支局長からの手紙:愛娘鎮魂の1冊 /高知
毎日新聞 12月12日(日)15時7分配信
先日、取材相手の奥様から帰り際に1冊の本をいただきました。「二十二歳の娘の理由なき自殺を見つめ続けた『母性の歌』」。帰宅後、帯の言葉に胸を打たれて、鍋島寿美枝さん(74)=高知市福井町=の「鷹の渡る空」(02年、高知新聞社)を一気に読みました。死を選んだ次女圭子さんと同時期に東京で学生生活を送り、現在大学1年の娘を持つ私は、時に圭子さんになり、時に鍋島さんになり、ページを繰りました。
「圭子が……帰って来ない」。84年9月28日の深夜、都内のアパートで同居する2歳上の長女から電話がかかってきます。圭子さんは国際基督教大教養学部語学科4年でした。前月に故郷で教員採用試験を受け、卒論準備中です。鍋島さんが上京すると、三鷹署から連絡がありました。「仙台市で若い女性の飛び降りあり。年格好が似ている……」
小学教諭だった鍋島さんは当時、6年の担任でした。「教え子が卒業するまでは」と悲しみを凍結して教壇に立ちますが、校門を出ると涙があふれ出る日々です。「自殺の理由を突き止めるためにも、どっぷり悲しみに暮れるためにも」、翌年3月、28年間の教職を48歳の若さで退きました。
圭子さんは中学からフルートを習い、高校時代には米国に1年間留学するなど頑張り屋さんでした。「手の掛からないしっかりした子で、信頼していました。でもだからこそ、弱みを吐けなかったのではないか」と悔やみます。
鍋島さんは自殺に眼を背けるのではなく、愛娘の心情に寄り添い、理解しようとします。「そうでもしないことには立ち直れない」。娘の日記を読み、自殺やうつ病関連の本を読みあさり、大学時代の友人からも話を聞きました。進路、卒論、失恋。それぞれに悩んではいましたが、明確な自殺の理由はわかりませんでした。
娘を失った後の日々を記した短い随筆が、92年に創設された第1回大原富枝賞に輝きました。その後、大原さんの勧めで、愛娘の大学時代の様子を、日記を引用しながら小説風に大幅加筆しました。10年がかりで書き上げたのが冒頭の1冊です。
日記は、3回忌を前に出版した「心の頂(いただき)にさらされて」(86年、勁草出版サービスセンター)でも公開し、後書きにこう記しています。「今は亡き娘の日記を1字1字原稿紙に書き写していく−−それは、胸を刺す仕事でした」。活字にしたのは「鎮魂のため」とつづり、「平凡な人生を平穏無事に送ることがいかに難しいかを痛感した今、胸底深く悲哀を秘めて生きているひとに、地下水のような連帯の想いを伝えたい」。
圭子さんは希望を胸に大学に入学し、室内楽のサークルなどに打ち込みました。洋菓子のキャラクターにちなみ、愛称は「ペコ」。いい加減にするのが苦手で、常に完ぺきを目指しました。日記などで度々自答します。「What’s wrong with you,Keiko?(何がまちがっているのだろう、圭子?)」
就職活動のスーツを姉に見立ててもらって買いました。赤紫と白のグレンチェックです。その2週間ほど後、圭子さんはこの世に別れを告げます。最後を過ごしたホテルの部屋のソファにスーツがきちんとそろえて置いてありました。ポケットにメモが入っていました。「こんなふうにして終わるとは思わなかった−−私の人生(中略)あのスーツ、おねえちゃんに着てほしいな」
鍋島さんが悲しみをこらえて書き上げた本の表紙は、フルートを吹く桐塑(とうそ)人形の写真で飾られています。近所の女性が制作した人形は今、自宅玄関口に置かれ、鍋島さん夫婦の出入りを見守っています。【高知支局長・大澤重人】
………………………………………………………………………………………………………
■圭子さんの最後の日記■
さみしいんだな、こりゃ
朝起きた時、現実に連れ戻されて
また、やらねばならぬことの
山積みされた−−今日もまた、それを満足にこなすことはないだろう−−
一日をむかえて
私は無性にさみしくなる。
夢がよくなかったためか
未来を信じられない性格のためか
朝は憂うつ。
こんな寒い朝は最低だ。
