月の珊瑚
奈須きのこ Illustration/武内崇・逢倉千尋
1.
眉唾な話だけど。わたしのおばあちゃんは、月からやってきた人らしい。
◆
今年もいよいよ終わりが近づいてきた。
十一回目の満月の夜。あと一ヵ月後に今年は死んで、何の約束もない次の年を迎える。
その時までわたしたちが生きている保証は、あの透明な海月ほどもない。
今の人類にとって、月日とは失われるもの。死という単語はあらゆるものに適用される。聞くところによると、むかしの人たちはもっと明るい価値観を持っていたらしい。暦は消費するものではなく循環するもの、巡るものとして扱われていたとかなんとか。
要は同じ情報の使いまわしだ。節約にもほどがある。かつての人類は贅沢だったというけれど、わたしたちから見たら大した倹約家だと思う。
ただいま西暦、たぶん三千年ぐらい。
人類はとっくに終わっていて、毎日は繰り返される保証はなくて、その代わり誰も争わなくなって、人間が何千年もかけて積み上げた文明はぜーんぶ空に捨ててしまって、わたしは十何回目かの求婚をふわりとスルーして、今日も今日とて、島の高台から海岸線を眺めている。
「空に水。水に空。月の空には砕け散った海がある」
光る海を見ていると、知らずおばあちゃんから教わった歌がこぼれてしまう。
正確にはおばあちゃんのそのまたおばあちゃんから伝わったもので、言葉の意味は分かるものの、その真意は読み取れない。祖母を悪く言うようで気が引けるけど、少女趣味が過ぎるというか。残量の見えた毎日なのに、夢の中にいるような人だった。
母も祖母もそのまた母も同じような趣味で、同じように、たいへんな美人だったらしい。残念ながら、わたしはちょっと型落ちだ。母ほどの美しさはないし、なにより少女らしさに欠けている。それでも求婚者が後を絶たないのは、ひとえにこの島のおかげだろう。
「おや。アリシマの君のお帰りですか」
風を感じて空を見上げると、真っ黒い飛行機が飛んでいくところだった。
ごう、という逞しい駆動音。
月光を遮って浮かびあがる最後の文明。あるいはその名残。鋼の機体は鈍く強く輝きながら、東の空を目指していく。
撃墜マーク、これにて十六人目。
しかも今回は新記録だ。わたしはいつも以上の無理難題を押しつけて、一日のうちに求婚者を追い返した。島でも前代未聞だと怒られたけれど、今日ばかりは仕方がない。満月の日にやってくる相手が悪い。場の空気を読め、というヤツである。酸素は薄くなったけど、愛を語るのならそれぐらいは常備してほしい。
わたしの住む島は人口五十人足らずの小さなコロニーだ。都市のある本土は海を隔てた遙か彼方。島には港がなく、三日月形の海岸には島特有の珊瑚礁が広がっている。島の人々にとって珊瑚礁はごく普通のものだけど、都市部の人々にとっては宝石より価値のあるものらしい。
おばあちゃんの頃から、この島は聖域として扱われている。海から入ることは固く禁じられ、飛行機なんて貴重品を持っている人しか上陸できない。わたしがお姫さんと呼ばれるのも、本土の人たちにとってこの島が特別なモノだからだ。人類復興の希望の星、と彼らは言う。わたしたちにとっては極めて日常的な、いつ終わっても『そんなものか』的な環境にすぎないのだけど。
「でも残念。空は飛べても、月のサカナはやっぱり無理なのね」
わたしは毎回、求婚者に無理難題を押しつける。
今回のお題は月のサカナだった。
月は一方通行の世界だ。行く方法はまだ残っているらしいけど、帰ってくる方法がないらしい。行くだけなら現実的だけど、戻ってくる事はできない。生きていながら見る事のできる、現実的な死の世界。
月に行け、というだけでも酷な話なのに、その上、居るはずのないサカナを取ってこいというのだから、アリシマの君が怒って帰るのも頷ける。
けれど誓って、わたしは本気なのである。
難題をこなしたのなら誰であろうと一生を捧げる覚悟。
だってそれぐらいでしか、わたしは愛を測れないから。この星からは多くのモノが失われたけれど、その最たるものは、人を愛する気持ちだという。
◆
月が死の世界になってから幾星霜。
いや、人間にとっては初めから死の世界だったから、元に戻った、と言うべきか。
月への移住計画は、増えすぎた人口対策の一環だったという。月は新しい開拓地になって、移住した人々は月面に都市を、国家を作るに至った。
けれどその後、あの大災害が訪れた。地上もポールシフトで大変だったらしいけど、人類に訪れたものはもっと決定的で、かつ形のないエンドロールだった。
なんというか。
人類は唐突に、情熱を失ったのだ。
それは開拓への熱であり、解明への熱であり、繁殖への熱だった。
うちの息子が引きこもったのです、なんてレベルではなく、人類規模で『何もかもどうでもよくなった』のだ。こっち側の人たちは、文明のほとんどをあっち側に押しつけた。
地上では文明がなくても生きていける。
でも月では文明なくして生きてはいけない。
なので地上の人たちは、
『人類の叡智を保存するのはおまえたちの役割だ。我々は正直、もう面倒になった』
なんて風に、すべてを月に預けてしまった。
その後、わずか半世紀で月と地上は没交渉になった。どちらの人類も、もう交換するものはない、と閉じこもった。こっちはこっちの資源だけでなんとか回るようになっていたし、月も月で、必要なだけの環境は整えられた。
月の明かりが途絶えたのは、それから何十年か後の事らしい。
一方、地上の人口も激減していった。
なにしろ増やす気がなくなったのである。放っておけば五十年ほどで種は途絶えてしまう。それでもなんとか生き延びているのは、十人に一人の割合で“まだ頑張れる”物好きがいたからだ。
自分だけで手一杯なのに、他人にまで気を配れるというマメな人たち。そんな物好きたちが集まって作り上げた『かつての』人間の集まりが、都市部と呼ばれる生活圏。行ったコトがないので詳しくはなんとも。
名を人類復興委員会。生命の基本に立ち返ろう、という運動。その原理を愛という。
わたしにはそれが本気で分からない。気持ち悪いのではなく、互いを思い合うという状況が、どんなものなのか想像できない。それはほんとうに気持ちの良いコトなのだろうか。きっと不具合しか生じない。もっと系的なもので相互補助した方がよっぽど気持ちはいいと思う。そこには安心があり、打算があり、明確な作業がある。見えもしない相手の心を理解しよう、なんて行為は、それこそ現実的ではない。
このように。わたしが求婚される度に無理難題を押しつけるのは、自分では愛が測れないから、相手に測ってもらっているだけなのだ。わたし以上に価値のあるものを手に入れてなお引き替えにできるなら、その人は確かにわたしを必要としているのだと証明できる。
殿方も人間も好きだけど、愛だけは理解できない。でもそれなりに幸福だ。太陽と水と空気があれば、なんとなく生きていけるのがわたしたちだし。あぁ、こんなだから人間は終わってしまったのでしょう、と自己嫌悪もなくはないけど、
「星はまたたく。海はさざめく。人恋しくて珊瑚は謳う。
わたしたちは海月みたいに、ふわりふわりとその日ぐらし」
暗い野原で歌いながら、くるくるとステップを踏む。
「おや。人生を海月に喩えるとは、また力強い」
そんなわたしの独白をさえぎる声。
見えない膜に包まれたような、男の人の声だった。
◆
「失礼。……さん、というのは貴方ですか?」
名前を呼ばれて振り返ると、妙チクリンなものが浮いていた。
ランチバッグ程度の大きさの、ブリキの乗り物。お刺身を載せる舟みたい。
