日本のカトリックについて思うB 天皇陛下と 主権国家バチカンローマ法王
クリスマス前夜に思う
そして今日は天皇お誕生日ですので、天皇とバチカンの関係について
天皇お誕生日 おめでとうございます
今上天皇のお誕生日は、昭和8年
昭和天皇が御即位されて8年
真珠湾攻撃が昭和16年(1941年)ですから、まさに激動の時期にお生まれになられたのですね。
実は、今上天皇がお生まれになった頃〜日本が敗戦になる頃
昭和天皇は、バチカンと和平のため
交渉をなさっておられました。
未曾有の世界大戦前後という困難な時代に生き、様々な批判にさらされながらも実は、一番平和を望んでおられた
昭和天皇と バチカン教皇様の当時のピオ12世は
日本の敗戦、そしてドイツ、イタリアとの関係から
英米など、各国から同じように批判され続けてこられた事は
お立場は違えども、その苦しみと誤解をお受けになっていたことは
共通する部分があります。
昭和天皇は、欧米だけでなく
日本国内の左翼的歴史学者、マスコミにより批判され歪められ
そして、現在もなお、日教組や反天皇運動者により
批判され、侮辱を受け続けておられます。許せないことです。
昨年、ベネディクト教皇によりピオ12世の名誉は回復され、輝かしい聖性の評価がなされました。
が、いまだに日本では、昭和天皇は
日教組により、子供たちにも歪められて伝えられている。
ピオ12世の名誉回復をされた勇気あるベネディクト現教皇様のように、日本の政治家、歴史学者、マスコミは今こそ
天皇を侮辱する反日教組、反民主党に立ち上がり、天皇陛下のご名誉のため、真摯に戦うべき、未来のため子供たちに天皇陛下の真のご功績を伝えるべきであると思う。
現在、安倍元首相の時に、日本全国の小中高校に拉致問題の
「めぐみ」さんのDVDが人権資料として配布されたが、
ほとんどの学校で埃をかぶって見せられていない状況であるが
実は、天皇奉祝20周年」のDVDも同じく配布されているので
あるが、日教組は、一切子供たちに見せてはいないのです。
◆開戦前後の 昭和天皇とピオ12世
今上天皇がお誕生になる少し前の
1929年2月11日、バチカン教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約締結され、バチカンは、主権国家、独立国家となったのです
1939年(昭和14年)バチカンの教皇はピオ11世から
教皇は、ピウス(ピオ)11世から 1939年ピウス(ピオ)12聖に変わりました。
ピオ11世の在位中に外交分野で活躍し、1933年7月20日にパチェッリの主導で教皇庁がアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス党政権下のドイツと結んだ政教条約は、ナチス党政権下のドイツにお墨付きを与えたものとして後に大きな批判を招くことになります。
しかし、1920年から1930年代にかけて教皇庁が多くの国々と政教条約を結んだのは、19世紀以降、断絶していた国家と教会の関係の正常化を図り、各国のカトリック信徒を保護し、カトリック学校や施設を政府の迫害から守るためであった。また、ナチス党政権下のドイツに対しても単に言いなりになっていたわけでなく、政教条約を結んだ立場として、さまざまな苦言を呈していたのです。
ピウス12世は積極的にユダヤ人を保護し、実際、イタリア敗戦に伴ってドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人がバチカンで匿われ、バチカンの市民権を得ることができ、これによって戦後、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」賞をピウス12世に贈っています。
◆昭和天皇と教皇ピオ12世
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教皇と天皇の関係
