生まれ月学のすすめ

三 浦 悌 二

T 序 論

 自称「生まれ月学」を始めてから25年が経つ。今でも未練があって止められずにいるのは、この研究方法が健康や疾病を始め、体質や気質といった今までは研究対象としては扱いにくかった事象にも新鮮な切り口を開いて見せてくれるからである。この切り口からは、今でも謎とされている多くの難問題を解決へと導く新しい緒口を見出すことが出来るだろうと思いこんでいる。

 その鍵は胎児期や新生児期に受ける不顯性感染にある。胎児は特定の発育段階でそれぞれ特定の組織や機能が発達する。その時期に受ける環境中の種々の物質や感染の影響は各種体細胞の基本的な機能に永続的な修飾をする可能性があると思われる。環境中の要因で季節性のものとして、具体的なものではウイルスの不顯性感染がもっともありそうな原因であろうと私たちは考えている。それは、この研究方法が私の体験してきた日本脳炎の免疫学的疫学研究をその基礎としているからである。しかしその他にも、自然界にある植物の花粉や動物の成分なども類似の作用機序をもって特異的な変化を起こしているかと思われる。

 日本脳炎ウイルスの場合には、その不顯性感染が予想以上に広範であり、患者の発生が知られていないような地域においても毎年のように不顯性流行としてウイルス感染が蔓延していて、感染を受けた個体ではその影響が持続する。このことは、かつて日本脳炎が大流行を繰り返していた当時、予防衛生研究所で北岡正見先生(1903,1-1979,1)の研究室でその一員として日本脳炎研究の一部を担当し、特に北海道各地のヒトやウマの血清について日本脳炎ウイルス中和抗体の検査をしていた時に深く刻み込まれた印象であった1)

 この経験から、日本脳炎患者の生まれ月の分布が一般人口のそれとは違っているだろうと推定して、実際に調べ始めたのはそれから20年が経過して大学紛争も一段落をした1970年代の始め頃からである。私たちの生まれ月学はこの時から始ったと言えよう。

 胎児期でのウイルス感染が疾病の原因となることは、先天性風疹症侯群の例でも明らかである。風疹の場合には出生時に先天障害のあることが認められるので、その障害が胎児期での感染によることが分かりやすい。しかし、胎児期の感染が形態的な異常を現さないで機能的な軽度の障害だけを起こしている場合もあるに違いない。

 日本脳炎のようにその原因ウイルスが明らかで一定の季節に限って流行するような感染症の場合には、種々の発達段階にある胎児期での感染によって、そのウイルスに対する免疫を獲得したり寛容になったりしていて、生後の感染に際しての発病率にも影響しているかも知れない。それは日本脳炎患者の生まれ月の分布を調べることによって確かめることが出来るだろう。

 そう考えたので先ずは厚生省の日脳患者サ−ベイランスカ−ドを調べさせて頂き、さらに東京と横浜の伝染病院に収容されていた日本脳炎患者の病歴を調べて、その結果を日本衛生学会で発表したのが私どもの生まれ月学研究の第一報となったものである2,3)

 それに次いで手掛けた精神分裂病の場合には生まれ月によって発病率に違いのあることが既に広く認められていたために、夏期の前に受胎した胎児では脳の発育する時期に夏を迎え、母体や胎児に栄養の障害が起るためだろうといったようないくつかの仮説が提唱されていた。その一つとして胎児期でのウイルス感染説があった。私等は東京の松沢病院で古くからの入院患者の病歴を調べて精神分裂病の好発する生まれ月が年代によって次第に移動することを見出した。このことから分裂病の原因が夏期の栄養障害などのように季節に固定したものを否定することとなり、年によっては流行季節の変動することのあるような感染症が考えられるとした4)

 精神分裂病の好発生まれ月が年代によって変動することが、イギリスやアメリカでも認められたために、分裂病の原因としては胎児期でのウイルス感染が一層強く疑われるようになって、病原ウイルスを探し出す努力が世界各国で多くの研究者によって始められているのだが、まだ具体的な成果は上がっていない5,6,7)

 こうした研究の過程では、対照としての正常人口の出生季節分布が必要となる。それを見ていると日本では早生まれ、ことに1月と3月の出生数の異常に多いこと、その前後の12月と4月の出生数の少ないことが目についた。これは当時早生まれが子供の将来にとって社会的に有利だろうとされていたための人為的な操作が出生届けにあったことが無視できないことを示すものである。しかしそれを考慮しても当時は早生まれが多く、その程度は年代によって大きく変動していた。ところが1960年代になると突然と早生まれの多い現象が全く見られなくなってしまった。こうした出生季節分布の急激な変動の原因を考えて、季節的な「自然不妊」の流行(流行性季節性不妊病)という新しい仮説を考えるに至った8,9,10)

 これは感染症としての早期流産が自覚されることなく季節的に流行しているだろうという考えで、現在大きな問題となっている少子化の生物学的な原因でもあり、人口学的にも重大な問題であるに違いない。自然不妊の流行は昔からあったのだろうか。それを知りたくて19世紀以前の古い時代の生まれ月の分布も知りたくなった。日本では人口動態統計以前の出生季節分布を求めようとしても、たいていの記録では出生月日の記載のないことが多い。そこで日本だけでなく海外の教会記録を調べてみることとなった。それによって日本の他にドイツやイギリス、アメリカでもほぼ400年の期間に渡って、自然不妊の流行の季節が30〜50年程度の周期で変動していたように思われた10)

 つまり生まれ月の季節分布に波のあることは、ヒトの生殖能力に及ぼす環境からの強い影響が古い時代から世界的にあったことを示すものであり、その原因を明らかにして生物学的な対策を確立することは、人口学の生物学的な基礎となるべきものであろうと思われる。

 ヒトの生殖能力との関係で、初経発来と生まれ月との関係が調べられ、過去90年にわたるその長期変動から出生の季節が初経発来にも影響のあることが示された11)。また初経発来の年齢は乳がんの罹患率など各種疾患とも関係のあることが知られているので、それらの共通の因子を求め、その具体的な条件や物質を特定することが今後の問題となるであろう。 

 それ以外にも、寿命、がん、脳血管障害、アルツハイマ−病、骨折、などでも生まれ月によって罹患率の違いのあることが示されている12,13)。こういったことは胎児期での感染の影響が特定の疾患を起こすというだけではなく、内分泌や血管の性状、神経伝達機能や免疫機能の修飾といったような主要な体質の基本にも影響していると考えるようになった。もしそうした機能に季節性のある環境中の物質が胎児に影響するとなれば、その物質を特定してその影響をコントロ−ルすることが可能となり、成人病や自己免疫疾患など、まだ原因の明らかでない重大な疾患や難病について環境因子の面からの予防手段を見出すことが出来るかと期待したい。
 
 ヒトの文明の誕生と発展とはその住む地域の気候に依存するという説を提唱したことで知られるアメリカの地理学者 E. Huntington (1876,9-1947,10) は生まれ月の問題に惹かれてヒトの知的・社会的能力を始め寿命、精神障害、自殺、出生性比、死産などについて、日本をも含めた世界各国から膨大な資料を集めて論じている14)。それ以来、先天障害、がん、感染症、体格、初経の発来などまで、あらゆる心身の健康事象と生まれ月との関係が多くの研究者によって調べられている13,15)

 最近でも相対性理論とか進化論というような革新的な新しい学説に対する研究者の態度が保守的か革新的かというような性格の違いが生まれ月で分かれるとか16)、雨季の7-10月に生まれた者は成人後の死亡率が高い17)というような一見奇妙な事象がネイチャ−といった雑誌にのることもあるので、生まれ月には未開拓の謎が隠されていることに賛成する者もあると思われる。

 しかし、今までのどの研究にも何故そういった生まれ月による違いが起るのかということについて納得できるような明確な説明の付けられたことがない。そのために、そこから直ちに実用的な結論を引出せる望は少ないと思われるのか、研究者の努力は入口で停滞しているように見られる。それ以上に進めない原因の一つとして、生まれ月という手がかりだけでは具体的に何から始めればよいのか取りつく島もないと思われるからであろう。私どもは数年来この欠陥を補う方法を考えてABO血液型と生まれ月との両方を組合わせて調べることを始めている。この考えの基礎には血液型と感染症との関係がある。それは1948年、当時の伝染病研究所で田宮猛雄先生(1889.1-1963.7)のグル−プが発疹チフスとB型血液との関係を報告したこと18,19)が伏線となっている。

 しかし、改めて見直すと自然不妊にも生まれ月と関連して血液型も関係しているように見えてくるので20)、これからも今まで気が付かなかった新しい具体的な事実が次々と発見されるのではないかと期待している21)。それによって信頼できる証拠が挙げられてくれば、生まれ月学には大きな飛躍が期待されるだろう。

 今後生まれ月学のもつ可能性が具体的に実現されるためには、系統的な疫学調査によるデ−タの集積を始め、新しい分子生物学的な免疫学、遺伝子学などの方法をも取り入れて、囚われない自由な発想の下に実証的・実験的な研究を発展させることが出来れば、予期の成果が期待されるはずだと思っている。

文 献
1.三浦悌二、北岡正見 1955 北海道における日本脳炎の免疫学的疫学 ウイルス 5:62-73
2.三浦悌二、町田和彦、柳井晴夫、緒方隆幸: 1972 ヒトの日本脳炎感受性におよぼす出生季節の影響 日衛誌 27(1):200
3.三浦悌二、江間実、竹尾恵子、町田和彦、緒方隆幸:1973 ヒトの日本脳炎感受性におよぼす出生季節の影響 (第2報) 日衛誌 28(1):231
4.Shimura, M., Nakamura, I. & Miura, T. 1977 Season of birth of schizophrenics in Tokyo, Japan. Acta psychiat.scand 55:225-232
5.Morozov, P.V. (ed.) 1983 Research on the Viral Hypothesis of mental Disorders. (Avances in Biological Psychiatray Vol 12) Karger/ Basel
6.Kurstak, E., Kipowski, Z.J. & Morozov, P.V. (eds) 1987 Viruses, Immunity, and Mental Disorders. Plenum Medical, New York/London
7.Kurstak, E. (ed) 1991 Psychiatry and Biological Factors. Plenum Medical, New York/ London
8.Miura, T. & Shimura, M. 1980 The relation between seasonal birth variation and the season of the mother's birth. Arch Gynecol 229:115-122
9.Miura, T. & Shimura, M. 1980 Epidemic seasonal infertility - a hypothesis for the cause of seasonal variation of births. Int. J. Biometeor. 24:91-95.
10.Miura, T. 1987 The influence of seasonal atmospheric factors on human reproduction. Experientia 43:48-54
11.Nakamura, I., Shimura, M., Nonaka, K. & Miura, T. 1986 Changes of recollected menarcheal age and month among women in Tokyo over a period of 90 years. Annals Human Biology 13:547-554
12.三浦悌二(編)1983 生まれ月の科学−先天異常から老人病まで。 篠原出版 東京
13.Miura, T. (ed) 1987 Seasonality of Birth (Progress in Biometeorology vol 6) SPB Academic Pub., Den Haag
14.Huntington, E. 1938 Season of Birth - Its relation to human abilities.  John Wiley, New York
15.Dalen, P. 1975 Season of Birth - A study of schizophrenia and other mental disorders. North-Holland, Amsterdam
16.Holmes, M. 1995 Revolutionary birthdays. Nature 373:468
17.Moore, S.E., Cole,T.J., Poskitt, E.M.E. et al 1997 Season of birth predicts mortality in rural Gambia. Nature 388:434
18.田宮猛雄、羽里彦左衛門、山本正、飯田毅、下条寛人、西岡久壽弥、川村明義、鈴木潔
1948 リツケッチア・プロワツ・キ、リツケッチア・ム-ゼリ及び変形菌OX19に共通抗原たる所謂X物質の研究、特にB型物質との関連に就いて 医学通信 111号:3-5
19.Tamiya, T., Hazato, H., Yamamoto, T., Iida, T., Shimojo, H., Nishioka, K., Kawamura, A., Suzuki. k., Arai, M., Tsukamoto, R. & Schoble, Y. 1949 Studies on the so-called X-factor common to Proteus OX19, Rickettsia prowazeki and Rickettsia mooseri, especially on the relation of the factor to blood group B specific substance.  Jpn. J. Exp. Med. 20:1-23
20.Miura, T., Nakamura, I. & Nonaka, K. 1991 Seasonal effects on fetal selection related to ABO blood groups of mother and child. Anthrop. Anz 49:341-353
21.三浦悌二 1992 生まれ月から血液型へ 篠原出版 東京

 

U 不顯性流行

1.日本脳炎の不顯性流行

 1935年のことである。日本脳炎の実験的研究にはマウスの脳内接種法という新しい技術が導入されたことによって急激な進展が見られた。当時病原体の発見を競い合っていたいくつかの研究グル−プは一斉に日本脳炎ウイルスの分離に成功した。患者の脳等からウイルスが分離され、回復者の血清にはそのウイルスの中和抗体が証明されたことによって、それは日本脳炎の病原体として確定されたかと思われた。ところが健康者の血清にも中和抗体が検出されたのでその説明に苦しむこととなった。その解決となったのは日本脳炎のないと思われた北海道に永年住むヒトや、日本からは遠く離れた欧州に住むドイツ人の血清では中和抗体陽性者が全く見出されないという実験結果であった。それによって日本内地の住民では日本脳炎に罹患しなかった者にも日本脳炎ウイルスの不顯性感染を受けていた者があり、そのために一般の健康者にも中和抗体陽性者がいるのだということで納得された。

 戦時中に台湾、朝鮮、中国の他、フィリッピン、タイ、マライ、ビルマ、ジャワ、スマトラなど、東南アジアの各地からもヒトの他ウマ、ウシなどの血清が集められて日本脳炎ウイルスに対する中和抗体の測定(中和試験)が行なわれていた。その成績を整理してみると、各地のヒトやウマ、ウシの血清にはかなり高率に陽性のものがあり、日本脳炎ウイルスの広く分布していることが確かめられていた1)。(図1)

 ところが、これらの地域では患者の発生は極めて例外的に少数例の報告があっただけで、後になってこうした地域で毎年のように大流行が起ることになろうとは想像もされなかった。日本以外での最初の流行は1940年代、当時の華北や南満洲でのことであったのかもしれない。1944年から1947年にかけてかなりの日本脳炎患者の発生があったことは当時の大連や奉天にいた日本人研究者によって知らされている1)。大連では13人の日本人の脳炎死亡者があり、1例の脳からマウスを用いてウイルスの分離にも成功し、日本脳炎と同定されていたという。1946年には進駐してきたソ連軍兵士にも流行があり、大連衛研では15例が剖検され8株の日本脳炎ウイルスが分離されたという。

 台湾や朝鮮では戦後になってから初めて日本脳炎の激しい流行が始り、中国、タイ、ビルま、インドなどの各地で数万人を越えるような大流行となって現在にいたっている2-6)

 最近の報告でも、日本脳炎の地理的流行範囲は Vaughn ら(1992)2) や Steinhoff(1996)5)の示す図を見ると、三田村ら1)の戦時中の調査結果と比べても、当時は日本の勢力の及んでいなかったために血清が入手できなかったインドが加えられ、中国での流行地域が大きく広げられただけでほとんど変っていない。

 そうなってみると戦前の台湾や朝鮮では日本脳炎の患者が本当になかったのだろうかと疑問をもたれるのも当然であろう。中国では1930年代から小流行の報告があった。沖縄では1933年が初めての流行で、それ以前にはなかったらしい7)。台湾では1935年までの3年間に30例を見たとの報告が最初で、散発例は屡々あったが流行はなかったと記されている8)

 朝鮮では1946年米兵に4人の患者が出てウイルスも分離同定されているが、同じ地域の住民には全く患者の発生がなく、それまでにも日本脳炎患者が発生したとの記録はなかった。しかし、ヒトでも家畜でも日本脳炎ウイルス中和抗体は高率に陽性であったという9)

 すなわち、当時までの台湾や朝鮮では、散発的な症例報告が少数見出されただけであって、1950年代以後に見られたような激しい流行は全くなかったと思われる。当時も日本内地における脳炎流行の情報はよく知られていたことであり、散発例を報告できる臨床医が居たのであるから、もし当時実際に現地での流行があったのならば、気付かれなかったはずはなかったであろう。

 このことから日本脳炎ウイルスは早くから日本を始め東南アジア各地に分布していたにもかかわらず日本以外では日本脳炎の流行発生はほとんど無かったと思われる。つまり日本脳炎ウイルスは日本内地以外では永年にわたってかなり濃厚な不顯性流行の形でだけ分布していたことになる。

 最近の国連からの報告によれば、世界で1996年での日本脳炎の患者数は4万人、死亡者では1万人とポリオやコレラよりも多い。それによる障害者は8千人とされている10)。日本では過去のものとされている日本脳炎は、今でも世界的には主要な感染症の一つなのである。

 Deuelら(1950)9)は朝鮮で米兵には患者が出たのに住民には流行のなかった説明として、ウイルスの量や伝播の条件によるものではなく住民の質が特殊だったためだろうとしていたが、その後になって朝鮮の住民にも激しい流行が起こるようになった。流行が不顯性に留るか顯性の激しい流行になるかの違いは未だに謎のままである。その解明には今後ウイルス自体やそれに対する抗体や免疫の質についての一層の解析が必要であろう。最近の日本で日本脳炎が流行しなくなったのは、戦前に東南アジアで流行がなかった当時とあるいは同じような状況に逆戻りをしたのかもしれない。日本での流行の消滅が予防対策や環境変化のためとして今後も今の状態が持続するだろうと安んじていられるものかどうかにはまだ疑問の余地が残されている。

2.北海道の日本脳炎

 日本脳炎の流行はおよそ11年毎に大流行があるといわれ、それは太陽の黒点周期と関係があるのだろうともいわれていた。それは、それまでの大流行が1912年、1924年,1935年とあったからで、次の大流行は1946〜47年ごろに起るだろうと思われていたが、少し遅れて1948年に7,000人を越える大流行が起った11)。この年には北海道でもその西南部一帯の地域に789頭に及ぶウマ脳炎の大流行があった。日本で起るウマとヒトの脳炎は全く同じ日本脳炎ウイルスによるものであり、内地の流行ではウマの流行に続いてヒトにも流行することが多いのに、北海道の流行ではヒトには5人の患者が報告されただけで流行らしいものは無かった。これは不思議なことと思われ、その説明としてはウマはヒトよりも多くのカに刺されるために感染ウイルス量が桁違いに大きいためであろうとされていた。

 そこで今回の流行では感受性の高いウマでの大流行があったので、あるいは日本脳炎ウイルス分布の可能な北限が見られるかと思われた。それを確認するために道内各地のヒトやウマの血清を採取して中和抗体の測定をし、道内の各地域毎の抗体陽性率を調べ、ウイルスの分布範囲を決めようということになった。その結果は中和抗体の陽性の地域はヒトとウマでは全く同じであり、中和抗体陽性の範囲はウマでの罹患の知られた地域よりもさらに北と東との広い地域に及んでいた。これは北から南に向って日本脳炎ウイルスの分布濃度が次第に濃くなっているためと思われた12)。(図2)

 一番北にはヒト264人でも、ウマ133頭でも中和抗体陽性例の検出されなかった地域「非流行地」があり、ここではウイルス存在の証拠が認められなかった。それに接する広い地域は「亜流行地」で、中和抗体の陽性率がヒトでは8.4%(20/246)、ウマでも8.6%(18/210)とほぼ同程度に検出されたが発病したものは全く見られなかった。その西の地域は「一時流行地」で、ウマ脳炎の流行が起って223頭が罹患したがその罹患率は0.7%程度で年齢による差がなく、今までに受けていた不顯性感染は有効な免疫を得るほどのものではなかったということになる。その南の地域「流行地」では566頭が罹患したがその罹患率はウマの年齢によって3歳以下(251/11,972=2.1%)と11歳以上(76/6,050=1.3%)との差が明らかであり(P<0.001)、今までにその地域でもウマ脳炎の流行したことが知られてはいないが、毎年のように日本脳炎ウイルスの不顯性流行があって不顯性感染を受け続けていたために年齢の増加と共に感染抵抗性(免疫)も大きくなっていたものと考えられる。

 北海道では流行地でも、ヒトにはごく少数の散発例はあったが流行はなかった。だから北海道だけで見ている限り、そしてもし日本脳炎ウイルスが日本内地ではヒトにも脳炎を起こすウイルスであることが知られていなかったならば、ヒトに病原性のあるものとは認識されなかったであろう。ことに亜流行地だけを見ていたとすれば全く病原性のないウイルスと思われたであろうし、北海道内では流行地でさえウマには病原性があってもヒトには無害で不顯性流行だけを起こしているウイルスとしか見られないであろう。 

 アルボウイルスには500以上が知られているが、その内ヒトに病原性のあると思われるものはその1部にしか過ぎない。それ以外のウイルスの中にはヒトに不顯性流行を起こしているものもあるに相違ない。常在細菌のように動物や培養細胞などにも病原性を認められない常在ウイルスのようなものも多いと思われる。その中には散発的にはヒトにも発病例を起こしているものもあるのだろうが、それが病原であると決められることはなかったであろう。将来そうした一見病原性を示さないウイルスを検出できるような実験方法が開発されて新しい展望の開けることが期待される。

3.生まれ月と日本脳炎の感受性

 日本脳炎の不顯性流行が極めて広範であり、しかもそのウイルスがカによって媒介されるために流行季節が比較的短い期間に限られていることから、流行の季節にはほとんど総てのヒトが感染を受けていたことであろう。だから妊婦とその胎児もウイルスの感染を受けていたと思われる。胎児は発達の段階によって感染に対する反応には大きな違いがあり得る。だから流行季節での胎齢に応じて免疫学的にも異なる反応をしているとすれば、その違いは感染後に生まれた季節によって異なって表されることになるだろう。

 そう考えて日本脳炎患者の生まれ月を調べることとなった。手始めに厚生省に集められた1965-70年の日脳患者票を使わせて頂いて4,092人について検討した。5−14歳の患者355人では6−9月の夏生まれのものに特に多いことが目立ったがそれ以上の年齢の患者ではあまり違いが見られなかった13)。

 この頃になると患者の年齢が小児よりも成人の方が多くなっていたのでそのためかもしれない。そこで小児患者の多かった終戦直後の患者について調べるために東京と横浜にある伝染病院を訪ねて当時の病歴を調べさせて頂いた。一番多くの患者が収容されていたはずで、私自身1954年からの3年間、夏休み毎に日本脳炎患者の病室に通って見学させて頂いた駒込病院では、移転中のためということで病歴を見ることが出来なかったのは本当に残念だったが、他の病院では何処でも親切に病歴を保管してある部屋に入って調べることを許されたのは有難かった。

 その結果日本脳炎の流行の激しかった年である1935-39年に生まれた286人と1948-55年に生まれた606人ではその生まれ月の分布には対照人口と比べて有意の違いがあり、冬生まれが少なく夏生まれが多い。ところが流行のあまりなかった1930-34年に生まれた159人と1940-47年に生まれた患者1,248人では対照との違いが目立たない14-16)。このことは不顯性流行よりも、実際に流行のあった時の方が胎児への影響も大きいことを示すものであろう。

 それは多分ウイルスの感染量が多かったためであろう思われたが、あるいは量だけではなくウイルスの質にも違いがあったのかもしれない。

 厚生省の患者票では日本脳炎ワクチンの接種歴が記載されていた。それによれば、患者票の日本脳炎患者4,272人の内879人(20.6%)が日本脳炎ワクチンの接種を受けていた。これは母集団となる一般人口のワクチンの接種率が多分これよりも高かったであろうとすれば、接種者で罹患率が低くなっていたのはワクチンの効果によるものと見ることが出来よう。

 ところが、患者のワクチン接種率を生まれ月で見ると5−7月生まれで22.8%と高く、12−2月生まれでは18.6%と低い。これは冬生まれのものではワクチンの効果が高く、夏生ま黷フものでは効果が少なかったことになるだろう。さらにこれを生まれた年で分けて、日本脳炎の流行していた1948-58年に生まれた456人で見るとワクチンの接種を受けていたものは245人(53.5%)と高率であり、中でも5−7月生まれは64%(74/115)と高く、12-1月生まれは45%(61/136)とやや低い17)。(図3)

 これは流行年に生まれたものでは、全般にワクチンの効果が低いことを示すものかも知れないし、或いは罹患時の年齢との関係があるのかもしれない。それは一般人口での出生年別の日本脳炎ワクチン接種率と比べてみないと決められない。何れにしても生まれた季節によってワクチンの効果が違うことは、これが胎児期または新生児期での日本脳炎ウイルスの不顯性感染の効果に基づくものであろうと考えさせるものである。


4.健康な住民血清の中和抗体価の年代推移

 厚生省では流行予測の目的で全国各地から健康な住民の血清を集めて日本脳炎ウイルスの中和抗体の検査をしていた。その報告書から流行が急に減り始める直前の1966から流行が収った1974年までの成績を図にして示した18)。(図4)

 1966年以後になって患者の発生数は激減したにもかかわらず、1974年になっても住民の中和抗体陽性率は全く低下が認められていなかった。ことに1972年以降に被験者となった健康な住民は日本脳炎のワクチン接種歴のなかったものだけについての検査結果であるとされていたのだから、もし自然感染を受けていなければ、抗体の陽性率も下がっているだろうとの予想に反していた。流行の終息以後に生まれた0−4歳のものでさえ50%以上の陽性率であったことは、患者数が激減して流行は収ったと思われていた時でさえ流行時に劣らない程度に中和抗体を産生させるには十分な量のウイルスの不顯性感染が続いていたことになる。

 これらの結果から次のように考えることが出来よう。日本脳炎の不顯性流行の存在は中和抗体の検出によって確認された。それが実際の流行に当たってある程度の免疫効果を示していたことから、不顯性流行のウイルスと発病力のある流行株とは全く同じウイルスのようにも思われる。しかし、ウイルスが感染したヒトやウマを発病させるか否かは感染ウイルス量の違いだけではなく、ウイルス自体の病原性に明確な区別がありそうである。実際には不顯性流行ウイルスと病原性ウイルスとの両方が混合して流行していることも多いのであろうが、ある地域では不顯性流行ウイルスだけが永年に渡って流行し続けることも普通に起っていたのであろう。不顯性流行ウイルスから病原性ウイルスに、あるいはその逆に変異することが流行の発生や終息の原因となるのであろうか。両ウイルスの違いとその変異の機序とを分子生物学的に明らかにすることが出来れば、流行の解明とワクチンの改良とに役立つものと期待される。

5.日本脳炎のHI抗体価と生まれ月

 日本では日本脳炎の流行がなくなってしまったので、生まれ月の効果を罹患率から見ることは出来なくなった。しかしまだ不顯性の流行は続いているだろうと思われるので抗体価の産生の程度から調べることが出来るだろうと考えて、東京の学生についてその出生地、ワクチン接種歴と生まれ月別にHI抗体価を調べてみた19)。

 どの群でも夏生まれの者ではそれ以外の者よりも陽性率が低いが、西日本生まれとワクチン接種歴なし群では特にその差が有意に開いていた。ワクチン接種歴ありの群は接種歴なしの群より、西日本生まれは北日本生まれよりも陽性率が高いのは当然であろう。

 夏生まれで陽性率が低いのは先に述べたように夏生まれでは罹患率が高く13-16)患者でのワクチン接種歴割合が多いこと17)と一致している。つまり、出生前後の時期に不顯性感染を受けたものでは、その後の感染によっても抗体の産生が悪く、ワクチンの接種を受けてもその効果が少なく、流行に際しては感染によって発病し易いということであろう。
           
6.ポリオの不顯性流行

 ポリオは1960年代になってワクチンが実施されるまでは日本でも激しい流行があって、恐れられていた。培養細胞によるポリオウイルスの分離同定や抗体の検査が容易に行なわれようになるまでは、実験動物としてサルが使われていたので実験はなかなか進まなかった。ポリオU型のLansing株だけは例外的にマウスに馴化されていたのでそれを入手してなんとか中和抗体の検査を行なうことができた。

 東京のほか熊本、岡山、青森、北海道から年齡別のヒト血清を集めて中和抗体の陽性率を見ると、生後6・月ではほとんど陰性であるのに、東京、岡山、熊本ではその後急速に陽性率が上がり、10歳では60%、20歳では80-90%が陽性となるが、50歳以上の者では陽性率は却って低下する。しかし、青森ではこれよりも陽性率が低く、北海道ではさらに陽性率が低かった。東京では新生児の臍帯血についても調べられて母親と同程度かそれ以上の抗体価が認められている20)。(図5)

 このことは、それまでほとんど流行のなかった東京以西の各地でもポリオウイルスの不顯性流行がかなり濃厚に広まっていたことを示している。北日本ではその程度は西日本よりも少なかった。青森県では1949年の5−8月を中心に流行が起り194人の患者が出た。中でも八戸では流行がもっとも激しくて64人の患者発生を見た21)。この時の流行では死亡患児の脊髄からサルを用いてウイルスが分離されT型と同定されている22)。

 ポリオは衛生状態が悪く不顯性感染の多いところでは実際の流行はなく、清潔になりウイルスの汚染が減少すると、感染伝播の頻繁となる夏に、まだ抗体価の低い小児層に実際の流行が起こるとされている。北海道ではもっとも抗体陽性率が低かったためか、果たして1960年の5−11月には北海道を中心として全国では5,000人を越える空前の激しい流行を見ることとなった。

 ポリオの流行は5−8月の頃に多く、不顯性感染の極めて多いものである。1949年の八戸の流行では、もっとも流行の激しかった1地区で2−4歳児に18人の患者がでたが、それは同地区の2−4歳児の総数1,902人のほぼ1%に当たった。つまりもっとも感受性の高い年齢集団が激しい流行に暴露された場合でもその発病率は1%程度で、99%のものは不顯性感染に終っていたのである21)。

 東京でも1948年夏に発病した患者の健康な父親の糞便から直接マウスの脳内に接種してU型のポリオウイルスが分離された22,23)。この偶然の成功はマウスがポリオの実験に使える可能性を大きく開くものかと思えたが、その頃から培養細胞がポリオウイルスの分離や同定に容易に使えるようになったためにほとんど関心をもたれなかった。
 
 一定の季節に多数の者が高率に不顯性感染を受けているとすれば、妊婦や種々の胎齢の胎児にも不顯性感染がおこり、その胎児が生まれた場合には感染時の胎齢に応じた生まれ月によって後のポリオの罹患率に差が見られるかもしれない。そう考えて東京で1948年から1961年の間に罹患した14歳以下のポリオ患者で、東大小児科、国立第1病院整形外科、墨東病院などで診断された958人の生まれ月を調べることが出来た24,25)。対照としては1948-60年の東京の一般出生の月別数を用いて図に示した(図6)。12-2月生まれでは期待値より有意に少なく、8-10月生まれでは多かったので、ポリオでも日本脳炎と同じように、流行期に生まれた者では感染によって発病しやすくなっていると思われた。

7.一般ウイルス感染の非特異的効果

 ここでは日本脳炎とポリオという日本で不顯性流行の著しく多かった二つのウイルス病を例として胎児期での不顯性感染が生後そのウイルスの感染に対する感受性の程度に影響していることを示した。

 不顯性感染のあったことは抗体価の検出で証明されるが、抗体陰性であっても感染のなかった証明にならないことは自明である。北海道の日本脳炎の亜流行地ではヒトとウマとで共に8%が中和抗体陽性であった。このことから実際にはどの程度の感染率であったのかは決め難いが、少なくともそれ以上のヒトやウマが感染を受けていたことは確かであろう。それでもその地域では日本脳炎患者や患馬の発生はなかった。

 このような条件下で不顯性流行をするウイルスは、その地域では病原性のないものと看なし得るので、水道水にも含まれる一般細菌や病原性のない常在細菌と同じように人畜に無害な「一般ウイルス」と呼んでもよいようなものと思われる。

 しかしそのような一般ウイルスが、たとえヒトに感染して直ちに急性の病気を起こすことはないとしても、何等かの軽微な障害をどこかに生じている可能性はありそうである。始めは全く症状のなかったごく軽微な病変でも、その後遺症が永年の経過の後に次第に増悪して起ってくるのが成人病といわれているような変性疾患や退行性の疾患などなのかもしれない。もしそういった一般ウイルスの流行にも季節的な偏りがあったりすれば、胎児期に感染した時の胎齢によって出生後の感受性には生まれ月による差が生じて、成人後の発病にも生まれ月による差が見られるかもしれない。

 日本脳炎のようなアルボウイルスは500以上も知られているが、それらは総て血液中にウイルスが大量に出現するからこそ、吸血性の節足動物による媒介が成立する。そういったウイルスは血管壁に感染して増殖し、そこに軽微な障害を残す可能性が考えられる。そこから将来血管の変性や動脈瘤などを生じてくるのかもしれない。現在最大の死因となっている脳・心血管障害の真の原因にはその様なことも考えられる。

 そういった問題を提示してその解決への道を探る糸口を見つけようというのが生まれ月学の一つの目的である。その他にも生まれ月と関係するいくつかの問題が起っている。それらについてデ−タに基づいて順次考察を加えてみたい。

文 献
1.Mitamura, T., Kitaoka, M. & Miura, T. 1950 On the geographical distribution of Japanese B encephalitis in the Far East Asia. Jpn. Med. J. 3: 257-264
2.Umenai, T., Krzysko, R., Bektimirov, T.A. & Assaad, F.A. 1985 Japanese encephalitis: current worldwide status. Bull. W.H.O. 63: 625-631
3.Vaughn, D.W. & Hoke, C.H. 1992 The epidemiology of Japanese encephalitis: Prospects for prevention. Epidemiol. Rev. 14: 197-221
4.Igarashi, A. 1992 Japanese encephalitis - Virus, Infection, and Control. (In; Control of virus diseases 2nd ed.) ed. Kurstak, E. Marcel Dekker, New York/ Basel/ Hong Kong
5.Steinhoff, M.C. 1996 Japanese encephalitis: a Chinese solution? Lancet 347: 1570-1571
6.緒方隆幸 1988 東南アジアで見られる節足動物媒介のウイルス病:特にデング熱及び日本脳炎(附:チクングニア)U.日本脳炎 熱帯 21: 121-129
7.飯村保三 1938 沖縄県の流行性脳炎について 東京医事新誌 62: 650 (No3074)
8.酒井潔 1935 台湾地方に於ける小児夏期脳炎に就いて 台湾医学会雑誌 34: 77-88
9.Deuel R.E.,Bawell, M.B., Matumoto, M. & Sabin, A.B. 1950 Status and significance of inapparent infection with virus of Japanese B encephalitis in Korea and Okinawa in 1946. Amer. Jour. Hyg. 51: 13-20
10.WHO 1997 The World Health Report 1997 - Conquering suffering, Enriching humanity. WHO Geneva
11.三浦悌二:1967 日本脳炎研究の疫学における発展 神経進歩 11: 259-272
12.三浦悌二、北岡正見 1955 北海道における日本脳炎の免疫学的疫学。ウイルス 5: 62-73
13.三浦悌二、町田和彦、柳井晴夫、緒方隆幸:ヒトの日本脳炎感受性におよぼす出生季節の影響 1972 日衛誌 27(1): 200
14.三浦悌二、江間実、竹尾恵子、町田和彦、緒方隆幸:ヒトの日本脳炎感受性におよぼす出生季節の影響 (第2報)1973 日衛誌 28(1): 231
15.Miura, T., Ogata, T. & Ema, M. 1977 An epidemiological study on the susceptibility of Japanese people to Japanese encephalitis virus infection by season of birth. Jpn. J. Hygiene 32: 429-433
16.Miura, T., Ogata, T. & Sugamata, M. 1987 Japanese encephalitis: Different susceptibility by season of birth. In: Seasonality of Birth (ed. Miura, T.) Progress in Biometeor 6: 205-213 SPB Academic Pub. Den Haag
17.三浦悌二、田村弘、志村正子、緒方隆幸 1976 日本脳炎ワクチンの予防効果に見られた出生季節の影響. 日衛誌 31: 520-524
18.三浦悌二 1977 日本脳炎患者の減少と今後の予測 からだの科学 77: 65-70
19.Sugamata, M. & Miura, T. 1985 Dependence on the birth season of the level of haemagglutination inhibition antibodies against Japanese encephalitis virus in the Japanese population. Acta virol 29: 251-253
20.Kitaoka,M. & Miura, T. 1951 Geographical distribution of neutralizing antibody against poliomyelitis virus "Lansing" strain on human sera collected in various parts of Japan. Jpn. Med. J. 4: 215-221
21.北岡正見、三浦悌二、秋山新治、荒井政雄、小松武治、天野正也、虻川宏 1951
1949年青森県下に流行した灰白脊髄炎に関する研究(T)疫学的調査 日衛誌 5: 21-24
22.Kitaoka, M, Miura, T. & Hori, K. 1953 Immunological classification of poliomyelitis viruses isolated in Japan. Jpn. J. Med. Sci. & Biol. 6: 463-473
23.北岡正見、三浦悌二 1951 マウスを用いた患者家族糞便よりの灰白脊髄炎ウイ−ルス(B34株)の分離 ウイルス 1: 31-36
24.三浦悌二 1986 東京におけるポリオ患児の出生月分布 医学と生物学 113: 111-112
25.Miura, T. & Shimura, M. 1987 Pediatric viral infections by month of birth. In: Seasonality of Birth (ed. Miura, T.) Progress inBiometeor 6: 215-219 SPB Academic Pub. Den Haag


V 早生まれ現象の消失


1.早生まれ現象

 生まれ月学の深層には胎児期でのウイルスの不顯性感染がある。その表層に見られる現象は出生児数の月別分布である。ある疾患での患者の生まれ月の分布が母集団である一般出生の分布に比べて異常な場合にその理由を考えて、その疾患の発症に出生前後、ことに胎児期での環境要因の関与を考えるのが一つの定石となっている。それがもっとも盛んに応用されているのは精神分裂病の原因ウイルスの追及であろう。これについては別に述べたいと思う。

