中国に行ってまいりました。
北京 → 青島 → 上海 → 北京と
6日間でめまぐるしく移動しました。
お仕事で、ございます。
いわずもがなことでございますが
「オ〇ンコのお仕事」ではございません。
別のお仕事といっても
「生きる」ことの根本にかかわる、
という意味では同業種の仕事と言えるものでございますが・・・。
日本に帰って来て相変わらず海老さまの報道が
多くなされていることに驚きました。
日本のメディアの羅針盤は壊れかけているようでございます。
既存の宗教、哲学、常識にとらわれずに自分の尺度の目ガネで見る、
ことの大切さをいまさらながらに痛感しています。
沙名鳳は大正5年、中国、南京から
南に下ったところにある港町、鎮江に生まれました。
父親は主に酒やタバコ、タマゴを扱う商店を経営していました。
父親は地元では名士でした。
自分では酒やタバコをたしなむことのない
謹言実直な「紳士」でしたが貧しい人を見ると
タマゴやタバコを分け与えてあげる
「情に厚い男」として知られていました。
名鳳は裕福な家庭で何に不自由なく育ちました。
沙家の先祖をたどれば、遠くシルクロードの昔、
中国の地にわってきたイスラムの系譜にたどりつきます。
名鳳の容姿にはそのイスラムの血が伝承されていて、
目鼻立ちがハッキリとしたヨーロッパ系の顔立をしています。
鎮江では評判の美人でした。
彼女に恋をして「恋文」をとどけてくる男たちや、
人を介して求婚してくる男たちがいましたが
名鳳はいずれも無視しました。
名鳳は異性より学問に関心があったのです。
何よりも本を読むことが大好きでした。
南京の女子師範学校を首席で卒業すると
地元鎮江に帰り中学校の先生になりました。
子供たちに「知識」を教える「教師」という仕事に
生きがいを感じたのです。
親戚などから年頃なのだからそろそろお嫁に行きなさい、
と縁談を持ち込まれましたが一切興味を示すことはありませんでした。
子供に知識を「教える」という仕事になによりも魅力を感じていたからです。
子供たちは白いキャンバスでした。
無垢なその白いキャンバスが自分が教えた知識で色あざやかに変化し、
月日が経つごとに見事な「一枚の絵」となって結実していく姿に
ワクワクしました。
木に花を咲かせる、そんな「教育」という仕事に
情熱を燃やして没頭していました。
これが私の天職だ、生涯このまま独身でいい、とさえ思っていたのです。
そんな名鳳でしたが28歳のとき、生まれて初めて「恋」をします。
相手は日本人でした。中国語を学びたい、と教えてくれる中国語の先生を
捜している日本人の青年がいるから教えてやってくれないか、
と校長先生から頼まれました。
日本人は嫌いでした。が中国人をベッ視していながら
中国語を習いたいとはどんな日本人だろう、
と興味がわきました。校長先生に
「真面目な男だから、一度会うだけでも会ってやってくれないかい」
と頼まれて「会うだけなら」と一度会ってみることにしました。
青年は名鳳より一つ年上の29歳で華中水電発電株式会社の
電気技師とのことです。初対面のとき青年は直立不動の姿勢で
「よろしくお願いします」
と頭を90度に折り挨拶をしました。
「礼儀正しい人」と好感を持ちました。
青年の瞳は知的に澄んでいました。
いままでの男性に見たことのない清洌さが体全体に宿っていました。
きっと純粋な人なんだろう、と名鳳の心がざわめきました。
初対面で名鳳は「恋」におち入りました。「初恋」でした。
名鳳は青年に中国語を教えることにしました。
名鳳が勤めている中学校の放課後に
週に二度通って来てもらうことにしました。
青年の名前は黒田正といいました。
中国大陸で日本陸軍を除隊になり、
普通ならそのまま日本に帰るところだったのですが
黒田青年は中国に残りました。中国の歴史や文化に興味があったからです。
このまま中国にいて中国の歴史や文化を学びたい、と考えたのでした。
そのころの中国で一番の電力会社であった華中水電に
電気技師として勤務しながら本格的に中国語を学ぶことにしました。
名鳳は黒田青年に中国語を教えているうちに
ひたむきに中国語を学ぶその一途な姿に増々ひかれていきました。
黒田青年の方も名鳳の朗かで素直で品のある人柄と、
その西洋人形のような可憐な美しさに恋心を抱きました。
初めて出会ったのが春でした。夏がすぎて秋が終る頃、
柿が熟してポトリと落ちるかのように、
自然な成り行きで二人は結ばれました。
その頃日中戦争の戦局の行方は混沌としていました。
そんな中で二人の結婚式は名鳳の近親者のみが集まり行なわれました。
形ばかりのささやかなものでした。
太平洋戦争が終わり日本が負けました。
9月、ほどなくして二人の間に子供が生まれました。
この子が大きくなった頃、世界は正しい歴史を歩んでいて欲しい、
との願いを込めて父親の正は自分の名前の正と歴史の史をとって
生まれた男の子に「正史」と名ずけました。
中国大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の戦いが
激しさを増していました。国中が荒れ民衆は長く続いた戦禍のなかで
疲れ果てていました。食糧が底をつき飢餓が拡がっていました。
中国にいた日本人は我れ先にと競うように
引き揚げ船に乗って日本に帰って行きました。
このまま中国にいては一家も飢え死にしかねない、
と名鳳の夫の正は妻と息子を連れて日本に帰ることにしました。
「日本は古来より(神の国)と言われた国だ。
国が敗れようともたちまちのうちに必ず甦えることを約束されている国だ。
日本に一緒に帰って幸福な暮らしをしよう」
