年商くらいの値段がしそうだ。
そんな場の端っこに座らされた私の目の前で、シェフィールドと侯爵が剣呑な雰囲気を演出している。

「4年だぞ、4年。僕がどれほどこの日を待ったか知らぬ訳でもあるまい?」

奥歯が鈍い音を立てるほど噛みしめ、侯爵は呼気を瘴気に変えんばかりの怨嗟を言葉に乗せて紡いだ。

「毎日毎日、小便をするたびにこいつを思い出したよ。
どうやって壊してやろうか、どうやって僕が受けた屈辱をこいつの体に刻んでやろうか、それだけを考えて過ごしてきたんだよ。
こいつの親殺しだって、こいつを法によって裁かず、この手で縊り殺すためにわざわざ事故扱いにしたんだ。
それをこの期に及んで邪魔されるのは不本意極まるよ、ミス」

私は、あの時に斬る場所を間違ったことを心底後悔した。
斬るのなら、こいつの粗品ではなく喉笛を掻っ切るべきだったのだ。
我ながら甘かった。

「邪魔をするつもりはありませんし、そのようなことに興味もありませんわ。私が興味があるのは、貴方様の名前だけが欠けている血判状を何時いただけるかでしてね。我々は契約をきちんと履行したものと存じますが?」

要するに、私は何かの取引の材料らしい。

「ふん、さもしいことだな」

侯爵が合図すると、侍従の者が寄って来て羊皮紙を手渡した。
既に幾人もの署名がなされている書状だった。その紙自体から、何やら禍々しい魔力を感じる。
それを受け取った侯爵が並んだ名前の末尾にすらすらと自分の名前を書き加え、最後に指を切って血判を押すと紙が鈍く光った。恐らく、約束を違えることを許さぬギアスがかかった束縛術式の紙なのだろう。
それをシェフィールドに向かって犬に餌をやるような手つきで投げつけた。

「ほら、これが欲しかったんだろ?」

受け取ったシェフィールドは内容を確認し、頷いた。

「確かに。これで北部連合は・・・」

「連合加盟の貴族が全員一致で君の飼い主に迎合してやると言うことだよ。判ったらさっさと消えるがいい。僕はこれから忙しいんだ」

待ちきれないと言わんばかりにシェフィールドに手を振る。
そんな侯爵にシェフィールドが言った。

「察しが悪くて失礼しました・・・下衆の考えることは想像がつかないものですから」

その一言に、侯爵の目つきが怪しくなる。
四白眼を爛々と光らせてシェフィールドを睨みつけた。

「君は誰に口を聞いているんだろうね、え?」

侯爵が手を上げると、壁際に控えていたお仕着せの侍従が杖を抜いてシェフィールドに突きつけた。

「今日は僕は機嫌がいいんだ。できればその首を塩漬けにしてあの坊主に送る様な事はしたくないんだけどね」

「これだから下衆は困りますわ」

シェフィールドが困ったように首を振って手を上げるなり、室内に疾風が吹いた。
エアカッターが走り、侯爵の手下が持つ杖が両断されて床に落ちた。

「き、貴様」

いつの間にか壁際にいた白仮面を見つけ、侯爵は鬼のような形相を浮かべる。

「では、ここからは私たちの時間ですわ、侯爵閣下。こちらの可愛らしい殿下は、我々がいただいて参ります」

私は呆気に取られた。
てっきり侯爵への貢物にされたのかと思ったが、どういう話の流れなのやら。
少なくとも侯爵のところに連れて行かれてアレな目に遭わされるよりは運が向いてきたような気がするが。

「約束が違うぞ!」

「我々は『貴殿の前に貴殿の姪を連れてくること』をお約束し、その約束を果たしました。その成果に基づいていただくべき血判状も、この通り頂戴しておりますわ」

ひらひらと血判状を見せつけるシェフィールドの表情は実に嬉しそうだ。

「貴様、最初からそのつもりで・・・」

白仮面が構える杖剣の気配に動くに動けず、侯爵は人が殺せそうな視線をシェフィールドに向けた。

「お立場が御理解いただけましたら御退席を」

顔色を信号機のように変えながら侯爵は体を震わせた。
そのまま憤死することを心の底から祈ったが、持ち直した侯爵は苦いものを吐き捨てるようにテーブルの上に唾を吐き捨て、足音も荒々しくドアを開けて侍従を連れて出て行った。
ドアが荒々しく閉まると同時に、濁っていた空気が少しだけマシなったような気がして私は安堵のため息をついた。
室内にはシェフィールドと白仮面、そして私だけが残った。
侯爵の背中を見送ってシェフィールドは私に向き直り、優しそうな微笑みで話しかけてきた。
目が笑ってないのは侯爵もこいつも一緒だ。

「では、改めまして。私の名はシェフィールドと申します。我々『レコン・キスタ』は貴女様を歓迎致します」

嘘をつけ。レコン・キスタなんぞただの手駒だろうに。

「ご丁寧なあいさつは結構だが、できれば私の杖を返してもらえないかね?」

「誠に恐縮ですが、この場では冷静な話し合いをしたいと思いますので」

「私ゃ至って冷静だよ]

「お察しください」

力関係が対等でもない話し合いは脅迫と変わらんだろうに。
要するに、こっちには拒否権がない話をするということらしい。

「まずは、このような荒っぽい御招待になったことにつきまして謝罪申し上げます。いかんせん、ハイランドの不調法者の要望でしたので」

「まったくだね。それで、私みたいな平民をかどわかして何の用だね。私ゃ親殺しだよ。あんたたちがアルビオンで何をしでかすつもりか知らないが、今さらそんな私を担ぎあげてもあんたたちのイメージダウンだろうよ」

「公式には、殿下の御母上は事故死となっております」

「人の口に戸板が立つ訳ないだろう」

「その程度の汚名など、後から権威で洗い流せます」

「どうだかね」

会話を交わしながら、私は考える。
王家を倒しても王権は確保したい反乱軍の思惑というのはどういうパターンがあるだろうか。
敵さんは私に何をやらせたいか。ちょっと情報が少なすぎる。
私は単刀直入に訊いてみた。

「それで、私に何をやらせたいって?」

「現在のテューダー王家を倒した後、アルビオン王の座に就いていただきます」

「・・・は?」

話を聞いて、私は首を傾げた。
私の記憶が確かなら、レコン・キスタが掲げていたのは共和制だったはずだ。
共和制とは君主を頂かない統治制度だ。王権に拘ることは彼らの主張との間に矛盾を生むことになるように思う。
制限君主制として統治制度を整備するのなら私の戴冠も判るが、レコン・キスタは貴族の連合による議会をベースとした団体ではなかったか。
議長だの首長だのと言ったそこのトップに据えようにも、そこには自称虚無の継承者たるカリスマ、オリバー・クロムウェルがいたはず。
・・・そういえばクロムウェルって皇帝を名乗ってたっけ?
アルビオン新政府って帝政? 共和政?
いまいち記憶が曖昧だ。

「私を王にしてどうするね?」

「まだ詳細なところは決まっておりませんが、現在の構想ではハヴィランド宮殿の一画に殿下のお住まいを設けるか、ロンディニウムの近傍に1リーグ四方の限定的な王領を定め、そちらの統治者になっていただくかで調整しております」

「籠の鳥になるか、吹けば飛ぶような小さな国の王様になって、あんたたちに属国として臣従しろということかい?」

「理解が早くて助かります」

話は理解した。
王権そのものを支配下に軟禁するか、もしくはアルビオン内部にもう一つの国の設立を認めてそこに力なき王として封じるつもりらしい。
王権が共和制に屈した構図を政治的に演出したいというところだろうか。
後者の場合は、もし実現したらヴァチカンみたいな位置づけになるのかも知れない。
アルビオン王と言っても、まさに名ばかり。
軍も、官僚も、諸侯への任命権も持たない王権はただの張子の虎だ。
効果としてはブリミル原理主義者や王権主義者に対する取り繕いか。
また、そうすることで始祖以来の王権を潰した背教者のレッテルを回避できなくもないのかも知れない。
とは言え、その反面、王家が倒れた後は私の存在が内ゲバの引き金になる可能性も低くないだろう。
クロムウェルの虚無のせいで割を食った連中が、私を担いで王政復古を謳って挙兵したらどう対処するつもりなのやら。
もちろんそこに私の自由意思などないだろう。
どこの馬鹿だろう、こんな迷惑なことを考える奴は。
ガリアの髭か?

「悪いがお断りだね。私はそんな面倒な立場に立つ気はないよ」

「得られたかも知れない、王族としての栄耀栄華には興味がないと?」

「欠片もないね。私は今の生活が気に入ってるんだ。戦争がしたけりゃあんたらの方で好きなようにおやんなさいな」

「残念ながら、我々は相談しているのではないのです、殿下」

ようやくシェフィールド本来の雰囲気が出てきたようだ。
似合わない袈裟は脱いで、さっさと鎧を見せればいいだろうに。

「参考までに聞くけど、断ったらどういう目に遭わされるんだね? あの変態のところに送り返されるのかい?」

「あのような者を喜ばせる趣味はありません。その場合は、残念ですが、御身の自由を随意から切り離させていただきます」

「薬かい?」

「そういうマジックアイテムがございます」

「じゃあ、仕方がないね」

私は椅子を引いて立ち上がり、にっこり笑って言ってやった。

「もう一度言うが、やっぱりお断りだよ。私はもう政治には関わらないと決めているんでね」

伯父上やパリ―と矛を交えるくらいなら、今すぐそこの窓から飛び降りた方が気分はマシだろう。

「まあ、御身一人では心細いところもおありでしょう」

どこかそれを期待していたかのようなサディスティックな微笑みを浮かべてシェフィールドは言った。
嫌な予感が、じわりと静かに心に浮かんだ。

「今、貴女様の同居人の方々もアルビオンにお招きすべく手配しております。結論はその後で承りましょう」

コトンと音を立てて、私の中でいろんなものが加速し始めた。
私は今、きっとまたテファが嫌がる目つきをしているだろう。
感情は朝の湖面のように穏やかだが、奥に黒い炎が荒れ狂っていた。
ああ、シェフィールド、あんたは何て可哀そうな奴なんだろうね。
お前は、触れてはいけないものに触れ、ここで出してはいけない単語を出してしまったよ。
このハルケギニアで、私が何よりも大切にしている二人に手を出されて、この私が黙っていられる道理がないじゃないか。
理屈も何も関係ない。
それだけでお前と私の関係は、殺す殺さないのそれになるしかないんだよ。
私は静かな視線をシェフィールドに向け、自分でも驚くほどの低く冷たい声で告げた。

「あの二人に何かあった時は、お前だけは楽には殺さぬと心得るがいい」

シェフィールドの視線を受け止め、逆にこちらの眼力をシェフィールドに叩きつけた。
視線を向けあって、私は理解した。
恐らくこいつも理解しただろう。
私たちは近い人種だと言うことを。
自分の大切な何かのためには、どんな手段を取る事も躊躇わない女だと言うことを。

「杖を持たぬ貴女様に何ができましょう。ここは高度1000メイルの空の上。御自慢の使い魔でも、さすがに空は飛べますまい?」

こちらが無力と思っているのか、シェフィールドは楽しそうに笑う。
もうダメだ、こいつを生かしておく理由が見つからない。
そのまま白仮面に指示を出し、私の退室を促した。

「では、また後程」

妖艶に笑うシェフィールドに、私もまた笑って返した。
残念ながら、お前に後はないんだよ。

白仮面に促されて室外に退去し、ドアが閉まると同時に私は壁に身を寄せ、耳を抑えて床に伏せた。


さようなら、シェフィールド。


ドア一枚を隔てた、会議室の床が爆発するように吹き飛んだのは次の瞬間だった。


轟音と共に赤い流星のような一条の光が真下から真上に走り抜け、衝撃波が破壊の限りを尽くす。
真下からの一撃を受けたシェフィールドの死体は原型を留めないだろう。
伏せた私のすぐ脇でドアが吹き飛び、破壊された室内の構造材などが吹き荒れる。
フネ全体が身震いし、立っていたものは吹っ飛ばされて壁や床に叩きつけられている。
まるで砲弾が命中したような衝撃だった。
指示したのは私、犯人はもちろん我が忠臣だ。
私が会議室に入ったあたりで、既にディルムッドはこのフネを補足していた。
宝具の全力投擲ともなると、その速度は音速の数倍だ。
いかに効果が地味系のゲイ・ジャルグでも、英霊が扱う宝具というものを舐めてはいけない。
我が使い魔に、空戦能力はなくても対空能力までないと考えたのは早計だったね、シェフィールド。

振動が収まると同時に、私は即座に立ち上がった。
この攻撃によって演出したパニックを利用して脱出を図る。
フネというのは商船構造と軍艦構造などの違いはあっても基本的に構造はどれも同じようなものなので勝手は判る。
タラップを探して逡巡した時、後ろから声がかかった。

「こっちだ」

振り向くと、廊下の中ほどに白仮面をつけた男が手招きをしている。
思わずぎょっとなった。
何の真似だ、ワルド子爵。
一瞬躊躇ったが、彼の手に見慣れた青水晶の杖を見て、私は意を決して彼がいる方に走った。
私を待って白仮面は杖を差し出してきた。

「ここをまっすぐ行けば上甲板に繋がるタラップがある。急ぐがいい」

罠とは思えないが、あまりに過剰なサービスに少しだけ猜疑心が頭をもたげた。

「何の真似か、簡潔に教えてくれないかね?」

「君に同情した、などと言う甘い理由は期待しないでくれ。北部連合を取りこんだレコン・キスタなら、武力だけで王家を倒すことが可能だ。それをわざわざ内側に王位継承者と言う火種を抱える愚挙に賛同しかねるのさ。王家を倒した後、内輪もめする可能性は排除すべきと言うのが僕の考えでね」

「理由にならないね。だったらさっさと私を殺せばいいじゃないか」

「最初はそのつもりだったが、君を殺してあの化け物が黙っているとは思えないのだよ。今夜だけで手練の傭兵100人が血祭りにあげられている。下手をすれば、君の使い魔のためにレコン・キスタは壊滅の憂き目を見るだろう。君とて、変態の玩具や心を壊された人形になるのは本意ではないだろうし、王位継承権を振りかざして貴族に返り咲くつもりはないのだろう? 相互不干渉は可能なはずだ。故に、ここはこの騒ぎのせいで僕は不覚にも君を取り逃がしてしまった、という選択肢が最上だと判断したまでだ」

私が知らない間に、ディルムッドはずいぶん活躍したようだ。あとでしっかり褒めよう。
他にも裏があるのかは知らないが、杖を返してくれたことから見ても、この男に害意はないのだろう。
おかげでディルムッド頼みのロープなしバンジージャンプをしなくて済む。

「私の家族は?」

「既にヴァリエール公爵家の庇護下にあるから心配はいらない。さあ、早く行け。僕はもう君に関わりたくないんだ」

「・・・ひとつ借りにしておくよ」

それだけ言って、私は振り返ることもなく廊下を走ってタラップに取りついた。
一気に駆け上って最上甲板に出る。
夜風が荒れている中、私は舷側に向かって走った。

『ディルムッド、降下中の援護頼むよ』

『承知』

それだけのやり取りで、私は心から安心した。
ようやく頼もしい使い魔の庇護下に還ることができる。

すべてはうまくいく。

そう思ったところに落とし穴があった。
舷側に駆け寄って手摺に手をかけ、フライのルーンを口ずさんだ時だった。

『主!』

ディルムッドの悲鳴にも似た声が脳内に響いた。
その声と同時に彼の投擲の気配を感じるが、着弾までのタイムラグが私の命取りだった。
次の瞬間、私は体に走った衝撃と鈍い熱さを感じることとなった。

熱い。

熱い。

熱い。

尋常ではない感覚だった。
背中から、何かが体に何本も突き刺さってきた。見下ろすと、私の小さな体を貫通して何本かの氷の矢の切っ先が体から生えているのが見えた。
ウィンディ・アイシクル。
食らうとこういう風になるとは知らなかったよ。
消化器を傷つけたらしく、せりあがって来た血の塊が口からあふれ出た。
鼻の奥が鉄臭い。
凄まじい耳鳴りが頭蓋骨の中に鳴り響いた。

杖を取り落とし、ずるずると手摺の上に崩れる私の視界に、至る所から血を流した侯爵がキャビンの出口のところで杖を手に立っている姿が映った。
さっきの騒ぎでもかすり傷とは命冥加な奴だ。
だが、奴の幸運もそこまで。
風切り音が響き、既に放たれていた我が使い魔の2投目が真下から侯爵を襲った。
黄金色の閃光と共に、甲板の木材もろとも侯爵が吹っ飛ぶさまが見えたが、その衝撃で私もまた虚空に投げ出された。


緩やかな飛翔感に包まれながら、私は朦朧としてきた意識で今までの事を思い返す。
これが走馬灯というものかもしれない。
伸びきった時間流の中で、どこかでみた風景が流れて行った。
良いことばかりではなかったけど、悪いことばかりでもなかった。

私が知るハルケギニアの歴史に対し、私は自分の価値観を優先して介入してきた。
死にゆく運命だったカトレアに、本来ありえない道を示した。
テファやマチルダに手を差し伸べることによって、彼女らが面倒を見るであろう孤児たちについては黙殺した。
テファの救済は、場合によっては未来における平賀才人の死を確定する行為でもある。
本来は死んでいたであろう、多くの人の運命をこの手で変えてきた。
それがどのような未来につながるかに目を瞑って。
運命を知る術は私にはないが、その些細な変化をもたらすことを繰り返した私は、やはりこの世界のイレギュラーだったのだろう。
神の目こぼしを受けながら日々矛盾を生み出している存在であるからには、唐突に揺り戻しとも言うべき終末がやってくることもあり得る話だ。
歴史に修正力というものがあるのなら、矮小なこの身では抗うことはできないだろう。
もとより生まれ変わりという、おまけのような20年。
まあ、いいか。
最後は退屈しない人生だったし。

気がかりなのはマチルダとティファニアの今後だが、世間知らずの貴族様と違い、今の二人には相応の生活力がある。
私が知る物語のように日陰者に落ちる心配はないだろう。
私がいなくなった後でディルムッドが現界できるかは判らないが、もし残ってくれるのなら、きっと二人の力になってくれるだろう。

視界の端で、上空の船がすごい竜巻に巻き込まれてばらばらになっていく様子が見える。
ディルムッドの仕業だろうか。


ああ、何だか眠い。


背中に柔らかい感触。
流石は我が忠臣、優しく受け止めてくれる。
霞む目の前でディルムッドが叫んでいる。
何を言っているかよく聞こえないや。


本当に眠い。


意識が飛び飛びになって来た。
カトレアみたいな色の髪をした、厳しそうなおばさまが鋭い目で私に何か言っている。
ああ、もしかしてこの人、『烈風』さんかな。
助けに来てくれたのかな。
あの二人がヴァリエールの庇護下に逃げ込めたのは本当だったのか。

ディルムッドに抱えられたまま、『烈風』さんのマンティコアの背中に乗ったようだ。
何だか目の前が暗い。

今夜は妙に冷えるなあ。

今もディルムッドの声が聞こえる。


すまないね、すごく眠いんだよ。




いいや、もう、寝てしまおう。




今夜だけは、あのひどい夢は見たくないなあ。




・・・。



・・。



・。








[21689] その20
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/30 23:52
『転生もの』というジャンルがある。
ネットSSの世界の話だ。
原作の知識や、現世のいろんな技術を使って異世界で大活躍、というのがスタンダードなパターンだ。
しかし、実際にその境遇に落ちてみて私は思い知った。
現実というものは、生まれ変わろうが世界が変わろうが、残酷で厳しいものなのだ。
物心がつき、魔法の存在を知り、ハルケギニアという言葉を聞いた時点で、私はこの世界が『ゼロの使い魔』のそれであることに気が付いた。



― いいのいいの、道具はね、使うためにあるのよ ―


― あんたもたまには、故郷に帰るんだね。親に顔を見せてやりな。私みたいに、帰る場所がなくなっちまう前にね ―




ゼロの使い魔と言えば、私はティファニアが大好きだった。
気立てがよく、反則なスタイルを持ち、芯が強くて、おまけに美少女。
作品が作品であれば、メインヒロインを張れるキャラだ。女の私の目から見ても、ヒロインであるルイズよりよほど応援したい娘だった。
そのティファニアの陰にいるのがマチルダ・オブ・サウスゴータ。
ワルドとペアで物語の裏街道を進む、不遇の美女。そして、ティファニアの保護者にして、姉。およそ、幸せになれるパターンが想像できないキャラだった。
ハーフエルフに生まれ、過酷な宿命を背負いながらも優しさを失わないティファニア。
闇に身を落とし、それでも妹だけは守ろうと業火に身をさらし続けた『土くれのフーケ』ことマチルダ。
作品を読むたびに、いつも私は思った。

何で、この二人が不幸せにならなければならないのか。

世の中は、確かに不条理で満ちている。
しかし、この二人にそこまでの業があるとは思えない。
ならば、何が悪かったのか。
決まっている。
モード大公。
彼の浅慮が、彼女らの不幸を決定づけたのだ。
この場合、愛は免罪符にならない。
相手の幸せを願うなら、涙を飲んでシャジャルを手放すべきだったと思う。
そうすれば、誰一人泣かなくて済んだはずなのに。

話が進み、ティファニアはやがて友を得、恋を知り、差別を受ける立場を脱して幸せを掴んでいく。
しかし、私が覚えている範囲では、その陰でマチルダは尚も闇の中を歩き続けていた。

もし、私自身に力があれば、早い段階からいくらでも運命の歯車をいじれただろう。
しかし、ちっぽけな子供であった私は、自分のことで精一杯だったのだ。






落成した診療院での最初の夜だった。

四人そろっての半月ほどの宿屋暮らしの間に、買い取った空き家を大工に頼んで直してもらっていたのがようやく出来上がり、皆で過ごす初めての夜だ。
さて、これから新生活という肝心要のスタートであるが、初っ端から抱えた問題があった。
当然ではあるが、マチルダもティファニアも料理というものが全くできなかったのだ。
太守の娘ともなればお抱えの料理人はいただろうし、ティファニアはまだ子供だ。
そういう機会がなくても、まあ仕方がないだろう。
そんな訳で、その夜の夕食は私が作ることとなった。この辺りは前世でとった杵柄だ。
助手はディルムッド。さすがは英霊、芸域が広い。
料理といってもコース料理のようなとんでもないものは作らない。
作れと言われれば真似事くらいはできるが、あんなものをいつも食べていたら生活習慣病になってしまう。
何より、今の私たちにそんなお金はない。
室内の調度を整えるのは皆に任せて、市場に買い出しに出かける。選んだ食材は、私なりにバランスを考えたものだ。
ニンジン、ジャガイモ、タマネギ。手の加え方ひとつで何にでも化けられる三種の神器だ。
それに動物性タンパク質として肉を少々。
調味料として、タルブ特産の『ショウユ』が手に入った。
マチルダもティファニアも手伝いを申し出てくれたが、それほど広いキッチンではないし、明日以降キッチンを任せる予定のティファニアには別途教授するということで、二人には配膳を担当してもらうことにした。ディルムッドにはサイドのサラダの用意をしてもらう。
まず、ずらりと食材と調理器具を並べてメインの段取りを反芻する。


・ジャガイモとニンジンとタマネギを食べやすい大きさに適当に切る。
・鍋にそれらを入れて、ひたるくらいの水を入れる。
・強火にかけて煮立てる。
・煮立ったら中火にして、砂糖を入れて数分煮込む。
・充分煮えたら、ショウユを大さじ1杯を加えてさらに煮込む。
・肉を投入する。
・肉の色が変わったらショウユをさらに大さじ1杯半加えて灰汁取りをする。
・落し蓋をして10分ほど煮込む。
・ジャガイモが充分煮えたら落し蓋を外す。
・強火にして適度に水分を飛ばす。


