まだ幼かったあの頃。冒険と称し家の中の駆け回った。鳥篭の中での宝物探しは、
夢と希望、それから期待に満ち溢れていた。子供の無邪気さは突拍子もなく、また
際限が無い。小さな体に、紫色の髪を揺らしながら、少女は陽気にはしゃいでいた。
メイドや執事達は、ちょっとした邪魔者で、出来れば会いたくなかった。冒険の敵なのだ。
家族もそうだ。父、母、姉。出来れば会いたくなかった。勇気が揺らいでしまうから。
猫、に関しては可愛いから良かった。大歓迎だった。邪魔もしない。
「あっち」
一匹の猫を両手で抱えながら、すずかは屋敷の中をぐるぐると巡っていた。
齢は四つ。後の淑女加減も未だ芽吹かぬ元気な幼女模様、ちゃんとお付のメイドがいることも
知らずに、自分の世界に入りきっていた。男の子でいえば、風呂敷マントで戦隊ごっこといった所だろうか。
猫は離してくれと言わんばかりに無粋な顔をしていたが、ぎゅっと抱きかかえるすずかが
手放す筈も無く、体をだらりとぶら下げたままなすがままになっていた。
右へ、左へ。まだ見ぬ部屋を一つ一つ入っては調べて、入っては調べての冒険が続く中
ある部屋へと辿りつく。部屋の中は、怪獣が住んでいそうな、薄暗く怪しい雰囲気をしていた。
部屋の中は、大量の本が無造作に積み重ねられているだけだ。カーテンが引かれ、窓から僅かな光が差している。
埃臭さと紙の古さからくるダブルの臭いに、少し尻込みしてしまう。
以前、姉が言っていた。庭にあるトゲトゲは怪獣の尻尾なのだと。(※アロエ)もしかしたら、
それが住んでいるのかもしれない、とすずかは思った。恐怖した。もしかしたら、怪獣に食べられてしまうかもしれない。
そう考えると自然に扉は閉ざされる。猫を強く抱きかかえたまま、走ってその場を後にした。
それを家族に報告すると、そうか、怪獣がいるのかと笑っていた。他人事ではないすずかは
たまらない気持ちになった。家の中に怪獣がいるなどと、誰が認められるか。もしかしたら、夜。
寝ている部屋に入ってきて、食べられてしまうかもしれないのだ!
それを家族に告げると、ますます笑っていた。メイドや執事達まで微笑んでいる。
酷い、とすずかは思った。大人はともかく、子供は真剣に悩んでいるのだった。
「それでしたら、私がご一緒差し上げましょうか?」
ノエルが、提案してくれる。
「私でもいいわよ? 明日は休みだし」
姉も、参加してくれるといった。だというのに、すずかは首を横に振らなかった。
「いい」
フォークを手にしたまま、頭を横に振る。子供心にたった一人の冒険心を邪魔されるのが嫌だったらしい。
自尊心だけは高かった。
「一人で行くもん」
「食べられちゃうかもよ?」
「一人で行くもん!」
半ば意地になって声が大きくなる。まぁまぁと母親に宥められ、父親は満足そうにワイングラスの中の赤ワインを
泳がせていた。すずかは一人、悲壮な決意を固めていた。明日、怪獣がいるかもしれない部屋と一人行くのだ。
決意を固めた。でもお風呂には、姉と一緒に入り、母親と一緒に眠った。怖くないもん、という意地だけが大きかった。
余談だが、部屋はすずかが恐怖した部屋は蔵書室から溢れた本の、いわば一時的な物置になっているような部屋だった。