と名鳳に言いました。
名鳳は迷いました。父と母と離れ離れになって
自分だけ日本に行くことは考えられませんでした。
迷っている名鳳を見て母親が言いました。
「いいかい名鳳、お前は母親だよ、この可愛いい産まれたばかりの息子を
このまま父親と二人で日本に帰して母親のない子供にするつもりかい。
夫婦は二世、という言葉がある。結ばれた以上、
あの世まで添えとげてこそ夫婦というものだ。
お前はこの中国にいて座して死を待つことなく、
夫とともに日本に行って日本の士になる道を選びなさい」
父と母との涙、涙の別れでした。
その別れが父と母とのこの世での本当に最後の別れとなりました。
引き揚げ船の中で名鳳は夫の正にこう迫りました。
「これから私に、二つのことを約束して欲しい。
どんなことがあっても私を一人にしないこと。
私より絶対に先に死なないということ。
この二つを守ることをあなたが誓わなければ、
今この船の上から海に飛び込んで死ぬ」
と・・・。
正は
「分かった、約束する」
と名鳳を抱き締めました。
二人の間で一人息子の正史がかすかな寝息をたてていました。
幼な児は栄養失調で骨と皮だけとなっていました。
幼な児は正の着ていた外套のポケットにも入るのではと思えるほどに
小さく縮んでいました。
この子が死んだら、この玄界灘に投げ捨てて海に戻してやろう、
そう父は覚悟を決めていました。
一週間ほどで引き揚げ船は北九州の港に着きました。
久しぶりに見る北九州の町は周り一面が焼け野原となっていました。
正は今更ながらに「日本が負けた」という現実を
思い知りショックをうけました。
家族三人は正の故郷である大牟田に帰りました。
正が実家に帰ると父と母は喜々として迎えました。
正の母は孫の正史に、と取りたての大きなトマトをくれました。
ムシャムシャと幼な児はトマトにかぶりつきました。
口の周りがトマトの汁で赤く染まり、
幼な児の頬がみるみるうちに生気をとりもどして
血が通っていくのがわかりました。
ああ、この子はこれで助かる、生きて日本に帰ることができてよかった、
と正は心の奥でようやく安堵しました。
多くの親戚が集まってきました。
正の生家は由緒ある黒田家の系譜につながる名家です。
集って来た人々は正の無事を祝いながら
中国から連れてきた中国人の嫁に違和感を隠しませんでした。
大牟田には古い日本のしきたりと考えがまだ残っていました。
正は歴史ある黒田家の次男です。その由緒ある黒田家の次男坊が、
よりにもよってチャンコロの娘を嫁にもらい
中国から連れてくるなんて・・・と嫌悪感をあからさまにしました。
人々の遠慮のない怨嗟の声が正の耳に聞こえてきました。
「なにを言ってやがる!!」
と正は腹を立てて名鳳と息子の正史を連れて山に入りました。
黒田家の所有する山奥の山林の人里離れた地に自分でアバラ家を建て、
そこを家族の棲み家としました。
名鳳と息子を心ない人々の「悪意」から守るためです。
わずらわしい人間関係から解き放たれて、
この山奥なら息子もノビノビと育ち、
名鳳も気がねなく子育てができるだろう、と考えたのです。
正の父と母は黙って息子と嫁と孫を送り出しました。
口さがない古風な人たちが住む田舎ではそれが一番賢い選択だ、
と考えたのです。電気も水道もない明治時代に戻ったような
ランプ暮しがはじまりました。
正は三池炭鉱の電気技師の職に就きました。
正は毎日30分の距離を歩いてバス停まで行き、
一時間ほどバスに揺られて三池炭鉱通いを始めました。
貧しくても平穏で幸福な山小屋の暮しが始まりました。
山での暮しが2年を迎える頃、名鳳は二番目の子供を産みました。
今度は女の娘でした。娘に由紀子と名ずけました。
その頃から夫の正の酒量が増えていきました。
会社の帰り道、街の酒場で飲んだくれて家に帰ってこない日も
しばしばありました。正は妻子が山奥暮しを強いられている境遇に
やり切れなさを覚えていたのです。
そして戦後の混乱期の誰もが明日をも知れず、
生きることが精一杯の厳しい現実から逃がれるかのように、
正は酒に溺れていったのでした。
正は元来はお坊ちゃん育ちです。
人をかきわけても生きぬいてやる、という
ず太さに欠けていました。神経が繊細すぎたのです。
そしてある日、正はカッ血しました。
過度の飲酒のせいで胃と肝臓が完全にやられていたのでした。
正は床に就きました。その日以後、養生生活は10年の長きに渡ります。
一家の大黒柱である働き手を失なって四人家族は
いっぺんに困窮の淵に立たされました。
口に入れるものが何も無い日が一週間ほど続きました。
家族全員が栄養失調に患かりそれぞれの顔に死相が見えはじめました。
このままでは死んでしまう、名鳳は棲み家の周囲に豊富に生えていた
シダを切り集めました。集めたシダを編んで「くだもの」カゴを作りました。
名鳳は手先が器用でした。故郷の鎮江にある果物屋の軒先に飾ってあった
「くだもの」カゴの形を思い出し一生懸命に編み上げたのです。
翌朝一番に不眠不休で作り上げた10個のカゴを背中に背おって
徒歩で大牟田の町に出かけました。町まで片道3時間の距離です。
町に着くと商店や裕福な門がまえの家を一軒一軒
「カゴを買って下さい」
と訪ね歩きました。
名鳳はまだ日本語はたどたどしく、ままなりませんでした。
しかし名鳳の肩に家族4人の命がかかっています。
必死になって知っている日本語を全部口から並べたてて、
カゴを買ってくれるように、と頼み込んで歩きました。
日が暮れるころ、最後の一つも売れました。
米と魚と油を買い求めて棲みなれた山の小屋に帰りました。