皇太子裕仁は、ヨーロッパ歴訪の最後に、1921年(大正10年)7月15日、まだ正式な国交関係のなかったバチカンを訪問し、「何の装飾もない白いガウンをまとった」(引用は、以下文春記事)時の教皇ベネディクト15世と会見した。実はこの訪問については、「訪欧団の中で激しい議論があった」という。当時、日本国内にはキリスト教に対する強いアレルギーがったからである。この雰囲気をくつがえして裕仁のバチカン訪問を実現したのは、供奉員(訪問団)の一人であった山本信次郎海軍大佐(のちに少将)の粘り強い説得があった。山本大佐は周知の通り、熱心なカトリック信者であって、岩下壮一神父が「軍服を着た修道士」と呼んだほどであった。
そのころのバチカンは、政教分離の原則を確立しつつあり、宗教的には全世界の教会の頂点に立ちながらも、政治的には政体の如何を問わず実効支配している政府に対して外交関係を保持し、従ってバチカンには主要各国の大使たちが駐在していた。教皇に会い、駐在大使たちと交歓した皇太子裕仁は、外交面におけるバチカンの重要な地位と権威に深く感じるものがあったらしい。その結果、 天皇に即位してからも機を見てバチカンとの国交樹立を望んでいた。 文春記事によれば、昭和天皇は日米開戦に際し、戦争終結時においてはバチカンに仲介してもらうことを期待していた。という。そして、すでに1929年2月11日、ムッソリーニのイタリア政府とのコンコルダートによって、世界一小さな国でありながら独立を果たしていたバチカン市国を承認して公使を送りたいと望んでいた。これが実現したのは1942年(昭和17年)2月11日で、太平洋戦争の最中であった。イギリスなどの先例に倣い、公使にはプロテスタントの原田健、参事官にはカトリックの金山政英を任命した。
当時、国内ではキリスト教への強い反対があり、宣教師たちは収容所に収監され、長崎でも何人かの教区司祭がスパイ容疑で逮捕され、奄美大島ではカトリック教会がすべて接収されていた時代に、バチカンとの正式国交関係を開いた昭和天皇のバチカンへの期待のほどが感じられる。
昭和天皇独白録は言う。「開戦後、法王庁に初めて使節を派遣した。これはわたしの発意である。・・・私はローマ法王庁と連絡のある事が、戦いの終結時期に於いて好都合なるべき事、又世界の情報募集の上にも便宜あること並びに、ローマ法王庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考えて、東条に公使派遣を要望した次第である」。ただ、戦争終結に関しては、アメリカからバチカンを通して働きかけがあったというが、そのパイプが生かされることはなかった。
日本政府とバチカン市国との国交関係は1944年、一旦閉じられるが、1952年4月28日に再開され、1958年4月、公使館は大使館に昇格、相互に大使を交換して今日に至っている。そして1981年2月24日、訪日中の教皇ヨハネ・パウロ2世は、「真っ白のスータン姿で」皇居に昭和天皇を訪問し、歓談した(写真)。記録によれば、「よくいらっしゃいました」、「お目にかかれて、うれしく思います」。歴史上初の、教皇と天皇の会見は、こんなうちとけた雰囲気で始まった。教皇は、今回の訪問が宗教者としてのものである点を強調し、天皇家が会見をとり計らってくれたことを感謝した。天皇は、終戦時の復興に際する教会の働きを感謝された」(以上、教皇訪日公式記録『ヨハネ・パウロU世』より)。
若いころ、皇太子裕仁としてバチカンに教皇を訪ねてからちょうど60年、今度は教皇自身が皇居に自分を訪ねてくれたのである。どんな思いが天皇の脳裏を駆け巡ったのであろうか。
(糸永司教カトリック時評より)
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◆ピオ12世「尊者」となる
昨年12月19日(土)、教皇ベネディクト16世が、教皇ピオ12世と教皇ヨハネ・パウロ2世の英雄的な徳を認め、2人を「尊者」(Venerabilis)とすることを宣言した。
