第2章 在日韓国人社会の形成〜日本の韓人

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TOPに戻る  強制連行され、底辺労働者として過酷な労働に

 日本に居住する朝鮮人は1883年(明治16年)にはわずか16人だったが、日韓合併の翌1911年(明治44年)には2527人に達した。その頃はまだ留学生が大半であったが、1938年(昭和13年)には79万9878人に達したため、一時的に朝鮮からの渡航制限措置がとられた。しかし、日帝の大陸進出に伴う産業の異常な拡張は、急激な労働力の不足をもたらし、国民総動員計画のもとに朝鮮人労務者の移入拡大が決定され、公式非公式合わせて200万近くの朝鮮人が動員されたという。この結果、1939年(昭和14年)の全国炭鉱労務者のうち6%を占めていた朝鮮人は、1945年(昭和20年)3月には32%に達した。中には着の身着のままで強制連行された朝鮮人もおり、日本各地で底辺労働者として過酷な労働を強いられたため、その労働に耐えきれず、昭和20年3月現在の逃亡と行方不明者は約22万人に達している。
 1933年から1938年までの間は、渡航阻止政策にもかかわらず、日本の中国侵略にともなう軍需産業への労働力の要求によって、抑制されながらも朝鮮人労働者の募集が行われた。さらに、日本の中国侵略の長期化にともない、労働力の絶対的不足を補うため、1939年7月から集団的強制連行が行われるようになり、第2次大戦が開始されてからは、さらに大量の動員計画が立てられ、非情な強制連行が行われた。
 日本に居住する朝鮮人が増加すると必然的に、朝鮮人の相互扶助と融和親睦を目的とする留学生団体や青年団体、宗教団体、思想団体などの諸団体が各地に組織されて、その数は一時300を越え、その中でも朴春琴が率いる「相愛会」は親日団体としてつとに名が知られていた。朴春琴は帝国議会議員にもなった親日派の巨頭である。また、大正年間から大阪と神奈川では内鮮協和会がかなり積極的な活動をしていた。
 日鮮同祖論を掲げ、皇民化政策による朝鮮人の日本人化を進める日帝は、その御用団体として「協和会」を設立した。この協和会は、群小の朝鮮人諸団体を統合する形で、31都道府県に結成され、東京には中央協和会(理事長〜関屋貞三郎)が組織された。そして昭和15年6月には財団法人となり、予算も昭和18年度には66万円が計上され、強力な皇民化運動を展開した。
 昭和19年に入ると太平洋戦争も、日本の敗色が濃厚となってきた。連合国側は「カイロ宣言」を発表して、朝鮮を独立させることを決定した。日帝は昭和19年1月に、協和会を「興生会」(中村孝太郎)に発展的に改組し、予算も約700万円を計上して、表面上、朝鮮人の処遇改善策を打ち出したが、なんら具体的効果もなく、終戦となった。この朝鮮人の処遇改善策に呼応する形で、昭和20年1月に朝鮮人の全国代表が東京に集まって、埼玉県高麗神社の近くに「地下航空機工場」を建設して感謝の意を表することを決定し、この事業の遂行のために「在日朝鮮人一心会」が結成された。この「地下航空機工場」工事は、孫海奎の梅田組の手によって着手され、総工費600万円が前渡しされた。しかし、間もなく終戦となり、工事も中断されて、残金100余万円は、その後朝鮮人連盟に没収されて運動資金になった。
 一方、朝鮮総督府は、1911年(明治44年)に朝鮮留学生規定を定め、東洋協会(永田秀次郎)に委嘱して朝鮮人留学生の指導監督を行ったが、朝鮮教育会に所管させ、1941年(昭和16年)1月に、野口遵の奨学寄付金1000万円(株券時価)を基礎として、新たに「朝鮮奨学会維持財団」を組織し、その実行機関として「朝鮮奨学会」を設立した。これを中央協和会に所属させ、奨学道場などをつくって留学生の指導にあたらせ、昭和18年には財団法人に拡充した。
 1945年8月15日、大日本帝国(日帝)が太平洋戦争に敗北し、祖国の山河に檀君以来の5000年の輝かしい光が再び甦り、祖国は日帝の呪縛から解き放たれた。一方、米ソ英中四ヶ国連合軍に無条件降伏した日帝は、連合軍による占領統治となり、人間天皇を宣言して、新生日本の道を歩むことになった。
 その8月15日を境に、日帝の圧制に苦しんだ韓民族にとっては祖国解放と独立の歓喜に酔いしれる日々が続いた。しかし、日本国民にとっては虚脱と失意の日々であった。広島と長崎での史上初の原子爆弾の投下は、すべてのものを一瞬にして灰にし、その大きな傷跡を後々にまで残すことになった。東京や大阪などの主要都市も見る影もなく廃墟と化し、一面の焼け野原となった。