それだけだった。
翌日、姉が学校へ行ったのを見送り、すずかもまた、冒険へと出かけた。のっしじゃがんがずっしん。のっしじゃがんが
ずっしんと勇気ある足取りで目的の部屋を目指す。すれ違うメイド達からは、頑張ってねと応援される始末。昨日と同じく、
猫をぎゅぅと抱きかかえたまま、すずかは意を決した。部屋の扉の前にくると、手を伸ばしドアノブを掴み、えいっと一気に開けた。
相変わらずの埃臭さが鼻をつく。本の山と、薄暗い部屋。心臓の鼓動は早まるばかり。そろりそろりと、足は前に出る。
中へと入っていった。……いつ怪獣が襲ってくるかもしれない恐怖とすずかは戦い続けた。逃げちゃ駄目だと自分を煽りながら、
部屋の中の様子を探る。見た限り、怪獣はいなさそうだった。でも、何かがいるという気がしてならなかった。
「…………………」
部屋は本当に本の山ばかりだった。題名も良く解らないものばかり。すずかが好きそうな絵本も無かった。
それでも、一冊の本に手を伸ばし、開いてみる
「…………わぁ」
中は、よく解らない文字が多様に綴られていた。そして、魔方陣も描かれていて、それが妙にすずかを魅了した。
子供心に、珍しいものに反応しただけかもしれないが、夢中になってページを見ていると、突然。どさどさと本の山は崩壊した。
すずかの緊張も決壊した。
「ぎゃーーーーー!」
こっそりと見ていたノエル曰く、この世の終りのような悲鳴をあげ一目散に逃げ出したとの事。走って走って、
もう怖くないというところまで来て、ホッとしたすずかだが右手に猫、左手には、一冊の本が抱えられている事に気づいた。
無我夢中でよく覚えていなかったが、一冊だけ持ってきてしまったらしい。しっかりとした作りの本はやたらと気品を放ち、
すずかには宝物に見えた。直ぐにこれが欲しいと思い、母親の許に馳せ参じる。
勿論、笑顔で許可を頂く。怪獣の部屋から、宝物をゲット! という興奮から、すずかはたまらない気持ちになった。
だが、毎日眺めていたある日、本の中は、白紙になっていた。自分の宝物は、母親以外には話しておらず、誰もそれを
信じてはくれない。母親も、本の中身まではみていなかったので真偽はさだかでない。すずかは本への興味を失いかけたが、
夕食の際、父と姉にそれを話したら、白紙ならば日記をつけたらどうか、という提案を受ける。
すずかも、それを受け入れた。ちなみに、そこからが皆が知る月村すずかの始まりである。意味不明の絵日記から、たどたどしい文章へと
転じ、そしていつの間にか、一日数行の日記をつけるのが日課となる。解らない文字を調べ、本にさらなる興味を見出し、
お転婆娘は、いつしか百合のこうべを上げるほどの淑女さを手にしていた。あの腕白さは何処へ行った、という少女になる。
そして、今。月村すずか小学三年生。
魔法少女クワイエット、すずか。
固められた掌が、机にたたきつけられる。過酷な音が教室の中に響き渡った。
誰もがその音に招かれる。それでも、原因の激情は止まらなかった。
「あんたにとって、友達って何なのよ! 必要な時だけ寄り添って、いらなきゃごめんで通すのが友達なの!?