ピオ12世の尊者宣言について、欧米ではこれを批判し、反対する議論が結構うるさいようであるが、それは、ピオ12世がナチスのユデア人迫害(ホロコースト)に直接反対しなかったという従来の非難の蒸し返しであるが、教皇はヒトラーを直接非難して最悪の事態を招くことを避け、密かにユデア人の救済に努力したともいわれる。いずれにしろ、教皇の使命は、本来、宗教的かつ司牧的なものであって、従って、教皇はいかなる国の失政の責任を負うことはあり得ない。ピオ12世の治世は、ナチス・ドイツのホロコウストを始め、共産主義政権が粛清の名で行った大量の処刑や、第2次世界大戦において行われた大量虐殺事件、さらには無差別爆撃や原爆投下による大量の市民殺害など、野蛮な世紀と言われた20世紀のもっとも野蛮な時期に当たっており、その間、教皇が発した多くの公文書や演説、ラジオ・メッセージなど、その福音的な平和使信のすべてが、世界全体が犯した一切の野蛮行為に対する痛烈な抗議であり警告であったと言わなければならない。何よりも今回の尊者宣言そのものがピオ12世教皇の無実の証しであるばかりでなく、その英雄的特性の確認であって、近々に期待される列福や列聖によってその聖性はさらに輝かしく証明されることになろう(糸永司教カトリック時評)
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◆昭和天皇からピオ12世への親書
当時、昭和天皇がローマ教皇ピウス12世に親書を送った、という情報をキャッチした英国は、警戒し、英国機密文書を残している。
日本の天皇がカトリックに改宗させられるキリスト教にのっとられるというような、保守の間で、「天皇のロザリオ」などのトンデモ本により、キリスト教の陰謀論が噂されているけれども
そうではない。 天皇陛下がカトリックに改宗などありえない事、
また、どうも保守の方々には、プロテスタントとカトリックという
根本的な違いを御理解なさらず、混同してしまっているところに
大きな誤解があるのだ。
ローマ教皇庁は、軍国主義の崩壊により、日本にイデオロギー上の空白地帯が生まれたと共産主義に対抗して、教皇庁は、それを埋めたい考えがあった。
「昭和天皇は冷静な現実主義者であった、ということです。ローマ教皇への親書にしても、GHQの支配状況を何とか打破したい という思いからではないでしょうか。戦前は軍部、戦後はGHQに与えられた枠の中で昭和天皇は全力を尽くしたと思います」
こう記しているのは、『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社)を刊行した元英国の通信社ロイターの記者の徳本氏。
ドイツと同盟を結んだ日本の大東亜戦争は、白人国家のアジア植民地支配からの解放のための戦いであったが
当初、反共であったドイツと政教条約を結んだバチカンは、スターリンの大粛清など反共産主義への戦いであったのです。
戦後は、もちろん許されざる罪である
ユダヤ人への迫害は、日本ではたびたび、報道され、教育されるが
社会主義、共産主義の迫害
ソ連 レーニン〜スターリンの犠牲者700万人といわれる大粛清
数百万人から一千万人以上の犠牲者を出した中国の文化大革命
は、あまり触れられることはなく
日本が敗戦しなければなかったであろう
戦後の中国共産党による チベット・ウイグル・内モンゴル
旧満州など、北朝鮮の自国民への粛清や虐殺は触れられない。
大東亜戦争の連合軍、対日勝戦の署名国の中心が、フランスを
のぞけば、ほとんどが 否バチカンであった。
プロテスタントのアメリカ
宗教を否定する中国共産党・ソ連
そしてイギリス国教会の英国
これは当時、すべてバチカン、カトリックに対抗する思想の国である
永世中立国で主権国家であり、反共産主義のバチカンに
昭和天皇が、大東亜戦線開戦、そして終戦後へバチカンに対しての
希望と特別な思いをお持ちであった事は、
日本の神道とカトリックに、共通の理念や霊的導きを感じるのです。
第二バチカン公会議は、戦後の反省のもと、提案されたかのように
誤解されている信徒がいますが、
実は、このピオ11世とピオ12世が
検討、公会議が新しい近代主義に染まった異端神学を排斥する適切なチャンスだと考えた提案がはじまりであったということも
興味深いことです。
◆原爆投下と天皇、バチカン
昭和天皇が原爆の非人道性を認識なさり、
そこに言及なさっておられたことは、日本シルクロード科学倶楽部
会長、札幌医科大学教授の「核と刀」の著書を読んでいただきたい
この天皇と日本、そして ピオ12世とバチカン
原爆の非人道性、核兵器の本質を世界で一番、理解され日本軍の核兵器開発に反対なされた昭和天皇が