確かこんな感じだったはず。
我ながらちょっと自信がなかったが、食えない物になることはないだろう。
もとより、アルビオンは料理がまずいことについては折り紙つきだ。
そこそこ味が整っていれば文句は出ないだろう。
とりあえずスタートしてみる。
スルスルとニンジンの皮を剥きながら自分の手を見る。
ずいぶん荒れていた。
しばらくの間とは言え、浮浪児をやっていたのだからきれいなわけがない。
治癒魔法ひとつできれいになるが、そんな気を回している余裕もなかった。
働き者のきれいな手、という表現もあるが、正直、手のきれい汚いについては、あまりいい記憶はない。




あの日のことが、何だか遠い昔のような気がした。




「何ということをしたのです、お前は!」

母が叫んでいる。
体を震わせ、その表情は恐れや憤怒に歪んでいた。
もともとヒステリックな人だったが、顔に青あざを作り、服をボロボロに引き裂かれ、そして返り血を付けた私の様子に、彼女の中の狂気のスイッチが入ったようだった。

「兄の庇護なくして私たちが生きていける訳がないでしょう。それを何故そのような恐ろしいことを! 恩義ある兄の伽の一つもできぬと言うのですか!」

母の言葉が、私の脳内でぐるぐると回り続けた。
何故だ。
母の言うことが、理解できない。
それとも、理解できない私がおかしいのだろうか。
暴行されかけた娘に対し、何故そのようなことが言えるのだろう。
私は正直に胸の内を述べた。

「こんな目に遭ってまで、あの人の庇護を受けたくありません。私たちには魔法があります。真面目に働けば、生きていくことなど難しいことではないと思います」

「私に手を荒らせと言うのですか! 貴族の娘である私に!」

生まれた時から、苦労というものをしたこともないような白い指を、私に突きつけて母は怒鳴る。
本当に白い、爪もきれいに整った指だ。
その手の美しさに、得体が知れない生き物のぬめりのような気持ち悪さを感じた。
恥のないところには、同時に誇りもないのが世の中だ。
ひたすら誰かに寄りかかって生きていることを良しとするのが、果たして貴族というものであろうか。
今とは違う生き方を模索すると言う概念すら、この人にはないのだ。
私の心の中の器に、罅が入った。

「それだけの・・・それだけのための、私は生贄なのですか?」

「子が親の言うことを聞くのは当然でしょうに!」

母は震える手で杖を取った。

「仕方がありません。私がお前を仕置きして、兄への謝罪といたします」

その言葉で、私の中の器が一気に割れ砕け、水が怒涛のように溢れ出た。
物心ついた時から、もしかしたらと思ってはいた。
この時、やはり、と思ってしまった。
僅かに、可能性として信じていた母の愛が、この瞬間に朝露のように消えた。
感情はない。
ただ、作業のように、心の中で濁流を渦巻いている水をイメージして、私は母より先にルーンを唱えた。


さようなら、私の母だった人。


私は、欠片ほどの躊躇いもなく、杖を振り下ろした。



北部連合と中央を結ぶための政略結婚。
それが父母を結びつけた縁だった。
その結晶として生まれた身ではあるが、望まぬ結婚を強いられた父にとって、生まれた私は疎ましい存在以外の何物でもなかったらしい。公の機会でもない限り、私が彼を見る機会はほとんどなかった。
いろんな意味で自由人だった母にしても同様で、私が住む家で彼女を見かけることは一年の半分くらいだった。
私の育成には乳母と従者が数名ついたきりで、しかもそいつらも最低限のことしかしてくれないビジネスライクな連中だった。
大公息女の身の上では安易に外出もできず、放任主義の両親からは、然るべき身分の友人も手当てしてもらえなかった。
話し相手は、しかめ面で面白みのない家庭教師だけという日々が私の幼少期だった。
一度逃げ出そうとしたが、あっという間に見つかり、警備担当の兵の数名が責任を問われて暇を出されることになった。
一瞬で人生が狂ってしまったあの時の彼らの目は、今でも忘れられない。
私の軽挙が、彼らの生活に罅を入れてしまったのだ。
私はいよいよ身動きが取れなくなった。
そんな状況で、未来を知っているとか現代知識があるなんてことは生かそうにも手段がなく、徒に時を重ねる中で、私は私の戦いを強いられることになった。


敵の名は、『孤独』と言う。


気楽と言えば気楽だが、孤独というものは、鉄を蝕む錆のように静かに深く心に浸透していき、時には人の命すら奪うとんでもない代物だったりする。
一人、食事を摂る。
巨大なテーブルに、ふんだんに用意された料理。
しかし、50人は座れる食卓についているのは私だけだ。
父はもとよりこの家に寄りつこうとはしないし、建前上は同居人である母は、どこかの貴族の子弟と幾つもある別宅に入り浸りだった。
使用人たちに相伴を持ちかけたこともあったが、頑として受け入れてもらえなかった。
大きすぎる屋敷に、一人で住んでいるような空虚な気配が私の周囲には常に漂っている。
砂を噛むような食事は、食事と言うより餌だ。
飢えて死なないように、自分で自分に与える餌。
立場的に、友達を作ることもできない籠の鳥のための餌だ。
転生者であっても、誰とも会話のない日々と言うのは心に堪える。
そんな日々の中、私は磨滅して行く自分の心を維持するので精一杯だった。

孤独を紛らわすため、私は魔法の勉強にエネルギーを注いだ。
おぼろげながらに覚えていた医学の知識と治癒魔法の似ている点や違いを考えるのは面白かった。
自分が何者だったかははっきりと思い出せないが、その知識と魔法の技術の親和性の高さに私は魅せられた。
時間がある時は、庭にあった大きな楡の木の根元に座って幹の中を流れる水の気配を聞いた。
大地から吸い上げられた水が、葉から空に消えていく生命の息吹を感じていれば、この緩慢な地獄も耐えることができた。


水は、私の根幹であり、寄る辺でもあった。







「水のようになるんだよ」

聞こえてきた声に、私は振り向いた。
懐かしいキッチンだった。
エプロンをつけた母が、鍋で何やら煮物をしている。
醤油やら味醂やらが並び、ジャガイモ、牛肉、玉ねぎ・・・。
懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

「わかるかい?」

母の言葉に私は答えた。

「わかんない」

母は笑いながら、歌うように言う。

「固定観念を捨てて、心と体の力を抜いて、どんなことにも対応できるように自分の中から形を無くすのさ。水のようにね」

「むう・・・」

「水は茶碗に入れば茶碗の形になるし、茶瓶に入れば茶瓶の形になる。ゆるゆると流れることもできれば、滝のように激しく打つこともできる。
それくらい柔軟に物事を考えるのが、世の中をうまく渡って行くコツだよ・・・おっと、そろそろかね」

母は火を止めて、煮ていた物を器によそって私に差し出した。
その手を見つめる。
仕事で荒れた、がさついた手だった。
余裕を削り、自分の命を削り、そろそろ削るところがなくなっていそうなほど、働きづめの母の手だった。

「ほら、味見をしてみな」

「・・・肉じゃがだ」

私は確認するように呟いた。
それは軍神・東郷平八郎のパワハラの果てに生まれた奇跡の逸品。
一口食べ、深い味わいに頷く。

「美味」

「久々だったけど、うまくできたかね。おかずはこれでいいね?」

「うん。充分」

頷いて、私はふと思って訊いてみた。

「ねえ、さっきの水がどうとか、っていうの、誰の言葉? お父さん?」

父は亡くなって8年近く経つ。彼の事を、私はほとんど覚えていなかった。

「まさか」

母は笑った。

「ブルース・リーだよ」

それだけ言うと、母は上着を着て玄関に向かう。
勤務医である彼女は、これから夜勤だ。
私も、母のバッグを持って、後ろにくっついて行って玄関まで見送る。

「いってらっしゃい。今日は寝られるといいね」

「日付が変わるあたりで雨だからなあ。交通事故の搬送が多いだろうね」

「大変だね、お医者さんも。体、大丈夫?」

知り合いの看護師が言うには、母がいる病棟は『女王の病棟』と言われるくらい母中心で回っているそうだが、いくらそんな女傑でも、連日の長時間勤務は辛かろう。

「お前は余計な心配しないでしっかり勉強しな。来年から中学だよ。少しは漫画以外の本も読みな」

私の頭をペシッと叩き、バッグを受け取って母は出かけて行った。
その背中を見送り、キッチンに戻ると、食卓に、肉じゃがが湯気を立てていた。
一人、食卓で肉じゃがをおかずに夕食を食べる。
正直、出かけてしまう母に、伝えたい気持ちはあった。
しかし、女手一つで私を育ててくれている母の前では、さすがに泣き言は言えなかった。
気持ちを飲み込みながら口にしたジャガイモは、さっき味見したものとは別の物に感じられた。








ほこほこと湯気を立てる、豪勢とは言えないながらも温かい夕食がテーブルに並んでいる。

「変わった料理だね。シチュー、じゃないし・・・」

マチルダが私が作ったメインをまじまじと眺める。
ティファニアも興味津々だ。

「『肉じゃが』、という料理だよ」

作るだけ作ってみたが、味醂がなかったので結構『なんちゃって肉じゃが』な出来栄えだった。
味の方はそれなりに整ったので、食べられないことはないと思う。

「自信はないけど、温かいうちに味見してみておくれ」

物を食べるのに理由はいらない。
全員が食卓に座り、それぞれが信じるものに祈りを捧げる。
私はワインに手を伸ばして、皆が肉じゃがに手を付けた時の反応を眺めていた。
やや大ぶりなジャガイモを割って口に運び、驚いたような顔でマチルダが言った。

「美味しいね、これ」

ティファニアも目を丸くして美味しいと言ってくれた。
ディルムッドはどこかの騎士王のように、唸りながら何度も頷いている。
お世辞ではないようで安心した。

「それはよかった。ちょっと調味料が足りなかったから本当に自信がなかったんだよ」

「本当に美味しいよ、うん」

皆が、にこにこしながら料理に手を付けていく。
私も自分の皿に手を付けた。
味が良く染み込んだ、煮崩れる直前の、柔らかいジャガイモを口に運ぶ。
ほのかに甘く、やや塩味がするジャガイモがほろりと口の中で蕩けた。

それは、本当に突然だった。
ポタポタと温かい滴が、テーブルに落ちた。
何故か視界が歪んでいる。

「あれ?」

私は思わず声を漏らした。
驚いたように、3人が私を見ているのが判る。

「変だね、何だろうね」

私の目から、止め処なく涙が溢れていた。

「ど、どうしたのさ?」

マチルダに訊かれても自分でも判らない。

「どうしたんだろうね、本当に。どうしたんだろうね」

顔をぐしゃぐしゃにして、鼻水まで流して、この世界に生まれて初めて、私は泣いた。
口からは、ただ『どうしたんだろうね』という言葉が嗚咽まじりに出るだけだった。

簡単なことだった。
私が欲しかったものは、こんなに当り前なものだったのだ。
信じられる人たちと一緒に、普通に食べる、晩御飯。
最高の素材を用い、最高の料理人が腕を振るった晩餐でも潤わなかった心が、暖かいもので満たされていく。

『転生もの』というジャンルがある。
ネットSSの世界の話だ。
原作の知識や、現世のいろんな技術を使って異世界で大活躍、というのがスタンダードなパターンだ。
どういう理由で、自分が転生する羽目になったのかは自分でも判らない。
よくあるパターンを踏襲するなら、転生をすれば、そこは幸せな世界だったことだろう。
愛してくれる家族がいて、類まれな才能を持って、世界のすべてが味方のような物語を紡げただろう。
しかし、私が生まれ落ちた先は、私にとっては地獄だった。
周りには誰もおらず、自分が望むことも何もできず、ただ時間だけを重ねることを強いられた牢獄だった。
神を恨んだこともあった。
この世界のことを知った時は始祖ブリミルも恨んだ。
前世をどうやって終えたのかは知らないが、天寿を全うしたのなら、静かに眠らせて欲しかった。
誰が、新たな人生を歩みたいと言ったか。
誰が、孤独を味わい、辛酸を舐めたいと望んだか。
誰が、こんな生き地獄に来たいなどと願ったか。
私の魂は、幾度となく双月に向かい、声を上げずに慟哭してきた。

そんな中で出会ったのが、ディルムッドであり、マチルダであり、ティファニアだった。

おこがましくも、ティファニアやマチルダを、私は助けたつもりでいた。
それは私の思い違いだった。


助けてもらったのは、私だ。


一緒にご飯を食べてくれたのが、たまたま彼女たちだったということは確かだ。
巡り合わせの賜物とも言えるだろう。
しかし、あの時、私の心が感じたものだけは他に代えられないものだったことも確かなのだ。
誰が何と言っても関係ない。
彼女たちは、私にとって、かけがえのない姉と妹だ。
彼女らの笑った顔を見ると、それだけで胸がポカポカするのだ。
長い一人旅の果てに、ようやく手にした宝だ。
それを守るためならば、私は躊躇わずに命を懸けることだってできるのだ。

ただひたすら泣いている私の周りでマチルダとディルムッドがおろおろし、ティファニアはもらい泣きして泣き出してしまった。
診療院の最初の夜は、そんな感じだった。


そんな皆に、言いたくても、まだ言っていない言葉がある。


ただ、一言。
心からの、感謝の言葉を。




ありがとう、と。









「ありがとう」



気持ちが言葉になり、言葉が音となって、聴覚を刺激した。
それをきっかけに、視界が徐々に光を取り戻す。
ぼやけた視界で見上げた天井は、よくある話だが知らないそれだった。
ずいぶんと天井が高いところを見ると、かなり豪勢なお屋敷なのだろう。

どこだろう、ここは?

呟こうとして、喉がカラカラなことに気が付いた。
思わず咳こんだ時、すぐ近くで何かが落ちる音がした。
強張った筋肉を動かして振り向くと、そこに切り花を取り落として震えるマチルダが立っていた。

「ヴィクトリア?」

「・・・マチルダ?」

数瞬の沈黙ののち、マチルダはすぐに慌てて手近にあった呼び鈴の紐を引いた。
次に私の脇に駆け寄って、私の顔を両手ではさみこんで怒鳴った。

「この馬鹿! どれだけ心配したと・・・」

吐き出そうとした感情が大きすぎたように絶句し、そして、マチルダはそのまま泣き出してしまった。
感情に任せ、ただ、子供のように。

吠えるように泣くマチルダを見ながら、私は思う。
生きていてよかった、と。
私は、とても幸せな奴だ、と。
今ここに、私のために泣いてくれる人がいる。
人とタバコの本当の価値は、灰になるまで判らない。
二度目の人生という泥沼の中で、懸命に這いずるできそこないの転生者にも、泣いてくれる人がいるのだ。
この世界で、それ以上に嬉しいことがあるだろうか。

神になぞ感謝はすまい。
ただ、皆に合わせてくれた運命にこそ、感謝をしよう。

知らぬ間に、私の目からも涙がこぼれた。



屋敷の家人が駆けつけてくるまで、私たちは二人で泣いていた。




[21689] その21
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/20 00:35
馬車に揺られながら、私は窓の外を緩やかに流れて行く深い森を見ていた。
思い切って借りたブルームタイプの贅沢な馬車は軸受のクッション性能が高く、中でワインが飲めそうなほどの乗り心地だった。
きっと、バネに良い鋼を使っているのだろう。
向かいではティファニアとヴィクトリアが、景色を見ながらきゃいきゃいと騒いでいる。
そのはしゃぎ方はまるで子供のようで、とても働いて立派に身を立てている者には見えない。
考えてみれば、アルビオンから流れてきてからこの二人は驚くほど変わっていない。
ティファニアは外見こそ大人びてきたが、中身はほとんど変わっておらず、ヴィクトリアに至っては時を止めたかのように見た目も中身も出会った時からそのままだ。
何だか、私一人だけが歳を取っているような腹立たしい気持ちが湧いてくる。



冬の到来の前、私たちは一つの試練を迎えた。
ヴィクトリアが背負った、血の呪い。
彼女の生まれのしがらみが、遠くトリスタニアにまで追いかけてきた。

ヴァリエール公爵家に保護された私たちが祈るように待ち続ける中、明け方近くに公爵夫人のマンティコアが帰還した。
焦燥の表情を浮かべたディルムッドが抱える小さな姿に、一瞬何が起こったか理解できなかった。
感情が、物事の理解を拒んだためだと思う。
糸が切れた人形のように力を失った、全身が血塗れのヴィクトリアが使い魔の腕の中にいた。
あの時のティファニアの悲鳴は、まだ耳に残っている。
取り乱し、縋りつこうとするティファニアを私が冷静に抑えることができたのは、先に彼女がパニックに陥ってくれたからだ。
そうでなければ、私がおかしくなっていただろう。

公爵夫人はさすがに冷静で、凛とした声で次々に指示を飛ばしていた。
控えていた多くの水メイジたちがすぐにディルムッドに駆け寄り、ヴィクトリアを受け取って応急の治癒魔法をかけながら屋敷の一室に運び込んだ。
処置室であるその部屋の入口の前で、私たちは待った。
ディルムッドが、まるで幽鬼のような表情で瞬きもせずにドアを凝視していた。
忠義に篤い彼の心中は、察するに余りある。凄まじい自責の念が彼の中に吹き荒れているのだろう。
ティファニアは手を組み合わせ、固く目を閉じて一心に何かに祈っていた。
何かに祈りたいのは、私も一緒だった。

やたらに長く感じる時の流れを積み重ねた気がしたが、実際にはさほど時間は経っていなかったのかも知れない。
曙光が強さを増す頃、ドアが開いて、大きな侍医長が出てきた。
暗いその表情を見て、私は神と始祖に問うた。
これは何かの間違いなのではないかと。
沈痛な面持ちで事実を告げる彼の言葉が、耳を素通りして行く。
私の体の中と外で、事実と願望、現実と懇願が錯綜し、膝が崩れそうになった。
あの小生意気で、だらしなくて、ババ臭くて、でも、情に厚くて、優しい娘が、いなくなってしまう。
そんな考えたくもない未来予想が、私を打ちのめす。
大切なものが手のひらから零れ落ちるとき、運命のタクトはいつだって突然で無遠慮だということは知っているはずだったのに。

そんな、心が砂糖菓子のように砕けそうな私を助けてくれたのは、神でも始祖でもなく、私のもう一人の妹だった。
一緒に話を聞いていたテファは、話の途中で侍医長の脇を猫のようにすり抜け、ドアの中に駆けこんだ。
追いかけて室内に入ると、寝台の上に、シーツに包まれたヴィクトリアが眠っていた。
周囲の治療師たちが、既に片付けに入っている姿に理由もなく腹が立った。
ヴィクトリアの隣に立つテファの表情に絶望はない。今、私を支えているのはその彼女の表情だけだった。
テファはヴィクトリアの上に手をかざすと、意識を集中し始めた。
ルーンを唱える訳でもなく、ただ意識を指輪に集中すると、程なく彼女がつけていた指輪が輝き始めた。
彼女の母の形見の指輪だ。前に一度聞いたことがある、水の力が込められた宝玉が嵌った指輪。
テファの集中に呼応するように、その青い石が輝きながら溶け始め、光る滴になってヴィクトリアに零れ落ちた。
それは、美しいティファニアの姿と重なり、崇高な神事のような光景だった。
石が溶け消えるころ、土気色をしたヴィクトリアのその頬に、微かな赤みが差した。

固唾をのんで見守っていた侍医長が、ヴィクトリアの脈を取り、驚愕の声を上げて部下たちに太い声で指示を飛ばす。
ティファニアがもたらした奇跡の名残は押し寄せる侍医たちの活動に押し流され、私たちは再び部屋の外で待機となった。
その時間は、絶望に塗りつぶされそうだった先ほどまでと違う、希望を信じることができる時間だ。
ヴィクトリアの帰りを待つ、少しだけ心が軽くなった時間だった。



奇跡は起こったものの、それから数日、ヴィクトリアは生死の境をさまよった。
急所に傷を受けており、多量の失血が彼女の生命力を奪っていたらしい。
ヴァリエール公爵家の侍医団がいなければ、恐らく助からなかっただろうと思う。

ヴィクトリアの病室は屋敷の離れの一角に設けられ、ありがたいことに私たちはそこへの出入りを許された。
私たちは交代で日参したが、その合間を縫って日々の生活を回すのは思ったより大変だった。
特に、診療院はヴィクトリアがいなければパフォーマンスの低下は目を覆うばかりだ。
長く助手を務めてきただけに、軽い症状の患者に対してはテファでも処方する薬が判ったが、そのストックも程なく尽きた。
もちろん、秘薬はヴィクトリアじゃないと作れない。
長期休診もやむを得ないかと思っていたそんな時に、救いの手が差し伸べられた。

「お邪魔するよ」

頭をつき合わせて今後について悩んでいる私たちが玄関に出向いて見ると、そこに大きな箱を抱えたピエモンがいた。
ポーカーフェイスの老人は私たちの様子を確認するように見ると、運んできた大きな箱をドスンを下ろした。

「さしでがましいとは思うが・・・」

彼が持ってきたのは、大量の水の秘薬だった。
用途のバリエーションこそ限られるが、よほどの患者じゃない限りは充分に対応できる品々だった。

「院長不在では秘薬の調達もままなるまいと思ってね。値段は君たちの売値でかまわん。使ってくれ」

見ていたようなタイミングの援軍に、私たちは驚いて目を丸くした。

「助かるけど・・・でも、本当にいいのかい? こんな高価なものを・・・」

ヴィクトリアが作るものと違い、素材からして一流の物を使う彼のところの秘薬は本格的なものだ。
まともに買えば平民の年収くらいは軽く飛ぶような物を素直に受け取っていいものかどうか、私は逡巡した。
しかし、ピエモンは当然のように答えてくれた。

「トリスタニア町内会は互助組織だ。困っている御近所を放っておく訳にはいかんよ。それに、君のところの院長だって、私が困った時は飛んできてくれるだろうからね」



年の差を忘れてクラッと来そうなくらい男前のピエモンの助けもあって、とりあえず、私たちのヴィクトリア抜きの日常は何とか軌道に乗せることができた。
私はお得意さんたちに事情を説明して回り、しばらくの間工房の営業を縮小して、できる範囲でヴィクトリアに付き添うことにした。
工房のお客は待ってくれるが、診療院の患者は待たせるわけにはいかないので、ティファニアは診療院の切り盛りに従事してもらう。

寝ぼすけなヴィクトリアが目を覚ますまで、3週間かかった。
元から薄い肉が削げ落ちてしまって痩せこけてしまった姿は見ていて痛々しいが、それでも命があったことは何物にも代えがたい。
覚醒の連絡をすると、ティファニアは取るものを放り出して駆けつけてきた。
侍医団が診療を終え、入室を許されるやヴィクトリアの首に抱きついてまるで駄々っ子のように大泣きした。
それが落ち着いたところで、ディルムッドが入って来た。
その姿に、さすがにヴィクトリアは言葉を失った。
やつれ果て、憔悴しきった使い魔は、どこか幽鬼のようだった。
その忠臣は伏し目がちに主に寄るや、手にした青い水晶の杖を差し出す。
ヴィクトリアが眠っている間に、彼が現場に出向いて探してきた彼女の杖だ。
しかし、彼の表情は重い。
その表情そのままの言葉を口が紡ぐ。

「この度は、使い魔にあるまじき不始末・・・もはや、お詫びする言葉も見つからず・・・」

等と言いだし、いきなり平身低頭した。
ついには『この責につきましては一死を持って贖いたく、自裁の許可を』とか言い始めたので、ヴィクトリアはなけなしの体力を振り絞って使い魔を叱りつける羽目になった。
私の知りうる情報でも、彼は彼なりに精一杯やったものと思う。責任の所在云々については、誰にあるものでもないだろうに。
すったもんだのやり取りの挙句、ついには『ひどいじゃないか。お前、こんな私を捨てるのか』『いいえ、そのような』と男女の修羅場のような展開になってようやく男泣きするディルムッドを宥めることができた。



ヴィクトリア回復の報を聞いたのか、翌日に公爵夫妻がやってきた。
私たちも居合わせた午後に、二人きりで部屋に現れたのだが、部屋に入るなり公爵が杖を振るい、サイレントの魔法をかけた。
どうやら『そういう話』になるらしいと思い、私もティファニアも姿勢を正した。

