ボクは透明人間だ。
透明だから誰も気づかない。名前はある。だけど、呼んでくれる人はいない。
中学に通っている。
クラスもある。机もある。シューズは……なくなった。
朝はいつも一番に教室に行く。一番最後に行くと色んなものがなくなってしまうから。
ボクの席は教室の一番後ろの廊下側の席だ。だから色んな人がボクの後ろを通る。
「おはよう」
そう挨拶していたのは、もうずいぶん前のことだった。
最初はボクが笑顔であいさつすれば、みんなの笑顔が返って来ていた。それも、いつの間にか変わってしまって、笑顔の代わりに嫌な顔をされて、おはようが陰口に変わる。
そのうちボクは挨拶を辞めて、みんなはボクを避け始めた。
みんなから遠くなる度に、ボクの色んなものがなくなった。
シャーペン。消しゴム。筆箱。ノート。体操服。シューズ。
机は色んな文字で真っ黒になった。
「死ね。消えろ。うざい……」
一度だけ、誰もいない教室で文字を読み上げながら、消しゴムで消したことがある。とても、とても胸が苦しくなった。
そしていつの日からか、ボクは教室からいなくなった。みんなはボクの名前を忘れてしまって、出席の点呼の時しかボクの名前はこの教室には存在しなくなった。
◇
私の友達は透明人間だ。
彼とは幼馴染で、幼稚園から一緒だった。
中学も一年は同じクラスで、今は違うクラスだけど、ずっとずっと友達だった。そう思っていた。
彼は優しい。目立つ存在じゃないけど、人の悪口も絶対に言わない人だった。小学校の時から存在感はないけど、彼の周りには自然に人が集まっていた。
けれど、彼は中学生になっていじめられるようになってしまう。
理由は簡単。いじめに参加しなかったから。
「バカじゃないの」
私は、彼と一緒に帰りながら言ったことがある。
「一回頷けばいいだけじゃない。知らないって言えば、こんなことにはならなかったのに」
幼い私は本気で彼に食ってかかった。
「でも、それじゃあの子は一人になっちゃうじゃん。それにボク、あの子の友達だし」
ぼろぼろになった鞄を持ったまま、彼は笑っていた。
本当にバカだ。
子どもながらに、私は彼に呆れてそのままの意味の言葉をひたすらに彼にぶつける。
それでも彼は笑っていた。
ある日、私は友達に言われた。
「あんた。前アイツと一緒に帰ってたんでしょ。まずいよ、グループがあんたにまで目を付けてる」
その忠告を聞いて以降、私は彼の元を離れた。
そして彼は、その時透明人間になってしまったのだ。
◆
ボクは透明人間。
家に帰ってもそう。
お母さんはいない。お父さんは月に一回帰って来て、お金を置いていなくなってしまう。
家の中はひどく暗くて、冷たくて、好きじゃない。
でも学校から帰ると、ボクの居場所はここしかないから。
だから、こうして膝を抱えて座って、じっと夜が明けるのを待つ。
◇
彼を忘れてしまったのは、随分遠い日になるのだろう。
最初は、自然に彼の姿を探していた。
廊下を歩く姿。
ぼぉっと肘をついて窓の外の姿を見る姿。
ある寒い日の背中を丸めた彼の背中。
それでもすぐに彼の姿はなくなって、ついに私は彼の姿を探すのをやめた。
どうして私が心配しなくちゃならないんだ。
ちゃんと忠告もした。それでも引き返さなかったのは、彼の間違いだ。彼の責任だ。私はもう関係ない。
そんなことを考えるのを止めると、世界はすごく広くなった気がした。
だから私は、彼のことを忘れた。
彼のことを透明人間にしようと必死になった。
その試みはあっけなく成功してしまったのだ。
◆
一体いつになったら夜は明けるのだろうか。
喉が渇いた。
けれど台所まで歩くのも面倒だ。どうせすぐ明るくなる。その時に、飲みに行けばいい。
透明人間になったボクは、ひどく澄んでいてきっと水道のちょっとした汚れにも、すぐに淀んでしまうだろう。
でも、それで誰かに気づいて貰えるなら、誰かの目に留まるのなら、ボクは汚れる必要もあるんじゃないだろうか。
そこまで考えて、ふとボクは思考を止めた。
もっと根本的な疑問が、ふっとボクの頭の中に湧いたのだ。
ボクを透明人間にしたのは、ボクなのだろうか。それとも、誰かに透明人間にさせられたのだろうか。
新たな疑問に首を傾げる。その答えは、幾ら考えても答えが出ない。そんな気がした。
ため息を吐いて、窓の外を見る。
明けない夜に月明かりはない。
◇
ふと、彼のことを思い出したのは、私が高校二年になってからのことだった。理由は簡単。彼の家がなくなっていたからだ。
引っ越したのだろうか。
なんとなくそう考えて、夕飯中にお母さんに尋ねてみた。