  祖国解放






祖国解放を喜ぶ当時の朝鮮人












  TOPに戻る  帰国できずに約60万人が残留

 終戦直後の日本には、日帝の強制連行等によって200万人から300万人の在日同胞が居住していたと見られている。その在日同胞は、祖国独立と民族解放に歓喜し、懐かしの祖国への帰還を急いだ。多くの人は一日も早くという気持ちから着のみ着のままの姿で、全国津々浦々から大阪港や神戸港、さらには下関港に殺倒し、帰国船に乗り込んだ。終戦直後の8月24日、総司令部(GHQ)より日本の全船舶の航行が禁止され、日本船は最寄りの港に入るよう指示されたため、大湊から釜山に航行中の浮島丸(4730トン)は舞鶴港に入ろうとして機雷に触れ、8月24日午後5時沈没し、乗船中の朝鮮人動員工員2838名のうち579名が死亡するという痛ましい惨事が発生した。9月1日には「関釜連絡船による復員軍人、軍属、労務者の計画輸送」が発表され、関係府県の統制会、東亜交通公社、中央興生会などがその世話にあたることになったが、秩序ある引き揚げ業務にはほど遠かった。
 そのため、全同胞的な組織として結成された朝鮮人連盟(朝連)がその帰国業務を専担しようとしたが、帰国を急ぐ在日同胞の勢いを抑えきれず、その帰国業務は全くの無秩序ぶりで、野放図に放置された。そのため、帰国船ブローカーが大挙暗躍する場となり、にわか仕立ての漁船(ポンポン船)をチャーターして帰国を急ぐ同胞を満載したり、中には、海賊的なブローカーも出現し、彼等の毒牙にかかって、祖国の土を踏めずに玄界灘の藻屑と消え去った人も少なくなかった。そうした帰国騒動は、ほぼ一年間にわたって続いた。こうして1946年3月までの帰還者は94万438人で、その他統計洩れが約40万人と推定され、1950年までに142万人が帰国したと見られている。
 しかし、日帝による凄まじい収奪の後遺症で、祖国の政治、経済は疲弊しきり、働く場所もなければ、食べるものも着るものもないという状態であった。祖国へ帰っても、飢えるだけと、そうした状態を口伝てに知った同胞や、帰国船がチャーターできずに帰るに帰れなかった同胞がそのまま日本に留まらざるをえなくなった。
 1947年6月、当時の民団の調査によれば、在日韓国人が本国に帰国しなかった理由として、「(本国への)財産搬入が不可能」を挙げた者が36%で1位を占め、「(本国での)生活不安」を挙げた者が23%で第2位、第3位は「本国の未独立」17%、以下「学業」9%、「日本人妻」3%と続いている。同時に調査をした本国の今後のあり方についての在日同胞の希望については、「完全独立」をとする者が90%で、「信託統治」を望む者の10%を引き離して、圧倒的な数値を示した。
 「信託統治」「単独選挙」等による38度線の固定化を軸とする本国政情の不安、生活基盤の移動に伴う困難さなどが次第に帰国の足を鈍らせていた。こうして、日本に留まった在日同胞の数は約60万人で、その60万人が在日韓国人社会を形成し、民族組織の母胎となったのである。そして、祖国の一日も早い完全独立と政情の安定を希求し、祖国復帰の早期到来を待ち望みながら日本で生活しつつも、1950年6月25日、韓国動乱(6・25動乱)が勃発するに及んで、在日同胞の帰国の希望は失われたばかりでなく、今でいうボート・ピーピルとして、もと住んでいた日本の地に逆戻りした同胞もいたのである。
 ここで留意しなければならないのは、1952年4月に締結された日米のサンフランシスコ平和条約以降、在日韓国人は日本国籍を喪失したが、その際、在日韓国人は国籍選択権を付与されることなく、一方的に日本国籍喪失の措置がとられたことである。1910年の日韓併合によって一方的に日本国籍を強制され、そしてまた、一方的な日本国籍喪失は、祖国を失った者の悲哀とはいえ、人権無視、あるいは軽視も甚だしいといわねばならない。

