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「体の要」を大切に |
☆★☆★2010年12月18日付 |
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朝晩の冷え込みも厳しさを増し、本格的な冬の訪れとともに年末の慌ただしさが感じられるようになった。今年もあと2週間を残すところとなり、この1年の「自分」を振り返ってみたい。 まず真っ先に思い浮かぶのは、とにかく今年は腰痛に悩まされたことである。春ごろから腰回りに違和感をおぼえ、“だまし”ながら体を動かしてきたが、秋になって耐えられないほど痛むようになって思わず病院へ駆け込んだ。 レントゲンやMRI検査の結果、医師から「背骨の一部がぐらついて神経を圧迫しているようだ」と診断。1日3回食後の痛み止めの薬を飲む羽目となり、朝晩は座薬を使った。 しかし、痛い。寝ていても、座っていても痛い。特に立っているときがきつく、1分も立っていられないほどだった。医師からは「時間がかかるかもしれないが、痛みはきっと治まるはず」と言われ、その言葉通りになるよう“一日千秋”の思いで薬を欠かさず飲み続けたが、痛みは治まらなかった。 普段の取材活動で、立ちながら人の話を聞く機会は多いが、腰が痛かったこの時期は誰の話を聞いているときも「気持ちここにあらず」で、「早く取材を切り上げて座るなり、横になりたい」と思いながら耳を傾けていた。 それまでも何度となく腰痛に悩まされることはあったが、この時の痛みは尋常でなく、ただひたすら薬の効果に期待するばかりの日々だった。 しかし、1週間過ぎても治まらず、10日過ぎても症状は緩和されなかった。夜は眠れず、痛みから何度も起きてしまう始末。それに加え、右足首周辺がしびれるようになり、家の中でスリッパを履いていると右足だけが脱げやすく、少しの段差にもつまずくようになっていた。 そんなある日、寝不足から頭がスッキリしていなかったこともあって、薬を飲み忘れてしまった。ところが痛みは同じ。薬を飲んでも飲まなくとも、痛みは同じだった。 そんな時、偶然にも病院で親せきにバッタリ。かなり以前から腰痛に悩んでいるらしく、「試してみたら」と『マッケンジー体操(腰痛体操)』という本を手渡された。 この体操は、ニュージーランドの理学療法士・ロビンA・マッケンジー氏が考案したもので、腰部分を伸ばすエクササイズ。簡単に説明すると、腰を反らせるか、いすに座って前かがみになる動きをして腰痛を治すというもの。 これまで、腰痛と言えば腰を背中の方に反るような動かし方は厳禁とされていたが、現在ではこのような動かし方が多くの整形外科や整体院で指導され、特に椎間板ヘルニアを含む椎間板損傷による腰痛の治療、姿勢不良や関節機能不全による慢性腰痛治療に効果を上げているという。 この本を手に、さっそくわらをもつかむ気持ちで床にうつぶせとなり、両手を胸のわきに持ってきて上半身を背中の方に反らせ、10秒ほどアザラシのような形をとった。これを3セット繰り返してみたところ、初めて試しただけで少々痛みが引いたような気がした。 そこで、朝晩の日課にして3日ほどたつとほとんど痛みがない状態となり、あれほどの悩みがうそのような晴れ晴れとした気持ちとなった。 もちろん、腰痛が治まったのはこの体操の効果なのか、医師が言った通り痛みがなくなる時期がようやく訪れたのかは分からないが、年末を迎えてこれまでの悩みから解放されたことに、まずはホッとしている。 ふだんから多少の運動を心掛け、食生活にも気を配るなど、これまで以上に「体の要」をいたわりながら生活していくことの大切さを痛感した平成22年だった。(鵜) |
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見本をなぞる日々 |
☆★☆★2010年12月17日付 |
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字を書くのが下手だ。今までは文字は読める程度に書けさえすればそれでいいと思っていたが、最近ようやく「形も美しくありたい」という願望が芽生えた。 先日、書店でボールペン字の教本を購入した。1日3〜5n程度の練習量だから正味20分ほど、見本にならい薄く書かれた線の通りに書くだけだから小学生でもできる。教本によると、文字の全体的なバランス、美しさいかんの前に「線をまっすぐに引くこと、曲線をきれいに描けるようになるだけで字が整ってくる」のだという。その一文を読んで、すでに字が上手になった気がした。 しかし、いざ見本をなぞってみると、主線からはみでたりラインがゆがんだり、偏ったりとうまくいかない。