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いろいろあっての文化論 |
☆★☆★2010年12月26日付 |
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いったい日本は大丈夫なのかと、今年ほど諸外国から心配された年はないだろう。毎年のように代わる首相、大臣などは数カ月での交代も珍しくない。一部の国は、そんな日本を見下す態度まで見せているが「逆も真なり」。つまり日本は、突出した指導者を仰がなくとも、国家が成り立つほどに成熟した国だとも言える。 そうではあっても、基本はしっかりとしなければならない。その基本には、自分たちの文化とか文明というものを、もう一度認識する必要があると思う。 明治維新後の急激な欧米文化の導入期には、日本は「風呂敷の文化」と言われた。素材そのものを雑多なまま包み込み、自分のものとして消化し切れていないという指摘がそこにはあった。 太平洋戦争末期には、米国の文化人類学者ルース・ベネディクト女史が『菊と刀』を発表。日本人の「恥の文化」に対し、欧米人は「罪の文化」と区分した。 他人の目を気にして、恥をかかないよう行動しようとする日本人に対し、宗教的な良心を精神の内部に抱え、罪の意識で自己規制する欧米人の優位性を説いたとして批判もあるが、日本人と欧米人を対比した文化論としては画期的な意味を持っていた。 『菊と刀』は、米国が戦後処理で日本の天皇制を維持するかどうかの判断に大きく影響したが、その戦争から生還した山本七平氏が、イザヤ・ベンダサンの筆名で書いたのが『日本人とユダヤ人』。 多神教と一神教、農耕民族と狩猟民族といった比較を行い、その中で「日本人は安全と水はただだと思っている」という指摘は今日でも忘れてはならない。ただ、同著が紹介した日本人は全員一致を理想とするが「ユダヤ人は全員一致は無効」とのくだりには、「完全な間違い」との指摘もある。 それでも、「日本人と○○人」という比較文化論に火を付けた功績は大きい。韓国と日本を比較した李御寧(イーオリョン)の『「縮み」志向の日本人』では、日本人は何でも小さくすることが好きだと看破=B俳句に盆栽に茶室、トランジスタ、おにぎり等々を例に、日本文化は小さなものに美を求める「縮み志向」だと論じた。 これに対し「おにぎりが縮み志向ならハンバーガーやサンドイッチを作った欧米人も縮み志向なのか」との反論もある。同著にはまた「日本では外国といえば欧米のみを念頭に置いている」との皮肉もあった。 ところがこれについては、すでに生態学者の梅棹忠夫氏が『文明の生態史観』で、その必然性を明らかにしている。 今年亡くなった同氏だが、これまでにない壮大なスケールで日本の歴史と文化を論じ、「日本と西ヨーロッパは、基本的な点で一致する。両者はおなじタイプの歴史を持っている」として、古代から中世、近世という区分を経て現代に至った歴史を持つのは世界中で西洋諸国と日本だけと、東洋における日本の独自性を強く主張した。 実は、梅棹氏の歴史論は英国の経済学者アーノルド・トインビーの主張がきっかけという。トインビーが、日本文明を中国を中心とする極東文明の分派と見たことに反発したわけだが、梅棹氏本人も自説は歴史体系としての構築までには至らなかったという認識。しかし明治維新や戦後日本が、なぜ素早く欧米の先進文明を導入して世界に肩を並べるまでになったかを新たな視点で解説した。 最後に、古くから言われている「熱しやすく冷めやすい」という日本人論。その観察が正しいとすれば、これまた逆は真なりで「冷めやすいが熱しやすい」となる。経済的にも精神的にも少々元気のない日本だが、なあに心配ご無用。時代が少し変われば、また国民的な熱気がふつふつとたぎってきますから。いや、ウサギ年の来年はきっと飛躍の年になると信じている。(谷) |
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集落の明日はどっちだ |
☆★☆★2010年12月25日付 |
