女子ソフトボール部の創部記念会兼、第一回ミーティングは午後六時前に終了した。
この時間、部長の滝川から重大発表がされたが、その詳細は翌日木曜に自然と記することになるだろう。
「この中でソフトの道具を持ってない人」
部活が誕生したら、次にやるのは道具の確認と調達だ。校舎を出て敷地入り口の階段方面へ歩きながら滝川が質問した。本当は教室で切り出す話だったが時間が押して、ここまで持って来てしまった。
キャッチャーの滝川とピッチャーの美咲は道具を完備しているので、主に必要なのはバットと野手用のグラブ。最低グラブは一人一つ必須だが、聞いたところ、どちらも所持していないのは瑛梨花とグロリアーナだけだった。
「進藤も持ってんの?」
スポーツウーマンの美名子はともかく、いさなまでグラブはおろか、自前のバットを所持していたとは泉としては意外だった。
「持ってますけど。悪い?」
「別に」
いさなの家は金持ちだから、ソフトボールに限らず、運動用品を一通り揃えていたとしても騒ぐほどではない。が、発言ごとに一々、自分を見下ろしてくる威圧的な眼光がうざったらしくて顔を逸らした。
(それに持ってるったって、普通の野手用グラブだろ)
いさなは自分たちと比べたら断然、大きく足が速く、腕力もあるし肩だって強いのだろう。では速水の様に外野を任せるか? 違う、いさなはファーストだ。
泉は、既にいさなの一塁手起用を想定していた。
「では進藤さんと鈴野さんは、ファースト、キャッチャー用のミットを持っていますか?」
その時、美咲が会話に割って入った。意表を突かれた泉は何も言わなかったが、同時にこの発言こそが天才・白沢の証なんだろうと納得もしていた。まさに自分が考えていた通りの質問だ。
二人は首を横に振った。流石に本職捕手か、一塁手でなければミットは持っていまい。
そう、一塁手だけは試合で捕手と同じミットが使用できる。そして、金に糸目をつけない泉でも、どちらのポジションとも一生縁がないだろうという前提から予備を持っていない。
「私の予備のやつ貸すよ」
ここは本職・捕手の滝川の出番だ、と思うが速いか滝川が笑顔で口を開いた。
いさなは滝川には何も応えずに一瞥すると、ブレザーの内ポケットからペラペラの黒皮の財布を取り出しながらグロリアーナの前にやって来て、二枚カードを手渡した。
「滝川さんのではサイズが合わないかもしれません。グロリアーナさん」
「what is it?」
「あなたたちは、これから道具を買いに店に寄るんでしょう?」
「ハイ」
「ついでに、私のミットも探しておいてくれませんか。ああ、そちらの、みなこさんのもね。良さそうなのがあれば幾つでも好きに買ってください」
「ハイ」
当然かもしれないがグロリアーナは英語で応える癖が抜けていないので、時折本場のイギリス英語で喋る。途中で気がついて日本語で返事した。短文なら問題ないが、やはり日本人の全般的にアメリカ英語の方が慣れているので、これが長くなると聞き取りにくそうだ。
(へえ……)
泉としては少しの驚きもあって、それは表に出さないよう平然とした顔を務めながら二人を見比べた。
最初にファーストフード店で会った時の印象で、留学に来た金髪外国人(お客様)に対し黒髪日本人が丁寧にもてなす関係──端的に云うなら、グロリアーナの面倒と世話を見る、進藤の方が格下だと勝手に思い込んでいた。が、今のやり取りでは、逆に進藤がこの外国人をあごで使っているみたいではないか。
何てことはない。泉が知る、他者に接する進藤いさなは、昔からこういう女だった。
「シンドウ。ジブンモ用件、アリマス」
グロリアーナは金銀のカードを受け取ると、それらを内ポケットに閉まった。まるで自分の所有物のように自然に取り扱っている。泉の視線はこの二人だけに注がれていたが、何だかもやもやした気分であった。
この二人はなにやら変だ。いさなの目付きが悪いのは元からだし、恐らく外国人の方も氷の瞳を持っている──双方とも目も声も笑ってなく、高校生らしからぬ風格が備わっている。この二人が迫力ありすぎて、校内では明るく楽しい藍原あやめさんが空気になっているではないか。
今、記念すべき高校での初・部活帰りなんだぞ。泉自身、自分以外の足《リムジン》を使うことが多いので説得力ない言い分だが、女子高生一同、十人談笑しながら帰宅するなんて雰囲気はこれっぽちも感じないな。
