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関西『証言集会 中国桂林の「慰安婦」被害者 葦紹蘭さんを迎えて』のこと
関西『証言集会 中国桂林の「慰安婦」被害者 葦紹蘭さんを迎えて』のこと
12月11日、豊中市で行われた『証言集会 中国桂林の「慰安婦」被害者 葦紹蘭さんを迎えて』(日本軍「慰安婦」問題関西ネットワーク主催)に通訳のお手伝いに行ってきました。
証言されたのは今年88歳になるウェイシャオランさんと息子さんのルオシャンシュエさん(65歳)です。お二人はプートンファ(中国語の共通語)ができませんのでウェイさんの娘婿の武さんがプートンファにしてくださって、という二人三脚の通訳でした。

ひょっとして、と思いウェイさんに「ヤオ族の方ですか?」と聞くと、「そうだ。」とのことでした。
会場は開始時間もまもなくとなると満席になり、熱気がいっぱいです。

証言のとき、ウェイさんも息子さんのルオさんも話しの途中、何度も慟哭されました。

ウェイさんは1944年秋、桂林一帯に掃討作戦をかけた日本軍に、乳飲み子の娘さんとともに拉致され、「慰安所」に連行され、そこで日本兵の「慰安婦」をさせられました。

当時同様に拉致連行された婦人はほかにも数名いたそうです。そして「慰安婦」をさせられている時に日本兵によって妊娠させられました。それが息子さんのルオさんです。
拉致連行から三ケ月ほどたったある日夜も明けぬ朝方、ウェイさんは乳飲み子を連れて日本軍の「慰安所」から逃げ出しました。
ウェイさんが自分の身の上を初めて公開したのは2007年になってからの事です。当時安倍首相は、旧日本軍の「慰安婦」問題で、「強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だ」と発言し、日本国内はもとより世界中から激しい抗議をうけます。極東軍事裁判の記録にもちゃんと記録がのこっているからです。安倍首相の発言からまもなく、ウェイさんの地元紙「桂林晩報」の記事をはじめ、日中両国の史学家、ジャーナリストの努力により、桂林のウェイさんと、息子さんのルオさんが初めて、生き証人として名乗りでることができました。
息子のルオさんは2007年になって初めて、記者の取材に答えるお母さんの口から日本軍による拉致、暴行を聞き、そして自分の出生について事実を知ります。

