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烏竜遺竜事(おりょういりょうのこと)  

2010年 12月 16日

              ◇上野尼御前御返事に示された父子の人生。
上野尼御前御返事。(1580~1582頁)
大聖人御年60歳の時のお手紙である。上野尼御前は南条時光の母である。
御書の冒頭、「この仏法を信受すれば、千人のうち千人、一人も欠けることなく仏になれる」とのご指南があり、その裏付けとして、烏竜(おりょう)遺竜(いりょう)父子の古事が語られている。この父子は、古代中国の有名な書道家であった。
父の烏竜(おりょう)は、道教(どうきょう)を信仰していた。
道教とは、長生術、呪い、易などを行う中国民族の土着宗教である。この世は、天界と人界、冥界に分れ、多くの神々が存在し、宇宙の運行や自然現象を司っているとされる。
父の烏竜(おりょう)は、仏教を嫌い、仏典の書写をしなかった。
烏竜は死に際し、息子の遺竜(いりょう)に、「仏典を書写してはならない」と遺言した。
父は、このことが原因して、死して無間地獄に堕ちたが、息子の遺竜はそのことを知らない。息子は、父の遺言を守り、仏典の書写をしなかったが、最終的に、領主である司馬氏の要請に屈し、やむなく遺言に違犯して法華経八巻の題号64文字を書いた。遺竜はこのことを悔い、血の涙を流し、父の墓前で陳謝する。
その遺竜の夢に、父の烏竜が出現して語りかける。
「汝が手は我が手なり・汝が身は我が身なり・汝が書きし字は我が書きし字なり・汝心に信ぜざれども手に書く故に既に・たすかりぬ」(御書1582頁)
息子の手で書かれた法華経の64文字の題号が、父を救ったという古事である。
日蓮大聖人は、この御書を通じ、親孝行とは何か、さらに南無妙法蓮華経の功徳とは何かをご教授くださった。たとえ信じていなくても、これほどの功徳がある。もし、大信力で祈り、行動したときの功徳は如何ばかりであろう。
池田先生は、「あなたが勝てば、ご両親も勝利される」と再三、ご指導くださっている。
まさに、この仏法の実践において、自身が勝利することは、父母のみならず、地域の創価学会全同志の勝利となり、大功徳となるであろう。
ご両親を失われたり、お子様を失っていらっしゃる方々にとって、この御書は勇気と希望を得られる内容を秘めている。長編の御書ではないので、一通り拝されてはいかがであろう。
さて、御書には、仏法の功徳の無量無辺を示す内容のものが多く存在している。
この功徳を、体験するということは大事中の大事である。
理屈で知っていることと、体験で理解しているというのは天地ほどの違いがある。私は、いくつかの大功徳を頂いた。私の今があるのは、この功徳のお陰である。今、逆境の中で苦しまれている人もいらっしゃるであろう。多くの方々が、御書に学び、祈り、行動して、大きな実証を得ていただきたいと願っております。
尚、私の父は、すでに亡くなっています。
私の父の過去の記事は、→ここをクリック!

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# by sokanomori | 2010-12-16 22:12 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(8)

兄弟抄  

2010年 10月 07日

               ◇障魔との戦いの要諦が明かされた御書。
今月の御書は、兄弟抄ですね。
兄、池上右衛門大夫宗仲(うえもんのたいふむねなか)
弟、池上兵衛志宗長(ひょうえのさかんむねなが)
この兄弟に宛てられた、大変有名な御書です。
兄弟抄の中で、大聖人は、魔との闘争の要諦をご教授くださっています。
池上兄弟の父、康光(やすみつ)は、極楽寺良観の熱心な信者でした。
日蓮大聖人に帰依し、信仰をする兄弟を憂い、康光は退転を迫り、結果、兄の宗仲を勘当します。弟を残し、兄を勘当することで、兄弟の分断を図ったのでしょう。
この大難の中、兄弟は大聖人の激励に応え、力を合わせて精進し、やがて父を折伏、大聖人の仏法に帰依させました。
兄は二度の勘当に遭いましたが、このお手紙は最初のものです。
本編御書には、有名な御文が沢山登場します。
--------------------------------------------------
「世界は第六天の魔王の所領なり・一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり 」(1081頁)
「貪瞋癡(とんじんち)の酒をのませて・仏性の本心をたぼらかす 」(1081頁)
「死は一定なり・いろばしあしくて・人にわらはれさせ給うなよ」(1084頁)
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし・魔競はずは正法と知るべからず 」(1087頁)
「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る・乃至随う可らず畏る可らず 」(1087頁)
「心の師とはなるとも・心を師とせざれ」(1088頁)
--------------------------------------------------
当時、勘当とは、一切の生活基盤を失う厳しい処遇でした。
法華経の行者は、魔王が父母、主君、妻子に入り、攻められると大聖人は述べられています。私も、大小、いくつかの魔が出現したことがあります。
具体的には申し上げませんが、一番大きな難が訪れた時、私は御本尊様の前に座ることもできなくなりました。周囲がどんなに慰めてくれても、ぬぐい切れない厳しい現実に、信心の歓喜も、祈ろうとする気力も吹き飛ばされたのです。
第六天の魔王に、一度でも遭遇した経験のある人であれば、その凄まじさを知っていらっしゃることでしょう。息もできないほどの苦しみが続くものでした。
私は、数年かけてこの苦難を克服したのですが、運命の打撃の衝撃の強さは半端ではありませんでした。けれど、この経験から、私は人の痛みが分るようになりましたし、乗り越えた時、その苦難の大きさだけ、大きな幸福を得ることができました。
現在、様々な障害や苦難に、泣き暮らしている人はいらっしゃるでしょう。
もし、重大な悩みをお持ちならば、この兄弟抄を全頁、読まれることをお勧めします。
そして、この池上兄弟の如く、断じて引かず、大勝利を掴んでいただきたいです。
四条金吾は、主君に迫害されましたよね。皆、いろいろあります。^^
過去の四条金吾の記事は、→ここをクリック!