その上に、これまたブリキで出来たような人形が乗っている。人形の表面はヤカンみたいにつるつるで、どこもかしこものっぺらぼう。顔の部分には透明な覗き穴があるのだけど、月の光が反射して、中の様子は分からなかった。
ともあれ、名前を呼ばれた以上は挨拶を返さなければ。
「こんばんは。はじめまして、でいいのかしら?」
「これはご丁寧に。私、こういう者です」
ブリキの彼は小さな紙切れを持ち出した。何に使うものかは分からないけど、丁寧に差し出してくれたので、こちらも丁重に受け取った。
「島の外から来た人?」
「はい。貴方に会いに来たのです。ご迷惑でなければ、お話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
わたしは今度こそ目を丸くして、失礼なコトにまたたきなどしてしまった。新しい求婚者。珍しい。いろんな人たちに会ってきたけど、手のひらに乗るぐらいの人は初めてだ。
「いえ、自分の職務は配達なのです。この島に訪れたのは仕事が半分、個人的な趣味が半分です」
膜のかかったような声は、あのブリキの服ごしだからだろうか。
ふわふわ浮かぶ小さな舟と、見たこともない格好の来訪者。
わたしは興味を抑えられず、つい、会話より観察に没頭してしまった。
ブリキの彼は気にした風もなく、いまの時刻とか、いまの年代とか、いまの気候なんかを話しはじめた。世間話のつもりらしい。わたしはもちろん空返事。会話はこれっぽっちも成立しない。
言葉はほどなくして尽きた。小さな彼はやや困ったように頰を搔いている。わたしは自分の身勝手さを恥じて、会話のソースを提供する。
「さっき、趣味が半分って言っていたけど?」
「はい。私は商人もしているのです。貴方を訪ねたのもその一環です。貴方の持つ物資と、私の持つ物資を交換したいのですが、いかがでしょうか?」
必要なものを仕入れにきたのです、と彼は言った。わたしは本気で困ってしまう。だって、こんな珍しい人が欲しがるモノなんて、この島には何処にもない。
「他をあたるべきよ。わたし、そんな貴重なものは持っていないわ」
「いえ。商人の基本は、足りないモノを買う、というコトです。こちらで貴重とされるものは、私には有り余っています。ですから、その逆もあるのです。物語を知りませんか。どこにもない、出版されていないものです」
わたしはまたも、特に理由はなく、ブリキの彼をまじまじと見つめてしまった。
大人のように落ち着いた彼が、子供みたいな要求をしたからだろうか。すとん、と言葉が胸に落ちる。普段なら馬鹿にするところなのに、わたしはごく自然に、その仕入れに協力したくなっていた。
「それなら一つ、お望みの歌があるわ。おばあちゃんから教わった話だけど、それでいいかしら」
「口伝とはまた高価なものを。ですが申し訳ありません、私は貴方たちの言葉を正しく聞き取れないのです。お手数ですが、文字にしていただけませんか」
ブリキの彼はわたしたちの言葉に疎いらしい。よく今まで話せたものだと呆れたけれど、振り返ってみれば、そんな流暢には会話していなかったっけ。
「無理よ。わたし、読み書きができないもの」
「ええ、存じ上げております。次の満月に帰りますので、それまでに本にしていただければ。ですぎた真似ですが、私がご教授してさしあげましょう」
彼はとん、と胸を叩いた。任せろ、という表現らしい。ちっとも頼もしくない。勉強不足がこんな事で祟るなんて。人類はとっくに終わったのに、わたしの人生は波乱含みだ。
それは、まあ、それとして。
「ところで。海月が力強いって、どうして?」
わたしは一番はじめの疑問を問いかける。
「ずいぶんと昔の話ですが、海月の仲間の一つが細胞死による老化問題を解消しています。永続を実現させた数少ない動物です。海月というのは、存外にたくましい生命なのです」
彼はやっぱり、丁寧な口調で小難しいデータを返した。
2.
むかしむかしのお話です。
影の海と名付けられた荒野に、少女の姿をした、一つの石がありました。
美しい亜麻色の髪。
あどけない瞳と薄桃の唇。
しなやかに伸びたヒトっぽい手足。
しみ一つなく、デコボコもなく、磨かれた石灰のような肌。
それは人の美意識の統計によってかたどられた、万人に愛される少女像でした。
もとからそういうカタチだったのか、
後からそういうカタチになったのか。
ピグマリオンの伝説も、ここでは遠い異国の話。
はっきりしているのは、彼女は生まれながらのお姫さまで、
多くの人たちに望まれて、目を覚ましたというコトだけ。
世界は一面の荒野でしたが、彼女のまわりにだけはくるぶしほどの深さの湖と、見上げるばかりの花弁が咲いています。もちろん、石灰を彫り込んだだけのニセモノですが。
空に氷。氷に空。
この冷たい星を温かな氷で包んでほしいと彼女はお願いされました。
誰にお願いされていたのかは、もう定かではありません。彼女が生まれた時には大勢の人がいたけれど、少しうたたねしている間に、みんなキレイに消えさってしまったからです。
ひとりぼっちになったところで、彼女は多くの仮説を楽しみました。
まずはシステムの不備でみんな死んでしまった説。
でも、彼女が生きているかぎりそれはありません。
必要なモノは今も供給しているし、不慮の事故での全滅はないでしょう。
次に、みんな眠っている説。
起きているのも面倒になったので、いっせえのせでまぶたを閉じた可能性も大ありです。
仕方なく星の表側に感覚を伸ばしてみましたが、人々の反応はありません。
彼らは本当に、この国から消え去ってしまったのです。
あれこれ仮説を潰していく中、ふと、彼女はこの国の法律を閲覧しました。
司法曰く、こちらの住人は、あちらの住人との恋を禁じる。
このルールを破ったものは地上への落下刑に処す。
もしかすると、人々はその罰でみーんな、あちら側に落ちていったのかもしれません。
うんうん、と彼女は頷きました。いえ、首は一ミリも動かないので、気持ち的に頷きました。
信憑性はこれがいちばんだったのです。
それでも彼女は真面目だったので、望まれた仕事を続けます。
まず都市部への余分な元素提供をカット。娯楽施設はもう必要ありません。その分を環境調整に費やします。影の海は半世紀ほどで樹木と空を完備した都市になりました。
樹木は石灰で、空は氷を張っただけのニセモノですが、とにかくオーダーには応えたのです。
人々が望んだコトは、人々さえいなければ、こんなに簡単にできることでした。
月に七つの海を作ってから、さらに半世紀。
望みを叶えれば戻ってくると思われた人々は、けれど影も形もありません。
音のない世界にひとりきり。ときどき、人々は追放されたのではなく、自分だけこの星に追放して旅だったのでは、と真実に気付きそうになる事もありましたが、あくまで仮定なのでひび割れるコトもありません。
彼女は氷に映る、ここからでは決して見ることのできない、青い星を見あげます。
人々はあの星に旅だったのでしょうか。
せっかく美しい森を作ったのに。
誰も見てくれないのでは、それこそ骨折り損というものです。
なにしろ彼女は、この森になんの思い入れもないのですから。
ある日のことです。
砂を踏む気配で目が覚めました。
そういえばちょっと前に、こつん、と体に何か当たった気がする彼女でした。
意識を起こすと、驚いたことに、並木道を何かが歩いてきます。
ずんぐりとした体格。可動範囲の少ない歩行。
自分と同じかそれ以上の、すべすべで単色の肌。
それはブリキで出来たヤカンみたいな、およそこの世の美意識とはかけはなれた、冗談みたいな生き物だったのです。
彼女は驚きに目を見はりながらも、未知の体験に胸を躍らせました。
だってはじめて、そして遂に、この星に宇宙人がやってきたのです!
