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[24299] いそしめ!信雄くん!(戦国時代もの)
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/12/04 14:12
ペーパーマウンテンと申します。こちらの別の版で連載中なのですが、その作品がどうにも煮詰まってしまいました。そこで気分転換に以前ねたで書き始めたやつをふと書くと、妙に筆が進んでしましまして。現在投稿中のものを完結させるのが先だとは思うのですが、どうにも衝動が抑えられなくなってしまいました。あちらを優先するということで、こちらの更新は衝動的になるかと思います。

出来れば軽いのりで、テンポよく、20話程度で終わらせることが出来たらなと考えています。生暖かい、厳しい目で見ていただけると幸いです。よろしくご指導のほどお願いいたします。

ペーパーマウンテン



[24299] プロローグ
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/12/04 13:54
天正10年(ユリウス暦1582年)6月2日。日本の首都で軍事クーデターが発生した。羽柴筑前守秀吉の毛利攻め加勢のために丹波亀山城を発した老将明智(惟任)日向守光秀率いる1万3千の軍勢は、突如進路を変更。桂川を越えて京へと向かった。世に名高き『本能寺の変』である。水色桔梗の旗指物との知らせに、前の右大臣織田信長が「是非もなし」と呟いたかどうかはわからない。ただ、如何にもそんなことを言いそうな人物だったのは確かだ。本能寺は紅蓮の業火に包まれ、遺骸は見つからなかったという。妙覚寺に宿泊していた岐阜中将こと嫡子織田信忠は京都所司代村井長門守貞勝一族や、弟勝長らわずかな手勢とともに二条御所に篭ったが、すぐに父の後を追うことになる。水色桔梗の旗指物から逃れることが出来たのは、織田源五長益(信長弟)、水野惣兵衛忠重(三河刈谷城主)、そして赤子を抱いた前田玄以らわずかな人々だけであった。

織田政権の近畿管領職とでもいうべき老人の謀反の真意は定かではない。とにかくこのクーデターによって織田政権の首脳部は事実上崩壊したのは確かである。この頃、織田家の家督は岐阜城主織田信忠が相続していた。実権は未だ父の手にあったとはいえ、この若者が時期後継者であったことはまちがいない。チェザーレ・ボルジアが「私はあらゆることに備えをしてきたつもりだったが、まさか父(教皇アレクサンデル6世)が生死の境をさまよっている時に、自分も同じように死の床にあるのは予想外だった」と語ったように、トップがともにいなくなってしまったのだ。

ここで明智光秀がおかれた立場を考えてみよう。織田帝国の支配者と後継者は去った。残されたのは4つの方面軍と帝国の同盟者、そして京を抑えた謀反人である自分だ。織田家を簒奪する立場である自分は、否が応でもその5つとの戦いは避けられない。

4つの方面軍とはすなわち

備中高松城において毛利の大軍勢とにらみ合う羽柴筑前守秀吉(中国地方、山陽・山陰地方担当)
越中魚津城を囲み、信濃海津城主の森武蔵守長可と共に越後に攻め入らんとする柴田修理亮勝家(北陸地方担当)
関東管領として上野厩橋城で北条家と緊張関係にあった滝川左近将監一益(関東)
そして織田三七信孝を総大将とし、丹羽長秀(近江佐和山城主)が副将として従い、四国の「鳥なき里の蝙蝠」を討伐するために堺で集結中であった四国遠征軍

であり、同盟国とは堺でわずかの家臣と共に遊覧中であった三河・遠江・駿河3国の太守徳川家康である。この太守に対して明智光秀がいかなる対応を取ったかはよくわからない。突発的なことで家康一行への対応まで頭が回らなかったのか、手勢が少数であるためいつでも討ち取れると考えたのか。とにかく家康一行は、伊賀にルーツを持つ家臣服部半蔵正成の道案内と、茶屋四郎次郎清延の金子の力によって、甲賀から伊賀の山を越え(神君伊賀越え)何とか三河岡崎へと帰還することに成功した。

話を戻そう。普通に考えれば老人-明智光秀にはしばらく時間的猶予が存在した。四国討伐軍を除く3つの方面軍は前面の敵との戦いに専念せざるを得ないからである。そして四国方面軍は尾張や伊勢の兵を中心に集められた寄せ集めの軍であり、クーデターを知れば離散するのは目に見えていた。信長という絶対的なカリスマあっての織田家。その成長と共にあった光秀はそのことをよく理解していた。比較的まとまった軍勢と領地を持つ方面軍司令官の羽柴や柴田が軍を起こそうとしても、それまで押されっぱなしだった上杉・毛利・北条が黙って見過ごすはずがない。うまくいけば自滅してくれる-光秀は四国の長宗我部氏を加えた4家に使者を出し、それぞれ方面軍を挟み撃ちにすることを考えた。その中で毛利家に出した使者が誤って羽柴の手勢に捕らえられ「光秀謀反」を知ったのは巷間よく知られたところであるが、神ならぬ老人がそれを知るはずがない。

しかし老人は心中穏やかでいられなかったに違いない。いくら強弁したところで謀反人は謀反人。旧織田家家臣団のいずれかが「仇討ち」を掲げて京へと上ってくるだろう。大義名分なき権力者は、いずれ没落するのはこれまでの歴史が証明している。ならば自分はどうすればいいか。異様な興奮冷めやらぬ京の地で、かつての敵国たる上杉家や毛利家、そして旧織田家家臣団-縁戚の細川家・筒井家への書状の文案を書き連ねていた老人にとって、それは唯一の希望とも言えるものだった。

-安土-

琵琶湖を見下ろす安土山に築かれたかつての独裁者の居城。織田帝国の行政の中心であったそこには、広大な帝国領内から集められた莫大な資産-遺産が蓄えられていることは、政権の重臣であった光秀自身も承知していた。

-安土の金さえ手に入れば

光秀も戦国の底辺から這い上がってきた人物。金のもたらす魅力と魔力は身にしみていた。安土にまともな留守居役がいないことも、老人の皮算用を楽なものにした。禁裏や寺社、そして京の有力な町衆に金を巻くことによって、当座の人気(最も早くやってくるであろう四国討伐軍を打ち破るまでの)-世論の支持を集めようと考えたのだ。安土の占領は道に落ちた金を拾うような話。ばら撒いたところで自分の懐が痛むわけではない。それに少しの金を惜しんで、結果的にすべてを失っては元も子もない。老いたりとはいえ、金柑頭の頭脳の冴え-物事に対する怜悧な考え方は健在であった。

だがここで予想外の事態が発生する。京の玄関口である瀬田川にかかる唐橋が、瀬田城主の山岡景隆・景佐兄弟によって焼き落とされたことにより進軍が遅れた明智左馬助率いる明智軍の接収部隊は、6月5日の明け方、安土の地で信じられないものを目にした。左馬助の急使から知らせを受けた光秀は、普段の怜悧な物腰からは想像できないほど取り乱し、何度も使者に尋ね返したという。

「・・・馬鹿な、そんなわけがあろうはずない・・・左馬助ともあろうものが、何かの間違いにちがいない」

脇息にもたれながら、蒼白になった顔を開いた左手で抑える光秀に、使者は淡々と同じ報告を繰り返した。


「-安土には北畠宰相以下4000余りの軍勢が立て籠っております。日向守様、ご指示を」



-これよりちょうど三日前-


南伊勢の松ヶ島城は天正8年(1580)に築かれたばかりの比較的新しい城である。それまで伊勢における織田家の支配拠点は、北畠親房によって築かれたという度会郡の田丸城であったが失火で消失。伊勢湾に面し、伊勢神宮の参道古道に面した交通の要所である松ヶ島に新たに城を築いたのだ。

未だ新しい床を踏みしめながら、尾張星崎城主の岡田長門守重善は主の急の呼び出しに首をかしげていた。城勤めの若侍はこの老人の姿を見るとあわてて道を譲り、畏敬の念のこもった視線を向けた。無理もない。この老人岡田長門守は小豆坂の戦い(1542)における「小豆坂の7本槍」の最後の生き残りであり、先代信秀時代から仕え続けている、いわば織田家の生き字引である。小豆坂の戦い当時、彼は38歳。後世名を成す「賤ヶ岳の七本槍」がすべて20代であることを考えると、その勇猛さはおのずと想像がつく。何より「あの」信長が不詳の息子の家老兼お目付け役としたことからも、その評価の高さが知れるというものだ。

「いったい何事でしょうな、あの馬鹿殿は」
「兄上、あれでも仮にも主ですぞ。言葉を慎まれたほうが」
「馬鹿を馬鹿といって何が悪い。実際馬鹿ではないか」

ぶつぶつとぐう垂れながら長門守の後をゆくのは、彼の息子の重孝と善同(よしあつ)。善同は一見兄の重孝をたしなめているようだが、その口ぶりからは主に対する忠誠は余り感じられない。未だ戦国の気質が色濃く残る中で育ってきた息子達には、有能とは言いがたい主に仕えるということがよほど気に入らないらしい。しかしここは城内。主への讒言は命取りになりかねないと長門守が息子をたしなめようとした時、角を曲がってきた人物とちょうど視線が合った。

「これは長門守様」
「玄蕃允殿」

若いながら妙に落ち着いた物腰の津川玄蕃允義冬は、長門守の姿を見ると軽く会釈をした。旧尾張守護家斯波家出身の彼は、もともとその血筋ゆえ織田家に召抱えられた。丹羽家を初めとした旧守護家出身の家臣を抱える織田家にとって、旧守護家の血筋を取り組むことは重要な政治的価値があったからだ。しかし彼は文武共に期待以上の才能を示し、信長を喜ばせた。また妻が北畠家出身ということもあり、義兄にあたるこの城の主を支えるために、岡田長門守と同じく家老として送り込まれたという経歴の持ち主である。長門守と並んで津川がそれだけ高い評価を受けていたということだが、同時にそれはこの二人をつけないとやっていけないと、この城の主の器量が不安がられていたということでもある(実際、彼には「前科」があった)。

「長門守様も御本所様より呼び出しを?」
「左様。玄蕃允殿は何かご存知か?」
「いや、ただ使者がすぐに来るようにと繰り返すばかりでして」

津川は困惑気に答えた。岡田長門守家が織田家譜代の家臣とすれば、津川家は親族衆。身内の悪口をその前で言うほど重孝と善同も馬鹿ではない。その減らず口を閉じて頭を下げた。

「上様から四国攻めへの加勢を命じられたのでしょうか?」
「ないともいえないが、判断の材料が少なすぎる。まさか気まぐれにわれらを呼び出されたわけではないのだろうが-」
「おお、長門守様!玄蕃允様も!」

津川の疑問に当たり障りのない答えを返した長門守は、突如挟まれたそのやけに明るい声に顔をしかめた。重孝と善同は無論のこと、滅多に感情を表さないとされる玄蕃允もあるひとつの共通した感情をその顔に浮かべた。すなわちそれは-嫌悪感である。

「ご足労をおかけしました。御本所様が広間でお待ちでございます。ささ、こちらへ」
「年寄りをあせらすでない勘兵衛」
「何をおっしゃいますか、小豆坂の七本槍たる長門守様ともあろうお方が」

歯の浮くようなお世辞を平然と吐くこの若者。名前を土方勘兵衛といい、御本所様の覚えめでたい近臣の一人である。単なる宮廷人にはとどまらない度胸のよさと口八丁手八丁の実務官僚の顔を持ち合わせるこの若者は急速に場内でその政治的地位を高めつつある。しかし長門守はこの若者のなんともいえない陰湿さが肌に合わなかった。本人も自身のそれは自覚しているのか、仰々しいほどに明るく振舞っている。それがますます気に入らない。

「ささ、とにかく広間へ」
「勘兵衛。この急な呼び出しについてそなた何か知らんか」
「いえ、それは・・・」

勘兵衛は珍しく語尾を濁す。その表情には困惑ともなんともつかぬ奇妙な色が浮かんでいることを、長門守は見逃さなかった。

「御本所様におかれましては、今朝方しばらく・・・その、混乱されたらしく。なにやらよくわからないことを呟かれまして。お会いになられれば『津川はまだか!岡田はまだか!』・・・ああいった具合でございまして」

懐から布を出して額の汗をぬぐう勘兵衛。よく見るとその表情はどこかうんざりした様子にも見えた。

そして主-御本所様と面会した4人は、おそらく始めて、あのいけ好かない勘兵衛に同情の念を覚えた。


-これよりおよそ半日前-


とりあえず私は誰かということを語る前に、言っておきたいことがある。


い・・・いや・・・ネットとかで、そういうSSは、目が腐るほど読んだことはあるけど・・・実際に経験すると、まったく理解を超えていたぜ・・・・

あ・・・ありのまま、今、この身に起こっている事を話すぜ!?

「俺は、賃貸住宅の自分の部屋の布団に入って、いつものように豚の様ないびきをかいて寝たんだ。そして起きたら、戦国時代だった」

な、何を言っているのか わからねーと思うが 

おれも 何がなんだか さっぱりわからんちんだぜ

頭がどうにかなりそうだ!

催眠術だとか、手の込んだ寝起きドッキリだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ

もっと恐ろしいものの片鱗を、人生の不条理を味わっているぜ・・・


とにかく朝起きたら時代劇の世界だったんだ。テンプレにならないほうがおかしいんだよ。わめき散らし、やってきた妙に愛想のいい男を周囲を質問攻めにしたところによると、どうやら「俺」はこの城の城主らしい。鏡を持ってこさせると、そこには瓜実顔の、いかにも神経質そうな男の顔があった。うーん、どっかで見たことあるような・・・どこだったっけ?

そんな疑問を棚上げして(思考の棚上げは彼の十八番である)、俺は殿様気分を満喫した。俺がひとたび出歩けば、モーセのように人が割れ、小姓たちがカルガモの子供のように付いてくる。神戸電子専門学校のCMみたいだ。今時どんな高級クラブに言ってもこんな接待はしてもらえないぞ。うーん、いいな殿様。

といっても、いつまでも現実逃避していても仕方ない。とりあえず俺が今誰なのかを確認しなくては(冒頭の愛想のいいおっさんは妙に疲れた顔をして下がっていっちゃったし)とりあえずひょこひょこ付いてくる侍従の一人に、出来るだけ自然な感じで、さりげなく、それでいて城主の威厳を保ちながら尋ねてみよう。

「えー、ごふん。えー、今年は、せいれ・・・ではなく、元号は何だったかね?」

・・・うん。認めよう。俺こそが、誰もが認める大根役者だ。

突然「今何年?」と聞かれて、違和感を覚えないほうが変だ。聞かれた小姓たちは、顔を見合わせて(何言ってんだこいつ)と目で会話している。おい、俺は殿様だぞ。せめて上司の陰口は陰でやれ、影で。

「天正10年でございますが」

・・・天正?えーと、確か、陰謀大好きな最後の室町将軍が追放されたのが、天正元年だから、1573で・・・あー、

天正2年-1574
天正3年-1575
天正4年-1576

(中略)

天正9年-1581

だから、天正10年は、1582年か。ふーん


・・・あれ?


おお!本能寺の変があった年じゃん!キンカン頭がぷっつんして、本能寺でばっこーんした、日本史の大事件!

お~、こりゃなかなかおもろい時代だな。うまいこと立ち回れば、大名になれるかも・・・うっしっし。一国一城の主、悪くないね。男の憧れ、ミニ大奥で「殿、お止めください」「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」ゴッコが出来るかも・・・

うーん。ビバ戦国。ビバ一夫多妻。

ニヤニヤしている俺を、ますます胡散臭そうに見つめる小姓達。「馬鹿だと思っていたが、ここまでとは」「しッ聞こえるぞ!」というヒソヒソ話。はい、聞こえてます。小市民だから、何も言い返さないけど。部下の悪口で、いちいち切れてたら、それこそ鼎の軽重が問われるってもんだぜ。小心者だから怖くて言い返さないわけじゃないんだからね!

それにしても、この「俺」って、評判よくないみたいだね(本人の前で堂々と馬鹿って言うくらいだし)まぁ、心底嫌われてるわけじゃないみたいだけど。ほら、あれだよ。志村○んの馬鹿殿っぽい、愛される馬鹿?こっちに来てまだ初日だけど、向けられる視線や、家臣の態度からはそんな気配がする。

「で、今日は何月何日だ?」
「は、はぁ・・・6月2日で「ニャンだとおおおおおお!!!!!!」

小姓たちがひっくり返った。おお、見事な受身。褒めてつかわす・・・とか言ってる場合じゃねえ!

今日じゃん!今日じゃん!うおおお!!何たることだサンタルチア!!これで「信長にチクッて、褒めてもらおう作戦」は駄目になった!ちくしょー・・・こうなりゃサル・・・ハゲネズミだっけ?まぁいいや。ともかく、「秀吉に味方して、関が原で東軍に乗り換え大作戦」に変更だ!

ん?そうなると問題なのは、俺が誰であり、ここがどこかだな。ここはどこの城なんだろう。畿内だったら、やべえよな。すぐに旗幟を鮮明にしたら、間違いなく水色桔梗の旗指物に囲まれてフルボッコだし。もし畿内・・・河内・摂津・和泉だったら無論のこと、近江や若狭、大和あたりなら、大作家のご先祖に習って、日和見しよう。腹痛いとかいって・・・

俺が高度にしてアグレッシブな処世術ソロバンを素早く弾いていると、小姓達(ていうか、ひそひそ話はもっと小さい声でやれ)が俺の名前を会話の中で使ったのが聞こえた(そういや、肝心要の名前は確認してなかった)

「御本所様は、どうされたのだ?」
「さあね・・・まぁ三介殿だからのう」
「名門北畠も、お先真っ暗じゃ」


・・・・はい?


「・・・御本所さまって、俺のこと?」
「・・・はい」

こいつほんまに大丈夫か?という視線が盛大に向けられるが、俺はそれどころじゃなかった。頭の中で赤いサイレンがファンファン鳴り、盛大にエマージェンシーコールが鳴り響く。

「・・・ここ、伊勢の松ヶ島城?」
「・・・勿論です」

最終防衛ライン突破!

「・・・俺の親父って」
「先の右府さまですが・・・」

先の右府・・・前の右大臣、だよね。この時代に、そう呼ばれるのはただ一人

第六天魔王-織田信長

その息子で、三介と呼ばれて、おまけに北畠姓。ここは、伊勢の松ヶ島城


オーケー、おちつこう

しかし、頭の中では、どんどん嫌なキーワードが思い浮かんでくる

織田 北畠 伊賀侵攻 三家老惨殺 小牧長久手 単独講和 改易 能だけがとりえの、ゲームや小説なら、無能の代名詞のように扱われる、織田信長の息子 

ばらばらのピースをかけ集め、一つの・・・これだけは、絶対嫌な結論にたどりつく


「ぎゃああああああ!!!!!!よりにもよって、信雄かあああああああああ!!!」


「ご、御本所様がご乱心じゃー!!!」



時に、天正10年(1582)6月2日。彼-「北畠信意」(きたばたけ・のぶおき)が、本能寺と二条御所襲撃は6月2日の早朝であり、すでに父や兄が亡くなっていることに気がつくのには、もう少し時間がかかる。


いそしめ!信雄くん!


始まる・・・かもしれない。



[24299] 第1話「信意は走った」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/18 22:36
羽柴筑前守秀吉(後の豊臣秀吉)の中国大返しと並んで、本能寺の変における最大の疑問は、北畠宰相こと織田信雄(当時は北畠信意と呼ばれていたが便宜上そう呼ぶ)の安土入城である。諸説によると彼は6月2日早朝の京の異変を、昼頃までには正確に把握していたという。信雄の家老津川義冬が織田信包(伊勢上野城主)に送った書状に寄れば、本能寺の変に関する情報と明智勢の動向は、全て信雄が直々に召抱えた忍びからの情報に拠っていたとある。

ここに疑問が残る。ご存知のように織田信雄といえば「三介殿のなさることよ」と長く嘲笑を受ける原因となった第1次天正伊賀の乱(1579)、そして伊賀の土豪勢力を根絶やしにした第2次天正伊賀の乱(1581)の中心人物である。織田信長が忍びを嫌っていたという俗説はさておくとしても、天下統一を前にして伊賀や甲賀を初めとした土着の土豪勢力は、統一政権にとって目障りな存在となっていたのだ。

話を元に戻そう。以前から敵対していた甲賀と並び伊賀を殲滅したことによって、織田家が忍びを召抱えることが難しくなったのは確かだ。その信雄が忍びを抱えていた-俗説をそのままここで語るつもりはない。しかしこれに違和感を覚えるのは私だけであろうか?

ここで比較のために堺にいた徳川家康を例に挙げよう。堺を漫遊していた家康一行が異変を知ったのは和泉国四条畷。中国攻めに向かう信長への挨拶のために長尾街道を京へと向かっていると、以前より昵懇にしていた京の商人、茶屋四郎次郎清延が駆けつけて知った。これが6月2日のことである。それと時を同じくして、まともな街道も整備されていない伊賀(反織田家感情の根強い)を越え、およそ家康一行よりも優に2倍以上はなれた場所にあって、信雄は同じ情報を得ていたのだ。いったい誰から?どうやって?真相は闇の中である-

『大逆転の日本史-織田信雄本能寺黒幕説を追う-』より

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いそしめ!信雄くん!(信意は走った)

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- 6月3日 近江国蒲生郡 安土城 摠見寺の境内 -

字はその人となりや書き手の精神状態を表すと言う。そんな格言が頭に浮かんだのかどうかは定かではないが、床机に陣取った安土城留守居役の蒲生賢秀は、机の上に広げられた二つの書状を前に首を傾げていた。

ひとつは明智日向守光秀からの書状。織田右府様(信長)、岐阜中将様(信忠)を討ち果たしたという内容に賢秀は「日向守殿は気でも狂われたのか」と疑ったが、勢田城主の山岡兄弟を初めとした情報で事実であることは証明されている。普段の日向守の文体は格式ばったものだが、高揚感からか「近江半国を与える」などという大言を吐いている。無論、そんな甘い言葉を信用する賢秀ではない。旧政権を否定することで新たな秩序を確立するしかない明智政権が、信長の娘婿である自分の息子を重用するはずがない。すぐさま破り捨てようとした賢秀だが、続いて届いた書状にその手を一旦止めた。

手紙の送り主は北畠中将。右府様の子息である三介殿からの手紙は、賢秀にある意味、明智からの手紙よりも衝撃を与えた。

「父上、これは明智の負けですな」
「忠三郎、迂闊なことを申すでない」
「明智の利点は時間です」

亡き信長より「その目尋常ならず」と評された嫡子忠三郎賦秀は、父の叱責が耳に入らないかのように滔々と自分の考えを述べ始めた。

「明智の謀反が衝動的なものだったのか、計画的なものだったのかは現状では不明ですが、北畠中将様がこの手紙を書かれたのは恐らく2日の昼。早朝の謀反がその日のうちに南伊勢にまで知れ渡っているなど、あまりにもお粗末といわざるをえません。情報の秘匿も出来ない明智に未来などあるはずがありません」

賢秀は渋い顔で腕を組んだ。常日頃、この息子の才気は何れ蒲生家の命取りになりかねないという予感を強めたからだ。それはともかく、少なくとも自分より頭の回転の早いであろう息子に言われずとも、その程度のことは賢秀も承知している。問題はその次、北畠中将の手紙の続きにある「命令」の内容とその是非だ。

「柴田、羽柴、神戸様、いずれがまず明智と対するかはまだ分かりませんが、軍勢を引き換えすか、立て直すまでには時間が必要でしょう。北畠中将様の後詰が得られるなら、安土籠城は可能です」

この時、安土留守居役の賢秀は、信長の室や子女を連れて自身の居城である近江日野城に引き上げるための準備を進めていた。織田帝国の中心、いわば心臓部である安土城だが、その留守居兵は日野城の兵を呼び寄せても1000にも満たない。これには信長や信忠という移動する政府首脳に、馬廻りや秘書官と言った政府高官の多くが随行していたことが原因である。いうまでも無く彼らの多くは京で果てており、安土にいるのは戦力にもならない兵ばかりと言う空城に等しいものであった。そもそも安土の城からして、安土山を利用して築城された山城ではあるが、籠城には極めて不向きなものであった。大手門から天主まで続く幅6メートル、直線約180メートルの道に象徴されるように、設計思想は行政庁としての役割が中心となっている。おまけに城の一部は琵琶湖に面しており、近江坂本に居城を持つ明智が、琵琶湖の水軍衆を味方に付ければ、あっという間に落城するだろう。

「北畠中将の後詰があるのであれば可能です。父上、最低でも一月、もしくは数週間でいいのです」

賢秀は苦りきった顔を息子に向けた。

「何を根拠にそのような事を・・・」
「京での異変よりまだ二日です。北畠中将がいかなる方法を用いてこの情報を得られたかは不明ですが、この文章によると中将は既に軍を起こしておられます。これが旗色を決めかねている近江の諸侯にいかなる意味を持つか、お分かりでしょう」
「・・・仮定では動けん。せめて北畠中将の兵が鈴鹿峠に陣取ってくれれば-」

その時、親子の目に喜色をあらわにしてこちらに駆け寄る兵士の顔が見えた。

「これで決まりですな」
「・・・好きにしろ」

賢秀は忌々しげに吐き捨てると、床机から立ち上がった。



-同時刻 近江志賀郡 猪飼昇貞(いのかい・のぶさだ)の邸宅-

日ノ本最大の淡水湖である琵琶湖にも水軍と呼ばれる武力集団は存在した。漁村の自衛集団などから発生した彼らは、海の水軍同様、交通料と引き換えに湖での安全な航海を保障した。今からすればとんでもない話だが、当時はこれが認められていたのである。その中でも近江志賀郡に本拠地を持つ堅田水軍は最大の勢力を誇っていた。六角氏から浅井氏、そして尾張の新興勢力織田氏へと陸の覇者を冷静な眼差しで見極めながら、その勢力を拡大。現在の棟梁である猪飼昇貞(いのかい・のぶさだ)は、信長より志賀郡の支配権と琵琶湖の水運・漁業を統轄する幅広い権限を認められていた。

その湖の王者の屋敷に、安土城と同じく北畠中将からの手紙が届いていた。日に焼けた浅黒い顔をしきりになでながら、棟梁猪飼昇貞はその手紙の内容に何度も何度も繰り返し目を通している。すでに鎧に身を固め、出陣の支度を終えていた息子の秀貞は、そんな父をこちらももどかしそうに見つめていた。

「・・・北畠中将はどうやってこれを知ることができたのか」

視線をせわしなく動かした後、昇貞は感心したようにつぶやいた。手紙の内容自体は驚くべきものではない。6月2日の早朝に明智日向守が謀反を起こし、先の右府と岐阜中将が戦死したこと。二条御所と本能寺で戦死したであろう側近や馬廻衆の名前。脱出に成功した著名な武将の名前が記されている。琵琶湖の水運を牛耳り、湖上交通を支配する昇貞にはすべて既知の情報である。問題はこれの差出人、そして書かれたであろう時刻だ。今は4日の深夜。ということは岐阜の松ヶ島にいた北畠中将は、2日の朝にはこれを知って、なおかつ手紙を書ける環境にあったということを意味している。それも「琵琶湖を支配する自分が2日かけて知りえた情報のすべて」を記したうえで。

昇貞は言い知れぬ不気味さをこの手紙から感じていた。「伊勢松ヶ島にいた人間が」「京で起こった変事を」「琵琶湖水運を使うことなく」「知ることができたのか」-答えは否だ。そのような方法、空を飛びでもしない限りあるはずがない。しかしそれではこの手紙の説明がつかない。現に手紙は今、自分の手の中にこうして存在しているのだ-

「父上、このような手紙を信じることはありません。相手はあの三介殿ですよ?たまたま書いたことがあたっただけかもしれません」
「・・・」
「父上、日向守様の恩義に答えるのはッ・・・」

昇貞は無言で息子秀貞の顔を殴りつけて黙らせた。織田家に所属してからの堅田水軍は、近畿管領ともいえる立場の明智家の配下として行動。中でも今、床でのびている秀貞は名前の通り明智光秀から一字を与えられ、明智姓を許されるほど重用されている。その息子が心情的に明智方への見方を主張するのは理解できた。しかしこの不気味な手紙を受け取って、尚且つ堅田水軍の棟梁として明智に無条件で味方するという選択は、昇貞には出来なかった。何より六角、浅井、織田と渡り歩いてきたその嗅覚が、明知に天下の目がないことをかぎつけ始めていた。少なくとも極秘であるはずの重要情報を、その日に南伊勢では(何らかの方法で)知ることが出来る状況にあった。とてもではないが明智とともに戦おうという気にはなれるはずがない。

「我ら堅田水軍は陸の権力争いにはかかわらぬ・・・意義があるものは?」

すでに猪飼の屋敷に集まっていた堅田衆-誇り高き湖の男たちは、沈黙で棟梁に答えた。



- 6月3日 伊勢と近江の国境 鈴鹿峠 -

伊勢から近江に繋がる鈴鹿峠。そこに笹竜胆-北畠家の紋が翻っていた。

「走れ、走れ、走れ、走れ!!止まると馬で蹴り飛ばすぞ!ほら走らんか!!」

北畠中将こと、北畠信意(信雄)は日の丸のついた扇子を両手に持ち、上下に激しく振りながら兵士を煽り立てていた。兵士達はそんな馬鹿殿・・・もとい、御本所様直々の声援に、その士気とやる気を盛大に削られながらも、安土に到着すれば金も米も取り放題という「空手形」を奮起の材料にして必死に走り続けていた。家老の津川玄蕃允義冬は、当然兵を休めるように進言したが、北畠信意は「まるで人が変わった」かのように義弟の忠告を断固として受け入れなかった。

「本所様、この速度では兵は使い物になりませんぞ。たとえ安土に間に合ったとしても、ただの動く的でしかありません」
「馬鹿野郎!ここまで来て安土に入らなきゃ、それこそ本末転倒だろうが・・・ほらそこ、寝るな!寝るなら安土に入ってからにしろ!安土に入れば金も飯も思うがままだ!!ほら走れ、走れ!!」
「そのような空手形を、もし右府様が存命でしたらただでは・・・」
「玄蕃」

信意は兵の士気を著しく損ねていた踊りを止めて、傍らの家老を振り返った。

「貴方・・・いや、貴様の心配は分かるが、とにかくここは私のいうとおりにしてくれ。とにかく安土へ、安土へ行かねばならんのだ。最近は御上も金欠病が深刻だ。安土の財宝を逆臣に渡しては、それこそ取り返しのつかないことになる」
「・・・恐れながら御本所様に申し上げます。私はその本所様の情報とやらをまだ信用してはおりません」

津川は膝をつき、意を決して義兄への換言を口にした。京での異変-明智謀反の情報は北畠家首脳を動揺させ、普段の冷静さを失わせた。信意がその勢いのまま安土への出兵を命じたため、岡田長門守や津川も反論できないまま追認したが、今は若干冷静に考えることが出来る。義兄が自分の情報に妄信的な確信を持っているのは会話の中で理解できたが、もしそれが虚報なら?不安と共に、主信長の顔を思い浮かべた津川は、腹が底から冷えるような恐怖を感じた。織田信長と言う人物は、二度の失敗は決して許さない君主だ。それは息子である彼とて同じだろう。今なら、この鈴鹿峠なら引き返すことは可能だ。

「玄蕃の忠言、嬉しく思うぞ」

自分より一回り上の義弟の諫言を黙って聞き終えると、信意は津川の両肩に手を置いた。津川が顔を上げると、信意はここ数年見せたことのないような屈託の無い笑顔を浮かべていた。何がそんなに嬉しいのかは津川にはわからなかったが。

