2009年10月22日

山本五十六元帥と海軍ブリッジ創成

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 ブリッジを愛好してきた日本の著名人のなかで、最も早い時代の人物に大東亜戦争時の連合艦隊司令長官で海軍大将の山本五十六元帥(1884〜1943)が挙げられよう。

 山本元帥のブリッジ好きは当時から有名で、ハーバード大学に留学(海軍少佐後中佐)(1919〜1921)時にポーカーと一緒に嗜むようになったと思われる。米国駐在武官(海軍大佐)当時(1925〜1928)は、アフター・ファイブの社交に大いに役立てたようである。
また1934年ロンドンで行われた軍縮会議に海軍首席代表として出席した折(海軍少将後中将)には随行武官とは勿論のこと、英国使節団代表ともしばしばブリッジを楽しんだという話もある。

 山本元帥とブリッジについて今でもブリッジ界で語り継がれている有名なエピソードを紹介しよう。
真珠湾攻撃成功を祝って東京のブリッジクラブ(昭和10年代当時「日本橋戦協会」というのがあったそうである。ブリッジ=橋と訳したのであろう。)が、


※『雨風の 師走の空も 雲晴れて グランドスラムの 心地よきかな』

という歌を贈った時、元帥から次のように返歌された。

※『グラスラは ほど遠けれど リダブリて ジャストメイキの 心地こそすれ』


意味: 真珠湾攻撃の成功をグランドスラム(注:ブリッジで13トリック全部とることを宣言してプレイし、宣言どおりに完勝すること)に例えて称賛されたのに対して、元帥は『いや、「無理だ」と言われていたゲームを「それでもできる」と強気に言ってかろうじて宣言どおりに勝てた、それだけのことに過ぎない』

留学時代も含めてたびたび訪れていた米国の底力を充分に知っていた山本元帥は、米内大将、井上中将(後大将)とともに、米英との開戦に最後まで反対していた。その後の戦況を見通していたような彼の心情が、ブリッジを知る人々に今もなおストレートに沁み入る返歌である。


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posted by ろうすいへい at 21:23| Comment(0) | コントラクト・ブリッジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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