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[17375] 奇公子ヴェンツェル(転生オリ主)
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:56e33202
Date: 2010/08/25 20:49

はじめまして。

このサイトで皆さまの作品を読ませていただいているうちに、自分もSSを書いてみたくなりました。
そこで、稚拙な出来ながら、この場をお借りして投稿させていただきます。

若輩者ですが、どうぞよろしくお願いします。



旧題:最低系(仮)
 ※旧題の通りの内容のお話です。ご注意ください。


2010
3/18 チラシの裏板に投稿
5/23 改題、ゼロ魔板に移動
6/27 題名の一部を変更
7/22 更新再開
7/23 題名の一部を変更前へ
8/25 修正作業開始



[17375] 【第一部】第一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:56e33202
Date: 2010/08/25 20:39
 俺の名はヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフ。最近よく見かける転生者だ。

 この名前を見れば大体想像がつくと思うが、俺が生まれ変わった先は、かのゼロの使い魔の出落ち設定ことクルデンホルフ大公国である。
 名目上の独立国家であり、外交自治権はない。だが、小国には不釣合いなほどの独自の大兵力『空中装甲騎士団』を構えている。
 原作では、トリステイン貴族に多額の債権を持った成金の国として名前だけ登場した。
 王家の遠い親戚だそうだが、その程度の親戚関係の貴族なら掃いて捨てるほどいる。この家はたまたま運よく成り上がったのだろう。

 ついでに。どうも俺は、実に都合よく原作のルイズたちと同じ年代に生まれたらしい。原作に関われという啓示だろうか。まあ知ったこっちゃないが。

 流れるような濃い色の金髪。転生オリキャラを象徴するようなオッドアイ。美形二人の子としてこの世界に生まれて十余年。
 金だけはある大公家で成金ライフに溺れていた俺は、清々しいほどの超ピザ体形となっていた。マリコルヌがさらにデブったような醜さである。
 
 醜悪な肉の塊と化した俺。
 妹のベアトリスは最近まったく近寄ってこない。昨年「おにいさまなんか大っ嫌い!」と言われて以来、一言も口を利いていない。
 スカートめくりを初めとする数々のセクハラを繰り返したせいか、可愛いメイドさんも俺を見た途端「ひぃぃぃっ!」と鬼気迫る悲鳴を上げて逃げていく。
 あれだけ溺愛していた母にも次第に顔を背けられ、息子に甘かった父は俺を見る度に、憤怒の情を顔に浮かべるようになる有り様。

 どうしてこうなった……。 本来なら、今頃モテモテハーレムライフを実現しているはずだったのに……。
 転生したことにワクワクしていたあの頃が懐かしい。結局、駄目な奴は死んで生まれ変わっても駄目らしい。

 その日も、俺は自分が寝室として使っている二十畳ほどの部屋で悔し涙を流しつつ、お抱えの一流シェフが丹精込めて作り上げた飴細工をバリボリと食い散らかす。
 極めて無駄な行為だが、やめられないのだ。
 そうしていると、部屋のドアを軽くノックする音が響いた。誰だろう?

「ヴェンツェル、入るぞ」

 すると、重々しい響きと共に、ダンディーなおっさんと悲しそうな顔の若い女性が俺の私室へと入って来る。
 父のクルデンホルフ大公とトリステイン貴族出身の母だ。
 しかし一体なんの用だろうか。魔法の練習なら、家庭教師のダンケルク男爵が逃げ出して久しいが。……そんな息子の胸中を知ってか知らずか、大公が重い口を開いた。

「私は今まで、お前はやれば出来る子だと思ってきた」

 さすが我が父君。よくわかっていらっしゃる。俺はまだ本気を出していないだけだと、この人は言わずとも理解しているのだ。

「……そうやって、有りもしないお前の『やる気』に幻想を抱いていたのだ。私は」

 あれ?

「だが、お前は私たちの期待をことごとく裏切ってきた。クルデンホルフ家という、このトリステイン王国の中でも非常に重要な位置を占める家に生まれながら、お前は怠惰を貪ってきた。どれだけ待てども、お前が大公家の次期当主としての自覚を持つことはなかった」

 おいぃ?

「今まで甘やかして来た私にも大きな責任がある。だから、自身の手で今までの愚行のツケを払うことにしたのだ」
「う、うわっ!?」

 おっさんが手にした杖を振ると、俺の醜い巨体が浮き上がった。これは『レビテーション』か。

「獅子は子を千尋の谷へ突き落とし、這い上がってきた者のみを育てるという。私もそれを実行することにした」

 なん…だ…と…? まだ魔法を満足に扱えない俺を谷底へダイブさせるだと……。それなんて処刑。

「ごめんなさいね。もうわたしも、あなたをどうしたらいいかわからないの……」

 顔を両手で覆ってしくしくと泣き出してしまった母を、俺は呆然と眺めている。

 そんな一連のやり取りを影から見つめる一対の瞳に、俺は最後まで気がつかなかった。


 もう日が暮れる頃に父に無理やり馬車へ放り込まれてから、既に何時間もが過ぎていた。

 大公閣下曰く、「最低でもラインメイジになれ。あと痩せろ。それまで家に帰って来ることは絶対に許さん」だそうである。
 卑劣すぎる。俺ごときがラインメイジになるなど不可能だろうに。まして痩せるなどと!
 しかし、こんな治安最悪の中世ヨーロッパみたいな土地に一人しかいない嫡子を放り出すなんて、まともな精神では出来ない。…相当追い詰められていたのだろうか。
 転生してからこの方、随分好き放題わがまま放題やってきたからな……。これがヴァリエール家なら今頃カリンちゃんに烈風で切り刻まれてるだろうし、他の家でも普通は勘当されているレベルだろう。
 それからしばらくの間。俺はちょっと調子に乗りすぎたかな……。などと、今さらながら己を省みていた。まったく遅すぎるが。

「坊ちゃま。着きましたよ。起きてください」

 翌朝。俺が盛大にいびきをかいて寝ていると聞こえる可愛らしい声。目を開けてみると、我が家でメイドをしているアリスが俺の傍に立っていた。長い薄紫の髪が印象的な女の子である。

「アリス……?」
「目的地に……うぐっ……げぷっ……」

 突然、彼女は床に膝を突いて、盛大に胃の内容物を吐き出した。俺の頭に。

「あ……ごめんなさい……。こんなに長時間、馬車へ乗ったのは初めてでして……、一気にきちゃったみたいです」

 いや、ごめんとか、初めてきちゃったとか、そういう問題だろうか。こいつ絶対狙ってやったろ。俺の頭がタルタルソースとフルーツヨーグルトをいっぺんにかけたような惨状を呈しているのですが。
 とりあえず持っていたハンカチで美少女の吐き出した胃の内容物を拭い取り、俺は馬車から降りる。そこには我が家のメイド長ことサリアが渋い顔で突っ立っていた。
 彼女はアリスの母親で、父親は誰だか明かされていないが…十中八九大公のおっさんだろう。アリスは俺の異母妹ということになる。

「ヴェンツェル坊ちゃま。娘をお願いします」

 いや、お願いされても困るんだがな。この子まだ十歳だろ。俺じゃ面倒見切れないよ。

「……本当はお願いなどしたくないのですが―――今すぐあなたを置き去りにして娘を屋敷に連れ帰りたいのですが…。アリスを従者として付けろという、旦那様のご命令ですので」
「……むう」

 サリアはアリスの元へ行き、何事か会話を交わす。とても親子の仲がいいとわかる、ほのぼのとした光景だ。
 やがてサリアは名残惜しそうに馬車へ乗り込むと、ゆっくりと馬を歩かせ、この場を後にした。

 さて……、これからどうするか。
 ここはトリステインの南にあるクルデンホルフ大公国の南端。なぜこの地点なのか、父の意図はわからない。
 もし国境沿いに北西へ向かうと、タバサの父親が治めているオルレアン公領があるはずだ。そこへ向かうか?
 いや、やめておこう。あの地域には行きたくない。なにかと面倒がありそうだし、タバサ……いや、今のシャルロットと接触してもまるで意味がないだろう。
 かといってトリステイン領内に戻るというのも……。

 そのとき。ふと思い立つ。そうだ、どうせならいずれ浮き上がるっていう火竜山脈でも見に行くか。面白そうな生物がたくさんいそうだし。しばらくは家に帰れないしな。

 ああ、そうだ。ここでちょっと持ち物を整理しておくか。

「アリス、ちょっと荷物を見せてくれ」
「わたしの荷物を漁ってナニをするつもりですか? はっ……まさか!」
「なにもしないし、するつもりもないよ!」

 まったく……。これだけの事でこんなに疲れてたら後が持つのだろうか。

 現在の俺の所持品………新金貨一枚・スゥ銀貨一枚・ドニエ銅貨二枚・質素な服・杖・水&非常食
 現在のアリスの所持品………エキュー金貨五十枚・新金貨百五十枚・スゥ銀貨百枚・ドニエ銅貨百枚・質素な服・短剣・水&非常食

 ……まあ、なんというか、酷い。従者より金持ってないとかマジで洒落にならんぞ。貴族の威信なんてどこへ行ったのやら。
 ああ、ほとんど着の身着のままで放り出されたのが痛いな…。ていうかアリス金持ちすぎだろ。

「坊ちゃま。これから一体、どうなさるおつもりですか?」

 所持金を見つめたままフリーズした俺を不審に思ったのか、アリスがいぶかしむような視線を向けてくる。

「あー……、そうだな、まずは歩こうか」

 立ち止まっていても仕方ない。今はとりあえず前へ行くしかないか。俺はアリスを促すと、この宛てもない旅路へと歩みだした。

 はぁ……。いつになったら帰れるのやら。









 ●第一話「俺は転生者」









 ひとまず、火竜山脈に向かうことにした。あそこは、ここから南へ向かうとぶつかる形になる。とはいえまっすぐ向かう必要もあるまい。寄り道しながら行こう。

 それから俺たちはたまたま通りかかった商人のおばさんの馬車に乗せてもらい、数日後にはアルザス辺境伯領のストラスブールへと辿りついていた。
 川を越えたずっと先の南東方向には、『黒い森』がある。その北側がこの町の対岸にあるゲルマニアのバーデン伯領だ。

 ここはガリア北部最大の都市であり、ガリア対ゲルマニアの戦争では常に最前線となってきた。長い間、ゲルマニア系小国家群の一つ、ロートリンゲン公国が支配していたが、現在はガリアが支配している。
 ―とアリスが教えてくれた。いやはや博識だな、この子は。予想外にしっかり者だし。

 町の入り口まで来たところで、俺たちは西へ向かうというおばさんに礼を言って別れ、レンガの城壁で覆われた中世都市風の街へと足を踏み入れた。

「坊ちゃま。せっかく大きい街へ来ましたし、まずはお金を稼ぎましょう」
「いや……、お前がいくらか持ってるし、それで当面はしのげるだろ?」

 働く気などまるでない俺のセリフに、アリスは露骨に眉をしかめた。

「それではいけません、坊ちゃま。お金は働かなければ増えないのです。ただ食っちゃねして惰眠を貪っていたあなたにはわからないかもしれませんが、わたしたち平民は労働をして、その対価に生活するための賃金を得ているのです」

 そりゃいくらなんでもわかってるけどさ……。こうもリアル貴族ニート生活を味わってしまった後ではね。なかなか辛いものがあるよ。

 俺のやる気のない態度に業を煮やしたのか、彼女は一人でスタスタと歩いて行ってしまう。歩くのが速すぎる。俺はヒイヒイ言いながら彼女について行った。
 
 その後、アリスは街角の老婆が切り盛りする料理屋に使ってもらえることとなった。
 一方の俺は半ば浮浪者状態である。彼女を怒らせてしまったせいで、料理屋の下宿にすら入れてもらえないのだ。
 まさか、大公国の公子から一気にストリート・チルドレンへ転落するはめになるとは…。


 街外れで独り頭を抱えていると、突然後ろから思いっきり蹴り飛ばされた。なんの備えもない俺は容易く吹き飛び、舗装されていない砂利道に頭から突っ込んでしまう。

「なにもんだお前! 見ない顔だが、よそ者か!?」

 顔についた泥をはらって声がした後ろを振り返ると、そこには明らかにガラの悪いガキの集団が出現していた。どいつもこいつも腹に一物抱えていそうだ。

「自分はしがない通りがかりの肥満小僧だ。出来ればそうっとしてやってくれ」
「そうはいかねえ。この辺りは俺ら『シュトラースブルク・クリス団』が締めてんだ。縄張りにいきなり現れたよそ者がどんな奴か調べるのは、俺の仕事でな!」 

 ボサボサの茶髪を生やした痩せぎすの少年が前に進み出てくる。元々の顔は悪くないのだろうが、どうも薄汚れていて汚い。どうやら彼が、この集団の指揮権を持っているらしい。

「そうはいうがな……」

 一体なにがしたいのだろう、こいつらは。ただ俺をぼこりたいだけなら、今すぐやめてもらいたい。

「クリス、とりあえずぼこっちまおうぜ」
「そうだそうだ、こういう怪しい奴は絶対なにか悪さすんだべ!」

 悪さしてるのはお前らじゃないのか……? ああもう、なんか無駄に疲れるな。

 ふっ……。だがな、俺はこれでもメイジなんだ。こんなクソガキどもには負けないぜ!
 俺が懐から杖を取り出すと、子供たちの顔が途端に恐怖に支配されるのがわかる。まあ、普通はそうだろう。並みの平民、まして子供がメイジに対抗できる道理はない。
 ……これがはったりでなければ、だが。
 ご存知の通り、俺は魔法をろくに扱えない落ちこぼれである。つまり、このはったりが失敗した場合―ぼこられるのが確定するわけだ。果たして、奴らはどんな対応をしてくるか……!