まっすぐ引いたつもりが本当につもり≠セけだったりする。そして思いのほか集中力が続かない。 古代ギリシャの数学者アルキメデスは、砂地に描いた幾何学図形に夢中になり、ローマ兵に誰何されても返事をしなかったために槍で突かれて殺されたという。死んでしまうほど夢中になれるなんてうらやましい、その力を私にもください!――と思いつつ、途切れる集中力を補うべく、発想を変えて図形に見立て字を整えて書いてみる。少しはさまになってきた。 なぞり、なぞらえることで、形になって身に付いてくる。 同様に世の中の大部分は、なぞらえていたら形となり身(実)となることばかりだなと、ボールペン字の練習中に雑念が入り交じった。 来年は数え年で33歳、厄年に行う気仙地方独特の同窓会「年祝い」が正月に開催される。一種の伝統行事であり、その運営は地元にいる者が行うのが当然…ということで筆者にも声がかかり、本番へ向けて同級生たちとともに手伝いをしてきた。 はじめは「先輩たちもやっていたことだから、その通りやってみますか」と、前例≠まねればいいという気楽な流れだった。先輩たちから資料提供や助言、教訓もいただき、準備を始めたが慣れぬ作業に四苦八苦した。しかしそこは同級生同士、思い出話や近況報告に花を咲かせつつ、時に楽しく事を進めてきた。 先輩のあとをなぞればいいと思っていた伝統的行事は、準備が進むにつれ、どんどん味や実りが出てきた。自分たちの代はこんな会にしたい、というアイデアや発想など年祝いそのものの中身の充実に加え、同級生たちと相互に連絡していくうちに、同級生のつてで知り合えた人もあり、旧知の仲でありながら改めて新しいネットワークがつくられた。 さらに同じ年齢の方とは各学校の状況などを互いに情報交換、年下からは年祝いの相談を受けたりもする。そして同年代に限らず、気仙に住まう大人にとって年祝いは共通の話題となり話も盛り上がる。それこそ年祝いのおかげで縦横無尽に関係が広がってきた。 年祝いの準備を通じて、形となってきた私たちの年祝い≠ニ改めて同級生たちと紡がれた交友関係。このことは人生の中でもかけがえのないものになると確信しながら、本番に向けて最後の追い込み準備をしている。 そう、年祝いで実感したのだ。「なぞらえていけば形になり、想像以上に身になる」ことを。ちょっとくらいうまくいかなくても愛きょう、それが持ち味にだってなる、だから同様に…とすでにボールペン字の練習に挫折しそうな己の心に言い聞かせている。 そして年祝いがなければ字をきれいにしようと思わなかった。案内状作成や恩師への手紙等で直筆で書く機会と必要性が急激に増え、その都度大人げない筆跡をみんなに届けるのかと、何度気が滅入ったことか。 美しくなる気配を見せない自身の筆跡をにらみながら、いまも見本の文字をなぞっている。(夏) |
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続・平氏の末裔「渋谷嘉助」(36) |
☆★☆★2010年12月16日付 |
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平氏の末裔の渋谷嘉助が、明治時代に大船渡の地に来て石灰石の採石事業を始めた時、気仙の地が平安時代に、同じ平氏である平重盛の荘園であったことを知っていたかどうかは分からない。 今日のセメント産業に発展する基礎を築いた渋谷嘉助が、なぜ、気仙を選んだのかも、今のところ定かでない。いろんな資料を読み進むうちにこの後分かることがあるかもしれない。 「怨親平等」の仏教精神で、敵味方の区別なく菩提を弔った平重盛。渋谷嘉助もまた全ての人を平等に愛する「一視同仁」の慈悲の心の持ち主であり、両者の間には信心深いという共通点がある。 気仙の地もまた、気仙五十五カ寺といわれたほど寺院が多く、神社や信仰碑も数多く存在する。そのことは昔から社寺を支える信仰心の篤い人々が多く暮らす土地柄であることを表している。 平氏と気仙のかかわりで、現在にその片鱗を見るとしたら、気仙に多く伝わる郷土芸能の剣舞に平家の平重盛の荘園だった歴史の片鱗がうかがわれると前に書いたが、気仙人が愛してやまないアツモリソウの花にも平家の歴史が重なってみえる、ような気がする。 アツモリソウの和名は、平敦盛が背負った母衣に見立てて名付けられたもの。気仙では増殖も盛んで守り育てており、気仙人のアツモリソウ好きは全国一ではないかと思うほどだ。その名の由来となった平敦盛は、平重盛の従兄弟にあたる。 平敦盛は、大船渡市日頃市町に伝わる板用肩怒剣舞の面にもなっており、源平合戦の一ノ谷の戦の最中に散った。「平家物語」のなかに「敦盛最後」があり、その最後は悲劇的だ。討ったのは源氏方の武蔵国の熊谷次郎直実。 