「待て、話が違う。なんだって月面に宇宙人がいる?」
まあ、それも彼女の勘違いだった訳ですが。
◆
やってきたのは地上から昇ってきた人間でした。宇宙人と言えば確かに宇宙人なのですが、今までの人々と同じく会話をするコトはできません。彼女には喉がないのです。
それでも彼女は今まで通り、彼の独り言を解析します。
分かったのは些細なコト。
彼は周囲の反対を押し切って、自分からこの星にやってきたらしいのです。
辿り着くコトに意味のない。
発つ理由も、見返りもない一方通行の旅を、ひとりで。
「そうか。生存の為の物資はあっても、精神面での不足は解決できなかったのか。自滅とは、さすがは地上より進んだ文明だ」
彼は都市の機材を使って、かってに生活をはじめました。
ゆうゆうじてき、というヤツです。彼は十二時間周期で彼女のところにやってきては、タンクに水素が溜まるまでの間、独り言を続けます。
「人のカタチをしているからといって、人間の文化を押しつけるのは傲慢ではないだろうか」
彼はそう言って彼女のドレスを脱がせようと試みましたが、それは全力で阻止しました。信じられないでしょうけど、彼女の体が彼女の思った通りに動いたのは、これがきっかけなのでした。
「昨日は申し訳ないことをされた。あやうく火星まで飛ばされるところだった。ここが地上なら、今ごろ君は檻の中だ。君には少し、人間の機微を教授しなくてはならないようだ」
彼は当然のように彼女の助けを受けながら、こんな辛辣なコトを言うのです。
それでも彼の語りは新鮮で、ふしぎな親近感があるのです。
この状況なら誰であれいい人に見えてしまうと思うけど、それはあえて追及しません。
彼女にとって彼は新しい世界でした。
“こんな素晴らしい方が、どうして死の世界にやってきたのだろう?”
信じがたいコトですが、彼女は彼のために、そこまで心を痛めたりもしたのです。
多くの仮説から最有力候補にあがったのは、彼も人々と同じだろう、というものでした。
こちらの世界の住人があちらの住人に恋をすると、罰として落とされる。
それと同じように、彼もこちらの住人に恋をしたから、ここまで昇ってきたのではないでしょうか。ですが皮肉なコトに、こちらの住人はみな消えてしまいました。
彼は恋のためにやってきて、元の世界に帰る術をなくしたのです。
彼女は悲しくなって、せめてよい暮らしを、と今まで以上に励みました。
けれど、
「無駄な消費はよくない。無制限に使っているが、底をついたらどうしてくれる。君が枯渇したら、こちらも共倒れなんだぞ」
彼女の行為はいつだって空回り。
この頃には人間の言葉も覚えて、発声器官もまねて発話をしますが、彼は聞く耳を持ちません。
むしろ、人間らしく話しかければ話しかけるほど、嫌悪感をあらわにしていくのです。
彼女は彼のために色々なものを用意しました。
かつてないほど頑張りました。
生命の原理、原子の法則をねじまげるぐらい努力しました。
もう説明する必要はないでしょう。
彼女は彼に、それほどの恋をしたのです。
“とても素敵なヒトでした。
わたしのような石に、生命の定義をしてくれたのです”
いまも、その言葉は多くのサンゴに焼き付いています。
なのに彼は礼も言わず、ただ消費するばかり。
“わたしはヒトに近づけたでしょうか?”
そう語りかけるように氷の下で踊ります。
彼女の両足が地表から解き放された、はじめての日のコトです。
「どちらかというと、君の体は珊瑚のようだ」
思えば、それが一度きりの褒め言葉でした。
いや、でもおばあちゃん、これは褒め言葉じゃありません。嫌みだと思います。
でも彼女は、その言葉がとてもとても嬉しかったようなのです。
それから十二時間はずっと、珪素で出来た自分の体が誇らしかったほどに。
月日にすると半年ほど、ふたりの時間は続きました。
終わりはあっさりしたものです。
彼は船を修理しきると、彼女を抱きかかえて船に乗り込みました。
彼女はここのところ弱っていて動くこともできなかったので、乗船も、その後の処理も簡単に済まされてしまったのです。
けれど。影の海を離れるのは不安でも、彼がいるのなら喜ばしい。
彼女はせまい、ひとりぐらいしか乗るスペースのない船の中で、幸せそうに目をつむります。
「人間がイヤで、何もかもを見限って、月に昇ってきた」
声は船の外側から。
今まで誰もいなかった、これから誰もいなくなるはずの、荒野から響いてきます。
「そんな私が、人を愛する道理がない」
体は動きません。
気付いても、扉は開きません。
彼女はもう星から離れてしまったから、星も動いてはくれません。
星を覆っていた氷の空は、夢のように砕けていきます。
「君が私に向けている好意は、愛情ではないと思う。単に、君が人を知らないからだ」
彼女は覗き窓にすがりついて、忘れていた掟を思い出しました。
あちらの人間に恋をすると、罰として、永遠に別れるのです。
「動物的な感情を満たしたいだけなら、あの地上には相応しい相手が山ほどいる。君はそこで生きればいい」
ああ、彼はここに残るのだと、彼女は嘆きました。
同時に、それが彼にとっていちばんいい選択なのだと、理解してもいたのです。
「しかし。君はどうあっても、あの星にとって善いモノではないだろう。私は地上の人間を、二度殺すことになるな」
以前の彼女からすればちっぽけな火花。
今の彼女にすれば恐ろしいほどの光と熱を吐き出して、船は地表を離れていきます。
銀色の大地。
彼女そのものだった世界が、他人のように遠く遠く。
ヒトになりかけていた彼女の目には、遠ざかる小さな星。