「怖がるな!あんなデブはたとえ貴族だろうと恐れることはねえ!取り囲んでやっちまえ!」

 はい、はったりは見事に失敗です。子供たちは四方に分散しながら走り寄ってくる。俺はきびすを返して逃げようとするが、到底逃げ切れるはずもない。
 背中に石が当たり悶絶しているうちに追いつかれる。そして飛んでくる理不尽な暴力の数々に抵抗も出来ず、俺はあっさりと捕縛されてしまった。





 あれから更にボコボコに痛めつけられた俺は、子供たちのアジトらしき廃屋へと連れて来られた。所々床が抜け、家具は無造作に転がされている。カビ臭さで頭で痛くなりそうだ。
 俺は後ろ手に縛られ、これまたぼろい椅子に座らされる。そして周りをガキどもに固められていた。これでは逃げる余地すらない。

「お前はどこの貴族だ?」

 やせぎすの少年が問いかけてくる。普通のトリステイン貴族ならまず答えないだろうが、生憎俺はゲルマニア系トリステイン貴族。
 さらに、中身は二十一世紀初頭の日本人だ。名誉なんぞより命が惜しいのである。

「俺はヴェンツェル・フォン・クルデンホルフ。クルデンホルフ大公国の長男だ」

 その答えに、一瞬場が固まる。だが、数刻の後には子供たちの大爆笑で廃屋が埋めつくされた。

「きゃははははははは!!お前、冗談だけは上手いな。久々に腹の底から笑ったぜ!」

 冗談ではない!とあの赤い人のように言いそうになったがとりあえず堪える。やせぎすの少年―クリスは顔は笑っているが、ややつり上がった目はまったく笑っていなかったからだ。
 ヤバい、と思ったのもつかの間。クリスはなぜか少し考えるそぶりをする。そして言った。

「……今日はこの辺にしてやるよ。だがよ、あんまり変なマネすんじゃないぞ。俺の仲間はそこら中にいるからよ。ルーデル、そいつをつれて行け」
「了解でやんす」

 なんか小さいのが現れたな。クリス少年の呼びかけに応じたこの少年、どうにも三下な雰囲気を醸し出している。見た目といい、口調といい。

「ほれ、さっさと歩くでやんす」

 三下は俺を縛っていた縄を解きいた。そのまま出入り口のところまで小走りに移動し、体全体を使ってドアを開けた。すると、なにやら赤い光が差し込んでくる。
 まったく気がつかなかったが、いつの間にやら夕方になっていたらしい。

 ……とりあえず、助かったのだろうか。廃屋の出入り口に差し掛かり、俺が安堵のため息を吐いたのと同時。やせぎすの少年が再び問いかけてきた。

「おい。さっきの話、嘘はないだろうな」

 なんでまた。思わず振り返っちまったよ。周りを見ると、彼の取り巻きの子供たちも若干驚いているようだ。

「嘘は吐いていないさ。そんなに器用な人間じゃないんでね」
「……そうか」

 俺の答えに、彼はただ静かに頷くだけであった。



 *



 『シュトラースブルク・クリス団』のアジトから開放された俺は、とりあえずアリスのいる料理屋を目指していた。
 さすがに腹が減ったし、体中が痛いのだ。なにか手当てをしてもらわないと。こういうとき、水メイジがいると便利なんだがなあ……。


「『水』の回復魔法?使えますよ」

 おでれーた。おでれーた。あまりに驚いたので、思わず二回言ってしまった。

 あれからアリスの元へ移動した俺は、嫌な顔をされつつもなんとなく聞いてみたのだ。「魔法使えない?」と。その答えが三行上のセリフである。おでれーた。

「まだトライアングルですけどね。おと……いえ、旦那様がこっそりわたしに魔法を伝授してくれていたのですよ。この短剣が杖代わりになります」

 そういって彼女はエプロンの下のスカートのすそをたくし上げ、太ももに備えつけられた短剣を取り出した。構わず太ももを凝視していたらすごい睨まれたので、慌てて視線をそらす。
 彼女が手にしているのは、刀身の短いほとんどナイフのようなダガーだ。しかし、トライアングルって……。
 ちなみに、大公のおっさんは水のスクウェア。母さんは土のスクウェア。酷い夫婦だ。そういえばベアトリスは……なんなんだろうな。

 俺はといえば、『レビテーション』はともかく、『フライ』は三十センチ浮くのがやっと。アリスはこんな無能とは桁違いだ。才能の差ってあるんだよ。
 俺はオリ主で最強。少しの修行ですぐスクウェア。俺TUEEEEE!!!!!……そんな風に考えていた時期が僕にもありました。

「わたしが従者に選ばれたのはこのせいでしょう。魔法は便利ですが、こういう厄介ごとに駆り出されてしまうというのが難点ですね」

 彼女は心底迷惑そうな口調で呟く。悪かったな。生きる厄介ごととは俺のことよ。
 ……ん、そうだ、ずっと前からアリスに言いたいことがあったんだった。

「ところでアリス」
「はい?」
「俺をお兄ちゃんと呼んでくれ。お兄さまでもいいぞ」
「すみやかに息を引き取ってください」

 腹違いとはいえ、妹に死ねって言われた……! ベアトリスにもまだ言われてないのに……!!
 こちらは単に口をきいてもらえないだけだが。

 さらにアリスを怒らせてしまった俺は、また料理屋から追い出されてしまった。さて、どこかいい軒先はないものかね……。

 あ、治癒魔法かけて貰うの忘れてた……。わき腹が痛い……。





[17375] 第二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:56e33202
Date: 2010/09/03 18:09
「カドゥドゥルドゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!」

 ……なんだ、これは……。ああ、ニワトリか。ハルケギニアのニワトリはこう鳴くんだった。そう聞こえているだけかもしれないが。

 ここはガリア王国の地方都市・ストラスブールの町外れにある牧場の端っこだ。三日前の晩、寝床を探して散々さまよった末に、このワラの積まれた一角へとたどりついたのだ。これが意外と温かい。
 ああ、いつになったらこの街から脱出できるのだろうか。
 今の俺は一文無し。お金を保持し、管理しているのは従者のアリスである。だが、彼女は老婆の経営する料理屋が気に入ってしまったようで、なかなか動こうとしない。
 彼女が移動したいと言わない限り、俺はどこにも行けない。旅をするにはそれなりの金が必要だ。ああ、なにか楽で稼げる仕事はないものか……。とりあえず街の中心部へ行ってみよう。

 ところ変わって、ここはストラスブール市街の中心広場。大きく立派な噴水があり、定期的に大量の水が噴き出している。
 広場の北側には軍の詰所があり、西側には商店が軒を連ねる大通り。ちょっと南へ行くと領主の館。東の川沿いには……なにがあるんだろう。まだ行ったことがない。
 アリスがいる料理屋は大通りを少し入った左の曲がり角にある。昔から店を出しているらしく、その歴史は少なくとも千年にはなるそうだ。さすがに本当かどうか疑うが。

 噴水脇のベンチに腰掛けていると、目の前を兵隊さんたちの列が通っていく。どうやら昼食をとるようだ。俺も腹が減ったな……。ダメ元でアリスのところへ行ってみるか。
 ここ最近ほとんど食事をとっていないせいか、ちょっとだけ萎んだ腹を気にしつつ、俺は老婆の料理屋へと足を運んだ。

「お前に食わせるタンメンはねえ! ……なのです。うちは文無しの浮浪者にエサを恵んでやる慈善事業者ではないので」

 店に入るなり俺を見咎めたアリスがキツい一言を言い放つ。…こいつ、完全に従者とかやる気ないだろ。家畜扱いされてるし…。

「アリスや、『タンメン』ってなんだい?」
「なんだかよくわからないけど、唐突に頭へ浮かびました。意味はないと思います」

 今アリスと会話しているこの老婆が、料理屋『午後の一息亭』のミケーネばあさんだ。なんだか謎の多い人物である。
 アリスは渋ったが、ぼろぼろの俺を見かねたらしいミケーネばあさんが俺にスープとパンを出してくれた。ありがたい。スープと人の温かさが五臓六腑に染み渡る……。

「お代はアリスちゃんに付けとくからね」

 前言撤回。やはりこの老婆も世間に屯する鬼の一人に過ぎなかったんだ……! なんて世知辛い世の中だ……。
 しかし、ああクソ、スープうめえな。底の浅い皿を手に持ちかきこむように食べていると、あっという間に皿は空になった。

「ミケーネさんは商売人ですからね。その辺しっかりしてますよ」

 老婆が材料を取りに店の奥へ引っ込むと、アリスは洗った皿を布で拭きながら言った。俺の食事代を押し付けられたのだが、あまり不機嫌そうには見えない。

「なあ、アリス。いつまでこの街にいるんだ? 正直もう先へ行きたいんだが」

 来て早々ガキの集団に襲われるわ、ワラで寝るはめになるわ。もうそういったろくでもない事態は勘弁してもらいたい。
 だが、予想していた通り、若草色のエプロンをつけた少女は、頭の後ろでくくった薄紫の髪を横に揺らす。

「もう何度目ですか、その話。わたしはしばらくこの街から出るつもりはありませんよ。行きたければあなた一人でどうぞ」
「……わかったよ。じゃあな」

 これ以上言っても無駄なのは、彼女と二人で過ごしたごく短い時間でも十分に理解できた。一度決めたらテコでも動かない。かなり頑固な性格なのだ。
 俺はさっさと諦めて、老婆の店を後にした。

 店を出た俺は、またしても中央広場でベンチに腰掛けている。さて、これからどうするか。
 なにか仕事を探すか? しかし、俺はせいぜい十歳のガキだ。おまけに、メイジのくせに魔法もろくに使えないときた。こんな遠方の町で雇用を得るのは絶望的である。
 どうにかならないもんかなあ……はあ。
 そんな風にうつむいてため息を吐いていると、正面の方から声が聞こえてきた。

「よう、豚野郎。こんなところでどうしたんだ?」

 顔を上げると……そこにいたのは、いつかのやせぎすの少年、クリスだった。ただ、今日の彼はいくらか小奇麗な格好をしている。ボサボサの茶髪も手入れされたようで、今はツンツンした部分が下を向いていた。
 あの時の取り巻きはいないようだ。彼自身も、攻撃的な殺気を放っていない。むしろどこか嬉しそうにさえ見える。またいきなりリンチされる危険性は低そうだ。

「ああ、君か。いや、職がなくてね。こんな面じゃ雇ってくれる場所もないし。どっかに仕事はないかなぁ」
「ふーん…………。よし、ちょっとこい」

 俺が自嘲気味に現状を話すと、彼はなにか思い当たる節があるらしい。少し考え、俺を促す。
 逆らうとまた酷い目に遭わされるかもしれない…。とりあえず、俺は逆らわずについていくことにする。









 ●第二話「ピザのヴェンツェル」









 クリスに連れられ、俺はストラスブール市街の裏道を歩いていた。

 トリスタニアにしてもそうだが、こういう街は大通りから一歩奥に入ると、あっという間に現代地球でいうスラム街化するのが面白い。まあ、それにしてもトリスタニアはちょっと酷すぎるが。
 俺が生まれ育ったクルデンホルフ市は比較的最近に建設された計画都市であり、有事の際の防衛力よりも商業的な利便性を優先している。
 ゆえに、一般的なハルケギニアの都市とは違い、市街地を覆う城壁といったものはない。さすがに中心部のクルデンホルフ城そのものは城壁で覆われているが。

 ろくに舗装もされていない道を進んでいく。やがて、ガリアとゲルマニアを隔てる国際河川、ライン川のほとりへとたどり着いた。

「もうすぐだ」

 クリスがそう言うのと、俺の目の前に巨大な橋らしき物の土台が姿を現すのはほぼ同時であった。たくさんの人々が作業を行っている。

「すごいだろ、これ。俺の親父が参加して作ってるんだ。最近中止になりかけたけど、二日前からまた工事が再開された。あ、向こうに人が見えるだろ?あれはゲルマニアのバーデン伯爵が雇った作業員の人たちだ」

 確かに川の対岸にも同様の建造物があって、そこにも多くの人間がいるのが見えた。

「へぇ……、こいつはすごい。完成したら物流が一気に速くなりそうだな」

 というより、なぜ今まで橋がなかったんだろう? 川の向こうの町もそれなりの規模があるようだが……。もしくは橋が流されでもしたのか。

「今は船着場から一回ずつ船で荷物を渡してるから効率が悪い。けど、あれが完成すればそんな手間はかからなくなる!」

 まるで自分のことのように嬉しそうに話すクリス。
 すると彼はなにかを見つけたらしく、俺を置き去りにして小走りに走っていった。……走られると非常に困る。俺はまったく運動神経がないのだ。

「ヴェンツェルとかいったな。娘から聞いたがお前さん、仕事を探しているそうだな?」

 二メイルは裕にあるであろう体躯、ぶっとい腕、なぜか顔を横断する切り傷。どう見てもカタギの人間ではなさそうな巨漢が、俺の目の前であぐらをかいている。
 クリスに紹介されたこのいかついおっさん、いやミハイルさんはクリスのお父さんらしい。……ん? 娘って誰だろう。

「で? どうなんだ。ここで働くのか?」
「は、はい」
「……見ての通り、俺たちの仕事は橋を作ることだ。重い資材を運ばなきゃならねえし、それこそ一日中働きづめになるぞ。それでも文句はねえだろうな?」

 もうここまでくればしょうがない。雇ってくれるというなら最後までやるだけだ。

「はい! よろしくお願いします!」
「よし、いい返事だ。ついて来い。簡単に作業を教えてやる」

 こうして俺は仕事を得たのであった。

 ……あれ? そういえば、クリスはどこに行ったんだろうか。



 *



 ライン川の橋建設に見習いとして参加してから、既に一週間が過ぎていた。

 相変わらず俺はワラで寝泊りしている。そろそろ牧場の人間に見つかって追い出されやしないか、かなり不安だ。実際、昨夜はやばかった。こういうご時勢、不法侵入者は殺されても文句を言えないのである。
 アリスはといえば、相変わらず料理屋で客に愛想を振りまいている。最近では彼女目当てで来店するその筋の紳士もいるそうだ。

「おい新入りぃ! こっちへ釘持って来い!」
「新入り! こっちは砂利三袋だ!」

 次から次へと飛んでくる作業員たちの声。俺は『レビテーション』で角材などの建築資材を運び、体の脂肪を揺らしながら、あっちこっちへ駆けずり回っている。
 俺がメイジだといってもミハイルさんは驚かなかった。それどころか、むしろ単に有用な人材だと考えたようだ。これは他の作業員も同じらしく、俺はいいようにこき使われている。

 『レビテーション』は俺が満足に扱える数少ない系統魔法だ。どうしてこれだけが自由に使えるのか。
 あれは、数年前のこと。その頃の俺は、いつもメイドさんのスカートをなんとかしてめくりたかった。そこで、なにか方法はないかと三日三晩考えた。
 そして四日目、ついに『レビテーション』でスカートのすそを浮かせるという方法を考えついたのだ。
 すぐに俺は『レビテーション』をスカートめくりに使えるようにするため、血の滲むような特訓を繰り返した。
 その結果、物を持ち上げるときにかなり繊細なコントロールが可能となった。それはすなわち―――ゆっくりと、たとえば洗濯物を干しているメイドさんに気づかれぬよう、スカートをめくることができたのだ。それから始まる俺の英雄譚と、鮮血の結末はわざわざ語る必要もないだろう。

 ……というわけで、物を浮かす魔法だけは得意なのである。
 とはいえ、ただ浮かせて運ぶと精神力を食うし、しかも遅い。荷物を押して自分の足で運ばなくては、迅速に事を進めることができない。ハルケギニアの魔法は決して万能ではないのだ。応用次第ではものすごく有用ではあるが。 
 しかし、普通は大人数人がかりで運ぶ建築資材を子供一人で運べるのは、かなり作業効率に良い影響を与えるようである。おかげで俺はてんてこまいの状況。そして季節は初夏。ハルケギニアの気候が日本より寒冷で空気も乾いているとはいえ、俺はピザ体形なのでもう汗だくである。