 その様な研究の場合には、いつも健康者あるいは一般人口での生まれ月の分布が対照として必要となる。ところが一般人口というのが案外に難しいものなのである。普通には出生届けによる月別の出生数が使われることが多い。しかし、日本では出生届けにかなりの人為的な操作が加えられていたために、人口動態統計の数字をそのまま信用することをためらいたくなる。また成人患者での対照としては、出生時の生まれ月の分布は乳幼児死亡率の高い場合には対照となる母集団としては適当とはいえない。母集団には同じ年齢の成人人口での生まれ月の分布を使うのが妥当ではあるが、それを容易にえられるような人口統計などはできていない。

 それで、やむをえずに人口動態統計の月別出生数を使うことにもなるのだが、そうやっているうちに、色々と分かってきたことがある。それはこの動態統計からでも自然不妊の目立たない大流行が長期的な変動をしている様子が浮び上がってきたことである。それに気が付いたのは先ず早生まれ現象の急激な消失に驚いたことに始る。

 日本では早生まれ、つまり1月から3月までの3か月の間に生まれる人が多かった。それが1960年代になるとむしろ夏生まれの人の方が多くなってしまった1,2)。(図 1)

 その変化の急激だったことは驚くばかりである。元来ヒトの出生季節というものは生理的な自然の出生力の季節性と、それに加えて季節性のある社会的な要因とが組合わさって出来上がっている。その上統計に現れる数字では届け出の時に人為的な操作が加わって実際の出生とは違った月日とされることも起る。それらの中のどれが変ることによってこのような変化が起こり得たのであろうか。

       図1 東京の月別出生分布の年代推移

 出生の季節分布が急激に変動する原因として考えられるものには何があるだろうか。第1には、人の生殖能力に関する自然の生理的な季節のリズムが数年の短期間に急変するようなことがあったのかもしれない。第2に、人の行動に大きく影響するような社会的な条件、例えば集団的な季節労働による出稼ぎの量などには大きな変動があり得ただろう。20世紀初頭の北欧ではそいうことが起ったといわれる。1960年代の日本では急激な経済成長が起こっていたのでその様な要因もあったかもしれない。第3に、出生の届け出を遅らせるなどの人為的な操作は、時代の風潮によって大きく変ることもありえただろう。

 その実態を探るために、まずは人口動態統計によって月毎の出生率や死産率を検討してみることとした。さらに病院での出産記録から実際の出産の季節分布についても調べることが出来た。こういった検討を加えた末に、第4の可能性として思い当ったのが「自然不妊」の流行季節の変動であった。
 自然不妊の流行が、例えば夏から秋にかけて激しかったとすれば、それから9か月後の翌年4月から7〜8月頃までの出生数が減少することになる。その影響から完全に回復して正常に戻るのが翌春の4月から6月頃になるとすれば、1〜3月の早生まれが相対的に多いことになる。だから自然不妊の流行が急になくなったりすれば、早生まれが多い現象はなくなるかもしれない。そのことをなんとか確かめたいと思って生まれ月の調査を始めることとなった。
 もし、自然不妊の流行が一層広まって1年中激しく流行するようになったりすれば、年間の出生率も低下することになる。それが続けば人口は減少し始め、そのまま続けばその民族は滅びることにもなるだろう。そう思うと心配になってくる。今大きな問題となっている少子化には、社会的な原因による晩婚晩産や非婚の増加といったことの他にも、生物学的な要因としてあるいはこの自然不妊の流行も原因の一つになっているのではないだろうか。

 今まで人口というものは基本的には増え続けるものであると信じられてきた。健康な生物ならばそうだったに違いない。不健康になった生物は間もなく滅び去ってしまったのだから今この世にいる生物は総て健康だったものだけが選び抜かれて生き残ったものなのである。しかし考えてみると、滅び去った生物は人類の仲間をも含めて何と多かったことであろうか。今生き残り栄えている生物も、もし自然不妊に侵され始めると次第に滅びる他はない。佐渡のトキのように、いくら手を尽くし保護を加えても、子孫を残すことが出来なくなるのだろう。
 マルサス以来、人口は原理的に増加するものとの信念は、種として健康だった人類にとっては公理のように不動の真理だった。しかし自然不妊に侵されて不健康になり滅びさった人種や旧人類のことに考が及ばなかったのは、あるいは勝ち残った者の思い上がった奢りだったのかもしれない。人口が増え続けるとの信念もそれが人口のバブル信仰だったことに将来になって気付くことになるのだろうか。
 人口増加の公理が今の人類にとって幻のバブルとなって終らないためには、生物学的な人口学を確立し、自然不妊の本態を明らかにして、人口問題に対しては増加と減少との両面からの生物学的、医学的な対策を早急に立てておくことが必要なのではないだろうか。まずは自然不妊を考える手がかりとなった早生まれ現象から検討を始めて見たい。

2.早生まれ
 早生まれとは、ここでは1月から3月末までの3か月間に生まれた人と考えている。昔は数え年で8歳になるとその4月には小学校にあがれるというので、私もその日を楽しみに待っていた。4月1日になって母に付き添われ、初めて札幌の大通小学校に行く時、北1条の角では道端の大きな樹の根元にまだ雪が残っていた。わざとその雪を踏んで歩いてから母を見上げたことを不思議と覚えている。ところが学校に入ってみると、まだ7歳なのに一緒に入学している子が沢山居るので驚いた。家に帰ってから父にそのことを言うと「それは早生まれの人なんだよ」といって「7つでも3月までに生まれた人は8つの子と一緒に学校にあがれるのだよ」と私に教えてから、「早生まれが多いのは不思議なんだな」と独り言のように言っていたことがなぜか何時までも耳に残っていた。その言葉が早生まれ現象としてその意味を考えさせるまでには、それから60年近くも経っていた。

 法律的には4月1日生まれの人も早生まれとされている。しかし、これはいかにも不自然だと思われる。そこで、それを決めた法律(年齢計算に関する法律:明治35年)の根拠を知りたいと思って民法制定当時の議論(法典調査会民法議事速記録、第9回:明治27年5月4日)を読んでも、年齢の数え方について4月1日生まれを早生まれとすることには納得できる根拠が見当たらない。ただ丁度午前零時に生れた場合だけは例外としてその日を算入してもよいだろうとの意見のあったことが記録されている。それが根拠もなく拡大解釈されてしまったのかもしれない3)。何時か機会があったらこの明治35年の法律は廃止した方が良いと思っている。

 それはともかく、日本では早生まれの多いことは余りにも異常であり、出生数の少ない5-7月に比べると2倍以上にもなっていた。それで日本での早生まれ過剰の現象は多分届け出の際の人為的な操作によるものだろうとされている。
 それは4月以後に生まれた人を3月の早生まれとして届けると、小学校には1年早く入れるし、卒業も1年早くなり、1年早く社会に出て働くことが出来るので有利だと考えたのであろう。また12月に生まれた人を1月として届けると、学校関係に不利はなく、数え年ではいつまでも1歳若くいることが出来るわけで、いずれにしてもわが子の将来に有利なようにという親心によるものだったと思われる。

 しかし、早生まれが他の月に比べて多いことは世界的な傾向であり、それはヨ−ロッパの各国でもそうだったので、ヒトでの生物学的な繁殖季節の名残のようなものと考えられていた。ヨ−ロッパでは秋に第2の山が見られているが、それはクリスマスの休暇に受胎の増加があるためとされている。アメリカだけは例外的に早生まれの山がなく、夏の方が多く生まれていたのだが、それには納得できるような説明が出来なかった4)。(図 2)中でも日本だけは特に早生まれが多かったので、こういった生物学的な自然現象や社会的な条件の上に、届け出の人為操作が加わって出来ていたのだろうと思われる。

        図 2 出生季節分布の各型

 実際の出生届けの数には、人為的な操作がどの程度影響していたのかが分からないと本当の出生や受胎の季節変動を真面目に考える段取りにはならないので、何とかそれを区別してみたいと考えていた。そこで先ず死産届けの検討を試みた。

3.死産児の生まれ月
 誕生した子供の幸せを願うのはどの親でも同じであろう。だからこそ、生まれた時から何時学校に入れるのかを考え、名前を決めて役場に届ける時には早生まれの方がきっと得かもしれない、その方が将来の幸せにもなるだろうなどと思いを巡らせて4月に生まれた子供の届けを、遅れた口実を考えながら3月として届け出たのであろう。
 人口動態統計に記録された月別の出生数を見ると、日本の出生届けにはかなり大幅な届け出の操作があると思われたのも無理はない。日本の早生まれ現象はア−ティファクトであるとされたことに簡単には反論が出来ない。 

 そこでまず、出生届けと死産届けの数字を比べてみることとした。死産の子には将来が無い。親にはつらいことだが、その届け出には子の将来を思っての操作を加えることはなかった。だからそれをみれば、本当の月毎の出生数の変動を推定できるかも知れない。早生まれ現象の著しかった時代として1920年の月毎の出生数と死産数とを比べて見た。(図 3)

       図 3 出生届と死産届との比較 (1920年)

 図には日本全体と鹿児島県の月別の1日当りの出生数と年間での1日当りの出生数との比を示してある。全国についてみると、死産と出生とにはあまり大きな違いはないようだが、比較すると死産の方が変化がスム−スで自然の変動のように見える。出生では3月に異常な突出がみられ、4月と12月の出生は異常に少ないことが見られる。これから4月の生まれは3月に、12月の生まれが1月に届け出られていたのではないかと考えられる。しかし1月には死産も多いので出生が特に多過ぎたとも見られない。9月の出生も死産に比べると多い。
 鹿児島県では、3月の出生が年平均の2.5倍と特に多く、4月以降には0.5倍と極端に少ないので、3月の出生数は4月の出生数に比べると実に5倍もあったことになる。ところが死産の方では3月も4月も殆ど同数だった。これで見ると死産の方は自然のままの実際の数字のようで、出生の方にはかなり大幅に人為的な操作があったと見られるであろう。10月と12月の出生数も少ないのだが、1月の出生数が特に多くなっているようには見えない。ここでも9月の出生数の割合が死産のよりも多い。

総括すると死産でもそのピ−クは1月にあったので、やはり早生まれが多かったに違いない。出生の方でピ−クが3月にあったのは、4、5月と12月の出生が異常に少なかったことと共に人為操作によるものと見られる。9月の出生割合も死産よりも多い。これは全国的にも見られるので、これが第2の出生の山の存在を示しているのであろう。
 県別に見ると、この頃には一般に西日本では3月の生まれが好まれ、北日本では1月の生まれが好まれたようである。日本国内でも地域的には考え方の違いがあり、それが出生届けの人為操作にも現れているようで興味深い。

 死産は出生とは少し違って、早産の場合も多い。その当時の死産児では10か月、つまり早産でなかったのは死産全体の37%、7か月以上の早死産を合計すると85%を占めていた。死産児の胎齢は平均すると8.5か月だったので生産児よりは1月半ばかり早かったことになる。それを考えると死産のピ−クが1月にあることは、満期での出生のピ−クも本当はその少し後の2、3月の頃にあったのかもしれない。つまり、死産児から見てもやっぱり早生まれが多かったことになる。

4.病院での出産数
 人口動態統計による出生数には時代に応じた人為操作が大きく働いていたことが分かった。しかしそれらの成分を正確に推定し除くことは難しい。そこで、私たちは出生の季節性を正しく知るために、東京駿河台のある産科病院での出産記録を調べてみた。病院では出産の度に記録しているので、役所への届け出とは関係なく本当の出産の日が分かる。この病院では1923年の関東大震災で焼失してから後の病歴がすべて整然と保管されていたのでその閲覧をさせて頂くことが出来た。

 病歴の保存・保管は臨床医学の研究には欠かせない。ミネソタにあるメイヨ−クリニクでは古くから総ての病歴が保管され、それを利用した研究論文が時々出されているのを見て羨ましく思っていた。日本では保管の場所がないためになかなか実行されていない。古い産科の病歴を調べたいと思って、はじめは東京のある大学病院を訪ねてお願いしたところ、古いものは破棄してしまったといわれてがっかりしていた時なので、私立の病院でもこんなに立派に保管されている病歴を見た時は宝の山に入ったように嬉しかった。実際ここの病歴から私たちの研究は大きな成果を挙げることが出来たのである。

 ここで調べた出産の内1924年から1940年までの17年間にあった18,984件の出産の月別分布を、1930年の東京での175,890人の出生と9,872件の死産の届け出の分布と重ねて図に示した。(図 4)

      図 4 浜田病院の月別出産数と東京の出生と死産 (1930)

 病院の出産数は届け出の出生数と比べると1月と3月の山や12月の谷が見られないので、死産の届けとはその傾向がかなりよく一致しているようである。死産届けは8月に予想よりも少ない。これは北海道でも8〜10月の死産が出生に比べて少なかったので、夏には本当に死産が少なかったのかも知れない。
 病院での出産記録から、東京では1月の早生まれの山は届け出ほどではなかったけれども、それでも平均の1.3倍程度の山のあったことが確かめられたことになる。これでも西欧諸国よりは大きいので、日本で早生まれが多いのは届け出の操作だけによるものではないことが分かった。その後の生まれ月の研究はこの産院での記録が信頼できるものとして大きな役割をすることとなった。

5.外国の早生まれ
ヨ−ロッパの国々でも1〜3月の生まれは多いので、早生まれ現象は人類共通の生理現象のように思われていた。生まれ月研究の元祖とされるHuntington 4) は西欧諸国の生まれ月の分布を調べて、1〜3月に出生の山のあることを指摘している。北欧のノルウエ−やすスコットランドで19世紀には秋にも出生の山が見られたが、それは季節的な出稼ぎが多かったので、その人達が冬のクリスマス休暇で帰省した時に受胎の機会が大きく増えたのだろう。20世紀になって出稼ぎが減ると共に秋の山は消失し1〜3月の元来ある自然の山だけが目立つようになったのだといっている。(図 5)

        図 5 西欧諸国の生まれ月分布の年代変化

 この図でも見られるように、早生まれが多いといっても外国ではせいぜい平均より 10〜15%くらい多いだけで、日本のように40〜60%も多いというのはやはり異常だと見られても当然だった。9月頃に見られる小さな山はクリスマス休暇での受胎の増加とされている。そういったことから早生まれの多いことはヒトに共通の自然現象で、これは動物としての本来の本能的な性質であろうと思われてアニマルリズムともいわれた。
  
韓国は日本の隣国であり、気候や風土も日本とあまり違わない。近年の経済成長にも目覚ましいものがあり、1988年にはソウルでオリンピックが開催された。日本では1960年代に東京オリンピックの開かれた頃を境に新幹線の開通、高速道路の建設といった大掛かりな建設と急速な経済成長とがあり、家庭でも冷蔵庫や暖房冷房の普及などが生活の様式を大きく変えて季節変化を消失させたことが早生まれ現象を消失させたとされて「脱季節化」の結果として説明された。韓国でも1980年代には近代化が急速に進んで、暖房や冷房なども普及しただろうと想像される。ではその韓国での生まれ月の分布はどうだったろうか。(図 6)
 
        図 6 韓国の出生数の月別変動 (1991年)  

 韓国の人口動態統計5)によれば、図6で見るように韓国では今でも早生まれが多い。不思議なことに、日本では早生まれは段々に目立たなくなって1970年代になると早生まれ現象は全く無くなったのに、韓国では1991年になっても早生まれは目立って多くなっている。韓国での傾向が実際のものなのか、日本であったように人為的な届け出の操作があったのかは産院での出産記録との比較検討をしてみないと分からないが、日本では早生まれ現象の消失が生活環境の近代化に伴う脱季節化によって起ったといわれているのに、韓国では同じような脱季節化が全く起っていないことは注目に値する。このことは逆にいえば、日本で起った早生まれの消失も、生活環境の近代化やそれによる脱季節化によるものと信じられているけれども、実はそれとは全く別の原因によるものであったのかもしれない。

6.地域差と年代変動
 早生まれ現象が起こるのには取りあえず3つの成因が考えられる。一つは生物学的な自然現象としての受胎の季節性、第2は年末年始の季節的な休暇などによる社会的な要因、第3は人為操作による届け出のズレがある。その三つの合成が実際の出生届けの数字となっているので、その区別が出来ないとそれ以上の解析が進まない。自然現象として早生まれが多いのは、出産や授乳といった母親の手が離せない時期を、農作業などの少ない冬の間に済ませてしまうための太古以来の動物的な本能によるものだろうとも考えられる。第2の要因は冬至の頃に長い休暇があり出稼ぎに出た人達が一斉に帰省することがあげられる。その例として北欧での19世紀の出生季節の鋭い山が秋にあったことが指摘されていた4)。日本でも1930年代の青森では出生の山が9月か10月にあったし、戦前の沖縄では11月に出生のピ−クがあった。これも出稼ぎが多く、新暦や旧暦の正月に帰省した為かと思われる。第3の届け出の要因は日本のように異常に多い早生まれの原因として学校の入学時期や数え年の習慣などによるものが言われている。そこでこれらの要因の関与を探る手がかりを求めて、早生まれの地域的な分布とその年代変動とを検討してみた。

 人口動態統計から5年毎に出生のピ−クが何月だったかを府県別に調べてみた。1930年代までは出生数のピ−クは1月でなければ3月にあった。その後は圧倒的に1月が多く、1960年代になると1月が減り始めて、1980年代以後になるとピ−クは完全に7、8、9月の夏の季節に移ってしまった。(図 7)

        図 7 1日当りの出生数ピ−ク月の割合の年代変動  

 地域に分けて見るとさらに面白いことが分かる。始めの1900年には全国的に出生のピ−クは1月に多く47道府県のうち35(74%)を占め、残りは2月か3月などであった。ところが1905年になると突然に3月生まれが多くなり、東日本では1月と同数程度に、西日本では逆転して3月がピ−クの78%を占め、1910年にはさらに増加した。
この激変には、1902(明治35)年に年齢計算に関する法律が制定されたのが切っ掛けになって早生まれの効用が普及したためなのかも知れない。その上に日露戦争(1904-1905)による工業化の影響で賃金労働者が増加して、早くに入学・卒業して就職することが望まれるようになったのだろうか。
 1915年になるとまた1月ピ−クが急速に復活し始めたのだが、東北地方だけはその後も暫く完全な3月のピ−クが続いていた。早期就職の願望は不況の時代を通じてことに強く支配的だったように見える。それに比べると関東、東海地方では何時でも1月のピ−クが続いていた。1940年になると東北・北陸の一部を除いて3月のピ−クは全く見られなくなった。この頃には、戦争の影響が前途を暗くし始めた時代だった。しかし、北日本ではなんとしても早く働きたいとの考えの方が強かったのだろうか。他の地域では早く働くよりは年を若く見られる方が大切だったということもあったろうが、1月のピ−クが出生にとって本来の自然の出生の山だったのが主な理由だったと思われる。
 1960年代になると1月のピ−クが減って2月がふえ始めたが、3月のピ−クは全く見られなくなった。これは出生届け出の人為操作が減少して、本来の自然の出生のピ−クが2月にあることが表面に現れたのであろう。1970年代になって7月と9月のピ−クがふえ始めたが、その後は7、8月にピ−クが移っている。この頃になるとピ−ク月の地域差はあまり目立たなくなった。こうしてみると、3月の山は人為的なものだったように見えるが、1、2月の山は元来は自然の出生のピ−クだったものに、1月には地域によっては届け出の操作も加わっていたものと見られる。戦後にはそれが消失して7〜9月の季節に出生の山が移ったのは、重大な意味のある現象なのだろうと思っている。

7.昔の出生季節
 日本で人口の統計が出来てからは初めから早生まれが多かったし、外国でも同じ様な傾向があったので、それは生物としての人類に本来備った生理的なリズムであろうと思われていた。だから20世紀の後半になって、日本だけでなく世界の数箇所で春の出生の山が消えて9月頃の山に移ったことは、近代文明ことに照明やTVの普及による生活リズムの変化、暖冷房や冷蔵・冷凍技術などの急速な普及によるいわゆる「脱季節化」などが原因だろうと思われている。
 しかし、日本で1960年代に起った出生の春山の消失があまりに急激であり、そういった生活様式の変化では説明しきれないように思われた。それは人為的な、あるいは文化社会的な動機による人の行動様式の変化によるものではなくて、自然現象としての妊娠や出産、あるいは自然不妊の流行といったものも考えられるかもしれない。それならば、それは最近の現象とは限らないで昔の時代にも起こっていたかも知れないではないか。

 そこでまず、もっと古い時代の出生季節の分布がどうであったのかを知ろうとした。
具体的な個々の資料から生年月日を集めようとして友人や知人を始め、住民台帳、老人施設の入居者名簿、同窓会名簿、国会議員名簿などを調べたが、そうした方法では1850年以前の生まれはほとんど見当たらない6)。ただ大阪の中之島図書館が保管する宗旨人別帳などから1755年から1867年までに生まれた1,375人の貴重な生年月がえられた7)。
 平凡社の日本人名大事典には5万人もの記事があるのだが、古い人では生年月日のあるのは少なく、日本では外国と違って誕生日にあまり意義をおかなかったようである。それでもこの事典で、709年から1850年までに生まれた者だけでも2,687人の生年月が分かった。

 日本では個人の経歴の記載に生年月日のないのことが多いので、外国での調査を思い立った。キリスト教国では教会で洗礼を受けた時の記録がよく保管されている。旧東ドイツの東端にある町ゲ−リッツに行く機会があり、そこの教会事務所では1675年以来の記録が保管されていた8)。その他にも、ドイツ、イギリス、アメリカの各地の図書館などでも調べることが出来た9,10)。そのほか文献に見られるイギリスのヨ−ク11)、ドイツのブレ−メン12)などでの成績をも加えて一覧すると、どこでも大体は春山の時代が長いのではあるが、周期的に数十年続く秋山の時代が出現していたことが明らかになった2)。(図8)

       図 8 出生季節の春山時代と秋山時代の周期的出現

 このことは最近に起こった早生まれ現象の消失は、暖冷房や近代技術とは全く関係のないことでも起こっていたことを示している。ではそれは何によって起こったと考えられるのだろうか。

8.出生減少の季節
 早生まれ現象といったのは出生数の山が1、2、3月に異常に多く起こったことである。日本では人為的な届け出の操作もあったが実際にも早生まれは多かったことが分かった。それでは出生の谷の月は何月だったのだろうか。これにも人為操作の跡が見られるのだろうか。
 人口動態統計から5年毎に47の都道府県別に出生の谷の月を探して表にしてみた。ここでも1945年の数値は除き1950〜1970年には占領下だった沖縄県が含まれない。

      表 1 年代別の出生数割合の最低の月の分布

 調べた年では1月や2月に谷のあったところはなかった。それは早生まれの季節だったので山の月に当たっている。ところが1970年以後になると3月に谷の来ることも稀ではなくなった。
 全体を通じて、出生数は6月が最低というのが圧倒的に多く1965年までは変らない。その後になると谷の月が急に11月に変った。戦前に多かった4月と12月の谷は人為的に早生まれとしたための谷とみられるが、1970年以後にも残っていることや、3月にも谷の現れたことからみると自然の谷としての要素も幾分はあったことが分かる。

 1965年ごろを境に、出生の季節分布に大きな変動があった。それまでの人為的な操作による影響が減ってきて本来の自然の姿に戻ったのかとも思われるだろうが、それならば以前の6月の谷は届け出の人為的な操作によって起っていたのであろうか。人為操作の一番激しかった、つまり早生まれの特に多かった1920年ごろには谷が4月や12月にあるところもあったが、それは子供の出生を3月や1月にするための人為的な谷だったとみられる。しかし6月の谷ではそれが人為的に作られたと考える理由が思い当たらない。今では最低の谷が11月になったのだが、これはなぜだろうか。これも届け出の操作ではなくて自然現象だと考えられるだろう。 
 それ以外の月については、年代による変動が激しく、また地方による違いも見られた。最初の頃1905年までは谷の9割は6月にあったが、その後1925年までは6月の次は4月と12月にも谷が見られた。ことに4月の谷は四国や九州の南日本に多く、12月の谷は関東・東海の地方に多く見られた。これは出生届け出の人為操作の重点が、東日本では1月に、南日本では3月に集中していたことを示しているのだろう。次の1950年までになると4月の谷は消えて6月の次は5月と12月になった。戦後の1955〜65年ともなると再び6月の谷だけが目立ったが、さらに1970〜90年ともなると11月の谷だけが圧倒的となり、隣の10月に谷のある県も増えた。
 こうして見ると自然の出生の谷は以前は6月にあったのに、最近になって11月に移ってきたように見える。この2つの谷がそれぞれ別々の年代での自然な出生の谷だったので、その他に見られた4月や12月の谷は大部分が人為操作によって作られたものであろう。5月や7月、最近での10月の谷は6月や11月の谷のずれたものと見られるだろう。
 
 ではこうした6月や11月の出生の谷はなぜ出来たのであろうか。またなぜ6月か
ら11月に一斉に移ったのであろうか。6月から11月へ、これこそ自然不妊の流行の季節が大きく変ったためのように思われる。今まで8〜9月に流行して6月の谷を作っていた夏型の自然不妊が、1960年代からは2月に流行して11月に谷を作る冬型に移ってしまったと考えるのはどうだろうか。しかし、こんな変化がなぜ起ったのだろう。そうすると都合のよくなるような社会的な条件があったのだろうか。思い当るところはないし、誰もこのことを問題にしたとは聞いていない。私たちにはそれこそが自然不妊の流行とその流行季節の年代による長期的な大変動ではないかと思われるので、これについてはさらに検討を続けたい。
 早生まれのような出生の山が出来たのは、日本での人為操作を別にしても世界各国共にこうした出生減退の少ない季節が山になって残ったものであろうというのが私たちの考えの基本にある。
 私たちのいう自然不妊とは別に、ある伝染病の流行が出生数の大きな季節変動を起こしていた例があった。それはインフルエンザの大流行だった。

9.インフルエンザによる出生減少
 スペイン風邪(1918年)の流行
  生まれ月の谷はたいていは6月にあって、時には5月にずれることもあった。届け出を1月や3月の早生まれとしたためと思われる12月や4月にも谷が見られた。1970年代になるまでは、それ以外に谷のあることはほとんどなかった。ところが、1919(大正8)年だけは8月の出生数が1番少ないのが異例として目立った。これは不思議である。何故だろうか。そこで取りあえずその前の年と比べて見ることとした。前の年はスペイン風邪の流行した1918である。(図 9)

     図 9 出生数と死産数−インフルエンザ流行年と
         その隣接年との月別比較

 流行のなかった1919年の出生数を、流行のあった前の年の同じ月の出生数と比べて見ると8、9月だけは前年の 0.80、0.85 倍と激しく減少している。これは1918年の11、12、月にインフルエンザの大流行があって、この2か月に全国で6万人以上がそのために死んだことと関係がありそうである。この流行は1918年の10月に始り翌年の5月頃まで続いた。この時のインフルエンザは何故か近頃の流行とは違って、老人や子供よりも働き盛りの青壮年の人が多くかかり多く死んだ。インフルエンザのために11、12月の受胎が減るとそれから9か月後の翌年8、9月の出生数が減るはずである。これが出生の谷を翌年の8月に作らせて私の目をひいた原因であったに違いない。また図では11、12月の出生数の比が急に上がっている。これも流行の時には出生数が減っていたためと考えられる。
 死産数を比べてみると、1919年の11月には前年の0.74倍と異常に少ない。これは1918年のこの月に死産が多かったためで、インフルエンザの流行が大人の死亡を増やしただけでなく、死産児の出産をも大幅に増加させたためだと見られる。しかし12月の死産には違いが見られないのはこの月から1919年にも再び流行が始ったためだろう。

1920年の1〜5月にも前年の12月から始ったインフルエンザの大流行があって、1月と2月だけでも7万人が死んでいる。流行のなかった翌1921年の10、11月の出生数が前年と比べて目立って多いのは1920年の流行でも1〜2月に受胎の障害や早期流産が多かったために、その9か月後の出生が減少したためと見られる。流行の時には死産も増えていたので、流行のなかった翌年1〜4月の死産は相対的に少ない。1920年の9月に出生数が急増したために翌年9月で出生数比が急減して見える、この9月の出生増加は新しい謎となった。

 出生数には届け出の人為操作が絡むのですっきりしないところもあるのだが、図に示したように流行の年と隣接する年との比較から、インフルエンザの流行が胎児にも感染して死産を増やし、受胎をも障害して9か月後には出生数を大幅に減らしていたことが認められるだろう。

香港風邪(1957年)の流行
 その後もインフルエンザの流行は度々あったのではあるが、スペイン風邪に次いで激しかったのは1957年の香港風邪であったろう。この年には1、2月と6、7月さらに11、12月と3回もの流行の山があった。インフルエンザによる患者数は100万人に近く、死亡者が7,735人とされるが、新聞の報道では学童の患者数は200万人を越えていたようである。人口動態統計によれば、それまで年々減少を続けていた総死亡数がこの年は急に前年よりも2万8千人と3.9%も増加していた。その後この死亡数に達するのは実に30年後の1987年のことであったことからも、この年の死亡数が異常に多かったことが分かる。一方出生数の方で見ると、戦後のベビ−ブ−ム以来1961年までは一貫して減少を続けていたのだが、その間1957年だけが突然前年より5.3%(88,565人)も落込んで、翌年は一挙に5.5%(86,756人)も増加したことから、この年の出生の減少は際立ったものであり、インフルエンザの流行によって起こったと思われる死亡数増加の3倍もの数が出生の減少として起こっていたことになる。その後に第2次のベビ−ブ−ムの時代をはさんだせいもあって、それよりも少ない出生数となるのは24年後の1981年のことであった。
 こうしたことは香港風邪の流行が直接間接に死亡数を増やしただけでなく、流・死産や早期の流産、受胎の障害などによって出生数にも大きな影響を与えていたことを示すものであろう。

 この香港風邪の流行にはその後になって別の重大な問題が沸き起こった。それは香港風邪の流行に曝露された胎児が後になってから精神分裂病の発病率が高くなっているという報告が1988年になって出たことである13)。それについてはまた別に検討を加えたいと思っている。
 出生の谷の月には地域、年度によってかなりの変動があるのはこうした流行病の影響があるためかもしれない。そういった流行病はインフルエンザだけとは限らない。中には受精卵や胎芽に強く作用して早期の流産を起こすけれども、一般の成人や妊娠中の女性では感染していても自覚されるような症状を表さないものもあるのだろう。出生の季節変動に大きく影響している自然不妊の本態は、そういった早期の胎芽期だけの病気かもしれないと考えている。

10.出生増加の季節
出生数に季節変動が起るのは、生理的、社会的、あるいは流行病的など、どんな原因によるにしても、理想的に健康な状態での受胎・出産に対する障害が働くことによって出生数が減らされるために、残された健康な季節との対比として見られる現象と考えている。私らの「自然不妊」あるいは「流行性季節性不妊」2,14)の考えは早生まれ現象やその突然の消失を説明するのに大変具合がよいと思われる。その有力な根拠は母親の生まれ月によって子供の生まれ月の分布が違うことが予想され実証されたことである。これについては次の章で述べることにする。
 ところが最近になってこれだけでは説明し切れない現象があるように思えてきた。その切っ掛けはインフルエンザによる出生減少を見ている時に1920年の9月に出生数が急増しているのが目についたことである。その理由は分からないが、翌年には9月の増加が見られない。しかもこれは北海道から沖縄まで全国的に一斉に起ったことである。

 出生には春に第1の山があり、秋には第2のやや低い山があるというのが世界的に共通の現象である。日本でも春の山は早生まれ志向と重なって特に大きかったが、秋の山も1910年頃から9〜10月の季節に見られていた。それが1920年に9月だけが突出したのは不思議である。従来、出生の秋の山は第2の山として年末やクリスマスの休暇による受胎の増加で説明されていたのであるが、1920年に日本全国に9月だけのピ−クが突然現れて1年だけで消失した。9月の山は1925年になると再び出現し、その後は9〜11月の第2の山として次第に定着して春の山が消失した現在では秋の山として残っている。これには従来の年末の休暇とは全く別の説明が必要であろう。

 同じようなことが西ドイツでも起っていたことが報告されている15)。1951年から1990年までの出生季節分布を調べて、1977年までは3月にピ−クがあったのだが9月の第2のピ−クは小さいながら初めから認められていた。この間に1974年にだけピ−クが6月頃に移っている。1978年からは第1のピ−クが3月を離れて6月頃に移り数年後には9月頃に移動した。
 出生数の山あるいは谷の季節が大きく移動したことは自然不妊の季節変動で説明できると思っている。しかしドイツで起った1974年の変化や、日本で1920年にピ−ク季節の移動の前兆のようなことが起って、数年後にそれが定着するというような現象はどうしたら理解できるのか。自然不妊だけで説明されるのだろうか。あるいは今でも考え難いことだとは思っているのだが、季節的に「受胎率増加」を起こす要因の存在を想定する方がよいのだろうか。これからも新しい問題として検討したいと思っている。

11.出生季節変動の環境要因
 人の生殖能力は他の動物に比べると年間を通じてあまり変りのないことが特徴といわれる。しかし実際には、種々の理由によって出生数には季節変動のあることは良く知られている。受胎率に影響を与える要因としては、気温、降雨量、日照や、食糧、栄養、労働、出稼ぎ、休暇、などの自然的、社会的に多くの要因が考えられ、それについては多くの研究者によって地域、民族などの地理的や民俗的な比較からの説明が試みられてはいるが、そうした考えからでは納得できる結論が得られる望はありそうにもない16)。
 国別に緯度で比較すると、低緯度では7〜8月に、高緯度では4月頃に受胎の谷があるという17)。出生の谷はその9月後すなわち4〜5月と1月頃 に来ることになる。しかし、日本では1960年代に出生の谷の月が6月から11月へと大きな変動が起こっていた。こういった変動が起こり得ることから考えると出生季節の問題は緯度や日照など地理的な環境条件だけでは説明できないことが分かる。
 出生の季節変動といった極めて当たり前で容易に観察できる現象についてさえ、まだ十分な説明が付けられていないことには驚く他はない。我々はそれに対して季節的に「自然不妊」の流行を起こす恐らくはウイルスのように感染性があり免疫原性のある物質を考えている。次の機会にはその考えの根拠となった現象について述べようと思う。

文 献
1. 三浦悌二(編)1987 生まれ月の科学−先天異常から老人病まで 篠原出版 東京
2. Miura, T. 1987 The influence of seasonal atmospheric factors on human reproduction. Experientia 43: 48-54
3. 三浦悌二 1996 四月一日の早生まれ 日本医事新報 3778号 65-66 
4. Huntington, E. 1938 Season of Birth - Its relation to human abilities. John Wiley, New York
5. 大韓統計協会 1992 1991年人口動態統計年報 大韓統計協会
6. 三浦悌二、緒方隆幸、志村正子 1980 1900年以前の日本人口における出生 の月別分布 民族衛生 46: 12-21
7. 三浦悌二 1976 1755〜1867年における大阪市街地住民出生季節分布の長期的変 動 医学のあゆみ 98: 605-606
8. Miura, T. & Richter, J. 1981 Changes in the seasonal distribution of births in Gorlitz, Germany, during the period betweeen 1675 and 1816. Human Biology 53: 15-22
9. Miura, T., Richter, J., Shimura, M. & Ogata, T. 1987 Secular changes in the seasonality of birth. Prog. in Biometeor. 6: 33-44
10. Shimura, M., Richter, J. & Miura, T. 1981 Geographical and secular changes in the seasonal distribution of births. Soc. Sci. Med. 15D: 103- 109
11. Cowgill,U.M. 1966 Historical study of the season of birth in the city of York, England. Nature 209: 1067-1070
12. Gilbert, K. & Danker, H. 1982 Untersuchungen zur Bevolkerungsbiologie Norddeutchlands. Anthrop. Anz. 40: 153-172
13. Mednick, S.A., Machson, R.A., Huttunen, M.O. & Bonett, D. 1988 Adult schizophrenia following prenatal exposure to an influenza epidemic. Arch. Gen. Psychiatry 45: 189-192
14. Miura, T. & Shimura, M. 1980 Epidemic seasonal infertility - A hypothesis for the cause of seasonal variation of births. Int. J. Biometeor. 24: 91-95
15. Lerchl, A., Simoni, M. & Nieschlag, E. 1993 Changes in seasonality of birth rates in Germany from 1951 to 1990. Naturwissenschaften 80: 516-518 16. Bronson, F.H. 1995 Seasonal variation in human reproduction: environmental factors. Quart. Rev. Biol. 70: 141-164
17. Moos, W. & Randall, W. 1995 Patterns of human reproduction and geographic latitude. Int. J. Biometeor. 38: 84-88

 表 1 年代別の出生数割合の最低の月の分布
年代\月 3 4  5  6 7 8 9 10 11 12 合計 /年数
1900-05 0 1 2 83 8 0 0 0 0 0 94 / 2
1910-25 0 41 12 100 5 2 0 2 0 26 188 / 4
1930-50 0 2 47 92 5 0 0 1 0 40 187 / 4
1955-65 0 0 19 83 1 2 0 0 8 25 138 / 3
1970-90 30 11 4 19 0 0 1 21 133 15 234 / 5

図 1 東京の月別出生分布の年代推移
図 2 出生季節分布の各型   
図 3 出生届と死産届との比較 (1920年)
図 4 浜田病院の月別出産数と東京の出生と死産(1930)
図 5 西欧諸国の生まれ月分布の年代変化
図 6 韓国の出生数の月別変動 (1991年) 
図 7 1日当りの出生数ピ−ク月の割合の年代変動      図 8 出生季節の春山時代と秋山時代の周期的出現
図 9 出生数と死産数−インフルエンザ流行年とその隣接年との月別比較



W 自然不妊の流行と少子化


             
 現在の少子化問題は日本の当面する政治・経済の問題であるばかりではなく、人類滅亡の危機にもつながる可能性を示している。少子化の原因として、今は社会的、経済的な面ばかりが取上げられてその対策が論じられている。しかし私の考えでは、それ以外にも感染症としての自然不妊の流行が関与しているに違いない。それは多分胎児期におけるウイルスの不顯性感染によるものだろうと考え、それを裏付けるような現象の存在を示すことが出来たと思っている。その感染は最近注目をあびるようになった環境ホルモンとも共通の作用機序を持つものかもしれない。そのようなウイルスが実際に存在しているのだろうか。それを検出するには新しい方法が必要なのではないだろうか。それらは今後の研究にかかっている。