「災難でしたな、殿下」

公爵の言葉に、ヴィクトリアが低頭する。

「この度はとんだご迷惑をおかけいたしまして申し訳ありません。名高き『烈風』殿直々に御助勢をいただいたばかりか、家人ともども命まで助けていただきました。この御恩、生涯忘れるものではありませぬ」

この屋敷に逃げ込み、勢いに任せて助けを求めたのは私とティファニアだが、ヴィクトリアは我が事として首を垂れた。その所作はまさに大公家の姫君そのもので、日頃街で下世話な話にも平気で割り込む彼女からは想像がつかない気品があった。

「何、お気になされますな。娘のために働いていただいている大恩の幾ばくかをお返ししたまで」

「ご厚情、痛み入ります」

そんな謝辞のやり取りののち、公爵は核心に切り込んできた。

「それで、殿下は今後はいかがなさるおつもりでしょう?」

「はい」

ヴィクトリアは、少しずつ言葉を選びながら話し始めた。
アルビオンの政変について、王族の係累として干渉する意思がないこと。
トリステインの王家や貴族に対しても迷惑をかけるつもりはないこと。
ヴァリエール公爵家に対しても、これまでと同様の距離感で接したいこと。
そして、できればこのまま静かにトリスタニアで暮らしたいこと。

ヴィクトリアの言葉を、公爵夫妻はただ静かに聞いていた。
次いで私たちに向けられた視線に、私もティファニアも、ヴィクトリアと同意見である旨を述べ、首を垂れた。
私はサウスゴータ太守の娘として。
ティファニアもまた大公の娘として。
もはや貴族に未練のかけらもない私たちが望むのは、平穏だけなのだから。

やや間を置き、公爵は告げた。

公爵家としては、私たちの意思を尊重し、これまでと対応を変える意思はないとのこと。
しかし、政変が起こっているアルビオンの状況によっては看過できない事態がトリステインで起こる可能性は否定できないため、もし何かがあった場合は大人しくトリステイン王家の管理下に入ること。その場合は後見人として公爵家が立つこと。
そして、カトレア嬢のために尽力しているヴィクトリアに対する、それが精一杯の感謝の代わりと結んだ。

それは、私たちの生活がアルビオンとトリステインの関係がこじれない限りは安泰となり、万が一の場合も公爵家が後ろ盾になってくれるという夢のような申し出だった。
公爵に政治的な思惑があったとしても、この場においては破格の条件だ。
ヴィクトリアは私たちを代表して深い感謝の意を述べ、公爵と握手を交わした。




ヴィクトリアの治療は、思ったより長引いた。
体に刺さった魔法の矢は全部で四本。
奇跡的に持ち直したのはいいのだが、ダメージはやはり洒落にならなかったらしい。
問題なのが骨盤に食らった一本が神経を傷つけ、下半身に麻痺が出ているのだそうだ。
ヴィクトリア自身も言っていたが、神経の修復には時間がかかるのだそうで、リハビリと合わせて治療プランを組み立てていかなければならないらしい。
トップレベルの治療師たちの治療を受けられたからこそこの程度で済んでいるのだそうだが、結局麻痺が取れるようになるまで一冬を要した。
その間、面倒を見てくれた公爵家には頭が下がるばかりだが、満足に動けず床についたままだったヴィクトリアは、公爵領から王都に住まいを移しているカトレア嬢にとっては格好の遊び相手になっていた。
新方針の治療プランが始まったためか、最近は床に臥すことも減ってきた彼女はエネルギーを持て余しているらしい。
午前中に工房の仕事を片付けて午後に見舞うと、そのたびに髪を弄り回され、化粧まで施されたヴィクトリアを見ることができた。
何でも、朝食後に必ずカトレア嬢とのカードゲームに付き合わされるが、勝てたためしがないのだそうだ。
その賭けの代償として、毎度玩具にされており、カトレア嬢の命を受けた彼女の侍女たちも楽しそうにあれこれ試しているのだとか。
ヴィクトリアは素材がいいだけに着飾ると見栄えはするし、私としても、照れたように嫌がっているヴィクトリアを見るのは楽しかった。
ヴィクトリアのもとをよく訪ねてくるのはカトレア嬢だけでなく、侍医団の若手や侍医長もしばしば訪れてきており、医療技術のディスカッションを繰り返していた。
殊に、水の魔法や秘薬を使わない治療術についてはさすがのヴァリエール公爵家の侍医団の中にもヴィクトリアの右に出る者はないので、その点の講義を聞きに多くの治療師たちが訪れていた。

動けなかったヴィクトリアが介助を受けながらも立ち上がり、杖を突きながらも歩けるようになるころには季節はすっかり冬になっていた。
立ち上がれさえすれば、多少足が不自由でも生活に支障はないので帰宅を望むヴィクトリアだったが、カトレア嬢と侍医団が首を縦に振らなかった。
それでも、さすがに降誕祭の時だけは外泊の許可が出た。

屋敷街からチクトンネ街までは結構な距離があるが、ディルムッドに抱えられることなくヴィクトリアは慎重に杖を突きながら歩みを進める。
久々に感じる大地が、この上なく愛おしいような顔をしている彼女と一緒に、私たちはゆっくりと家路を辿った。

「おかえりなさい、先生」

診療院にたどり着くと、何故かジェシカが腕を組んで仁王立ちしていた。
その脇には『魅惑の妖精』亭の女の子たちが並んでいる。

「やあ、久しぶりだね。長く留守にしちまってすまなかったね」

ジェシカはそれには答えず、芝居がかった動作で指を鳴らした。
それを合図に女の子たちが声を上げて一斉にヴィクトリアに走り寄ると、あっという間に担ぎ上げてしまった。

「さあ、そのまま運んでちょうだい」

私やディルムッドが止める間もなく、ヴィクトリアの悲鳴を残して一団は走っていく。

「な、何事よ!?」

運び込まれた先は『魅惑の妖精』亭だったが、中に入るとそこに街の主だった面々が揃っていた。
ピエモンや武器屋や馴染みの商店主たち、私の仕事仲間の職人連中までが並んで私たちを待っていた。
ティファニアからヴィクトリアの一時帰宅の話を聞いたジェシカが企画したようで、要するに、降誕祭兼ヴィクトリアの快気祝いの酒盛りをやろうという趣旨だったようだ。
今回のヴィクトリアの長期離脱については周囲には事故による怪我として皆に説明していたが、これほどにその話が広まっているとは思い至らなかった。
店から溢れるような数の人々がヴィクトリアのもとを訪れ、口々にその身を案じ、無事を喜ぶ言葉を述べていく。
そんな話題を肴に宴が始まった。
侍医長から禁酒を言い渡されていたヴィクトリアはちょっとだけつまらなさそうだったが、事の次第を適当にごまかして説明するのは神経を使うので、もとから飲むつもりはなかったようだった。
夜半になって宴もたけなわな時間に、ヴィクトリアは店の裏手に呼び出された。
ディルムッドと一緒について行って見ると、何やらいかつい強面の連中がずらりと並んでヴィクトリアに対し、その快気を祝う挨拶をしている。
どいつもこいつも、絵に描いたようなあっち側の住人だった。
恐らくはマフィア。それも各組織の若頭や幹部、代貸クラスが揃っていた。。
応じるヴィクトリアも迫力では負けていなかったが、筋者から慇懃な挨拶をされるあたり、一度こいつのサイドビジネスについては問い質さねばならないと思った。

ホールに戻れば、客の数がさらに増している。
いつの間にか、トリスタニアという街で、ヴィクトリアの存在はこんなにも大きなものになっていたようだ。
同居人として誇らしくもあり、また、同じメイジとしてはいささか向上心を刺激される話でもあった。

皆で遅くまで飲み続け、最後にはヴィクトリア主導で新年最初の朝日を見るまで宴は続いた。






そんなことを思い出していると、御者台で手綱を取っていたディルムッドから声がかかった。

「間もなく見えてくると思います」

その言葉に、ヴィクトリアが歓声を上げながら馬車の扉を開け、魔法を使って屋根の上に飛び上がった。
次いで、レビテーションでティファニアを浮かせて隣に招いた。

「マチルダ、あんたもおいでな」

一瞬その通りにしようと思ったが、馬車の屋根に3人はさすがに厳しかろう。

「私は御者台にするよ」

「・・・また体重増えたのかい?」

「ヴィクトリア、あんた今日ワイン抜きね」

「えー」

益体もないことを言いながら、ヴィクトリアに倣ってレビテーションを唱えて御者台にいるディルムッドの隣に移る。


ややあって、曲がったカーブの向こう。


「うわ~!」

広がる光景に、ティファニアが歓喜の声を上げた。

ラグドリアン湖。
それは、自然の美しさを凝縮したような、宝石すら霞む景観だった。

これは恐らく、生涯忘れ得ぬ景色だろう。
そんな私の周りにはティファニアがいて、ディルムッドがいて、そしてヴィクトリアがいる。

この湖には精霊がいて、誓いを立てれば面倒を見てくれると言うが、そんなものは必要ない。
私は、私の意思を持って、今と言う時を大切にしていこうと思う。


いつか父に会いに行く日が来たら、きっとこう報告しよう。


私は、とても素敵な人たちに巡り会えたのだと。




春の日差しに輝く、ようやく辿りついた約束の湖を見ながら、私はそう思った。









【DISC1 END】



[21689] その22
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/30 23:52
トリスタニアの朝は、日の出とともに動き出す。
往来を行き交う行商や運搬の音を聞きながら、私は目を覚ました。

のそのそと芋虫のように起きだして、玄関の外にある牛乳受けから牛乳を取り出す。

牛乳が飲めることは、幸せなことだと思う。
飲み物としてはやや重めになるためか、飲むと腹具合が悪くなる人がいるが、幸い私の胃腸はそういう設計にはなっていないようで、毎朝しっかりといただくことができる。
牛乳は完全食品と言われることがあるがそれは誤りで、栄養価は確かに高いものの、実は鉄分やビタミンCが少ないのだそうだ。そもそも、牛乳というのは牛の子供を育てる目的に特化した液体なのだから、人にとって完全であることの方が無理があると言えよう。
また、決していいことばかりではなく、牛乳が乳がんや前立腺がんの原因にもなるという学説もある。牛乳=健康と盲信するのは危険ではあるが、そうは言っても多飲すれば反動があるのはどんなものでも同じなわけで、私のように身体の発育がアレな者にとってはすがりつくべき数少なう寄る辺なことは確かなのだ。
何しろ、我が家の私以外の女二人は揃って上背があるし、胸も立派だ。
殊に妹に至っては、立派という陳腐な言葉では追いつかないくらいの凶弾を装備している。それこそ牛と張り合えそうなくらいだ。
初めて会った時は、年齢の割に立派ながらもまだ可愛げがあったが、それが今ではどうだ。
線が細い体とのギャップも際立ち、まさに神の双峰と呼びたくなるほどの神々しさを放っているではないか。
もしかしたら私のところに来るべき分を、何らかの方法で夜な夜な吸い上げているのではないかと邪推したくなるほどの逸品だ。
当人にとってはコンプレックスになっているそうだが、何だか『お金がありすぎて管理に困っちゃう』とでも言われているようで全く同情する気にはなれない。
むしろそんなに邪魔なら片っぽちぎって私に寄越せと

「玄・関・先・で・牛・乳・飲・む・な・と・何・回・言・っ・た・ら・判・る・ん・だ・い」

思考の海に沈んでいたら、知らぬ間に背後に回ったマチルダが私のこめかみにウメボシぐりぐりを見舞ってきた、って痛い、それすごく痛いってば。




「ははは、それは災難だったな」

「笑い事じゃないよ。う~、ちくしょー、まだズキズキするよ、まったく・・・」

涙目で聴診器を着けながら、私は毒づいた。
目の前で椅子に座って笑っているのはアニエスだ。朝の悲劇を話したら大笑されてしまった。恐らく、マチルダからも日頃からいろいろ聞かされているのだろう。
今日は非番なのだそうで、定期診断に来てくれた。こういう生真面目な人は、それが必要だと認めてくれさえすればルーチンで来てくれるから診る方も安心できる。

「院長も、少しくらい体術を覚えてもいいのではないか?」

「ちょっとくらい体術知ってたってパワーが違うからねえ。相手は日頃から金槌振るってる工房の女主だよ?」

自由を愛する私としては私の自由意思を奪うような迫害には断固として立ち向かいたいところだが、いかんせん体格が大人と子供ほども違うこともあって腕力では全く勝てないので、ここしばらくはマチルダの圧政に対しては非暴力不服従というマハトマのような日々が続いている。

「ご希望とあらば、指南くらいはするぞ?」

それは嫌だ。こいつがアルビオンで才人にどういう特訓をしていたかは今でも覚えている。
『こちとら無粋な軍人だ、技も術もすっ飛ばす』とか言って実践オンリーのスパルタ教育してたよね、確か。
しかも最後には『教えたことはどれも役に立たない』とか言っていたはず。
誰が好き好んでそんな虎の穴に入門するものか。

「考えておくよ。それじゃ上だけ脱いでおくれ」

適当に受け流して聴診器を構えると、言われた通りにアニエスが上着を脱ぐ。
軍人らしく、女の癖に躊躇のない見事な脱ぎっぷりだが、取り去られた着衣の下から現れた体に私は思わず息を飲んだ。

うわー・・・。

こっちの都合で数か月空いてしまった検診だが、見慣れたはずの彼女の裸身は、前回見た時に比べてもさらにシャープに磨きあげられていた。
必要な部位に必要なだけ、針金をより合わせたような締まった筋肉がつき、その上にうっすらと脂肪が乗っている。インナーマッスルから丁寧に練り上げる鍛錬を積み重ねたためか、瞬発力と持久力を兼ね備えた、理想的な戦うためのボディになっている。運動をするうえでは邪魔でしかない乳房も程良い程度のサイズだ。
男性のように隆々としているわけではなく、かといって女性のように華奢でもない。
完璧だ。
しなやかな、猫科の獣のような肉体。
女豹と言う言葉がこれほど似合う体も珍しいだろう。

「これはまた・・・見事に鍛え上げたものだね」

聴診器を当てながら漏らした私の呟きに、アニエスが不敵な笑みを浮かべる。

「おかげさまでな。言われたメニューに従って鍛錬しているが・・・ふふ、やはり専門家の意見は聞くものだな。ここ最近で、体捌きのスピードが3割は速くなった気がするよ」

「そんなにかい?」

「ああ。同僚にミシェルという腕の立つ奴がいるんだが、最近ではそいつの剣が止まって見えるくらいだ。ふふふ」

「そ、それは良かった・・・」

何が楽しいのか、猛獣のような恐い笑みを浮かべるアニエスに、さすがに私も少し引いた。

「そんなわけで、そろそろ今のメニューでは物足りなくなって来てな。できれば今日はその辺の見直しも併せて相談したい」

「う、うん、わかったよ」

実は、受け答えしながらも私が密かに懊悩していたのは、アニエスのSっぽい笑いのためだけではない。
彼女に対し、理想的な形にビルドアップしていく手伝いをしたつもりはあったが、それは同時にかなり危険な要素をも醸成することになるのだと、この時初めて理解したからだ。
今、目の前で彼女が発しているものは、いわゆる中性美。
知らぬ間にアニエスの肉体は、アスリート系と言うか宝塚系と言うか、男性とは違った清潔な逞しさと、女性ならではの繊細さが同居した妖しいそれになっていた。
手入れをしていない割に肌理が細かく張りのある肌と、躍動感を感じるボディラインを持ったそれは、まるで清流に遊ぶ魚のように瑞々しくも艶めかしい。しかもその魅力は、男性よりもむしろ女性に対してより効果を発揮するもののように思う。
平たく言えば、それを見た少女たちの乙女回路に深刻なダメージを与える『お姉さま系』の魅力だ。
医師の目で見ていたはずの私ですら、思わず吸い込まれそうな妖しさを感じるくらいだった。
これはいけない。
こんな妖しげなフェロモンをまき散らすような危険人物を野に放つのは、雌雄一対を原則とする自然の摂理に対する挑戦に他ならない。
思い出してみれば、やがて組織されるであろう銃士隊は女性ばかりの組織だったはず。
さらに困ったことに、やがては王女の片腕として取り立てられるであろうアニエスである。アンリエッタの傍に置いておいて本当に大丈夫であろうか。幸いにもお姫様は懸想する相手がいたはずだが、何かのきっかけでアニエスの素肌を見た時に、アンリエッタが新たな世界の扉を開かない保証はどこにもない。
確かにトリステインの紋章は百合の花ではあるが、それを具現化してしまうようなことになったらそれこそ国家の破滅ではないか。
私は、とんでもないフランケンシュタインズモンスターを作り出してしまっているのかも知れない。

「うわ~・・・・・・かっこいいですね、アニエスさん」

嫌な汗を滲ませている私の脇で、手伝いに来たティファニアがため息交じりに呟いた。
その頬が微かに赤くなっているのを見て、私は慌ててアニエスに服を着るよう指示した。

アニエスの更なるビルドアップを奨励すると同時に、それに対する阻止の必要を感じると言う二律背反の思いを抱きながら、ややウェイトを上げた形の鍛錬メニューを書いてアニエスに渡し、午前中の診察時間は終了した。





午後になり、今日は往診が入らなかったので買い物籠を持って街に出た。
平日ではあるが多くの人が繰り出しており、市も立ってなかなかに活況だった。
トリステインは年々国力が下がっているとのことだが、確かに各国をリードするような産業もないだけに、国際競争力が上向かないのは自然な流れだと思う。
伝統に胡坐をかいて、ガリアやゲルマニアから農作物や工業製品を輸入する一方では落ち目になるのは仕方がないだろう。
そんな状況なのに王位は空位のままだし、貴族諸君は既得権益の確保とさらなる拡大に躍起となると、国家としてのトリステインが亡国の一歩手前と言うのも頷ける。マザリーニさんが悪口を言われながらも必死になって国を立て直そうとしているようだが、ここまで敵が多くては、まるで一人で滝の流れを逆流させようとしているようなものだろう。せめて私の従姉妹がシャンとしてくれればいいのだが、夢見るお姫様はまだモラトリアムな季節なのだろうか。その気になったら『大切なおともだち』相手に城が消し飛ぶような魔法をぶっ放すくらいの気概があるのだから、できればそれをプラスの方向に向けて欲しいと言うのが、御膝元の王都住人としての私の切なる願いではある。


人の波の間を泳ぎながら、私が向かった先は古びた書物屋だ。
本や巻物などを扱うトリスタニア屈指の老舗で、その取り扱う商品の幅には目を見張るものがある。
店構えは絵に描いたような二階建ての店で、何となく左に傾いで見える。蔵書の重さに建屋が耐えられないのだろう。今度ディーに営業に来させて、倒壊防止の錬金施工でも提案させてみよう・・・って、何でもありだな、土魔法って。

「ごめんよ」

薄暗い店内入ると、奥で店番をしていた痩せた老人が、手にしていた巻物から顔を上げた。本当に生きているのか怪しいくらい青い顔をしているが、数年前からこの調子なので、これがこの老人のデフォルトなのだろう。

「ああ、君か」

しわがれた声だったが、高い知性を感じさせる声でもあった。既に引退しているが、この御仁、数年前まで夜の町内会の役員を務めていた剛の者だ。数字に強く、情報収集とその活用について傑出した人物で、引退したと言ってもその頭脳と記憶力は老いてなお他の追随を許さない。日本に生まれれば、エリートのトップたる財務事務次官でも余裕で務めそうな人物だ。私ごときでは、彼の叡智の深みを計る事などもちろん無理だ。元アメリカ合衆国国務長官のコンドリーザ・ライスにも引けを取らないんじゃないかと思う。
この老人に会うたびに、こういう平民を徴用しないあたりがトリステインの没落の原因だと確信する。彼を財務卿に据えれば、国内財政は一気に右肩上がりに転換するだろうに。もったいないことこの上ない。

「その後は何か入ったかな?」

「ああ、君の眼鏡にかなうかわからないが・・・」

老人は立ち上がり、奥から数点の巻物を持ってくる。
どれも年季が入った感じのものだった。
書物のテーマは、どれも毒物。

「どれも禁書すれすれの書物ばかりだからね。持ち運びには気を付けるんだよ」

「ありがとう。気を付ける」

私は金を払って店を後にした。
3分以上読書を邪魔されると、彼は怒り出すからだ。



宿題と言うのは幾つになっても憂鬱なものだ。
学校の宿題でさえ十二分に憂鬱なのだが、私が抱える宿題はもっと性質が悪い。
以前に診療院を訪れた、小さなお客様が残していった相談事。
その答えについて、苦しまぎれに調べる努力を口にした瞬間に約束が成立してしまった。
問題は、その相談については、答えも、それに至る経路も知っているのにそれを示せないことだ。
故に、それ以外の経路で答えを探す努力を私は続けて来たのだが、これまでの結果は不首尾に終わっている。

カフェの端っこの席で紅茶を舐めつつ、人目を気にしながらこそこそと手に入れたばかりの巻物を見てみる。
幾つかの単語を拾いながら斜め読みしているが、やはりどれも空振りのようだ。
毒物と言う言葉は出てくるが、どちらかと言うと相手を毒殺するための毒についての書物らしい。
何を調べているかと言えば、もちろんエルフの毒についてだ。
タバサとの約束として、私なりに調べられる範囲で調べようと思ってやっている調査。
調べ始めてみて初めて知ったことだが、宗教上の敵ということもあってか、エルフに関する情報は実に少ない。
ましてや心神喪失薬ともなると、影も形も出てこない。あるいは、エルフ以外でそれを知った者は、いずれもそれを実体験する羽目になっているのかも知れない。
心神喪失薬というのは、それを使うかどうかをエルフの評議会が決めていたような気がするし、タバサに飲ませるために調合していたビダーシャル自身も地位も実力も高かったように記憶しているので、ネフテスの中でも機密レベルが高い可能性がある。そんな代物がおいそれと書き物になって出回るほうが不自然かも知れない。
チートな知識を持っている私でも判っていることは、それが水の精霊の力を使った魔法薬だということくらいだ。
ある程度の情報さえ手に入ればラグドリアン湖の水の精霊に相談することもできなくもないと考えているのだが、調合に先住魔法が必要なのだとしたら打つ手がなくなる。
それでも私が調べているのは、ビダーシャル自身が『あれほどの持続力を持った薬は、お前たちでは調合できぬ』と言っていたためで、裏を返せば持続力を度外視すれば調合できる可能性を完全に否定していなかったように読めたからだ。
毒が作れるのなら、解毒薬も作れぬ道理はないはず。
可能性としては1%もないだろうが、約束は約束なので、できるだけのことはしようと思うのだ。
ゆくゆくは無事に解放される不運の少女とその母ではあるが、もし力になれるなら運命の歯車を早回しすることくらいはしてあげたいと思うものの、現実の壁はいつだって高くて厚いものだと痛感する。


そんな思索に耽っていたら、太陽が傾きだした。
ティファニアに晩の買い物を頼まれていたのを思い出し、冷めた紅茶を飲み干して急いで市場に向かう。
メモを片手に生鮮食品を買って回ることしばし。
ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、カブに鶏肉・・・お、今夜はポトフだね。
結構な重量になったが、鍛錬のためにあえて魔法を使わず、買い物籠をよいしょと抱えて家路についた。

「おや、ヴィクトリア?」

ブルドンネ街を抜けたあたりで声をかけられて振り返ると、マチルダとディーがいた。

「お、もう帰りかい? 御両人」

「納品先から直帰だよ。あんたも帰り?」

「見ての通り、買い物をしてきたところだよ」

食材が詰まった籠を見せる。

「荷物は私が持ちましょう」

「すまないね」

ありがたい申し出に、ディルムッドに買い物籠を素直に渡した。やはり男手があると助かる。

「何というか、ヴィクトリアが籠持ってる姿見ていると、何だかお使いに来たえらい子みたいに見えるね」

マチルダがまた要らんことを言う。

「じゃあ、差し詰めマチルダは子供を連れたお母さんってとこかね」

「なにおう」

「まあまあ、お二人とも。早く帰りましょう。テファさんが待っているでしょうし」



そろそろ一番星が出そうな夕方、私たちはそんなことを言いながら家路を急いだ。




そんな、平和な一日。



[21689] その23
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/16 23:00
―売られていくよ―