「何かしら。何でもどうぞ」
「リムジンヲオ呼ビナサイ。今スグニ」
……居心地悪いしつまらないから、自慢の足《リムジン》でも呼んで帰るか。
そう感じていた泉は、先刻の白沢美咲の横槍とは別の意味で不意を突かれて息を呑んだ。
(やっぱり、外国人は何考えてるかわからねえな)
いやいや、合理的ではないか。この後、徒歩や電車でスポーツ用品店に行くよりも、車を使った方が時間が掛からない。ただ見方によっては、進藤がグロリアーナに指図したと思ったら、即座に反撃されたようにも捉えられる。この二人は同格だ。
いさなも話の意図は直ぐに読んだらしく、特に反論もせずに携帯を取り出して連絡した。
間も無くして泉家と同じ、黒のリムジンがやって来た。恐らくこの時間帯を見計らって予め学校付近の駐車場にでも待機させていたに違いないから、すぐに駆けつけたのだろう。
「ナンデスカ? カレ」
最後に耳にしたのは、向こう階段降りた先で、高く響くグロリアーナの問い掛けだった。忘れていたが、あの外国人は見かけ(風格)によらず可愛い声を出す。
この問いは泉の知るところではない。予想は付くが、実際は今日これ以上、頭を使うのに疲れた。早く帰ってシャワー浴びて寝てーとしか考えられないが、確かに突然現れたものだからビックリしたよ、白崎藍璃。
今からスポーツ店に寄るのは、グロリアーナと瑛梨花の全く道具を持っていない初心者組。この美人の相手を、美人の美咲がしてくれるならいっそそれで良かった。だが実際二人の案内係を任せれたのは部活を終えた白崎だった。美咲が携帯メールで彼を呼んだ。
何故? 彼女らが向かう品揃えの良い店の店長と、白崎が知り合いだという。美咲もそうらしいが、彼女は彼女で別の用があるのでもう既に帰路に着いた。
桑嶋しずくと速水光と藍原あやめは、リムジンが到着するよりもずっと先に学校を後にした。
いさな、美名子、滝川、泉の四人だけがまだ校舎付近に残っている。顧問はまだ学校に残っているのか。
「どっちが早いか賭ける?」とやや重たい瞼を持ち上げながら泉が口を切った。
「ふん。何をおっしゃるの。そっちのフライングでしょう」
ご存知の通り、進藤家のリムジンはグロリアーナたちの出迎えに使ってしまっている。 泉は駅まで歩くのも面倒なので、帰りの車を呼んだ。一緒に滝川も乗せて行く。
ここで、いさなという女は家の二台目リムジンを至急呼び寄せたのだ。この場に美名子が残っているので予想できないことではなかったが、同時間帯にこの学校近辺で三台のリムジンが横行しているのか、中々迷惑そうだな。
そして当然の如く、泉家のリムジンが先にやって来た。流石、28歳佐藤だ。同じ黒いリムジンでも中身《うんてんしゅ》の質は全然違うんだよ。
泉はいさなを一瞥、軽く鼻で笑うと、真っ直ぐ階段を降りていった。いさなの奴は唇を一文字に結んで、今日初めて悔しそうな顔でこちらを一瞬睨み付けた。
(いや、なんで悔しいんだよ。私のフライングじゃん)
だが、悪い気はしないのでわざとらしく笑い続ける。階段途中でもう一度振り向くと、後ろに続く滝川が美名子をじろじろ眺め、大きな彼女がばつ悪そうに両肩を寄せて身を縮こまらせていた。
(あんまり威嚇して、鈴野に抜けられると不味いんだよな)
いさなの方は大丈夫だしどうでもいいが、美名子は貴重な部員なので心配だ。泉は滝川の肩を掴んで、さっさとその場を後にした。
──泉が後で聞いた話だと、美名子という女は、大きい体を出来るだけ小さく見せる練習で普段から試行錯誤していただけであった。顧問の女教師を始め、食えない人間ばかりだ、この女子ソフトボール部。
2
リムジンに乗せてくれるのはあり難いのだが、それが助手席だったので藍璃は徐々にがっかりし始めていた。後部座席には赤羽根と外国人の女子が居るが、仕切りの向こう側で(完全防音か分からない)二人の会話は聞こえない。
「小松さん」
「運転中なので、以後話しかけないでください」
進藤家のお抱え女性運転手、小松27歳に訊ねようとしたが、即座に冷徹に却下されて藍璃は黙り込んだ。
自分も客人のはず。空いている後部席、希望としては女の子二人の間に入れて欲しかったのだが、それをさせて貰えなかった。
「進藤家の風習で、このリムジンには原則、未成年の男性と女性を一緒の席に上げることはできません」