沖にいる助け船に乗ろうしていた平家の公達たちの中に、萌黄匂の鎧を着て金覆輪の鞍を置いた連銭葦毛の馬に乗った17歳の平敦盛がいた。平敦盛は戦いを挑む熊谷次郎直実に向かって1人引き返し、波打ち際に上がろうとするところを取り押さえられて首を斬られ絶命した。 薄化粧をして歯を黒く染めた平敦盛の容貌があまりに美しかったので、熊谷次郎直実はどこに刀を刺してよいか分からなかった。可哀想に思う余り目の前が真っ暗になり分別心を失い、泣く泣くその首を斬った。平敦盛は錦の袋に入れた笛を腰に差していた。愛用の笛「小枝」は、祖父の平忠盛が鳥羽天皇から授かったもの。 熊谷次郎直実は「戦陣に笛を持って行くとは身分の高い人はやはり優雅なものだ」と言って源義経に見せ、また涙した。非情な戦に無常を感じた熊谷次郎直実は出家し、法力坊蓮生と名乗り、法然の弟子となり、極楽往生の「上品上生」を願った。平敦盛を討ったことが仏道に向かわせたとされる。 熊谷次郎直実の父の熊谷直貞は、桓武平氏の平盛方の子で、源氏方の武将ではあるが、平家の血を引くとされる。源平合戦では、敵味方に分かれたこうした例が多いのだという。 熊谷次郎直実に由来したクマガイソウも、気仙の地に咲いており、アツモリソウと共に守り育てられている。二つの花が揃って咲いている。それは、敵味方もない怨親平等を見るような象徴的な光景である。(ゆ) |
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気になるデータ |
☆★☆★2010年12月15日付 |
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戦後、栄養状態の改善によって続いていた児童・生徒の身長の伸びにブレーキがかかっていることが、平成22年度学校保健統計調査(速報)で明らかになった。増加傾向にあった体重、メタボな子どもの割合もピークを過ぎ、ここ数年、減少、低下傾向を示している。 調査は今年4〜6月に実施。全国の幼稚園と小中高校合わせて7755校から対象となる児童・生徒(5〜17歳)を抽出し、約69万人の発育状況と約335万人の健康状態を調べた。 それによると、男子の身長はすべての年齢層で前年度を上回らなかった。身長が伸びた年齢層がなかったのは、昭和23年度に調査を開始して以降初めて。女子も13歳と17歳を除くすべての年齢で横ばいか減少だった。 児童・生徒の身長は、男女とも平成9〜13年度ごろにピークを迎え、その後、横ばい傾向が続いている。調査結果を公表した文部科学省は「栄養状態が悪化したわけではなく、遺伝的要因が強い」と分析。日本人の骨格や安定した食生活環境などから「身長は頭打ちになりつつある」と推測する。 一方、体重は女子がすべての年齢層で前年度を上回らなかった。男子で前年度を上回ったのは13、14歳と16歳。戦後、増加傾向にあった男女の体重も、平成10〜15年度ごろをピークとして右肩下がりの傾向にある。 体重に関しては、昭和52年度から上昇傾向にあった肥満傾向児(肥満度20%以上)の出現率も低下傾向を示している。算出方法を変更した平成18年度と22年度で比べると、全体に占める肥満傾向児の割合(全体)は12歳の1・75ポイント減を最高に、5歳を除くすべての年齢で低下。健康志向が高まる中、過食対策や食生活改善、運動習慣への意識が子どもを持つ家庭に浸透してきた結果ではないか、と思う。 一方で、気になるデータもある。児童・生徒の視力の低下だ。 調査結果によると、裸眼視力が「0・3未満」の割合は幼稚園児が0・79%、小学生が7・55%、中学生が22・25%。この5年で幼稚園児は0・32ポイント、小学生は1・8ポイント、中学生は2・6ポイントそれぞれ増加し、幼稚園児と小学生は過去最悪の数字となった。 「1・0未満」の割合では、29・91%の小学生と52・73%の中学生が過去最悪を記録。30年前に比べ、小学生は10・17ポイント、中学生は14・61ポイントも上昇しており、視力の悪化が急スピードで進んでいることが分かる。 視力低下の最も大きな要因は、子どもたちを取り巻く環境や生活様式の変化だろう。テレビゲーム、携帯電話のメール、パソコン…。子どもたちの周りには近くを見続け、目を酷使してしまうものが溢れている。塾通いの子どもが増え、教科書や参考書など細かい字を見続ける時間が増えたことも視力の悪化に関係しているかもしれない。 人間は、外界からの情報の80%を目から得ているといわれている。その情報を正確に認識して脳で処理するための視力が低下すれば、運動や学習をするうえで大切な思考力や創造力の発達に大きな影響が出てくるだろう。 問題は、視力の低下が生活習慣病化しているにもかかわらず、国、学校、家庭での総合的な環境変化への対策が遅れていることだ。正しい目の使い方や目を休ませるための指導も十分とは思えない。 筆者が小学生のころは、視力訓練法として遠くを見る運動が定着していた。こうした教育的観点からの基本的な取り組みが、今こそ必要ではないか。 子どもの視力低下は、大人の3倍以上の速さで進行していく、という専門家の指摘もある。視界不良のままでは、子どもたちの将来が危うい。(一) |