やせ細った体の夫と三歳の息子、生まれたばかりの赤ん坊が
ランプの下で肩寄せ合って名鳳の帰りを待っていました。
薄暗いランプの下で名鳳が買い求めてきた魚の料理のオカズを真ん中に
家族全員が揃いました。湯気の出た白い米のゴハンもあります。
深夜の時間、家族が揃ってとる一週間ぶりの食事でした。
夫用にと名鳳が特別に作ったオカユを口に運びながら正は
「苦労かけるな」
と一筋の涙を流しました。
息子の正史はドンブリに山盛りに盛ったメシをアッという間に平げ
大きなゲップをしました。赤ん坊は名鳳の乳房を口にふくんで
「アゥ、アゥ」とはしゃいでいます。
久しぶりの食事のせいで急に乳の出がよくなったようです。
訪れた幸福な団らんのひとときでした。
名鳳は心の中で自分の命にかけてもこの家族の幸福を守り抜く、
と誓いました。
それから名鳳は朝から真夜中までシダを使ったカゴ作りに励みました。
20個、30個とまった数を作り上げると、あくる朝
それを大きな束にして肩に背負い、3時間の道のりを徒歩で街に通っては
「シダカゴ売り」をして家族4人の生活を支えました。
名鳳の小さな肩に乗った山盛りのカゴがアゼ道を動いていくさまは、
初めて見る人間には、どこかの宇宙からやってきた
地球外生物のように異様に見えました。
名鳳の商売のやり方は徹底していました。
背負ったシダカゴが全部売り切れるまで山の家に帰ることをしませんでした。
ときには帰りが深夜になることもありました。
どんなときも名鳳は自からに課した「掟」を破ることなく、
雨が降っても雪が降っても全部売り切るまで
決して家に戻ることをしませんでした。
名鳳のシダカゴ売りに頼った一家の貧しい暮しが三年、四年と続きました。
夫の正も見ようみまねでシダカゴを編むようになりました。
夫唱婦随のシダカゴ商売暮しでございます。
折々に正の実家の父や母が孫たちの様子を見に訪ねてきました。
帰りしな、いくばくのお金を孫たちの菓子代にと父と母は置いて行きました。
名鳳はそのお金には一切手につけることなく全部郵便貯金にしました。
子供たちの将来の大学の資金に貯めておくお金だから、
と、どんなことがあってもそのお金に手をつけることはありませんでした。
正史が小学校に入って物心ついたころ、
これまで母親がお腹いっぱいにモノを喰べたことのないことに気ずきました。
一度でいいから母ちゃんに腹いっぱい喰べて欲しい、
子供心に正史はそう考えました。
ある晩、夕食に出されたタマゴ料理を半分残しました。
三歳年下の妹も兄を真似て残しました。
「今日はお腹いっぱいだ、もう喰べられない」
と正史、妹の由紀子も
「私もいっぱい」
と兄を真似てハシを置きました。
名鳳は勘の鋭い母親です。
正史と妹の由紀子の眼を真すぐに見つめて静かに口を開きました。
「いいかい、確に今、家は貧乏だけど、お母さんはね、
子供の頃家がお金持ちで中国ではお前たちが信じられないような
おいしい喰べものを沢山、沢山喰べてきたんだ。
中国にはね、日本にはないような珍しい、
ホッペが落ちるようなおいしい喰べものがいくらでもあるんだよ。
正直言って日本の料理なんか、喰べる気がしないんだよ、
だから余り喰べないんだ、分かったね。
喰べたくって我慢して喰べないんじゃない。
喰べたくないから喰べないだけなんだ、
さあお前たちは遠慮しないで腹イッパイお喰べ」
母は子供たちがお腹いっぱいに喰べるのを、
うれしそうに目を細めて見つめていました。
小学校2年の夏、正史は家の近くの沼で水遊びをしていて溺れ
沼の底に沈みました。一緒に遊んでいた妹の由紀子が
「母ちゃん」
と助けを呼びに家に走って来ました。
ハダシで家を飛び出した名鳳は愛する息子が
沼の底に沈んでいる姿を見届けました。
しかし名鳳は泳げません。このまま飛び込んでも母子ともども
沼の餌食になることは目に見えていました。
「助けて!!」
名鳳は声を限りに叫びました。
人里離れた山奥のことです。返ってくる声などありませんでした。
それでも名鳳はあらん限りの声をふり絞って
「助けて!!」
と叫び続けました。
ふと向こう岸からこちらに走ってくる男の姿がありました。
夫の正でした。その日、正は用事があって実家に帰っていました。
夜遅く帰ってくる筈でした。その夫が突然姿を現わして
こちらに向かって全力疾走してきています。
夫は沼底の息子の姿を見届けると洋服を着たまま沼に飛び込み、
息子を救い上げました。
正史を逆にして背中を思い切り叩くと、
口から水を勢いよく吐いて息を吹き返しました。
療養生活が長びいて骨と皮だけの体の夫の
どこにそんな力が秘められてあったのか、と名鳳は驚きました。
久しく忘れていた夫への熱い思いが蘇り、名鳳は胸が熱くなりました。
後年中学生になったとき、
正史は母親にそのときのことを思い出して尋ねたことがあります。
「母ちゃん、母親だったら自分の命のことなど後先も考えず
息子を助けようとして沼に飛び込んだらよかったじゃないか」
母親の名鳳は答えました。
「バカを言うんじゃない、
母ちゃんが死んじゃったら元も子もなくなるじゃないか。
子供はまた生きてさえいればいくらでも作れるものだ」
冗談でもあったでしょうが、
母親の名鳳は見かけによらず豪胆でした。
名鳳はこうも続けました。
「正史、お前は本当に運のいい子だよ、日本に帰る引き揚げ船の中で
お前は虫の息だった、いつ死んでもいいぐらいにお前は小さくなって
弱っていた、大牟田に着いておばあちゃんが下さったあのトマト一つで
お前は生きかえったんだ。小学校の入学式が終わった日、
お前は登っていた柿の木から落ちて二日間意識が戻らなかった。
