2010-12-22
「如説修行抄」は偽書なのか?
- 平成の摂受・折伏論をめぐって(今成元昭氏の摂受本懐論)
- 「摂折論に関して」土屋信裕
私はミスター如説修行抄である。私以上に詳しい人を見たことがない。「御書に関するFAQ」で紹介した通りだ。ま、どこを質問されても大体答えることができる。
今成氏の説を初めて知ったのは一年ほど前のこと。その瞬間「ああ、そうかもな」と思った。
お断りしておくが、私は上記のリンク先も一瞥しただけで、きちんと読んでいない。もちろん今成氏が説く摂受本懐論には異議がある。っていうか、アプローチの仕方が拙いと思う。二者択一を強いる手法は、まるで誘拐犯の脅し文句みたいだ。「金を用意できなければ娘の命はないものと思え」。
私が「偽書かもな」と思ったのは全く別の理由だ。実は数年前からモヤモヤと考えていた。仏が「拷問に耐えて殉教せよ」と門下に促すことがあるだろうか? 「縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り」という極端な例えが門下に通用したのだろうか?
この御書は「人人御中へ」となっており、末尾にはわざわざ「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と念を押している。
迫害が必至であった一部の弟子に宛てたものであれば、それほど神経質になる必要はないかもしれない。
だが私は、やはり日蓮が「死を促す」とは思えないのだ。真蹟に「死身弘法」という言葉は一箇所あるだけだ。
どうせ中途半端な人生を送るなら、死と向き合えという姿勢はあってもおかしくない。人生の主導権を握ることは自由につながっているからだ。しかし「思想に殉じる」という概念は近代以降のものだろう。
私が異臭を感じてならないのは、この御書が教団内の権力者にとって都合のいい内容になっているためだ。さしずめ「妙法の自爆テロ」「広布の過激派」といったところ。
ファナティックな仏なんて、いるはずがないよ。
仙谷氏らの交代要求 公明・山口代表
公明党の山口那津男代表は22日の記者会見で、参院で問責決議を受けた仙谷由人官房長官と馬淵澄夫国土交通相が職にとどまる限り、1月召集の通常国会の審議に応じられないとの考えを示し、仙谷氏らの交代を要求した。
同時に、小沢一郎民主党元代表の証人喚問には、衆院予算委員会理事会などでの全会一致の合意が必要との認識を強調した。
仙谷氏らに関しては「政治的な重みを考慮すれば、仙谷、馬淵両氏が出席する審議に応じられない。通常国会で審議を進めたいならば、辞めてもらうのが原則だ」と指摘した。
弱小政党はこんな形でしか存在感をアピールすることができない。太田が落選してリリーフみたいな格好で就任した代表だから仕方がないか。世論に迎合し、学会本部の顔色を窺うようなのは政治家になるべきでない。安全保障や経済については沈黙を保っている。
どう考えても政治とカネより集団的自衛権の方が重要だと思うが。政治とカネ、キャンキャン、ワンワン。大人の癖に幼稚園なみじゃ。(牧村しのぶ)
まったく同感だ。ひょっとしたら、公明党もアメリカの意向を汲んでいるのかもね。するってえと、秋谷・市川両氏はお役ご免ってことか。
ジャイナ教裸行派の禁欲
「これらの原則は二つの方法で実践することができる」と導師はいった。「僧侶と尼僧はより厳格に原則に従う。例えば僧侶は食物を育てたり料理したりしない。我々は足以外の交通手段を用いない。船さえも使わない。もし川に橋がなければ、対岸へは行かない。我々はお金には触れない。蝋燭(ろうそく)や電気も使わないし、火も焚(た)かない。我々は日の光によってすべてを行い、夜は闇(やみ)の中で詠唱し瞑想する。僧侶は最小限の物質的資源しか使用しない」
「服さえ着ない僧侶もいます」と私はいった。
「そう、そのとおりだ。彼らは『ディガンバラ(裸行派)』の僧侶たちだ」と導師は述べた。「彼らは托鉢僧(たくはつそう)として両手のひらを用い、自分の行く道や体から虫を払うための孔雀(くじゃく)の羽のほうきと、水を飲むための木の椀以外は何も持たない。しかし、我々、『シュヴェーターンバラ(白衣派)』はそこまで極端ではない。我々は縫っていない布を二反、毛布を二枚、三つの托鉢鉢と数冊の教義書を用いる」
【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】
本部職員は裸行派で修行し直してくるべきだ。