目が覚めたとき
となりに誰もいないのが
いけないのかもしれない。
結局、さみしいんだよ。
朝起きて、とてもむなしかった。オネエはもういなかった。いっぱいノートに書きたいことがあったのに時間がない。
(84年9月25日)
12月12日朝刊
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小学教諭だった鍋島さんは当時、6年の担任でした。「教え子が卒業するまでは」と悲しみを凍結して教壇に立ちますが、校門を出ると涙があふれ出る日々です。「自殺の理由を突き止めるためにも、どっぷり悲しみに暮れるためにも」、翌年3月、28年間の教職を48歳の若さで退きました。
圭子さんは中学からフルートを習い、高校時代には米国に1年間留学するなど頑張り屋さんでした。「手の掛からないしっかりした子で、信頼していました。でもだからこそ、弱みを吐けなかったのではないか」と悔やみます。
鍋島さんは自殺に眼を背けるのではなく、愛娘の心情に寄り添い、理解しようとします。「そうでもしないことには立ち直れない」。娘の日記を読み、自殺やうつ病関連の本を読みあさり、大学時代の友人からも話を聞きました。進路、卒論、失恋。それぞれに悩んではいましたが、明確な自殺の理由はわかりませんでした。
娘を失った後の日々を記した短い随筆が、92年に創設された第1回大原富枝賞に輝きました。その後、大原さんの勧めで、愛娘の大学時代の様子を、日記を引用しながら小説風に大幅加筆しました。10年がかりで書き上げたのが冒頭の1冊です。
日記は、3回忌を前に出版した「心の頂(いただき)にさらされて」(86年、勁草出版サービスセンター)でも公開し、後書きにこう記しています。「今は亡き娘の日記を1字1字原稿紙に書き写していく−−それは、胸を刺す仕事でした」。活字にしたのは「鎮魂のため」とつづり、「平凡な人生を平穏無事に送ることがいかに難しいかを痛感した今、胸底深く悲哀を秘めて生きているひとに、地下水のような連帯の想いを伝えたい」。
圭子さんは希望を胸に大学に入学し、室内楽のサークルなどに打ち込みました。洋菓子のキャラクターにちなみ、愛称は「ペコ」。いい加減にするのが苦手で、常に完ぺきを目指しました。日記などで度々自答します。「What’s wrong with you,Keiko?(何がまちがっているのだろう、圭子?)」
就職活動のスーツを姉に見立ててもらって買いました。赤紫と白のグレンチェックです。その2週間ほど後、圭子さんはこの世に別れを告げます。最後を過ごしたホテルの部屋のソファにスーツがきちんとそろえて置いてありました。ポケットにメモが入っていました。「こんなふうにして終わるとは思わなかった−−私の人生(中略)あのスーツ、おねえちゃんに着てほしいな」
鍋島さんが悲しみをこらえて書き上げた本の表紙は、フルートを吹く桐塑(とうそ)人形の写真で飾られています。近所の女性が制作した人形は今、自宅玄関口に置かれ、鍋島さん夫婦の出入りを見守っています。【高知支局長・大澤重人】
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さみしいんだな、こりゃ
朝起きた時、現実に連れ戻されて
また、やらねばならぬことの
山積みされた−−今日もまた、それを満足にこなすことはないだろう−−
一日をむかえて
私は無性にさみしくなる。
夢がよくなかったためか
未来を信じられない性格のためか
朝は憂うつ。
こんな寒い朝は最低だ。
目が覚めたとき
となりに誰もいないのが
いけないのかもしれない。
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(84年9月25日)
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最終更新:12月12日(日)15時7分
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