天正10年(ユリウス暦1582年)6月2日。日本の首都で軍事クーデターが発生した。羽柴筑前守秀吉の毛利攻め加勢のために丹波亀山城を発した老将明智(惟任)日向守光秀率いる1万3千の軍勢は、突如進路を変更。桂川を越えて京へと向かった。世に名高き『本能寺の変』である。水色桔梗の旗指物との知らせに、前の右大臣織田信長が「是非もなし」と呟いたかどうかはわからない。ただ、如何にもそんなことを言いそうな人物だったのは確かだ。本能寺は紅蓮の業火に包まれ、遺骸は見つからなかったという。妙覚寺に宿泊していた岐阜中将こと嫡子織田信忠は京都所司代村井長門守貞勝一族や、弟勝長らわずかな手勢とともに二条御所に篭ったが、すぐに父の後を追うことになる。水色桔梗の旗指物から逃れることが出来たのは、織田源五長益(信長弟)、水野惣兵衛忠重(三河刈谷城主)、そして赤子を抱いた前田玄以らわずかな人々だけであった。
織田政権の近畿管領職とでもいうべき老人の謀反の真意は定かではない。とにかくこのクーデターによって織田政権の首脳部は事実上崩壊したのは確かである。この頃、織田家の家督は岐阜城主織田信忠が相続していた。実権は未だ父の手にあったとはいえ、この若者が時期後継者であったことはまちがいない。チェザーレ・ボルジアが「私はあらゆることに備えをしてきたつもりだったが、まさか父(教皇アレクサンデル6世)が生死の境をさまよっている時に、自分も同じように死の床にあるのは予想外だった」と語ったように、トップがともにいなくなってしまったのだ。
ここで明智光秀がおかれた立場を考えてみよう。織田帝国の支配者と後継者は去った。残されたのは4つの方面軍と帝国の同盟者、そして京を抑えた謀反人である自分だ。織田家を簒奪する立場である自分は、否が応でもその5つとの戦いは避けられない。
4つの方面軍とはすなわち
備中高松城において毛利の大軍勢とにらみ合う羽柴筑前守秀吉(中国地方、山陽・山陰地方担当)
越中魚津城を囲み、信濃海津城主の森武蔵守長可と共に越後に攻め入らんとする柴田修理亮勝家(北陸地方担当)
関東管領として上野厩橋城で北条家と緊張関係にあった滝川左近将監一益(関東)
そして織田三七信孝を総大将とし、丹羽長秀(近江佐和山城主)が副将として従い、四国の「鳥なき里の蝙蝠」を討伐するために堺で集結中であった四国遠征軍
であり、同盟国とは堺でわずかの家臣と共に遊覧中であった三河・遠江・駿河3国の太守徳川家康である。この太守に対して明智光秀がいかなる対応を取ったかはよくわからない。突発的なことで家康一行への対応まで頭が回らなかったのか、手勢が少数であるためいつでも討ち取れると考えたのか。とにかく家康一行は、伊賀にルーツを持つ家臣服部半蔵正成の道案内と、茶屋四郎次郎清延の金子の力によって、甲賀から伊賀の山を越え(神君伊賀越え)何とか三河岡崎へと帰還することに成功した。
話を戻そう。普通に考えれば老人-明智光秀にはしばらく時間的猶予が存在した。四国討伐軍を除く3つの方面軍は前面の敵との戦いに専念せざるを得ないからである。そして四国方面軍は尾張や伊勢の兵を中心に集められた寄せ集めの軍であり、クーデターを知れば離散するのは目に見えていた。信長という絶対的なカリスマあっての織田家。その成長と共にあった光秀はそのことをよく理解していた。比較的まとまった軍勢と領地を持つ方面軍司令官の羽柴や柴田が軍を起こそうとしても、それまで押されっぱなしだった上杉・毛利・北条が黙って見過ごすはずがない。うまくいけば自滅してくれる-光秀は四国の長宗我部氏を加えた4家に使者を出し、それぞれ方面軍を挟み撃ちにすることを考えた。その中で毛利家に出した使者が誤って羽柴の手勢に捕らえられ「光秀謀反」を知ったのは巷間よく知られたところであるが、神ならぬ老人がそれを知るはずがない。
しかし老人は心中穏やかでいられなかったに違いない。いくら強弁したところで謀反人は謀反人。旧織田家家臣団のいずれかが「仇討ち」を掲げて京へと上ってくるだろう。大義名分なき権力者は、いずれ没落するのはこれまでの歴史が証明している。ならば自分はどうすればいいか。異様な興奮冷めやらぬ京の地で、かつての敵国たる上杉家や毛利家、そして旧織田家家臣団-縁戚の細川家・筒井家への書状の文案を書き連ねていた老人にとって、それは唯一の希望とも言えるものだった。
-安土-
琵琶湖を見下ろす安土山に築かれたかつての独裁者の居城。織田帝国の行政の中心であったそこには、広大な帝国領内から集められた莫大な資産-遺産が蓄えられていることは、政権の重臣であった光秀自身も承知していた。