 ああ、今日も慌しく一日が過ぎていくのか……。

 そうして、その日の夕方。いつも通りくたくたになった俺は、しばらく休んでから『午後の一息亭』でアリスに飯をたかろうと考えていた。
 俺が働き始めてからのこと。夜遅くに店に行くと、なぜか彼女はすんなりと晩飯を出してくれるようになった。それはまかない飯と変わらないものではあったが、疲れきった体に一杯の温かいスープは大変ありがたい。
 うん。贅沢をいうなら下宿にも入れてほしいものだが……。もうずっと野宿はつらいです。


「よう、ヴェンツェル。相変わらず情けない豚面だな」

 もう人もまばらな休憩所で水を飲んでいると、いつかのクリスが俺に声をかけてきた。そういえば、彼と会うのは仕事を紹介してもらったとき以来だな。

「クリスか。その節は仕事を紹介してくれてありがとうな。もうちょっとしたらワラじゃなくてちゃんとした屋根の下で寝泊りができそうだよ」

 俺がそう言うと、クリスは驚くというよりは呆れた表情になった。

「…お前、貴族のくせにずいぶんと…アレなんだな…」

 そんな顔をしなくたっていいじゃないか…! 俺だって、好きでやってるんじゃないんだよ…。

「親父が家でお前のことを褒めてたよ。よく投げ出さずにやってるってさ。最初は一日で逃げ出すもんだと思っていたみたいだ」
「まあ、他に俺ができる仕事はないしな。こんな怪しいガキを使ってくれたことに感謝しなきゃならないくらいだ」

 それからしばらくクリスと他愛のない会話に興じていた。この町に来た頃に襲ってきたときとは別人のような話しぶりだ。一体なにがあったのだろう。俺はそのことについて切り出してみることにした。

「なあ、クリス。お前たちは最初、俺を集団リンチしてくれたよな。あれは一体なんだったんだ?」

 すると、俺の横に腰掛ける茶髪の少年はばつの悪そうな顔になった。

「ああ、いつか謝ろうと思ってたんだが……。あれは悪かったな。許せ」 

 やけにフランクな謝り方だな、おい。

「でな、なぜ俺たちがあんな徒党を組んでたのか。順を追って話すと―――」

 クリスの話では、数年前からストラスブール周辺に、他所の地方からガリア人が大挙して押し寄せているらしい。は人口の今では半数近くがガリア人になってしまったそうだ。
 当然ながら、新参者の彼らはこの町で生活基盤を持たない。町の外で畑を起こそうにも、そこはすでにゲルマニア系の先住者が占有している。
 元々ストラスブールは在地の人間で回ってきた町。急激な人口増加に対応できるはずがない。
 次第に、あぶれたガリア人たちが犯罪に走るようになった。それに対抗してゲルマニア系住民による自警団、悪くいうと移民排斥組織が結成されたらしい。
 そうして何度か繰り返された抗争の結果、対岸の治安悪化を察知したゲルマニア側のバーデン伯領の住民がそれまでライン川にかかっていた橋をすべて落とし、連絡路を絶ってしまったという。
 こうなっては、今まで経済をゲルマニアとの商取引に依存していたこの町はなりたたない。なんとか船を渡してはいるが、それも非常に限定的でかつてのような物流は見込めない。

 これを見かねたアルザス辺境伯が、中央広場の真横にあった公園を潰して伯爵軍の詰め所を設営。治安維持に当たらせた。
 だが、それは治安の改善には寄与するも、問題の根本的な解決にはならなかった。辺境伯は更なる対策を迫られた。

 そこで、アルザス辺境伯はゲルマニアのバーデン伯爵と交渉し、在地貴族間における中立条約の締結、ガリア人のゲルマニアへの移動制限協約、落とされた橋に代わる新たな橋の共同建設などに乗り出すこととなった。
 こうして始まった橋の建設は初めこそ順調に進んだ。ところが、意思疎通の不備、ガリア人の不法越境の問題などにより交渉会議が紛糾。一時は中止寸前まで追い詰められたという。
 そのせいで工事の現場責任者―ミハイルさんは仕事からあぶれ、少々荒れていたらしい。荒れた父親を見たクリスは、近所の子供たちを従えて『シュトラースブルク・クリス団』を結成。諸悪の根源であるガリア人と思わしき者に攻撃を加えていた。
 俺がこの町にやって来たのはちょうどこの頃だ。あのとき俺をあっさり解放したのは、言葉のイントネーションがガリア人のそれとは明らかに異なることに気づいたからだという。よくわかるなそんなもん。
 
「……へぇ、ずいぶんと詳しいんだな」

 正直驚きだ。言い方は悪いが、そこらへんの平民の子供が集められる情報量ではないと思う。

「誤った情報はゴミよりも価値がない。けど、有用な情報をうまく選別して使えば、どんな宝石よりも値打ちのあるものになる。伊達に酒場勤めしてるわけじゃないんだぜ?」

 まあ、勤め始めたのは最近だけどな。といって、クリスは笑う。
 酒場で働いていたのか。たしか原作でもルイズが『魅惑の妖精亭』で情報収集してたな。酒の席では意外と大事なことをべらべらと喋ってしまうみたいだし。

 しかし、なぜガリア人がこの町に流れ込んだのだろう。俺が今まで通過してきた場所はそれほど変わった様子はなかったが……。
 もしや、ガリアの誰かの差し金? しかし、こんなリュティスから遠く離れた川沿いの町を困らせて、一体なんの得があるんだ。
 考えられるとすれば…。間接的にゲルマニアを挑発している、とか?
 ……ああ、もう。俺じゃ難しいことはさっぱりわからん。

「……なに難しい顔してるんだ? ただでさえ不細工な顔が歪んでるぞ?」
「不細工な顔がどれだけ歪もうが大差ないだろ」
「…ぷっ、あははは! たしかにな!」

 そう言ってころころと笑うクリス。年相応のあどけない顔つきだ。…本当にあのときの荒れっぷりはなんだったのだろうか。別人じゃないだろうか。



 *



 その後、クリスと別れた俺は『午後の一息亭』へと向かう。すっかり日はとっぷりと暮れ、出歩く人もまばらだ。
 もう店は閉まっているかと半ば覚悟していた。だが『閉店』のプレートは下がっているけれど、まだ中で灯りはついている。鍵も閉められていない。よし。入ろう。俺は恐る恐る店内へと足を踏み入れる。

「……遅かったじゃないですか。もうくたばったのかと思ってましたよ」

 カウンターのところにはアリスが一人でいた。ミケーネばあさんの姿はない。もう寝てしまったのだろうか。

「あいにく生命力だけはゴキブリ並みでな」
「へぇ……、じゃあ、試してみますか?」

 そう言って、太ももに括り付けられた短剣を取り出すアリスはなんだかむしょうに怖い。なんだなんだ、小便ちびりそうだぞ。

「よせっ、はやまるな!」
「……冗談ですよ。これどうぞ」

 俺の前に差し出されたのは、いつもと同じ一杯のスープ。だが、なんだか中身が若干豪華になっているような……。肉なんて久しぶりに見た。

「これは……?」
「投げ出さずにちゃんと仕事に通っているみたいなので、これはご褒美というやつです」

 おおそうか、それはありがたい。さっそくいただこう。俺はスプーンを手に持ち、いざスープへ手をつけようとする。
 そのときだった。

「おや、ヴェンツェル坊やかい。あれ、工事現場のあの子と一緒じゃなかったんかいね?」

 ミケーネばあさんは店に入ってくるなり、なにかよくわからないことを口にした。

「ミケーネさん……。『あの子』ってなんです?」
「ああ、さっき工事現場のところを通りがかったときさね。ヴェンツェル坊やと誰かが楽しそうに話してるのさ。あたしゃ気になってね、ちょっくら覗いてみたのさ。そしたらどうだいあんた、坊やがやけに可愛らしい女の子と一緒にいるじゃないか!」

 はぁ? クリスは男だっつの……。まったく、ばあさんのもうろく話には付き合ってられないや。早くスープを……、ってあれ? ない……?

「あの…、スープは?」
「知りません」
「いやだって、さっきまでここに」

 俺は目の前のカウンターを指差す。しかし、アリスはそこをまったく見もせずに口を尖らせた。

「自分で食べちゃったんじゃないですか? ほんと食い意地張ってますね。ていうか片付けの邪魔なんでさっさと消えてください」
「がぼがあがっぼぼ!?」

 短剣!? 一体なにを……、ああああ! 水が! 水が頭にまとわりついて……そ、そんな……! なぜだ、なぜこんな……!

 息が、でき、な、い……。
 

 



[17375] 第三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:56e33202
Date: 2010/11/27 22:32
 この街へやってきて、既に三週間。急ピッチで進められてきた橋の建設はもう佳境に入っている。

 今まで、工事は順調に進んできた。さっき聞いた話だが、橋の本体はパーツごとにあらかじめ他所で製作が進められていたらしい。
 今はどこからかやってきた土メイジたちが魔法で組み立て作業をおこなっている。
 俺たちがやってきたのは、横幅が十五メートルにもなる橋の土台工事と、道路整備、柵の製作などだ。メイジを雇うと人件費がばかに高い。なので、そういった下仕事は平民を使うという。

 いやしかし。この二週間、我ながら本当によく働いた。おかげで腹が一センチはへこんだように思う。
 そういえば一週間前、ワラで寝ているのをとうとう牧場主に見つかった。ナタを持った鬼気迫る顔のおっさんに追いかけられ、ワラを撒き散らしながら深夜の街中を逃げ回ったときはどうなるかと思ったが……。なんとか無事に生きてこれた。
 それからは、ミハイルさんが貸してくれたテントを工事現場の片隅に張って寝泊りしている。アリスはもう絶対に下宿へ入れてくれる気はないらしい。

 平民の作業員たちに残された最後の仕事、それは後片付けである。今日の俺は作業員のハインツじいさんと共に、馬車で重い建築資材や工具の残りを市内の倉庫へ運んでいた。
 倉庫は市街地の外れ、城壁のすぐそばにある。無骨なレンガ造りの建物の扉はあらかじめ開けられているので、俺はそこで『レビテーション』を使い、重い荷物から優先的に運んでいく。

「いやぁ、ヴェンツェル坊主がいてくれるおかげで助かるわい。そろそろワシも体力の限界を感じておったからのぉ」

 限界と言いつつ、かなりの重量がありそうな土嚢を持ち上げる老人。俺じゃ絶対無理だわ。

「いやいや、ハインツさんならまだまだ現役でやれるでしょう?」
「全盛期のワシはこんなものではなかったぞ? 昔は力を入れすぎて、スクウェアメイジが何重にも固定化をかけた石の壁に素手で穴を開けてしまったこともあったのにのう。何もかもが懐かしい……」

 どんだけだよ。

 一通りの作業を終え、俺たちは工事現場へと戻ってきた。
 すると、メイジ以外の作業員たちが一箇所に集まっているのが見えた。大人たちの輪の中心にはミハイルさんがいる。彼は俺たちを見つけるなり、その太い喉笛から噴き出す大きな声で空気を震わせる。

「戻ってきたか、ヴェンツェル、ハインツ。よし、これから特別給金の支給を始めるぞ!」
「「「「「おおおおおおおおお!!!」」」」」

 ミハイルさんが足元に置かれていた給金袋を手にすると、男たちの熱狂的な野太い声が辺りに広がった。中には服を脱ぎ捨て、上半身裸になる者までいる。
 俺たちは基本的に週給制で働いている。だが、それとは別に、仕事の成功時にはちょっと多めの特別な給料が支給されるという。その人間の働きぶりによっても増減するらしく、ある意味出来高報酬の側面があるようだ。その分、普段の給料は若干安い。
 次々と男たちがミハイルさんから袋を受け取っていく。そして、最後に俺の番となった。今までの給料は週につき二百九十スゥに十五ドニエ。実は他の人より若干多くしてもらっていたようだ。
 一体、特別給金はいくらになるのだろう。

「さて、最後はヴェンツェルだな。今までよくやったな。出来ればお前にはずっと働いてもらいたいところだが……、まあ、お前にはお前の事情があるようだし、無理強いはせんよ。ありがとうな」
「いえ、こちらこそありがとうございます。おかげで良い経験が積めました」
「こんな場末の工事現場でなにか得られたのなら、それは大変喜ばしいことだ。よし、これを受け取れ」
「ありがとうございました!」

 ああ、ミハイルさん、最初明らかにカタギの人間じゃないとか思ってごめんなさい。こんなに良い人だったなんて。人を単純に見かけで判断しちゃいけないね。
 袋は……、これは後で開けよう。

「坊主、仕事収めにワシと酒でも飲まんか」

 給金袋を持ってアリスの元へと向かおうとしたとき、背後からハインツじいさんが俺に声をかけてきた。
 こうしてじいさんに誘われるのは初めてではない。ちょっと前にも同様に誘われた。だが、俺は酒が嫌いなので、普通の料理屋である『午後の一息亭』へ向かうことを提案した。だが、なぜかじいさんが頑なに拒んだので、結局その話はお流れになってしまっていたのだ。

「いいですよ。行きましょうか」

 まあ、もうすぐこの街を出るんだ。このくらいなら付き合ってもいいだろう。
 俺は特になにも考えず、ハインツじいさん曰く、この街一番の酒屋であるという『うさぎ小屋』へと向かうことにした。



 *



「へぇ、これまたロr……紳士が好みそうな店だな」

 『うさぎ小屋』は、年端も行かぬ少女たちがお酒を注いでくれるサービスが売りの、まさに紳士御用達のお店のようだ。あちこちで様々な衣装に身を包んだ少女たちが店内を忙しそうに駆け回っている。
 この店には鉄の掟があって、お触りを初めとしたわいせつ行為は一切禁止らしい。ここはあくまで「少女と心で触れ合いたい紳士と、お金を稼ぎたい女の子の利害が一致した交流の場」であるという。
 ……交流というよりは一方的におっさんが搾取されるだけのような……。

 ハインツじいさんは勝手に語る。聞いてもいないのに。
 あるとき、店の女の子を口説き落としてお持ち帰りした外道がいた。紳士たちは嘆き悲しみ、その男を《逸脱者》と命名。教会のブリミル像に、彼へ天罰が下ることを願ったという。
 そして……願いは始祖に聞き入れられたのか。翌朝、釣りのおっさんによって、ライン川のほとりで瀕死の状態に陥っている《逸脱者》が発見されたという。彼を呪った紳士たちは己の行為に恐怖した。それ以来「そういったこと」全般に及ぶ人間はいなくなったそうだ。

「いらっしゃいませ……って、ヴェ、ヴェンツェル!?」

 可愛らしい女の子が俺たちに近寄って来たと思いきや、なぜか固まってしまった。
 よく見ると……おい。なぜだ。なんでクリスがメイドの格好をしてこんな場所にいるんだ。しかもスカートのすそが妙に短い。白い太ももが……!
 そして、なんで妙にそそる恥ずかしそうな表情なんだ。はあ……はあ……。
 ……ああ!? しまった。それ以前に、彼は男だろう!

