◇ドンキー吉田(ジャンクハンター吉田)氏インタビュー | |
64マリオスタジアム後期からマリオスクール、後のマジック王国まで、番組スタッフ兼レギュラーメンバーとしてご活躍された、ドンキー吉田ことジャンクハンター吉田様のご厚意により、番組放送当時の裏話や思い出など、貴重なお話を伺せて頂きました。 |
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◆ドンキー吉田(ジャンクハンター吉田):プロフィール プロレスラー、ゲーム・映画コラムニスト、ジャーナリスト。東京都北区赤羽出身。 俳優チャック・ノリスがロサンゼルスにて経営していたマーシャルアーツ道場に1989年に入門、1990年よりアニマル浜口トレーニングジムに移籍、1991年にスポーツ会館サンボスクールに移籍。1993年正道会館を経てプロ格闘かとして活動した後、怪我の為に引退。 2000年以降からはCMA東京に所属、同年12月24日、東京国際フォーラムでのちん戦にてプロレスレビューし、現DDT所属、男色ディーノのデビュー戦を務めたのちに休業。 現在は有限会社クルーズ代表取締役、マーズシックスティーン取締役、自社媒体のエンタジャムなど、ゲーム業界、映画業界、出版業界を主軸にし、各社でコンサルティングやスーパーバイザー、ジャーナリストとして活動中。 ■司会・出演 ニコニコチャンネルGTV エンターブレイン「ファミ通Wave DVD」 テレビ東京「64マリオスタジアム」(番組スタッフ) テレビ東京「マリオスクール」(番組スタッフ兼ドンキー吉田名義で出演) 映画『ケータイ刑事 THE MOVIE2 石川五右衛門一族の陰謀〜決闘!ゴルゴダの森』 フジテレビ「スーパーニュースWEEKEND 特集:映画とゲームの融合」 (他多数) ■著書 ゲームになった映画たち シネマゲーム完全読本<編著>(三才ブックス) 超クソゲーINTERNATIONAL バトルゲーム大全<ゲストライター>(大田出版) 北京五輪もヤバい!? ドーピング毒本<ゲストライター>(洋泉社) ■連載 ジャンクハンター吉田の電脳オクタゴン(エンタジャム) シネマゲームバカ一代(エンタジャム) ジャンクハンター吉田のゲームシネシネ団(4Gamer.net) Game Union(三才ブックス) (他多数) ※プロフィール参考:Wikipedia -ジャンクハンター吉田- |
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※このインタビューはTwitter、メールでのやり取りをインタビュー方式にまとめたものです。一部発言、質問には加筆及び、修正を加えています。 ※このインタビューは、ジャンクハンター吉田様の個人的なご厚意によりご回答頂いたものであり、株式会社テレビ東京、株式会社マックスコミュニケーションズ、株式会社テレビマンユニオン、任天堂株式会社の公式の回答ではありません。 ※記事の無断転載はご遠慮ください。 |
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■番組参加の経緯 ――まず最初にジャンクハンター吉田さん(以下、吉田さん)が『64マリオスタジアム(後期)』から番組スタッフとして参加する事になった経緯をお伺いたいと思います。どのようなきっかけで、番組スタッフとして参加する事になったのでしょうか。 渡辺浩弐さんの会社GTVがきっかけです。 Gpara.com(ジーパラドットコム)(※)にて、2001年から世界初の月刊DVDマガジン『ジーパラDVDマガジン』を創刊すると伺い、2000年夏頃から準備スタッフとして、GTVにてDVDの企画や取材などを行なっていました。 その頃、GTVは『64マリオスタジアム』の仕事もされていた為、この番組の制作会社であったマックスコミュニケーションズの前田社長を紹介されまして、「ゲームが得意ならゲームのプレイや企画にも参加してくれないか?」と引っ張られたのです。 その後、『マリオスクール』ではテレビマンユニオンが制作会社となり、マックスコミュニケーションズで仕事していた僕はディレクター2人、AD1人と共にテレビマンユニオンへ移動。 2000年秋から春まで企画ライター集団『Studio J's』(1998年〜2002年まで運営)名義で『マリオスクール』の企画やらゲームプレイなどを担当してました。 ――なるほど…。