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# by sokanomori | 2010-10-07 22:57 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(14)

白米一俵御書  

2010年 08月 22日

               ◇白米は白米にはあらず・すなはち命なり

人にも二つの財(たから)あり
一には衣 二には食なり
魚は水にすむ 水を宝とす
人は食によつて生あり 食を財とす
いのちと申す物は
一切の財の中に第一の財なり
三千大千世界にみてて候財も
いのちには かへぬ
食なければ いのちたへぬ
命と申す財にすぎて候財は候はず
いにしへの聖人 賢人と申すは
命を仏にまいらせて 仏にはなり候なり
白米は白米にはあらず すなはち命なり
(御書1596~1597頁から抜粋)

白米一俵御書は、日蓮大聖人が身延入山後にしたためられた御書である。
別命を、「事理供養御書」という。宛名・時期は、明らかでない。門下の者が、白米を一俵、ご供養されたことに対する御返事で、供養のあり方が指南されている。
供養には、事供養と理供養がある。
雪山童子が鬼神に身を捧げ、聖徳太子などが身命をもって法華経に供養したのは事供養である。衣や米、財の供養は理供養である。
事供養とは、広宣流布の活動である。理供養は財務もあるが、仏壇を綺麗にする、あるいは、座談会の会場を提供するというのも理供養である。仏壇の清掃は、御本尊を供養することであり、会場提供は住居の供養である。
写真は、ジョギングコースにある田んぼ。
頭を垂れた稲穂を見ると、この白米一俵御書を思い出します。
さあ、後半戦。事理共に、ご供養しつつ前進いたします。頑張るぞ、オー!^^
雪山童子の過去の記事は、→ここをクリック!
田んぼに関する過去の記事は、→ここをクリック!

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# by sokanomori | 2010-08-22 21:10 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(4)

四大不順(しだいふじゅん)  

2010年 08月 21日

               ◇病に六種あり。その中に四大不順あり。
健康は、何よりも大切である。
広宣流布のために、家族のために、私たちは人一倍、健康に留意し、ハツラツとした毎日を過ごしたいものである。読者の中に、身体的病、あるいは、精神的病に苦しんでいる人もいらっしゃるかも知れない。私も、何度か、大きな怪我や病気をしてきた。
本日は、太田入道殿御返事から、病気と対策について学びたいと思う。
本編は、太田入道が病気で悩んでいることを知った大聖人が、病気の原因とその対処方法について述べられた御書である。
この中に、四大不順(しだいふじゅん)が説かれている。
これは、天台大師が摩訶止観八上で述べたもので、病の起こる6種の原因の中で、地、水、火、風の四大要素の不順が原因で病気になることが述べられている。地とは骨や筋肉、水とは血液、火は体温、風は呼吸である。この4種の不調和により、人は病気になる。
戸田先生は、病の起こる6種類の原因について次のように分類され、指導されている。
(戸田城聖先生・質問会集:297頁~)
---------------------------------------------------------
①四大順ならざる故に病む。(風邪、日射病など)
②飲食(おんじき)節ならざる故に病む。(食べすぎ、飲みすぎ)
③坐禅(ざぜん)調わざる故に病む。(運動や睡眠の不足)
④鬼便りを得る。(バイ菌などによる重病)
⑤魔の所為。(原因不明の病気)
⑥業の起こるが故に。(過去世の業病)
①~③は、医者や生活習慣の改善で治せる病気である。信心でなくても治せる。
④~⑥は、信心でなければ治せない。業病には、金欠病も含まれる。
信心すれば必ず治ります。治らないなら死にますけれど、今度は健康に生まれてくる。
---------------------------------------------------------
この戸田先生の指導の中で、「食べすぎ、飲みすぎ、不摂生からの病気は、御本尊様にお願いするのは勿体ないから、各人で注意しなさい」と述べられていることに注目したい。すなわち、病気は大きく2つに分けられる。1つは医者や運動で治す。2つに信心で治す。
運動、睡眠、栄養、正しい生活習慣は、信心以前の事柄である。
運動もしないで、暴飲、暴食を続けるような人では、健康になれる訳がない。
四大不順で病気にならないようにしたい。早期発見、早期治療も大事である。
私も、今後のために、親知らずの抜歯と奥歯の治療を決意しました。(笑)
祈りつつ、医者の力を借りる。努力する。これが、創価学会員の健康作りです。
皆さんも、広宣流布のためにピカピカの体を作りましょう!^^

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# by sokanomori | 2010-08-21 23:58 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(8)

ダイヤモンドの宗教  

2010年 08月 20日

              ◇日蓮大聖人の仏法は宗教界の王者です。

日蓮大聖人の仏法は、ダイヤモンドの如き最高の宗教である。
例えるなら、釈尊の仏教はダイヤモンドの原石。磨けば美しく輝くということを指摘したのが、天台であり伝教であった。しかし、原石を磨くには、経文通りの大難を受けなければならない。
その実践者こそ、末法の御本仏、日蓮大聖人であられた。
日蓮大聖人は、旃陀羅(せんだら)の子としてご生誕された。仏教の一切を修学され、幾多の大難を乗り越え、やがて、竜の口を経て佐渡流罪となる。この時、ついに、ダイヤモンドの世界宗教が誕生したのである。

そもそも、歴史的に見れば、仏教は釈尊によって生まれたものである。ならば、どうして、私たちは日蓮大聖人に帰依し、日蓮大聖人の仏法のみを親授するのであろう。
仏教はインドに生まれた。その仏教は、シルクロードを渡り、中国に伝わった。
梵語を鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳し、その経典から天台大師が法華経の真髄を悟り、法華経をさらに成熟させたのである。この中国天台宗の経典が、伝教大師(最澄)に相伝されるのである。伝教は、時が来ていないことを知っていた。故に、将来の「末法の法華経の行者」に未来を託したのである。

