私にとってパソコンは人生を大きく変え、支えてくれる大切な道具です。
そのパソコンの出会いと私の人生について趣くままに書いてみました。
ご質問、ご感想をお待ちしています。
| 目次 | |
| 1 | オーディオマニアからパソコンマニアへ |
| 2 | FM−7との出会い |
| 3 | 家庭教師での利用 |
| 4 | 富士通株式会社への入社 |
| 5 | パソコン通信との出会い |
| 6 | パソコン販売推進部への転勤 |
| 7 | FMTOWNSとの出会い |
| 8 | PROJECT2000 |
| 9 | |
| 10 | マルチメディアと障害者 |
| 11 | アクセシビリティ |
| 12 | ベンチャー・アニモへの参加 |
| 13 | 聴覚障害者の友人との出会い |
| 14 | アニモネットワークサークル |
| 15 | 失語症リハビリ支援システム「花鼓」 |
| 16 | 近視矯正手術「LASIC」 |
| 17 | ファスティング |
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| 1 | オーディオマニアからパソコンマニアへ 秋葉原は今でこそパソコンの街ですが、15年前はオーディオ一色でした。 高校は吹奏楽部、大学は管弦楽団に所属し、音楽好きだった私は、モノラルラジオに始まり、モノラルラジカセでクラシック音楽を聴きまくり、ステレオラジカセを買ってもらったときは、うれしくて毎晩枕元でその臨場感を楽しんでいました。 コンポステレオを購入する際も値段が値段だけにいくつものカタログを吟味し、スピーカはなるべく重量のあるものを選んだりしました。ブロックを敷いたりして、音の変化も楽しんでいました。 私のパソコンとの出会いは大学生の頃でした。 社会心理学の講義で担当教授の次の言葉がきっかけでした。「これからはコンピュータをやりなさい。コンピュータは日進月歩だから毎年新しいスタートラインができる。だから、今から始めても追いつくんだ」 とはいえ、当時のパソコンは、車が買えるほど高価なものでした。私はまず、そのイメージをつかむために、シャープのポケットコンピュータを購入しました。これなら数万円で入手できたため、学生の私でも購入可能でした。 たった1行の液晶ディスプレイ画面にBASICのコマンドを入力していきました。作ったプログラムを動かしてみると「BUSY」の表示。「コンピュータも一生懸命考えているんだ」という実感が湧きました。 このポケコンを使ってBASICの勉強を始めました。プログラミングをするほどまではいきませんが、「改造」くらいはできるようになりました。 あるとき、バイロリズム計算のサンプルプログラムを改造して、サークルの女の子全員(50名余り)との相性診断システムを開発。1回50円で売り出したところ、大好評でした。(^O^) 「面倒な計算を間違いなく飽きることなくしてくれる」これがパソコンの第一印象でした。 |
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| 2 | FM−7との出会い ポケットコンピュータの能力に限界を感じていた頃、FM−7と出会いました。と言えば格好いいですが、購入動機の最大のものはインベーダーゲームでした。当時大流行したインベーダーゲームをはじめとしたボードゲームにはまった時代でした。1回ゲームをやるごとに100円を取られてしまうことに不合理を感じパソコンの購入に踏み切ったというのが、正直なところといえます。 当時のパソコン業界は、シャープを筆頭に富士通、NECの御三家がシェアを分け合っていました。アップルは高嶺の花といった存在でした。 検討に検討を重ね当時「タモリのパソコン」として大人気を誇っていたFM−7を購入することとしました。 本体は99,800円という画期的な安さでした。 とはいえ、メモリは64KB、ディスプレイは8色カラー、補助記憶装置はカセットテープといった今からは想像のできないような貧弱なスペックでした。 後年、ドットプリンタと5インチフロッピィデッキを購入しました。総額が60万円ほどにもなる高額な買い物でした。家庭教師でもパソコンを利用し、費用回収を図りました。シュミレーションゲームにもはまり、夜も眠らない日々が続きました。 このことが富士通入社の大きな動機付けとなったのです。 |