最初、運転席から降りてきた小松27歳の謎の発言によって、藍璃と二人の女子は切り裂かれた。
美咲がいさなに確認を取ったところ、まあ本当のことらしく、藍璃もしぶしぶ承諾せざるを得なくなった。男は一人だけなので、邪魔者の藍璃が前部座席に追い遣られる。
(つまんないなあ)
当然、運転の妨げになるので運転手と話すことも認められず、乗車時間40分前後も黙っていなければならない。こういう日に限って愛用書(野球やマルチーズの本)を持って来てないので、仕方なしに鞄の中から英語の教科書を取り出した。英語は一番得意な科目だ。
現在、学校から西に西に移動して東京八王子にある白土《しらと》スポーツ店に向かっていた。
女子ソフトボール部が正式に発足し、続いて道具を要するようになった。後ろの二人だけが初心者で用具を何も持っていないようだが、白土に行けば一先ず大丈夫だろう。本店は東京のスポーツ用品店ではトップクラスの大型店で、野球が中心だが、他球技関連用品や剣道用具を始め何でも大量に揃っている。
白土は両親に紹介された藍璃、日和が昔から世話になって来た店だ(ただし日和は後期は剣道用具専門店に通うようになった)。十年前から品揃えは一流だし、今見ると値段だって安い。
ただ当時は今のように店の規模が大きくなかったからお得意様の藍璃たちは、白土店長(現オーナー)とすぐに顔見知りになった。
白崎と白土で『白』同士一緒だね、なんてよくある話もした(読み方は『しろ』と『しら』で違うが)。
店長夫婦には子どもが二人居るがどちらも女の子で、彼女らにもスポーツをさせているが、男の子を作って野球やサッカーを習わせて甲子園、国立に行かせるのが夢だったらしい──その夢を見出したのか、幼少期の藍璃を実の子どものように可愛がってくれた……という関係がある。
何れにしろスポーツ用品を買うならこの店が良い。現実に少しの用事で八王子まで通うのは大変だと思うので、今後は近場の支店を訪ねれば良い。だが最初、一から道具を買い揃えるときは、品揃えが特に充実している本店でこそ自分好みの道具が見つけられるのではないか。
という算段で美咲も大手、白土スポーツの名を挙げて、さらに白土と店内をよく知る藍璃を案内役として呼んだのだ。
席に深く身を沈めた藍璃は、いつの間にか両目を伏せていた。暗い車内で本を読むなんて馬鹿げている。
勉強も出来ない。元々、文虹や夢乃や美咲に優しく見て貰わないと、イマイチ勉強のやる気が起きなかった。しかし一度、親身に教えて貰えれば爆発的な集中力を生み出して、自分の学力より上のレベルの翔桜にも合格してしまう、そんな男でもある。
恐らく藍璃は家庭教師(別に男性でも良い)が付くと上達するタイプだ。でもそんなお金と時間の余裕はないので提案しようとも思わない。
──それに、どうせ美咲さんには敵わないに決まっている。
半分眠りながら、うとうと美咲のことを考えていた。次いで、その美咲に何か質問があったのではないかと思い出して、即座に両目と折りたたみ式の携帯電話を開いた。
メールを打とうとしたが肝心の内容が出てこない。そもそも先ほど直接、美咲と顔を合わしている時も忘れていたのだから、すぐに思い出せるか甚だ怪しい。改めてじっくり考え直して、もう一度、家で美咲に質問しようと決めた。
「そうだ、お金だ」
「お金ですか」
藍璃が独りごちると、寡黙の運転手27歳小松も、その問題を念頭に入れていたのか反応した。
美咲への質問の件とは直接関係ないが、携帯メールを起動することで連想できた。
ソフトボールの用具を買うといっても、瑛梨花やあの金髪の子はお金を持っているのだろうか。最低グラブは必須だし、3号ソフトボール用のバットも加えるなら数万円の出費になる。さらにシューズ等まで揃えるなら……。
一先ず、藍璃は瑛梨花に買い物の件で質問メールを送った。昨日アドレス交換しておいたのが早速、役に立った。
件名:赤羽根さんへ@白崎
本文:今、道具買うためのお金持ってる? カードとかでもいいんだけど。
すると彼女もお金の話で、メールの連絡を構えていたのかすぐに返信がきた。
件名:Re:赤羽根さんへ@白崎
本文:高校生なのでクレジットカードは持ってないのですが、デビットカードならあります。今から行く店は使えますか? 10万円ぐらいあれば足りるでしょうか?