1.少子化の問題
 日本では今、少子化が大きな社会問題になっている。それは直接には労働人口の不足となり、生産と消費の減退を招くであろうし、一方では着実に増大する老人人口割合に対応してそれを扶養・支持できる人的能力の不足することが間もなく目に見える現実となるからである。
 少子化の原因としては、女性の高学歴化による社会進出と地位の向上とが基本的な時代の底流にある。一方生活水準の向上は収入の増加を必要とし、女性の就業が不可欠となり、そのために、女性が家庭で育児だけには専念していられない状況が生じている。まだそれを補完するような社会的な制度や施設が不完全であるために、結婚年齢が上昇し、それに加えて出産年齢の高齢化が起こっている。さらに生涯未婚人口割合が急激に増加しつつあることが重なって、それが止めどない少子化への道に進んでいる原因だろうといわれる。

 今まで人口とは基本的には増加し続けようとするものであるとされていた。時には疫病、飢饉、災害、戦争などによって人口が大幅に減少したこともあった。しかし、たとえ一時的に人口の減少が起こっても、それはその時の社会の状況に対応しただけのことであり、何れは自律的に回復して人口は増加に転じるはずのものであると信じられていた。20世紀も後半になって、医学の進歩とその普及とによる死亡率の減少は、開発途上国での人口の激増を招き、近い将来には有限の地球の人口扶養能力を越えるであろうと憂慮されるようになった。そのために、人口問題とは緊急な人口増加の抑制であることが切実な目標となって今に致っている。その対策としては女性の教育に重点がおかれ、家族計画の実行が推奨されて、それが普及すればそれによって人口の増加は適切な人口水準の維持される程度に収斂させることが可能であろうと期待されていた。
 ところが最近の日本での人口の動向を見ると、少子化の進行に回復の兆しはなく、人口水準の維持はもはや絶望的なように思われる。こんなことは有史以来初めての出来事ではないだろうか。少なくも日本ではそうであった。しかし外国ではそう思われた時代は初めてのことではなかった。
 
 20世紀の始めにもフランスなどでは人口の停滞が問題にされていた。ナポレオンの時代までは、フランスが欧州での最強国であったのに、その後ドイツとの国力が次第に逆転して、イギリスやアメリカの力を借りなければ国家の存続さえ危ぶまれるようになった。それはラテン系民族の人口増殖力がチュ−トン系民族のそれに劣ってきたためであるとされた。当時イギリスでも同じ問題を抱えていた。ハ−トフォ−ドシャ−の記録によれば、『英国ではこの33年間出生率は低下し続けている。1909年にイギリスよりも出生率が少ないのは大陸ではフランスとベルギ−の2か国だけである。……英国の頽廃は、かつてロ−マやギリシャで起こったように文明社会が滅亡する兆候に違いない。』と書かれている1)。
 1930年代には
マルサスの人口過剰説に代って、人口減少説も称えられていた。当時1920年代の西欧諸国の総再生産率が、それまで2.0−2.4程度であったものから1.12にまで減少した。1927年には英国やオ−ストリアで0.96と1以下に低下し、他の諸国も急速に低下すると思われた。1933年にはイギリスの純再生産率が0.75くらいで、それは今の日本と同じ程度であった2)。
 第1次世界大戦の経験から、国家総力戦というような大戦争に耐える国家であるためには、人口の量が第1に基本的な問題であると気が付かれたためであろう。第2次大戦に際しても、ソ連や中国が初期の敗退にも耐えて結局勝ち残ることになったのは、国の広さと共に人口の大きさが力となったに相違ない。


イギリスの貴族では17世紀以来4世紀に渡っての出生と死亡の記録が残されている。それによれば、1575年から1724年までの150年間にわたって、原因は分からないが出生率が低下していた。しかしその低下は1725年以後になると自然と回復した3)。 古くは、ロ−マ帝国でも少子化による人口の減退が起こって、その為に帝国は滅亡したとされる。ランケ(Ranke,
L. 1795,12-1886)はその著書「世界史概観」4)で
『ロ−マ帝国は十分に多産的ではなかった。荒廃をもたらす内乱、漸次起こってきた結婚忌避その他の理由から、帝国は底知れぬ人口減少に悩んだ。キリスト教なるものも極めて早く禁欲主義的傾向を現はした故に人口増加には何の寄与も出来なかったわけである。……かくのごとくにしてわれわれは、ロ−マ帝国は、世界が必要とした最も偉大な産物の数々を生み出した後に自ら荒廃の運命をたどるといふ、注目すべき事実を此處に見るのである』と述べている。
 また、ロ−マ貴族の夫人達は富と栄華を競っていたが一人の貧しい貴族夫人が二人の賢い少年を育てていることをそれ以上の誇りとしたとの逸話は当時の貴族には子供の少なかったことを物語っているように思う。ギリシャやロ−マでの少子化はワイン樽のパッキングに鉛を使用していたために、ワインを愛用していた市民や貴族社会に鉛中毒としての生殖障害が蔓延したためとも言われる。鉛も今いわれる環境ホルモンと同じように作用したのかもしれない。その他、164年から180年まで、ローマ帝国全域で激しく流行した伝染病5)が人口減少の原因だったともされる。

2.不妊の季節
 日本の早生まれ現象や、世界の出生季節の長期的な激しい変動などを一貫して説明することを考えているうちに、自然不妊の季節ということに思い付いた。別に病気というわけでもなく、ある季節になると皆の受胎成功率が低下する。つまり季節的な自然不妊とでもいうものだろう。その原因を考えて、例えばある季節にウイルスのような微生物が蔓延して多くの人に感染し、子供も大人もその感染では何の症状もなく病気を起こすものではない。しかし、妊娠の初期の人でその胎児が感染すれば流産を起こすことになる。この流産は妊娠のきわめて早い時期に起こるので、女性自身にも気付かれないのだろう。日本で5〜7月の出産が少なかったのは、この自然不妊が8〜10月の頃に流行していたためであろう。自然不妊の病原は1つではないらしく、流行の時期も国により、年代によって変わるものかもしれないと考えた。それにはもう少し具体的な証拠が探せないだろうか。

結婚の季節と不妊

健康な夫婦ならば結婚して受胎の機会が出来ると妊娠が成立し、9か月後には出産することになる。しかし実際には、受精の成立は排卵の前後数日に限られるので、その機会を逃すこともあり、結婚しても10か月以内に出産となるのはその半分もない。
 東京のある産科病院での調査6)では、結婚後2年以内に出産した人の中で10か月以内に出産した人の割合は戦前の1921年から1960年までに結婚した5266人では24%であったが、その後1980年までにの6,840人では30%と増加していた。
 ところがその割合は結婚の季節によって違いがある。ことに戦前の1940年までの1373人について見ると、全体では24%が10か月以内に出産していたのに、8−10月に結婚した170人では10か月以内の出産が15%と特に少なかった。これは、もし新婚の夫婦では受胎機会の頻度に季節による違いがなかったとすれば、8−10月には受胎の可能性があっても受胎が成立しないで不成功に終ることが多かったのかもしれない。つまり、この季節に限って不妊となる率が高かったことになる。

 同じことはカナダのケベックでも観察された7)。ケベックで17〜18世紀での結婚の季節と結婚から初産までの間隔を見ると、やはり結婚後2年以内に出産した18,736人について結婚から10か月以内に出産した母が47%もいて日本の2倍もある。ここでも8−10月に結婚した人達
3,869人だとその率が44%とやや低くなっていた。
 ケベックでは児の性についても分けてみた。結婚してから直に出来た子供では出生性比(男児と女児との比)が1.10とそれより遅く生まれた子供での出生性比1.05よりも高い。これは一般に、結婚してすぐの方が受胎の機会の頻度が高いことと関係するのだろうと思われている。しかしそのなかでも8ー10月に結婚した場合だけはその児の性比が0.97と格段に低い。これはその季節に結婚した場合には受胎の成立が阻害されて受胎の成功率が低いのであるが、その原因は男児の受胎が特に阻害されていたためであることを示している。

表 1 結婚の季節と結婚から第1児出産までの間隔 (ケベック)

一人っ子の生まれ月 

今は一人っ子が多い。それは晩婚による初産年齢の高齢化や、子供の教育費用が上昇していることなど一般的な少子化が一人っ子の原因であろうと思われている。しかし実際に一人っ子の母親に聞いてみると、子供は二人欲しくて努力していたのにという人も多い。そんな場合は、本人の積極的な意志に反してどうしても二人目の妊娠が出来なかったのであるから、第1子の出産後に不妊となってしまったことになる。しかし一般には子供が一人でもいれば不妊とは言わないし、本人たちも子供が一人いるのだからまあいいかということで問題にされない。
 そこで私たちのアンケ−トについてみると、13,000組の中に約1,000組は一人っ子であった。まだ産み終っていない人や、戦争の時代にかかっていた人を除くために、1931−40年生まれの母親5,108人について見ると一人っ子の母は419人(8.2%)であった。第1子を産んだ年齢を見ると、一人っ子の母は25.9歳、二人以上産んだ母では24.1歳と一人っ子の母の方が2年近く遅い。それをみると晩婚の母が一人っ子になったのかもしれないし、あるいは結局一人しか産めなかった母は結婚から初産までの期間も長かったのかもしれない。このアンケ−トでは結婚の時期を聞いてなかったのでその点は決められない。 
 1930年代生まれの母親では第1子の出産は1950年代から1960年代の始めにかけてのことが多い。それはまだ早生まれが多かった時代である。ところで、一人っ子と二人以上いる子供の第1子の生まれ月を比べるとはっきりと違った分布をしていた。
一人っ子でない第1子は全体での生まれ月の分布と同じように冬に多く夏には少なく生まれていた。ところが一人っ子では生まれ月の季節差があまりない(図1)。
 この現象は、夏に生まれた子供は一人っ子になる率が高いことを示している。つまり、夏に出産するとその後は妊娠し難くなるということであろう。
 その後に学生さんたちを通じて集めたアンケ−トではこんなに綺麗な結果にはならなかった。それはもっと若い母親が多くなって一人っ子になる理由にも出産の季節にも色々と別の要因が働くようになったためかと思っている。

  図 1 一人っ子ときょうだいが二人以上の時の第1子の出生季節分布

不妊季節の長期変動
 出生率に季節変動のあることはよく知られている。その原因としては第1に季節による気温や日照時間の変動があげられる。それに伴って緯度が関係するとか、季節的な食糧生産の変化に伴って摂取栄養量の変動することが影響するとか、最近でもその様な研究が次々と出されているが、そういったことでは不妊の季節が長期的に変動することを説明するのは難しい。20世紀の後半になってから出生のピ−クがそれまで一般的だった春から秋に移ったことがいくつかの国から報告されている。日本では1960年代の後半に起こっていたが8)、ドイツでは1970年代の後半に出生の春の山が消えて秋に移ったことが認められた9)。変動の原因は一般的に生活環境の脱季節化によるものとされている。
 一層長期的な変動を見るためには、人口動態統計以前のデ−タが必要になるが、それにはまとまった統計資料がないので、個別の資料に当って調べる他はない。そういった研究は少ないが前稿で記したように、イギリス、ドイツ、アメリカなどでは教会の記録などによって16世紀以来の出生季節分布が分かるので、それは数十年の単位で周期的に変動していたらしい8)。こうした長期変動のあることを見ると、出生率の季節的な変動の原因は、気温や日照時間のような季節に直結した要因によるものではないことが分かる。

体外受精の成功率
 人工受精や体外受精の実施が広く普及しているのは不妊に悩む夫婦が多いことを示している。体外受精の成功率はおよそ20%くらいであまり高いものではないし、その費用も高額であるのに希望者は多いらしい。体外受精の場合には、卵を採取し、受精させたことを確かめてから子宮に戻すのであるから、その後の成功率の季節変化は主として女性側の受入れ体勢の季節変動を現わしていると思われる。オランダでの症例によれば10)、1126人の内採卵に成功したのは951人でその中で出産に成功したのは139人(15%)であった。季節的に見ると10月から2月までの390人中72人(19%)で生児を得たが7−8月には30人に実施して一人の生児も得られなかった。夏には卵の採取率も低く受精卵の受胎成功率も低かったことになる。
 
3.不妊の免疫
 日本の早生まれ現象や、世界の出生季節の長期的な激しい変動などを一貫して説明することを考えているうちに、不顯性感染による自然不妊の季節的な流行ということを考えた。感染ならばそれに対する免疫が出来るのではないだろうか。どうしたらその考えを証明することが出来るだろうか。
 不妊の季節にもかかわらず無事に受胎して生まれた子供の中には、不妊の病原に感染していたのに回復したというものがあって、その病原には免疫になっているかもしれない。つまり、出生数の少ない5〜7月に生まれた子供の中には、不妊の病原に免疫の者があり、そういった女性が成人して結婚し、妊娠した時には、不妊病に対して抵抗力があるので流産が少なく、不妊の季節にも出産が減らないということになるに違いない。
 その考えを実証するためには、母と子の生まれ月の分かったセットがあればよいだろう。そこで1975年から、まず手近の家族や友人に協力をお願いして数千組を集めることが出来た。さらに、東京の古くからある大学病院にもお願いして産科の病歴を見せて頂こうとしたが、2か所とも断られてしまった。昔の病歴は邪魔なので全部破棄したという大学さえある。ミネソタのメイヨー・クリニックでは、古くからの病歴がしっかりと管理され、それを使った研究が次々と出されているのを見たことを思い出して、日本とアメリカとでは研究の基盤に大きな違いのあるのに失望する他はなかった。

 ところが幸いにも、駿河台のある産科の病院を訪ねたところが、1923年の関東大震災以後の病歴は全部保管してあるからどうぞ、という小畑英介院長のお許しを頂いたので、手分けをして数万人分の出産の記録を写すことが出来た。これは私たちの研究には宝の山となったものである。
 さてそのデータを整理しても、初めはあまり意味のあるようにも見えなかったのが、次第に分析を進めて、出産の年代で分け、出生順位で分けてみると、1935年ごろで、第1子を除いたものでは、5〜7月生まれの母だけは、他の季節に生まれた母と比べると1年中ほぼ平等に出産があり、その母たちに限ってみればその子供には早生まれ現象が見られなかったのである11)。第1子の出生には結婚の季節の偏りが大きく影響するのでそれを除くことによって意味のある結果が見えてきたのであろう。
 この結果は不妊の季節は同時にその時に受胎し生まれた子供には不妊の免疫を作る季節でもあることとなり我々の考えた仮説とは矛盾しないように思われた。
 この現象を確かめるために、今度は東京で一番出産数の多かった日赤産院に小林隆院長を訪ねて、そこの病歴をも調べさせて頂いた。ここでもその時代の出産についてはほぼ同様の結果が得られたのでかなりの自信を持って発表することが出来た12)。
(図2)

  図 2 母の生まれ月別児の生まれ月分布
  
 しかし、1930年代以外ではこのような結果が得られなかったのは何故なのだろうか。それはこの現象が見られるためには、出産する母親が生まれた20〜30年前と、母親となって出産する時とおよそ30年間にわたって不妊の原因となった同じ環境要因が同じ季節に流行していなければならないからであろう。だから1900年代から1930年代までの間は比較的環境の条件が安定していたのに、それ以前もそれ以後も、時代の変動が激しく、環境の条件が安定していなかったためであろうかと考えられる。
 しかし、この現象が東京で、しかもある限られた年代での出産でだけしか認められないのでは、他の人が追試をしても同じ結果が得られるとは限らないだろう。そうなればこれは偶然の現象としか見られないかもしれない。何とか別の所でも同じ現象のみられるところはないだろうかと考えていた。

モントリオールの人口研究
 1985年7月に、モントリオールでの成長学会に出席した時に、学会の会場から歩いて行ける市立図書館に行ってみた。ここの地階にあるジニアロジー(系譜学)の部門では、17世紀にカナダに入植したフランス人の最初からの教会簿を家族ごとに整理してまとめた赤い大型の本が数十冊も並んでいる。父母とその子の生まれ月の関係を調べる私どもの研究にはこの上ないものである。しかし、短期間にはとてもこれを調べきれない。これは、コンピュータに入力してあるのに違いない。そこでこの本の編者のレガレ
(J.Legare)教授と、シャルボンノー (H.Charbonneau)
教授とに手紙を出すことにして、夜行の寝台列車でエ−ル大学のあるニューヘヴンに向かった。

 ケベックはカナダの中でもフランス人の多いところで、町ではフランス語が話されている。フランスの植民地は、元はカナダのケベックからミシシッピー河の流域全体を占めて、メキシコ湾のニューオーリンズまで続くルイジアナといわれた広大な地域を含んで、ヌ−ベルフランスといわれた。しかしイギリスとそのアメリカ移民たちに地盤を奪われて、遂に1759年以来フランスとの連絡を断たれ、1763年には完全にイギリスに敗れて、かつてのヌ−ベルフランスはイギリスとスペインとに分割されてしまった。残されたフランス人はケベックに閉じこもって独自の発展を遂げることとなった。そのためか、先祖の系譜を確かめ、フランスにまで遡ることに熱心な人が多いらしい。ケベックの人々ががフランス語を守り、独立運動が時々盛んになるのもそうした歴史的な思いが強いためであろう。モントリオールの街では、英語の通じないことも多かった。

ケベックの母の生まれ月
 モントリオール大学ではケベック各地の総ての教会の古い記録を集めている。1621年以来の出生、結婚、死亡を家族ごとにまとめる作業が続けられ、ある程度まとまるたびに出版しているとのことである。その後も作業を進めてはいるが、今までにやっと1765年ごろまでの出生16万人分の整理が終わっていた。
 私たちはモントリオ−ル大学との共同研究としてそこのコンピュ−タに入っているデ−タの利用を許された。何しろ200年以上昔のことで家族計画の考えもなく、真面目なカトリック教徒なので家族関係ははっきりしている。そのデ−タは大変信頼のおけるものと思われた。それについて、第1子を除いて、28歳以上の母とその児18,571組にしぼって見ると、母親の生まれ月が5〜7月だと、他の季節生まれの母親に比べて子供の産み方に季節変動が少ないことを見出した(図3)13)。
 その上この母親のうち結婚初産間隔の分かる650組にいついてみると、10か月以内に出産した母が343人(53%)もいた。中でも5−7月生まれの母ではその63%が10か月以内に出産していた。この現象は、5〜7月生まれの母だけは、胎児期から8〜10月の受胎(すなわち5〜7月の出生)に影響する不妊因子に免疫になりやすい体質となり、生まれてからも繰り返し同じ感染に暴露されていて、ある年齢以上になると他の母との差が現れてくるので、そうなると結婚後の受胎が早く成立し、季節によって受胎の阻害されるようなことも少なくなると考えれば説明がつくだろう。

  図 3 17−18世紀のケベックでの28歳以上の母の生まれ月による
       第2子以降の児の生まれ月分布

 これは私たちが東京での出産で初めて見出した母と子の間の生まれ月関係と全く同じであり、東京以外では初めての追試に成功したことになる。17世紀のカナダのフランス人たちの間でも、20世紀の東京と同じように季節性の自然不妊を起こす因子が流行していたのであろう。しかも胎児期にその因子に暴露されたと思われる母にはそれに対する免疫が出来ていると考えられるのではないだろうか。
自然不妊にはそれに免疫になっている母があるという現象が東京で1930年代の出産で認められ、同じような現象がカナダでは17世紀のフランス人でも見られたので、これは日本だけではなく世界的に共通の現象なのであろうと思われる。環境条件が不安定な現代ではこの現象が検出されにくのではあるが、やはり今でも世界的に蔓延していて、それが不妊や少子化の原因となっているのかもしれない。

 しかし、まだ原因となるものの実体を具体的に取り出して証明したわけではないので、単なる仮説に留っている。将来この因子を取り出すことが出来れば、不妊病の治療や予防にも威力を発揮し、少子化の問題も解決出来るに違いない。

4.双子の一人がいなくなる 
 1983年にロンドンのふたご学会で、妊娠の初期に超音波で調べると確かに2つの胎児心拍が認められたのに、しばらくすると1つになっていることがある、という発表があり、みごとな超音波の写真を見せられた。そこで、この消失も我々のいう流行性季節性の自然不妊(早期流産)のなせる業に相違ないと思い、それならばその季節性を調べてみようと考えた。
 超音波を妊娠子宮に応用すると、5〜8週という早い時期に子宮内で胎児の心臓が動いているのを見ることが出来る。妊娠の診断には確実な方法であるうえ、お腹の上から超音波を当てられるのは痛くもないので、大いに普及し始めている。
 1985年の4月、未だ雪のちらついていた飛騨の高山で、古式により取り行なわれた結婚式からの帰り道、列車の中で産婦人科の荒井清教授に、超音波でふたごの一児消失例を捜させてもらうことをお願いした。帝京大学病院だけでは症例が不足なので、優秀な卒業生にも協力をお願いすることになった。そうして、1985年の8月から87年の2月までの間に、3か所の病院で519例の観察をすることが出来た14,15)。

 その中で、心拍が2か所に認められる確かなふたごが6例あったが、内2例では2週間後に心拍が1つになって、1児が消失したことが確かめられた。その他、本当の胎児の他に、胎児のいた跡らしい像(エコ−フリ−スペ−ス EFS)が57例に見られたが、これは形からだけでは、本当に胎児がいた跡なのか、別のものだったのかは決められない。しかし、その中には、当時異常な出血があったり、お腹が張って痛かったりして、胎児を流産したらしいのが25例もあった。しかも、その内の8例は位置や形からも胎児の消失した胎嚢に違いないニ見られるので、これだけを初めはふたごだったとすると、少なくも14例のふたごの内の10例が途中で1児を喪失したことになる。その他に自然流産が11例あった。図4にそれらを最終月経のあった月で現わすと、胎児を喪失したと思われた21例中の13例が8−10月に集中している。これを母親の生まれ月で見ると、21例中の14例が1−5月に集中して、6−10月の生まれには3例しかいない。これから見ても、夏生まれの母親では胎児を喪失することが少なかったようである。

図 4 ふたご、EFS、自然流産の受胎月別分布
 
 ふたごの場合には、1児が消えてもまだ1児が残って発育を続けたから、検査を受けに来てEFSが見出された。しかし、初めから単胎だったものに児の喪失が起こった場合には、本人にも気付かれない程度の早期流産となるので、その後の検査も受けないままに妊娠も無かったものとして終わってしまうだろう。ふたごでの1児喪失の割合からみると、実際には単胎を含めたすべての妊娠の半分以上、あるいは3分の2以上もが、それとは気付かれないで胎児が消失しているのかもしれない。その原因を突きとめることは、原因不明の流産や不妊の解決に役立つに違いない。

5.血液型と出生減少の季節
 血液型は20世紀の始めに発見されてから、輸血を行なう時には必ず調べる必要があるものとなった。それで予め自分の血液型を知っておくことが広く普及し過ぎたために、日本ではなぜか血液型と人の性格との関係が興味の中心となってしまった。そのために、一部の人達の間では遊びの話題として持てはやされる一方、心理学、生理学や生化学、遺伝学などの専門家という人達からは全く根拠のあるはずもないたわごととして相手にもされない。しかし血液型と性格との間にはなにか関係がありそうだと思う人も少なくない。それについては別に考えて見たいと思うがここでは血液型と生まれ月との関係だけを見てみよう。

 各民族ごとに、血液型の分布には特徴がある。ヨーロッパ人ではA型とO型が多く、B型とAB型が少ない。アジア人ではB型が多くなり、インド人ではA型よりもB型の方が多いくらいで、中南米だとO型が多くなる。だから、ある民族での血液型の割合が、その民族がどの系統に属するかの根拠にされることさえある。日本人でも地域によって多少は違うが、大体はA、O、B、ABの順に4:3:2:1の割合になっていて覚えやすい。
 ところが生まれ月によって血液型の割合が違うらしいという報告16)が1967年に出されているが、翌年には早速少し見当違いと思われる反論17)によって否定されてからは取上げられていないようである。
 
 私たちは出生数の季節変動は免疫原性のある胎児感染症によるものだろうと考えている12)。ところが感染症の成立にはABO血液型の関与することが知られている。発信チフスとB型物質との関係について聞いたのは戦後間もないころである18)。その後、血液型と疾病との関係については世界各国から膨大な資料が集められている19)。私たちのいう自然不妊も、その原因となる環境中の要因はあるいは血液型と関係があるものかもしれないと考えた。
     
    図 5 東京の学生の血液型別に見た月別出生割合
 
 東京の学生4919人の血液型をその生まれた月別に見ると20)、決して一様ではない(図 5)。ことに、B型の人の割合は、季節によって大きく変動していることが分かった。B型は、5〜7月の生まれに少なく、8〜10月生まれに多い。他の血液型では、O型が夏生まれに、A型が冬生まれに多いようであるが、B型のように際立った変動ではない。そこで病院で生まれた新生児3592人についても調べてみると、今度はB型だけでなく、O型やA型でもかなりの変動がある。この現象はどう考えたらよいのだろうか。
 
 私たちは、これも「季節性の自然不妊因子」が単一ではなく年代変動があるためと考える。その因子が不妊またはごく早期の流産を起こしているのであるが、不妊因子の種類ごとにその流行の季節が異なり、また血液型によってその作用の程度も違うためではないか。そうした季節性の不妊因子の流行は、年代によって変動しているものだろう。血液型の割合というものが生まれる季節によって違うものであるというのは新しい発見だった。このことをもっと明瞭に示すような現象について次に説明しよう。

6.母児の血液型不適合と出生減少

輸血する時には、血液型を確かめることが重要であることはよく知られている。妊娠中の母と胎児とは、血液型が同じとは限らない。しかも、母と胎児とは胎盤で隔てられているとはいうものの、少量の血球が相互に侵入するので、血液型の組合せが悪い時には、重大な障害の起こることがありうる。それはRh型については、よく確かめられている。ABO型でも同様のことが起こりそうではあるが、あまりはっきりしたものではないらしい。

O/A 比
 もしO型の母がA型の胎児をもつと、母にとっては不適合となるので、母は抗A抗体を作り、それが胎児に移行して胎児を損うことになるだろう。だから、O型の母は、A型の母に比べるとA型の子供を持ちにくいことになるだろう。これを確かめるためには、O型とA型との組合せの夫婦だけを集めて、母の血液型がA型かO型かで、その子供のA型とO型の人数をO/A比として比べてみると分かるだろう。
 実は、このことは古くから調べられていて、その成績では予想どおりにO型の母からはA型の子供が少ないことが確かめられていた。だから、ABO型でも、母と胎児との血液型の不適合による選択があることの証拠とされていた21,22)。

 これを帝京大学病院で出産した親子について調べてみると、驚いたことに予想とは逆に、O型の母の方がA型の母よりもO型の子供が少なく、A型の子供が多かったのである。

自分たちのデータに間違いのあるはずはない、とすればこの矛盾は、どう説明されるのだろうか。そこで、私どもの定石に従って生まれ月で分けてみると、1年の前半の出産では、以前の研究者と同じようにO型の母ではA型の子供が少ないのに、1年の後半に生まれた子供では、逆にO型の子供の方が少ないことが分かったのである23)(図 6)。不思議なことには、年の後半に限って、O型の母でO型の子供が少なくなっている。これは、母児間の血液型の不適合では説明ができない。では何としたら説明が可能だろうか。

  図 6 O型とA型の夫婦から生まれた子供の母の血液型による生まれ月別の
      O/A比    
 
 季節によって異なる現象は、その原因をまずは環境中の因子に求めたい。つまり、ある季節の環境中には、O型の母のO型の子供だけを選択的に減らす因子があると考えられる。この因子に対しては、A型の母の子と、O型の母でもA型の子は侵されないのだから、A型の人だと、母でも胎児でも、この因子に対する抵抗力があったことになる。となれば、この因子はなにか血液型物質と関連のある、つまり化学的に特定の組成をもつ物質だろうと考えられる。
 この仮説は、今まで母と児の血液型の不適合が原因と思われていた現象が、実は環境中の物質が原因であったことを示すことになる。また季節的に変動する現象でも、気温や日照の変化によるものとは限らないことをも示している。この説明は、流行性季節性の自然不妊の原因の追究にも役立つかもしれない。

妊娠中毒症                         
 妊娠の終わり頃になると、何かの原因で血圧が高くなり、むくみがひどくなり、尿に蛋白が出ることがある。昔は、これが妊産婦死亡の主な原因となる恐ろしい病気であった。その原因としては、妊娠によって何か有毒な物質が出来るためと考えられていたので、妊娠中毒と呼ばれていた。しかし、不思議なことに、今でもその原因が分かっていない。それでも、体重の管理、食塩の制限、血圧の降下剤などで、死ぬようなことはなくなった。今では妊娠中毒とは呼ばないで、妊娠性高血圧というらしい。

 原因の一つとして、母と胎児との血液型の不適合があるだろうともいわれたが、そうとも限らない。そこで、帝京大学病院での出産について調べてみると、3592出産の中の506例、14.1%が妊娠中毒と診断されていた24)。これを母の血液型で見ると、O型とB型の母では13.2%と少なく、A型とAB型だと15.2%とやや高率である。妊娠中毒が母児間の血液型の不適合によるものとすれば、むしろ逆に、O型の母で中毒が多くなるはずである。では何故、逆の現象が見られるのであろうか。ここで、母児の血液型の組合せごとに調べてみると、児の方が優勢の“偽不適合”のケース(母と児の組合せがOとA、OとB、AとAB、BとAB)だけが、中毒の発生が11.2%と他の組合せ(15.0%)に比べると格段に低くなっていた。
 児の出生体重で比べても、母児の血液型不適合の場合に低体重児が少なく、不適合の方が児の発育にはかえって好都合だったようである。

 “偽不適合”というのは、母にとっては児が不適合であるが、児から見れば母は適合の場合である。これは、児にとっては快適な、母にとっては刺激的な環境だといえよう。児の体重で見ると、不適合の方がよいのは何故だろうか。低体重の原因として、環境中の因子を考え、血液型による防御反応を想定すると、不適合の場合には母と児の2段構えの防御線があるのに、適合の場合には母児が同じ防御能しかないので両方が同時に破られることになる、とでも考えたらどうだろうか。
 母児の血液型組合せと児への影響についての説明は未だ謎のままであるが、私どもは、これを母児の間で起こる免疫学的な排除が主な原因ではなく、環境中にある未知の因子が妊娠中毒や低体重児の原因ではないかと考えている。しかし未だ謎が多く、その本態の解明はこれからの研究者に残された大きな問題である。

7.多産の集団 
 ヒトは何人の子供を産めるものだろうか。例外的な記録としては20人以上ということもあるらしい。しかし集団としては、多産だった1940年ころの日本では平均4.6人で、1番普通な家族では6人前後ということであった。当時12人の子供を健康に育てたということで表彰された人のことが新聞で報じられたことがある。1990年代になると、日本の合計特殊出生率は多くの西欧諸国と共に2.0以下になって将来は人口の減少が約束されている。一方アフリカでは、ルワンダの8.5を最高として今でも7.0を越えている国が多い25)。
 
 図 7 世界各国の既婚女性の年齡別出生数

 ヒトも動物も、加齢と共に生理機能が低下するのが自然であるから、出産力も同様であると信じられている。実際に日本でも、出生率の高かった頃のヨ−ロッパ諸国でも加齢と共に出産力はほぼ直線的に低下していた。(図
7)
 ところが、図で見るようにハッテライトとカナダのフランス系移民は、それとは様子が違って40歳近くまで出産力の低下が極めて少ない。この人達には加齢による生理的な出産力の低下が無いのだろうか。あるいはそれ以外の総てのヒトでの生理的と思われた出産力の低下が、実は病的なものだったのではないだろうか。自然不妊とはそういうことだったのだろうか。もしそうならば、その病的な機能低下がさらに拡大する可能性もあって、とめどない少子化にもつながるのではないだろうか。では加齢による出産力の低下の少ないハッテライトとはどんなヒトなのだろうか。

ハッテライト
 ハッテライトの名前を初めて知ったのは、1家族に平均でも10人以上の子供をもっていると読んだ時である26)。自然不妊が流行するという仮説を考えていた私には、これこそ不妊の汚染を免れている人口集団ではなかろうかと考え、なんとかハッテライトのコロニ−について調べてみたいと思うようになった。
 その後に、ハッテライトの出産率が低下し始めたとの論文が目に止まった。さては、ハッテライトにもいよいよ不妊病が侵入し始めたのかも知れない。それならば今のうちに調べておかないと最後の機会を逃すことになるだろう。そこで、その資料がバンク−バ−のサイモンフレザ−大学にいるカ−ル・ピ−タ−
(Karl A. Peter)
教授から得たものとの記載を頼りに、直接にピーター教授に手紙を出してお会いすることになった。教授は、戦後にドイツからカナダに移住した社会学者である。ハッテライトの社会に惹かれて近づき、その研究に打込んでいる。フランチェス夫人もハッテライトには詳しく、ことに女性に関しては、カールの手の出せない問題にも立ち入ったことを知っているらしい。

ハッテライトの苦難の歴史                  
 ハッテライトはいわゆるアナバプチスト(再洗礼派)の一派であり、幼児の洗礼を認めない。洗礼は成人後に教義の理解をテストして合格してから受けさせるという。聖書に厳格に忠実であろうとする誠実な人々である。
 スイスのチューリッヒの辺りで16世紀ごろに始まった聖書の研究会があり、その一人がチロールで仲間を集め、ハッテライトの母体となった。ハッテライトの勤勉と誠実、高い農業生産性は、領主たちに喜ばれて受け入れられていたが、固い独自の信仰のためにしばしばカソリックへの改宗を迫られて迫害を受けることとなった。また、絶対的な平和主義は戦争への非協力となり、そのために迫害を受け、その度にやむなく亡命の途を辿ることとなった。チロ−ルからモラヴィアへ、ハンガリーへ、さらにトランシルヴァニヤを経てウクライナに逃れたが、そこでも兵役の義務が課せられることとなったために、1874年から数回に分かれてアメリカへ移った。
 何度もの亡命、移住に際して途上に倒れた者も多く、信仰を捨てた者もあり、一時は2万人にも達したハッテライトも、アメリカに渡った時には400人ばかりとなっていた。この人達は身体的にも精神的にも鍛え抜かれた集団となってハッテライトの遺伝的な特性を作り上げたのだろうとされている27)。ハッテライトの宗教や歴史については日本でも熱心な研究者があって多数の著述が出されている28,29)。
 ハッテライトが健康な生活を続けて高い出生率を保ち、アメリカやカナダではその人口が100年の間に60倍にもなったことは、人口学的な驚異とされている。それを経済的に可能とした高い農業生産性、その基礎となった財産共同体的な集団生活、その連帯を保つ固い信仰。医学的には分裂病がないといわれたような遺伝的な特性。そういったことは社会学、宗教、農業経済、遺伝学、環境疫学といった各方面からの研究の対象としても注目されている30)。

 ピ−タ−教授の所でハッテライトの住民台帳ともいうべき、ダリウスロイトの教会記録を見せてもらった。ダリウス派は、ハッテライトが北米に移住する時にできた3つのグループの1つである。そこには、家ごとに家族全部の出生年月日が出ているので、出産力を正確に測定できる上に、母親の年齢の影響のように今の日本では得難いデータを調べられるので、きわめて貴重なものである。
 ハッテライトの人口増殖力を調べてみると最近になって幾分減退していることが分かったが、年齢別、出産順位別に詳しく検討すると、増殖力の減退は、一部の人で急に出産が停止するためであって、他の集団で見られるような、全体的に出産間隔が延長するような出産力の減退が起こったものではない31)。
 ピ−タ−教授によれば、ハッテライトでは避妊は一切行なわれていないと思われる。しかし出産には、今では町の病院を利用するのが普通であり、しばしば帝王切開が行なわれている。カナダでは、一般に気軽に手術をするのかもしれない。何回か手術をした後では、子宮の摘出を薦められてこれを受ける者もあるようだという。つまり、ハッテライトの見かけ上の出産力の減退には、こうした外科的な侵襲による医原性のものが含まれていると思われ、未だ自然の出産力が低下したものとは決められないようである。
 ハッテライトは社会的、経済的、また人口学的にも、急速な変化を強いられ始めているように見える。今まで認めていなかった家族計画の実施も今後は認めざるを得ないだろう。守り続けてきた宗教的な固い信条との折り合いをどう調整するかは、ハッテライトに関心をもつ多方面の研究者にとっては大いに気になるところである。

8.環境ホルモン
  DDTのような殺虫剤には女性ホルモンの作用があることは、早く1950年頃に報告されていたが、あまり注意を引かなかったらしい。当時は化学物質の毒性といえば発癌作用だけが注目されていたためであろう。
 最近になってDDTやPCB、ダイオキシンなどには女性ホルモンであるエストロゲンと似た作用のあることが明らかにされている。その他多くの化学物質が動物やヒトでホルモンの働きを撹乱する物質として作用しているといわれる。
 ホルモンの影響は胎児期に特に敏感である。ヨ−ロッパではヒトの精子数がこの50年間におよそ2分の1に減少したとの報告32)が出されてから大きな問題になっている。測定法や対象の選び方が問題にされたりもしているが、日本の現在の青年達についても、精子数の減少や異常が報告されている。その原因としてはPCBやダイオキシンなどによる広範な環境の汚染が食物を介して母体を汚染し、ホルモンの影響に対して成人よりも感受性の高い胎児や乳児に影響したものと推定されている。母乳中のダイオキシンの濃度は日本では特に高いというので、現在問題になっている少子化の原因としては晩婚や非婚化だけではなく、こういった原因による生物的な不妊が広く蔓延してしまったことがあるのではないだろうか。また結婚や、育児に対する情熱の減退にも、生物としての強い本能が環境ホルモンによって障害を受けているためなのかもしれない33)。
 それだけではなく、胎児期に作用したPCBは甲状腺の機能を障害し、学習障害や多動症が見られるというし、オンタリオ湖の汚染魚を食べていた母から生まれた子供たちはストレスへの過剰反応が見られたという。子供たちの犯罪的な暴力行動の増加にも、環境汚染の影響があるとすれば、教育の基盤としての母性と乳幼児の成育環境の重要性を認識し直すことが緊急に求められているのだろう。