日蓮大聖人は、釈尊、鳩摩羅什、天台、伝教の仏法を、勝利の実証をもって完成させた。末法においては、釈尊の法華経は文証・理証の宗教である。大聖人の仏法は文証・理証・現証の一切を具足した究極の宗教である。
大聖人は、顕仏未来記(けんぶつみらいき)に次のように仰せである。
「安州の日蓮は・恐くは三師に相承し・法華宗を助けて末法に流通す・三に一を加えて三国四師と号(なず)く」(御書509頁)と。
三国とは、インド、中国、日本のことである。四師とは、釈尊、天台、伝教、日蓮大聖人のことである。すなわち、大聖人の仏法は、三国と四師によって築かれた世界宗教である。
御本尊の中央には、南無妙法蓮華経日蓮と書かれている。
南無とは梵語の音訳、妙法蓮華経は漢語、日蓮は日本語である。その左右には、釈尊、天台、伝教、さらに十界の衆生が描かれている。向かって右にある梵語は、「不動明王」(仏道修行を妨げる魔を打ち破る働き)であり、左の梵語は、「愛染明王」(愛で人々の煩悩を浄化する働き)である。梵、漢、日の三国(全世界)を含有した稀有の御本尊である。
日蓮大聖人の仏法は、一国、一民族の教えではない。
全東洋、全世界の人々のための大宗教である。

このように、私たちは、世界最高の功徳ある御本尊を保ち、正当正義の創価の一員として祈り、行動することができる。何という幸せであろうか。
大感謝と大歓喜を持って、今日も祈り、今日も行動したい。
日蓮大聖人の過去の記事は、→ここをクリック!
釈尊の過去の記事は、→ここをクリック!
鳩摩羅什の過去の記事は、→ここをクリック!

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# by sokanomori | 2010-08-20 22:38 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(6)

御書全頁拝読への挑戦  

2010年 05月 20日

              ◇私は、このようにして全頁拝読しました。^^

先日、東の空さんからコメントがあった。
「質問があります。私は通解付きの御書しか読めません。昔の大百蓮華に『意味はわからなくてもいい。読めば功徳がある』と書いてありましたが、いかがなものでしょうか?」とのこと。
そのコメントの記事は、→ここをクリック!
ご質問は、とっても大事なこと。
本日は、実際に、御書の全頁拝読にどのように挑戦したかをお話しいたします。
かくいう私は、学生部時代、御書を開くとチンプンカンプンでした。
まるで、外国語のような感じ。その私が、御書を3回読んだのです。
御書全頁拝読の過去の記事は、→ここをクリック!
最初から意味は分かりませんでした。特に、最初の「唱法華題目抄」が分からない。意味が分からないから感動しない。多くの人が、この御書で挫けてしまう。(笑)
挑戦した人の多くは、同じだと思うのですが、まず、「読みたい」という願望があること。そして、「何が何でも、絶対に、最後まで読み通すぞ!」という強い決意が前提条件です。
とにかく読み始めることです。分からないままでも読む。読んでいくうちに、何故か意味が分かるようになります。でも、1度目、3分の1は良く分からなかった。
そこで、2度目に挑戦した。今度は、「絶対に、意味をきちんと把握するぞ!」と決意した。
仏教哲学大辞典(写真上)で意味を調べながら読んだ。ある程度、これで理解できた。
ただし、池田先生の読み方からすると浅いし、我見が混じる。読んで分かるんですよ。三代会長の深さと凄さ。^^
挑戦においては、「仏教哲学大辞典」、「漢和辞典」が必需品。漢和辞典は、文字数が多いものを購入すること。加えて、下写真のような厚紙を切ったシオリも便利。よく出てきて読めない漢字を書いておくと、いつか覚えられるのです。(笑)
御書にコメントを書く時には、御書の大きさに切った柔らか目の下敷き、HBのシャーペン、消しゴムを使用します。シャーペンの芯が固いと、御書が破けたりする。ですから、HB以上の濃さの芯をお使い下さい。
さて、日本人として生まれた私たち。私たちは、御書を原文で読めるという特権があるのです。一度は挑戦したい。得るもの猛烈にありますよ。
読めば読むほど、日蓮大聖人を身近に感じられるようになります。700年の時空を越えて、日蓮大聖人の直接のお声が聞こえてきますよ。(笑)
私のふるさとの学会員の先輩で、7回も御書を読まれた人がいるのです。
いつか、私も、再度挑戦したいと思っています。

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# by sokanomori | 2010-05-20 23:44 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(13)

続・心の財  

2010年 04月 11日

 ◇広宣流布の心が人生勝利への道。

なぜ、祈りが叶うのか。
逆に、なぜ、祈りが叶わないのか。
この重要なテーマを、池田先生の新・人間革命21巻に見てみよう。
注目すべき内容が、21巻の「共鳴音」にある。
この抄に、長谷部彰太郎(はせべ・しょうたろう)という画家が登場する。
長谷部は、過去、パリで池田先生にお会いしたときに、先生に「フランスに家をかうべきどうか」を相談する。池田先生は、「家が買えるような画家になったのか」と驚くが、現実の彼は、まだ家が買えるような画家ではなかった。彼は、言った。「将来のこととして、お伺いしたのです」
この質問に対し、池田先生は次のように指導されている。
「私は、あなたが家を買うことに賛成です。それには、断じてフランスに家を購入するぞと決めて、真剣に祈ることです。しかし、ただ家が欲しいというだけでは、祈りはなかなか叶わないかもしれません」
このとき、長谷部は「何か、祈り方があるのでしょうか?」と聞く。
池田先生は、祈り方の一つの方法を、この画家に伝授する。
「あります。フランスの人々の幸福と繁栄のために、広宣流布を誓願し、祈り抜いていくことです。例えば、『私はフランス広布に生き抜きます。社会の信用を勝ち取るためにも、皆が集える会場にするためにも、家が必要です。どうか、大きなすばらしい家を授けてください』と祈るんです。これに対し、ただ大きくて立派な家を下さいというだけの祈りでは、自分の境涯はなかなか開けない。だから、願いが成就するにも時間がかかります」
さらに、池田先生は、「祈りの根本は、広宣流布」であり、「広宣流布の一念の唱題に、無量無辺の功徳がある」と指導された。
長谷部は、その指導通りに祈り、1年後、3000㎡ほどもある敷地の豪邸の購入を果たす。
これは、見逃してはならない重要なご指南である。「境涯」が開けて、「願い」が叶う。
すなわち、「広宣流布の決意」という「心の財」を取り出し、祈り、行動することに他ならないのである。
私も過去、等身大の広宣流布を誓願し、祈り抜いた。そして、その祈りの全てを叶えたことがある。私のごとき、平凡な立場でも叶うのだ。
私の300百万遍の祈りと功徳についての過去の記事は、ここをクリック!