そんなマリオスクール時代、吉田さんは本来の「ジャンクハンター吉田」でなく、「ドンキー吉田」の名でご出演されてましたが、何故、「ドンキー吉田」と名乗る事になったのでしょうか? ”ドンキー吉田”というのは『マリオスクール』限定の名前ってことで、当時テレビマンユニオンでディレクションを務めていた田中さんが名付けてくれました。 「”ジャンクハンター”だと長すぎるし如何わしい」「任天堂のキャラクター名にした方が子供たちにウケるだろう」とのことから、”身体がデカイ=ドンキーコング”みたいだから”ドンキー吉田”になったのです。 予算がない&喋れるし、子供に好かれているからなど諸々の理由で、吉田が任天堂キャラの名前をつけて出演しろとの指令を受けて、ああなった次第です(笑)。 ■64マリオスタジアム後期〜マリオスクール時代の迷走は何だったのか? ――番組紹介ページで記している通りですが、視聴者の立場から見て、64マリオスタジアム後期からマリオスクールは、内容面に迷走が見受けられました。 当時、現場では何が起こっていたのでしょうか? 当時の任天堂はポケモンしか大ヒットしているものがなく、番組の視聴率を上げる為、トランセル種市さん(任天堂系雑誌編集者の方)を子供達のヒーローにしようとスタッフは画策したりしていました。そのせいで後期は、カオスになってた覚えがあります(笑)。 また、スポンサーである任天堂の山内社長(当時)は、気難しいぐらいSCE(ソニー・コンピュータエンタテインメント)の攻勢に落ち目だった任天堂に対し、檄を飛ばしてましたね。 先の通り、僕自身は『64マリオスタジアム』の末期辺りから番組制作へ参加したのですが、その頃から山内社長はテコ入れの為、僕らのケツに火をつけてました。 『マリオスクール』の時も、視聴率5%を切ったら打ち切りと、厳しく言われてたのですが、余裕で5%を切っていたので、結果として打ち切りとなってしまいました。 あの頃はSCEのプレイステーションに全ての話題を持って行かれていたのもあるんで、任天堂としては「64マリオ〜」から「マジック王国」は黒歴史ですね(笑)。 ――当時の任天堂を象徴するかのような裏話ですね…。 僕らスタッフは常に必死でした(笑)。 特に何か企画しても、電通関西を経由して任天堂。そして任天堂から電通関西経由で、僕らスタッフへと企画にOKかNGと出してくるので、胃の痛い思いをしてましたね(笑)。 ――心中お察し致します。。そんな企画の話に移りますが、『スーパーマリオスタジアム』で当時、無名の爆笑問題がメインバトラーとして活躍した『デカコンバトル』、『64マリオスタジアム』の初期副司会、内山信二の『内山のファイト一発!』がありましたけど、これらの企画が途中で終わってしまったのにも、そう言った事情があったのでしょうか。 『デカコンバトル』は、コーナー内での太田さんのプレイスタイルが山内社長に大きく問題視され、打ち切られたようです。その事から、64マリオスタジアムでは、任天堂の社員の方から「(爆笑問題を)64マリスタで起用しちゃダメですよ」と釘を刺されましたね(笑)。 内山くんのもちょっと、山内社長がお気に召さなかったからフェードアウトしたと、当時のスタッフの方から聞いています。 ――となると、スタッフサイドは常に緊張感に包まれていたのですね…。 でも、スタッフのみんなは凄く良い人ばかりでした。出演者の方も、特に徹さん(渡辺徹さん)はスッゴク良い人で、現場としては恵まれてましたね。 ■出演者の裏話 ――次に出演者の方々のお話になりますが、『マリオスクール』には今や『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒ役で有名な女性声優・平野綾さん、『仮面ライダー響鬼』の安達明日夢役で人気を博した俳優、栩原楽人さんが子役で出演されてました。 当時のお二方は吉田さんから見て、どんな方々だったのでしょうか。 平野綾ちゃんは明るくて、飛びっきりカワイイ子でしたね〜。 「笑顔が最高!」と僕らスタッフの間では言われてました。 なので、将来は女優の道へでも進めればねと、僕らスタッフの間で話題に挙がってました。彼女は当時、まだ小学6年生だったので、全く擦れてない雰囲気を出していて、誰からも好かれてましたね。 番組卒業後、中学生役で制服でテレビCMに出ているのを見た時は、「あぁ、この子は女優になるんだなぁ」と思っていました。 そしたら、声優業へ転進されて…ビックリしましたよ!(笑) 栩原楽人くんは、小学生なのに自分の顔写真付きの名刺を持っていたのが印象的でした。