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| 3 | 家庭教師での利用 学生時代は、サークル活動のオーケストラの練習とアルバイトの家庭教師で夜のフリータイムはこのふたつに費やされました。当時、CAI(Computer Assisted Instruction)を志向しており、分数の計算プログラムなど、かじりかけのBASICを使って、ソフトを組んでいました。家庭教師といっても、先方の家に行くよりも私の部屋に来てもらうタイプが多く、多いときは週にのべ9人も対応していました。一度に2人を対応するパターンも多く、省力化のためにもCAIは必要不可欠だったのです。しっかりと勉強するとパソコンゲームをご褒美にやらせてあげたりもしていました。 パソコンは、まさに私の生活の糧だったのです。 |
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| 4 | 富士通株式会社への入社 学生時代にパソコンを使っていたこともあり、就職活動の際には富士通はやはり候補のひとつでした。ただ、「趣味と仕事を一緒にしてしまうと辛い」との助言を受け、パソコンを知っていると便利な仕事を探しました。「こらからはリースの時代だ」ということで、コンピュータも扱えると思い、オリエントリース(現オリックス)を第一志望にしていました。型通りのOB訪問もしました。しかしながら、会った相手が悪かったのでしょうか。オリエントリースはいつのまにか、志望先から消えていきました。 運命とは異なものです。オーケストラの練習にいつものように参加していたとき偶然、富士通に入社した先輩と出会いました。聞けば、一般面接ではなく、自分から人事部に売り込みにいったとのこと。その先輩の話から「音楽部推薦」ということで富士通のOBにお会いすることになりました。そのときに一緒に行ったのが、後に2人でヨーロッパ卒業旅行をすることになるI氏でした。 I氏と2人で今はなき新橋のFACOMビルに出向きました。当時、流通担当営業課長であったA課長と17時にアポ。しかしながら、時間には現れず、30分遅れての登場となりました。営業だから仕方ないのかと私は思っていましたが、I氏はその態度を許さず、富士通を志望から外してしまったのです。彼はその後、三菱銀行(現東京三菱銀行)に入行得意のポルトガル語を生かし、ブラジルに赴任しました。 「音楽部推薦」としては、1人となり、さらにコネクションを見つけつつ、富士通入社を果たしたのでした。人事面接で、人事部長に富士通のパソコン戦略について憂え、意見したことを今でも思い出します。 |
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| 5 | パソコン通信との出会い 富士通入社後、2週間は文系・理系合同の集合教育があり、その後2ヶ月間の文系のみのコンピュータ集合教育となり、配属面接を経て、6月には半年間のSE実習に出ます当初はSE志望だった私は、コンピュータ集合教育の間にその自信を失いました。といって、どんな職種があるのかピンとこず、入社前からの夢だった本社)パソコン販売推進部を第1志望に、第2志望を関東地区の営業、第3志望を防衛庁担当営業としていました。 これは、志望大学に防衛大学があり、自衛隊への入隊も就職の選択肢のひとつとしていたことが影響しています。配属面接時、出身地にこだわる同期が多い中、大企業に入ったのであるから転勤も仕方なしとの態度で臨みました。パソコン販売推進部への希望に対しては、「秋葉原でパソコンを売るんだよ」との実に馬鹿にしたアドバイスでした。結局、東支社のSE実習、つまり東日本への配属と決まったわけで、同期16人が横浜に終結しました。ちなみに入社時の文系同期は大卒200名、高卒100名でした。 6月から12月までの半年間、横浜でのSE実習が始まりました。私は金融機関担当のSE、といっても、東日本の信用金庫、組合担当の部隊でした。ほとんどが常駐SEで、40名ほどの大所帯でしたが、みんなが集まるのは毎週月曜だけでした。それに、個々のユーザが小さく、SEひとりで対応している場合が大半で、現実のユーザ先に出向くことは皆無でした。 富士通に入社したとは信じられないほど、毎日がヒマで、読書に明け暮れる毎日でしたたまに残業があると、手当てを期待して喜ぶ有様でした。 