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テロ捜査資料とみられる文書がネット上に流出した事件で、警視庁、警察庁は「警察職員が取り扱った蓋然(がいぜん)性が高い情報が含まれる」との見解を発表した。個人情報をさらされた人への謝罪も、初め[記事全文]
亡くなった肉親を静かに弔っていた遺族のもとに「故人を祭神として祀(まつ)った」という通知が宗教団体から届いた。やめてほしいと求めると、「教義で取り消しはできない」と拒まれた。[記事全文]
テロ捜査資料とみられる文書がネット上に流出した事件で、警視庁、警察庁は「警察職員が取り扱った蓋然(がいぜん)性が高い情報が含まれる」との見解を発表した。個人情報をさらされた人への謝罪も、初めて公に表した。
あまりに遅い。
辞書で「蓋然」という語を引くと、「たぶんそうであろうと考えられること」の意だ。はっきり内部文書が漏れたと言い切ったのではない。個別の文書についての確認もしないという。この程度の見解なら、発覚のすぐ後に出せたはずである。
他国の機関との信義から慎重になった、などというのは組織の論理だろう。文書をそっくり転載した本が出版され、批判に抗しきれずに方針を変えたのではないか。認識が甘すぎたと言わざるを得ない。
あれこれ理由をつけ、不祥事をうやむやにしようとする。不安に陥れられた人を守ってもくれない――。市民は警察にそんな疑いを強めている。文書流出で損なわれたのと同じくらい、この2カ月間の損失は大きい。
国と東京都には公安委員会がある。市民を代表して「警察を管理する」のが仕事だ。報告を求め、指導する役割をどれだけ果たしたのだろうか。
114点の文書の中心は、国際テロ対策を担う警視庁外事3課に関連するものだ。同課は2001年の米同時多発テロの後、新設された。
イスラム教徒を幅広く監視し、プライバシーを調べ上げる。協力者として接近しつつ、テロリストと疑いの目で見る。報告のための報告でしかないような文書もある。表に出ないはずの公安警察の手法の一端が、明らかにされてしまった。
国内外のイスラム社会の間で、日本の警察や、日本そのものへの不信感が強まらないか。逆に、日本人の間でイスラム教徒への偏見が生まれないか。とても心配だ。
二度とあってほしくないが、万が一に、警察のような公的機関から個人情報が漏れた場合、被害防止策や救済措置を迅速にとれる仕組みはないか。検討する必要があろう。
流出をめぐる捜査は難航している。あきれるのは、外事3課が機密性の高い情報を扱っていたにもかかわらず、その管理がずさんだったことだ。
警察内のネットワークに連なるパソコンには、保全策は施されていた。ところがネットワークから独立したパソコンでは、情報持ち出しを防ぐ措置は十分でなかった。海上保安庁を含め、日本の行政機関の情報管理のちぐはぐさは、危機的ではないか。
捜査の徹底と関係者の処分、再発防止、被害者への対応、そしてテロ対策立て直し。警察は、信頼回復への道のスタートラインに立ったばかりだ。
亡くなった肉親を静かに弔っていた遺族のもとに「故人を祭神として祀(まつ)った」という通知が宗教団体から届いた。やめてほしいと求めると、「教義で取り消しはできない」と拒まれた。
憲法の「信教の自由」を持ち出すまでもなく、当事者になったとすれば、納得がいかない話ではなかろうか。
戦争で死んだ父や兄が、意に反して靖国神社に「英霊」として祀られ、合祀(ごうし)の取り消しを拒まれた遺族の思いもそのようなものだろう。
そうした遺族らが靖国神社の合祀の名簿から親族の名前の削除などを求めた裁判で、大阪高裁は先週、一審に続いて訴えを退けた。遺族は国とともに靖国神社を被告とし、故人をしのぶ権利が侵害されたと主張していた。
判決は、靖国神社にも信教の自由が保障されており、遺族の主張は合祀に対する不快な心情や靖国神社への嫌悪の感情でしかない、と指摘した。
判断のよりどころは、1988年の殉職自衛官合祀訴訟の最高裁判決だ。殉職した夫を遺族の意思に反して、護国神社が合祀したのは違法と訴えた妻に対し、最高裁は「寛容であれ」と諭した。神社の宗教活動の自由のために私人は我慢するべきだという論法だ。
今回もこの考えを踏襲して「しのぶ権利」は法的に保護する利益にあたらないと判断した。しかし、信教の自由とは本来、少数者の保護をめざすことに意味があるのではないか。この場合、遺族らがそれにあたる。
靖国神社は敗戦まで国家神道の中心にあり、軍国主義のシンボルだった。合祀対象者は陸海軍の大臣が天皇の裁可を得て決めていた。
戦後は一宗教法人になり、合祀対象者は靖国神社が決めることになったが、旧厚生省は戦没者の名前や旧軍での階級などの情報を都道府県に求め、それを神社に提供した。都道府県から合祀を遺族に通知させ、合祀事務にかかる費用は国庫で負担した。
そうした事実は3年前に国立国会図書館の新資料で明らかになり、それを原告が法廷で指摘した。
高裁判決は、こうした国の関与について「国の協力が靖国神社の合祀という宗教行為そのものを援助、助長し、影響を与えた」として、憲法の定めた政教分離原則に違反すると指摘した。
国による合祀への積極的な関与を認めた初の司法判断である。正しい認識と評価できるが、結論は「合祀自体は、靖国神社が行う自律的な宗教行為」として、国の責任を認めなかった。裁判所はこれで、信教の自由を守る側に立ったと胸を張れるだろうか。
国民を戦争に駆り立てた国家神道の歴史を鑑みれば、靖国神社にまつわることがらでこそ、政教分離の徹底が求められる。東京や沖縄でも同種の訴訟は続いている。推移を注視したい。