(10万円か……)
結構丁寧な文章だなと一瞬感心し、同時に前半部(クレジットカードの説明)は必要ない、添削するならここだなと一考した。
〈件名:足りる。本文:使えたはず。ちょっとメール送ってみるよ〉
〈分かりました。お願いします〉
白土でカードが使えないなら、一体どの店で使えるんだという単純な思い込みがある。
既に時刻は午後六時半を当に回り、部活終了時間を超えている。そう見込んで藍璃は白土の妹の方──横浜の私立中桐学園中等部に通う白土結衣《シラトユイ》に、店でデビットカードが使えるかというメールを送信した。
件名:使える
本文:
すぐに返信が来た。本文が空白なのは彼女にはよく見られる光景だ(わざわざ件名を消してそこに書いてくる)。あくまで部活終了時間を過ぎただけで、本当に終わっているとも限らないのだから返答してくれただけでもありがたい。
中桐は文武両道で知られる中高一貫校で、高等部の多数の運動系部活が全国大会出場や優勝経験など華々しい経歴を持つ。プロ野球選手も輩出している。
その中で中学三年生の結衣は剣道部のエース。瀬谷真一朗が云う、才能ある人間がエリート校で励むことで誕生する『超天才』に分類できる女子だ。
実際に昨年、二年生ながら全国中学校剣道大会個人戦に神奈川県代表で出場した程の腕前なのだから、自分を凌駕する才能の持ち主だと思っている。
全国大会に出場するのは初めて、と彼女が嬉しそうに語っていたのを昨日のように思い出す。同じ八月中旬に、中三の藍璃も全日本少年軟式野球大会に出場するのだ。お互いに頑張ろうと激励し、特に目標は設定してないが、指きりげんまんをした(二人に特別な関係はなく、部活をする者だけが共有するような友情に結ばれている)。
その誓いの通り結衣は奮闘して、大会一日目最後の4回戦まで駒を進めた。そしてそこで熊本代表の川島と戦って、一本も取れずに四十秒で負けた。その川島は決勝まで行き、同熊本代表の白崎に一本も取れずに一分弱、20秒程度で完敗した(とはいえ対白崎で川島が一番粘った)。奇しくも藍璃が大会準決勝で敗退した日と重なる。
この敗戦以来、結衣は藍璃とは顔を会わせなくなった。今でも先刻のようにメールのやり取りだけはするが……。
(剣道、続けてればそれでいい)
来年は三年生だから、一学年上の熊本・川島にリベンジする機会は当分ないが、同学年の白崎となら全国に行けばまた戦える可能性がある。いや、そうでなくても神奈川にもライバルは多いし、最近では東京に、浅川と云う新たな目標を見つけた。彼女は本当に自分より強い。
あの後一度だけ、こんな悠々としたメールが返って来た。結衣は一言二言、本文空白なんてのはしょっちゅうなのに、自分の気分が乗っている時だけ一方的に長文を書き連ねてくる女である。ともあれ、あの惨敗にもめげず彼女が燃えているようなので、藍璃としてはもう何でも良かった。
それとは別にここで名前が挙げられた、浅川という女子、思い当たりがあるし東京の中学生・強豪剣道部員に特定するならまず間違いなく本人だ。直接面識はないが小学生の頃から知っている。
(浅川……さん、か。みんな突然上手くなれるわけないんだ。昔から剣道やって来て有名人で、小学生の頃、何度も日和と戦って……)
二年間ずっと、最後に小6で日和と試合した時には十秒程度で負けた女だ。彼女が東京では日和に次ぐ二番手集団の一人だと云われていたのに瞬殺された。そして全国で優勝した後、「熊本に行きます」なんて日和が突然言い出したのだ。
人は練習し続ければ誰でも上手くなれると彼女は言ったが、裏返せば東京で練習してもこれ以上、上手くなれませんと言ってるように聞こえて、藍璃は愕然としていた。あの前後から、日和の活発な性格も鳴りを潜めて冷静になり始めていた。食事の時、死んだ魚のような目付きで、魚を突いていてそれはもう心配した。
東京の女は全員倒したから先も見えてるからもういいや、と言わんばかりに。
藍璃たちはその時は喜んで、日和を熊本に送り出した。これは過剰妄想だが、熊本に行かなければ日和はやがて剣道なんか飽きた、もう止めると言い出すんじゃないかと恐れを抱いていた。
すると美咲からそれは違うと諭された。どんな理由を挟もうが、日和が剣道を止めることはありえない。
「日和さんは単に剣道が大好きで、一日中、剣のことしか考えてないんです」
野球が好きで、一日中、野球のことだけ考えていて、より高いレベルの強豪校に進学する目標を持ちそこで野球に励む。プロ野球選手になれるのは多かれ少なかれそういう人種だろう。
お受験学校に進学した藍璃と美咲。二人の元チームメイトで名門校に野球をしに行った大澄と神月。ここに『天才』と『超天才』の絶対的な壁が生まれる。