-安土の金さえ手に入れば
光秀も戦国の底辺から這い上がってきた人物。金のもたらす魅力と魔力は身にしみていた。安土にまともな留守居役がいないことも、老人の皮算用を楽なものにした。禁裏や寺社、そして京の有力な町衆に金を巻くことによって、当座の人気(最も早くやってくるであろう四国討伐軍を打ち破るまでの)-世論の支持を集めようと考えたのだ。安土の占領は道に落ちた金を拾うような話。ばら撒いたところで自分の懐が痛むわけではない。それに少しの金を惜しんで、結果的にすべてを失っては元も子もない。老いたりとはいえ、金柑頭の頭脳の冴え-物事に対する怜悧な考え方は健在であった。
だがここで予想外の事態が発生する。京の玄関口である瀬田川にかかる唐橋が、瀬田城主の山岡景隆・景佐兄弟によって焼き落とされたことにより進軍が遅れた明智左馬助率いる明智軍の接収部隊は、6月5日の明け方、安土の地で信じられないものを目にした。左馬助の急使から知らせを受けた光秀は、普段の怜悧な物腰からは想像できないほど取り乱し、何度も使者に尋ね返したという。
「・・・馬鹿な、そんなわけがあろうはずない・・・左馬助ともあろうものが、何かの間違いにちがいない」
脇息にもたれながら、蒼白になった顔を開いた左手で抑える光秀に、使者は淡々と同じ報告を繰り返した。
「-安土には北畠宰相以下4000余りの軍勢が立て籠っております。日向守様、ご指示を」
-これよりちょうど三日前-
南伊勢の松ヶ島城は天正8年(1580)に築かれたばかりの比較的新しい城である。それまで伊勢における織田家の支配拠点は、北畠親房によって築かれたという度会郡の田丸城であったが失火で消失。伊勢湾に面し、伊勢神宮の参道古道に面した交通の要所である松ヶ島に新たに城を築いたのだ。
未だ新しい床を踏みしめながら、尾張星崎城主の岡田長門守重善は主の急の呼び出しに首をかしげていた。城勤めの若侍はこの老人の姿を見るとあわてて道を譲り、畏敬の念のこもった視線を向けた。無理もない。この老人岡田長門守は小豆坂の戦い(1542)における「小豆坂の7本槍」の最後の生き残りであり、先代信秀時代から仕え続けている、いわば織田家の生き字引である。小豆坂の戦い当時、彼は38歳。後世名を成す「賤ヶ岳の七本槍」がすべて20代であることを考えると、その勇猛さはおのずと想像がつく。何より「あの」信長が不詳の息子の家老兼お目付け役としたことからも、その評価の高さが知れるというものだ。
「いったい何事でしょうな、あの馬鹿殿は」
「兄上、あれでも仮にも主ですぞ。言葉を慎まれたほうが」
「馬鹿を馬鹿といって何が悪い。実際馬鹿ではないか」
ぶつぶつとぐう垂れながら長門守の後をゆくのは、彼の息子の重孝と善同(よしあつ)。善同は一見兄の重孝をたしなめているようだが、その口ぶりからは主に対する忠誠は余り感じられない。未だ戦国の気質が色濃く残る中で育ってきた息子達には、有能とは言いがたい主に仕えるということがよほど気に入らないらしい。しかしここは城内。主への讒言は命取りになりかねないと長門守が息子をたしなめようとした時、角を曲がってきた人物とちょうど視線が合った。
「これは長門守様」
「玄蕃允殿」
若いながら妙に落ち着いた物腰の津川玄蕃允義冬は、長門守の姿を見ると軽く会釈をした。旧尾張守護家斯波家出身の彼は、もともとその血筋ゆえ織田家に召抱えられた。丹羽家を初めとした旧守護家出身の家臣を抱える織田家にとって、旧守護家の血筋を取り組むことは重要な政治的価値があったからだ。しかし彼は文武共に期待以上の才能を示し、信長を喜ばせた。また妻が北畠家出身ということもあり、義兄にあたるこの城の主を支えるために、岡田長門守と同じく家老として送り込まれたという経歴の持ち主である。長門守と並んで津川がそれだけ高い評価を受けていたということだが、同時にそれはこの二人をつけないとやっていけないと、この城の主の器量が不安がられていたということでもある(実際、彼には「前科」があった)。
「長門守様も御本所様より呼び出しを?」
「左様。玄蕃允殿は何かご存知か?」
「いや、ただ使者がすぐに来るようにと繰り返すばかりでして」
津川は困惑気に答えた。岡田長門守家が織田家譜代の家臣とすれば、津川家は親族衆。身内の悪口をその前で言うほど重孝と善同も馬鹿ではない。その減らず口を閉じて頭を下げた。
「上様から四国攻めへの加勢を命じられたのでしょうか?」