集会当日もお母さんが証言されるのを聞きながら何度ももだえるように泣かれました。
ルオさんは、「日本軍の子供」といわれ、村はもとより家族の中でさえ毎日が針のむしろにすわらされるような、言われなくうしろ指をさされるような半世紀以上の人生でした。
ウェイさんの夫である中国のお父さんとの間には、ルオさんが日本軍兵士の子供、ということで大変な確執がうまれざるをえませんでした。
集会の中で「中国のお父さんをどう思われますか?」という質問に、「自分を育ててくれた、人道的だ」と言われました。
お二人は今回日本に初めて来られたのですが、日本の印象はどうですか?という質問に、ルオさんは「(日本にきて出会った)日本人は礼儀正しく、やさしい」と言われていました。日本政府に望むこととして「日本政府は母に対して行った罪を認め、謝ってほしい、次の世代に二度とあのような戦争をしないようよう教育してほしい」しばらく慟哭され、毅然とそういわれました。
注:1943年冬、日本は太平洋戦線での相次ぐ敗北により海上ルートが切断される恐れがあった。南方戦線における陸路確保と中国の西南における空軍基地を破壊するため、1944年1月、日本は大陸ルート貫通の命令を下す。これが「打通作戦」(中国側では豫湘桂戦役と呼ばれる)。同年秋の収穫時を狙い、岡村寧次指揮下の日本軍はウェイさんの村のある広西一帯を侵略した。
(報告 野村明美)
12月11日、豊中市で行われた『証言集会 中国桂林の「慰安婦」被害者 葦紹蘭さんを迎えて』(日本軍「慰安婦」問題関西ネットワーク主催)に通訳のお手伝いに行ってきました。
証言されたのは今年88歳になるウェイシャオランさんと息子さんのルオシャンシュエさん(65歳)です。お二人はプートンファ(中国語の共通語)ができませんのでウェイさんの娘婿の武さんがプートンファにしてくださって、という二人三脚の通訳でした。
ひょっとして、と思いウェイさんに「ヤオ族の方ですか?」と聞くと、「そうだ。」とのことでした。
会場は開始時間もまもなくとなると満席になり、熱気がいっぱいです。
証言のとき、ウェイさんも息子さんのルオさんも話しの途中、何度も慟哭されました。
ウェイさんは1944年秋、桂林一帯に掃討作戦をかけた日本軍に、乳飲み子の娘さんとともに拉致され、「慰安所」に連行され、そこで日本兵の「慰安婦」をさせられました。
当時同様に拉致連行された婦人はほかにも数名いたそうです。そして「慰安婦」をさせられている時に日本兵によって妊娠させられました。それが息子さんのルオさんです。
拉致連行から三ケ月ほどたったある日夜も明けぬ朝方、ウェイさんは乳飲み子を連れて日本軍の「慰安所」から逃げ出しました。
ウェイさんが自分の身の上を初めて公開したのは2007年になってからの事です。当時安倍首相は、旧日本軍の「慰安婦」問題で、「強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だ」と発言し、日本国内はもとより世界中から激しい抗議をうけます。極東軍事裁判の記録にもちゃんと記録がのこっているからです。安倍首相の発言からまもなく、ウェイさんの地元紙「桂林晩報」の記事をはじめ、日中両国の史学家、ジャーナリストの努力により、桂林のウェイさんと、息子さんのルオさんが初めて、生き証人として名乗りでることができました。
息子のルオさんは2007年になって初めて、記者の取材に答えるお母さんの口から日本軍による拉致、暴行を聞き、そして自分の出生について事実を知ります。
集会当日もお母さんが証言されるのを聞きながら何度ももだえるように泣かれました。
ルオさんは、「日本軍の子供」といわれ、村はもとより家族の中でさえ毎日が針のむしろにすわらされるような、言われなくうしろ指をさされるような半世紀以上の人生でした。
ウェイさんの夫である中国のお父さんとの間には、ルオさんが日本軍兵士の子供、ということで大変な確執がうまれざるをえませんでした。
集会の中で「中国のお父さんをどう思われますか?」という質問に、「自分を育ててくれた、人道的だ」と言われました。
お二人は今回日本に初めて来られたのですが、日本の印象はどうですか?という質問に、ルオさんは「(日本にきて出会った)日本人は礼儀正しく、やさしい」と言われていました。日本政府に望むこととして「日本政府は母に対して行った罪を認め、謝ってほしい、次の世代に二度とあのような戦争をしないようよう教育してほしい」しばらく慟哭され、毅然とそういわれました。
注:1943年冬、日本は太平洋戦線での相次ぐ敗北により海上ルートが切断される恐れがあった。南方戦線における陸路確保と中国の西南における空軍基地を破壊するため、1944年1月、日本は大陸ルート貫通の命令を下す。これが「打通作戦」(中国側では豫湘桂戦役と呼ばれる)。同年秋の収穫時を狙い、岡村寧次指揮下の日本軍はウェイさんの村のある広西一帯を侵略した。
(報告 野村明美)
12月4日 日中友好討論集会感想
12月4日 日中友好討論集会感想
30名近い参加者は、日米合同軍事演習反対というサブテーマで、老いも若きも忌憚なく発言し活発な討論集会でした。来年には滋賀県の饗庭野で日米合同軍事演習が予定されているといいます。ウイキの話しや「尖閣」フィルムの話しなど、日本のマスコミ操作されている、というだけでは不十分で、情報かく乱の中にあるのでは、と痛感しました。また、司会の方のコメントでもありましたが、トンキン湾の真相と天安号のそれとの比較にもありましたようにどのように軍国主義者が情報操作しようとも米軍基地撤去の運動は反対運動をしている当事者にはよくわかっています。アメリカがほしいままに世界の覇者になれる時代の最後のあがきの段階にあるということを改めて思った次第です。
(文責 野村明美)

30名近い参加者は、日米合同軍事演習反対というサブテーマで、老いも若きも忌憚なく発言し活発な討論集会でした。来年には滋賀県の饗庭野で日米合同軍事演習が予定されているといいます。ウイキの話しや「尖閣」フィルムの話しなど、日本のマスコミ操作されている、というだけでは不十分で、情報かく乱の中にあるのでは、と痛感しました。また、司会の方のコメントでもありましたが、トンキン湾の真相と天安号のそれとの比較にもありましたようにどのように軍国主義者が情報操作しようとも米軍基地撤去の運動は反対運動をしている当事者にはよくわかっています。アメリカがほしいままに世界の覇者になれる時代の最後のあがきの段階にあるということを改めて思った次第です。
(文責 野村明美)