先生はたとえ意識が戻っても、脳がやられていて一生痴呆となる、
とサジを投げられた。それなのに三日間目に目を覚ましたお前は
私の顔を見て(母ちゃん)と叫んだんだ、私もビックリしたけれど
先生も本当にビックリなさっていた。医学の常識では
考えられないことだって・・・。そして沼の底に沈んだときもそうだった、
どうしてあの時あの時間ピッタリにお前のお父さんが帰ってくるなんて
いまでも信じられないほどだ。お前は運が悪い子じゃない。
助かるはずのない命を三度助けられた。きっと神様はお前に
この世に生きて何か(使命)をさずけて下さっているに違いない。
だからこれから先の人生では、自分には絶対に運がついていることを信じて、
何があっても絶対にあきらめちゃいけないよ」
転んでもただでは起きるな、
考え方次第で逆境をいくらでもプラスにすることができるのだ、
という自からの人生哲学を正史に熱く語って聞かせる名鳳でした。
名鳳は敬虔なイスラム教徒でした。
毎日5回、欠かさずメッカの方に向かって祈りを捧げていました。
正史が中学に入ったころのことです。
正史も少し大人になってイタズラ心がついていました。
母親はイスラム教徒であったために豚肉を一切口にしませんでした。
正史は母親の誕生日に小遣いを貯めたお金で村の肉屋で豚肉を買いました。
母親に分からぬように、その豚肉をミソで味つけをし
ネギとホウレンソウを入れタップリ油でイタめた料理を
「僕の誕生日プレゼント」と母親に喰べさせました。
名鳳は息子の作った料理を喰べるのは初めてでした。
「おいしい、おいしい」とまたたくまにペロリと喰べつくしました。
喰べ終わって15分ほどすぎた頃、正史は母親に聞きました。
「母ちゃん、いま喰べた料理、何の料理だか分かる?」
「なんの料理だい」
と名鳳。正史には悪る気は全くありませんでした。
ほんの軽い冗談のつもりでした。
「豚肉料理だよ」
と言った途端でした。母親の名鳳の口から、
いましがた喰べた豚肉料理が「オゥェーッ」という胴間声とともに、
天に向かって垂直に吹き上がりました。
ノドに指を差し入れて吐いたのではなく、
体全体が急におこりにかかったように激しく反応して
胃袋のものを全部吐き出したのです。
宗教が体に染み込んでいる、とたった一つの言葉で
体がケイレンを起こすことを正史はまざまざと知りました。
名鳳はコレと思ったら一瀉千里、誰の言うことも聞かずに
自分の信じた道を我れ関せずに行く性分がありました。
五年六年と町にシダカゴを売りに行くうちに少し余裕が出てきて
近くのバス停からバスに乗って町に商売に行くようになっていました。
バス停は山小屋から右へ歩いて30分の場所にありました。
山の小屋から左へ歩いて30分の距離にもバス停がありました。
右に行っても30分、左に行っても30分と
変わらない距離でしたが、名鳳は考えました。
右にも左にも行かず、真っすぐ歩いて行って
つきあたった道の所にバス停ができたら
15分でバス停に着くことができる、と。
真ん中の道にバス停ができることは名鳳ばかりでなく、
近くの村に住む人達にとっても好都合でした。
名鳳は早速、近くの村人の家を一軒一軒訪ねてまわり
「真ん中の道の新しい場所にバス停」を作るための署名活動を行ないました。
村人70名近くの署名を集めて西鉄バスの大牟田営業所長の所へ
嘆願書を届けに行きました。営業所長の答えは
「考えておきます」
と、予想通りのありきたりなものでした。
名鳳はその足で、あらかじめ調べておいて
福岡の西鉄バズ本社の社長の家を訪ねました。
「バス停のことで大問題が発生しています。直接お知らせにまいりました」
と応待に出てきたお手伝いの女性に伝えました。
「何ごとか知らん」と驚いて出てきた社長に、
バス停の新設を訴えました。社長は
「ご要望の主旨は分かりました。ただし、関係各庁に申請した上で
バス停の許可がおりるしくみになっていので、
いつになるかは近日中にご連絡します」
との返事です。そんなことだろう、と予想はしていました。
「近日中では駄目です。私達には生活がかかっているんです。
明日から社長さんの権限でその場所にバスを停める、
と約束して下さい、約束してくれるまでここから一歩も動きません」
と玄関先に腰をおろしました。
社長は名鳳の気迫に気押されて
「分かりました。明日から停めます」
と約束をしました。
まだ人間臭さが許されていた、のどかな時代の話でございます。
名鳳は村に帰ると村人に明日朝一番で村の道の真ん中にある場所に
バス停が出来てバスが停まるから、
皆んなで集まって確認するようにと言って廻りました。
翌朝、50人近い村人が道に集まりました。
まだバス停の標識もないこの場所に本当にバスが停まるだろうか、
と村人は皆半信半疑でした。遠くに走ってくるバスが見えました。
そしてバスは村人たちの前にくると停まったのです。
集った村人たちから歓声が上がりました。
「バンザイ、バンザイ」とバンザイを五唱も六唱もする輪の中心に
名鳳の満面の笑顔がありました。
小学校5年生だった息子の正史に名鳳は
このときのことをこう話して聞かせました。
「シダカゴ売りのたかが行商人にすぎない小さな存在の母ちゃんが
どうしてバス停を作ることができたと思う。
世の中のしくみ、を知っていたからだ。世の中は家と同じで
屋根だけでできているんじゃない。柱もあれば壁もあり畳も土台も必要だ。
なにかを成そうとして会社や組織を相手にするときは、
下の人ばかりと話をしていてもラチがあかない。
下の人に話をつけることは重要だが、
上の人にもきちんと話をつける器量がなければものごとは動かないものだ。」