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不肖の弟子でごめんなさい |
☆★☆★2010年12月14日付 |
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来日したイスラエルフィルの演奏をテレビ鑑賞していたらティンパニー奏者が日本人のように見え、そこから「彼」とのかかわりを知りたくなった。 「彼」とはそのイスラエルフィルで首席ティンパニストを務めていた佐々木達夫さんのこと。昭和40年代その彼が同フィルに入団したこと以外は、そのいきさつもその後についてもまったく知らずにいた。なんでもネットで検索できる時代とは異なり、当時は音楽雑誌などで動静を知るぐらいが関の山。ましてウィーンやベルリンなどのメジャーオーケストラならいざ知らず、一国を代表するオーケストラであってもよほど特徴でもなければ、音楽ファンの口の端にのぼることもないのが普通だからなおさらである。 忘却のかなたにあったその思い出の封印を解いたのが冒頭の光景である。首席を任されるほどの実力であれば、後継者に日本人を推すぐらいの実績は積んでいるだろう。そしてその通りになった、というより日本人奏者の〈定席〉となったのではないか―と推測したわけである。ところがネットで調べると首席は日本人でもアジア人でもなく、打楽器奏者の名簿にもアジア系らしき名前は見当たらなかった。 そんなことより何よりここで改めて彼のプロフィールと活動の軌跡を知り、驚いたというか納得させられたことは、何かの導きで蒙を啓かれる思いであった。 佐々木さんは実は当方の師匠であり、彼などと気安くよぶのはおこがましくもおそれ多いことなのだが、ここでは許していただこう。 師事したのはティンパニーの奏法を習うためだった。 それにはわけがある。 当方が学校のオーケストラ部に入部してこの打楽器をやむなく(本当はホルン志望だった)担当することになったのはいいが、定期演奏会でいきなりシベリウスの交響詩「フィンランディア」を演奏することになったのだからたまらない。 ロール(連打)を延々と続ける、ティンパニストにとってはたまらぬ醍醐味を持つこの曲も、初心者には地獄の難曲である。案の定、本番でみごとに〈ダッチロール〉し、赤っ恥をかいて演奏会後もしばらく憔悴しているさまを見て、無理強いした先輩たちも自責の念にかられたのだろう。なんとクラブの〈給費特待生〉となったのである。しかもかの東京芸術大学で打楽器のレッスンを受けよという破格の待遇である。 かくして週1回1時間、上野公園に近い同大学での特訓を引き受けてくれたのが彼で、当時芸大打楽器科のまだ2年生。しかし模範演奏で見せてくれた小太鼓のロールは部屋が割れんばかりの大迫力で、小柄な体のどこからそんな力が出てくるのだろうとただただ圧倒されたのが初対面の思い出である。 レッスンはシングルとダブルの連打を基礎から叩き込まれ、おかげでティンパニーのロールには自信がついた。そこから先、小太鼓の高度なテクニックに移る段階で師事が終了したのは、彼の都合ではなく、これ以上クラブに迷惑はかけられないというこちらの思いからだった。 彼が国内のオーケストラに在籍できなかったのは、先輩たちがすでに収まっていたからだろう。2年先輩の3人中2人がNHKに、もう1人が日フィルに入団しており、その他にも空きがなかったことは確かだ。 卒業後の彼の足跡を知ってただものではなかったことを知った。フルブライト留学生として渡米、研鑽を深めてプロとなり、イスラエルフィルの後は日フィル、ブラジルシンフォニーを経て、米国はサンディエゴシンフォニーで現在も首席を務めている。そんな経歴やさらに彼がシロフォンやマリンバなどの木琴奏者としても知る人ぞ知る存在であることを教えられ、また、数々の演奏会評でその才能を名だたる批評家たちがみな絶賛しているのを確認もできた。もう紙数が尽きるのは残念だが、その名演ぶりを知りたければCDが出ているのでぜひお求めいただきたい。それにしても自分がまさかこんな名人に師事していたのかと思うとまるで夢のようである。まさに不肖の弟子であった。(英) |
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「伊達女」にまた会える |
