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特殊映像ラボラトリー 第26回 「ヤマトは日本映画の、何を変えたのか?」

斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」
特殊映像ラボラトリー 第25回 「ヤマトは日本映画の、何を変えたのか?」

斉藤 守彦
[筆者の紹介]

1961年生れ。静岡県浜松市出身。
映画業界紙記者、編集長の経験の後、映画ジャーナリスト、アナリストとして独立。「INVITATION」誌で「映画経済スタジアム」を連載するほか、多数のメディアで執筆。データを基にした映画業界分析に定評がある。「宇宙船」「スターログ日本版」等の雑誌に寄稿するなど、特撮映画は特に得意な分野としている。


■ 1977年8月。「ヤマト」のヒットが与えた、4つのインパクト

 1977年8月6日より公開された、長編アニメ映画「宇宙戦艦ヤマト」については、この連載でも「クールアニメ・マーケティング・ヒストリー/宇宙戦艦ヤマト」として、当時の宣伝関係者の取材記事を掲載しているので、公開に至った経緯等は、そちらを参照されたい。本稿では「宇宙戦艦ヤマト」が、いかに日本映画界を変革したか、現在に至るまでの影響も含め、その痕跡をたどってみたい。
 TVシリーズ「宇宙戦艦ヤマト」の再編集版が劇場用映画として公開され、興行収入21億円、配給収入9.3億円を上げるヒットとなった。このことは、当時の日本映画界、映画業界に大きな衝撃を与えたが、それらのインパクトは、以下の4点に集約される。
 1=子供むきの「マンガ映画」ではない、「アニメ映画」としてティーンエイジャーの絶大な支持を得たこと。
 2=低視聴率で打ち切りになったTVシリーズを再編集した作品が、有料メディアである映画館で取りあげられ、多くの観客を集めたこと。 
 3=監督に、映画界の巨匠・舛田利雄を迎え、作品にある種の風格を与えたこと。
 4=西崎義展という、映画界では実績のないインディペンデント・プロデューサーが、個人の熱意で興行、配給をハンドリングし、公開を実現したこと。
 
■ 無料で見られたTVシリーズが、有料メディアである映画館に  

 1の「マンガ映画」を「アニメ映画」として認識させるべく奔走したのは、この連載の「クールアニメ・マーケティング・ヒストリー/宇宙戦艦ヤマト・前編」で触れたように、当時メイジャー・エンタープライズの宣伝マンであった徳山雅也である。そのシチュエーションは、前述の掲載分を参照されたい。
 当時の映画関係者、特に興行関係者の多くは「TV=タダで見られる映像」に対して「映画=有料入場・鑑賞に値する作品を見るに相応しい場」という認識を、抱いていた。そんな自己評価ばかりが高い映画館に対して、世界一高額な入場料金を払ってまで、この間までTVでタダで見られた、しかも低視聴率で打ち切られたシリーズをまとめたものを見たがる客がいるわけがないというのが、興行関係者の評価であった。都内に複数の映画館を有する東急レクリエーションが、夏休み作品に困って、ちょっと変わった映画をピックアップしたという程度の認識だったに違いない。 

■ 現代のアニメ映画マーケティングに通じる興行展開 

 ところが、この正体不明のアニメ映画が、同時期に公開された「ザ・ディープ」「エクシソスト2」「ベンジーの愛」といった、知名度抜群の洋画勢を上回る大ヒットを記録した。
 なぜか?
 映画業界人がはじき出した答とは、まず「TVシリーズのオンエアによって、固定ファンが多数存在していたから」という理由。常識的に見て、固定客がいる作品で、しかも都内数館規模の上映となれば、ある種のイベント的(あるいは「オフ会」的)な盛り上がりが期待でき、夏休み故遠方からの観客も期待出来、それなりの興行成果が期待できるという、その判断は正しい。ここ数年のアニメ映画で行われる、中小規模マーケットでの興行展開の、いわばルーツとも言うべきマーケティング手法は、「ヤマト」が先駆けであったとも指摘出来るだろう。
 だが「ヤマト」の場合、映画化に際して西崎Pが全国ファンたちと交流し、「ヤマト」の魅力を伝えるべく努力したことが、ヒットの原動力になった。固定ファンの多さが興行の基盤となったことは事実だが、逆の見方をすれば、映画の興行を支えられるまでにファンの数を増やして行ったのは、プロデューサー・西崎義展の努力に他ならないのだ。「固定客が多数存在していたから」興行が成立したのではなく、「興行が成立するまでに、固定客となるファンたちを育成した」というのが正解であろう。