「ないともいえないが、判断の材料が少なすぎる。まさか気まぐれにわれらを呼び出されたわけではないのだろうが-」
「おお、長門守様!玄蕃允様も!」
津川の疑問に当たり障りのない答えを返した長門守は、突如挟まれたそのやけに明るい声に顔をしかめた。重孝と善同は無論のこと、滅多に感情を表さないとされる玄蕃允もあるひとつの共通した感情をその顔に浮かべた。すなわちそれは-嫌悪感である。
「ご足労をおかけしました。御本所様が広間でお待ちでございます。ささ、こちらへ」
「年寄りをあせらすでない勘兵衛」
「何をおっしゃいますか、小豆坂の七本槍たる長門守様ともあろうお方が」
歯の浮くようなお世辞を平然と吐くこの若者。名前を土方勘兵衛といい、御本所様の覚えめでたい近臣の一人である。単なる宮廷人にはとどまらない度胸のよさと口八丁手八丁の実務官僚の顔を持ち合わせるこの若者は急速に場内でその政治的地位を高めつつある。しかし長門守はこの若者のなんともいえない陰湿さが肌に合わなかった。本人も自身のそれは自覚しているのか、仰々しいほどに明るく振舞っている。それがますます気に入らない。
「ささ、とにかく広間へ」
「勘兵衛。この急な呼び出しについてそなた何か知らんか」
「いえ、それは・・・」
勘兵衛は珍しく語尾を濁す。その表情には困惑ともなんともつかぬ奇妙な色が浮かんでいることを、長門守は見逃さなかった。
「御本所様におかれましては、今朝方しばらく・・・その、混乱されたらしく。なにやらよくわからないことを呟かれまして。お会いになられれば『津川はまだか!岡田はまだか!』・・・ああいった具合でございまして」
懐から布を出して額の汗をぬぐう勘兵衛。よく見るとその表情はどこかうんざりした様子にも見えた。
そして主-御本所様と面会した4人は、おそらく始めて、あのいけ好かない勘兵衛に同情の念を覚えた。
-これよりおよそ半日前-
とりあえず私は誰かということを語る前に、言っておきたいことがある。
い・・・いや・・・ネットとかで、そういうSSは、目が腐るほど読んだことはあるけど・・・実際に経験すると、まったく理解を超えていたぜ・・・・
あ・・・ありのまま、今、この身に起こっている事を話すぜ!?
「俺は、賃貸住宅の自分の部屋の布団に入って、いつものように豚の様ないびきをかいて寝たんだ。そして起きたら、戦国時代だった」
な、何を言っているのか わからねーと思うが
おれも 何がなんだか さっぱりわからんちんだぜ
頭がどうにかなりそうだ!
催眠術だとか、手の込んだ寝起きドッキリだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ
もっと恐ろしいものの片鱗を、人生の不条理を味わっているぜ・・・
とにかく朝起きたら時代劇の世界だったんだ。テンプレにならないほうがおかしいんだよ。わめき散らし、やってきた妙に愛想のいい男を周囲を質問攻めにしたところによると、どうやら「俺」はこの城の城主らしい。鏡を持ってこさせると、そこには瓜実顔の、いかにも神経質そうな男の顔があった。うーん、どっかで見たことあるような・・・どこだったっけ?
そんな疑問を棚上げして(思考の棚上げは彼の十八番である)、俺は殿様気分を満喫した。俺がひとたび出歩けば、モーセのように人が割れ、小姓たちがカルガモの子供のように付いてくる。神戸電子専門学校のCMみたいだ。今時どんな高級クラブに言ってもこんな接待はしてもらえないぞ。うーん、いいな殿様。
といっても、いつまでも現実逃避していても仕方ない。とりあえず俺が今誰なのかを確認しなくては(冒頭の愛想のいいおっさんは妙に疲れた顔をして下がっていっちゃったし)とりあえずひょこひょこ付いてくる侍従の一人に、出来るだけ自然な感じで、さりげなく、それでいて城主の威厳を保ちながら尋ねてみよう。
「えー、ごふん。えー、今年は、せいれ・・・ではなく、元号は何だったかね?」
・・・うん。認めよう。俺こそが、誰もが認める大根役者だ。
突然「今何年?」と聞かれて、違和感を覚えないほうが変だ。聞かれた小姓たちは、顔を見合わせて(何言ってんだこいつ)と目で会話している。おい、俺は殿様だぞ。せめて上司の陰口は陰でやれ、影で。
「天正10年でございますが」
・・・天正?えーと、確か、陰謀大好きな最後の室町将軍が追放されたのが、天正元年だから、1573で・・・あー、
天正2年-1574
天正3年-1575
天正4年-1576
・
(中略)
・
天正9年-1581
だから、天正10年は、1582年か。ふーん
・・・あれ?