名鳳は書物から学んだ知識と、
シダカゴ行商でつちかった鋭い人間観察による動物的直感によって、
ものごとの真髄を射る力を身につけていました。
息子の正史が中学に進んで、
その制服をデパートに買いに行ったときの話です。
名鳳は制服売り場の店員に中学の制服の値段をまけるように、
とねばりました。
「デパートでは正礼からお値段をお引きすることはできかねます」
と店員は困り果てて拒絶するのですが名鳳は「少しでもいいから」と
容易に引きさがりませんでした。
売り場の主任まで引っ張り出してようやく
1割引きをすることで交渉がまとまりました。
明きらかに迷惑そうな店員や売り場主任を前に
正史は恥しい思いがして顔が赤くなりました。
正史はデパートを出ると母親に言いました。
「母ちゃん、日本ではデパートで値切るなんて、恥しいことなんだよ」
名鳳は平然として言い返しました。
「デパートで値切っちゃいけないなんて誰が決めたんだい。
犬や猫が決めたんなら通じないから仕方がない、
でも人間が決めたことならいくらでも話ができるはずだ。
世の中には皆んなが正しい、とそのときは思っていても後から間違いだ、
ということはいくらでもあるんだよ。ガリレオが(それで地球は回っている)
と言ったときその時代の誰がガリレオの話を信じたんだい。
誰も信じなかったじゃないか。世の中には自分から見て間違っているように
思えることでも、他人から見れば正しいということがあるんだ。
それも三つも四つもあるんだ。それだから他人が正しい、と思う考えも
認め自分もまた正しいと信じる道を自信を持って行くべきなんだよ。
いいかい、こうと自分が信じたら、人間はその道を誰が何んと言おうと
押し通して生きるべきなんだよ」
正史が中学に入った頃、ようやく父親の正の病いが回復し、
三池炭鉱に復職を果たしました。
家族は山から降りて炭住暮らしを始めました。
名鳳は10年近く続けていたシダカゴの行商を止めました。
時代は豊かになってきていて街にはビニール製の
オシャレなカゴが溢れていました。潮時でした。
名鳳は今度は中国語の塾を始めました。
どこかに教室を開いて、ということではなく
会社や家庭に訪問し中国語を学ぶよう説得して、
その場所を教室に貸りたのです。名鳳はまず大牟田税関に乗り込みました。
税関長に面会を求めるとこう言いました。
「近い将来、必ず日本と中国との国交が回復する時代がきます。
そうすれば税関職員には必然的に中国語を読み、書き、話すことが
求められます。いまから中国語の勉強を始めて
きたるべき時代に備えましょう」
名鳳はその頃は美しい日本語を話すようになっていました。
私がそうなったように今度はあなたたちが中国語を話す時代がきっとくる、
と名鳳は熱く語りました。税関長は恐れを知らぬかのような名鳳の
ほとばしる情熱に一目置きました。
有志をつのって週に一回1時間、勤務時間終了後の5時以後、
税関の食堂で中国語講座を開くことを了承してくれました。
最初の第一回目の日、食堂に集ったのはたった二人の生徒でした。
税関長と腹心の次長でした。
半年後、中国講座に10人近くの生徒が増えていました。
大牟田税関の3分の2近くの職員が参加するようになっていたのです。
1972年、田中角栄によって日中の国交の回復がなされる
実に10年前の話でございます。
名鳳は大牟田市近郊に点在する一流電機メーカーの工場や
鹿児島の大学にまで足を運んで説得し中国講座を次々と開設して行きました。
のちにその鹿児島の大学では名鳳は正式に求められて
講師に就任することになります。
1972年、日中国交回復が成り、それから7年後の1979年、
33年ぶりに名鳳は晴れて故国に帰ることにしました。
そのとき名鳳には長男の正史をはじめとして
二男二女の四人の子供がいました。
夫の正が体調を回復してから新に男と女の二人の子供を授っていたのです。
正と名鳳は仲の良い夫婦でした。
正が酒を飲んで飲んだくれるとき以外は・・・。
正は昔ほど暴飲をすることはありませんでしたが
病が癒えたとはいえ相変わらず酒とは縁の切れない日々を送っていました。
中国の故郷に帰るにあたって名鳳は夫と長男の正史を
一緒に連れて行くことにしました。
中国は未だ情報が閉ざされていて未開の地でした。万が一のことがあっては、
と三人の子供たちは日本に残して行くことにしました。
名鳳は正史に中国に帰るにあたって
現金で300万円を用意するように、と言いました。
当時の300万円は小さなマンションの室を一つ買えるほどの大金でした。
そのとき正史は33歳、国立鹿児島大学を卒業し
商社のトーメンに勤務した後、独立し小さな商社を経営していました。
独立資金は学生時代にアルバイトで貯めた3000万円のお金をあてました。
学生時代に始めた進学塾がバカ当りをして
4年間で3000万円の金を貯えていたのです。
母親に言われるままに300万円を用意して、名鳳と正、正史の
三人の家族は空路中国に向けて飛び立ちました。
道中の飛行機の中名鳳は正史に
「これから中国に行くにあたってお前に一つだけ注意をしておく。
日本人は金持ちであっても、いいえ私は貧乏です、
といつも謙虚でそれが美徳とされるお国柄だ。中国は違う。
貧乏人のクセに、さも大金持ちのように振る舞い平気で嘘をつく、
それがまかり通り許されるお国柄だ。
いいかい、そのことを決して忘れることなく中国人と接しなさい」
飛行機が上海に着きそれから汽車で故郷の鎮江に向かいました。
鎮江の駅には多勢いの親戚縁者が集り出迎えていました。
人々はやせ肌の色は黒くくすんでいて、着ているものといえば