暗い海に独りきりで、きらきらと輝くのです。
けれど。青い宙を航る最中でも、彼女に涙する時間はありませんでした。彼は本当にひどい人間で、彼女の安全なんて配慮していなかったのです。船には地上の重力圏に入るだけの燃料しかなく、六倍の重力下での不時着に耐えきれる設計ではありません。
船は空で分解し、彼女はそれはもう悪い冗談のように、真っ逆さまに青い海に落ちました。
それがこの島の始まり。
彼女は一命を取り留めましたが、落下のショックで記憶がところどころ欠けてしまいました。
島に新しい珊瑚ができたのはこの時から。
彼女はここで暮らし、子を育み、生涯を終えました。
ただ、毎月。
満月の夜になると空を見上げては、幸せそうに笑っていたというコトです。
◆
かくして、わたしのはじめての創作は、無事終わりを迎えた。
「ところどころ貴方の主観がまじっていますね。一部、特定の人物の描写に偏見もみられます」
このように、ブリキ編集には三回ほどダメ出しをもらっていたが。
明日は満月。わたしはまる一ヵ月、小さな配達人に物書きを教えてもらっていた事になる。
彼はこちらの言葉をうまく聞き取れないため、会話はたまにすれ違いはしたものの、おおむね刺激的な時間だった。はじめこそ彼の姿に面食らっていたけれど、数日のうちに物珍しさはなくなった。あいかわらずガラスの反射でブリキの中は覗けないけれど、彼は真面目で、好奇心旺盛で、なにより正直だった。はじめから、噓も誤魔化しも覚えない生き物のように。
「読み終えました。感想を口にしてよろしいでしょうか?」
丁寧に訊ねられて、緊張気味に頷いた。昔話を文字に起こしただけとはいえ、なかなかに気恥ずかしいものがあるのである。
「どうぞ。お手柔らかにお願いします」
「私の知っていたものとは大分違いますが、たいへん楽しませていただきました。この彼女は、実に可愛らしい方ですね」
「そうかしら。少し無防備というか、平和すぎると思うんだけど。どのへんが気に入ったの?」
「行動に揺らぎがありません。正直な人だったのでしょう。周りが見えていなかったのは、一つの事だけを信じたからです」
「ずいぶんと肩入れするのね。そんなの、わたしの本だけじゃ断定できないのに」
「できますよ。ひとかけらの後悔も見られませんでしたから。彼女から読み取れるのは、最後まで幸福であった事実だけです」
わたしは押し黙ってしまう。
そんなつもりはなかったのだ。わたしはむしろ、反感をこめて筆をとっていたはずなのに。
わたしから見れば、この本はひどい物語だ。……そう。子供の頃から、おばあちゃんの話には疑問があった。尽くした末に捨てられたのに、どうして彼女はあんなにも幸福だったのか。裏切られてもかまわない献身が愛だというのなら、わたしはやっぱり、そういうものとは反りが合わないと思う。
「わたしは悲劇として書いたつもりなんだけど」
「彼女の主観は、貴方の主観です。貴方たちはそういう生き物だ。母方の記憶を自分のものとして受け継いでいます。ですから、どんなに反感を持っていても、この物語の根本からは逸脱できない。貴方がどう思おうと、貴方の遺伝子には原初の気持ちが刻まれているのです」
「……よく分からないけど。お眼鏡にかなった、ってコトでいいの?」
わたしの声は少しだけ不機嫌だった。
彼はこくん、とブリキの頭を上下させる。
「私の期待とは違いましたが、それ以上のものを頂きました。お気に入りの一冊です」
「期待? 何を期待していたの?」
「珊瑚の話です。私の国からでは、この島の珊瑚はとても不思議に映るのです。どうしてこの島の珊瑚は光るのか、貴方なら知っているかと思ったのですが」
この島唯一にして、最大の特産品。
満月の夜に光る珊瑚。
珊瑚のカタチをしたあの樹木たちは、周期的に大量の酸素やら窒素やらを生みだしている。結果として、少しだけ人間の歴史を延命させているそうだけど、そんなのはどうでもいい話だし。わたしにとっても別段、とりあげる事項ではなかったのだ。
「貴方たちにとって、明かりを灯す珊瑚は当たり前のものなのですね。おそらく、あの発光はただの生態機能でしょう。こういった偶然もあるのだと判断します」
それだけ言って、彼は舟の中に隠れてしまった。いや、潜っていった。ほどなくして、彼は自分と同じぐらいの大きさの包みを引っ張り出してきた。
「もうどこに届けていいものか困っていましたが、調べた結果、貴方が受取人に該当するようです。これは取引ですが、私の職務でもある。どうぞお受け取りください」
包みには貝殻が一つ。真っ白い、銀河星雲のような貝殻だ。
わたしは直感的に貝殻を耳にあてた。
ざあ、ざあ。
巻き貝の渦巻き構造。オルガン官の螺旋が、波の音を反響させる。
ざざ、ざざ。
CQCQ、聞こえますか。
波のざわめきの後から、静かな記録が伝わってくる。
……ああ、これはレコーダーだ。
何処か、遙か、見知らぬ人の物語を、音として記録している。
「私には意味が分からないものです。一日預けますから、気に入ったのなら貰ってください。その本と引き替えです。それでは明日」
小さな彼は舵を握って、船頭を空に向ける。
わたしはあわてて声をかけた。この者の加速力、機動性はなかなかに侮りがたく、目を離すと一瞬で飛んでいってしまうのだ。悔しいことに、捕まえられたコトは一度もない。
なんでしょう? と振り返る彼に一言。
「評価をまだ聞いてない。それで、点数は?」
「いやだな。本に点数をつけるなんて、できませんよ」
照れくさそうに言って、舟は西の空に消えていった。
はじめて聞いた、感情のこもった、人間らしい声だった。
3.