一度も止めず、空白無く、ずっと上を歩み続けるからこそ、剣士の中の剣士で、野球人の中の野球人になれる。運命の輪から外れた選手は、その瞬間からどんなに上手く才能があろうと『超天才』ではない。
美咲と藍璃は一緒だけれど、日和と大澄と神月とは最終的には違う。
これは無自覚だが、時折、彼女らを意識して無性に悲しくなって薄っすら涙を流しながら眠りこけることがあった。
藍璃は白土スポーツ店に到着するまで刹那、眠ってしまった。小松たちに起こされた時には、両頬に渇いた涙の筋が出来ていた。
短時間の仮眠なのにすっかり頭が冴えている。起きて最初に気がついたのは、瑛梨花にカードは使えるという趣旨のメールを送り忘れていたことだ。謝った。
一回眠ると何事もなかったかのように、すっかり元気になるのが藍璃という男である。
3
「これは。藍璃坊ちゃん!」
白土スポーツ店の一階中央入り口から中へ、最初の細長いカウンターを通り過ぎて野球用品コーナーにやって来た時、スーツ姿の男性が斜め前方から足早に寄って来た。
「おじさん」
「これはお久しぶりです」
彫り深く鼻が高い、目の澄んだ四十代後半の長身の中年だ。この歳で白髪がほとんどなく染めてもかつらを被ってもいない、ふっさりとしていた。背丈は藍璃と同じ180cm程ある。また筋肉質で胸板が厚く、腕や足も太い。
彼は従業員なので例の白土オーナーではない。十年前からこの店で働いている畠山という現場主任だ。畠山は前述のような図体の持ち主なので、小さい藍璃はかねがねこの男性を格好良いなーと尊敬していた。大きくて凄く強そうだ、と。
いや、畠山は現実的に強いだろう。勿論この職業で腕試しする機会なんてないが、畠山と客が口論になっているところを十年間一度も見たことが無い。もう五十歳近いというのに、今でも見た目からして自分より強いんじゃないのかと思っている。
小さい頃にそう褒めると「いえいえ、御父上様には敵いませぬ。坊ちゃんもいずれすぐに私を超すでしょう」と謙遜された。
確かに父は畠山より一回り大きかった。背中も広く逞しく、一緒にお風呂に入れてもらって背もたれになって、例えるならドラゴンのように雄雄しいのだ。子どもの藍璃はマルチーズだ。目をキラキラ輝かせて、ドラゴンを見上げる。風呂場でウィル(残念ながらペットショップ等の言いつけもあって人と同じ湯船には入れてない、別々だ)が見上げてくれないのはきっと藍璃がまだドラゴンではないからだろう。
とにかく竜の父親を誇りに思い、同時に長男の自分がこんなに小さくてどうするんだろう、弟、妹の方が自分より大きいではないか……と不安になったものだ。
……話は脱線したが、藍璃と畠山の付き合いは十年以上と長い。彼だけでなく、この十年で本店の従業員大半と顔見知りである。最近では、二ヶ月前の高校合格記念の際に報告がてらに顔を出しているし、一ヶ月程前には単純に店に寄っていた。
「やだな。一ヶ月前も、二ヶ月前も来てるのに」
「どちらも、わたくしめは居合わせなかったのですよ……」
「そっか。今日はね」
「今日は白沢お嬢さんが見えませんね」
「うん。今日は、彼女たちのソフトボールの道具を買いに来たんだ」
「ほう」
藍璃たちは、続いて入店してきた二人の女子を見遣って左手で指し示した。
三人の高校生は鞄を車の中に置いて来たので手ぶらで、最後尾の小柄な黒髪少女は両手を腹の前で組んで、店内を見渡している。比べると金髪の少女は、顔を上げてその切れ長の瞳を真っ直ぐに、腕を振るように足取り強く歩いてきた。
「あちらの、ホワイトの方は……」
「いや、あの子は、実は僕も今日初めて会ったから、ほとんど分からない」
畠山に小声で訊ねられて首を振る。
外国人=白人=ホワイトという発想なのだろうか。確かに改めて見直すと髪の毛も眉毛も金色で、目が青色で、肌も日本人と比べると少し白い。
藍璃はなまじインターネットや漫画やゲーム、映画と縁がないから、現実の日本人の世界観に慣れすぎて日本人以外の人間を目にするのが珍しかった。大きな街や駅で遭遇したとしても、それは遠目で見るだけでこうしてきちんと相対した経験がない。
「ワタクシノ名ハ、グロリアーナ・アンジェリカ・メアリー……グレンヴィル……グレートブリテンから来マシタ」
彼女を一点に見つめていると、長い前髪を左手で掻き分けその手で髪を掴みながら藍璃たちを抜き去り、三メートル向こうまで行って振り返った。彼女はどちらかと云えば笑っていたが、それは不敵と表現する類の笑みだった。
「母国デハ一般的ニ複数、ミドルネームヲツケマス。コチラデハ省略スルコトモアリマスケドネ」
「日本語上手なんだね。文法の使い方、特に助詞が巧い」
