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本物と偽物の違いは、
理証・文証・現証によって、
測るしかありません。
しかしその中ででも大聖人様が
『現証には過ぎず』とおっしゃられた
一番重要な現証は、
その人の"捉え方"に依って、
いくらでも変わってしまいます。
そしてその"捉え方"こそは、
日蓮正宗の正しい信心に依って
六根が清浄でなければ、
決して解らないものです。
そこで重要になるのは、
「よしやってみよう」と云う
勇気です。
だから勇気の使い方を
間違えてはいけません。
つまりその勇気こそは、
理証と文証に裏打ちされていなければなりませんが、この人間の世界に於いて、相手が本当に信用出来る人間かどうか、理証と文証が揃っている事などは、先ず有り得ません。
人間は須らく、
悪縁にたぼらかされて
道を誤るのです。
理証・文証なき人間(悪縁)に、です。
しかしその人間の言動に、
理証・文証が揃っている事などは稀であり、人とは違う事を言っている人はすべて、悪縁と云う事になるのでしょうか?
私は日蓮正宗の信心をし、
一応ではありますが、
御住職様からも認められております。それは現証です。
それでも理証・文証を持たない私の言葉。私の存在を、悪縁だと断定出来ますか?
無論、犯罪者と疑わしき者を教唆して匿った訳ですから、私などが日蓮正宗信徒では、御迷惑でしょう。
堕地獄の業ではありますが、御宗門を御護りする為に、此処は正式に除名を願う事に致します。
生まれて来てごめんなさい。
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