サーカディア:ナイトメア深雪
- 桐生院深雪(きりゅういんみゆき)。
彼女の生家は海上都市ブルージェネシスでも一、二を争う大地主であると同時に、
血族の多くが超自然的な霊力…つまり超能力を備える特異な家系でもある。
深雪自身も例外ではない。
むしろ彼女は一族でも抜きん出た才能を持つため、なかなか世間との接触を許されなかった。
中学までは完全に家庭教育で育てられてきたが、それだけではいけないだろうと15になってようやく学院へ通うことを許されたのだ。
しかし学院では彼女のような能力を持つ者は皆無であり、それゆえに戸惑いも大きかった。
それを変えたのは、片山弘樹らナイトメアを倒す仲間たちとの出会いだった。
「まあ…深雪以外にも力を使える方々がいらっしゃったなんて、感激ですわ。何をするのか存じませんがお手伝いいたします」
危機感に欠ける彼女だが、直感的にナイトメアの邪悪さを感じ取っていた。
そして幼少の頃から磨いてきた力は、他の能力者よりも格段に強力であった。
「悪い存在を退治するのは桐生院家に生まれた者として当然の義務と思いますの」
おっとりと笑う彼女は、弘樹やその仲間にとって頼れる戦力であった。
箱入り娘であるがゆえの、ずれた行いや言動には振り回されてばかりだったが…
その深雪が、中庭で占いをしている杉浦泉に近寄ってきた。
「まあ、泉さん。ごきげんよう」
「お、深雪じゃん。…相変わらず独特なあいさつだね、あんた」
「あら、そうですかしら」
首をかしげる彼女は、その顔立ちもあってなんとなく猫を思わせる。
「今日は何?占ってほしいことでもあるの?」
「あら、そうでしたわ。力、いわゆる超能力を持つ仲間である泉さんにぜひ…」
「ちょ、ちょっと声大きいわよ」
泉が止めたが、運悪くそこに二人連れの学生が通りかかってしまった。
「え、超能力者?最近雑誌とかで特集されてたけど…」
「あの占いの人有名だよね。ありそう…」
ひそひそ話しながら足早に立ち去ろうとする二人。だがその前に深雪が立った。
「ごめんなさいまし。深雪の失言、忘れてほしいんですの。弘樹さんに叱られてしまいます」
微笑みながら深雪は言った。
「ご、ごめん!聞く気はなかったの」
「あたし達言いふらしたりしないから!ホント」
絹のような長い黒髪を細く白い指でいじりながら、深雪は無言でじっと彼女らを見た。
笑ってごまかそうとしていた二人の視線は、深雪の目に釘付けになる。
紫色の深く、澄んだ瞳。さほど距離が近いわけでもないのに、目の前にあるような感覚。
「ふわ…」
「はれ…?」
二人の目の焦点が定まらなくなったところで、深雪は素早く、小さいがはっきりした声で言った。
「お二人は今お散歩をなさっておりましたが、中庭にはいらっしゃいませんでしたわ。
もちろん今の話も聞いてらっしゃいませんので、覚えていませんわ」
暗示にかかり、こくこくと二人はうなずいた。
「あたし達、何も覚えてないよ。中庭にも来てないから、早く他のところ行かなくちゃ」
「ここに来たことも忘れないとね」
くるりと二人は後ろを向くと、もと来た方へ去っていった。
「深雪の悪い癖ですわね…力のことを洩らしてしまい、埋め合わせのために力を使う。
泉さん、このことは弘樹さんには秘密にしておいて頂けませんかしら」
静かに笑う深雪は、再び箱入りのお嬢様に戻った。先ほどの恐ろしい深さが嘘のようだ。
「別にいいよ。それにしても、すごい暗示の力だね。…人間にはもったいないくらい」
泉の瞳が一瞬鋭くきらめいたのだが、深雪は気づかなかった。
「さ、占ってあげるわ。で、何が気になるの?」
- 深雪が話したのは、彼女の生家の習慣に関する奇妙な相談だった。
桐生院家は代々、最も強力な力を持つ者が家督を継ぐ。
それにあたって「竜神」なる古代の神を後継者候補に宿らせるのだという。
「竜神」が宿った人間はあらゆる面で人より優れた能力を得て、桐生院家に繁栄をもたらすのだとか。