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# by sokanomori | 2010-04-11 20:00 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(32)

心の財  

2010年 04月 10日

                   ◇「心の財」とは何でしょうか?

崇峻天皇御書(すしゅんてんのうごしょ)は、四条金吾が人生最大の苦難の中で日蓮大聖人から頂いたお手紙です。
やがて金吾は、絶体絶命の苦難を克服し、三倍の領地を得て大勝利者となります。
この御書には、かの有名な御文があります。
「蔵の財よりも身の財すぐれたり・身の財より心の財第一なり・此の御文を御覧あらんよりは心の財つませ給うべし」(御書1173頁)

私たちは、日々祈っています。でも、叶う祈りと叶わない祈りがあります。何故でしょう。
祈りとして、「心の財より身の財」、「身の財より蔵の財」となっていないか。
金吾は、領地を三倍にして欲しいと祈ったのでしょうか?
蔵の財は仕事やお金だと分かるし、身の財は健康と一目で分かる。
それでは、心の財とは何でしょう。「心が財(たから)」と読むのでしょうか?
違うのです。心には悪しき心もあるし、善き心もある。一念は三千念とも、八億四千念とも比喩されているように、その境涯に応じて無数に次元が異なっている。すなわち、ガラクタもあれば財宝もある。
であるとするなら、心の中の財宝の中の財宝、真実の宝とは何か。
結論を申し上げるなら「大善の心」です。すなわち、「広宣流布の心」が最高の宝です。

先日、鯖板で、説教オヤジさんが、感動的な御書の解釈を述べられていた。
その鯖板の説教オヤジさんのスレは、→ここをクリック!
スレ冒頭の>>12を注目していただきたい。
「1600ページに及ぶ御書には『ご本尊を信じ、題目を唱え、広宣流布をせよ』と書いてある。初代二代を始め、先生が残された膨大な指導の数々も、結局は全く同じ事を言われている。我々は、その通りにやっていけば良い。そもそも、元初からそうして来たのだ」
私は、このさりげない一言に息を呑んだ。その通りだ。
御書は確かに、そのことを述べている。究極の心の財を取り出し、決意し、祈るからこそ、結果として様々な功徳を得られる。次回は、「どのように祈ればよいのか」というテーマを、さらに掘り下げます。次の記事は、→ここをクリック!

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# by sokanomori | 2010-04-10 23:06 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(4)

同生同名(どうしょうどうみょう)  

2010年 03月 14日

                   ◇信心は「やった分」の功徳です。^^
子供のころ、母からヘンな話を聞いた。
「左右の肩に二人の神様がおるんよ。その神様が、お前の行いを全部、御本尊様に教えとる。二人いるのは、一人が御本尊様に報告に行っても、もう一人がじっと見とる。じゃから、ごまかせんようになっとる。良いことも悪いことも、全部、ご本尊様はお見通しなんよ」
インパクトのある話で、子供ながらに、「嫌だな~」と思った。(笑)
さて、この肩にいる神様というのは、同生同名(どうしょうどうみょう)と呼ばれる二神で、正式には同生天、同名天という。
常に人の両肩にあって、行動の善悪を記録して、閻魔王に報告する二神である。十王経に、「左の神は悪を記す・右の神は善を記す・総じて双童と名づく。尽く持して閻魔法王に奏与す」とある。勿論、そのような神が両肩に宿っているのではない。例え話である。
四条金吾が、佐渡を訪ねた際に、大聖人が 金吾の妻に与えられたお手紙が「同生同名御書」である。「人の身には同生同名と申す二のつかひを天生るる時よりつけさせ給いて・影の身にしたがふがごとく・須臾もはなれず・大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしも・おとさず・かはるかはる天にのぼりて申し候」(御書1115頁)と述べられている。
人生における行為の一切が宿業となって蓄積され、その結果として功徳や罰を受けるというご指南である。大聖人は、金吾夫妻の強信を讃えられ、「諸天が必ずご承知であろう」と激励されている。
この二神の話は、ユーモラスな話であるが、現実には実に厳しい。真剣に取り組んでいる人と、信心半分、遊び半分という人では、功徳も大きく違う。
御本尊を保つといえども、祈りもなく活動もないならば、何の益もない。
大事なことは、仏道修行の実践である。

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# by sokanomori | 2010-03-14 22:19 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(6)

