インタビュー

人生は夕方から楽しくなる:「シュレック」ドンキー役 山寺宏一さん

2010年12月20日

 毎朝7時、NHKニュースを見て慌ただしく出勤する大人たちからは、もっとも縁遠い存在かもしれない。

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 「OHA~(オ~ハ~)!!」。同じ頃、ハイテンポな音楽に合わせて始まる子ども向けバラエティー番組「おはスタ」(テレビ東京系)の司会を務めて、かれこれ14年目に突入した。「今一緒に働く番組スタッフに『小学生時代に見ていました』と言われましたよ。こんなに長く続くとはねえ」と笑う。

 本業は声優。台本を読んで感情移入していく役作りは孤独だが、イケメンから動物にまでなれるのが声優の魅力と考えている。「以前、声がガラガラで仕事にならず迷惑をかけた。今でも毎回、オーディションを受けるつもりでやっています」。今や「七色の声を持つ男」と呼ばれるほどの広域の声質で、アニメの出演作は数え切れず、洋画でもエディ・マーフィーやブラッド・ピットら一流俳優の吹き替えを担当。デビューから25年、「最も有名な声優」と言われる。順風満帆ですね? 「そんなことはないですよ。東北出身でなまっていたし、どうしたら声優になれるかと、雲をつかむ思いでした」

 年齢を感じさせないスラリとしたスタイル。眼鏡の奥の柔和なまなざしで、ふと遠くを見つめた。

 自衛官の父親と母、姉の4人家族。「巨人の星」などのアニメが大好きな少年だった。「人見知りで内弁慶」。ところが、クラスの誕生会で、たまたまアニメのものまねを披露。担任の女性教師から激賞される。「10歳ぐらい」。人前に出ることも苦にならなくなった。高校時代には「部室でものまねオンステージ」を繰り広げるひょうきんな男子に変貌していた。

 大学に進学すると、「人を笑わせることにチャレンジしたくて」落語研究会へ。さまざまな登場人物を演じる難しさを知った。「ものまね芸人になりたいけど、自分には難しいかな......それなら声優か」。悩んでいたところ、大学生協の書店で俳優・声優の仕事を紹介する本に出合った。「当時は声優を目指す学校はほとんどなかった。声優は、俳優の仕事の一部と考えられていて、俳優の修業から始める必要があった」

 84年春、大学を卒業し、迷わず上京、俳優を育成する俳協養成所に入った。「親は反対しませんでした。おやじも『30までは我慢して頑張れ』って送り出してくれた」。22歳、見知らぬ街で初めての独り暮らし。もちろん仕送りはない。「アパートは、早稲田の家賃1万7500円、風呂なし・共同便所の4畳半。今も大久保にあるウナギ屋でお世話になりながら養成所に通いました。貧乏だったけど、毎日がホント楽しくてね」

 アニメの仕事はオーディションに合格するなど順調だった。だが、俳優としては、セリフのない役が続くなど芽が出ず、30を過ぎた。

 宴席でものまね芸を披露して場を盛り上げていたところ、知人が「大物プロデューサー」氏に「彼はおもしろいですよ」と紹介してくれた。ところがである。氏いわく「テレビに出る顔じゃねえよな」。グサリと胸を刺す言葉に「そうですよねえ」と苦笑するしかなかった。一方で、「こんな顔だし、悔しいけれど仕方ないと思った。でも今に見てろよ、という反発心もちょっとありましたね」と振り返る。

 長年こなしているFMラジオのDJは、台本なしの"速射砲"のアドリブが持ち味。高い人気を誇っていたところ、「おはスタ」司会の話が舞い込んできた。「正直悩みましたよ。イメージが崩れるんじゃないかって......でも、何事も挑戦」と引き受けた。今では「山ちゃん」の愛称で子どもたちに親しまれるほどに。プライベートでは子どもはいないが、カレールーのCMに父親役として出演したこともある。

 スタジオ入りは毎朝5時。明日が気になって夕方から楽しめないのでは? 「僕は案外夜更かし。その分、昼寝でカバーしているんです」【中澤雄大】

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 ■人物略歴

 ◇やまでら・こういち

 1961年、宮城県多賀城市生まれ。東北学院大卒。18日公開の洋画アニメ「シュレック フォーエバー」のドンキー役としても出演している。

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