「当然デス。今回モ、日本ニ来ル、何ヶ月モ前カラ復習シテマシタカラネ」
彼女の口から発せられた流暢な日本語を褒める。発言通り平然と言いのけるグロリアーナに対し、当の藍璃も驚く素振りの欠片も見せない。
藍璃は自分が仮に海外旅行や留学をした暁には、日常から英語で話すことに決めていた。だから、外国人の彼女が日本語を話せてもおかしくないと思っている。逆に喋れないなら手取り足取り親身に教えるつもりだったが、流石に翔桜に来る人間なだけあって習得済みだった。心の何処かで、舌打ちした。
「僕は白崎、藍璃。よろしく」
姓と名を区切り、それぞれ強調して言いながら右手を差し出した。グロリアーナはその右手を、目を細めて一瞥すると、
「ヨロシク。デハ早速、シロサキ。貴方ガ、今回ノガイド、アンド、アドバイザー、ナンデショウ。ドノ道具ガ、ワタクシニフィットカ、オシエナサイ」と触れようともせずに、軽く笑っているだけだった。
(なんか……この子、偉そうだなぁ)
外国人である以上、日本語の喋り方や内容は何ら気にならない。スポーツマンなら誰でもある程度致し方ない汚れた、豆だらけの藍璃の右手を、顎を少し上げてまるで汚いものを見下ろすような態度そのものに刺々しさを感じるのだ。
昔から多くの年上、年下の男女に囲まれて来た藍璃だが、こういう素気無い女性が自分の周りにいたかというと中々思い浮かばない。夢乃も理乃も口調はいまいち悪いが、その実親切だし、他は言うに及ばない。
(まあどうせ、日和には敵わないよ)
一人だけ、過去に言葉でも力でも自分に全く遠慮のない最強の女がいた。
藍璃は彼女を思い出して、次いでグロリアーナの瞳から目を逸らさずに、握手を求める右手も引かなかった──が、応対がなく手は宙ぶらりんなのも相変わらず。口では上手く言い表せないが、グロリアーナを見ているとなんだか面白くなってきた。
「赤羽根さん」
しかし、今は何より大事な用事が迫っている。振り返って出遅れていた瑛梨花を手招きする。言われると彼女はすぐに左後方にやって来て──ここら辺があの外国人との違いだとうんうん満足げに頷き──再度、振り向くとグロリアーナを見下ろした。
「白崎くん、あの」
「え」
珍しく、瑛梨花の方から声を掛けてきた。このために早足になっていたのかもしれない。
「男性から女性に握手求めるのはビジネス・マナー違反なんですよ、特にイギリスでは」
「へええ……」
と納得したように頷く素振りを見せるが、藍璃は本心では理解していない。
ここは日本で、高校生になったばかりの自分には無縁の世界の話だ。もちろん過去に注意された経験もない。赤羽根さんは物知りなんだね、と彼女を一瞥する程度にしか思わない。一応、白崎の家訓には『女性を優先し、いざとなれば守らなければならない』『男性を優先し、いざとなれば守らなければならない』という、主語を変えただけで同じ意味の、他人が見ると矛盾しないか? と突っ込まれそうな二文が存在する。が、全く矛盾しない。
「イングランドニ外カラ来タ人間。ロウアークラスハ知リマセンヨ」とグロリアーナがもう一度、髪をかきあげて不敵に笑った。長髪を強調されると、ソフトボールをやるにはやっぱりどうしても邪魔になりそうだと藍璃は不安になって、左目を下げて赤羽根の方を見据えた。
「それは、僕が悪かったよ。でも、ここイギリスじゃなくて日本だから、今の握手は仕方ないとしても、これから君も日本で暮らして、日本とイギリスの違いを一杯知るだろう。でもそれら、日本のルールや文化を受け入れてチームでは仲良く、して欲しいんだけどね」
「イエス。シロサキ。シロサキノ言葉トテモトテモ、フィフティ・パーセント、正シイ。バット、ルールハ限度アリマス。日本ノ貴族ハ、海外デソノ国ノ土ヲ飲ミマスカ?」
藍璃は二重の意味で頭を振った。50パーセントしか正しくないなら「トテモ正しい」という日本語の表現は変である。しかし同時に、日本では明治時代、とてもという言葉は否定的な文章に付けるのが正しい、程度副詞であったのを思い出した。これが疑問に感じたことの一つ。
「いや、今の日本には貴族制度はないんだ」
「オー……ソウダッタデスカー。ワタクシ、マダマダ日本ノ勉強タリマセン」
「でも大丈夫。勉強不足は誰にでもあることだから。何なら日本の文化について、僕が教えてあげようか」
そう言うとグロリアーナは顎に手を乗せて少し前屈みになって「フフフ」と笑った。不意な反応に驚いた藍璃は訊ねるかのように瑛梨花を見て、彼女も分からないと首を振るので結局何がおかしいのだろう、と呆気に取られていた。