☆★☆★2010年12月12日付 |
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芸術分野は全くの門外漢だったが、学生時代に単位取得のため、いや応でも美術関係の講義を受けなければならなかった。そこで、西欧絵画にはある程度の基礎知識を知っていないと、十分な鑑賞ができないものがあることを知った。 要はその意味を理解することで、たとえば十字架が信仰を物語るのは当然。犬ならば従順、キツネなら狡猾、鏡なら真実、リンゴなら禁断という具合に、宗教や文化が前提になっていることが基本ということだった。 そうではあっても、絵は個人の感覚で評価が決まると思わされたのは、ゴヤの「着衣のマハ」を見た時だった。単位が絡んでいるため時折美術館に足を運ぶこともあり、有名な「モナリザ」来日時も上野の森に出かけたが、あまりの人の多さに「見た」で終わった。 しかし、巨匠フランシスコ・ゴヤ(1746―1828)の特別展では、プラド美術館の超目玉品「裸のマハ」と「着衣のマハ」を好きなだけ鑑賞できた。 マハは個人名でなく、飛んでる小粋なマドリード娘、しいて訳すと「伊達女」程度の意味だという。受講仲間と出かけた時のお目当ては、当然ながら「裸のマハ」。しかし「着衣」を見た時、そこから離れがたい衝撃にとらわれた。 二つのマハは縦95a、横190aもの大きさ。奔放な目つきと開放されたポーズでベッドに横たわる姿は、2枚とも全く同じ。ただ衣服の有無だけが違う。なぜゴヤが近代絵画の先駆者と呼ばれたかは、このうち「裸」にある。それまでの西洋絵画にも裸婦像は溢れているのだが、表向きには神話の中の女性として描かれていた。 ゴヤの場合は、そこら辺にいる伊達女を着衣と裸で描いたわけだから理想の女性でも女神でもないが、逆にそこに先駆性があるという。まして、宗教的な禁圧の強かった19世紀初頭のスペインにあっては、考えられないほどの「近代性」だったとの解説がある。 二つのマハには有名な逸話もある。作品のモデルはアルバ公夫人で、ゴヤとは愛人関係にあった。アルバ公が不意にアトリエを訪れた時のため、「裸のマハ」を「着衣のマハ」で隠していたというもの。 しかし実際のモデルは別人であり、絵を描かせたのも成り上がり宰相マニュエル・ゴドイとされる。ナポレオンが侵略するまで、マハはゴドイの秘蔵品だったわけだが、ゴヤ自身には前半生の華やかな宮廷画家時代と、耳が聞こえなくなって残酷なまでの観察者になった後半生とがある。 マハは、その後半生の作品。単に美的存在への憧憬でなく、「逃れがたい人間の運命」を追求したあげくの表現方法が連作になったと解説する評論家もいる。 美術史におけるガイドは、そうした説明をしてくれるのだが、確かにマハは8頭身の理想体型でなく、少し胴が長すぎる感じがする。両手を頭の下に置いた首の傾きも不自然との指摘も、以前からある。 しかし個人的な感想では、「着衣のマハ」に描かれた肩口から腕にかけての黄色い着衣、ことにも肩口の黄色には、しばらくその場を立ち去れなかった。絵の評価にはさまざまな要素があるのだろうが、単純に「色彩」そのものに心が引きつけられた。 あの時、なぜあの黄色に魅惑されたのか。当時の感覚が、そう受け止めただけなのか。それとも30数年すぎても、輝くような彩色はやはり自分の心をとらえるのだろうか。 スペインにそれを確かめに行くにはあまりに遠く、伊達女は過去の記憶にだけ残るものと思っていたが、再会のチャンスがやって来た。読売新聞社とスペイン国立プラド美術館は、来年10月から国立美術館での「ゴヤ展」開催に合意したという。 東京で、青春時代の伊達女とまた会える。あの時の感動が再びよみがえるのか、それともまったく違った印象になるのか。会いたいような会いたくないような、でも会わずにはいられない気持ちもまたある。(谷) |
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戸田市政で変わることは |
☆★☆★2010年12月11日付 |