竜女  

2010年 03月 13日

                  ◇法華経は、女人成仏の経典です。^^

法華経提婆達多品第十二。
ここに、竜女(りゅうにょ)が登場する。
法華経以前の経典では、女性は成仏できなかった。竜女は蛇身の畜生であり、まだ八歳の娘であった。その竜女は、法華経を聞き、歓喜して立ち上がり叫ぶ。
「我は大乗の教えをひらいて苦の衆生を度脱せん・汝が神力を以って我が成仏を観(み)よ」
竜女は、即身成仏の証として、男子に変じ、妙法を演説した。烈々たる大確信を語る竜女に、周囲は騒然として揺れ動いた。竜女の姿と言動に無数の衆生が歓喜し、手を合わせ、ひれ伏し、六返に震動した。このとき、仏教史上初めて、女人成仏が果たされたのである。
仏法とは、最高境涯である「仏」になるための修行である。しかし、華厳、阿含、方等、般若などの爾前経(にぜんきょう)では、女人は「五障三従」といって、煩悩などの5つの障りや、父母、夫、子に従う立場から、「正法を聞いても修行ができない」とされていた。
華厳経には「女人は地獄の使い・夜叉の如し」とあり、天台大師は、「(他経には)男に記して女に記せず」と述べている。すなわち、女性は仏になることはできない存在であった。
法華経に至り、釈尊は、真実の教えである証として、ついに悪人も女人も成仏ができることを説いた。このことについて、日蓮大聖人は、「竜女が成仏此れ一人にはあらず・一切の女人の成仏をあらはす」(御書223頁)と述べられている。
今、創価学会を支えているのは婦人部である。婦人部の強さと輝きは、女人成仏の証左である。人類の半分を占める女性は、創価の南無妙法蓮華経によって仏になる。
私は、ブロック長になりたての頃、700名の壮年部員の前で体験発表をした。窓際族から生還し、大功徳を頂いたことを語った。鳴かず飛ばずの無名の壮年部員が、竜女の如く突然変異を起こした。聴衆は、私の闘争と勝利の話を聞いて、何度も揺れ動いた。
難行苦行して、ごく一部の人しか仏になれないという教えではない。南無妙法蓮華経の大確信と深い祈りで、万人が即身成仏できるが故に妙法というのである。竜女の成仏こそ、創価の力の源泉である。これが、真実の秘密神之力である。

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# by sokanomori | 2010-03-13 23:53 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(9)

四恩 (しおん)  

2010年 03月 10日

               ◇私を育み、私を強くしてくださった方々へ。
仏教には四恩という思想がある。
父母、衆生、国主、三宝(仏・法・僧)に対し、報恩感謝をすることである。
衆生とは、友であり、親戚であり、同僚である。国主とは、国家であり、会社である。具体的には、社長、上司も国主との解釈ができよう。三宝とは、正しい宗教。具体的には、日蓮大聖人、南無妙法蓮華経、師弟不二の日興上人である。別して、創価三代会長、さらに創価学会は、三宝の当体である。
日蓮大聖人の御書には、「知恩をもて最とし・報恩をもて前とす・世に四恩あり・之を知るを人倫となづけ・知らざるを畜生とす」(491頁)
「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候」(937頁)と述べられている。
すなわち、仏道修行を志す者は、報恩感謝の人生を歩むことを最良とするのである。
大聖人の有名な御書に、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候」(1174頁)がある。
観念の遊戯の宗教ではない。報恩の振る舞いこそ、私達が最も敬愛する人生である。
私は、半世紀を生きた。否、生かされた。
命がけで私を産んでくれた母。私を育んでくれた父母、祖母や親戚の人々。愚鈍な私を一人前にしてくれた、友人、知人、会社関係者。幼少のころより今日まで、どれほどの人たちに教えられ、支えられしてきたことか。
感謝の数を挙げれば、もう数え切れないのである。人間は人間によって支えられている。
もっと広く捉えれば、大地と風と山河、この地球に支えられてもいる。
これからの人生の旅路は、報恩の旅なのかも知れない。
どうか、この世が、仲良く支えあう世界の継続でありますように。
南無妙法蓮華経

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# by sokanomori | 2010-03-10 23:08 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(17)

日寛上人  

2010年 03月 01日

 ◇我ら、末法万年の御本尊を得たり。

日寛上人。(1665~1726)
私たち創価学会員の御本尊は、日寛上人の御本尊である。
日寛上人は、六巻抄で有名な中興の祖であり、日蓮正宗第26世のご法主であられる。
日寛上人は、15歳で江戸の旗本屋敷に勤め、その後大石寺に出家された。
日夜の努力によって、行学ともに進み、やがて学頭職につき、御書講義、五大部文段の著述、六巻抄の執筆を行った。53歳で法主となられた。
この日寛上人が、中興の祖と呼ばれる所以は、日蓮大聖人滅後、400年間に発生した邪義をことごとく破折し、内外に大聖人の正義を宣揚したことにある。
有名な六巻抄には、「此の書・六巻の獅子王あるときは・国中の諸宗諸門の孤兎(こと)一党して来襲すといえども・驚怖するに足らず」とあり、広宣流布のため、後代の弟子に心血を注いで筆を執り、一切の邪義を破折し尽くされたのである。
過去、日蓮正宗においては、歴代法主の御本尊が下付されてきた。故に、今も、日達上人の御本尊を所有している学会員は数多くいる。しかし、創価学会は、魔僧日顕の出現により、日寛上人の獅子王の御本尊を永遠の御本尊に決めた。
日蓮大聖人の仏法が、世界に広がった未曾有の時代。その時、悪鬼が一人の僧の体内に入り、やがて法主の座を盗み取った。まさに、大聖人ご指南の、「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」(御書916頁)である。悪鬼日顕の心に、池田会長への嫉妬心がメラメラと燃えた。彼は、信徒の人気をどのように獲得するかを考えた。
「大御本尊を人質にし、御本尊の下付を断てば、創価学会は空中分解するのではないか」
狂気の法主は、このアイデアを実行に移す。いわゆる、C作戦である。
結末は過去、記事にしている。その凋落の記事は、→ここをクリック!
やがて、日顕は、血脈を受けていないニセ法主であったことが判明。法主がニセモノなのだから、所詮、ニセ本尊である。加えて、正宗がいうところの血脈は途絶えたのであるから、もはや正当な法主は宗門にはいないことになる。学会員は皆、気持ちの悪いニセ本尊を大石寺に送り返した。数百万の日顕のニセ本尊が、大石寺に山となった。
血脈は、跡目だからあるのではない。その答えを、生死一大事血脈抄に見よ。

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追伸:コメント欄に、「何故、日寛上人の御本尊になったのか」というご意見がありました。
創価学会は、1993年10月から、日寛上人のご本尊を、お形木御本尊として授与しています。
これは、C作戦で、御本尊下付を停止するという暴挙を憂えた、栃木・浄円寺の成田宣道住職が、所蔵する日寛上人のご本尊を創価学会に寄進したものです。
創価学会は、広宣流布を断絶させないためにお受けしました。