そんな頃に出会ったのがパソコン通信でした。ニフティサーブの会員数がまだ12,000人くらいだった頃のこと。電子メールの便利さに心躍ったものでした。しかしながら、職場の反応は悪く、「パソコン通信で遊んでいる」といった低い認識の時代が続きました。そのような状況の中、東支社長が関澤常務(現会長)に変わられたのでした。 関澤常務は、社内の意思伝達手段としてのパソコン通信の有効性に着目、クーリエ広場と呼ぶ社内CUGを開設しました。これが、現在のFJ−CUGに結実しています。 そんな状況変化の中、12月に配属発表となりました。 横浜配属は一人だけとかねてより聞いており、「両親の都合でどうしても地元に残りたい」と訴えていた同期がいたため、地方転勤は覚悟していました。ところが、自分自身が横浜配属となり横浜銀行さんの担当営業となったのでした。 |
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| 6 | パソコン販売推進部への異動 横浜支店への配属とはなりましたが、売りたいのはパソコンでした。お客様の横浜銀行さんは取引の関係から「パソコン」と名がつくと全てNECでした。 金融端末担当だったこともあり、支店の店舗レイアウトシステムを提案しました。パソコンベースでAUTO CADを使い、200店舗全ての端末を一元管理しようと考えました。それまでは手書きでした。入力代行も含め段取りし、デモも何度か行いました。最後のシステム部長デモの際、内容的にはOKでしたが、「これはパソコンじゃないか、パソコンだったら、NECだよ」この一言で苦労は無残にも打ち砕かれました。その後、そのシステムがNEC製でできたかは定かではありません。 この悔しさは別の商談で晴らしました。 それは、今でも銀行さんのキャッシュコーナに行くと、残っています。 横浜銀行さんのキャッシュコーナの後ろに1台の富士通ゼネラル製CCDカメラが設置されています。取引の関係もあり、CCDカメラは、松下通信かビクターしかありません。 今ではあたりまえですが、遠隔監視システムをパソコンを使って構築しました。自分自身も持っているFM77−AVをベースにし、JUSTPC手順(9600bps)モデムを使用し、CCDカメラと連動し、センターからの制御で200ヶ所の静止画像伝送システムを安価に構築したのでした。特別な箱に入れましたが、中身はパソコンだったわけです。 |
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| 7 | FMTOWNSとの出会い CD-ROMを世界で初めて標準搭載したマルチメディアパソコンとしてFMTOWNSは発表されました。発表当初、東京ドームを貸し切った大規模イベントをはじめ、2,000本に及ぶテレビコマーシャルなど、1シーズンで20億円もの巨費を投じた期待の商品でした。 発売された年の5月、横浜支店からFMTOWNSを担当する本社)パソコン販売推進部に転勤となりました。当時は、営業から販売推進部に転勤することは大変珍しく、期待されつつもいじめの対象となったように思います。特にFMTOWNSの担当部署は急速に大きくなったため、中途入社を含め、寄せ集め部隊でした。それまで30分ほどの通勤時間だったのが、4倍近くなりました。毎朝、6時45分に自宅を出て、大船始発の京浜東北線に70分揺られて出社する日々でした。午前様の日も多く、かなり辛い日々でした。ただ、営業のときと大きく違ったのは、ゴールデンウィークが休みだということでした。しかしながら、旅行に一緒に行くような相手のいない私にとっては宝の持ち腐れでした。ツール制作、雑誌広告、新聞広告、テレビCMなどを担当しましたが、だれも仕事のやり方なんぞは教えてくれず、宣伝部の先輩や電通、博報堂の営業の方に教えを乞い、版下という言葉から覚えていきました。生の宮沢りえを撮影現場で美しさに感動しました。その後、イベント担当となり、旺文社パソコンソフトコンテストの担当者となりました。これはかなり美味しい仕事でした。全国1500校ほどの中、高校にパソコンを貸し出し、夏季セミナーを経て、集まったパソコンソフトの審査会を実施し、冬に発表、表彰式という段取りでした。表彰式のために沖縄などにも出張できました。富士通のパソコンを啓蒙するという目的の元、充実した日々を過ごせました。その後、埼玉大学工学部の井門先生とともに、全国のFMTOWNS活用事例を訪ね歩き、雑誌記事にして頂いたりもしました。パソコンの新人教育や営業教育の講師もしました。パソコン販売推進部では半年で担当が替わるといった目まぐるしさがありましたが、今思えば、実に様々な仕事を経験し、人的つながりもできたように思います。 |