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大船渡市政の舵取り役を務める新リーダーを決めた市長選。11月21日の投開票まで、3候補による戦いが繰り広げられた。 2回目の挑戦で初当選を飾った、戸田公明現市長。出馬表明を行った記者会見は、まだ猛暑が続いていた8月中旬に、大船渡町内のホテルで行われた。 端的な結論を言うと、あまりマスコミ受けが良かった会見ではなかった。「多様な地域課題の克服」「行政と市民との情報共有が活性化となる」といった基本姿勢に対し、記者側の質問は実現に向けた具体的な手法や、市政をどう変化させたいのかに集中した。 回答では「市広報で、市側が地域課題を情報開示して問題提起することがほとんどない」などと、現状を指摘した。具体的に自身がどう改善させるかまでは踏み込まなかった。その分、と言えば変かもしれないが、回答を聞きながら、指摘から浮かび上がる変化の行方を自分なりに考えてみた。 イベント開催の周知や定期的な記者会見などを見れば、これまでの市政が情報開示に消極的とは言い切れない。ただ、住民や行政組織に対するマイナス情報や地域課題を取材する際、頑なに拒否される訳ではないが「このデータは市民が不安になる」との言葉が添えられることも多かった。 市側の懸念も分かる。災害時のパニックや株価の暴落など、精神的な動揺が事態を悪化させることもある。一方で「隠している」といった印象を与え、信頼関係に亀裂が生じる可能性もある。 例えば、体の不調を訴えて医師に診てもらう。「大丈夫です。治ります」とまず安心感を与え、治療に入る医師もいるだろう。一方、不調をきたす原因を細かく患者側に説明してから、治療を始めるケースも考えられる。 争点のなさが指摘され続けた選挙戦の中で、戸田市長は「方法論を問う選挙」という表現を使った。戸田市長は、後者の医師なのだと思う。ただ、前者でも後者でも、患者となる住民は、最終的には病気をしっかり治してくれる医師を望む現実もある。 選挙後、変化の兆しを感じたのは、5日に大船渡魚市場で行われた「浜一番まつり」でのあいさつだった。「漁業を取り巻く環境は全国的に厳しい」などと、前半は現状認識を語った後、開催による活性化や知名度向上に期待を寄せた。聞き手側の印象の良し悪しは別として、祭りイベントでも、まず地域課題克服に意欲を見せた。 就任から、1週間が経過した。初めて臨んだ9日の定例記者会見では「多忙な毎日を過ごしてきた」と、素直な感想を口にした。 多忙という言葉に、新リーダーとしての充実がうかがえる。半面、多忙であることは時として、自らの思いや理念をしっかり伝えきれないまま業務をこなしてしまう危険性もはらんでいる。 戸田市政が目指す変化に、不可欠なものは何か。情報公開とともに、市民が将来に希望を持ちながら変化を決断できるための説得力と、将来像の共有が必要ではないだろうか。住民や産業界、地域団体が同じ目標に向かって、スクラムを組まなければならない。 地域課題を示す時に説明手法を誤れば、これまで従事してきた関係者の行動を否定していると、誤解される可能性もある。マイナス情報を示しながらの説得や意識共有には、丁寧かつ時間をかけたコミュニケーションが必要になる。 課題明示や指摘だけならば、誰でもできる。課題明示や指摘だけならば、市政は中途半端に終わり、住民には不安だけが残る。当たり前だが、市政を託された新リーダーには、課題克服への着実な行動と実行力が求められる。 今後どのような形で情報開示を進め、地域課題克服への先導役を果たすのか。多忙な市長職の中で描かれる「戸田カラー」を、取材する側としても丁寧にチェックしていきたいと思う。(壮) |
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「新しい年を迎えるにあたり」 |
☆★☆★2010年12月10日付 |
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小紙と親交のある地方紙に、気仙沼圏を中心とした「三陸新報」がある。気仙地方とはお隣同士とあって経済文化など、さまざまな情報交流をしている。過日、その紙面に興味深い広告が載っていた。 それは、「新しい年を迎えるにあたり〜お正月と服喪」と題して、宮城県神社庁気仙沼支部が掲載したものだ。新年を迎える前に、お正月の意味を再確認するとともに、服喪(ふくも)とのかかわりについてわかりやすく解説しており、勉強になった。 それによると、年末を迎えるこの時期、各神社には「ことし身内に不幸があったが、お正月はどのように迎えたらよいか」という問い合わせが多く寄せられるという。 例えば「欠礼はがき」を出し、年賀状を控える。しめ飾りや初詣、年始あいさつなども慎まなければならない。ごく当たり前に思われているしきたりだが、その期間や範囲など、難しいところも少なくない。 これもよく耳にすることだが、町内の式年大祭で「身内の不幸で祭りへの参加は辞退する」ということがある。期間や範囲もあるが、忌み払いをして参加したり、中にはまったく気にしない人もいる。 昔から人が亡くなるとその死を悼み、霊魂が安らかに鎮まることを祈って、親族は一定期間喪に服す。これを忌服(きふく)といったり、服喪といったりする。古くは門戸を閉じ、酒肉を断ち、音曲をなさず、嫁取りをせず、財を分かたず、というようなしきたりが暮らしの中に息づいて、それが今日も部分的に受け継がれている。 