2010年12月21日
「マミーのことを悪い病気って思ったことはないです。髪の毛がないだけで、(他の人と)変わらないから」
12歳になった娘の言葉に、東京都の篠原有紀(しのはら・ゆき)さん(38)は幸せを感じた。この病気が、娘の足を引っ張ってはいないんだと思えた。
「円形脱毛症」の中でも、すべての髪の毛が抜ける難治性の「全頭型」になってから25年になる。人目を気にして、生活が荒れたこともあった。あのころから見たら、穏やかな気持ちで過ごせる今の自分は「奇跡」としか言いようがない。そう思う。
小学校を卒業した1985年。父親の転勤で米ミシガン州に引っ越した。
英語なんて全く分からない。飛行機の中で「ABC……」を勉強したほどだ。学校では、隣の子に自分の名前を書いてもらった。
1年もたたないうちに、異変が襲った。
朝起きると、枕元に見たことがないほどの髪の毛が落ちていた。母親を心配させないように、手のひらいっぱいに拾い集めた髪を小さく丸め、隠して捨てた。
シャワーを浴びれば、排水溝が抜け毛でつまってしまう。無意識に足の親指でどかしながら、バスタブのお湯を何度も流した。
最初の診断は、小学4年だった。そのときは10円玉ほどの脱毛が数カ所できる「多発型」。円形脱毛症は、自分の毛根を異物として攻撃する自己免疫の病気と考えられており、都内の大学病院で処方されたステロイドの塗り薬を使うと、数カ月で発毛し始めた。
だが、米国に住み始めた今回は、髪全体が抜けてきていた。母親が黒いアイシャドーを頭皮に塗って、髪を後ろで結うポニーテールで目立たなくしてくれた。それでも、地肌を隠せなくなるまで半年もかからなかった。
そのころ、日本製のカツラが自宅に届いた。最悪の状況を考えて、母親が頼んでいたものだった。ところが、箱を開けて言葉を失う。まるで「サザエさん」のように、パーマがかかった中高年向けのカツラ。思春期を迎えた女の子の髪形とは、ほど遠かった。
「こんなの嫌よ!」
娘にそう言われた母は怒ることなく、縮れた髪の毛を何度もブラッシングして伸ばし、ヘアバンドを巻いてボリュームを抑えてくれた。それでも、だれもが分かってしまいそうな髪形。緊張したまま、初めてカツラをして登校する朝を迎えた。(斎藤孝則)
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「患者を生きる 円形脱毛症」は6回連載します。
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