第34話 一つ目小僧地蔵
2007年01月08日 00:00
第34話 一つ目小僧地蔵 |
市内某所にある墓地のすみに「一ツ目小僧地蔵菩薩」と刻まれたお地蔵様が立っています。これは伝説ではなく、本当にいた「一つ目小僧」の霊をとむらうために作られたものです。 今回の話はさまざまな問題を抱えていますので、おもしろ半分に読まないでくださいね・・ |
決定的証拠の頭蓋骨発見 |
昭和7年(1932年)、お墓を作るために土を掘っていた人が、偶然頭蓋骨(ずがいこつ)を掘りだしました。昔は土葬(どそう:遺体をかんおけごと土に埋める方法)それ自体は決してめずらしいことではなかったのですが・・ |
かなりの大騒ぎになったようです。地元の人々が集まり、警察官までもが事実を確認し、その骨を別の場所に運びました。 |
その後は |
何度か場所を変えて埋葬されましたが、今はその正確な位置がわからなくなってしまいました。 お墓の持ち主はこの骨の主をとむらうために掘り出された場所に石の地蔵菩薩をたて、今でも欠かさずに供養を続けていらっしゃいます。 |
誰だったのか? |
一つ目小僧などと呼ぶと妖怪のようですが、妖怪などではなく、れっきとした一人の人間であったはずです。ただ肉体的(にくたいてき)障碍(しょうがい:最近は障害という字を使わないんです)を持って生まれただけだったのでしょう。 しかし |
「この人」が男だったのか女だったのか、 地元の人だったのか外からやって来た人なのか、 病気で死んだのか殺されたのか、 なぜここに埋まっていたのか いったいいつごろ生きていたのか 何才だったのか‥ |
すべては謎です。ただ、周囲の人々がまったく知らなかった事から見て、「この人」は昭和よりずっと前、おそらく江戸時代に生きていたのではないかと思われます。 |
まめこぞうは思う |
今と比べて人権に対する考え方がひどいものだった昔、「この人」の送った人生はなみたいていのものではなかったでしょうね。一般的な人と何かがちょっとでも違えば徹底的に差別された時代、特に障碍者に対してはかなりの差別があったようです。 体の部分ごとに不自由な状態を表す差別的な言葉があり、いちいちその状態をバカにするのにつかわれました。障碍が重度の場合は人前に出るだけで石をぶつけられる場合もありました。明治時代、野口英世さんがいじめられた話は有名ですよね。 子が生まれながらに障碍を持つのは、親や先祖が悪いことをした報い(むくい)だという間違った考えが広まっていましたので、家族までが差別されることもありました。 昔は畑仕事などで間違って目を傷つけ、それが原因で失明してしまうことも多くありましたが、それでさえも「片目」だ「一つ目」だとさげすまれたのです。そんな中で生まれつき目が一つだった「この人」はどうやって生活していたのでしょう? そんなことを考えるとまめこぞうはうるうるしてしまうのでした‥ ちょっと話がそれますが、まめこぞうが子供の頃、お祭りの見せ物小屋で顔が人で体が蜘蛛(くも)の「蜘蛛女」とか、あり得ないものを見せて金をとる興行(こうぎょう)の客引きが 「親の因果(いんが)が子に報い~・・かわいそうなのはこの子でござ~い」 なんて言ってましたっけ。差別そのものを売り物にしてるわけです。まぁ蜘蛛女なんてニセ物でしたけど。でも19世紀のロンドンでは「エレファントマン」と呼ばれた人が実在し、見せ物にされていました。洋の東西を問わず、人は皆同じなのでしょうか・・ |
他にも実在したかも |
一つ目小僧というと多くの人はこんな姿を想像しませんか?これはマンガの一休(いっきゅう)さんなどでおなじみの「寺で修業(しゅぎょう)する子供」、「小さな僧」、つまり「小僧」のかっこうです。だから一つ目小僧と呼ばれるのですが、なぜ一つ目さんは寺の小僧をしているのでしょうか。 |
「百鬼夜行」(ひゃっきやぎょう、またはひゃっきやこう)などという妖怪図鑑のような絵に一つ目小僧が登場して有名になったという理由もあるでしょうが、本当は日本のどこかに実在していた人なのではないでしょうか。 「単眼症(たんがんしょう)」といって、目が一つしかない状態で生まれる症例があるそうです。脳も左右に分離していないので生まれる前後に死んでしまうのだそうですが、まれに生き残る事もあったかもしれません。すぐ殺された場合もあったかもしれません。殺すのもかわいそうと思った人が生きたまま捨てたら・・多くは犬に食われてしまったそうですが、もしお寺の関係者が拾い、寺の中にかくまって育てていたとしたら… いくら寺であっても人目に触れさせるわけにいきません。昼は室内に隠れて仏の道を学び、夜には寺の仕事として境内(けいだい)の掃除をしていたかもしれません。 そんなところを誰かに見られてしまったら・・・夜のお寺に一つ目の子供がいたら…それはだれもがお化けや妖怪と思うでしょうね… 一般に一つ目小僧は突然現れて人をおどかすが、それ以上の悪さはしない、と言われているのはこのためかもしれません。 まめこぞうの勝手な想像ですが。 まめこぞうは国立の大きな病院で医師をしている友人からこんな話を聞きました。 「今でも体の形が大きく異なる子は時々生まれるんですよ。あるべき部分の数が多かったり少なかったり、ついている場所が違ったり。手術で何とかできる場合は何とかしますが、できない場合は・・・」 そうなんですか・・・そう言えば日本の神話にも登場しますね。イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれた子は人の形をしておらず、父であるイザナギノミコトはそれを流したと・・ 2千年以上前の神話時代とほとんど変わってはいないのですね。ベトナムの病院では、ベトナム戦争の枯葉作戦でダイオキシンを浴びた村で生まれたさまざまな形の赤ちゃんが今でもホルマリンづけで展示されています。その中には目が一つどころか目が一つもないもの、体のパーツがついている位置が大きくずれているものなどさまざまです。 ブラックジャックはピノコを救ったけれど、それはマンガの中です。 |
