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お題目は力があるんです。
御書に書いてあります。
『問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖畏厳恩蔵宣摩導等に勝出すること百千万億倍なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ』
(四信五品抄)
ここで注目すべきは、大聖人は曼荼羅に唱えよとは、全く書かれていない事実です。
日蓮正宗という宗派があって、
自分ところの曼荼羅に唱える題目にしか功徳が無い。
こう言う内部規定を決めています。
当然、その宗派の内部はそれでいいでしょう。
ですが、御本仏がそう言うことは言われません。
曼荼羅にも唱えなさい。
とは仰せですが、
曼荼羅しか駄目ですよ。
これはありません。
ですので、日蓮正宗は間違っているのですね。
自己保身のために、仏法を捻じ曲げています。
駄目宗派の所以ですね。
何宗の方であれ、題目は力があります。
自分の宗派の題目にだけ力がある。
邪義ですよ。
増上慢の極みがこれです。
ただし条件が一つあって、怨嫉謗法があると功徳ではなく罰です。
怨嫉謗法を犯しながら唱える題目は、同苦の念仏に及びません。
ですので、日蓮正宗と要法寺を比較した場合、日蓮正宗は怨嫉謗法の塊のような宗派ですから、要法寺の信徒の方々の唱えるお題目に、日蓮正宗のお題目ははるかに及びません。
こう言う道理をそろそろ弁える時じゃないでしょうか?
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