だがそれなりの力を持つ人間自体生まれることが少なくなり、ここ数代は家督を継いでも「竜神」が降りないことが多い。
そこに段違いの才能を持つ深雪が生まれた。
精神が十分に成長したため、当主である彼女の母親は早めに竜神降ろしの儀式を行いたいのだという。
「で?あんたは何が知りたいのさ」
「竜神がナイトメアのような悪い存在でないか…竜神が宿ればもっと弘樹さんの役に立てるか、それを知りたいのです」
そう言う深雪の顔は、いつになく不安そうだった。
泉は手早くカードを切り、それを並べてめくっていく。答えはすぐに出た。
「邪悪な存在じゃないみたい。それに、竜神の力を借りればいいことが起こる…とも出てるわね」
「まあ…本当ですの?」
「あたしの占いは外れないわ。必ず未来を見れるわけじゃないけど、深雪に関しては見える。
あんたが竜神を宿すのは、運命。
人間は運命のしもべ。大きな力には逆らえないのよ」
きょとんとしている深雪に気づき、泉はふっといつもの顔に戻った。
「ごめん、なんかシリアスになっちゃった。で、儀式はいつ?」
「私が決意すれば、今度の日曜にでも行えますわ。…まあ、こんな時間。そろそろ運転手が来ますわね。
では泉さん、深雪はそろそろ失礼致します。ありがとうございます。
竜神を宿して弘樹さんのお役に立てるよう、励みますわ」
「バイバイ、深雪。いいことあるよう祈っとくよ」
一礼して帰っていく深雪を見る泉の瞳は、ガラス玉のように虚ろで冷たかった。
「…その優れた力を、人間のガキの役に立たせるわけないじゃない。
あんたにも、下僕となるすばらしさを教えてあげるわ」
夕日のせいだろうか。
長身と日焼けした肌で健康的な色気を売りにしているはずの泉が、生気のない妖しさを醸し出しているように見える。
海上都市ブルージェネシスの自治権を持つ科学庁。
省庁の一角に、ナイトメアの研究を進める研究室があることは知られていない。
知るのはごく一握りのお偉方のみだが、彼らとてそれが何の役に立つか正確には知らないのだ。
研究室長の御剣晃=タナトス以外は。
「ほう…あの名家にそんなしきたりがあるとはな」
泉の報告を、タナトスは高速で研究書類整理をしながら興味深そうに聞いている。
「タナトス様。深雪さんも分身にしてしまってはどうですか?…ふふ」
「あの娘は高い潜在能力を持っています。人間を消す戦力として役に立ちますわ」
タナトスの横には優美と智美が立っている。書類整理のバイトという名目で出入りしているのだ。
人間の前では正気を装っているため、彼女らの正体がナイトメアであると気付くものは皆無である。
「もちろんだよ。日取りまで分かっているなら、迎えに行ってやればいい。…さあ、誰が行く」
泉が一礼して言った。
「タナトス様、あたしに命令して。人間に寄生する役目、やったことないわ」
「…杉浦さんには、まだ早いと思うわ。人間でなくなってからあまり経ってないでしょう?」
智美が見下したような目で言う。
「智美さん、未熟なナイトメアでも寄生は可能ですよ」
優美が言う。
「ただ…私は智美さんと泉さん、ふたりの寄生を見てきたわ。
桐生院深雪に上質の寄生を施したいなら、私が一番適任だと思うな」
それに対し泉は何の反論もしない。
「あたしは智美お姉さまと優美様に従うわ。タナトス様とお二人の下僕だもん。立派なナイトメアになるよう、寄生を進めないとね」
媚びた恭順の笑みを浮かべる泉を、タナトスは面白そうに見つめた。
「3人とも個性的な能力と人格を持っているのだな、興味深いよ。よし、今回は…」
- そして次の日曜日。深雪は竜神降ろしの儀式を迎えていた。
儀式とはいっても特別なことをするわけではない。深雪が「封印の間」に入るというだけのことだ。
その部屋に数時間いれば、桐生院家の守護神である竜神が降臨するという。