そして周囲を見渡して十数メートル向こうの他の客を一睨みする。店内に入ったほとんど最初から遠目にグロリアーナたちを視察する人間が居た。今の笑いはさらに注目を集める引き金になってしまったし、やはり金髪外国人の方が目立つのか、向けられている視線の大半が彼女へのもので好奇心が伺える。時折その中に混じって、瑛梨花(の胸)を見る男性視線もあった。何故か許せない。比率はおよそ男8か9で女が1か2だ。
グロリアーナは左手を右肘に添えて右手を顎に当てて、これだけ視線を集めていても一行に気にする様子はなく威風堂々、微笑んでいた。そして、
「If you often work for me, I will give knight's title」
「え……(ウィル?)」
突然、イギリス英語で話されたので戸惑って言葉を返せなかった。
それが未来を表す助動詞だということは誰にでも分かる。また彼女の英語は速いので聞き取りにくく、発音もオフトゥン(often)と言うように特徴的だ。それらを踏まえた上で藍璃は我が家の愛犬マルチーズのウィルを連想した。その名は藍璃が得意な科目の英語と、未来に溢れるWillから来ている。
「オシャベリはココマデデス。時間ガアリマセン。ハヤク! サア、ハヤクオシエナサイ」
グロリアーナは右手を顎から離して、スゥっと急激に目を細めた。感情の起伏が豊かのようで今度は怒り出したのだろうか、そう威迫されても、致命的な欠点として彼女は可愛くて声も高く可愛らしかった。だから、男の藍璃としてはとても怖くない。
「おじさん、メジャー取ってきてくれないかな」
今までの会話の間にも、ゆっくりだが移動自体はしている。今回は用のない、野球用品コーナーを真っ直ぐ通り抜けて、ソフトボールコーナーに先導した。さらに今後の展開を予測して、畠山に測定器を持って来てくれるよう頼む。畠山は一礼して、
「は、分かりました。あと、豊里を呼んできましょう」
流石に、スポーツ用品店のベテラン従業員だけあってこちらの考えを一瞬で読み取ってくれた。
「うん。何だか、それがいい。芽衣は?」
「まだ部活、学校から帰ってきてません」
「だろうね」
「メイ」
畠山が店の奥の方に引っ込んでいくと、グロリアーナが一言呟いた。語尾にクエッションマークが付く疑問の発言ではないので、自分に質問しているか一見分からない。振り返ると視線が合ったのでそこで確信して、意気揚々と説明した。凄い知り合いを紹介する時、自分のことのように誇らしげに語りたくなるそれである。
「ソフトボール部に白沢美咲って子がいるでしょ」
「イエス」
「その子の次に凄かった、東京の一年生で二番目に巧い子だよ」
決して美咲を過剰評価してこの様に言うわけではない。中学時代、東京から二回、ソフトボール全国大会に行き日本一と四番に輝いた実績と打撃、投手成績から判断している。たった今、口にした名前の女子は同世代で二番手集団として打撃成績が優れていた。
公立の中学を経て今年から私立成海高校に通う──現在、全国で最強の女子ソフトボール部に在籍するホープ、投手兼中堅手の白土芽衣。あまり大柄ではないが、三振かホームランかという見ていて面白い華のあるバッターだと紹介した。
折角、藍璃と知り合いなのだから、これからソフトボールを始める瑛梨花たちに何かアドバイスを貰えないかと期待していた。
左手の棚に多彩な色の3号用グラブが何十(或いは百以上)と陳列し、右手の棚の下段に3号用バットが並んでいる。それぞれサイズと値段順に分類されていて、一万円を切るお手軽価格な用具から三万円を超えるバットが存在する。実際に手に入らずとも、こういう道具を見ているだけで藍理は楽しかった。その感情の本質は、女性のウィンドウショッピングと何ら変わらない。
今回は瑛梨花たちに道具を紹介する目的があるので、逸る気持ちを抑えて、まず何よりも必要なグラブの棚を見て回った。バットもそうだが、グラブも直接手に取ってはめてみて自分にフィットする物を選ぶのが、自分に合っている用具を見つける方法として、何より手っ取り早い。
注意点として、瑛梨花は左投げでほぼ外野手固定。グロリアーナは右投げで、本人曰くポジションはまだ決定してないということだった。彼女自身は投手もやってみたいと言っている。
そこで藍璃は瑛梨花にはポケットの深い、フライを取りやすい外野手向けの縦長グラブ、グロリアーナには捕手以外のどのポジションにも適しているオールラウンド用のグラブを薦めた。
これは野球とソフトボールにおける左利きの悲しい宿命だが、瑛梨花は左利きの時点で、ルール上、一塁手以外の内野手に不向きである(一塁に送球する時、反転して投げなければいけないのが大きな理由)。瑛梨花は初心者というだけで無条件でライトに選ばれていたが左利きが判明した時点で現実にキャッチャー、セカンド、サード、ショートを務めるのは難しかった(補足すると、左のキャッチャーミットは販売されている。またサウスポーキャッチャーはソフトボールのルール上、野球と違った利点がある)。