 もしこうした環境化学物質の汚染にも季節性があれば、その影響は生まれ月によって違いが出来ることであろう。農薬の散布には農作物の成育の時期に応じてその使用量にも季節差があるだろう。あるいは風や雨による汚染物質の飛散や流出にも季節的な差があろうし、牧草や牛乳中の濃度にも季節差が起こるとすれば、それによって胎児に強く働く特別の季節があり、そのために生まれた子供には生まれ月による違いが起こっていることだろうと思う。今まで環境ホルモンの作用を見る時にもそうした視点は落ちていたかもしれない。

9.将来人口の予測
 人口は人類の発生以来増加し続けてきた。もちろんそれは単調なものではなく、気候の変動による凶作と食糧の欠乏、疫病の流行、戦争による殺戮などによって大きく減少することもあったに違いない。しかし動物の本能として自分の遺伝子を絶やさずに残そうとする努力は生命をもつものとして生きることの純粋な目的でさえあった。だから人口とは基本的には増え続けるものであり、それは食糧の供給が追い付かないことによってのみ制限されるので限られた食糧の奪い合いとしての生存のための闘争は生物界での共通の現象として避けれれない当然のものであると思われた。
 幸いに、食糧生産技術の進歩によって人口の増加は大きな障害を受けることなく続けられてきた。しかし、20世紀の後半になって人口の増加が特に急激となったために、人口の増加を制限することが真剣に考えられるようになった。WHOでは特に発展途上国での人口の抑制に対して積極的に協力している。中国では従来の人口増加政策から一転して一人っ子政策が強行されることにさえなった。
 
 人口政策の基本は、人口の増加を国力の増大として歓迎するのか、人口増加は食糧供給の不足を招き、人口圧力を増大して国際紛争の根源となるので人口を抑制するのか、あるいはその中間に適正な人口規模を想定して、それに近づけようとするのか、ということになる。何れにしても、将来の人口規模を操作しようというのであるから、現状のまま放置すればどうなるかという予測が基本にあって、それに対してどういう政策を立ててなにを実施すれば、どの程度に変えられるだろうということの推測が求められているのであろう。 
 日本では厚生省の人口問題研究所がその基礎資料の作成に当っている。数年おきに将来人口の予測値を発表しているので、それが政策の基本として使われているのだと思われる。 
 推計値を出す時には数十年も先の将来の条件には不確定な要素があるので、一番ありそうな値が中間推計とされ、その上下に幅を持たせていく通りかの値が発表されている。ところで、2050年の推計値を見ると、1992年の中間推計値は1975年に発表された推計値よりも3330万人(23%)も少なく、1975年に出した低位の推計値よりもさらに少ないのである。(図
8)つまり1975年の推計値は17年経ってみたら全く当てにならないものであったことがはっきり分かってしまった。そんな予測を元にして政策を立案していたとすれば、それが破綻することは目に見えているであろう。人口数は教育や医療、住宅や年金、そのほかあらゆる長期的な投資計画の基礎となるものであるからそれに20%以上の誤差があるというのではあまりあてには出来ない。何故そんなことが起こったのであろうか。1975年には一体どういう根拠でそんな推計値を出したのだろう。 

図 8 日本の将来推計人口の推移 (人口問題研究所)
  
 従来の将来人口の予測方法には、今までの傾向を単純に延長するのが基本で、それに若干の修正を加えるようなものであったらしい。その上いけないことには、人口というものは基本的に増加するものであり、どんなに人口が減少する傾向があっても、いづれ将来は回復するものと決めていたことにあった。それは当時の国連や先進諸国における公的人口推計の慣例であったらしく、それに従って将来の出生率は人口置き換え水準(合計特殊出生率で2.08-2.09という水準)まで戻るものと信じていたらしい。ところが1990年になって実数と推計値との乖離が大きくなったのを見て1992年の推計値を出すに当っては、初めて目標値として置き換え水準の採用をやめることにしたとのことである34)。

 従来、若い女性のアンケ−ト調査から、希望産児数を調べてその数字から単純に将来の出生率は人口置き換え水準まで戻るものと信じられるとしていたのかもしれない。実際には女性たちが結婚してみると、希望と現実との間には大きな差があった。その上に一人っ子の実際には自然不妊の要因が大きく働いているらしいのである。そうした生物学的な要因に対して従来の人口学者たちは全く考慮したことが無いように思われる。
 将来の晩婚・晩産の傾向や生涯未婚率の変化がどうなるかといったことも予測値を決める重要な要因として考慮しなければならないだろうが、自然不妊の影響がどの程度の大きさであるのかといった生物学的な視点からの調査研究も真剣に考慮されなければ、将来人口の予測が現実的な数値に到達することは期待できないだろう。
 人類でも、他の動物でも、地球上にいるものはいずれも今まで増殖力を維持しえたものだけが残っているのである。健康者だけを見ていると人が死ぬことがありえないとさえ思えるように、現存の民族だけを見ていると人口減少が持続して滅亡にいたるようなことはありえないとの錯覚に陥るのであろう。人類でも動物でも、増殖力の衰えた結果既に滅亡してしまったものの多かったことを思えば、少子化の原因についても、広い視野での研究を急がなければならないだろう。




文 献
1.Barker, D.J.P. 1994 Mothers, Babies, and Disease in Later Life. p37 BMJ Publishing Group London
2.Charles, E. 1936 The menace of under-population. A biological study of the decline of population growth. p82,75 Watts London
3.Hutchinson, G.E. 1978 An introduction to population ecology. p47-50 Yale University Press New Haven/London
4.ランケ(鈴木成高、田原信作 訳)1941 世界史概観 p78(岩波文庫)岩波書店 東京
5.立川昭二 1971 病気の社会史;文明に探る病因 NHKブックス p43 日本放送出版協会 東京
6.野中浩一 1994 結婚の季節と受胎抑制 日生気誌 31(3):133
7.Nonaka, K., Desjardins, B., Charbonneau, H., Legare, J. & Miura, T. 1998 Marriage season, promptness of pregnancy, and first-born sex ratio in a historical natural fertility population - evidence for sex-dependent
early pregnant loss? Int. J. Biometeor. 42: 89-92
8.Miura, T. 1987 The influence of seasonal atmospheric factors on human reproduction. Experientia 43: 48-54
9.Lerchl, A., Simoni, M. & Nieschlag, E. 1993 Changes in seasonality of birth rates in Germany from 1951 to 1990. Naturwissenschaften 80: 516-518
10.Stolwijk, A.M., Reuvers, M.J.C.M., Hamilton, C.J.C.M., Jongbloet,P.H., Hollanders, J.M.G. & Zielhuis, G.A. 1994 Seasonality in the results of in-vitro fertilization. Human Reproduction 9: 2300-2305
11.Miura, T. & Shimura, M. 1980 The relation between seasonal birth variation and the season of the mother's birth. Arch. Gynecol. 229; 115-122
12.Miura, T. & Shimura, M. 1980 Epidemic seasonal infertility - a hypothesis for the cause of seasonal variation of births. Int, J. Biometeor. 24: 91-95.
13.Nonaka, K., Desjardins, B., Legare, J., Charbonneau, H. & Miura, T. 1990 Effects of maternal birth season on birth seasonality in the Canadian population during the seventeenth and eighteenth centuries. Human Biol. 62: 701-707
14.中村泉, 宇野美幸, 池下育子, 三浦悌二 1987 妊娠初期における双胎の一児消失の季節性−超音波断層法による検索 医学と生物学 115: 103-107
15.Nakamura, I., Uno, M., Io, Y., Ikeshita, I., Nonaka, K. and Miura, T.  1990 Seasonality in early loss of one
fetus among twin pregnancies. Acta Genet. Med. Gemellol. 39: 339-344
16.Gershowitz, H. 1967 A possible relationship between birth month and ABO blood type. Amer. J. hum. Genet. 19: 450-459
17.Cohen, B.H. 1968 Is there a relationship between birth month and maternal ABO blood type. Amer. J. hum. Genet. 20: 197-212
18.Tamiya, T., Hazato, H., Yamamoto, T., Iida, T., Shimojo, H., Nishioka, K., Kawamura, A., Suzuki. k., Arai, M., Tsukamoto, R. & Schoble, Y. 1949 Studies on the so-called X-factor common to Proteus OX19, Rickettsia prowazeki and Rickettsia mooseri,especially on the relation of the factor to blood group B specific substance. Jpn. J. Exp. Med. 20: 1-23
19.Mourant, A.E., Kopec, A.C. & Domaniewska-Sobczak, K. 1978 Blood Groups and Diseases. A study of associations of diseases with blood groups and other polymorphisms. Oxford University Press Oxford
20.川名はつ子、井尾裕子、小川昭子、中村泉、三浦悌二 1991 ABO血液型と出生季節との関係 医学と生物学 122: 19-22
21.Waterhouse, J.A.H. and Hogben, L. 1947 Incompatibility of mother and foetus with respect to the iso-agglutinogen A and its antibody. Brit. J. Soc. Med. 1: 1-17
22.松永英 1962 母児間のABO不適合による淘汰に関する集団遺伝学的研究 人類遺伝学雑誌 7: 1-9
23.Miura, T., Nakamura,I. & Nonaka, K. 1991 Seasonal effects on fetal selection related to ABO blood groups of mother and child. Anthrop. Anz. 49: 341-353
24.井尾裕子 1992 妊娠中毒症と母児のABO血液型適合性 帝京医学雑誌 15: 59-71
25.国際連合(日本統計協会訳)1995 世界の女性1995−その実態と統計p70- 80 日本統計協会 東京 
26.Eaton, J.W. & Mayer, A.J. 1953 The social biology of very high fertility among the Hutterites - The demography of a unique population. Human Biol. 25: 206-264
27.Hostetler, J.A. 1974 Hutterite Society. The Johns Hopkins Univ Press, Baltimore/London
28.榊原巌 1967 現代基督者財産共同体の研究 平凡社 東京
29.榊原巌 1967 殉教と亡命 - フッタライトの四百五十年 平凡社 東京
30.Peter, K.A. 1987 The Dynamics of Hutterite Society. The Univ. Alberta Press, Edmonton
31.Nonaka, K., Miura, T. & Peter, K. 1994 Recent fertility decline in Dariusleut Hutterites: An extension of Eaton and Mayer's Hutterite fertility study. Human Biol. 66: 411-420
32.Carlson, E., Giwercman, A., Keiding, N. & Skakkebaek, N. 1992 Evidence for decreasing quality of semen during past 50 years. Brit. Med. J. 305:609-13
33.コルボ−ン,T., ダマノスキ,D., マイヤ−ズ,J.P. 1997 奪われし未来 (Our Stolen Future) 長尾力 訳 翔泳社 東京
34.高橋重郷、金子隆一、石川晃、池ノ上正子、三田房美 1996.11 将来人口推計の評価と見直しについて 人口問題研究 52:32-47


表 1 結婚の季節と結婚から第1児出産までの間隔 (ケベック)

結婚〜出産 結 婚 の 季 節
      2−4   5−7  8−10 11−1月   総数  
早期   2113 1297 1526 3145 8081
(8-10月) 45.4 48.1 44.2 47.9 46.5 %
やや遅延 2538 1401 1923 3421 9283
(11-24月) 54.6 51.9 55.8 52.1 53.5 %
合 計 4651 2698 3449 6566 17364
100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 %

2年後未出産 1047 671 833 1326 3877
総 数    5698   3369  4282  7892   21241  

 性比 m/f
 早期妊娠 1094/984 681/604 740/761 1659/1446 4174/3795
1.11 1.13 0.97 1.15 1.10
 やや遅延 1257/1261 726/663 982/916 1737/1639 4702/4479
1.00 1.10 1.07 1.06 1.05


X 初経の疫学


出生率の減少による少子化が日本ばかりではなく西欧諸国でも深刻な問題となっている。今では日本人口の急激な減少は避けられないことが明らかになった。このように急激な出産力低下の原因としては、社会的な経済構造の変動に対応する人々の意識の変化による晩婚、非婚の問題として論じられている。最近、環境中の汚染化学物質の中には動物での正常なホルモン機能を撹乱するものがあり、一般には環境ホルモンと呼ばれて注目されている。その中にはヒトの胎児期にも強く働いて、そのために成人した後にもヒトの生殖能力を阻害しているものがあるだろうというので大きな問題となっている。
 しかし、人の出産力が大きく変動することは最近の環境汚染が始まる以前にも起こっていたことであり、その原因については別に検討する必要がある。前報(1)で論じた自然不妊の流行には生殖機能を阻害するウイルスの感染が想定されていた。それとも関連して女性の性成熟の指標でもある初経発来の年齢や季節にも生まれ月との関係が示されたことから、初経発来の要因についても新しい観点から検討を試みることとした。


1.早くなった初経年齢 
 初経の発来は女性の成熟の徴候として早くから注目されていた。日本人での初経の年齢は、戦前は14歳7か月とされていたが、今では12歳6か月と、この50年の間に2年も早くなった。今では小学生のうちにほぼ半数が初経を見るようになっている。初経の年齢が早くなってきたことは世界的な現象で、19世紀の初めに15〜16歳であったのが最近では12歳台となったとされる。早くなった原因としては、一般に栄養の改善や感染症の減少によって成長や成熟が早くなったためと、生活が都市化して少女たちの接する情報量が性に関しても多くなったためだろうと思われている。

 しかし、これ以上際限なく初経の年齢が早くなるとは思われないので、初経発来の促進現象は止まるだろうとされていた。現に1970年代には初経年齢の早期化は認められなくなったといわれるようになり、1960年代に生まれた者からは初経年齢の早期化傾向は止って、むしろ遅くなり始めている。最近における初経発来の遅延の原因には、スリムなスタイルが好まれるように世間の傾向が変ってきたためだろうともいわれるが、具体的な根拠はない。初経年齢の変動については社会学的にも、生物学的にも種々の要因についてもっと広い視野からの立ち入った検討が求められる。

 古い時代の記録を調べて見ると、ギリシャ・ロ−マの時代から15世紀ころまで、初経の年齢は大体12歳から14歳くらいだったといわれ、18世紀の末になってから遅くなったものらしい(2)。
 インドでは前5世紀から5世紀ごろまでの人では初経の年齢が12歳くらいであったので、これだと古代のギリシャやロ−マの人よりもいっそう早く、現在のインド人に比べても1〜2年早いことになるという(3)。
 日本でも古い記録によれば、14歳で初経を見るのは普通のことであり、12歳や13歳で子を産むのは異常に早いといっているところを見ると、数え年でも14歳の頃には初経を見ていたものらしい(4)。
江戸後期に農村改革を称えた思想家の大原幽学
(1797-1858)は1840年頃に、女子は13歳の頃には初経を見るのが普通であると書いている(5)。
 

 こうしたことから見ると、昔の記述がどの程度信頼できるものかは疑わしいとしても、19世紀以前の初経年齢はあまり遅いものではなかったように思われ、18世紀から19世紀にかけて初経年齢の遅延が起こったものと考えられる。そうだとすると、19世紀以後に始った初経年齢の早期化は必ずしも近代的な食生活の改善による栄養の向上や、情報化による早熟傾向の現れとは限らないかもしれない。
 19世紀以来の世界的な初経年齢の早期化と、最近各地で見られ始めた初経年齢の遅延との両方を説明できて、その上に18世紀以前の傾向にも適用できる納得できそうな説明はまだ聞いたことがない。初経は世界の全女性にあまねく知られたことであるのに、その発来の機序にはまだ分かっていないことが多い謎の現象である。生まれ月が初経発来の年齢や季節と関係のあることが分かってきたので、そこから新しい切り口が発見できるかもしれない。

2.初経の年齢、栄養と環境
 初経が見られるようになるのは、女子の身体が次第に成熟して妊娠や育児が出来るように準備が整った証とされる。そのことは外見的にも一定の体形を具えて来ることと連動している。身長の発育はそのピ-クが10〜13歳で起こり、その後6か月で体重増加のピ−クがあり、その1年後には初経を見るとされる。そのように発育を遂げるためには、遺伝的にプログラムされた発育の順序に従うことが必要であるが、それを妨げるような条件があれば初経の発来は遅れることになる。そういった条件として、栄養の不足が第1に考えられる。
 栄養が不足だと初経の年齢は遅延する。だから逆に19世紀以来の世界的に起こった初経年齢の促進は、世界的に栄養が改善されてきたためと思われている。

図 1 初経年齢の出生年代による変動  出生年代
 

初経年齢の早期化が近代社会での食生活の改善によるものとすれば、戦時中に食糧の不足に悩まされていた思春期の女性ではどうだったろうか。東京での資料では1930年代に生まれた人達では初経の頃に戦争となったので初経の年齢が1年近く遅れていた(図1)(6)。戦時中の秋田県の無医村では初経年齢の平均が数え年で16.4歳で、小学校を卒業した年齢でもまだ20%しか初経を見ていなかった(7)。オランダでも、1930年頃に生まれた女性では丁度初経を迎える頃に戦時中となり、極度の食糧不足に遭遇したので平均でも6か月の初経の遅れが起こっていた(8)。
 こうして比べるとナチスの占領軍に収奪されていたオランダよりも、東京や日本の農村の方が影響が大きかったようにも見える。


女性ホルモンのエストロゲンは脂肪組織に蓄えられるので、体脂肪の量でエストロゲンの保有量が規定されるとされ、初潮の発来には体脂肪がある量まで増加していることが必要とされる。それで、初経の発来には年齢や身長よりも体重が重要で、それが一定の値47kgに達する時に初経が起こるとの説明が有力である(9)。日本人ではそれよりも少し小さく、身長が147〜8cm、体重では40−42kgとされたが、今ではもう少し大きくなっているだろう。


最近になって、胎児期の栄養が成人後の心疾患の死亡にも大きく影響することが英国での研究から言われるようになった。それで初経の年齢にも成長期の栄養だけでなく、胎児期の栄養の影響も考えられた(10)。英国で1471人の少女について、7歳の時に体重の大きかった子は小さかった子よりも7.4月も初経の年齢が早かった。しかし出生時の体重の重い子は軽い子よりも初経の発来が2.2月も遅かった。それで、出生体重は母体の栄養とは関係がなく遺伝的な素因によるのでそれが生後の成長と初経年齢にも反映されたのかもしれないという。

都市と農村
 都市の女性は農村に比べて初経の年齢が早いことが各国から報告されている。その差は2か月から1年以上というものまである。栄養の違いや情報量の差が原因といわれるがその他環境中に拡散している植物性のホルモン様物質の量の違いも影響しているかも知れない。
 初経の年齢は社会階層によっても差があるので、下層階級で遅いのは栄養の差によると思われる。
気候・高地と初経
 気候の温暖な地域の方が初経の発来が早く、寒冷地では遅い。

ペル−で海岸のリマと、4340mの高地の都市の住民とを比べると、高地では体重/身長比が低く、初経の年齢は遅い。初経時の体重は高地住民の方がかえって大きいが、初経後17−19歳になると体形の差はなくなるといわれる(11)。

受験勉強のストレス:
 小学校の時から長時間塾に通って受験勉強にはげみ、中高一貫教育をしているいわゆる一流私立高校に入った生徒と一般の公立高校の生徒とで学習塾へ通った時間を比べると、私立高では小学5年時毎週平均で6.0時間、6年時は7.3時間と、公立高校の生徒での0.9時間と1.3時間に比べて格段に長い。それでも身体計測値や初経の月齢ではほとんど差がなかった。長時間の受験勉強も成績の良い子供に取っては身体的にはあまりストレスではなかったらしい。

盲人の初経
 ラットでは光に当てると性成熟が早まるし、暗所に飼うと成熟が遅れる。しかし人では分かっていない。
 未熟児で生まれたために網膜症を起こして盲目となった少女181人(うち全盲80人)を、未熟児だったが視力の健常な99人と比べると、生後150月での初経発来者が全盲78%、半盲68%と視力健常者の53%よりも多く、視力の完全にないものが一番初経が早かった。また同じ年齢での正期産で乳児期に盲目となった54人での初経発来者は75%で健常者236人での56%よりも多かった。ヒトでは動物での実験結果とは全く反対なのは驚くべきことである。暗所に置かれることと盲目なこととは意味が違うらしい(12)。聾者の初経年齢が一般よりも早いとの報告もあるので(13)、盲目であることによる種々のストレスが初経を早めたのかもしれない。

3.初経の年齢と生まれ月
 1881年から1970年までの90年間に生まれた日本の女性47、881人についての初経の記録から、生まれ月と初経の年齢との関係を見ると意外なことが見えてきた。今では冬生まれの者の方が夏生まれの者よりも初経の年齢が幾分早い。この傾向も時代と共に変わるもので、1920年代から1950年代にかけて生まれた者では、夏生まれの方が明らかに早く、もっと前の19世紀に生まれた者では生まれた季節による違いが少なかった(図1)。今までは、そういった生まれ月による違いは、季節によって乳児期での栄養に違いがあったり、小児感染症の流行に季節性があるためと考えられていたようである。ところが我々の調べた日本人での結果からは、その関係が1950年代の初めに生まれたものを境にして逆転していた。初経の年代でいえば1960年代となり、それは日本人の生まれ月の分布が大きく変わり、早生まれの山が消失して出生のピークが1ー3月から7ー9月へと大きく変わった時期と一致する。
 このことから、出生から初経の発来に到達する日までの期間の長さを規定しているプログラムが、出生前後の環境要因によって動かされていることが考えられる。その環境要因の内容や季節分布が、年代によって大きく変わったために、受胎効率の季節変動が一変して早生まれが減少したり、初経の年齢が変化するような現象となって現われたのかもしれない。そのような環境要因は、季節的に変動があり、1950年代頃に大きくその内容や季節分布が変わったのであろう。

4.初経の季節 
 今の日本人では、初経の発来が1、4、8の3か月に集中して多いので、これは、正月休み、春休み、夏休みといった学校のスケジュールによるものと簡単に考えられている。しかし、明治時代の娘さん達の初経の季節を調べてみると、とてもそんな簡単なものではないように見えてくる。
 神田駿河台にある浜田病院は古くから東京では有名な産科専門の病院である。そこの病歴室には、関東大震災以来の産科病歴が保管されている。これを調べさせてもらって、明治時代からの初経の記録が再現された。これを見ると明治生まれの娘さんたちの初経の季節は4月に1番多く、次いで8月で1月には多くない(6)。明治時代の娘さんたちは、小学校だけで終わったものが多く、女学校(4〜5年制で今の中学校と高等学校とに当たる)に入る人は少なかった。初経の年頃には、もう小学校は卒業して、多くは家庭で、あるいは外に出て働いていたので、夏休みも春休みもない者が多かったと思われる。それでも、初経は4月に特に多く、8月にもやや多かったが、昔からの正月行事が今よりも盛んに行われていた1月には多くなかった。1月の初経が多くなったのは、むしろ最近のことで戦後の現象らしい。戦後には4月の山が縮小して8月の山が優勢となり最近にまで続いている(図2)。こうした経過を辿ってみると、学校の休暇が初経の発来を促しているとばかりは思われない。
 
図 2 初経月分布の年代による変動

 5.外国の初経季節
 外国での初経の季節の研究はヨーロッパが中心である。ヨ−ロッパの諸国では、初経は一般に冬に起こることが多い。それで、初経の発来には気温の低下と短い日照時間とが関係するだろうとされた。しかし南半球のチリでも12−2月の夏に初経のピ−クがあることから初経発来の低温短日説は成り立たない(14)。欧州でも東欧よりだと夏にも第2のピ−クが見られる(図3)(15)。ポーランドに国境を接する旧東ドイツのゲーリッツでは12月と8月と2つのピークがあった。チェッコのプラハでは1月のピークだけだが、モラヴィアでは、都市の女性ではピ−クが冬に見られるのに、農村では夏に見られどちらもピ−クは1つしか現れていない(16)。これは、モラビアが東西の中間に位置するので都市の住民には西欧的な、農村の住民には東欧的な原因が考えられるのかもしれない。

図 3 各国の初経月の分布

 アジアでは戦前からの日本での研究が主だが、中国や東南アジアの研究では、夏のピークが著明であり、冬にも小さな山が見られることもある。
 1990年に、中国から来ていた留学生の協力を得て北京の学生さんたち684人の初経を調べることができた。ここでも、やはり8月に際立って多く、次いで2月に多かった。年齢的には、日本では小学校6年の1月、北京では少し遅れて8月にピークがあった(図4)。  

図 4 北京と日本の初経月の分布

 日本人のように夏と冬のほか春にもピークがあるのは稀なようである。戦前の朝鮮では年に3回のピークも報告されていたが、特にピークは見られないとか、8月と4月の2回に多いとかいう報告もある(17)。
 このような初経月の分布の著しい集中と、その地域による違い、日本で見られたような長期的な大変動が起こることはどう考えたらいいのだろうか。ピークが1つしかないような場合には、それが気温や日照などとの関係で説明しようとしたり、サインカーブを当てはめてピークの時期を計算しようとするものもいるが、2回、3回のピークとなると統計学的な処理を離れて社会事象との関連を求め、学校の休暇と結びつけたりすることになる。私等はそうした直接の気象的やあるいは社会的な要因だけではなく、生物的あるいは微生物的な流行季節との関連を考える方がいいように思っている。

6.初経の季節と生まれ月  
 初経は自分の生まれた月に多いという説がある。
最初にいいだしたのはウイ−ンのペレルらであろう(18)。彼らは1933年に1763人の初経の月と生まれ月とのクロス表を作り、同じ月に初経を見たものが242人と13.7%もあったことを示している。
 その後、各国で同様の調査が行なわれたが、一致するとの報告と、関係が無いとの報告とが入り交じって結論が出ていなかった。大体初経が何時だったかを何年もたってから聞いたのでは正確に覚えているはずがないので、たまたま誕生日に近かった人が、よく覚えていたのだろうと言って一致説を否定する者もいる。

 私たちは、産院の古い病歴の調査と並行して、中学、高校、大学の学生たちから保健体育の授業などを通じてデータを集めてみた。すると不思議なことに、明治以来1960年ごろまでに生まれていた人たちでは、生まれ月と初経の月との一致が、関係がないとしたときの期待値に比べて30%以上も多いのに、1960年代の前半に生まれた人では、その一致がほとんど見られなくなっていた(19)。
 ところがもっと新しく、1960年代の後半以後に生まれた人たちからは、また生まれ月との一致が見られるようになり、1970年代に生まれた人ではその傾向が復活して、一致率は期待値よりも20%以上多くなっている(15)(図5)。

図 5 初経の月と生まれ月との一致

 生まれ月と初経月の一致が消えた1960年代の前半というのは、我が国の経済が急激な発展を遂げ、それにともなって環境の汚染も激しく、公害の多発していた時代である。同じ頃に日本に特有の著しい早生まれ現象(1〜3月生まれが異常に多いこと)も消失した。初経についても、生まれ月と初経年齢との関係が逆転したのも同じ頃のことである。1960年代に起こった環境の変化が、ヒトの生理機能の季節性に影響する環境中の因子にも変化を起こさせたものに違いない。大気や水質の汚染物質の増大も同じ頃に起こっている。環境汚染物質が、診断されるような病気ではなくて正常の範囲をあまり超えない程度に生理機能の変化を起こしているのかもしれない。感染症による死亡率の激減したのも同じ頃のことである。微生物は症状の激しい感染症を起こすものと入れ替わって、生理機能に量的な変化を起こす程度のものが増加しているのだろう。そのようなウイルスの不顕性感染が流行していたのかもしれない。このことは、その影響の深刻さを考えると大変なことだと思われる。その本体の究明はこれからの重要な問題となるに違いない。

7.血液型と初経の季節 
 近頃になって、生まれ月とABO血液型とを組み合わせて見ると、今まで考えられなかったようなことでいろいろと分かってくることがある。そこで最近では初経について聞く時には血液型も一緒に聞くことにしている。

まだ例数が少なく、あまり確からしいことは言えないが、そうした調査を多くの方にもっと広い範囲で進めていただくためと思って敢えてここに記述しておくこととした。


北京の学生では調査に応じた929人のうち血液型の分かった453人では、O型が169人と一番多く、B型125人、A型111人、AB型48人と、日本に比べるとB型が多くA型が少なかった。
 血液型と初経との関係を見ると、中国と日本とに共通に見られた8月の夏のピークは、すべての血液型の人に一様に見られるが、北京の方が夏の集中が著しい。ところが、冬のピークでは、中国の2月のピークはB型とO型の人にだけ見られ、A型とAB型の人では1月にピークがある。一方、日本の学生では、1月と4月の山がはっきりしているのは、やはりB型とO型の人だけで、A型とAB型の人では、1月から4月までの間に谷が見られないで一続きの幅の広い山になっていて、ピークといえばむしろ3月にある。冬の初経は血液型を選んで起こるらしい。

 もし将来、調査の例数をさらに増して、そのような現象の存在が本当に認められるならば、初経を発来させるような要因には血液型物質と共通の成分が含まれていることが推察されるのかも知れない。多くの細菌や植物にも血液型物質と似たような成分のあることが知られているので、初経の発来と生物的な要因との関係を推定する上で一つの根拠を与えることになるだろう。

8.双子の初経発来の日差
 1卵性の双子では初経の発来も一緒に起こるものだろうか。それを調べたような研究もいくつかあり、1卵性では2卵性の双子よりも一致率が高いという予想どうりの結果がでている。しかし一致しない時にはどのくらいずれるものだろうか、それをはっきり調べたいと思って双子の初経発来を月だけでなく、起こった日までを調べたところが意外なことが分かってきた(20)。
 ツインマザ−ズクラブなどに参加している双子のうち144組(1卵性が110組、2卵性が17組、卵性不明が17組)について、二人の初経発来日を確かめることが出来たのは1卵性が95組、2卵性が10組であった。初経月齢の平均は1卵性2卵性ともに144か月で差がない。出生時の体重の対差は1卵性の方が大きいが、初経の時になるとその差は1卵性の方が少ない。1卵性では胎内での血液の配分に差があったりして出生時には体重に差が出来るが、出生後には本来の遺伝的な特質に従って成長するので体重にも差がなくなる。初経発来の月齢の差は1卵性では3.7月、2卵性では8.6月で1卵性の方が少ない。1卵性の内で30%が差が1月以内であったが、2卵性では差が1月以内というのは1組もなかった。
  
図 6 1卵性双子の初経発来の日差の分布
  
 問題は1卵性での初経発来の日差である。その違いの分布は図に示してあるように明らかな周期性を示している。その周期はおよそ28日でほぼ一定らしい(図6)。
28日の周期というのはいうまでもなく、女性の月経周期と一致する。このことは初経の遅れた方(B児)の初経の発来日は先に初経を見た方(A児)の初経発来の時からその数か月後の28×n日目に起こるであろうことが予定されていたことを示している。つまりB児でもまだ初経を見る前からA児と同時に潜在的な月経周期が始まっていたと考えられる。もしA児がいなければB児の初経発来が予定された日に起こったとは分かるはずがない。そこでさらに考えると、A児の場合にもその初経の発来以前から潜在的な月経周期があったので、その初経発来の日はもっと以前のある時から予定されていたのではないだろうか。そのある時とは少なくも半年くらいは前であると思われるし、あるいは生まれた時から決まっているのかもしれない。A児だけでなく、一般の単胎児でも同じことが言えるだろう。そう考えると、生まれ月と初経月との一致が起こることはあまり不思議ではないことになる。

 初経から月経へと続く女性のリズムが、実際には初経以前から始っていることは、ここに示された双子の初経月の日差の周期性から推論されたことである。これを支持するような研究が以前にもあっただろうか。

アメリカでの研究によれば(21)、11人の少女の早朝尿で性腺に関係するホルモンであるFSHとLHを測定したところ、初経前の5人中3人、初経後の6人中3人で20−40日の間隔での周期的な増減が見られたことから、初経よりも以前から、視床下部−脳下垂体−卵巣の周期性のある連関が始っているといっている。この周期性は8歳11月、9歳9月というようなまだ体形も思春期以前の少女でもみられているので、実際にはもっと早くから周期が始っていると思われる。
 英国の小児科医の報告で(22)、糖尿病の少女を治療しているときに突然と血糖値が上昇してインシュリンの効果がみられなくなることがあり、それは数日で回復した。そのような発作的な異常が21−34日くらいの周期で繰り返して出現していたのが、初経をみてからは起こらなくなったのが6例、同様の発作が逆に血糖値の低下として起こったのが1例に見られた。これは初経前の月経周期とも考えられるといっている。

 そうしてみると、初経の発来には、身長、体重、脂肪量などの量的な発達が一定の基準に達しただけではなく、その上に早くから潜在的に存在する28日単位の周期をもつ内分泌系の活動のリズムがピ−クに達した時に発動されるものであろう。そのピ−クを増幅して初経を誘発させる切っ掛けとして、環境中に何かそういう働きをもつ物質が季節的に増減し、それに対応する感受性は胎児期につくられるので、出生した季節と関係するのかもしれない。その物質としては季節的に変動する花粉のような植物性のものなどがまず考えられるが、もっと別の物かもしれない。まだそれ以上の具体的な根拠を挙げるには至っていない。初経発来の集中する季節が国際的にみて大きく異なること、長期的に見ると日本人では明治以来かなりの変動が見られることなどは、広域的な植物相の相違や農業・林業などの長期的な変遷も関係しているだろう。あるいは近代的な化学物質による環境汚染なども今では影響しているのかもしれないと思っている。

9.スポ−ツ女性の初経と月経 
 女性の月経はほぼ毎月あるものと決まっている。しかし、実際には、色々の原因でそうはならないことも多い。激しい運動をする人たちでは、月経の回数が減って、極端な場合には無月経になってしまうこともある。 体操のようなスポーツの選手では体重の減量をも強いられるのでしばしば無月経が見られている。
 運動選手の初経についての調査によれば(23)、1966年に国内の女子陸上競技の一流選手145人について、初経の年齢は13歳6月で他の女子学生での報告と比べてやや遅めだが大差はなかった。中でも初経が早かったのは砲丸投(15人)の12歳11月、遅いのは走高跳(11人)の14歳6月であった。この2種目では選手の体形が大いに異なるので興味がある。月経周期も不順なものが25%と多いが、走高跳の選手では60%と特に多かった。
 1979年の大学の水泳選手170人での調査結果では、初経年齢は平均12歳4か月で一般学生よりもむしろ早いし、練習開始の年齢とはあまり関係がなかった。水泳選手では砲丸投げと同様体重の大きいことが不利ではないためだろう。 
 ほとんど月経のなかったような運動選手でも、卒業後には普通に結婚し出産しているので、激しい運動練習も性機能に長期的な障害を及ぼすものではないらしい。

 1981年に入学した日本女子体育大学の学生たちでは、入学以来の月経の発来についての記録が取られている。運動部に所属しない普通の学生59人では毎月の月経頻度が平均で0.96回とほぼ毎月1回であるのに、運動部に入って練習を続けているもの124人だと0.86回で他の一般学生より少ない。その頻度を月別に見るとどの群の学生も3月と9月には月経の頻度が上がって、4月には急激に少なくなる。3月は学年末で解放感があるのだろうか。その反動もあるのか、その上に4月は新学期が始り、運動部でない学生でも強いストレスがあるのだろう。8月には夏休みなのに一般学生では増加がないが、9月には急増する。運動部の学生では8月9月と増加する。運動部の練習はこの時期に少ないのだろうか。卒業した後にも月経の記録を続けているものでは、3月や9月の増加が見られなくなるので、学生だけがこの時期に月経頻度が増加するのは自然環境の季節要因によるものではなく、学生生活に伴う学期の変り目などがストレスとなって起こったものと考えられる(図7)。

図 7 女子学生の月別月経頻度  
   
 261人の学生で、初経月齢の早かったのは無所属と陸上、水泳の152〜153月、遅いのは体操、ダンスの165〜159月などであった。月経の頻度も、体操、陸上、球技では少なく、特に体操(0.483)では普通の学生に比べて月経の頻度が半分しかなかった。

 月経頻度の季節変動は頻度の少ないものほど激しい。特に少ない19人でどの月に月経を見たかを調べてみると、不思議とその人の初経を見た月と一致して月経を見ていることが多い。例数が少なすぎるのでとても自信のあることは言えないが、もしもっと例数を増して同じことが確かめられれば興味のある現象で、初経を発来させるような季節性のある環境中の因子は、成人では月経の発来にも影響しているのかもしれないと考えたい。
 初経は1回だけのことだけれども、月経は30年以上も定期的に続く現象である。それが不順となり途中で止まりそうになった時に復活させる作用が環境中の因子にあるのだろう。それが、人ごとに違う一定の季節に毎年1回以上起こっていることは、乱れかけた月経の周期性を回復して、月経の規則性を維持する機序として作用しているのかも知れない。
 しかしこの現象は未だ観察例数が少ないので、これからもっと観察を続けて行くと、確からしいことが分かってくるだろうと期待している。

10.初経は流行する
 私たちは、初経の発来の時期を実際に決めるのは、環境中の未知の因子によるものだろうと考えている。その因子がある季節に急速に広まると、成熟しかけている初経待ちの若い女性に作用して流行病のように一斉に初経を迎えさせることになる。その流行の主なものが、今の日本では1、4、8月の3回あるのだろう。流行は地域によっても違うだろうし、時代によっても変化する。

 初経の発来が流行するとすれば、それと関連して月経の同調という現象がある。それは女性の寄宿舎などで起こったことが知られている(24)。始めは月経の日がばらばらだった7人が3か月一緒に住んでいたら7人全部の月経が4日以内に一致して起こるようになったということや、郊外の寄宿舎に一緒に住む若い135人の女性について、9月末から翌年の4月まで同居していた間の月経開始日を調べたところ、同室又は仲よしの66人では月経の開始日が次第に同調してきたが別の33人では同調がみられなかったので、同調は食事や生活の規則性などのためとは思われない。友人の月経を意識していたものははっきりしない者をいれても1/4しかなかったので、同調の原因は心理的なものではないと思われ、フェロモンの作用も考えられる。男友達と週に3回以上あっていたものは月経の周期が28日と正常だったが2〜0回と少ない者では月経の周期が長かった。男性と会う機会が増えると周期が短くなり、会わなくなったら又長くなった者もあるので、男性のフェロモンも影響しているかもしれないという。