身を清め、巫女の服を身に着けた深雪は、不安げに母親を見つめている。
「では支度はよろしいわね、深雪さん」
冷たく言い放つ母親に導かれ、深雪は封印の間の前まで来た。
「さあ深雪さん、これをお飲みなさい」
母親がコップに入った、鮮やかな青い液体を差し出した。強力な睡眠薬だ。
「お母様…そのようなものをいただかなくとも、深雪は逃げたりなどいたしません」
「いいから飲むのです」
険しい顔の母親に押し切られ、深雪はしぶしぶそれを飲み干した。
「この中に竜神様がいらっしゃるのですね」
「そうです。さあ、入って静かにしていればすぐに眠くなります。お入りなさい、深雪さん」
深雪が中に入り、戸が閉まると、母親は足早にそこを後にした。
「わたくしも含めここ数代、能力を持たない当主のもとで桐生院は衰えてきた。何としても深雪には竜神を…」
神々しい竜がいるのであろうと思っていた封印の間には、祭壇以外何もない。
だだっ広い部屋の中、ただ空気だけが濃密で、重苦しい。
青白い霧のようなリバースエナジーが部屋中に充満しているのだ。
「これは…どうして部屋にリバースエナジーが…竜神様は、どこに?」
左右を見回す深雪の視界が、ぐるぐると回り始める。
立っていることができなくなり、ひざを地に付き、それも耐え切れなくなる。
「リバースエナジー…こんなに濃厚では、ナイトメアが…だめ、眠っては」
しかし眠気を誘発するリバースエナジーに加え、睡眠薬が効いてくる中では無理な話だ。
間もなく深雪は倒れ、完全に意識を失った。
深雪の不自然な寝息以外、沈黙だけが支配する密室に…ゆらりと人影が現れた。
「リバースエナジー…私たちナイトメアに力を与えてくれるなんて、人間もいいことするのね」
露出の多い制服を着崩した朝倉優美が、複数のナイトメアを従えて立っている。
「深雪ちゃん…強力な力を持つあなたは、やっぱり私たちとひとつになるべきね」
優美は眠っている深雪に添い寝するように横たわると、両手の指を深雪の耳に差し込んだ。
脳に最も近い器官へ、ナイトメア独特の波動が送り込まれる。眠りながらも深雪の表情が険しくなった。
「うふふ。まずは私のお友達を紹介するね」
柔らかな表情のまま、瞳をナイトメア化させた優美が不気味に微笑んだ。
「…行け、私の下僕たち。こいつの肉体を奪ってくるんだ」
その命令に、数々のナイトメアが深雪の精神へと侵入する。かすかなうめき声が深雪の口から漏れた。
「深雪ちゃん、私もすぐに行くね。あの雑魚たちじゃきっと役不足だから」
目を閉じて、そのまま優美も眠りに落ちた。
日本に無数に存在するという神。
深雪の精神は無意識のうちに、そのひとつであろう「竜神」を崇め、畏れていた。
無数の鳥居と、どこまでも続く参拝道。そしてその奥に存在するほこら。それが深雪のイデア。
それ以外の世界を知らぬ深雪の精神体は、ほこらの中にひとり閉じこもっていた。
「ここは…。わたくし、竜神様を迎える社にいますのね。とすれば、ここに竜神様が…?」
未知のものへの畏怖心。それが外から来るものを強くしてしまう。
ほこらの扉が破られ、そこから大小様々の竜が飛び込んできた。
「きゃああっ!」
だが深雪の優れた精神力は、意図せずにその正体を見抜いた。
「いいえ、これは竜ではありませんわ…ただの、ナイトメアです!」
深雪はすぐさま能力を発動した。澄んだ紫の瞳がきらりと輝く。
「汚らわしい怨念たち…互いに喰らい合い、その罪を清めなさい」
その一声に、深雪を襲おうとしていたナイトメアは一転、互いに向け衝撃波を放った。
相手を制御し、意識を操る深雪の能力。精神体であるナイトメアもその支配下からは逃れられない。
たちまちのうちに無数のナイトメアは切り裂き、消し飛ばし合い、その数を減じていく。
そして残ったのはわずかに一体。うろうろと深雪以外に襲うべき同族を探し求めている。
「…あの物で最後ですのね」
