日本軍「慰安婦」特集(3):ナヌムの家と関わって 池内靖子 (上)

murmuring 2「ナヌムの家」との関わりは、まず、ビョン・ヨンジュ監督のドキュメンタリー映画『ナヌムの家』を観たことから始まった。映画『ナヌムの家』は、周知のように、1995年秋の山形国際ドキュメンタリー映画祭で受賞し、1996年春に日本で一般公開され、各地で自主上映の運動が広がった。私が所属する立命館大学の女子学生も、その映画を観て、ぜひ何か自分たちにできることはないか、と私の呼びかけに応えて集まってきた。学外では、当時の映画館「朝日シネマ」の支配人神谷雅子さん(現「京都シネマ」社長)に呼びかけ、クロード・ランズマン監督のドキュメンタリー映画『ショアー』の自主上映運動に関わっていた崎山政毅さんや、細見和之さん、上野成利さんたちを紹介してもらい、一緒に『ナヌムの家』の自主上映運動を始めたのである。

こうして、私たちは、1996年の5月に京都や大阪の学生や市民とともに「『ナヌムの家』を京都で観る会」というグループを作り、自主上映を企画した。1996年11月に京都精華大学、京大で上映会を開き、立命館大学ではビョン・ヨンジュ監督自身を招き、約450名の参加者で熱気あふれる集会となった。ビョン監督のユーモアあふれる語り口に、私たちは、映画と同様、思わず引き込まれ、深い感動を覚えた。参加者だけにとどめておくのはもったいないと思い、このときのビョン監督のトーク、自主上映運動に参加した学生たちの座談会、ソウルでのビョン監督へのインタビュー、映画『ナヌムの家』論、いくつかのコラムなどを加筆収録し、『いま、記憶を分かちあうこと ― 映画『ナヌムの家』をとおして「従軍慰安婦」問題を考える』という小さな本を私たちは出版した(素人社、1997)。

nanumuところで、その自主上映運動の準備段階で、私自身は、1996年、ビョン・ヨンジュ監督をソウルに訪ね、同時にナヌムの家に元慰安婦の女性たちを訪ねたことがある。今でも、一人で心細い思いをしながら地図を片手にソウル郊外の「ナヌムの家」を訪ねたときのことをはっきり覚えている。映画を通して知ったハルモ二(おばあさん)たちと直接向いあう機会をもって、私は緊張していたが、柔らかな表情の朴玉蓮(パク・オンニョン)さんに、とうもろこしやお茶をすすめられ、いつの間にかすっかりくつろいでいた。姜徳景(カン・ドッキョン)さんは、入退院を繰り返し、ちょうど「ナヌムの家」で休んでおられたが、私に分かるように、日本語で「国民基金」への批判を口にされた。朴頭理(パク・トゥリ)さんは、悠然と好物のタバコをおいしそうに吸っていた。ハルモ二たちは、それぞれの個室で、自分たちのリズムに合った生活を確保していた。郊外の広大な土地に新しく建てられたこのナヌムの家は、周りに畑地が広がり、鶏や犬を飼うスペースもあって、騒々しいソウルとは違うゆったりした時間が流れている。ハルモ二たちが日々畑仕事をし、種を撒き収穫を得る空間であり、続編『ナヌムの家2』で撮影された共同生活の場である。『ナヌムの家2』は、続編を作る予定ではなかったビョン監督にハルモ二たちが声をかけ、映画を作るように誘い、カメラに慣れた彼女たちが撮りたいと思った場面を中心に展開する。実際には、姜徳景さんからの、死んだら撮れないから今のうちにもっと撮れ、という壮絶な要請に応えるため、姜徳景さんの闘病生活と死を看取る映画になった。

結果として、ビョン監督は、1993年から1999年にかけて、7年にわたる歳月を費やして、元「慰安婦」の女性たちのドキュメンタリー映画を作り続けたが、最初から3部作が計画されていたわけではない。第1作の『ナヌムの家』は、韓国でドキュメンタリー映画史上初めて商業映画館で公開され多くの観客を引きつけたが、その映画を誰よりも楽しんで観たのはハルモ二たちだったとビョン監督は語っていた。1作目を作った動機についても、「一度も自分自身について表現することなく、身を隠して生きてきたハルモ二たち、自分自身のことを好きになれなかったハルモ二たちが、自分たちの日記を綴るような映画を作って、そのハルモ二たちが喜びながらその映画を観ることができたらどんなにすばらしいか」、と思ったという。2作目は、先にも触れたように、そうした喜びを知ったハルモ二たちからの要請に応える形で始まった。1作目でも感じられたハルモ二たちの変容、「カメラに撮られている対象が、時が経つにつれて、『映画』という媒体を自分のものとして所有していく、そういう過程」は、2作目ではより確実になっている。3作目の『息づかい』も、ハルモ二同士のインタビューという方式をとりいれ、聞き取りと対話のもう一つのあり方を模索している。

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