性格的にはナマイキでイタズラ好き。でも、カワイイ奴でしたね。 ――平野綾さんの声優転身は、視聴者だった私も驚きました(笑)。次に全シリーズで総合司会を務めた渡辺徹さんについてですが、どういう御方でしたか? 渡辺徹さんはスッゴク良い人でした。 TVチャンピオンに僕が出た(※)時、「アイツは明るいオタクだから!」と番組プロフィールでコメントくれたのが思い出ですね。 あと、徹さんは何があっても嫌な顔を一度も表情に表したことがなかったですね。プロフェッショナルなタレントさんだと実感しました。 ちなみに収録時に出る弁当には、毎度毎度『マイ・マヨネーズ』を持参して、どんな弁当にもマヨをかけてました(笑)。バッグにマヨネーズを仕込んでてね、一番僕がビックリしたのはカツ丼をロケでとった時、「徹さん、他に何か要りますか?」と聞いたらマヨネーズをバッグから取り出して「俺はこれがあるから大丈夫!」と笑顔で言われた瞬間(笑)。 カツ丼にマヨネーズかける様子には度肝を抜かれました(笑)。 ――さすが生粋のマヨラー(汗)。あと他に番組に定期的に出演していたゲストとして、お笑いコンビのあさりどがいらっしゃいましたが、あのお二方はどういう方々でしたか? あさりどのお二方は、徹さんに兄貴分的な感じで可愛がってもらってましたね。 それとマジメな方々で、一生懸命台本を本番直前まで読んでいたり、ゲームが本当に好きだったりスタッフ間からも好印象でしたね。 ■今だから話せる、マリオスクール時代の裏エピソード ――今だから話せる、当時の裏エピソードってありますか? 放送当時はゲームボーイアドバンスが発売直前で、これらのハードを別々の大手代理店が取り扱っていたことから、番組内での扱いまで影響を及ぼして…大変でしたね。しかし、発売前にいずれも触れることができたので、それだけは救いです(笑)。 ――まさにスタッフ特権ですね(笑)。羨ましい限りです。。 あと、これは番組とは関係のないお話ですが、後期に登場した開発段階のGBA『スーパーマリオアドバンス』は、タイトルからオープニング画面が発売されたものと全く違っていて、マリオ64と同じくポリゴンマリオがデコレーションされたものとなってました。 それで急遽、発売直前になってポリゴンマリオのオープニング画面は削除されまして。製品版では、あのようなオープニングに変更されました。 ――マリオマニアにはたまらない裏話ですね。。 ■最後に。 ――吉田さんにとってマリオスクール(64マリオスタジアム)とは? 僕にとっては、山内社長にオンエアを見てもらった際に怒られないようにしなきゃいけない、との戦々恐々な思いを抱きながら参加していた番組でしたね(笑)。 というのは冗談で、ゲーム好きな僕としての楽しかったポイントは、発売前のアルファ版やベータ版の任天堂製作のゲームがかなり遊べた部分でしょうね。結局発売されなかったタイトルや中身が変わっちゃったタイトルも多々ありましたが、現場で触れられたのは大きな財産になってます。 それと渡辺徹さんの人間的懐の深さを間近で感じられたことにより、芸能人の方でも裏表のない人がいるんだと改めて認識させてもらえた瞬間でもありました。 ニンテンドウ64も、ゲームボーイアドバンスも、ゲームキューブも、爆発的ヒットへ繋がらず、混迷際立っていた任天堂の舞台裏を仕事として接することができたことも、ジャーナリストとして生きている現在の自分自身に対してプラス要素にもなりましたね。 ■ありがとうございました! ※ジャンクハンター吉田様経由で、『64マリオスタジアム』から『マリオスクール』まで参加された番組スタッフ様からもお話を伺せて頂きました。詳しくは以下のリンク先からどうぞ。 >元番組製作スタッフ様にご質問 |
--- 脚注 --- ※Gpara.com(ジーパラドットコム) 株式会社ジーパラドットコムの運営する、ゲーム情報のポータルサイト。 欧米&韓国ゲーム事情、クリエイターズファイルなどの独自コンテンツが特徴。『魔界戦記ディスガイア』シリーズでお馴染みの日本一ソフトウェアの公式BBSもある。 ※TVチャンピオンに僕が出た〜 吉田さんは番組終了直後に放送された『TVチャンピオン』の『ゲーム王選手権2001』にて、マリオスクール代表として参加。三位の成績を残されました。 |
--- Last Up Date : 3/14/2010 --- | |
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