手を伸ばし、とどめの力を放とうとした瞬間。社の外から幾本もの銀色の触手が伸び、ナイトメアを貫いた。
- ナイトメアはぴくぴくと小さく動くと、そのまま光の欠片となって四散し、触手に吸い込まれた。
驚いた深雪が触手の来た方を見ると…朝倉優美が空に浮いていた。
メタリックなボディコンスーツとニーソックスに身を包み、髪の一部と爪の先端から硬質のワイヤーを伸ばして。
意外なあまり声も出ない深雪を尻目に、優美はふわりと社の入り口に着地する。
「こんにちは、深雪ちゃん」
「ゆ…優美さん。どうして深雪のイデアに…そして、そのお姿はどうしたんですの」
それには答えず、優美は口元を押さえてにっこりと笑った。
「私のお友達じゃ、深雪ちゃんにはかなわなかったみたいね」
「お友達…?ナイトメアが!?」
「でも、あの子達は互いに喰らい合って強くなったし、その力は私がもらったから。私を強くしてくれてありがとう、深雪ちゃん」
そこまで聞いて、深雪にもようやく事情が飲み込めた。
「優美さん…ナイトメアに精神を喰い尽され、あの眷属に成り果てたのですね」
銀色に輝く優美の服とメイクを見ながら、彼女は悲しげに言った。
一方、優美は嬉しそうに微笑んでいる。
「確かに私はナイトメアになったけど、あくまであの子達を…そしてタナトス様を受け入れただけよ。
抜け殻にナイトメアが住み着いたんじゃなくて、私自身の精神がナイトメアとして生まれ変わったの」
言い終わるとともに、優美の体から無数のワイヤーが伸びた。
「おしゃべりはここまでにしようね。深雪ちゃんにも…その喜びを教えてあげる!」
びゅっと音を立て、触手が深雪の体に絡み、侵入しようとした瞬間、その動きがぴたりと止まった。
「え!?ど、どうして?私の触手が…」
止まっただけでない。優美の意思に反して、奇妙な動きを見せている。
深雪の瞳が、哀しげに、そして妖しく輝いていた。
「恋敵とはいえ…優美さんとは戦いたくありませんの」
「ま、まさか深雪ちゃんの力…?そんな、私が人間なんかに操られ…」
優美の表情が戸惑いから焦りへ、そして怒りへと変わっていく。
「くうっ…こ、こんなはずでは…!き、貴様あ…離せぇっ!」
「人を癒すべき優美さんのお声で、悪しき言葉を放つ…許しませんわ、ナイトメア」
「う、うぐぅっ!?な、何をする気なの…」
優美の触手が再び動き始め、伸びた。ただし優美自身の方へ。
人間を支配してきたその金属線は肉体に絡みつき、耳と腹部へ挿し込まれ、彼女自身を拘束した。
びくっと大きく体を揺らす優美。ナイトメア特有の瞳孔の細い瞳から意思の光が消えた。
自らの能力に拘束され、ぼんやりと立ち尽くす彼女に深雪は詰め寄った。
「あなたは何者なのです?」
「私は…ナイトメア朝倉優美」
「人の肉体を奪ったナイトメア自身が私の中に入ったのであれば、あなたのイデアも空になって襲われる危険を負っているはずですわ。
あなた自身は分身に過ぎず、本体がイデアに残っているのでは?お答えくださいまし」
優美はこくんとうなずいた。
「私は…ナイトメア優美の影。本体は、イデアでナイトメアとしての…覚醒を待っているわ…」
その言葉に、深雪は一瞬にしてある決断を下した。
「人間である優美さんの意識体は、まだ残っておりますのね?」
「…私が、送り込まれてきたときは…まだ…」
「では、深雪を優美さんのイデアまで案内してくださいませ。これは命令ですわ」
通常、ナイトメアは人間の精神を喰い尽し、そこに根を張って新たなイデアを構築する。
だが所詮ナイトメアであるため、思考や行動は非常に単純な「攻撃と支配」というものになりやすい。
しかしナイトメア優美は精神攻撃を使おうとするなど、人間に近い行動も見受けられた。
深雪は賭けたのである。自分の強い能力と、優美に残された意志力に。
社の外に出ると、深雪は扉を閉じた。