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| 8 | PROJECT2000 転勤して半年して「若手による全く新しいFMTOWNSのプロモーションを企画せよ」との命令で私をチーフに20名程度の横断的なプロジェクトチームを結成しました。記事掲載された雑誌によると、私が関澤本部長(当時・現会長)に電子メールで直訴したことになっています。「販売推進部は階層が多く、顧客の声がプロモーションに反映されていない」と言ってもいないことが書かれていました。マスコミとは恐ろしいところです。 秋にチームが結成されたものの、その冬のプロモーションを企画するということで、時間がありませんでした。もちろん、通常業務はそのままです。最終的には、スキーとパソコン通信を連携させてプロモーションを実施することとしました。 ちなみにPROJECT2000の由来は、予算が2000万円であったことと、2000年に通ずるイベントとの思いを込めて付けました。 具体的には汐留にあったスキーバスのステーションを拠点に毎週末、FMTOWNSとニフティを利用し、複数スキー場とステーションをチャットでリアルに結び、臨場感ある現場情報の交換をしました。スキーバスにこれから乗る若者にとって、興味ある情報です。もうひとつスキーバスの中で上映するビデオを制作しました。吉田みえ主演で、チャットをきっかけに出会い、スキー場で花開く恋物語です。のべ8,000回放映されました。最後は、上越国際スキー場を舞台に、ゲレンデとホテルを連携させたイベントを開催しました。グリーンプラザ上越の館内に置かれたFMTOWNSで情報をゲットし、ゲレンデのあちこちに滑っているTOWNS GALを見つけ、合言葉の「タウンズが好き」と言えば、ノベルティをもらえるといった他愛もないものでした。加えて、1級の資格を持ったデモンストレーターにTOWNSコスチュームを着せて、滑らせることもしました。さらに、DJもスタッフがやり、上越国際はFMTOWNS一色となりました。 政治的配慮もあり、当イベントは富士通社内で本部長賞を頂き、賞金もゲットしました。 悲劇はそのあとにやってきたのでした。 |
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| 10 | マルチメディアと障害者 FMTOWNSでマルチメディアに取り組んでいるとき、これこそ障害者に役立つものだという思いを強くしました。音声や画像にしても、コストを考えると健常者には不要なものばかりです。いまでこそあたりまえになりましたが、まずは目や耳に障害のある人々にとって大変有益なもの、社会参加を実現するためのツールだと思いました。メーカとして、コスト的に苦しくても、喜ばれる市場、必要とされる市場で鍛えてもらうべきと考えました。 が、現実はそれほど甘くなかったのです。 |
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| 11 | アクセシビリティ 富士通)パソコン販売推進部ではマルチメディアのシステム商談に加え、アクセシビリティを担当しました。FMTALKなど視覚障害者向けの商品が主でした。カタログを作成したり、展示会に出展したり、積極的に活動しました。 |
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| 12 | ベンチャー・アニモへの参加 1994年8月5日、富士通株式会社社内ベンチャー企業第一号として、株式会社アニモは設立されました。その創業より参加しました。当初は4名。部屋の中にあったのは、椅子1つでした。若さのせいもあり、いくら働いても疲れませんでした。当初は西大井に住んでいましたが、終電が気にならないよう徒歩圏内の桜木町に無理をして、マンションを購入しました。それこそ清水の舞台から飛び降りる気持ちでした。 |