11.自然界に拡散するホルモン様物質
 初経発来因子の本体がなにかは、まだ全くの謎である。しかし多くの事実からそれが環境中にひろく拡散して存在し、季節的にその濃度が変動するようなものであろうと思われる。自然界には、動物や昆虫が各種のフェロモンを出し、極めて希薄でも同種の生物には極めて敏感に感知されていることが知られている。花の香は昆虫を引き寄せるだけではなく、人にも魅惑的な感情を引き起こすので香水として使われる。花粉が肉眼的には全く感知されない濃度でも、人によっては激しい反応を起こすことは花粉症の流行として今や周知のことである。こういった植物や動物が作って自然界に拡散しているホルモン様物質には季節性が著しい。それらが人には気づかれないが体内に取り込まれてなにかの作用をしているのかもしれない。化学物質である環境ホルモン(内分泌撹乱物質)は水や土壌を汚染し、植物や動物に取り込まれて広く地球の環境に拡散しヒトの食品にも含まれるようになってきた。
 
 一般に胎児はその発育の段階に応じて外界から侵入したウイルスや化学物質にことに鋭敏に反応することが胎児の風疹ウイルス感染症やサリドマイド症、胎児性メチル水銀中毒などの発生以来注目されている。いわゆる環境ホルモンの中にも動物では胎児期に作用して生殖機能の障害を起こすもののあることが知られている。ヒトでもこうした自然界に放出されている動物性、植物性のホルモン様物質に対して、胎児や新生児が鋭敏に反応しているとすれば、その影響は重大であるのかもしれない。自然界のホルモン様物質の影響は今でも全く無視されているので、その研究の開始が緊急に求められるべきであろう。将来その実態が明らかにされると、無排卵とか、無月経、自然不妊といった現象の本態に迫り、その治療にも発展するような新しい手がかりが得られるかと思われる。
 
 初経発来因子の本体が「自然界のホルモン様物質」として認められれば、それに類する1群の物質のヒトに対する影響がさらに広く知られることになるであろう。それは初経の発来を初めとする人の生殖生理に関係する諸現象のみならず、胎児期に始まる発育や成長、精神機能の発達など、人の体質や気質をも含めた各方面に見られている生まれ月現象の本態にも関係しているものだろうと思っている。

文 献
1. 三浦悌二 1998 生まれ月学のすすめ W 自然不妊の流行と少子化 BMSA会誌 10(1): 1-16
2. Amundsen, D.W. 1973 The age of menarche in medieval Europe. Human Biology 45: 363-369
3. Datta, B. & Gupta, D. 1981 The age at menarche in classical India. Ann. Human Biol. 8: 351-359
4. 古事類苑 [人部1;6 身体3] 45:449 1935 古事類苑刊行会 東京
5. 大原幽学 1840? 微味幽玄考:日本思想大系 52:344 1973 岩波書店 東京
6. Nakamura, I., Shimura, M., Nonaka, K. & Miura, T. 1986 Changes of recollected menarcheal age and month among women in Tokyo over a period of 90 years. Ann. Human Biol. 13: 547-554
7. 林俊一 1942 農村の母性と乳幼児 朝日新聞社 東京
8. van Noord, P.A.H. & Kaaks, R. 1991 The effect of wartime conditions and the 1944-45 Dutch famine on recalled menarcheal age in participants of the DOM breast cancer screening project. Ann. Human Biol. 18: 57-70
9. Frisch, R.E. & Revelle, R. 1970 Height and weight at menarche and a hypothesis of critical body weights and adolescent events. Science 169: 397-398
10. Cooper, C., Kuh, D., Egger, P., Wadsworth, M. & Barker, D. 1996 Childhood growth and age at menarche. Brit. J. Obst. Gynaecol. 103: 814-817
11. Gonzales, G.F. & Villena, A. 1996 Body-mass index and age at menarche in Peruvian children living at high-altitude and at sea-level. Human Biology 68: 265-275
12. Zacharias, L. & Wurtman, R.J. 1964 Blindness: Its relation to age of menarche. Science 144: 1154-55   
13. Chumlea, W.C. & Malina, R.M. 1979 Weight at menarche in deaf girls. Ann. Human Biol. 6: 477-479
14. Valenzuela, C.Y., Nunez, E. & Tapia, C.T.I. 1991 Month at menarche: a re-evaluation of the seasonal hypothesis. Ann. Human Biol. 18: 383- 393
15. 中村泉 1992 初経の季節 生気象学の事典 p112ー113 日本生気象学会編 朝倉書店 東京
16. Hajn, V. 1988 Secular changes in age at menarche in 1924-1970 in northern Moravia (Czechoslovakia). Anthropologie 26: 25-30
17. 松山茂 1944 内鮮人初潮に関する統計的研究特に季節的影響について. 民族衛生 12: 197-210
18. Peller, S. & Zimmermann, I. 1933 Ueber Faktoren welche die Zeit der Erstmenstruation bestimmen. Zbl. Gynaek. 57: 2897-2909
19. Miura, T., Nakamura, I., Nonaka, K. & Shimura, M. 1987 Correlation between month of menarche and month of birth. Arch. Gynecol. 340: 195- 200
20. Nakamura, I., Harada, C. & Miura, T. 1993 Latent menstrual cycle in pre-menarcheal monozygotic twins. Acta Genet. Med. Gemellol. 42: 295-297
21. Hansen, J.W., Hoffman, J.J. & Ross, G.T. 1975 Monthly gonadotropin cycles in premenarcheal girls. Science 190: 161-163
22. Brown, K.G.E., Darby, C.W. & Ng, S.H. 1991 Cyclical disturbance of diabetic control in girls before the menarche. Arch. Dis. Childhood 66: 1279-81
23. 山川純 1981 生理とスポ−ツ. Sexual Medicine 8(2): 41-43
24. McClintock, M.K. 1971 Menstrual synchrony and suppression. Nature 229: 244-245

Y 出生性比と生まれ月


  1. 出生性比の決定 
 出生性比が問題になるのは、それが年代や出生の季節によって変動する上に、変動の原因がまるでわかっていないからである。それは出生数の季節変動の原因として私たちが問題としている自然不妊(1)の作用が、児の性によって影響の異なる場合があることを示しているとも考えられるので、そこからも自然不妊の実体をうかがうことが出来るかもしれないと私たちには思われる。ことに、児の性比が母の生まれ月によっても変ることから、その原因には、あるいは免疫のようなことが関与しているのかと思われ、性比の決定には感染の関与さえ疑われるからである。一方、最近の環境汚染物質がヒトの出生性比をも変えているかとの疑いがかけられている。広域で、長期的に起こっている性比の変動は、その程度は僅かと見えても、それは広範囲に汚染が蔓延していることを示しているのかもしれない。それは古くからあった自然の感染・感作や汚染の拡大だったのかもしれないし、その上に新しく近代的な化学物質による環境汚染も加わってきたのかもしれない。

 しかし、日本では出生届には季節的な人為操作のあることがよく知られている。それで季節による性比の変動は出生届のずらしかたが男児と女児では違うことが原因とされていた。だから、届け出に基づく人口動態統計の数字を素直に見ていても環境や感染等の影響を正しく評価することができない。

 出生性比を表すのに、男児対女児の比が1.05または105と表す他に、男女合計で100のうちに男が51.2(%)というように表すこともある。これは性比ではなく男児率というべきものであろう。私らは主に前の方の表し方を使うことにしているが、文献によっては後の方法で言われていることもある。
 出生性比がなぜ105位なのかということは昔から興味をもたれ、今でも謎の多い問題である。普通は次のように説明されていて一応の説得力がある。
 男児を作るY染色体はX染色体よりも小さい。それで、Y染色体を持つY精子は運動速度は速いが持つエネルギ−が少ないために活発に運動の出来る時間がすこし短いのだろうということが基本的な事実らしく認められている。それで、卵子が丁度放出されて受精する位置についた時に同時に精子群が到達すればY精子の方が先に来るので受精の機会が多く、男児が多く生まれることになる。しかし、精子群が到達したのにまだ卵子が来ていないと、Y精子はしばらく待たされている間に弱ってしまうので、少し遅れて到着したX精子の方が受精しやすく、女児の方が多くが生まれることになる。精子の寿命はだいたい36時間くらいというので、そうした機会が毎日のようにあれば、男児の生まれることが多く、そうでなければ女児の生まれることが多くなるのだろうという。それで一般的には第1子の性比がいくらか高いことになる。
 実際にはそのように単純なものではないらしい。この点については、女性の排卵前後のホルモンの状態などからいろいろの解釈が出来るようなデ−タが今でも次々と出されて論争が絶えない。それにこのような視点からでは長期的な性比の変動を説明しにくいので自然不妊の解決に結び付くような結果は得られそうにはないかと思われる。

2 出生性比の年代変動 
 日本の出生性比の年代による経過を見ると人口動態統計の出来た1899年から始めの5年くらいは105程度であった。その後は1906年が丙午(ひのえうま)の年だったために女児の出生が嫌われて、性比が108.7と異常に高くなった。その前後の年にはいずれも102.7と異常に低かったので、この変動は届出の操作が原因と思われた。それでこの3年間を合計すると性比は104.5と当時では普通の値となり、1905−1930年の間は性比が105以下と低かったことになる。その後の性比は上昇を続けて、1970年頃には107を超えるまでになった。しかしそれからは出生性比が低下して、1980年以後は106を超えることはなく、105台で安定している(図1)。

図 1 日本の出生性比の年代変動

 20世紀になって性比が上昇した原因としては、産児数が次第に減少してきたために、性比の高い第1子の割合が増加してきたことと、性比の高いとされる流産・死産が減少傾向にあったことなどが理由として考えられている。だから1960年頃までは医療や衛生の条件が改善されてきたことが性比上昇の主な理由と考えられる。しかし環境の汚染が進行した1960年代後半からは性比の上昇が急激となり、1970年を過ぎてからはやや急激に反転下降した。1980年代になると105.5程度で落ち着いている。性比の変動を長期的に眺めると、1970年前後の15年ほどの間には一過性に性比の異常上昇があったと見ることが出来そうである。当時は急激な高度成長の時代であったし、なにか出生性比を上昇させるような異常が環境中に起こっていたのではないかと疑われるが、今までにそうした疑問の出されたことを聞いていない。当時の資料を探してでも新たに検討し直すことが必要であろう。

 最近の1970年からの性比の低下の様子を府県別に見ると大都市のあるところで性比の低下がことに激しいといわれるのも、そうしたところでは1970年代に性比の上昇が激しかったためかと思われ、都市部における環境汚染の影響が出生性比に及んでいたことを示唆しているのかもしれない。

届け出と出生性比
 一時的な現象として、日本では丙午(ひのえうま)の年に性比が高くなったことがよく知られている。1906年の丙午の年には性比が108.7と高かった。最近でも1966年がその年に当たったので性比は107.6と高く、前の年に比べると男児で24.6%、女児ではさらに激しく26.2%という大幅な届け出出生数の減少が起こった。1966年の前年と翌年の性比は逆に105.3とやや低かった。これは出生届が丙午の年を避けてことに女児の方が多くその前後の年に移された結果であろうとされている。その他寅年や未年に性比の高くなった地方もあるといわれ、日本ではまだ根拠のない迷信が実生活でも大きな影響力を持っていることを示している。次の2026年には出生性比がどういうことになるのかには興味がある。

戦争と出生性比

戦争の時代には出生児の性比が高くなるといわれている(2)。ナポレオンの時代にフランスでは出生性比の高くなったことが気付かれた。ほかの国でも、戦争の時代には性比の上がることが認められたが、そんな傾向の全くなかったところもあった。20世紀に入って第1次世界大戦が始まると英独を始め各国で性比の上昇が認められた。オーストラリアやニュージーランドにも同じ現象が認められたが、米国では起こらなかった。
 どうしてそんなことが起こるのだろうか。戦争による食料の不足が考えられたが、それでは説明出来ないこともある。それで結局は、戦争で多数の男子が死んだのを補うために、神様がそうさせるのだろうともいわれていた。
 第2次世界大戦が始まると、イギリスでは1942年に性比の上昇が始まり1946年まで続いた。ドイツでも性比の上昇があったし、今度はアメリカでも上昇が見られた。その後に、戦争の時には、動員された夫が出征する前や一時帰郷したとき、限られた短い時間に家庭生活を楽しむことになるので性比が上昇するのだといわれた。
 日本でも1939年の出生数が1937年に比べて28万人も減少したので、出征兵士の戦地からの一時帰郷を積極的に行ったところ、1940年には21万人の出生増加が見られたのだが、その年にも性比は105.1でほとんど変らなかった。


 最近になって、英国では夫婦の年齢差が大きいほど児の性比が高いことが示されて、戦時に性比が上がったのは女性が戦争中には年長の夫を選んだので夫婦の年齢差が大きくなったためだろうとの説が提唱された(3)。夫婦の年齢差が1918年には0.4歳、1947年には0.2歳くらい戦前よりも大きくなっていたという。
 戦争と性比との関係に納得できそうな説明は今でもまだない。戦争による人員や物資の動員、戦場や銃後での生活環境の激変、そういったこととの因果関係についての結論は当分先のことなのであろう。
 
3.朝鮮・韓国と中国の出生性比
 韓国と朝鮮とは海峡を隔てて九州に近く、気候風土も日本とあまり変らないし、古代から交流が頻繁にあったので人種的にもかなり近縁なものであろうと思われる。それなのに、韓国の出生性比は日本よりもかなり高いことが知られている。戦前の1910年代からの人口動態統計を見ると、朝鮮での出生性比は当時は114もあったが徐々に低下していた。一方日本の性比は105くらいから、1970年までは徐々に上がり続けていたので、日本との性比の差は次第に縮まっていた(図2)(4)。
 注目されるのは戦前の統計では朝鮮在住の日本人の出生性比が記録されていて、これが110程度と内地の日本人よりもなり高かったことである。一方戦後の在日朝鮮・韓国人の出生性比は韓国でのそれよりも低く日本人とあまり変らない。このことは出生性比の違いが民族にもよるだろうが、居住地の環境によって大きく影響されていることを示している。

図 2 日本と朝鮮における出生性比の年代推移

 従来、朝鮮や韓国で性比の高いのは、古くから各家系に伝え続けられている族譜(家系の歴代名簿)でも、以前は女児の出生が記録されなかったような習俗があったためとも言われていた。それも否定はできないが、実際にも高かったのだとすれば、それは地域の環境に性比を高くするような要因が存在していた可能性も考慮しなければならないだろう。そのことは戦前の在朝鮮日本人、戦後の在日朝鮮韓国人の出生性比を見ると一層はっきりする。

 性比の年代変動をさらに出生の季節別に見ると、6月〜9月、10月〜1月の出生性比の年代変動ではいつも朝鮮の方が高く、年代とともに徐々にその差が縮んでいるのに、2月から5月の間の出生性比の年代変動には激しい変化があった。日本では1930年頃までこの時期の性比が特に低かったが、その後急速に上昇して他の季節と変らないまでになった。ところが朝鮮ではこの間に性比の低下が著しく、1970年代にはついに日本と全く同じ水準になってしまった(図
3)。つまり日韓での性比の差の縮小はおもにこの2−5月の出生に集中して起こっていたことになる。
 なぜこの季節にだけ両国共に激しい、しかも逆方向の変化が起こったのかは大きな謎である。ここには出生性比決定の要因を解き明かす鍵があるのかもしれない。

図 3 日本と朝鮮との季節別出生性比の年代変動

 1980年代の後半になって韓国での出生性比が急激に高くなったことは今までの経過と比べて極端に急激な変化である。1991年の韓国の人口動態統計(5)から出生順位別の出生数を日本の出生数と比べてみると(表1)、第1子での性比が日韓両国で違いがないのに、第2子以降では大差の見られること。第1子と第2子の出生数では韓国は日本の63%くらいであるのに、第3子以降だとそれが24%程度しかいないことから、韓国では少子化の進行が日本よりも激しいように思われる。そのためには人為的な操作も行われて出生順位の高い産児で特に性比が変ったような印象を受ける。

表 1 日本と韓国の出生順位別出生数と出生性比

中国の出生性比
 少子化が強行されている中国でも全国的に性比の上昇が見られている。1989年には全国での出生性比は111.5 であるが都市部で111.6郡部で114.5と日本での105.2と105.6に比べると格段に性比が高い。中でも性比の高いのは河南省(116.2)山東省(115.1)、浙江省(117.6)、江蘇省(114.9)などで、北京市(107.5)上海市(104.8)などでは特に高くはない(6)。子供の性別についての考え方には大都市と地方とでは考え方の違いが大きいのであろうか。また出生順位による性比の上昇も著しい。第1子だけだと104.9と普通なのに、第2子では120.9、第3子124.6第4子以上だと131.7と出生順位が上がるほど性比が高くなる(7)。
 このように韓国や中国で男児の出生が異常に多いことは、近い将来に青年層での性比の大きな不均衡を招き社会問題になるだろうとが心配されている。
 
4 出生性比の季節変動  
 戦前の日本では出生性比はいつも年の前半で低く、年末に向かって上昇し11月か12月にピ−クを作っていた。東京での1921年から1935年までの15年間の出生性比の季節変動を5年づつプ−ルしてみると、12月以外はほぼ同じ傾向を示していたことが分る(図4)。12月の変動が大きいのは、この時期に多かった出生届の人為操作の習慣が当時の東京でその頃に大きく変ったためででもあろうか。

図 4 東京の月別出生性比:1921−1935年

 長期的な性比上昇の傾向は年初の2、3、4月に一貫して著明であり、6ー9月の性比にはあまり変動がなかった。年末に性比が高かったのはその分の女児の出生が翌年の春に回されたものと見られていたが、確かなことではない。丙午の年には1月と12月の性比が特に高くなる。その分は前の年の12月と翌年の1月に性比が下がるので、それは明らかに人為的な操作によるものであろう(8)。
 季節による性比の違いは次第に少なくなって、1970年代には性比のピ−クが11月から4−5月に移ってきたが、その季節差は以前よりは少なくなっている。1980年代の東京では1−3月の生まれに性比のピ−クがあり、10−12月の生まれで性比が最低になったが、まだ人為操作の跡が残っていたのかもしれない。
 最近の3年間、1994年から96年までの各月毎の性比を3月毎の移動平均で図に示した(図5)。これで見ると概して夏には性比が高く、秋のころから冬にかけて低いのだが、この3年間での変動の幅は各月毎に見ても106.7から103.9の間にあって1920年代に比べるその幅は1/3以下とはるかに小さい。

 図 5 日本の総出生の性比の月別変動 (1994−96年)
             (3月毎の移動平均)
 
ゲ−リッツの出生性比
 今ではドイツとポ−ランドとの国境になった旧東独のゲ−リッツでの教会の記録から17世紀の1611年から1860年まで250年間80,263人の出生記録を調べてみた。出生数の多いのはこの間を通じて春と秋とに見られるが、秋の山は19世紀になるとほとんど目立たない。出生性比では17世紀では変動が少ないのに18,19世紀になると1−2月の冬生まれで性比が低く、出生数の多い8ー9月のころには性比が高くなっていた。従来は出生性比は出生数の多い季節には低くなるとも言われていた。ここでも18、19世紀の冬についてはそう見えるが、長期的に見ると性比の季節変動のパタ−ンは出生数とは関係なくそれとは別に変動しているものであることが示された(9)。

図 6 ゲ−リッツの月別出生数と性比(17−19世紀)

ケベックの出生性比
 モントリオ−ル大学ではカナダのケベック地方での入植以来の教会記録から全員の出生・結婚・死亡などの記録を検討して家族ごとのデ−タを作り上げている。1621年以来1765年ごろまでの整理が済んで出版されているが、私たちはモントリオ−ル大学との共同研究として自然出産力をもつ集団として、生まれ月の面からの研究を行っている。

17−18世紀のケベックで、1621-1729年に生まれた53,218人では性比は105.3と普通であり、10月には高く(109.6)、3月にはことに低かった(101.6)(図7)。
図 7 ケベックの月別出生性比(17−18世紀)

 戦前の日本でも春には性比が低く11月に性比が高くなっていた(図4)のと比べると、ケベックでは1月まで性比が高く続いていたことの他はほとんど1920年代の日本と同じようなパタ−ンであったことが分る。このことは年初に性比が低く、年末に向かって(ケベックでは1月まで)性比が高いということは、かつて日本でいわれていたように届け出の人為操作によって起こった見掛け上の現象であるとは限らないことを示唆している。
 このように、地域的にも、年代的にも全く掛け離れた日本とケベックあゲーリッツでも似たような出生性比の季節変動の見られることから、このことがおそらく偶然のことではなく、自然的な理由のあることであり、またそういったことが長期的には変動するものであることから、単純に気温や日照時間といった物理的な季節現象に依存するものでもないことだろうと思われる。
 
 戦前、5ー7月に出生数が少なかったのは8−10月には自然不妊が多かったためであろう。その季節に結婚すると早期受胎率が低く、ことに男児が少ないために性比も低くなっていることが前報(1)で示された。出生性比の季節変動の原因は自然不妊の季節変動にあるのかもしれない。

5.母の生まれ月と子の性比

東京附近で1924−28年の間に生まれた母親について25歳以下で生まれた初産児の性比を母親の生まれ月別に見ると、産院で出産した1,071人とアンケ−トからえた598人とのどちらでも春(3ー5月)生まれの母の児でだけ特に性比が高かった(10)(図
8)。アンケート群では全体の性比が0.82と低いのは、調査の対象に女性が多かったためである。
 ところが同じ調査群で、1929ー1932年に生まれた母親だと、性比の高い母の生まれ月は両群ともに1ー2月の冬生まれだった。性比の高くなる母の生まれ月は年代によって動くものであるらしい。

図 8 母の生まれ月による子の性比
     (産院とアンケ−ト調査)
     
 1970年代に帝京産科での3255出産でも同じ様に、1−6月生まれの母では子の性比が118と高く、7−12月生まれの母では101と低かった。この傾向は1920年代の東京での傾向と同じである。


このように子の性比が高くなるような母の生まれ月は年代によっても変るために、産院での1924−1980年の全出産73,337例を合計すると性比の高い母の生まれ月には12ー1、4、7ー8月と3つのピ−クが見られた。
 そこで5年毎に調べて、性比の特に低かった月に生まれた女児が将来母となって子を生む時には、他の月に生まれた母よりも生む子の性比は高いだろうと予想してそういう現象を探したところ、1931−35年の4月生まれの母と、1941−45年の12月生まれの母親についてはその児の性比が高く、特に自分が生まれた月の1−2か月前の出産で著しいことが認められた(11)(図
9)。

図 9 低性比月生まれの母に見られる高性比

 このことは性比を低くする因子に暴露されながら生まれた女児は自らの出産の時にはその因子に抵抗して男児を多く生むようになっていることを思わせるので、性比の支配に関与する環境因子には免疫現象が認められのかと思われる。

ハッテライトとケベックのフランス人の出生性比
 ハッテライトは北米の北西部の草原地帯で農業を営み、多産なことで名高い。その中の一派であるダリウスロイトの戸籍にあたる教会記録から家族全員の生年月日を知ることが出来る。
 1840年代から1987年までに生まれたハッテライト11,573人での性比は104.9で、子供の出生では2月に116と高く7月には93と低い。母の生まれ月だと、やはり8月生まれの母の子では性比が115と高かったが、4月生まれの母の子では性比が99と低かった。

 17−18世紀のケベックでは 127,658
人 の出生児の全体の性比が104.8であるのに、2−4月生まれの母の子だけは性比が101.3と特に低かった。それはどの年齢の母でも同様であった。
 さらに児の出生季節でもみると、全体では11−1月の出産で性比が107.6と高いが2−7月の出産では103と低い。ところが2−4月生の母親だけは出産の季節による性比の変動が見られなかった。
(図 10)

図 10 ケベックの母の生まれ月別の出産季節による児の性比

 この現象も、季節による性比の変動要因に耐性(免疫)のある母がいるので、その母では子の性比が100に近く他の母よりも子の性比が低いということのようである。とすれば、季節変動要因は性比を上げるように、すなわちこの場合には女児の出生を抑制するように働いているのかもしれない。

 自然不妊によって出生数が減少するような場合に影響を強く受けて出生が減らされたのがY精子の方が抵抗の弱いためだとすれば、男児の減少がおこり性比が減少するであろうと考えられる。しかし季節要因が性比を上げているような場合もあるので、それには男性がわでのX精子の方がより強く影響を受けてそのために女児が減らされ性比の上昇することも起こるのかもしれない。性比の問題にはまだ謎が多い。もっとデータを集めて検討しなおすことが必要だろう。


7. 血液型と生まれ月  

帝京の産科で1970−1980年代に生まれた4388人での性比は110.0とやや高かった。子の血液型で見るとO型の子が118.1と一番高く、B型の子が103.6と低い。A型(107.8)とAB型(108.7)とはその中間にある。
 一方母の血液型で見るとO型の母の子が111.4と一番高いがA型はそれに近く(110.1)B型とAB型の母の子は108.4と108.3で他の母よりは低くみえる。
  1960年代に生まれた学生たち1521人からのアンケ−トでは、女子学生が多かったので全体の性比を105として調整した値で見ると、母の血液型ではA型とO型の母の子では性比が109、108と高く、B型では94.9、AB型の子は82.4と性比が低い。

つまり東京での結果では学生の母でも、産院の母でも、A型とO型の母の子で性比が高く、AB型の母では性比が低かったので、西欧では早くからAB型の母だと子の性比が高いとされていた(12,13,14)というのとは全く逆である。ボンベイでは、O型とB型の母で性比が高く、A型では低いという(15)。こういったことからも、人種による違いがあるのかもしれないとも思われる。そうなれば、血液型による児の選択や性比の問題を母児の血液型不適合で解釈しようとする従来の考え方は全く間違っていたということになる。

 そこで帝京産科のデ−タを生まれ月から見てみると、出産児の性比は血液型ごとにその季節変動が異なるようであった(図
11)。B型とAB型とは共通に6−8月の夏に性比が低い。しかしA型では10−12月、O型では2−4月に性比が低くなっていた。出生児の性比に影響するような季節的な環境因子には血液型物質と共通の成分があるのかもしれない。しかし、このデータではまだ例数が充分とはいえない。とはいっても、年代や地域を広げ過ぎると性質の違う群がまとめられることになるので、各群の特質が相殺されて見えなくなる恐れがある。なるべく限られた地域で限られた年数の間になるべく均質な大量のデ−タを得ることができれば、性比に影響している要因の本態に迫ることが出来るかもしれないと思っている。

図 11 帝京産科新生児の血液型と性比


性比の問題は古くから論争が続いていて、まだ決着が付いていない。それだけにまだ誰にも気付かれていない謎の鍵がどこかに隠されているのだろうと思う。私たちは生まれ月と血液型とによる解析がそれを解く鍵になるかと密かに期待している。

 血液型によって児の性比が変るのは、自然不妊の原因となるような環境中の要因が受精や受胎に影響を与える時に、それに対する児の耐性が母児の血液型と胎児の性とによって異なるためと思われる。母や胎児の血液型がそれに影響を与えるとすれば、それは環境の要因を排除するような働きが血清中の抗血液型物質抗体にあるのかもしえない。自然不妊を起こす環境要因は単一なものではなく、その流行は地域によりまた年代によっても異なるものとすれは、多くの報告が一致しない場合の起こることは不思議ではない。,
 母の条件による子の性比には、母の生まれ月と血液型、その生まれた当時の出生性比とその子の血液型と生まれ月等が相互の関係しているので、母の血液型とか、生まれ月とかだけを単純な要因として調べたのでは一致した結果の得られなかったことになったのだろう。私たちの研究をも含めて、今までそこまで考えに入れて分析できるようなデータがなかったことが矛盾する成績が出されてこの問題の解決を阻み、稔りのない努力だけが繰り返えされていたのかもしれない。

10 環境汚染と性比
 職業的な環境汚染や事故による局地的な汚染、公害としての地域汚染などによって汚染に暴露された職種の人や地域住民の子供に性比に偏りの起こることが知られている。最近ではそれが広域的な汚染となって広く一般住民の性比にも影響し始めているかとの疑いが持たれるようになってきた。

職業病としての性比の偏り
職業によっては子供の性比の低いことが報告されている。

製材所で使用する木材の防腐剤に暴露されている工員では子供の性比が低いが、それは防腐剤にダイオキシンが含まれるためであろうと言われる(16)。

麻酔科の医師ではアンケ−トに回答した117人の中で子供のある男の麻酔医87人の子供157人では性比は76と同地域での性比105よりも低かった(17)。
 空軍の戦闘機乗りの家には女の子しか生まれないといわれ、性比が低いといわれている(2)。それは訓練での激しいストレスによると思われるが、重力や加速度の急激な変化の影響も考えられるかもしれない。
 これとは反対に、農業者の家庭では事務職員の家庭よりも性比が高いといわれ、夫の職業が子供の性比に影響するらしい例が多く知られている。こういったことの原因が、都市的職業のストレスや職業的に曝露する化学物質のためなのか、あるいは農業者では濃厚な植物性のホルモン物質の曝露のためなのかはあまり考えられていない。
汚染のない自然の条件というものはありえないものかもしれない。

事故、公害による地域汚染
ダイオキシンに暴露した夫の家では女児が多く生まれると言う。

1976年7月にイタリアのセヴェッソ近郊の工場で事故があり、TCDD(ダイオキシン)数百グラムが大気中に放出された。9か月後から半減期の84年12月までの間に女児が多く生まれた。(男26/女48)。その後1985ー94年になると、出生児の性比は普通に近くなった(60/64)。1976年に採血されて保存されていた資料で測定された血清でTCDDが高い値を示した父の子供では12人が全部女だった(18)。
  スコットランドの Armadale
で1960年代に出生性比の異常な上昇があった。同じころ肺癌の死亡率も高くなったが出生率には異常はなかった。町には製鋼所があり、鉄、マンガン、ニッケルのフユームを大気中に排出している。工場の風下の地区ではことに性比が高かった(19)。
 ところが1950年代にハンブルグ郊外につくられた新住宅地のビレでは、ヒソ、カドミ、ダイオキシンなどを含むゴミや廃土の上に町が作られた。ここに居住して暴露されていた母の子は男児が多く(104/69=150.7)、妊娠までの間隔が長かった。
この土地の家庭農園で生産された肉類を食べていた人では血液中のダイオキシン濃度が高かった。ビレの子供の性比は9ー16歳だと24/20であったが、1ー8歳だと34/6と最近の子供では急激に性比が高くなっている(20)。

大気汚染・スモッグ
 ロンドンで1953年10月22日から26日までの5日間の出生性比は75.7(109/144)と特に低かった。この日は前年にあった有名なスモッグの日から322日目に当たる。その前後13日づつだと124(388/313)と111(345/311)でかえって性比が高かった(21)。スモッグによる汚染物質の変動が性比に異常をおこしたのかもしれないと疑わせる。

放射線:核施設と原爆

英国の西北部にあるセラフィールドの核施設での男子従業員で、年間10mSv以上の暴露を受けていたものの子供345人では性比が
139と高かった。
女子従業員915人では逆に98.5と低い。対照としては同じ町で核施設に雇われたことのない母での性比は105.7で普通だった(22)。
1948−55年に生まれた原爆の子 53,691人
について、原爆に暴露された父の子では男児が増えて性比が112.8(772/684)と高くなり、暴露された母の子4866人では性比が102.1と対照の109よりも低い。しかしその後
1956−62 に生まれた47,624
人の調査では始めに見られた性比の差は認めれなくなっていた(23)。

広域汚染の影響、

最近性比の減少と男子性器の異常とが言われている。1950-94年の出生統計から、デンマークでは男の割合が0.2ポイント、オランダでも0.3ポイント低下したという(24)。その差は僅かではあるが、環境汚染によるものかも知れないと注目されている。
 同様に、カナダでも、その4区域での全出生で1930−90年の間の性比(男児率)を見ると、1970年代初頭から各地域とも次第に性比が低下している。性比の低下は特に大西洋岸で大きい。米国でも同じ期間に0.1%程度の性比の低下があった(25,26)。この程度の低下でも人口の生殖力の変動が広域的に起こっていることの疑問の余地のない生物学的現象とみることができるかもしれない。その原因が環境汚染によるものであるとすれば、早急に対策を実行しなければならないだろうし、まだ原因の分かっていない自然不妊の蔓延によるものかもしれないとなればその本態の究明にとりかからなければならないだろう。いずれにしてもそれは人類の未来を考えると、ガン対策にも優る重要な課題であるに違いないと思っている。


文  献
1. 三浦悌二 1998 生まれ月学のすすめ W.自然不妊の流行と少子化 BMSA会誌 10(1): 1-16
2. Wells, R. 1990 The Sexual Odds. Can you choose the sex of your baby? Sally Milner Pub., Birchgroove, Australia
3. Manning, J.T., Anderson, R.H. & Shutt, M. 1997 Parental age gap skews child sex ratio. Nature 389: 344
4. 川名はつ子、野中浩一、高木晴良、三浦悌二 1991 日本と朝鮮における出生性比の季節による変動 日生気誌 28(3): 52
5. 大韓統計協会 1992 人口動態統計年報
6. 中国1992年人口普査資料 第V冊 P1098-1105  中国統計出版社 1993
7. 河野稠果 1993 女性と人口問題 人口問題研究49(1): 1-16
8. 臼井竹次郎、方波見重兵衛、永井正規、金子功 1979 月別出生の性比。 公衆衛生院研究報告 28(3/4): 148-166
9. Nonaka, K., Nakamura, I., Miura, T. & Richter, J. 1987 The season of mother's birth as a factor in changing the secondary sex ratio. Progr. Biometeor. 6: 77-88
10. Miura, T., Nonaka, K., Shimura, M. & Nakamura, I. 1983 A study of the sex ratio of first-born according to the mother's month of birth. Arch Gynecol 233: 261-266
11. Nonaka, K., Nakamura, I., Shimura, M. & Miua, T. 1987 Secondary sex ratio and the month of a mother's birth - A hypothesis of sex-ratio-decreasing factors. Progress in Biometeor. 5: 73-80
12. Hirszfeld, L. & Zborowski, H. 1925 Gruppenspezifische Beziehungen zwischen Mutter und Frucht und Elektive Durchlassigkeit der Placenta. Klin. Wochenschr. 4: 1152-1157
13. Allan, T.M. 1959 ABO blood groups and sex ratio at birth. Brit. Med. J. i: 553-554 
14. Plank, S.J. & Buncher, C.R. 1975 Maternal ABO groups and the sex ratio of live births. Hum. Hered. 25: 226-233
15. Sanghvi, L.D. 1951 ABO blood groups and sex ratio at birth in man. Nature 168: 1077
16. Dimich-Ward, H., Hertzman, C., Teschke, K., Hershler, R., Marion, S.A., Ostry, A. et.al. 1996 Reproductive effects of paternal exposure to chlorophenate wood preservatives in the sawmill industry. Scand. J. Work Environ. Health 22: 267-73
17. Wyatt, R. & Wilson, A.M. 1973 Children of anaesthetists. Brit. Med. J. i: 675
18. Mocarelli, P., Brambilla, P., Gerthoux, P.M., Patterson, D.G. &
Needham, L.L. 1996 Change in sex ratio with exposure to dioxin. Lancet 348: 409
19. Lloyd, O.L.L., Lloyd, M.M., Holland, Y. & Lyster, W.R. 1984 An unusual sex ratio of births in an industrial town with mortality problems. Brit. J. Obstet. Gynaecol. 91: 901-907
20. Fertmann, R., Schuemann, M., Karmaus, W., Schmid-Hoepfner, S. & Kueppers-Chinnow, M. 1997 Sex-ratio variation in the Bille settlement. Scand. J. Work Environ. Health 23: 308-310
21. Lyster, W.R. 1965 Altered sex ratio after the London smog of 1952 and the Brisbane flood of 1965. J. Obstet. Gynaecol. 81: 626-631
22. Dickinson, H.O., Parker, L. Binks, K., Wakeford, R. & Smith, J. 1996 The sex ratio of children in relation to paternal preconceptional radiation dose: a study in Cumbria, northern England. J. Epidemiol. Community Health 50: 645-652
23. Schull, W.J. & Neel, J.V. 1958 Radiation and the sex ratio in man. Science 128: 343-48
24. Davis, D.L., Gottlieb, M.B. & Stampnitzky, J.R. 1998 Reduced ratio of male to female births in several industrial-countries : A sentinel health indicator. JAMA 279: 1018-1023
25. Allan, B.B., Brant, R., Seidel, J.E. & Jarrell, J.F. 1997 Declining sex ratios in Canada. Can. Med. Assoc. J. 156: 37-41
26. Dodds, L. & Armson, B.A. 1997 Is Canada's sex ratio in decline? Can. Med. Assoc. J. 156: 46-49
27. Nonaka, K., Desjardins, B., Charbonneau, H., Legare, J. & Miura, T. 1999 Human sex ratio at birth and mother's birth season - multivariate analysis. Human Biology 71: 875-884

表 1 日本と韓国の出生順位別出生数と性比

 出生順位
総数 1 2 3 4 5 6
日 本 1,206,555 571,508 443,430 156,177 27,853 5,394 1,407
1996 1.056 1.061 1.053 1.051 1.051 1.008 1.039
韓 国  688,329 364,612 277,501 38,080 6,136 1,351 398
1991 1.129 1.061 1.128 1.847 2.123 2.092 2.402
出生数比  
韓/日 % 57.1 63.7 62.5 24.4 22.0 25.1 28.2