「しかし、今だけは俺を信じて欲しい。父や兄が死んだのも、明智が謀反を起こしたのも事実なのだ」

頼む-そういって力強い目でこちらを見据えた主に、津川玄蕃允は首を振ることが出来なかった。

「と言うわけで・・・我が北畠の兵士たちよ!走れ走れ走れ走れ走れ!!ほらいけ、やれいけ、いけいけごーごー!!!」
「おやめください」

続けて行おうとした奇妙な踊りは全力で阻止したが。



- 6月4日 夕暮れ 安土城下 明智軍本陣 -

「なりません!力攻めだけはなりませんぞ殿!」
「ならば貴殿はこのまま安土を放置しろと言うのか」
「そうは言っていない。しかし力攻めは駄目だ!!」

安土城を包囲した明智軍6000を率いる明智左馬介秀満は、京より着陣した主君、明智日向守と共にあらわれた伊勢貞興の言動に腹立たしさを隠せなかった。旧織田政権の象徴にして、信長の子、伊勢北畠家当主の信意が籠城する安土を落とす絶好の好機にもかかわらず、それを直前になって止めろというのだ。左馬介は伊勢貞興を無視して、光秀に話し始めた。

「日向守様、既に城下を焼き払い城攻めの準備は整っております。あのような城もどき、我が明智の精兵にかかれば半日とかからず落としてご覧にいれます」
「それが駄目だといっているのだ!大体、誰の許可を得て城下を焼き払った!」

貞興の言葉に左馬介は鼻白ろんだ。城攻めの前哨戦として城下を焼き払うのは戦の定石ではないか。自分は何も責められるようなことはしていない。その思いが彼の態度を必要事情に片意地張ったものとしていた。貞興は貞興で、逆に左馬介の視野があまりに狭いことに苛立ちを隠せずにいた。これは左馬介と貞興のおかれた立場が違うからだろう。伊勢貞興は元々室町幕府の政所執事を世襲した伊勢氏の出身。足利義昭追放後に明智家に仕えた。旧幕府人脈を使い、京で寺社や禁裏を相手に世論対策を担当する貞興には、左馬介の行動は暴挙以外の何者でもなかった。

そして貞興の考えは大筋で光秀の意向に沿うものであった。前線指揮官として眼前の戦局のことだけを考えている左馬介と違い、光秀はこの戦いを謀反人から天下人として朝廷からお墨付きを得るための戦ととらえている。旧政権の首都を(圧倒的武力を背景にしたとはいえ)無血開城させることは、新政権が世論の支持を得ていると言う格好のデモンストレーションになりえた。しかし実際はどうか。市民は自分達が虐殺されたことは忘れても、僅かでも財産を没収されたことは忘れないものだ。旧首都の安土城下を焼き払ったと言う事実は、これ以上なく旧織田領の統治を難しくするだろう。そして何より、安土にある莫大な織田家の資産は、禁裏や寺社に対する工作を担当する貞興には喉から手が出るほど欲しいものであった。

「ですが日向守様、このまま安土を放置すれば、近江全体の統治に支障を来たします」

無論、秀満の言うことにも理があった。安土を包囲した明智軍は総勢5000。都の警備や機内の平定を考えればそれ以上の兵を裂くことは出来なかった。これに山本山城主の阿閉貞征・貞大親子ら、近江衆約1500が加わり、安土を包囲している。近江衆の参陣は当初想定していたよりも明らかに少なく、そして動きが鈍かった。明智政権が京や近江の世論の支持を未だ得ていないことが影響していたのは疑う余地は無い。象徴的なのは旧近江守護家の京極高次が安土に籠っている事だろう。没落の貴公子は当初明智軍への参陣を考えたが、北畠信意が安土へ入城したことを知ると、すぐさま安土へと入った。天正伊賀の乱以降、極端なまでにその言動が慎重-言い方を変えれば愚図になった「あの三介殿」の機敏な行動に、これは明智に勝ち目は無いと踏んだのだ。山崎城主の山崎方家も同じように考えた一人であり、一族郎党を引き連れ安土に入城。取るものもとらず伊勢から駆けつけた北畠の軍勢2千とあわせて4千弱という、明智方が予想だにしない大軍が安土に篭城していた。

泣きっ面に蜂とやらで、明智方には不運が続いた。近江水軍の中核であり光秀傘下の与力であるはずの堅田水軍の棟梁・猪飼昇貞が「武装中立」を宣言したのだ。湖から攻めれば安土城は一刻と持たないが、水軍が日和見を決め込んだとあらばその作戦は不可能となる。琵琶湖の物流を握る堅田水軍相手とあっては、明智勢も強気に出ることはできず、明智方の近江坂本城への物資搬入協力を条件に、武装中立を認めるしかなかった。明智方は知らないが、これには信意が(援軍欲しさに)堅田水軍を始め、見境なく近江の城主にばら撒いていた書状が大きく影響していた。「一字一句誤りや事実誤認のない正確な情報」が列挙された手紙と、北畠中将の安土籠城との知らせに、手紙の受け取り手の多くが「もう暫く様子を見よう」と日和見を決め込んだ。結果的にではあるが、信意の行動は近江における明智軍苦境の原因となっていたのである。

論争を続ける貞興と左馬介とは対照的に、光秀を含む明智軍首脳部は沈痛な雰囲気に包まれていった。現在の苦境をもたらし、近江平定を遅らせている原因はわかっている。目の前の丸裸の安土城に籠り、旧織田政権の象徴として抵抗の旗印となっている北畠信意-その人である。信意を討ち取らねば近江や伊勢の平定はありえないという左馬介の意見も、その先の領民の鎮撫に主眼を置く貞興もそれぞれに理があった。それゆえ両者は一歩も引かず、貴重な時間が無為に費やされることになる。光秀は心情的には貞興寄りだったが、親族衆の左馬介の意見も無碍には出来ず苦悩した。結果的に光秀が命じたのは「北畠中将と交渉し、伊勢へお引取り願う」という、両者の訴えを折衷した曖昧なものであった。

「あの三介殿のことだ。重臣にせっつかれての出陣で、戦は翻意ではないだろう。追いかけぬとあらば伊勢に引き上げるのではあるまいか」

光秀の発した淡い期待交じりの言葉は、明智軍首脳陣の共通した思いであった。


で、当の三介殿はというと

「よいか!あと6日、6日我慢すれば我らの勝利だ!すでに羽柴筑前守の軍勢は高松を立ち、畿内にとって返しておる!11日には摂津尼崎に到着するそうだ!後6日我慢せよ・・・何?光秀の軍使?会うぞ会うぞ!酒をじゃんじゃん飲ませて徹底的に歓待しろ!!・・・なんだ忠三郎、勘違いするな。本当に降伏するわけではない。和睦すると見せかけてのらりくらりと出来るだけ交渉を長引かせるのだ。6日我慢すれば羽柴の軍勢が来るんだからな・・・え?いや、それは・・・ほら。そうそう、忍びからの情報だ!とにかく俺を信じろ!」

まったくそんな期待にこたえるつもりが無かった。そこに痺れないし、憧れない。



安土に籠城した蒲生家以下の留守居役と北畠家の将兵は、「あの」三介殿のいうことだからと話半分に聞き流していたが、それでも何故か自信たっぷりに羽柴の後詰を力説する信意に、妙な違和感を覚えながらも籠城戦における心の支えとしていた。

明智勢と北畠中将以下の安土城籠城軍は3日にわたり交渉を続けた。明智方は何が何でも城内の財宝を、禁裏工作や世論対策のバラマキ財源のために必要としており、それを見透かした城方(蒲生賢秀)が徹底的に交渉を引き延ばしたのだ。一旦開城すると口にしたかと思えば、突如強気になり、また次の会談には「場内の説得のために時間が必要」などと、ぬらりくらりと言質を与えない蒲生賢秀に、明智軍の左馬介がぶち切れ、8日夜より攻城戦が開始された。

当初の時間稼ぎというもくろみはまんまと成功し、その上十分な休養を得た籠城側は士気高く、精鋭揃いの明智軍相手に奮戦した。後のない明智勢の攻撃もすざましく、一時は本丸付近まで侵入を許したが、見事に撃退に成功した。中でも信長の娘婿である蒲生忠三郎賦秀、北畠家老岡田長門守の二子、重孝と善同の活躍は目覚しく、「安土大手門の三勇士」としてその名を広く世間に知らしめることになる。


そして6月11日。安土の金を得られないまま、京で必死に禁裏への工作を続けていた光秀の下に、「ハゲネズミ」こと羽柴筑前守秀吉の軍勢が摂津尼崎へと入城したという凶報が届いた。



[24299] 第2話「信意は言い訳をした」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/19 06:38
池田勝入斎「何故北畠中将殿は本能寺の変の事をいち早く知ることが出来たのか?」
柴田修理亮「何故、北畠中将は筑前の動きを知っていたのだ?」
羽柴筑前守「何故三介殿は、私の家族が竹生島に隠れていることをご存知だったのだ?」
丹羽五郎左「何でも北畠中将は腕のいい忍びを召抱えておられるとか」
柴田修理亮「五郎左殿はそれを信じられるのか?」
丹羽五郎左「・・・」

世に言う「清洲会議」。その冒頭の一コマである。

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いそしめ!信雄くん!(信意は言い訳をした)

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摂津山崎の地を舞台に行われた合戦の合戦は、羽柴筑前守秀吉率いる反明智連合軍が勝利をおさめた。当然である。旧織田家の中国方面軍司令官の羽柴筑前守秀吉率いる連合軍4万に対し、明智方はその半分にも満たない7000あまりの兵しか動員できなかったためだ


時間を遡る。6月4日の深夜、日向守謀反の知らせを受けた羽柴筑前守は、既に交渉中だった毛利家との和平交渉において大胆な妥協を重ねて(すでに指示を仰ぐ上司は存在しない)即座に講和を成立させると、備中高松よりそっくりそのまま中国攻めの本隊約2万の兵を連れて姫路まで引き返した。世に言う「中国大返し」である。これに本来なら光秀貴下として中国遠征を準備中で、異変発生後は旗色を伺っていた摂津の諸将-茨城城主の中川清秀、高槻城主の高山右近、兵庫城主の池田勝入斎ら総勢9千余りの摂津衆が参陣。本来なら最も早く明智方と戦える位置にいながら、統制の乱れた軍の再編と明智光秀の婿津田信澄の討伐に手間取っていた織田三七信孝、丹羽長秀率いる四国遠征軍8000を加え、反明智連合軍の総勢は4万にも達していた。

一方、明智日向守はまるで坂を転がるように、敗北への道筋をたどった。安土の金蔵を使うと言う皮算用が御破算となったため禁裏工作の資金が続かず、旧室町幕府人脈を持つ伊勢貞興や先の関白近衛前久の奔走によってあるはずだった2度目、3度目の勅使を得ることが出来なかった。住宅税免除などで京の町衆を味方に付けようとしたが、財源の裏づけがないことを見透かされてこれも失敗。頼みの縁戚である丹後細川家や大和郡山の筒井家は、中立どころか京や奈良を伺う有様で、安土の北畠中将と同じく備えの兵を置かざるを得なかった。結果、兵力を分散せざるを得ない状況に追い込まれた明智勢が山崎の地に動員できたのは約7千。当初動員していた兵力の半分でしかなかった。

明智日向守は最後まで戦場に踏みとどまり、兵庫城主・池田勝入斎の嫡男池田元助(之助)に討ち取られた。


「安土の、金さえあれば・・・」


明智日向守光秀の最後の言葉である。




-さすがに悪いことしたかなぁ

どうも。さすがに罪悪感にさいなまれている信意(信雄)です。紛らわしいけど、勘弁してね。さて、突然ですがめちゃくちゃ教科書やスケートリンクの上で見覚えのある顔に睨まれています。こちらは氷上よりは顔がきつく、教科書よりはマイルドな印象だけど、まさにあのまんま。勘のいい方はすでにお気づきでしょう。三七殿こと、織田三七信孝さんです。ていうか睨まないでほしいなぁ・・・気持ちはわかるけど。そんなに睨まれると・・・感じちゃう。

「・・・」

額から一筋汗を流すと、信孝は視線をそらした。ふむ、相手の不穏な感情を読み取るとは。さすが信長の子。なんちゃってシンデレラボーイの俺とは出来が違うぜ。やるなお主。さてここは尾張は清洲のお城。織田家発祥の地であるこの城で、何故俺がこの同い年の異母兄弟と同じ部屋にカンヅメにされているかと言うと、それには説明が要るだろう。


説明しよう!現在清洲城では、織田帝国の後継者を決める会議が重臣達によって行われている。そのため候補者でもある自分と信孝は同じ部屋に詰め込まれているのだ!(別の部屋に入れると独自の工作をしていると疑われかねないため)


ここでは「重臣」と「清洲」っていうのがポイントだね。ここ、テストに出ないけど覚えといてね。


信長と兄さんが生きていたとき、織田一族を除く重臣と言えば、北陸方面軍の柴田勝家、中国方面軍の羽柴秀吉、近畿管領の明智光秀、関東管領の滝川一益の四人である。丹羽長秀は四国遠征軍の副将で少し格は落ちる。方面軍司令官は傘下の大名を指揮監督する立場にあり、いわば宿老も言えるべき立場にあたる。このうちクーデターを起こした明智が抜け、一度は追い返したが、二度目は関東の最大広域勢力の北条家の大軍を前にフルボっこ(神流川の戦い)となり、着の身着のままで本領の伊勢長島へと逃げ帰ってきた滝川一益が脱落。残ったのは羽柴秀吉と柴田勝家。会議の中心となるのはこの二人なのは言うまでもない。


羽柴秀吉は織田信長の能力至上主義を象徴するような人物とされる。小さな体のどこにそんな力があるのかと思わせる、あふれんばかりの創作意欲、農民から大名へとのし上がったバイタリティ。自身の欲望にはとことん忠実でありながら、いざと言う時には命を省みずに泥にまみれる覚悟を持ち、自分の運命を自ら切り開く底抜けの楽天思考の持ち主。まさに将来の天下人に相応しい。


それに対するは柴田勝家。自他共に認める織田家筆頭家老・・・のはずなんだが、この人物の出身はよくわからない。柴田だから守護家斯波氏出身だという説もあるが、これはいくらなんでもありえない。甕割り柴田の異名を取る猛将ではあるが、一向一揆で荒廃した越前を見事に治め、検地や刀狩といった後の豊臣政権の兵農分離に繋がる政策を先駆けて行ったという一面も持つ。そうした文武に優れた領国統治者であったことが、一度は弓を引いたとはいえ信長に重用され続けた理由だったのだろう。


羽柴と柴田、そのどちらが会議の主導権を握るか。世間や家中の追い風は明らかに羽柴へと吹いていた。次期織田政権の枠組みを決める会議において、旧主の仇を討ったという事実は、この小柄な男の何物にも変えがたい政治的武器となっている。とはいえ柴田勝家も黙って秀吉が勢力を伸ばすであろう現状を看過するような男ではない。越後上杉家への備えとして佐々政成を越中に留め、畠山旧臣の反乱に対応するため能登に留まった前田利家を除く配下の将を率い、光秀討伐の道中にあった勝家は、山崎合戦の顛末を聞くと、進路を尾張清洲に向けた。いずれ「清洲会議」のような重臣や一族が集まって、織田帝国の遺産相続の話し合いが行われるのは容易に想像のできる事態であり、会議の場所を定めることで主導権を握ろうとしたと思われる。

当然、舌から先に生まれたような秀吉も手をこまねいているはずがない。秀吉は後継者決定会議に参加する重臣に、若狭国主の丹羽長秀、摂津尼崎城主の池田勝入斎を参加させることを勝家に受け入れさせた。丹羽長秀は元々織田家の譜代ではなく、守護職斯波家の家臣の家柄。いわば尾張の旧支配層を代表している。安土城築城や琵琶湖水運の整備など、内政に手腕を発揮した人物だが、個性的な人材ぞろいの織田家の中にあっては影が薄くなるのはやむを得ず、方面軍の副将という立場に甘んじていた。一方、池田勝入斎は荒木村重の旧領を治める摂津諸侯のまとめ役ではあったたが、その他の人物に比べると明らかに格が落ちる。ただこの人物は織田信長の乳母兄弟であり、織田帝国の後継を定めるという点で言えば、他の国主(丹後の細川家、大和の筒井家等々)と比較すると、必ずしも資格がないわけではない。

両者は共に山崎の戦いで秀吉と共に戦っており、どちらかといえば親羽柴派の人物。この時点で会議の場は3:1となった。勝家は自身の正統主義で押し切れると考えていたとされるが、このあたりはよくわからない。既に会議の主導権は秀吉に握られていたと考えたほうが自然か。諸説あり、真偽のほどは定かではないが、この会議に堀秀政が同席したと言う記録がある。信長の小姓上がりの秘書官であった秀政は、まさに織田家の後継者会議を定める書記役に相応しい人物。同時に秀政は本能寺の変では備中高松に会って難を逃れ、山崎合戦で功を立てたというこれまた親羽柴派の人物。仇討ちに出遅れた勝家の外堀は、おそらく彼の考えている以上に埋められていた。


「・・・・・・」


それで蚊帳の外なのが、僕らというわけだ。何せ信長の子供で成人しているのは俺と信孝の二人だけ。普通に考えればこのどちらかが後継者になることが想定出来た。政治的失点の多い三介殿は当初から排除され、勝家は山崎合戦に従軍した三七信孝を推薦。これに秀吉が「超正統主義」ともいえる、まさかの三法師を擁立。丹羽・池田が賛成したことにより、織田家の後継者は亡き信忠の子、三法師に決定。秀吉VS勝家の宮廷闘争は、前者が完全勝利を収める・・・はずなんだけどね。



「勢いでやった。後悔はしている。だが反省はしない」
「・・・は、ははは・・・き、北畠中将殿はおもしろいことをおっしゃりますなあ」

ハゲネズミこと、羽柴筑前守秀吉は彼には珍しい引きつり笑いをしていた。後ろで頭巾をかぶった男が路上の雑巾を見るような視線で俺を見てくる。杖を持っていると言うことは、黒田官兵衛かな。おお、いいな。もっと俺を蔑んだ目で見てくれ。プリーズ。

「山崎はまるで無人の野を歩くようなものでした。これも一重に北畠中将殿が安土で光秀めと戦い続けてくれたお陰でございます。感謝致しますぞ」

さすが秀吉。直に精神を立て直しやがった。ただの色黒な小男ではない。それにしても歴史上の人物が目の前にいるって、何だかすっごく妙な気分だ。北畠の家臣団って皆モブキャラだしね。強いて言うならば、蒲生の嫡子ぐらいか。

「それに我が妻のねねや、母上を竹生島まで直々に出迎えに来てくださったとか」

いかにも人好きのする笑顔で俺の両手を握る秀吉。なるほど、人誑しと言われるわけだ。この笑顔で頼み事をされたら断ることは難しいだろう。ところであまり俺の手をにぎにぎするのは止めろ。俺にソッチの趣味はないから。

さて、話を本題に戻そうか。ここで俺の華麗なる処世術とチート知識(未来知識)に基づいた処世術を発表しよう。

①チート知識をフル活用して秀吉に犬のように媚を売るまくる
②秀吉が死んだ後は、同じくチート知識を活用して家康に猫のように媚を売りまくる

・・・なに?手抜き?もっと考えろ?ふふふ、甘いな。心理とは何時でも単純なものなのだよワトソン君。大体、元の体と頭が三介なのに中身(精神)が小市民の俺で上手くいくはずが無いのさ。はっはっは。

何とか安土城籠城戦をしのぎきった俺(小便を漏らしたことは秘密だぜ)は、早速未来知識を活用して秀吉に媚を売ることにした。明智光秀のクーデター発生を受けて、すぐさま近江で親明智の姿勢を明確にした中に阿閉(あつじ)貞征という人物がいる。旧浅井家臣で山本山城主の彼は、長浜城主の羽柴秀吉と領土紛争を抱えており、日頃遺恨を抱えている秀吉に意趣返しを目論んだのである。長浜城にいた秀吉の家族は琵琶湖の竹生島に難を逃れていた。そこでこのナイスガイな俺は琵琶湖水軍の協力を得て、俺自ら秀吉の家族を出迎えに赴いたのだ。わっはっは、何と完璧な俺の作戦。


-何故北畠中将は、自分の尼崎入りの日時を知ることが出来たのか・・・それにねねやかか様が竹生島に非難していることを誰から知りえたのか。羽柴家中に間者でも潜ませていたのか?いや、それは考えにくい。とにかく不自然な言動が多すぎる。北畠信意-案外馬鹿ではないのかもしれないが・・・危険だな。


「それにしましても北畠中将殿は優秀な忍びを召抱えておられて羨ましい限りです。最も、情報を生かすことのできた北畠中将殿のご器量あってのことでございますが」
「わっはっはっは!褒めるな褒めるな!もっと褒めろ!」

完璧な作戦は、完全な裏目となり、無用な警戒感を秀吉に植え付ける結果となっていたのだが、信意はそれを知らない。



数時間後。気まずい沈黙に支配されていた俺と三七は、小姓から重臣会議の終了を知らされた。さてその結果はというと-



[24299] 第3話「信意は織田姓を遠慮した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/19 06:42
清洲会議はおよそ史実どおりの結論を得た。織田帝国の後継者には亡き岐阜中将の嫡男・三法師が、亡き主君の仇を討った羽柴筑前守の推薦により決定され、この赤子が織田宗家の家督を相続することが内定した。しかし3歳の赤子に織田帝国が統治できるはずが無く、ここで「織田帝国の後継者」と「織田家宗家の家督」が事実上分離された。三法師が成人するまでの間、織田家の家政運営は後継者を決定した先の4人-羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田勝入斎の重臣による合議によって行われることとなった。もっとも清洲会議以降、この4人が再び同じ場所に集まることはなかったのだが・・・

後継者と政権の枠組みが決まり、あとには誰しもが心待ちにしていた遺産相続の話が残った。突然、所有者がいなくなった領地がいくつも出来たのだ。ここでは重臣達は建前を無視し、本音むき出しで領地を奪いあった。その結果をおおまかではあるが記す。

・明智の領地であった丹波や山城は秀吉が、近江坂本は丹羽長秀が獲得。このように畿内で新たに発生した空白領地の多くが羽柴陣営で山分けされた。
・勝家は近江の秀吉旧領である長浜を得て畿内への足がかりを得、兄信忠の跡をついで岐阜城主となった織田三七信孝との経路を確保。もとより秀吉との折り合いの悪い伊勢長島城主の滝川一益(領地は得られず)との連絡を取ろうという意図が見え見えである。一方、一揆の多発で信濃海津城から地元へ帰り、地元国人領主と対立して東美濃を荒らしまわった森武蔵守長可はその領地を安堵された。国人領主は泣きを見たが、これには岐阜城主を牽制させようという秀吉の意向が透けて見える(長可は羽柴陣営である摂津国主池田勝入斎の娘婿)。

ざっとこんな具合に、羽柴陣営と柴田陣営がそれぞれの足場固めを進めることに成功した。ところで不思議なことに、会議にも出席せず正々堂々と信長の遺産を横領した人物については誰も口にしなかったことは注目に値する。命がけで伊賀を越え、岡崎に帰還したその人物-徳川家康は柴田勝家同様、光秀討伐の軍を起こしたが、勝家同様に山崎合戦の始末をその途上で知った。するとこの人物は律儀な同盟者の皮を殴り捨て、本能寺の変を切っ掛けに旧武田領で発生した一揆に付け込んで、甲斐一国と信濃の大半を我が物にせんとしていた。明らかな違法行為にもかかわらず、誰も織田家の「元」同盟者を批判しなかったのは、来るべき織田帝国の継承者を決める戦いにおいてその支持を期待したからである。

そして今回の一連の政変における行動で急速に株を上げた北畠信意は、尾張の信忠旧領を相続。これにより信意は、従来の南伊勢と伊賀をあわせて三国を治める太守となった。領国伊勢で発生した北畠具親の反乱を「なぜかその発生場所から人数まで特定したかのような具体的鎮圧作戦」に基づいて伊賀上野城主の叔父織田信包に鎮圧させながら、自身は兵を率いて安土城に籠城。明知軍の近江侵攻を遅らせ、山崎の合戦の勝利に貢献したことを考えると、尾張一国といえども「貰いすぎ」という批判はあたらないだろう。

「まったく、右を向いても左を向いても亡者ばかりで嫌になるね」

-あんたが言うな-

北畠家家老の津川義冬と岡田長門守の考えは見事に一致した。

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いそしめ!信雄くん!(信意は織田姓を遠慮した)

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清洲会議で最後まで揉めたのは三法師を「誰が」「どこで」育てるかという問題である。織田宗家と織田帝国が切り離されたとはいえ、この赤子は織田の正当なる継承者であり、養育係として彼を掌中に収める人物は、計り知れない政治的カードを持つことを意味していた。ここまで押されっぱなしだった柴田勝家は、当然秀吉の勢力圏には三法師を置きたくはない。秀吉もまたしかり。そこでつばぜり合いが生じることになった。そこで両陣営が引っぱってきたのが、秀吉陣営は北畠信意、柴田陣営は織田信孝である。共に三法師の叔父であり、織田信長の子供の中で成人し、独立した行動を取れる年齢の二人は確かに養育係には適任だった(羽柴秀勝は秀吉の義子であることから除外され、その他の子供はいまだ養育される側であった)。普通ならそこそこ優秀だった三七と「三介殿」では比べるまでもない・・・はずだったのだが、本能寺の変における安土籠城と一連の手紙攻勢によって北畠信意は旧織田家の中でその株を急速に上げていた。

「わずかな手勢を引き連れて敵地の眼前に乗り込み、亡き右府様の城を守り通した北畠中将こそ三法師の養育係にふさわしい」という秀吉の主張に重臣会議は紛糾。結果、丹羽や池田らが「バランスを取るため」として信孝の養育係を支持したため「安土城が修復するまで」という期間を区切った上で、三法師の居城は岐阜に決定した。もっとも羽柴側から岐阜城にお目付け役が派遣されることになり、柴田陣営は史実以上に譲歩を強いられることになった。


ところで清洲会議には様々なこぼれ話がある。たとえば北畠信意の織田姓への復姓問題。三七殿(信孝)も織田姓に戻った(北伊勢の神戸家を相続していたが、三好長康の養子になるため一時織田姓に復帰。本能寺の変により縁組が破談となり、そのまま織田姓を使用していた)ことですし、織田家の本拠地である清洲城主に居城を移されたこの機会に、織田に復姓されてはどうかという話が持ち上がったのだ。しかし信意はそれらの意見を一蹴。「私は北畠の人間であって織田の人間ではない」と木で鼻をくくったような答えを返すばかりであった。

これは様々な憶測を呼んだ。伊勢津城主となり伊勢南部を新たに支配することになった織田信包(信長の弟。伊勢の名門長野工藤氏を相続していたが織田姓に戻した)などは「三介殿は北畠家に遠慮しているのか?」と首をかしげた。ともかくこの話は「織田政権の後継者は三法師であることを天下に知らしめるため、あえて北畠の姓を維持されたのだ」という美談としてもてはやされたが、それは半分だけしか真意を言い当てていない。信意はこれで「自分は織田政権の跡取りになるつもりなど毛頭なく、三法師政権=羽柴政権に従いますよ」というメッセージを送ったというのが真相だ。実に涙ぐましいまでの媚びへつらいである。


「ふふふ、まさに完璧な俺の計画。自分の才能が恐ろしいぜ」


天罰覿面というべきか、報いはすぐさまやってきた。

-安土城修復費用の一部を北畠家が負担するものとする-

重臣会議の決定に、信意は目をむいて昏倒した。



①信意が兵を煽り立てるために「安土につけば金子と米は取り放題」と命じたこと
②明智勢に焼け出された町民に安土留守居役の蒲生賢秀が(勝手に)北畠中将名義で見舞金と米を配ったこと
③1と2により安土の金子は空っぽ。おまけに篭城戦のため、改修工事をしないと行政庁としての機能に致命的欠陥が残ることが想定される(たとえば石垣の崩落)
④このままでは三法師様を迎えることは出来ないが、安土の金蔵は「誰かさん」のお蔭で空っぽ
⑤来るべき戦に備えて、羽柴・柴田は無論、どの大名も金を使いたくない
⑥安土籠城の総責任者は北畠中将

「燃え尽きたぜ、真っ白にな・・・」

清洲城の居室で、北畠信意は書類の山に埋もれて真っ白に燃え尽きていた。しかし主の言動に一々動じる北畠家臣団ではない。最近、急に態度の変わった主の扱いを覚えてきた信意の近習土方勘兵衛は、新たに北畠家に召抱えられた佐久間不干斎にその操縦方法を教えていた。

「アホな事言ってないで、次の書類に目を通してください」
「土方、お前は鬼か!俺を過労死させるつもりだな!」
「御本所様。次はこちらです」
「佐久間!お前も俺の気持ちを裏切ったな!」
「・・・土方殿。こういった場合どう対応すれば」
「無視していただいて結構です」

平然と主をあしらう土方に、佐久間は困惑気味に頷いた。佐久間不干斎。そり上げた頭がいまだ青々としたこの若者は、かつての織田家重臣佐久間盛信の嫡子甚九郎信栄、その人である。織田家の畿内攻略の先兵として活躍したが、天正7年(1579年)に本願寺攻めでの失態や自身の茶道狂いを信長より責められて父と共に高野山に追放。各地を流浪していたが本能寺の変の数ヶ月前に帰参を許され、信忠に属した。信忠の死後は同じ芸道狂い(信意の能好きは有名だった)の信意に仕えたわけなのだが・・・書類の山を見るにつけ、不干斎に失敗だったかなという後悔の念がないわけではない。北畠は急な所領増加により事務官僚が圧倒的に不足しており、一時は父を支えて畿内を差配した経験を持ち、その上家柄はお墨付き(佐久間家は織田家譜代)という不干斎は、まさに「カモねぎ」であった。

-三介殿はもう少し、人情の機敏に疎い方であったはずだが

そりあげた頭をなでながら、不干斎は「信栄」時代に感じていた三介殿と目の間の書類に埋もれて呻く人物との差に違和感を感じていた。絶対的権力者であった信長の死が、不肖の息子の精神的な自立を促したということなのだろうか?そこまで考えてから不干斎は思わず自分自身を笑った。不肖の息子というなら、それは自分も同じだ。茶道具に狂って佐久間の家を没落させた自分が、同じく不肖の息子として嘲られていたはずの彼に(それも自分を追放した男の息子!)に仕えているというのだから。

-笑えない笑い話だな

不干斎はもう一度静かに、不恰好に笑った。



不肖の息子同士が傷をなめあい、当主を支える家臣達が一丸となって必死に新領土尾張の経営や安土石垣修復の代金を捻出しようと努力していた頃-その間にもハゲネズミVS甕割り柴田の暗闘は続いていた。


6月末-清洲会議の直後に織田信孝の仲介により柴田勝家と浅井未亡人・お市の方との婚儀が行われる。この婚儀によって勝家は織田家の親族衆となる。両者の婚姻にはお市の方に懸想していたとされる秀吉自身も深くかかわっていたことが近年明らかとなった。ライバルの柴田勝家に「織田家一族」という枷をはめることにより、その言動を封じ込めようとしたのではないかと考えられる。

7月3日-織田信孝、本能寺の焼け跡で収集した遺骨や信長所蔵の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定める(後継者アピールか)
同月8日-羽柴秀吉、山城国で検地を実施。清洲会議の「重臣による合議制」を早速破棄する。新政権の主導権を自らが握ることを天下に誇示した。

8月-織田家中での主導権争いが激化。美濃(信孝)・尾張(北畠)の国境線が問題と・・・

「あ、いいよいいよ。信孝の主張を受け入れちゃって」

ならなかった。

津川玄蕃允・岡田長門守らは「周辺国になめられます」と諫言したが信意は取り合わなかった。この信意の決断をめぐって家中の評価は「大人の風格」「やはり地金が出てきた」と真っ二つに分かれた。実際には尾張の経営でてんてこ舞いであったことが大きい。なにせ突如降って湧いた領国。前任の領主や高級官吏の多くは本能寺の変で灰になっていた。引き継ぎなど一切なかったため、尾張の経営は事実上0からのスタート。そんな些細な領国紛争にかまっていられなかったのである。もっとぶっちゃけると、寝ぼけ眼でサインした書類が「信孝案の受け入れ」であり、いまさら引っ込めると岡田長門や津川に余計厳しく怒られるのが怖かったというのが真相である。