イデアを空にするのは危険だが、己の精神力であれば並のナイトメアには侵入できない。
「さあ、ナイトメアの優美さん。深雪をお連れなさい」
「…うん…こっちよ…深雪ちゃん…」
優美は深雪の手を取り、ふわりと飛んだ。
「優美さん…お待ちくださいませ。深雪が、必ずお助けしますわ」
現実世界においても、変わらず二人は向かい合って眠ったまま。
だが、表情が険しくなっているのは優美の方だった。
- 遅くなりました。前編は保管庫にうpされてます
とくめーさんに感謝(`・ω・´)
多くの大樹と養分豊かな地、柔らかい光に満ちていた優美の内面世界=イデア。
しかしナイトメアの手に堕ちたとき、彼女のイデアは人格もろとも変容した。
木々や草花は鋼に、土は鉄粉に、水は毒性になり、鋭い葉やトゲが他者へ牙をむく刺々しい世界。
攻撃的に歪んだ性格を隠すかのように、鈍い電気の光が金属の世界を照らし偽りの彩を与えている。
そして金属の植物はワイヤー状のツタを伸ばし続け、今なお優美を侵食し続けている。
「ナイトメアがここまで優美さんの精神を汚染し尽くしているなんて…これではもう…。
…いいえ、本当の優美さんの精神がまだ残っているはずですわ」
自分自身にワイヤーを挿入し、自ら深雪の操り人形と化している優美(の分身)を見て、深雪はつぶやいた。
「さあ、ナイトメアの優美さん。深雪をあなたの本体のもとへ案内してくださいませ」
「…うん…深雪ちゃんの言う通りにするわ…」
だが、優美の精神内において深雪は外部からの侵入者でしかない。
うつろな目をした優美に導かれる中、植物や水が次々と深雪を阻むべく襲い掛かった。
人間が自分の精神を侵食されまいとする無意識の行動なのだが、ナイトメア化した優美の攻撃性は人間の比ではない。
深雪の巫女装束に切り裂かれた跡が無数に走り、肩や足がはだけ始めた。
よろめきつつもなんとか奥へと進み、ある鋼鉄の大樹の下に来たその時、不意にすうっと優美が消えた。
驚いた深雪だが…操っていた分身が消えたということは、存在する必要がなくなったということだ。
「まさか、ここが優美さんのイデアの最深層ですの?」
よく見ると鋼鉄の砂の上に、枯れ果てた草きれが落ちている。深雪は目線を上げた。
「…優美さん!」
深雪は能力を使ってふわりと飛んだ。金属の幹に細く、しかし不壊の鋼糸で優美が縛り付けられていたのだ。
いや、胴体は縛られているというより、幹と同化していると言った方が正しい。
体のラインはくっきり浮き出ているものの、完全に金属化しているのだ。
手足や頭は鋼糸に縛られ、少しずつ包まれ始めているものの、白い肌の部分がまだ多い。
意識はあるようだが、開いた口や耳に挿し込まれたプラグ状の糸の影響であろうか。開いた瞳には意思が感じられない。
「優美さん…桐生院深雪ですわ。どうか目を覚まして…」
「…攻撃…」
「きゃあっ!」
自由でない優美の片手から、衝撃波が深雪を襲った。
「優美さん…自分の精神に合わない攻撃技を使ってはいけませんわ!ナイトメアの思う壺ですのよ」
「…攻撃したいの…」
- 衝撃波を次々と放ちながら、優美はぶつぶつとつぶやく。
「私は攻撃技がない…だから弘樹くんの足手まとい。…ナイトメアになれば…攻撃できる…。
攻撃を、強くするには…タナトス様のお役に立つ…それには、ナイトメアの、分身、を…増やす…そうすれば強く…」
「優美さん…弘樹さんへの想いを忘れてはいけませんわ!!」
攻撃に耐えながら、深雪は両の手で優美の頬に触れ、その瞳をじっと見つめた。
「弘樹さんは、優美さんにしかない癒しの力をお褒めになっておられましたわ。攻撃などできなくても大切な仲間だと」
こう言いながら、やはり弘樹に好意を持つ深雪の胸はきりきりと痛んだ。
「その稀有な力を明け渡し、しかも弘樹さんに嫌われては、いわゆる…
ええと、何でしたかしら、『安物買いの銭失い』という言葉でよろしいのでしょうか?