「どう?」
「あ……中は思ったより、いい感じです」
「それは良かった」
外野手用のグラブは大きい方なので一見、小柄で手が小さい人間には不向きに見えるが、内側の大きさはさほど変わらず、ポジションごとの特性から外側のサイズが異なっている。つまりグラブはポジションで選ぶものだ。加えて、今回選んだレッドのグラブは外野手用の中では比較的小さい方で軽い。瑛梨花が右手にはめて動かしてみると実にフィットしていた。
これだけの品数の中から「一発目に、お目当てのグラブを引き当ててしまうなんて幸先がいいね」と藍璃が笑って、瑛梨花が「そうですね」と微笑み返して、それでハッピーエンドだから、さあ次はバットを選ぼうかなと、二人を後方のバット・コーナーに連れて行くと、不意にグロリアーナから「シロサキ」と普段よりさらに高い声を掛けられた。振り返るとたった今、用が済んだグラブ・コーナーを指差している。
「なに? 君のグラブも選んだけど……」
彼女にはオレンジ色で少し大きめの、一番高価なオールラウンド用グラブを選んだ。しかも瑛梨花だけでなく、彼女もまた最初に選んだ道具が、見事にフィットする結果になって万々歳だ。
この二連勝に、藍璃はついに自分に道具選びの才が宿ったのではないかと気を良くし始めていた。ここ数年、肝心の自分の道具を選ぶ時は毎回、大苦戦しているのに……と感慨耽っている時、グロリアーナに呼び止められた。
「イエス。シンドウノ、グラブガマダデス」
彼女の発言に「ああ、知っている」と藍璃は呟き目を一度逸らして、別にやましいことでもないと気付いて向き直した。
「進藤さんと、鈴野さんのミットは買わなくていいよ」
「What?」
事前に美咲から頼まれた用事の中に、初心者の二人の道具以外に、進藤と鈴野の一塁手用ミットも「一応」探してきて欲しいと云う言葉が入っていた。ここで一応という単語を付けるのが美咲らしく、アドバイザーを任された藍璃の考えも一緒だ。端的に言うなら、進藤たちの道具は見て帰るだけで実際に今は購入しない。
「Why? What? Why?」
「うるさいな。そんなに言わなくても分かってる」
「ソウデスカ。ワタクシヲ納得サセテ欲シイデスネ」
詰問するのだから藍璃に寄っているかというとそうではなく、反対に彼女は喋りながら後方に下がって陳列棚のグラブとこちらを交互に見比べていた。
「確か二人は体が大きかったはずだから、適当にLサイズを買っていけばいいかというと、そんなことはないよ。グラブの中の大きさは(ほとんど)同じだし、こればっかりは実物を自分の目で見て、手にはめてみないと、その道具が自分に合っているかなんて分からない。二人は他のグラブ持ってるんでしょ」
「オー……」
「文句が出たなら後で、僕に言えばいい。その時は進藤さんたちの買い物に付き合って、彼女たちに本当に合っている品を教えるから」
そこまで言ってから藍璃は、自分が完全に普通の日本人と接するように長い会話をグロリアーナに投げかけているなと心配になって「ごめん、日本語速いけど、分かるかな?」と付け足した。彼女は「ツマラナイ心配ハ結構デスヨ」と薄っすら笑った。そこで藍璃は以降はもう加減しないことに決めた。
再び背を向けると瑛梨花と目が合う。何か物言いたそうだった。
「なに」
「チームの、ファーストが決まってないんですよ。つまり、部にファーストのグラブがないんです」
「ファースト・ミット」
藍璃が答える間もなく、グロリアーナがグラブではなくミットだと訂正した。自分だってつい先ほど「進藤のグラブ」と言っていたし、ここは専らグラブ・コーナーではないか、と薄っすら笑って彼女を見ると、その当人は「そうでしょう」と言わんばかりに得意げに目を輝かせて瑛梨花の方を見遣っていた。実に可愛い光景だったので藍璃は和んだ。
「なるほど。ソフト部用にミットを買っておくと」
「はい」
「じゃあ、後で僕が選んどく。右投げ用」
しかし時間が押しているので今後は会話も手短に、つまらない心配事は一切切り捨てることに決めていた。ソフトボールといえばグラブ、バットということで、二人は次にバット・コーナーを見て回るのを予想しているようだし、事実寄るのだが、藍璃はバットよりもトレーニングシューズ(スパイク)の優先順位が高いと思っている。専用のバットがなくてもソフトボールの練習は出来るが、普通の運動靴ではグラウンドで滑りやすく危なっかしくて見てられない。選手には怪我なく、のびのびとプレイして貰わなければならない。