穴のあいたツギハギだらけの古着同然のボロ布でした。
同時に中国の民衆の暮らしぶりを物語るエピソードがあります。
農作物を喰い荒らす鳥を「害虫」として中国全土から
駆除するように毛沢東が指示を出しました。
「棒で追い払え、休ませることなく・・・
そうすればやがて鳥は疲れ果てて飛ぶのを止めて地に落ちる、
そしたらそれをつかまえて喰べろ」
と。中国全土の民衆が棒を片手に鳥を追って走り廻りました。
朝早くから陽が落ちるまで四六時中、雨後のタケノコのように
現われては追いまくる膨大な数の民衆を敵にまわして、さしもの鳥たちも
疲れ果て飛ぶ力を失なって地に落ちて民衆の餌食になりました。
いつか中国全土から、毛沢東のお教えの通り鳥の姿が消えました。
と同時に農作物の姿も全く消えていました。
人々が鳥を追い廻すのがいそがしくて、畑を耕す時間が無かったからです。
毛沢東は「貧しさをうれえず、ひとしからざるをうれえよ」
と導きました。確かに民衆の暮しは毛沢東の教えの通り、
皆な平等になりました。誰も豊かな人間はいませんでした。
大衆は皆均しく乞食のようであったからです。
31年前の「世界で最も貧しい国」とされている故国への名鳳の帰郷でした。
父母はすでに亡くなっていました。名鳳は五人兄弟の次女でした。
中国に残っていた兄や姉や妹に再会を果たし、
父と母の墓に連れて行ってくれるように、と頼みました。
兄弟たちは途方にくれた顔をしました。
父と母のお墓の場所が分からない、というのです。
当時中国では宗教や特定の人物を崇拝する考えは厳しく罰せられていました。
毛沢東の存在と教えが唯一絶対のものである、とされていました。
死んでも特定の場所に墓を作って祭ることは個人崇拝につながると、
墓を作ることは何人といえども禁止されていたのです。
父と母の遺骨は鎮江の港を遠くにのぞむ山のふもとにまかれていました。
この辺りに散いたはずだ、という場所に兄弟に連れられて
名鳳はようやくたどりつきました。
辺りは背丈ほどの雑草がボウボウと繁っていました。
名鳳は突然その場に泣きくずれると「お父さん、お母さん」と
叫びながら素手で土を掘りはじめました。
ジャリや小石でたちまちのうちに名鳳の指先が切れて
血がにじみました。夫の正は名鳳の後から妻を抱きました。
名鳳は夫に抱かれながら天をあおいで「パパ、ママ」と大きな声を出して、
滝のような涙を流し動哭しました。
息子の正史は母親の傍にひざまずきました。
正史の目からも涙があふれ出ました。
母親の名鳳がいとおしく思われてなりませんでした。
流れ落ちる涙が大地に吸い込まれている様を見ながら
「俺はまぎれもなく、この中国の大地に生まれた母親の血を引く息子なのだ」
と実感しました。
名鳳一行の歓迎会は鎮江随一のホテルの大広間で開催されました。
鎮江随一といってもその頃鎮江にはそのホテルしかありませんでした。
大広間には親戚中の縁者たち300人が集まりました。
持ってきていた300万円は兌換券に全部かえていました。
当時は外貨は全部貨幣ではなく
兌換券という券に変えられて流通していました。
宴会場の中央に陣取った名鳳たちの前に、
親戚の一人、一人が名のり出て挨拶に来ます。
その一人一人に名鳳が言う金額の兌換券を正史は手渡しました。
「正史、いいか、ケチケチとしみったれた顔で渡すんじゃない、
気前よく陽気に笑いながら渡すんだ」
名鳳は正史の耳元でさとしました。
一人あたり平均で一万円に相当するだ換券を渡しました。
1979年の中国での一万円といえば、
一般的労働者、農民のはるか年収の3年分を超える金額でした。
束になった一万円相当のだ換券をもらった親戚の人々は喜びを表すどころか、
「この世にこんなことが起きるものだろうか」
とキツネにつままれたようなア然とした表情をしていました。
300万円分の兌換券を集った300人の親戚に全部きれいサッパリ配り、
一枚も手元に残りませんでした。飲めや歌えの大宴会が一昼夜、続きました。
三百人の大人が浴びるほど酒を飲みヘドを吐くほど
豪華な料理を満腹に喰べて、勘定は全部で十万円でした。
名鳳のたたずまいは温容でした。
決して偉ぶることなく、矛和に微笑を浮かべながら、
集まった誰よりも一番腰を低くして頭を下げ宴会の席を挨拶して廻りました。
カンパイ、カンパイと中国式の一気飲みに誘われて正史が盃をあけていると、
いつか傍に名鳳がいました。父親の正は名鳳の兄弟たちに囲まれ
カンパイ攻勢にあって酔いつぶれていました。
かねてから正史は酒だけは絶対に度を越して飲むことのないように、
と名鳳に厳しく言い渡されていました。
「酒を飲むといつか必ずお前は父親のように
体を壊して人生を棒にふることになる」
と名鳳は正史の飲酒をことあるごとに戒めました。
「母ちゃん、酒は男同士のつきあいには欠かせない潤滑油なんだ、
酒を飲むと普段は言えないことでも言い合えて本根が出てお互いに
よく理解し合うことができるようになるんだ」
と酒の効用を説く正史に対して名鳳は
「そんなバカな話があるか、そもそも酒を飲まなければ
言えないような話はロクな話じゃない、またそんな人間は駄目だ」
とニベもないのでした。
「お前はお父さんと一緒でお酒に飲まれる口だから
お酒を絶対に止めなさい。
日本人は酔うとなんでも許されると思って無礼講を働く、
中国人を見なさい、彼等は酒に酔いつぶれる姿を人前で見せることをしない。
他人にそんなスキを見せるのは恥だからだ。
酒が悪いんじゃない、お前の酒の飲み方が悪いんだ。
お酒でお前は平気で恥知らずの人間になってしまう。
後生だからお父さんのように酒で人生を台無しにして、