するとお母さんは少し顔をしかめて、口を開いた。
「何言ってるの。あの家のお父さんは逮捕されたじゃない」
「え?」
「息子さんは栄養失調で失明しちゃったんでしょ。何カ月も放置してたらしいわよ」
血の気が引く。私の表情を見てさらに母は眉をひそめる。
「もう。ぼけちゃったの? あれだけ大騒ぎになってたのに」
まさか。私は首を小さく横に振った。
「……うそ」
「嘘吐くわけないじゃない。息子さんは施設に入ってるらしいわよ」
その後、私は中学の同級生に彼のことを聞いて回った。
どの人も彼の名前を聞くと、あぁそんなやつもいたね。と言って、少し苦虫をつぶしたような表情を浮かべた。
そしてそれ以上話をするのを拒む。
みんなの中で、彼の存在は未だ透明人間のままだった。
◆
ヨコタハルミ・ヨコタシゲノブ・タケノウチケイ・アマチジュン・シノミヤケイタ・アキホミワ・カノヤママサト……
嫌だ。嫌だ。透明人間は嫌だ。
暗い部屋の中、ボクは必死にボクの友達だった人とか、クラスの人とか親の名前呟く。
寂しい。苦しい。朝が来ない。寒い。
「嫌だ! 一人なんて嫌だ! 誰かボクを見て! 誰でもいいから!」
触れてください。
言葉をかけてください。
どんな言葉でもいいから、蹴っても殴ってもいいから。
叫ぶ。叫ぶ。喉が潰れるまで。
◇
彼のいる「施設」は陽が差し込み、真っ白に染まっていた。驚くほど真っ白い施設の中に彼がいた。
三年前より背が伸びて、髪も伸びている。
私の名前を受け付けの看護師さんに告げた時、彼女は驚いた表情をして、医師まで連れてきた。
「あなたがアキホさんですか。アキホ……ミワさんで」
「はい」
私が医師と看護師の二人の様子をうかがいながら、返事をすると二人は顔を見合わせる。そしてご案内しますと、私を彼の元へと連れていく。
私が彼を訪れようとしたのは、謝罪だとかそんな理由じゃない。
ただ気になって仕方がなかったのだ。
私の中で、彼はもう透明人間じゃなくなってしまった。
理由はただそれだけだ。
「あぁ先生。どうかしたんですか」
快活そうに返事する青年に私は愕然とする。無意識のうちに、もっとぼろぼろの姿を想像していたのだ。
「ヨコタくんにお客さんだよ。アキホさんだ」
私は緊張気味に頭を下げる。彼は柔和にほほ笑んだ。
「嬉しいなぁ。お客さんは久しぶりだ。俺に何の用ですか?」
周囲の空気が緊張するが、当の本人は相変わらずこちらに笑みを向けている。
「ヨコタくん覚えてる? 私――」
「透明人間は、もういなくなったよ」
私の遠慮がちな声を遮った彼の声に、寒気がして私は一歩後ずさりをした。
「……何を言ってるの?」
「透明人間はもう疲れちゃったんだってさ。だからもう消えてなくなってしまったんだ。透明人間はみんなに見られちゃいけない。見てもいけない」
先生と看護師さんはふぅとため息を吐いた。
「目が見えなくなっても、不十分だったらしいから、俺が変わってやったのさ。まあ、もうあいつは死んじゃったんじゃないかな。いや、俺からも見えないだけか。だって透明なんだから」
彼はまだ笑っているが、その笑みは私の知っている彼の笑みではない。
「あいつに謝りに来たのかい? アキホミワ……知ってるよ。あいつがなくなる前に叫んでた名前の一つだね」
「あいつって……」
「今更どうしたの? あいつなら許してくれると思っていたのかい? 残念だけどあいつはいないからね。でも大したモンさ。透明人間にするなんてこと、普通じゃ出来ないからね」
「ち、違う! 私は……」
「俺はアキホさんを褒めてるの。そんな顔するなよ」
笑みを張りつけたまま、彼は言う。
「あいつはアキホさんを信じてたらしいぜ。勝手だよな。アキホさんは悪くない」
「やめて」
「勝手に信じてフラレタあいつがカッコ悪いだけさ」
「やめて!!」
「あいつなら絶対に責めないだろうな。アキホさんのこと」
私は立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。
看護師さんは私を支えてくれたけれど、その場から立ち去るように勧めてはくれなかった。
「でも、俺はもう透明人間じゃない。あいつじゃない。だからこんなことも言えるんだぜ」
「さっさとう・せ・ろ。この卑怯者」
ぼろぼろと涙が零れる。
手を触れる距離にいる彼の姿は、涙で滲んでぼやけてしまう。
その表情は見えないが、きっと彼は笑っているのだろう。
透明なって消えてしまった人間を、探し出せるはずがないのだ。
一度離した手を握ることは、もう出来ない。
白いこの部屋に彼の名残を見つけられず、私はただ嗚咽した。
完