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今月19日、住田町で開かれた「これからの集落のあり方を考えるシンポジウム」にお邪魔してきた。「限界集落」の言葉に代表されるよう、全国的に人口減少や少子高齢化が急速に進み集落の維持が困難になる地域が増えている。こうした中でのシンポジウムは、集落が果たす役割を再確認しながら、これからの支え合いのあり方について議論を深めようと、町が初めて企画したものだ。 基調講演とパネルディスカッションの2部構成で、講演を行ったのは明治大農学部の小田切徳美教授。農業経済学や農村政策論が専門で、過疎や限界集落など農村問題の専門家として政府の各種審議会委員も務めているという。 農村を取り巻くさまざまな問題の第一人者として知られる同教授はこの日、「集落を基盤とする地域づくりに向けて」と題して講演を行った。 冒頭、過疎化などの農村問題は「人」「土地」「ムラ」「生活基礎条件」、この四つの空洞化の拡大から生じるものといい、その基層にあるのは「誇りの空洞化」だという指摘があった。 若年層を中心に人が流出し、合わせて商店や交通手段がなくなっていき、耕す人や住む人のいなくなった田畑や家屋は荒れる。住民たちに「自分たちの地域なんか、どうせ…」という気持ちが生まれれば、以後の状況が好転することはまずない、ということだと受け取った。 シンポジウムは午後からの開催。この日は休日だったが早朝から複数取材をこなし、昼食をとってからすぐ入った暖かい会場。若干まどろんでいたが、この導入部分にハッとさせられた。わが気仙地区にも当てはまる要素が盛り込まれていたからだ。海に山、歴史など地域資源を生かして地域おこしに汗を流す人がいる一方、「田舎だから」「何にもない」と卑屈になる人も多数。気仙だけではなく、これが現状だろう。 同教授は、こう続けた。「これまで国などによっていくつかの対策は行われてきたものの、その場しのぎで本質の究明には至っていない。住民の誇りの空洞化にメスを入れること、自信や誇りを再建できるような政策や対応が、いま求められている」と。 「その場しのぎ」で当方が連想させられたのが、過疎法。人口減少が著しい市町村を過疎地域に指定し、元利償還費の7割が地方交付税で手当てされる過疎債発行などを通じて支援するものだ。 10年間の時限付き議員立法として昭和45年に初制定され、平成12年施行の過疎地域自立促進特別措置法までの3回は指定要件などを見直して新法に衣替えしながら継続してきた。 本年度の改正により期間が6年間延長され、市町村道や下水処理施設といった従来の社会資本整備だけでなく、医師確保や集落活性化などのソフト事業にも過疎債の使途を拡大した。 会場他の住田町は、昭和55年に過疎地域振興特別措置法以来、過疎地域指定を受けており、今回の改正でも対象に。同町ではここ10年、約37億円の過疎債を主に生活基盤整備に活用してきた。しかし、広大な面積の中に集落が点在し、効果は必ずしも波及していない。人口減少も依然として歯止めがかからず、65歳以上の人口比が4割に至らんとするなど超高齢化社会を迎えつつある。 生活基盤がある程度整って暮らしやすさが担保されたとしても、イコール誇りとはなり得ず、人口減少を筆頭とする課題は山積。では維持活性化の礎となる「誇り」は、どのように醸成していけばよいのか。 1970年代からコミュニティー活動を展開してきたという、広島県内のある地域組織の代表者の言葉が講演資料に盛り込まれていた。 「できることから、身の丈にあった活動を絶え間なくコツコツやっていく。その中からできたこと、始めたことへの愛着、誇り、生きがいが少しずつ生まれてくる。わたしたちの活動はそれを繰り返しただけにすぎません」 経験則からも、これからの集落に求められる第一義は人づくりということなのだろう。住田では過疎債のソフト事業で集落支援員の配置も予定しているといい、これらがどう作用していくか見つめていきたい。(弘) |
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地デジ難民を出すな |
☆★☆★2010年12月24日付 |
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9月頃からだったと思うが、わが家のアナログテレビに地デジへの移行を催促する告知スーパーが常時表示されるようになった。地デジ化のいっそうの推進を図るため、当初、来年1月から実施する予定だったものを前倒ししたのだという。 来年7月の地デジ完全移行に向け、地上・BSデジタル放送を推進する㈳全国地上デジタル放送推進協議会では、アナログ放送終了への取り組みを段階的に強化している。 一昨年7月からの第1ステップでは、アナログマークの表示がスタート。第2ステップとして、昨年7月からは告知スーパーの運用時間を増やした。 前倒しされた第3ステップでは、デジタル用の画面比率(縦横比)16対9をアナログ放送でも採用。画面比率4対3のアナログテレビには、調整用として上下に「レターボックス」と呼ばれる黒い帯が入った。 