女房、子供を泣かせるような情ない人間にならならないで欲しい」
と叱りつけるのでした。
正史の傍に来た名鳳は空のコップにテーブルの上に出ていた
紹興酒やウイスキーを交ぜなみなみと注ぎました。
正史が周囲の人達とカンパイをしてコップの酒を空にすると、
名鳳も同時にそのウイスキーと紹興酒でタップリと満たしたコップを
一気に口に運んで空にしました。
正史は母親が酒を飲むのを初めて目にしました。
奈良漬けを喰べただけでホホを赤く染めるほどに、
酒にはめっぽう弱い母でした。
「お前がカンパイをしてコップの酒を空にするたびに、
母ちゃんもコップの酒を空にする」
名鳳の目はすでにすわっていました。正史は一気に酔いが醒めました。
それからは、カンパイの合図があっても
少しコップに口をつけるだけで押し通しました。
傍でそんな正史を名鳳は「掌中の玉」を見るがごとき目で見つめていました。
宴の朝、朝食の膳を前に名鳳は正史に語りかけました。
「昨晩使った三百万円のお金を決してもったいないことをした、
などと思ってはいけない。これから先の人生で昨日の夜の三百万円の金が
何百倍何千倍となってお前のもとへ必ず帰ってくることになるのだから」
それから以後毎年のように名鳳は正史に一人、
故郷の鎮江に里帰りをすることを義務ずけました。
そして名鳳自身はそれ以後、死ぬまで二度と
中国の土を踏むことはありませんでした。
里帰りをしているうちに、次第に正史自身の人脈が増えていきました。
親戚を通して町の有力者や共産党の幹部たちとも
親しく関係を築くことができました。
その人脈の広がりは次第に母親の親戚のワクを超えて行きました。
それは名鳳の望むところ、でした。
正史が中国から帰ってくるとミヤゲ話を聞くのが
晩年の名鳳のなによりの楽しみになりました。
そうか、そうか、そんなことがあったのか、と正史のミヤゲ話に
驚いたり笑ったりしながら少女のように目を輝かせて聞き入りました。
名鳳は正史に言いました。
「私はお前のお父さんに嫁いで日本に嫁に来た身だ。
生前母親に言われた通りに死んだらお前のお父さんと一緒の墓に入り
日本の土になる。しかしお前は私の血を継ぐ息子だ。
長男のお前は必ず中国の地に帰り、その土に戻れ。
それが私の父や母やご先祖さまへの供養であり私の心からの願いだ。」
名鳳は夫の正の母親によく尽くしました。
亡き実母へできなかった孝行を正の母親への孝行であがなうかのように、
従順に優しく嫁として実の娘以上に夫の正の母親に尽くしました。
正の母親も死ぬまで名鳳を子供たちの嫁のなかでも一番頼りにしていました。
正史の嫁の敬子とも名鳳はうまくおり合いをつけて仲よくしました。
名鳳は正史に
「お前は男だから浮気をするのは仕方がない。
浮気が発覚したとき敬子さんに私がバカ息子を許して欲しい、
でも、と申し分けのできるような浮気相手を選んで欲しい。
たとえば敬子さんよりウンと若い美人。金髪か銀髪の外人、黒人でもいい、
そんな相手が浮気相手なら敬子さんに私は、
あんたにないものをバカ息子が求めてしまったので許して欲しい、
と許しを乞うことができる。絶対に駄目なのは敬子さんより
ブスで若くない女だ。そんな相手を選んだのなら母ちゃんは敬子さんに
言い訳はできない。お前を殺してでも敬子さんに謝まるしかなくなる」
などと言いました。
名鳳は浮気にも揺るがない哲学を持っている「人」でした。
1993年、夫の正が病いに倒れました。
検査の結果、病名はガンと判明しました。
余命三ヶ月という医師の診断でした。
それでも家族は一日でも父の命を長らえようと、
抗ガン剤等の治療をうけるように、と進言しました。
「いや、もう俺は十分に長生きした。この辺で人生を終わりにしたい」
ベットの上に横たわりながら正は悟りきったように語りました。
と、突然ピシャリと正のホホを叩く手がありました。
名鳳の手でした。名鳳は怒りに震えていました。
「何故最後まであきらめずに戦わないんだ。
あんたは私を日本に連れて来るとき約束したことを忘れたのか。
私より絶対に先に死なない、私を絶対に離さない、
とあなたは私に誓ったはずだ、約束を守れ!!男なら最後まで約束を守れ!!」
と名鳳は泣きじゃくりながらベットの上の正の胸にすがりつきました。
正は静かに目を閉じていました。ツーと流れて正のホホを伝う涙を
正史は「美しい」と感じました。
そのときの病室の情景をいまでもハッキリと覚えています。
それから三ヶ月後、医者の宣告通りに正は苦しむことなく
おだやかに息を引きとりました。享年73歳。
葬式の日が終っても、名鳳は涙を一切見せることはありませんでした。
49日の納骨の日、集まって来た親戚の皆んなが見守るなかで、
突然名鳳は骨ツボのフタを開けて中から骨を取り出し
ムシャムシャと喰べ始めました。
「アアーン、アアーン」
と吠えるように手放しで泣きながら
骨を口いっぱいにほほばって噛みくだきました。
それから・・・名鳳は毎日、毎日泣き続けました。
正史をはじめとする4人の子供たちは、
今更ながらに父と母の愛の絆の強さを思い知らされ、
なぐさめてかける言葉も見つかりませんでした。
まごうことなき命がけの愛に生きた父と母の子供であることを
心の底から誇りに思いました。
夫が逝った後、名鳳は4人の子供たちの家庭を泊まり歩き
10人の孫に囲まれておだやかな晩年を過ごしました。
名鳳は2007年、病の床につきました。
老衰でした。病床に見舞った正史に名鳳はいままでになく、
言葉を一つ、一つ、丁寧に選ぶように語りかけました。
「私が死んだらお父さんのお墓に必ず一緒に入れて欲しい、