おお!本能寺の変があった年じゃん!キンカン頭がぷっつんして、本能寺でばっこーんした、日本史の大事件!
お~、こりゃなかなかおもろい時代だな。うまいこと立ち回れば、大名になれるかも・・・うっしっし。一国一城の主、悪くないね。男の憧れ、ミニ大奥で「殿、お止めください」「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」ゴッコが出来るかも・・・
うーん。ビバ戦国。ビバ一夫多妻。
ニヤニヤしている俺を、ますます胡散臭そうに見つめる小姓達。「馬鹿だと思っていたが、ここまでとは」「しッ聞こえるぞ!」というヒソヒソ話。はい、聞こえてます。小市民だから、何も言い返さないけど。部下の悪口で、いちいち切れてたら、それこそ鼎の軽重が問われるってもんだぜ。小心者だから怖くて言い返さないわけじゃないんだからね!
それにしても、この「俺」って、評判よくないみたいだね(本人の前で堂々と馬鹿って言うくらいだし)まぁ、心底嫌われてるわけじゃないみたいだけど。ほら、あれだよ。志村○んの馬鹿殿っぽい、愛される馬鹿?こっちに来てまだ初日だけど、向けられる視線や、家臣の態度からはそんな気配がする。
「で、今日は何月何日だ?」
「は、はぁ・・・6月2日で「ニャンだとおおおおおお!!!!!!」
小姓たちがひっくり返った。おお、見事な受身。褒めてつかわす・・・とか言ってる場合じゃねえ!
今日じゃん!今日じゃん!うおおお!!何たることだサンタルチア!!これで「信長にチクッて、褒めてもらおう作戦」は駄目になった!ちくしょー・・・こうなりゃサル・・・ハゲネズミだっけ?まぁいいや。ともかく、「秀吉に味方して、関が原で東軍に乗り換え大作戦」に変更だ!
ん?そうなると問題なのは、俺が誰であり、ここがどこかだな。ここはどこの城なんだろう。畿内だったら、やべえよな。すぐに旗幟を鮮明にしたら、間違いなく水色桔梗の旗指物に囲まれてフルボッコだし。もし畿内・・・河内・摂津・和泉だったら無論のこと、近江や若狭、大和あたりなら、大作家のご先祖に習って、日和見しよう。腹痛いとかいって・・・
俺が高度にしてアグレッシブな処世術ソロバンを素早く弾いていると、小姓達(ていうか、ひそひそ話はもっと小さい声でやれ)が俺の名前を会話の中で使ったのが聞こえた(そういや、肝心要の名前は確認してなかった)
「御本所様は、どうされたのだ?」
「さあね・・・まぁ三介殿だからのう」
「名門北畠も、お先真っ暗じゃ」
・・・・はい?
「・・・御本所さまって、俺のこと?」
「・・・はい」
こいつほんまに大丈夫か?という視線が盛大に向けられるが、俺はそれどころじゃなかった。頭の中で赤いサイレンがファンファン鳴り、盛大にエマージェンシーコールが鳴り響く。
「・・・ここ、伊勢の松ヶ島城?」
「・・・勿論です」
最終防衛ライン突破!
「・・・俺の親父って」
「先の右府さまですが・・・」
先の右府・・・前の右大臣、だよね。この時代に、そう呼ばれるのはただ一人
第六天魔王-織田信長
その息子で、三介と呼ばれて、おまけに北畠姓。ここは、伊勢の松ヶ島城
オーケー、おちつこう
しかし、頭の中では、どんどん嫌なキーワードが思い浮かんでくる
織田 北畠 伊賀侵攻 三家老惨殺 小牧長久手 単独講和 改易 能だけがとりえの、ゲームや小説なら、無能の代名詞のように扱われる、織田信長の息子
ばらばらのピースをかけ集め、一つの・・・これだけは、絶対嫌な結論にたどりつく
「ぎゃああああああ!!!!!!よりにもよって、信雄かあああああああああ!!!」
「ご、御本所様がご乱心じゃー!!!」
時に、天正10年(1582)6月2日。彼-「北畠信意」(きたばたけ・のぶおき)が、本能寺と二条御所襲撃は6月2日の早朝であり、すでに父や兄が亡くなっていることに気がつくのには、もう少し時間がかかる。
いそしめ!信雄くん!
始まる・・・かもしれない。