レターボックスに常時表示されている告知スーパーは、アナログ放送が来年7月24日に終了することや、地デジの受信準備を早く行うよう求める内容。ほかに、地デジ移行支援センター(デジサポ)の電話番号なども表示されている。 地デジへの移行を国民に広く周知する、という目的は理解できるが、この告知スーパーはどうにもうっとうしく、目に障る。観たい番組に集中できないし、ニュース速報や地震情報などの字幕と重なると、何が何だか分からなくなる。アナログのデメリットを強調するかのような周知法は、一種のネガティブキャンペーンであり、「スーパーの表示が目障りなら、早く地デジに移行しろ」と言われているようで気分が悪い。 こうした強硬手段により、地デジへの認知度は、かなり高いレベルで定着しているように思う。テレビ各局の番組やPRスポットを通じた周知広報活動も毎日のように繰り返されており、アナログ放送の停波時期を知らない人は、現在ではほとんどいなくなったのではないか。 総務省の調査によると、地デジ放送が視聴できる受信機の世帯普及率は9月末時点で90・3%。3月の前回調査から6・5ポイント上昇し、初めて9割を超えた。 残り1割の中には、経済的な理由で地デジに移行できない世帯も相当数含まれていると思われる。電波障害のため、地デジ化に時間がかかっているエリアも少なくないと聞く。ネガティブキャンペーンは、こうした視聴者の不安と危機感をいたずらに煽るだけで、残り1割の移行率アップに効果があるとは思えない。 同協議会が発表した「アナログ放送終了計画」(第3版)では、第4ステップ(停波半年前〜来年6月末)として、アナログ放送終了のスポットやお知らせ動画の集中的放送、アナログ放送時間の差別化を検討することを明記。 さらに、最終の第5ステップ(来年7月1日〜24日)では、停波前の一定期間、NHK、民放が「お知らせ画面」のみを表示することなどを検討するとしており、アナログ視聴者へのプレッシャーは今後、ますます強まりそうだ。 しかし、まだ使えるものを買い替えるのはもったいないことだし、エコじゃない。アナログのテレビを使い続けることは賢明な選択肢の一つであり、この段階で地デジへの移行を強要するようなやり方はどうかと思う。 地デジへの完全移行で最も重要なのは、新たな障害でテレビが見られなくなる世帯など、地デジ化したくてもできない地デジ難民≠出さないことだ。 そのためにお金をかけ、国を挙げて取り組むべきことは、過剰なまでの周知活動ではなく、難視聴対策ではないか。 地デジ化の推進は国策である。ならば、アナログからの完全移行は、国内すべての地域、すべての国民にデジタル電波を確実に届けるという責任を国が果たすことが大前提となる。(一) |
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古文書を足で読む人 |
☆★☆★2010年12月23日付 |
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師走に入って9日目の朝、1人の郷土史研究家が逝った。気仙の歴史の道を踏査することをライフワークとしていた大船渡町の山田原三さん、享年86。大船渡ではこの朝、今冬一番の冷え込みだった。 遠野市綾織出身の原三さんが、縁あって気仙の人となって40年余。これまで自慢の健脚で気仙の山野を駆けめぐっては、古碑や氏神など古くから地域の人々の生活を支えてきた民間信仰の証を丹念に繙き、気仙史の掘り起こしに精力的に取り組まれていた。 葬儀の日、郷土史研究の師であり、良き協力者でもあった大船渡町の平山憲治さんは、弔辞の中で原三さんを、「古文書を足で読む人」と話されていたことが深く印象に残っている。 古文書や既存の郷土史刊行物の内容が正しいかどうか、実際に自分の足で確かめてみないと気が済まない性分は、時として同じく郷土史を研究する人たちの反感を買うこともあった。 「地域の歴史を後世に正しく伝え残すこともわれわれの使命」が口癖だった。これまで大先輩たちの努力によって刊行されてきた郷土誌はもとより、由緒書き、家系図などに、つねに疑問をぶつけてきた。 頑固一徹、足でこまめに歩く信念の実証主義者≠ヘ、関係者にとって煙たがられる存在でもあったことだろう。 この点、本人は百も承知していた。生前、こんな話を聞いている。 「86歳を過ぎ、五体不満足のきょうこの頃、今日まで気仙各地の古老たちにもいろいろと教わりました。また小言やお叱りも受けました。修業不足と反省もしています」 「ただ、今まで気仙の多くの人たちの世話になり、快く資料を提供してもらったり、調査に協力していただいたことへ、その万分の一でも恩返しできれば」と本紙への投稿はじめ、老いてますますの向学心で研究に没頭しておられた。 