第2回 「コミュニケーションをとる」ことのマイナス

  

抑圧的なコミュニケーション~

 

 具体的な事例をあげていくまえに、その前提として、いくつか述べておきたいことがある。その一つが、「コミュニケーション」ということばについてである。
  
  こちらが正しいと思っているのに、そのことを相手がわかってくれない。正しいと思って、相手のためを思ってやっているのに、相手がそのとおりに動いてくれない。そして、相手をなんとか自分の思う路線に乗せようとして、いろいろな言い方で説得したり、諭(さと)したり、ときには叱(しか)ったりする。それでも相手は、思いどおりに動かない。
 そんなとき人は、その原因を、コミュニケーション不足に求めることがある。もっとコミュニケーションをとりさえすれば、相手はわかってくれるのではないか、思うように動いてくれるのではないか、と。
 しかし、それは錯覚であり、幻想であるかもしれない。
  
 私は、「コミュニケーション」ということばは死んだ、と思っている。これほど便利で、かつ中身が空疎な言葉はない。なぜかというと、たとえばセクハラ、パワハラ、性犯罪、すべて加害者は「コミュニケーションがとれていた。納得の上じゃないか」と言う。子育てをする親は、「子どもとはコミュニケーションがとれているはず」と言う。実際は、片方がそう思っているだけで、もう片方はそう思っていない。
  
 そもそも、部下や子どもなどの「弱い」側は、上司や親など「強い」側とのコミュニケーションをどう考えているのだろうか。
 強い立場の側はコミュニケーションをとりたがるが、その力が強大であればあるほど、弱い側はコミュニケーションなどとりたいとは思っていないことが多いのではないだろうか。
 ところが、「強い」側の人間は、それを理解せずに独りよがりのコミュニケーションをとろうとする。そして相手が思いどおりに動かないと「コミュニケーション不足」に原因を求め、「コミュニケーションはとれている」と思っている場合は、「それでも理解しない相手が悪い」ということになる。そして、もっともっとコミュニケーションをとろうとする。じつは、そのこと自体が抑圧的であり、相手を追いつめることが少なくない。
  
 私はカウンセリングの現場で、そのような事例を数多く見てきた。だから私は、「コミュニケーション」ということばから、非常に抑圧的なにおいを感じてしまう。
 追いつめる・追いつめられる関係は、上司と部下、親と子、夫と妻のような、親密もしくは上下のはっきりした関係で生まれやすい。その関係を改善する場合に、「コミュニケーションをとる」という考え方は、むしろマイナスに働くことが多い。
 密なるコミュニケーションを望まず、適度な距離を置いた関係のほうがうまくいくことは、みんながうすうすわかっている。そして、こうした距離のある関係においては、追いつめる・追いつめられる関係性には発展しない。
 

 


を追いつめる「やさしい言い方」~

 

 この連載を読む前提として念頭に置いていただきたいこと、その二つめは、「やさしい言い方」でも人を追いつめることがある、ということだ。
  
 「追いつめる言い方」というと、一般的には、強い口調で叱ったり、相手の人格を否定したり、恫喝(どうかつ)したり、ということを思い浮かべるかもしれない。しかし実際は、必ずしもそうした言い方で人は追いつめられはしない。むしろ「やさしい言い方」が、真綿で首をしめるように相手を追いつめることが少なくないということを知っておいてほしい。
  
 恫喝というのはわかりやすい。だから逃げることができる。たとえば上司に「なんで俺の言うことがわからないんだ!」「どうして言うとおりできないんだ!」などと怒鳴られたときは、その場で謝ったり、「体調が悪いので」と言って一日休むことで逃げられる。
 難しいのは、「あなたのためにやっているんだ」という、やさしい言い方によって追いつめられる場合だ。これには逃げ場がない。
  
 恫喝・命令・強制・脅迫・教唆扇動(きょうさせんどう)、といったような追いつめ方は、言っている側に「追いつめるために言っている」もしくは「追いつめることになるだろう」という自覚がある。追いつめられる側も「追いつめられている」という自覚がある。つまり、追いつめる側も追いつめられる側も構図が見えている分、対応しやすいのだ。
 一方、「あなたのために言っている」「あなたのことは理解しているけれど」という追いつめ方はどうだろうか。追いつめる側は、「追いつめている」という自覚がない。相手のために言っているのだと思い込んでいる。そして、言われる側は、
 「私のために言ってくれているのだから、本来ならば感謝しなければならない。それなのに、なぜ不快だったり苦しかったりするのだろうか。それは、私が未熟だからだろうか」
 などと考え、追いつめられていくケースが少なくない。
 
 ここで申し上げたいのは、明らかに追いつめるような言い方よりも、やさしい言い方のほうに問題が潜んでいる場合があるということ。その言い方が相手をとことん追いつめる結果を招くことが往々にしてあるということだ。その具体的例についても、次回以降、紹介していく。

 


~ハラスメント加害者にならないために~

 

  そしてもう一つ、追いつめられる側の心の中は、追いつめる側にはなかなか見えてこない。この連載を通じて、少しでも追いつめられる側の心理を知ってほしい、ということがある。
 人は追いつめられると、逃げたくなる。その逃げ方には、大きく分けて三つある。

 

 (1)自分を追いつめる人に逆襲する
 (2)自分を責める(場合によってはうつになる)
 (3)別のことに集中してそのことを忘れる
  
 追いつめる側が望んでいるのは、発奮してもう一度努力をすることだろう。しかし、それは追いつめられている人間にとって一番つらい選択であり、実現する確率は低い。そのことを追いつめる側も知っていて、自分のストレスや感情の発散として相手を追いつめる場合もある。そうなると、ハラスメントと叱責(しっせき)の境界線上にある行為といえるかもしれない。
  
 追いつめることが目的であれば、完全にハラスメントであり、会社で言えば、上司が自分を満足させるために立場を利用して部下を追いつめれば、パワーハラスメントとなる。それと、単なる叱責とどこが違うのだろうか。
 じつのところ、それらの間に境界線を引くのは難しい。受け止め方の問題もあるだろう。ある人にとってはなんでもない叱責が、ある人にとってはハラスメントになってしまうことがある。
 だから、どのような言い方が人を追いつめうるか。ハラスメント加害者にならないためにも、それを知っておく必要がある。
  

次回公開:2011年1月4日)

2010年12月17日