深雪にはお金の価値など分かりませんが…とにかく大きな損失ですのよ」
わずかに残った力を発揮し、優美に人間の心を取り戻させようとする深雪。
全力を「暗示」に注ぐことで、宙に浮かぶことができなくなる。よろめくと、彼女は鉄の大地へと落下した。
だが頭を打ち付けるより一瞬早く、絡まったワイヤーが彼女を受け止めた。
そして失神しそうな深雪の体に、わずかながら活力が戻る。
「深雪ちゃん…大丈夫!?」
優美が、目の前にいた。金属質の服を着ているが、その瞳は人間のものだ。
「まあ、優美さん…!正気を…人間の心を取り戻したのですか?」
苦しそうに肩で息をしながらも、優美は気丈にうなずいた。
「力はほとんど戻ってないけど…深雪ちゃんのおかげね」
静かに、しかし嬉しそうに言ったところで、優美はかあっと顔を赤らめた。
「や、やだ…私、こんな大胆な服…自分のイデアを制御できないから、これしか着れなくて」
「まあ、それはそれでお似合いだと思いますわ。深雪の巫女服などこんなに破れてしまって…はしたないですね」
弱っているにも関わらず微笑む二人の顔には、希望が浮かんでいた。
「深雪ちゃん、力を貸してくれる?イデアからナイトメアを追い出…っ!?」
びくっと優美は体を震わせた。
- いつの間にか、彼女の背後に誰かが立っていた。
「ダメじゃん。人間なんかに意識を奪われちゃったらさ」
「い、泉さん!あなた様までナイトメアに…」
驚愕する深雪の視線には、長身でショートカットの杉浦泉の姿があった。
額に宝石飾りをつけ、胸元の白布とスリットスカートで隠れた片足を除いて
スタイル抜群の体を露出している彼女は、古代の巫女のように見える。
だが…青白い艶やかな肌、頭に生えた角、尻から伸びる尾、そして細い瞳孔は、彼女が悪魔に身も心も売ったことを意味する。
瞳だけは人間のときのように反発心あふれるつり目をしているが、
その実、今の泉には命令に従うこと、媚びること、破壊すること、しか頭にない。
「泉さん…ナイトメアになって日は浅いでしょう?正気に戻って、お願い」
訴える優美の言葉に、泉は動じる風もない。
「忘れたの?あんたがあたしをナイトメアにしたんだよ、優美様。
あんたさえナイトメアに隙を見せなければ、ね。あんたのせいでこうなったんじゃない」
責めるような口調で泉は言った。それが優美の心にダメージを与えることを計算して。
案の定、優美の表情に動揺が走る。その瞬間に泉は優美の背後を取り、彼女に密着した。
腕が、尾が、優美の体に絡まる。
「優美さん!」
「動かないでね、深雪」
泉は鋭く深雪を制すると、今度は吐息を優美のうなじにふきかけた。
甘い香りが優美の鼻腔をくすぐり、体から力が抜ける。
「はう…ん」
泉の尻尾が巧みに優美の体をくすぐる。
「優美様、あたし達は何のために存在するの?」
「あ…弘樹くん…と、戦っ…うん…世界を…はああっ」
泉の指が、形のいい優美の胸に触れ、優しく彼女に刺激を送る。
「違うでしょ。あたし達はナイトメア。タナトス様の分身にして下僕…だよね」
「あ、ああ…そうっ。私たちはぁ…タナトス様、はぅん、の」
「そう…だから、優美様。能力を使って、自分を正気に戻してね」
その言葉と同時に、恍惚とする優美の髪と爪の一部が鋼糸と化してその身に侵入した。
「ゆ、優美さん…そんな!」
「う…うぅう…ん。ふふ、うふふふふ…」
深雪の目の前で、優美はたちまち己自身を弄び、再びナイトメアへと戻った。
いや、戻っただけではない。体型が一層色っぽくなり、金属質の服も変形した。
模様の浮かび上がった腹部を大胆に露出し、胸元もさらに主張を増した。
切れ目が深々と入ったミニスカートは明らかにインナーを見せるため。
そして恐ろしいことに、同性である深雪までもが誘惑されそうな吸引力。
優美に魅了されそうな自分を察知した深雪は、急いで自分のイデアへと戻った。
「優美さん、お許しくださいませ…でも2人同時には」
だが、2人ではなかった。