■ 熱意ある取材者、執筆者による記事掲載が、大きな反響を呼んだ

 次に挙げておきたいのは、1977年当時と、現在におけるメディア環境の差についてである。この差は映画宣伝、とりわけクチコミを喚起するためのパブリシティ展開に重大な影響を及ぼす。
 「ヤマト」の場合、現在のアニメ映画のように原作を刊行している、あるいは映画に出資している出版社が、映画公開に合わせて、宣伝の盛り上がりをも視野に入れて関連書籍を発行するといった方法ではなく、あくまで「ヤマト」というシリーズに愛着を抱くファンたちの手で、「OUT」などの雑誌に記事が掲載された。つまり、「映画のためのパブリシティ記事を配給会社が露出した」のではなく、「書き手の熱意が反映された取材記事」が、取材者と出版社(編集者)のイニシアティヴによって掲載された」のである。であるが故に、世間的な注目度も高かったと見て間違いないだろう。現在のメディアミックス展開に決定的に欠けているのが、この“客観的視点の欠如”であることを、この際強く指摘しておきたい。自画自賛ばかりで、あたかも他者からの批判を許さないような姿勢が反映された関連書籍やパブリシティ記事をいくら乱発しても、作品の話題性が拡大することはない。取材者、書き手の自発的な姿勢と熱意が反映された記事の積み重ねこそが、映画の知名度を高め、認知度をアップさせるのである。
 1977年当時、「ヤマト」を盛り上げた、その原動力とは、無数の同人誌たちであった。ひとつひとつは商業出版と比較にならないほどのスケールで発行された、ファンたちの手による出版物が、その“数の力”によって「ヤマト」の知名度をさらに拡大。「OUT」などの雑誌掲載によって、一般層にまでその魅力を伝えることに貢献した。情報を伝えるメディアだけが飽和状態である現在では、望むべくもない自然発生的なムーブメントだが、これらのファンの動きをプッシュしたのも、また西崎Pと徳山たちであったのだ。
 『「雑誌に“こんど「ヤマト」の映画が公開されるんです”といったことを投稿して欲しい。あるいはラジオ番組に主題歌や挿入歌のリクエストをしてくれといったことを、それこそ何千通という数の手紙を書いて、全国のファンに依頼するわけですね」と徳山。つまり、当時全国5万人と言われた「ヤマト」ファンによる、草の根作戦だ。』(本連載「クールアニメ・マーケティング・ヒストリー「宇宙戦艦ヤマト」・前編より」

■ インディペンデント・プロデューサーが、跋扈する時代 

 「ヤマト」が映画として公開された1977年という時期は、前年に公開された「犬神家の一族」によって、角川春樹プロデューサーが大きな話題を集めた時代であった。既存の映画会社ではない、外部から映画製作に参入する、インディペンデント・プロデューサーの存在は社会的な注目を集め、西崎Pもまた、「ヤマト」の“顔”として、いちやく映画界の風雲児、新しいタイプのクリエイターと認識されたのであった。
 「ヤマト」の場合、監督よりもプロデューサーである西崎が前面に出てメッセージを伝えることが多く、ビジネス的なポジションのみならず、クリエイティヴな面でも「ヤマト」をリードする立場であることが、当時強く印象づけられている。後に起こった裁判などを通して、その位置づけの解釈は異なるが、とにかく映画「ヤマト」が公開された1977年の時点では、西崎Pの姿は新鮮に、頼もしく映ったことはまぎれもない事実だ。

 現在のアニメ映画は、西崎のようなカリスマ的資質を持ったプロデューサーではなく、個性的な手腕を持った作家=監督が作品をリードする傾向が強いが、例えば宮崎駿監督作品に鈴木敏夫プロデューサーの存在が不可欠であるように、監督とプロデューサーが二人三脚で作品を製作していると言えるだろう。アニメという表現手段ゆえ、“場”であるスタジオが大きな役割を果たしており、スタジオあるいは制作会社に所属しているプロデューサーが、フリーの立場たる監督と組んで、作品を製作している。そういう意味では、最初の「ヤマト」の時代よりも、アニメに於ける監督の発言力、クリエイティヴな面における裁量権は増えたのではないだろうか。ひとりのプロデューサーが、ビジネス的な側面のみならず、クリエイティヴな面にまで直接介入することは、その正否は議論の分かれるところだ。現在におけるアニメ製作では、出資者(製作委員会)=プロデューサー=監督の役割分担が、ビジネス的な視点に基づいて区分され、従来に比べてそれぞれの職域が判然としてきたように見える。
 西崎のようなカリスマ的資質を持ったプロデューサーが存在しないのは寂しいが、映像作品そのものが、製作に多額の資本を必要とすることから、製作委員会方式で出資者のリスクヘッジをしなければならないのだ。逆の見方をすればこの現象は、我が国の映画マーケットが、そこまで拡大したことをも意味する。例えば「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズを、自身の製作会社・スタジオで制作し、配給面でもイニシアティヴを持ち、興行的な成功を収めた庵野秀明などは、強い作家性を持った監督でもあり、インディペンデント・プロデューサーでもある稀有な存在と言え、新しいタイプのクリエイターとして、注目に値する。

■ すべての始まりは、低視聴率で打ち切られたTVアニメであった…に続く

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