  TOPに戻る  ガラス天井のような差別体質

 1965年6月22日、韓日両国は不幸な過去の歴史を清算して、新しい国交関係を結ぶための歴史的な条約に調印した。「韓日基本権に関する条約」「日本に居住する大韓民国国民の法的地位および待遇に関する協定」「財産および請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」「漁業に関する協定」「文化財産及び文化協力に関する協定」および「関係付属文書」で構成される韓日条約が東京で正式に調印されたのである。
 この韓日条約は同年12月18日のソウルでの批准書交換式を経て発効し、翌1966年1月から5年の間に本人申請にもとづき、いわゆる「協定永住権」が付与されることとなったが、ここでも在日韓国人の国籍選択の機会は不問に処されたのである。
 韓日条約締結までには14年におよぶ日時を要したが、その韓日会談では、日本側の歴史認識がきびしく問われたことはいうまでもない。「台湾を経営し、朝鮮を合邦し、満州に五族共和の夢を託したことが、日本帝国主義というなら、それは栄光の帝国主義である」など、韓国併合を正当化しようとするのが日本側要人の大方の見解であり、その都度、韓国側から強く反省を求められるという事態が繰り返された。そうしたなか、韓日条約仮調印のために初めて訪韓した椎名悦三郎外相(当時)は、1965年2月17日、金浦空港で、「不幸な期間を反省する」とのステートメントを発表し、3日後の「韓日外相共同コミュニケ」では、「李東元外務部長官は、過去のある期間に両国民間に不幸な関係があったため生まれた韓国民の対日感情について説明した。椎名外務大臣は、李長官の発言に留意し、このような過去の関係は遺憾であって、深く反省していると述ベた」と発表したのである。
 ちなみに、この韓日条約の締結に際し、1965年3月31日付の『朝日新聞』の社説は「法的地位には筋を通せ」と題して「子孫の代まで永住権を保障され、しかも広範囲な内国民待遇を確保するとなると、将来この狭い国土のなかに、異様な、そして解決困難な少数民族問題をかかえ込むことになりはしまいか。・・・その意味で、将来に禍根を残さないよう、法律上のスジを通しておくことがとくに肝要だといいたい。韓国併合といった歴史も、これから20年、30年の先を考えた場合、それは大多数の日本人にとって、遠い過去の一事実以上のものでもなくなるだろう。独立国家の国民である韓国人が、なにゆえに日本国内で特別扱いをされるのか、その説明にそれこそ苦労しなければならない時代が来るのではないだろうか。財産請求権のように、いわば過去の清算に属する事柄と、在日韓国人の法的地位のように、それこそ子々孫々につながるものとは性質が違うのである」と述べている。
 要するに、少数民族としての韓国人の存在は歓迎しないということである。ここには日韓併合や強制連行、あるいはすさまじいばかりの人権無視に対する反省は何一つうかがわれない。これが日本の根底にあるガラス天井のような差別体質と考えていいだろう。
 韓日条約の締結により、戦前から日本に在留する韓国・韓国人1世および71年1月17日以降に日本で生まれた2世は、「協定永住」という法的地位になった。しかし、一般永住にくらべ退去強制の条件が緩和されているとはいえ、定住歴と定住のいきさつから考えるなら、「実質的に日本の社会に深く根をおろし、その構成員となっている在日韓国人を、退去強制の対象からはっきり除外すべきである」にもかかわらず、その措置はとられていない。
 再入国許可制度にしても、1年以内に、延長手続きをしても2年以内に、一度は帰国をしなければならず、場合によっては在留資格さえ失うおそれがある点で、定住外国人にとっては「間接的退去強制ともいえる」抑圧を与えている。
 ヨーロッパでは、近年定住する外国人に、たとえ自国籍者でないとしても、居住の安定をはかる法的あるいは政治的措置がなされる方向にある。フランスでは、居住歴を考慮に入れて、10歳に達する以前からフランスに常住する者、また、年令とは関係なく15年以上常住する者も、公序への脅威を理由として退去強制に処することはできないと定めているのである。
 その後、韓日条約における在日韓国人の法的地位を25年後に再協議するという合意により、その年が1991年であることから、「91年問題」と称された在日韓国人の法的地位問題は、「協定3世」以降の永住資格の確保や指紋押捺の廃止、退去強制の緩和など多少の進展により一段落したと評価されているが、21世紀におけるより輝かしい在日韓国人社会の構築のための生活権確保や民族社会教育運動など数々の問題が山積しているのが現状である。

