窓から見える、晴れ渡った空。けれどその空には、落ち着いて……いや、落ち込んでいる僕の心情は、まったく反映されていない。
ここは第七学区に存在するアパートメント。その一室だ。管理人の女性と業者がある程度手伝ってくれたおかげで、元から大した量は無かったダンボールはすっかり片付けられ、ベッドに机、本棚に冷蔵庫、そしてテーブルと、今日から暮らしていける用意は十分に整っていた。
だが、やはりそれを物悲しいと思ってしまう自分がいる。でもそれは、仕方が無いことなのだろう。精神的には同年代の他者と比べれば、圧倒的に成熟している自覚はある。だが、それでも親元を離れ。いや。自分の居場所であった筈の「家」から離れるということは、予想以上に辛いことだった。
――それが例え、望まれていなかった場所だったとしても。
「はぁ」
溜め息を一つ。僕は、掃除が簡単だと言う理由で買った新品のパイプベッドに腰掛け、そのまま力を抜くように、ベッドに身体を預けた。
風臣静治(カザオミセイジ)。性別男、8歳、小学生三年生。容姿は平凡。髪は黒。利き手は右。生まれた家庭は中流階級。
そんな、一見して何処にでもいそうな存在である僕が、一人暮らしをするには早すぎて、かつ三年生という微妙な時期にここに来た理由は、大まかに言えば二つある。
一つは、父親が再婚する上で自分の存在が邪魔になるということ。
二つ目は、僕に前世の記憶があるということが原因だ。
暗い気持ちのまま、ふと窓の外を眺めると、そこには近代的な建築物と、自然に鏤められた最新鋭の科学技術が溢れていた。
警備ロボットが巡回し、多くの学生が出歩く町。大人の姿が少なく見える町。日本国内でありながら、独立した自治体系を持つ特殊な町。
――そう、ここは学園都市。
東京都西部を切り拓いて作られたこの町では、「超能力開発」が学校のカリキュラムに組み込まれており、230万人程の学生が暮らしている。そして今日から、僕もその一員となるのだ。
枕に頭を乗せながら、僕は思いをはせる。
(……ああ、僕の『能力』は、一体何なのだろう?)
逸る思いを抑える様に、自分の胸に手を当てた。本当は、まだ気持ちは動いていない。手に入れるであろう「能力」に思いを馳せた所で、楽しくなんて無かった。
だけど思考の対象を変えたことで、僕は無理やり先ほどまでの思いから、目を背けた。空元気でも何でもいいのだ。とにかく、今は明るい話題が欲しかった。
だから、僕はこれからの事に思いを馳せる。
テーブルに置かれた沢山の書類を手に取ると、それを次々に流し読みしていく。そこには能力の簡易的な説明と、開発の安全性。実験協力に対する報奨。その他にも学校のパンフレット。町の紹介図。グルメ情報など、重要なものから今すぐゴミ箱に捨てても問題は無いであろう物まで、本当に沢山の書類があった。
(能力開発を受けたら、僕はどうなるのだろう?)
もしかしたら。いや、きっと。間違いなんか起こらない。不幸は幸運で補填される筈だ。だから、僕は凄い力を手に入れる。だから大丈夫。僕はそう、自分に言い聞かせていく。
だが、現実はやはり甘くなかった。
「――風臣静治クン。測定の結果、貴方はレベル0の空力使い(エアロハンド)であることが判明しました」
それが、僕に告げられた冷酷な事実。
家族と離れ、期待にも裏切られ、科学と超能力で彩られたこの町での新しい日々は、こうして始まった。
――ピピピ、ピピピと、目覚まし時計の音が鳴り響いて、僕はゆっくりと目を覚ました。
(ああ、懐かしい夢を見た)
あくびを一つ吐く。あれから月日は過ぎて、今日。僕は中学生一年生、二学期のとある朝を迎えていた。
身支度を済ませた僕は昨日の夕食の残り物をレンジで温め、朝食をとる。そして食べ終わるとそのまま、愛用している『何故か温度計とラジオ機能が付いている学園都市製の全自動食器洗い機』のカバーを開けると、中に食器を入れていった。
自動感知機能が付いたそれは、カバーが閉まった事を確認するとスイッチを押す必要も無く食器洗い始めてくれる優れ物だ。但し、運転中にしかラジオが聞こえないにも関わらず、駆動音がそれなりにするこの食器洗い機をラジオとして使うことは、実は殆ど無い。安く買えたので文句は無いのだが、欠陥品だとは思う。
準備は出来た。僕は忘れ物が無いのを確認すると、鞄を持ち玄関に向かった。
「行って来ます」
一人暮らし故に返る声がないのは知りながらも、僕はそう言って家を出る。
テスト返却はもう終わったが、今日は身体検査(システムスキャン)がある。努力はした。けれど、能力が上昇している感覚はない。
(あーあ)
心に響くのは憂鬱な声。晴れ渡った空は、初めて能力開発を受けたあの日の空と似ている気がした。平常心を取りつくろっても、足取りは決して軽くない。