「で、親父の葬式はいつするの?」
「・・・あの、おそれながら北畠中将殿。その、親父というのは・・・」
「俺の親父に決まってるじゃん。織田の信長。筑前守、もうぼけたの?だとするとちょっと早くない?」
「いえ、その・・・なんと申しますか、親父という言葉と右府様があまりにも結びつかなかったものでして、はい」
「そうかな?」

将来の天下人の困った顔を見るというのもなかなか乙なものだ。秀吉の背後から黒田官兵衛が射殺さんばかりの視線でこちらを睨み付けているのでこの辺にしておくか。うん。

「三七は負けん気が強い。その気位の高い男がわざわざ本能寺の焼け跡をあさるようなまねをしたということは、こりゃ相当、甥に家督を持っていかれたのが気に入らなかったと見えます。他ならぬ筑前殿が親父の葬儀をするとあれば、清洲北畠家の織田一族はみな参列するように取り計らいましょう。いや、すでに日も経過していることを考えるとまずは100日法要が先ですかね?」

それまで笑っていた秀吉の目から感情の色が消えた。こっわ!小便ちびりそうだぜ。すぐに柔和な表情に戻ったが、一瞬だけ見せた、あの昆虫のような無機質な眼が人誑しの天才秀吉の地なんだろう。本当はこいつ、友達いないんじゃないの?怖いから言わないけど。そんなことをつらつらと考えながら「秀吉主導の信長葬儀」(信長政権の後継者のお披露儀式)への協力をしっかりと約束しておいた。織田一族を一人でも多く取り込みたい中で、この申し出は秀吉には渡りに船だろう。ついでにさりげなく「中将殿」と同格で呼ぼうとしていた秀吉に、同じく「筑前殿」で返す気配りを忘れない。官位は今は俺のほうが上だけど、どうせすぐに追い抜かれるだろうし。羽柴政権下での序列をはっきりさせておきたいのは俺も同じだ。この点に関しては秀吉と俺は利害が共通していた。

「三法師様は難しいでしょうなあ。三七が手放さないでしょうし。柴田殿は叔母上を使ってくるかもしれません」

秀吉なら当然その程度のことは予測済みだろうが、俺の話を興味深そうに聞いていた。話し上手は聞き上手という奴かな。相槌を挟む秀吉に、当たり障りのないチート知識(未来知識)を披露しながら「思ったより使える男」という印象を与えておく。ふふふ、イメージ戦略もバッチグーだぜ。

そんな信意の目には、黒田官兵衛が秀吉と同じ無機質な眼で自分を見ていたことに気がついていなかった。



9月11日-京・妙心寺において柴田勝家やお市の方が主催となり百日忌を行う。
翌12日-京・大徳寺において羽柴秀勝(信長四男。秀吉の養子)が中心となり百日忌を行う

11日は柴田派、12日は羽柴派の法要というわけだ。ちなみに約束どおり俺は叔父二人(織田長益・織田信包)の首根っこを捕まえて参列させた。後の有楽斎こと源五郎長益は、本能寺の変で二条御所から脱出できた数少ない一人である。命を永らえた代わりに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」などとコケにされたのがよほど悔しかったのか「検地の用意で忙しい」「腹の調子が」などといちいち理由をつけて大徳寺行きを嫌がったが「愚だ愚だ言うと岐阜に送りつけるぞ」と脅しあげてつれてきた。すすけた背中の長益叔父さんの肩に手を回しながら、信包叔父さんが慰めていたのがなんとも印象的だったなぁ(遠い目)

法要が終わると、秀吉が側に近寄って(例の無機質な眼のまま)耳打ちをした。

「10月に右府様の葬儀を執り行う予定です。参列をお願いできますかな」
「無論」

俺は胸を大きくたたいて応じた。



10月3日-秀吉、従五位下左近衛少将に任ぜられる(宮中の警備を担当する官職)
10月8日-朝廷より信長に従一位太政大臣が追贈。

9日-京の警備が羽柴陣営によって強化(ここで秀吉が左近衛少将の地位にあることが意味を持つ)柴田派は京都の守護からはずされた(事実上のクーデター)


「はげねずみが!」

当然、柴田勝家は怒り狂った。しかしもう数カ月もしないうちに北国街道は雪で閉ざされる環境にあって軍事行動は事実上封じられていた。


13日-播磨から羽柴秀吉が上洛。翌日丹波亀山から羽柴秀勝が上洛。

15日-世紀の一大イベント「織田信長の葬儀」開催。



「なんだかどっちらけだよね」
「・・・御本所様、ここまで協力しておいて、いまさら何をおっしゃられるのです」
「だってあそこに入っているの、遺骨でも遺骸でもなくて、ただの親父の木像だろ?それをわざわざ死体に見立てて、1万の兵で警護して・・・これじゃ見世物にされているみたいだよ」

市民に混ざりながら葬列を見送っていた北畠信意は、岡田長門守にその不満を漏らした。確かに葬儀に協力するとはいった。しかしこれは想定の範囲外だ。親父といっても信長と彼とは血のつながりこそあれ、直接の面識はないため赤の他人である。しかしその赤の他人の死が、こうもあからさまに見世物にされることには不快の念を覚えた。葬列には故人をしのぶ気持ちというのは感じられず、お祭り騒ぎの喧騒しか感じられなかったからだ。

「少なくとも葬列とは故人を悼むものであるべきだ。長門守(岡田重善)もそう思わないか」
「まぁ確かに見世物ですな。しかしこれだけ人が集まったのは・・・」

岡田長門守が視線を周囲にやるまでもなく、葬儀の行列にはこの一世一代の見世物を見逃すまいと、多くの市民や野次馬が詰め掛けていた。その顔は一様に笑顔に満ちていた。

「右府様が慕われていたという何よりもの証明なのではありませんか」
「それはそうかもしれんが、これでは-」
「・・・はっはっはっは!」

唐突に笑い声を発した長門守に、信意は驚いてその顔を見返した。

「いや、申し訳ありません。ですが、何とも御先代の位牌に香を投げつけられた右府様らしい葬儀だと思いましてな」
「・・・ものは言いようだな、長門守」
「世間とはそんなものです。見方によって彼岸にも地獄にもなる。それが人生の妙というものですぞ?」

小豆坂七本槍の最後の生き残りである老人はそう言うと今度はいたずらっぽく笑う。その顔はひどく幼く、まるで少年のように見えた。


柴田勝家と羽柴秀吉が雌雄を決する『賤ヶ岳の戦い』は、すでに目前に迫っていた。




[24299] 第4話「信意はピンチになった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/18 22:38
突然だが北畠左近衛中将信意、ピンチである。

「貴方は誰?」
「誰って、僕は君だけの愛の僕・・・ごめんなさいすいません許してください。ひれ伏して謝罪しますから、首筋に当てたそれを外してくださるとありがたいわけです、はい・・・」

今や天下御免のお調子者の首筋に薙刀を突きつけているこの女性。家中では千代御前と敬称されている北畠中将正室の雪姫である。大雑把に説明すると、この女性は6年前に織田信長の意向を受けた具豊(信意の前名)に父北畠具教を初めとした一族の殆どを殺害されている。要するに自分の亭主は自分の一族の敵なのだ。

北畠左近衛中将信意はわりと洒落にならない状況に陥っていた。

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いそしめ!信雄くん!(信意はピンチになった)

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面倒なので説明を端折ってきたが、そもそも信意の名乗る「北畠氏」とは何処の誰なのか。

説明しよう!北畠氏とは-村上源氏であり公卿であり武士であり伊勢国司であり守護大名であり戦国大名であるという、なんとも欲張りさんで盛りだくさんな伊勢の名門大名である。歴代北畠氏当主の中でも有名なのは南北朝時代に南朝の軍事的・理論的柱石だった北畠親房(1293-1354)とその子顕家(1318-1338)だろう。伊勢北畠氏は親房三男の顕能(あきよし)が南朝より伊勢国司に任ぜられたのを初めとする。南朝没落に伴い北朝=室町幕府に乗り換えたこの家は「ちゃっかり」と南伊勢の守護に任ぜられる。大河内・木造・星合らの庶流を出しながら着実にその勢力を南伊勢に確立すると、周辺諸国の守護大名が没落する中で「ちゃっかり」戦国大名への転身を遂げた。

そんな強かでしなやかな名門を中心に穏やかな平穏が保たれていた伊勢に「織田信長」という恐怖の大魔王が降臨したのが永禄11年(1568)。一度は撤退に追い込んだものの、結果的には降伏へと追い込まれた。ところでこの信長の伊勢攻めには大義が存在しない。美濃攻略には「道三の娘婿(領有権)&義父の敵討ち」、近江六角氏攻めには「義昭上洛の妨げ」という名分があったが、伊勢にはそれがない。あくまで純粋な「侵略行為」である。そこで信長は伊勢統治のために伝統的勢力の権威を徹底的に利用。現地の名門家に対して一族を送り込む手法を用いた。北伊勢の神戸氏には信孝(織田信孝)を、長野工藤氏には弟の信包を、そして北畠氏には茶筅丸(三介)である。

永禄12年(1569)11歳の茶筅丸と、具教の娘・雪姫との婚儀が行われる。そして、天正3年(1575)に織田家の圧力により北畠具教・具房親子は引退。茶筅丸は「北畠具豊」として北畠氏当主となった。こうして北畠氏はちゃっかり織田家大名への転身を遂げる・・・


とはいかなかった。公卿や旧守護大名家としての色合いを残す北畠氏は、流血を伴う大手術なくしての組織再編や意識改革は不可能である-果たして本当に不可能だったのかどうかは疑問が残るが、少なくとも天才的革命児でリアリストであった具豊の実の父、織田信長はそう考えた。



「御本所様が変なのです」

伊勢戸木城主の木造具政の唐突な物言いに、雪姫は目を丸くした。「三瀬の変」による粛清から逃れた北畠一門の重鎮は、雪姫からいえば叔父(雪姫の父具教の弟)にあたる。しかし実の叔父と姪という関係ではあったが、具政が織田信長の伊勢侵攻に内応したこともあり、関係は疎遠であった。その叔父が急に松ヶ島城まで赴いてきたのだ。雪姫ならずとも疑問に思うのは当然であろう。

「変、とは?」
「とにかく変なのです。頭の先から足の先まで、身振り手振りに喋り方-」
「それではまるで別人ではありませんか」
「ですから不敬を承知で変だと申し上げておるのです」

以前の信意は消極性と猜疑心の塊のような人間であった。織田政権の中での分家の当主としてならばそれでも問題はないと具政は考えていたが、本能寺の変-というよりもむしろその後の清洲会議によって北畠家を取り巻く環境は激変した。三法師という名誉当主のもと、羽柴秀吉と柴田勝家による織田帝国の政治的実権をめぐる宮廷闘争に否が応でも巻き込まれることになったのだ。ただでさえ旧北畠一門の重鎮として家中融和に腐心していた具政にとって、更なる頭痛の種となったのが、他ならぬ信意である。

「とにかく変なのです。御前様の言うようにまるで別人になられたような。明朗闊達で何事にも積極的という」
「よい傾向ではありませんか」
「それが危険なのです」

具政は眉間にしわを寄せた。信長が存命当時の織田家一門衆の序列は①信長②信忠(信長嫡男。織田家当主)③信意(北畠氏当主。現在は尾張国主)④信包(信長弟。伊勢津城主)⑤信孝(岐阜城主)⑥津田信澄(明智光秀の娘婿。本能寺の変直後に信孝によって誅殺される)⑥長益(信長弟)・・・と続く。信意は序列4番の信包、6番の長益を与力大名とし、なおかつ自身も有力な後継者の資格であった(信忠と信意は同腹の兄弟)。羽柴にしろ柴田にしろ、織田家と直接的な血縁関係にはない。形の上ではともかく、実質的には織田家を傀儡(名誉会長)に祭り上げたい勢力には、今の北畠家は一言で言うと「大きすぎる」のだ。信意の急な性格の変化と合わせて考えると、具政は気が気でなかった。柴田・羽柴が両立している現状のままならいいが、どちらかの勝利が確定した段階で「排除」される事態が容易に想像されたからだ。


実の兄具教と敵対し、北畠一門でありながら織田家に内応したこともあって、現代における木造具政の評判は悪い。しかしこの老人の行動は彼なりに北畠氏の将来を考えてのものであった。政変の中心である京に近い位置的環境にありながら、いつしか伊勢の田舎大名であることに満足していた北畠氏は、中央政府(義昭=織田政権)にとって目障りかつ危険な存在となっていた。それと同じ臭いを、具政は現在の信意に感じていたのだ。

「それで私に何をしろと?」

雪姫は冷やかな視線を叔父に向ける。だが軽蔑され、裏切り者と罵られようとも、具政には北畠の家名を存続させるために尽力してきたと言う自負がある。

「この松ヶ島城から清洲への政庁の移転が始まります。当然その際、信意様はこちらに立ち寄られるはずです。そこで御前に、信意様の真意を確かめていただきたいのです」
「・・・北畠の当主として生きるのか。それともそれ以上を望むのかを尋ねろと?」
「御意」

畳に両の拳をついて深く頭を下げた叔父に、雪姫は静かに目を細めた。



「いやいやいやいや、だから何度も言うけど僕は北畠左近衛中将信意だって、いや本当に。正味の話で。自慢じゃないけど、頭の先から足のつめ先のささくれまで、何処を切っても北畠信意だといえるから、うん」
「・・・それじゃあ確かめてみようかしら」
「まってまってまって、いまの冗談、うん冗談。羽毛布団の中の羽ぐらい軽い冗談なの、うん冗談。だからびっくりするぐらい忘れて欲しいと希望しますのですはい」

木造具政の言っていた「変」の意味がわかったと、雪姫は険しい表情の下で、おそらく叔父が感じたであろうものと同じ心労を覚えていた。変どころの騒ぎではない。これではまるで『別人』ではないか。

「ほ、ほら見てここ。安土籠城で頭を怪我したんだ(*砲弾の音に驚いて石垣に頭をぶつけた)だから記憶が混濁してるんだよきっと!うん。だからその物騒なものを私の首筋から除けていただけますと、信意は感謝すると思う次第でありまして『黙りなさい』はい!路傍の地蔵のように黙りますです!」

-誰だこれ

雪姫は頭を抱えた。


一方で信意はというと「雪姫って言うくらいだからやっぱり肌白いなぁ」などと・・・まぁ、命の危機にもかかわらず、頭のネジが12本から13本ほど緩んだことを考えていた。いや、生命の危機だからこそ、現実逃避をしていたというべきか。北畠氏の悲劇の歴史を知る信意は、まさか雪姫が生きているとは考えてもいなかった。てっきり彼女は三瀬の変で自害したものだと思い込んでいたのだ。

だから-つい口が滑ったのだ。

「えーと、なんで生きているの?」
「・・・よほど右府様(信長)の後を追われたいようですね」
「あ、ごっめん!冗談、冗談だから!その、口が滑ったから・・・あ!ちょっと切れてない?皮一枚ぐらい切ったでしょ、ねえ?!」


雪姫は薙刀の柄で信意の頭を殴って黙らせた。




天正4年(1576)11月25日。元伊勢国司北畠具教は隠遁先の三瀬御所で元家臣により暗殺される。これが惨劇の始まりであった。世に言う「三瀬の変」である。長野具藤(具教次男)・北畠親成(具教三男)が田丸城で暗殺されたのを初め、堀内御所や霧山御所において北畠家中の主要一族や家臣がことごとく誅殺。三瀬御所では徳松丸・亀松丸(共に具教の子)を初めとした婦女子にいたるまで惨殺された。また暗殺の実行部隊に北畠家臣を使ったやり方は世間の批判を受けた。

しかしこの事件は「織田家が北畠家を乗っ取るために北畠一族や譜代の家臣を誅殺した」というような単純な話ではない。北畠一族の中でも木造具政を初めとして庶流の田丸氏・星合氏などは粛清を逃れている。むしろ「北畠家中の反織田勢力」が排除されたと考えたほうが自然だろう。事実、上洛を目指す武田徳栄軒信玄と北畠家中の反織田勢力が連絡を取っていたとされる。ちゃっかり大名北畠家も200年以上続くとそれなりのしがらみと、名門としての意地が生まれていた。何処の馬の骨ともわからない、それも平氏を自称する織田家に、村上源氏の名門北畠氏が膝を屈するのか。そんな鬱屈した感情が充満していたところに、もしも「甲斐の虎」から次のような手紙が送られたとすれば-

-我ら源氏(武田氏は源氏)が手を組み、横暴を極める平入道(平清盛=信長)を討とうではないか-

そんな手紙が実際にあったのかどうかわからない。しかし謀略の鬼、徳栄軒信玄ならその程度のことは書きかねない。この誘いが、織田家に押さえつけられた北畠譜代の家臣や三瀬の隠居にはどう写るか。結果的にはその意地が彼らの-雪姫の父具教の命取りになった。


「父や弟の事に関しては遺恨がないと申せば嘘になります。ですが私とて北畠の女。道理のわからない女子のような恨み言を申し上げるつもりはありません」
「そ、そうか、いや、そうかそうか」

軽く皮が切れた首筋を押さえながら、信意は露骨に安堵のため息を漏らした。雪姫は一瞬表情を緩めたが、直に顔を引き締めた。静かなそのたたずまいからは、頭は下げれども、凛として媚びない気高さを感じさせる。信念とまでいってしまうと多少狭隘だが、自分というものをもっている女性だという印象を信意は受けた。大和撫子とは本来、このような女性を表現した言葉ではなかったのか。

「先ほども申し上げましたが、ずいぶんとご様子が変わられましたね」
「実はな、俺は俺であって俺ではない。そう、それは宇宙46億年の神秘と曼荼羅。とある不思議な力によって、未来から-」
「誰かある、頭の医師を呼びなさい」

殺される心配が無いとわかると、信意は早速調子に乗った。うむ、このボケに即座に対応するとは。やるな雪姫。

「どうやら血が止まったようだ」
「もう少し深く切りつけておけばよろしゅうございました」
「は、はは・・・しゃ、洒落になってないからやめような」
「・・・ひとつ、後本所様にお尋ねしたきことがございます」
「なんだ?スリーサイズは秘密だぞ?」
「信意様は-」

それまでの人を閉ざす信意とは違う態度に影響されたのか、雪姫は好奇心に後押しされ、いつもなら決して口に出来ないようなことを信意に尋ねる。それは今の信意にしか答えられない-それゆえに質問どころか口にすることすら憚るような内容のものであった。

「信意様は何を、感じられました」
「また唐突だな。感じるも何も、何に対してだね?」
「先の明智の乱によって、織田家では右府様を初め、兄君の岐阜中将様(信忠)、叔父上の津田殿(又三郎長利)、そして源三郎様(織田勝長。信長五男)が亡くなられました。家臣の中でも村井様、森様を初めとして多くの方々が」
「・・・そうだな」
「もう一度お尋ねします。何を、感じられました」

何だ、そのとんでもなく地雷臭のする質問は。信意は腋の下に盛大に汗をかき始めた。下手なことを言えば問答無用で、さきほどとは違い無言で切られることは容易に想像できた。それがわかったからこそ、信意も正直に答えた。

「わからん」
「・・・わからない、とは?」
「急なことで感情の整理がつかない-と言い逃れするつもりじゃない。悲しいとか、悔しいとか、恨みとか、とにかくそんな言葉や感情じゃ、今の気持ちを言い表せないんだよ。何と言ったらいいのかな・・・なにかこう、事態が大きすぎて、現実のことじゃ、自分の事ではないような気がしてね。まるで本の中の出来事を眺めているような、そんな感じなんだ。それに家族といっても、ある意味他人以上に遠い存在でもあったから」

嘘は言っていない。転生なんて馬鹿なこと、現実のこととして直ぐ受け入れられるほうが人間としておかしいし、信長や信忠は実際他人である。第一、今の信意は彼らと話したどころか、顔を直接見たことも無いのだ。

雪姫は信意の独白に静かに耳を済ませていた。その沈黙が怖く信意が黙って頷いていると、すくっと立ち上がる音が聞こえた。


「・・・私も三瀬のことを聞かされた時には、同じように感じました」


掛ける言葉が見つからず、信意は無言で雪姫が退出するのを見送った。




「叔父上。中将様とお会いしてきました」
「・・・はッ」

具政は驚きのあまり、一瞬呆然としてしまったが、すぐに我に返って頭を下げた。一体どうしたことだろう。自分を「戸木殿」と呼ぶことはあっても、決して身内として接することのなかった御前様が。

「叔父上の言葉の意味がよくわかりました。まるで別人。私は南蛮人と話しているような気持ちになりました」
「・・・は」

まさか「そうでしょうとも」と頷くわけにもいかず、具政は短く答えた。

「右府様御生害で、北畠当主として、北畠信意としての自覚に目覚められたのでしょう。ですが叔父上のご懸念はもっとも。今のままでは、北畠のお家は、織田と言う名の腐肉を漁る羽柴と柴田の間で都合の言いように利用され、そして歴史の中へと消えていくことになるでしょう」
「それは・・・いや、しかし・・・」
「叔父上。顔をお上げください」

御前-雪姫の言葉に一瞬ためらいを見せた具政だが、再び促されて面を上げた。


「・・・ッ」

具政は今度こそ言葉を失った。


雪姫様が、三瀬の変以来、感情を表さなくなった雪姫が、静かに微笑んでいたのだ。


「・・・私は三瀬の様な事はもう見たくありません。ですが私は女の身。出来ることは限られています。ですからこそ叔父上に、私と同じ思いをお持ちの叔父上にお願いしたいのです。御本所様を支え、正すべきを正してあげてほしいのです」

思いもがけない言葉に、具政は動揺した。まさかそのような言葉を雪姫本人から掛けられるとは予想だにしていなかったからだ。

「今の北畠家には岡田長門守(重善)を初め、津川玄蕃允(義冬)殿、生駒蔵人(家長)殿、織田源五郎(長益)殿-そうそう叔父上のお子の大膳(長政)も。優秀な方々がそろっておられます。ですが信意様の危うさを正すことが出来るのは、一門衆であり、なおかつ『三瀬』について知る叔父上にしか出来ないことなのです」


お願いできますか、叔父上


木造具政は言葉ではなく、態度で意を表した。

畳にこぶしをつき、深く、深く頭を下げた老人の肩は、微かに震え続けていた。




[24299] 第5話「信意は締め上げられた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/21 07:24
癇の鋭そうなお顔-それが少年に対する少女の第一印象であった。この世に生を受けた時から人に傅かれて育ってきた少年は、そうあることが当然のように上座に腰掛けている。色白で華奢な身体つきや、その立ち振る舞いからは武術の心得があるようには見えない。そして案の定、少年の声は妙に甲高い、彼女を苛立たせるものであった。

『織田弾正(信長)が次子の茶筅である』
『北畠不智斎(具教)の次女雪と申します』
『雪か、よい名だな』

少年にとっては何気ない言葉だったのだろうが、その一言にこめられた無神経さと鈍感さが雪姫の癇に障った。形の上では同盟関係とはいえ北畠氏は織田家に臣従した。その意味がまだ完全には理解出来ていなかった少女は、侍女達の不安気な態度を尻目に、この鈍感な婚約者につれない答えを返した。

『さして珍しい名ではありません』

しかし、少年の鈍感さは、少女の想像をはるかに超えていた。

『なるほど。確かに私の茶筅という名に比べれば珍しくともないな』

雪姫は呆れた。あの愚鈍な兄具房でもここまで的外れな答えは返さないだろう。嫌味と理解できなかったのか、それともあえて気がつかない振りをしたのか。後者であるはずがなく、前者の究極系である少年の的外れな返答に、少女の落胆は深まった。

『だがよい名前だ。少なくとも、私はそう思った』

瓜実顔の少年はそう言って顔をぎこちなく綻ばせた。それが目の前の鈍感な少年が精一杯考えた上での気遣いの言葉であった事を少女が理解できるまでには、今しばらくの時間が必要であった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は締め上げられた)

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織田信長の死によって最も貧乏くじを引かされたのは、甲斐府中城主の河尻肥前守であっただろう。わずか4ヶ月前に武田氏を滅ぼし、新たに甲斐の国主となった彼は支配を確立するまもなく織田政権の崩壊を知らされた。「織田」が滅んだことを知った武田旧臣は一挙に反乱を起こし、織田の代官を敗死させる。それを見て同じく武田旧領の信濃の織田方城主も、領土を放置して旧領の美濃や尾張に逃げ帰った。

空白地帯となった信濃・甲斐、そして上野をめぐり、徳川・北条、そして上杉による三つ巴の争奪戦が行われた。これを「天正壬午の乱」という。細かい経緯を省いて結果だけを先に言うなら、旧武田領の大半はかつての織田家の同盟者の手に落ちることになるのだが、その道のりは決して平坦なものではなかった。

数ヶ月前まで滅亡寸前だった上杉に北条・徳川と相対する実力はなく、早々に旧領の北信濃四郡を得て撤退。北条は5万近くの大軍を率いて武田旧領に侵攻。一時は信濃全域を治める勢いであった。しかし手勢1万足らずという徳川軍は巧みに正面衝突を避けながら、真田・依田ら地元領主の協力を得たゲリラ戦で北条軍の補給路を断ち、佐竹・宇都宮といった北関東諸将と手を結んで北条を背後から脅かした。これをうけて小田原では和平論が台頭。信濃のために本領関東を脅かすつもりのない北条家は、内々に徳川家との和睦と、それより一歩踏み込んだ軍事同盟の締結を徳川に打診した。西の憂いをなくし、北関東の反北条家勢力との戦いに専念するべきであるという北条美濃守(家康の学友)・板部岡江雪斎らの主張は、こう着状態に陥った信濃戦線を打開するための有力な打開策として検討されることになる。10月の後半-ちょうど京都において盛大な信長の葬儀が行われている頃には、両家の間では具体的な領土の取り決めの段階に入っていた。


「-漆塗と金箔張りの右府様の木像に、一万の兵か。筑前殿の派手好みは相変わらずだな」

遠江浜松城で北条方との交渉に神経を尖らせていた徳川家康は、上方での政局の展開の速さに思わず苦笑を漏らした。徳川家康はこの年(1582)39歳。多少奇異な感じがしないでもない。桶狭間の戦い(1560)以降22年の織田信長の人生がいかに濃密なものであったのかということだ。ちなみに現在、織田家の宰相の地位を争っている二人の年齢を上げてみると-羽柴秀吉45歳。柴田勝家60歳。15歳年下の、しかも中途採用の秀吉に頭を下げろといわれても、生え抜き叩き上げの勝家には無理な話だということがわかる。両雄並び立たず。何より徳川家には上方=織田政権の宰相争いには無関心でいられない『理由』が存在した。


「都では羽柴筑前こそ右府様の後継者との呼び声が高いご様子。清洲会議で三法師様支持に回られた丹羽様、池田様は無論のことですが、元々の傘下であった備前の宇喜多に加えて、旧明智派の丹後の細川家、大和の筒井家も羽柴方にお味方されるでしょう」

徳川の外交を取り仕切る石川伯耆守は、上方の政情を感情を交えず淡々と報告した。岡崎城主にして西三河衆筆頭の数正は、戦場での武功数知れずという武人としての顔と同時に、清洲同盟(織田家と徳川家の軍事同盟)の締結に奔走したことからわかるように、畳の上での戦にも長けている。本能寺の変以降も、家康は旧織田家中への人脈を有する石川伯耆守を上方の窓口兼情報収集役としていた。

「対する柴田方は、能登の前田、加賀の佐久間、越中の佐々ら元々の与力大名に加えて、佐々との結びつきが強い飛騨の姉小路氏、美濃の織田信孝様、そして北伊勢の滝川殿らがお味方する模様・・・状況的に考えますと上方をおさえる羽柴が圧倒的に有利かと。右府様の馬廻衆(親衛隊)や近習・小姓(秘書官)らの多くは明智に討たれましたが、旧織田政権の人物-この度近江佐和山城主となられた堀秀政や長谷川一秀殿、前田玄以殿らは、15日の右府様の葬儀への参列が確認されています。中間派諸将もその大部分が羽柴方とみてよろしいかと」

「伯耆守、何故三介殿-いや北畠中将殿の名前を挙げない」

石川伯耆守の報告を黙って聞いていた家康が口を挟んだ。尾張に南伊勢、そして伊賀を治める北畠信意は旧織田一族の有力大名であるだけではない。信意は織田家当主の信忠の同腹(母親が同じ生駒氏)の嫡出子であり、織田一族の中での地位は高い。また本能寺の変以降の一連の騒乱では「人が替わった」かのような機敏な動員を行い、安土城籠城戦で一躍株を上げた。彼の政治的ライバルである岐阜城主の織田信孝が柴田方に属する以上、彼が羽柴方に味方するのは当然である-そう見られていた。

「何故中将を羽柴側に加えないのだ。まさか柴田方につくわけが-」
「その可能性は高いと羽柴筑前殿は見ておられるようです」
「あの三介殿と三七殿が手を組むと?」

家康の疑問は当然であった。三七信孝と三介は同じ永禄元年(1558年)生まれだが、三介が次男、信孝が三男とされた。嫡男奇妙(信忠)と同腹であり事実上の正室生駒氏の産んだ三介が優遇されたのだろうが、これが「実は数日早く生まれていた」とされる信孝の闘争本能に火をつけた。秀吉と勝家が並び立たないように、三介と信孝も並び立たないというのが家康のみならず旧織田家中の見解であった。しかし石川伯耆守はそれを否定する噂を家康に伝えた。

「あくまで憶測に過ぎませんが、清洲会議の間、北畠中将は信孝様との和解の意を表されたという話があります。また岐阜と尾張国境における領土紛争において北畠中将家が先に妥協したのは、信孝様に和解を打診するためだと」

噂とは恐ろしいものだ。清洲会議の間、同じ部屋にいた信意と信孝が言い争いをしなかったことが(すくなくとも信意にそのつもりはなく、信孝は犬猿の中の信意が妙な視線を自分に送ることに困惑していた)あらぬ噂を呼び、単に書類を間違って決裁しただけのことが「和解の打診と織田家の団結を呼びかけた」という、根も葉もない噂に尾びれまで生やす結果になったのだから。


知らぬは信意ばかりなりである。


「信長殿の子供が集まって悪巧みを考えているというわけか」
「京-羽柴様はそのように考えておられます。柴田・羽柴ではなく『織田』の団結をもくろんでいるのではないかとお疑いなのです。そのため羽柴様は直々に北畠中将様に右府様の葬儀に参列されるように懇願したとか」

家康は顔を曇らせ、親指の爪を噛んだ。元より家康に「織田家の宰相争い」に参加するつもりはない(その資格もない)。彼が興味があったのは、北条との和睦によって徳川が得ることになる信濃・甲斐の地位が保全されるかどうかという一点に尽きた。信長より領主の地位を与えられた代官や城代は逃げ出したとはいえ、権力や統治の正当性はいまだ旧領主が有している。柴田と羽柴による権力闘争が終わると、その矛先が自分に向きかねないという危惧の念を家康は有していた。

「織田の団結・・・そのようなことあると思うか?」
「今の北畠中将様なら、あるいは-」

石川伯耆守はそこから先は口を濁した。羽柴と柴田の戦いに、北畠中将がどのように望むかは、この老練な外交官をもってしても想像ができなかった。


10月29日。北条家と徳川家の和睦が成立。北条は上野を、上杉は旧領の北信濃四郡を、そして徳川はそれ以外の信濃と甲斐を獲得した。また当初難航の予想された家康の娘督姫と、北条氏直との婚儀については、徳川方が急に軟化したことにより成立。こうして4ヶ月に及んだ旧武田領の戦いは幕を閉じた。(余談ではあるが、北条との領土交渉において上野真田領の扱いを頭越しに領地を決められたことに激怒した真田家が徳川から離反。真田と徳川の因縁の始まりとなる)

新たに得た領地の経営に力を尽くしながら、若き東海道の覇者の目は西へと向けられていた-




-10月30日 近江国安土城 摠見寺(石垣修復工事の普請監督所) - 

葬儀に出席した帰路に安土城を視察しようとしたら、会いたくもないし呼んでもない人間が京から俺の後を追ってきた。女ならうれしいけど、残念ながら彼らは男である。しかもかなり年をくった。くそッ、なんでだ?なんで俺の周りにはむさい男ばっかり近寄ってくるんだ!!