私が原三さんと初めてお会いしたのは、大船渡市歩こう会の「歴史の道ウオーキング」に同行取材した時だった。道ばたで目につく名もない石碑の由来や、地元に伝わる歴史よもやま話を披露してくれた。 住田町世田米の住田高校向かいにある樺山三十三観音にも連れて行ってもらったことがある。そして、気仙三十三観音信仰の案内役、生き字引≠ナもあった。 「どこの山、里にも信仰がある。長い間、地域の人たちは何を支えにして生きてきたのか。信仰の証として残る古碑、仏像をたずねることで、そこに住む人々の思いが伝わってくる」と熱っぽく語られていたことを、つい昨日のことのように思い出される。 体調がすぐれず、通院の日々だったことは、後で聞いた。それでも亡くなる数日前まで、いつものように平山さん宅を訪ね、郷土史談義で盛り上がったという。 私が最後にお会いしたのは、11月23日の『勤労感謝の日』。住田町農林会館で開かれていた県立博物館の埋蔵文化財展の会場だったが、あの時、ゆっくりお話できなかったことが今も悔やまれてならない。 天気さえ良ければ山道を縦横無尽に歩き、雨の日は自宅で古文書の解読作業に没頭するのが日課だったという。 晴歩雨読≠フ日々を過ごした原三さんの法名は「尋源院釋芳信」。今ごろ、ゲンゾー先生はどこの山を歩いているのだろうか。安らかにお眠りください。この世に置いていった宿題は、きっと引き継ぎますから。合掌。(孝) |
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「足るを知る」ということ |
☆★☆★2010年12月22日付 |
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月日の経つのは早いものだ。机の脇にさげているカレンダーも1枚きりになった。それを見ているだけでなにやら、寒さが身に染みてくる。 出勤した日の昼休みは車の中でCDを聴きながら横になる。外の風は冷たくても、晴れた日の車内はお日様のおかげでポッカポカ。そんな時、幸せだな、とつくづく感じる。 この時期、休みの日などはコタツに入って横になる。そこにお日様の光が差し込んできて背中を温めてくれようものなら、それだけで満足度100%である。 若いころは他人に負けたくないという思いがあった。功名心もあった。お金をいっぱい儲けたいとも思った。それこそ、見上げれば切りがないほどの欲があった。しかし、年齢を重ねるごとにそんな欲がそげてきた。 素直に自分の才能や徳性を自問してみれば分かる。どうあがいても上には上がいる。それなのに人を押しのけ、足を引っ張り、蹴落とそうとしても疲れるだけ。さまざまあげつらえば、かえって自分が惨めになる。 置かれた状況を自分に見合ったものとして受け入れ、満足することから始める。そうすれば不平不満や我欲は生まれず、おのずと争いも起きない。 何年前だったろうか。「知足」の人というべきある人物の本を読んだ。以来、私もそんな生き方をしたいと考えるようになった。 改めて足もとをみれば、支え合う大切な家族がいる。 たまに妻と五葉温泉へ出かける。入浴後にマッサージを受け、それから一緒に昼食をとる。何にも代え難い贅沢なひとときだ。 娘たちはそれぞれが希望する大学に進み、充実した生活を送ってくれている。そのことにも感謝せずにはいられない。 私自身、「天職」「天命」とも思える仕事までさせてもらっている。その上、家族が生活できる収入もいただいている。 さらに助け合って生きる親族がいる。信頼し合える友もいる。尊敬の念を持ってお付き合いさせていただける方々もいる。気がつけば、人々のネットワークはいつしか気仙という垣根を越えて広がっていた。 どれもこれもがありがたいことだと思わずにいられない。 人から見ればささやかな幸せかもしれない。しかし、私にとっては十分過ぎるほどの幸せである。 ただ、「足るを知る」といっても現状に満足しきって何もしないということではない。自分が置かれた状況で精いっぱいの努力をしないと、そのささやかな幸せを守り通すことはできない。 陰日向なく精いっぱい努力さえしていれば、自分が望もうと望むまいと、やがて新たな展開がめぐってくる。そうなったらなったで、その時また全力を尽くせばいい。それだけの話だ。 とはいえ、時にはさまざまに欲が頭をもたげ、嫉妬心も湧いてくる。ついつい安易に妥協してしまいそうにもなる。もっと上昇志向を持つべきなのかもしれないという誘惑にも駆られる。やはり、私は凡人なのである。 生きていればいいにつけ、悪いにつけ全く予期しないことが起きる。悪い事柄は、それは定めとして受け入れるしかない。そうであっても日常の中にささやかな幸せを見出していきたい。それが凡人である私にふさわしい「知足」の生き方なのではないかと思う。 「足るを知る者は富む」(老子)とか。満足することを知っている者は、たとえ貧しくても心は豊かであるという。そうありたいとも願う。 今年も残すところ、あと10日。幸せに過ごしてきた日々のなんと早いことか。(下) |