きっとだよ。約束だよ・・・。」
享年89歳。
名もなき小さな女性の89年の生涯でした。
名鳳の人生を知って「この世にこんな人がいたか」と驚かされ、
喜びを感じます。生きることが苦しいほどの家族愛に溢れ
類いまれなる強靭な精神で生きたその人生は“荘厳”でさえあります。
誰とて実にあやうい人生を生きているなかで
名鳳が生きた不屈の人生に胸を熱くゆさぶられます。
名鳳の骨の半分は遺言通り正の墓の中に納められて願い通りに
「正と名鳳の夫婦」は永遠の絆を結びました。
残りの骨の半分を持って正史は名鳳の故郷の鎮江に旅立ちました。
そこには名鳳の生前、正史や親族たちの手によって
父や母たちの沙家一族の「廟」が建てられてありました。
その中に日本から持ってきた名鳳の骨を埋ずめました。
最愛の父と母の胸に抱かれて名鳳は、
再び中国の大地に永遠の安らぎを得たのでした。
名鳳の墓銘記には正史の手でこう刻印されました。
「娘ありて東方に征ずも、また東方より帰り、父母のもとに永遠に眠る」
中国は今、「革命の時代」を生きています。
毛沢東が提唱した「共産革命」ではありません。
自由や人権、民主主義、知的財産といった
文明社会の価値観を「無視」して
14億の民がうごめく中国の「革命」はとどまるところを知りません。
「中国革命」の第一義は革命思想や大義でなく「豊かさ」です。
14億の民に腹いっぱいに喰べさせること、
が何より優先されるべき課題であり、指導者の使命です。
そこにかつて野に鳥を追い、すべからくの人民が均しく
物乞いのごとくであった「世界で最も貧しい国の人々」
と言われた時代の姿はありません。
今日中国の実態経済はアメリカの1400兆円を凌いで
1500兆円を超える、といわれています。
日本の実に3倍の世界一の経済規模を築いています。
中国とどう向き合い良好な関係を構築していくか、
待ったなしの日本の浮沈をかけたリアルな現実が迫っています。
正史は今、母の遺言の通り、中国の地に来て会社を起こし、
青島で巨大事業の一大リゾート開発の仕事にたずさわっています。
正史の現在の仕事は名鳳ともに初めて中国を訪れたあの大宴会場で
つちかった親族との絆が大いなる遺産となって支えてくれています。
正史の会社の四百人のスタッフの重要なポストは
名鳳の沙一族の人達で占められています。
絶対に裏切ることのない血の絆で結ばれているのです。
1979年、名鳳たち家族が初めて上海に来たときに泊まったホテル
「ブロードウェイ・マンション」
1034年イギリス人によって建てられました。
日本軍が上海を征服したときは日本軍司令本部が置かれました。
「霧の名所、上海」をホウフツさせるような霧がけむっていました。
テレビでは相変わらず日本兵が悪事を働いて殺される物語り、が放送されています。 中国を解放したのは米国だ、とは間違っても言いません。 毛沢東はただ山の中に隠れていただけだ、などという歴史は中国にはないのです。 毛沢東はいつだって勇ましく日本軍を駆逐した、という「物語り」です。
|
|
|
室から見た外の夜景
ニュースで日本の北方領土問題の解説を行なっていました。
ホテルのロビーに貼られてあった中国領海を示す地図。 この中国の地図で見ると南シナ海は99%全部中国の領海になっています・・・身勝手な標本です。
|
|
|
中国のジャニーズのようなアイドル歌番組で声援を送るファン、
皆、剣のように長いペンライトを振っていました。
100m競争で優勝した中国人選手、トビッキリの美少女でした。
北京市内の日本レストランの値段(1元=12円)日本と変わりません。
北京空港は広い、大きい、東京ドームの10個分はあるでしょう。
|
|
|
電動自動車のサービスもあります。
|
子供用カートのサービスもあります。
|
そこら中で掃除をする人の姿がありました。
北京空港ではスズキ自動車の看板が目立ちました。
|
山のように空港売店で売られていた「セブンスター」 中国の知人にも「セブンスター」を吸っている人がいました。
|
北京空港の滑走路
空港で売られていた「SEX本」上海大学教授著作。
ジュースは5元、ミネラルウォーターは20元、ジュースはどんな水で作られているのでしょう。
|
|
|
上海の食堂のメニュー 日本で人気、と書くと客のうけが良いようです・・・
|
カタカナで書かれてあったお店の看板。 日本語はファッションなのでしょうか。
|
リヤカーを自転車で引きながら チャリンチャリンと鈴をならして行く・・・ゴミ収集屋さん
|
|
この手のタイプの電動自転車を実に多く見ました。
小さな街裏のファミリマート(上海)
上海の羊の骨肉専門店、これで1人前で約1500円、安くないです。 でも煮込んだ白菜が上海ガニのミソよりおいしかったデス。 40名程入るお店は満員、お客はほとんど若い人達でした。 実態経済は日本の3倍の1500兆円、という話もうなずけました。
|
|
|
お店に山積みにされていたサントリーのビール。
ガンバレニッポン。ウレシクなって撮っちゃいました。
青島の飛行場
|
青島にはANAの直行便があります。
|
青島の飛行場内に「味千ラーメン」がありました。
黒田正史氏の会社の車のナンバープレート何台もの車に0000のプレートがついていました。
公安に申し込めば?好きな数字をもらえるそうです。
生後まもない黒田正史を抱く「名鳳」
〜〜最新映像作品のご紹介〜〜
THE真正中出しショータイム4
主演:浜崎りお
監督:村西とおる
奇跡のコラボ「村西とおる×モブスターズ」
下記画像を【クリック】してモブスターズでご覧ください。