(取り合えず、頑張りますか)
鞄を一度、大きく揺らす。こうして今日が始まった。
「……少し、上がったかな?」
身体検査の帰り道。僕は一人夕暮れ時の道を歩いていた。
身体検査の結果は、何の為にあるのかも分からない予知や透視といった項目は、別段変わりは無く。僕の身体検査は、小さな特殊プラスチック製の球体を利用して行われたのだが、その結果は精度がA。干渉質量は560g。効果時間は二分と、前回の結果より大きな物を動かせるようになっていた。
ちなみに前回の結果は制度が同じ。干渉質量は500gだが、効果時間が二分七秒と言う物だったので、全く変化が無いという可能性もあるのだが、……その点については、あまり考えたくない。
三年半の月日の間に、僕はレベル2にまでそのレベルを伸ばしていた。とは言っても、レベル2にも範囲がある訳で、僕はその枠の中でもレベル1に近い人間である。これでは、レベル5になるなんて夢のまた夢だろう。
だが、少しでもレベルを上げる為にがむしゃらに続けてきた努力が、日常生活でも使えるレベルの物として、ようやく実ってきたのである。嬉しくない訳では無かった。
(まあ、それも半年前から結果が変わって無ければの話なんだけど)
そう自虐して、心の中で溜め息一つ。鍵を取り出して、いつの間にかたどり着いていた部屋の扉を開ける。
「ただいま」
どさっと鞄を床に落とし、制服をそのまま脱ぎ捨てる。皺になるのは分かっているが、今日は何だか疲れてしまった。
どうしても、制服をハンガーにかけ直す気にはなれなかったのだ。
半裸の状態でベッドに倒れこみ、ふて腐れたように枕を抱きしめた。
(何時になったら、僕はレベル5になれるのだろう?)
答えの返らぬ疑問が、頭の中でぐるぐると回る。努力はしてきた。頑張ってきた。それは人に胸を張って言える。
能力とは、無意識下の物を含めた「演算」によって発現する。だから高位能力者は、基本的に頭が良い物だし、中には一人でスーパーコンピューター以上の数式演算が出来るような能力者だって存在する。
だから、先生に止められるまでは投薬被験も繰り返したし、電気刺激による開発にも積極的に取り組んだ。実際に能力を行使するのは勿論。効果が有るのかはさて置いて、計算問題をひたすら解き続け、遂には二桁までの掛け算なら瞬時に答えが出せるようになっていた。
――だけど、それでもその努力は『才能』に敵わない。
恥ずかしい話だが、僕にも「自分は特別なんだ」と思っていた事があった。
それというのも、前述したとおり。僕には「前世の記憶」という物が存在したからだ。
陳腐な展開だと揶揄されるかもしれないが、言っておこう。僕は前世も男性として生まれた。両親に不満もあったが、なんだかんだ言っても二人とも善人で、僕たちの家族仲は決して悪くなかった。父は公務員勤めだったので、お金にも余裕があった。だが、一つの大きな問題があった。
前世の僕は今と違い、健康であるとはとても言えない身体だったのだ。アレルギーも多かったし、疲労が溜まると直ぐに高熱を出す体質だった。心臓にも若干の異常が認められ、激しい運動は禁止されていたし、小学校時代の朝礼では何度も倒れ、保健室の常連と化していた。
そもそも、死因が過労による心機能停止。それも大学受験の為に行っていた猛勉強が原因だというのだから、その脆弱さを理解してもらえるだろう。
まあ、そんなこんなで転生し、幾ばくかの時間が過ぎて気が付くと、この世界で「僕」は「僕」になっていたいた。単純に言うと、赤ん坊の時は思い出せなかった前世の記憶が蘇り、今生の人格と統合したのである。学園都市が存在し、超能力の存在が認知される、この「とある魔術の禁書目録・科学の超電磁砲」という、前世で読んだ物語と酷似するこの世界に。
始めは、これはご褒美なのだと思った。記憶を持ったまま、特に問題の無さそうな家庭に生まれ、しかもその世界には魔法や超能力が存在する。こんな世界に生まれることが出来たのは、きっと前世を死ぬまで頑張って生きたから、そのご褒美が貰えたのだと、そう思っていた。
――だけど、それは違った。
新しい母は僕が幼稚園を卒業した頃、交通事故で死んだ。残された僕と父は、僕が年齢に見合わぬ落ち着きを持っていたのを、気味悪く思ったのだろう。一つ屋根の下に暮らすにもかかわらず、碌に会話の無いような冷え切った関係。そんな所に落ち着いた。
そしてその頃から、僕は自分を特別だとは、あまり思えなくなった。
前世の記憶があっても、新しい両親は間違いなく自分の両親で、僕はそこに愛情を抱いていた。だが、それがどうだ? 母は死に。父との関係は最悪だ。
こんな物が「特別」な訳が、ご褒美な訳が無いじゃないか!