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肩に痛みは数々ござる |
☆★☆★2010年12月21日付 |
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何事もバランスが崩れると不調が始まるようだ。めったに運動をしない人間はなおさら体内のバランスが崩れやすいようで、四十肩にはじまり五十肩、六十肩とここ20年間というもの完治せぬまま悩まされ続けてきた。 肩が痛くなるのは、肩関節周囲炎とよばれ、文字通り肩の関節に炎症が起きるために痛みが伴う。それはまさしく運動不足がもたらすもののようで、中高年になっても適度な運動を続けていると起きにくいことだけは確か。同じ世代の友人は毎日縄跳びを続けているため、そんな不調とは無縁だと聞いて縄だけは買ったが、三日坊主に終わった。 五十肩がもっともひどかった。ちょっと腕を伸ばしただけで激痛が走り、腕が上には上がらない。物を投げることもできなくなり、1年ほど憂鬱な日々が続いた。 それがケロリと治ったのは、タイの小島に住む悪友を訪ねてバンガローで過ごした時だ。そのバンガローを経営している女性が話を聞いて「どれどれ」とばかり腕をマッサージしてくれた瞬間、思わずヒジにビビっと電気が走り、ものの見事に痛みが取れた。タイの民間療法なのだろうか。その効き目には正直、奇跡が起こったように驚いたのである。 しかしこれで肩や腕の痛みから解放されたわけではない。五十肩ほどひどくはないが、60代になってから左右の腕に常時不調を感じるようになり、就寝中に寝返りを打ったときなどその痛みに思わず目を覚ますこともたびたびとなった。 肩というよりは腕だからこれは「腕関節周囲炎」とでも呼んだらいいのだろうか。普段の作業にはなんら支障があるわけではないが、痛みをもたらし続けるその頑固さにはただただあきれるばかり。 五十肩の痛みについて当方の体験談を聞いていた知人は、やがて自分も体験するようになり、そのひどさを訴えてきたが、「なにやがて治るさ」と慰めたらその通りとなった。しかし六十肩、七十肩と姿形を変えてやってこないとは保証できない。そのためには縄跳びでもなんでもやってバランスを整えるべきだろう。 先日はその痛みがどこかへ消えて「もしかしたら」と回復を期待したら、数日後には元へ戻った。〈頑固〉が〈骨休め〉しただけだったのかもしれない。 こうして〈宿痾〉ならぬ〈宿痛〉に悩みながら、病院にも治療院にも行かず、マッサージや鍼灸のお世話にもなっていないのは、まだ痛みが足りない?からだろう。しかし先日は腰痛を起こし、たまらず治療してもらった。その後も腰痛の黄信号がともったから、今後は要注意である。内臓には目下のところ問題は起きていないが、関節や神経はどうやら鬼門か? とはいえ「歳を取ってろくなことはない」と嘆きつつ、なんの対策もとらない不精者に今度はどんな伏兵が待ち受けているか、考えるだにおそろしい毎日だ。(英) |
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米子長者≠ニ地名の謎 |
☆★☆★2010年12月19日付 |
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幾百年、時に1000年以上もの長い歴史を持つ地名には、秘められた物語が詰まっている。それだけに伝承や古語、アイヌ語など先達の研究をふまえて、気仙の地名についても何かまとめたものにできないかと夢みている。 一体、地名にはどんな物語があるのか。全国の例から、その謎めいた魅力を味わってみたい。まず、前にも紹介した滋賀県米原(まいばら)市の「小田」。これで「やないだ」と読ませている。 どう考えても、小からヤナなりヤナイの発音は連想できないのだが、もともとは「梁田」だった。地名を記録した古文書がネズミにかじられ、梁の字の一から上の部分が消えてしまい、「小」としか読めなくなったという。書き物があることで、かえって地名表記が変化した典型例だ。 有名な大阪。読みは、もちろん「おおさか」。