一般的な乗合馬車の乗り心地と言うのは、お世辞にも良くないもの。
私の肉が薄いお尻では、30分も乗れば痛くてたまらなくなってしまうくらいだ。
マチルダのアドバイスに従ってクッションを持ってきて正解だった。日本の舗装道路のありがたみを思い出す道行だ。
朝一番の馬車を捕まえ、見上げれば清々しいほどの青空の下をゴトゴトと揺られていく。
何だか、荷馬車に揺られる昼下がりの子牛になった気分がしないでもない。
朗らかな朝が一転してお通夜のような雰囲気になり果てる呪いの歌をドナドナと口ずさみながら、私は事の発端となった先日の出来事を思い出していた。




穏やかな午後だった。
陽気が暖かくなってきたため、風邪ひきも減り、往診もない一日。

「うむ、だいぶ慣れてきたね」

「そう?」

手を動かしながら、ティファニアは嬉しそうに微笑む。
彼女が持っているのは鋏のような形をした器具。正式な名称は持針器という。
それを手に、チクチクと革の端切れを縫合針で縫う練習を繰り返している。

『私もできる範囲で治療の方法を覚えたい』

先日のトラブルの後で、ティファニアが言いだしたのがきっかけだった。
私がいない時、診療院の機能が麻痺したことに思うところがあったらしい。
ティファニアは魔法が使えない。
厳密には虚無の魔法である『忘却』は使えるが、当人はそれが虚無の魔法だとは気付いておらず、ただの不思議な力だと思っているようだ。幸いにも使う機会もアルビオンから逃れて以来なかったが。
そんな訳で、当然、水系統の魔法は使えないのだが、私の仕事を間近で見ていただけに魔法を使わない治療法の利点をよく理解していた。
私としては、正直、教えていいものか悩んだ。
医療というのは、これでなかなか難しい部分がある。
医術は人を救う技術ではあるが、その技術は同時に救える限界を理解することでもある。
医者は神ではない。神ではないからには、もちろん失敗だってするし、できないこともある。
内科の診断ともなれば、まさに闇の中の手探りゲームなので、絶対誤診するなという方が無理だ。
そんなことから、患者を殺した数だけ腕が上がるという人もいる。
そこを割り切って次に繋げられる精神的タフネスが求められるのが医師という仕事だと思う。
優しくも強いティファニアという子のことを考えると、深入りさせるべきかどうか悩ましい。
とりあえず、簡単な外傷の治療法くらいは大丈夫と思い、手っ取り早く縫合術を覚えてもらうことにした。

「できた! どう?」

出来栄えは60点といったところか。
丁寧ではあるが、まだまだ精進が必要なレベル。

「う~ん、『もう少し頑張りましょう』、ってところかね」

「え~」

眉を下げて泣きそうな顔をする。
ちょっとした意地悪をされた時のティファニアの顔は凶器だ。可愛すぎる。
む~、と唸りながら今一度端切れに向かう彼女の仕草に私は笑みを浮かべた。

その裏で、私は悩む。
ティファニアは虚無だ。それを私は知っている。
それをどのタイミングで伝えたらいいか、私は測りかねている。
四の四がこの世にある限り、現実は地の果てまでティファニアを追ってくるだろう。私とアルビオンの関係どころではない。何かあれば、敵はハルケギニア世界そのものだ。
聖戦が宣言されれば、ティファニアは嫌でも巻き込まれていくだろう。
最後の虚無の使い魔、リーヴスラシルこそが、ティファニアの使い魔なのだから。
ややぎこちなく動く、彼女の手元を見ながら思う。
その指に嵌った、台座だけの指輪。
本来はウエストウッドの森でなされたはずの奇跡は、私の浅慮のために時と場所を変えて具現化してしまった。もう取り返しはつかない。
場合によっては、そのために一人の罪のない少年が死ぬ。
間接的ではあるが、私が殺したと言えなくもないかも知れない。

一縷の望みは、私の数々の独断と偏見が、この世界の正史に罅を入れているかどうか。
パラレルワールドという考え方があるが、既にマチルダとティファニア達の未来を変えてしまったことが、どうこの世界に影響しているかを思う。
それは同時に、期待でもある。
もしかしたら、今、こうしているひと時が私が知る『ゼロの使い魔』ではない、まったく別個の時間流の中にあるのではないかと。
アルビオン王家は倒れず、タルブは平和で、アルビオン攻略戦もなく、当然才人も死なず、ガリアの青髭の火石もない並行世界があってもいいのではないかと。
そんな穏やかな未来に、今が繋がって欲しい。
私が密かに、そして切に願っている未来。
しかし、現実は厳しく、状況は不利だ。
ジョゼフはミョズニトニルンを召喚していたし、あの血判状が健在なのかアルビオンでは北部連合が貴族派として参戦しており、それ以来、王党軍は総崩れになって押し込まれている。正史のアルビオン内戦の経緯は知らないが、アンドバリの指輪の力は王党派の打った様々な手の上を行っているのだろうか。
私の思惑なぞ一顧だにせず、歴史の歯車は淡々と回り続けている。
ただ、静かに暮らしたい。
それだけのことが、とんでもない無理難題に思えてくる。
いつまでも皆で幸せに、などと贅沢は言わない。地獄に落ちるくらいには手を汚してきた私がどうにかなるのは仕方がないにしても、マチルダとティファニアには幸せであって欲しい。
咎なき彼女たちには、それくらいの未来が許されてもいいはずだろうに。

「姉さん?」

声をかけられて私は我に返った。

「ん、終わったかい?」

「うん・・・どうしたの? 泣きそうな顔してる」

不覚にも、考えていたことが表情に出てしまっていたようだ。
これはいけない。気を付けよう。

「ああ、弟子があまりにも不出来なので世を儚んでいたのさ」

「えー!」

「嘘だよ。今度の方がよくできてるね。バランスよく細かく縫えているよ」

端切れを受け取って私は笑った。

「もう、姉さん最近意地悪だよ」

「どれ、貸してごらんよ」

むくれるティファニアから持針器を受け取り、端切れに取り掛かる。
最近縫合はすっかり魔法任せだからちょっと腕が鈍ったのか、さすがに緊急外来をやっていたころのキレはない。リハビリしなくては。
それでも見ているティファニアは充分驚いている。

玄関の鈴が音を立てたのは、そんなことをやっていた時だった。


パタパタとテファが応対に出て、戻って来ると二人の女性を連れていた。
一人はジェシカだが、もう一人は初めて見る子だった。そして、私が知っている子でもあった。
いつかは会うと思っていたけど、今日だとは思わなかったよ。
黒髪にそばかす。草色のワンピースが似合っている。



「はじめまして。シエスタと言います」



初めて見る生シエスタは、愛嬌が溢れる愛らしい娘さんだった。
正直、パッと見ただけでは男性に関しては狙った獲物は逃がさないハンター属性の猛者には見えない。
とは言え、なかなかに元気はつらつとしていて体つきも健康美に溢れており、もう少し歳がいけばさぞかしダイナマイトなレベルに発展するだろう優良物件だ。
誰ぞからこの子を縁談の仲人をするよう相談を受けたら、トリスタニア診療院責任推薦の一文をしたためようかという子だった。




診察室で茶を出しながら、ジェシカの説明を聞いた。
途中からシエスタも補足に入った話の内容は、簡単ではあるが、私としては予想外の物だった。

「健康診断? 魔法学院で?」

「そう。いつも私たちが受けているみたいなやつをやって欲しいんだって」

『魅惑の妖精』亭では、半年に一度、働いているスタッフの健康診断をやっている。代金はその夜の飲み代だ。
内科的な部分から外科的な部分まで、一通り診察して問題があったら治したり、職場環境まで改善を促す感じのものだが、ジェシカがそのことをシエスタに話したところ、魔法学院のスタッフにも実施できないかと言う話になったらしい。
確かに、貴族に仕える使用人と言うのはかなりの激務だ。肉体労働だけに痛める部位もありそうなものだ。
料理人については食事の習慣にしても気になる部分がある。
どんな仕事でも習慣的なものを言い出したらきりがないが、何はともあれこの世界では希薄だった前向きな健康へのアプローチを希望するのならば、それに協力することは望むところではある。
聞けば学院側には話が通っており、総代であるマルトーからも是非にとの言葉が出ているそうだ。
一日仕事になるだろうが、スケジュールを調整すれば何とかなるだろう。
私は乗り気になった。
トリステイン魔法学院か。初めて行くよ。
コルベール先生、しばらく会ってないけど元気かな。





学院に着き、衛兵に用向きを伝えると、連絡を受けたシエスタが足早に迎えに来た。

「わざわざありがとうございます」

「何の。一度来てみたかったからちょうどよかったよ」

そんなやり取りをしながら案内に従って敷地の中に入る。
いくつかの塔が並ぶように建ち、学び舎らしい厳かな雰囲気が漂っている。
さすがは伝統のある施設だけあって立派な建造物だった。
天守みたいな本塔と、櫓のような5つの塔からなる施設と聞いていたが、まさにその通りの威容だ。
堀や土塁があれば何だか学院というより平城のような佇まいだ。

案内に従って手入れの行き届いた歩道を歩くが、妙な違和感を感じてシエスタを見てみた。
先日の朗らかな雰囲気が、微かに陰っているように見える。

「何かあったのかい?」

「はい?」

「何だか元気なさそうだが?」

「い、いえ、何もないですよ」

慌てて手を振り、シエスタは先に立って歩いた。



案内されたところは厨房の隣のスタッフの共用スペースだった。
メイドさんとコックさんがずらりと並んで出迎えてくれたのだが、すごい人数だね。

「遠いところ、よく来てくれたな。マルトーだ」

並んだスタッフから無遠慮な品定めの視線を浴びる中、真ん中にいたでっかいおじさんが前に出て言った。
これが噂の必殺料理人か。
確かこの人はメイジが嫌いなはずなのだが、私に向けられる視線に棘はない。
少なくとも、こんな見た目が子供の女の子を相手に嫌悪感を露骨に顔に出すような器の小さい人ではなさそうだ。

「トリステインのヴィクトリアだよ。今日はよろしく頼むね」

負けじと胸を張って挨拶する私を、マルトー氏はどこかちょっと困ったような顔で眺めまわした。

「・・・こう言っちゃ悪いが、お前さん、本当に診療所の医者様だよな?」

「そうだよ?」

「気を悪くしねえでもらいてえんだが、何だか可愛らしすぎて、俺としちゃ娘のままごとに呼ばれたみたいな気分なんだが」

その言葉に、周囲が失笑を漏らす。
まあ、言っていることに含むところもないようだし、見た目で損をすることには慣れている。

「あはは、まあ、評価は仕事を見てからにしとくれな。見た目でやる仕事じゃないってとこは、医者も料理人も同じだろう?」

その言葉に、マルトーは大笑いした。

「こりゃ一本取られたな。いいだろう、今日はひとつ、噂の名医の腕前ってのを見せてもらおうかい」



腕前と言っても健康診断くらいでは腕を振るうほどでもないが、彼らにとっては初めての体験だ。

「はい、両手を出して口を開けて」

数人を診るうちに、周囲の気配が変わり始めた。
差し出された相手の両手を、私は腕を交差させて右と左でそれぞれ握手するように握る。
感じる水の流れ。血液、髄液、リンパ液。疾患や不具合は大体これで把握できる。
その情報をもとに、生活習慣について判る事から問診をすると、どこか怯えたような視線を私に向けるようになりはじめた。まるで生活を覗き見されているような気分になったのだろう。血は嘘をつかないものだ。

やってみたところ、料理人諸君はちょっと不健康な人が多い。結構血液ドロドロだよ。総コレステロール値や中性脂肪の数字が洒落にならないのが何人かいる。若い学生連中の食事を作って味見したり残り物を食べるのだろうが、成人が食べるにはカロリーが高すぎると思われる。ハルケギニアに喫煙の習慣がないのが救いだが、まずは有酸素運動の指導が要りそうだ。
メイドさんたちは案の定腰痛持ちが多い。女性の体格で力仕事はやはりいろいろあるようだ。次いで多いのが冷え性。定番だ。

これと併せて、この世界に来て以来、気になっている所がある。
オーラルケアだ。
歯磨きはしていても、口腔環境に関する意識が結構低い。虫歯は本格的に痛くならないと治そうとしないし、歯周病予防に関する意識も高くない。
特に、料理人は口内のPHが酸性に偏る機会が多いだろうから来る前から気にはなっていた。
そんな訳で、通常の検診と一緒に口内も確認するが、やはりメンテナンスが不十分な人がほとんどだ。
ハルケギニアにおいて、中世のように尿でうがいをして虫歯を予防するという習慣がないのは私としては助かっているが、虫歯は、それが原因で死ぬこともあると言うことはできれば広まってもらいたい。
虫歯と同様に問題なのが、世界で最も感染者が多い病気である歯周病だ。
これは現代人にも言えることだが、20歳を過ぎたら口内環境は虫歯菌より歯周病菌に対する警戒に重きを置かねばならない。実際、成人のほとんどが程度の差こそあれ歯周病を患っている。
歯周病の主要な原因は歯垢だ。歯垢は食べカスではなく細菌の塊で、排水溝のぬめりと同じ類の物と考えてよい。
その歯垢が唾液中のカルシウム等とくっついて歯石等になって歯に沈着し、それに反応して歯茎が腫れるのが歯周病の始まり。
歯垢は水に溶けないのでうがいでは取れないし、歯石やバイオフィルムになるとブラッシングでは除去できない。除去には専門家によるスケーリングが必要だ。
放置すると、異物を排除するべく自分の歯ごと切り捨てようとする生体防御反応が働くこと、また細菌が出す酸が歯槽骨を溶かしてしまうことにより、多くの人が歯を失うことになる。
初期症状としては、

・歯を磨いても口の中に甘酸っぱい感じが残る。
・歯茎が下がって来たと感じたり、痩せて来たと感じる。
・歯茎が鬱血していたり濁った色をしている。

こんなことを感じた事がある人は、歯周病が進んでいると見て良い。特に歯茎の下がり・痩せは、歯槽骨や歯根膜の破壊が始まった可能性が高い。宣伝文句で『リンゴをかじると血が出る』と言うのがあるが、そこまで行くと塩だの生薬だのの歯磨き粉でシャカシャカやってもほとんど意味はない。モゴモゴ系の洗浄剤も気休めだ。
症状が進み、歯茎から膿が出るいわゆる歯槽膿漏となるとやがて歯の動揺が始まり、抜歯するか外科的手法で歯槽骨を再生するしか対処法がなくなる。
まずはしっかり歯垢を除去することが肝心なのだが、悲しいかな、どんなに頑張っても歯垢と言うのは個人では完全に取りきる事はできないので、日常のケアのほか、20歳を過ぎたら半年に一度はエステ感覚で定期健診を受けてもらいたい。

そんなことを説明しながら、虫歯だの歯石だのの口内のトラブルを抱えた連中を片端からガリガリとやっていく。スケーラーと合わせ、ドリル代わりの魔法のウォータージェットでう蝕部分や歯石を削り飛ばす。充填剤はアトリエマチルダ謹製のアマルガムの代替品を使用する。これ一つで恐らく一生持つだろうと言う優れものだ。

そんなこんなでいろいろあって、一通り診察が終わるまで一日かかってしまった。

最後の受診者はシエスタだった。
手を取り、口の中を見る。
うむ、全く問題がない。実に健康だ。若いっていいね。
しかし、その表情が曇っているのがどうにも気になる。

「どうしたね、本当に元気のない。どこか気になるところでもあるのかい? 女同士だ、気兼ねはいらないよ?」

「い、いえ」

シエスタは口ごもり、少し間をおいて言葉を探すように口を開いた。

「実は・・・」

「ちょっと、あんたっ!!」

シエスタの言葉を遮るように、派手に響く金切り声に私は振り返った。
そこに、ピンクの物体が立っていた。
そうだった、こいつもここの生徒だったんだっけ。
半ば本気で忘れていたよ、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
何でこんなところをうろついているんだ?

「あんたかい・・・」

私は冷たい視線をルイズに向けた。
こいつがカトレアに宛てた手紙に書いたことを、私は忘れてはいない。その時に立てた誓いもまた、忘れえぬものだ。
こいつの前に私に胸周りのサイズを笑った奴は、街外れの墓場に眠っている。
相変わらず偉そうなルイズの表情に、『12回鞭で叩き、10回縛り首にして、8回地獄に落として、4回虫けらに生まれ変わったところを踏み潰してやりたい』とまでは思わないが、それ相応の制裁は私の精神衛生上必要な措置と判断する。
ちなみに、墓場で眠っている奴の死因は老衰だったが。

「あんたかじゃないわよ。何であんたがここにいるのよ?」

「お仕事だよ。平民はいろいろ大変なんでね」

ルイズは相変わらずジロジロと無遠慮に私を眺めまわし、次いで思いついたように顔を上げた。

「ちょうどよかったわ。ちょっとこっちに来なさい」

言うが早いが、私の白衣の袖口を掴んで引っ張る。

「ちょっと、何事だい!?」

シエスタを残して、私は半ば浚われるようにルイズに引きずられた。



引きずり込まれたのは学生寮だった。
そのうちの一つのドアの前に連れてこられたが、ここがどうやらルイズの自室らしい。
ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む姿に、少しだけ感傷的な気分になった。
普通、メイジはこういう場合は杖でアンロックをするだけで済む。
そうだったね、こいつ、魔法が使えないんだっけ。
本来は気高くも優しい娘であることを知っているだけに、ちょっとだけこいつが可哀そうになった。
もちろん口にはしない。
同情ほど、この娘が辛く感じる物はないだろうからだ。

「入りなさい」

案内されて入った部屋は、無人ではなかった。
見れば、ベッドに一人の少年が横たわっていた。
黒い髪の、異国の風貌を持った、そして懐かしい雰囲気の、青年になりかけの年頃の少年。
私の心臓が、鼓動を早める。
この少年の事を、私は知っていた。


平賀才人。


好奇心から異世界という名の奈落に堕ちた、ごく普通の日本の少年。
その才人が、全身傷だらけでベッドの上で眠っていた。


ブリミル歴6242年。フェオの月。


私の祈りなど、天には届かない。
すべての物語が動き出す引き金である、トリステイン魔法学院の『春の使い魔召喚』が終わっていたのだと、私は知った。




押し寄せてきた現実が、重い。



吐きそうだ。



[21689] その24
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/21 10:40
その些細な好奇心さえなければ、涙を流さなくても済んだ少年。
名誉や地位や友や、かけがえのない想い人を得ると同時に、親や故郷を失った時空の迷い人。
哀れとは思うまい。
彼が己の人生の最期に、それをどう思うかは私には判らないからだ。



突きつけられた現実が、辛い。
動乱期の到来を告げる春の使い魔召喚が終わっていた事実に、私は恐怖を覚えた。
現時点で確実になったことは、今の時間流が『平賀才人が存在する世界』だということだ。
それは、激動の時代の始まりを告げる号砲としか私には思えなかった。
未来は常に不確実なもので、どうなるかは判らない未知数のものだ。しかし、スケベで気のいいこの男が存在しながらなお、ハルケギニアにこれからも平穏な時が流れると思うほど私は楽天家ではない。
私が知っている彼の物語は、まず召喚があって、次がギーシュ戦、その次に来るのはデルフリンガーとの邂逅。そしてフーケ騒動があって舞踏会。
この辺までは、まだほのぼのとしているからいい。
ハルケギニア全体からすれば大河の一滴にすぎない些事だ。
ルイズや才人の行動が、歴史に影響を与え始めるのはアルビオンからか。私の従兄弟が髭によって殺されるアレだ。
その先は泥沼。
タルブ侵攻、アルビオンへの逆上陸、ガリア戦役。
いずれも、ルイズと才人の二人がいたからこそ最小限の犠牲で物事が推移したイベントだったと思う。
今の時間がその流れに入っているのだとしたら、政治力も人脈もない私には、それに抗う術はない。
正直、自分のことなどは大した問題ではない。その気になればどこででも生きていける自信はあるし、運が悪ければ死ぬだけの話だ。
問題なのはティファニアだ。
その大いなる潮流の中で、やはりティファニアは、虚無の担い手として歴史の表舞台に上がらなければならないのだろうか。
聖女として、政治の道具として、そして、聖戦の切り札として。
その中で、あの子がどれほど大変な思いをするかを考えると、私としては身を切られるより辛い。
どこかに隠棲しようにも、ハルケギニアにいてはロマリアの探索の目から隠れ通すのは無理だろう。
サハラに逃げても、エルフからも悪魔と言われ、面汚しと蔑まれるであろうティファニアに安息は見込めまい。
どうすればいいのか。
打つべき手が見えないまま明日に怯えるというのが、これほど辛いとは思わなかった。




才人の状態は、見た目はひどいものの、幸い死ぬほどのものではなかった。
聞けば、案の定ギーシュのゴーレムにボコられたものらしい。前世でさんざん見てきた交通事故の患者に比べればマシだが、それでも青銅のゴーレムにどつかれまくっては、鈍器で滅多打ちにされたようなものだ。生身の人間ではたまったものではないだろう。
右腕と肋骨に左眼窩底の骨折。内臓も一部痛めていた。それでも、受けたダメージのことごとくが致命傷に至っていないあたりは主人公補正なのか、それともギーシュが手心を加えたのか。頭を打ったという描写があったような記憶があるが、脳も問題ないようだ。
取り急ぎ、骨折は魔法と秘薬を用い、打撲の部分には膏薬を貼る。
それにしても、ここまで痛めつけられても意地だけで立ちあがったあたりは、こいつもオリンピック級の意地っ張りだと思う。
笑う奴もいるかも知れないが、こういう馬鹿は私は嫌いじゃない。
治療しながらルイズに経緯を聞いたところ、決闘騒動は昨日だったそうだが、水メイジの教員が長期不在で手配がつかず、途方に暮れたルイズがとりあえず氷で冷やしていたらしい。厨房をうろついていたのも氷をもらうためだったのだろう。原作でも確か寝ずに看病していたとか言ってたっけ。人当りで損をしているものの、根は優しい子だ。
治癒魔法くらい同窓の水メイジに頼めばいいのに、とも思ったが、この時期のルイズが置かれていた学内の立場を思い出した。プライドでご飯を食べているような貴族に生まれたのに、その寄る辺たる魔法がダメとくれば、それを守るために攻撃的になるのもある程度は仕方がないだろう。
そんな彼女が起死回生の期待を胸に臨んだ春の使い魔召喚で、出てきたのが無礼でショボい平民では、ルイズでなくてもやさぐれたくなろうというものだ。
何だかんだ言っても、まだ16歳の子供だ。そこまでの度量を求めるのは酷だろう。


「これでもう大丈夫だよ」

包帯を巻き終わり、私は一息ついた。ちょっとしたミイラ男のでき上がりだ。

「御苦労さま」

・・・こいつも、これさえなければなあ。
ピンクよ、そこは『御苦労さま』じゃなくて『ありがとう』だろう。
私の中で、才人の看病していたことにより上がったルイズ株が暴落しかけた。
この決闘騒ぎから、才人を初めて名前で呼ぶ等の『つんつんルイズの解凍作業』が始まっていたはずだが、人は簡単には変われないようだ。まったく、親の顔が見てみたいわ、とはさすがに言えない。あのお二人には足を向けて寝られないくらいの恩があるし。
まあ、子供のやんちゃに目くじらを立てるのも大人げない。こめかみに井桁模様を浮かべながらも、ここは年上の度量を見せるとしよう、と思った時だった。
私は、とても大事なことに気が付いた。
この治療は、後に繋がる大切なイベントだったことを思い出したのだ。
そうかそうか、そうだったね。危ない危ない。
私としたことが、危うくフラグを折ってしまうところだった。
私はイベント消化に取り掛かった。