Z 生まれ月と寿命

1.生まれ月と寿命   
 寿命と生まれ月との間に関係のありそうなことは、早くから考えられていた。ハンチントンはアメリカとイギリスの人名事典を調べて生まれ月と死亡年齢から寿命との関係をみた(1)。人名事典では50歳以前の死亡者は5%もいなかったし、56%では死亡年齢が70歳以上だった。10,890人の寿命の平均は68.9歳。その中で2月生まれは69.7歳と長く、6月生まれだと67.8歳と2年近くも短い。それとは別にアメリカ東海岸の住民39,004人では、3月生まれが50.8歳、8月生まれが47.0歳と生まれた季節によって3.8年も違っていた。
 これに対してハンチントンは次の説明をしている。2,3月は丁度出生数の最も多い季節である。人の出産力にもアニマルリズムとしての生物学的な季節変動があり、冬から春にかけて生まれた子供は生殖力の最も盛んな初夏に受胎された者であるので、生命力も強く長寿である。ところが人の出生数には秋にも第2の山がある。しかしこれは年末の季節的な休暇の時期に受胎したものであり、生物学的な自然のピ−クではないので、この季節に生まれた子供たちの寿命は別に長くはないのだと言っている。

図 1 生まれ月と寿命:医学部先輩と老人施設入居者

 その後の医学部卒業生についても、1960年の名簿に掲載された以後の生存率を1991年の名簿で調べてみた。1934年から1946年までの卒業生1,443人の中で977人67.7%が生存していたが、6〜8月の生まれだとその生存者は63%と最も少なく、12〜2月の生まれだと72%と多かった(図2)。

図 2 生まれ月と生存率:医学部卒業者

 1,2月というのは当時出生数のピ−クがあった早生まれの季節である。その季節に生まれたものが一番長寿なのはハンチントンが言ったことと一致する。一方5〜7月という当時出生数の最も少ない季節に生まれたものは老人になってからでも先天的に弱い理由があるのだろうか。


出産数の少ない季節というのは受胎の際に自然不妊の要因が強く働いた季節であり、胎児の早期流産も多く、出産まで到達しても長寿になりにくい弱点をもって生まれてきたと考えられる。寿命の長さが生まれ月によって決まっていることも、自然不妊と同じ原因によって弱い体質を作ったのかもしれない。あるいは逆に、冬の生まれでは老人の死因となるような血管障害やがん、あるいは肺炎などの感染に対する抵抗力が強いのかもしれない。何か理由のあることに違いない。それが分れば長寿の秘密を探り当てることになるのだろう。

 当時、医学部の学生は男だけであった。ハンチントンの調べた人名簿の人達も主に男性だった。老人施設での結果もは男性についてのもので、同じ施設での女性1,033人については生まれ月による寿命の違いは認められなかった(2)。だから生まれ月と寿命との関係は、男性の場合にははっきりしていると見られるが、女性についてはまだよく分らない。

100歳老人の生存率
 厚生省は毎年100歳老人の住所氏名と性、生年月日を発表している。前年の名簿と照合すると、1年間の生存率を出すことが出来る。1979年から1985年までの7年間での100歳から101歳までの1年間での生存率を調べてみると、100歳の男では1,437人の58.3%、女では5,786人の62%が101歳になっていた。女では生まれ月による生存率の違いが見られないが、男では出生の季節によって生存率の相違が見られた。生存率と生まれ月との関係は地域によっても違うので、東京圏の主な人口源である関東と東北での男の100歳老人1年間の生存率は410人中230人(56.1%)で、5〜7月に生まれた84人では生存率が48%と一番少なかった。これは東京の老人施設や医学部卒業者での結果ともよく一致する。

1963年から1992年まで30年間の100歳老人を合せた16,632人の中、男は3,466人で性比は26.3となり男の数は女の1/4しかいない。6月の生まれでは性比が23.8と一番低く、この年齢まで生きられる男は女に比べると特に少ないことになる。6月頃というのは多分当時でも出生数が一番少なかったのであろう。その季節の生まれで特に男の寿命が短いことは益々確からしく思われてきた。何が原因なのであろうか。

2.脳血管障害 
 寿命が生まれ月と関係するのは、どんな病気のためなのだろうか。成人の寿命に影響するのは、脳と心臓の血管障害やがんなどが主要なものであろう。そこでまず脳血管障害と生まれ月との関係を調べてみた。

脳卒中と生まれ月
 都内のある老人施設の付属病院で、それまでに死亡していたおよそ2,000人の病歴を調べると、男女とも約50%は脳卒中で死亡またはそれに引続いての死亡であった。男性689人では5〜9月生まれの人は60%が脳卒中を経験していた。それ以外の10〜4月生まれの人では45%と有意に少ない。生存中の566人について見ても、その中での脳卒中の経験者は男性で24%女性では15%で、男性では5〜8月生まれの人の有病率が高い。一方女性では死亡者でも生存者でも生まれ月による違いははっきりしていない(図3)(3)。このことから男では夏生まれの者が脳卒中にかかり死ぬものが多いといえそうである。なぜか女だと夏生まれでも脳卒中にかかりやすいこともない。

図 3 脳卒中の死亡者と生存者の生まれ月

 最近になって、全国の死亡届に基づく脳血管障害による死亡者の生まれ月の分布が報告されている(4)。それによれば1986年から1994年までの9年間に脳血管障害で死亡した85万人について、6〜9月の夏生まれとそれ以外の10〜5月の生まれとを比べると、くも膜下出血の106,523人では1920年以後1949年までに生まれた男では明らかに夏生まれに多く、女性でも1930年代に生まれたものでは同じ傾向が認められた。
 脳内出血の死亡者261,297人では1930年以後生まれの男では夏生まれに死亡者が多いが女ではあまり差がなかった。また脳硬塞の486,161人では男女ともにあまり有意の差が認められなかったという。
 これで東京の老人での調査で、夏生まれの男にだけ脳卒中の死亡が多いとの観察とほぼ同じ結果が近年の全国の死亡届からも得られたことになった。

高血圧
 脳卒中の原因には高血圧があげられている。そこで高血圧と生まれ月との関係を同じ老人施設の過去の入居者について調べてみた(図4)。当時は8〜10月生まれの老人で血圧が高く、冬生まれの者では低かった。興味あるのは、女性では古い時代の生まれでは血圧値が非常に高く200にも達していて、男性では190程度だったのと大きく違っていた。ところが生まれ年代の若くなるにつれて女性では血圧の下がり方が著明であったのに、男性では同じ期間に血圧値の低下がほとんど見られなかった3)。

図 4 老人の収縮期血圧の生まれ年代による推移
 
 同じ環境の同じ施設内に居住し、同じ職員が測定をしていたのにどうしてこういう違いが起こったのであろうか。女性の中でも低下の最も大きいのは冬生まれの者であり、男性でも同じ傾向が見られる。ここにはまだ大きな謎が残されている。
 脳卒中の死亡率が、1970年をピ−クとして急激に低下し始めたことの原因としては生活の指導、高血圧の管理などが有効であったとされているのだが我々の観察からでは、生まれ月と関係する環境要因にも深く関係があったように思われる。 

3.がんの生まれ月
 がんは成人での最も主要な死因である。1980年代にはそれまで死因の1位だった脳血管疾患を抜いて1位となってから益々増加して今では2位以下を大きく引き離している。日本では胃がんが断然1位を占めていたが減少を続け、代って肺がんが増加して、1990年代になってから男では胃がんを抜いて1位となり、女でも2000年代には胃がんを抜くと思われる。がんの死亡率が年代によって大きく変動したことは、がんの発症には遺伝よりも環境の影響の方が遥かに大きいことを意味している。しかもその変動はがんの種類ごとに異なる傾向があることから、環境中にあってがんの発生や進展に関与している要因ががんの種類によっても違うものであるらしい。そのような要因の一つにでも季節性があって胎児期に作用しているものがあれば生まれ月によってがんの発生率が違うこともあり得るだろう。そのような考えからがんと生まれ月との関係を見た研究も少なくはない。

 1950年代にウ・−ンの病院で21年間の剖検22,000例から、がん死者は5〜8月の夏生まれには少ないこと(5)が見いだされてからがんと生まれ月の関係にも関心が払われ始めた。アメリカで9万人を越えるがん患者について、その生まれ月と死亡年齢を見たところ、1〜4月生まれは7〜9月生まれよりも発病は遅く、死亡の年齢は1.5年も遅かったことから、その違いは生まれ月による体質の差と考えられた(6)。
 近年になってから急に増加を始めた肺がんについて、1960年代にランセットの紙上を賑せたことがあった。1963年にオランダで330人の肺がん患者では2,3月の生まれに多いとの報告(7)がランセットに紹介されてから、同じような報告が各国から相次いだ。しかし、生まれ月による違いがないという報告もあって、結論はあいまいのままに数年後には医学誌上ではあまり問題にされなくなった。
 東ドイツでも23,685人のがん患者を54,579人のその他の患者や施設の老人と比べて、332人の肺の腺がん患者では5〜7月生まれが少ないが偏平上皮がんでは差がなかったし、男の胃がん4,665人では4〜7月生まれに少なかったがその他のがんでは差が認められなかった(8)。この報告では同じ臓器のがんでも、組織型が違うと生まれ月との関係からみると別の機序が考えられることを示したものと思われた。
 日本ではがんセンタ−で、胃がんは1000人の女で4月生まれに多く、肺がんは824人の男では7月、265人の女では12月生まれに多いことが見いだされたが、その意義についてはあまり触れられていない(9)。

 こうした多くの成績からは今でもまだ一致した結論はなく、がんと生まれ月との関係は疑問のままというべきであろう。このようにまとまらない結果となった原因の一つは、対照とする正常人口の設定が難しいことにもあったらしい。病院の患者では同じ病院に来た別のがんの患者や、がん以外の病人、あるいは施設の居住者などを対照としたり、同じ年代の人口が生まれた時の月別出生数を対照としたりすることが多いが、どれも正確な意味での対照とは言い難い点に問題がある。
 また同じ臓器のがんであっても、組織学的に別のものであれば、その発生や進展の条件が異なるのかもしれない。その上性別や生まれた年代、地域でも環境の条件が違うかもしれないので、そういった点まで区別して考えようとすると症例数が少なくなり対照との違いが有意であると言えるような数がえられないことになってしまう。 

乳がんの生まれ月
 我々も始めはいろいろのところからがん患者の生年月日を9千人以上も集めて同じ年代の月別出生数と比べてみた(10)(図5)。人数では胃がんの3,522人が飛び抜けて多いが、生まれ月による変動は少ない。食道がん(9〜10月)直腸がん(5〜7月)肺がん(2〜3月)乳がん(3〜5月)などでは有意に多そうな生まれ月があり、多くのがんでは12〜2月頃の冬生まれのもので罹患者が少ないことが共通に認められる。このことは早生まれの季節に生まれた者が長寿なことの原因かもしれない。
 
図 5 がん罹患者の生まれ月分布(期待値との比)

 がんの中には性ホルモンとの関係の深いものがあることに注目して、そうしたがんに集中して調べ直したいと考えた。その第1にあげられたのが乳がんである。
 都内の2病院での1963〜1983年に入院した女性の乳がん患者で、閉経前の405人と閉経後2年以上を経た285人について、その出生数の月別分布を同年代の一般出生と比べると、閉経前の乳頭腺管癌88人、髄様腺管癌51人、硬癌170人では3型とも6〜8月生まれに多く11〜3月生まれに少ない。閉経後だと3型とも春と秋の2つのピ−クをつくり、3月生まれには3型ともに多く、乳頭腺管癌49人と硬癌129人とは8〜9月にも多いが 髄様腺管癌47人では秋の山が認めがたい(}6)。乳がんでは組織型による違いはほとんどなく、発病時の年齢が閉経の前か後かではどの組織型にも共通の違いが認められた。閉経の前後や組織型を問わず、どの場合でも冬生まれのものでは罹患率が少なかった(11)。

図 6 閉経前後の乳がん患者の病理組織型別生まれ月分布

 その10年後に、1972〜90年に死亡した全国での乳がん患者8万人を集めて、それ以外の女性がん患者133万人と比べ、年代、年齢、地域などで分けても生まれ月による有意の差が見いだせないとの報告が出されている(12)。違った結果になった理由としては、病院での診断ではなく人口動態による死亡届なこと、病院での患者とは違って地域が広く取られていること、対照としてその他の女性がん患者が選ばれていること、などが考えられる。疫学調査で有意差を出すためには大数が必要となるために、長期、広域のデ−タを集めたくなるものである。しかし生まれ月学の基礎は胎児期の環境影響、多分は季節性のある生物学的な環境が主として考えられているので、それが年により地域により変動を繰り返していることは繰り返して述べてきたところである。だから、必要とする環境条件が全国的に長期にわたって安定しているような場合でなければ、動態統計のような広域の行政的な資料の利用には警戒が必要なのかもしれない。

婦人科がんの生まれ月

婦人科特有のがんとして子宮がん、卵巣がんなどがある。1972〜1989年の間に帝京病院婦人科を訪れたがん患者530人のうち、子宮頚がん337人では12〜2月
、子宮体がん71人では1〜3月、卵巣がん99人では3〜5月生まれに多かった(13)(図7)。

図 7 婦人科がん患者の生まれ月分布

 卵巣がんでは閉経前と閉経後の患者に分けると生まれ月の分布が異なり、乳がんと同様の傾向が見られる。まだ例数は少ないが乳がんと共通の特有の傾向があるのかもしれない。一方子宮がんの方はウイルス感染が原因かと考えられているので、感染の季節や、あるいは感染への対応の仕方が胎児期での環境条件によって決められているのであろう。生まれ月と内分泌機構の反応のあり方を調べると何か手掛かりが得られるだろうと思っている。

前立腺がんの生まれ月
 前立腺がんには女性ホルモンによる治療が有効であるとは戦前での講義でも聞いたことがある。欧米では肺がんに次ぐ高い罹患率を示しているのに、日本では遥かに少ない。しかし日本でも、潜在性の前立腺がんは少なくないので(14)、死亡率での大差は潜在しているがんが顕在化し発病する過程に問題があるらしい。 東京のあるがん病院での187人の患者と群馬大学での患者を加えた572人(内潜在性がん41人)で調べてみると、顕在性がんでは4〜5月の生まれに少なく、8〜10月の生まれに多いが、潜在性のがん(Stage
A)ではあまりに少数ではあるが全く逆の傾向らしく見られた(15)(図8)。潜在性のままで進行せずに止まる条件はがん化が進行して顕在化する条件とは違うものであることになるのだろうか。

図 8 前立腺がん患者のステ−ジ別生まれ月分布


日本人で前立腺がんが少ないのは大豆食品が多いからだといわれる。14人づつの日本人とフインランド人とで
4種の
植物ホルモン(isoflavonoid)の血中濃度を測ると日本人の方が7〜110倍も高いことが、日本人では潜在がんがあっても発病には至らない理由であろうといわれた(16)。

大腸がんの生まれ月、血液型と性比
 大腸がんは乳がんや肺がんとならんで近年増加を続けているものであり、比較的女性に多い。都内の3病院で1963〜85年の間に入院した大腸癌患者2,604人では直腸がんが全体の半数を占め、結腸の左側が残りの7割で右半分は3割と少ない。全体では性比が124と男の方が多かったが、右半結腸では女性患者の方が多く、しかも50歳以下では夏生まれに多く、それ以上だと春と秋に多いという乳がんの場合と似た傾向を示して見えるが例数が少ないので確かではない(17)。
 この患者の内で血液型の分っていた1,816人の患者では女が1,156人と多く、性比は57となるが、A型とAB型では性比が63であるのに、B型とO型では52くらいで男の患者が一層少ない。さらに生まれた季節で見ると、A型群では年末に向かって性比が高くなる傾向があるのに、B型O型群では1月と7月との二つのピ−クが見られ、2〜4月と8〜12月には性比が低い。それで7,8月で年の前半と後半とに分けてみると、1〜7月では両群の性比には大差がないのに、8〜12月にはA群の方が有意に性比が高くなる(図9)。
B型かO型で秋生まれの女性はA型に比べると大腸がんにかかり易いように見える(18)。

図 9 大腸がんの血液型群別の生まれ月と性比

 秋生まれで性比の高くなる(女性がかかりにくくなる)現象は、女性に多いSLEや若年性のRAなどの自己免疫疾患や肺結核での悪化のように自己免疫が関係のありそうなことと似て、なにか共通の理由がありそうに思われる。その現象がA型で著明に見られるとすれば、自己免疫疾患はA型に少なく、B型O型では多いということになるのかもしれない。多くの自己免疫疾患について生まれ月と血液型との両面から調べることが出来れば新しい知見が得られ、新しい発展の道が開かれると思っている。

4.肺結核と生まれ月
 1930年代から1950年まで、日本の死因の第1位は結核であった。寿命を決定する要因として結核の死亡を無視するわけにはいかない。当時ほとんどの者が成人以前に結核菌の感染を受けていたので、ツベルクリン反応の陽性率は青年で80%を越えていた。発病するか否かは体質に加えて感染の頻度と菌量、感染時の栄養や過労などによるものと思われた。発病後の経過については、早期発見と安静や栄養のほかに体質も影響したに違いない。まだ有効な化学療法などがなかった頃のことである。
 調べた病歴は主に1936年から1965年までの退院者の中の9,792人分であるが、男が6,723人と女3,069人の2倍以上もあった。これは主として当時の男と女の感染機会の差異か、あるいはその病院の性格にもよると思われる。

 日本脳炎やポリオのように不顕性感染の高率に起こっていたウイルス感染症では、胎児期にも不顕性感染があっただろうとの考えから生まれ月による罹患率の違いを見ることができた。ウイルス以外の感染症で広範な不顕性感染をしているものとしては、往時には結核こそはその代表であった。空気伝染による感染に季節性があるとすれば、結核の患者の罹患にも生まれ月で差があるかもしれない。そこで結核患者の生まれ月を調べようとして、まず清瀬にある結核病院で病歴を調べさせて頂いた。その結果は予想外に重要なことと思われてきた。

肺結核患者の生まれ月
 患者の出生年代では1911〜1940年の間に生まれた者が7,126人と大部分(82%)であったので、その生まれ月の分布を同年代の東京での400万人に近い一般出生の分布と比べてみると、患者は概して冬ことに10〜12月の生まれが少ない。発病し難い生まれ月は男女共に冬であるが、発病し易い生まれ月は男では7〜9月、女では1〜3月であった(図10)。

図 10 肺結核患者の生まれ月別分布 (1911〜1940年生)

 しかしこの場合に、対照とした東京での出生人口が、厳密には患者の母集団と言えない恐れがあるのでそのまま受取ることは出来ないとしても、生まれ月によって発病率には大きな違いがあったと思われる。感染の機会や労働、栄養などの条件に生まれ月による違いがあったとは考え難いとすれば、生まれ月は感染者が発病しやすい体質と関係するのであろう。10〜12月の秋冬生まれの者が発病し難いことは長寿の一因かもしれない。夏生まれの男が罹患しやすいのも、感染抵抗力としての体質の弱さともみられ特に男でだけ短命なことと相応する。

死亡退院率と生まれ月

疾患での生まれ月と性比の問題を最初に気付いたのは肺結核の死亡退院率である。それから肺結核病巣の死に致る進展、すなわち肺組織の破壊による空洞の拡大には生まれ月によって異なる自己免疫の進展が関与していると考えるようになった。
 患者の中での死亡退院した者の割合を見ると、1946年までの退院では女が68%、男が59%と半分以上が死亡していた。戦後になると死亡退院が激減して、男女とも10%以下となった。調べた患者全体での死亡退院の割合は、生まれ月で見てもあまり変動は見られない。ところが、男性と女性とに分けてみると男が23.0%女が25.8%と大差はないのだが、女性では1〜6月の生まれで死亡退院の割合が高く、7〜9月の生まれで低いのに、男性では生まれ月による違いが女性とはむしろ逆で、冬生まれの方が死亡退院が少なく、8〜10月に生まれたものが一番死亡割合が高い。それで冬に生まれた者では男女の差が著しいが、夏生まれだと男女の死亡退院の割合がほとんど同じになっている(19)(図11)。 

図 11 肺結核患者の生まれ月と死亡退院率 (1911〜1940年生)

 この傾向は退院の年度で分けても同様であるが、最近になるほど死亡者の割合が少なくなるので生まれ月の差ははっきりしなくなる。
 つまり、肺結核の罹患率も致命率も、生まれ月で異なり、しかもその様子は男と女とでは大いに違っていた。生まれ月から見ると、感染・発病と増悪・死亡とは体質的に別の要因があるように思われる。
 肺結核の生まれ月分布を見ると、感染から発病までは秋冬生まれの体質が強い防御能を発揮したのかと思われ、がんや脳卒中とも共通にそれが長寿にもつながると思うようになってきた。それは最初に考えていたような結核菌の周産期感染というような病原特異的なものではなく、季節的な環境要因が胎児期に作用して感染一般に対する防御力ともいえる体質を形成しているものと考えられる。生まれ月の研究からその環境要因の実体に迫ることが出来ればと思い始めている。
 一方、致命率に差があるのは感染・発症率の差ではなく、それとは別に組織の崩壊を起こしやすい悪化率の違いであろう。空洞は感染肺組織の崩壊によるので、それには自己免疫が関係しているのかもしれない。死亡者には自己免疫的な反応を起こしやすい体質があるのだろう。それならばRAなど自己免疫疾患患者の生まれ月と性比の関係を調べたらもっと手掛かりが得られるかもしれない。

5.自己免疫疾患と生まれ月 

 疾患によっては男女で罹患率に大きな違いがある。それは自己免疫疾患の代表ともされるSLE(全身性エリテマト−デス)で特に著しい。その違い方は出生季節によってもはっきりと違う。それは季節的に変動する環境中の要因が胎児期に作用する時に、胎児の性でその影響が長期的に異なって現れているということであろう。

慢性リウマチ性関節炎(RA)
 ノルウエ−北部のリハビリテ−ション・センタ−で骨関節炎が60%を占める筋と骨の疾患8,806人の生まれ月の分布は5〜7月に多く10〜12月の生まれでは少なかった。ここでは季節によって日照時間に大差があるので、それか季節による栄養の違いが原因かもしれないといわれた(20)。しかし、カナダではもっと診断の確かな910例のRAで生まれ月による違いは全く認められなかった(21)。
 京都府立医大の金井秀子先生が、附属病院で診療を受けてRAなどの診断を受けていた患者3,027人の生年月日を調べられた結果によれば、京都府の月別出生数からの期待値と比べて患者の生まれ月の分布は生まれた年代によって違っていた。かりに京都府の同年代の出生数を母集団としてその有病率を推定して性別に検討すると、1961年以後に生まれた若年の496人(女310人、男186人性比60)については生まれ月と有病率との関係は男女で大きく違っていた。女性に限って生まれ月による有病率の変動が激しく、全体では女性が男性の1.7倍と多いのに、7〜9月に生まれたものだけは男女での差が見られなかった(図12)。つまり、JRAが女性に多いのは、全ての女性が多いのではなく夏生まれ以外の女性に限ってみられる現象なのであった。

図 12 慢性関節リウマチ患者の性別の生まれ月と推定有病率

 この現象は、結核の死亡退院者割合で見られた現象と大変良く似ている。しかし、1960年以前に生まれた患者ではこの現象が見られなかった。発病の年齢や出生の年代によって違うのかとも思われるが、未だ謎のままである。

 調べた年代や地域などが異なるとはいえ、結核とリウマチとで生まれ月との間によく似た関係が見出されたことは不思議に思われた。あるいは生まれ月が両方の疾患に共通の体質を作っているのかもしれない。RAには家族発生があり、HLAーDR4の割合が特に多いと言われる。また、DR4の者だけが
結核菌抗原の皮下接種に強い反応を示すともいわれるので、結核とRAとの間には発病の機序に共通のものがあるのかもしれない。それならば、その抑制にも共通の方法が見出されるだろう。しかし一方では、結核やRAとHLA-DRとの関係についても、否定的な報告もあり、その結果が一致していない。もしHLAの割り合いが生れ月によっても影響を受けているとすれば、血液型因子に依存する胎児の選択がHLAにも関係していることを示すものであろう。今後の研究には性別、生まれ月別の、さらにはABO血液型やHLAをも含めた再検討が必要であろう。
 
 自己免疫疾患には第6染色体のHLA遺伝子が関係するともいわれる。しかし遺伝子の他に環境要因が重要であることは1卵性双生児でも不一致例の多いことからも認められる。MZとDZでの一致率はRAで12%と4%、IDDMでは13%と3%(22)、MSで30%と10%(23)とどれでも1卵性の方が一致率は高いがそれでも10〜30%くらいしかない。1卵性の双生児では遺伝条件も生まれるまでの環境も全く同じだし、出生後の環境についても共通だとしても、1卵性の双子で出生体重の違うことはよく起こる。だから胎児期での血流量つまり栄養の差が1卵性の双子でも不一致となるのかもしれない。出生体重や胎児期栄養による成人疾患の罹患率の違いは最近大きな問題になり始めている(24)。

SLEとMS
 自己免疫疾患として京都府立医大からSLE(全身性エリテマト−デス)285例の生まれ月について整理された結果を見せて頂いた。男30人女255人と性比は12と低く女の方が8倍以上も多い。男の患者はむしろ稀であるが春と秋とに集中している。女では季節差が少ない。
 MS(多発性硬化症)は日本では稀といわれていたがそうとは限らない。原因としてはウイルスの感染といわれ、麻疹ウイルスやイヌなどのペットからの感染なども疑われている。原因は分らないが自己免疫疾患とされている。

生気象学を集成したトロンプはMS患者2,000人について、その出生は2,3月に多く10,11月に少なかったという(25)。
 東大病院第3内科の病歴から得られた213例のMS患者の生まれ月では男では9,10月と2,3月生まれに多く5月に少ないが、女はむしろその逆になっていた(26)。性比は男107例、女106例とほぼ同数で100に近い。

図 13 RA、SLE、MS患者の生まれ月と性比

 3疾患の性比は大きく異なるのでそれぞれの性比を100となるように修正して1つの図に重ねて見ると(図13)、3疾患とも似たような形を示し、秋に高い性比が見られ春に第2の性比の山が見られる。3疾患ともそれぞれ例数は少なく、信頼性には欠けるが大変似ていることから、あるいは自己免疫性の疾患に共通の現象であるのかもしれない。もしそうならば、女性に自己免疫を起こしやすく、あるいは起こり難くしているような体質が胎児期に季節性に作られていると考えることが出来る。
 自己免疫疾患といわれるものは、すべてが原因不明の難病とされている。生まれ月と性比という手掛かりから、その発病の機序に迫ることが出来るのかもしれない。もしも胎児期の環境要因が関与していることが確かめられれば、その実体をきわめて難病の予防にも役立つように出来るだろうと考えたい。

6.糖尿病  
 糖尿病は1990年代になってからは死因の10位を下ることはない。患者は成人の1割以上ともいわれ、ことに35歳以上では死因でも8位を占め、糖尿病を基礎疾患とする血管障害をも考慮すると中高年者に取ってはきわめて重要な死因となっている。
 糖尿病は膵臓の疾患である。ムンプスの感染の時に膵臓が侵されることはよく知られている。先天性風疹症侯群の小児では潜在的な糖尿病が発見されるというし、その他にも糖尿病を起こすウイルスとしてはコクサッキ−ウイルスBを始め、レオウイルスやサイトメガロウイルスなどもあげられていて、膵臓を侵すのは特定のウイルスだけとは限らない。
 若い患者は発病が急激であり、肥満はなく、食餌療法は無効で治療にはインシュリンが必要である。それでインシュリン依存性という意味でIDDM、あるいは1型ともよばれる。原因としてはウイルス感染が主因と推定されている。それで発病にも季節性があるとされるが、遺伝的素因も関係する。40歳以上で発病するような糖尿病だと肥満者に多く、発病は徐々、食事療法が有効でインシュリンを必要としないこともある。それでNIDDMあるいは2型と呼ばれる。2型の方は遺伝的素因がより重要といわれるが、ウイルスの感染も疑われる。どちらの場合にも引き金となるウイルスの感染とそれに加えて自己免疫が関与し次第に島細胞の障害が進行することが発症に関与するらしいと思われる。遺伝的な体質が重要なことは明らかではあるがそれだけでは説明できないこともよく知られている。そこに生まれ月が深く関係することとなる。
 
糖尿病の生まれ月
 東大病院の第3内科で1957年から約20年分の病歴から調べた糖尿病患者1,639人のうち30歳以下の194人では、男女ともに1,2月の冬生まれが多く、秋生まれが少ない。30歳以上の1,445人だと男では出生季節差がないが女だと春と秋に多く12,1月に少ない(27)。発症の年齢によって生まれ月の分布が大きく異なるのはIDDMとNIDDMとの違いと思われる。どちらも生まれ月による罹患率の違いがあり、胎児期での環境要因の関与が推定される。30歳以上のものでは夏生まれの女の患者が少なく7,8月の生まれだと男の患者の半分くらいとなり性比が191(134/70)と高い。これは結核による死亡などと共通の、夏秋生まれで女が少ない自己免疫を示している現象かと思われる。糖尿病患者では、1型は若年に多く、2型では成人に多いとされるのだが、この調査では発症の年齢だけで分けられていた。
 
 それで自治医大の葛谷健教授から診断の確定している1型(IDDM)の患者164人と2型(NIDDM)の患者2,134人についてデータを見せて頂いた。その年齡別の割合を比べると1型では10〜30歳の頃にピークがあるが、30歳以上時には60歳以上に発病を見た者も少なくない。これに対して2型の患者では40歳代にピークが見られ、20歳以下で発病した者は少なかった。

家族歴
 糖尿病には遺伝要因も関係する。家族歴の有無を見ると、1型では8.6%(14/162)、2型の方が多く22.2%(464/2092)で家族歴があった。1型には感染の要因が多く、2型には遺伝の要因が強いと言われることと一致する。両方とも、40歳以下で発病したものの方が、40歳以上で発病したものよりも家族歴のあるものが2倍以上も多いのは、家族歴のあるものだと同じ環境条件の時にも早く発病しやすいことを示しているし、高齢になると家族歴がなくとも発病しやすくなるのだろう。
 生まれ月と家族歴との関係では、2型でははっきりしないが、1型では冬生まれの患者では家族歴のあるものが2%しかなく、春夏生まれのものでは10%以上もあるのとは大きな違いがある。冬生まれのものでは家族歴がなくとも発病しやすいことになるのであろうか。この傾向は男女ともに同じなので例数は少ないけれども意味があるのかもしれない。
 
1型と2型糖尿病患者の生まれ月
 1型の患者は2型の患者に比べて例数が少なかったので葛谷教授にお願いして別の病院からの1型糖尿病患者1,383人の生年月日を教えて頂いた。同年代の東京での月別出生数と比べてみると、1型(IDDM)では4月と9月の生まれに多く、2型(NIDDM)では2〜4月と10〜12月の生まれに多いが、1,2型ともに11〜2月の冬生まれでは患者が少ない(図14)。

図 14 1型(IDDM)と2型(NIDDM)糖尿病患者の生まれ月

 冬生まれに1型患者が少ないことは英国(28)、オランダ(29)、イスラエル(30)、デンマ−ク(31)でも見られている。この現象は男でだけ見られるとも言われ、脳卒中で見られた現象とも共通の原因があるのかもしれない。
 しかしこの傾向は男と女では多少の違いがある。性比として比較すると、1型では
春と秋には性比が高く、2型では年の前半に低く後半に高くなる(図15)。これは東大での患者にも見られたことで、秋に性比が高くなるのは他の自己免疫疾患で見られた現象とも共通のことがあるのだろうか。デンマ−クの患者でも、30歳以下の患者では9月生まれの女は少ないので性比が高くなるとのことである(31)。

図 15 1型(IDDM)と2型(NIDDM)糖尿病患者の生まれ月と性比

 糖尿病の発症年齢は女の方が早いので若年の患者ほど性比が低い。女の方が発病しやすいことも自己免疫の関与するためかと思われる。1,2型ともに共通して4〜6月の生まれで性比の谷が見られているのは、この季節に生まれた女子の患者が相対的に多いことを示している。この現象も自己免疫疾患での性比に見られた現象(図13)と共通のようにも見られる。
 1型と2型とでは、臨床的には明らかな違いが見られるのではあるが、年齢的な区別も絶対的なものではなく、感染との関係や自己免疫現象の関与についても双方に共通の部分があるらしい。

7.寿命をめぐる生まれ月学の道
 生まれ月学にはいくつかの目指す道がある。日本脳炎の疫学から始まった生まれ月学は、特異的な病原ウイルスの胎児期感染という仮説から始められた。その方向での第1の道は精神分裂病の病原ウイルスの捜索という方向に向けられて各国の研究者が競いあっている。それについては次の章で触れてみたい。
 分裂病患者の生まれ月を調べる時に対照人口の生まれ月分布の激しい変動が問題となり、自然不妊の流行という大きな問題が見えてきた。それは少子化の問題とも直結して生まれ月学の目指す第2の道となった。
 
 それとは別の考え方として、生まれ月による寿命の違いは、血管の障害、感染への抵抗、自己免疫の発現など生命を安全に維持するための重要な機構の形成に季節性のある胎児期環境の影響が強く働いていることを示しているように思われる。原因は環境中に存在し、血液型とも関連する化学組成を持った物質であるらしい。それならば、それを取りだし決定することが可能なはずであろう。そこに至る道はまだ遥ではあるが、生まれ月学の目指す第3の道がそこにある。
 感染学を専攻される方々のご理解を得ることができれば幸いである。


文 献
1. Huntington, E. 1938 Season of Birth - Its relation to human abilities. John Wiley, New York
2. 三浦悌二、志村正子 1980 出生季節と寿命 日生気誌 17: 27-31
3. 三浦悌二 1979 老人の出生年代・季節と高血圧 浴風会調査研究紀要 63: 137- 139 
4. 野中浩一、今泉洋子 1997 出血性脳血管疾患死亡届の出生季節による偏り日生気誌 34(3): 46
5. Stur, D. 1953 Karzinomexitus und Geburtsmonat. Wien. klin. Wschr. 65: 898-901
6. Jansson, B. & Malahy, M.A. 1981 Cancer risk, age at diagnosis, and age at death as functions of season of birth. Cancer Detection and Prevention 4: 291-294
7. Dijkstra, B.K.S. 1963 Origin of carcinoma of the bronchus. J. Nat. Cancer Inst. 31: 511-519
8. Berndt, H. & Wildner, G.P. 1966 Krebs und Geburtsmonat. Z. Krebsforsch. 68: 303-320
9. 平山雄 1979 予防ガン学への道 44 個人別ガンリスクの測定ー出生月によってガンリスクはちがうか 中外医薬 32: 259ー265
10. 志村正子、緒方隆幸A三浦悌二 1980 癌罹患者における出生季節分布について(第2報) 日衛誌 35(1): 99
11. Nakao, H. 1986 Birth seasonality of breast cancer patients and its variation according to menopausal status and histologic type in Japan. Eur. J. Cancer Clin. Oncol. 22: 1105-1110
12. Hu, Y-H., Kuroishi, T., Matsushita, Y., Nagata, C. & Shimizu, H. 1996 Birth season and breast cancer risk in Japan. Breast Cancer Research and Treatment 39: 315-319
13. 井尾裕子 1991 婦人科癌患者の出生季節 日生気誌 28: 153-156
14. Akazaki, K. & Stemmermann, G.N. 1973 Comparative study of latent carcinoma of the prostate among Japanese in Japan and Hawaii J. Natl. Cancer Inst. 50: 1137-1144
15. 高木晴良、三浦悌二 1988 顕在性および潜在性前立腺癌と出生季節 医学と生物学 117: 1-3
16. Adlercreutz, H., Markkanen, H. & Watanabe, S. 1993 Plasma concentrations of phyto-oestrogens in Japanese men. Lancet 342: 1209-1210
17. 中尾寛子、高木晴良、三浦悌二 1987 大腸癌患者の出生季節について 日衛誌42(1): 287
18. 高木晴良、中尾寛子、三浦悌二 1989 癌と血液型 民族衛生 55(s): 234 
19. Miura, T., Kawana, H., Karita, K., Ikegami, T., & Katayama, T. 1992 Effect of birth season on case fatality rate of pulmonary tuberculosis: coincidence or causality? Tubercle and Lung Disease 73: 291-294
20. Fonnebo, V. 1987 Month of birth and prevalence of musculoskeletal diseases later in life. Lancet i: 739-740
21. Buchanan, W.W., Gregoire, L.G. & Buchanan, H.M. 1987 Month of birth and rheumatoid arthritis Lancet ii: 517
22. Leslie, R.D.G. & Hawa, M. 1994 Twin studies in auto-immune dissease. Acta Genet. Med. Gemellol. 43: 71-81
23. Ebers, G.C., Bulman, D.E., Sadovnick, A.D. et al 1986 A population-based study of multiple sclerosis in twins. New Engl. J. Med. 315: 1638-1642
24. Barker, D.J.P. 1994 Mothers, Babies, and Disease in Later Life. BMJ Publishing Group, London
25. Tromp, S.W. 1980 Biometeorology p197 Heyden, London/Philadelphia
26. Shimura, M., Kimura, T. & Miura, T. 1987 Season of birth in some neurological disorders. Progress in Biometeorology 6: 163-168
27. 野中浩一、三浦悌二、志村正子 1988 患者の出生季節よりみた糖尿病発症に及ぼす季節的環境要因の影響。 医学と生物学 116: 271-274  
28. Rothwell, P.M., Staines, A., Smail, P., Wadsworth, E. & McKinney, P. 1996 Seasonality of birth of patients with childhood diabetes in Britain. B.M.J. 312: 1456-1457
29. Jongbloet, P.H., Groenewoud, H.M.M., Hirasing, R.A. & Buuren, S.V. 1998 Seasonality of birth in patients with childhood diabetes in the Netherlands. Diabetes Care 21: 190
30. Spencer, K.M., Gorsuch, A.H., Cudworth, A.G. & Bottazzo, G.F. 1982 Diabetes and month of birth. Lancet i: 449
31. Christy, M., Christau, B., Molbak, A.G. & Nerup, J. 1982 Diabetes and month of birth. Lancet ii: 216
[ 脳とこころと生まれ月