「なんじゃ、坊主は知らなかったのか。クリスは単に彼女の男らしい言動から付けられた愛称で、本名はクリスティナ。これでも女の子じゃぞ」

 クリスおま、お、お前、女だったのか…!
 俺があまりに見苦しい顔で硬直しているからか、ハインツじいさんが補足説目をしてくれた。

「は……ハインツ! お前っ! ああ、もう、恥ずかしいから俺の知り合いには言いふらすなって、あれだけ言っただろ!?」

 顔を真っ赤にして怒鳴るクリス。今日の彼……いや、彼女は以前に増して髪が手入れされ、頭にカチューシャをはめている。軽く化粧もしているようだ。一瞬誰だかわからなかったのはそのせいらしい。
 しかし、変わるものだな。あのガキ大将が、改造メイド服をきて身支度するとこうも女の子になるとは……。
 そうか、以前言っていた『酒場』とはここのことか。

「ヴェンツェル! お前は誰にも言うなよ!? もし言いふらしたら親父に頼んで、生きたまま建物の壁に埋めてもらうからなっ!」
「まあ、そう焦るではない。ヴェンツェル坊主は意外と口の堅い男じゃよ。安心せい」

 そうだろうか。俺はいつこのじいさんの前で口が堅いことをアピールしたのだろう。フォローしてくれるのはありがたいのだが…。

「~~~~~!」

 まだなにか言いたそうなクリスだったが、さすがにこれ以上、店の入り口で押し問答を続けるのはいろいろとまずいことに気がついたらしい。渋々ながら俺たちをテーブルへと案内する。

「……とにかく、ここで俺がバイトしてるのは秘密だからな。ばらしたらもぐぞ」
「わかったよ。肝に命じるからさ」

 というより、俺にこのことを言いふらすメリットなんざどこにもないのだが。
 それより、なにか注文を取らなくては…。うーん、酒ばっかりだな…。とりあえずこのタルブ産のワインとふかし芋でいいか。値段が手ごろだし。
 この店のメニューは、意外とリーズナブルな物が多い。やはりメインの客層であるストラスブールの平民に合わせているのか。

「ワシはこれにするかの」

 ハインツじいさんはブルゴーニュ産のワインと芋料理を頼んだようだ。……ハルケギニアにはじゃがいもが存在する。あれは南米・ボリビア辺りが原産地で、新大陸発見以前のヨーロッパにはなかったもの。
 だが、ヨーロッパに似ているだけのこの世界にはあるらしい。さすがファンタジー。舐めんなよ。

 などと無駄なことを考えているうちに、早々と料理が運ばれてきた。やけに早いな。あらかじめ作ってあるのだろうか。まあ、美味しければなんの問題もないが。

「お酒をお注ぎします」
「うむ」

 掲げられたハインツじいさんのグラス。それに、ワイシャツ一枚を羽織り、素肌に包帯を巻いただけというあぶない格好の女の子が酒を注いでいる。うーん、さすがというか……きわどいな……。
 俺は遠慮しておくか。どうもこういうのは俺にはまだ早いようだ。
 ふと斜め前を見ると、ハインツじいさんは実につまらなそうな顔をしていた。まったく。あんたほど場数を踏んでないんだよ俺は。と言いたい。

 その後、帰り際にまたクリスがここで働いていることを、あちこちに吹聴しないというように念押し(という名の脅迫)され、俺は橋の下に仮移設したテントへと向かった。



 *



 もう深夜だろうか。人の気配がして、俺は目を覚ました。

 牧場でナタのおっさんに襲撃されたことがトラウマとなっていたらしい。最近、寝ていても物音に敏感に反応するようになってしまった。少し、耳を澄ましていると、誰かの話し声が聞こえた。
 こんな時間に、しかもまだ通行許可の出ていない橋で一体なにをするつもりだろうか?

 このとき俺は、恐怖心よりも好奇心が勝り、こっそりと橋の下のテントから這い出した。

「ミゲル。本当にやるのか?」
「橋そのものを落とせという命令は出ていないんですがねえ」
 数人の若い男が、橋の上でなにやら会話を繰り広げている。

「ああ。だが、こんな物が開通したら、今までの俺たちの苦労が水の泡になるだろう、マチルノ? なんのためにアルザス伯にご退場を願ったと思っているんだ」

 橋が開通したら、今までの苦労が水の泡になる? アルザス伯が……退場? なんのことだ?

「だが……。あの日和見ジジイを始末したのはいいが、やり方が乱暴すぎやしなかったのか? あれではすぐ気づかれてしまう」
「なに、この橋をさっさと崩落させて逃げてしまえば問題ない。責任はすべてゲルマニアのクソ共に押し付ければいいさ」

 なんだなんだ、こいつら!? 名前からしてガリア人かロマリア人のようだが…。

「ジュリアンとマチルノは先に対岸に渡っておけ。ここは火のスクウェアメイジ、『劫火』のミゲルに任せてもらおう」

 スクウェアメイジだと……!? ぐっ……なんだ、急に、左目が痛い……!
 自らミゲルと名乗りを上げた赤髪の男は、二人の仲間と思わしき人間が橋の反対側―――ゲルマニアの方へ渡りきったのを見届けると、杖を振りかざした。
 俺はといえば、突然痛み出した左目のせいで、動きたくても動けない。
 クソっ、こんなときに…! 静まれ、我が左眼よ。まだ覚醒のときには早い……。

 ……なんて意味不明なことを念じても、まったく意味がない! 駄目だ、全然治らない! 痛い、痛い、痛い!
 とうとう頭まで痛み出し、姿勢を保てなくなった俺は、橋のかかっている土台から転げ落ち、河川敷に転落していく。

 落ちながら……夜の闇に浮かぶなにかを見た。長い髪。エプロンをつけた、平民がよく着る簡素な服装の…女の子? 誰だろう…。

 そこで、俺の意識は途絶えた。









 ●第三話「覚醒」









 ガリアの特殊部隊。密に『北花壇騎士団』と呼ばれる組織がある。それは始祖ブリミルの子から続く、悠久の歴史を誇る王国の暗部そのものであった。
 その影の集団に属するうちの一人―『劫火』のミゲルは、使い込まれてボロボロになった長い杖を掲げながら、端整な部類に入るその顔を悪魔のように醜悪に歪め、ほくそ笑む。

 完璧だ。ガリア人のくせに、ゲルマニアの野蛮人相手に愚作としか言いようのない日和見主義に走った愚かな老害は、自分がこの手で始末した。
 ついでに領主の館や市内のあちこちに放火したから、軍の注意がそちらに向いているうちに橋を燃やし尽くせばいい。
 そこからは……マチルノの仕事だ。工作活動を得意とするマチルノとは違い、ミゲルは女と、敵を焼き払うこと以外にはまったく興味がない。

 彼が行うのは、一方的かつ理不尽で身勝手な断罪。それによって地獄の業火に燃やし尽くされる寸前、本能をむき出しにして死への恐怖に怯える人間の表情。彼はそれが大好物だ。特に、若い女はいい。あれを焼いたときの香りには、どんなに高級な香水やハーブの類でも遠く及ばないだろう。

「さて……、フィナーレと行きますか……」

 彼は、呪文の詠唱を始めようとしていた。
 たかが土のトライアングルメイジがかけた『固定化』など、スクウェアメイジ、それも数多の実戦で磨き上げられてきた彼の煉獄の火炎の前には、おもちゃも同然である。
 ストラスブール住民の希望を乗せた橋を焼き払う、悪魔の詠唱がついに終末を迎え、放たれようとしたとき。

 赤髪の青年の頭上から、豪風と無数の氷の矢が降り注いだ。

 ―それを放ったのは、まだ年齢が十にも届かぬ、幼い少女であった。
 薄紫の長髪を風に揺らし、颯爽と彼女はライン川にかかる橋へと降り立つ。先ほどの『アイス・ストーム』は、『フライ』の効果を解除した一瞬の間に放たれたものである。
 通常、異なる魔法を同時に使用することはできない。不可能ではないにしろ、術者にはとてつもない技量が要求される。それができるのは、ほんの一握りのメイジだけだ。
 そこで、少女は宙に浮きながらも、瞬間的に無詠唱状態を生み出し、『アイス・ストーム』のルーンを唱えてしまったのである。それはもはや、本来ならば彼女のような幼子に出来る動きではない。

 もうもうと橋の中央で湧き上がる蒸気。氷は炎に熱されると体積を爆発的に膨張させ、水蒸気となる。その霧と区別のつかぬ靄は、彼女にとっての“敵”が未だに息絶えていないことを如実に表していた。

「ふははは……ひゃぁぁぁぁぁひゃっひゃひゃ!!! 驚いたぜ、嬢ちゃんみたいなのが、トライアングルスペルを当たり前に使ってくるたぁ!!」

 ミゲルは、詠唱を始める寸前には既に、薄紫の髪の少女の接近に気づいていた。しかしそれでも彼は詠唱を中断することはしなかった。あんなガキになにが出来るのだと―――彼は小さな慢心を抱いていたのである。
 しかし、それはこの瞬間に終わりを告げる。青年の頬には切り傷がついていた。今まで戦場で傷を負ったことのない彼にとって、傷を負うことは、自分が他の弱者と同じだという証明に他ならなかった。
 彼は、目の前で涼しげな表情でたたずむ小さな少女を、完全に敵と見なした。

「犯してやるよ……! その小さな身体を……犯して犯して殺して犯し尽くして、最後は中までこんがり幼女の丸焼きだ! 喰い尽くしてやるよっ!!」
「……ぺドフィリアにネクロフィリア、食人ですか。最低最悪の、生きている価値すらない蛆虫以下のゴミクズですね、あなた。他人様に迷惑がかからないうちに、わたしが善意をもってして始末してあげます」
「くけけっ、いうじゃねえか」

 どちらが先ということはない。お互いが既に臨戦態勢にあったのだ。両者が同時に魔法を唱え始め、激戦の火蓋が切って落とされた。

「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ハガラース……」

 少女は『ジャベリン』のルーンを詠唱する。そうして、全長が一メートルはある巨大な氷の槍を生み出した。それが成長しきると同時に、赤い髪の敵へ向かって放つ。
 しかし、氷の槍が目標に到達することはなかった。ミゲルは優々と唱えていた魔法をキャンセル。新たに『ファイヤー・ウォール』を唱え、地面から伸びてきた炎の壁が、瞬く間に氷の槍を蒸発させてしまったのである。

「くっ……、ならば……ラナ・デル・ウィンデ!」

 水や氷の攻撃では、彼我の実力差を考えると今後も無力化される公算が高い。そう考え、彼女は風系統の魔法、『エア・ハンマー』を相手にぶつけようとする。

「くかかっ!」

 だが、本来不可視であるはずの空気の壁は青年にあっさりとかわされてしまう。そして、なにを思ったのか、彼は呪文も唱えず、長い足を突き出しながら少女の方へ駆け寄っていく。

「接近戦に持ち込む気ですか…」

 距離を取るには脚力に差がありすぎる。下がれないのなら…少女は『ブレイド』を唱えた。すると彼女が手にした短剣の刃の根元から、青く発光する五十センチほどの魔法の刃が現れる。
 そのときになって、青年も同じように『ブレイド』を自らの杖に出現させる。その色は全体的にどす黒く、中心に細くわずかな赤が見えるだけ。長さは少女よりもあり、太くはない。
 次の瞬間、交錯する二つの『ブレイド』。
 お互いの持つ魔力同士で弾き合い、衝撃が生まれる。赤髪の青年と、薄紫の少女の両者が後方へバックステップで下がる。

 このとき―――少女は、「この男に勝てるかもしれない」という、わずかな希望を抱いている。
 それは、大きな過ちであった。


「やりますねえ、あの子。手加減されているとはいえ、あのミゲル相手に互角の戦いをしてますよ」

 対岸、ゲルマニア側。眼鏡をかけた茶髪の優男…ジュリアンが、橋の上で行われている青年と少女の決闘を興味深そうに観察していた。
 彼は水のスクウェアメイジである。回復も出来るが、それよりもかく乱・洗脳などの搦め手を得意とするメイジであった。彼のその手腕は、今回の『作戦』において大きな役割を果たしている。
 ジュリアンは最近彼らのチームへ組み込まれたため、まだミゲルという人間の本性はほんの一部、片鱗しか理解していなかった。

「ミゲルの癖には困ったものだ。敵の実力を瞬時に見定め、ある程度……相手が『勝てるかもしれない』と思うところまで力をセーブする。戦いの中で少しずつ力を解放していって、敵が絶対的な実力差に絶望した瞬間、一瞬で焼き殺す。末恐ろしい男だよ。絶対に敵に回したくはないな」

 優男の隣で、渋い顔をして腕を組んでいる黒髪の美丈夫は、マチルノ。ミゲルが幼少の頃より彼のパートナーを勤めている。

「へえ、そうなんですか。じゃあ、あの女の子もったいないですね。あの年であれだけ戦えるってことは、磨けばもっと光そうなのに」

 その言の葉とは裏腹に、実際は特に惜しくもなさそうな声音で、眼鏡の青年は呟いた。




「ほれほれ、どうしたぁぁぁぁ!? さっきまでの威勢、もう一回お兄さんに見せてくれよぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「……ぐぅっ!」

 彼女がそれに気がついたときには、既に戦況は一気に劣勢となっていた。
 高密度の『フレイム・ボール』の直撃。薄紫の髪の少女は、巨大な火の玉が命中する直前に『ウォーター・シールド』を唱えて防御を試みるが、寸での差で失敗。爆発が起き、彼女は衝撃で後方へ吹き飛ばされる。

「……かはっ!」

 華奢な少女の身体は、石で出来た橋の支柱へとぶつかり、嫌な音を立てる。吐血。彼女は意識が朦朧とするなか、抵抗もできず、歩み寄ってくるミゲルの声を聞く。

「お嬢ちゃんさぁ、この橋を壊されたくないから俺に仕掛けてきたわけだろ? じゃあさ、提案。きみ、俺のペットになってよ。そしたら橋は壊さないであげるからさ」

 ペット……? ですって……? ふざけないでください。わたしはこれでも、クルデンホルフ大公の血を引いているんです。あなたみたいな、どこの馬の骨とも知れない鬼畜なんかお断りですよ。
 もし万が一、万が一でも、わたしの主になれる人間がいるとしたら…。それは…。

 ……そんな少女の心の叫びは、とうとう彼女の口から出ることはなかった。口腔を次々とあふれ出すように湧いてくる自らの血で満たされ、それをどうすることもできない彼女は、話すことも出来ない。

「きみってば可愛いからさぁ? できれば飽きるまでは手元で楽しみたいわけよ。……ってちょっと聞いてんのかよ!? おい?」

 ミゲルは乱暴に少女の長い髪を掴み、吊り上げた。そのとき、少女の小さな口から、大量の血液が流れ出る。
 それを目にした青年は途端に興味を失ったかのように、薄紫の髪から手を離した。そして少女を放るように地面へ転がして、呟く。