ふざけんじゃないわよ!」
「ア、アリサちゃん……」
高町なのはに向かい辛辣な言葉をかけるアリサに、すずかは気が滅入りながらも止める事もできなかった。
言われている当人、高町なのはは少し俯きながら、ごめんねと繰り返すだけだった。それが癇に障ったのか、
アリサはふんと鼻息一つで一蹴する。
「行こう、すずか」
「え、で、でも……」
さっさとアリサは踵を返して教室を出て行ってしまうが、困るばかりの月村すずかは、どもる。
一人佇むなのはは寂しげに微笑んでみせた。
「行ってあげて、すずかちゃん」
「なのはちゃん……」
「私は大丈夫だから」
「…………うん……」
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ごめんね、となのはに詫びてから踵を返しアリサを追いかける。
上履きが廊下の上をたたく。髪を揺らしながら、月村すずかはアリサ・バニングスの背を目指した。
「アリサちゃん!」
「……何よ」
アリサは足を止めない。背から受ける声も気にせず突き進む。追いついたすずかは、走るのをやめた。
歩き続けるアリサに合わせて歩き始める。静かな足音が聞こえ始めた。
「……あれは言いすぎだよ、アリサちゃん」
「解ってる……」
そうは言いながらも、頑なな声は苛立ちと怒りに満ちていた。それを機敏に感じ取ってしまうすずかには、
どうしようもなかった。二人は歩き続け、人が来ない階段の踊り場まで来る。そこで、ようやくアリサは
足を止めた。当然、すずかも足を止める。
「気に入らないのよ」
「え?」
すずかを見ているわけじゃない。前方を睨みながら、アリサは吐き捨てた。
「だから気に入らないのよ、私達に相談もしないで自分だけは辛いですっていう顔してるのが。
相談にのってあげたいじゃない! ……友達なんだもの、出来る限りの事はしたいわよ。
でも、なのははそれを許さない。それも嫌だし、私は、何よりも何もできてない私にいらだつ。
あああああむかつくわ……!」
「アリサちゃん……」
「……ごめん、すずかに当たっていいようなことじゃないって解ってるのに」
「ううん、大丈夫だよ」
「……ありがとっ。
ちょっと休み時間半端になっちゃったわね、屋上行いきたいんだけど、いい?」
「うん」
二人は、再び並んで歩き出す。階段を上り、屋上へと向かう。迎えてくれるのは千切られた雲に
無限に広がる青い空、風。新鮮な空気が心地よい。他の生徒達の姿もぽつぽつと見えていたが、
アリサは気にするでもなく両手を広げ体を伸ばしていた。
「ん~~~………ッ……~~……………………はぁ、いい天気ねー」
「そうだね……」
少し控えめな太陽の日差しも心地よい。このまま、ここで昼寝をして授業をサボってしまいたいという
一抹の願いが生まれるが、そんなことできるはずもなし。些細な願望で終わる。
「あーあ。毎日休みだったらいいのに」
そんなどうしようもない呟きに、すずかはくすくすと笑って見せた。
「アリサちゃん、それじゃナマケモノになっちゃうよ」
「解ってるわよ、きっと退屈で退屈で死ぬほど暇な毎日なんでしょうね
まったく、小学生の時点で人生上手くいかないんだから、人生思いやられるわよ。
まぁ、それが人生なのかもしれないけど」
「…………」
やれやれと溜息を落とすアリサの横顔をすずかは見つめていた。まだ幼い年齢ではあるが、
アリサ・バニングスは他者よりも強い人だ、という評価を月村すずかは下していた。他者よりも
鋭い思考、前向きかつ遠慮を知りながらも前のめりに出していける意見。美貌。全てが羨ましかった。
魅力、という意味では高町なのはもそうだが、すずかは他人を羨む事が多い。
何もかもが思い通りにいく、なんてことはない。それは二人とも重々承知していた。それが現状の
友人関係であり、etcetc。何もかもがうまくいく世界があるならば、それはただの夢物語だ。尤も、