# by sokanomori | 2010-03-01 23:19 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(8)

ブロック座談会  

2010年 02月 20日

               ◇新来者4名様参加のブロック座談会でした。^^

本日、PM7:00~私の自宅でブロック座談会が行われました。何と、新来者4名。
大人2名、それと、子供さん2名です。(笑)
未来部コーナーに、外部のお子さんが混ざって発表していました。未来部だけで10名。新聞啓蒙も目標大幅クリアー。盛り上がりました!^^
今月の御書は、生死一大事血脈抄。
大好きな御書です。上写真のように、私の御書は赤線だらけ。左写真は、担当幹部用のテーブルに飾ってくださった、Oさん手作りの雛人形。ありがたや~。
新来者2家族様、とっても楽しんでくださった。外部の子も、創価の未来部の子供達とすっかり仲良くしていました。座談会の企画は平凡でしたが、世界最強の座談会でした。最高にハッピーです。ジーンときて、今も涙出そうです!^^
私は御書担当。久し振りの御書講義が嬉しくてしょうがない。(笑)
「え~、この御書は、日蓮大聖人が佐渡流罪の中で書かれたものです。
御年50歳の時、極楽寺良観と対決。策略と讒言によって、日蓮大聖人は竜ノ口、そして佐渡へ流罪となられた。板張りの粗末な塚原三昧堂で冬を越された。雪が戸の間から入り、床に降り積もるという状態でした。その極寒の中で耐え忍ばれ、明年51歳の時に、この御書をしたためられたのです。
勿体無くも、日蓮大聖人様は、一身に末法万年の私たちのために難を受けられた。
その御魂、その大聖人の大境涯が南無妙法蓮経です。強盛な祈りと行動で、死をも歓喜で乗り越えられるというご指南です。
私、先月末、満50歳になりました。大聖人が発迹顕本された年齢です。しかも、学会創立80周年です。私、今年はやりますよ~。4月、フルマラソン走って、5月本を出して、それで学会宣言して、60歳への新しい10年のスタートをどど~んと果たします。頑張ります!」
実は、大白蓮華に「一生成仏抄」もありましたから、これもついでに講義しました。(笑)
「もう一つ、2月度の大白に、一生成仏抄がありますね。
この御書には、幸福とは何かということが書かれているのです。幸せとは、金持ちだとか、ハンサムだとか美人だとか、地位があるとか、名誉があるとか、そういうことではないというのです。幸せとは、ただ一点、一生を仏として生きることだと言われている。
利他です。他の人々を幸せにするために、祈り行動する人生以上の幸せはないと」
ブロック座談会、終わってもワイワイガヤガヤ。新来者の方も遅くまでいらっしゃった。
「また、参加させていただきます」とのこと。感無量です。(^^)

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# by sokanomori | 2010-02-20 23:59 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(20)

雪山童子  

2010年 02月 18日


                ◇関東に珍しく、道を覆う雪が降りました。^^
本日は、雪が積もった。(^^)
近代の私たちは、雪が降っても、日頃と変わらない生活をすることができる。
日蓮大聖人の時代、雪とはいかなる存在だったのか。
御書には以下のように述べられている。
「四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし・かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす」(御書916頁)
「身延山は知食如く・冬は嵐はげしくふり積む・雪は消えず極寒の処にて候」(御書972頁)
「国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし・衣薄く食ともし」(御書1052頁)
普通なら、1日として耐えられない極寒の地で、大聖人は闘われていたのである。
大聖人は、私たちの生活の数百、数千倍の苦難の中で生き抜かれた。
さて、涅槃経に、雪山童子(せっせんどうじ)が登場する。
雪山(せっせん)とはヒマラヤである。その山中で修行をしていた童子(僧)がいた。
鬼神が訪れ来て、仏の悟りの半偈を唱えた。「諸行無常 是生滅法‥」
(諸行は無常である。この世の全ては生まれては滅し、滅しては生まれる)
その半偈を聞いた雪山童子は、鬼神の前に進み出て教えを請う。
鬼神は、雪山童子を見下ろし、恐ろしい形相で吼えた。
「教えてもよい。ただし、その見返りとして汝自身を食す」
雪山童子は答えた。「お教え下さい。私の命でよければ、差し上げましょう!」
鬼神は残りの半偈を説いた。
「生滅滅已 寂滅為楽」(生滅の迷いを滅し、悩みのない境地を楽とする)
生滅は一体不二であり、生命は永遠であることを仏は悟る。雪山童子は歓喜した。
童子は、山中の岩や木に、この十六文字を刻み付け、後世の人々が、悟りを得る手がかりを残した。そして、鬼神との約束通り、自らの命を捧げるのである。
「わが人生に悔いなし!」 童子は巨木の上から身を投げた。
けれど、雪山童子は死ななかった。鬼神が、童子の求道と利他の行動に敬服し、帝釈天となって守護したのである。雪山童子は、この修行の後に仏となり、多くの民衆を幸福にした。
雪山童子は、釈尊の前世の姿である。別して私たち自身である。
求道の人生を歩む私たちは、現代の雪山童子である。

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# by sokanomori | 2010-02-18 23:58 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(9)

日蓮大聖人のご生涯  

2010年 02月 16日

                 ◇日蓮大聖人生誕788年を祝して。
日蓮大聖人。(1222~1282)
貞応元年2月16日が、ご生誕の日であられる。
2月とは方便品第二、16日とは寿量品第十六である。不思議な数字の一致である。
日蓮大聖人は、次のように仰せである。「日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候」(御書1332頁)
大聖人は、特権階級の出身ではない。大聖人は庶民の子である。
鎌倉時代の宗教の多くは、護国仏教として存在していた。荘園と呼ばれる広大な領地を与えられ、巨大な寺院を所有した各宗派は、国主を守るために祈り、行動した。
民衆のためではない。国家権力に迎合した宗教である。
日蓮大聖人は、この権力と一体化した宗教と戦われた。国のための宗教か、1人1人の人間のための宗教か。権力中心か、利他か。正反対の立ち位置からの大闘争であった。
日蓮大聖人は、32歳の時に立宗宣言をされた。以降、二十余年。
大難が波浪の如く、間断なく押し寄せた。襲撃、讒言、流罪、死罪、弟子らの迫害‥。
闘争に次ぐ闘争の連続であられた。その全てを、悠然と乗り越えられた大聖人。
ついに、末法万年の全人類救済のために、大御本尊を顕された。
最終的に幕府は、日蓮大聖人の力を認め、国家安泰の祈祷を願い出る。
「国のために仕えよ。そうすれば、地位も寺院も思うがままに与えよう」
しかし、大聖人は、他宗と同列の勧誘を断った。そして、三度目の国家諫暁を果たされ、身延へ入山された。大聖人は弟子の育成をされ、未来に広宣流布のバトンを手渡された。
大聖人は、生涯、国からの保護、供養を受けられなかった。民衆の真心のご供養によってのみ、真心で受けられた。
人類史上、これほどの大弾圧を受け、完全勝利した人がいるであろうか。民を支え、民に支えられた大聖人の人生。我、ただ、感嘆をもってひれ伏すのみ。
大聖人ご生誕800周年は、12年後に来る。