「……ちっ、脆すぎるんだよ。これじゃもう死ぬだろ。あーあ、久々に楽しめると思ったんだが。最初から死んでたら意味がねぇ」



 し、ぬ……? わたし、死ぬんです、か……。

 ごめんなさい……。お父さま……。あの人を、守ってみせる、なんて大口を叩いておいて……。あまりにも……アリスはぶざまです……。

 橋なんて、ただ見ないふりをすればよかったのに……。だめでした。わたしは……ちょっと、この街の人々と触れ合いすぎたんです。

 町のみんながこの橋に期待していて……。禍々しい、『なにか』をこの橋の辺りに感じたとき、いてもたってもいられなくて……。

 ああ、なんて、ばか、なんでしょうか……。わたしなしで、あのどうしようもない兄が、この先一人で生きていけるはずなんて、ないのに……。

 地元の道も迷うような、あの人が、無事にクルデンホルフへ帰れる保障なんて……。

 母親は違っても、あの人は家族なんです……。

 ああ、赤髪の鬼畜変態が、杖を振りかぶりました……。わたし、焼いて食べられてしまうんでしょうか……。嫌……。そんなの、あんまりですよ……。


 わ、た、し、は……。




「さぁて。仕方ねえ、ここでこんがり美味しく焼いて食してやるよ。安心しな、骨の髄まで残らず俺の胃袋へ納めてやるからよ!」

 彼がそう言った、その時。次の瞬間、ミゲルは我が目を疑うことになる。
 いつまでたっても魔法が発動しない。とうとう杖が壊れたのか? 不審に思った彼は高く突き出した右手を見上げた。

「な……」

 そして、自らが杖を持った右腕の、手首から先が綺麗に消滅しているのに気がついた。

「おぃぃぃぃ!? なんだよ、これはぁぁぁぁぁぁぁああ!!!???」

 いつの間にか右手が消失するという非常事態。あまりに突然の出来事に、赤髪の青年は半ば狂乱状態に陥る。

「ミゲル、落ち着け! 落ち着くんだ!」

 慌てて対岸から駆け寄ってきたマチルノが必死にミゲルをなだめる。一方ジュリアンは、ミゲルの右手を吹き消した張本人を捜していた。
 そして、彼は『それ』を目にする。

「な……なんだ、こいつは……。水の精霊? いや、だが、水の精霊はラグドリアン湖にいるは」

 “それ”に目が釘付けとなったジュリアンの言葉が最後まで紡がれることは、金輪際なかった。彼の目の前にいる“何か”が、優男の首を跳ね飛ばしたからだ。

「な……が……! ば……馬鹿な!」

 その光景をただ漠然と目の当たりにしたマチルノは、一瞬の間硬直するも、すぐに正気を取り戻した。そして次の瞬間には、この場からの離脱を決意。

 片手のないミゲルを抱きかかえたまま、彼は『フライ』で空の闇へと消えていった。



 *



 後のこの場には、血塗れで倒れる少女と、透明な“何か”だけが残される。

 すると、まるで戦いが終わるのを測っていたように――実際にはまったくの事実無根ではあるが――橋の下から、一人の少年が這い出してきた。橋の上まで上ってくる。
 そして、彼は血塗れの少女を目に留めた。明らかに狼狽したようで、慌てながら、その横に広い体を揺らしつつ、少女へ駆け寄ってくる。

「あ……アリス!? おい、アリス、どうしたんだよ!」

 でっぷりと太った少年は慌てて少女の小さな身体を揺さぶろうとする。だが、それを押し止めようとする“何か”が、彼の動きを妨害した。

『待ちなさい』
「!?」

 少年の、まぶたの肉に圧迫されて小さくなった瞳が、精一杯見開かれる。彼の視線の先には、美しい女性の姿をかたちどった透明な“何か”が、ただ静かに、悠然とたたずんでいる。

 なんだこれは。こんなモノ、俺の知識には……。体を拘束されたまま、少年の思考は混迷のほどを深めていく。

『もう間もなく、この娘の命は尽きます。残念ながら、私に残された力だけでは、もうこの娘を救うには至らないのです』
「『だけでは』? じゃあ他に、なにか、なにか方法はあるんだろ!? あるんならいくらでも協力する!」

 少年はもう、自分でもなにがなんだかわかっていないようだった。ただひたすら、ただがむしゃらに、少女を助けたい。その一心だった。

『はい。もう一つだけ、方法はあります。それは、あなたの生命力…生きる力をこの娘へ分け与える、という方法です。ただし、この方法は提供者……あなたの命の保障は出来ないのです』
「それでいい! 早くしてくれ! こんなピザ野郎一人と引き換えに、美少女一人が助かるんなら、今すぐ心臓だって提供してやる!」
『……』

 感情の起伏が極端に少ないはずの“何か”を苦笑させてしまうほどの、少年の異様な剣幕。
 “何か”はゆっくりとうなずき、体中から触手のようなものを伸ばした。幾本ものそれは少年の体へ突き刺さっていく。ただ、不思議と痛みはないらしく、少年は特に顔を歪めることもなかった。

「あんたが何なのかはさっぱりわからない。だけど、これだけは頼む。“妹”を―――アリスを必ず救ってくれ」
『もちろん。私はそのために目覚めたのだから…必ず……も………』


 段々と、“何か”の声が遠くなっていく。
 少年はなぜかはわからないけども、不思議な心地よさを感じて、そっとまぶたを閉じた。 





[17375] 第四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:c163f598
Date: 2010/11/27 22:33
「カドゥドゥルドゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!」
「カドゥドゥルドゥドゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!」

 なんだこりゃ……ああもう、うるさいな。なんで二羽いっぺんに鳴くんだよ。うるさくてかなわん……。ん?
 あれ、なんだか背中が柔らかい感触に包まれているような…。ああ、これはベッドか。なんだか良い匂いがするなあ……。

 むにゅ?

 ……あ?なんだこれ。やけに揉み心地がいい……。お、丸いのが二個もあるぞ……。ああ、素晴らしいなこれ。新しいタイプの抱き枕だろうか? さすが世界の日本が誇るHENTAIはレベルが違う。俺たちは未来を生きてるんだぜ。

「あう……お尻揉んじゃダメですよ……」

 ……あ? 最近の抱き枕は喋るのか。すげーな。なんだか良い匂いはここから漂ってくるみたいだな。あ、これ小さくて抱きしめたくなる。もふもふ。

「……んむぅ……」

 んん……あれ……? この顔、どこかで……?

「…あれ…坊ちゃま…………………………………………………………………………ってきゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」

 痛っ! 痛い! 爪で引っかくな! なんだ、その短剣はなんだ。一体どうする気なんだ! うわなにするやめr



 *



 ―時刻は正午の頃だろうか。

 先ほどアリスに折檻されてボロボロの俺は、まだ客のまばらな『午後の一息亭』のカウンター席に腰掛けながら、紅茶を飲んでいる。これがなかなか美味い。 
 ギヨームさんが渡してくれた特別給金は五エキューもあった。これだけあれば、庶民ならちょっとの間は生活には困らない。ようやくまとまったお金(平民目線)が入って俺はウハウハ……とまではいかなくとも、随分と気が楽になった。文無しは辛いよ。

「まだ怒っているのか。そんなに怒ることないだろ。あんなに揉み心地がいいとは思ってなかったんだよ」
「ううう……、知りません!」
「知りと尻をかけてがぼぶぶぶごっ!?」

 やめて! もう水攻めはやめてあげて! ヴェンツェルのライフはもうゼロよ!
 ……三十秒ほど、顔面に水が張り付いていた。本当に死ぬかと思った。恐らく今の俺の顔は、真っ赤に腫上がってさぞ見苦しいことになっているだろう。

 ところで、なんと俺は一週間もの間、ずっと眠っていたらしい。あの激しい頭痛となにか関係があるのだろうか。わからないな…。頭を打ったせいか、いまいちあの後のことが思い出せない。
 
 目覚めた後、噂好きのミケーネばあさんが集めてきたという話をアリスから聞かせてもらった。
 それによると、
 ・アルザス辺境伯が何者かによって暗殺された。使用人や客人まで皆殺しの憂き目に遭っており、館は全焼。生存者は、外泊していた伯の孫一人だけ。
 ・市内のあちこちが放火され、多数のけが人が出た。死者は「確認されていない」
 ・最近大挙してやってきたガリア人たちが、なぜか我に帰ったように、自分たちの土地へと戻り始めたらしい。中には今までの非礼をわびに来る者まで。
 ・ライン川の橋はなぜか開通する前から閉鎖。現在、リュティスからやってきた王軍の指揮官が直接このアルザス辺境領を統治しているのと関連が疑われる。

 ……ふむ、なんだかわからないが、いつの間にやらこの町で起きていた民族問題はひとまず落ち着いたようだな。
 ちなみに、今日はクリスやミハイルさんがこの店にやってくるらしい。話の途中、外から帰ってきたミケーネばあさんが言っていた。

「ヴェンツェルー? いるか?」

 おお、そんなことを考えていたらさっそくやってきましたか。

 今日は珍しくロングスカートを穿いたクリスと、相変わらずいかつい作業着姿のミハイルさん、そしてなぜか不服そうな顔のハインツじいさん。せっかく来てくれたのはいいけど……どうしたんだ?

「よう、相変わらずのデブっぷりだな。ヴェンツェル」
「寝込んでいると聞いていたから、少しは痩せたかと思えば…」
「相変わらずじゃのう」

 酷いっ……! ついこの間まで病に臥せっていた人間に対して、あんまりじゃないのか、それは!

 と、そこで店の奥に引っ込んでいたミケーネばあさんがカウンター前に現れた。ハインツじいさんを見つけるやいなや、その眼光が異様に鋭いものになる。

「おや、まあ、ハインツじゃないか。よくもまあ、のこのこあたしの前に姿を現せたのう」
「ミケーネ……」

 ん? なんだ。じいさんばあさんのあの二人、やたら張り詰めた空気を醸し出してるんだ? わけわからん。

「ああ……、ハインツとミケーネは夫婦でな。ミケーネは昔、『うさぎ小屋』で働いていたんだ。それを口説き落として連れ去ったのがハインツでな……。ひと悶着あったらしいが、なんとか結婚したそうだ。今は別居中だが……」

 俺が不審がったからだろうか。ミハイルさんが小声で状況を教えてくれた。
 ……ああ、なるほど……。あのときのじいさんの話は、単純に自分語りだったわけか……。懲りない人だな……。

 なんだかいよいよ二人が得体のしれない空気を生み出していたので、俺たちは数名のお客さんと共に『午後の一息亭』を後にした。アリスは従業員なので残らねばならない。南無。
 ストラスブールの商店街は今日もたくさんの人で賑わっている。すると、目の前の道を大勢の人々の一団が歩いて行く。ガリア人だろうか。

「しっかしなあ…。ガリアの奴ら、どうして急にここから帰るなんて言い始めたんだろうな」

 心底わからない、といった表情でクリスは呟いた。

「さあな。ただ、ウチに来たガリア人に話を聞いてみると、これがどうもはっきりしないんだ。ほとんどの奴らは『無意識にこの町へ来ていた。どうして来たのかわからない』と言っている。それも皆が皆だ。しかも、その口で今までの非礼を詫びるんだからわからん」

 ミハイルさんが、やはり困惑した表情でクリスに相槌を打った。
 ううむ、いよいよわからなくなったな。これは一体どうしたのだろうか……。
 そういえば、あのとき…、気を失う前に声を聞いた、橋の上の連中。彼らはどうしたのだろうか。橋そのものは無事だったと聞くが…。ああ、なんだってこんな難しい問題が出て来るんだか。

「ところでな、ヴェンツェル」

 俺が頭を抱えて心の中でのた打ち回っていると、ミハイルさんがそのイカつ……凛々しい顔を引き締めてこちらに話しかけてきた。

「は、はい。なんですか」
「単刀直入に言うとな。俺はお前にいつまでもこの町で暮らして欲しいと思っている。俺の元で仕事をしていれば、いつかそのたるんだ腹も引っ込むだろう。それにな、お前さえよければクリスを……」
「おやじっっっっっっっっっっっっ!!!」
「グボァ!?」

 ミハイルさんが最後まで言い切るのを待たず、クリスがとんでもない剣幕で、自らの父親の股間へ強烈な蹴りをくらわせる。なすすべなく地面に膝をつく巨漢。うわぁ……。痛そう……。

「まったく。親父の突拍子もない言動にはいつも困らされるぜ」

 基本的にはいい人なんだがね。

「……大体……ヴェンツェルは貴族じゃないか……」
「うん?」
「あ、いや。なんでもない。忘れろ!!」

 あ痛! なにすんだこいつは! どうして怒ってるんだ。アタタタタ!! やめろ、殴るな、蹴るな、グボァ!?


 ああ、結局またボコられた……。



 *



「いろいろあったなあ」
「ええ。まったく」

 二日後。いよいよ体調が整った俺は、ついに町を出ることになった。アリスがようやく重い腰を上げたのだ。なんだかんだ言って、一ヶ月以上はここにいた計算になる。
 今までお世話になった皆に別れの挨拶をし、俺たちはストラスブールの南門から町の外へ出る。季節は本格的に夏を向かえ、じりじりと肌を焼く太陽の光線がまぶしい。

「これから、どうなさるんですか?」

 しばらく歩いたころ。
 となりのアリスがシャツの襟のふちへ手をかけ、ぱたぱたと仰ぎながら俺に問いかける。いいなあ、俺なんか既に汗だくだからもう、仰ぐ気にもならんよ。
 目の前では、舗装されていない道が二手に分かれている。左側の看板には、『火竜山脈』と書かれていた。ここは当然、左側の道だろう。

「とりあえず火竜山脈だな。そこから後は考えていない」
「……なぜ火竜山脈に固執するんですか?」

 そういえば。確かに、なんで俺はそんなにあの場所へ行きたいのだろうか……?
 修羅の国ロマリアの領域には入らないように気をつけるつもりではあるが、正直危険を冒してまで行く意味もないのでは……。
 そんな風に、俺が思案を始めたときであった。

 突然アリスが『エア・ハンマー』を、そばの茂みに向かって放ったのだ。
 猛烈な風圧によって草木がなぎ倒され、背後の大木がめりめりと音を立て倒れていく。哀れな鳥たちが、慌ててばさばさと飛び立っていくのが見えた。
 それにしてもなんだ一体。この子は何もないところに魔法をぶっ放すのが趣味なのだろうか。いや、まさかとは思うが。

「そこにいるのは誰です!」

 突然大声を上げるアリス。
 どうやら、先ほど彼女が吹き飛ばした茂みの辺りになにかいたらしい。そこら辺の賊ならとっくに逃げ出すか、もしくは反撃が来ているはずだが……。呼びかけにもなんら応答がない。
 とりあえず確認するという彼女に、俺もついていく。
 残った茂みを掻き分けると―――そこでは、背中から綺麗な白い羽根を生やした短い金髪の小さな女の子が、中腹から折れてしまった大木の根元で腰を抜かし、涙目になりながら腰を抜かしていた。