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| 13 | 聴覚障害者の友人との出会い 富士通でアクセシビリティの仕事をしているとき、聴覚障害者の社員と出会いました。聞いてみると社内に300人以上の聴覚障害者がいるとのこと。手話のできない私が彼とのコミュニケーションをどのようにしてとったらよいのか悩んでいました。それを解決したのがパソコン通信との出会いです。 障害者にこれほど便利なパソコン通信が健常者に便利でないわけがないと感じた出来事でした。 |
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| 14 | アニモネットワークサークル 平成7年7月7日に聴覚障害者とボランティアの社会参加の推進を目的にネット、旅行、買い物等をオンライン上でサービスを開始しました。 |
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| 15 | 失語症リハビリ支援システム「花鼓」 | |
| 16 | 近視矯正手術「LASIC」 私は小学校5年よりメガネをかけています。乱視がひどく、視力は0.01程度しかありませんでした。レンズではいわゆる牛乳ビンの底でしたので、ハードコンタクトレンズに変えました。ところが、眼球が球でない、円錐角膜という病気のため、ずいぶんと痛い思いを続けていました。乱視が強いためのハードコンタンクトでしたが、眼球が球面でないため、コンタンクトレンズが浮いた状態になり、痛いのです。 地元横浜の深作眼科というところで、最新のレーザ技術を使った近視矯正手術を受けられるということで予約をとりました。その前に3年間ほど書籍等でRK手術については研究しており、意思は決まっていました。あとはどの病院で受けるかだけの問題でした。網膜はく離を治療してもらった関東逓信病院でも保険診療でやれるようになったら対応してくださるということでしたが、保険ですと完全に見えるようにはせず、私の場合、特に悪い右目を左目の視力まで上げる程度にしかやってくれないということで、メガネも外せないわけですから問題外でした。そのため、嫁さんに紹介してもらった横浜の深作眼科で受けることに決めました。視力は最終的に1.2まで上がり、100倍になったことになります。もちろん、メガネは不要となり、天国のようになりました。 予約に2ヶ月、手術に6ヶ月かかるときいていました。電話をすると「来週来て下さい」とのことで拍子抜けしました。予約の日に行ってみると100人からの患者さんが待っていました。検眼をする看護婦さんが10人くらいおり、まるで工場のようでした。100人といっても大半が白内障で、近視矯正手術はごく少数のようです。深作先生はアメリカ帰りの大変な自信家で、ろくに説明もせず、不安な患者が質問をすると怒鳴りつけるような横柄な医者でした。私は本を読んで勉強していきましたし、覚悟がありましたので、対応は極めてよかったです。優秀な先生ですし、近視矯正手術には健康保険が効かないのですから、私は当然のことだと思いました。恐れもなく、予定日も「なるべく早め」と言ったものですから、ますます深作先生の機嫌がよくなります。そしてなんと「お金はすぐ用意できる?じゃあ、今日やろう」ということになりました。それはびっくりでした。すぐに検査に入り、午後には手術となりました。その日にはすでに2人の患者がいました。私が3人目です。白内障の患者さんは15名ほどと大勢いらっしゃいました。白内障は、保険も効きますし、きらずに穴をあけて10分ほどで終え、すぐに退院できるので、全国から患者さんが集まっているようです。 私の前の患者さんが麻酔が合わなかったようで、吐いてしまい手術中止となってしまい、いよいよ自分の番がきました。通常は、片目ずつ施術するのですが、手術台に載ってから「両目ともやってしまうかい?」といわれ、素直に答えてしまいました。その日は、見学の先生が何人かきていて、2種類の方法(PRKとLASIC)を見せたかったらしく、一度に両目となったようです。術後、PRKの方は3日ほど痛くてたまりませんでした。1週間もすると見え始め、安定してきました。0.01しかなかった視力が1.2になったときは感動でした。温泉に行っても洗い場が見えず、宴会に行っても料理が見えなかったストレスが一掃されました。60万円という費用はかかりましたが、十分に元がとれると思いました。 |