自己のイデアに戻った瞬間、くらくらしそうな香りが彼女を襲った。
深雪のイデアである社。その外にも内にも、真っ赤な彼岸花がびっしりと咲いていたのだ。
「私のバラが、ここでは彼岸花になるのね」
「あ、ああ…」
深雪は絶望してその場に崩れ落ちた。
2年上で、かつての仲間である篠原智美が、ナイトメアの瞳を輝かせていた。
そのまま彼女は動けなくなった。彼岸花に含まれるという毒のせいだろうか。
「相変わらずね、智美お姉さま。花を咲かせて間接的にイデアから力を奪うなんて」
「追って来たのね、泉さん。箱入りのお嬢様に世間の毒を教えてやるにはちょうどいいでしょう?」
意識が遠のいていく。深雪は柔らかい花の上にどさりと倒れた。
「ダメだよ、深雪。そのまま死んだらいい分身になれないじゃん」
泉の声が耳元で響く。続いて深雪は背に、泉の豊かな胸の感触を感じた。
巫女服の破れた部分から泉の手足が入り込む。冷たく、それでいて熱い異様な肌の感触が深雪の感覚を狂わせる。
「さ、深雪。…首筋、出して」
耳元をくすぐる泉の声に、深雪はうっとりしながら服に手をかけ、肩まで引き下げる。
あらわになったうなじに、泉が口を開く。尖った牙がキラリと光る。
巫女の直感で、深雪は危機を察知した。だが、首筋にかかる泉の熱い吐息が、あまりに心地よい。
息から、唇が、歯が、深雪の肌に吸い付き、そして魔性の牙が――――――
- 「あ……」
一瞬の痛み。そして自分の中にある「何か」が吸い出される。
だがそれと引き換えに、失った「何か」を忘れさせるような熱いモノが注ぎ込まれる。
深雪の中にあった抵抗の気持ちは、そこで完全に失われた。
「はぁうん…」
艶かしい声を出す深雪を確認すると、泉はそっと口を離した。
深雪はぞっとした。穢された自分に…ではなく、泉の牙を失った肌寒さに。
「い…泉さん…」
「なあに?」
ぺろりと舌で唇をなめ、血の味を楽しむ泉に、深雪は懇願した。
「もっと…もっとくださいませ…
深雪は泉さん…いいえ、泉様のようになりとうございます…どうか、泉様の牙を」
泉は何の感情も浮かべず、ちらりと智美の方を見る。智美はにやりと笑う。
「杉浦さん、彼女も私達の分身にふさわしいわ。
あなたに眠る悪魔の力で…最大限のおもてなしをしてあげなさい」
「わかったわ、智美お姉さま」
命令を受けた泉の瞳に、一転して妖艶な炎が宿った。
彼女は激しく深雪を抱きしめると、その尻尾をしゅるしゅると深雪の足に絡みつかせる。
尻尾は足から次第に這い上がり、彼女の半身に魔性の炎をともした。
「う…はあっ!こ、これはあ…っ!?」
「フフフ。これはあんたの崇拝する…『竜神』だよ」
「りゅ、竜神様…我が家の守り神である竜神様が…ああ、深雪の身体にっ!?」
「そう。ほおら、竜神様が深雪の体を清めていってる…深雪の身体に巻きついていって…」
泉の魔性の言葉は、深雪の意識を完全に捕らえ、意のままにしてしまった。
下半身から腹部までを刺激するこの感触は深雪にとって、もはや泉の尻尾ではなく「竜神」であった。
深雪の肉体に触れ、上気させる指と肌の持ち主も、もちろん「竜神」。
そう思い込むことで深雪自身の意識が、自らを縛る「竜神」を形作っていく。
「竜神様がもう、肩まで巻きついたね。その手は深雪の胸にかかってる」
「あ、ああ、竜神様ぁ…!」
いつの間にか泉が触れなくとも、その言葉に反応し金色の竜が伸びている。
新しい部位の感触を楽しむ泉に代わって、すでにことの済んだ部分を弄んでいるのだ。
今や「竜神」は深雪の爪先から、服の中をくぐり、肩先まで巻きついている。
「さ、次でラストよ。竜神様は牙をむいて、深雪の首筋に噛み付こうとしている」
実際に牙をむき出しにして噛み付こうとしているのは泉なのだが、深雪には区別がつかない。
「その牙を身に受ければ、あんたは竜神様とひとつになれる。…ただし、あたし達ナイトメアともひとつになる」
「まあ…泉様とも…竜神様ともひとつになれるなんて…!どうか…すぐにでもお噛み下さいませ!