「ふむ。つまり君は、練習がてら『黒い森』の方から飛んできたのか」
「……はい。途中で疲れたので、あの木の根元で休んでたら、あ……あの人がい、いきなり……」

 翼人の少女は自らをウルドと名乗った。『黒い森』の翼人部落の住人らしい。
 黙ったままそっぽを向く従者の少女が怖いのか、亜人のこの少女はおろおろとしてしまっている。よく見ると、彼女の背中の羽根には赤い染みがある。恐らく、アリスの『エア・ハンマー』が飛んできたときに怪我をしてしまったのだろう。
 しかし、翼人か。そういえばタバ冒にそんな連中がいたような……。

「そうか。それは悪いことをしたね。僕の方から謝るよ、ごめん」
「う……キモ……い、いえ」
「え?」
「あ、いえ……」

 相変わらずアリスはこっちを見ようともしない。亜人って本当に嫌われてるなあ……。地球人的な感覚だと、魔法なんか使っちゃうメイジも亜人みたいなもんだと思うんだけど。

「アリス。『ヒーリング』だけでもかけてあげてくれないか? このままだと飛べないだろうからさ」
「……」
 どうしたものかなあ…。翼人を見ただけで騒いだりしないのは助かるんだけど……。

「頼むよ。いつか家に帰れたら、トリスタニアに行って、評判の店のクックベリーパイでもおごるからさ」

 そこで初めて、彼女がピクリと反応するのがわかった。でたらめに言ってみただけだが、どうやら脈はあるらしい。

「……本当ですか?」
「もちろん」
「……むう、仕方ないですね」

 そう言って、彼女は渋々、腰にぶら下げていた鞘から短剣を抜き放った。ウルドが露骨に身をすくませるのがわかる。わかるよ。俺もあれには散々酷い目に遭わされてきたからな。

「あれは回復魔法だから、そう怯えなくても大丈夫だよ」

 それでも『エア・ハンマー』で怖い目に遭ったからか、彼女は震えている。

「イル・ウォータル・デル…」

 アリスが『ヒーリング』のスペルを詠唱する。すると、淡い光が翼人の少女を囲み、みるみるうちにウルドの翼に出来た傷が塞がっていくのがわかった。

「クックベリーパイ、必ず食べさせてくださいね」
「あ、ああ。わかった」

 なんだかものすごい剣幕だ。そこまでクックベリーパイが食べたいのか。さぞかし美味しいのだろうな。俺は見たこともないけど。
 さて、これでこの子もなんとか自分の家に帰れるだろう。

「ありがとう……はなんか変ですね。それでは、さようなら」
「うん」
 
 翼人の少女はそう言うと大きな翼を広げ、飛び去る。その姿はまるで天使のようだ。
 いやあ、可愛い子だったな。うん? 頭になにか降ってきたぞ? ペロ……これは……、胃酸! ……いやしかし、なんで空から胃酸が?
 うん? アリスさん? なんで俺を哀れむような、まるで聖母のような慈悲に満ち溢れた眼差しで見つめてくるの? そんなに俺って哀れなのか?
 それに対しては、「ノーコメントです」というのが、明らかに笑いを堪えきれていない彼女の返答であった。むう……。









 ●第四話「それでも僕はやってない」









 さて、あれから一週間、つまりは八日後。馬車を乗り継ぎ、とうとう俺たちは火竜山脈のふもとにある町、ローザンヌまでやってきた。

 ああ、ここまでの道のりは本当に辛かった。馬車に乗ったら車輪が折れて立ち往生するわ、賊に襲撃されるわ。俺はどれだけ神経をすり減らしたか。


「ヴェンツェル坊ちゃま? ちょっと来てください」

 町の外れで、悠々と聳え立つ火竜山脈を眺めながら愚考に興じていると、聞こえてきたアリスの声。一体どうしたのだろう。

「どうしたの?」
「あー、“これ”なんですけど」

 つられ、彼女が指さした方を見ると……。そこには、一人の白髪の老人が倒れている。浮浪者かなにかだろうか。いや、杖を持っているし、この姿……どこかで見たような……。
 水……とかすれた声が聞こえたので、とりあえず、うつぶせに倒れていたじいさんの体勢を仰向けにして、水筒の水を手で無理やり開けた口へ流し込んでいく。顔やその周りが水浸しになるが、まあ知ったこっちゃない。

 しばらくすると老人は目を覚まし、きょろきょろと辺りを見回す。そして、俺と目が合った。

「おやおや。もしや、ワシに水を飲ませてくれたのはお主かのう?」
「ええ。そうです」
「いやいや。助かったぞい。危うく異国の地でのたれ死ぬところじゃったわい」

 異国、か。つまりこの国の人間ではないと。

「あなたは、ガリア人ではないのですか」
「うむ。ワシはトリステイン人じゃよ。休暇でこの地方に旅行に来ておるのじゃ」

 今はちょうど真夏のど真ん中だ。学院も休みで暇は取れるだろう。ということは……。

「やや。失礼ですが、もしやあなたは、あの高名な魔法使いであらせられるオールド・オスマン氏では……」
「おお、ワシのことを知っているのかね。ここの連中はワシをただの浮浪者扱いしおっての。正直きみが来てくれて助かったわい」

 目を輝かせる老人。……まさかビンゴとは。なんでトリステイン魔法学院の学院長が、こんなところで一人で行き倒れてるんだよ……。まあ、入学式で壇上から飛び降りて危うく昇天しかけるような人だからな……。
 アリスは完全に呆れたような表情で、かの偉大な魔法使いを見下している。

「ええ、自分もトリステインの貴族ですので…。失礼しました、僕はヴェンツェル・フォン・クルデンホルフと申します」
「おお! あのクルデンホルフの!」
「ええ。まあ……出涸らしですが」
「そう謙遜するでないよ。……ここで会ったのもなにかの縁じゃ。酒でも飲みながら語りあおうぞ」

 なんなんだ、このじじいは……。ていうか行き倒れていたくらいなんだし、絶対金持ってないだろ……。
 しばらく抵抗を試みるも、結局はオスマンじいさんに引きずられ、俺は町の酒場まで連行されてしまう。さっきまで干からびていたじいさんの力じゃないだろ、これ。



 それから、オスマンじいさんに連れられてやって来たのは、街の外れにある酒場だ。あまりいい雰囲気ではない。

「というわけでのう。また秘書が辞めてしまったのじゃ……! いいではないか、尻をなでるくらい! 若いおなごなんじゃから、もう老い先短い哀れな老人に、尻くらい揉ませろというに!」

 いや、あんたこの先、五年以上は生きるよ。間違いなく。
 しかしなんて迷惑なじじいだ。オスマンといいルイズといい、俺が原作キャラと接触するとろくなことにならねえ。
 ……まあ、それは置いといて。

 さっきからオスマンじいさんは愚痴をぐちぐちとこぼしており、俺とアリスはそれを無理やり聞かされている。さっきのセクハラしたら秘書に辞められただの、メイドの尻を撫でたら食事に毒を入れられただの、使い魔のモートソグニルが自分に黙ってどっかに行っただの…。本当にどうでもいい。
 まあ、聞かせる相手がいなくて、余計喋りたいんだろう。仕方ないから聞き流してはやるが。もう一週間以上浮浪生活をしていたみたいだし。どうしてそうなったんだか……。
 ひとしきり不平不満をぶちまけると、オスマン老人はテーブルに突っ伏して寝てしまった。よだれが口の端から垂れてヒゲがぐちゃぐちゃになっていて、実にみっともない。
 そろそろ逃げるかな。俺は店主に金を支払い、食事の代金を清算する。

 とはいえ、このままオスマン氏をここに放っておくわけにもいかない。とりあえず酒屋の二階の空いていた部屋を借り、『レビテーション』で運んできたじいさんを部屋へ放り込む。あとは部屋のドアを閉めて……はい、終わり。一階で待つアリスの元へ向かう。


「お嬢ちゃん、こんなところに一人でいちゃいけねぇぜ! おじさんみたいなのがいるからなあ!」

 ……はい、また来ましたよ。変なのが。一階に下りてみるとこれである。
 丸刈りの不細工なおっさんがアリスに詰め寄っていた。アリスは俺を見つけるとわざとらしく駆け寄ってきて、俺の背の後ろに隠れてしまう。
 本来、守ってやりたくなる可愛い仕草ではあるが、これを圧倒的に戦闘力が俺より上の彼女にやられると、どう考えても嫌味にしかならない。

「なんだこのデブ! 可愛くない男に用はねえ! さっさと退きな!」
「奇遇だな。僕もお前のような、不細工で幼女趣味で不細工な人畜に用はない。怪我か死ぬかしないうちにさっさと失せろ」
「ぶっ、不細工って二度も言ったな! 親父にも言われたことないのに! このガキャァァァァァ!!」

 なんというテンプレチンピラだろうか。馬鹿の一つ覚えで突っ込んでくるとは。俺は持っていた杖を振り、『レビテーション』を唱える。
 不細工男の体はあっさりと浮き上がり、開けっ放しの店のドアから外へ飛び出していった。かなり本気でやったので、果たしてどこまで行ったのかはまったくわからない。

「わたしが手を下すまでもないんですよ。あんなの」
 ……こいつ……、単にめんどくさかっただけだな……。

「さて、では宿を探しましょうか。さっきの浮浪者のおじいさんのせいで、随分日も傾いてしまいましたし」

 いや、あれ一応メイジだから。貴族だから。きっと本気出すとすごいんだよ。俺はそんなのついぞ原作では目にしなかったけど。

 そんなわけで、俺たちは夕暮れに染まる田舎町でその日の宿探しに奔走する羽目になる。
 さっきの酒場の二階? オスマンのじいさんと同じ部屋で寝るのはなあ……。



 *



「悪いがねぇ、部屋は二人部屋が一つしか空いてないんだよ……」

 もう日が暮れた頃。やっと見つけた宿では、空き部屋が一つしかないという有様である。……む? いや、俺的にはご褒美なのか!

「すみませんが、屋根裏でも掃除用具入れでもいいので、なんとか貸していただけませんか?」

 アリスさん。相手の喉元に『ブレイド』を具現化した短剣を突きつけながら、自分の一方的な要求を通そうとするのは交渉とはいいません。脅迫です。

「は、はぁ……。二階の掃除用具入れなら、なんとか……、す、すいやせん!」
「ありがとうございます。……坊ちゃま。と、いうわけです」

 ああ、なんてまぶしい笑顔で死刑宣告を行うのだろうか、この子は。聖母だったり悪魔だったり忙しいな。ああ……そうだよ。そうだよな。そんなうまい話があるわけもないんだ。この世に神はいない……!





 と、いうわけでここは宿の掃除用具入れである。気分は初期のハリー・○ッター。さしずめアリスは○ーズリーか? あんなに不細工じゃなく、むしろ可愛いくらいだが。
 ここ、以外に快適かもしれない。どことなく、前世で住んでいた築三十年のボロアパートに似ている。
 床にあぐらをかいて座っていると、目の前をねずみの一群が……。おや? 先頭のねずみがなにかくわえている。よく見えないが布っぽい。もしや、あれは下着ではないか。
 『レビテーション』でねずみを浮かべて、くわえていたものを奪い取る。おお、やはりこれは下着だ! ああ、始祖よ、あなたは私を見捨ててはいなかったのですね! 最高の贈り物をありがとう! 俺、今日からちゃんとブリミル教の教えを守ろうと思う!

 そうして俺がひざまずき、始祖ブリミルへ祈りを捧げるのと、猛烈な風の衝撃によって、掃除用具入れの扉が吹き飛ぶのはほぼ同時であった。
「坊ちゃま。ここに、いやらしいバカねずみどもが……」 


 見つめ合う二人。時が止まる。


「は、は、は、犯人は、あ、な、た、で、し、た、か!! ねずみに下着を盗ませるなんて…ほほほ、本当にいやらしいことにばっかり、知恵が回りますね!!」
「そ、そんな。僕は犯人じゃない。無実だ。推定無罪の原則を」
「現行犯じゃないですか!!」

 や、やめろ。後生だ。『ライトニング・クラウド』だけは勘弁してくれ! そもそも俺は関係ないんだ。偶然手元に転がり込んできた見目麗しい布を頭に被っただけなんだ。

 それでも……、僕はやってない!

 そgぶ





[17375] 第五話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:626d4b90
Date: 2010/08/25 20:41
 深夜の宿で爆発を伴う大騒動を引き起こした俺たちは、怒り心頭の主人によって見事に追い出されてしまった。

 今度ばかりは、さすがのアリスも脅迫で乗り切ることは躊躇われたのだろう。大人しく俺の後について来ている。
 さて……。これからどうするか。俺だけなら適当なワラの束に潜り込めばいいが、さすがに女の子にそんな真似をさせるのは忍びない。かといってこの時間ではもう宿を新たにとるのは困難だろう。
 ……仕方ない、オスマン氏を放り込んだ部屋に向かうか。最悪あのじいさんを追い出せばいいんだし。

 相変わらず雰囲気の悪い酒場を抜け、俺たちは階段を上り、件の客室へとやってきた。オスマンのじいさんは眠ったまま起きやしない。
 さて。俺もこの道端で拾ったワラで作った布団もどきを被って寝るか。もどきではあるが、それなりに暖かいのだ。新聞紙よりは。一応、この町は高地にあるので夜は冷えるのである。
 アリスは俺と同じ部屋で寝るのがお気に召さないらしく、ずっと不機嫌である。いいじゃないか。ベッド独り占めしてるんだから。……そう思わずにはいられない。
 ああ、このまま宿暮らしだと金がかかるな…。なにか仕事を見つけないと……。



 *



 ……なんだろう、目が痛い。やけに早く目が覚めた気がする。辺りを見回すと、床の上で相変わらずいびきをかいているオスマン氏と、ベッドの上で寝息をたてているアリスが見えた。
 さて、どうするかな。この時間だとまだろくに町も動いてないだろうしなぁ…。とりあえず、外へ出てみるか。
 きしむ扉を開け、廊下に出る。この部屋は階段のすぐそばにあるため気づかなかったが、廊下の奥はバルコニーへと通じているようだった。せっかくだからそこへ行ってみるか。

 廊下の突き当たりにある扉を開け外に出ると、目の前に、大自然の雄大な光景が広がる。
 そびえたつ火竜山脈の山々。その反対側には、ゆったりとした川の流れ。そして、辺りを覆いつくす森林と草原。あの草原の向こうには我が祖国があるのだろうか。
 冷えるな…。いくら脂肪があるとはいえ、寒いものは寒い。とはいえこれが日が昇った途端に暑くなるのだからやっていられない。
 そのまましばらく景色を眺めていたが、本格的に体が冷えてきたので部屋に戻ることにした。


 部屋に入るとアリスが起き出していて、ぼろい鏡の前で髪を梳かしていた。おや、オスマン氏がいないようだが……。

「アリス、おはよう。オスマンさんはどこ行ったんだ?」
「おはようございます。あの方なら、自分の使い魔を探しに行くとかで先ほど外へ行かれましたよ。あと、『夕飯はポトフが良いのぉ』などと仰っていました」

