裁判所に行ってきました。
いろんな方から励ましの言葉や心配をしていただきながら、裁判所に行ってきました。緊張して言いたい事も言えなくなるから書面は早く出した方が良いと聞いたので、朝一番で裁判所に電話をして、何日もかけて作った答弁書をFAXしました。
その時は、我ながら大変良く出来たと思っていました。
「もし、裁判所に忘れ物でもして取り返しがつかない事になったらまずいぞ!」と考え、立川地裁に到着したのは審尋の時間の1時間前!家から渋滞しても車で10分弱なので、忘れ物を2回は取りに帰れます。
待合室で、心を落ち着けようと名誉毀損裁判の本を広げるのですが、頭には入りません。気休めです。
そんな中、一人では不安だろうからと、清瀬市民オンブズマンの石田さんがいらしてくださいました。 ・・・・・・おかげで、どんなに、落ち着いたか。本当にありがとうございました。
審尋開始と言う事で別室に呼ばれました。部屋の中には四角いテーブルが一つあり、菊池建設の弁護士さんは2名、すでに入って左側の席に着席されていました。
私は右側の席に座ると、すぐに裁判官の方と書記官の方が入ってこられました。
裁判官の方からは、私が裁判に慣れていない事もあり、仮処分の裁判の流れなどを説明していただきました。
裁判官の方から、「弁護士はつけますか?一人でやりますか?」と聞かれ、お金も無いけど、もし負けたら取り返しのつかない事になるかもしれないと思い、「何とかこれから弁護士の先生を探します。」と答え、次回の審尋の期日が1月13日と決まり、今日の所は終わりました。
私の提出した答弁書は、答弁書の体裁になっていないようで、一先ず、単に提出された文書という扱いになるようでした。時間にしたら30分ぐらいだったのでしょうか?
裁判所から出て、一息ついたところで、石田さんより、東村山市議の矢野さんの所へ来ませんか?と電話が入り、この数日間、矢野さんには本当にお世話になったので東村山市役所へうかがいました。
審尋は特にトラブルも無く、順調に終わったと思っていたのですが、実は、結構危ない場面を気がつかずに偶然くぐり抜けていただけだったと聞かされ、無事終わったとは言え、ちょっと青ざめました。
私が「弁護士を雇うお金は無いので、自分でやります!」などと言っていたら、そのまま進んで、今日で結審してしまったかもしれない事。私が出した答弁書は、自分の意見や主張で、裁判で問われている事とは論点がずれている事などを指摘されました。別の裁判の陳述書を参考に答弁書を書いたのですから。
裁判官の方が、答弁書として取り扱わない訳です。
我ながら良く出来たと満足していたのが恐ろしいです。あのまま、自信を持っていたら今頃は・・・・・・・
知らなかったとは故、オウンゴールで自爆するところでした。
家に帰ると、青ヶ島村の元助役の菅田さんからお手紙が届いていました。全く存じ上げない方です。別冊宝島で、青ヶ島村は簡単に合法的に中国に乗っ取られると紹介したからでしょう。(ネタ元は私ですが、書いたのは友人の作家です。私は小説の中では中国人に捕まって3年も牢屋に入れられる役でした。)
菊池建設の次は、青ヶ島村から抗議が来てしまった!勘弁して!なんと菅田元助役は30年も前から、「ソ連やカルト宗教に青ヶ島村は簡単に乗っ取られてしまうぞ!」と警告を発していた方でした。当時は相手にしてもらえなかったのだそうです。
別冊宝島で紹介した青ヶ島村の危機という話については、政府で仕事をしている友人がレポートにまとめて官邸にも届けたそうです。ただ、鳩山政権だったので、どう取り扱われたか期待できませんが。
お手紙によると菅田元助役は、私が生まれた年に学習院の政治学科を卒業されたという大先輩!それだけでも何か不思議な縁を感じるのですが、お手紙を拝見するに、それだけでなく、何か見えない力というか神道の世界を通して深い縁があるようです。どうにも、うまく言葉では表現できません。書き連ねてもオカルトと一笑に付されてしまいますし。
最近、つらい事が続いていて、毎日へこんでいたのですが、菅田元助役からのお手紙を読んで、ちょっと心が明るくなりました。
お会いして、青酎呑みながら、青ヶ島村の話をうかがいたいなあ。 |
ご苦労様です
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2010/12/21(火) 午前 7:17