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| 17 | ファスティング サンデー毎日の記事からファスティング(絶食療法)を知りました。野菜汁を飲みながら、体内の老廃物を出してしまい、体質改善をする療法です。体重を落とすには1週間ほど続けるそうですが、持ちそうもなかたので、まずは3日間のコースを体験してみました。HPから野菜汁として「大高酵素」を採用しました。(続く) |
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| 18 | 鼻中隔湾曲症の治療 私の伯父は42歳のとき、くも膜下出血で突然亡くなりました。私も39歳。その伯父に似ているといわれ続け、病気のことが気になっていました。このところ、頭痛がしたため大事を取って、聖マリアンナ医科大学でMRI検査をやってもらいました。 脳には何の異常もなかったものの鼻に異常があり、かかりつけの耳鼻咽喉科を訪れレントゲン検査等をしたところ手術を勧められたのでした。医師によると鼻が正常時の10%しか機能していないとのこと。具体的には聴力が落ちており、特に低音が聞こえにくくなっているようです。他にも味覚や嗅覚への影響、いびきに伴う無呼吸症も出ており、放置しておけない状況でした。即断で手術を決め、夏休みにあわせる形で入院しました。 病院は自宅から歩いて5分程度の石井耳鼻咽喉科診療所。ベッド13床を用意した個人病院ながらしっかりとした病院。2日前から止血剤の錠剤を飲み、準備。入院は14時。検査をし、夕食を食べ、その日は終わり。手術は翌8月17日9時半。朝から点滴を開始。手術台にのり、鼻の部分だけ開けた布をかぶせられました。まず肩に麻酔。次に両ほほに骨に達するまで針をさされ、最後に鼻の奥に注射針が2本ささりました。主に鼻の中の軟骨を切除するわけですが、その方法が半端ではありません。金づちとノミをつかって打ち砕き、目の真下の骨をごりごりと引っかきながら削り取る瞬間は、並みの痛さではありません。あまりの恐怖に、力を入れすぎた両腕がしびれてしまったほどです。 手術を終えたとき、「口を閉じて鼻だけで息をしてごらん」と先生に言われ、恐る恐る吸ってみました。今までに体験したことのない大量の酸素が肺に導かれました。 予定通りに退院したのも束の間、出血していまい、再入院となってしまいました。 術後の経過は順調でしたが、退院前日に出血したため、緊急時のために、病院の夜間電話番号を教えてもらい、24日(金)に退院しました。外出もせず、メールも見ずに、悶々と安静に過ごしていましたが、26日(日)夕方に少し、出血。27日(月)通院時には、もう2日程度休めば大丈夫とのことでした。ところがその晩24:30頃、激しく出血が始まりました。鼻を抑えても、のどに血液が回り、飲み込んでしまいます。たまらず病院に緊急電話をし、車で向かいました。応急措置をし、一旦帰宅しましたが、明け方4時頃、さらに出血が激しくなり、7時に病院に向かい、そのまま再入院となりました。9時半に主治医の治療(鼻奥から血の塊を取り、出血を吸引、さらに強烈に痛い薬を鼻の奥に塗布)で、一旦止血したものの、2時間後に再度出血。左目の下あたりのかさぶたが剥がれたらしく、激しい出血となりました。最後の手段として、止血用軟膏を塗った30cm×3cm大のガーゼを3枚も左鼻の奥深くに詰め込まれました。麻酔もなしに治療は行われ、左頬がちぎられたような激痛と、上あごの歯すべてが虫歯になったような痛みが10時間ほども続き、くたくたになったしまいました。難聴の進行を食い止めるためとはいえ、このときばかりは、手術に踏み切ったことを後悔しました。「手術後、7日目と12日が危ないんだ。だから昔は2週間入院したんだ。 特に異常なことではないので心配しないでよい」と事も無げに言われました。もっと早く教えてほしかったものです。日帰り手術が流行っている今、2週間も入院するのでは、手術する患者がいなくなってしまうから縮めたとか。 病名:鼻中隔湾曲症、肥厚性鼻炎、慢性篩骨洞炎、慢性副鼻腔炎、鼻茸 |
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