  TOPに戻る  在外同胞法を採択し、居住国の国籍取得を奨励

 韓国は1999年8月、『在外同胞法』を採択し、在外同胞の居住国国籍取得を奨励する政策を明言した。この方策は、過去何回か俎上にのぼったが、その都度、棄民政策云々と、在日韓国人の強い反発を招いてきたが、21世紀を展望した時、居住国の国籍取得は必然の流れと判断したのである。
 その『在外同胞法』の制定目的は、
 @地球村時代、世界経済体制に対応して、在外同胞に母国の国境の門を低くすることによって、在外同胞の生活圏を広域化・国際化して、同時に国内にある国民の意識形態と活動営育の国際化・世界化を促進する。
 A在外同胞の母国への出入国および滞留に対する制限と不動産取得、金融、外国為替等における制約を緩和することで、母国投資を促進する経済復興参加雰囲気を拡散させる。
 B在外同胞の兵役、納税、海外での選挙権行使、外交関係での問題点等の隘路事項を検討し、受け入れることで、母国に対する不満を解消する。
 C永住する目的で海外に移住した同胞の相当数が母国との関係が断絶するという孤立感と母国での経済活動制約、年金支給停止などの危惧から居住国の国籍取得を敬遠する等の点を勘案し、居住国の国籍を取得しても、母国との関係が断絶しないようにし、居住国定着を誘導する。
 というものである。
 在外同胞は世界に約600万人いるといわれているが、その在外同胞と韓国との結びつきを強める目的のこの在外同胞法の成立に際し、在米同胞は祝賀パーティーを開催したが、在中朝鮮族は抗議のハンストを断行したという。
 というのも、日本国籍を取得したいわゆる「帰化同胞」や「海外移住法」に基づいて移住した在米同胞などに恩恵の対象を厚くしたが、韓国政府樹立以前の日本統治下に移住せざるをえず、韓国国籍を保有する機会をもちようがなかった在中朝鮮族200万人と独立国家連合(旧ソ連)地域に居住する高麗人50万人、朝鮮籍の在日同胞15万人は除外されたからである。
 海外には約600万人の在外同胞がそれぞれの国に居住し、それぞれの居住国の国籍を所持していて、韓国または北朝鮮の国籍を持っている人は少数に過ぎない。言語面でも韓国語より居住国の言語により習熟し、韓国語を全く知らない人も多い。どの国でも2世以後からは居住国の文化と言語により慣れ親しむのは当然なことである。こういう面で見れば、祖国の国籍を持ち、祖国の言語と文化を吸収しようという努力が最も大きい在日韓国人が、韓民族でありたいと願っている証左に他ならない。これは、日本国に忠誠を誓い帰化し、日本国に日本国籍を取得した場合であっても同じだ。
 日本国籍を取得する場合、日本姓を使用して帰化することが通常的であるが、中国や米国では民族姓使用が一般的であり、母国語(韓国語)を学習することができる基盤が作られている。そのような中国あるいは米国などの在外同胞とは事情が異なる面があるが、在日韓国人が自主的に努力しなければならない部分は、日本国籍取得を希望する場合、日本姓でなく韓国姓そのままに帰化するという努力だ。1985年末に帰化をした在日同胞2世を中心に「民族名をとりもどす会」が作られ、帰化時に日本姓で帰化した人が、家庭裁判所で裁判を通じて、帰化する前の韓国姓に変更することを試み、勝訴した。これは今までの帰化者が同化的帰化に同意したことと違い、日本国籍を持ちながらも韓民族であることを明示して、韓民族として生きようとする新しい動きだ。また1985年以後、日本人との結婚で生まれたが、日本国籍を取得した後に韓国姓を使う人も現れている。
 在日韓国人1世あるいはその子孫らが生存のために日本に帰化して日本国籍を持っているとしても、彼らはもやはり在日韓国人として分類していこうというのが最近の韓国の考え方であり、それは、1999年8月に採択された『在外同胞の出入国と法的地位に関する法律』(在外同胞法)に結実されている。