その表記も明治以降からと、比較的新しいことも広く知られる。問題は、「大坂冬の陣」とか「大坂夏の陣」と言っていた大坂が、なぜ大阪になったかだ。 もともと「尾坂」や「小坂」の表記で「おさか」と呼ばれていた地。坂のある台形の土地柄だったようだが、中心部にあった寺の勢力拡大に伴って大坂の字を当てたとか。 明治を迎えて鉄道が走るようになり、駅員があの独特の節回しで「おさか、おさか到着でございます」と言ったのが、どうしても「おぉさか」としか聞こえず、その発音が「おおさか」に定着したという説明もある。 さらに明治維新は、武士の世をひっくり返して実現したわけだから、それに不満を持つ旧武士があちこちにいた。「坂」の字は、士と反で成り立つから「士族の反乱」とも解釈できる。そうなっては大変なため、「阪」の字に変えたというものだ。 別説もある。廃藩置県で大阪府が設置されると、行政用の公印が必要になった。その印鑑制作を依頼された業者が、印刻のモデル図書から「さか」を探したところ「阪」の字だったので、それで納品した。すると役所では「ハンコが大阪だから公文書もそれに合わせましょう」と、大阪が公認されてしまったというウソのようなホントの話?もある。 九度山。和歌山県北部にあり、戦後武将・真田幸村の配流地として知られる。読みも「くどやま」。何の変哲もなさそうだが、由来の解説書によれば高野山を開いた空海が、山頂を女人禁制としたため、その登山口に当たる場所に母を住まわせ、毎月九度訪ねたので「九度山」になったという。 話は、それだけで終わらない。天照大神の妹・丹生津(にゅうつ)姫が、この地に稲作を伝え、米を炊く竈(かまど)を作ったとの伝説もある。カマドの古語は「くど」。ケセン語でも「くど」はカマドのことだが、れっきとした日本語だったわけだ。このカマドの意味の「くど」から九度山になったという説もあり、地名は何か一つでは説明しきれないところに難しさがある。 コメに関連した地名には、鳥取県に米子市がある。誰でも「よなご」市と読め、これもそう難しい地名ではなさそうだが、由来が面白い。 遠い昔、この地の神社近くに長者夫婦が引っ越してきたが、子どもに恵まれなかった。そこで神社に日参。「どうか子宝を」とお願いし続けたら効果があった。とは言っても、子どもを授かったのは、長者八十八歳の時というから驚き。 米の字を分解すると「八十八」になる。そこから米寿というおめでたい言葉にもつながるのだが、米子の由来が「八十八歳の子」とはホントかしら。 地名解説書では「米子が八十八歳の子なら、全国の白子(しらこ、しろこ)地名は九十九歳の子の意味になってしまう」と、疑問を投げかけている。 少子時代の今、米子長者≠見習うぐらいの気持ちも大切だが、気仙にも不思議な地名がたくさんある。山の沢々や川の淵、磯辺などを含めて、高齢者が自分の知る範囲で呼称とその由来を書き残してくれれば、後進には貴重な宝物となるのだが…。(谷) |
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「体の要」を大切に |
☆★☆★2010年12月18日付 |
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朝晩の冷え込みも厳しさを増し、本格的な冬の訪れとともに年末の慌ただしさが感じられるようになった。今年もあと2週間を残すところとなり、この1年の「自分」を振り返ってみたい。 まず真っ先に思い浮かぶのは、とにかく今年は腰痛に悩まされたことである。春ごろから腰回りに違和感をおぼえ、“だまし”ながら体を動かしてきたが、秋になって耐えられないほど痛むようになって思わず病院へ駆け込んだ。 レントゲンやMRI検査の結果、医師から「背骨の一部がぐらついて神経を圧迫しているようだ」と診断。1日3回食後の痛み止めの薬を飲む羽目となり、朝晩は座薬を使った。 しかし、痛い。寝ていても、座っていても痛い。特に立っているときがきつく、1分も立っていられないほどだった。医師からは「時間がかかるかもしれないが、痛みはきっと治まるはず」と言われ、その言葉通りになるよう“一日千秋”の思いで薬を欠かさず飲み続けたが、痛みは治まらなかった。 普段の取材活動で、立ちながら人の話を聞く機会は多いが、腰が痛かったこの時期は誰の話を聞いているときも「気持ちここにあらず」で、「早く取材を切り上げて座るなり、横になりたい」と思いながら耳を傾けていた。 それまでも何度となく腰痛に悩まされることはあったが、この時の痛みは尋常でなく、ただひたすら薬の効果に期待するばかりの日々だった。 しかし、1週間過ぎても治まらず、10日過ぎても症状は緩和されなかった。