「北畠中将様には織田姓を名乗っていただきたいと、わが兄羽柴中将は申しております」
「・・・たしか弟君の秀長殿と申されましたな。羽柴殿にも申し上げたが、重ねて申し上げよう。不肖の息子の身で織田姓を名乗るのは、私にはあまりに荷が重過ぎる。なにとぞご遠慮させていただきたい」
「これは言葉を間違えました。名乗っていただかないと困るのです」

にこやかに「お前に選択肢はない」と言ってのける羽柴小一郎秀長に、キング・オブ・小心者の信意は、秀長が自分の一番苦手とするタイプであることを悟った。すなわち有無を言わさずに要求を押し通すタフな交渉人だ。そしてこういう人間は外堀と内堀を埋め、その上に橋を通し、なおかつ大軍で城を包囲してからでないとやってこない。

「安土城を守り通した岐阜中将様とは思えない気弱な物の言いようですな」
「小心ゆえ城を守り通すことができたのです、官兵衛殿」

表の羽柴秀長と裏の黒田官兵衛。羽柴家中の二枚カードをそろえてきたあたりに秀吉の本気が伺える。本気と書いて「マジ」と読むあれだ。そんな具合に現実逃避をしていると、黒田は中国地方の大大名・毛利氏との交渉を抜けてやってきましたと、わざわざ前置きしてから話し始めた。毛利との同盟より、俺の事案のほうが羽柴家にとって重要度が高いというわけか。


「聡明なる北畠中将にはすでにご理解しておられるでしょうが」

それにしても本当に近年まれに見る嫌な男である。有岡城で餓死してりゃよかったんだ。その横で平然と微笑んでる秀長さんはたいした男だよ、本当に。嫌味じゃなくて本心からそう思う。石垣の上から蹴落としてやろうか。

「三法師様の後見役の一人である前田玄以殿が、岐阜への入城を断られました」

あちゃーと、信意は額を押さえた。前田玄以は言うまでもなく二条御所から三法師を抱いて脱出した人物である。清洲会議において羽柴秀吉は安土城御殿修復までの間、織田信孝(柴田派)が岐阜城で三法師を養育する条件に、自身の指名した後見役を岐阜に送り込んだ。前田玄以はそのうちの一人である。玄以は中間派であると見られていたが、15日の信長の葬儀に参列するため京に上ったのが羽柴派への鞍替えと信孝には写ったらしい。そして柴田勝家の治める越前から近江に出る北国街道は雪に閉ざされている。

簡単に言えば「信孝は単独で秀吉に喧嘩を売った」のだ。


「あの馬鹿、なんちゅうことを・・・いや、兄として詫びる。玄以殿にはよろしくお伝えして、いや私からも詫びておこう。いや本当に申し訳ない」
「頭をお上げください。中将殿に頭を下げられては、私は兄に会わせる顔がなくなります」

その割にこれといってへりくだる様子のない秀長。うーむ、人物としての器がまるで違うことを認めざるを得ない。秀長の器がこの安土の山から見下ろせる満々と水をたたえた琵琶湖なら、俺は肥担桶から声を移す柄杓ぐらいの差がある。わっはっは。ここまで差をつけられるとかえって清々しいぜ。

「それで信孝の不始末と、私の織田への復姓にどのような関係が」
「兄の言葉をそのままお伝えします」

ひとつ咳払いをしてから、秀長は重々しく口を開いた。


「我がほしいのは『織田』であり『北畠』ではない-兄はそう申しておりました」


盛大に顔が引きつる信意。北畠姓を名乗り続けることで織田政権の跡目争いに参加するつもりがないことを必死にアピールしていたのに、当の秀吉から「お前の考えなどお見通しだぞ」と宣言されたのだ。以前一度だけ見た、あの鉛のような無機質な秀吉の眼を思い出し、信意は震え上がった。これではどちらが立場か上かわからない。

「つ、つまり・・・なんだ。つまり、信孝に対抗できる織田一族は私しかいないというわけか」

信意が恐る恐るたずねた言葉に、秀長と官兵衛は無言でうなずいた。織田姓を名乗る岐阜国主の織田信孝に対して、秀吉方には織田一族の中で対抗となる人物がいない。織田信包、織田長益など、いるにはいるが信長の息子である信孝とは役者が違う。だが信意が織田姓を名乗るとあれば話は違う。ただ織田を名乗るだけなら信孝にもできるが「同腹」-織田家の前当主信忠の同腹である信意が織田姓を名乗る意味は天と地ほども差がある。当然その先の、世論対策や旧織田家臣への多数派工作にも違いが出てくるだろう。

北畠中将が織田カードとしての自分の価値を正確に理解していると判断した官兵衛に対して、秀長は止めとなる一言を発した。

「兄上は三法師様に対する中将様の忠誠に感じ入っておられます。しかし、世間には中将様の努力を認めず、それどころかあろうことか根も葉もない噂を立てる輩もおりまして。例えば-そう、中将様は柴田様とご懇意だとか。兄上も心配しておられます」

(同時通訳-つまらん心配しとらんと、どっちに味方するかはっきりせんかいわれぇ)


信意、もう霜月(11月)だというのに汗だくである。


「・・・い、いや、その、あれ・・・いやあれだよ。うん。あれがそれしてあれなんだ。つまり、・・・家中の者とも相談してよく考えておこう」

「道中、くれぐれもお気をつけてお帰りください」

(同時通訳-月夜の晩ばかりじゃないからね)


秀長と官兵衛が立ち去った後、 摠見寺には白く燃え尽きた信意が座り込んでいた。


そして残念ながら-信意には幸いというべきか-優柔不断の塊のような彼がこの問題に決着を付けるのを待たずに事態は動いた。




[24299] 第6話「信意は準備を命じた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/21 07:23
- 11月1日 越前北ノ庄(柴田勝家の居城) -

「三七の馬鹿が」

織田家筆頭家老を持って自任する柴田修理亮勝家は、杯を呷りながら忌々しげに吐き捨てた。三七とは他ならぬ岐阜城主の織田信孝であり、旧主信長の息子を勝家は平然と呼び捨てにしている。かつては信長の信行を担いで信長と戦ったこともある老将は、たとえ主家筋とはいえども36以上も年下の、しかもろくに実績のない若者に対して、一人酒を飲む時にまで敬称をつけるほど大人しい人物ではなかった。

-早すぎる

勝家はじりじりとした焦燥感に追い詰められていた。老人を追い詰めるもの-それは政敵であるハゲネズミの策謀や、味方の頼りなさ、そしてかつての同盟国の道理も何もあったものではない侵略行為など多々存在する。しかし今最も老将の心を不安に駆らせるのは-

その時、軒先がミシリとしなる音が聞こえ、勝家は露骨に舌打ちをした。

白い悪魔。宇宙世紀の歴史を変え、幾多の少年の運命を狂わせることになるトリコロールの機動戦士。その名は・・・失礼。妙な電波が入った。しかし勝家を始め雪国の人々にとって見れば、まさにそれは天から降る白い悪魔以外の何者でもなかった。

悪魔の正体-その名を雪という。

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いそしめ!信雄くん!(信意は準備を命じた)

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「時間が-時間がない」

北ノ庄で勝家が一人呟いていたのと同じ頃、山城の山崎城(天王山城)では羽柴秀吉が同じ内容のことを千宗易相手に愚痴りながら茶を立てていた。だがこちらは勝家とは逆に待つ立場である。越前から近江に繋がる北国街道は12月には雪に閉ざされる。つまり柴田勝家は12月になると、柴田領の飛地である近江長浜、そして三法師を擁する織田信孝の美濃岐阜城との連携が取れなくなる。秀吉はそれを待っていた。待っていたが故に、勝家と同様に苛立ちを隠せずにいた。

「草の知らせでは雪はまだ一尺ほどしか積もっていない。今、岐阜や長浜を囲むのは容易だが、それでは勝家に背後を衝かれる」
「若狭の丹羽様や越後の上杉様はいかがなされております」
「五郎左(丹羽長秀)殿は私を支持してくれてはいるが、あの御仁の性格からして積極的に関わるつもりはないだろう。牽制がいいところだ。滅亡寸前だった上杉など、佐々相手にも苦戦する有様。まして勝家相手ではな」

秀吉が乱暴に立てた茶を、宗易は顔色一つ変えずに飲み干した。主人である秀吉の顔を立てるためといえば聞こえはいいが、その態度は今や織田家中最大の権力者となった秀吉に媚びているように受け取られかねない。しかし彼の行動や仕草にはそうした卑屈なものを、秀吉は何一つ感じることはなかった。

「宗易殿は悪人だな」
「私は所詮商人。織田家を乗っ取ろうとする羽柴様ほどではありません」

その言葉に秀吉は声を上げて大笑した。

「まったく、宗易殿にはかなわんな・・・それで此度はどんな土産話を聞かせてくれるのだ?」
「近日中に能登の前田利家様、越前大野の金森様、そして不破彦山(勝光)様の3名を代表とする使節団が上洛します。目的は羽柴と柴田の和解」

宗易好みという黒茶碗を撫でるように両の手で抱えながら、茶人は何気なく重大な事実を口にした。宗易がその茶碗を、まるで女子の肌を撫でるかのように慈しみながら触れるその手に秀吉はなにやらおぞましいものを感じたが、同時に彼の思考の中で大部分を占める理性をつかさどる頭脳は、利休の言う情報について考えをめぐらせていた。日ノ本一の商都・堺には全国から様々な情報が集まる。そして商人の値打ちはその情報の真偽を確かめる真偽眼と、商機をかぎわける嗅覚、そして決断力の三つである。利休のもたらす情報はいつでも正確で的を得たものであり、秀吉はその点に関してはこの茶人に対して絶対の信認を置いていた。

「焦っておられるのは柴田様も同じこと。前田玄以様のことで秀吉様が岐阜城を攻めるのではないかと考えておられるようです。しかし北国街道には既に雪が積もり始めている。後方の退路や補給路も定まらずに出陣するのは避けたいのが本音のご様子」
「それで又左(前田利家)か。勝家も芸がない」

勝家を嗤った秀吉だが、その顔には深い疲労が刻まれている。無理もない。本能寺の変以降、肉体的にも精神的にも走り詰めなのだ。ましてあと数ヶ月の内に、自分の手の届くところに天下が近づいている今は。それゆえ秀吉は待てない。あと1ヶ月、これから北国街道に雪が積もるまでの1ヶ月は、この小男には誰よりも長く感じられることだろう。

-この小男に勝ってもらわねばならない

それは宗易のみならず堺を治める有力商人の共通した見解である。堺はこのたびの羽柴と柴田の争いにおいては表面上の中立を保ちながら、羽柴の勝利を期待していた。理由は簡単である。旧織田家の中国方面軍司令官であった秀吉とは繋がりがあり、北陸方面軍の柴田勝家とは商いの伝が薄いからだ。とはいえ戦は商いと同じく水もの。気の利いた商人は両方に掛け金を掛けていた。そして宗易は掛け金を多少秀吉に多く掛けていただけの話だ。そのため秀吉の不安となっているもう一つの懸念についても、宗易は調べがついていた。


「北畠中将殿ですが-」

その言葉に、茶道具を片付けていた秀吉は明らかにこれまでとは違う反応をした。じろりと宗易を見据え、普段はあれほど姦しい口を開こうともしない。宗易が意図したわけではないのだが、秀吉の手には先ほど乱暴に茶を立てた『茶筅』が握られていた。

「北畠中将は家中の不和を何よりも案じておられます」
「不和、だと?」
「今回尾張を獲得され、家臣団が急増したことによって北畠家としての一体性が薄れることを恐れておられるのです。このところ木造具政や岡田長門守ら、旧北畠一族や織田家からの付家老と積極的に面談しておられることは、不安の裏返しです」
「・・・自分が織田を名乗ることで、旧北畠家臣団と織田家から出向した家臣団との間で亀裂が生じるかもしれない-というわけか。三瀬の変で一族や家臣を粛清した信意殿とは思えないな。いざとなればもう一度、粛清なり追放なりをすればよいではないか」
「強行策の利点と欠点を経験しているからこそとも言えます。今は衰えたとはいえ、北畠具親が反信意勢力として存在している現状が、中将殿の不安を裏付けているのでしょう」

宗易は黒茶碗を畳の上に置いた。やはりこれは茶室でも映える。たとえ黄金の茶室といえども、この茶碗の存在感が揺らぐことはないだろう。元瓦職人が創ったとは思えない茶碗の出来栄えに満足しながら、悪人は極悪人に語りかけた。

「茶道具は所詮茶道具でしかありません。その使い方を知り、価値を知るものが持たねば、たとえ高麗井戸といえども雑器と変わりありません」
「それくらいわかっておる」

秀吉はその小柄な体からは信じられない握力で、竹で出来た茶筅を握りつぶした。


「だがわしにはあれが、何の道具なのかすら解らないのだ」




- 11月8日 近江国安土城 摠見寺(石垣修復工事の普請監督所) - 


「すっごく、おおきいです」

「・・・また何をわけのわからない事を。仕事の邪魔ですから、さっさと退いて下さい」

運び込まれた巨石を前に恍惚とした表情で呟いた信意に、安土城石垣修復工事の監察のために清洲から足を運んだ土方勘兵衛は冷たく言い放った。最近、部下の扱いがどんどん雑になっているような気がする・・・土方、お前清洲に帰った覚えてろよ。ナニをこうして、ああして・・・ふふふ・・・・・・っは!津川、お前何時からそこにいた。

「最初からです」
「絶望した!部下の扱いがぞんざいな自分に絶望した!」

これ以上騒ぐと、気の荒い穴太衆の石工職人に蹴り出されそうなので自重する。

「それにしても金かかるよなぁ」

信意はため息をついた。石垣修復だけでも湯水の如く金と人と資材が必要だというのに、籠城戦で焼けた二の丸御殿(三法師の住居になる予定)の修理を考えると頭が絞られるように痛くなる。これで史実通りに廃城になったら俺は暴れるぞ。拗ねるぞ。そうなると面倒だぞ~・・・自分で言っておいてなんだが、大変空しい。町を焼かれた住人-中でも裕福層は伝を頼り、近隣の都市や商都に転出してしまっている。安土がかつての繁栄を取り戻すのはかなり難しいだろう。そして本格的な都市再建のための費用を出すほど北畠家は裕福ではない。

「羽柴殿がかつての石山本願寺跡に城を築くという話もあります。そうなればここは用済みですな」
「滝川ぁ・・・不吉だからそんなこと思ってもいわないでくれ」

付家老の滝川三郎兵衛の、割とリアルで的外れでもない未来予想図に信意は情けない声を上げた。彼は名前からわかるようにかつての織田家関東管領の滝川一益の養子(娘婿)であり、一益没落の原因となった神流川の戦いにも従軍している。いわば織田家からの出向組だが、彼は北畠氏一門の木造氏出身でもあることから、信意は北畠・織田融合の象徴として期待していた。


「それで、津川に滝川。雁首そろえて何の用だ」
「はっ。実は柴田と羽柴の和睦交渉についてですが-」
「あ、それ。ないない。絶対ない」

まるで明日の天気を予想するかのような軽い調子で断言した主に、津川と滝川は共にあんぐりと口をあけた。

「柴田は北国街道が雪解けになり、軍勢が動員できるようになる来年の4月頃まで戦いを延期したい。そのための時間稼ぎだ。そして時間稼ぎであることは羽柴にもわかっている」

チート知識(未来知識)万歳。てか、これがなかったら俺は確実に野垂れ死にだろう。知識も何もなく、実際の信雄みたいにやれる自身はないし。途中で秀次の代わりに粛清されるかもしれない。そんな未来は嫌だ。

「では羽柴様はどうしてその茶番にお付き合いを」
「待っているのだ、雪が降るのを。断言しよう。秀吉殿は街道が雪で閉ざされるのと同時に岐阜を囲んで三法師を取り戻すぞ。飛地の近江長浜や-三郎兵衛を前にしていうのは気が引けるが、滝川殿などを個別撃破するつもりなのだろう」

顔が曇る三郎兵衛。信意は三郎兵衛に命じて一益への呼びかけを続けさせていたが、一益は娘婿の誘いを受け入れる気配がない。同じ中途採用組みの秀吉の下に立つのが耐えられないのだろう。関東管領としての権勢を誇った頃が忘れられないのだと嘲笑することは簡単だが、それは若者の傲慢だ。何より「明日はわが身」である。

「とにかく12月になれば事態は動き出すだろう。それまでに尾張の検地を終えておきたいから、叔父上(長益。尾張検地奉行)には急ぐように伝えてくれ。それと津川」
「はっ」
「いざとなれば信包殿(伊勢津城主)と協力して(津川は松ヶ島城主)北伊勢の神戸領と伊勢長島城の滝川を牽制しろ。いざとなれば長島城を包囲してもかまわん。とにかくそのつもりで軍備を整えておいてくれ。尾張の兵でも牽制ぐらいはできるが、動員となると難しいだろうからな」

てきぱきと指示を下す信意は、先ほどまで妄言を並べ立てていた人間と同じ人物には見えない。少なくとも三郎兵衛はそう思った。



- 同時刻 山城 山崎城 -

「如何でございました」
「上々。又左は相変わらずいい男だ」

羽柴秀吉はそういうと大きく笑った。不思議な男である。これほど欲望の多い男が、これほど無邪気な笑い方をする。この笑いが自分に些か大胆な賭けをさせているのだと、千宗易は自分の中の美意識に釈明をした。美こそは彼の神の名前であり、それを広めるためには命すら惜しくはないと彼は考えていた。確信犯であるだけに、ある意味狂信者よりも性質が悪い。

秀吉は上機嫌で茶室へと入ってきた。この様子では柴田家の使者-前田利家、金森長可、不和勝光との会談で望むものを得ることに成功したようだ。

「又左はいいやつだ。勝家からの和平の申し入れにわしが賛成すると言うと、喜んでわしの手を握りおった」

友情と親父殿への義理の間で揺れていた槍の又左殿はさぞや安堵したことだろう。いうまでもないことではあるが、宗易は秀吉に念を押した。

「約束を守らない商人は信用されません」
「何、又左の顔を潰すようなことはしない。約束は守る。だが、停戦期限について向こうは来年までと考えているが、こちらは半月先までだという考え方の相違はあるがな」

秀吉は口を押さえ、堪えきれないという様子でくっくっくと低く笑った。いうまでもなく北陸道-中でも越前は全国有数の豪雪地帯として知られているが、それは軍を動かすことが困難になることを意味している。あと半月すれば、勝家は美濃や北伊勢で何か起ころうとも軍を動かすことが出来なくなる。

織田信孝が前田玄以を岐阜城より追放したという知らせは、秀吉を大いに喜ばせた。信孝の行為は、羽柴・柴田の対立を苦々しく思っていた中間派諸侯に対する格好の大義名分になりうる。「三法師様を政争の具にした信孝殿には、もはや後見役の資格はない」とでもいいながら岐阜を囲めば、三法師の身柄は抑えたも同然。既に西美濃衆への切り崩し工作は順調に進んでいる。あれほど待ち遠しかった時間が、天が自分に味方する感覚を秀吉は味わっていた。

「ところで秀吉様。北畠中将殿のことですが-」

宗易の立てた茶を口に運ぼうとしていた秀吉は、眉間にしわを寄せてその手を止めた。持て成しとは茶を美味しく味わう環境を整えるということ。宗易は未だその環境を秀吉に提供できているとは考えていなかった。

そして秀吉は

宗易の持て成しに、満面の笑みを浮かべながら茶を喫した。


これより半月後の12月2日。羽柴秀吉は総勢4万の大群を率いて近江へ出兵。柴田勝家の甥である柴田勝豊が城主を務める長浜城を包囲した。


ここに賎ヶ岳戦役が幕を開ける。




[24299] 第7話「信意は金欠になった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/21 07:28
- 天正10年(1582年) 12月27日 美濃国 岐阜城 -

岐阜織田家(信孝家)家老の岡本平吉郎良勝と幸田彦衛門尉は、堅く閉じられた襖の前でまんじりともせずに鎮座していた。共に言葉を交わそうともしない。奥の部屋には主君信孝がいる。恐らくその人生で始めて味わうであろう敗北感と恥辱を噛み締めているはずだ。両者は最悪の事態に備えるために部屋の前に控えていた。主の身は心配ではあったが、仮にそれを許せば家老である自分達が責任を問われることになるからだ。

羽柴秀吉率いる軍勢は、柴田勝家の甥勝豊が拠る長浜城を無視して中山道を進み、この岐阜城を囲んだ。その時になり始めて柴田陣営は、柴田勝豊が秀吉に内応していた事を知った。陽気な謀略家の手は勝豊だけに留まらなかった。東美濃の森武蔵守はもとより羽柴陣営であることは覚悟していた信孝だったが、彼が頼りにしていた西美濃衆-稲葉一族や氏家行広らは、羽柴勢の動きと歩調を合わせて岐阜城を包囲。美濃国内に信孝の味方は存在していなかったのだ。羽柴方との和平と言う名の降伏が成立したのは今日27日。織田信孝は「三法師様を政争に巻き込んだ」という理由で後見役を解任され、三法師の身柄は信孝の母や娘と共に秀吉へと引き渡された。信孝の恥辱と屈辱は察して余りある。

唯一の救いがあるとすれば、北畠中将の軍勢が岐阜包囲に加わらなかったことだろう。嫡子腹というだけで兄とされた信意を、信孝は蛇蝎の如く嫌っている。もし北畠中将の旗印を岐阜城を包囲する軍勢の中に見つけていれば、この誇り高い主君はそれこそ自害しかねなかっただろうという見解で、岡本と幸田は意見の一致を見せた。

良勝は眉間に刻まれたしわを指で揉みほぐした。相変わらず奥の部屋からは物音一つせず、中にいる信孝の様子を伺うことは出来ない。人質まで差し出したとはいえ、信孝が本心からあの小男に屈服したわけではないことは、幼い頃からこの主君に仕えてきた二人には、主の心中が容易に想像出来た。

-もはやこれまでか

それゆえ良勝は主君に見切りをつけた。信孝の性格から考えて、彼が秀吉を認めることはありえないだろう。周囲を羽柴陣営に囲まれた岐阜城はいわば陸の孤島。後詰のない籠城がいかなる結末を迎えるかは明らか-そして信孝の乳母兄弟である幸田とは違い、良勝には信孝と心中するつもりはさらさらなかった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は金欠だった)

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- 天正11年(1583年) 1月1日 北伊勢 亀山城 -

東海道は近江甲賀郡から鈴鹿峠を越え、北伊勢の険しい山々に通された街道を通り、四日市を通り抜け、桑名から海路を使い尾張熱田宿へと入る。鈴鹿峠と目と鼻の先に位置する伊勢亀山城が、東海道の要所であることは論を待たない。

綺麗に化粧をされた男の首を前に、伊勢亀山城主の関安芸守盛信は驚きを隠せずにいた。首の名は若藤左衛門。関氏の一族が城主を務める峯城の重臣であり、かつての織田家の宿老滝川左近将監に内応して峯城、そしてこの亀山城に滝川の軍勢を引き入れようとしていた男だ。清洲の北畠中将からの情報に対して、盛信は当初「何の謀か」と疑い信じなかった。しかし念のために籐左衛門の身辺を調査させると、藤左衛門と左近将監の使者が接触を重ねていることが明らかとなった。そこで息子の四郎一政に直接問い詰めさせた結果が、目の前の首というわけだ。

「北畠中将が優秀な忍を召抱えておいでだという噂、あながち嘘でもないのか。しかし三介-いや、中将様は何故我らにこの情報を」
「父上、そのような事は今は問題ではありますまい」

峯城から首を抱えて帰還した四郎一政は、父親に詰め寄った。藤左衛門を袈裟懸けに斬り捨てた興奮が冷め遣らぬのか、目が血走っている。関氏は柴田派の勢力が強い北伊勢にあって羽柴方であることを公言している。重臣を寝返らせた滝川左近将監の意図するところは明らかであった。すなわち時を置かずして、この亀山が滝川の軍勢に包囲されるということである。

「すでに滝川左近将監の軍勢は伊勢長島を発したとのこと。滝川の軍勢にこの城を囲まれる前に後詰の要請を」
「貴様に言われずとも既に出しておるわ。しかし近江衆は岐阜城攻めに出払っている。蒲生殿の後詰もすぐには望めないが-とにかくこうなっては正月どころではないな。いまさら滝川の眼を気にすることもなくなった。おい、陣触を-」


「申し上げます。織田信包、津川玄蕃允の軍勢が神戸城を包囲したとの知らせが」


暫くの沈黙の後、四郎一政はポツリと呟いた。

「北畠中将様は千里眼でもお持ちなのでしょうか」



- 天正11年(1583年) 1月3日 尾張 清洲城 -

あけおめ。ことよろ。信意です。いや~去年は色々あったね。天目山での甲斐武田家滅亡(3月)、明智光秀謀反による織田政権の崩壊(本能寺の変)に山崎合戦、そして清洲会議。安土で死にそうになり、秀吉に締め上げられ、秀長に脅迫され・・・色々あったよ、本当。

ところで今は正月どころの騒ぎではありません。金欠です。それも極度の。ギブミーマネー。ギブミーマネー。大事なことなので2回言いました。同情するなら金をくれ。

「信意殿。そんな身もふたもない事をおっしゃらないでください」
「ないのは事実だ。ないものはない、あるものはある。これ真理なり」

織田長益は苦笑いしながら泣きそうになった。新たに北畠家の領地となった尾張は裕福な土地ではあったが、新たな家臣の雇用に治水工事に司法業務に・・・とやるべき事は山ほどあり、経費は湯水の如く掛かった。本来なら昨年秋に収穫された年貢をそれに割り当てるはずだったのだが、安土の石垣修復工事(現在進行形)に全て持っていかれた。おかげで検地の費用にも四苦八苦するありさま。財政方として尾張の検地奉行を兼任する長益には頭の痛い話である。しかし信意はあくまで能天気だった。

「金とは不思議なもの。あれば色々と心配の種になるが、なければないで色々とやりようがある」
「全く同意できませんが、例えば何が?」
「羽柴殿から岐阜攻めへの動員を免除してもらった。大垣に兵は出したがな」

信意は胸を張って答えた。昨年12月、岐阜城包囲に加わるよう要請した羽柴家からの使者(前野長康)に対して信意は堂々と「金がないから無理」宣言。さすがにその回答は予想していなかったであろう前野はあんぐりと口をあけるしかなかった。表向きは「尾張の検地が未了であり軍の動員が難しいこと」を理由にしてはいたが、事実上のサボタージュである。普段の小心者バージョンの信意なら怖くて決してそんな決断は出来なかっただろうが、安土の工事費用を一人で背負わされているという現実に今頃-というか今更ながら腹が立ってきたのだ。まるでステゴザウルスなみの反応速度である。いや、ステゴザウルスの反応速度は知らないけど。

とはいえそこは元祖小心者の信意。保険を掛けることも怠らない。大垣城に2千の兵を後詰として送る一方、本領である南伊勢に動員を命じ、北伊勢に(秀吉の同意を得た上で)兵を進めた。伊勢長島城の滝川左近将監一益がこの正月に決起することはチート知識で裏付けされている。小さな節約をしながら、大きな恩を押し売りする-これが信意の真骨頂である。


「ふふふ、やはり金がないという厳然たる事実は強いな。自分の才能が恐ろしいぜ」
「才能云々はよくわかりかねますが、少なくとも自慢できる話ではありませんな」
「つれないな・・・お、どうした勘兵衛」

慌てて部屋に走りこんできた土方勘兵衛に、信意は暢気に尋ねた。

「は、羽柴の軍勢が南下して、この清洲に向かっております!」


信意は泡を吹いて卒倒した。




「やぁやぁ、北畠中将殿。ご無沙汰いたしておりますな」
「は、羽柴殿。さ、し、して、なに用でございますきゃな?」

噛んだ。どじっ娘メイドさんなら萌えるんだが、信意では可愛くともなんともない。秀吉はそんな信意を見ながら陽気な人好きのする笑い声を発した。

「いやなに。近くまで立ち寄ったから新年の挨拶に参ったまで」

2万の軍勢を引き連れてか。信意は引きつった笑みを浮かべた。今清洲には城下に入りきらなかった軍勢を含めて-小荷駄まで含めると3万近い羽柴の大軍が逗留している。秀吉の身に何かあれば、清洲は即火の海になるというわけだ。わっはっは、もう笑うしかないぜ。


「そちらの女人は-」
「北畠中将が正室の雪と申します」

って、雪ちゃん。何時の間に出てきたの。

「おお、こちらが御正室の千代御前様でしたか。これは失礼を致した。それがし羽柴左近衛少将秀吉と申しまする。北畠中将殿には何かと世話になっておりまして」
「羽柴殿、そのようなことを・・・というより頭をお挙げください」
「いやいや信意殿、なにをおっしゃいます。卑賤の身より成り上がったこの私が、恐れ多くも亡き岐阜中将様の遺子であらせられる三法師様の後見役でいられますのは、中将殿の支持と御支援あってのこと。この場を借りて感謝申し上げますぞ」

そう言ってまたもや大仰に頭を下げる秀吉。やめてまじて。俺の心臓的な意味で。とにかく雪姫をさがらせないと、この臭い芝居を止めそうにない。信意は雪姫を退出させた。すると秀吉とマンツーマン。なんですかこの罰ゲーム。後生だから勘弁してください。岐阜に兵を出さなかったことは土下座して誤るから。


「さて、信意殿。改めて感謝いたします。北伊勢の一件、聞きましたぞ」

秀吉は今度は大仰な仕草をしなかった。だが、それが怖い。そこに座っているだけなのに、周囲を圧倒する何かを醸し出している。清洲会議の時には感じなかった何かだ。これが天下人のオーラというものなのか。

「真に優秀な忍を召抱えておられるようで、羨ましい限りです。かの滝川左近将監も中将様の実力を持ってすれば赤子の手をひねるようなものですな。我が羽柴の軍勢も加わり昼夜となく攻めたてれば、長島は一週間と持ちますまい」

褒められて悪い気はしない。だが信意の心は一向に沸き立たない。


「そこで中将様に一つお願いがあるのですが」


来た、来たよこれ。


「滝川殿は、長島は手を付けず、そのまま放置していただきたいのです」
「・・・岐阜と同じ陸の孤島にしろというわけですな。そして岐阜では近すぎる」
「左様。見え透いた餌には、魚も食いつきませんからな。まして相手は池の主です」

くっくっくと口元を抑えて秀吉は悪い笑みを浮かべた。それが実に様になっている。


現状では羽柴陣営が圧倒的に優位にあるようだが、実際には秀吉はいくつかのアキレス腱を抱えている。対外的には西の毛利家と東の徳川。大国毛利家とは備前岡山の宇喜多家(羽柴傘下の大名)を初めとしていくつかの領土紛争を抱えており、必ずしも関係が良好とはいえない。中立を宣言する徳川家康とて、秀吉と勝家の争いが長引けば、尾張や美濃を(かつての信濃や甲斐のように)簒奪に動かないとも限らない。何より羽柴陣営は秀吉を中心とした連合勢力であり、一度でもケチがつけば、離反者が相次ぐことは容易に想像された。ちょうど今の勝家の立場に秀吉がなるわけだ。