原爆投下 二か月前にバチカンへ手紙を送り、使節を送り、開戦、敗戦、バチカンに平和と和平のために使節を送るご努力をなさっていた事、これが成功していれば、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下も
防げたのではという説があります
すでに始まっている神なき中共との冷戦、次いで起こり得るプロテスタント教国・米国との軋轢を考えればバチカンほど重要な存在はない
(萬晩報 http://www.yorozubp.com/0610/061009.htmより)
バチカンが長い年月をかけて培ったカトリックの聖地とも言える長崎浦上上空で原爆が炸裂し、2人の神父と信徒20数人が浦上教会と運命を共にし、浦上地区に住んでいた14000人の信者のうち8500人が死亡している事実
この昭和天皇とバチカンとのご関係の本質を理解すれば、左翼による 「靖国反対」や「反天皇」「国旗・国歌反対」天皇陛下への侮辱などに、カトリック正義と平和協議会の神父や信徒、カトリックがこのような主張に同調をする事は、整合性もなく噴飯ものであり
バチカンへの侮辱でもあることだと私は思います。
真のカトリックの信徒であるならば、天皇を尊敬し
日本を愛するのが 当然でありましょう
靖国参拝もカトリックとして、否定されるべきではありません
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※参考 カトリック信徒の靖国参拝は否定されていない
駐日教皇使節P・マレラ大司教宛付布教聖省長官P・F・ビオンディ枢機卿の訓令(聖省訓令)
「神社において国家的儀式が公に行われる場合、有識者の常識として、愛国心すなわち天皇家に
対する尊敬と、国家のためにつくした恩人に対する尊敬の表明を目的とするものである限り、
これらの儀式は単に国民的行事である(ため、カトリック信者が他の者と同様参列してもよいと
教えるべきである)。」
「駐日教皇使節M・ド・フルステンベルグ大司教宛1951年11月27日付布教聖省長官
P・F・ビオンディ枢機卿書簡、公文書番号4934/51(第二聖省訓令)ね
「神社において国家的儀式が公に行われる場合、有識者の常識として、愛国心すなわち天皇家に対する
尊敬と、国家のためにつくした恩人に対する尊敬の表明を目的とするものである限り、これらの儀式は単に
国民的行事である(ため、カトリック信者が他の者と同様参列してもよいと教えるべきである)。」
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※参考 http://gigazine.net/news/20100104_vatican_secret_archives/
バチカンが秘密文書を公開、教皇からヒトラーへの手紙やミケランジェロからの督促状も
教皇庁の秘密文書保管所(Vatican Secret Archives)は17世紀にバチカン図書館から独立したもので、古いものでは1000年以上前までにさかのぼる大量の文書が保管されています。設立当初は教皇庁内部のごく限られた人々のみがこれらの秘密文書にアクセスできたのですが、1881年にレオ13世により一般の研究者にも公開され、今日では年間1000人ほどのバチカン外部の研究者が訪れます。
その秘密文書のうち105点の文書の複写が初めて本として出版され、その中には13世紀にチンギス・カンの孫グユクが教皇に服従を求めた書簡や、16世紀のスコットランド女王メアリーの嘆願書、サン・ピエトロ大聖堂(上の写真)を設計したミケランジェロが教皇庁に支払いを督促する手紙なども含まれるそうです。
詳細は以下から。
Vatican reveals Secret Archives - Telegraph
Vatican Secret Archives
秘密文書保管所内部の様子。棚の総延長は84kmにもなるそうです。バチカン内の多くの建築物と同様、各部屋は壁画や天井画で飾られています。手前にあるのは1855年から1870年にかけて秘密文書保管所の長官を務めたAugustin Theiner司祭の胸像。
公式ホームページのバーチャルツアーでフレスコ画の詳細も見ることができます。