そう思い至ると、僕は自分の立ち位置に迷うようになった。僕はどうして此処にいるのだろう、と。不安になった。僕は確かに前世の記憶を持っていたが、その心は記憶が統合されたこともあり、安定しているとは言えない物だったのだ。
だから、僕は家事をなるべく手伝う事にした。「居てもいいんだ」と思いたくて、小さな身体を動かして一生懸命頑張った。そしてその結果、僕の家事能力は随分上達した。
邪険にされないように、父との会話も試みた。今日あった事を話して、相手の話を聞くようにして。だが、それら全ての行動を試しても、関係は改善され無かった。
その結果、僕は更に悩んだ。「家族が愛してくれなければ、僕は一体どこで生きればいいのだろうか」と。
考えられる手段の全てを試しても、決して超えられない壁が目の前にあったのだ。
――そして、あの日。珍しく父の帰りが早かったあの日。決定的な事件が起きた。「今日は外食をするぞ」そう言われて付いていったレストランには、父が交際しているという女性がいたのだ。それも、相手の女性には連れ子がいて。しかも、父はその子に優しく接していた。
向こうの子供は、僕が欲しくても得られなかった態度を、努力しても貰えなかった愛情を受けていた。
他人にも関わらず、この場で邪魔な存在は僕なのだと、その光景はそう語っているように思えた。
だから、その翌日。僕は決めたのだ。
家を出ることを。
「学園都市に行きたい」
引き止めて欲しくて。僕はそう告げた。その時、自分はどんな表情をしていたのだろう。多分、泣きそうな顔をしていたに違いない。精一杯の気持ちを込めて、僕は伝えのだ。
――だけど、その願いは叶わなかった。
その一週間後、僕は父に連れられ、学園都市へと訪れた。そこで手続きを済まされ、僕は親元を離れることが決定した。
(もう、戻れない)
――だから、僕は僕の居場所を、理由を能力に求めた。抽象的な考えだが、凄い能力が欲しかった。この世界に来たのは、前世の記憶があるのは、家族の下で平穏な暮らしをする為ではなく、能力を得て刺激的な生活をを過ごす為だと、そう思おうとした。
だが、その結果はレベル0。
無情にも、全力で行使して指先から、団扇の一扇ぎにも満たぬ風を吹かせる能力だったのだ。これが、現実。笑うしか無かった。
でも、だからといって、諦める訳にもいかない。
もう戻れないのだから、自分の力で立つ為にも、僕に残された道は一つ。この力を磨く事だけだった。
――そして、そう断言するのにも理由がある。
この町では、全ての生徒がレベルに応じて、奨学金が貰える事になっている。そしてこれは、奨学金という名目ではあるが、実質は能力開発という名の実験に対する「被験者への報酬」である為、返却の義務が無いのである。つまり、高レベル能力者となれば、金銭面を含めてあらゆる意味で、親の助けが必要なくなる。
父に見放された僕にとって、これはどうしても掴みたい希望だった。
意識を目の前に戻し、僕は夕食を作りながら思う。
自立する為の勉強。そうして続けていた努力が、今の自分を形作っている。
それは分かっているし、その結果。6年生にしてレベル2に上がり、奨学金がレベル0からレベル1の生徒が貰える10万円から、レベル2が貰える15万円へと値上がりした事で、僕は親からの仕送りを拒否し、やっと一先ずの自立を手に入れることが出来た。
そう、一先ずの目標は達成できたのだ。だが、足りない。
(僕はもっと先に行きたい)
才能が無いのは分かっていた。それでも、ここまで来れたのだ。だから。
「だから、絶対になってみせる。憧れのレベル5(超能力者)に!」
フライパンを片手に、僕はそう宣言した。そして、溜め息を一つ吐く。
――どうやら、今日の夕食は黒焦げのようだった。