「ところでお嬢ちゃん、お代はいただけるんだろうね?」

「もちろんよ。幾ら?」

「ちょっと高いけど、大丈夫かい?」

「公爵家の娘に向かって失礼な物言いね、平民のくせに。言ってみなさいよ」

私が金額を提示するなり、ルイズの顔色が変わった。
いつもニコニコ現金払い。お金は、あるところからいただきます。

「あ、あんた、舐めてるの? ねえ、貴族舐めてるの?」

「知ってると思うが、水の秘薬は高いんだよ。それに、大事な使い魔の治療をしたんだ、当然の対価だと思うがね。それとも、ヴァリエールの三女の甲斐性はそんなものなのかい?」

「ぐ・・・」

いやはや、美少女が葛藤する様子を見るのは実に楽しい。
プライドと現実が両端に乗った彼女の中の天秤が、ミシミシと軋む音が聞こえてくるようだ。
程なく天秤がプライドに傾いたのか、ルイズは渋々と机から金貨の詰まった袋を取り出した。

「今後は腫れが引き切るまで氷は定期的に代えておくれ。膏薬は一日1回貼り替えればいいからね」

ずっしりとした革袋を受け取り、涙目のルイズの部屋を辞した。


そのまま厨房に戻り、シエスタに事の次第を告げると、ようやく先日見たような元気な笑顔を見せてくれた。やはり相当才人の事を気にしていたらしい。
厨房のおじさんたちも、診察した時以上の朗らかな笑顔を浮かべている。
既に『我らの剣』は、学院の平民の心を掴んでいるようだ。
夕飯を勧められたが、乗合馬車の時間もあるので丁重に辞退して私は帰路についた。
もうちょっとゆっくりしてコルベール先生にも会いたかったが仕方がない。
また今度飲みに誘おう。

帰りの馬車で、懐に感じる大金に思いを馳せる。
ルイズには意地悪のように思われたかもしれないが、これは才人とルイズのために必要な措置であって、決して意地悪のためにやったのではない。
理由はもちろん、デルフリンガーフラグのためだ。
見栄っ張りなルイズの事だ。この金が手元にあったまま武器屋に行ったら、躊躇わずにシュペー卿作と嘯く駄剣街道一直線だったことだろう。
そんなものを買った日には、アルビオンあたりで髭にローストされて一巻の終わりだ。
ここでルイズの有り金ををまきあげておけば、間違ってもガラクタを買うことはないはず。
誰かがやらねばならない憎まれ役をやるのが、たまたま私だったということにすぎない。
重ねて言っておくが、意地悪のためにやったのではない。
ましてや胸のサイズを笑ってくれたことに対する復讐でもない。
・・・・・・本当だってば。

夕暮れに染まる街道をポクポクと運ばれながら、平和そうな顔で寝ていた才人を思う。
明日には目覚めて、そしてルイズにベッドから蹴り出されるんだっけ。
すまないね、少年。
今、私ができるのはここまでだよ。








次の虚無の曜日、私はずしりと重い革袋を懐に感じながらブルドンネ街に繰り出した。
今日はルイズから巻きあげた潤沢な資金を元に、上物の秘薬の購入を考えていたが、まずは野暮用から片付けてしまおう。
目指すのはマチルダの工房。
縫合術の練習にだんだん熱が入って来たティファニアのために、思い立って彼女専用の持針器をオーダーしようと思うのだ。
工房も虚無の曜日くらい休めばいいのにと思うが、客商売は虚無の曜日こそが商機と言って、いつの間にかマチルダが気が向いた時に休む不定休のショップになり果てている。

カウベルを鳴らしてドアを開けると、受付にディーがいた。

「これは主、どうされました?」

受付にいる姿は見慣れているはずなのだが、いつ見ても見栄えするなあ、こいつ。
これが本当にサーヴァントだったら、女性がドアをくぐった瞬間に恋の奴隷一丁上がりなのだろうが、受肉したこの世界の彼には幸か不幸かそこまでの力はない。それに加えてマチルダが固定化加工した常時装備の絆創膏と言う黒子の封印もあるからこそ、ディーはこの街で普通に暮らしていられる。普通、ではないか。複数のファンクラブがあるとかジェシカが言ってたし。
一度でいいから『その結構な面構えで、よもや私の財布の紐が緩むものと期待してはいないだろうな? 店員』とかのたまう猛者に会ってみたいものだ。アニエスあたりが言えば似合いそうなのだが、マチルダと同様にディーとも普通に仲がいいから無理かな。

「ちょっと作って欲しいものがあってね。今日は私も客だよ。マチルダは奥かい?」


工房は大きく分けて、商品が並ぶ売り場、作業場、キッチン、物置からなっており、それぞれが壁やパーテーションで区切られている。
私はディーがいる売り場のカウンターを抜けて作業場に入った。

「ごめんよ」

「ん? ヴィクトリアかい?」

奥の作業場に行くと、作業台に向かってトンカンやっていたマチルダがちらりとだけ振り返った。
ポニーテールに作業用のエプロン姿のマチルダ。作業中、眼鏡の奥の視線は真剣そのもので、全身からプロフェッショナルのオーラが漂っている。
何だかもう、すっかりマイスターだね、この子。あれだけの錬金の技を盗人なんぞに使うのは惜しいと思って勧めた工房だったが、まさかここまではまるとは思わなかったよ。

「ちょっとお願いがあって来たんだよ」

「はいよ~。これがもうじき終わるから、ちょっと待っていてよ」

「こっちは急がないから、気にしないで続けておくれ」

工房を見回せば、開業したころからは想像もつかないくらい道具類が増えている。素人の私には何に使うのか判らないガラクタばかりのように見えるが、それぞれにきちんと役割があるのだろう。大釜や坩堝炉あたりまでは判るが、部屋の端っこで自律制御でしゃかしゃかと部屋を掃除している箒は見なかったことにしたい。あれ、ゴーレムじゃないよね。どうやって作ったのか知らないけど、さすがに疑似生命体はまずいよ、マチルダ。教会が来るよ、教会が。
事の是非はともかく、必要なものがあれば自分で機材をガンガン作ってしまう彼女のバイタリティはすごい。
私のような水魔法以外は下手っぴな融通が利かないメイジと違い、マチルダは土魔法の適性が滅茶苦茶高いくせに、他の系統もかなりのレベルで器用に使いこなす。その実力と几帳面な性格も相まって、評判は今なお上昇カーブを描くばかりだ。誰かに弟子入りした訳でもないのにこの腕なのだから、やはり天賦の才があるのだろう。ゆくゆくはかなり名を成す職人になるのではないかと思う。
そうなったら、僭越ながら私が彼女の生きざまを後世に伝えるべく筆を取るとしよう。
タイトルはもちろん、『マチルダのアトリエ ~トリスタニアの錬金術師~』だ。

工房内をあれこれ考えながら眺めていたら、どこから見ても『ファラリスの雄牛』にしか見えないオブジェの脇に、ずらりと並んだ剣があるのに気が付いた。

「最近は武器にも力を入れているのかい?」

「う~ん、武器屋の方で在庫がだぶつき気味らしいから何本か引き取って来たんだよ~。こっちとあっちで来週から共同キャンペーンを張ろうかって言う話になっているのさ~」

作業しながらマチルダが答える。

「食い合い潰し合いより共存共栄かい?」

「そんなところだよ~」

うまくやっているものだ。私は並んだ剣を見ながら感心した。
既に何本かの剣にはマチルダの研ぎや加工が入っており、武器そのものの獰猛さを誇示している。
私としては、煌びやかに飾られた物より、シンプルに必要なパーツだけで構成されたものが好みだ。至高の美とは機能美のことだとすら思っている。
殊に武器は命を預けるものなのだから、機能美に勝るものはないと思う。船にしても、貴婦人と言われる豪華客船よりも軍艦の方が美しいと感じるくらいだ。
私があまり装飾品を好まない理由の一つでもある。
そんな剣の中に、ひときわ見栄えがする一本の剣が剣架けにかかって置いてあった。
片刃の打刀。重厚な風格が、他を圧倒するような美を放っている。
それを認識した私の全身の血の気が、滝のように引いた。

「ちょ、ちょっと!」

声を出した私に、剣が気付いた。

「よう、診療所の娘っ子じゃねえか」

お前、ここで何をしている!?
綺麗に研ぎあげられ、拵えも新たに作り直されて、神々しいばかりに輝くデルフリンガーが、剣架けの上に鎮座ましましていた。

「マ、マチルダ・・・こ、これは?」

「ああ、それかい?」

衝撃のあまり口の中が乾いてしまった私の様子に気づかないのか、楽しそうな声でマチルダが笑う。

「いいだろう? ここ最近じゃ最高の自信作さ。もらってきたガラクタの中にも何本か素地がいいのがあってね。その中でもピカイチだったのがそいつだよ。研ぎ直したら結構な代物でさ。柄も作り直したからバランスも取れたし、しかもインテリジェンスソードだから結構な値が付くよ。今回のキャンペーンの目玉だね」

「も・・・」

「も?」

「戻しておいで~っ!!」

「な、何よ?」

これはまずい。
やばいなんてもんじゃない。
決闘騒動の次の虚無の曜日は、才人とデルフの邂逅イベントだというのに。
私の仕込みが全部パーだ。
錯乱する私を、何だか不安げな目で見るマチルダ。
人の気も知らないで、よりにもよってキーアイテムをこんな逸品に仕立てあげてしまうとは。
このままじゃガンダールヴ終了のお知らせだよ。
どうしよう、今から武器屋に届けるか。ダメだ、こんな綺麗な外見じゃ武器屋も安売りしないだろう。
日を改めて送りつけるか。それもダメだ。ルイズが受け取るはずもないし、その時には既に才人も剣をあてがわれているはず。
困った。本当に、困った。
打つ手が思いつかない。
頭を掻き毟って懊悩する私を見るマチルダの、いろんな意味で心配そうな目が妙に痛い。

しかし、救いの手は思わぬところから伸びてきた。
神の御業か悪魔の所業か、うろたえる私を余所に、運命が工房のドアを開けたのはそんな時だった。

「ここだわ」

「ここで剣売ってるのか?」

私が混乱して動物園の熊のようにウロウロと常同運動を続けていた時、売り場の方からどこかで聞いた声が聞こえた。
ややトーンの高い、甘い声質。
まさかと思い、私は慌ててカウンターを覗きに走った。
首を出してみると、そこに見知ったピンクがパーカーを着た少年を連れてカウンターのところに立っていた。
何でこんなところに?
都合がよすぎる展開に私は首を傾げた。

「剣の他にもいろいろね。品物がいいから、最近貴族の間じゃ有名な新進気鋭のお店な、はうっ・・・」

「いらっしゃいませ」

店に入るなり、ルイズは応対に出たディーの魔貌の直撃を食らってフリーズした。精神の再構築まで数秒はかかるだろう。

「け、け、け、剣を探しに来たんだけど・・・って、何であんたがここにいるのよ?」

私に気付くなり、いつもの調子を取り戻すピンク。
私はお前の精神安定剤か。

「身内の店なんだよ。気にしないでおくれ。それより、剣を買いに来たんだって? 」

「そうよ」

「ここに武器を買いに来る客とは珍しいね。武器屋には行ったのかい?」

「武器屋って、裏町のあの店の事?」

「そう」

「だって、あっちって汚いんだもん。この工房でも武器は扱ってるんでしょ?」

なるほど、そういう基準の店選びか。確かにあっちとこっちじゃ街の雰囲気に歌舞伎町と銀座くらいの差がある。やんごとなきお嬢様ならこっちを選ぶか。
トリステインに広まりつつあるマチルダの名声に、ここは素直に感謝しよう。

「そういうことなら大歓迎だよ。身内ついでに言っておくと、この工房の品質は保証するよ」

「ふ~ん・・・まあ、いいわ。それより、あなた。こいつが使う剣が欲しいのよ。見繕ってちょうだい」

ディルムッドと商談に入ったルイズを余所に、私は急いで作業場に戻り、マチルダを捕まえて懇願した。

「マチルダ、一生のお願いだよ」

「な、何よ、いきなり?」

「あれを売っておくれ」

デルフリンガーを指さして、私は言った。
事の次第が飲み込めないマチルダが目を白黒させている。

「う、売るったって、身内ってことで多少泣いてあげても結構高いよ、これ?」

私は黙って重い革袋を渡す。対価としては充分だろう。
さようなら、愛しの金貨たち、短い付き合いだったね。悪銭身につかずとは良く言ったものだ。

「・・・何を考えてるんだい、あんた?」

「女の情けだ、訊かないでおくれ」

「ふ~ん・・・」

何だか値踏みするような視線を私に向け、革袋を軽く弾ませて頷いてくれた。

「判ったよ、持って行きな」

「ありがとう、恩に着るよ。さて、デルフ」

「なんでえ?」

「お前さんの持ち主に会わせてあげるよ」




在庫を確認しに作業場に入ってきたディーを捕まえて事の次第を打ち合わせ、彼が準備をしている間に私はカウンターに出た。
初めて見る生才人。これが伝説のナイト様か。
物珍しそうに店内を眺めている様子が面白い。好奇心強いタイプだったっけね。

「もう具合はいいのかい、少年」

「え?」

話しかけると、才人は驚いたように振り向いた。
初対面の人には良くやられるのだが、こいつもまた私の見た目と口調のギャップに驚いたようだ。
呆気にとられている才人に、ルイズが補足してくれた。

「あんたを診てくれたお医者よ、この子」

「こ、この子が?」

ふふん、人は見かけによらないだろう。

「そうだったのか。ありがとう。おかげですっかり元通りだよ。まだ小っちゃいのにすごいんだな、お前」

本当に小っちゃい子にするように頭を撫でてくる才人。屈辱だ、これは。私だって好きで小っちゃい訳ではないのに。実年齢教えてやろうか、坊や。
そんなやり取りをしていると、ディーが瀟洒な布に包まれた一本の剣を持ってきた。
カウンターに置き、丁寧に布を取る。才人の目が丸くなった。こういうの好きだよね、男の子って。

「おおおおおお~っ!」

「な、なかなかのものね」

神々しいばかりに美しく輝くデルフリンガーに、才人が目を輝かせる。ルイズも納得の面持ちだ。

「すげえ! かっこいい~!!」

「片刃の大業物です。銘はデルフリンガー。デルフリンガー、ご挨拶を」

「あ~? こいつに俺を売るのかい?」

いきなりやる気のない声を上げる剣に、才人が声を上げる。

「剣がしゃべってる!?」

「インテリジェンスソードと申しまして、知性がある剣なのです。お手にとってお確かめを」

「あ、ああ・・・」

驚きながら、才人がデルフを取った。
収まるべきものが収まるべきところに、きれいに収まると気分がいい。
才人が握ると、左手の甲が輝く。あれがガンダールヴのルーンか。
そして、今度はデルフが驚く番だった。

「おでれーた。てめ・・・『使い手』じゃねえか・・・・・・おい、娘っ子、お前、知って・・・」

余計なことを言いそうなデルフに、私は人差し指を唇にあてて見せた。

「・・・そうかい。おい、てめ、俺を買え」

才人は満足そうに頷いた。

「ああ。ルイズ、俺、これにするよ」

「これでいいの?」

「ああ、すごく気に入った」

「そう、ならばいいわ。幾ら?」

「この度は公爵家ご令嬢の初めてのご来店と言うことでもありますし、お代は100エキューで結構でございます」

値段は打合せてある。確か今日のこいつの所持金はそんなもんだったはず。

「手持ちで間に合うからいいけど、ずいぶん安いわね。大丈夫なの、これ?」

「品質は当工房が保証致します。本来であればエキューにして1000から2000を申し受ける品ではございますが、当店といたしましては名高きヴァリエール公爵家とのご縁ができるのであれば、これくらいの投資は安いものと」

私は顔に縦線を引いてディルムッドのセールストークを聞いていた。背中が痒い。
プライドをくすぐるような嫌らしい言い方だ。縁も何も、マチルダと公爵家は面識あるだろうに。
案の定、そうとは知らない単純なルイズはころりと上機嫌になった。

「ふふ、いいわ、買ってあげる」

才人から財布を受け取ったルイズがジャラリと金貨をカウンターに並べ、ディルムッドが勘定する。
それを余所に、才人はご満悦だ。

「いやー、本当にすげえな、これ」

「よろしければ、扱いにつきましてもご指導しましょうか?」

「「え?」」

ディルムッドの発言に才人とルイズは声を上げた。
ふふ、驚け驚け。

「これでもいささか腕には覚えがある身なれば、僭越ではありますが多少の教導はできるものと自負しております」

「あら、あいにく私の使い魔は結構強いわよ?」

ルイズは挑発的な表情で言った。

そりゃ強いだろうよ。伝説のガンダールヴだ、下手な剣士じゃダース単位でも勝てないだろう。
下手な剣士ならね。
うちの使い魔を、そこらの一山幾らの雑兵と一緒にしてもらっては困る。
才人君には、まずガンダールヴの力をもってしても勝てない存在がこの世にはあることを知ってもらうとしよう。





店の裏手にある資材置き場は、剣の手合わせくらいは充分できるくらいの広さがあった。
刃引きした剣を手にした才人に対し、ディルムッドもまた剣を手に対峙する。

『ディー、世の中を舐めてもらっちゃ困るから甘やかす必要はないけど、お嬢ちゃんの面子をつぶさない程度にね』

『お任せを』

念話で打ち合わせる私たちをよそに、ギャラリーであるルイズとマチルダが話している。

「んっふっふ。さて、坊やがどれくらいもつかねえ」

紅茶の入ったマグカップを手に面白そうな顔で眺めているマチルダ。完全に見世物見物の体勢だ。
その余裕に、対するルイズもまた胸を張る。

「ふふん、甘く見ない方がいいわよ。うちの使い魔は、ドットのものとはいえゴーレムに勝てるくらいよ」

「はん、その程度じゃねえ」

「何ですって!」

「二人とも静かに。始まるよ」

先に動いたのは才人だった。
残像を残して消えたような素早い踏み込み。素人の私の動体視力じゃ追いつかない。
これがガンダールヴか。
なるほど、7万に突撃し、大将首の一歩手前までたどり着くだけのことはある。
しかし、今回の相手もまた伝説の存在だ。
才人が消えたその時には、ディーの姿もまた消えていた。
不可視の攻防。少年ジャンプ的な演出をライブで見る日が来るとはね。
風切音に混じって撃剣の音が2回ほど響き、その数秒後に私たちの傍らにあった樽が唐突に弾けた。
樽の山に突っ込んで顔をしかめているのは才人だった。

「い、痛え~」

「思い切りはいい。しかし、一本調子ではすぐに読まれるぞ、少年」

何だかディルムッドもお師匠様モードらしい。意外と乗りがいいな、こいつも。

「にゃろ・・・」

才人も生来の負けん気を出してディルムッドに挑んでいく。
今度は速いながらもあまり足を使わずに打ち合っているので何とか見える。
さすがは英霊、ダンスを教えるように剣筋を導いているらしい。
一見すると才人も頑張っているように見えるあたりは見事な演出だ。
ルイズはと言えば、目を丸くして凍りついている。
ただの工房に、よもやここまでの手練がいるとは思わなかったのだろう。

「な、何なのよ、この店」

トリスタニアの商人は、マフィアより怖いんだよ。





「とりあえず、夕方になったら迎えに来なさい」

数合の手合せの後、ルイズは才人を置いて店を出た。
今日はヴァリエールの別邸に行くのだそうだ。
才人は残って特訓。
見ている間に一回も勝てなかったことが、ルイズはお気に召さなかったらしい。
才人の方も一矢も報いず帰るのは本意ではないらしく文句は言わなかった。
行きがかりで、店の外まで見送りに出る。

「別邸というと、親御さんにでも会うのかい?」

「姉よ」

「ほう」

「前に話したでしょ。2番目の姉。最近、新しい治療法を知ってるお医者が見つかって、その治療のために王都にいるのよ。秋からいたらしいんだけど、全然教えてくれなかったからとっちめに行くの」

嬉しそうにルイズは笑う。本来は、こういう笑顔が似合う女の子なんだろうな、この子。

「具合はいいのかい?」

「ええ、最近すごく調子がいいみたい」

「それは良かった」

「世の中にはすごいお医者がいるものだわ。あんたも精進することね」

「肝に銘じておくよ」

嬉しそうに去っていく後姿を見ながら、私は心の中で公爵に頭を下げた。
薔薇の下での話は秘密の話。
身内であってもそれを守ってくれる彼には感謝したい。





「どわあ!」

裏に戻れば、もう幾度目か判らないくらい才人は吹っ飛ばされて伸びていた。

「つ、強ええ」

当り前だ。もともとが伝説の戦士。それが英霊にまで昇華したディルムッドだ。
いくら伝説のガンダールヴでも相手が悪いよ。
正直、こいつを倒すには、別の英霊を呼び出すくらいしか私にも思いつかない。
それでもめげずに挑んでいく辺りは、この少年もなかなかの胆力だと思う。
どういう因果か、世界をまたいで出会った英霊と伝説。
これが神の采配の綾なのだとしたら、私は喜んでつけこませてもらおう。

『どうだね、ディー、この子は?』

『は。まだ形にはなっておりませんがその分変な癖もなく、なかなか良いものを持っております。長ずれば、かなりの使い手になりましょう』

『週一で通うように手配するから、速成で鍛え上げてやっておくれ』

『御意』

可能な限り、それこそ少しでもいい、才人にはディルムッドの強さを吸収していって欲しい。
この子が強さが、この世界の未来に希望を与えることを私は知っている。
それは同時に、ティファニアの未来に灯を点すことでもある。
エルフに攫われた時をはじめ、才人がティファニアを助けてくれた場面は少なからずあった。
矮小な私には、時間が動乱期に向かって流れていくことを止める術はない。
ならば、今の私にできることは、やがて名を成し、大切な妹を守ってくれる英雄の力になることくらいだ。
戦術、戦法、持って帰れるものは幾らでも持って帰って欲しい。
そして、稽古で一回剣を打ち込むたびに、彼自身が死から一歩遠ざかるのだと知って欲しい。
そのための協力は惜しむまいと私は思う。
必死に剣を振るう才人を見ながら、これから彼が紡ぐ物語を思う。
それは紛れもなく、語り継がれるべき英雄憚だ。
イーヴァルディすら霞む、本当の英雄の物語。
そんなことを考えている私の前に今一度吹っ飛ばされてきた、まだ英雄見習いでしかない少年。

「ほら、しっかりおしよ、男の子」

治癒魔法を施しながら、彼の未来が明るいものであるようにと、私は胸の内で祈った。












「なるほどね~」

稽古の様子を見ながら、マチルダがぼそっと呟いた。

「ああいう子が好みだったわけね」

「?」

ずしりと重い革袋を弄びながら振り向いたマチルダは、ネズミを追い詰めた猫のような黒い笑みを浮かべていた。



[21689] その25
Name: FTR◆9882bbac ID:fb21d9e9
Date: 2010/11/26 00:14
「だいぶ高いね」

体温計を確認し、私は唸った。
この水銀とガラスの工芸品は、言うに及ばずアトリエ・マチルダの製品だが、作った当人は目の前で顔を赤くして唸っている。

「んあ~、気が滅入ることは言わなくていいよ~」

季節外れの風邪をひきこんで、床に伏して唸っているマチルダ。
日頃の上下関係では私の上位に君臨するこの姉も、今日ばかりは医者である私の支配下だ。

「だいたいマチルダは働き過ぎさね。余波を受けたティファニアがいい迷惑だよ。この機会に、日頃の無茶を反省おしよ」

マチルダの隣で寝ているのはティファニアである。マチルダを震源地とする風邪をもらった被害者だ。
こちらもかなり熱が高い。
本来ならばそれぞれの自室を持つ二人だったが、面倒を見る都合によりリビングに二人並んで寝てもらっている。

