「結局僕は、何もできないんだ…」
誰もいない世界で、僕はポツリと呟く。
眼前には黄色い海と、赤い空。海には生き物がいる気配はないし、空は星ひとつ見えやしない。
視線を隣に移すと、そこには目を閉じたまま動かない女の子が一人。その姿は、今すぐにでも起き上がってきそうに思えるけど、触れた彼女の頬の冷たさから、もう二度と彼女が話しかけてくれることはないことを理解する。
僕はその場で仰向けに寝転がり、目を閉じる。
…死のう。
このまま目を閉じ、意識を手放せば、彼女達の元へいける気がした。
そうしたら、みんなに謝ろう。許してくれるとは思えないけど、とにかく謝ろう。
そんなことを考えつつ、僕の意識は少しづつ薄れていった。
『…あなたは、それでいいの?』
朦朧とした意識の中で、その声だけはよく響いた。
僕は勢い良く起き上がり、周りを見回す。
「あや、なみ…?」
黄色の海に立つ綾波が見えた。綾波の姿はうっすらと透けて見えたけど、今の僕にはそんなことは些細なことだった。
『碇君は、それでいいの?』
綾波が、もう一度僕に問う。
「良くはない、と思う。けど、この世界で、僕一人でどうしろっていうんだ」
「それは…私には分からない。けれど、今の碇君は、すごく辛そうに見えたから」
辛い? 僕なんてたいしたことない。きっとみんな僕より辛かったはずなんだ。
『…どうしたら、あなたはあの時みたいに笑ってくれるの?』
『笑う? 僕が?』
綾波がゆっくりと頷く。
「…できないよ。みんなをこんなにしちゃって…」
『碇君のせいではわ。これはみんなが――』
「そんなことない!」
『碇君…』
悲しそうな目で僕を見つめていた綾波が突然目を丸くしたかと思うと、僕から視線をそらし空を見上げた。
『そう…そうね。あなたがそう言うのなら』
「綾波…?」
僕の呼びかけに答えたのか、綾波が僕と視線を合わせると、微笑んだ。
『あなたがこの世界で笑えないのなら。あなたが笑えるような世界にすればいい。今の私達ではどうすることもできないけど…碇君、あなたならそれができる。だから――』
『がんばって』
その言葉と同時に、僕の意識は薄れていった。
私が君にできること
第壱話 はじまり
《2004年》
カタカタカタと、パソコンのキーボードのタイプ音がやけに耳に響く。まあ、僕の手がその音を発しているのだから文句は言えないんだけど。
ふと腕時計を見る。予定では、今から2時間後に、研究室で実験が行われる。おそらくは、その実験中に事故が起こるはずだ。
「…よし。これで完了っと」
数時間かけて打ち続けたキーボード。最後にエンターキーを少し力を込めて押す。
これで大丈夫…とは思うけど、一応万が一に備えて、実験場には潜入しておこう。
3歳になったという母さんの子も見ておきたいし。
《2005年》
去年も同じことをしていた気がする。
僕は人一人入れるくらいの空間で、体をコの字に折り曲げて、膝の上に置いたノートパソコンのキーを叩いていた。最後にエンターキーを押して時計を見ると、予定時間よりも30分程早く作業を終えていた。
「さて、どうしようか」
そう呟いてから、とりあえずこの窮屈な場所から出ようと、ノートパソコンをバッグにしまいながら外の様子をうかがう。外に人の気配を感じないことを確認し、そっとドアを開いた。
今回も、念のため実験場には潜入しておこう。そういえば、聞いた話によると、今回の起動実験の主任である女性は、先日離婚が成立して、近々日本の研究施設へ転勤するらしい。親権は勝ちとったとのことなので、おそらく娘と一緒に日本へ渡るのだろう。
《2007年》
「ふぅ…」
僕はインダクションレバーから手を離し、シートに背中を預け、エントリープラグ内から見える外の光景をぼーっと眺める。
眼下に広がるのは、真っ赤な炎に包まれた戦略自衛隊の研究施設。とある兵器を開発していたようだけど、研究施設を破壊するついでに、サーバー上のデータも全て消去しておいたので、研究はまた一からやりなおしになるだろう。
「さて、あとはこの子達を叔父さんの元へ届ければ任務完了かな」
シートの後ろですやすやと眠る3人の子供たちを見て、僕は久しぶりに笑顔になれた。
《2008年》
「ねえねえ」
「ん?」
本から顔を上げると、小さな女の子が、椅子に座った僕の膝に手を置いて見上げていた。
「『おにいさん』って、おなまえはなんていうの?」
「名前?」
「うんっ」
女の子は元気よく頷く。
僕はしばらく考えてから、女の子に返事する。
「…『お兄さん』、でいいんじゃないかな」
