「どうして大統領は何もしなかったの」
「検事はなぜそんなにしつこく攻めるの」
10月8日、パリ近郊の公立中学校。米国人女性キリヤンさんが、殺人罪で2度死刑を求刑され、服役16年目に冤罪(えんざい)と分かって釈放された体験を語ると、13~15歳の生徒たちから率直な質問が飛んだ。憲法に死刑廃止が明記されている国とはいえ、日本では想像しにくい授業風景だ。
「議論や教養、思想がなければ、自動的に死刑賛成になる。死刑廃止は文明化の過程の一つ。文明化とは教育だ。死刑廃止に教育は欠かせない」(社会学者ガイヤール博士)
授業の後、生徒たちに意見を聞くと、「フランスの死刑廃止を誇りに思う」「国が殺すのは考えられない。人間的でない」「発展している国は廃止すべきだ」などの答えが多く、「日本には死刑があるの」と驚かれた。
先進国で死刑を続けるのは今や日米だけ。日本に「死刑外交」での孤立感が薄いのは、どこかに「米国だって……」という甘えがあるからではないか。だが、日米の実情にはかなりの落差がある。
米国の死刑廃止論議は欧州より古い。現在、全米で15州が廃止、残る35州のうち12州は10年以上執行がない。州議会や市民レベルで死刑の是非や処刑、公開の仕方について議論の積み重ねがある。
72年に連邦最高裁が「死刑は残虐な刑罰に当たる」と違憲判決を出し、全米で執行が停止されたこともある(4年後に合憲判決)。02、05年には欧州での判例を根拠に、知的障害者と18歳未満の死刑に違憲判決が出された。
「私個人も含め多くの米国人が死刑に反対し、死刑が制限されるよう提唱してきた」
11月5日、ジュネーブの国連人権理事会で、欧州各国が米国に国全体での死刑廃止を迫ると、元米国務次官補のコー米国務省法律顧問は当たり前のように答え、耳目を引いた。米国は執行停止にも同意していないが、「死刑外交」での態度は、拒絶一辺倒の日本とは明らかに異なる。
死刑廃止か存続か。論理を突き合わせても、なかなか黒白はつかない。それでも廃止論に勢いがあるのは、人間の理性と進歩を信じる限り、必ずや死刑廃止に行き着くべきもの、という理想に依拠しているからだ。
新興国も途上国も世界の大勢は、これから発展しようと勇んでいる。先進国で流行の保守主義は理性と進歩の過信を疑うが、否定もできない。死刑廃止論は、理性と進歩を信じて変化を求めるうねりに乗って広がり、衰退気分に浸る日本は「今まで通りではダメなのか」と抵抗する側に押しやられている。
文化や宗教、経済発展の違いはあっても、人権尊重は今や世界中が目指す理念となり、死刑廃止は人権普遍化のシンボルの一つになりつつある。【ジュネーブ伊藤智永】=おわり
毎日新聞 2010年11月25日 東京朝刊