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ブログ Depot(ディポ)さん2008年02月28日
沖縄人の見た沖縄戦②-日本兵を殺した沖縄人-
から抜粋、引用
http://wildhorse-depot.seesaa.net/article/87610228.html
沖縄人の見た沖縄戦②
-座間味に咲けよ桜と木槿-
ルポライター(沖縄県国頭郡出身) 富村順一
昭和史研究会会報 130号引用
省略
日本兵を殺した沖縄人
さて、自分のことも云わなければなりませんが、米軍が本部半島や今帰仁に上陸すると同時に、
本部村と今帰仁村の村民は米軍によって全て今の名護市、もとの久志村に収容されました。
故に久志村に行った人々は飢えてましたが、
今帰仁や本部は無人の村となり、芋をはじめとする食べ物が沢山ありましたので、
私達は久志村の山を越えて、四、五日おきに本部や今帰仁の畑に芋掘りに行ってましたが、
久志村の山では南部から生き延びてきた日本の敗残兵が四、五人ずつグループをつくり、
二百人近くいました。
私達が歩いていると、飢えた日本兵がよく「芋を下さい」と云って私達少年に頭を下げてきました。
ある日のこと、元学校の先生が、
「山には日本兵がいるでしょう。その日本兵にこの手紙を渡して下さい」
と私達四、五人の少年が手紙を預りました。
手紙の内容はよく分かりませんでしたが、私達は本部に芋掘りに行く時に、
途中の山に立て籠もっている日本兵に渡したのです。
その翌朝、午前三時頃、激しい機関銃の音がするので、夜が明けてから行ってみると、
きのう私達が手紙を渡した日本兵です。
後で知ったことですが、私達に手紙をことづけた元学校の先生は手紙に
「食べ物はあるから村まで取りにお出で」というような内容を書いていたようです。
翌朝、自分達がきのう手紙を渡した日本兵が田圃の中で死んでいました。昭和二十一年の秋でした。
沖縄は年に二度米が取れますが、二回目の稲が青々と茂ってましたので、秋だと私は思ってます。
沖縄人は物欲しさに、山に隠れている日本兵をおびき寄せ、
米軍に狙い撃ちさせ、そのご褒美に食べ物を貰った人達も沢山います。私もその一人です。
だがそのような沖縄戦記を書く人は沖縄には居ません。
だが私は『沖縄戦語り歩き』という本に書いてます。
私が一番今でも悲しい思いをしているのは、四、五十人の村人が大きな壕に避難してました。
一番奥には学校の先生や村の有志達が一番安全な所に坐り、
子供達やお年寄りは弾除けのように壕の入口に坐っている訳です。
そのようにして犠牲になった子供やお年寄りが沢山います。
また或る日のこと、元学校の先生が、或いは村の有志が、私達十二、三歳の少年達に
「喉が乾いたので砂糖黍を取って来い」と云ったので、私達は三人で砂糖黍を取りに村きました。
その時に二人の少年は、米軍によって艦砲射撃で殺されましたが、
それがきっかけで、私は村人の壕に帰らず、
一人で居るハンセン氏病のお爺さんと沖縄戦を生き延びたのです。
戦後四、五年の沖縄の現状は、今の北朝鮮と同じだったのではないかと私は思ってます。
終戦後、金は通用しません。全ての食べ物は米軍からの無償配給です。
故に公平に分配すべきですが、この分配する係りになったのが元学校の先生や村の偉い方々です。
その人達が他の一般の人達の何十倍も横取りして、飢えた人達は蘇鉄を食い、
命を落とした人も沢山居ます。
中毒死する蘇鉄も、食える蘇鉄もありますが、その見分けはつきませんでした。
故に人間は、いくら知識や知恵があっても、飢えた時には狼になると思います。
関連
沖縄戦語り歩き―愚童の破天荒旅日記
富村 順一 (著)
柘植書房 (1995/01)
ISBN-10:4806803588
ISBN-13:978-4806803584
¥1,785
表紙 (※ウェブ魚拓)
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