〜[番外]〜
予断克服へ重い課題鹿児島市の夫婦強盗殺人事件の裁判員裁判で5日、事件の現場検証が行われた。裁判員裁判で検証は初めてなので話題になったが、これは裁判官裁判でも必ず検証が行われる事件だ。 物々しい警戒で、公道から先は入れないため、現場の敷地を見下ろす谷山神社参道にも、メディアのカメラ、そして市民たちも集まった。 中の一人が話しかけてきた。「これはいいところを狙った。広い敷地の一軒家で資産家だろ、強盗にはもってこいだ。あいつはやってる。前科もあるし、新聞の写真を見ればそういう顔してる。おれには分かる。におうんだよ」 裁判員制度がつくられる前、反対する意見の中に「逮捕された者はやってるんだ」と信じやすい大衆心理で人を裁いてしまう制度になるのでは、という危惧(きぐ)もあった。 制度が発足して1年半。これまでは有罪・無罪には争いがなく裁判員がしたのは量刑だけという事件がほとんどだった。 この事件のように、深刻な争いがあり、公判前整理手続きに時間がかかっていた事件が、今後次々と公判を迎える。 そのとき、日本の社会は、市民が人を裁く立場になるための根本的な訓練を受ける機会を持たなかったまま、市民参加制度を作ってしまったことを問われる事態になってはならないと強く思った。 特に英米法系の国で行われている陪審制度は、何百年もかけて次々に市民を法廷に呼び、法とは、裁判とは何なのか、何時の時代でも必ず発生する犯罪を裁かなければならない社会が、正義を実現するためには、どのように裁かなければならないのか、を市民に教えてきた。 裁判官が陪審員に、まずは公判の冒頭で、そして証拠調べと弁論が終わった時に、陪審員にどのような心構えで、どのようなルールに従って裁かなければならないのかを詳しく説明する「説示」はその教科書だ。 こうした準備なしに発足してしまった裁判員制度が、どの社会でも放置すればまん延する予断を克服するための課題は重い。 '10/11/07 掲載
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