自らの長所を最大限に生かすため、羽柴陣営は短期決戦を望んでいた。しかし老将柴田勝家に無傷のまま領国越前に籠られては、秀吉とも言えどもそう簡単に手出しはできない。何よりそれは秀吉が一番嫌がる長期戦になることを意味している。そのため秀吉は何としてでも勝家を北ノ庄の巣穴から引っ張り出さねばならなかった。

勝家を釣り出す餌が「織田信孝」であり、信孝を釣り出す餌が「滝川一益」である。

柴田勝家が清洲会議において、織田家の後継者に信孝を推した理由は自身が三七信孝の烏帽子親であったことも一因である。(そのため柴田色を嫌った丹羽と池田は三法師支持に動いた)。烏帽子親は成人した若者の後見役となるのが慣例であり、勝家は信孝の義父であるといっても過言ではない。だがそうした政治的背景を差し置いても、この老将は若者の才気を、その些か鼻につく生意気さを含めて愛していた。たとえ殆ど勝ち目がなくとも、信孝の軽率な行動が羽柴に付け入らせる隙を与えていたとしても、勝家にはかつて信行を切り捨てたように、信孝を切り捨てるという選択肢は存在しなかった。


-わしのように利で物事を判断するには、勝家はあまりにも年をとりすぎている


秀吉は勝家を分析し、信孝が窮地に陥ればその巣穴から必ず出てくると判断していた。そして今の信孝であれば秀吉の投げた餌に必ず食い付くだろう。ただ、一つだけ疑問が残る。勝家の釣り出し策は、官兵衛と小六、そして小一郎(秀長)しか知らぬこと。では何故、この馬鹿丸出しにしか見えない北畠中将はその策にたどり着くことが出来たのか。

言葉は正確に使うべきだな-どうやって知ることが出来たか。つまりそういうことだ。秀吉は釣り糸をたらして魚の反応を伺うことにした。


「実はもう一つお願いがございましてな。信孝殿との和睦の際、岐阜方より人質をお預かりしたのです。信孝様の姫君などはまだ幼く、御生母の坂氏は高齢。なにぶん急なことで大変心苦しいのではありますが、一行を清洲でお預かりいただけないでしょうか」

「あぁ、かまわないよ」


魚は毛ばりに飛びついた。




- 2月4日 越前北ノ庄城 -

「兵糧が凍らないように注意しろ。戦の前に腹を壊しては本末転倒だ。米一俵につき、使用する薪は-」
「火縄・火薬は油紙で包めと申し渡したであろうが!同じことを何度も言わせるな!」
「違う違う、それは丸岡城行きの荷ではない。責任者はどこだ!」

いまだ雪の残る(残るどころか降り続けている)北ノ庄では、その雪を掻き分けるようにして戦の準備が進められていた。昨年12月、和平を結ぶという舌の根も乾かないうちに羽柴秀吉は軍勢を動員。柴田勝家が軍を動かせない事情と、北国街道の雪が溶けるまでの時間稼ぎとして打診した和平の真意を見透かしたかのように柴田陣営への武力制裁を開始した。また正月に決起した滝川左近将監一益に対して、清洲の北畠信意は先んじて手を打ち、滝川は逆に伊勢長島へと追い詰められている。降伏するのも時間の問題だ。柴田陣営が個別撃破され、中間派諸将も羽柴になびく現状に、柴田勝家は雪解けを待つことなく出陣を強いられることになったのだ。


「まったく、松の内があけたばかりだと申しますのに」

正室であるお市の方が城内の喧騒にうんざりした様に呟いたのを聞いた勝家は、眉間にしわを寄せて険しい表情を浮かべた。

「お方様。そのようなことを申されては困ります。筑前(秀吉)はすでに信孝様を降し、三法師様を掌中に収めました。このまま悠長に雪解けを待っていては、我らは筑前(秀吉)の織田家乗っ取りを指をくわえて見ているしかなくなります」
「わかっておりますよ。ですが冬の間ぐらい静かにすごしたいと思うのは人情というもの。もっとも、猿に人の世を理解しろと申すほうが無理な話ではありましょうが」

綺麗な顔をして平然と毒を吐くあたりは兄君の右府様(信長)に似たのか-勝家は苦笑した。お市の方が羽柴秀吉を嫌っていた理由は判然としない。浅井家滅亡後、その旧領(小谷→長浜)を織田信長より与えられたのが浅井家攻略に貢献した羽柴秀吉であったこと、お市の方が腹を痛めた嫡男万福丸(実母に異説あり)を磔にしたこと等々。様々な想像は可能だが、それらはあくまで推測の域を出ない。もしかしたら単に気に入らなかっただけなのかもしれない。

「それにしても勝豊殿も頼りない。一戦もせぬうちに敵に城を明け渡すとは。そもそもなにゆえ病弱な勝豊殿に長浜をお預けになられたのですか」
「・・・馬鹿な息子ほど可愛いものです」

勝家はそれだけ言うと杯を呷る。柴田勝家と柴田勝豊との関係は複雑であった。勝豊は勝家の甥(姉の子)でありその養子として迎えられた。しかし生来病弱で、もう一人の養子勝政との後継者レースで劣勢を強いられていた。そしてどうやら勝豊は、叔父から近江長浜の領主に任ぜられたことを「見捨てられた」と受け取ったらしい。近江は羽柴勢力がひしめいており、自分は敵地の真ん中に僅かの手勢と共に取り残されたのだと。

「伊介(勝豊)のたわけが。信じておらねば、長浜を預けるわけがなかろうが」

近江長浜は北国街道から中山道へ通じる玄関口であり、琵琶湖に面する交通の要所。どうでもよい人物に長浜を預けるわけがなく、まして見捨てるはずがない。冷静に考えればわかることだ。しかし病に冒された勝豊はそこまで考えが至らず、そこを秀吉につかれた。


-わしも勘が鈍ったか

勝家は自問自答した。清洲会議以来-いや、そもそも日向守の謀反以来、自分は明らかに後手に回っている。主導権は常にあの小男の手にあり、自分はそれに翻弄されるばかりだ。畳の上での戦は奴のほうが上だと認めざるを得ない。だからといって勝家は、この戦において自分が秀吉に負けるという事態を考えてはいなかった。合戦とは常に思いもがけぬ不測の事態が発生するもの。畳の上での理屈や論理が、1発の銃弾や一人の勇者により容易く崩れ去る場面を、老将は何度も見てきた。

だが、不安がないわけではない。


「・・・どうかなされましたか?」

勝家の視線にお市の方は戸惑ったように微笑み返す。彼女こそ勝家の不安を象徴していた。合戦では無心でなくなったものが、眼前の敵に集中出来なくなったものが敗れる。恐怖や自己保身が胸中を支配すれば槍先は鈍り、眼前の敵は見えなくなる。

戦の準備に奔走する家臣に混じり、連れ子の姫君達が無邪気に騒ぐ声が聞こえてきた。還暦を向かえ、子には恵まれなかった自分に始めて出来た娘。


-老いたな


勝家は杯を強く握った。戦を前にしてそのような感傷に浸るなど、馬鹿馬鹿しい限りである。しかしこの感情が厭ではない自分自身に、勝家は焦っていた。こんな様では秀吉と戦うどころか上杉の小倅にも勝てないだろう。勝家の不安を感じたのか、お市の方が口を開いた。

「養源院様(浅井長政)が兄上と仲違いしたのも結局は些細な行き違いからでした。勝豊殿もそうですが、男という生き物はこの世が全て自分の思うとおりになると勘違いしておられる向きがあります」
「・・・何とも手厳しいお言葉ですな。女子の目には、男とはそんなに不自由な生き物に見えるのですか」
「男に限ったことではありません。私も結局は兄上のことを最後まで理解出来ませんでした。不自由な女の身だから申し上げるわけではありませんが、人間とは案外不自由なものなのです。言葉にしなければ伝わらないことはあるのですよ」

柴田勝家は白いものが多く混じった髭をしごきながら首を傾げた。

「そんなものかの?」
「ええ。そんなものです」

30近くも年齢が離れた妻に、この時代では既に老齢といっていい勝家が教え諭されている。夫婦の形とは(ましてや政略結婚)それこそ夫婦それぞれなのだろうが、なんとも奇妙な光景であることに間違いはなかった。



[24299] 第8話「信意はそらとぼけた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/25 10:21
- 天正11年(1583年) 3月25日 北近江 -

「よいか、絶対にこちらから手を出すなよ」
「向こうから手を出させるのだ。こちらから手を出すな」

琵琶湖北部の余呉湖をぐるりと取り囲むように陣を構えた羽柴秀吉と柴田勝家は、口を酸っぱくしながら同じ命令を何度も何度も何度も、それこそ兵がうんざりするほどにしつこく繰り返していた。

時間をさかのぼる。2月末に越前北ノ庄を発した柴田勝家率いる3万の軍勢は、北国街道の雪を掻き分けながら進軍。3月12日に栃木峠を越えて北近江に現れた。「勝家出陣」の報に秀吉も直ちに軍を召集。自ら5万の軍勢を自らが率いて湖北へと出陣。一時は関が原方面まで進出した柴田勢であったが、秀吉の動きに余呉湖北側、北国街道の西側の山々に陣を下げた。秀吉は木ノ本に本陣を置き、両軍は余呉湖を取り囲むようにして陣を構えた。

そして両軍は-まるで示し合わせたように、穴を掘り土塀を築き、周囲の木々を切り倒し、逆茂木や乱杭を作り、櫓を組上げ始めた。両軍の兵士がそろって土木工事に取り組む様は、中々壮観なものである。

「これでいいのだ」
「これでよいのじゃ」

そして秀吉と勝家は、自分達が命じた土木工事を視察しながら、同じ感想をつぶやいていた。

犬猿の中とされるこの二人、意外と考え方が似ているのかもしれない。

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いそしめ!信雄くん!(信意はそらとぼけた)

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柴田勝家の大義名分「清洲会議での重臣合議制の申し合わせを無視し、織田家を壟断する羽柴秀吉を討つ」

(本音)「三法師様は秀吉に奪われ、中間派諸将も切り崩されている。自分が織田家の中で完全な非主流派になる前に、何としてでも存在感を示さねば。しかし近江まで出てきたのはいいものの、滝川は愚図だし、信孝様は頼りにならんし・・・これからどうするか」

羽柴秀吉の大義名分「織田家の統制を乱す柴田勝家を、三法師様に成り代わり討伐する」

(本音)「勝家め、案の定のこのこと出てきよった。しかし、このままでは長期戦ではないか。上杉は頼りにならんし、毛利は信用ならんし、徳川は不気味だし、長宗我部と紀伊の雑賀衆は鬱陶しいし。ついでに北畠の馬鹿はよくわからん・・・これからどうするか」


さて、どちらが勝つでしょう?


秀吉と勝家の答え-先に手を出したほうが負ける-




というわけで信意イン清洲です。北近江は今、ちょっとした公共事業バブルだそうです。呼び方こそ砦だが、そんな生易しいものじゃない。「ありゃ山を改造した城です」とは、秀吉へのご機嫌伺いに遣わせた生駒蔵人家長の言葉である。さすがワンマン天才独裁者・織田信長の下で、過労死寸前の扱いを受けてきたやつらだ。何をするにしても仕事が速いぜ。

「戦線の膠着により羽柴様は本陣を長浜に下げられるとか」
「ということは、長島の爺さんを焚きつける算段が整ったわけか」

主の言葉に生駒は首をかしげた。北伊勢の長島の滝川左近将監殿といえば先月末に降伏した、いわばすでに過去の人。その老人の名前を挙げた信意の真意が理解しかねたのだ。第一、焚きつけるとは穏やかではない。それはいったい何を意味しているのか。

「これは城攻めよ。羽柴も柴田も仮設の城に籠もりにらみ合いを続けている。そして城を力攻めするという選択肢は下の下。げげげのげだということはわかるだろう」
「げげげのげ、ですか。語呂がいいですな」
「ちゃんちゃんこと下駄が欲しくなるだろう・・・いや、こちらの話だ。秀吉殿からすれば、これではせっかく越前から勝家を引っ張り出した意味がない。もう一度、余呉の巣穴から引きずり出す何かが必要となるわけだ。要するに鮎の友釣りと考えればわかりやすい」

生駒家長は聞き覚えのない言葉に首を傾げた。

「ともづり、でございますか?」
「鮎の友釣りだよ。知らんのか?」
「恐れながら、そのともづりなるものは存じませぬ」
「あぁ、まだなかったのか・・・いや、気にするな。こちらの話だ。鮎の釣り方のひとつでな。まず生きた鮎の尾びれに針をつけて、糸をくくりつけてから川に放す-これはおとりだ。鮎という魚は縄張り意識と警戒心が強く、自分の陣地に入ってきた鮎に体をぶつけて追い払う癖がある。その習性を利用しておとり鮎の針にひっかけて釣るという漁法だ」
「ほお、そのような漁法があるのですか」

生駒は信意の妙な知識に対して素直に感心して見せた。ちなみにこの生駒蔵人家長。信意の実母・生駒の方の弟であり、信意の叔父にあたる人物である。そして全くの余談であるが、後にこの会話がきっかけとなり家長は鮎釣りに目覚め「友釣りの父」と呼ばれることになる。

「三七(信孝)をつり出す餌が滝川。そして三七は柴田を釣り出すおとり鮎というわけだな・・・そうそう、例の人質はどうしてる?」

例の人質とは、先の岐阜城包囲により、羽柴秀吉が織田信孝から受け取った人質である。顔ぶれは、信孝生母の坂氏を始め、側室(神戸の板御前)と娘(当時3歳。年齢は異説あり)、重臣の岡本・幸田の実母など数十人に及ぶ。秀吉はその人質を、何を思ったのか清洲の北畠家に預けていた。「たしかこれは史実とは違うはずだが」と信意は首をかしげたが、深くは考えなかった。

「一行は永安寺にてお過ごしいただいておりますが」
「寺か・・・なら手間が省けるな。よし生駒、耳を貸せ」

そして信意は生駒に一つの『命令』を下した。



- 4月17日  北近江 内中尾山(柴田勝家本陣) -

柴田勝家の小姓である毛受勝照は、主の機嫌の悪さを肌で感じていた。直接的に口に出すことこそなかったものの、主君勝家は美濃からの報せ-三七信孝と滝川一益の再決起を知らせる内容の手紙に、落胆と失望の色を隠そうともしなかった。

「左近将監(滝川一益)は三七を道連れにするつもりか?手柄を焦ったか。さかりおって・・・」

軍配を手に勝家は呻く。秀吉は岐阜の織田信孝と北伊勢の滝川を降伏させた後、両者を改易せずにそのまま留め置いた。丹羽長秀や池田勝入斎ら旧織田家重臣や中間派諸将への配慮であろうと勝家は平静を装ったが、内心では手を打って喜んだ。これで秀吉はその勢力圏に不穏分子を抱え込むことになった。直接敵対するには両者(信孝・滝川)の勢力はあまりにも弱いが、形の上でも秀吉陣営に属するのであれば話は異なる。多少不穏な行動をとったとしても、一度降伏したものを確たる証拠なしに処罰することは出来ない。勝家は両者に水面下での破壊工作や諜報活動を依頼し、決して決起するなと伝えていた。その目論見が全てお釈迦となったのだ。ため息の一つや二つ、漏らしたくもなろうというものだ。

「叔父上、ものは考えようです。これは好機ですぞ」
「黙れ玄蕃。貴様のさからしげな策など聞きとうない」
「ならば叔父上には何かこの事態を打開する妙案でもあると申されるのですか?」

身長6尺の大男だったと伝えられる加賀尾山城主の佐久間玄蕃允盛政は「鬼玄蕃」との異名に相応しく、低い地声が良く通る。その彼が総大将の方針に対して公然と異議を唱えている光景は、一種異様なものがあった。かつての勝家なら陣中における甥の無作法に一喝でもして、異議を唱えることですら許さなかったはずだ。しかし今の勝家はそれをしなかった。出来なかったというほうが正確かもしれない。毛受のみならず、陣中に居並ぶ諸将も勝家の変化を敏感に感じていた。

「筑前が岐阜の信孝様に討伐に向ったというのは確かです。筑前がいない今、余呉湖周辺にいるのは烏合の衆。それとも叔父上は山路がその一族と引き換えにもたらした情報を信じないと申されるのですか」
「貴様は筑前を知らんからそのような事が言えるのだ」
「では叔父上には、目の前の敵を攻撃すること意外に、岐阜を援ける手段でもお持ちなのですか」

人身掌握の天才である秀吉の勝家の分析は的確であった。三七信孝の危機が勝家に迷いと焦りを生じさせていたのだ。そして「岐阜の後詰」という甥の一言が、老将の重い腰を上げさせることになる。やはり勝家には信孝を見捨てるという選択をとることが出来なかった。長い沈黙の後、勝家は甥の献策を受け入れることを決めた。

「・・・わかった。大岩山の中川清兵衛(清秀)への攻撃、やってみるがよい。しかし玄蕃、深入りはならんぞ」
「ははッ!筑前など我一人で蹴散らしてご覧に入れます」

喜び勇む甥に、勝家は何度も念を押した。すなわち「一撃離脱。深入りせずに引上げよ」と


そして命令は無駄となった。




― 4月19日 尾張 清洲城 -

「・・・申し訳ございません。おっしゃる意味がわかりかねるのですが」
「言葉の通りだ。岐阜方の人質は出家した」

羽柴方の使者である浅野長政を前に、信意はまるで棒を飲んだような硬い表情で弁明をしていた。織田信孝の再決起の知らせに、秀吉は人質への『処置』のため、浅野長政を信意の下へと派遣した。しかし長政はそこで予想外の事態に直面していた。出家?出家とは、あれか。頭をそるあれか。まさか漢文のように逆さから呼んで家出とかいうオチじゃないだろうなと、長政は多少ずれたことを考えていた。

「寺に預けたのがいかんかった。監視の者が目を離した隙に、皆で示し合わせて頭を剃り尼になってしもうたのだ。女ばかりだと甘く見ていた。まったくどこから情報を得たのやら・・・いや。この信意、秀吉殿に合わせる顔がない」
「はぁ・・・それは・・・」

予想だにしない事態に長政は二の句が継げないでいた。出家したとはいえ人質と信孝との関係が完全に切れるわけではない。だが、いくらなんでも尼を磔にするのは外聞が悪すぎる。そして聞けば聞くほど長政は頭を抱えたくなった。人質を預かっていた永安寺は津島大社に連なる末寺(当時は神仏習合)というではないか。無理に尼の引渡しを要求すれば、津島大社=津島を敵に回す危険性もある。

そこまで考えが到ると。長政ははっとした表情を浮かべた。まさか最初からそのつもりで?

「女共に得度を与えた僧は既に逃亡しておってな。八方手を尽くしておるのだが・・・いやぁ困ったのう」

信意は心底申し訳なさそうに頭をかいた。その顔は最初から最後まで、妙に強張ったままであった。



長政は、清洲を退出するとその足で主君羽柴秀吉のもとに赴いた。戦線膠着のため、木ノ本から北近江長浜に本陣を移していた秀吉は、信孝再決起の知らせに17日に美濃に入国。しかし揖斐川の氾濫のため、一旦大垣に本陣をおいた。そして池尻城主の飯沼長継を討つなど、信孝の外堀を順調に埋めていた。


「そうか。皆、頭を剃ってしもうたか」

長政から信孝の人質の一軒を聞かされた秀吉は笑いながら応じただけであった。長政は頭を下げていたため、主の秀吉は勿論のこと、側に控えていた軍師の表情もうかがうことは出来なかったのだが。長政退出後、秀吉は三介の評判を知るものが聞けば噴飯ものの台詞を吐いた。


「三七殿よりも三介殿のほうが亡き右府様に似ておられるのかもしれんの」
「期待を裏切るという意味ではそうでしょう。津島社を表に立てるとは、私も予想外でした」
「官兵衛、そこは巻き込まれたと言うほうが正確だろう」

秀吉は笑い声を上げた。その言葉には、自分の予想を裏切り続ける信意という人物を楽しむ響きが混じっているように官兵衛は感じた。才能を愛した信長とは違い、人間そのものが好きな秀吉らしい感じ方ではある。そこに官兵衛は不安を覚えた。そこを補うのが軍師である自分の役割ではないのか。であるとするならば、自分がすべきことは-

「件の坊主が実在するのかも疑わしいところだが、問題はそこではない」
「誰が何の目的で北畠中将を振付けておられるかですな」
「武辺者の岡田長門や若い津川にこのような芸当が出来るとは思えぬ。勝家も・・・」

ありえないと秀吉は否定する。柴田勝家は信孝と比べると、北畠信意との関係は希薄である。一方で秀吉は生駒の方の口利きで信長に仕えたため、その子息である信忠・信意との関係が深い。本能寺の変以降の信意の政治行動も、一貫して羽柴陣営に好意的なものであった。今更、勝家と手を結ぶとは考えづらい。

「・・・わからぬ」

秀吉は再び首をひねった。



4月19日-柴田軍の佐久間盛政は8千の兵を率い、余呉湖と琵琶湖の間に位置する賎ヶ岳の麓を抜けるルートで進軍。未明に大岩山砦を奇襲した。中川清兵衛(摂津茨城城主)は奮戦するも衆寡適せず討ち死に。佐久間は柴田勝家からの度重なる撤退命令を無視して、一挙に勝敗を決するために、戦場を見下ろす賎ヶ岳砦を抑え、木ノ本の羽柴秀長本陣を脅かそうとした。


「一体何をしているのだ!あれでは全滅するぞ」

丹羽長秀は叫んだ。この時ちょうど長秀は羽柴秀吉の要請を受けて、近江坂本から2000の兵を率い琵琶湖上を横断。合戦場となっていた賎ヶ岳方面へと向かう途上にあった。彼の目に飛び込んできたのは、今まさに賎ヶ岳を占領しようとする佐久間と、後詰がないため砦から撤退しようとする桑山の軍勢であった。丹羽長秀は45歳。秀吉よりは2歳、勝家からは15歳年少の彼は、個性派ぞろいの織田家の中では、その温和な性格もあり羽柴や柴田に比べて一つ下の扱いを受けていた。その主君が激高する姿に、丹羽家の家臣はもとより、船団を指揮する堅田水軍の棟梁・猪飼昇貞と息子秀貞も目を見開いていた。

「海津に船をつけろ。上陸後は桑山重晴と合流、賎ヶ岳を抑える」
「お待ちください殿!勝手な行動は慎まれるべきです。状況のわからないまま下手に動けば御味方に混乱を。まずは木ノ本の本陣に使者を立て-」
「このたわけ!目の前の戦場が見えんのか!!」

当初の行軍予定に従うように進言した長束正家を長秀は叱り飛ばした。戦の勘所についてあれこれ心配されるほど耄碌したつもりはない。

「賎ヶ岳をとられれば、羽柴は山崎の明智となる。昇貞、海津に上陸する」
「承知つかまつった」

軍船は兵の揚陸作業のときが最も無防備となる。上陸時の柴田方の攻撃を恐れていた猪飼昇貞だったが、ここは長秀の戦の勘に賭けることを決めた。長秀はなおも不安がる正家を初めとした側近に対して「今この戦機を逃せば、丹羽家は勝てる戦を溝に捨てたと末代までの笑いものとなる」と説いて聞かせた。この細やかな気配りこそ長秀の真骨頂である。

それに-長秀は続く言葉を呑み込んだ。味方の危機にもかかわらず、援軍を出さない秀吉の弟やらにまともな命令が下せるとは思えない。自分はあくまで織田家に仕えているのであり、羽柴家の同盟者ではあっても臣下ではない。ましてや筑前殿ならともかく、その弟の指揮に従ういわれなど-この羽柴家との同格意識が丹羽長秀に独断行動を決断させ、戦況を一変させることになる。



4月20日-未の刻(14時)、大垣で岐阜攻めの指揮をしていた羽柴秀吉が大岩山陥落を知る。秀吉は即座に兵を木ノ本へと返す。大垣から木ノ本への13里(52キロ)を5時間で走破。これを「美濃大返し」という。


「このッ、おおたわけが!」

木ノ本の本陣に到着した秀吉は、弟の小一郎秀長の顔を見るや否や、抑えていた感情が爆発した。

「何ゆえ大岩山に援軍をださなんだ!高山、桑山を後詰に向かわせ、木ノ本の兵を向かわせれば、清兵衛はあのようなことにはならなかったはずじゃ!」
「兄上、それがしは-」
「言い訳など聞きとうない!一体何のために大垣から木ノ本への道を整備したと思うておる?美濃の兵で、ここ木ノ本を後詰するためであろうが。貴様はわしが後詰することを知りながら、知っていながら大岩山へ兵を出さなかった。貴様が街道の整備を知らなかったというのであれば、わしも責めぬが、貴様は知りながら、知っていたのにもかかわらず、それをしなかった-これを怠慢といわずに何というのじゃ!」

秀吉は信長と同じく、部下の職務上の怠慢や手ぬるい仕事を嫌った。それが原因の失敗だとするなら尚のこと。まして天下を賭けた大一番での実弟の大失態である。兄の剣幕に、秀長はひとつの反論も出来なかった。

「あたら清兵衛のような勇士を死なせおって!清兵衛が死んだのは小一郎、うぬの-」
「殿、周囲の目もございますゆえ」

さすがに見咎めた黒田官兵衛のとりなしに秀吉は大きく舌打ちをして「何のために貴様にここの指揮を任せたと思うておる」と吐き捨てると、秀長を一顧だにせずに本陣を出て行った。残された秀長はというと、一礼した官兵衛にも気がつかなかったのか、床机に力なく腰を下ろした。秀吉の代理として羽柴軍の指揮を任された秀長は「それぞれの陣地を守り、こちらから手を出すな」という命令を馬鹿正直に解釈して、大岩山砦への援軍を出さなかった。山崎の合戦と同じく天下を掛けた戦いであるという重圧が、元々慎重な秀長の行動をより束縛したものとしていたのだ。

もとより実直な性格である小一郎秀長には、この兄の叱責がこたえた。そして秀吉の到着によって重圧から解放された秀長は、彼本来の思慮深さを取り戻すとともに、それまでの自分の指揮がいかに不味いものであったのかを痛感した。もしも丹羽長秀の機転(独断専行)がなければ戦線が崩壊する危険性もあっただろう。何よりも兄の期待に応えられなかったという点が秀長の気分を重くしていた。


『ここから北ノ庄に繋がる道は、我ら羽柴が天下へ駆け上がる階段ぞ!ものども、励めやぁ!!!』


兄の甲高い声に続き、地割れの様な兵士達の大歓声が聞こえてきたが、秀長は床机に腰掛けたまま動こうとしなかった。



[24299] 第9話「信意は信孝と対面した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/11/27 14:37
4月21日-羽柴秀吉の着陣を知った佐久間盛政は賎ヶ岳砦より撤退を開始。佐久間の奮戦により羽柴勢の追撃を退け、戦線の建て直しに成功するも、後方の前田利家・利長親子が突然撤退。金森可長・不和彦三らもこれに続いたため、柴田陣営は総崩れとなる。撤退する柴田軍を羽柴軍が追撃(世に言う賎ヶ岳の七本槍の活躍はこの時)。柴田勝政(盛政弟)を始めとした多くの将兵が討ち取られる。

4月22日-羽柴軍は栃木峠を越えて越前に進撃。秀吉は越前府中城の前田利家のもとを単騎で訪問。これを降伏させると、北ノ庄攻めの先方を命じる。勝家は北ノ庄に帰還。2ヶ月前3万の兵は非戦闘員も含めて僅か3千ばかりとなっていた。

4月23日-前田利家の軍勢を先鋒にした羽柴軍が北ノ庄を包囲。北ノ庄では柴田一族による最後の宴が行われた。


「田部山の戦に破れた松雲院殿(朝倉義景)も、今のわしと同じ気持ちを味わったのだろうな」
「-義院雲様(浅井長政)は最後までそのような事はおっしゃりませんでした」

柴田勝家の独白に、お市の方は少し考えてから、恐らく男が最も嫌がるであろう前の男の名前を挙げた。案の定、勝家は鼻の上に顔中のしわをかき集めたような渋い表情を浮かべたが、突如、その老いた眼を輝かせた。

「わしを嫌いになったか?ならば姫達と一緒に落ち延びられい。筑前も右府様の妹君を粗略には扱うまい。清洲まで行けば三介殿がよしなに取り計らってくれるだろう」

得意げに胸を張る勝家は、悪戯が成功したときの悪童のような表情を浮かべてこちらを見ている。これで気を遣ったつもりなのだろう。そして何故自分が微笑んでいる理由もわかってはいまい。頭の奥が痛くなってくる。義院雲様といい、兄上といい-どうして男と言う生き物はこうも女の手に負えない「たわけ」ばかりなのだろう。お市の方は勝家に酌をしながら、彼女の考えうる最上級の皮肉で応じた。

「もう一度そのような事を口に成されるなら、その時こそ貴方を見限りましょう」

そのたわけと一緒に黄泉の旅路を連れ添おうとする自分こそ、最も手に負えない大たわけなのだろうが。

「・・・好きにしろ」

柴田勝家は眼を細めると、無言で杯を飲み干した。




4月24日-北ノ庄落城。羽柴秀吉はそのまま軍を北上させ、27日に加賀尾山(佐久間盛政旧領)に入る。越中の佐々成政が降伏を申し出たことにより、旧柴田勝家の方面軍参加の領域は全て秀吉の配下となる。

羽柴秀吉は早速論功行賞を開始した。すなわち大功労者の丹羽長秀には、大野郡の金森長近(剃髪して降伏)領を除く越前全土と加賀2郡を与え、残る加賀は前田利家に与えた。佐々成政には越中を安堵することにより、降伏した者への寛大な処分を見せた。その一方で、丹羽氏からは近江の坂本と佐和山を越前と引き換えに割譲することを約束させ、病死した柴田勝豊の旧領長浜に加えて近江を羽柴家の勢力下におくように努める。このように秀吉は着々とその支持基盤を固めつつあった。

加賀尾山から山城へと帰還する途上にあった秀吉の下に、岐阜で抵抗していた織田信孝降伏の知らせが届いたのは、修復工事の進む安土城においてであった。

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いそしめ!信雄くん!(信意は信孝と対面した)

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北畠信意の姿は尾張星崎城にあった。今年の初めから病に臥せった岡田長門守重善の見舞いに訪れたのだ。北畠旧臣や織田宗家からの出向組、そして新参の尾張衆など様々な出身派閥が入り混じる清洲北畠家にあって、信秀時代から織田家に仕えてきた岡田長門守は誰もが一目置く人格者。いわば清洲北畠家の大黒柱である。ようやく尾張も落ち着き始めたという時期に、長門守の不在は正直辛いものがある。


「これで岐阜が落ちるのは何度目だろうな?」
「そうですな。竹中半兵衛の一件は特殊なので除くとしても、永禄10年には斉藤氏が織田氏に追われ、本能寺の変では安藤氏の挙兵に呼応した斉藤一族に占領され、昨年12月に羽柴秀吉の軍勢に降伏に追い込まれ、そして此度で-四度目ですかな」
「落城ばかりしとるな。それで名城といえるのか?」
「亡き右府様が天下布武を宣言なされた城でございますゆえ、天下の城という精神的な意味合いが大きいのではありませぬか。しかし言われてみれば右府様も親父も秋田城介様(信忠)も非業の最期を遂げられましたな。金華山には斉藤か土岐の怨念でも住み着いておるのやもしれませぬな」

長門守はそう言うと肩を揺らして笑った。床から起こした上半身は、見舞いに来る度に痩せてゆく。子息の重孝から「本来なら起き上がることも難しい」と聞かされていたが、長門守は憔悴した体を起こして自分を出迎えた。信意は馬鹿ではあるが、これで何かを感じないほど鈍感ではない。

「織田信孝様はその不名誉な記録に二度も名を刻まれたことになりますな」
「・・・まぁ、そういうことなるな。悪名は無名に勝るというが」
「それにしても妙な買い物をなさいましたなぁ」

