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夏目房之介の「ほぼ与太話」
夏目房之介
1950年東京生。青山学院大卒。マンガ・コラムニスト。週刊朝日「學問」連載。著書「マンガはなぜ面白いのか」「「漱石の孫」「など多数。NHK衛星「BSマンガ夜話」レギュラー。99年、マンガ批評への貢献により手塚治虫文化賞特別賞。
〈与太話、思いつき、知ったかぶり、雑談、そんなことを行き当たりバッタリ書いてみようかてぇブログですんで、ひとつお気楽に。〉
諫山創『進撃の巨人』1~2
京都の集中講義後、食事会から帰る途中で書店に入った。増田のぞみさん、泉信行(イズミノ・ウユキ)さんと一緒だったが、泉さんが薦めてくれたのが諫山創『進撃の巨人』1~2巻(講談社)で、その日、京都のホテルであっというまに読んだ。
東京に帰ってからヤマダトモコさんが発表してくれた自主ゼミがあり、そこに参加してくれた金田淳子さんが、ゼミ後の食事会のときに強くオススメしたのが、やはり同作品だった。 間違いなく面白いマンガである。客家の住居みたいな、高い塀に囲まれた都市にかろうじて生存する人類と、彼らを食う謎の巨人たち。閉塞した中で長い時代を過ごしてきた人類を中心に描かれ、謎の巨人はみななぜか男性型で、大小がある(へんに顔のでかい巨人がおかしい)。彼らと絶望的な戦いを強いられる人類の兵器は、これも奇妙な現実感のレベルで設定され、要するに巨人によじ登って、首の後部をそぎ落とす他殺すことができない。 この作家のうまいとはとてもいえない画は、たまに何が描いてあるのかわからないコマもあるほどで、マンガとしてもう少しうまければ、と思う場面もある。が、この「うまくない」ところが異様な迫力になっていることも確かで、ヘタにうまくなられるとこのマンガの面白さも失われるかもしれないと思わせる。何となくそういう思いを作品内の不安と対応させてしまうところも「面白さ」かもしれない。また、この世界の閉塞と平和を破る感覚は、たしかに今の我々の「外部」にかかわるものだという感触はある。 泉さんは、僕が発表したマンガの身体にからめて薦めてくれたのだが、どうやら主人公の少年兵士は巨人の脊椎に合体して巨人を制御するらしい(このへんはまだ単行本には描かれていない)。なるほど、拡張された身体としての巨大ロボやアーマーの延長で考えると面白いマンガかもしれない。 作品というのは、面白い作品であればあるほど重層的に成立しており、それを一つの見かたで「読む」ことは、つねに留保つきでなければならない。この作品も、現代の先進国に普遍的な閉塞感と身体をめぐる主題と考えることができるが、また別のとらえ方もできる。 たとえば、長く外界から閉ざされることで「平和」を維持してきた人類が、じつはいつでも、一見理由もなしに外から襲来する圧倒的な「現実」にむなしく破壊されるという主題は、見かたによって戦後日本が置かれた「平和」の危うさと「外」への恐怖(希求?)の隠喩にも見える。そう考えると、ここでの「身体」のイメージは、圧倒的な「外」の「現実」である力と出会うことに可能性を見出していることになるかもしれない。もちろん今後の展開にもよるわけだが、1〜2巻の兵士集団へのとらえ方を見ると、一種の戦後日本論として読めてしまうところが興味深いのだ。「身体」は、時代社会の閉塞を映すこともあるが、同時に可能性への希求を感じさせるものでもある。 とはいえ、重ねていうが、これは「一つの読み」に過ぎない。もっと単純に娯楽として「読む」ことも当然許されるし、ほかの意味を見出すことも可能だろう。そういう多様性が「面白さ」でもあるのだと思う。 コメントコメントを投稿するトラックバック
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