「えー。どうしておしえてくれないの?」
女の子は不満そうに頬を膨らませる。
「いろいろとね。大人の事情だよ」
「おとなのじじょう?」
「そう。だから、マナが大きくなったら教えてあげるよ」
「ぜったい?」
「うん。絶対」
「むー…。わかった」
俯き加減に頷くマナの頭を僕は優しく撫でる。最初のうちは頬を膨らませていたマナだったけど、しばらくすると気持ち良さそうに目を閉じた。
名前か…。
頭の中で『碇シンジ』という名前が思い浮かぶ。けれどそれは僕の名前じゃない。昔の僕の名前だ。
《2012年》
「油断した…」
僕は落ち込んでいた。ここ数年で間違いなく一番と言えるぐらい、僕は酷く落ち込んでいた。
その日、僕は久しぶりに初号機の起動試験を行うために、初号機を隠してある近くの洞窟にきていた。洞窟と言っても元々は小さな穴のようなものだったもので、ここへ来た時に初号機で穴を広げて、隠しておけるよう作った人工的な洞窟だ。
『シンクロスタート』
「……っ。ノイズ? どこから?」
エントリープラグに入り、起動試験を開始した直後、違和感を感じた。原因は何かと探り、ふと振り返ると…
「…マナ?」
「…あっ」
何故かそこにいたマナと目が合った。どうやら家からここまでこっそりつけてきたようで、いくら最近平和ぼけして油断していたからといって、小学生の尾行に気づかず、あまつさえエントリープラグにまで侵入されるとは…。
「やってしまった…」
「あの、えと…『お兄さん』が裏山に入って行くところを偶然見ちゃって…。つ、つけてきちゃってごめんなさい!」
その後、僕に見つかったことでマナが動揺し、僕自身も心に隙が生じた結果、起動試験は失敗。あやうく僕達は初号機に取り込まれてしまうところだった。
なんとかマナを助けて無事に外に出ることが出来た僕達だったけど…
「男の子になっちゃった…」
取り込まれた際に一時的に同化してしまったせいか、マナは男の子に、僕は女になってしまっていた。
僕はいいとしても、マナを巻き込んでしまったことに僕は酷く落ち込んだ。きっとマナも自分の変わりようにショックを受けているに違いない。
「どうしよう…」
予想通り、マナは自分の姿を見て落ち込んでいた。
「どうしよう『お兄さん』。わたし男の子…あれ? もしかして『お兄さん』は女の子になっちゃった?」
僕の姿を見て、マナが首を傾げる。
「うん。…それより、ごめんね」
「ううん。『お兄さん』が女の子ならいい」
さっきまでの落ち込みようはどこへやら。マナはほっとしたように胸をなでおろしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
数日後。
『マナ』のままでは不便だろうと思い、僕はマナの名前を変えることにした。
何が良いかマナに聞くと、『お兄さんが考えてくれたものなら何でもいい』と言うので、僕はしばらく考えた後に、戸籍データにアクセスし、『霧島マナ』の名前を『霧島シンジ』に変更した。僕がこの名前を名乗るわけにはいかないけど、せっかく母さんと父さんがつけてくれた名前だ。誰かに使ってほしい。
「『シンジ』だね。うん。わかった」
子供の順応は早い。数日しか経ってないというのに、マナ…シンジは、もう男の子らしく振舞っていた。
「ありがとう『お兄さん』」
新しい名前を伝えられたシンジは、お礼と共に頭を下げてから『あれ?』と呟いて首を傾げる。
「もう『お兄さん』って呼ぶのも変だよね?」
シンジの言う通り、たしかに変だ。けど、僕は名前を持ち合わせていないのでこう答えた。
「『お姉さん』でいいんじゃないかな」
「うーん…」
シンジがさらに首を捻る。
「それじゃあ、僕の『マナ』って名前をあげるよ」
「えっ?」
思いがけない申し出に、僕は断ることも忘れてシンジを見つめる。
「『マナ』っていう名前がなくなっちゃうのも、なんか寂しいし、『お姉さん』にあげるよ」
目を輝かせて見上げるシンジを見ながら、僕はシンジと名付けた時のことを思い出す。
「…そうだよね。『マナ』って名前がなくなっちゃうのは寂しいよね。わかった。これからは『マナ』って名乗らせてもらうよ」
「うんっ」
シンジは嬉しそうに笑いながら頷いた。
《2015年》
「シンジ、そこどいて」
「どきません」
私の車の前でボストンバックを持って立つシンジは、僕の言葉に首を横に振って答える。
「どうしても?」
「どうしても、です!」
そこから動こうとしないシンジの隣には、ダンボールがいくつか積み重ねてある。あの量であれば私の車にギリギリ積み込める。きっと計算づくなのだろう。