ディスレクシア。学習障害の一種。
知能水準は平均に達していながら、文字を正しく理解しない症状。ディスレクシアにとって、文字は水面にこぼれた油のように映るという。私の耳はそれに近い。生まれつき音の美しさが分からない。音に頼る情報を、情報として理解できない。私にとって世界はテキストとテクスチャーで構成されるものだ。誕生から永眠する時まで、会話とは無縁だった。
そんな人間がこんなカタチで記録を残すのは不本意だが、仕方がない。彼女は多くの事柄を貪欲に学んだが、読み書きだけは、最後まで修得しなかった。
◆
私が生まれた時、既に西暦は失われていた。
人類は末期を通り越し、あとは永眠するだけのターンに差し掛かっていた。
復興された第十二衛星都市が私の故郷だ。
人口一万人をかろうじて維持する、優れた文明圏と言えるだろう。
その年、第十二衛星都市での死亡数は1。誕生数は0だった。
かつてこの惑星では一秒のうちに一人の命が失われ、三人の命が誕生していたと記録に残っている。マイナスよりプラスの方がやや上回る。それが人間の、種としての優位性だった。その優位性は、もはや見る影もない。
反面、地上の環境問題は軒並み解決していた。人類が解決したのではなく、この惑星が長い忍耐のすえ持ち直した結果だ。太陽と水と空気は貴重なものになったが、依然として地に満ちている。かつてのような繁栄は望むべくもないが、繁殖するだけなら何の問題もない。にもかかわらず人口グラフが右肩下がりなのは、ひとえに、人間という種から意欲が失われたからだ。やる気と言ってもいい。
進化の道を突き進むには燃料が必要で、人間はその燃料を使い切った。生命の例に漏れず、我々とて自己保存を基本としていたが、その基本装置を動かす為に必要なものがあるとは誰も気付かなかったのだ。そういった熱量はひとりひとりのものではなく、種全体で消費するものだった。はじめから総量が決まっていたのだ。当然だろう。形而上のものであれ、この宇宙に無限の資源など存在しない。我々の宇宙は閉じており、最後には無に帰る事で帳尻を合わせるのだから。
それでも種を存続させようと努力する人々がいた。
私はその一員として都市の住民権を与えられた。
復興は大きく、蘇生と維持のセクションに分けられる。
蘇生セクションは感受性や文明の復活を。
維持セクションは文字通り、失われていくものを押しとどめる。それは技術の話でもあり、命の話でもある。自殺を未然に防ぐのが維持セクションの主務だった。
私は維持セクションに回された。人類を維持する為に娯楽は必要だ。ぶらさげられた人参としてではなく、文明の水準向上にこれほど有効な手段もない。
通信、ネットワークは人々が生きる上でもっとも重要で、かつ基本的な“娯楽”だった。私はその管理と、発展を任された最後の一人だ。
私の生まれた年代は、遺伝子操作による優秀種、デザインベビーが試された年代でもある。
成功例はゼロ。彼らは生まれた直後、自ら呼吸を止めて永眠した。もういい。そこまでして続けたくない、という人類の総意だと、ある科学者は嘆いたという。
試みは次の段階に入った。意識の働きで心臓が止まるのなら、本人の意思では止まらない心臓を作ればいい。本当の意味で機械的な人間をデザインすれば、彼らは生きることを余儀なくされる。その試みは何件か成功した。多少の不具合……五感、人としての感性に何らかの障害を引き起こしたが、生物学的には間違いなく人間だった。そうであると私は聞かされている。
ともあれ、飽くなき探求心、不屈の精神の賜だ。人類がこの惑星でもっとも栄えた理由の一つを、蘇生セクションのスタッフはまだ維持していた。
私は彼らのようにはなれなかった。
音を、会話を知らない私にとって、世界はもっとシンプルであってほしかった。
情報の海を広げる作業中、宇宙開拓の名残を見付けた。
帰ることを考えなければ、月への航路は幾つか残されていた。
私が月を目指したのは、それだけの理由である。
ロケットを修復し、造りかえ、自分の体も少しずつ宇宙飛行に堪えられるよう調整した。
復興を掲げながらも、病的なまでに他人に無関心な都市の人々は、私の作業に注意を払わなかった。役割さえこなしていれば誰も私生活には干渉しないのだ。
私は二度とは脱げない宇宙服に着替え、ロケットに乗る時でさえ、戸惑いは浮かばなかった。
故郷に戻れない事への恐怖はない。宙に昇ってからの不安もない。月面都市に生命反応はないが、施設はいまだ稼働している。最低限の生活水準は保証されており、また、見積もりが甘ければ甘いで、愚か者が一人死ぬだけである。
ロケットは地球の表面を二回ほど回ってから、ゆるやかに月の重力圏に入った。
その過程で、かつて暮らしていた世界を見下ろす事になった。
胸に飛来したものは強烈な罪の所在だ。
私は人間を憎んでいる訳ではない。ただ、彼らと関わりを持ちたくなかっただけだ。
人々の希望になるよう願われて生を受けたが、私は、自分の事だけで精一杯だった。私にはネットワークと、自分と、狭い部屋が一つあるだけでいい。音のない世界で、情報を目で追っていれば幸福だった。月でなら誰に邪魔をされることなく、ひとりで引きこもっていられるだろう。
私は何を、誰を殺した訳でもない。
ただ自分と、人間を見捨てただけ。
何もかもが面倒になって、相互補助の繫がりを、物理的に断ったのだ。
◆
月面への到達には多少の手間が必要だった。
地球からの観測で判明していた事だが、月の大部分は氷の膜で覆われていた。月面に造られた七つの都市を守るようにできた青い天蓋だ。地上から飛び立つ時、もっとも手間を取らされたのがこの侵入経路の算出である。氷の傘の隙間にすべりこむ突入経路の計算に一月を費やした。個人的な所感だが、計算にとり組めばとり組むほど、この氷の用途は測れなかった。いかなる意図で造られたものか、責任者がいるのなら問いつめたいと不満をこぼしたほどだ。
もっとも、その不満を聞き届ける者は、もういない。
月の表面に降り立ち、都市部に入る。
生命反応はない。七つの都市は、そのすべてが墓標だった。
電気の明かりだけが灰色のモニュメントにまたたいている。
上空を見上げると、厚い氷壁の中で太陽光がゆらめいている。
ヒトのいない建物は岩礁のように、仄暗いブルーに沈みこんでいる。
これでは月面というより海底だ。
ふと、宇宙服に包まれた手を見下ろした。
月面での生活用にふくれあがったソレは、ブリキの潜水服そのものだ。
私は昇ってきたつもりで、月の底に落ちてきたらしい。
ともあれ、まずは資源の確保が重要だ。
月の第五都市マトリを拠点にして、月の裏側に向かった。七つの都市に水素を提供する炉心がある為である。
しかし。私はそこで、一度だけ自分の正気を疑った。
地上からでは決して観測できない月の裏側は、灰色の森だった。
石灰で出来た樹木。ソラを覆う分厚い氷。その中心、主要元素である水素、炭素、酸素、窒素を提供する炉心に、まさかこんなモノがいようとは。
唐突にひとつの童話を思い出す。
最後に涙になって溶けるのは、アンデルセンの人魚姫だったか。
それは限りなく人間に近い造形をしていた。
青い光に照らされた生身の少女。
亜麻色に輝く髪と、滑らかな石質の肌。白い、一点の汚れもない雪の花を連想させる。
身じろぎもせず、穏やかな瞳だけが、眩しそうに私を見つめていた。
少女は美しく、また、ヒトではなかった。
どのような繊維で造られているのか、少女は古い着物を着せられていた。
そう、着せられている。
決して自ら着飾ったものではないだろう。
少女は湖底に座り込み、両手を左右に、ゆったりと地面に下ろしていた。その先端は存在しない。少女の両手は月の大地に融け、直結している。彼女の腕は肘のあたりから黒く変色し、鉱物の鋭さをもって大地と一体化しているのだ。
さながら、地面から伸びた柱のようだ。その腕で服を着る事はできない。これはのちに知った事だが、彼女の研究者の一人が、むき出しでは可哀想だとドレスを着せたらしい。コレを人間扱いする方が倫理に反すると仲間からは軽蔑されていたようだが。私も同じ意見だ。
ソレは囚われているとも、
守られているとも取れた。
醜いものと、
美しいものが混ざり合った姿。
少女は私と同じく、突然の来訪者を警戒しているようだった。
私の第一印象は言うまでもなく、
「待ってくれ、話が違う。なんだって月面に宇宙人がいる?」
月に来れば、ひとりきりになれると思ったのに!