 じいさんの口真似をするアリス。あまり似ていないのは仕方ないだろう。
 外か……。そういえば、使い魔がどっかに行ってしまったとか言ってたな。……しかし、夕飯までたかる気かよ……。
 その後、着替えるというアリスに部屋を追い出された俺は、仕方なく街へ出てみることにした。



 夏の陽気に包まれたローザンヌ市街はたくさんの人が行き交っている。中には貴族と思わしき連中もいた。なんせ、マントを必ず羽織ってるんだからわかりやすい。
 俺はぶらぶらと歩きつつ、街の広場へとやってきた。さて、これからどうする。なんにも考えなしでここまでやってきてしまったが……。とりあえず仕事でも探すか。先立つものがないとな。
 とはいえ、ストラスブールのときのようにうまくはいかない。あのときは偶然にも仕事を得ることはできたが、あんな幸運は滅多にないのだ。俺はいつかのように広場のベンチにただ腰掛ける。
 そのときだった。広場の片隅で人だかりが出来ているのが目に入った。一体なんだろう。

「さあさあ! よってらっしゃい、みてらっしゃい! 宝の地図がお安くなっておりますよ! いまなら出血大セール、なんと一枚一エキュー! こんな出費で、もしかしたら億万長者になれるかも!」

 なにかと思えば、金髪を肩の辺りで切りそろえた十代半ばほどの少女が、屋台で宝の地図を売っているではないか。なんというか……あからさまにうそ臭い。
 「うそくせぇなあ」「嬢ちゃんに釣られた俺がバカだった」「春を売ってんのかと思ったのによ……」
 大半の人が俺と同じ考えに至ったらしい。皆がぞろぞろとこの場を後にしてゆく。まあ、普通はそうだわな。

「ああ! まって! せめて一枚だけでもぉ~! そこなおじさま! 一枚五百スゥにまけますよ! どうですか!?」
「俺は地図よりも、君の体がいくらか知りたいなぁ……」
「うげ……」

 あーあ、変なのにからまれてる。しかし、この町はやたら変態が多いようだな。たまたまかもしれないが。
 俺は腰に差した杖をうなりながら引き抜き(腹の肉が邪魔でこれがなかなか辛い)、『レビテーション』を唱える。変態は浮き上がり、そのままゆっくりとどこかへ飛び去っていった。
 突然の出来事に唖然とする少女だが、どうやら魔法を放った主である俺に気がついたようだ。いかにも、『金づるを見つけた!』と言いたそうな表情で話しかけてくる。

「ありがとうございます! いやぁ、助かりました! 見事な魔法でございますね、貴族の坊ちゃま!」

 とびきりの笑顔で感謝を告げてくるこの少女。手をいやらしく揉んだりしていなければ見栄えもするだろうに……。

「生憎だが、僕は金なんて持ってないよ。商売相手にはならない」
「え? ……えぇ~? じゃ、じゃあ……」
「親もいない。大体、いたところでそんなインチキ商売に引っかかるわけもない」
「あ……あうぅ……」

 なにせウチは一部のトリステイン貴族から蔑まれる成金クルデンホルフだ。祖父はもちろん、父も商売に関しては一級の資質を持っている。残念ながら俺にはその才能は受け継がれなかったようだが。
 ……しかし、ちょっと言い過ぎたか。しゃがみこみ、地面にのの字を書いてあからさまに落ち込むのを見ていると、ちょっと悪いことをした気分になる。

「まあ、なんだ。一枚買うから、そんなに落ち込むなよ」
「え? 本当ですか!?」
「あ、ああ」
「ありがとうございます! ではお代は二エk……ひぃぃぃ!?」

 俺が仕方なく財布を取り出した、その時だった。突然飛んできた氷柱が金髪の少女の屋台を直撃。哀れ、古い木造の屋台はばらばらに分解してしまった。
 こんなのを平気でぶっ放してくるヤツは…、俺の知る限りただ一人しかいない。


「坊ちゃま。お金は大事にしましょう?」

 後ろを振り返ると、案の定そこにはアリスが不機嫌そうな表情で短剣を構えていた。しかしなんてめちゃくちゃなことをするんだ。

「……」

 四散してしまった屋台の残骸を握り締め、唖然とする金髪の少女。ちょっとこれは……あんまりではないだろうか。

「アリス。これはやりすぎだろう。彼女に謝るんだ」
「嫌です。……その女は、坊ちゃまがたくさん働いてやっと得たお金を、半ば詐欺ろうとしたじゃないですか……」

 アリスの言葉の後半の部分はなんだかぼそぼそ声になっていて、俺にはよく聞き取れなかった。
 しかし、どうしても謝るつもりはないらしい。参った。屋台の弁償もしなくちゃならないってのに……。しょうがない、俺が謝るしかないか。まあ、謝るのは結構得意だから、俺。
 そう考え、謝罪のためにばらばらの屋台へ歩み寄ろうとすると、金髪の少女の姿は綺麗に消えているではないか。一体どうしたんだ?

「すごいじゃないですか、あなた! 自分はリディアっていいます! ぜひ私と一緒に宝探ししませんか!」

 おい。なんだこれは。いつの間にやら、金髪の少女がアリスに詰め寄っている。さっきまで放心していたのが嘘のようだ。

「……あー、あの、屋台はいいのかい?」
「いいですよ、そんなの! どうせ中古のおんぼろですからね!」

 いいのかよ。アリスもさっぱりわけがわからないようで、ただ困惑の表情を浮かべ戸惑っている。
 やれやれ、なにがなんなんだ?



 *



「というわけで、これをご覧ください!」

 ここはローザンヌ市街の一角にある酒場。

 まだ人もまばらで薄暗い。だが店内はきちんと清掃されており、なかなかに小奇麗な印象が伝わってくる。俺が部屋を借りたあの酒場とは大違いだ。
 金髪の少女―――リディアは、懐から取り出したおんぼろの地図らしき物体を広げる。どうやらこれは火竜山脈の地理が描かれているらしく、最高峰のモンブラン山の中腹になにか印が付いている。

「……? なんの変哲もない古地図だね」
「ええ。見た目は。ですが! これは今から六千年前に、始祖ブリミルの弟子でロマリアの開祖、聖フォルサテによって作成された由緒ただしき宝の地図なのです!」

 フォルサテ、ねえ。いや、そんな与太話を胸を張って語られても。……お、服に隠れてわからなかったが、意外と胸が大きいな……。この子。
 一方、アリスは無言で短剣を取り出すと『ディテクトマジック』を唱えた。そして、呟く。

「……わずかですが、魔法……恐らくは固定化のかけられた形跡が残っていますね。本当に微量ですが」

 固定化か。しかし、さすがにそれで地球の有史三回分もの年数を耐えられるのか? こんな羊皮紙が六千年も存在するには、それなりの管理を絶やさずに行わなければならない。
 そんな俺の疑問に答えるかのように、目の前で鼻息を荒くした少女が語りだす。

「なんと、これは! 数年前に起きた教皇庁の動乱の際に流出したものなんですよ! 私の父にこれを売り飛ばしたさる枢機卿の方が仰っていたので、まず間違いありません!」

 枢機卿? それってかなり高位の役職だろ。相当腐敗してるんだな。

「最初は私一人で、この地図に書かれている場所へ向かいました。でも火竜やら火トカゲやらたくさんいすぎて、とても先には進めなかったんです」

 なるほど。まあ、『火竜山脈』なんていうくらいだからな。

「なので諦めてこの町で帰りの旅費を稼ごうかと……。家から持ち出してきた地図を売ろうとしていたのですが……」
「あれじゃあな」
「うう……。これでも父は才能のある商人なんですが……」

 そういえば、なぜこの子は一人でこんなところにいるのだろう。別に平民の子はこのくらいの年で自立していてもおかしくないが。

「そこにアリスさんが現れたじゃありませんか! あれだけすごいな魔法を使えるなら、火竜も目じゃないはず! これはまさに始祖ブリミルの天啓! 私にモンブランへ登れとお告げになられているのです!」

 なんだこの子は。ちょっとテンションの浮き沈みが激しすぎる。

「いえ、残念ですが、わたし一人じゃ火竜を相手にするのなんて無理ですよ。もう一人戦闘特化のトライアングルメイジがいれば、なんとかなるかもしれませんが……」
「え、えぇ~……」
「そもそも、わたしたちが一緒に山へ登るメリットがありませんし」

 そう。実際問題、危険を冒してまで行くにはいまいち説得力が足りないのだ。なんだか勢いで話に巻き込まれているが、それに俺たちが応じる必然性もない。
 そうして、沈黙がその場に下りたときだった。

「ふぉふぉふぉ。話は聞かせてもらったぞい。お嬢さん、お困りのようじゃな」

 背後から、完全に狙い済ましたようにオスマンのじいさんが現れた。白く伸びた髭を撫でながら、ごくごく自然に俺たちのテーブルへ腰掛けてくる。肩にはぼろぼろの使い魔・モートソグニルが乗っかっていた。
「不肖オールド・オスマン、悩める乙女に微力ながら助太刀いたそうぞ」

 ……また面倒な人間が現れやがった……。









 ●第五話「震える山」









「おお、これはいい眺めだのう」

 翌日。

 俺たちは大型の風竜に乗って、古地図に記された地点へと向かっていた。

 昨日、ワシに任せろといってどこかへ行ったオスマン氏がこの風竜を調達してきてくれたのだ。いやはや、一体どうやったのだろうか。

「ひゃああ、すごいですね~」

 俺の隣では、リディアが目を見開きながら、眼下に広がる荒涼とした山地の岩肌を眺めていた。きっと風竜に乗るのは初めてなのだろう。俺は何度か乗ったことがあるが、やはりその眺めには感動したものだ。
 時おり吹き上がる火の手。目を凝らしてみると、火竜とサラマンダーの群れが争っている様子が雲の隙間から垣間見えた。
 きっと、俺が思っている以上にこの地での生存競争は過酷なのだろう。モンブラン山は並みの人間が不用意に立ち入ろうものなら、たちまち黒こげの危険地帯である。

 故に人間の手がほとんど入らず、今でも謎が数多く残されている。ロマリアの連中も、ここを調べるにあたって相当数の死傷者を出していることだろう。 
 地図に記されているのは、山の中腹にある岩肌の切り立った地点だ。降下にあたってはかなりの危険が予想される。見た限りではこの付近に火竜はいないようだが、サラマンダーなどの陸上生物が巣食っている可能性もあるのだ。ここは慎重にことを―――

「さて。いきますか」

 どこで揃えたのか登山用の装備で身を包み、薄紫の長い髪を高地の風で揺らす少女は、唐突に呟くとそのまま風竜の上から飛び降りた。……っておい!? ちょっとアリスさんなにしてんの!?
 だが、案の定というかなんというか、アリスはとくに慌てたそぶりも見せずに悠々と太ももの短剣を引き抜き、『フライ』を唱えたようだ。落下速度は瞬く間に緩まり、ついには一定の高さで静止するようになった。

「坊ちゃま! わたしが先に下ります! 様子を見て大丈夫そうでしたら『ライト』で合図しますから、下りてきてください!」
「ああ、わかった! 頼むよ!」

 豪風で声がなかなか途切れそうになるが、なんとか意思疎通はできたようだ。アリスはゆっくりと降下していく。

「あ、あの、彼女、大丈夫なんですか? まだ小さいのに、一人で行かせて」
「僕が行くより、よほど安心できるよ。能力的に」
「そ、そうなんですか」

 しかし、なんとなくついて来てしまったが……。まあ、この子とオスマン氏を二人っきりにするのもどうかと思うしな。

「ときにヴェンツェルくん」
「はい?」

 風竜の上でアリスのサインを待っていると、それまでどこかを向いて考えに耽っていたオスマン氏が話しかけてきた。
 猛風で飛ばされそうになりながら、必死に肩に掴まっているモートソグニルの姿は哀愁を誘う。

「あの少女―アリスちゃんといったかの。君の従者だということはわかる。じゃが、なぜまだ年若い君があの子とたった二人で旅をしておるのかの?」

 う、結構痛いところを突いてくるなあ。まさか親に見離されて追い出されたなんて言えないし……。どうしたものか。
 言いよどんでいると、「下の方で光りましたよ」というリディアの声が聞こえた。天佑だ。

「すみません。その話はまた今度……」

 俺は『レビテーション』を詠唱し、リディアを浮かび上がらせると、自身は風竜の上から飛び降りた。俺はオスマン氏の『レビテーション』で地上まで行き、彼は自分の『フライ』で下りてくるのだ。風竜は一旦ふもとの森林に下りて休むようである。頭のいい竜なので、逃げ出すといった心配はないらしい。

「わっ、わっ、わっ!」

 浮くという感覚に慣れていないのだろう。肩で切りそろえた金髪が縦横無尽に揺れる。まったくうまくいかないのに、必死に姿勢を維持しようと努力する彼女はなんだか愛らしい。

 降下にはそれほどの時間を要しなかった。すぐにアリスの待つ地点へと到着。それからすぐ、オスマン氏もゆっくりと岩肌が露出した険しい山肌に降り立った。辺りは尖った岩が天を突かんばかりの勢いでそびえたっている。これに刺さったりしたら、並みの生物ではひとたまりもないだろう。
 リディアは懐からもう一枚、古びた地図を取り出した。先ほどのものよりさらに古びていて、時おり虫食いのような穴がある。

「“宝”はこの山の洞窟の奥にあると記されています。この地図はその洞窟の詳細が書かれているんです」

 ためしに覗き込んでみると、たしかにうねうねと入り組んだ道がその羊皮紙には記されている。げ……こんな場所に入って行って大丈夫かよ。

「なんだか、一度入ったら最後、出られなくなりそうな雰囲気ですね」
「大丈夫ですよ。ちゃんと地図通りに進んでいけば、行きも帰りも迷う心配はないです」

 アリスが俺の心境を代弁するかように口を開く。まったく、その自信は一体どこから出て来るんだか……。地図が捏造だったらどうするんだ。というよりこれ、穴が開いているのに。


 しばらく歩いていくと、目の前に大きな洞窟の入り口らしき穴が姿を現した。ちょうど真上を大きな一枚岩が塞いでおり、上空からはこの穴の存在がわからなくなっているようだった。

「さっそく着きましたね! 気合を入れて行きましょう!」
「おお、こんなところに洞窟があったとは。とりあえず、『ライト』はワシが点けておこう」

 オスマン氏は手に持った大きな杖を一振り。すると、先端が明るく発光し、洞窟を照らした。光に晒された穴の奥は不気味さも百倍の様相を呈している。

「なにもなければいいのですが……」

 珍しく不安げなアリスの声。怖いのだろうか。よし。
 俺はそっと彼女の手を握った。その刹那、足をブーツで踏み抜かれる感触。っく……これは洒落にならねえぜ……!