岡田長門守の言葉を小言に感じたのか、信意は苦笑いを浮かべた。津島大社の末寺で強制的に頭を刈り上げさせた信孝の人質達は、信意の当初の目論見どおりに秀吉の追及を逃れることが出来た。やはり尾張と伊勢湾の経済圏を牛耳る津島の名前は大きい。津島大社の看板を勝手に借用したのだが、そのあたりは織田と津島である。ツーといえばカー・・・というものでもない。津島出身の生駒家長(信意の叔父)は、旧知の商家にお詫び行脚をする羽目になった。新たな尾張の国主に恩を売れるのだから、存在しない坊主を一人や二人でっち上げることぐらい易いものだろう。

「利にも益にもそわないことは承知しているが、手の届くところぐらいはな・・・傲慢と思うか?」
「業にとらわれぬ人間など存在しませぬ。柴田修理殿が筑前殿の下につくことを拒絶したように、滝川左近将監殿がもう一度名声を取り戻そうとされたように、筑前殿が天下に通じる階段に掛けた足を止められぬように。あれほど優れた方々であってもそうなのです。ましてや能の他にこれという取り柄のない殿では」
「今さらりと侮辱しなかったかお前」

長門守は白湯の入った茶碗を両手で抱えながら、にやりと笑った。

「私に言わせれば、今回の殿のなさり様は、酔狂のすぎた道楽ですな。ですが土を練り固めた茶器や女遊びに熱中されるよりはよろしいでしょう。津川や滝川(三郎兵衛)が何か申せば、そのように反論なさいませ。ところで本日はそのようなよもや話をされに来たわけではございますまい」
「・・・お前に隠し事はできんなぁ」

信意はため息をつくと、自らを叱咤するように頭をピシャリと叩いた。


「秀吉が三七をわしに預けると申してきた」

信意は史実とは違い、岐阜城への包囲には加わらなかった。一方で北伊勢方面の滝川一益に対しては南伊勢の兵をほぼ総動員して長島に封じ込めた。「尾張の検地が未了で軍を動員できない」「安土の工事費用が」「そのかわりに北伊勢はまかせてちょ」と言うのが表向きの理由であったが、滝川の本拠地である長島は津島の経済圏の内にあり、北畠家としての優先順位は岐阜などと比べ物にならないほど高い。またそれとは別に、信意は信孝とは直接戦火を交えたくないという「酔狂」な考えもあった。

4月16日の再決起以降、信孝は何度か岐阜城から出撃すると羽柴陣営の後方撹乱を図った。しかし岐阜城の周囲は羽柴の勢力で満ちており、後方撹乱どころか城に逃げ帰るのが精一杯であった。4月末には城下を羽柴方の森武蔵守らに包囲され、26日に信孝は城を開いた。安土でそれを聞いた秀吉は、何を思ったのか信孝の身柄を北畠家預かりとしたのだ。


「試されておりますな」
「やはりそう思うか」
「思うも何もみえみえです。人質の一件で、御本所様が御自分の政権に協力される意向があるのかを疑問に思われたのでしょう。御本所様が信孝様をどう扱われるかを、安土から注視しておられるはずです・・・二度は通用致しませぬぞ」
「それは、わかっているさ」
「信孝様のことです。三度目の機会が御自分に与えられないことも理解しておられるでしょう」
「・・・見舞いに来たというのに、気を遣わせてすまんな」
「何をいまさら。殿にお仕えして以来、私は殿の尻拭きを続けてきたのです」

茶碗を置いた岡田長門守は、信意の顔を真っ直ぐに見据えた。疲れと老いは隠せないが、猛禽類を思わせる眼光は鋭く、そしてどこまでも優しい。その眼は出来の悪い息子を見守る親のようだと信意は思った。



- 4月30日 尾張清洲城下 永安寺(織田信孝の宿所) -

「や、やあ。久しぶりだな」
「・・・兄上もお変わりなく」

憔悴の色はあるが、疲労困憊しているというわけではなさそうだ。信意は信孝の様子に安堵のため息を漏らし、あわてて自分の口を手で塞いだ。なんちゃってシンデレラボーイとは違い、相手は手負いの獅子。控えの間に警護の兵を駐在させているとはいえ、激昂されては勝てる気がしない。幸か不幸か、信孝はこれという反応を示すことはなかった。

暫く無言で互いに杯を交わしたが、3杯目にして信意は泣きそうになった。信孝に同情したわけではない。そもそも彼は赤の他人、おまけにもうすぐ死ぬ運命にあるのだ。そんな人間と楽しく酒が飲めるわけがないのである。信意は鈍感ではあるが無神経ではない。


「・・・兄上の配慮にお礼を申し上げます」
「え?」
「質の一件です。津島社に匿っていただいたとか」
「あ、ああ、あれな」

5杯目にして信孝がようやく言葉を発すると、信意は必要以上に力強く頷いた。気まずい沈黙と緊張感から解放され、ようやく会話の取っ掛かりを見つけたことに安堵したのだ。そして信孝は、目の前でくるくると表情を変える三介-北畠信意の顔を暫く見つめた後、急に笑みを漏らした。兄に対して持っていた、あの汚泥のような薄暗い感情も今となっては懐かしさすら感じる。遺恨がないわけではない。だが、どうやら相手が自分に対して持っていた遺恨を先に捨てたようであるのに、死にゆく自分が後生大事にそれを抱えているということが急に馬鹿馬鹿しくなったのだ。


「・・・変わられましたな、兄上は」


はい、発覚フラグきた。


「ナニヲイウノデスカ信孝サン。ワタシハイツモ愉快ナ貴方ノ兄ノ三介デスヨ」
「いや、変わられましたよ」
「・・・じゃあ聞くが、昔の私はお前の目からどう見えていたのだ」
「怠惰で臆病で卑怯、人の目を気にするくせに人を見下し、都合の悪いことは全て周囲の環境や人間の責任だといって被害者面するろくでなし」

よし、わかった。お前は俺に喧嘩売ってるな。

「兄上がどう考えておられたかは存じませぬが、私は兄上がずっと羨ましかった。兄上は私の持っていない全てを持っていた。兄上は生駒の方の子息で嫡子腹、私は妾腹」
「信孝、母上のことをそのように言うものではない」
「兄上にはわからないでしょう。同じ織田信長の子供でありながら、妾腹であるために一段下に扱われ続けた私の気持ちが。生駒と坂の、私の母と兄上の母の何が違うのです。家柄も大して差はないのに、兄上には信忠様がいたから嫡子腹とされ、私は妾腹とされた」

信意はその言葉に対して感情的に反論したいことはあったが、それを堪えて信孝の話に耳を傾けた。岐阜城からは兵の逃亡が相次ぎ、最終的には27名しか残らなかったという。信孝の乳母兄弟である幸田彦衛門尉が戦死した今となっては、自分が聴いてやらずに、一体誰が信孝の思いを受け止めることが出来るというのか。なんちゃてシンデレラボーイとはいえ、自分が彼の兄であることに違いはないだろうという、同情ともなんともつかぬ複雑な思いを信意は抱えていた。

「兄上の養子先は伊勢の名門北畠家、岡田長門に津川玄蕃を初めとした優秀な家臣が付き従いました。私は北伊勢の神戸。ろくな守役もなく・・・だから私は努力しましたよ。恵まれた環境にあるのにもかかわらず、まともに努力しない兄上を見返そうと。父上に認められようと・・・それがこの有様です」

ですが、今この有様になったからこそわかることもありますと、信孝は言う。

「被害者面をしていたのは私も同じでした。生まれが悪いから、環境が悪いからと。幸田が死んで始めて思い知らされましたよ。周囲の人間に対して私がこれまでどれほど辛く当たってきたのかを。不満を口にするばかりで、彼らを認めることがなかった。それでは人がついてくるわけがないのです・・・私は・・・」

信孝はそこで始めて言葉を詰まらせた。恥ずかしさからか杯を呷ると、それを叩きつけるように床に置いた。

「私は父上になりたかった。岐阜を与えられ、金華山の上から見下ろした時には、私こそ織田家を継ぐに相応しいと。それに相手が-失礼ながら兄上相手なら勝てると思った。北畠姓に固執し、織田の名を背負う覚悟もない兄上になら。だが実際には違った。織田姓を名乗ろうと、天下布武の城の主となろうとも、私は三七信孝でしかありえない」

信孝の独白にいたたまれなくなった信意は視線を外した。永安寺の境内の桜はとうに散り、葉桜となっている。織田家と言う名の桜は散った。次に咲くのは羽柴の花。その次は-いや、まだわからない。羽柴の花が今まさに咲こうとしている時に、その次の予想など出来るはずがないのだ。


「逃げるな三介」


信意はぽかんとした表情を浮かべて、間抜けな面を信孝に向けた。逃げる?一体何の話を-

「織田の名前から、織田信長の息子である事から逃げるなと申し上げておるのです」
「お前、何を-」
「今回のことでそれをつくづく思い知らされた。いくら足掻こうとも、俺は織田信長の息子なのだと。信長の息子と言う変えがたい事実が、腐った卵の匂いのように何処までも付きまとってくる-まるで呪縛だよ。兄上が何故、北畠姓に固執しているのかは知らないが、まさか織田の姓を背負うことが怖いのか?」
「・・・怖いといったらどうする。軽蔑するか」

信意の予想に反して、信孝は「俺は怖いよ」と答えた。信意は完全に信孝の勢いに飲まれていた。

「筑前が俺を生かしたのも、今殺すのも、俺が信長の息子だからだ。あのサルは俺が怖いわけじゃない。そもそも俺を相手にすらしていないだろう。織田の名前が怖いのだ。俺が僭称した織田姓ですらそうなのだ。嫡子腹の兄上なら尚の事」
「俺は・・・ただの三介だよ。そう、ただの三介だ。それ以上でも以下でもない」
「今の兄上ならそういうと思ったよ。だが兄上、何れ筑前は-」
「もういい、もういい。それ以上いうな・・・酒が不味くなる」

信意は話は終わりだといわんばかりに手を振った。

「・・・それもそうだな。酒は静かに飲むべし、酒は静かに味わうべしか」
「そういうことだ」


その日、兄弟は夜遅くまで杯を交わした。




5月2日-尾張知多郡野間の大御堂寺敷地内において織田三七信孝が自害。享年26歳。

5月13日-尾張星崎城主の岡田長門守重善が死去。享年56歳。




[24299] 第10話「信意は織田信雄に改名した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/12/04 13:57
- 天正11年(1583年) 5月10日 京 九条兼孝(前左大臣)邸 -

関白と聞くと、真っ先に浮島の大統領が思い浮かぶのは作者だけであろうか。そうではないことを期待したい。

関白とは、帝の代理人として禁裏内における政務を執る職である。政治の実権が武家に移るのと時を同じくして、摂政・関白は藤原氏嫡流の五家-近衛・九条・一条・二条・鷹司の独占する体制が成立した。しかし国政に及ぼす影響力は衰えたとはいえ、そこは禁裏における公家の最高位者。それなりの格式というものがある。そしてそれなりの格式を維持するのにはそれなりの金子が掛かる。そして金は誰に対しても平等である。

兼孝の義父である九条恵空も、金に苦汁を舐めさせられた一人である。天文2年(1533)、当時26歳の種通(恵空)は後奈良帝より関白に任ぜられ、藤原氏の頂点である藤氏長者を極めた。しかし種通は拝賀の費用を捻出することが出来ず、翌年初頭に辞任。公家の貧乏自慢がめずらしくなかった時代とはいえ、摂関家もその例外ではないのかと京雀の噂の的になったものだ。この苦い経験から、恵空は金と権力を振りかざす成り上がりが大嫌いになった。もう一度言うが嫌いではない。「大嫌い」なのだ。その恵空は当年76歳。年齢を重ねるごとにその頑固な性格に磨きをかけた老人は、摂関家の重鎮として公家社会に睨みを利かせている。その恵空はつい先日、聞き捨てならない噂を耳にした。その内容は、老人が最も嫌う「金と権力にものを言わせて、禁裏の秩序に手を入れる」類のものであった。


「今回の一件は菊亭晴季卿(前内大臣)が旗振り役となられて、清華家の意見を取りまとめておられる御様子。摂関家では近衛前久卿が賛意を示されております。またこれらとは別に公家衆に関しては・・・申し上げにくいのですが、相当の金子がばら撒かれている模様でして」

里村紹巴は冷や汗を流しながら答えた。連歌師として当代随一の呼び声高い紹巴は明智光秀との関係が深く、山崎の合戦後は明智一派とみなされた。政治的窮地に陥った紹巴からはほとんどのパトロンが逃げ出したが、この頑固な老人だけは変わらずに交際を続けてくれた。その点に関しては紹巴も恩義は感じているのだが-正直、この老人と話すのは色々と疲れるのだ。

「金子の出所は堺の今井宗久殿とか」
「今井?あぁ、上総介(信長)の腰巾着だった男か」
「父上、それはいくらなんでも言葉が過ぎます」
「何を言うか兼孝。あれは武具を商う商人といえば聞こえはよいが、戦場で金を稼ぐ亡者の類ではないか。今出川(菊亭家)の小僧は、血にまみれた金を廟堂に持ち込んでおるのか。持ち込むほうも持ち込むほうだが、受け取る輩も手に負えぬな」

まさか貴様は受け取ってはおるまいなと問う義父に、兼孝は慌てて首を振る。恵空は不快極まりないといった表情でため息をついた。禁裏には御宸襟を悩ませる馬鹿に間抜けにろくでなしが勢ぞろいしている。

「その小僧、千代松丸だったか。年はいくつだ」
「天正5年(1577)産まれなので、5歳になられるはずです」

恵空は嘆かわしいことだと首を振った。5歳の子供に罪がないとはいえ、廟堂の座席を金子で買うことに変わりはない。高望みはしないが、せめて廟堂の悪しき先人の真似はして欲しくはないものである。

「泉下の親房殿が知れば、さぞやお嘆きになられるだろうな」

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いそしめ!信雄くん!(信意は織田信雄に改名した)

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柴田勝家を破った羽柴秀吉は、5月10日に禁裏より従四位下参議に任ぜられた。従四位は遠く鎌倉の北条氏以来、武家政権の中枢に座る人物のスタートラインである。そして参議とはその名の通り「政に参議する」官職。賎ヶ岳よりわずか半月足らずでのこの人事は、朝廷が形式上は織田政権の宰相である羽柴秀吉を、織田信長の政治的後継者として公式に認めたことを意味していた。九州の大友、中国の毛利、越後の上杉、東海の徳川など各国に勢力を持つ大名は慶賀の使者を送り、新たな天下人の出方を伺おうとした。


夏も~ち~か~づ~く~八十八夜、ちゃんちゃん♪という今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。北畠信意です。信孝と岡田長門守の喪中ではありますが、今や天下人になった羽柴秀吉に戦勝祝いと参議への任官祝いを述べる(つまりはゴマスリ)ために、主だった重臣を引き連れて京に上洛しました。

「信意殿、織田に復姓なされよ」

いやん、秀吉様ったら。冗談がお上手ね♪


・・・あれ、何で黙るの?


・・・・・・もしかして、マジ?




- 5月20日 和泉 堺 今井宗久邸 -

「まさか兄上とこうして顔を合わせる日が来るとは思いもしませんでした」

屋敷の主である今井宗久は、木造具政が現れても北畠具親が淡々と応じたことに安堵のため息を漏らした。両者の関係を考えれば、具親が具政にいきなり切りかかってもおかしくはない。同じ北畠一族ではあるが、木造具政と北畠具親の兄弟が歩んできた道はまるで異なるからだ。

-貨幣の表と裏というわけです

無言で茶を喫する二人を見ながら、宗久は傲岸不遜が姿をとったような茶人の言葉を思い出していた。なるほど、具親と具政はここ20年余りの北畠の歩んだ歴史を体現した人物といってよい。木造具政は織田家の伊勢侵攻に協力して兄具教と刀を交える。親織田派の具政は、かつての同僚や一門から裏切り者と罵られながらも、北畠を取り巻く激流のような政治環境の変化の中でもその地位を守った。そして現在、清洲北畠家において発言力を持つ唯一の旧北畠一門である。織田と結びつくことで彼は結果的に北畠の家名を守った。一方で具親はというと、政治的にも思想的にも徹頭徹尾の反織田・反信意である。僧籍にあった具親は、北畠家の反織田勢力が誅殺された三瀬の変を契機として反織田のゲリラ活動に身を投じた。天正5年(1577)の決起、本能寺の変直後の五箇篠山城における蜂起は失敗に終わったが、依然として伊勢国内における反織田勢力の旗頭である。

そして現在、旧北畠一族を代表出来るのは、この二人をおいて他にはない-腹の立つ限りだが、あのいけ好かない大男の喩えは含蓄に富んでいると認めざるをえない。しかし比喩とはいえ貨幣の話なら、それは商人である自分の領域だ。人と人を取り持つことこそ、商いの基本である。何でも今回の一件は、羽柴様肝いりの話とか。織田政権の政商とも言える立場にあった今井宗久は、新たな支配者に取り入る絶好の機会を逃すつもりはなかった。


「商人とは信用ならない人種であるな。何故、いや誰から千代松丸様-昌教様のことを聞きだしたのだ。昌教様のことは北畠旧臣でも吉田兵庫守ら一部の人間しか知らぬはず。木造殿もその所在はご存知ではなかったはずだ」
「堺には全国から様々な情報が集まります」

それ以上は手の内を見せるつもりはないと言う意味を込めて宗久は具親に答えた。実を言うと宗久も千宗易から聞かされるまで、北畠具房にご落胤が存在することすら知らなかった。あの大男は昔から不思議と世の事情に通じている。その悪魔的な美への感性と偏執的な茶への愛情がなければ、今頃はおそらく自分よりもはるかに格上の商人になっていただろう。


千代松丸-北畠昌教は、北畠具房の子供である。北畠だらけでややこしいことこの上ないが、少々我慢してお付き合いいただきたい。信長の伊勢侵攻当時、北畠氏の家督は北畠具教(木造具政・北畠具親の兄)ではなく、その長子である北畠具房に譲られていた。信意は具教の娘である雪姫と婚姻し、具房の跡を継いで北畠当主となる。つまり具房は形の上では信意の義父になるのだ(ああ、ややこしい)。具房は幽閉されたまま一生を終えたが、その幽閉先で産まれたのが千代松丸だ。三瀬の変で千代松丸の身が危ういと考えた北畠旧臣によって、この赤子は具房の幽閉先から脱出した。この又甥の存在と生存に関しては、家中に残った木造具政も聞き及んではいた。

「千代松丸様は今どちらに」
「・・・初めに断っておくが、私は織田の人間を信用してはいない。そして織田に味方をした兄上も。今回の北畠氏再興の一件が、昌教様を誘き出すための陰謀ではないと言い切れるのか。追っ手を差し向けない保障があるのか」
「今回のお話は羽柴侍従様の-」
「宗久殿」

具親は宗久の言葉を遮った。自分が聞きたいのは天下人や商人の話ではない。目の前に座る木造具政の言葉である。織田に寝返り、一門を見殺しにした兄が何を考え、どのような思惑でこの話に乗ったのか。すると具政は懐から一通の書状を取り出した。

「それは?」
「千代御前様からの書状だ」
「ッ!」

瞬間、驚きの感情をあらわにした具親だが、直に得心したように頷いた。

「・・・そうか。雪は、あの男の妻になることを選んだのだな」
「意外だな。貴様は激昂するものと思っていたよ」
「信長が生きていれば違ったのだろうが、明智日向守に先んじられてしまったからな」
「信意様がおられるぞ」
「あれはただの肉の塊だ」

宗久は思わず噴出しそうになるのを何とか堪えた。



- 5月24日 山城 山崎城 -

「いやあ、面白いほど餌に食いついてきよるわ」

羽柴秀吉は、山崎城内の一室で千宗易を相手に低い笑い声を上げていた。

「やつら、自分の事となると目の色を変えよる」
「何百年と権力に寄り添い、その蜜を吸うことによってお家を存続させてきた方々ですゆえ。公家衆の醜態とはそんなに面白うございますか」
「おお、愉快だとも。宗易殿にも見せてやりたいものじゃ。右府様(信長)御生害でも顔色一つ変えなかった公家衆が、たがが5歳の子供のために走り回る様を見るのはな。これも宗易殿が北畠の御落胤の存在を教えてくれたおかげじゃ」

二人の会話を理解するのには少々解説が必要だ。先の京における羽柴秀吉の北畠信意への提案は次のようにまとめられる。

①北畠昌教を北畠信意の養子として北畠家の家督を相続させる
②北畠家は公家として朝廷に復帰する
③信意は織田に復姓する

これらは千宗易が秀吉に提案した「北畠再興案」に大筋で沿うものであった。羽柴陣営としては柴田陣営の織田信孝の代わりとなる三法師様の後見役は北畠信意以外にありえなかったが、織田宗家の後見役が北畠姓では外聞が悪いことを秀吉は悩んでいた。宗易の提案は、織田姓への復姓を渋っていた北畠信意を説得するためには、北畠昌教を公家にすることで清洲織田家と北畠氏の家督の分離を提案すればよいではないかという論理である。そして政治技術の天才である秀吉は、この北畠家再興に別の政治的価値を見出していた。

「頑固な北畠中将を説得できるついでに、今回の一件で公家衆がわしをどう思うておるのかを確かめることができそうじゃ」
「羽柴派のあぶり出しと言うわけですな」

宗易の言葉に秀吉は一瞬だけ言葉を詰まらせた後「理解が早くて助かる」と笑った。羽柴秀吉は織田政権の初代京都奉行という経歴から、公家衆にも機知が多い。前内大臣の菊亭晴季などはその最たる例だ。とはいえ、曲がりなりにも平氏を名乗れた織田信長とは違い、秀吉の場合は何もない。成り上がりの秀吉を快く思わない潜在的な公家衆の数は、親羽柴派の公家衆と同等か、それ以上に存在している。これから朝廷との折衝が否が応でも増える秀吉としては、敵と味方を早くに見分ける必要があった。だが相手は海千山千の公家社会そのものであり、白黒と単純に区別できるものではない。

秀吉は千宗易の提案した「北畠再興」を公家衆の反羽柴と親羽柴を色分けするリトマス試験紙として利用することを考えた。北畠氏は元々、村上源氏の流れを汲む清華家である。清華家とは五摂家に次ぐ格式で太政大臣にまで昇ることが出来る。仮に北畠昌教を清華家格で取り扱うのであれば、将来的には清華家でポストに弾かれるものが出てくるだろう。それは当然上から下へと、公家社会全体の人事に影響を及ぼすことになる。無論、秀吉も北畠氏が清華家に復帰できるとは考えていない。一度滅んだ公家をごり押しで復帰させるのだ。一応は清華家で扱うように主張するが、実際にはその下の大臣家か、または羽林家がいいところだろう。何せ北畠昌教はまだ5歳であり、おまけに元南朝という政治的ハンディキャップを背負っている。だが問題はそこではない。清華家という自分の主張に、公家衆がどう反応するかが問題なのだ。

そしてこの件をきっかけに、千宗易は羽柴家の家政に関して秀吉から内々の相談を受けるようになる。


「それにしてもッ・・・いや、すまん宗易殿」

突如秀吉が口を押さえて笑い出したのを、宗易は怪訝そうな顔で見つめ返した。

「北畠中将に、菊亭殿や近衛卿の朝廷工作についてお話したのだ。無論、北畠氏再興が口約束ではないことを証明するためにな。そうしたら中将殿は『あんのお調子者の腰巾着ども。屋敷の前に生ゴミ撒いてやる』と息巻かれての」

秀吉の言葉に宗易は顔の筋肉が引きつった。数日前、近衛卿の屋敷に魚のあらが放り込まれる事件があったことを彼は聞き及んでいた。いやまさかな。まさか右府様の子息ともあろうお方が、そのような・・・いや、まさかな。

そしていつも取り澄ました宗易の虚を付いたことがよほど嬉しかったのか、秀吉は手を叩いて笑っていた。



- 5月26日 尾張 清洲城 -

「雪ちゃん!昌教のことを黙ってるなんで酷いじゃな・・・アノ雪姫サマ、薙刀ヲオシマイクダサルトアリガタイト思ウ次第デゴザイマスデス」
「人前ではその呼び方はおやめくださいと、何度も申し上げているはずですよ」
「だってさ」
「だってもさっちもにっちもありませぬ」


京での秀吉との会談で織田への復姓を求められた信意は、当然のごとく先延ばしを試み、とりあえずは何とか回答を引き延ばそうとした。

『い、いやあ。なにぶん急な話ですので、嫁さんに相談しないことには』
『御内儀殿の内諾は得ておるよ』

雪ちゃん、なにしてくれんのー?!

という具合に、雪ちゃんを詰問する気満々で清洲に帰ってきたんだけど、何時の間にか説教される側にまわっていた。おかしいな、こんなはずではなかったのだが・・・ん?雪ちゃん、その女の子達は誰?新しい女中さん?

「だ、誰が女中だ!」
「ちゃ、茶々姉さま、落ち着いてください」
「信意様、お久しぶりです」

はい、私の従姉妹でした。

激昂したのは(予想通り)長女の茶々(14歳)、必死になだめているのが三女の小督(10歳)、自分だけちゃっかり挨拶しているのは次女のお初(13歳)である。うん、こいつらの将来見えた気がする。いまさら説明するまでもないが、この三人が来年の大河ドラ・・・げふんがふん。世に言う浅井三姉妹である。父は湖北の雄・浅井長政、母は信長の妹であるお市の方というサラブレット。うん、女だけどもう勝てる気がしないぜ。三姉妹はお市の方の再婚相手である柴田勝家の元にいたが、北ノ庄落城の際に羽柴軍に保護された。そうか、清洲に来ると聞いていたけど今日だったのか。

「ああ、だから雪ちゃんはあんなに恥ずかしがったの・・・ゴメンナサイ」
「わかればよろしい」

「というわけで、茶々、お初、小督よ。私がユー達のナイスガイな従兄の北畠信意だ。四露死九~ね!」

従兄のぶっ飛んだお出迎えに、二度の落城を経験するという修羅場を潜り抜けたはずの三姉妹も反応に困っていた。茶々などは秀吉に味方して母を殺した従兄に嫌味の一つでも言ってやろうと手ぐすね引いて待っていたのだが、すっかり毒気を抜かれてしまっている。そしてそんなことを知る由もない信意は「美女に囲まれて、ぼかぁー、しあわせだなー」と、どこかの競走馬のように浮かれていた。

「ああ、一つだけ違ったな。もう北畠じゃなくなるから」
「・・・左様でございますか」
「雪、君が外堀を埋めたんじゃないか。聞いたぞ、秀吉殿と手紙のやり取りをしていたそうだな」
「お聞きになられましたか。差し出がましいことを、お許しください」

「いや、いいさ」と信意は手を振った。信孝がその死を持って証明した『織田』の重みと、雪姫や木造具政らが守ろうとした『北畠』の重み。自分の性格ではそのどちらも選ぶことは出来なかっただろう。こうして退路を立たれて、初めてそれと向かい合うことが出来た。その名を背負う覚悟や資格が自分にあるとは思わないが、それでも今、自分が出来ることをやるだけのことだ。そうでなければ信孝に会わせる顔がない。

「要請ではなく、三法師様の後見役としての命令だからな。断れないよ」
「叔父上は臆病なのですね」
「茶々!」

お督が茶々を窘めたが、信意は強気にこちらを見据える従妹に、肩を揺らして笑いながら答えた。


「そりゃそうだよ。だって俺は、三介だからな」




-柴田勝家を破り、織田信長の後継者となった羽柴秀吉だが、織田信忠の同腹の弟である北畠信意の協力が政権の安定に必要であった。北畠の名跡にこだわる信意に対して、秀吉が執拗に織田への復姓を求めたのもその一つである。賎ヶ岳の合戦後、北畠信意はその文書で「織田信雄」を名乗り始めたことは良く知られている。北畠昌教が正親町天皇より従五位下に任ぜられたのが6月1日であり、清洲織田家と北畠氏の家督が分離したのはこの日であると考えてよいだろう。

その後の歴史を知る我らにとっては、なんとも皮肉な話ではあるが。

- 『新日本史』9巻 第3章「安土桃山時代」第3節「ポスト信長の時代」より抜粋 -



[24299] 第11話「信雄は検地を命じた」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/12/09 05:27
摂津国東成郡大坂。かつては小坂と呼ばれていた上町台地北端の、文字通り小高い丘でしかなかった。しかしこの地は北に淀川・大和川水系(畿内)と瀬戸内海(山陽地方)を結ぶ港の渡辺津を望み、また熊野古道の起点として和泉の堺や紀伊にも通じる陸上交通の要所に位置する。いわば日本の首都の玄関口のおひざ元というわけだ。そのためこの地は小坂から大坂へと地名を変えたように、上町台地沿いに町が形成されていった。各地で急速に勢力を拡大しながらも京を追放され、各地を転々としていた浄土真宗本願寺派がこの地を本山に選んだのも当然である。ここは日本の政治・経済・宗教・文化のすべてに影響を与えることができる場所なのだ。織田信長と本願寺との10年にも及ぶ石山戦争(1570-80)は、天下布武を目指す信長にとって避けられない戦いであった。

そして本願寺の大伽藍跡に、今度は羽柴秀吉が乗り込んできた。「日の本一の城を築く」-この号令こそなかったものの、おおよそそのようなことを公言しながら天正11年(1583)5月後半、秀吉は「大坂城」の築城を始めた。柴田勝家を滅ぼした直後に、さっそくの築城である。これが天下人への意欲の表れでなくて何であろう。何よりかつての天下の居城である安土城はいまだ健在(再建中)なのだ。当然これには安土城の修復工事の責任者であり、今や織田一族の中で最大実力者となった織田信雄が面白いはずがない。かつての支配者一族にその城を修理させながら、形式上は三法師の後見役という織田家の臣下でしかない羽柴秀吉が新たな天下の城を築くという傍若無人の振る舞いに、信雄は強烈な-


-いやあ、まことに結構、結構!天下太平にして世は全てこともなし、今や日の下六十余州に貴殿の敵はおらぬ(中略)これも羽柴殿の威光のたまもの(以下略)-


・・・プライドというものがないのだろうかこいつは。


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いそしめ!信雄くん!(信雄は検地を命じた)

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というわけで信雄です。うん、やっぱりこの名前がしっくり来るね。織田家に代々伝わる信の字に、英雄の雄。これで信雄(のぶかつ)。かっこええなあ。自分の名前ながら惚れ惚れするね。これぞ男の名前だな!なんたって花押(サイン)をしてても筆ののりが違うんだから。ノリノリだね。のりだけに。あ、俺上手いこと言った?