◆
訂正すると、少女は宇宙人ではなく、れっきとした地球圏の生命だった。
月面都市に残った資料によると、彼女は星を効率よく運営する為の入力装置だった。星を一つの生命として捉え、その魂を摘出し、珪素生命として安定させたものだという。魂と書かれているが、要するに脳だろう。惑星には肉体と心臓にあたる部位はあるが、脳にあたる器官が存在しない。月の技術者たちは脳を人工的に造る事で、この星を自在に運行する命令体を作り上げたのだ。
そのような大それた生き物に近づくのは抵抗があったが、生存に必要な物資は彼女の周囲から摘出される。水素も電源も、彼女が居る森に直接取りに行かねばならない。自然、どうしても目が合ってしまう。月に水が湧くのはここだけだ。十二時間ごとに補充しに行き、一時間ばかり、少女の傍で森を眺める事になる。
少女は一歩も動かず、また、こちらとコミュニケーションを図るような事はなかった。
珪素生命――石で出来ている彼女は、我々からすればタイムスケールの違う永劫不滅の生命だ。私のように不完全な命ではない。
百十二回目の補充。
単純な労働だが苦痛はない。
どうにも、私はこの森が気に入っているらしい。
地球の森は生命力が強すぎて、私には毒がありすぎた。この森は清潔だ。何より音がない。この近くに施設があったなら、迷わず移住していただろうに。
タンクを地表に打ち込んで、必要なだけの元素を摘出する。その間、私は少女の傍に座って情報を提供する。少女が望んだ訳でもないし、そもそも私たちに意思の疎通はない。これは私が自発的に行う等価交換だ。私が彼女に返せるものは情報だけなので、物語を聞かせる事にした。完全な自己満足である。
「……しかし、なんだな。人のカタチをしているからといって、人間の文化を押しつけるのは傲慢ではないだろうか」
待ち時間の手持ち無沙汰から、私は少女のドレスに手をかけた。姿が同じというだけで人間の都合を押しつけるのはどうかと思ったのだ。彼女も迷惑だろうとドレスを脱がしにかかったところ、気が付くと、腹部に強烈な衝撃が走り抜けた。
動かないはずの少女の腕が、滑らかに稼働した歴史的瞬間だった。
三キロメートル近く大気を滑っただろうか。マスドライバーもかくやといったところ。岩山にひっかからなかったら間違いなく虚空に飛び出していた。人間ではない知的生命体は二種類に分けられる。エイリアンとインベイダーだ。彼女が宇宙人ではない事は判明していたが、侵略者でもない事を祈るしかない。
「昨日は申し訳ない事をしたが、そちらも反省してほしい。ここが地上なら、今ごろ君は檻の中だ。君には少し、人間がどれほど脃いかを学んでほしいと思う」
四十八時間後。
私は新しい作業用車両を調達して、少女と対峙した。
正直危険に満ちていたが、十二時間ごとに命のやりとりをするのは遠慮したい。交渉による平和的な関係を築くべきだ。
会話はできずとも意向を伝える程度はできるだろう、と考えての事である。月の住人たちが少女を通じて星を運営していた以上、彼女には外部入力機能があるはずだからだ。手振りで先ほどの行為はもうしない、と示すと、彼女は一時間ほどかけて首を縦に動かし、こちらの謝罪を受け入れた。
かくしてインベイダー危機は去った。
少女とはこれからも十二時間ごとに顔を合わせる事になるが、人間ではないので問題はない。
「ヒトが死を怖がるのは死にたくないからじゃない。増えなくてはいけないから、その前に死ぬことを怖がるんだ」
月の森で、私は一方的に話を聞かせた。
人間がなぜ死を禁忌するのか。生命は自己保存を原則とする。我々の体の設計図である遺伝子は核酸、即ちDNAだ。紐状の二重螺旋で知られるこの暗号は完全な対構造になっている。開始と終点を描いた紐を、上下逆に合わせたものだ。これらは一本で生命の設計を、もう一本がその複製を担っている。どちらかが失われても、残ったもう一本が存在を受け継ぎ、生命活動を続けていく在り方だ。我々は根本からして、“自分を残す”ことを最優先に設計されている。
「増えること。子供を作る、ということは自分の遺伝子の引き継ぎ、永続を意味するからね。本来、生き物は子供を作った段階で用済みになる。より優れた自分の複製が生まれた以上、古い遺伝子を生かすのは資源の無駄だ」
自分にあった異性を選ぶ、より美しい配偶者を求めるのは、心による働きではない。自分の複製に、より優れた遺伝子を配合するための本能だ。
我々は遺伝子の運び屋にすぎない。人間に感情があるのは、それがもっとも効率がよく、また長続きするシステムだからだ。かつて五十億もの繁栄を遂げた鳥がいた。高等生物では敵いようのない数。自然界において、人間サイズの生き物はそこまでの繁殖はできない。しかし、結果はこれを上回った。五十億の鳥を食料として消費したばかりか、最後には彼等の数すら上回ったのだ。感情、知性は人生を豊かにする為のものではない。種が覇権を握る為の、もっとも強い武器に他ならない。感情のない機械ではこうはいかない。機械は効率だけを良しとする。最適な状態に行き着けば、そこで進化を止めてしまうだろう。
「生命は増え続けなければならない。それを済ますまで、死が恐ろしくて仕方がない。しかし子供さえ育ててしまえば、死の幻想から多少は解放される。自分の役割を終えたからね。あとは好き勝手に生きればいい。種の存続により尽くすのも、利益に走るのも、個人の自由だ」
もっとも、地上の人々はその例には当てはまらない。
人類は心が強くなりすぎたのだ。“あがり”を宣言され、ほとんどの未来を手に入れた彼らは、種の存続に縛られなくなった。自己保存も自己改革も他人事。彼らにとって繁殖は、本能や義務ではなく、すでに趣味の領域に変化している。
「それでもまだ、趣味であるうちは救いはある。それさえなくしてしまったら、私たちは生命とは呼べなくなる」
少女はあいかわらずピクリとも動かない。
こちらの話が伝わっているかはどうでもいい。補充した物資分のお代は話したので、早々に森を後にする。
月の森は変わらずに無音で、清潔だ。つい足を止めて見入ってしまい、振り返ると、少女がかすかに手をあげていた。目の前にいる羽虫を摑むような動作だった。後に、あれは三十分ほどのタイムラグによる動作と判明したが、この時の私には、彼女の思惑は測れなかった。
◆
「無駄な消費はよくないよ。このタンク一杯分だけでいいんだ。無制限に使っているけど、底をつく可能性だってある。星が枯渇したら、君だって共倒れになるんじゃないか?」
百八十回目の補充。
ここのところ元素の生成量が増しているので、少女にそれとなく注意した。
驚いたのは、そのおり、少女が残念そうに目を伏せた事だ。
こちらの言葉が伝わっている。
なにより、意思を伝える術を学習している。
彼女は私の話からは何も学ばなかったが、独自に、私を観察する事で、彼女なりの成長を遂げているらしい。その時は驚きばかりで、なぜ、という疑問は浮かばなかった。
「手の次は足ときた。自立してもいいことはないと思うけど」
二百四十回目の補充の頃、少女は立ち上がれるようになった。
地表と一体化していた手足は、これで本当に人間と同じものになった。
まだ立ち上がる事しかできないが、あの様子では歩きだす日も近いだろう。
私にとっては小さなニュースだ。それより、来る時に見かけた樹木の破損の方が気にかかる。この森はお気に入りなのだ。ところどころ虫食いでは精神衛生上よろしくない。
樹木の補修に没頭する。振り返ると少女は満足げに笑っていた。我が事のように喜んでいるようだった。森の手入れが、スケジュールに組みこまれた。
「不用意に近寄らないように。代えの宇宙服はないんだ、壊されたら死ぬしかない。ああ、また転んだ。ヒトのように歩きたいのなら、膝関節を作りなさい」
彼女は人間と違い、内部に骨格というものがない。骨で器官を覆っている。我々とは内と外が逆なのだ。そう言う私も、今では体の外側を宇宙服で覆っているので、彼女と同じような在り方だ。
助言をしながら、私は彼女に接触を禁じた。安全性の問題だが、あの指に触れられたくはなかったのだ。
歩行するようになって、ドレスは本来の役割を果たすようになった。
石灰の樹木の合間をすり抜ける姿は、まるで、
“これで、ヒトのように見えるでしょうか?”