「ごめんね、姉さん。面倒かけちゃって」

ティファニアが布団の中から申し訳なさそうな声を出す。これがまた無茶苦茶可愛い・・・って、まだシスコンじゃないよね、私。

「いいんだよ、誰だって好きで風邪を引くわけじゃないんだし、いつも一生懸命働いているんだ、疲れが出たんだろうよ」

「ちょっと、私とずいぶん対応が違うじゃないか」

マチルダがだるそうな調子で非難の声を上げる。

「はっはっは。いい子のテファと暴走三昧のお前さんとじゃ扱いが違って当然だよ。まったく、歳も考えずに毎日遅くまで持ち帰りで作業してるから風邪ひいたりするのさ」

「く・・・あんた、覚えてなよ」

「お~、恐い。とにかく、二人とも今日は仕事の事も家事の事も忘れてゆっくり伸びていること。これは診療院の院長としての命令だよ」

ぴしゃりと言いながら氷嚢をマチルダの額に乗せると、気持ち良さげなため息をつきながらマチルダは目を閉じた。

「まあ、今日は午後の納品だけで急ぎの仕事はないからいいけどさ・・・ねえ、ヴィクトリア、魔法でパッと治してくれない?」

「ダメだよ」

「どうしても?」

「いつも言っているだろう? 安易に治すのは・・・」

「判ってるって。言ってみただけさ」


水魔法の利便性には逆の側面がある。
魔法治療が受けられない平民はいいのだが、貴族にその傾向が強いものとして、、安易な水魔法の使用による免疫力の低下がある。貴族たる者何ちゃらかんちゃらと理屈はいろいろ付くのだろうが、病気になるたびに魔法や魔法薬で治すことが主流の人たちは、総じて自己免疫の能力が高くない。
本来、病気になれば自力で治す機能が人体にはあるのだが、それが外敵を駆逐する前に魔法で治してしまうので免疫力が付きづらいのだ。そのため、同じ病気に何度も罹る悪循環に陥るケースが散見される。統計を取ったわけではないが、理屈からすればそのことが貴族の生命力・生殖機能に影響し、結果として少子化に繋がっているかも知れないと思うのは以前にも述べたとおりだ。
貴族は血が近い結婚が少なくないし、水魔法による過保護な歴史をおよそ6000年も積み重ねれば、退化とまでは言わないものの、その種の形質がかなりの世代に渡って積み重なっているというのも否定できる話ではないように思う。正直、ハルケギニア貴族は、最後にはSF映画に出てきたどこぞの宇宙人のように風邪で滅亡するのではないかと思ったこともあった。
そんな訳なので、流感ならばともかく、普通の風邪であれば自然治癒に任せるのが私の方針だ。
自然の薬が自分の中にあるのだからお金もかからないし、熱についても、上がり過ぎたら座薬や頓服くらいは処方するが、そもそも体温が上がるということは免疫力を高めようとする体の防御反応だから下げない方がいいものだ。脱水にならないように水分をこまめに補充し、栄養を摂って体を温めて寝ているのが最高の治療法だと思う。



「いかがですか、お二人の具合は?」

キッチンに戻るとディルムッドが朝食の洗い物をしてくれている。
女の病床に来るような無粋な真似をしない辺りは、やはりこの使い魔は立派な騎士なんだと思う。

「ただの風邪だよ。いい機会だ。ゆっくり休んでもらうさね」

「それがいいですね。店長は興が乗るといささか抑えが利かない方ですし」

「それを止めるのも従業員の仕事じゃないかい?」

「言って聞いていただけるような方だったらよかったのですが・・・」

珍しく眉を下げて困った顔をする工房従業員。日頃の苦労が垣間見える。

「それもそうだね」

幸いにも今日は休診日なので、ティファニアの代打に立ってあれこれと家事を片付ける。
彼女のテリトリーを犯すようですまないが、食事の支度は私が、ディルムッドには午前のうちに買い物を頼む。
包丁を持つのも久しぶりだ。晩御飯どうしようかなあ。


「ちょいとお二人さん」

リビングに顔をだし、寝ている二人に訊いてみる。

「お昼は軽いものを作るけど、晩御飯は何が食べたい?」

「夜も軽いものでお願い~」

「姉さんに任せます~」

何ともだるそうな元気がない返事だ。当然と言えば当然か。

「じゃあ温まって飲み込みやすいもので適当に作るからね」

ショウガをベースにした鍋焼きうどんみたいなものでも作ろうかねえ。

「あ、姉さん」

ティファニアが声を上げた。

「何だね?」

「晩御飯じゃないけど、私、あれが食べたい」

「あ、私も~」

二人そろってオーダーをしてくる。あれか・・・あれね。

「判ったよ。お三時にでも作ってあげるよ」

「「やった~」」

何とも不景気な感じの『やった』だね。



お昼にオートミール的な食事を作り、納品に出かけていくディルムッドを見送り、キッチンの後片付けを済ませているころだった。

「ヴィクトリアちゃん!!」

玄関の方から血相を変えた感じの太い声が聞こえてきた。

「何事だね」

私の知り合いで、こんな不気味な声を出す人物は一人しかいない。
パタパタと出てみると、ジェシカを横抱きに抱え上げたスカロン氏がはらはらと涙を流しながら立っていた。
腕の中のジェシカは心底迷惑そうな顔をしている。

「お願いよ、ジェシカを助けてあげて!」

「は?」



「あらま、これまたこっぴどくやられたもんだね」

診察室に通して診てみれば、ジェシカもまた風邪だった。流行り出したのかな。昨日までの患者さんにはそんなに風邪ひきはいなかったんだが。

「ごめんなさいね、先生。ちょっと無理して働いてたからこじらせちゃったかな」

「そうだね。熱もだいぶあるし、これじゃつらいよね」

恐らくマチルダ達と同じ風邪だろう。熱が出てだるさが特徴のタイプだ。

「昨日から真っ赤な顔しているのよ、この子。ヴィクトリアちゃんのところならいいお薬あるでしょ!?」

付き添っていたスカロンがやたらと狼狽している。気持ちは判らないでもないが。

「風邪に効く薬は出していないんだよ」

「お薬ないの!!?」

診察室が震えるような大声で鳴き声を上げるスカロンに、ジェシカがうんざりという表情を浮かべた。

「パパ、お願い、静かにして」

「だって、そんなこと言っても」

「先生がないって言っているんだから仕方がないでしょ!」

ついに激発するジェシカ。恐らく朝からずっと枕もとで騒がれていたに違いない。

「おとなしくしていれば治るから、しばらくそっとしておいてよ!! ちゃんと診てもらって帰るからパパはもう先に帰って!!」

その言葉に、雷に打たれたようにショックを受けるスカロン氏。
やや間を置き、肩を落としてとぼとぼと診察室を出て行った。

「ちょっと言いすぎなような気もするが?」

「ありがたいんだけど、今だけは静かにしておいて欲しいのよ」

「それも判るけどね。とりあえず、そこのベッドでしばらく休んでおいき。風邪が治る薬はないが、元気が出る薬は処方してあげるよ」

診療院謹製のブドウ糖の点滴を用意しながら私は笑った。



待合室に出ると、そこに雨に濡れた子犬のようにしゅんとなったスカロンが俯いていた。
その姿はあまりにも哀れで、とてもじゃないが世間の情報をかき集めて統計化していく凄腕の情報のプロには見えない。

「こらこら、ミ・マドモワゼルともあろう者が何を不景気な顔をしているんだい」

「だって・・・」

「言い訳するんじゃないの。ほら、似合わない顔してないでお立ち。名誉挽回の機会をあげるよ」

「え?」



スカロンを連れてキッチンに向かう。
午前中のうちにディーが買ってきてくれた食材の中からオレンジをごろごろと取り出し、スカロンに押し付けた。

「そこの水場で爪まで綺麗に手を洗ったら、これをできるだけきれいに剥いておくれ」

言われたとおりに手を洗うスカロンにオレンジを任せて、発火の魔法でコンロに火を点ける。二口使ってそれぞれに鍋をかけ、お湯を沸かす。
次に取り出すのは砂糖。
ぐらぐらと煮えたあたりで砂糖を片方の鍋に適量入れる。濃度の調整がポイントだ。
溶け切ったあたりで鍋を火から下して冷ます。
これがベースのシロップだ。
その間に、スカロンがきれいに筋まで取り終わったオレンジの房を大きさを合わせてまとめ、それぞれをタイミングを合わせてもう一つの鍋に、こちらは煮立つ寸前の火加減で投入する。
これの時間管理はコツが必要だ。長くやりすぎるとオレンジがばらけてしまうからだ。ちょうど皮がふやけてへたったあたりでお湯から上げなければならない。
そんな感じで煮えたオレンジをお湯から上げる。
スカロンにも団扇を渡して二人でパタパタと熱を飛ばす。

「はい、じゃあ私がやるみたいにこれの皮を剥いて」

茹でられたオレンジの皮は、スルスルと容易く剥ける。
さすがは飲食店経営者、スカロンの手並みはなかなかのものだ。

「ダメな親よね、私って」

黙々と手を動かしながらスカロンが呟く。
何となく、話がしたいというのではなく、話を聞いてほしいだけのような気がして私は黙って聞くことにした。

「あの子の事になると、どうも抑えが利かないのよ。今回だって、風邪だってことは判っているのよ。ほっとけば治るだろうってこともね。でも、辛そうなあの子の様子を見ていると居たたまれなくなっちゃうの」

まあ、普通は親というのはそういうものだろう。

「あの子ももう16でしょ。いい加減、子離れしなくちゃとは思うんだけど、どうしても目が離せないのよ。ダメよね、こんなんじゃ」

オレンジを剥き終わり、皿に山になったオレンジの果肉を、作っておいたシロップにドバドバと入れて掻き混ぜる。仕上げはレモンの絞り汁を少々。しばらく置いて味を馴染ませる。本当は一晩は置きたいところだが、今回は急なオーダーなので勘弁してもらおう。

その間にジェシカの様子を見に行くと、点滴は終わっており、当のジェシカはベッドですやすやと眠っていた。

オレンジの方はそこそこ時間を置いたところで魔法をかけ、程よい具合に冷やす。
楊枝で一個突き刺して、俯いているスカロンに差し出した。
受け取って口に入れたスカロンの目が丸くなった。

「美味しい・・・」

「風邪には一番の薬なのがこれさね」

器に盛りながら、スカロンに話しかけた。

「あんた、ジェシカのお母さんが亡くなった時からその言葉づかい始めたんだって?」

「え?」

これは以前ジェシカに聞いた話だ。

「『お母さんがいなくなっても寂しくないように』って言ってくれたって、あの子、嬉しそうに話してたよ。いいお父さんじゃないか」

6つの器にオレンジを盛って、それぞれに充分にシロップを注ぐ。
何だかうまくまとまらないけど、言葉を探しながら、スカロンに正直なところを言ってみた。

「私は、鬱陶しいくらいに心配してくれる親がダメな親なら、ダメじゃない親なんかいないほうがいいと思うけどね。自分を心配してくれる親なんて、人の子に生まれて、それ以上にありがたいものなんてそうそうありはしないと思うよ」

スカロンの前に二つの器を置いて、私もまた二つの器を手に取る。

「私は欲しかったよ、あんたみたいなお父さんがさ」

ほとんど記憶にない父と、ほとんど話したこともない父。
私の中には、父親というものの存在がほとんどないのだと思うと、我ながらちょっと寂しい。

「ほら、ジェシカもそろそろ目を覚ましているころだよ。持っていっておやりな」

呆気にとられた顔をしているスカロンを残して、リビングに向かう。

後ろから、太い、啜り泣きみたいな音がした。
甘いオレンジのシロップ漬けに塩味が入らないことを祈りつつ、私は私の家族の元にご要望の『あれ』を運んだ。








数日後、『魅惑の妖精』亭のデザートのメニューに、オレンジのシロップ漬けが加わったのはまた別のお話。




[21689] その26
Name: FTR◆9882bbac ID:538abc14
Date: 2010/12/06 18:59
それは、春の空を覆うような、艶やかな白い雲のようだった。

「うわ~……」

「これは見事な……」

ティファニアと私は、上を見上げて目と口を丸くした。
私たちの目の前に広がるのは、鮮やかな白い花を咲かせた何本もの大樹。
そこは、桜の森だった。





昨日の朝のこと。
玄関先で、私がマチルダの制裁から逃れようともがいているところに一羽のフクロウがやって来て、診療院の郵便受けにやけに古風な感じの手紙を投げ込んで行った。
体裁があまりに古風だったのでどこぞの貴族様が御乱行の後始末でも依頼して来たのかと思ったが、見ると蝋封には家紋は押されていない。
封を切って書面を見てみると、差出人は王都郊外の大きな公園の管理人からだった。
何でも歳に見合わぬ力仕事をしてしまったので少々腰を痛めたらしく、往診を頼みたいとのことだった。
件の公園はどこぞの爵位持ちの貴族が善意で一般に開放している私園であり、現代の感覚で言えば浜離宮恩賜庭園や新宿御苑のでかいのが無料開放されているような感じだ。
私もその公園の存在は知っていたが行ったことはなかった。
あんなことがあった後なので念のためあれこれ調べてみたところ、ジェシカが言うには公園には管理人小屋があり、たまに管理人がやってきて公園の樹木の世話をしているのだそうだ。
そんな開放的な公園なのだが、トリスタニア中心部からは距離があるので馬を使える者ならともかく一般的な平民ではあまり行く人もいないらしい。
そうは言っても、患者がいるのなら嫌も応もない。腰を痛めているのでは何かと大変だろう。
氏素性については不確かなものではなさそうなのですぐに返書を送り、翌日に都合をつけてティファニアと一緒に出向くことにした。

春の日差しの中を、街道に沿っててくてくと歩く。
地図を見る範囲では歩いて3時間はかかる道のりだ。
意外に思う人もいるかもしれないが、ティファニアは実に結構な健脚で、相当な距離を息も切らさず平気で歩いてしまう体力の持ち主だ。散歩感覚とは言え休みなく歩くこと3時間、公園に入ったころにはすっかりへばってしまった私の隣でテファはぴんぴんしていた。
きっと、体の前面に荷重がかかるようなバラストを2つも持っているからこの妹は歩くのが楽なんだな、うん。
あるいはあの反則的な胸は、実はリスの尾のように移動する際にバランスを取るために発達した器官なのかも知れない。
持てる者は持てない者に施しを与えるべきだ、帰りにはおんぶでもしてもらおう、と不届きなことを考えていた時、管理人小屋が見えてきた。

ライオンの顔をしたドアノッカーをどんどんと叩くと、中で低い声がしてひとりでにドアの鍵が開く音がした。
アンロックの魔法。
管理人さんはメイジだったのか。

「失礼」

遠慮なくドアを開けて中に入る。
中に入ると、シンプルながらも手入れが行き届いた室内で一人の老人がベッドにうつ伏せに横たわっていた。
好々爺を絵に描いたようなおじいさんだった。この人が患者らしい。
白髪に白髭。何だか、眼鏡をかけて白いスーツを着てステッキを持って、鳥の唐揚げが入った紙箱を手に店先に立っていると似合いそうな人だった。
目の前の患者さんが、贔屓の球団が優勝した時に熱狂した群衆によって橋から川に放り込まれる妄想を慌てて打ち消しながら、起き上がろうとする老人を手で制して部屋に上がりこんだ。

「トリスタニアのヴィクトリアです。手紙をいただいたので取り急ぎ伺いました」

さすがにここまで年が離れていると、幾ら私でもある程度慇懃な態度を取る。

「遠いところ、わざわざ済みませんな。力仕事でちょっとやってしまいまして。お恥ずかしい限りで」

「いやいや、こればかりは仕方がないですよ」

診察したところ老人の腰は案の定ぎっくり腰で、原因は筋断裂だった。要するに肉離れ。
普通なら一週間は痛みが続くところだが、これくらいならすぐに治せるのが魔法のすごいところだ。
魔法をかけて組織を修復すると、老人はようやく安堵のため息をついた。
腰と言うのは厄介な部位で、一度痛めるとなかなか癖になりやすい。痛めたのなら動かさないことが一番なのだが、腰は体の要と書くだけあって動かさずにいることは難しいからだ。
メイジではあるものの、老人は火の属性らしく、治癒魔法が使えず難儀していたそうだ。
主家に連絡すればいいだろうと思って訊いてみたが、主家の手を煩わせたくないとのこと。何だか律義な人らしい。
ようやく起き上がれるようになった老人に心づけ代わりの茶を御馳走になりながら、腰に対するケアを指導しておく。
腰痛はコルセットの装用が有効だが、常用することは好ましくない。体がコルセットに頼る事を覚えてしまい、筋肉が萎えてしまうからだ。装用する場合は、その辺の加減をしながら装用してもらうよう説明する。
また、重い物を運ぶ際にレビテーションを多用することも体力維持の面からはいささか問題はあるが、不安に感じたら無理はしないことが肝要であり、日常ではできる範囲で腰を動かし、腹筋や背筋を使うことで周辺の筋肉を鍛えることを心がけてもらう。効果的な腰痛体操というものもある。
世間話じみた会話の中で、そんなことをつらつらと説明しておく。
話が一段落したところで、私は上品な芳香を放つハーブティーが入ったカップを手に外に目を向けた。
窓の外に、新緑が鮮やかな公園の様子が見える。

「それにしても、初めて来ましたが…何と言いましょうか、美しい公園ですな」

「ほほ、気に入っていただけましたかな」

「ええ、帰りがけには一回りさせていただこうと思います」

「それでしたら…」

管理人さんは公園の地図を広げ、私に示して見せる。

「この時期ならば、この辺りにお立ち寄り下され。なかなか見事な眺めが見られますぞ」


平民レートの診察代を受け取り、茶の礼を言って私たちは管理人小屋を辞した。
広い園内を散歩するように一回りしてみる。
静かで、自然な感じの公園だった。

ほどなく、管理人さんの言われたエリアに差し掛かった。
そこで私たちは、この世のものとは思えぬ艶やかな景色を見ることとなった。

「うわ~……」

「これは見事な……」

幾本もの、大きな樹。
空を覆うかのように大きく張り出したその樹の枝に、綿菓子のように白い花が満開になっていた。

「綺麗……」

まるで幻想郷のような白い眺めに、ティファニアがため息を漏らす。

「スリジエだ」

品種の正確な名前は知らないが、一般的にスリジエと言われるガリア原産の桜の一種だ。
ソメイヨシノによく似た、小ぶりで鮮やかな花を咲かせる品種だった。
見事な枝ぶりを見上げながら樹の一本の傍に寄り、ごつごつした幹に手を当てた。力強く水を吸い上げている気配を感じる。
枝の端々まで水が行き渡り、花に潤いを与えてる様子が伝わってくる。
樹齢は、恐らく300年くらい。
懐かしい。
私は以前に触れた、一本のスリジエの樹を思い出した。


私がまだ、アルビオンにいたころの話だ。
年齢は、ドットの魔法の練習を重ねていたころだから7歳くらいだったように思う。

アルビオンの王家では、年に2回、春と秋に王室主催の園遊会が行われるのが習わしだった。
このロンディニウムのハヴィランド宮殿で行われる宴の時だけは、名ばかりの私たち一家も家族の外面を整えて参加することになっていた。
園遊会はアルビオンの社交界では最大のイベントの一つだが、内実は大人の権謀術数や噂話の行き交う矢玉が飛ばない戦場でもある。
体に穴を穿つ矢玉は飛んでこない代わりに、心を抉る陰口が幾つも飛び交うどす黒い戦場だ。
私にとってもまた、そこは心地よい場所ではなかった。
『北の売笑婦の娘』というのが、社交の場で私に付けられていた通り名だった。
淫蕩な母の影響で頂戴したものだが、そう言われても仕方がないほど母の評判は王宮ではいいものではなかった。
外見こそ居並ぶ貴婦人の中でも抜きんでて美しいことは確かだったが、娘の目から見ても燕狩りに勤しむその所業は、およそ貴婦人のそれとは言い難かった。
それを言うならその手管に嵌る方々も紳士と呼べるようなものではないだろうにとも思うのだが、中央の貴族にとっては北部の連中は田舎者ということになっているらしく、そのようなエセ貴族の娘を嫁に取らねばならなかった父への同情も少なくないようだった。
そんな事情なので、私に対しても風当たりも結構強く、宴のたびに私は専ら壁の花を務めることとなった。
これでも公女という地位もあり見目も悪い訳ではないのだが、私に迎合しても旨味がないとでも思っているのか、大抵の貴族の方々の反応は温かくはない。むしろ、いつ一悶着起こるか判らない一族に御令息を近づけまいと必死な気配すらあった。料簡の狭い奴らだとは思ったが、母のせいではなく父の自爆という形ではあったものの、結果的には本当に大公家はダメになってしまったのだから、彼らの読みは正しかったのだろう。

そんな訳で穏やかに村八分な私は、毎年のように宴の中盤には居場所をなくして一人で庭に木々の声を聞きに出た。
王宮だけあって、公領の庭に比べても遜色のない手入れの行き届いた庭だ。
王宮の木々は見栄えにこだわったためか園丁が少し枝をいじめすぎのような気もするが、木々は今年も私を静かに出迎えてくれた。アルファー波なのかマイナスイオンなのか判らないが優しい雰囲気が満ちていて、気持ちが落ち着く穏やかな空間だった。
私はお気に入りの樹の下に行ってみた。
樹齢500年を超える、大きなスリジエの樹だ。
樹皮に触れてみると、公領の楡の樹ともまた違った音色で水が流れている感触がある。
桜は1000年くらいで寿命を迎えるそうだが、そうだとするとこの樹はちょうど壮年のあたりだろうか。
壮年なのに、まだ子供の私より長生きし、私が死んだ後もここにあるであろう樹。
そう思うと、何だか不老長寿の魔法使いのようにも見えてくるから不思議だ。

そんな見事な桜の木を見上げていると、背後に人の気配を感じた。
振り返り、そこにいた人に私は息を飲んだ。

へ、陛下!?

さすがに言葉には出さなかったが、心の中で絶句した。
立っていたのは畏れ多くもアルビオン王国国王、ジェームズ1世陛下だった。
この王様は、やんごとなき御方にしては気さくな人ではあるのだが、どういう訳か子供には結構厳しいところのある人だった。躾とかに厳しい頑固じじいタイプというか、子供にとっては仏頂面の国から仏頂面を広めに来た仏頂面の使者のような人で、いついかなる時でも仏頂面をしているイメージがある。生まれた時に仏頂面のまま産湯を使ったと言われても、私は信じるかも知れない。
とにかく、威圧感があって恐いのだ。
慌てて首を垂れる私を見下ろし、陛下は静かに口を開いた。

「顔を上げなさい」

不機嫌そうな声で言われたので、何か失敗してしまったかと思いながら顔を上げる。
陛下が大切にしている花でも踏んでしまったのだろうか。
次いで陛下が言う。

「口を開けなさい」

口?
何のこっちゃと思いながらも大人しく口を開けた。
そんな私の目の前で、手にした杖を軽く振って見せるジェームズ1世。
出し抜けに口の中に飛び込んできた固い感触に私は目を丸くした。

「ほえ?」

思わず間抜けな声が出るほど驚いた。
最初はドングリでも飛んできたのかと思ったら、舌に感じる感触は甘い。
砂糖のような甘さ。
氷砂糖?