  世界の韓民族分布図






世界各国に600万人の韓民族が
逞しく生活している











TOPに戻る  海外同胞は約600万人

 海外に居住する韓民族は約600万人と推計されている。私たちの遠い祖先が韓半島を中心に生活を営んで5000年が経過し、20世紀初の人口が2000万人、1995年現在で7300万人に達した。この中の約7.5%に該当する600万人が世界の140余ヶ国に海外同胞として生きているのである。人類学者によれば現在、世界には3000余の民族があって、180余の国家があるという。これは、1つの国がいろいろな民族を含まざるをえないということである。
 かつて韓民族は、シベリア、東南アジア、中央アジア等アジア圏に居住するのがせいぜいであったが、1970年代以降、農業国から工業国に脱皮した韓国は第二の跳躍期と称され、アメリカをはじめ、ヨーロッパ諸国、南米諸国等全世界へ積極的に移住し、新天地を開拓した。そして、他文化と異質社会との適応に困難を経験しながらも、居住国での模範的な少数民族としての生活空間を拡大しつつあるのである。
 近代における韓国の移民史は大きく3つの段階に分けて説明される。最初が19世紀後半から1910年の日韓併合までの時期、その次が日帝時代から解放直後にかけての時期、三番目がそれ以後の時期である。最初の時期の移民は極度の貧困ゆえに散発的に発生した非常に小規模のものだった。そのような貧しい農民の移民はその次の日帝時代に続いたが、しかしその規模は途方もなく大きいものになった。第三段階の時期に、米国をはじめとするアメリカ大陸への移住が本格的に始まったのは1960年代末からで、彼等の主流は中産層以上の高学歴層だった。
 一般に解放前、つまり第一段階、第二段階の時期に移住した人たちを旧移民と称し、解放後の第三段階に移民した人たちを新移民と称するが、新移民のほとんどは、アメリカで「東洋人も受け入れる」との新移民法が制定された1965年以降に移住した人たちである。旧移民と新移民の本質的な違いは、植民地下における旧移民は亡命形態で故国を離れる場合が多かったが、新移民は経済的事由によって移民手続あるいは契約によって故国を離れたのである。が、旧移民であれ、新移民であれ、居住国では同じような試練を経験しつつも誠実に生き、着実にその基盤を構築してきたということには変りはない。

第3章 中国の朝鮮族・・・へ続く