無音の筈の森に、雑音が響いた。なんだろう。まさか地上からの通信でもあるまい。
宇宙服の故障だ。都市に戻ったらチェックしなければ。
少女はまだ、しつこく木々と戯れている。
うまく歩けた感想を求められているのだな、と私は読み取った。
「そうだな。どちらかというと、君の体は珊瑚のようだ」
どうでもいい独り言に、少女は跳ねるようにドレスを翻した。
◆
地球時間にしておよそ六ヵ月、私は彼女と過ごした。
ここのところ元素の生成率が低下している。私ひとりが生きていくには十分だが、少女の負担になると思い、末端の都市から電源を落とす事にした。ネットワークはとっくに断っている。都市の効率化ができたら再開すればいい。食料も熱量も、余分な機能をカットしていけばタンク一杯分は必要ない。コップ一杯分で十二時間活動できる。
◆
月の森も、その大半が砂に還っている。
この森が少女の生存可能域なのだろう。
森の衰退と共に、彼女の活力は失われていくようだった。
“ごめんなさい。最近はうまく星を動かせなくて”
少女が口を動かす。真空に伝わる波。
宇宙服の故障ではない。彼女は声帯まで獲得していた。
私には分からない。なぜ背伸びをする、と問いただすと、
“貴方を知りたいのです。貴方に触れたいのです”
少女はすがるような目をして、声をあげた。
録音したが、私には解読できない。
少女の声はどの言語にも該当しない。記録した音をテキストに置き換えても、そこには文字の羅列があるだけだ。私にとって、音による言葉は、どれもが異国の唄と同じだった。
「君は成長を続けているな。前にも話したけれど、自己保存と改革は生命の義務であり、証だ。しかし、君の進化はいい方向には進んでいない。なんだってそんな、不便な体を」
“そんな小難しいコトはどうでもいいのです。ただ貴方と話したいだけなのです”
少女は胸に手を当ててこちらを睨む。
まるで、自分の体はここにある、と言いたげな視線だった。
この時の私の心境は、今でも解析できない。背中から切りつけられたような冷えた痛みと、心臓をじわりと握りしめられたような、小さな熱。星を見下ろしていた時に感じた、不可思議な心の動きと同じだった。
少女のそれは、心と呼ばれる生体機能だ。
彼女には感情が生まれていた。
もうとっくに気付いていた。目を背けていただけだ。
この生命は環境に合わせて成長するのではなく、自身の願いを軸に成長する道を選んだのだと。
「そうか。君は、ヒトのカタチになりたいんだな」
彼女は力強く頷いた。
伝え合う事のできない我々にとって、たった一度きりの相互理解だったと思う。
彼女が私に危害を加えなかった理由は、私の姿を参考にしようと思ったからだ。
彼女が私に笑いかけるのは、私に向けられていた好意は、しかし、愛情によるものではない。
単に、この少女が他の人間を知らないだけだ。
時間は過ぎていく。
彼女の変異はもう止めようがない。
少女は炭素生命へと変わろうとしている。その先にあるものは不可逆の、種としての脆弱化だ。
月の資源も失われつつある。
彼女が星の頭脳体としての機能を失う事で、月は死の世界に戻ろうとしている。
ハロー、キャプテン・アームストロング。人類で初めて月に行った彼が降りる前の、人間が住むべきではない、正しい姿に。
少女は死に向かって転がり始めた。
彼女がヒトに近づけば近づくほど、星は彼女を見放すのだ。
彼女がヒトに焦がれれば焦がれるほど、私は熱を失うのだ。
……ああ、それでも。
あの美しい石が生命である事を望むのなら、それを叶えてやらなければ。
ロケットの修理に着手する。
今のうちにできるだけの資源を確保しておく。
七つの月面都市は、そのすべてが海の藻屑となるだろう。
私は自分にできる事をする。もちろん自己保存が最優先だ。そこを間違っては、教授したものとして彼女に合わせる顔がない。
少女は日の八割を睡眠に費やしていた。
眠る少女を抱きかかえる。あれほど触れる事を禁じていたが、やはり、宇宙服越しでは何の感触もない。だから、この数値だけを覚えていよう。無重力の海では、数値だけが確かな記録だ。
森から都市に連れ出したところで、少女は目を覚ました。意思は通じずとも、何をしようとしているかは理解できるのだろう。少女は抵抗したが、もう以前ほどの力はない。
少女はしつこく暴れた後、睡眠に戻った。
一人乗りのロケットに彼女を寝かせる。
なぜか、五分で済むことに、何倍もの時間を要した。
安全性は確保したが、後で恨まれるだろう。なにしろ空中分解を前提にしたアプローチだ。
成層圏にさえ入ればいい。あとは脱出ポッドで海に落とす。弱っているとはいえ、彼女はいまだ星の分身だ。その体、外殻は即座に環境に適応する。多少は苦痛だろうが、そこは大目に見てほしい。
さて、発射まであと二分程度。
月に残った資源の八割を消費する一大プロジェクトだ。
もともと彼女のものなので、惜しいという気持ちもない。
センサーが波を拾う。
ロケットの中で、壁を叩く音がする。
覗き窓には、もうくすんでしまった亜麻色の髪が見えた。
やる事もないので、いつも通り、私は彼女に話しかける。
「落ち着いて。君に、私はもう必要ない。その心は人恋しいだけなのです。ですから、あの星に落ちなさい。あそこには君の望む全てがある」
“違うのです。私は人間に恋をしたのではありません。貴方に恋をしたのです”
「気遣いはいらない。これから僕はかつての君と似たようなものになる。資源が途絶える以上、人間としてはやっていけないからね。もともとそういう風になる予定だったんだ、僕は。だから、以前までの君と同じく、寂しくはなくなるよ」
“それも違うのです。それではいずれ、貴方の方が人恋しくなる”
唄は、私には分からない。
それでも不思議と不快ではない波だった。
壁を叩く音は強くなる一方だ。
まさか突き破ってこないだろうな、と思って、私はつい笑ってしまった。
私は計画の中止を懸念したのではなく、そんな事をしでかした場合の、彼女の健康を案じたのだ。
普段の私からは考えられない行為。いや、それこそ間違いだ。この星にきてからずっと、自分はあの少女の為に活動してきた。あの少女を想わない日はなかった。だから別に、今の心の働きは珍しい事でもない。自分がそうでありたいと願った、この星で繰り返してきた、忘れがたい日常だ。
「……ああ。以前、生命の定義の話をしたね。増えることを放棄したものは生命ではないと。その通りだ。君が生命になるというのなら、子孫を残さなければいけない」
“待ってください。せめて最後に、一度だけでも、貴方と話がしたいのです”
この少女を地球に落とす判断は悪だ。
人類にとどめをさす行為かもしれない。
が、もともと私の人類愛は故障している。
だからこそ、こんな世界にやってきた。
だからこそ、こうやって失う時にしか、心の所在に気付かなかった。
罰のように思い出す。私はそういう人間だったのだと。
「人間がイヤで、何もかもを見限って、月に昇ってきたのです。そんな私が、人を愛する訳にはいきません」
多くの人々と同じ、弱く、身勝手な人でなし。
そんな機械に、他人を思いやる機能はないとしても。
「――でも、君に恋をした」
幸福の意義など考えずに。
貴方には穏やかであってほしいと、身勝手にも願ったのだ。
目を覆う光と熱。
ロケットは尾を引いて、暗い星に落ちていく。
舟は虚空に。
私はそれを、レンズ越しに眺めている。
星が去っていく。
君が去っていく。
私は今、かつてないほど人間的だ。
そうか。恋を知る為に、私は月に昇ったらしい。
4.