1.先天異常 (精神遅滞)
 受精卵は始めには染色体の異常がかなり多いものらしい。異常な受精卵は発育の初期から選択されて排除されるので、出産にまで発育を遂げるのは異常の少ないものに限られることになる。早期の自然流産ではその60%に異常が認められ、その半数はトリソミーであるという。先天異常には染色体の異常によるものの他に、胎児期での感染や有害物質の暴露によるものもある。風疹ウイルスの感染やメチル水銀による水俣病、サリドマイドによる奇形児などがよく知られている。主要な先天異常は出生児の3%程度には認められるという。染色体の異常によるものでは、ある程度の精神発達の障害を伴うことが多い。先天異常の原因が風疹ウイルスの流行のように季節性のあるものだと、その発生には生まれ月による偏りを認めることになる。

ダウン症の生まれ月
 ダウン症(21トリソミー)は出生1,000人に1人の割合で発生している。妊娠の初期にはもっと高率であるが60%以上が自然に流産し、20%は死産になるという。母の年齢と共に頻度の増すことが知られていて、40歳以上だと頻度は10倍に増える。
 妊婦の血清と胎児の羊水との生化学的検査や胎児細胞の染色体の検査から出生前の診断と選別が可能となったので、その実施が胎児や障害者の人権の問題となっている。

 ダウン症児の出生には季節的な偏りが見られることがある。しかし多発する季節は報告により違いが大きく一定しない(1)。その説明として、かりに胎児期の感染が原因だとしても、地域によって流行の季節や病原が異なることが考えられる。溶連菌の感染やウイルスの感染、ことに肝炎の流行が原因として疑われたことがある。オーストラリアではダウン症患者の発生に数年おきの変動が見られ、それは肝炎の流行と符合するように思われたが(2)、他の地域ではそのような関係が認められていない。ダウン症の原因となる病原は肝炎ウイルスをも含めて多数あるのかもしれない。

図 1 ダウン症患児の生まれ月分布 

 京都でのダウン症291例では8〜9月の夏生まれに多く冬生まれには少なかった(図1)。同じ地域で精薄691例と脳性麻痺348例では2〜4月の冬生まれの方が多かったので、それにはダウン症とは違った別の原因があるのだろうと考えられる(3)。しかし日本でも山陰地方ではダウン症児156例での生まれ月は6月に多く12〜1月には少なかったとの報告もあり、例数の少ないための偏りかもしれないが、あるいは地域によって流行の季節が違うのかもしれない。

2.精神病患者の生まれ月

腸チフスやインフルエンザ、マラリアなどで高熱の時には精神に異常をきたすことがよく知られていたので、精神病にも原因となる病原体があるのだろうとの考えは昔からあったようである。1910年代には、それまで主要な精神病の一つとされていた進行痳痺が梅毒の感染によることが明らかにされたことも精神病の感染説を支持するように見えた。しかしその後は、原因のあるものは精神病から除外して、外的な原因のない場合だけを内因性精神病として扱うようになり、精神分裂病はその代表とされたが、ウイルス感染が原因との考えは跡を断たなかった。一方、精神分裂病患者の生まれ月が一般人口からは偏っているとの指摘がなされ、冬〜春の生まれの者に患者が多いとの説が支持を得ていた(4)。しかし、その説明としては、胎児脳の発達の時期が夏に当たると、妊婦の栄養が低下するために胎児脳の発達に異常を起こすとの考えや、患者の多い生まれ月は丁度一般にも出生の多い時期に当たるので、患者の両親では性機能の季節性が一般の人よりも誇張されているのだろうとの考えなどが出されていた。
図 2 精神分裂病患者の生まれ年代による生まれ月分布の変遷

 しかし、東京にある松沢病院の病歴から、およそ9,000例の精神分裂病患者の生まれ月を調べたところ、1880年代に生まれた者では、明らかに秋生まれの方が多く、その後、春生まれが多くなり、1920〜30年代には生まれ月に違いが認められない時期があり、その後春から次第に冬生まれが多いように移ってきた(図2)。すなわち患者好発の生まれ月は時代によって推移したことが認められた。その原因として日本脳炎患者の場合には生まれ月によって罹患率が違い、しかもそれは生まれた年代での日本脳炎の流行規模の大小によっても違っていたことから逆に推測して、分裂病も特定のウイルスの胎児期感染が関与しているものであろうと推論した(5)。
 患者の好発する生まれ月が年代で推移する現象は、英国および米国でも追試されて認められたことから、これがきっかけとなって分裂病のウイルス説が有力となり、WHOが主催して精神疾患の病原としてのウイルスの探索が始められた(6)。その後も各国でウイルスの追及が続けられてはいるが、未だ決定的な成果は見られていない。

分裂病の流行の始まり
 昔の医学書には、狂気の記載はあるが現在の分裂病に当たるような記載はないといわれる。分裂病らしい症状が始めて記載されたのは17世紀も半ばのことらしい。18世紀になると次第に各地での発生が記録されるようになり、19世紀になると欧米諸国で急激に増加した。アフリカやニュ−ギニアなどでは白人たちが入り込むまで分裂病はなかったらしい。そういうことから、分裂病は近代文明とともに発生したものとされる。それは近代文明によるストレスの増加によるものかもしれないが、むしろ欧州に始まった新しい伝染病が白人によって文明とともに広められたものと思われる(7)。分裂病患者での妄想の内容が時代とともに変化したことも、時代背景の変化だけではなく、病原の性状が流行の経過とともに変化したためかもしれない。

分裂病のウイルス説
 精神分裂病がウイルスの感染によるものだろうとの考えは1950年代から具体的に考えられてその探索が試みられていたが、当時の実験技術では成果を上げるに致らなかった。1970年代になって分裂病患者の生まれ月の偏りが確認されてから、精神分裂病の原因としてウイルスの感染が一層強く疑われるようになった。1980年代になるとWHOが精神病の生物学的な病原研究を支援するようになって、病原の探索が各国で競われ始めた。ヘルペスウイルス、サイトメガロウイルス、インフルエンザウイルス、などが候補として上げられたが、今ではボルナ病ウイルスが最も有力な候補とされている。 

ボルナ病ウイルス
 ボルナ病は19世紀以来ドイツではウマの神経病として知られていたものである。1930年代に日本でヒトとウマとに日本脳炎の大流行が起こった時に、ボルナ病との異同が問題にされたことがある。家畜での症状は人の躁うつ病と似ているという。 
 ボルナ病ウイルス(BDV)は1980年代から人の精神病ことに躁うつ病との関連が注目され始め、1990年代になってから抗体の検出、PCR法によるウイルスRNAの検出などが行われた。患者では20〜30%が抗体陽性、正常者からも抗体が検出されたというので不顕性感染もあることが分る(8)。また精神分裂病患者や躁うつ病患者(9)、あるいは正常者からも(10)BDVのRNAが検出されている。その他にも剖検された600人のアルツハイマ−病(AD)などをも含む精神疾患患者の脳からもBDVのRNAが検出されている(11)。同じ様な研究が他でも進められて、分裂病や躁うつ病患者の脳だけでなく一般の人々や健康な動物からもBDVの抗原や抗体が証明され、特にウマに近い環境で生活する人には高率に検出されたという(12)。また分裂病患者の血球(13)や脳(14)からBDVが分離されているので、BDVは精神病の原因ウイルスとして最も有力な候補となっている。
 BDVの不顕性感染はヒトをも含めてかなり広範なものと思われ、抗体はウマ、ヒトの他に、ウシ、ヒツジ、イヌ、ネコなどにも認められるので、ヒトへの感染も家畜やペットから起こっているのだろうと思われる。 
 BDVの抗体や抗原は分裂病患者からもっとも高率に検出されているが、健康者からも見いだされ、慢性疲労症侯群や多発性硬化症との関係も疑われている。そのように不顕性感染が広範なことになると、むしろ病原としての特異性が問題にされるようにもなるだろう。いづれにしても、最近になって急速に知見が広がっているのでその成果が期待されている。

インフルエンザウイルス
 1957年に世界的なインフルエンザA2型の流行が起こってから30年ほどたった頃になって当時インフルエンザの流行に暴露された母親の胎児だったものから精神分裂病が多発しているとの報告が発表されて大きな関心を集めた(15)。各国で胎児期にその流行に暴露された人達の調査が行われて同じように分裂病との関係を認めるものもあったが、関係がないとする者もあった。
 インフルエンザの大流行としては1920年頃のスペイン風邪の流行がある。当時もインフルエンザと精神病との関係がいわれていたらしい。それならばその流行の当時に
胎児だった者での分裂病の発生は多かったのだろうか。
 松沢病院の病歴からスペイン風邪の流行の時期を含む1912〜1927年の間に生まれた分裂病患者2,424人の生まれ月の分布を調べてみた。東京ではインフルエンザの流行は1918年の10月から始まり、1919年の2月と1920年の1月との2回の大きなピ−クを作っていた。流行の盛んな頃に胎齢で4〜5か月だったとすれば1919年と1920年の6〜7月の頃に生まれたものから分裂病患者が多発していたかもしれない。しかし、松沢病院にいた分裂病患者のうちでインフルエンザの流行した年を含む1917年から1921年までの5年間に生まれていた717人は特に多かったこともなく、そのうちで6〜7月に生まれていたのは1917年が24人と一番多く、次は1921年の22人で、流行のあった1919年と1920年の6〜7月には17人と14人でむしろ少なかった。
 このことから見るとスペイン風邪の流行の時には、それに暴露した胎児から分裂病が多発したとは思われない。しかしこれでは標本数が少ないので分裂病のインフルエンザ説を否定することにはならない。

 しかし患者の性比を生まれ月別に見ると興味ある現象が見い出された。1912年から1927年までに生まれていた患者2,424人での性比は114で年による違いはあまりない。生まれ月による変動はこの期間全体としては認められなかったが1917、1918、1919の3年間だけ8〜10月生まれの患者に限ってその性比が特に高くなっていた(図3)。

図 3 1912-1927年に生まれた精神分裂病患者の生まれ月と性比

 この現象は前報(Z)で記述した自己免疫疾患で見られた性比での現象と似ている。また本報で後述するアルツハイマ−などでも似たことが見られている(図7)。それらの間になにか共通の原因があるのだろうか。分裂病ではこの連続した3年間だけに見られるのでその前後の年に生まれた患者ではそんなことは見られない。この3年間に限ってこの季節に生まれたものに自己免疫の機能を亢進させるような流行があったのだろうか。その流行がインフルエンザの大流行に2年先立って始まっていたことがインフルエンザの流行を引き起こしたのだろうか、全くの偶然だったのだろうか。分裂病の発症には自己免疫の過程が関与することがあるのだろうか。1957年の流行で、分裂病との関係がいわれたのも、ある地域ではこの謎の流行が重なっていたのではないだろうか。乏しい材料から、偶然かもしれない現象の説明を考えても意味のないことかと思いながら、ここからも新しい発展の鍵を探せはしないかと思ったりしている。

双子と精神分裂病
 1卵性の双子(MZ)でも分裂病の一致率は30〜60%程度といわれあまり高くはない。遺伝素因は全く同じなので、その差は出産時の障害や生後の環境の違いが原因と思われている。生後の環境要因が原因ならば、それを明らかにすることが出来れば予防にもつながるはずである。
 しかし1卵性でも、その胎児期の環境に大きな違いのあることが見逃されていたのかもしれない。それは1卵性の双子ではしばしば出生体重に著明な違いが見られることであり、その違いは発育とともに消失する。しかし、胎児期の栄養の差が脳や内分泌系の発育に差を生じ、それが成人後にも影響している可能性がありそうに思われる。MZの不一致例ではMRI検査によって、脳の形態異常が認められるといった報告もあり、分裂病患者の脳には実際に形態の異常を認めるようになってきた。双生児での研究に胎児期での発育や出生体重の違いを重視することになれば、胎児期の栄養や感染が脳の発達に影響して生後の精神疾患の発症に関係していることが明らかにされてくるだろう。

3.脳神経疾患
 脳の障害としては血管性の障害による虚血、出血による圧迫などは加齢とともに増加して老人での精神障害の原因ともなり、主要な死因ともなっている。その他ウイルス感染による脳炎が小児や老人の間に流行することがある。それとは別に多種類の脳神経の変性疾患が知られているが、それらは原因不明とされているものが多い。
 日本脳炎は1920年代以前から1960年代まで、北海道を除く全国各地で大小の流行を繰り返していた。日本脳炎ウイルスの感染はたいていは症状を呈することなく不顕性に終わるものであり、患者の発生は感染者の1%以下とむしろ稀である。日本脳炎の流行がはっきりと記述されるようになった1920年代には、同時に流行していたエコノモの嗜眠性脳炎との区別が重要な問題であり、それとの鑑別によって日本脳炎が始めて独立の疾患とされた。戦前の内科書ではB型といわれた流行性脳炎(日本脳炎)と、A型といわれたエコノモの嗜眠性脳炎との鑑別は重要な項目であった。
 ところが、エコノモ脳炎は1920年頃には世界中で大流行をしていたのに1926年頃を境に流行が見られなくなったので、遂にその病原体の決定が出来ないままに終わってしまった。エコノモ脳炎の患者は後遺症としてパ−キンソン症を起こすことが特徴であった。そのためにエコノモ脳炎がなくなってからも、パ−キンソン症の原因は未知のエコノモ脳炎ウイルスの不顕性流行が続いていて、その長い潜伏期の後にパ−キンソン症を発生させるのであろうとの考えが残されている。エコノモ脳炎の散発例は今でもあるので(16)、そういった症例からウイルスの分離が出来れば、パ−キンソン病の病原問題にも進展が見られることになるだろう。

パ−キンソン病(症)の生まれ月
 パーキンソン病は老人にはありふれた病気である。1920年ごろ、世界的な汎流行をしていたエコノモ脳炎(嗜眠性脳炎)の後遺症としてパーキンソン症が多発した。流行は主に冬に起こっていたが、患者の生まれ月については記載がない。パーキンソン病もエコノモ脳炎の遅発した後遺症ではないか、あるいは不顕性感染に経過したエコノモ脳炎の後遺症だけが観察されているのではないかなどと疑われることがあるが、臨床家はこうした原因の推定されるものはパーキンソン症として区別し、原因のないものだけをパーキンソン病というらしい。

図 4 老人施設でのパ−キンソン様症状と生まれ月

 東京のある老人施設の附属病院で、死亡退院者全員2,037症例の病歴を調べたところ、パーキンソン病あるいはパーキンソン症を思わせる振戦などの症状を呈していた者が131例(6.4%)に認められ、男での割合は
8.6%(59名)と女での5.3%(72名)より多かった。これを生まれ月で分けて見ると、8〜1月の生まれでは男女の有病率は共に全死亡者に対しておよそ6%と差がないのに、2〜7月の生まれでは男の有病率が11.8%と異常に高く、女(3.8%)の3倍にも達する(図4)。この有病率は、今までのどの報告よりも高いが、それは老人施設に入っていた人の死ぬまでの生涯有病率であること、病歴が詳細で僅かの症状も見落としがなく記載されていたこと、などがその理由であろうと思われる。それにしても男にだけ生まれ月で有病率に明らかな差が見られたことは不思議である。
 そこで、これを確かめるために、豊倉康夫教授を中心とする厚生省の研究班が全国22の大学病院などの神経内科医が調べた2,571例のうちパーキンソン病(一部にパーキンソン症を含む)の患者1,800名と東大神経内科外来で診断された患者900名の生まれ月を調べてみると(図5)、不思議なことに1900年までに生まれた患者170名では男の方が多く(性比96/73;132)、ことに12〜5月生まれの者だけを見ると性比が183と、年の前半生まれで特に男が多く、老人施設で見られたのと同じ現象が認められた。その後1925年までに生まれた者だと、12〜5月の生まれでは女の方が多く、全体としても患者は女の方がやや多い(981/1,084;90)。ところが1926年以後の生れだと再び患者には男の方が多く(257/191;135)、しかも11〜3月の生れでだけ男の患者が異常に多かった(17)。

図 5 全国調査によるパ−キンソン病患者の出生年代と生まれ月による性比

 これは、老人施設で見られた結果を裏付けたものであり、軽度の振戦をも含めた広い範囲のパーキンソン様症状を呈したものと、研究班の全国神経内科の専門医の診断したパーキンソン病を主とする患者との間には、生まれ月現象で見る限り、ほとんど区別が見られなかったということは、両者が本質的には同じものであることを示しているのかもしれない。
 この現象は1900年以前と1926年以後とに共通の同じ原因が同じ季節に作用して、冬〜春生れの男に特にパーキンソン病を増加させていたのかと思われる。エコノモ脳炎の流行が1926年を境に、世界中から見られなくなったことと時期的な符合の見られることには、なにかの関連があるのかもしれない。エコノモ脳炎のウイルスがその年から症状を呈さない不顕性の流行に変り、中年でのパ−キンソン病を却って高率に起こすようになったのかもしれない。
 パーキンソン症の原因として覚醒剤と関係のある化学物質が注目され、自然界に同じ作用をするようなものがあるのかとも言われる。あるいは環境中の自然物質で季節性のあるものが関係しているのかもしれない。このことはどう考えたらよいのか、これからの問題であろう。
 
4.痴 呆
 老人人口割合の急増に伴って痴呆老人の増加が大きな問題になっている。痴呆の原因としては血管の障害に基づく脳動脈硬化や脳硬塞などが多いが、原因の分っていないアルツハイマ−型の老年痴呆(AD)も増加している。

アルツハイマ− (AD)
 遺伝的な素因も認められ、フィンランドの双子では4,300組のMZで19%,9,500組のDZで5%で一致が見られた(18)というが、MZでもその程度にしか一致を見ないので遺伝よりも別の要因の方が大きいと思われる。ダウン症との関係も注目されて、35歳以前にダウン症児を出産した母自身がADになるリスクは対照の5倍も高いといわれた(19)。

老人性痴呆の生まれ月

 英国ではADは1〜3月の生まれが239人中75人(O/E=127)と多い(20)。カナダのケベックでは399例のADで5月生まれが少なかった(21)。しかしミネソタでは剖検で確認された727例や、オーストラリアでの170例では出生の季節差が認められていない。東京都の老人医療センタ−で剖検された3,416人のうち、病理組織学的に検討されてADと診断された137例中の女性87人と、老人施設の入居者のうち230人の女性の痴呆老人および帝京大学病院の外来を訪れた女性の痴呆老人の生まれ月の分布を見ると、いずれでも春と秋とに出生のピークが見られた(22)(図6)。

図 6 出生年代別に見た女性の老人性痴呆患者の生まれ月

図 7 老人の痴呆患者の生まれ月と性比

 しかし男性の患者では逆に夏生まれに多く、ピ−クは一つしか見られない。そのために性比で見ると7月に激しいピ−クが出来る。脳硬塞では男女とも夏生まれには少ないが、その少なさは女の方が著しいので性比で見るとやはり夏生まれで性比が高い(図7)。脳硬塞での性比は105と男が僅かに多いが、ADでは57と女の方が多い。例数が少ないので確かではないが、夏生まれでの性比が特に高いのは前報で示した自己免疫疾患での性比のあり方と似ているようで、ADや脳硬塞などによる老人の痴呆にも自己免疫の現象が関与しているのかもしれない。

痴呆とアルミニウム
 アルミニウムが痴呆を起こすことはよく知られている。問題はアルミニウムが飲み水や食べ物から取り込まれて、脳にまで入るか否かにかかっている。アルミニウムは地表の岩石や土壌中には大量に含まれているものなのに、人体にはほとんど含まれていない。それが腎透析の場合には取り込まれて脳障害を起こしたことがあるが、経口的には吸収されないとされていた。
 私たちは日本脳炎のマウスでの実験中に、ウイルスを接種したマウスでは脳内にウイルスが侵入した後になってからBBB(血液脳関門)の障害が起こり、血管に注射されたエバンスブル−が脳実質に浸透すること。若いマウスでは腸管壁の絨毛の毛細管が障害されて全面から微細出血が始まり、腸管が大量の血液で満たされてしまうことなどを観察した。こういったことから日本脳炎ウイルスによる血管障害の始まりは、脳炎として発症するのとは別に起こると考えることが出来るだろう。日本脳炎のようなアルボウイルスでは、最初の感染がカの刺すことによる血管内へのウイルスの注入によるものであるから、不顕性感染の場合には脳炎を起こすことなく、軽度の血管障害だけで終わるものであろうと考えられる。そのような場合には腸管でも一部の絨毛では毛細血管の障害が起こり、健康な場合には吸収せずに排除するような物質をも透過し吸収してしまうのかもしれない。また脳の血管でも透過性が昂進して、腸から血管に入った物質が脳にも入りやすくなっているだろう。アルミニウムもこういう場合には普段とは違って脳内にも入り易いのだろう。

 そのことを実験的に証明しようと思ってマウスやラットに水銀やマンガン、アルミニウムなどの金属化合物を投与してから日本脳炎ウイルスを接種して、金属の体内での分布を調べて、ウイルス感染マウスでは金属の代謝が変化し体内での蓄積が増えることを観察した(23)。実験は小規模で確実とはいえないが、日本脳炎と限らずに風邪や下痢といったありふれた感染の場合にも腸管などの血管の透過性の変化することがあり得るとすれば、健康な場合には透過することのない重金属などでも病気の度に僅かづつでも体内に侵入蓄積されて老人となる頃にはそのために脳の障害を起こすに致ることもありえそうに思われる。
 調理器具や飲料の容器としてアルミニウムが利用されているが、その有害性は証明されていない。しかし健康な動物だけが使われた実験ではヒトでの長期の影響を確かめることはできない。

5.知的能力と生まれ月    
 ハンチントンは元来人の社会的能力と生まれ月との関係に興味を引かれていたらしい。先人の報告から、優れた人達は1〜3月の寒い季節に多く生まれているとの考えになっていた。アメリカではワシントンもリンカーンも2月生まれであった(24)。
  
科学者と生まれ月
 自然科学における新しい見解に対して「とにかくそんなことはないだろう」といった否定的、保守的な考えを述べた人と、「それは面白い、ありそうなことだ」というように進歩的、革新的な態度を示した人とでは生まれ月のあり方が違うという説がある。これはどちらが優れているというのとは少し違った見方のようである。

1995年にはネイチャ−という科学雑誌にエジンバラの心理学者が、19人の著名な物理学者の相対性理論が出された当時のそれについての意見と、その生まれ月とを調べた報告が出されている。何れも同じように特に優れた1級の物理学者たちで、相対性理論に賛同した10人中の5人、反対した9人中の4人はノ−ベル賞の受賞者である。その生まれ月を見ると、賛同者の10人中で8人は12月から3月の冬生まれ、非賛同者9人中の6人は6〜7月の夏生まれだった。10〜4月を冬、5〜9月を夏として1年を二分すると、賛同者は10人全部が冬生まれ、反対者は冬生まれは2人だけだった。
 同じように、生物学者についても「種の起源」がでるよりも前に進化論についての意見を述べていた28人の生物学者について、進化論に賛成の12人中11人、反対の16人中5人が10月から4月の冬生まれだった(25)。
 両方を合せてみると、10月から4月の冬生まれは28人で、そのうち新しい説を支持した22人中の95%、反対した25人中では28%がこの冬生まれとなった。その反対に、5〜9月の間に生まれた19人では支持者からは5%で一人しかいないが、反対者では18人72%がその季節に生まれていた。  

 賛同者も批判的な人もどちらも一流の優れた研究者なので冬生まれが優れているとはいえない。しかし新説に対する態度がこんなに違うのは何故なのだろうか。その著者の考えでは、発育の早い時期での体験が季節によって異なり、それが長期にわたって影響を与えているのだろうかといっている。胎児期でも母体を通じての季節的な栄養や日射量によるホルモン変動の影響が考えられる。調べられた学者たちの生まれた時代にはまだ空調はなかったので、季節の影響は乳児期にはことに大きかったのであろう。革新的な考え方に傾く冬生まれの人達は乳児期の始めにはおむつでしっかり包まれていたのが、夏になるとおむつが楽になり自由に独創的に動き回れるようになった。保守論者は夏に生まれて、動き回りたい頃には冬になり包み込まれて動き難くされてしまう。このような早い時期での経験が、既成のパラダイムに対する一生の態度を形成したかもしれないと言うのだが、他に別の理由も考えられるだろう。

医学部の学生
 医学部の入学試験というのは外国でも程度の高いものとされているらしい。1995年にはネイチャ−にも医学部学生の生まれ月についての短報がいくつか出たことがある。ポルトガルの医科大学の学生は4〜6月の生まれが263人中94人と対照の一般人口と比べて異常に多いことから、学業成績には生まれ月の影響があるようだといっている。日本からも東大医学部の25年間の学生2,525人では夏生まれが多かった。イタリ−の医学生でも4〜6月生まれが多い。しかしランセットではイギリでの1981,1986,1991年と5年毎の医学生では生まれ月との関係は認められなかったとのことで、その報告は始めネイチャ−に投稿したところが拒否されたのでランセットに出したとの説明が付いていた。

医学部の学生が春や夏の生まれに多いというのは、今まで優れた人達では1〜3月生まれに多かったというのとは全く違うように見える。19世紀の偉い人達は受験競争とは関係なく自由に能力を発揮して世間で抜きん出た人達で、受験勉強に集中して合格したような人達とは知的構造が違うのだろうか。そう考えると英国の医学部では入学選抜の方法が違うのかも知れない。
 東大全体の入試合格者でも春・夏の生まれが多くて早生まれが少ない。その傾向は理科よりも文科に激しく、中学入試で選抜された者に著しいという(26)。これも同じ原因によるものであろう。

6.性格と気質
 生まれ月や血液型が人の性格を決めているというような話は週刊誌の話題とされるためか、それを科学として取上げることは無視されている。しかし、そうした先入観をもたずに、観察された現象をまず事実としてその成り立ちを考えるのは自然科学の第1歩だと思っている。偶然に起こったような現象には意味がないとして積極的に捨てさるのが冷静な科学者の態度とされ、推計学的な有意差の検定で眞と偽との判別をすることが出来るとされるようである。定量的に計測することが自然科学の条件のようにも思われるのでそれの出来ない「こころ」の問題を扱うのは自然科学とは全く別の分野で別の考え方があるらしい。しかし生まれ月から見ていると、こころの問題にも生まれ月の影響があるのかもしれないと思い始めている。

夫婦の生まれ月の一致
 ゲーリッツはドイツの東端にあり、ナイセ河に面するポーランドとの国境の町である。この町の小学生およそ5,000人とその両親の生年月日を調べたところ、両親の生まれ月の一致するものが期待値よりも40%も多いことに驚かされた。ことに戦後生まれの夫婦に限ってみると、この傾向が一層著明で全体の13.3%もあって期待値の1.60倍となる(26)(図8)。さらに生まれた年も同じにすると19%が生まれ月が同じで期待値の2.33倍となる。 

図 8 ゲ−リッツの夫婦の生まれ月の差

 こんなことが偶然に起こるものだろうか。日本の夫婦ではどうかと思って以前にもらったデータを見直すと、1970年ごろの東京の婚姻およそ10万組について、同じ月の生まれが多いとは見えなかった。ところが、同じデータで同年生まれの者12,000組に限ると、同じ月生まれの夫婦が期待値の1.27倍とかなり多い。当時これはあまりに意外であったために、もっと別の証拠を見るまでと考えてそのままにされていた。
 その後自分たちで集めたアンケートから5,545組の夫婦では同じ月生まれの組合せは期待値の1.15倍といくらかは多い。日本でもやはり夫婦の生まれ月にはある程度の一致が見られるようである。こうしたことは何故起こるのであろうか。
 戦後ソ連の占領下にあった東ドイツでは経済発展が極めて緩やかで、人の移動も制限されていたために環境の変化が乏しく、年々の季節的環境がほぼ一定であったので、別の年でも同じ月に生まれた者はほぼ同じ条件下で育ったことになったのだろう。同じ環境で生まれ育った者同士は、性格にも何らかの共通性があって理解が早く、結婚に至る機会もそれだけ多かったのであろうかと考えている。これに対して、日本では人口の移動が多く、経済の発展も急であり、年々の環境条件が激しく動いていたので、年が違えば同じ月といっても違った環境で育ったことになっていたのかも知れない。中世の欧州では占領下の東ドイツのような条件が長く続いていたために、生まれ月による性格の在り方が長い年月を経ても余り変らなかったので生まれ月による占星術が信用されるようになったのかもしれない。
 
献血に参加する人
 先に結核患者の予後が、血液型ごとに生れ月で異なることを見て、対照と比べようとしたところが、対照とした健康者の血液型の分布が生まれた月や年代でも異なることから、対照としては生まれた年代を絞って、もっと多くの健康者のデータを集めなければならないと思った。多数の健康者の血液型のデータを集めるのには献血者が適当であろうとして、先ず結核患者と同じ生まれ年代の献血者のデータをいくつかの病院から集めてみた。
 ところが、集めたデータを整理してみると、献血者は一般人口を代表するとは言えないように思われてきた。第1に、当時の生まれ月別の性比が一般人口では11月に高くなるのに、献血者では夏生まれに高い。これは夏生まれの男は、献血者となりやすいことを示している。さらに血液型別に見ると、B型の者だけは夏生まれでも性比が高くはならない(図9)。つまり献血者にはB型を除いた夏生まれの男が多いことになる(27)。

図 9 献血者の血液型別の生まれ月と性比

 献血するか否かには、その生活環境や健康状態など種々の条件があると思われるが、生まれ月や、血液型を考慮しているとは思われないのに、こうした結果がでたのは不思議かもしれない。ここで見たのは結核患者の対照のつもりだったため1921〜35年生まれの献血者だけとなった。さらにそれ以後に生まれた献血者に付いても検討しようとした。
ところが入手した献血者のデータでは姓名が伏せられているために、一人で何回も献血した人がいるとそれを区別できない事が分かったのでそれ以上に進みかねている。
 
マラソンをする人達
 結婚する決心、献血への参加といったことは、外からの選択的な強制ではなくて各自の心の問題と思うのに、それが生まれ月と関係するのは何故だろうと思い悩んでいるときに、沖縄で勤務していた千葉恭久医師から1991年に行なわれた那覇マラソン参加者全員の生まれ月のあるデ−タを教えて頂いた。
 このマラソンは毎年12月の始めに行なわれ、42kmのフルコ−スを走るので、この年には全部で1万8千人、本土からも3千人が参加していた。沖縄からの参加者でその生まれ月を同年代の月別出生人口と比べてみると、概して秋に生まれたものが参加率が高く、春に生まれたものではやや少ない。また参加者の中で所定の6時間以内に完走した者の割合を見るとやはり同じ傾向がある(28)(図10)。参加者の方は終戦前後と占領下の沖縄で出生統計が整っていないこともあり、母集団の生まれ月分布が分らないので推定値である。

図 10 マラソン参加者の生まれ月別の参加率比と完走率

 マラソンに参加するのはかなり体力に自信がある人だろうし、それを所定の6時間以内で完走した人は体力も気力も充実していた人達に違いない。そうしたことが生まれ月によってある程度影響されていたということになるのであろうか。
 2万人近いいろいろな年齢の人が一斉に参加して激しい運動をするのだから不測の事故や急病人も起こるかもしれない。沖縄の大会ではそれに備えて臨時の救護所がつくられ、車も配備されていた。もし参加者全員の血液型も分かっていたら、万一輸血の必要が起こったような時には役に立つことであろうし、私の様な見方をするものから見れば生まれ月と合わせて運動生理・心理学の基礎としての貴重なデータが得られたかもしれないと思い、次の機会にはそうしては如何かと提案したのだが主催者には受け入れられなかったようであった。

7.脳とこころ 
 結婚の相手を決める、献血に参加する、マラソンに出場する、これらはいずれも本人の心の働きに基づく行動であり、その決心をするに当たって生まれ月や血液型がなんらかの影響をしていたとは考えられないのに、調べてみると関係がなかったとはいえないような結果であった。
 一方精神分裂病の研究ではその原因としてウイルスの感染が強く疑われ、脳には機能としては勿論、形態的にも変化がありそうなことを示す研究が各所から報告され始めている。パーキンソン病がエコノモ脳炎の不顕性感染の後遺症である可能性も否定できない。これらの疾患は精神や脳神経の機能の障害と思われ、ウイルス感染によるものかも知れない。
 痴呆が成人で発症した場合に、突然と絵画の優れた能力が発揮されるようになったという5例の症例報告(29)などを見ると、ヒトの脳に元来備っている優れた機能が、正常といわれる人では抑制されているのだろうかと考えさせられる。
 異常で病気とされる精神と正常で健康とされる心の働きとはある部分で重なりあい、両者の機能の出没が意識的に調整統御されている間は正常人とされ、時には変った人ではあっても有能な人と見られる場合さえあるのだろう。それがある期間固定されて臨機の統御が出来なくなると困った変人となり、病気とされることになるのかもしれない。
 そういった各種の能力や性格は複雑に調整され、状況に応じて都合よく表現されていれば、いわゆる正常で健康な社会人とされているのだろう。そういった脳の調整機能が発達し完成する胎児や乳児の時期に、環境から母体や母乳あるいは栄養を介して受ける物質的な影響や、経験による学習がそうした調整能力のバランスを微妙に調節しながら完成させているのだろうと思われる。
 それに関係する環境中の物質には脳の調節機能の発達に微妙な変化を起こすものが多いのだろうが、中には脳の形態にも影響するほどの大幅な変化を起こして明らかな機能障害となり病気となったり、稀には機能の異常な発達となったりすることもあるのかもしれない。そう考えることが出来れば、生まれ月がその時の環境の条件に相応してヒトの性格や能力あるいは脳の疾患に関係することも起こりうることになるのだろう。
 環境の内容には季節的な変動もあって一定不変の物ではなく、地域によっても異なり、時代によっても移り変わるものであろう。その中でも感染性のあるウイルスのようなものがあればそれを明らかにすることによって具体的な対策を考えることが可能となるであろう。最近のウイルス学の発達から何らかの成果の上がることを期待したい。


文 献 
1. Dalen, P. 1975 Season of Birth - A study of schizophrenia and other mental disorders. North-Holland American Elsevier/ Amsterdam Oxford p35
2. Stoller, A. & Collmann, R.D. 1965 Incidence of infective hepatitis followed by Down's syndrome nine months later. Lancet ii: 1221-1223
3. Kanai, K. & Nakamura, I. 1987 Congenital malformations by month of birth. Progr. in Biometeor. 6: 123-130
4. Torrey, F. 1987 Viruses as the possible cause of schizophrenic birth seasonality. Progr. in Biometeor. 5: 177-184
5. Shimura, M., Nakamura, I. & Miura, T. 1977 Season of birth of schizophrenics in Tokyo, Japan. Acta Psychiat. scand. 55: 225-232
6. Morozov, P.V. ed. 1983 Research on the Viral Hypothesis of Mental Disorders. Karger/ Basel  
7. トリ−, E.F. 1983 分裂病と現代文明 (志村正子、野中浩一訳)三一書房 東京
8. Sauder, C., Muller, A., Cubitt, B., Mayer, J., Steinmetz, J., et al 1996 Detection of Borna disease virus (BDV) antibodies and BDV RNA in psychiatric patients: evidence for high sequence conservation of human blood-derived BDV RNA. J. Virology 70: 7713-7724
9. Salvatore, M., Morzunov, S., Schwemmle, M., Lipkin, W.I., et al 1997 Borna-disease virus in brains of north American and European people with schizophrenia and bipolar disorder. Lancet 349: 1813-1814
10. Haga, S., Yoshimura, M., Motoi, Y., Arima, K., Aizawa, T., Ikuta, K., Tasiro, M. & Ikeda, K. 1997 Detection of Borna-disease virus genome in normal human brain tissue. Brain Research 770: 307-309 
11. de la Torre, J.C., Gonzalez-Dunia, D., Cubitt, B., Mallory, M., et al 1996 Detection of Borna disease virus antigen and RNA in human autopsy brain samples from neuropsychiatric patients. Virology 223: 272-282
12. Takahashi, H., Nakaya, T., Nakamura, Y., Asahi, S., Onishi, Y., et al 1997 Higher prevalence of Borna-disease-virus infection in blood-donors living near thoroughbred horse farms. J. Med. Virol. 52:
330-335
13. Bode, L., Durwald, R., Rantam, F.A., Ferszt, R. & Ludwig, H. 1996 First isolation of infectious human Borna disease virus from patients with mood disorders. Mol. Psychiatry 1:200-212
14. 中村百合恵 1998 精神分裂病患者剖検脳からのボルナ病ウイルス分離 北海道医誌 73: 287-297
15. Mednick, S.A., Machison, R.A., Huttunen, M.O. & Bonett, D. 1988 Adult schizophrenia following prenatal exposure to an influenza epidemic. Arch. Gen. Psychiatry 45: 189-192
16. Picard, F., Hirsch, E., Salmon, E., et al 1996 Post-encephalitic extra-pyramidal syndrome associating akinesia and stereotyped movements responsive to L-DOPA. Revue Neurologique 152: 267-271
17. Miura, T,, Shimura, M. & Kimura, T. 1987 Season of birth in Parkinsonism. Progr. in Biometeor. 6: 157-162
18. Raiha, I., Kaprio, J., Koskenvuo, M., Rajala, T. & Sourander, L. 1996 Alzheimer's disease in Finnish twins. Lancet 347: 573-578
19. Schupf, N., Kapell, D., Lee, J.H., Ottmen, R. & Mayeux, R. 1994 Increased risk of Alzheimer's disease in mothers of adults with Down's syndrome. Lancet 344: 353-356
20. Philpot, M., Rottenstein, M., Der, G. & Burns, A. 1989 Season of birth in Alzheimer's-disease. Brit. J. Psychiatry 155: 662-666
21. Vezina, H., Houde, L., Charbonneau, H., Beaudry, M., et al 1996 Season of birth and Alzheimer's disease: a population-based study in Saguenay- Lac-St-Jean/Quebec (IMAGE Project). Psychol. Med. 26: 143-149
22. 木村武登、川名はつ子 1990 Alzheimer型老年痴呆の危険因子としての生まれ月 老年期痴呆 4: 93-99
23. 瀬子義幸、中村泉、菅又昌実、野中浩一、三浦悌二 1986 日本脳炎ウイルス感染動物の脳内アルミニウムの変動に関する放射化分析による検討 医学と生物学 113: 367-370
24. Huntington, E. 1938 Season of Birth - Its relation to human abilities. John Wiley/ New York
25. Holmes, M. 1995 Revolutionary birthdays. Nature 373: 468
26. 石川清、湊博昭 1983 国立大学入学試験合格者と生まれ月、生まれ季節との関連性について 精神神経学雑誌 85: 930-967
27. Miura, T., Nonaka, K., Kawana, H., Shibata, Y. & Nakamura, I. 1993 Variation of sex ratio and ABO blood group composition by month of birth of blood donors in Tokyo. Internat. J. Anthropology 8: 147-154
28. 三浦悌二 1992 胎児期環境の季節性と体質・気質 日生気誌 29(suppl.): 1-6 
29. Miller, B.L., Cummings, J., Mishkin, F., Boone, K., Prince, F., Ponton, M. & Cotman, C. 1998 Emergence of artistic talent in frontotemporal dementia. Neurology 51: 978-982
\ 骨と歯の成長と進化