夜は眠れず、痛みから何度も起きてしまう始末。それに加え、右足首周辺がしびれるようになり、家の中でスリッパを履いていると右足だけが脱げやすく、少しの段差にもつまずくようになっていた。 そんなある日、寝不足から頭がスッキリしていなかったこともあって、薬を飲み忘れてしまった。ところが痛みは同じ。薬を飲んでも飲まなくとも、痛みは同じだった。 そんな時、偶然にも病院で親せきにバッタリ。かなり以前から腰痛に悩んでいるらしく、「試してみたら」と『マッケンジー体操(腰痛体操)』という本を手渡された。 この体操は、ニュージーランドの理学療法士・ロビンA・マッケンジー氏が考案したもので、腰部分を伸ばすエクササイズ。簡単に説明すると、腰を反らせるか、いすに座って前かがみになる動きをして腰痛を治すというもの。 これまで、腰痛と言えば腰を背中の方に反るような動かし方は厳禁とされていたが、現在ではこのような動かし方が多くの整形外科や整体院で指導され、特に椎間板ヘルニアを含む椎間板損傷による腰痛の治療、姿勢不良や関節機能不全による慢性腰痛治療に効果を上げているという。 この本を手に、さっそくわらをもつかむ気持ちで床にうつぶせとなり、両手を胸のわきに持ってきて上半身を背中の方に反らせ、10秒ほどアザラシのような形をとった。これを3セット繰り返してみたところ、初めて試しただけで少々痛みが引いたような気がした。 そこで、朝晩の日課にして3日ほどたつとほとんど痛みがない状態となり、あれほどの悩みがうそのような晴れ晴れとした気持ちとなった。 もちろん、腰痛が治まったのはこの体操の効果なのか、医師が言った通り痛みがなくなる時期がようやく訪れたのかは分からないが、年末を迎えてこれまでの悩みから解放されたことに、まずはホッとしている。 ふだんから多少の運動を心掛け、食生活にも気を配るなど、これまで以上に「体の要」をいたわりながら生活していくことの大切さを痛感した平成22年だった。(鵜) |
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見本をなぞる日々 |
☆★☆★2010年12月17日付 |
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字を書くのが下手だ。今までは文字は読める程度に書けさえすればそれでいいと思っていたが、最近ようやく「形も美しくありたい」という願望が芽生えた。 先日、書店でボールペン字の教本を購入した。1日3〜5n程度の練習量だから正味20分ほど、見本にならい薄く書かれた線の通りに書くだけだから小学生でもできる。教本によると、文字の全体的なバランス、美しさいかんの前に「線をまっすぐに引くこと、曲線をきれいに描けるようになるだけで字が整ってくる」のだという。その一文を読んで、すでに字が上手になった気がした。 しかし、いざ見本をなぞってみると、主線からはみでたりラインがゆがんだり、偏ったりとうまくいかない。まっすぐ引いたつもりが本当につもり≠セけだったりする。そして思いのほか集中力が続かない。 古代ギリシャの数学者アルキメデスは、砂地に描いた幾何学図形に夢中になり、ローマ兵に誰何されても返事をしなかったために槍で突かれて殺されたという。死んでしまうほど夢中になれるなんてうらやましい、その力を私にもください!――と思いつつ、途切れる集中力を補うべく、発想を変えて図形に見立て字を整えて書いてみる。少しはさまになってきた。 なぞり、なぞらえることで、形になって身に付いてくる。 同様に世の中の大部分は、なぞらえていたら形となり身(実)となることばかりだなと、ボールペン字の練習中に雑念が入り交じった。 来年は数え年で33歳、厄年に行う気仙地方独特の同窓会「年祝い」が正月に開催される。一種の伝統行事であり、その運営は地元にいる者が行うのが当然…ということで筆者にも声がかかり、本番へ向けて同級生たちとともに手伝いをしてきた。 はじめは「先輩たちもやっていたことだから、その通りやってみますか」と、前例≠まねればいいという気楽な流れだった。先輩たちから資料提供や助言、教訓もいただき、準備を始めたが慣れぬ作業に四苦八苦した。しかしそこは同級生同士、思い出話や近況報告に花を咲かせつつ、時に楽しく事を進めてきた。 先輩のあとをなぞればいいと思っていた伝統的行事は、準備が進むにつれ、どんどん味や実りが出てきた。自分たちの代はこんな会にしたい、というアイデアや発想など年祝いそのものの中身の充実に加え、同級生たちと相互に連絡していくうちに、同級生のつてで知り合えた人もあり、旧知の仲でありながら改めて新しいネットワークがつくられた。 