「ついてきていいと言ってくれるまで、ここを動きません!」
中学生になったシンジは、背丈のほとんど変わらない私に対して敬語を使うようになっていた。私自身も、3年もの間女の子として生活してきたため、すっかりそれらしくなってしまっていた。
「えっと…私がどうして第三新東京市へ行くか、知らないよね?」
「マナさんが教えてくれませんから!」
不満そうにシンジが頬を膨らませてそっぽを向く。男の子になっても、幼い頃のクセはそのままなんだなぁと、私は少し笑ってしまう。
「ただ、旅行じゃないことくらいは分かります」
まあ引っ越し業者をよんで荷物を運び出したのだから、それくらいは予想付くだろう。
「じゃあ、例えば、だよ? 例えばシンジが私についてくるとして、シンジはムサシやケイタ、叔父さんをおいて、私についてくるっていうの?」
「はい。みんなには昨日のうちに話してあります」
「もちろん反対されたよね?」
「いえ、『お前の人生だから好きに生きろ』と」
…里親間違えたかなぁ……。
「とにかく、僕は絶対ついていきます。おいていかれても、走って追いかけます!」
「走ってって…ここから第三新東京市までどれだけ距離があると思ってるの…」
呆れてものが言えない。けど、今のシンジなら本当にやりかねない。
僕はため息をついたあと、車を指さした。
「…乗って」
「え?」
「はあ…走って追いかけられても困るから、そのダンボール積み込んで、助手席に乗って」
「あ、ありがとうございます!」
シンジはボストンバックを助手席に投げ込むと、急いでダンボールを車に積み込み始めた。
僕は三度目のため息をつきながら、運転席に乗り込み、エンジンをかけた。。
「それにしても…マナさんは昔から見た目変わらないけど、どうしてですか?」
「さあ、どうしてだろうね」
車を運転しながら、バックミラーを覗く。後部座席にダンボールが積み込まれているせいで後ろが全く見えない。
「またそうやってはぐらかす…」
「もし、私が歳を取らない宇宙人だとしたら、シンジはどうする?」
「困ります! 僕だけおじいさんになって、マナさんだけ若いままだなんて!」
「へ?」
予想とは違う答えに、私は思わずシンジの顔を見つめてしまう。
「マナさん、前! 前!」
「えっ? ――っ!?」
すんでのところでハンドルをきって、前から来たトラックとの衝突を免れる。
「ふぅ…って、シンジ。普通は『宇宙人』とか『歳を取らない』ってとこに疑問をもつべきじゃ…」
「まあ、マナさんならなんでもアリかな、と」
「本当に私が宇宙人で、歳を取らない人でも?」
「はい、マナさんはマナさんですから」
「ああ、そう…」
私は呆れて、大きくため息を吐いた。今日はため息の多い日だ。
「で、それならどうして私が歳を取らないと、シンジが困るの?」
「そ、それは…」
何故かシンジは口ごもってしまった。まあ中学生なのだから、いろいろと言いたくないことがあるのだろう。…って、私も一応見た目は中学生なんだよね。生きて来た年月はミサトさんに近いけど。
「と、とにかく。困るものは困るんです!」
「はあ…よくわからないけど、そういうことにしといてあげる」
そう言った私に、シンジは『にぶい…』とかなんとかブツブツと呟く。
「でも…ありがと」
「え?」
「こんな得体の知れない私に、今も、小さい頃と変わらず慕ってくれて、ありがとう」
初号機を見られたあとも、シンジは変わらず私に接してくれていた。
「い、いえ、そんなお礼だなんて…元々僕は、マナさんと会ってからずっと、一生マナさんについていくと、心に決めていますから」
「い、一生って…はっきり言っておくけど、さっきも言ったように、私は得体の知れない人なんだから、これから先、私と一緒にいると危険な目に会うことになるけど、それでもシンジは私に一生ついてくるっていうの?」
「はい」
「死ぬかもしれないのに?」
「そのときは僕がマナさんを守ります!」
「私を? シンジが?」
「はい!」
私は目を丸くしてシンジを見つめる。シンジは本気のようだ。
けど、それをするのは私の役目であって、まさかシンジにそんなことを言われるなんて。
「…ぷっ。あはははは――!」
「な、なんでそこで笑うんですか!」
私はおかしくなって笑いだしてしまった。
「ご、ごめんごめん。ふふっ…」
「僕は本気ですよ!」
「はいはい。わかってるわかってる」
「本当に分かって…って、頭撫でて完全に子供扱いじゃないですか!」
「あははっ。ちゃんと期待してるよ」
私は笑いをこらえながら、シンジの頭を撫で続けた。