唐沢 象徴的表現が伝わりにくくなってきたって話は、もっと言うとオタク文化の発展史にもつながると思うんだ。つまり通常の文学的感性なら象徴的表現を自分のなかで補填して理解するところを、オタクという感受性の特殊なタイプの人間が「これじゃわからないから、もっと直接的な描き方を」ってことで表現技術を向上していったことが、何でも情報を過剰に詰め込むタイプの今のオタク映像文化を作り上げていったんじゃないかと。ある意味オタク文化って、“ダイレクト文化”なんだよ。だから、間接的な表現を頭の中で置換するっていう感受性は、いまのオタクは持ち合わせていないと思うんだな。
村崎 要するにリアル志向が強すぎて、象徴的表現じゃ満足できなくなっているってことね。
唐沢 それが行き着くところまで行き着いちゃって、“未成熟の少女に対するほのかな思い”程度の寸止め状態じゃダメ、ダイレクトに突っ込んだりぶっかけたりしないと今のロリコンは満足できないわけ。
村崎 そのうえ、そういう漫画の中では痛がるはずの少女がよがったり、あまつさえ本人のほうから求めてきちゃったりするわけだろ。PTAがそんなの読んだら、そりゃ顔をしかめるだろうよ。内容はほとんどファンタジーなのに絵はものすごくリアルだったりするから。
唐沢 だから、永遠に平行線をたどるしかないってところはあるんだよね。
村崎 だったらロリコン同士で結集してロリ萌え宗教団体を作って、ロリマンガはその団体の信者向けの会報誌だけに載せるようにするとかさ(笑)、あんまりお互いが関わりあわないような境界線を引いておいたほうがいいかもしれんよな。
唐沢 オタクは金も技術もある人が多いから、迫害されるのがイヤなら、この際、離れ孤島に独立国家作ったほうが手っ取り早いような気がする(笑)。まあ、本格的に規制派と話し合おうとするのなら、誰がオタクの利益を代弁して代表に立つのか、それすらよくわかってないのが現状だからね。
村崎 今回は藤本さんが頑張ってくれたからここまで注目されたわけで、あの人がいなかったら本当にヤバかったぞ。やれマンガ博物館を作るだの、国営マンガ喫茶を作るだの、かかる金だけではでかい無駄な事業ばっかりやっていて、実際は何一つマンガのためには役立っていないっていうのが、いまの政府のやり方だからな。
唐沢 こういう事業には理解があると思っていた橋下府知事も規制側に回っちゃったし、やっぱり上に立つ人間には圧力がものすごくかかるんだと思う。そうやってうまい具合に人材を取り込んで一歩一歩確実に条例発動のコマを進めているわけよ、規制派は。反対派がネットで感情的な議論でやいのやいの言って、全然まとまらない間にね。
村崎 表現者のテンションが上がると過剰な表現に向かうのって当然のことだし、これって根本的な解決には絶対至らないような気がするんだよな。
唐沢 だからといって「子供がいる親の気持ちを考えたことがないのか」って問われたら反論できないし、そこらへんは解決というより、妥協が必要なんだろうね。だから子供の手が届かないところでうまくカテゴライズしていこうという声もあるみたいだけど、規制反対で頭パンパンになっちゃってる人たちからは裏切り者呼ばわりされるみたい。
村崎 つーか「子供にしか発情できない、オレたちの気持ちを考えたことがないのか」とか問われたら、「ない」「欲情してもいいから実際に襲うのだけは我慢しろ!」と答えるしかねえよな(笑)。この俺にも種族保存本能はあるから、幼い子供が性犯罪の被害に遭うのを歓迎する気は全くねえよ。
唐沢 表現の自由を標榜するなら、すべての表現の自由も認めないといけない。たとえば、ロリを肯定するならば、障害者を抹殺するような小説とか、身分差別を肯定するような漫画を書くことも肯定しないといけないわけ。そこネグって性描写だけ認めろって言い分は、オレは甘いと思う。ロリはロリ規制に反対するばかりじゃいけない。全ての表現規制に反対しないといけない。そこらへん、甘いというか腰の据わっていない反規制派が多いので、どうにも歯がゆいんだなあ。
村崎 どうなのかねえ、オレなんかは、細かい単位の描写よりは作品トータルで見て好印象を残せばそれでいいんじゃねえかって思うんだけどね。こないだ、古書展で昔の「少年ジャンプ」があったんで懐かしくて手にとって開いてみたら、ジョージ秋山先生の『ばらの坂道』って作品が載っていて、それ読んだら冒頭からの5ページだけで7回も台詞の中に「キチガイ」って単語が出てくるのよ、さらっとな(笑)。それでも不快な気分になるだけの作品かというと全然そんなことはなくて、あれって、通して読めばかなりの感銘を受ける凄い名作なんだよな。