1. 身長の増大
 身長には個体差が大きい、とはいえ、集団の平均を取るとかなり一定したものであり、人種や民族ごとに見ると遺伝的に決まった値を取るものであるかのように思われている。人の身長は一見してその違いが明らかであるし、正確な測定も容易である上に、古い死体の骨からも推定が出来る。化石人類の身長までが脚や腕など1部分の化石からさえ信頼できそうな値が推定されている。それで縄文人と弥生人との身長には5cmくらいの違いのあることも根拠の一つとして、その起源を大陸の南方系と北方系との別の民族に求めようとしたりされる。

 ところが19世紀以来、日本人だけでなく欧米諸国の人達の身長が伸びて背が高くなってきた。これは広く知られていることであるのに、何故そうなったのかはよく分っていない。栄養が良くなり、生活条件が改善されたためというのが通俗的な説明なのであるが、照明・暖房の普及や地球の温暖化にも関係があるのかもしれない。しかし、今の日本では親と子の間に身長の違いが10cmもあることさえ珍しくもないくらいに急激な身長の伸びが見られていて、骨から見る限りでは親子でさえとても同じ民族とは思われないくらいの違いである。これほど激しい身長の変化が、現に僅か数世代の間に急激に起こりえたことは、人類の進化史上で過去数百万年の間に起こっていた身長や体形の変化の原因についても、考え直すことが必要になるのかもしれない。

身長増加と生まれ月
 生まれ月によって身長に違いがあることも、事実として認められている。最近でもオ−ストリア陸軍の成績から18歳男子の身長と生まれ月との関係がネイチャ−に発表されているように(1)この問題はけっして無視されているわけではない。それによれば、1966年から1975年までの10年間に生まれた50万人で、春に生まれた者では秋に生まれた者よりも0.6cm身長が高かった。身長は生まれた年によっても変動が見られ、記載された10年間では1969年を底として1975年を山とするサインカ−ブをしているようだとされている。しかしその示している図から見ると、1973年から突然にどの生まれ月の者でもそれまでに比べて0.3〜0.4cm身長が高くなっているようなので、サインカ−ブというよりは階段状に急に変わったとさえ見ることが出来よう。
 年間の日照時間や気温の変動、長期的な太陽黒点数の増減など地球をめぐる物理的な環境条件はサインカ−ブのような周期性を持っているものなのだから、生物現象での変動の周期もそれに従ってサインカーブを示すであろうという先入観をもっているので、そう見えるのかもしれない。それにしても、1970年頃というのは、日本でも問題が多かった年なので特別の時期だったらしい。
 
  図 1 女子大学生での身長と座高の生まれ年代別の推移
       (生月ごとの平均値をCENSUS XIにより図示)      
 身長と生まれ月との関係についても研究者によってその結果が一定しないのは(2)、
場所が違い、年代が違うためであろうかと思われる。岡山のある大学で、戦後の24年間に入学した1941ー64年生まれの8、376人の女子学生について、18歳での身長、体重、胸囲、座高の測定値と生年月との関係を検討したところが、身長はこの間に3cm
以上も伸びていたが、座高の方はかえって縮んでいた(3)(図1)。
 ところが生まれ月と身長などとの関係は生まれた年代が違うと同じではなく、1950年以前の生まれでは7〜9月の夏生まれで身長が高く、1950年代後半には生まれ月による変動が少なく、その後に生まれたものでは様子が変って11月生まれの方が身長が高くなっていた(4)(図2)。
       
図 2 女子大学生での身長の生まれ月による違いの年代推移

 1960年代に生まれた者を境に、身長の高さで夏生まれと冬生まれとの関係が逆転しているという奇妙な現象は大変不思議である。これが偶然の変動ではなく意味のあることかもしれないと思われるのは、これに似た関係が生まれ月と初経の年齢を調べた時にも起こっていたからである(5)。このことはすでに本稿の「X初経の疫学」でも述べておいたように、1955年ごろまでに生まれた者、つまり1960年代に初経を見たものまでは、夏生まれの者の方が初経の年齢が早かったのに、その後に生まれた者では逆に冬生まれの者の方が初経の発来が早くなっていた。この現象は発育の早さが新生児期での日照時間の長さによって影響を受けているとの従来の説明を否定するものであり、全く別の考え方をしなければならない。

 身長の伸びと初経の発来とが共通の季節性のある環境要因によって影響を受けている可能性は、いずれも身体の成長発達に関係することなのだと思えば、ありうることだろう。1960年代に日本の環境に大きな変化の起こっていたことはよく知られていたのであるが、同じ時期にヒトの成長にも重大な影響を与える未知の要因がその消長の季節性においても劇的な変化を起こしていたのであろう。今までこのことには全く気づかれたことがなく、指摘されたことはなかったように思う。
 1960年代に早生まれの山が消失し、それに続いて出生数最小の谷の月が、人口動態統計が出来てからそれまで一貫して変わらなかった6月から、1970年代には11月にと移ったことを考えると、こうしたヒトの生殖や成長という生理的に基本的な機能の発現が生まれ月によって既定され、それが年代によっても変動することが認められる。だから、そのような機能は何か未知の季節性のある環境中の要因によって大きく影響を受けているに違いないと思われる。私たちは環境の変化に基づく微生物界での変異の出現を主要な原因として疑っているが、その証拠を挙げることが出来ないでいる。

 理科年表によれば、太陽のウォルフ黒点数が1957,58年の2年間には190.2、184.8
と1700年以来での最高値を示していた。太陽黒点の活動が生物や微生物に異常に高い率で変異を誘発していたのかもしれない。遺伝子の変異を活発に起こして進化を誘発するような「天変地異」は太陽黒点や宇宙からの放射線の変動によって起きていたのだろうか。その機序の実体に迫るような研究の着手されることを望んでいる。

2. 身長と座高
座高の伸びと縮み
 岡山の女子大生では、戦後の1945年から1965年までの20年間に生まれた者を比べると、その間に身長では3cmもの伸びがあったのに、座高ではかえっておよそ1cmもの縮みが見られていた(4)(図1)。このことから身長の伸びは、栄養がよくなり発育がよくなったので身体全体が大きくなったというような単純なものではないことが分る。また、生まれ月と座高との関係も身長の場合と同様に1955年頃に生まれた人たちを境に変化が起こっていたようである。
 加齢による座高の伸びは、男子では18歳、女子では16歳頃をピ−クにして、その後は暦年齢とともに減少する傾向があることは都立大学の資料からも認められていた(6)。岡山の女子大生でも、18歳での座高が測定の年代と共に減少していたことを示していた。

文部省の統計から
 全国的な調査からでも各年齢毎の年度による変化を見ることは出来る。文部省の体力・運動能力調査報告書によれば、20歳での男女の身長は1949年から最近(1997年)までは順調に伸び続け、男子では8.0cm、女子では5.3cmも背が高くなってきた。ところが座高の方では、1968年のピ−クまでに男子では2.2cm、女子では1.1cmの増加が見られたのにその後はかえって減り始め、1996年にはピ−クの時に比べて男子では1.0cm、女子では1.6cmも少なく、女子では1950年頃に比べてさえ却って少なくなっていた(図3)。20歳での計測値は全国21大学の学生について男女各600人と、全国24の職場から選ばれたやはり男女各600人づつのものである。どれも毎年別の学校や職場が選ばれるので、バラツキが出るのは当然ではあるが、長期的な傾向としては信頼できる数値と思われる。
 身長は今でもまだ伸び続けているのに、座高は一時は伸びていたのに1970年以後に急激に減少してから後はあまり変動が見られない。身長の増加と座高の減少は、岡山や東京での地方的な現象なのではなく、全国的に起こっていたことなのである。
 全国で20歳女性の身長と座高の年次推移を1950年の計測値を100として図3に示してある。図には女性だけを示してあるが、男性でも伸びの割合は女性よりも大きいが、ほぼ同じ傾向である。

図 3 全国20歳女子の身長と座高の年次推移
(資料:文部省体力・運動能力調査)

 ここで目立つのは、20歳の時での座高の短縮は1970年代前半の数年間に急激に起こった現象のように見えることであり、その後はほぼ一定の価を示している。つまり1950年代以後に生まれたものではそれ以前に生まれたものよりも20歳時の座高が明らかに低い。身長の方ではそういう傾向はなく、順調に伸び続けているように見えるのに、座高だけが突然と急激に短縮したことは不思議である。脚の骨と脊椎とはその成長が別の要因に支配されているものと思われる。
 この現象と生まれ月とを組合わせることが出来たならば、もっと手掛かりが得られたであろう。今からでも、特に座高の変動の激しかった1945〜1960年頃に生まれたものについて、成長に伴う身長と座高の連続的な記録を20歳まで調べることが出来るならば、生まれ月との関係ではきっと興味ある結果が出るだろうと思っている。

座高/身長比
 座高と身長との比(RSH)で見ると、1949年から1997年の49年間に20歳でのRSHが、男では54.4→52.7%に、女では54.8→52.8%と座高の割合が減って、脚の割合が大きくなってきたことが分る。この場合にも1971年までと1972年以後との間には男で0.5%、女では0.9%と突然に格段の違いが生じている。この年から座高の測定法になにか変更でもあったのだろうか。あるいは本当にこの年、つまり1952年以後に生まれた者からは座高の伸びだけが止ってしまうようなことが起こったのだろうか(図4)。

 図 4 全国20歳男女の座高/身長比(RSH)の年次推移

 現在、急速にヒトの体形に変化が起こっているように見えるが、その原因は全く分っていない。熱帯の住民の方が脚が長いことがしられていて、シベリアなどの寒い地方に移住した民族では腕や脚が短くなり、顔も平板化すると言われていた。寒冷地に適応した人種で手足が短くなっていたとすれば、最近の変化は地球と生活環境の温暖化のためかとも思われよう。世界の10地域の住民での測定成績を総合してみると、RSHはその土地の気温に依存し、気温が高いほどRSHは小さく、その相関係数が女では男よりもやや大きくて
r=-0.46だというような結果も発表されている(7)。
 環境の条件で体型を支配する遺伝子に実際に変化が起こっているのか否かはこれからの大きな問題となるであろう。それには生まれ月の考え方を取入れることが役に立つに違いないと思っている。気温だけで遺伝子の変化が起きるものだろうか。私たちは気温に依存する微生物の変異が生物やヒトの遺伝子にも影響したのではないかと想像している。

3. 骨 折
老人の大腿骨頚部骨折(HF)の増加
 老人では骨の実質が低下してくるために、室内で立ち上がる時のような日常の普通の動作でも大腿骨ことにその頚部に骨折を起こすことがある。それが原因で寝たきりとなりその20%くらいが数か月以内に死亡しているという。大腿骨の骨軸から50度に折れ曲った大腿骨の頚部はそこで体重を支えているために、弱ってきた骨格の中でもここに負担の限界が露呈されるためであろう。
 1980年代に都内の一老人施設で、交通事故など外傷によるものを除いたHFの頻度を調べたところ、1956年から1978年までの23年間に、2,600人の入所者中に107人のHFがあった。その内に男は15人と女の95人に比べると6分の1もいない。これを7、8年毎の3期間に分けて在園者数に対する1年当たりの発生率で示すと、この期間中に発生率がほぼ3倍に増加していたことになった(8)(表1)。

表 1 年代毎の大腿骨頚部骨折の発生数と1年当たりの発生率 
東京の一老人施設

 HFの増加は欧米諸国でも注目されていて、高齢者割合の増加以上に多いために、その原因が問題とされている。スエ−デンでは1924年以来のデ−タがあり、1950年代から1980年代までは患者数が著明に増加していた。ことに1950年から1991年までの間には6倍にも増加している。しかし1980年代以降にはもう患者発生の増加は見られていないという(9)。英国でも1960年代から1970年代ことにその後半にかけて発生率が急激に増加して、病床の不足が問題にされたりしていたが、その後は発生の増加が止んだらしい。

 HFの増加については多くの観察が報告されていて、かなり共通の現象の様に思われる。こうしたことから1960-70年代には世界的に見てもHFが急激に増加していたらしい。しかしその理由は全く分っていない。増加の傾向は古くからあったのであろうがそれが目立って大きな問題となったのには、老人人口の増加もあり、医療の社会化の影響もあるのだろう。
 近年ロンドンで発掘された1729ー1852年の人骨での測定結果から、現代人の骨密度は閉経前から低下していることが明らかにされたという(10)。そうだとすれば、近代的な生活が骨質を低下させていたのかも知れない。交通機関の発達が運動量を低下させ、それが骨を弱くしてきたことが考えられよう。また砂糖や食塩といった日常の食品が精製されたものとなったために、摂取される微量金属などが減少したこと、ことに亜鉛や銅の減少がカルシウムの代謝にも2次的に影響している可能性もあるのだろうとされる(11)。

 1980年代には骨折の増加が止ったことが各地から報告され始めている。ミネソタのメイヨ−クリニクでは1928年以来の調査に基づく2千人以上の患者について、女は1950年、男は1980年頃までは増加を続けていたがそれ以降は減少に転じていた(12)。
 急激な増加の見られた1970年代は世界的に環境汚染の進行した時代なので、老人での骨粗鬆症の増加には環境汚染物質の増加が原因だった可能性もある。そうだとすれば、今後もし環境の浄化が進めばHFの減少が期待されるのかもしれない。
 それとは別に、以前からのピルの服用者ではHFのリスクが3割くらいは少ないという報告もあるので(13)、ピルの普及がHFの増加を止めたのかもしれない。それならばピル使用の少ない日本での最近の傾向が良い対照となるはずである。これを確かめることは日本の研究者の義務とも思われよう。現在の低容量ピルの服用者でもHFの低下が見られるかどうかは今後の課題となるであろう。

HFと生まれ月
 東京のある老人施設でのHFの患者173人と、国立医療センタ−での交通事故を除外した50歳以上のHF患者118人、合せて291人の生まれ月を調べたところ、7〜9月生まれの者でHFの割合が一般出生からの期待値よりも多かった(図5)(14)。HFと生まれ月との関係についての論文は少ない。1960年代にスエーデンでは
1881〜1900年頃に生まれていたHF患者のうち女性患者が1,058人と男性患者の5倍も多く、ことに女性では外傷の無いものに多かった。生まれ月では7〜10月の生まれが多く2〜4月の生まれに少ないとされている(15)。これは日本での結果ともほぼ一致する。この生まれ月の老人では骨の弱いものが多いのかもしれない。

図 5 老人の生まれ月と大腿骨骨折率
   (50歳以上の男女、2か月ごとの移動平均)
  
学生の骨折
 高校生までの骨折が増加して、男子の20%女子の10%以上が骨折を経験しているという。多くは簡単な外傷によるもので、腕や指の骨折が多い。実際に骨折が増えているとすればその原因はなんだろうか。
 男子高校生556人では22.3%が骨折を経験していたが、9〜11月生まれのものでは29.3%と高率で12〜1月生まれの15%に比べると2倍もある。また、2〜4月生まれに24%と第2の高い山が見られる。一方女子高生1,096人では11.6%が骨折を経験していたが、男子とは逆に9〜11月生まれでは8.5%と一番少なく、2〜3月生まれが14.4%と一番多い。女子でも体育大学の学生だと骨折率も20.3%と高く、そのパターンも男子高校生と同様に、8〜11月の生まれに23.8%と第1の山があり4〜6月に第2の山が見られる(16)(図6)。

 図 6 学生の生まれ月と骨折率
 
 若い学生での骨折は、激しい運動の際に骨に過大な力が加わり、骨の耐性の限界を超えた時に起きるものであろう。そうした場合は、男子生徒では日常の生活の中でも普通に起きるものであるらしい。女子でも体育系の学生ならば競技の成績を競うためには体力の限界に挑戦するのは日常のことであるのだろう。そういう場合に骨質の弱い、骨折の起こりやすい体質が、秋生まれの者には高率に備わっているのかと考えられる。一般の女子学生では乱暴な活動をすることはないので、そのようなことは起こらない。それで第1の山が春の生まれに見られ、同じ山は他の学生では第2の山として現われている。春生まれでの骨折の多いことは若者の骨折一般に共通の現象であり、秋生まれの山は過激な運動の際に骨質の弱い体質の者に起こるのであろう。老人、ことに閉経後の女性では、特に過大な負荷のかかるようなことが無くとも骨質の弱い生まれ月の者では高率に骨折を起こしやすくなっているのであろう。だとすれば、激しい運動をして骨折する若者と、外傷も無い老人でのHF骨折率の高い生まれ月に共通性の見られることは不思議ではない。

 今では骨密度の測定が容易なので、若者や老人での骨を測定した成績を生まれ月で分けて検討してみれば何か具体的な手掛かりが得られるかもしれない。さらに骨密度の違う人では、カルシウムやリンなどの代謝の機構に何かの違いが認められるのかもしれない。胎児期環境での何がそれを引き起こすのだろうか。もしかしたら胎児期での不顕性感染がそうした体質を作る引き金となっているのではないだろうか。そうしたことが分ってくると老人の骨折の予防にも新しい考え方が出来るようになるだろう。

4. 近視と脚長
 文部省の保健統計調査によれば、裸眼視力が1.0未満の者が、幼稚園や小学校で20〜25%もあるとされる。それが中学だと40%、高校だと50%と年齢と共に増加している。その割合は最近の10年間に中高とも10%くらい高くなって、50%と60%に上昇し、成人では半数以上が近視ということになる。

近視と眼窩の骨
 幼児から始まるのは軸性近視で強度の者が多く、回復は困難である。その後に増加するのは調節の疲労による学校近視が多いのだろうと思われる。近視は相対的に焦点よりも眼底の遠いために起こる現象と見れば、それは眼球の形の問題であり、眼窩の形とも関係があるだろう。眼窩は頭と顔を作る骨のバランスによって決まるものであろう。脊椎動物の体型は頚、胸・腹、尾の脊椎と前後脚との長さのバランスで決まる。もし頭部の形にも同じ原理が働いているとすれば、もしかしたら眼窩を作る骨の形にも脚の骨の発育との関係があるかもしれないと想像して見た。

近視と脚長
 東京の女子高生2,416人について、視力で分けると≦0.3が691人、0.4〜0.9が689人、≧1.0が1,036人で、およそ3:3:4の割合であった。身長、座高などとの関係と比べてみると、視力が0.3以下の者を除いて視力が1.5以上と良い者の割合は、特に脚長(身長−座高)が76cm以上と大きい者では38%と多く、それより脚長の短いもので25%しかいなかったのと比べると有意に多いことが分った(4)(表2)。後から考えると、脚長と比べるよりも脚長/座高比と比べた方が良かったのかもしれない。
 近視と身長との関係については、近視者は高身長であるという報告と、低身長に多いというものとがあって一定していない。全員でみると近視者は身長が高いがそれを職業や社会階層で分けると差が無くなるともいわれ、学歴や職業による偏りを無視できないとされている。しかしここで対象とした女子高生では、社会環境の差を問題にしなかった。

  表 2 身長・脚長と視力

視力と生まれ月 
 視力が0.3以下の者を除いた1、720人で生まれ月別に見ると、視力が1.5以上と良いものが26.2%であったが2〜3月や9〜11月の生まれだとそれが30%近くと多く、4〜8月の生まれだと22.9%と少ない。同じ生徒たちの脚長は71.4cmであったが、視力の悪い5〜7月生まれだと71.2cmと脚長が短く、視力の良いものが多い2〜3、9〜10月の生まれだと71.6cmと長い。その差は僅かではあるが視力と脚長との間に、生まれ月の分布において共通のものがあるかのようにも見える(図7)。

図 7 生まれ月別に見た視力の良い者の割合と平均脚長
      (良いものとは視力≧1.5)

 生まれ月が身長や座高・脚長と関係することは、栄養や日照などが単純に身体全体の発育の良さを決めているだけではなく、脊椎骨と長幹骨との発育の割合にも関係して、身体の形にも影響しているように思われる。それが顔の骨でも表されて、眼窩の形にも影響し、近視の形成にも関係しているのだろうか。日本人では近視が多いとされるのも、脚の短い体型と関係しているのかもしれない。近年日本人でも脚が長くなってきたことが、近視の減少につながるのだろうか。今後の観察結果に興味がもたれる。
 今では、生体でも眼窩の形を正確に測定することが出来るのだろうから、脚長や座高比と近視との関係をもっと具体的に検討することが出来そうである。それによって学校近視の予防対策にも新しい視点が開けるかもしれない。

 
5. む し 歯 
 むし歯は高率に見られる普通の疾患である。文部省の学校保健統計調査によれば、むし歯の無いものは小学校でも15%くらいで、高校だと10%くらいしかいない。
 個人のむし歯の数としては、現に虫歯である歯の他に治療済みの歯と虫歯で抜かれてしまった歯も入れてDMFTで表される。日本人では、1980年代に調べた成人のDMFTは男で14、女で15.5程度で女の方がいくらか多い。幼児の場合には同じことをdeft
で表している。

むし歯と生まれ月
 むし歯の数を生まれ月別にみると、7〜12月、とくに7〜9月生まれではDMFTが男で16以上、女は18以上と高く、1〜6月の生まれでは男で13以下、女では14程度と低い(17)。
 このことは、乳幼児の時から見られる現象で箱根町の幼稚園児357人で調べてもdeftは男児より女児の方がやや多く、生まれ月では男女ともに6-10月の生まれで高かったし(4)、同じ傾向は1歳6か月児の検診でも見られている(18)(図8)。

図 8 成人と幼児の生まれ月とむし歯率

むし歯と唾液
 むし歯の発生には、歯の質が基本的な問題と思われるが、唾液の量や質も関係するだろう。男性92人女性111人について3分間の唾液分泌量を測定したところ、4〜6月生まれで唾液量が1.5ml以上の者が多く(38/50)、7〜9月生まれの者では1.0ml以下の者が多かった(36/48)。つまり、むし歯の多い者では唾液分泌量の少ない傾向が認められた(17)。

短大の女子学生58人について唾液のリンとカルシウムの濃度をICPで測定した成績では、個人差が大きく検査の例数も十分ではなかったが、DMFT13以上とむし歯の多い人は唾液のリンやカルシウムの濃度が低い人に多かった。

 総合すると、7〜9月生まれの人ではむし歯の数が多く、これは同じ生まれ月での老人や学生で骨折の多いこととも骨や歯の質の問題として共通の現象かと思われる。歯の場合には、その上に唾液の量も少なく質にも違いがあるらしいことも関係しているのかもしれない。生まれ月との関係からは胎児期の環境にもその原因があるように見られるので、環境の条件が変わってくれば骨折やむし歯の率にも違いが起こってくることであろうし、その原因の本体が分れば積極的に対策をたてることも出来るようになるかもしれない。

6. 永久歯の萌出
ヒトの歯の退化傾向 
 霊長類の歯は退化の方向に進んでいるらしい。歯の数は減り始めているし、永久歯の萌出は遅れ、歯の大きさも小さくなっているという。 
 人を含む霊長類では全部の歯が揃ってはえるとICPMの4種類の歯が上下で2123/2123で32本であった。現代人ではM3(第3大臼歯:親知らず)は成人後に萌出するが遂に欠いたままで2122/2122で28本の人も多い。中には上顎の門歯I2を欠いて1122/2122となって26本の人もある。将来はさらに減って1112/2112
を経て1012/1112となり18本にまで退化するだろうとも予想されているらしい(19)。

 ヨーロッパから1870年代に北米西部の平原に移住して高度の農業を営むハッテライトは、隔離された集団生活を営み、多産なことでしられ、遺伝的に比較的均一の集団とされている。カナダにあるハッテライトのコロニーで、15-29歳の208人を調べた報告(20)によれば、98人(47%)に歯の欠損や退化が認められ、1人平均では2.4本もの欠損があった。歯の退化による欠損はM3は別にして、上顎ではI2とP2に多く、下顎ではP2に多い。上顎のI2では退化による形成不全が特に多く男女とも10%以上に認められている。その他にも上下顎のM2P1の欠損も数%に認められている。これは欠損だけを比べても、今までの報告よりもはるかに多いので、これが遺伝的に特殊な集団なのか、隔離された環境の影響なのかは今後の問題であろうという。

 一般に霊長類の永久歯では奥の方から順次退化して小さくなり、その萌出も遅れることになる。ことに大臼歯の大きさは、類人猿ではM3>M2>M1と奥の方ほど大きかった。化石人類ではM2>M1>M3とM3が小さくなり、現代人では類人猿とは逆にM1>M2>M3と前の方が大きく奥の方ほど小さくなっている。つまり、奥の方から順に退化縮小が進んできたとされる。

永久歯の萌出順序
 萌出の順序も大臼歯の萌出が奥の方から順次遅れる方向で進化している。原始的な霊長類の永久歯では、M1の萌出が最初でM2、M3と萌出した後から切歯や犬歯、小臼歯などの前の方の歯が生えていた。ところがまずM3の萌出が遅れ、次いでM2の萌出が遅れた。M1だけは現代人でもまだ最初に生える永久歯として残されて6歳臼歯と呼ばれていた。これは今でも世界中の教科書にそう書かれている。
 ところが、1950年ごろから臼歯よりも切歯(門歯I1)の方が先に生える子供の割合が急に増えてきたことが各国から報告され始めた。日本でも、調べてみると60%の子供で切歯の方が大臼歯よりも先に生えるようになっていた。この変化も、食生活の変化による顎の退化が原因だろうという者もある。

 図 9 霊長類における永久歯萌出順序の変遷
       M:大臼歯 C:犬歯 I:切歯 P:小臼歯

 しかし、人類学者の中には、霊長類で永久歯の生える順序は系統的な進化とともに変ってきたとの説がある(21)(図9)。サルからヒトへの進化とともに、M3次いでM2の生えるのが次第に遅れるようになったもので、これは明らかに遺伝的な進化であるとしている。その説によれば、現代人でもまだ最初に生える永久歯として残されていたM1の萌出が遅れ始めたのは、10〜5万年前にM2の萌出が遅れてM3とともに最後に生えるようになって以来の、次に起こるべく予想されていた大変化なので、これは人類が20世紀以来再び新しい進化に向って動きだした兆候なのかもしれないという。

  図 10 生まれ月と永久歯萌出のI型の割合
 
永久歯の萌出順序と生まれ月
 ところが日本では、この変化の起っている割合が子供の生まれ月によって大きく違っていた。今では切歯I1が最初に生えるI型の子供の方が多いのに、10〜11月生まれの子供に限って最初の永久歯がM1であるM型が多い(22,23)。もしこのM型からI型への変化が遺伝的な進化だとすると、それには季節性のある環境中の要因が胎児期において大きく影響していることになる(図10)。

  
7. 進化の要因 
 遺伝子に起こって進化ともなりうる変異は、環境中で季節性をもって広がるような要因に依存し、それが生まれ月での違いとなって認められるのであろうかと考えたくなる。もし、そう考えることが出来るならば、進化とは個々の個体ごとに全く偶発的に一定の頻度・速度でどの遺伝子にも無選択的に起るような突然変異が、徐々に個体群の間に集積して始まるものではなく、流行病の様に多数の個体に同じ変異が同時に多発することによって効率良く進んだのであろうとも考えられそうである。胎性幹細胞のDNAに偶然起こる単一の変異でも、その位置によっては一連の発生過程に影響して重大な変異を引き起こすような場合も起こっていたのかもしれない。そういった変異が、偶然にも環境への適応に有利なものであれば、その変異は進化として保存され、新しい種や属・科・目の形成ともなりえたであろうし、もし環境への適応に却って不利な変異であれば、種の衰退・絶滅へと向かってしまったこともしばしば起こっていたに違いない。
 そのような進化と絶滅という一斉の大変化が、ある時代に集中して多発したように見えるのは、ウイルスのような伝染性のものの多種類が相次いで流行して、受精前後の時期に感染したためではないかと疑われる。時には爆発的に起る太陽や宇宙からの強い放射線などが直接ヒトや生物に影響を与え、あるいは微生物の変異を高率に起こしてそれがヒトや生物に感染し、その遺伝子に高率に変異を起こさせて、生物の大進化や、大絶滅を起こさせたのかもしれない。こうしたことは、ヒトだけではなくて、あらゆる動物や植物に現在でもある程度では起りつつあるのだろう。現代人で、身長や座高比に見られた急激な変化や大臼歯の退化など目に見える形の上での変化だけでも、あるいは現に人類進化の一面を見ているのかもしれない。そういったことも、キ−となる遺伝子の変異を生まれ月と突き合せてみることによって、近い将来には新しい進化学を開く発見が出てくるだろうと思っている。

 過去に起った生物の大絶滅は環境の激変によることもあったであろうが、高率変異の時代には、大絶滅と大進化とが同時に多発したこともあっただろうと思われる。環境の変化が進んでいる今も、まさに新しい絶滅と進化の時代を迎えようとしているのかもしれない。
 こうした考えに立って実証的な研究が始められれば、進化を目のあたりに見ながら、進化の実体を確かめることが可能となり、大進化の原因となった遺伝子を特定し、そこに変異を起こす原因となった環境要因に迫ることが出来れば、進化論から脱却して、実証的な進化学の始まることも期待される。
 ヒトの未来についても、世代間の断絶以上に不安に満ちた未来人への進化を無自覚に辿るのではなく、自分たちの力で有害な進化や退化を避けることができるようになり、人類の未来を明るいものにする可能性を求められるようにしたいものと思っている。 

文 献
1. Weber, G.W., Prossinger, H. & Seidler, H. 1998 Height depends on month of birth. Nature 391: 754-755 
2. Shephard, R.J., Lavallee, H., Jequier, J-C., LaBarne, R., Volle, M. & Rajic, M. 1979 Season of birth and variations in stature, body mass, and performance. Human Biol. 51: 299-316
3. 志村正子、村主由紀、藤勝福子、野中浩一、中村泉、三浦悌二 1983 女子大学生の体格に及ぼす出生年代と出生季節の影響 日衛誌 38(1): 217
4. Shimura, M., Nonaka, K., Nakamura, I., Suguri, Y., Fujikatsu, F., Ichiki, A., Kawana, H. & Miura, T. 1987 Season of birth and physical characteristics. Progress in Biometeor. 6: 109-122
5. Nakamura, I., Shimura, M., Nonaka, K. & Miura, T. 1986 Changes of recollected menarcheal age and month among women in Tokyo over a period of 90 years. Annals of Human Biol. 13: 547-554 6.
真家和生、柿山哲治、高石昌弘 1994 「等比成長」との対比からみた座高の身長に対する相対成長について 大妻女子大学紀要−家政系 30: 181-193
7. Katzmarzyk, P.T. & Leonard, W.R. 1998 Climatic influences on human-body size and proportions - Ecological adaptations and secular trends. Amer. J. Physical Anthropol. 106: 483-503
8. 木村武登、三浦悌二 1982 大腿骨頚部骨折の発生率の年代による増加について 浴風会調査研究紀要 66: 163-164
9. Rogmark, C., Sernbo, I., Johnell, O. & Nilsson, J-A. 1999 Incidence of hip fractures in Malmoe, Sweden, 1992-1995. A trend-break. Acta Orthop. Scand. 70: 19-22
10. Lees, B., Molleson, T., Arnett, T.R. & Stevenson, J.C. 1993 Differences in proximal femur bone density over two centuries. Lancet 341: 673-675
11. Lewis, A.F. 1981 Fracture of neck of the femur: changing incidence. Brit. Med. J. 283: 1217-1220
12. Melton, L.J., Atkinson, E.J. & Madhok, R. 1996 Downturn in hip fracture incidence. Public Health Report 111: 146-150 
13. Michaelson, K., Baron, J.A., Farahmand, B.Y., Persson, I. & Ljunghall, S. 1999 Oral-contraceptive use and risk of hip fracture; a case control study. Lancet 353: 1481-1484
14. 木村武登、三浦悌二 1981 老人の骨折と出生季節 浴風会調査研究紀要 65: 210-212
15. Alffram, P.A. 1964 An epidemiological study of cervical and trochanteric fractures of the femur in an urban population. Analysis of 1,664 cases with special reference to etiologic factors. Acta Orthop. Scand. [Suppl] 65: 1-109
16. Miura, T., Nakamura, I. & Shimazaki, S. 1982 Seltsame Beziehungen zum Geburtsmonat in der relativen Haufigkeit von Knochenbruchen bei japanischen Schulern. Arztl. Jugendkd. 73: 321-324
17. 市来敦幸 1987 永久歯齲蝕と出生季節 (1) DMFT指数に及ぼす出生季節の影響 日本公衛誌 34: 643-651
18. 市来敦幸 1987 箱根町における1歳6か月児の乳歯齲蝕と出生季節 口腔衛生学会誌 37: 119-127
19. 坂村友三 1973 歯からみた人類の祖先 歯界展望 42(4): 647-653
20. Mahaney, M.C., Fujiwara, T.M. & Morgan, K. 1990 Dental agenesis in the Dariusleut Hutterite brethren: comparisons to selected Caucasoid population surveys. Amer. J. Physical Anthropol. 82: 165-177  
21. Valsik, J.A. 1975 Changes in eruption of the first permanent teeth. Scripta medica (Brno) 48: 191-194
22. 三浦悌二、市来敦幸 1986 永久歯の萌出順序と生まれ月 医学と生物学 113: 173-174
23. Nonaka, K., Ichiki, A. & Miura, T. 1990 Changes in the eruption order of the first permanent tooth and their relation to season of birth in Japan. Amer. J. Physical Anthropol. 82: 191-198


表 1 年代毎の大腿骨頚部骨折の発生数と1年当たりの発生率 
東京の一老人施設

年齢\年代  1956-63 1964-71   1972-78

 70-79 11 0.42 18 0.72 19 1.14 %
80-89 7 0.72 11 0.69 27 1.50 %
90-96 2 8.3 4 2.4 8 4.80 %

合計 20 0.56 33 0.77 54 1.48 %



  表 2 身長・脚長と視力
  

         視力
          0.4 - 1.2 1.5 - 2.0  合計    
身長 ≧ 150cm 1,137 (73.2%) 417 (26.8%) 1,554 p<0.1
< 150cm 136 (79.5%) 35 (20.5%) 171
脚長 ≧ 76cm 102 (62.2%) 62 (37.8%) 164 p<0.01
< 76cm 1,162 (74.8%) 391 (25.2%) 1,553


「生まれ月学」の願い: 稿を終わるにあたって


 2年にわたって本誌に「生まれ月学のすすめ」を連載して頂きました。「生まれ月学」は全く未完成の分野なのですが、これから発展することを願って、及ぶ限り理解して頂けるように書いたつもりです。
 学生の頃に、衛生学の授業でマウスの集団に感染をさせて流行を起こさせる実験疫学の講義を聞いて、不顕性流行の出現に興味をもちました。それは人の結核の流行とも関係があるように思えたからです。戦後、日本脳炎や小児麻痺の抗体を調べて不顕性流行が広く深く蔓延していることに驚かされました。
 衛生学の本質は、まだ意識されていない問題を発見して、その解決への道を探ろうとする学問だと思っています。具体的な解決の技術はその問題に応じてそれぞれの分野が開かれ、水道工学、建築衛生学、病原細菌学、免疫学、労働衛生学、公衆衛生学、環境科学、疫学などなどの分野が次々と展開されてきました。衛生学はそうした分野を産み出しながら、常に新しい未知の分野を発見し開拓することにその意義があるのだと思います。
 生まれ月学には、生まれ月による成長発達や疾患発病の違いを見いだし、それが胎児期に暴露された未知の不顕性流行の影響を見ているのだと考えることによって、胎児期での環境要因の実体を探り、その予防対策にまで発展させることが出来るかもしれないとの夢があります。
 日本脳炎ウイルスの越冬を調べるために日本各地のコウモリを定期的に調べたことがあります。暗黒の洞窟でコウモリを追いかけながら、コウモリの祖先から、半端な翼をもったコウモリが出来始めた時に、それが生存に有利として選ばれ進化したとは考えられませんでした。
 永久歯の萌出順序や身長の差を調べていた時に、生まれ月との関係から突然変異の流行ということに思いつきました。今分っているのは僅かな事実に過ぎませんが、ある時代には新しい生物の出現となったような大変異の大流行があったのではないかと考えたのです。クジラやコウモリにつながるようなミッシングリンクは将来とも決して発見されることがないように思われます。遺伝子の僅かの変異でもその位置によっては生物の形態や機能を大きく変えるようなことが起こったのではないでしょうか。このことは今に動物の遺伝子の研究が進めばおいおいに、あるいは案外一斉に分ってくることだろうと思っています。
 今は病気を起こす遺伝子の研究が盛んです。しかし遺伝子の変異が何故起きたのか、何によって何処に変異が起きるのかといった原因を探るところまではまだ手が伸びていないようです。今はまだ対症療法のための手掛かりを探している段階なので、予防医学のレベルに到達するのはまだ先のことでしょう。生まれ月学はそこに致る謎を解く鍵を探そうとしているのです。若い研究者ならばこの問題をもっと身近に考えることが出来るはずです。
 それにはまず正確なデ-タを沢山に、かつ長期的に集めることが大切です。物質的な手掛かりを作って「物」に迫ることが必要です。私はその手始めとしてABO血液型を取入れてみました。若い研究者の方々によってさらに具体的な方策などを話し合い、練り上げて頂くことが出来れば「生まれ月学」も本物になるのではないでしょうか。
 バムサ会誌を読まれる方々がそのいとぐちを作って頂くこととなれば、これに勝る幸せは御座いません。