神社庁の広告によると、親しい人との死別を悼むこの「喪」の期間は、きわめて個人的な心情の発露のように思われるが、喪に服すという行為は、基本的には「社会からの要求」なのだという。 そのわけは、死は死者の家族親族のみならず、その社会にとって忌むべき尋常ならざる出来事であり、死に伴うケガレ(きたなさではなく畏れはばかること)は家の外には広げてはならぬものとされてきた。 それゆえ、一定の親族だけが知らせを受けて、その死のケガレを分かち合いながら謹慎し、別火精進(べっかしょうじん)をして、死者の霊魂の安定浄化をはかる。これが本来の「忌みごもり」の意味という。 「忌み」の期間中は日常の社会生活を慎み、葬儀と故人のみたまへの追悼に専念する。一方、「服喪」は「忌み」の期間が明けて日常生活に復帰しながらも、死者を追慕し、そのみたまの安らかなることを願っている状態をさす。 前者の「忌み」の期間は、長くても10日とされ、後者の「服喪」の期間は忌中を含んで最長50日とされている。神道では、忌み明け、喪明けには氏神様の神社の神職に家のお祓いをしてもらう。お祓いは喪家の台所の火(死火)をとくに祓い清め、元の清らかな火に戻すのだという。 この考え方に基づくならば、本来、服喪を終えた時点で家庭での神棚のお祭りや神社への参拝は再開してよいことになる。つまり、お正月前に最長でも50日の服喪期間を過ぎれば、お正月を平常通りに迎えることができるということだ、と理解した。 お正月とは、福をもたらす歳神様を迎えてお祭りし、トシ(年齢)をいただく儀式。古来、日本人は月ごとに歳をとってきた。したがって、お正月をしないと歳をいただくことができない。どんな場合でもお正月をしなければならないのは1年の幸福を祈るためだが、この歳をとらなければならないためでもある。 「過剰に喪に服することは、かえって日常生活に支障をきたすことになり、亡くなった人も喜ばないばかりか、神祭りを軽んずる行為ともいえる。今年、ご不幸にあわれた人こそ、お正月には新しい気持ちで新年を迎えてほしい」。神社庁の広告はそう結んでいる。(孝) |
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「白熊」が伝えるもの |
☆★☆★2010年12月09日付 |
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先ごろ、住田町農林会館で5日間にわたって開かれた「いわての宝をみよう」展を見学してきた。県立埋蔵文化財センター、県立博物館、㈶県文化振興事業団による合同展で、岩手の優れた自然や文化について紹介しようと各地で開いており、今回で4回目。住田では初の開催になった。 地質、考古、歴史、民俗、生物の各分野で、同町にちなむお宝≠フ数々がズラリと並んだ。この中で、機会があればぜひ見てみたいとかねて思っていた「住田の白熊」のはく製を目にすることができた。 ホッキョクグマではなく、毛も爪も鼻も、全身が真っ白なツキノワグマ。その子という黒い子グマと一緒に並んでいた。 いまから20年ほど前、世田米北西の通称「朴の木山」(ほおのきやま)の民家近くにしばしば出没していたといい、周辺の住民の間では「誰が山さブダ放した奴いるんでねえが?」と話題になっていたとか。牛舎のえさを目当てに連日現れるとあって有害駆除の対象となり、平成3年11月22日に地元のハンターによって仕留められた。 その翌日、当紙でも世にも珍しい白熊捕獲のニュースを報じており、 「仕留められた白毛のクマは、体長1・2b、体高70aほどのメスで、推定5〜6歳。親グマと一緒に子グマ2頭も仕留められた。子グマはどちらも黒いツキノワグマだった」 「最初に発見した町民は『はじめはカモシカかと思ったが、歩き方がおかしいし、後ろから黒い子グマがついてきたのでビックリした』と興奮ぎみ。さっそく地元の住田銃猟クラブに連絡し、牛舎からわずか50bほどの所で仕留めた」 「われわれにとっては初めてのことで、何万頭に一頭いるかどうかの珍しいクマでは』と話している」 ──などとある。 あえなくお縄となったクマ親子はこのあと、県立博物館に運ばれはく製化された。貴重な所蔵品の一つとなっており、普段は収蔵庫に保管されているという。今回の移動展の目玉として多くの来場者の注目を集め、凱旋≠果たしたのだった。 会場での学芸員の方の解説によると、胸の月マーク以外も白くなってしまったのは、メラニン色素を作ることができなかったがゆえ。こうした個体はアルビノといわれ、目玉が赤いのも、その特徴という。 野生のツキノワグマにアルビノが出現する確率は2万分の1と非常に珍しいというが、北上山系ではこれまでに10例ほども確認例があるとか。