「・・・甘いです」

「うむ」

素直に感想を言う私に、陛下は種明かしと言った感じに、マントの下から瓶を取り出して私に差し出した。
中には色とりどりの砂糖菓子。直径が1サントほどの大きさの金平糖のようなお菓子だ。
私にそれを渡すと、陛下は何事もなかったかのように踵を返し、宴が続く会場の方に歩き出した。
その後姿を呆気にとられて見ていた私だったが、大切なことを思い出して声を上げた。

「伯父上!」

本当は、ここは『陛下』と呼ばなければいけないところだ。
家庭教師あたりにバレたら怒られるかもしれないが、この時、私は王や公女としての立場がどうこうというよりも、人としての言葉をかけたくなったのだ。
私の声を受け、陛下は振り返った。相変わらず仏頂面のままだ。

「お菓子、ありがとうございます」

一礼する私を、やはり仏頂面のまま見つめ、

「・・・うむ」

とだけ言って仏頂面のまま会場に戻っていった。




気づけば、ティファニアが楽しげな顔で笑っている、

「何だい?」

「姉さん、すごく優しい顔をしてる」

「そ、そうかい?」

慌てて顔を抑えるが、別に表情が緩んでいる感覚はない。

「うん。何か、楽しいことでも思い出したの?」

「まあ、そんなところだよ。そういえば、何でこの樹の花はこんなに綺麗なのか知ってるかい?」

ちょっと意地悪そうな顔をして話を変えようと話題を切り出した私を見ながら、ティファニアは首を振った。

「逸話があってね。この樹の下には、ある物が埋まっているからなのだそうだよ。何だと思う?」

「埋まっている、って…肥料とか?」

私はゆっくりと首を振り、もったいをつけてボソッと答えた。

「…屍体」

キョトンとしたテファの表情がこわばり、次いで眉が吊り上った。

「もう、やめてよ、せっかくこんなに綺麗なのに」

怒らせてしまった。
梶井先生、貴方の感性はこの世界では受け入れてもらえないようです。


そんな話をしながら、いささか移動の疲れもあって陽だまりにあった木の切り株に腰を下ろして花を見上げる。
エネルギーあふれるテファは初めて見る桜が楽しいのか、そんな私をよそにあちこち歩きながら眺めて回っていた。
桜の樹の下で、満開の花を背景に美しいティファニアが大きく手を広げて花を見上げる様子は、あたかも一枚の絵画のようだ。
この世にアルフヘイムというものがあるのなら、きっとそこは、私が今見ているような幻想的で美しい光景に違いない。
そう思わせるだけの神秘的な美しさを醸し出しながら、ティファニアは笑顔で舞い散る花弁を見つめていた。
私の前で、楽しそうな顔をしている可愛い妹。
最近、この子の笑顔を見るたびに、私はやるせない思考の迷宮に迷い込む。
それは妄想にも似た、可能性という不確かなものに対する思いだ。
その可能性の枠組みの中では、この子とここで今一度このような穏やかな時間を持つことは、もうないのかも知れない。
今この時も、砂時計の砂は止まることなく落ち続けている。
やがて来る時代の動乱は、容赦なく私たちにも押し寄せてくるだろう。
私がそのささやかな力で築き上げた砂の城は、その奔流にさらわれて崩れて消えるのだろうか。
やがて、狂王が演出するブリミル教徒が相打つ抗争と、始祖の代弁者たる教皇が唱える不可避な聖戦が始まる。
聖地奪還を掲げ、ハルケギニアの人々を救う美名のもとにエルフに対していくことになる諸国の英傑たち。
その中にはティファニアも、あの黒髪の少年も取り込まれていくのだろう。
聖地に何があるのかは、私には判らない。
聖地とやらに風石の暴走を食い止める装置があるのかないのか。あったとしたらそれはどういうものなのか。
判らない歯がゆさが心に応える。それさえ覚えていればまだ取るべき手を考える余地はあるというのに。
ビダーシャルはシャイターンの門を開けると災厄が湧いて出るとか言っていたが、困ったことにシャイターンが何なのかも覚えていない。開くと大災厄がどうとか言っていたと思うが、開くとブリミルが言っていたヴァリヤーグとかいう物騒な連中が復活してくるのだとしたら、確かに聖地には触れない方が得策だろうし、それならばヴィットーリオだって無理やり封印を解こうとするとは思えない。
風石対策とシャイターンの門、この二つがどういう関係にあるのか今一つ明確ではない。
私が『ゼロの使い魔』という物語を忘れてしまったのか、最後まで読んでいないのか、それとも途中で私が死んじゃったのか、あるいは作者さんが完結まで辿りつかなかったのかは定かではないが、記憶が虫食いだらけの頼りない転生者には未来を見通す力はないのだ。

先入観抜きに考えても、私としては、人間もエルフもお互い人語を解する種族なのだから、互いの齟齬を会話で埋める努力をまずはするべきなような気がする。
虚無を見せつけて言うことを聞かせようという砲艦外交がまず最初にありきというは、どう考えてもこちらの思惑通りに事が運ぶように思えない。
エルフだって馬鹿ではない。実際、才人もテファもエルフの虜になったことがあったはずだ。
もっと、穏やかな交渉の方法はないものか。
博愛は誰も救えない。それも確かに真理かも知れない。
人の歴史は戦争の歴史だ。クラウゼヴィッツの戦争論は読んだことはないが、戦争は人が人である限りは切り離せないものだとは思う。
それでも、やはり戦争は悪だと私は断じる。
博愛は誰も救えないのかも知れないが、戦争は愛の否定そのものに他ならないだからだ。
人を助ける職業を生業にしている者として、その対極に位置する行為を肯定することはできない。
ティファニアを危険に晒したくないというひどく身勝手な動機ではあるが、泣かなくても良い者が泣かねばならない未来が待っているのだとしたら、為政者たちにはもっと良い未来を模索することを放棄して欲しくはない。

そんな考えも、所詮は幸せ者の戯言だ。
今の私は、恐らく人生で一番幸せな時間を享受している。
今が変わって欲しくない、保守派の人間だ。
その日の糧にも困るような者にとっては、世界が丸ごと変わってしまうような大事件をこそ欲しているのかも知れない。
やがて来る大隆起の後には、そういう人が人類の大部分を占めるようになるのだろうか。
少しだけ後ろめたい感覚を覚えつつ、咲き誇る花を見ながら私は思う。
桜の下に埋まっているのは、もしかしたら、『幸せ』なのではないかと。
根は蛸のようにそれを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根でそれを吸い上げて、錦のように花模様を仕立てている。
だから今、その花の下で私が感じている穏やかな白い空間は、こんなに幸せに満ちているのだと思うのだ。


「姉さん」

戻ってきたティファニアが微笑む。

「ん?」

「来年は皆で来ようよ」

確かに、私とティファニアだけで見るにはもったいない眺めだ。
前世で味わって以来のお花見というのも悪くない。

「そうだね。皆で来ようか。食べ物や飲み物持って、この下にシートを広げて」

「ピクニックみたいだね。楽しみだわ」

ティファニアの笑顔が、心に棘になって刺さる。
それは、守れないかもしれない約束だ。
『もしも』に彩られた約束。
もしも、来年も皆で一緒にいられたら。
再び花の下に走って行ったティファニアの背中を見ながら、私は言いかけた言葉を飲み込んだ。



桜を見すぎてしまったため、帰り道は夕日と追いかけっこになった。
春とはいえ、まだ陽はそう長くはない。
トリスタニアに着くころには陽は落ち切り、夕暮れが足早に通り過ぎた後に夜の帳が下りた。

家に着いた時、南の空に、一筋の流れ星が流れて消えた。




私の知らないところで、時代が動き出していた。



[21689] その27
Name: FTR◆9882bbac ID:538abc14
Date: 2010/12/28 00:01
家族と言うのは、最も近い他人と言った人がいる。
もともとが寄り合い所帯の私の家族の間にも、時には波風が立つことはある。
口論だってたまにはするし、お互いに譲れないところだってあるし、つまらないことで衝突することはある。
例えば牛乳の話であり、年齢の話であり、バストの大きさの話などなど。
もちろん本格的に険悪になることはなく、三人のうちの二人の雲行きがいよいよ怪しくなると、残る一人がフォローに回る。
それでも埒が開かない時は我が家で唯一の殿方が仲裁に入ってくれる。
そうやってうまくやってきた私たちだったが、それでも本当に大事なことは、口にできない時がある。




往診の帰り、私とテファはカフェで待ち合わせしてそれぞれの買い物に走った。
テファは晩御飯の買い物、私は書物屋に例によって毒物の書物漁り。私の方は、書物の他に最新の瓦版を買い込んだ。
トリステインという国では平民の識字率は高くないのだが、王都トリスタニアは商業の街なので読み書き算盤を身につけている者が多く、粗末な紙片を使った瓦版も結構需要がある。
世の中の情勢を知らなければ商機を掴めないということで、毎日買い求めるのは半ば商人の嗜みとも言われているのだそうだ。
産婆や坊主と同じように宣伝をしなくても食べるに困らない生老病死に関わる商売をしている私としては、商人たちの逞しさには素直に敬意を払っている。
しかし、そんな私が見ているのは、そういう商業関係の情報ではない。
最近私が紙面に目を落としている時、その視線の先には必ずアルビオン情勢の記事がある。


アルビオン情勢は、一進一退が続いている。
紙面の情報が、実際の状況とどれくらいの時差があるかは確たることは判らない。
ネット社会を知る者としては、この世界の情報伝達の遅さには歯がゆさを覚えるところではあるが、情報が入ってくるだけまだマシではある。アルビオンで城住まいをしていたころは情報そのものから切り離されていたことに比べれば、自分で能動的に情報を得ることができる現状は何倍も恵まれている。
問題なのは、聞こえて来るのがいい情報ばかりではないことだ。
ロンディニウムを失い押し込まれつつある王党派に、もはやレコン・キスタを倒すだけの力がないことくらいは私にも判るが、そんな現状でも王党派は未だ意気軒昂。せっせと敵の後方を攪乱する地道なゲリラ活動などで叛徒に失血を強いている。
数年前、私がパリーに会って伝えた話が役に立っているのか知らないが、『ゼロの使い魔』のお話の通りの展開ならば、とっくにニューカッスルに追い込まれているこの時期でも戦線を維持している辺り、少しだけ歴史の流れは変わっているように思う。
そうは言っても状況がジリ貧なことには変わりはなく、状況は良くない方向にその天秤を傾けつつあった。
私の理想は、アルビオン王家が存続することで青髭の火遊びを一歩目で挫き、伯父上に生き延びてもらうことだった。
せめてクロムウェルの暗殺に成功していれば歴史はまた違った流れになるものと思っていたのだが、結果はこのありさまだ。昨年の秋に私が踏んだドジも、遠因なのかも知れない。
今のままでは状況は時間の問題であり、やがては王党派は私が知る歴史通りにニューカッスルあたりに追い込まれ、一方的な蹂躙を持って王党派の命運は尽きるだろう。
そうなればその戦いで、伯父上が、死ぬ。
何とかならないものだろうか。

ニューカッスルと言えば、思い出すのはウェールズ殿下だ。
正史ではフーケ騒動から連なる情報の流れの中でウェールズ殿下が髭に謀殺されていたが、当のフーケが工房を切り盛りしながら清々しい汗を流しているこの時間軸の中では、彼はどうなるだろう。
思い返せば、ウェールズ殿下とは、私はほとんど話したことなかった。
最後に話をしたのは、園遊会の時だったか。

会場で、暇を持て余して広い会場をウロウロしていると、

「やあ」

と声をかけられた。振り返ると、そこに見目麗しい白皙の美少年が立っていた。

「久しぶりだね、ヴィクトリア」

ウェールズ・テューダー。
幼き日のプリンス・オブ・ウェールズ。
やはて名誉も勲もなく暗殺される貴公子。
そして、私の従兄。

「お久しぶりです、殿下」

慌てて無口で無愛想な家庭教師に散々叩き込まれた礼をすると、ウェールズは笑って手を振った。

「今日は無礼講だし、僕らは従兄妹だよ。そんな他人行儀な真似はいらないだろう」

「ですが…」

私が反論しようとした時だった。

「ウェールズ様、こちらにいらしたのですね」

脇から着飾った婦女子が割り込んでくる。大公家に比してもそう遜色のない家格の高い名家の御令嬢だ。
ウェールズに二の句も継がせず言葉をまくし立て、私に一言「ごめんあそばせ」と形ばかりの挨拶を残してあっという間に会場の中央に連れて行ってしまう。
御令嬢は最後に一度だけ振り返り、汚いものを見るような目を私に向けた。
いつも頂戴している、冷ややかな視線だ。
いつもこんな感じで、彼との会話には邪魔が入った。
どのご婦人も、園遊会のホストとして私ごときにも声をかけねばならない立場の殿下に助け舟を出して、あれこれとポイントを稼ごうとしている下心が見え見えだった。
社交界で評判が良くないということは、そこに身を置くとなかなかしんどいものなのだ。
そんな断片的な記憶の中にしかいないウェールズ殿下。
彼とは、そんな浅い関係しかなかった幼少期の私だ。
泣く人が少なくて済むのであれば、彼にも生き延びてもらったほうがいいとは思うが、体を張って救いの手を差し伸べるほどの情熱は私にはない。
殿下救済のために積極的に手を打つとしたら、とりあえずやるべきことはワルドの抹殺なのだが、あの事件の後、私はワルドについては何も手を打たなかった。正確に言えば、打てなかった。
こっ酷い目に遭わされただけに相応の報いを与えてやりたいが、いかんせん証拠がないので告発しようにもどうにもならないからだ。
当日のアリバイだって用心深い奴の事だ、遍在などで手は打ってあっただろうし、仮に証拠があったとしても、貴族至上主義のこの国で子爵と平民では裁きの行方がどうなるかは想像に難くない。
事実が確認されても、上の方で『なかったことにしよう』とでも思われたら、むしろこっちの命が危ない。
事の次第についてヴァリエール公爵に報告しようかとも考えたが、私がワルドを知っていることについて嘘をつき通す自信がないので、風のスクウェアメイジの存在だけを告げて仔細を語るのはやめておいた。何より、相手は爵位持ちで国の信望も厚い魔法銃士隊の隊長だ。国軍のエリート軍人を告発するとなると、さすがに公爵とて相応の裏付けが要るだろう。私には、それだけの物を用意できなかった。
正攻法で追い詰めていくくらいなら、むしろ闇夜のお礼参りの方がリアリティがあるようにも思えたが、困ったことに私もディルムッドもそこそこトリスタニアでは有名人だ。面がすぐに割れるだけに迂闊なことはできない。
焦らずともそのうち機会もあるかも知れないし、私の手で八つ裂きにするより、どこかでルイズを狙って馬脚を現した時に才人少年の糧になってもらう方が復讐の味わいが深いような気がした。これも才人の器量次第の話だが、彼が武運拙く髭に敗れたら、その時改めて挨拶するとしよう。


正直、そんなマザコン髭のことなどどうでもよくて、今の私の悩みは私自身の身の振り方にあった。

アルビオンの内戦に干渉するべきかどうか。
私の手持ちのカードで、レコン・キスタの野望に立ち向かうことは是か非か。集めた情報を基に毎日幾度も考えを重ねてみてはいるものの、答えを出せずにいる。

まず、戦力的には充分に王党派の力になれると思う。
ディルムッド・オディナというこの世界ではイレギュラーレベルの戦力が、私にはあるからだ。
まさに一人で千人を相手に戦える使い魔だ。
しかし、やるとなった場合、彼の主として彼に相応の理由を示してやらなければならない。
ただ道具のように『暴れておいで』と命じるだけなら、私もケイネス・エルメロイ・アーチボルトと同じだ。
あの物語の中で、シリアルキラーの雨生龍之介を抑えて最も忌むべき男であったケイネスの最大の過ちは、ディルムッドという英霊の名誉を踏みにじったことにある。
間男呼ばわりし、役立たずと蔑み、最後には自害すら強要したあの男の所業は思い出すだけでも気分が悪くなる。
奴がこの世界にいれば、私自らゲイ・ボウでチクチクと刺してやりたいところだ。
そんなケイネスほどひどくないにしても、私がレコン・キスタに彼をけしかけるには、寄って立つべき義がないのだ。
国を捨てた私にとって、アルビオンの内戦は他人の喧嘩だ。
助太刀する義理があるとしたら、それは伯父上とパリーにだけだ。
本気でそれをやるのなら、横槍の形ではなく、堂々と伯父上のところに立場を顧みずに馳せ参じるべきなのだろう。
その意気やよしと過去の罪科を許されるか、はたまた『それとこれとは話は別』としてお縄を頂戴するかは賭けだ。理由はどうあれ、私は王軍の兵を殺しているのだ。
介入するとしたら、王党派の支援は必要だ。
いかにディルムッドとは言え、さすがに統制が取れた万単位の大軍相手に正面から挑んで完勝できると思うほど、私は楽天家ではない。
敵もプロの軍人、力押し一辺倒で押し切れるような馬鹿ばかりではないはずだ。動きが速く、魔法が通用しないとなれば、それなりに何らかの手を講じてくることだろう。
その対策が出来上がる前にクロムウェルの素っ首を叩き落とせればいいのだが、そんな博打のような戦いに彼を出向かせることはしたくない。
私が持つ反則じみたワイルドカードを最大限に生かすのであれば、王党派の旗の下、十分な支援を受けて槍を振るえることが必要だ。そうなれば英霊ディルムッドは、それこそ無双の働きを見せてくれることだろう。

しかし、それをやると連鎖的に困ったことが発生する。
言うまでもなく、私とマチルダ、そしてティファニアとの関係だ。
マチルダにとっては、王家は仇だ。
ティファニアの心の中には憎しみはないと思うが、それでも彼女にとってもまた、アルビオン王家は父の仇に違いはない。
そんな王家に手を貸すことに、私はどうしても二の足を踏んでしまうのだ。
もしかしたら私がアルビオンに与した時が彼女らとの別れになるかも知れないと考えただけで、どうしても気持ちが揺れる。
伯父上は好きだ。
死んで欲しくはない。
しかし、マチルダとテファもかけがえのない大切な家族だ。
どちらかを取れば、どちらかを失うかもしれない状況に、私の思考はリングワンデリングのような無限ループに陥っている。
泣いてすがってマチルダに理解を求めることも考えたが、その一言を口にしたがために、かけがえのないものを失うことになるのかと思うと、どうしても勇気を出せない。
葛藤と自己嫌悪を積み重ねることしかできない迷宮に入り込んでしまった私にできることは、伯父上やパリーの無事を祈ることくらいだった。

「姉さん?」

かけられた声に顔を上げると、食べ物でいっぱいの買い物籠を手にしたテファが泣きそうな顔をしていた。

「おかえり。どうしたね?」

いつもの調子で応じる私の言葉が聞こえないように、テファは私の対面に腰を下ろした。

「姉さん、正直に話してくれないかな」

「何を?」

「最近、姉さん変だよ。何かすごく悩んでいるんでしょ?」

「ん?」

私は自分の失態に内心で舌打ちした。
考えこんでいる様子を、テファに見られていたようだ。

「そんなに悩んでいるように見えるかい?」

「うん。最近、時間があるといつも考え込んでるよ。無表情で、遠くを見ているみたいで。私じゃ力になれないかな?」

テファに助力を頼めるような問題なら、最初から悩みはしない。
言えば、この子は絶対に苦しむだろうからだ。
それでも、私を見るテファの目はまっすぐで、くだらない冗談で煙に巻くには抵抗があった。
どうしたものかと思っていたら、ティファニアから斬りこんできた。

「…もしかして、アルビオンのこと?」

忘れていた。
ティファニアは、私が知るティファニアではなかったんだ。
活字で触れた空想の世界の女の子と違い、私の妹は才人任せだった原作の世間知らずな女の子ではない。情報を自分で整理して、自分の意見を持つ立派な女性だということをたまに失念してしまう。
我ながら、ダメな姉だ。

「…ごめんよ。もう少し、待っておくれ。話せる時が来たら、きっと話すよ」

寂しそうな顔をするテファに謝り、私は席を立った。




打つべき手が見つからず、ただ、時間だけが過ぎていく日々。
そんな、ブリミル歴6242年のウルの月の、ある日のことだった。


その日、トリスタニアをひとつのニュースが駆け抜けた。
少なくない市民たちが動揺した事だろう。
そんな市民の中で、その時最も喜んでいたのは誰かと言えば、それは間違いなく私だと自負している。

『トリステイン、アルビオン王国およびゲルマニア帝国と三国同盟締結』

トリステインがゲルマニアと、王女アンリエッタと皇帝アルブレヒト3世との婚姻を前提とした同盟を締結の上、アルビオン王国の支援を表明した。
裏で何が起こっているのか知らないが、私が恐れていた正史のようなアルビオン崩壊がなくなったことは快挙だ。
状況はめまぐるしく動いており、軍事同盟締結を機にアルビオン王党派の精兵およそ10000人が、多くの戦列艦とともにアルビオンを脱出してトリステインに落ちのびたらしい。
300名の王党派が5万を相手に玉砕する史実とは大きく異なる顛末だ。
鳥の骨が、死に体の王国との同盟にどういうメリットを見出したのか知らないが、そんなことはどうでもいいことだ。
伯父上が、トリステインに逃げ延びてくれる。
居ても立ってもいられず、私は午前中の診察を終えるや、駆け足で街に飛び出した。
戦争関係の情報が欲しい。瓦版の限られた紙面にない、生きた情報が。
餅は餅屋。
生き馬の目を抜くような王都トリスタニアでその種の情報を欲したならば、それに相応しい輩が巣食っている。





「…これか」

武器屋は私が示した瓦版を見ながら訳知り顔で頷いた。

「今日は客としてきたんだよ。知っている事を教えておくれ」

「馬鹿、おめえから金なんか取れねえよ」

「商取引だよ、私だってあんたからは診察代はもらっているさね」

「そういうことは、せめてもうちょっと金取ってから言えよ」

手にした瓦版を見ながら、武器屋は話し出した。

「俺らの耳にもつい先日まで全く入らなかった話さ。完全に秘密裏に進めていた同盟話らしい。昨日今日の話じゃねえ。ずいぶん前から水面下で話が進んでいたようだぜ」

「何でまたいきなり三国同盟なんだい?」

「恐らくは、ガリア対策だろうよ」

「ガリア?」

「信憑性は半々だが、レコン・キスタの黒幕だって噂だぜ。アルビオンの動乱だが、一見ただの反乱が頻発していたように見えて、整理してみればきちんと段階を踏んで王家を追い詰めているように見える。地方領主の五月雨式な反乱ならともかく、あそこまで組織だった騒動となりゃ、普通じゃねえとその筋の奴なら判るだろう。アルビオンは昔から諜報には定評のある国だ、裏で糸を引いている何かがいるってことは知ってたんじゃねえか? トリステインやゲルマニアにしてみても、座視できない敵がいることが判ってりゃ、アルビオンが滅べば明日は我が身だ。先手を打って同盟を考えるのも自然だろうよ」

私は内心で歓喜した。
もしかしたら、私が伝えた言葉を真面目に取り扱ってくれたのかも知れない。

「だったらアルビオンが今みたいになる前に、もっと早く同盟すればいいじゃないかとも思うけど」

「そこはそれぞれお国の事情もあるんだろうよ。金を払わなくても動くのは風車だけだぜ」

亡国の危機と国益を天秤にかけるか。マザリーニあたりならやりそうなことだけど。
しかし、武器屋の次の言葉が私の思考を止めた。

「王党派の引き際も大したもんだったらしいぜ。撤退戦では、反乱軍のロイヤルソヴリン…今はレキシントンか。その化け物と、王党派最後の切り札の姉妹艦アークロイヤルの砲撃戦だとさ。しかも王党派は国王自らが陣頭に立ったそうだ」

一瞬、言葉が飲み込めなかった。
アークロイヤル…そんなフネ、原作に出てきたか?
レキシントンの化け物ぶりはタルブの戦いで描かれていたが、姉妹艦があるとは知らなかったよ。
何より、伯父上が陣頭に立つということに驚愕した。
指揮官先頭とか、ノーブル・オブリゲーションとか、そんな言葉が脳裏に浮かび、艦橋に立つ伯父上の姿が思い浮かんだ。確かにアルビオン王家の者は一度は軍に身を置く慣習があるが、伯父上が陣頭に立つとはどういうことだろうか。