今年の寿命も数えるほど。
十二回目の満月の夜。あと十日足らずで今年は用済みで、また、あてのない一年をはじめていく。わたしは高台から、三日月に灯る海岸線を眺めている。今夜は一段と明るい海。吹く風は温かくも冷たくもない。冬という季節は、この島には無縁のモノなのだ。
「空に水。水に空。月の空には砕け散った海がある」
一説によると、この島に緑が蘇ったのは、島の近くに隕石が落下してからだという。
その後、月の珊瑚と呼ばれる新しい海洋世界ができあがった。
ちなみに最初のおばあちゃんは、亡くなる間際、海に入ったまま戻ってこなかった。
月のいちばん見える夜、珊瑚が光るようになったのはそれ以来という話。
「星はまたたく。海はさざめく。人恋しくて珊瑚は謳う。
わたしたちは海月みたいに、ふわりふわりとその日ぐらし」
「おや。今夜はまた、一段と元気そうです」
ブリキの彼は例の小舟と共に現れた。
かすかな光を撒いて飛ぶ姿はちょっとだけ流星のよう。
わたしが元気なのは、月の満ち欠けの影響だろう。ちゃんとご飯も食べているし、気持ちの問題もあって今夜は特に調子が良い。反面、彼はやや歯切れが悪い。訊ねてみると、そろそろ食料が切れるのだという。
「はいこれ。わたしの本、受け取って。その代わり、あの貝殻はいただくわ」
「それは良かった。最後にいい取引ができました」
舟の甲板がお鍋のフタみたいに開く。彼は自分より大きな本を抱えて、ちまちまと中に入っていく。わたしはその隙に、ちょっとだけ覗き見る。中は別世界に繫がっていた。わたしの部屋より広そうな空洞に、一面の金銀財宝。その真ん中に、彼は本をちょんと置いた。少しだけ恥ずかしく、少しだけ誇らしい。
「最後? 貴方、もう島にはやってこないの?」
「島というより、こちらに渡ってくる事自体が難しいのです。こう見えて、だいぶん無理をしていまして。地球の重力は私には重荷なのです。この機体も軽量化したものですし」
わたしは息を吞んだ。
死を迎える今年のように、彼もまた、回顧録に仕舞われる事なく去っていく。
別段、嘆くこともない。いまの人類にとって一期一会はスタンダード。わたしだって情の薄いと評判の一姫さまだ。そんなコトで躍起になって、引き留めたりこだわったりするのは自分らしく――いや。そんなところまで先人の轍を踏んでどうする。カタコトでも、わたしたちは話し合うコトができるのだ。
「相談事があるの。意見を聞かせてくれないかしら」
挑むような気持ちで言うと、彼は真面目に向き合ってくれた。
といっても、相談事なんて一つもない。あれこれ考えたあげく、求婚について相談した。島のしきたり。本土からやってくる殿方との御簾越しの逢瀬。常識はずれの交換条件を突きつけるコトをどう思うか。
彼は小さな両手を組んで、なるほど、と納得声。
「貴方は誠実なのです。そういうヒトを知っています。確かな証がないと、ヒトを思いやるコトも欺瞞だと感じてしまう。それは貴方が、自分より相手の人生をよく考えている結果でしょう。貴方の愛は、とても人間的なのですね」
月が眩しい。
わたしは何分もかけて、目の前にいる鳥を捕まえるような、羽虫を摑むような動作で、手を持ち上げかけて、押し止めた。
「そろそろ時間です。この周期を逃すと帰れなくなる。読み書きは文化の基本なので、できるだけ長く覚えておいてください」
「そうね。次はもっとうまくなっているわ」
「次?」
「ええ。もう一冊書く予定ができてしまったから。さっきの本に新解釈をまぜたものだけど」
本当のことだ。あの貝殻の声を聞いた以上、新しい物語を残さないと。
「魅力的な案件だ。商売上手ですね。ちなみに、代金はどれほどでしょう」
「月のサカナを用意できる?」
誰もが逃げだす無理難題。その困難さを空想ではなく現実として知っている彼は、
「サカナというのは、昔の海にいた生命ですね。ふむ。月に海を作るのはたいへんそうだ。私には荷が重いですが、それで貴方と取引ができるのなら、損ではないと判断しました」
甲板から、にょっきりと舵が伸びる。
彼は舵をにぎって、西の空に船首を返す。
「そうだ。珊瑚の真相は分かりましたか?」
「ちっとも。でも、おばあちゃんの願いは叶ったみたい」
その話については、新しい本の中で。
「良かった。それを楽しみに、難題を解くとしましょう」
それでは、と残して、小舟は虚空へと飛んでいった。
明日の夜には十六夜の月を横切って、遠い空に落ちていくのだろう。
ふと、美しい声を聞いた。
貝殻にあった唄が記憶と共に蘇る。
あれから何百年。彼と彼女は永遠の没交渉。
月に咲いた花は地上に落ちて、平凡なモノになったけれど、多くの種を残した。彼の教えを叶えるように。愛は趣味だと彼は言ったけれど、本能より優れた趣味もあるらしい。だからこそ人々は、いまもしつこく生きている。
「ああ――」
珊瑚が光る理由なんて、それだけのコトに違いない。
最後まで分かり合えることは、意思を伝え合うことはなかった。
一方通行の恋路。
ひとりよがりの決断。
でも、互いの幸福だけを祈っていた。
それで残るものがあるコトを、彼と彼女は信じていなかっただろうけど。
「なんて、幸せな人たちだろう」
彼女の声を口ずさむ。
懐かしい歌を思い出す。
触れあえずとも命は遠いそらの彼方に。
光る海。謳う珊瑚。――今も、貴方に恋をしている。