このうちの一つに、昭和59年、同じく住田の上有住で一頭が捕獲されており、はく製がいまも町農林会館ロビーに展示されている。 アルビノ個体は目立つことから攻撃される側になるなど短命なケースが多いが、岩手の森の王者であり天敵なしといってもいいツキノワグマにおいては、この公式はあてはまらず、生きて人の目に触れることも増えたのだろうと推測できる。 県内に生息するツキノワグマは奥羽山系で「面長」、北上山系で「丸顔」という特徴が見られるらしい。こうした特徴の表れや北上山系に「白熊」が多いことには、人間が造った道路や森林伐採などによってすみかが分断された結果、近親交配が進んだことも大きな要素とされている。 神々しさを覚えるほどの「白熊」の姿。単にもの珍しさだけでなく、「豊か」の一言でまとめられがちな岩手の生態系や自然環境について、より掘り下げて考える機会をも提供してくれているのだと受け取った。(弘) |
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「天の倉」に積む友 |
☆★☆★2010年12月08日付 |
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「『天の倉』に毎日、善行を積んでいる」我が友の1人がある時、そう話 してくれた。 なんでも、1日に必ず一つ以上は人のために善い行いをするのだという。 どんなことでもいい。例えば、取引先の方が来れば昼食をごちそうする。それも善行の一つなのだとか。だからといって、そのお返しを求めているわけではない。 その話を聞き、我が友ながらすごいものだな、と心底感心した。 彼は社交性に富み、人当たりが柔らかい。見た目にも、実際も温厚そのもので、決して偉ぶらず、人との付き合いをとても大切にする。人のネットワークは私の何十倍も持っている。 しかも、行動力がある。こうと決めたことは善行だけでなく、必ず実行する。所属する会の「百日実践」と取り組むため独学で絵手紙を学び、100日休まずに書いて知人に送り続けたこともある。 そんな人物だから同級生の誰からも信頼され、常にリーダーを務めている。 彼はまた非常に勉強家で、さまざまなセミナーや勉強会にも積極的に参加する。近場だけでなく、遠くまでもよく出かけていく。ともかく学ぶことをいとわない。 「天の倉」の教えもきっとどこかのセミナーで出合ったのではなかったか。そこまで詳しく聞くことはできなかったが、いずれ、いいと思ったことはすぐに実践する。これも彼のすごいところである。 まあ、なんにつけて、私とは対極にいる人物といえる。 さて、その私である。 我が友の話を聞き、とても心を動かされた。私もみならって善行を積みたいとまで思った。 改めて今、我が身を振り返ってみた。 果たして友と同様、「天の倉」に善行を積んできただろうか。 いくら考えても、思い浮かぶ善行がない。心に余裕がなく、自分のことに精いっぱいで日々を送ってきている。 だいたい、毎日一つは善い行いをしようという意識さえ、私は持っていなかった。やはり、我が友は偉いと思わずにいられない。 そういえば、我が家で何かあると、親族らが集まって何かと私たちを助けてくれる。ありがたいことだといつも感謝している。 集まれば決まって、あの時はこうだった、ああだったと祖父や両親に助けてもらった思い出を語り出す。その中には私の知らないことも多い。 祖父や両親から、自分たちのしたことを具体的に聞いたことがない。きっと人に語ることも、誇ることもなく、「天の倉」に善行を積んできたのだろう。 その財産を今になって報恩という形で、私たちが受けている気がしてならない。 この文章を書きながら思い出した言葉がある。 「おらどが人に尽くすのは自分たちのためではない。子や孫のためだ」 亡くなった母の言葉だ。 私に限ってみれば、先祖や両親の財産をただただ食いつぶしてきたように思えてならない。 我が家の「天の倉」には今、先祖や両親が残した財産がどれだけあるだろうか。まだまだたくさんあるのか、それともあと少しで尽きるのか。それは分からない。 ただ言えるのは、私の代で使い切ってしまっては子どもたちに申し訳がないということ。そのためには心を入れ替えねばならない。 とはいえ、私にできる善行などたかが知れている。大金持ちなら多額の寄付もできよう。特別な技能や資格があるならそれを生かしもできよう。しかし、いずれも私には無縁である。友のように「一日一善」以上ともいくまい。 私の場合、人目につかぬよう、自分に似合ったささやかな善行を一つでも二つでも「天の倉」に積み重ねていければと思う。 (下) |
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