唐沢 今の目から見て使えない言葉とかを用いてる作品が悪質な作品なのかっていうと、そんな実例はほとんどないもんね。『サザエさん』にだって「キチガイ」って言葉は出てくるんだから。
村崎 やっぱり同時期の70年代のジャンプに掲載された手塚治虫先生の『泥だらけの行進』という作品は、「実は主人公は精神病患者だった」というオチが問題視されたのか、今でもどこの単行本にも未収録なんだけど、いま読むとオウム事件のようなテロを予見していたかのような、時代を先取りした暗示的な内容なんだよ(出て来るテロ組織の名前が「オウム」ではなく「ふくろう党」だったりする)。だからこういうのに規制をかけるっていうののほとんどの場合は、単なる言葉狩りなんだよね。
唐沢 たとえばいま看護婦というのは公的には「看護士」と呼ばなければいけないことになっているけど、そのまま「看護婦」と呼んだところで、誰が傷つくのかって話だよね。政府に文句言う前にまず、「私は傷つきました」という誰かと話をさせてほしいってのはあるよね。子供のいるオタクなんかは実際に子供に読ませて害がないと証明したところで、実害があるという人たちと話し合いの場をつくるのがいちばん有効だと思うんだ。政治家なんてのは、単に主婦層の票がほしいってだけで、実はこの問題についてそんなに深く理解しているわけではないんだろうから。
村崎 ロリ表現は一切ダメっていったって、『ラブやん』なんかはロリコンがどういう思いから生まれる嗜好なのかをきっちり描いていて、熟読してその生態を理解するだけでも、逆にロリ犯罪防止につながると思うんだよ。ああいう問題は嗜好を持った当人だけでなく、それをとりまく周囲の人間の理解ってのも重要なんだなって、なんだか凄く良いことを教えられた気になるし。
唐沢 差別の現実を描けなければ、差別撤廃運動が説得力もたないというのと同じだよね。表現を法的に扱おうとすると、どうしてもそういう矛盾が生じる。それでも、こういう条例が生まれてしまうっていうのはもう、時代がどうしようなくなってきているってことだろうね。このままだと、頭の中まで監視されかねない。
村崎 ほっといたら、「ロリコン警察」みたいなのが組織されて、全国民のパソコンのハードディスクの中身まで抜き打ちで逐一チェックされそうな日常になりかねないよな。
唐沢 そういう規制っていうのは、常に正義の仮面を被ってやってくる。「と学会」はトンデモ本を笑っているけど、トンデモ本を規制しようとしているのではないわけよ。どんな表現であろうと、それが優れているものでも劣っているものでも、正しいものでも間違っているものも、表現の名の下にすべては野放しにされないという原則はあると思うんだけど、少なくとも「水にありがとうって言葉をかけると綺麗な結晶ができます」って本を教育の場に置いちゃいけない。それの発表の場はちゃんと区分けしましょうよって話。
村崎 あと、未成熟の少女に対する性欲が全部一緒くたにされてる感があるんだけど、実際はいろんなフェチがいるってことを規制する側はちゃんと理解しているのかな?
唐沢 ロリ顔巨乳娘が好きな奴もいれば、つるぺた萌え、おさげ&メガネ萌えとか、ひとくくりにはできないからね。「つるぺたで、見た目女の子なのにちんちんがついてる」のが好きってのまでいる。
村崎 そんな都合のいい設定あるかよ(笑)!
唐沢 いや、ふたなり専門のコミケみたいな、「ふたけっと」っていう同人誌即売会まであるんだよ(笑)。人間の想像力はどこまで飛べるのかを調べるいいサンプルなんだから、規制するよりは放置しておくべくだとは思うがね。
村崎 結局、規制派は、アグネス見てりゃわかるけど、「自分たちはロリコンの存在自体を絶対に認めない!」っていう激しく偏狭な思い込みだけで動いているような気がするんだよな。規制の対象が違うだけで、やってることはシー・シェパードと一緒。いわば「ロリコン死ね死ね団」だよな。
唐沢 ということは、やっぱりこの場合も必要なのはレインボーマンか(笑)。
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