「知りませぬ」
「この部下からのひどい扱い!でもそれがいい」

佐久間不干斎(信栄)は、割と真剣にこの馬鹿の後頭部を殴ってやろうかと考えながら次の書類を無言で押し付けた。土方勘兵衛の教育の賜物である。信孝様御生害の後、しばらく感情の起伏が激しかった信雄だが、ここ数日は目に見えて浮かれていた。まあその理由は言わずともわかる。数日前、御正室の千代御前様の御懐妊が判明したのだ。この時の信雄の喜びようときたら、飛んで跳ねて叫んで(土方に峰打ちをされてようやく大人しくなった)。この喜ばしい知らせは、北畠昌教様の廟堂への復帰と同時に発表され、岡田長門守の死去により清州北畠家中に漂っていた暗い空気を一挙に吹き飛ばした。そのため御機嫌な信雄は佐久間に押しつけられた書類にも嫌な顔一つせずに、鼻歌を歌いながら花押をしたためている。仏頂面で仕事をされるよりはいいのだが、佐久間はこめかみに手をやりながらため息をついた。

「どうした甚九郎(不干斎)、ため息をつくと幸せが逃げるぞ。カモタツも歌ってただろう。はっぴはっぴはっぴかもーん!ってな」
「尾張に続きまして伊賀や伊勢も総検地するとなりますと、莫大な負担がかかります。旧滝川領だけでよろしいのではないのでしょうか」

佐久間は信雄の南蛮語混じりのたわごとを再度無視した。二度も無視したな!親父にも無視されたことは・・・結構あったな。


話を戻すと、北伊勢長島で抵抗を続けていた滝川一益が6月に降伏したことを受けて、北伊勢の滝川領と織田信孝領は織田信雄に与えられた。信雄は早速検地奉行の織田長益を呼び出し「伊勢と伊賀全土の総検地」を命じて、ようやく尾張の検地を終えたばかりの、この気の弱い叔父を卒倒させた。検地は田畑の耕作面積と収穫量の調査、いわば税務調査兼戸籍調査だ。検地台帳は平時では国家運営の基本となり、戦時では兵士の動員リストになる。織田信長が兵士(専業兵士)と農民の分離を始めたことにより、税務調査の色合いが濃くなったものの、信雄が先の岐阜城攻めへの動員を「尾張の検地が未了」という理由でサボタージュできたのはそうした理由がある。なぜ態々南伊勢や伊賀まで検地をおこなわねばならないのか。つっかえながら何とか反論した長益に、信雄は黒い笑みを浮かべて答えた。

『尾張一国、伊勢一国で、この私がやることにやることに意味があるのです。検地台帳を差し出せば、羽柴殿はさぞ喜ばれるだろうな』

甥の笑顔にドン引きしながら、長益は最後の言葉に気が遠のきそうになった。長益ならずとも、信雄の言葉は信じられないものである。軍事機密である検地台帳を差し出そうというのだから。媚を売るなら徹底的に、それが信雄のモットーである。そして彼は生き延びるために最大限に織田の名前を利用しようとしていた。

いくら馬鹿でかい城を築いたところで、羽柴秀吉は天下人にはなれない。三法師の後見役として事実上の織田政権の後継者となったとはいえ、丹羽長秀や池田勝入斎らかつての織田家の同僚や先輩に対しては秀吉も強気に臣従を迫ることはできない。これが一家臣でしかない秀吉の、旧織田家臣団の連合政権である羽柴秀吉の弱さである。

そこで俺の「織田」が役に立つわけだ。秀吉が執拗に俺に織田への復姓を求めたのは、つまりは自身の権力の正統性を確保するため。羽柴政権を織田のブランドで飾りたい秀吉と、何としても生き延びたい俺。利害は一致する。そこで軍事機密である検地台帳(兵の最大動員数や動員能力)を差し出すことをちらつかせればどうなるか。織田一族である信雄ですら、秀吉の天下を認めたという、格好のデモンストレーションになるというわけだ。しかもかつての旧領土(織田信長から与えられた)まで調べなおす徹底ぶり。

「ふふふ、やるなら徹底的にやらないとな」
「・・・長益様に同情します。総検地の理由はわかりましたが、その費用は-」
「その代わりに安土城の再建を秀吉に丸投げするつもりだ」

佐久間は思わずそのそり上げた頭をぴしゃりと叩いた。何とこの主君ははそこまで考えていたのか。かつての織田政権の象徴である安土城再建を織田家の人間があきらめ、秀吉がそれを成し遂げたとあれば否が応でも名声は増す。そしてわが清洲織田家は財政難の原因である安土を手放すことができる。何より元から気にするような名声(もともとそんなものはなかった)信雄である。一石三鳥というわけか。


「小さなことからコツコツと、しかし徹底的に。それが俺のモットーだ」
「何とも徹底してますな」

自信たっぷりに情けないことを宣言する信雄の徹底した秀吉への媚の売り方と、出した分だけ必ず元はとろうという、ケチなんだか太っ腹なのか分からない金子の使い方に、佐久間は半ば呆れたような感嘆の声を上げた。




- 天正11年(1583) 6月中旬 若狭後瀬山城 -

若狭、越前(大野郡を除く)、加賀二郡合わせて123万石を領有する太守へと大出世を遂げた丹羽長秀は、居城の後瀬山城で鬱々とした日々を送っていた。本来なら真っ先に越前に乗り込んで北ノ庄の再建や柴田旧領の采配を振るってもよさそうなものだが、長秀はそれらを溝口秀勝や長束正家らに任せたまま、後瀬山から動こうとしなかった。

6月初頭に北伊勢長島城で抵抗を続けていた滝川一益の降伏により、織田信長の政治的後継者の地位を確立した羽柴秀吉は、本格的な論功行賞を開始した。旧織田政権の重臣では清州会議で羽柴秀吉の主張を支持した丹羽長秀と池田勝入斎が大幅な加増を受けた。しかし単に石高を増やしたわけではない。池田家を美濃(織田信孝旧領)に移すことで摂津に対する羽柴家への影響力を強めたように、秀吉は京を中心とする近隣諸国を羽柴家陣営で抑えようとした。丹羽家も越前・加賀(柴田勝家旧領)と引き換えに、近江の佐和山と坂本を明け渡させた。これは同時に丹羽長秀から琵琶湖水軍衆への指揮権がはく奪されたことを意味していた。

-結局あの男は、わしを信用しておらんのだ。

長秀は幾度となく考えを巡らせたが、結局は同じ結論にたどり着いた。秀吉は、言葉では自分を立てているが、織田家と縁戚関係にある先輩の自分を疎ましがっているのは明らか。柴田と同じく、今度は自分を北の地に押し込めておきたいのだ。忌々しげに舌打ちしようとした長秀の下腹部に、急な激痛が走った。

「殿!」
「-大事ない」

駆け寄った近従をさがらせたが、槍で臓腑をえぐるような痛みは健在だ。気を抜くと再び倒れるやもしれぬ。長秀は脇息に肘をつき、体の重心を預けた。下腹部に感じる違和感。直接触らずとも風呂に入るたびに嫌でも目に入る。ここ数カ月感じていた腹のしこりが段々とその硬さと大きさを増している。医者には見せていない。どこに秀吉の眼が光っているか知れたものではないからだ。そんなことをすれば、自分が病であることを天下に知らしめるようなものではないか。それに見せたところで、このしこりが癒えるとは思えない。

-信孝様の・・・

長秀は首を振った。馬鹿馬鹿しい。柴田殿にしろ信孝様にしろ、織田家を担う器ではなかった。だからこそ自分は羽柴殿に賭け、その賭けに勝利をおさめた。漫然と結果を待っていたわけではない。中間派諸侯への多数派工作を行い、賤ヶ岳の戦では奇襲を仕掛けた佐久間盛政勢を退けて羽柴陣営の勝利に貢献した。正当な槍働きの成果であり、この123万石は人に恥じるものではない。


長秀の手には堅田水軍棟梁の猪飼昇貞から贈られた書状が握られている。一通だけではない。背後の文箱には山のように書状が積み上げられている。そのすべてが自分に助けを、秀吉へのとりなしを求めるものだ。羽柴秀吉は近江を自分の勢力圏におくと、琵琶湖の各水軍衆に対して通行料徴収などの特権の剥奪と武装解除を命じた。中でも最大勢力の堅田水軍に対しては明智配下の過去まで取り上げて、受け入れぬ場合は志賀郡の没収もあり得ると恫喝しているという。亡き右府様以上に商いと金子に対する勘の鋭い男だ。水軍衆が流通と商いの邪魔になっていると看破したのだろう。近江全体を強力におさめる支配者が現れた今、もはや水軍衆の活躍する出番はない。その認識は正しい。亡き右府様でも同じ決断をなされたはずだ。

「だが、羽柴殿は右府様ではない」

長秀は自分自身に言い聞かせるかのようにゆっくりとつぶやいた。この苛立ちや焦燥感の原因も、結局はそういうことなのだ。自分は信長様の家臣ではあっても、羽柴秀吉の家臣ではない。清洲時代からの秀吉を知る自分にとって、その認識は抜きがたく染みついている。

為政者としての秀吉の判断は正しい。だからこそ面白くないのだ。かつて自分が指揮した水軍衆が、価値がなくなったと判断された瞬間に解体され、切り捨てられていく様を見るのは。それに何よりも、利用価値だけでいうなら、それは・・・っ


「殿!?」
「・・・っ何でもない」
「し、しかし、その顔色はただ事では-」
「わしにかまうなと言っておるだろうが!」

丹羽長秀は目の前の薄暗い予感を振り払うかのように声を荒げた。



- 天正11年(1583) 7月初頭 摂津国東成郡 大坂(大阪城普請現場) -

旧暦とはいえ7月ともなると次第に暑い日が続くようになる。少なくとも頭巾をかぶるような陽気ではないことは確かだ。しかし黒田官兵衛孝高という人物に関してはその限りではない。かつて使者に赴いた城の地下牢に一年以上幽閉された官兵衛の頭の毛はほとんど抜け落ち、後頭部には醜い瘡痕(かさぶた)が残った。そのため彼は常に頭巾を付けている。杖をつき、足を引きずるようにして歩くのは幽閉中に膝を患ったため。だが、その外見で彼を侮る者はいない。今や破竹の勢いで天下への階段を駆け上る羽柴秀吉、その異形の軍師である彼の知名度も同じように上がり続けている。

官兵衛は精力的に普請現場を見聞して、時折自ら指示を出した。足を引きずる彼に普請奉行は輿に乗るよう勧めたが、それは丁重に固辞した。自らの足で歩かねばわからぬものがある。何より自分で縄張りをした巨城が次第に出来上がっていくのをこの足で見て回るのは、自分の数少ない楽しみでもあるのだ。それを奪われたくはない。

-思えば遠くへ来たものだ

何百、何千という人足が山を切り出す作業に従事するのを見下ろしながら、官兵衛は感慨にふけった。播州小寺の一家老でしかなかった自分が、今や天下人の居城を築く役目を任されているのだ。安土を超える城を築こうとする官兵衛の意気込みは並々ならぬものがあった。だがその彼にもひとつ、気がかりなことが存在した。それは西の毛利でも北の丹羽でも、まして四国の長宗我部でもない。

-北畠、いや織田信雄殿

三介殿という言葉は、ここ1年余りで言葉の意味合いが一変した。本能寺の変以来、信雄にまつわる異常なまでの情報収集能力や奇異な決断は、文字通り「あの三介殿だから」と済まされてしまっている。秀吉を立てたかと思えば、信孝の人質の取り扱いや岐阜攻めのサボタージュ。その目的とするところがまるで読めない。主である秀吉はそれを楽しんでおられる向きもあるが、官兵衛は笑っていられなかった。織田家における主導権争いに勝利したとはいえ、政権基盤は盤石ではない。秀吉はあくまで織田三法師の後見役であり、織田家の大名の盟主でしかない。

一方で織田信雄は違う。越前の丹羽長秀殿についで尾張・伊勢・伊賀の三国を支配する太守。岐阜中将様(織田信忠、三法師の父)と同腹であるだけ、織田三法師政権での序列は丹羽家よりも上。むしろ三法師を差し置いて、織田宗家の当主にもなれる資格がある。官兵衛は信雄の親秀吉の姿勢が、徹底していればしているほど、それがいずれ政権を傾けるための偽りの姿勢ではないかという疑いを強めた。であるのにもかかわらず、秀吉にはその警戒感が薄い。むしろ中国の毛利家を先鋒に四国・九州への進出を検討している。旧織田家の足元を固めるべきだと考える官兵衛には秀吉が先走りすぎているように感じた。大方、あの胡散臭い茶坊主にでも何か吹き込まれたのだろう。だから茶の湯は嫌いだ。

「面白くないな」

官兵衛のつぶやきに普請奉行が顔を青ざめさせたが、官兵衛はそれを無視した。説明するのも面倒であり、説明しても理解できないだろう。織田は羽柴にとって代わられる運命なのだ。いつまでも大きな顔をされていては邪魔である。ならば軍師である自分はどうするか-その時、官兵衛の視線に、不甲斐ない人足衆を怒鳴り上げていた人物の姿が目に飛び込んできた。

-織田には織田か

些か人物に不安がないわけではないが、まあよいだろう。もとより期待はしていない。上手くいけば御の字、駄目ならば次の手を考えればよい。何より羽柴に傷はつかない。官兵衛は足を引きずりながら歩みよると、親しげに声をかけた。


「御精が出ますな、外峯-いや津田四郎左衛門殿」


突如声を掛けてきた官兵衛に対して、外峰四郎左衛門こと津田四郎左衛門信重は訝しげに見返していた。



[24299] 第12話「信雄はお引越しをした」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/12/09 05:31
天正11年(1583)7月。織田信雄は北伊勢の長島城に居城を移した。かつての関東管領・滝川一益の居城であった城である。清州城は尾張・伊勢・伊賀の三カ国を治める本拠地としては尾張に偏っていたからだ。とはいえ尾張のちょうど中央に位置する清州が重要な支配拠点であることに変わりはない。そこに問題が生じたのである。

-誰に清洲を任せるか

多少時間が前後するが、信雄は賎ヶ岳戦役の論功行賞を兼ねて人事に手を付けた。岡田長門守重善の死去と自身の織田への復姓を契機に、家中の支配秩序を改める必要に迫られたからである。筆頭家老には津川義冬(信雄の義弟)を、同じく家老格に岡田長門守重孝(長門守重善の長男。織田家譜代)と滝川雄利(北畠一族)の両名をおいた。一方で今や織田信雄家の最大勢力となった尾張衆に関しては浅井長時や生駒家長らを中下級の役職で多く用いることで人事のバランスをとった。

無論すんなりとこの結論に到ったわけではない。当初信雄は北畠一門の重鎮である木造具政を筆頭家老に考えたのだが、当人が固辞したため諦めた。それでも引退は許可せずに相談役のような役割を与えたが。北畠昌教の復権がなされたとはいえ、未だ感情的にしこりのある旧伊勢衆に配慮したのである。そして幻に終わったものとしては前伊勢長島城主・滝川左近将監一益の登用というサプライズ人事があった。全体としての人事に関しては信雄は満足していたが、やはり軍事面での経験不足は否めない。何せ当主である自分が25歳なのだ。滝川一益は今でこそ見る影もなく没落しているが、羽柴秀吉や明智光秀と同じ中途採用組でありながら、自身の才覚と手腕により織田家関東管領にまで上り詰めた。軍事部門での織田信雄家の穴を埋める人材としてはまさに適任であると考えたのである。しかしこれは伊勢衆や尾張衆を問わず「昨日の敵を迎え入れるとは」という家中の猛反発と、木造と同じく滝川個人の固辞により頓挫した。

そこで信雄は「織田軍総司令官」構想を諦め、その代わりに領内に軍管区のようなものを設けることにした。三カ国の軍事全てを統括する力量のある人物がいないのなら、担当区画を分ければいいじゃないという理屈である。北伊勢と伊賀の支配に関しては長島城を、南伊勢には松ヶ島城(津川義冬)、そして尾張は清州城である。そこで当初の問題に戻る。候補者は三人。織田信包、織田信張、そして中川重政である。それぞれに長所があり、欠点がある。それゆえ当主である信雄の悩みは深く・・・


「茶々は信包、お初は信張、小督は重政ね。紙はちゃんと持った?じゃあそれを、こうやって前に出してね。いくよ~、せーの、『だ・れ・に・し・よ・お・か・な?て・ん・の・か・・・あっががががが!!雪ちゃん、ふぁ、鼻フックは駄目ふぁって!鼻もげふ、もげふぁうっふぇえ!!」

綺麗に決まった鼻フックに悶える信雄を尻目に、茶々は妹達に向かって懇々と説いていた。この空気に慣れてしまえば、人として駄目な気がする。

「お初、小督、いいですか?信雄様はあくまで特殊な例です。いかなる殿方に嫁いだとしても、決して真似をしてはいけませぬよ」
「「はい茶々姉さま」」

色々と様にならない信雄である。

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いそしめ!信雄くん!(信雄はお引越しをした)

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清洲は尾張の政治・軍事の中心であり、織田家濫觴の地でもある。事実上、尾張一国の支配を任せる人物が誰でもよいわけがない。信雄とて候補者をこの三人に絞るまではそれなりに真面目に考えたのである。だが、そこから先となると壁にぶち当たった。一長一短、帯に短し襷に長し、次郎にも太郎にも足りぬのだ。しかし信雄、自分の事は棚に上げて、よくもまぁ好き勝手に人のことをああだこうだと言えるものである。


候補その1-織田信包(伊勢津城主。40歳)。織田信長の弟で信雄の叔父。信雄と同じ時期に北畠一族の長野氏に婿入りしたため、政治的に信雄に近い。また織田一族の序列では故信孝よりも上位に位置していた。弟の長益と同じく調整型の人間であり、羽柴秀吉との関係も悪くない。経験と言う点では不足はないが、軍事手腕には?

候補その2-織田信張(尾張小田井城主。56歳)。織田三家老の一つである藤左衛門家当主。信長の義理の従兄であるが、簡単に言うと遠い遠い遠い遠い親戚。和泉岸和田城主として和泉半国を領有し、本能寺の変の際には蜂屋頼隆と共に紀伊の畠山氏や雑賀衆に備えていた。賎ヶ岳の戦いでは羽柴方であることを鮮明にした蜂屋とは対照的に厳正中立を貫き、それが原因で羽柴秀吉に睨まれて本拠地の尾張へと帰還。紀伊方面軍司令官という経歴から軍事手腕では文句なしの◎だが、秀吉との関係が難点。

候補その3-中川重政(尾張犬山城代)。中川姓だが某世界的財閥とは無論何の関係もない。彼も織田一族であり、こちらは信長の遠い遠い親戚(信長の叔父信次の孫とも)。信長の親衛隊である黒母衣衆出身で、一時は京奉行も経験した。しかし身内の不祥事で失脚&追放。数年前に帰参を許された出戻り組である。こちらも経験や実績では問題ないが、ブランクが気がかり。蟄居先であった徳川氏との関係が深い。息子の光長は前田利家(能登・加賀の国主)の娘婿。

秀吉との関係でいえば信包>重政>信張、軍事経験は信張>重政>信包、そして信雄との関係は信包>信張≒重政。信張を選べば羽柴秀吉との関係悪化は避けられず、信包なら印象は悪くないだろうが軍事面が不安。重政はそのどちらもが中途半端になりかねない。珍しくその頭を振り絞って悩んだ挙句、信雄が天任せにしたのも無理はない話なのだ。

「そうだろう具政?」
「問題だらけです」

相変わらず何処までが本気で何処までが冗談かわからない主君の言葉に、木造具政はこめかみを押えた。ようやく肩の荷が下りたかと思えば、この主は次から次へと問題を持ち込んでくる。これではおちおち茶も飲んでいられない。ああ、早く隠居したい。

「えー、だってさー」
「だってもさっちもにっちもそっちもどっちもありませぬ!」

具政が穏やかな老後を迎えることが出来る日は来るのであろうか。



- 天正11年(1583)7月12日 和泉 堺 松井有閑邸 -

松井友閑という人物がいる。代々室町幕府の幕臣を輩出した松井家出身であり、足利義昭が織田家に身を寄せる時期に前後して信長に仕えた。旧幕臣で有職故実に通じた友閑を信長は重用。右筆(秘書官)に取り立てたのを皮切りに、朝廷との折衝や上杉氏・三好氏との外交に携わり、天正3年(1575)には堺代官(奉行)に任命された。信長の軍事力に屈したとはいえ、堺は下手をすれば京よりも治めにくい土地であり、旧幕府人脈に通じ、畿内の裏と表を知り尽くした松井友閑であれば上手く堺を治めるであろうと信長は考えたのだ。そして友閑はその期待によく答えた。

本能寺の変後もこの老人(恐らく60代後半であったと思われる)は引き続き堺奉行を務めている。新たな権力者となった羽柴秀吉にとって旧織田政権の高官である松井友閑の政治的な利用価値は計り知れないものがあった。無論、今井宗室や津田宗及を初めとした堺商人の支持があってのことだが、この堺との共存共栄関係を作り上げたのは他ならぬ友閑自身。幕臣というよりは、強かな公家を思わせる人物である。むしろそういう喰えない人物であったからこそ、海千山千の商人が犇く堺を治める事が出来たのであろう。


「津田殿、わざわざの御足労痛み入ります」

腰をかがめながら茶室に入室した津田宗及に対して、友閑は白髪頭を揺らしながら貴人に接するように応じた。堺有数の豪商である天王寺屋の主である津田宗及は、丸々と肥えた猪のような風貌をしている。本願寺や三好三人衆、はては明智光秀と、政治状況に応じて目まぐるしく政治的パトロンを乗り換えてきた商人が漂わせる空気は、下手な武士よりもよほどそれらしい。畳についた白い手が、力仕事とは無縁であることをうかがわせた。もっともそれは友閑も同じなのだが。

「西国は如何でした」
「よろしくありませぬな」

眉を寄せると間の抜けた大黒にも見える天王寺屋の主は、深いため息を漏らした。畿内最大級の港湾施設を有する堺は、応仁の乱を経ても一大消費地であり続けた京への中継港として栄えた。堺商人はその資本力を背景に全国各地の港湾都市へ積極的に投資を行い、海上交通網を形成することで西日本の人・モノ・金を支配。これこそが「東洋のヴェニス」の力の根源である。その堺と、代官である松井有閑はいわば運命共同体にある。堺奉行である友閑にとって、堺の経済的浮沈は政権内における自分の政治地位に直結する。それゆえ堺商人にとって目下最大の懸案である九州情勢についても友閑は関心を払っていた。

乱暴を承知で、九州における戦国時代を駆け足で並べていく。三国鼎立はなにも中華大陸の専売特許ではない。西海道-九州は鎌倉の時代より三つの勢力がその覇権を競ってきた。薩摩の島津氏、豊後の大友氏、そして肥前の小弐氏である。小弐氏が竜造寺氏に取って代わられたことを除けば、この構図は戦国時代も維持されていた。まず三国の中で抜きん出たのは大友氏である。「女と文化は新しければ新しいほどいい」という傍迷惑極まりないキリシタン大名の大友宗麟は、長く九州の盟主として君臨。室町幕府滅亡後は織田信長と結んで中国毛利氏を脅かすなど、織田政権における西の徳川家として振舞っていた。しかし日向進出を目指した大友家は耳川の戦い(1576)で島津氏に惨敗。宗麟の黄金時代を支えた多くの重臣が戦死した大友家は、これを機に衰退の階段を転げ落ちていく。代わって台頭したのは肥前の竜造寺と薩摩の島津氏である。「肥前の熊」と評された竜造寺隆信は本拠地肥前を飛び出し、大友氏配下の筑前・筑後・豊前などに積極的に出兵。北上する島津との衝突は避けられない情勢となっていた。

「肥前竜造寺の宿老である鍋島信生殿が羽柴様と接触しているそうですが」
「事実だ。黒田官兵衛に聞いたところによると、鍋島は秀吉殿が中国管領であったころから誼を通じていたという。それゆえ秀吉殿は鍋島を大いに買っておられるとか。不甲斐ない大友に代わり竜造寺が羽柴様の九州征伐の先陣を承るなどと申しておるそうだ」
「それだけ竜造寺は島津を恐れているということでしょう」

津田はさもあらんと深く頷いた。大友が織田に通じたように、竜造寺は羽柴に通じることで中央との関係を築こうとしている。それもこれも島津の軍事力を恐れているからに他ならず、これが堺が九州情勢に注目せざるをえない原因である。大友や竜造寺とは違い、島津は中央とのパイプがない。むしろ島津は中央の干渉を嫌い、関東の北条氏のように九州に独自の勢力圏を築こうとしているというのが大方の見方であった。島津からすれば、中央政権との関係が深い堺に日明貿易や南蛮交易の拠点を提供することで得られる利益はない。むしろ海外交易を独占するチャンスだとして堺を締め出そうとするだろう。通商関係とは一度でも断絶すれば、関係を修復するまでに膨大な時間と資本を必要とする。その間に新たな商売相手が育たないとも限らない。それゆえ堺と松井友閑の危機感は並々ならぬものがあった。

「神屋宗湛殿は唐津に難を逃れておられましたので、島井宗室殿とお会いしました」

神屋と島井は共に筑前博多の豪商である。博多は北九州経済の中心であり、日明貿易の拠点として堺と争ったほどの実力を持つ。そのため諸大名はこの果実を求めて争い、北九州を巡る争いに度々巻き込まれた博多はその経済的地位を低下させていた。津田宗及の西国下向の目的は博多と接触して、敵の敵は味方の論理で反島津連合を呼びかけることにあった。

「反応はよろしくありませんでした。博多の商人衆は大友氏との関係が深いゆえ」
「博多とて自らの存亡が掛かっている。一筋縄ではいくまい」

実を言うと松井友閑も津田宗及も、現状では反島津連合構想が成立する可能性は低いと考えている。反島津連合とはつまり竜造寺と大友が手を組んで、島津に対抗することを意味している。竜造寺氏は耳川の合戦で支配体制の揺らいだ大友の勢力圏に、火事場泥棒のごとく兵を進めることで「五州二島の太守」と呼ばれるまでにその勢力を急拡大させた。とてもではないが現状では両者が手を組める政治環境にはない。そもそも博多商人は今まで多額の資本を大友氏につぎ込んでいる。帳簿の上では損切りが最善の策とはわかっていても、実際に行動に移すとなると話は異なる。何より今の段階でこの提案に乗れば、博多は堺に経済的に呑み込まれかねない。

今回の津田宗及の西国下向は、将来的な反島津での博多と堺との連携を示唆しながら、島津の九州支配への経済的不利益を説くことで博多をして水面下で竜造寺を支援させることが目的であった。島津が本拠地の鹿児島を優遇し、博多の経済的特権を剥奪することは容易に想像出来る事態。それならば、例え火事場泥棒であっても竜造寺のほうがましではないかと津田は島井に説いた。無論、竜造寺をして島津の九州統一に対抗させるためである。そして何より堺の懐は痛まない。

「竜造寺様には島津に勝たないまでも、負けないで頂きたいのですが」
「戦は生き物だからな。何が起るかは誰にもわからぬ」
「とにかく羽柴様には南進政策をとっていただかねばなりませぬ」

友閑から白湯の注がれた赤焼茶碗を受け取りながら、津田はさりげなく呟いた。普通の商人であればただの世迷言でしかないが、天王寺屋主人の言葉となれば話は異なる。事業計画は口にしても願望は語らないのが堺商人である。羽柴秀吉の政権は、織田三法師を名目上の長に、秀吉を盟主とする連合政権である。この時点(1583)において秀吉が独裁的な権力を持っていたわけではない。賎ヶ岳の戦勝後、最大勢力である羽柴家中の意見は外交政策を巡り意見が噴出していた。畿内を中心とする旧織田家の勢力圏を固めるべきだとする浅野長政・黒田官兵衛、紀伊出兵を訴える中村一氏(和泉岸和田城主)、早期の四国遠征を支持する蜂須賀正勝・前野長康・仙石秀久、中間派の小一郎秀長、羽柴秀勝(丹波亀山城主)という具合である。それはつまり、かつての室町幕府のように、松井友閑のような人物が政権の意思決定に影響力を与えることが可能な環境でもあった。何より友閑には堺からの豊富な政治資金がある。

「毛利と宇喜多の国境問題では蜂須賀正勝殿や宮部継潤殿(因幡鳥取城主。羽柴家の山陰方面軍司令官)の尽力により決着がついた。賎ヶ岳の戦勝で毛利の中でも小早川様を初めとした親羽柴勢力が力を持つだろう」
「山陽と山陰は安泰ですな。四国は」
「その前に紀伊だろう。本願寺の残党に雑賀衆、旧守護家の畠山氏-」

商人も武士もその本質は共通している。商いも戦も勝てばこそだ。勝てば全てが手に入り、負ければ全てを失う。そして堺商人は利益が得られないと判断したことには指一本ですら動かさない。堺奉行の松井友閑と天王寺屋主人の津田宗及にはそうした意味での相手への後ろめたさは全く感じていなかった。

室町幕府の伝統は形を変えながらも、ここ堺の地に確かに息づいていた。



- 天正11年(1583)7月23日 尾張 犬山城 -

中川重政は織田信長の尾張統一の時点ではすでにその名前が確認できるので、天正11年(1583)当時には50代前後であったと推測される。織田信次(信長の叔父)の孫であるとされるが、それも確かではないなど、織田一族でありながら家系図にも不明な点が多い。やはり政治的に失脚したためだろう。とはいえこの人物は六角氏滅亡後に南近江の安土(安土城築城前)を任されるなど、一時期とはいえ織田家において重要な地位を占めていた。能力重視主義の信長の目に留まったという点だけを取ってみても、並大抵の男ではなかったことはわかる。ただこの人物は身内に恵まれなかった。その本人からの手紙に、中川重政は舌を打ち鳴らした。

「四郎左衛門、今更どの面を下げて」

もとより気性の激しい男だ。重政は羽柴家家臣、外峰四郎左衛門からの書状を読み終えるや否や、一挙に破り捨てた。外峰四郎左衛門こと津田信重(盛月)は中川重政の実弟である。重政と同じく武勇に優れた男であったが、思慮に欠けるきらいがあった。安土城主時代の中川重政は長光寺城主の柴田勝家と領地が隣接しており、権利関係が複雑で紛争が耐えなかった。仲介に乗り出した信重は、何を考えたのか勝家側の代官を惨殺。規律を重視する信長は重臣間の不始末に激昂した。信重は織田家を追放され、兄である重政も改易。つまり中川重政は弟の不始末のとばっちりを受けたわけである。もし弟の一件さえなければ、中川重政は最低でも丹羽長秀クラスの重臣になっていたであろう。少なくともお飾りの尾張犬山城代に甘んじてはいなかったはずだ。

-羽柴に匿われていると聞いていたが、まさか真実だったとはな。

久しく忘れていた弟への憤懣を口にしながら、重政は知らず自分の首筋を撫でていた。本能寺の変直前、弟が偽名を使い羽柴筑前守に匿われているという噂が織田家中に流れた。重政自身、信長から諮問を受けて冷たい汗を流したことを昨日のように思い出すことが出来る。結果的に明智日向守の謀反に救われたわけだが、もし弟のことが発覚していれば、秀勝様(信長の四男)を養子に迎えていた秀吉殿はともかく、自分は追放ではすまなかっただろう。まったく、あの愚弟はいつまでこのわしを苦しめれば気が済むのか。

しかし-重政は破り捨てた書状を拾い上げた。今更このようなものを送りつけてきて、一体何のつもりなのか。今や破竹の勢いである羽柴家の家臣である弟が、信雄殿の御情けによってお飾りの犬山城代をしているに過ぎない自分に近づく意図が分からない。まあどうでもよいことだ。秀吉殿がこのわしを高く評価していたという言葉を、そのまま信じるわけにはいかない。ましてあの愚弟のいうことを-

「御城代様、少しよろしいでしょうか」

障子戸の向こうから問い掛けられたその声の調子に、重政は表情を険しくした。予感と言ってもよい。おそらくそれは自分にとって不都合な報せであるという雰囲気を感じたからだ。そして報せを聞き終えると、重政は天を仰いでいた。絶望的な報せに打ちひしがれたというよりも、突如降りかかった厄介事に思わず頭を抱えたくなったかのように。何故だ。何故自分ばかりにこのような無理難題が降りかかってくるのだ?