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# by sokanomori | 2010-02-16 00:04 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(12)

寿量品  

2010年 01月 26日

             ◇この経典は、仏教の宝であり、太陽である。

私は過去、法華経二十八品を全編拝読した。
池田先生の法華経講義と仏教大辞典で読んだのは、あの窓際族のときである。
釈尊の教えの中で、「一切衆生の成仏」を実現する完全な経典こそ、法華経である。その法華経の中において、最大一の法門が如来寿量品第十六である。
他の経典は不完全である。例えるなら、ブレーキのないクルマ、ハンドルのないクルマである。
要するに、クルマの形をしてるだけの張子。爾前経(法華経以前の経典)では、声聞・縁覚の二乗、あるいは、女人や悪人は成仏できない。不完全な教えは、実践しても有益でないばかりか、有害にすらなりうる。多くの人々は、無知なるが故に、このことを知らない。
これに対し、法華経は円経であり、あらゆる人々を仏にする経典である。
法華経は八巻二十八品(章)から成り立っている。 釈尊は、方便品で「法華経が真実の法門」であることを宣言し、この寿量品において、「仏とは何か」を説いたのである。
寿量とは、如来の寿命の量、すなわち、「仏の生命の質と量」の意味である。天台は、法華文句巻九に、「如来とは、十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と述べている。
寿量品は宣言する。「我は実に成仏してより已来・甚だ大いに久遠なり・寿命は常住して滅せず・成ぜし所(仏)の寿命は尽きず・復(ま)た上の数に倍せり」
釈尊が仏に成ったのは菩提樹の下ではなかった。久遠の昔から仏だったのであり、未来永劫に仏として存在すると述べた。この宣言は、過去の経典の考え方を打ち破るものであった。
さらに寿量品は、法華経が、「一切衆生を仏にする力(秘密神通之力)」であり「良医の如く、苦悩に喘ぐ人々を救済する経典」であると説く。
日蓮大聖人は、御義口伝巻下に、「如来とは一切衆生なり・(中略)・別しては日蓮の弟子檀那なり」、「末法の法華経の行者なり」、「南無妙法蓮華経なり」(御書752頁)と述べられている。すなわち、仏とは、創価学会の私たち自身である。私たちは、毒気深入し、本心を見失った人々に、日蓮大聖人の仏法を与えゆく尊い存在である。
日蓮大聖人は、末法の法華経の行者として完全勝利された。経文の通り実践され、大難を受け、全てを乗り越え、末法のご本仏の実証を示された。私たちもまた、大聖人の弟子として、苦難を悠然と乗り越えていく存在である。

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# by sokanomori | 2010-01-26 23:43 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(4)

神通力  

2009年 11月 24日

                 ◇究極の神通力がここにあるのです。^^

法華経如来寿量品第十六。
この経典こそ、御義口伝に、「日蓮が身に当る大事なり」(御書752頁)と仰せの如く、究極の法門が説かれている。同頁に、「秘密神通之力」(ひみつじんつうしりき)の解説がある。
この究極の力を、日蓮大聖人は、「成仏するより外の神通と秘密とは之無きなり」(御書753頁)と仰せである。すなわち、成仏が仏法の究極の力だと言われたのである。

この一節をもって、戸田先生は次のように指導された。
「この秘密神通之力とは、凡夫をして仏にする力であります。御本尊様を拝すると、我々の生命に南無妙法蓮華経という力が現われてきます。清浄な、たくましき、人を救おうとする慈悲が、そして人生を悠々と生き切っていける力が湧いてくるのです」と。
(2007年1月4日聖教新聞の池田先生のご指導より抜粋)
占いや霊能力を、通力とか超能力と言って騒ぐのは馬鹿げた話である。オリンピック選手や大発明家などの卓越した能力の方がよほど賞賛されるべきものである。
大聖人は、「譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり・又鼻の禽獣をかぐことは大聖の鼻通にもをとらず・ふくろうがみみのかしこき・とびの眼のかしこき・すずめの舌のかろき・竜の身のかしき・皆かしこき人にもすぐれて候」(御書1465頁)とも述べられている。
人間より勝れた能力なら、人間以外の動物が沢山持っている。
占いができるから、だからどうしたというのか。大事な事は、幸せになることではないか。
その占い師は、周囲を幸せにしただろうか。不幸な人間が、幸福になるという奇跡こそ、真実の宗教の力ではないか。だとするなら、仏になるより他に、一体何があるというのか。
大事なことは、境涯である。仏の境涯と行動である。大聖人が示された南無妙法蓮華経の境涯と、創価学会の世界広宣流布の具体的行動以上の幸福はない。
私たちは、霊能力や低俗な宗教に潜む危険性を世に知らしめ、真実の幸福たる人生とは何かを宣揚するべきである。
このシリーズの過去の記事は、→ここをクリック!