安易な人生があればそれはそれで羨ましさがないわけでも、ないのだが。
「あー今日ヴァイオリンの稽古の日よね……」
「そうだね、コンクールの練習だよ」
「面倒臭いわね……まぁっ、やるからにはちゃちゃっと頑張らないとだけど」
「うん、頑張ろう」
「当然」
よしっ、とアリサは気持ちを入れ替えた。少しは頭もすっきりしたのか、教室へと二人は戻る。
でも、当然戻ってもなのはとアリサが接触する事は無い。すずかはいたたまれない気持ちになった。
少し前から、高町なのはが急に塞ぎこむようになって、それにアリサがイライラして、という形が
できあがってしまっている。
今日に限りそれが爆発してしまったという事である。教室にチャイムが響けば他の生徒達も
ばたばたと席に着き始める。事前に準備しておいたノート類を取り出しながら、すずかは気持ちを切り替えようと
自分を落ち着かせていた。大丈夫、きっとうまくいくと心の中で念じ続ける。少しの捩れは、時間が経てば元に
戻る。そう思っていた。時間の進行が少し遅く感じながらも、授業は滞りなく終わった。全ての授業が終われば、
生徒は解放される。すずかも僅かな安堵感を感じながらも、帰りの会(SHR)も終わると、ちらりと二人を横目にする。
賑わいの中。アリサと、なのははあれだけ仲が良かったにも関わらず、二人は挨拶を交すことなくそれぞれ教室を出て行ってしまう。
「あ……っ、」
残されたすずかも、慌てて鞄を取り教室を出る。なのはは、アリサよりも先に行ってしまったので追いつくことは無い。
もとより、アリサと行動を共にするので、少し気まずくなるのは遠慮したかった。今は友人をも拒むなのはは、少し異質だ。
そう思わざるをえない、心の奥底では思ってしまう。早足に、ようやく追いついた。
「待ってよ、アリサちゃん」
「悪かったわよ。ほら、行くわよ」
ばつが悪そうに、でも少し拗ねてる感じに謝られる。下駄箱で靴を履き替え、他の生徒に混じって帰る。グラウンドからは、
クラブ活動の生徒達の姿が早くもみえていた。二人は黙っていた。とくに会話もない。正門を出て少しのところに、車が待っていて
二人は乗り込む。無論、高級車。バニングス家の私用である。
「お帰りなさいませ、アリサ様」
「疲れたわ……まったく」
乗り合わせている執事にぐだぐだ文句を言うアリサに引き換え、すずかは苦笑の素振りを見せながらも、窓の外を眺めるのみ。
外の音を遮断しながら走る車の中は静かだった。
「………」
一応、何かアリサがいうのにあわせ相槌をうった記憶はあるが、何を言っていたかは定かではない。ただ、漠然と羨望を抱えていた。
何に対して? 何を抱いて? という想いはともかく、ただすずかは人様を羨んでいた。その後のヴァイオリンの稽古もそつなくこなした
……つもりだったが、楽器は正直だ。迷いのある音しか奏でられなかった、とだけ記しておく。家に帰宅後も、机の端に足の小指を
ぶつけて痛い目見たりと、ふんだりけったりだった。
「………………」
稽古の先生には集中しろとさんざ言われ、家に帰れば両親はいなかったものの、姉と義兄候補が食堂でべたべたしていて、
やっぱりふんだりけったりだった。学校では親友二人があの始末。ベッドに顔を埋めながら、溜息を落とした。部屋の中では
猫達がいたるところでごろごろにゃーんと鳴いていた。横になったまま手を伸ばすと、猫が擦り寄ってくる。癒しだった。
「よしよし……」
誰も私を解ってくれないなんてネガティヴ思考に陥っても、猫が居れば切り替えは万全だった。落ち込んでも、その倍頑張る。
それがすずかのモットーだった。猫を抱きしめたままごろごろして暫く、眠くなる前にベッドから起き上がると机に向かい、
本棚から一冊引き抜く。厳かな雰囲気すら持ち合わせるその本を開き、頁を軽快に捲りながら、シャーペンに手を伸ばした。