「さっさと死んでくれればよかったものを-」

重政は書状をぐしゃぐしゃに丸めると投げ捨てた。




[24299] 第13話「信雄は耳掃除をしてもらった」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:55991eb3
Date: 2010/12/15 11:50
織田信雄は懸案であった尾張清洲城代に、犬山城代の中川重政を抜擢した。理由は候補者3人の中で重政が一番無難だから。中川重政は織田家の最盛期である天正年間に出世レースに敗れ、他国で5年以上の逼塞を強いられた。織田家から羽柴秀吉個人への権力移行期という難しい時期だからこそ、政治的に無色な重政は貴重である。これが織田信張では反秀吉色が強すぎ、織田信包では親秀吉色が強すぎた。どちらを選んでも旧織田系大名や秀吉に、信雄が意図しない政治的メッセージを与えることになりかねない-ならば最善でなくとも中川しかないだろうというのが信雄の結論である。ブランクは周りが補えばよいとして、清洲城に滝川雄利と浅井長時を、尾張犬山城に織田信張を置くことで中川重政を補佐する体制を整えた。

「籠に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を作る人。補い合えば何とかなるものさ」

生まれながらにして駕籠に乗る立場であるはずの信雄は、重政に対してこのように助言をした。

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いそしめ!信雄くん!(信雄は耳掃除をしてもらった)

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- 天正11年(1583)8月1日 遠江 浜松城(徳川家康の居城) -

一昔前に流行ったエクササイズ・ホイールという健康器具をご存じだろうか。車輪の両側に取っ手がついたアレである。楽々腹筋が鍛えられるとか、腕や腰に負担がかからずシェイプアップがどうのこうのという謳い文句を一度は耳にしたことがあるはずだ。そのエクササイズ・ホイールによく似た道具が漢方医学に存在する。勿論腹筋を鍛える道具などではない。薬研(やくげん)と呼ぶそれは、車輪の幅に合わせてVの字型に溝が掘られた土台の上に薬材を乗せてすり潰すのに用いる。粉末状の薬材を調合することによって、薬が出来上がるというわけだ。またこの道具は火縄銃伝来以降、黒色火薬の調合にも使用されている。

徳川家康は木の薬研を愛用している。石製の薬研を使うと、薬材に石粉が混じる可能性があるというのがその理由である。石製の薬研が欠けることなどそうそうあるものではないが、万が一を考えるのが家康の薬作りの持論だ。元々家康は若い頃には、今ほど医学に関心があったわけではなく、体力作りを目的として体を鍛えるもの-馬に鉄砲に水泳に槍に刀となんでもござれの武術マニアであった。それがここ最近は、日常の食生活や生活習慣まで含めた総合的な健康管理へと趣を変えている。四十歳という体力に限界を感じる年齢に達し、信玄亡き後の武田家や当主を一度に失った織田家の今のありさまを見て、当主である自分の健康こそが、徳川家における最大の政治的資産であるという考えに至ったのであろう-宿老であり西三河衆筆頭の石川伯耆守数正は主君の心境の変化をそのように分析していた。それはいい。家康様にはまだまだ元気でいてもらわなければ困るのだ。それはいいのだ。だが-

なぜ薬作りの過程で、腐った卵のような臭いがするのだ?

「-失礼ですが殿、お手元のそれは」
「うむ。わしが新たに考案した丸薬の材料をすり潰しておる。これを加えることにより腰痛と肩こりに効果抜群・・・になるはずだ」

はずってなんだ-そう怒鳴り返したいのを数正は何とか堪えた。薬作りに興味をもたれるのはいい。だがせめて、本に記してある通りの調合をしてほしい。すでに近習の何人かは主の健康を守るために尊い犠牲を捧げたが、彼らこそ三河武士の鑑であるというのが、数正のみならず徳川家中の共通した意見である。

「伯耆守。そういえばそち最近、腰痛が-」
「上方の情勢をご報告いたします」

家康は一瞬不満げな表情を見せたが、すぐに数正の報告に聞き入り始めた。その手元では木と木が擦れ合う音が規則正しく繰り返され、執拗に何かがすり潰ぶされている。鼻が捥げそうだ。設楽小四郎(貞通)や本多佐渡守(正信)はどこへ行ったのだ?あやつら、こういう時に限って姿を見せぬ。これだから東三河の人間は信用できんのだ。

「伯耆守、まずは御苦労であった。して首尾は」
「今や上方は羽柴の天下でございます」

賎ヶ岳の戦勝により羽柴秀吉が織田政権の継承者となると、越後の上杉、中国の毛利、九州の大友・竜造寺など、全国各地の大名から慶賀の使者が訪れた。徳川もその例外ではない。だが徳川は先に述べた大名とは違い、羽柴秀吉との間に微妙な政治的問題を抱えていた。

今や三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五カ国の太守である徳川家康は、全盛期の今川義元や武田信玄に匹敵する領土を領有している。だがそのうち甲斐と信濃に関しては、明らかに徳川家による織田家の遺産横領なのである。旧武田領の甲斐と信濃は、本能寺の変直後に相次いだ一揆によって織田系領主が逃亡し、周辺諸国の草刈り場と化した。徳川だけが三国(三河・遠江・駿河)に引きこもるわけにもいかず、織田家の同盟国として安全保障上やむなく出兵した-というのが徳川の言い分であるが、これは如何にも苦しい。それはあくまで徳川の論理であり、織田の論理とは何の関係もない。徳川家が羽柴と柴田の争いに関して厳正中立を保ったのは、どちらに肩入れしても敵対陣営から甲斐・信濃の領有権について追求される危険性があったからだ。そして織田政権の事実上の後継者となった羽柴秀吉が信濃・甲斐の領有権を主張すれば、領有の正当性は明らかに秀吉陣営にある。そこで家康は清洲同盟以来,徳川家の対織田外交を取り仕切る石川伯耆守数正を慶賀の使者として、大名物の初花を土産に上洛させた。羽柴陣営の反応をうかがうためである。

「羽柴様は初花を手に取られ、大層お喜びになられました」
「あのような土くれの何が良いのか、わしにはさっぱりわからぬが、喜んでおったのならそれでよい。他には何か申しておらなんだか?」
「は、それが、その・・・」
「構わん。ありのままに申せ」
「-では申し上げます。『徳川殿の心遣いは受け取った。いずれ安土か京において再びお目にかかろう』と」
「徳川殿、か」

-あの男すでに天下人になったつもりか

それまで規則正しく音を奏でていた薬研が動きを止めた。家康も数正も既に天下の形勢は羽柴秀吉へと傾きつつあることは察している。だがそれが頭で理解出来たとしても、人間は感情の生き物。だからこそ柴田勝家や滝川一益は秀吉に従うことをよしとしなかったのだ。中央政権(織田政権)と言う強大な権力の恐ろしさを肌身で体感している徳川家の首脳部はまだよい。家中の多くは、むしろかつての敵国であった今川、武田を領土で越えたことで「羽柴何するものぞ」と鼻息が荒いぐらいだ。徳川家の外交を統括し、尚且つ対羽柴開戦の場合には西三河衆を率いて最前線で戦う数正には頭の痛い話であ-

(うぐッ)

数正は鼻の奥に酢を流し込まれたような痛みを感じた。家康様はこの臭いが平気なのか?

「中川殿と接触は出来たか?」
「-手筈通りに」

くぐもった声で数正は答えた。中川殿とは言うまでもなく織田信雄家の清洲城代中川重政を指す。中川重政の蟄居先は同盟国の徳川家であり、家康最大の挫折である三方ヶ原の戦いにも重政は客将として参陣した。織田信雄の見立て通り、中川は織田家中においては政治的に無色ではあったが、親徳川であると-少なくとも徳川家においてはそのように受け止められていた。

「あくまで時勢の挨拶程度でよい。だが、それがいずれ役に立つときが来るやもしれぬ。この意味がわかるな与七朗(数正)?」
「承知致しております」

信濃と甲斐の死守は徳川家にとっていまや至上命題である。領土が惜しいわけではない。家臣に分け与えてしまったものを今更奪われるとあっては、例え当主の命とあっても家中は納得しない。嫡子信康を処分してまで確立した家康の権威は危機に瀕し、家中が分裂すれば中央政府に容易に付け込まれる-家康はそれを恐れていた。徳川家は領土が拡大したことにより、逆に鉄の結束を誇る家中の統制が揺らぎかねない危機に直面している。北には秀吉と手を結んだ上杉、背後には同盟を結んだとはいえ、信用ならぬ北条氏。内と外に難題を抱える家康の悩みは深い。

「くれぐれも頼むぞ」

徳川家を代表できる外交官が少ないというのも家康の頭痛の種である。これまでは同盟国であり宗主国である織田家の意向を抑えておけば問題はなかった。だがここ一年余りの間に徳川家を取り巻く環境は大きく変化している。織田家が中央の実権を失いつつある中で、いつまでも数正頼みでよいものか。その数正が鼻を押えながら早足で退出すると、家康は首を捻りながらぽつりと呟いた。


「・・・臭いな」


部下に弱みを見せないのも、主君が威厳を保つ手段の一つである。



- 天正11年(1583)8月4日 美濃 曾根城 -

このクソ親父、さっさとくたばればいいのにと稲葉彦六貞通は思うことがある。残念ながら考えれば考えるほど、この老人がすんなりと死ぬイメージが思い浮かばないのだが。

「何だ彦六、何か言いたいことでもあるのか」
「いえ、何もございません」
「ふんッ、どうせさっさとわしが死ねばいいとでも考えておったのだろう」

稲葉一鉄(良通)はさっそく息子に噛み付いた。稲葉氏は美濃三人衆に数えられる西美濃の大領主である。その礎を築いたのが一鉄入道こと稲葉良通だ。13歳で初陣を飾り、土岐、斎藤、織田と領主を乗り換えながら巡った戦場は数知れず。姉川合戦では織田勢が総崩れする中で一人気を吐き、槙島城攻めでは宇治川の先陣争いで、平家物語の梶原と佐々木もかくやと思わせる働きを示した。勇猛なのは間違いない。だが貞通に言わせれば血の気が多く喧嘩っ早いだけだ。それも必要以上に。この年68歳だが、飄々とした老人らしさはまるでなく、そのくせ若い頃からの頑固さだけは年相応に磨きをかけるのだから、周囲との軋轢やいざこざは増える一方である。尻拭いに駆け回る貞通を初めとした稲葉一族の気苦労の種は尽きない。

「貴様を今日呼んだのは他でもないのだが」

まるで太い筆で塗りつぶしたかのように、一鉄の眉は太い。その眉がしきりに動いているところを見ると、大方ろくでもないことを思いついたのだろう。大体この親父は話が長い。延々と独演会を続けるのは常のことで、何か意見をしようものなら「生意気な」と拳骨が飛び、黙っていれば「話を聞いているのか」と蹴りが飛び、お説ごもっともと頷けば「貴様には自分の意見というものがないのか」と説教が始まる。どうすりゃいいんだ本当に・・・

「池田の爺が大垣城主になることは存じておるな」

自分だって爺ではないかという言葉が喉元まで出かかったが、貞通は何とか呑み込んだ。池田の爺-池田勝入斎は、織田信長の乳母兄弟であり、清洲会議にも出席した丹羽長秀と並ぶ旧織田家臣団の実力者である。荒木村重後の摂津支配を任されていたが、賎ヶ岳戦役後の論功行賞で美濃へと転封してきた。大垣には勝入斎が、岐阜城には池田元助(勝入斎の嫡子)が、池尻城には池田照政(勝入斎の次男)が入り、東美濃の森武蔵守長可(勝入斎の娘婿)と併せて、美濃はさながら「池田王国」の様相を呈している。この状況に、美濃国人衆は自分が何れは池田か森の被官に組み込まれるのではないかという危機感を持った。実際に森武蔵守は東美濃国衆と諍いを起こし、実力でこれをねじ伏せている。一鉄などは「火事場泥棒の鬼武蔵の配下になるぐらいなら滅んだほうがましだ」と公言してはばからない。

「このままでは我ら稲葉は、あの戦しか頭にない脳味噌筋肉な野蛮人の風下に立つことになりかねん。例え戦では森や池田の指揮下に入ることになったとしても、政治な独立は何としても保たねばならん。斎藤から織田へ乗り換えた時を思い出せ。当主の直参にならねば意味がない」
「そう申しますと、いかなるぉ、手段が・・・」
「この馬鹿息子が。少しはその空っぽな頭を振り絞って考えぬか」

貞通の側頭部に父の拳骨が飛んだ。かといって何か意見をすれば、その時は蹴り飛ばされていたであろうが。貞通は以前から抱いていた「この親父は単に人を殴りたいだけだ」という疑念を確信へと深めた。

「しかし父上、信長様は美濃攻略直後に本拠地を岐阜城に移され、我ら美濃衆は信長様の直轄兵力、いわば親衛隊のような位置付けでした。信長様が安土へ移られてからは、次期当主である岐阜中将様(信忠)が代わって岐阜に。羽柴様が大阪に本拠地を移されようとしている中、どのようにして繋ぎを付けるというのです」
「だから貴様の頭は空っぽだというのだ」

それはあんたがガンガン殴るからだ。貞通の恨みがましい視線など一鉄はまるで気にした様子もなく、不敵な笑みを浮かべた。単なる猪武者であれば、一鉄は当の昔に戦場の露と消えている。時勢を冷静に見極め、お家を発展。存続させてきたからこそ、誰しもがこの面倒な老人に辟易しながらも稲葉宗家の当主として仰いでいるのである。貞通の予想した通り、一鉄には稲葉の家を羽柴に高く売りつける腹案が存在した。そして息子は父親に対する苦手意識を一層深めることになる。

「我が稲葉には無駄飯を食わせるだけの余裕はない。彦六、ぬしゃ、何のためにケチなわしがあの小僧を養っていると思っていたのだ?」



- 天正11年(1583)8月25日 北伊勢 長島城 -

柔らかな肉の感触と人肌の温かさを右側頭部から首筋にかけて感じながら、織田信雄は左外耳道の心地よいくすぐったさに身を任せていた。要するに信雄は膝枕をしてもらいながら耳かきで耳掃除をしてもらっているのである。

「信雄様、あまり動かないでくださいませ」
「ごめんごめん・・・あ、そこそこ、うん、上手いよ」

突然だが信雄には側室が存在する。いきなりなんだと怒らないでほしい。あと石も投げないでほしい。最初に断っておくが、側室といっても権力に物を言わせて「うへへへ」と押し倒したわけではない。我らが信雄には人並みのスケベ心はあっても、自ら女性を押し倒す度胸も根性も甲斐性も持ち合わせてはいないので、その点はご安心頂きたい。木造具政をご記憶だろうか。北畠一族でありながら、織田家の伊勢侵攻に味方した人物である。その具政の娘が信雄側室の木造殿-今信雄の耳掃除をしている女性である。有体にいえば彼女は人質だ。娘を人身御供に差し出す徹底した姿勢を見せたからこそ、木造具政は三瀬の変(織田家による北畠一族の粛清)の凶刃から逃れ、北畠一族でありながら一定の政治的影響力を保つことに成功した。中途半端は決して許されない。

側室として信雄に仕えた彼女の名前は不明である。元々女性の名前の多くは、正室でもない限りは家系図にもただ「女」としか記されていない場合が多い。彼女も木造具政の娘としか記されていない。木造殿は、織田信雄の正室である千代御前(雪姫)が懐妊中のため、現在織田信雄家の奥向きのことを指図する立場にある。最も木造殿は、細事はともかく重要なことは全て従姉妹でもある正室の雪姫に報告し、その指示を受けていた。そのため「へっへっへ、これでやりたい放題だぜ」という自分の言葉が雪姫の耳に届いていることを信雄は知らない。知らぬが故に信雄は木造殿に膝枕&耳掃除をしてもらいながら、溶けたアイスクリームのような表情をして寛いでいるのである。廊下を踏み鳴らし近づいてくる足音の存在にも気付かずに。

「アー、そこそっ『信雄様!』ごおおおぬがああおおおおおおおお!!!」
「の、信雄様!?」
「さ、さっさった!?刺さってない?!おおおおあああ!!!」
「お話が・・・」

左耳を両手で押え、悶絶しながら畳の上を転げまわる信雄に、茶々は早速その出鼻をくじかれた。



「三吉郎殿の一件、信雄様は黙認されるのか」

津川義冬から事情を聞いた津川義近は、失望とも諦観ともつかぬ口調で呟いた。義近は織田信雄家老津川義冬の実兄であり、現在は南伊勢松ヶ島城の留守居役を務めている。長年の放浪生活と気苦労が祟ったのか43という実年齢よりも老けて見える。だが織田家の一武将として育てられた義冬とは違い、言動の端々にどこか茫洋とした育ちのよさが伴うのは、義近がまぎれもない貴種である証だ。義近は弟とは違い武芸に秀でているわけでも、武将としての才能も持ち合わせてはいないが、温和な性格で家中からの人望が篤い。そんな兄を見るにつけ、義冬は「世が世であれば名君として名を残せたであろう」という思いを消すことが出来ないでいる。

「織田三吉郎殿はいくつだ」
「たしか12歳かと」

義近は信じられぬといった表情で首を大きく横に振った。三吉郎とは織田信長の六男で、織田信雄の腹違いの弟。本能寺の変後は母方の実家である稲葉氏の庇護下にいた。池田氏からの政治的独立を図りたい稲葉一鉄は、羽柴秀吉に対して織田三吉郎少年の烏帽子親になることを依頼。そして織田家のカードを一枚でも多く確保したい秀吉は喜んで三吉郎少年の烏帽子親を引き受けた。

織田三吉郎は稲葉一族の護衛を受けて上洛。羽柴秀吉を烏帽子親に元服を果たし、その名を「織田信秀」と改めた。

「わしには到底信じられん。家のためとはいえ身内を売るとは」
「むしろ織田一族を抱え込む危険性のほうが高いと判断されたのではないでしょうか。外様である稲葉氏が織田一族を抱えたままでは、痛くもない腹を探られかねません。それならばいっその事、稲葉の政治的姿勢を示すためにも、秀吉殿にその身柄を預けたというのが本音だったのでは」
「それはそうかもしれぬ。だがいくらなんでも信秀とはあまりにも露骨ではないか」
「桃厳様(信雄の祖父。織田信秀)と同名であるという触れ込みではありますが・・・」

さすがに義冬は言葉を濁した。織田信秀という名前は、明らかに羽柴秀吉が秀の一字を、偏諱を与えたと解釈せざるをえない。偏諱とは本来、目上の人間が目下の人間に与えるもの。妾腹とはいえ織田一族の子供に対して、形の上では家臣に過ぎない羽柴秀吉が「秀」の字を与えたのだ。羽柴家の養子に迎えた羽柴秀勝(織田信長4男)の時とは違い、将来的には羽柴家が織田家の家宰に留まらず、政治的に織田家の上に立つことを宣言することに他ならない。大阪城築城と併せて考えれば、その政治的意図はより明らかである。

旧織田家系大名は、織田一族の最大実力者である織田信雄の反応を息を潜めて見守っている。信雄が反発すればすなわちそれは新たな戦の可能性を示すことになり、何も宣言しなければ、織田から羽柴への権力移譲を暗黙のうちに許容することになる。そして信雄はそれを黙認するという。自分の人生をあれだけ振り回した織田が、さしたる抵抗もなくこうもあっさりと-義近は自身が妙な感慨に囚われていることを認めざるをえなかった。

「織田信長とは、一体何だったのか」

津川義近-前名を斯波義銀。その名が示すとおり、彼は足利将軍家の支流として室町幕府の管領を輩出した斯波武衛家の当主である。かつて尾張国内において義銀以上に毛並みのよい人間はいなかったが、同時に彼ほど名と実の乖離した存在も他にはいなかった。そして尾張南部にはあの織田信長がいた。尾張統一の神輿に担がれた義銀は、信長の権力が確立すると御役御免とばかりに尾張を追放。十数年近く畿内を放浪したのち、今度は信長に部下として仕えた。その際、義銀は尾張守護代の家老であった織田家の過去を憚り、斯波氏庶流の津川氏に改姓した。義銀-義近にとっては思い出したくもない屈辱の日々だ。しかしそれも織田信長が天下人となり、応仁の乱以来、百数十年以上も乱れた日ノ本を従えるというのであれば、まだ自分を慰めることが出来た。一時期とはいえ自分は天下人を配下に従え、その前途に立ちはだかったのだと。それがどうだ?今の天下人は4歳の童であり、織田家は羽柴秀吉という、どこの馬の骨ともわからぬ男に乗っ取られようとしている。

「まるで夢を見ているようだな」

そう、全ては夢なのだ。斯波家が滅んだのも、織田信長が死んだことも、自分の十数年に及ぶ放浪生活も、全ては泡沫の夢でしかない。今でも自分は名ばかりの尾張守護として、その実はただの小領主として平穏な日々を-

「兄上?」
「-なんでもない」

急に黙り込んだ兄の様子を怪訝そうに伺う弟に対して、義近は放浪の中でいつしか習い癖となった形ばかりの笑みを返した。この役立たずを兄と呼んでくれる義冬には感謝している。だが、物心のついた時分から織田家の一武将として、駒として生きるのが当り前であった義冬には、自分の気持ちはわからないだろう。義近は首から提げられたキリスト教徒の証であるロザリオを左手で握り締めた。旧来の権威や秩序が通用しない環境の中、義近は先祖伝来の信仰を捨て、外来の宗教に救いを求めた。

義近の手の中で、ロザリオは鈍い輝きを放っている。

神は何も応えない。



織田信雄が尾張清洲から伊勢長島に政庁を移して早一月。私生活=行政の大名が政庁を移すとは、そのまま生活拠点を移すことを意味している。そのため長島には織田信雄一家だけではなく、信雄が後見役である浅井三姉妹を初めとした織田一族の女性達も移り住んでいた。ここに信雄の誤算があった。本来なら浅井三姉妹の担当は織田長益(信長の弟)なのだが、その長益は現在伊勢・伊賀両国の検地に奔走しており、三姉妹のお守りをしている余裕はない。三姉妹とは言うものの、ちゃっかり者の次女お初、気の弱い三女小督は手がかからない。だが長女の茶々が・・・。あの抜け目のない長益叔父上が、素直に検地を引き受けた時点で気が付くべきであった。

『織田が羽柴に屈服しようとしているこの一大事に、従兄上は一体何をしておられるのです』
『耳掃除。これが人にしてもらうと気持ちいいんだよ。茶々もやってあげようか?』
『結構です!』

頭の中で小人がシンバルを打ち鳴らすが如く耳鳴りがする。信雄は自分より10も年下であるはずの少女の剣幕に押されまくっていた。このままでは三半規管がおかしくなるか、胃潰瘍になるのが先かという究極の選択を強いられかねない。信雄は興奮する茶々を何とか宥め、正面に向かい合うように座らせた。


「茶々、我ら織田家は守護家の斯波氏から尾張を奪い、足利将軍を追放して中央の政治を支配した。過去をさかのぼればいくらでも先例はある。鎌倉将軍家は北条氏、関東管領上杉氏は守護代の長尾氏、古河公方は小田原北条氏に。それに茶々のお父上である浅井氏も守護家の京極氏から北近江の実権を奪ったではないか」
「それは彼らに力がなかったからです。力なき者の政治は、混乱と破壊しか生み出しませぬ」

迷いのない力強い言葉だ。それゆえ危うい。

「羽柴と戦い勝てると思うのは幻想だ。畿内、山陽、山陰に北陸まで含め十数カ国を治める秀吉殿と、三カ国では勝負にならない」
「ですかその全てが羽柴の領地と言うわけではないでしょう。羽柴も柴田も、元をたどれば織田の家臣ではないですか。丹羽殿や池田殿の助けを借りれば」
「彼らは領地移封を受け入れた。それはつまり、羽柴の天下を受け入れたということだ。茶々、君もわかっているんだろう」

茶々は唇を強くかみ締めながらうつむいた。織田の夢は終わったのだ。天下布武の理想は英雄信長と後継者信忠の死とともに潰えた。いまや織田家に天下の政治を担う実力はない。そして曲がりなりにも、天下を治める実力を有するのは羽柴秀吉ただ一人である。信忠と同腹である信雄には織田家を相続し、天下に号令する資格はあるだろう。だが実力が伴わない。

「茶々は言ったな。力なき者の政治は、混乱と破壊しかもたらさないと」
「・・・信雄様はそれでいいのですか。織田の名が消えようとしているのに」
「それはない」

茶々が顔を上げると、それまでの重苦しい空気とは打って変わり、信雄はなぜか妙に確信に満ちた表情で、右手を顔の前で「ないない」と振っていた。

「羽柴政権で織田の名が消えることは絶対にない。茶々の胸と同じぐらいないぐっぼえぁ!」
「信雄様。私は真剣にお話しているのです」
「だ、大丈夫だ茶々。安心しろ。世の中には小さなのがすっけきよ!」

顔色一つ変えず右フックから左アッパーの連続コンボを決めた茶々。世が世なら世界を狙えるだろう。青白い顔で鳩尾を押さえ、生まれたての小鹿のように震えながら信雄は「冗談だ」と必死に繰り返した。口は災いの元である。

「真面目に話すから、その手を下ろせ・・・あのな茶々、考えても見ろ。秀吉には力はあっても名はない。尾張の農民の子せがれだということは、童でも知っている。それが庶民からの秀吉の人気に繋がっているが、それが弱点でもある」

たとえ世がどれほど乱れようとも-いや、乱れれば乱れるほどに、伝統的な秩序や論理というのは政治的価値を増す。下克上を飾り立てる論理を0から構築するのと、既存のものを利用するのでは、圧倒的に後者のほうが労力を必要としないからだ。織田信長は斯波義銀を利用して尾張を統一し、足利義昭を擁立して中央政権を確立した。無論、既存の論理にはしがらみも伴う。既存の論理と実力者が対立した場合にどうするか。

簡単である。もっと古い論理を引っ張り出せばよいのだ。足利義昭と対立した織田信長は、織田氏=平氏を称した。平治の乱で平清盛が源氏を追放した先例に倣い、信長は自らを清盛にたとえることで、義昭追放を正当化したのである。本当に織田氏が平氏であったかどうかは問題ではなく、信長が平氏を自称し、禁裏をはじめとした社会全体がそれを認めたことが重要なのだ。ところが秀吉にはこれが出来ない。武家として2百年近い歴史を持ち、かなり胡散臭いが、曲がりなりにも平氏を名乗れた織田家とは違い、秀吉が農民であったことは周知の事実。源氏や平氏を名乗るのはいくらなんでも無理がある。

「今、秀吉殿の政権の正当性は二つだ。織田三法師殿の後見役として織田家を采配することと、朝廷の官位。武家政権として秀吉殿が独自の論理を確立するのは容易ではない。ただでさえご自身の正当性に苦慮しておられる羽柴殿にとって、織田家は貴重な政治的手札だ」

茶々はじっと従兄の顔を見据えた。ただそれだけなのに、信雄は手のひらにじんわりと汗をかいていた。

「斯波武衛(義銀)殿は名前だけではなく姓まで変えられた。それに比べれば織田家は遥かに恵まれている。かつての天下人である織田家の人間が秀吉の周囲にいれば、それは秀吉の政権の正当性を強化することになるからな」
「織田は羽柴の化粧道具として命を永らえると申されますか」
「・・・言葉は悪いが、そういうことだ」

茶々は再び俯き、沈黙が部屋を支配した。遠くで蜩の鳴き声が聞こえる。木造殿が気を利かせて人払いをしたのか、部屋に近づくものはいない。信雄が障子を開けると、温んだ空気が部屋の中に流れ込んできた。

「もうすぐ夏が終わるな」

やがて訪れる秋の後には、長く厳しい冬が待ち構えている。後ろ盾のない浅井三姉妹にとって、羽柴の世は決して過ごしやすいものではないだろう。武家の女に生まれた宿命は、三人とも既に覚悟しているはずだ。信雄は茶々が秀吉の側室になる歴史を知っている。だが、今ここにいるのはただの少女だ。織田信長の姪でも、浅井長政の娘でも、ましてや秀吉の側室でもない。妹達を必死に守ろうと必死に虚勢を張るただの少女だ。

「信雄様は-」

立ち上がり、庭を見つめていた信雄に茶々の表情をうかがうことは出来ない。

「なぜ私達を引き取ったのです。秀吉に差し出せば、さぞや喜ばれたでしょう」
「・・・何となくだよ」
「何となく、ですか」

そう、何となくだ。信孝の家族を助けたことも、北畠を再考させたことも、織田に改姓したことも。信雄には明確な理由があったわけではない。政治的な思惑や同情があったことも事実だが、それは決定的なものではなかった。故岡田長門守は信雄の振る舞いを「度の過ぎた道楽」と例えた。確かに茶や連歌が好きな人間に「何故それを楽しめるのか」という問いをすること自体が愚問である。好きなものは好きなのであり、そう振舞いたいからそう振舞ったのだ。


「それに茶々、君たち三人がいなければ、この長島はどうなる?」
「どうなると言われますと」
「股に蜘蛛の巣が張ったような意地の悪いオバハンしかいなくなるではないか。大方殿様(信長の生母。土田御前)だろ、安土殿(信長正室。斎藤道三の娘)に、出戻りの五徳(信雄の姉。松平信康正室)・・・」

指折り名前を挙げながら、信雄は心底うんざりとした表情になった。

「平均年齢が楽に50を越えるんだぞ?着物だの何だので金ばかり使うくせに、そのことが平然みたいにしてやがるし。こっちは金欠で四苦八苦なのに好き勝手使いやがって・・・いや、茶々みたいに若くて美人なら喜んで出すさ。でもな、後は墓に入るだけのオバハンの世話なんか、誰が好き好んで」

口にすればするほど、信雄は一族の女性への不満が次から次へと浮かんできた。何より人の陰口は最高のストレス発散なのだ。それゆえ信雄は、自分の背後にいつの間にか件の三人がにこやかな笑みを浮かべて座っていることや、茶々が尋常ではなく怯えていることに、まったく気がつくことはなかった。

「大体、オバハンのくせに紅だの着物だの色気づいてどうするつもりなんだ。身を飾る前に顔のしわを伸ばす体操でもしてろよな。茶々もそう思わな-」


伊勢長島の地に、信雄の悲鳴が響いた。




[24299] 没ネタ
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/12/04 14:15
(没ネタ)

文字通りの没ネタです。たぶん二度と日の目を浴びることはないと思うけど、それはそれで寂しいので。



・鉄道屋(鋼の錬金術師もの)

アメストリア鉄道院総裁の物語(転生なし)鉄道一筋で生きてきた老人の独白と回顧。

東部の田舎に生れた少年にとって、鉄道は憧れのセントラルと自分をつなぐ唯一の存在であった。長じて国営鉄道に入った彼は、鉄道でこの国を一つにしようと考える。鉄道ダイヤ改正や敷設事業で成果を残し、イシュヴァール騒乱の直前に鉄道院総裁に上り詰めた。自分の引いたダイヤに従い、兵士たちをピストン輸送で戦場に送りながら、彼はさまざまな物語を目にし、苦悩する。

約束の日の真相について彼は何も知らない。しかし彼は知友のグラマン中将からいくつかの頼みを受け、それを実行に移した。そして約束の日-すべてが終わるのを見届けると、彼は鉄道院総裁を退く。民営化された鉄道は平和と復興の象徴としてアメストリアを走り始めた。彼は出身地である東部の片田舎の駅長として、好きな鉄道を眺めながら余生を過ごすことを決意する。駅舎のホームで別れのあいさつを交わす男女を微笑ましげに一瞥すると、出発を知らせる笛を鳴らした。

「出発進行」

(短編で書こうとしたが、鉄道について詳しくないので挫折)

・俺の息子がこんな近衛文麿なわけがない

一貫性のない発言と時勢にこびる強硬姿勢、そしていざというときの無責任体質により日中戦争を拡大させた最大の責任者である近衛文麿。その父親である近衛篤麿に転生。新しい物好きな息子に頭を悩ませながら、大隈重信と立憲改進党の主導権を巡って陰険な争いを続ける。目指すは日英同盟の維持と長生き、ついでにバカ息子をまともに育て上げること。せっかくイギリスに留学させたのに、案の定社会主義に染まったバカ息子への愚痴を西園寺公望に愚痴る日々。

(最終的なプロットが想像できず、近代史を調べなおさなければいけないのでお蔵入り)

・日本国内閣総理大臣の憂鬱(EVAもの)

セカンドインパクト直後の長野県知事に転生。首都移転や災害復興など山積する難題に立ち向かっていると、いつのまにか保守党の総裁に祭り上げられて首相に。ゼーレの圧力にネルフのごり押し、戦略自衛隊の暴走に頭を悩ませながら、サードインパクト回避を目指す。

(ほとんどオリジナルキャラばかりになり、原作との接点が希薄。おまけにEVAのうっとうしい精神世界の問題を調べなおす必要があることを考えると、うんざりして挫折)


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