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# by sokanomori | 2009-11-24 22:00 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(13)

一眼の亀  

2009年 10月 11日

◇正法に出逢うことの奇跡と幸福について。

千年に一度、海面に浮上できる一眼の亀。
この亀は、法華経、妙荘厳王本事品第二十七に「一眼之亀値浮木孔」として登場する。
その具体的内容は、雑阿含経巻十五の盲亀経に述べられている。
1000年のうち、999年と364日を海底で生活するこの亀は、手足が欠け、眼は1つである。背中が凍りつくほど冷たく、腹は鉄を焼くが如く熱く、無限の時間を苦しんでいる。
亀は1000年に1日だけ浮上して、栴檀の浮き木に乗り、背中を太陽に温め、腹を浮き木の穴で冷やしたいと願っている。
浮上するも、実際には海上で栴檀の木に巡り合うことすら奇跡であり、かつ、巡り合えたとしても、手足が欠け、一眼であることの悲しさ‥。東に流れる流木を西に見て逆に泳ぎ、正しい位置を確認できたとしても、不自由な体のため、浮き木に乗ることすら難しい。どどのつまり、亀は失意の中で、再び1000年の大海の底に沈むのである。悲しい亀は、末法の衆生を示し、浮き木は正法たる日蓮大聖人の仏法を表現しているのである。
国内の宗教法人の数は、文化庁の「宗教年鑑」から見ると、約18万3000法人もある。宗教が、宗(むね=根本)の教えとするならば、何故、18万もの宗教が存在するのであろうか?
18万を365日で割ると、493年という数字になる。すなわち、国内のありとあらゆる宗教を1日体験して優劣を確かめるとするなら、493年もかかるということである。
一眼の亀の例えは、おとぎ話ではない。現実に、この末法において、正法(日蓮大聖人の仏法)に巡り合うことの困難さは、この亀の例えが如きものである。
是非、大聖人の御書、「松野殿後家尼御前御返事」(1391頁)をご覧になって頂きたい。
その描写のリアルさに読者は驚き、且つ、自らの幸福を悟ることでしょう。^^

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# by sokanomori | 2009-10-11 00:27 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(8)

草木成仏  

2009年 10月 07日

                  ◇草木と人間の生命は同じか否か。^^
高校生のとき、戸田先生の折伏経典を読んだ。
折伏経典の過去の記事は、→ここをクリック!^^
この本の中に、かの有名な「生命論」がある。
桜の枝を折った。今、手に持っている桜の枝と、元の桜の木との生命は同じか、それとも別々か‥。この謎かけは、生命という不思議な存在を考えさせるに十分な力を持っていた。
当時、戸田先生が体得された法華経を学びたかった。けれど、適当なテキストもなかったし、人生の何たるかも知らない高校生にその真意は分からなかった。
生命の不思議を知ったのは、40歳を越えてからである。日蓮大聖人の御書を全頁拝読する中で、「草木も成仏する」ということを知った。
草木成仏は、御書の草木成仏口決(1339頁)で述べられている。「妙法とは有情の成仏なり・蓮華は非情の成仏なり・(中略)口決に云く・草にも木にも成る仏なり」
草木にも様々な境涯があるというのだ。
能動的立場か、受動的立場かの違いはあるが、確かに草木にも、否、森羅万象ことごとくに、宿業があり境涯がある。
修羅の木は、丈やヤリの柄となって闘争の道具になるであろう。人界の木は、シャベルの柄や鉛筆となって、労働や勉学などを支えもするであろう。あるものは家、あるものは橋、あるものは机や椅子になる。仏の木は、我々の仏壇や御書全集などの書籍になる。まして、ご本尊は、木の一部(紙)から成り立ち、仏壇の左右にはシキミが活けられている。
草木とて成仏する。その延長線で捉えるならば、土も石も差別なく成仏できるであろう。
事実、会館の外壁や床、窓ガラス、畳など、植物も鉱物もことごとく創価を支え、守ってくれている。尚、私たちの体の髪と爪は非情であり、草木に例えられている。骨は石である。
草木成仏口決では、最後、「此等の法門は知る人少なきなり」と結ばれている。
ありがたいご教授である。深い哲理である。^^

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# by sokanomori | 2009-10-07 23:59 | 御書と法華経 | Trackback | Comments(10)

死とは何か  

2009年 10月 05日

                   ◇創価学会員の死のとらえ方
幼少のころ、死は怖いものだった。
小学校低学年のころ、父が死んだ夢を見た。夢の中で泣き、泣きながら私は目覚めた。
当時の私にとって、死とは永遠の別れであり、暗黒の世界であった。
仏教を学び、数々の経験を重ねていくうちに、死は怖いものではなくなった。むしろ、死は必要なものであるとの認識に変わった。
おそらく、創価学会員ほど、死に対する強い免疫力を持っている集団はないであろう。
死は、夜、眠るようなものである。眠りが1日の生活の疲れを癒し、はつらつとした次の日の生命活動を作るように、死は新しい人生を作るのである。
落葉樹は、夏に太陽光を浴び、養分を根から吸収して、エネルギーを幹や根に蓄える。春、気温の上昇と共に、樹木が一斉に若葉を出し、枝を伸ばすのは、内に蓄えたエネルギーの発露である。死も同じく、若々しい生命を得るための休息の時である。
問題は、宿業であり境涯だ。良き宿業を持つ者は、良き死と良き来世を得られるであろう。
ならば、悪しき宿業はどうか‥。このことを、誰よりも知っているのが創価学会員である。
人類の至宝である法華経「如来寿量品第十六」において、私たちは朝に夕に読経しながら、永遠の生命を謳いつつ、広宣流布の決意をしているのである。
「自我得仏来・(中略)・方便現涅槃・而実不滅度・常住此説法」(我自身、仏を得てより以来、方便として涅槃を現じながら、しかして実には不滅にして、常に此の世に住して説法をする)‥これは我々自身のことを言っているのだ。
祈りと広宣流布という行為の中、私たちは仏となり、死して再び、仏になるために生まれることができる。南無妙法蓮華経如来の寿命の量は、尽きることなく永遠に続くのである。
創価の死とは、そのように晴れやかな死である。^^

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# by sokanomori | 2009-10-05 23:58 | 御書と法華経 | Trackback(1) | Comments(11)

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