何かの図鑑や特別な本に概観は見えるが、中身はただの日記帳だった。一応、誰にも読まれていない筈だった。
「えっと……」
シャーペンのノック音をカチカチと聞かせながら、すずかは今日一日の記憶を引きずり出す。楽しい事悲しい事、書くことは
様々だが、本日……というよりも、此処最近は楽しい事よりもがっかりな出来事が多い。主に、それは友人関係であり事態の
収拾を願っていた。蟠りや仲違いを起した関係というのは面白いものではない。シャーペンは、淀みなく日記を綴っていく。
書くのに要した時間は五分足らず。
最後の句読点を打ち、文章の構築は完了する。が、シャーペンは直ぐに置かれなかった。何かを考え込むような素振りの後、
ちょっとした追記を付け加えることにした。神社で願いを込めるように。すずかは日記帳のノートに願いを込める。
「……はやく仲直りできますように……っと」
文の終りに、「魔法でも使えたらいいな?」と冗談めかして書いておいた。それで満足だった。シャーペンを戻し、日記帳も
閉ざして、本棚に戻した。それと同時にあくびが込み上げてきて、小さな口に手を添えて、眠気に身を任せた。
「寝よう……」
再びベッドに戻ると、直ぐに眠りの中へと落ちていった。静かな吐息だけが、部屋の中を満ちていた。
途中、メイドが照明を消しに訪れたのも知らずに、穏やかな眠りと共に在った。
月村すずかは、自宅の屋敷の中に一人。寝巻きのままぽつりと立っていた。だが、不思議な事に誰かが居る気配は無い。
メイドも、そして執事達も。元々広い屋敷だが、人の気配がしないことは稀有だった。周囲をきょろきょろ見渡しながら、
違和感を覚えながらも、はだしのまま、ぺたぺたと廊下を歩き始めた。
本当に、誰もいない。勿論、勝手知ったる我が家だ。恐怖は無い。とはいえ、違和感を抱えているが故、
どうしようもない妙な感覚は捨て切れなかった。両親の部屋、姉の部屋、使用人達の部屋、リビング。客室。
いろんなところを除いても、人っ子一人いない。そんなこと、今まで一度も経験は無かった。一人、廊下に佇み
誰か誰かと心の中で願いながらも、やはり人はいない。どうしてだろう、と思いながら初めて恐怖を感じた時の事。
「怖がらせてしまったね」
「!?」
背後から、唐突に声が聞こえすずかは振り返った。心臓が握り締められたかのように緊張していたが
相手は少しだけ距離を置いていた。ただし、恐怖を覚える容姿ではない。なにせ、スーツ姿の高町なのはだったのだから。
ただし、髪は下ろしていた。
「(なのはちゃん…………?)」
安堵にも似た何かが、胸の中に蔓延る。
高町なのはは優しげには微笑んだ。
「怯えないで、私は貴女の案内をしに来ただけだよ」
「え?」
虚を突かれる。なのは顔は頷いた。
「私は彼の為に動いている。彼は貴女の存在を危惧し、私は此処にいる。
月村すずか。貴女は今、つり橋の上。……生憎彼は私を望んではいない。でも私は彼であり、彼は私でも在り
……蛇が来る前に、答えが欲しい」
「……???」
頭の回転が相手の話に追いつかなかった。それを解するのか。具出る。もといなのは顔はさらに、大きく頷いた。
「ごめんね、何言ってるか解らないよね。……でも、此処じゃ何だし」
「…………」
なのは顔は踵を返しながらすずかを誘う。
「部屋に行こう」
「(…………)」
そして歩き出した。静かな足音を誘いながら、少しずつ離れていってしまう。そんな後姿を見つめながら、
すずかは迷った。これは夢か。それとも、現実か。あまりのリアルさに疑心暗鬼に囚われたが、夢ならば
どんなことをしても問題はない、と踏む。自分が死のうが夢は夢だ。一時の幻に過ぎない。正夢ならば、
少し困るが……そっと、唇は強く結ばれる。鳥肌が頬を這う。緊張が己を撫でていた。