今回出版された本「Vatican Secret Archives」は初公開19点を含む105点の秘密文書の精密な複写を収めたもの。Amazon.co.jpでは現在品切れのようですが、Amazon.comでは約100ドル(約9千円)で販売されているようです。
本の中ではローマカトリック教会と科学者・芸術家・歴史的人物とのやりとりや、キリスト教圏の外との外交関係の記録が紹介されています。ガリレオの異端審問の記録のほか、エラスムスやヴォルテールなどの思想家とのやりとりや、14歳のモーツァルトの才能に驚嘆したクレメンス14世により黄金拍車勲章(Order of the Golden Spur)が授与された際の記録なども含まれるそうです。
秘密文書の一部は秘密文書保管庫のホームページでも公開されています。
チンギス・カンの孫グユクが1246年に教皇インノケンティウス4世にあてた手紙。それ以前の教皇からの手紙へ対する返信で、グユクはキリスト教に改宗する意思はないとし、教皇本人とキリスト教の「王」たちが中央アジアにあるグユクの拠点まで旅し忠誠を誓うまでは、モンゴル帝国はバチカンを敵と見なすと表明しています。手紙の序文はトルコ語、本文はペルシャ語、日付はアラビア文字で書かれているそうです。
←
地動説を唱えたガリレオ・ガリレイが有罪判決を受けた後の1633年12月17日にFrancesco Barberiniに送った自筆の手紙。Francesco Barberiniは裁判の担当判事10名中有罪の判決文に署名しなかった3名のうち1人で、手紙を受けたBarberiniの介入によりガリレオの刑は無期刑から軟禁に減刑となったそうです。
1550年1月にミケランジェロがチェゼーナ司教Cristoforo Spiritiにあてた自筆の手紙。ミケランジェロは1547年にパウルス3世によりサン・ピエトロ大聖堂(主ドームを含む増改築工事)の主任建築家に任命されたのですが、パウルス3世が1549年11月に亡くなったのち事業は経済的危機に直面しました。パトロンであり友人でもあったCristoforo Spiritiにあてた手紙の中でミケランジェロは「パウルスの死後、建築現場を警備する兵士たちは3ヶ月にわたり無給で、命を危険にさらして警備にあたっている。彼らは貧窮していて、給料が支払われなければ仕事を放棄すると脅している。そうなれば建設事業に多大な被害が出るだろうが、わたしには彼らに支払う金がない」と、支援を求めています。
今回出版された本には1530年にクレメンス7世にあてられたヘンリー8世とキャサリン・オブ・アラゴンの離婚を認めるよう嘆願する手紙などの歴史的に重要で有名なものが収められているほか、オンタリオ州のインディアンオジブワ族が1887年にレオ13世に送った手紙などの興味深いものもピックアップされています。このオブジワ族からの手紙はシラカバの皮に書かれた非常に詩的なもので、日付は「花々の月」(5月)とされ、「大いなる祈りの導師」(教皇)へあてられ、「祈りの番人」(宣教師)の派遣に対する感謝の意を示しているそうです。
また、比較的最近の文書では、1934年にピウス11世からアドルフ・ヒトラーにあてられた複数の手紙やピウス11世の後継者であり大戦中のナチスによるユダヤ人迫害への対応が批判されるピウス12世が昭和天皇から受け取った手紙なども含まれるそうなので、日本人にとっても興味深い資料となっているかもしれません。
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※この秘密文書「Vatican Secret Archives」はなんと アマゾンで購入が可能なんです。100ドル(約9,000円)で販売。
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2010-12-23 23:46
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キリスト教 カトリック |
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