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きょうのコラム「時鐘」 2010年12月24日
秀吉の朝鮮出兵が舞台だったころの本紙連載小説「三人の二代目」に、小西行長配下の武将である内藤如安(じょあん)の活躍が描かれていた
あまり知られていないが、和睦交渉で明国の首都・北京へ入った最初の日本人武将として名を残す人物である。主人の小西行長と同様に如安もキリシタンだった。関ケ原の戦いで行長が敗れた後、金沢に来て十数年を過ごした 加賀のキリシタン大名といえば高山右近を思い出すが、如安や宇喜多秀家の家臣だった宇喜多休閑(きゅうかん)らのキリシタン武将が、右近とともに、長年金沢で暮らしたことはほとんど忘れ去られている。特に如安ほどの武将の足跡が抹殺されていることは、驚きを通りこして不思議である 加賀藩のキリシタン史料抹殺が徹底していたからだろう。ところが、右近とともに国外追放された如安の足跡が、マニラに残っているのがまた不思議である。右近はフィリピン到着直後に亡くなったが、如安は10年以上も生き延びて日本人街を造ったとされる クリスマスには、東西の文化が交錯した加越能の歴史の深さに触れてみたい。郷土史が一気に世界史に広がる。 |