それでも、すずかの足はなのは顔に引っ張られるように、前へと進んでいた。遅れて、自分の心臓が
やや早足に刻まれている事に気がつく。足は複数の歯車が噛みあい動くように止まる事は無い。前を往く人を
追いかけていた。夢は蒙昧かつ曖昧な外的現象だが、何かの本に、夢はその人が普段抑圧し意識していない願望や
意識が如実に表れる事がある、と記されていた。夢の表現を歪める傾向、とも。
若しくは、眠りを保護する為のもの、とも。だが今のすずかにしてみれば、そんなことはどうでも良かった。
夢は一時の物語だ。そして、今。月村すずかはこの状況を心の何処かで楽しんでいる風でも、あったのだ。
今だけの物語、趣味は己の自己満足として許容できなければ意味がない。それは今の夢も同じだ。そして、
今を楽しむ。まるで本を読むかのように、足音は静かに、小説の頁を捲る音のよう。
単調なリズムにも関わらず、すずかの耳朶にはとても濃密な音色に聞こえた。
屋敷の中を歩く事暫く、勝手知ったる屋敷の中の道順に疑問を抱いた。前を往く高町なのは顔に何度も
たずねようとしたが喉から声が飛び出すことは無い。足は止まらない、が
その終りはすずかの予想通りとなる。振り返る追いかけた背中。
「ついたよ」
「…………………………………………私の部屋…………?」
まさしく、すずかの部屋の前だった。疑問に対しての答えを得る。
「うん。そう、でもちょっと違う」
「?」
「これは夢の世界だけど、私が貴女に干渉している。だから、この部屋の中は」
その先を言う事は無かったが、言わんとしている事は解るような気がした。すずかもそれを理解する。
普段ならば、扉を開ければ見慣れた部屋が広がるがそれが覆される事を。
「月村すずか」
一瞬、扉に向けられていた双眸が高町なのは顔に戻される。
「それじゃあ、入ろうか」
「……」
扉に伸ばされた手がドアノブをしっかりと掴み、捻る。そのまま、押し開かれた。はたして何が待つのか。
視界が開けるまでの一瞬の期待は永遠に見えた。それでも、視界は開かれると、あまりにも呆気ない様相に迎えられる。
部屋の広さも、すずかが記憶する自分の部屋とは違った。おおよそ、六畳程度と元の部屋よりもはるかに狭かった。
窓も無い。
絨毯も無い。
ベッドも机もない装飾の色気も無い部屋だった。ただし、部屋の中央にぽつんと、一つの椅子が置いてあった。
それも味気の無い木の椅子だった。時を動かすように、なのは顔は中へと入る。入り口で、立ち止まっていたすずかは、
それを見ていた。遅れて、振り返って誘われる。
「どうしたの? 入ろうよ」
「あ、……」
足は、一歩二歩と部屋の中へと入っていった。扉は静かに閉ざされる。
「座って?」
「…………」
促されるがままに、すずかは椅子に腰掛けた。加重による軋みが僅かに聞こえた。
高町なのは顔はすずかの視界に入る壁際に立つと、ほんの少し、寄りかかった。揺れた茶髪が静止した時、なのは顔は
口を開いた。
「まずは、自己紹介。……と言いたいんだけど、ごめんなさい。私、名前は無いの」
「?」
「この顔も、貴女の記憶から親しそうな高町なのはって子を選んだだけなの。
怖がらせないために。ごめんね?」
「い、いえ……」
一応、外面は友人である高町なのはなのだ。そんななのはちゃんに呼び捨てに
される違和感を覚えながらも、異なった口調も新鮮さが無いわけでもなかった。立って見下ろす目線と、座って見上げる目線は交錯する。
「私の事は好きに呼んで。まぁ、それはおいといて……」
とてもじゃないが呼ぶ気にはなれないすずかだった。
「願ったよね」
「え?」
「友達関係が上手くいっていない、はやく元通りになりたいって」
胸が一気に締め付けられた。何故、という想いがにじみ出た。アリサならば言わなくても解るだろうが、
誰にも相談はしていないのだ。どうして知っているのか。……これも、夢の中の故なのかと、すずかは疑った。