さらに同じ年齢の方とは各学校の状況などを互いに情報交換、年下からは年祝いの相談を受けたりもする。そして同年代に限らず、気仙に住まう大人にとって年祝いは共通の話題となり話も盛り上がる。それこそ年祝いのおかげで縦横無尽に関係が広がってきた。 年祝いの準備を通じて、形となってきた私たちの年祝い≠ニ改めて同級生たちと紡がれた交友関係。このことは人生の中でもかけがえのないものになると確信しながら、本番に向けて最後の追い込み準備をしている。 そう、年祝いで実感したのだ。「なぞらえていけば形になり、想像以上に身になる」ことを。ちょっとくらいうまくいかなくても愛きょう、それが持ち味にだってなる、だから同様に…とすでにボールペン字の練習に挫折しそうな己の心に言い聞かせている。 そして年祝いがなければ字をきれいにしようと思わなかった。案内状作成や恩師への手紙等で直筆で書く機会と必要性が急激に増え、その都度大人げない筆跡をみんなに届けるのかと、何度気が滅入ったことか。 美しくなる気配を見せない自身の筆跡をにらみながら、いまも見本の文字をなぞっている。(夏) |
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続・平氏の末裔「渋谷嘉助」(36) |
☆★☆★2010年12月16日付 |
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平氏の末裔の渋谷嘉助が、明治時代に大船渡の地に来て石灰石の採石事業を始めた時、気仙の地が平安時代に、同じ平氏である平重盛の荘園であったことを知っていたかどうかは分からない。 今日のセメント産業に発展する基礎を築いた渋谷嘉助が、なぜ、気仙を選んだのかも、今のところ定かでない。いろんな資料を読み進むうちにこの後分かることがあるかもしれない。 「怨親平等」の仏教精神で、敵味方の区別なく菩提を弔った平重盛。渋谷嘉助もまた全ての人を平等に愛する「一視同仁」の慈悲の心の持ち主であり、両者の間には信心深いという共通点がある。 気仙の地もまた、気仙五十五カ寺といわれたほど寺院が多く、神社や信仰碑も数多く存在する。そのことは昔から社寺を支える信仰心の篤い人々が多く暮らす土地柄であることを表している。 平氏と気仙のかかわりで、現在にその片鱗を見るとしたら、気仙に多く伝わる郷土芸能の剣舞に平家の平重盛の荘園だった歴史の片鱗がうかがわれると前に書いたが、気仙人が愛してやまないアツモリソウの花にも平家の歴史が重なってみえる、ような気がする。 アツモリソウの和名は、平敦盛が背負った母衣に見立てて名付けられたもの。気仙では増殖も盛んで守り育てており、気仙人のアツモリソウ好きは全国一ではないかと思うほどだ。その名の由来となった平敦盛は、平重盛の従兄弟にあたる。 平敦盛は、大船渡市日頃市町に伝わる板用肩怒剣舞の面にもなっており、源平合戦の一ノ谷の戦の最中に散った。「平家物語」のなかに「敦盛最後」があり、その最後は悲劇的だ。討ったのは源氏方の武蔵国の熊谷次郎直実。 沖にいる助け船に乗ろうしていた平家の公達たちの中に、萌黄匂の鎧を着て金覆輪の鞍を置いた連銭葦毛の馬に乗った17歳の平敦盛がいた。平敦盛は戦いを挑む熊谷次郎直実に向かって1人引き返し、波打ち際に上がろうとするところを取り押さえられて首を斬られ絶命した。 薄化粧をして歯を黒く染めた平敦盛の容貌があまりに美しかったので、熊谷次郎直実はどこに刀を刺してよいか分からなかった。可哀想に思う余り目の前が真っ暗になり分別心を失い、泣く泣くその首を斬った。平敦盛は錦の袋に入れた笛を腰に差していた。愛用の笛「小枝」は、祖父の平忠盛が鳥羽天皇から授かったもの。 熊谷次郎直実は「戦陣に笛を持って行くとは身分の高い人はやはり優雅なものだ」と言って源義経に見せ、また涙した。非情な戦に無常を感じた熊谷次郎直実は出家し、法力坊蓮生と名乗り、法然の弟子となり、極楽往生の「上品上生」を願った。平敦盛を討ったことが仏道に向かわせたとされる。 熊谷次郎直実の父の熊谷直貞は、桓武平氏の平盛方の子で、源氏方の武将ではあるが、平家の血を引くとされる。源平合戦では、敵味方に分かれたこうした例が多いのだという。 熊谷次郎直実に由来したクマガイソウも、気仙の地に咲いており、アツモリソウと共に守り育てられている。二つの花が揃って咲いている。それは、敵味方もない怨親平等を見るような象徴的な光景である。(ゆ) |
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