再び「この人」について |
座間の「この人」は小僧さんであったわけではないでしょうから「座間の一つ目小僧」と呼ぶのは正しくないと思います。しかしその名はこの「まめこぞうの旅」で紹介するまでもなく大変有名で、さまざまな本に掲載されて全国で出版されています。ただ、どの本も「この人」を妖怪のように扱い、おもしろがっているだけです。 まめこぞうもここにこんな事を書いているのですからその本を書いた人と同じなのかもしれません。しかしこれを読んでいるみなさんは興味本位でこれ以上「この人」のゆくえを探さないであげてください。 |
追伸 障碍者を取り巻く社会 |
まめこぞうの母は重度(じゅうど)身体障害者(ここではあえてこの字をつかいます)です。 片方のひざがまったく曲がりません。生まれたばかりの私を抱きかかえてころんだときのけがが原因でひざの関節が腐ってしまい、取り除いて金属棒で固定したのです。ころんだ瞬間私を手放すわけにいかず、道路に勢いよくひざをたたきつけたのだそうです。 脚が腐り始めたとき、医師から「良くて片足切断、悪ければ死ぬ」と宣告され、私を育てること以外のすべてをなげうって大手術を何度もしました。合計で何年間も入院していました。 自分が小さかった頃の思い出といえば、KO病院に通った日々と退院しても家で寝たままの母の姿です。 その母がやっと少し外に出られるようになった頃、私は母と手をつないで歩きました。うれしくてではなく、母の体を支えるためです。(役には立っていなかったかもしれませんが) ところが、買い物に出た時の街の人々の反応は子供の私が見てもびっくりするものでした。すれ違う人の多くが恐ろしい物を見るような顔をして母の脚をにらむのです。めずらしかったのでしょう。見られるだけなら何でもないのですが、知らない人々がわざわざ「あれ?びっこなの?どうしたの?」と声をかけてくるのには困りました。(注:あえて差別語を記載しました。事実そう言われたのですから。)外出すれば必ずと言っていいほど声をかけられました。中には「頑張ってね」という人もいたのですが、よけいなお世話です。普通に歩かせて欲しい。 何もしていないのにすれ違ってからこちらを指さし、差別語でののしった人もいました。母は毅然として戦っていました。 脚が曲がらないので座席に普通に座ることができないのですが、バスの中で立っていたら一見親切な人が席を譲ってくれました。母は感謝の意を表しつつ理由を説明して丁重にお断りしたのですがその人は「せっかく譲ってやったのによう!」と怒り出してしまいました。見かけだけの親切。 私は子供心に思いました・・なんてかわいそうな人たちなんだろう。 これは昭和中頃、東京都のまちなかでの話です。 そのちょっとあとから世間では古くからある数々の差別語を消し去るために「放送禁止用語」などといって使うことを禁止し出しました。障害はすべて「不自由」という表現にかえられました。全部ひっくるめて「身体障害者」という言葉が定着していきました。テレビでは「座頭市」なんか差別語だらけなので再放送できなくなってしまいました。何だか逆に不自由になったような気がしました。 差別語を消し去れば差別がなくなると思ったのでしょうね。ところがです。その頃から小中学校で流行し出した言葉は・・・ 「おまえは顔と頭が不自由だな」 「おまえ、身体(しんたい)じゃねえの?」 「あいつしんだぜ!さわんな、しんがうつる!」 そうです。身体障害者という新しい言葉そのものが差別につかわれ出したのです。 |
差別語を力でただねじ伏せても、人の中に差別する心がある限り、何も変わらないのです。 |
子供が悪いのでしょうか?学校が悪いのでしょうか? いえ、街の大人達による我が母に対する数え切れない差別(というか迫害に近い)を小さいときから見てきた私は違うと思ったのですが・・ |
それから数十年、世の中は障碍者にとってちょっぴり良くなってきました。母は30代で運転免許を取得し、特殊仕様車を操ってどこにでも行ってしまうようになりました。北海道も父と交代で運転して一周してきました。富士箱根伊豆や房総半島なんか数え切れないほど回ってほぼすべて知り尽くしています。もう70過ぎたというのに毎週何回か数十キロ離れたところまで通って仕事をしています。不思議な難病にかかって体が動かなくなっている父は街の人々に支えられて笑顔で生活しています。そういうことができる時代になったんです。 日本が今、「美しい国」になりつつあるということを感じます。 |
まめこぞう