なのは顔は微笑む。
「それから、貴女は昨日未明に願った。魔法を使いたいって」
相手の一方的な物言いについていけず、言葉で踵を返した。
「…………貴女は誰ですか…………?」
「?」
「………………貴女の目的は、一体なんですか? どうしたいんですか?」
随分と強気な言葉が出た。それを顕著に見せるかのように、拳は硬く握り締められ震えていた。
なのは顔もそれを目にはしていたが口には出さない。
「聡明だね」
なのは顔は僅かに目線を落とすと、腕を組みながら吐息を落とした。それを見つめるすずかに苛立ちこそ無いが、
相手の未知数さからの戸惑いは確かに存在していた。そんななのは顔は目線を落としたつつ床の上をさまよわせていた。
唇は哀愁に歪んでゆく。
「私は、おまけに過ぎないただの案内役だよ」
「……おまけ?」
「うん。全ての決定権は私であり私ではない。彼に在る。彼は私であり、私は彼であるが、彼と私は別物だ。
……だから私の一存で全てを話す事はできない。そう心配しなくても、いずれ全てを話す日は来る」
「彼って、誰?」
「……彼の自己紹介は、多分。彼自身が行うよ。いずれ会える。……貴女が望めばね。
夢を夢として終わらせるかの判断は、全てすずか次第だもの。
貴女はもう力を目の前にしている。後は、選ぶだけ」
「……………」
答えになっているようでなっていない回答に僅かな苛立ちが生じた。椅子に座ったまま、拳を固める。
「こ、答えになってないよ……」
あえてすずかは言ってみた。
「……そうだね。ごめんなさい」
高町なのは顔は、僅かに目線を落としながらそっと呟いた。
「……私は私であり、私は彼である。……月村すずか。 その椅子に座った事を忘れないで。
これで貴女は選ばれた。……後は、彼と貴女が決める事だもの」
「さっきから言ってる、彼って誰……?」
「……何れ会えるよ。きっとね。
すずか。私は直接貴女に会えて良かった」
「……………………?」
「……ごめん、時間だ。
もっと話したかったけど……無理みたいだ。じゃあね。
ばいばい。日記、これからもちゃんと書いてね?」
「え? あ、」
高町なのは顔は、寄りかかっていた壁から離れ、扉に手をかけると躊躇無く出て行ってしまった。
順を追って話してもいないし、意味不明な有様に何がなんだか解らなかった。これも夢かと落胆した時。
すずかは目覚めた。夢が終わる。
「……………」
暖かな朝の日差しと柔らかなベッド。横になったままま開かれたすずかの双眸は天井を見つめていた。
「(……夢…………)」
体を起す。
今居るのは、自分の部屋だった。広さもありベッドに机本棚等、いろいろと置いてある自分の部屋だった。
一匹の猫がベッドの上で丸まっている。いつもどおりの朝、何も変わらぬ朝だった。そんな有様に、僅かな
軽薄感を覚えた。掌を額に当て吐息を落とした。
「……変な夢だったなぁ」
所詮、夢は夢だとばかりに気持ちを切り替える。猫を撫でながらベッドから這い出ると、寝巻きを脱ぎ制服に着替える。
身だしなみを整えつつ、鞄の中の教科書を確認しようとした時、すずかは机の上の日記が開かれたままな事に気がついた。
昨日書いてから、そのままにしてしまったのかとしまおうとした時、昨日記した日記とは別に、日記とは異なる記述が、
ページの隅に小さく書かれていた。赤い、文字。そして文字の隅には、血痕のような後が一つ二つと残されていた。
"どうする?"
たった一言。だが、すずかは自身が書いていないその一言を注視したまま動けなかった。夢が夢でないのか。それとも、
何かが異なるのか。日記を手にしたまま暫く。朝の少ない時間が削られている事を思い出し、やむなく日記を本棚に戻し、
すずかは部屋を後にして洗面所へと向かった。猫は欠伸をしながら、ベッドに残っている。一つ、忘れていた。
日記は昨夜、本棚に戻した事を。