深雪の血一滴、髪一本に至るまで、竜神様の…泉様の…ナイトメアのものにございますぅ!」
- 数時間後、現実世界。深雪の母親が扉を開いた。
「…遅うございましたね、母上」
その声に彼女はどきりとした。
彼女の実の娘の声だ。だが、数時間前の彼女とは似ても似つかぬ空気をまとった深雪である。
ストレートの長い黒髪。巫女服をはだけ、肩から胸元まで露出し、首輪を巻いた妖艶な姿。
唇と目尻に朱が塗られ、人ならざる輝きを放つ瞳、あでやかな色気をまとった顔。
いつ手に入れたのか、首輪から細い鎖が伸び、際どい着こなしを保つようになっている。
高校1年とは思えないほどの妖しい魅力と威圧感を、今の深雪は放っていた。
「み、深雪さん…竜神様は降臨なさったの?」
「このわたくしの姿を見て想像がつきませんの?人間の限界ですわね」
想像はつく。だが、これほどの変化を見せるとは。
もし深雪の母親に超能力があれば、娘に絡みつき、首筋に歯を立てる竜…
すなわち深雪自身が創り出し、自身に寄生するナイトメアの姿を見ることができたかもしれない。
しかし力を持たない母親にできるのは、力を得た深雪の命ずるままに動くことだけ。
「母上、車を用意なさい。わたくしは科学庁に用がありますの」
「わ、わかりました」
「早々になさいませ。竜神を宿したわたくしはこの家の当主。そうでしょう?」
母親としては従うしかない。竜神の宿った者の言うとおりにすれば、桐生院家は安泰なのだから。
科学庁の研究室に深雪が入ったのは、目覚めてから数十分も経っていない頃だった。
「桐生院家の新当主、深雪にございます。タナトス様にはご機嫌麗しゅう。…まあ、皆いらっしゃるのね」
優美、智美、泉。3人の少女は代わらずタナトスの左右にはべっている。
だが先ほどまでと違い、彼女らがまとっているのは制服や私服ではない。
メタリックなミニスカとボディコンスーツを着て、金属色のネイルやメイクを輝かす優美。
黒と紫のナイトドレス、黒バラの髪飾り、そしてそこから伸びるツタで身体を締め付ける智美。
青い肌にコウモリの翼、尻尾と角を生やし、魔性の巫女服を着て、鎖で己が身を拘束する泉。
そして、うなじに噛み付く竜神を手で愛でる深雪。
「さすが僕の分身たちだ。現実世界においてもナイトメアの姿を発露できるようになったとはね」
満足そうにうなずくタナトスに、優美が答えた。
「深雪ちゃんのおかげです、タナトス様。
人間だったこの子の洗脳に一度負け、それに打ち勝ったおかげで私は進化できたの。
でも泉さんの協力で正気に戻れなければ、今頃忌まわしい人間に変えられていたかもしれません」
智美がいつもどおり不機嫌そうに続ける。
「朝倉さんを助けるのは手間でしたが…彼女の新たな能力によって私達も改造進化を遂げたのは怪我の功名ですね。
これでより一層、現実世界で力を振るうことができますもの」
「人間を装っているより、ナイトメアの本当の姿をする方が精神力の消耗も少ないから楽だね」
「タナトス様を受け入れたことにより、わたくしの暗示の力も強力になりましてございます。
桐生院家の財力と合わせれば、人間を手玉に取るのも簡単なことですわ…ああ」
竜神の感触を楽しみながら深雪が言った。
冷たく熱い快感。とてつもない力を得られる興奮。常に分身達とつながっている同一感。
人間の体にナイトメアの精神を宿した彼女らは、いつしかその肉体までナイトメアと同化し、新たな存在へと進化しつつある。
想像を絶する力に、人としての心など忘れかけて。
完