「そ、それで?」

私は、どもりながら問うた。
武器屋の話は不穏な空気を含みながら続いた。

「何でも、皇太子は退却の総指揮を取り、殿はアークロイヤルに王自ら座乗して支えたらしいぜ。王党派の大部分が、その時間を使ってラ・ロシェールに逃げ伸びている」

「それで…王族は?」

私は、出来るだけ平静を装いながら尋ねた。
内心は、祈れるものすべてに祈らんばかりに伯父上の無事を願いながら。

「散々だな。ウェールズ皇太子は、撤退作戦中に行方不明になったらしい」

「行方不明?」

「ああ。皇太子の乗ったイーグルは出航が確認できなかったそうだ。未だに行方は判っていねえとよ」

殿下が行方不明。ワルドに殺された礼拝堂の話を考えると、行方不明というのはあり得ない話ではない。
あれは最後の殲滅戦の最中に起こった事件だったはずだ。ギーシュの使い魔がいなければルイズも才人もあの場で死んでいただろう。
今回の撤退の展開は知らないが、歴史の修正力なんてものがあるのなら、殿下の命運がここで尽きるのもあり得ない話ではないかも知れない。

「それと、国王だが……」

武器屋のその言葉に、私は現実に引き戻された。
そうだ、伯父上だ。
殿下が行方不明なら、伯父上はどうなったのだろうか。
武器屋は『散々』だと言った。
嫌な予感が胸に渦巻いている。
そんな私に武器屋が言った言葉は、私を奈落の底に突き落とすには充分だった。

「ジェームズ1世は、アークロイヤルと運命を共にしたらしい。僚艦も順次下がらせながらレキシントンを中破に追い込み、最後は単艦で滅多打ちにされて沈んだ…って、おい、顔色が悪いぜ。どうしたよ?」





トリスタニアの街を、背中を丸めながら、ただ、歩く。
街はいつもと変わらず活況だ。
市の物価は安定しているし、人々の顔には悲壮感はない。
戦争が、まるでどこか遠くの出来事のように思っているのだろう。
人が一人死んでも、世の中は何も変わらない。
伯父上が、死んだ。
討ち死にだ。
王族としての矜持と心中した訳だ。
男子の本懐だろう。
男はいつもそうだ。残される女子供の都合など考えもしない。
聞いたとき、武器屋の情報を疑いもした。
すべては伝聞の情報だ。精度について落ちるところもあるだろうと、淡い期待を抱きかけた。
しかし、これまでの彼の実績がそれを否定していた。
彼はプロなのだ。
命を商売道具にする傭兵連中に信頼される彼の情報を、私には否定することはできなかった。

希望の後に来る絶望が、これほど深いとは思わなかった。
青髭のサーヴァントは『恐怖とは、静的な状態ではなく変化の動態』なのだと言っていたが、絶望もまたそういうものなのだろうか。
伯父上は、『ゼロの使い魔』の作品中では脇役でしかなかった人だった。
作中では、その描写すらないままにニューカッスルの攻防戦で討ち死にしていた。
そこに悲しみはなく、見事に戦い、そして散ったと言う事実だけが残り、その事実もまた、話が進むうちに霞んで消えて行った。
マザリーニがアンリエッタに戦死者の名簿を突きつけて、死と言う現実について迫ったことがあった。
ただの名前の羅列に過ぎない名簿。個々が顧みられることはなく、ただの数として、まさに一山幾らの兵力として換算されていた人たちそれぞれに、守るべきものがあり、信じる正義があったのだと。
女王アンリエッタ成長の象徴的なエピソードだったが、今の私には、そのマザリーニの言葉が身に染みる。
本筋においては脇役に過ぎなかったはずの人の死が、今の私は、こんなにも、辛い。





「やっと帰って来たわね」

重い足取りで家に戻り、リビングに入ると聞き覚えのある声が聞こえた。
そこには見慣れてしまったピンクがいて、テファが相手をしていた。

「どうしたの、姉さん、真っ青だよ」

驚いたようなテファの声が、耳を素通りしていく。ルイズもどこかおかしい私の様子に気づいたようだ。

「大丈夫なの、あんた。何だか死にそうな顔しているけど」

「悪いけど…今日は勘弁しておくれ。気分が悪いんだよ」

私は何とか声を絞り出した。
悪態を含む居丈高なルイズ節を受け流せる気力は、今の私にはなかった。
そんな私のことを、ルイズなりに理解してくれたようだった。

「…いいわ。でも、せめてこれくらいは受け取りなさい」

ルイズが、差し出してきたのは、木製の小箱だった。

「これは?」

「届け物よ。あんたに渡すように頼まれたのよ」

「誰に?」

「さあ。渡せば判ると言っていたわ」

受け取ろうとした時、私は初めてルイズの指に目が留まった。
上品の作りの、ルビーの指輪。
私は硬直した。
脳裏に、原作2巻のルイズの部屋の出来事がリフレインしてきた。
夜中に訪ねてきたアンリエッタ。
三文芝居。
恋文と、渡された水のルビー。
ルビーを持っているということは、ルイズはアルビオンに行っていたということか。
フーケ騒動がないはずなのに、何故アンリエッタはルイズに目を付けたのだろうか。
ゲルマニアからの帰り道、学院にアンリエッタが立ち寄った話は平民の私たちまでは聞こえてきていない。
流れからすると、ワルドの裏切り事件もあったのだろうか。
そんな作中にあった様々なアルビオン騒動ことを全部飛ばして、私の脳は渡された箱をルイズに託した人のことを連鎖的に想起した。

「これ…まさかアルビオンからかい?」

「え、心当たりあるの?」

「知人がいるんだよ」

「そう…。ま、そんなところよ」

ルイズの様子と、私にこういうものを渡しそうな人物の可能性に鑑みると、心当たりは一人しかない。
間違いない。パリーだ。
彼は無事だろうか。

私は慌てて受け取った小箱をテーブルに置き、一つ息を吸って開けようとした。
開かない。
ロックの魔法がかかっていたので、杖を出してアンロックする。
開く時、指が震えた。

箱の中身を見た時、息を飲み、数秒ほど呼吸を忘れた。
視界が回り、その場に崩れそうな体を懸命に支えた。
それは私の心の、最も深奥を揺らす物だった。
箱の中身は、伯父上の、心そのものだった。
呆然とする私をよそに、ルイズも覗き込み、そして怪訝な顔をした。

「何よ、こんな物を運んで来たの、私?」

そんなルイズの言葉を、私は看過できなかった。
こんな…物?

「黙りなさい」

爆発しそうな激情を抑えるのに苦労しながら、自分でもどこから出てきたのか判らないほど低い声で私はルイズに告げた。
制御の利かない私の無機質な声に、ルイズは驚いたようだった。
ルイズは、全く悪くない。事情を知らなければ、私だって同じようなことを口にしたのかも知れない。
しかし、善意でこれを運んできてくれた何も知らないルイズには申し訳ないが、今の私は余裕というものがなかった。
自分の感情の、すべてのメーターが滅茶苦茶な振れ方をしているのが判る。
私は、暴走状態にあった。

「な、何よ」

「運んできてくれたことには、礼を申します。ですが、これを軽んじるようなことを言うことは、例えそれが貴族の方であっても許しません」

気持ちの制御は何とかできても、表情の制御ができない。
今の私の顔は、およそ感情が欠落した、作り物みたいな表情を浮かべていただろう。
怒りや悲しみが浮かんでいた方がマシなくらいの、死人のような無機質な顔だった。

「ど、どうしたって言うのよ?」

私は何とか自分を宥めて言葉を紡いだ。
どうしても、声が震えた。

「…あなたには、判らぬことです。これは、あなたにとってはくだらぬ物でも、私には、この上なく意味のあるものなのです」

「どういうことかは判らないけど、気に障ったのなら謝るわ。悪気はなかったのよ」

あのルイズが、平民である私を相手に謝罪の言葉を述べた。珍しいとは思うが、ルイズなりに感じてくれるところがあったらしい。
しかし、私の方が我慢の限界だった。呆気にとられるルイズを置いて、私は箱を抱えて自室に逃げ込んだ。
いつ何時、感情が爆発して罪なきルイズに八つ当たりしてしまうか判らなかったからだ。

「姉さん、どうしたの!? 何があったの!?」

部屋のドアまで、テファが追いかけてきた。

「ごめんなさい、ティファニア…今は、一人にして下さい…お願いです」

ドアを開け、静かに、しかし会話を遮るように後ろ手に閉めた。

戸棚の酒を開け、大ぶりなボトルに直接口をつけて一気に飲む。
一息ついたところで、足の力が抜けた。
部屋の中央で膝を落とし、箱を抱えて歯を食いしばった。
悔しさと、情けなさが、怒涛のように渦巻いている。
自分の中の暴風雨を必死にやり過ごしながら、私はきつく目を閉じた。
涙が滲みそうになるのを、懸命にこらえた。
私には、泣く資格などない。
今、私の心を塗り潰しているものは、とてつもない後悔だ。
危機を知りながら、未来を知りながら、伯父上の下に馳せ参じるという選択肢を選ばなかったことが、巌のように心の中に根を下ろしている。
私は、私の家族を選んだ。その、あまりに大きな代償に眩暈がした。
伯父上のためにできることがありながら、それをなさなかった薄情な自分が、どうにも許せなかった。
涙を流す代わりに、これまでにないほどの酒を飲んだ。
一人きりの部屋の中で、噛みしめた奥歯が鈍い音を立てるくらいに神と自分を呪いながら飲む酒が美味しいはずはないが、酒に頼らなければ耐えられないほど気持ちが加速していた。
こんなひどい自棄酒は初めてだった。
家の皆には、絶対に見せられない醜態だ。
悲しいことがあった時、いくら飲んでも酔えないと聞くこともあるが、確かに酔いは感じなかった。
それでも、肝機能を超える量のアルコールは忠実に私の体に作用し、2本目のボトルが空くころには私は呆気なく意識を手放した。








『伯父上、この花はまだ咲かぬのですか?』

『うむ。これはキングサリと言ってな。開花は5月になるだろう。黄色い小さな花が咲く』

『そうなのですか』

『お前も、訊いてばかりではなく、自分で調べるくせをつけねばいかんぞ』









『申し訳ございません、殿下。陛下なのですが…』

『…今回はお忙しいのだな?』

『はい。また私が名代を務めさせていただきます』

『えー、爺かぁ…』

『殿下…』

『あはは、嘘だよ。嬉しいよ、爺』

『まったく…人が悪いですぞ。そうそう、こちらは陛下からでございます』









目覚めると、箱を抱えたまま、うずくまる猫のように眠っている自分に気付いた。
外は月明かり。
空になったボトルが、顔の脇にあった。
無理な姿勢で寝たためか、背中が痛い。
唸りながら起きると、背中の方でパサリと音がした。
いつの間にか、誰かがブランケットをかけてくれたらしい。
ブランケットを手に、ライナスのように引きずりながらキッチンに向かう。
水を飲み、食卓に目を向けると、私の分の食事に布巾がかけられて置いてあった。
皆、もう寝てしまったのだろう。要らぬ心配をかけてしまったものだ。
そんなことを冷静に考えている自分が、我ながらおかしかった。
眠りのメカニズムというものは、実はよく解っていないと聞いたことがある。
人は何故眠るのか。
太古の記憶で獲物が見つかりづらい夜はカロリー消費を抑えるために休むように体ができている等の諸説があるようだが、実際のところは未だ議論が続いているらしい。
確かに睡眠というものは奇妙な習性だ。
人を薬で眠らせることはできるが、それは自然な睡眠とは違うものなのだそうだ。自然な眠りは揺すれば目を覚ますが、薬での眠りでは目が覚めないというのが判りやすい例だとか。
私としては、睡眠とは、脳のデフラグメンテーションのようなものだと思っている。
頭がぐちゃぐちゃになった時、とりあえず眠ってみると、目覚めた時に整理がついていることがあるのがその証左だ。
今の私も、そんな感じなのかも知れない。
皆無とは言わないが、先ほどのような嵐のような心の乱れは、今は落ち着いている。
バッカスとヒュプノスに感謝しながら、物音を立てないように静かに部屋に戻り、置きっぱなしの小箱を手に取った。



二つの月が出ている。
その月明かりの下、私は静かに診療所の屋根の上に上がった。
屋根の端に座り、膝の上に乗せた箱を開ける。

中に入っていたのは、ガラスの瓶だった。
コルクで栓をされた、見覚えのある瓶の中には、色とりどりの砂糖菓子。
城で伯父上に会うたびに、私にくれたものだ。
私と伯父上をつなぐ、絆の象徴のようなお菓子。
その一粒一粒に、伯父上の言葉が詰まっているようだった。

箱から取り出してしばらく瓶を眺めた後、持ってきた蝋燭に火をつけて、コルクの栓を丁寧に封印する。
蜜蝋の甘い匂いが漂う中、ぽたぽたと落ちる蝋の滴が、思い出を閉じ込めるように、少しずつ瓶とコルクの隙間を埋めていく。
そんな様子を見ながら、伯父上との数少ない記憶を辿る。
孤独の中で私を支えてくれた、灯火のような優しい記憶だ。
何を気に入ってくれたのかは知らないが、伯父上は本当に私を気にかけてくれた。
会えない時でも、園遊会後の帰りの馬車に一人乗って帰途に着く私を、伯父上は城の窓越しに見送ってくれた。
それに気づいて馬車の屋根に飛び上がり、大きく手を振って見せたのだが、その事について後で躾担当の家庭教師にねちねちと怒られたっけ。

蝋燭が燃え尽きるころ、封印が終わった。
砂糖菓子と一緒に、思い出と、これまでもらってきた多くの想いを蝋で密封したガラスの瓶。
小さな瓶が、まるで伯父上の骨壺のように思えた。
最後に、固定化の魔法をかける。
錬金はよく使うが、固定化は滅多に使わないからなかなかうまくいかない。
本当に、水魔法以外は下手っぴな自分に嫌気がさしてきた時だった。

「あいかわらず下手だねえ」

背後から突然かけられた声に、私はびっくりして振り返った。
そこに、二つのカップを手にしたマチルダが浮いていた。

「お、脅かすんじゃないよ。高いところなのに、危ないじゃないか」

「夜中に屋根の上で遊んでる方が悪いのさ」

マチルダはそのまま私の隣に座り、カップを差し出してきた。

「ほら、熱いよ」

淹れたばかりの、ハーブティー。
酒で荒れた舌に、その温かさが心地よかった。

「貸してごらん」

マチルダが手を差し出してきた。
私は一瞬だけ逡巡した。
いきなり取り上げて地面に叩きつけるような人ではないと思ってはいるが、彼女にとってもまた深い意味を持つ瓶を、何も告げずに手渡すことに抵抗を感じた。
これは、マチルダの仇が送ってきたものなのだ。
しかし、その差し伸べられたままのマチルダの手に彼女の気持ちを感じ、私は素直に瓶を渡した。
マチルダは瓶を手に取ると、慣れた感じで固定化をかけてくれた。
丁寧な、惚れ惚れするような手並み。
さすがは工房経営者、数十年は持ちそうな施術だった。

「…ごめんよ、みっともないところを見せてしまったね」

返されたガラス瓶を抱きしめて、呟く。

「国王からかい? その瓶は」

マチルダの問いに、私は頷いた。
ティファニアからおおよそのところは聞いていたのだろう。
事情はだいたい判ってくれているようだった。

「マチルダは…恨んでいるんだろ、伯父上を」

「そりゃ、恨んでいるさ。父を殺し、家名を奪った仇だよ」

マチルダの言葉からは、抑揚が消えていた。
彼女の気持ちは、痛いほど判る。
もしマチルダやティファニアが殺されたら、私もそいつを許すことなどできないからだ。
地の果てまで追いかけるだろうし、絶対に楽には殺さないだろう。

「そうだよね…」

言葉を発するのが、怖かった。
私の言葉のどこでマチルダが激発するか判らないことが、どうしようもなく怖い。
しかし、少し沈黙した後で、一息でカップの中身を干したマチルダが発した言葉は、私の予想とは違うものだった。

「あんたは覚えちゃいないだろうけど、アルビオンの園遊会には私も参加していたんだよ。何回か、遠目で見たよ。庭で、あんたと国王が楽しそうに話しているのをさ」

そうだったのか。
会ったことなかったから知らなかったよ。おとんもおかんも、私を自分の娘だと言って紹介して回るようなことなどほとんどしなかったし。

「何だかお爺ちゃんと孫娘みたいだったね。国王の方は何だが苦虫潰したみたいな顔してたけど、あれ、目尻が下がるのを堪えていた顔だったんだろうね、きっと」

意外な言葉だったが、それを知っていてくれるなら話は楽だ。
私は抱えていた秘密を、話すことにした。

「ティファニアには内緒の話を、ひとつ、しようか」

「ん?」

「私は、父とは数えるくらいしか話をしたことがなくてね。母と折り合いが悪かったせいなのか、年に数回会う程度の関係だったんだよ。彼の立場や苦悩も判らないでもないから恨んだことはないけど、愛していたかと言われれば、素直に頷けないんだよ。身内のはずなのに、他人のような父だったんだ。テファには申し訳ないけど、伯父上を親の仇と思うほどの感情は、父との間にはないんだよ。
私、社交界でも、結構辛い立場でさ。
そんな私に、優しくしてくれたのは親族では伯父上だけだったんだよ」

意外そうな顔をするかと思ったマチルダだったが、すこし寂しそうな顔で呟いた。

「正直、あんたの母君についてはいい噂は聞いていなかったし、あんたについても…妙な噂ばかりを耳にしていたよ。今だから言うけど、私も、あなたのことはサウスゴータで話してみるまでは、何だか表情の乏しい、お人形みたいなお姫様だと思っていたしね」

まあ、前段は仕方がない。ああいう母の娘だ、同じような性癖を持っているに違いないと言われていたのは知っている。それはともかく、むしろ後段の方が私は私宛の悪口としてはひどい部類に入ると思う。

「悪かったね、本性はこんなにガサツな女で」

「馬鹿だね。お高くとまられるよりはよっぽど親しみやすくていいよ」

「ふん。どうせ、お人形娘さね」

「ごめん。茶化すつもりはないんだよ。あんた、あんまり昔のこと話さないし」

当り前だ。身内に疎んじられて、親族に手籠めにされかけて、挙句の果てに母親を殺したなんて話をぺらぺら話す奴がいてたまるものか。
先日の騒動の時も、私に流れる王家の血が原因と言うことしか皆には言っていない。
あんな変態の話で、皆の脳を汚染したくなかったからだ。
この秘密だけは、墓場まで持っていくつもりだ。
そんなことは知らないマチルダは、言いにくそうに話を続ける。

「昔は昔だ、言いたくないことは無理には訊かないよ。でも、いつも馬鹿やって笑ってるあんたが打ちひしがれている姿ってのは見ていられなくてね。まあ、何が言いたいかと言えばね…」

マチルダが頭を掻きながら、言葉を探すように視線を彷徨わせる。

「国王は国王、あんたはあんただ。あんたが国王の死を悲しんだって、私があんたのことを家族だと思っていることには変わりはないし、こんな夜中に屋根の上でお葬式みたいなことをやられている方が困ると言うか…その…何だ…」

マチルダは、ようやく言葉が見つかったように私の方を向いた。
その目の中に、優しい光があった。
マチルダは、美人だ。
『女が美人と言う人は本当に美人』という名文句があるが、本当に美人だと思う。
テファももちろん美人なのだが、マチルダのそれは質が違う。
テファの持ち味は幻想的でどこか浮世離れした美しさだが、マチルダのそれはもっと身近で暖かい感じの美しさだ。
テファが妖精なら、さしずめ聖母とでも言うべきだろうか。
口が悪く、多少乱暴でも、この人の笑顔を見ると何故か元気とやる気がわいてくる。
それは、この人が持つ優しさが原動力なのだろう。
大きくて深い、母性。
街の男性諸氏に絶大な人気があるのも、私には理解できる。
その無償の優しさが、今は私に向けられていることが判る。

「あんた、自分で思っているより感情を隠すの下手だからね。あんたが私たちのことを思って国王のことを口に出さないでいてくれたのは知っていたよ。でも…そのせいであんたがこんなに苦しむのは、私たちだって耐えられないんだよ」

御見通しだったか。私は唇を噛んだ。
私の心情を知りながら、普通に接してくれていたマチルダの心中を考えると、申し訳なさが溢れてきて、どうしても彼女の目を見ていることができなかった。
そんな私に、マチルダは少しだけ寂しそうに言う。

「本当はね、判っちゃいるんだよ。国王だって、好きであんたの父君を討ったわけじゃないし、私の父だって、討たなければアルビオン自体がやばかったってことくらいはね。王族にしては珍しく、身内を大事にしていたあの国王が兄弟を手にかけるんだ、国王だって平気な訳はないってこともね。
だから、ね…私も、国王を恨むのを…やめる努力をしてみようと思う」

意外すぎる言葉に、私は言葉を失った。

「今すぐには無理でも、時間はかかるかも知れないけど、努力はしてみる。努力しても結局ダメかもしれないけど、やっぱり国王を許せないかもしれないけど…それでも私は、私を気遣ってあんたが辛い方が…嫌だよ」

マチルダの言葉が、耳から入って、心の中に染み込んでいく。
幾ら何でも、その言葉は、今の私には優しすぎた。
四年前のあの日、親鳥のようにマチルダとティファニアを腕に抱いて守っていこうと思い上がった私がいた。
でも、今は、私がマチルダの腕の中にいることを、私は改めて思い知った。
致命傷だった。
必死になって支えてきたものが、呆気なく崩れてしまった。
幾重にも硬化の魔法をかけていたはずの涙腺の堤防が崩壊するのを感じながら、私は顔を覆って下を向いた。
これでも元は公女だ。
為政者に連なる者として、感情を殺す術は幼いころから叩きこまれてきた。
我慢するのは、得意なつもりだった。
心を鎧って、平静を装うことは、それなりに心得ていたつもりだった。
そんな鎧も、マチルダには通用しなかった。
肩を震わせて泣く私の口から出るのは、謝罪の言葉だ。
父の不明のせいで、不幸に巻きこんでしまったことについて。
御尊父を殺し、家名を辱めてしまったことについて。
彼女の人生を狂わせてしまった者たちの血族として、そのすべてに成り代わって、心から詫びた。
そして、それを判った上で、彼女の仇である伯父上の死を悲しむ私の身勝手に対する許しを乞うた。

言葉にすればするほど、必死に押さえつけていた気持ちが、本来の姿に膨れ上がって行く。
伯父上が、死んでしまった。
華々しい討ち死にの話など、聞きたくなかった。
惨めでもいい。冠を失ってもいい。この月の下のどこかで、生きていて欲しかった。
未来を知りながらも何もできず、不甲斐なさを恥じてただ泣く事しかできない無様な己が、情けなくてたまらなかった。
悔恨が、心を削っていく。
私に優しくしてくれた伯父上に、私は何一つ恩を返せなかった。
伯父上とマチルダ達を秤にかけて、今の生活を取り続けた薄情な私。
恩知らずで、優柔不断な自分が、どうしようもないほど嫌いだった。
年に2回、僅か半時ほどの伯父上との語らいに、私がどれほど救われたかは言葉では言い表せない。
今の家族に出会うまで、生き地獄の中で喘いでいた私に、つかの間であっても優しさをくれた人だった。
あの人がいてくれたから、私は私でいられた。
不意に、前世で母を亡くした時の事が脳裏に浮かび、私は改めて知った。
大切な人を失うことは、こんなにも辛いものなのだと。


肩に感じるマチルダの掌が、どうしようもなく暖かい。

今の私に、この温もりを感じる資格があるかは自信はない。
しかし、その手の強さが、そんなウジウジした気持ちをかき消すほど私の心に染み込んでくる。
身勝手なことは判っているが、今夜だけは、この温もりに甘えさせてもらいたかった。
一人では立ち上がれない情けない私に、差し伸べてくれたマチルダの手を取ることを、伯父上とマチルダに許して欲しかった。
そして、思う。
明日には、いつもの自分に戻って、心配してくれたであろうティファニアとディルムッドに謝ろう、と。
もちろんルイズにも、きちんと謝ろう、と。
いつか、アルビオンの伯父上のお墓に、不肖の姪であったことを謝りに行こう、と。
そして、こんな私に優しくしてくれるマチルダのためにも、明日はきっと笑おう、と。
それらの想いが滴になって、両の眼から落ち続けた。


月明かりの下で、仇を思って泣く私の肩を抱く姉の優しさを感じながら、私はただ、泣いた。


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