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2010年12月11日(土)付

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鹿児島判決―40日かけ、見つけた無罪

検察側が死刑を求刑した裁判で、無罪が言い渡された。昨年5月に裁判員制度が始まって初のケースだ。裁判官だけで審理していた時代を含めても数えるほどしかない。人々の記憶に刻まれる判決になるだろう。[記事全文]

平和賞と中国―君子の外交を求めたい

オスロで開かれたノーベル平和賞の授賞式は、主役が不在だった。受賞者である中国の民主活動家、劉暁波氏は投獄されたままだ。妻の劉霞さんも軟禁状態で参加できなかった。関係者が[記事全文]

鹿児島判決―40日かけ、見つけた無罪

 検察側が死刑を求刑した裁判で、無罪が言い渡された。昨年5月に裁判員制度が始まって初のケースだ。裁判官だけで審理していた時代を含めても数えるほどしかない。人々の記憶に刻まれる判決になるだろう。

 鹿児島市内の自宅で夫婦が殺害された。強盗殺人罪に問われた男性は関与を否定し、被告と犯行を直接結びつける証拠はなかった。検察側は残された指紋や掌紋が被告と一致することを柱に、金に困っていた、アリバイがないなどの状況証拠を積み重ねた。

 これに対し鹿児島地裁は、被告が現場に行ったと認めたうえで、その事実を否定する被告はうそをついていると判断した。一方で、現金が残るなど強盗目的の犯行とするには疑問がある、警察の現場保存や証拠収集がずさんで別人の関与を否定できないなど、多くの問題点を挙げ無罪とした。

 有罪か無罪か。その判断はしばしば「円」を描く作業に例えられる。

 検察側が示した証拠とそれによって認められる事実が円としてつながれば有罪といえるし、どこかにほころびがあってつながらなければ有罪にはできない。きのうの判決理由からも、裁判員と裁判官が「線が途切れている」と判断したことがうかがえる。

 あわせて感じるのは、裁判員制度の導入に伴い、刑事裁判の原則が改めて確認・周知されたことの意義である。

 有罪が確定するまでは被告を無罪と見なす。書面でなく、法廷で直接見聞きした証拠に基づいて判断する。立証する責任はあくまでも検察官にある。その主張に間違いはないと確信できない場合は、被告の利益になるよう無罪を言い渡さねばならない――。

 従来の刑事裁判は真相の解明を重視し、結果として有罪に流れる傾向があった。近年「検察の立証が十分かを見極めるのが裁判の役割」という方向で見直しが進んでおり、今回の判決もその延長線上に位置づけられよう。

 警察や検察は、地裁が示した疑問や指摘を正面から受け止め、今後の捜査と公判に生かさなければならない。鑑識作業などの不手際への批判だけでなく、判決は、被告に有利に働く証拠を進んで提出しようとしなかったと、検察側の姿勢を厳しく追及している。反省材料は多いのではないか。

 この裁判は、裁判員の選任から判決まで40日間を要し、物心両面で市民にかかった負担は大きかった。日程や審理計画に問題はなかったか、どんなサポート体制をとるべきか、裁判所を中心に不断の点検が必要だ。

 しかし、背負う荷の重さを理由に制度を否定的にとらえるのは慎みたい。国民一人ひとりが刑事裁判に参加する意義を常に頭に置き、その実現のためにどんな工夫や手直しをしていくか。前向きな議論こそが求められる。

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平和賞と中国―君子の外交を求めたい

 オスロで開かれたノーベル平和賞の授賞式は、主役が不在だった。受賞者である中国の民主活動家、劉暁波氏は投獄されたままだ。妻の劉霞さんも軟禁状態で参加できなかった。

 関係者が誰も出席しないのは、1930年代にナチス・ドイツに出席を阻まれた平和活動家、オシエツキー氏の受賞以来という。

 劉氏は共産党独裁の廃止などを求める「08憲章」を起草した。「国家の転覆を扇動した」として11年間の実刑判決を受けている。中国では民主活動家や人権派弁護士の軟禁や監視が続いている。劉氏に関するものをはじめ、政府を批判する放送やネットは遮断されている。

 思想・信条を理由に投獄している良心の囚人を、一日も早く釈放するよう中国政府に求める。報道規制も、長い目で見れば、中国の発展への力をそいでいることを考えるべきだ。

 中国はノーベル賞委員会を非難し、ホスト国のノルウェー政府にも抗議して貿易交渉も一方的に中断した。

 授賞式に招待を受けた国のうち少なからぬ国が欠席した。中国に同調したとみられる。その顔ぶれをみると、ロシア、キューバ、サウジアラビア、イランなど、「言論の自由」という点で合格点にほど遠い国が集まった印象を受ける。アジアでも、パキスタンやベトナムなどが中国と同じような見解を示して欠席したのは残念である。

 ノーベル平和賞が、その時々の国際事情を反映し、政治色を帯びてきたのは事実だ。昨年のオバマ米大統領の受賞も、是非をめぐって議論があった。

 だが、様々な論議を通じて、平和の意味について共通の認識を深めていくことに平和賞の意義もあろう。

 南アフリカで人種隔離と闘ったネルソン・マンデラ氏や、米国の公民権運動指導者キング牧師らも、歴代の受賞者に含まれている。21世紀の大国である中国に求められるのは、こうした伝統に前向きに参加していくことだ。

 ノーベル平和賞は国際人権法の体系とともに、国際社会が長年かけて築き上げてきたものとして、各国が大切にしていかなければならない。

 その努力が求められるのは、授賞式に出席する国も同じである。

 来年、胡錦濤国家主席を招く米国のオバマ大統領は、人権問題で中国に注文をつけるべきである。日本も、首脳会談などで率直に意見を交換していこう。尖閣沖の衝突事件の時のようなあつれきや経済への影響を恐れて、菅直人首相は遠慮してはいないか。

 ノーベル平和賞に対抗するかのように、中国は「孔子平和賞」を作ったそうだ。孔子が教えた尊敬される君子の道を、中国は外交で実践してもらいたい。そして、日本や米国も君子の交わりで応じたいものである。

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