 *



 洞窟に入って小一時間といったところだろうか。
 俺たちはとくに怪物に遭遇することもなく、順調に道なき道を進んでいる。若干斜面になっており、ゆっくりとだが確実に地下へ向かっていくのがわかる。

 しばらく歩いたころ。先頭を行っていたアリスがいきなり立ち止まった。一体どうしたのだろう。

「なにか、水の流れる音が聞こえませんか?」
「いえ、私には……。地図によると、この先はなにか開けた空間があるようですが……」

 空間、ねえ。水というとやはり、地底湖の類だろうか。テレビの環境番組でそんな光景が映し出されていたような気がする。人が来ないからか、映像の水はすごく澄んでいた。
 生き物は…。こういう場合、湖には怪獣が住んでいて、縄張りを荒らす侵入者に襲い掛かってくるのが定石だ。ましてここはハルケギニア。なにかいてもおかしくない。いや、むしろいると考えて行動すべきだろう。
 歩きながらそんなことを考えていると、目の前が徐々に明るくなってくる。まさか、この先は外とつながっているのだろうか?

「わあ……」
「これは……」

 とうとう件の空間に到着。それと同時に、リディアやアリスが感嘆の声を上げる。俺も思わず目を見開いてしまった。(とはいえ、まぶたの肉のおかげでそんなに目は開かないが)
 びっしりと洞窟の壁をおおった光る物体によって、辺り一面が淡い光に照らされている。赤い色の結晶がいたるところから顔を出し、きらきらと輝いている。少し歩いたところには予想通り地底湖が広がっていた。青い水がゆったりと岸辺へたゆっている。遠くには滝らしきものも見えた。

「これは……、ヒカリゴケの一種じゃな。じゃが、ここまで強く光る品種はワシも初めて見たよ」

 もさもさとした物体におおわれた壁を撫でながら、オスマン氏は感慨深げに言った。
 リディアはスカイブルーの瞳を宝石のようにきらきらと光らせつつ、一際大きな結晶を食い入るように見つめている。

「せっかくですから、ここで休憩をとりましょうか」

 アリスは背負っていたリュックサックを地面に降ろし、そう言った。彼女はさっそく水筒を取り出して水を飲んでいる。
 休憩か。ちょうどいい。ゆっくりとこの辺りを探索してみたいしな。
 というわけで、俺は『フライ』を唱え、地底湖の湖面すれすれをゆっくりと浮遊する。既出であるが、俺の『フライ』での飛行高度はせいぜいが三十センチほどである。つまり、浮き上がる力が致命的に足りないのだ。
 さきほどオスマン氏に魔法で下ろしてもらった理由。あれは、自分の力量では空中に浮き上がる前に地面に激突してしまうから。どこまで才能がないのだろうか、俺は。
 足元の透き通った水は、ろ過せずにそのまま飲んでも大丈夫そうなほどに綺麗だ。とはいえ、本当にそれをやるうっかりさんは……。

「あいたたた! 湖の水を飲んだら、腹が、腹が痛いのじゃ!」

 ……うん。見なかったことにしようか。



 地底湖に、魚などの動物らしきものはいないようだった。比較的浅いためか湖の底が見える。そこには、白い砂の上に、結晶のかけらがたくさん転がっていた。
 しばらく漂っていると、何箇所か岩が水の上に突き出ている箇所があった。俺はそこに降り立ち、『レビテーション』で湖底の結晶を拾い上げてみる。およそ五センチほどのそれは赤く光り、なんだか得体のしれない“存在感”を放っている。
 これはきっと、ただの石ではない。とりあえず、この結晶をオスマン氏に見せてみることにした。

「……うむ、これはただの結晶ではないのう。『火石』じゃな」

 腹痛でのた打ち回るオスマンじいさんが回復するのを待って、俺は例の石を見せてみたのだ。

「と、いうことは……」
「うむ。モンブラン山は休火山じゃからの。つい百年前ほどに一度大爆発を起こしておる。この火石がそれと関係あるのかはわからぬが、おそらくこの辺りも溶岩でおおわれていたはずじゃ」

 つい百年、といえるこの人は、果たして一体何歳なのだろうか……。

「ええ!? これって火石なんですか!? じゃあ持って帰らないと!」

 話を横で聞いていたリディアは突然立ち上がる。そして、靴を脱ぎ、湖の比較的浅いところへ足を踏み入れた。

「わあ! たっくさんありますよ! ひゃっほーい!」 

 彼女は叫びながら、大量の火石をすくって岸へ上げていく。ふと横を向くと、アリスも『レビテーション』を使って火石をいっきに持ち上げていた。こいつらは……。 

「ふぉふぉふぉ。どれ、ワシも参加するか。コールベルくんにお土産でも持っていってやるかの」

 ……コールベル? それってコルベールじゃないのか…?
 それにしても、なんで火石が水の中なんかに沈んでいるのだろう。たしか、火石は周囲の熱を取り込んで形成されるはず……。なら逆に、熱が徐々に放出されてもいいはずだ。
 試しに水へ手を突っ込んでみる。……いや、冷たい。とても熱が放出されているようには……。

 疑問を抱いた、そのとき―――突如、強い揺れが俺たちを襲った。

「な、なんだ!?」
「むう、これは…」

 揺れは段々と大きくなり、ついには立っているのも辛くなるほどであった。
 天井の岩がぼろぼろと崩れ落ち、ばしゃばしゃと音を立てながら湖面へぶつかっていく。まるで、雨のしずくが水溜りに落ちていく光景のようだ。
 俺たちは慌てて『フライ』で空中へ逃れた。ふと心配になったが、リディアはちゃっかりアリスにしがみついているので大丈夫だろう。


 それからすぐに揺れは収まった。魔法を解除し、俺たちは地面に降り立つ。

「驚きましたね。まさか、いきなりあんな揺れかたをするなんて」
「怖かったです…」
「さすがのワシもびっくり仰天じゃ。じゃが、いきなり噴火するようなことはなかろう。あまり心配せんでええよ」

 だといいんだがな。
 皆が集めた火石は多少ばらばらにはなっていたが、どうやらほとんどが陸地に残っているようであった。それを拾い集め、アリスが取り出した人数分の袋につめる。持ち帰るのは、せいぜい移動の邪魔にならない程度だ。

「袋にはワシが『固定化』をかけよう」

 そう言って、オスマン氏がそれぞれの袋に魔法をかけていく。……うん、かなり頑丈になっている。さすがといったところか。
 移動の準備を終えた俺たちは、さらに奥へと進むために、地底湖の周りの陸地を歩き出した。
 ……結局、ここにはなにもいなかったな。まあ、その方がいいんだけどね。



 *



 地底湖からさらに一時間ほど歩いた頃だろうか。なんだか辺りの気温はぐんぐんと上昇しているようだ。さっきから汗が止まらない。

「ミスタ・オスマン。これはもしや……、溶岩に近づいているのでは?」
「うむ。ワシもそう思っておったところじゃ。……そろそろ危険性もかなり増してきおった。ミス・リディア。もう戻るべきタイミングかもしれぬぞ?」

 オスマン氏も相当暑いようだ。白く長い髭から、汗がしたたり落ちている。

「もう少しです。もう少しで、この地図に記された最下層の空間に着くんです!」

 とはいっても……。もしその最下層の空間とやらがマグマ溜まりだったらどうするんだ。さっきから尋常じゃないほど気温が上がり続けているぞ。このままじゃ丸焼きになってしまう。

「アリス。なんとか温度を下げられないか?」
「そうですねえ……。『アイス・ストーム』で……ちょっと試してみましょうか」

 アリスは少し考え、魔法を詠唱する。すると、俺たちの周りに浮遊する氷の欠片が大量に発生した。同時に風も起き、氷の塊がゆっくりと回転する。氷はすぐに蒸発してしまうが、それが熱を奪い、風がその冷えた空気を俺たちに送ってくれる。氷は溶けたそばからまた発生。おお、これはいいじゃないか。

「すごいなアリス。よくこんなの考えたね」
「うわぁ……。本当に魔法ってすごいですねえ……」
「これは『アイス・ストーム』の変則魔法です。本来はトライアングル・スペルですが、出力を下げることで消費する精神力を極限まで抑えています」

 俺とリディアが感嘆の声を上げているせいか、アリスはちょっと得意げだ。

「ほほう、ミス・アリスはもう魔法を自分で開発できるのじゃな」

 オスマン氏も感心しているようだ。まあ、普通十歳程度じゃまともなドットだって無理ゲーだし……。俺にゃあ一生オリジナル魔法なんて夢のまた夢だよ。
 それからは実に快適に歩くことができた。周りの気温はなおも上がり続けているようなのが気になるが……。


 そうこうしているうちに、とうとう俺たちは洞窟の最深部らしき地点までやってきた。
 道は目の前で途切れており、眼前にはぐつぐつと煮えたぎる溶岩がときおり吹き上がっている。アリスのクーラー魔法は最大出力で展開されているようだが、それでもいよいよ汗が止まらなくなってきた。
 辺りには大量の火石の結晶が出来上がっている。どれも、地底湖で見たのとは段違いの大きさにまで成長している。

「…そんな、おかしいです。まだ最深部はここじゃないはずなのに…」
「その地図が作成されてから、もう随分と経っているのじゃろう? そうなると、長い年月のうちに地形が変わっていてもおかしくないのう。残念ながら、ここまでじゃ」

 信じられない、といった表情のレディアを優しく諭すようにオスマン氏は慰める。
 俺も、もうさすがに引き返したほうがいいと思う。アリスの消耗が目に見えて酷くなってきたからだ。さっきなら力を抑えてもなんとかなったのだろうが、ここは摂氏百度を軽く上回っているのではないか。そんな場所で長時間冷却魔法を使わせるわけにはいかない。
 オスマン氏の説得に、ついにレディアも納得してくれたようだ。よし、一刻も早くこの場から離れないと。

 俺たちはアリスを先頭に列をなしてこの場から去るため、歩き出した。そのとき。


『カチッ』


 ……ん? なんだ今の音は。いかにもトラップのスイッチを踏んでしまったような……。俺は恐る恐る、足をずらしてみる。
 そこには……、明らかに罠のスイッチのようなものが存在していた。……って、これは! 理由はわからないが、俺はこのとき直感していた。みんなを逃がさなければ……死人が出る、と。

「みんな、走れ! 早く!」

 俺はとっさに怒鳴る。だが、疲労した状態ではろくに反応も返せないのだろう。これでは…、くそっ、もうこれしかないか!

「『レビテーション』!!」

 俺は精神力全てを注ぎ込み、全力で『レビテーション』を唱えた。
 三人の体が浮かび上がると、ものすごい速度で来た道を戻り、洞窟のかなたへと消えていく。一瞬、なにが起きたのかわからないらしいアリスと目が合った。
 伝わるのかはわからないが―俺は「心配するな」と目で伝える。正直彼女がちゃんとわかるのか、まったく自信はないが。


 刹那。


 俺は精神力を使い果たし、地面に膝を打つ。
 そして、まるでそれが合図であったかのように、足元の地面に突然大きな穴が開く。俺は逃げる間もないうちに、あっという間に暗闇へと引きずりこまれるのであった。

 ああ、願わくばみんなの命だけは―――





[17375] 第六話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:626d4b90
Date: 2010/08/25 20:41
 思い出すのは、あの夏の記憶。

 ある日のこと。俺はクルデンホルフ城の敷地内にある池のほとりで、妹のベアトリスに絵本を読んでやっていた。空は透き通るような快晴模様で、とても清々しい陽気である。
 彼女は今年五才になったばかりで、まだ文字を読むことはできない。だから、いろいろな場所で俺がこうして絵本を開くのが日課となっていた。
 次は…、ド・アンデルセン作の『醜い火竜の子』か。なんだか、どこかで聞いたような作者にタイトルだな……。えーと……。

「おにいさま。早く次の絵本を読んでください!」

 俺のヒザの上に座る童女が、濃い金髪のツインテールを凶悪に振りまくりながら駄々をこねる。まったく、あと少しで思い出せそうだったのに…。仕方ないか。

「ああ、いま読むよ」


 ―――むかしむかし、あるところに、みにくいひりゅうの子がいました。

 その子どもは、ひりゅうのはずなのに、からだが青いうろこでおおわれています。
 まわりのおとなたちは、みなくちぐちに言いました。
 「ひりゅうのくせに、なぜ青いのだ。その子どもはのろわれている。あくまの子だ」

 ふたつの月がこうさしたよるのつぎのあさ、みにくいひりゅうの子はとうとうおかあさんにすみかをおいだされてしまいました。
 ひりゅうのおかあさんはこう言います。
 「おまえはわたしのこどもじゃない。そんなにみにくいすがたのひりゅうがいるものか。でていきなさい」

 あてもなくあるきながら、みにくいひりゅうの子はさめざめとなきました。
 つかれて、どうしようもなくなったそのこどもは、おてんとうさまにといかけます。
 「どうして、じぶんだけこんなすがたをしているの? なぜみんなとおなじになれなかったの?」
 けれども、おてんとうさまはただかがやくばかりで、そのせつじつなぎもんにはこたえてくれません。

 やがて、みにくいひりゅうの子はまたあるきだしました。
 いくあてなどありません。
 みにくいひりゅうの子は、このひりゅうのさとにはすむことができないのです。

 だれもしらないとおくのどこかへいく。その子どもには、それしか道がありませんでした―――




 *




 何分……それとも、何時間……か? どれだけの時間が過ぎたのだろう。アリスたちは無事だろうか…。なんとか脱出してくれているといいんだが。
 痛い。いや、こうして痛いって考える余裕があるってことは、俺が生きてるってことだ。ない精神力を振り絞ってとっさに『フライ』を唱えたおかげなのか、幸いにも体はそんなに大きな傷を負ってはいない。
 ぐっ……、いや、あばらの一本は折れてるか……。ああ、やっぱり俺の『フライ』じゃダメだな……。

 気を取り直して、上の方を見上げてみる。ずいぶんと高いところに溶岩の赤い光が見えていた。あんなに高いところから落ちたのか。
 それにしても、ここは涼しいな。位置的には溶岩の真下に当たるはずだが。この場所はとてもそんな風には見えない。とりあえず、『ライト』で周りを照らしてみる。

 ……なんだ、これは。
 杖の光に照らされたこの空間は、異様な雰囲気に包まれていた。俺の目の前には祭壇のようなものが直列に立ち並び、壁や床には幾何学的な模様が描かれている。
 壁画…というのだろうか。左から見ていく。まず、棒を手に持った人らしきものが描かれている。その右横には……槍と剣を持ったエルフ? だろうか。これは女性のようだが……。そして、エルフらしき女性の両隣には、なにかの道具を持った人に、怪物を手なずけている人が描かれている。
 次は……。あれ。一番右端の方は、なぜか削り取られている。なんだか在りし日のバーミアーンの大仏のようで、ちょっと物悲しい。
 しかしたしか、ハルケギニアの人間はエルフを大いに恐れているし、エルフもエルフで人間を軽蔑して見下しているはずだ。こんな風に、一緒になってなにかと戦ったことなどあったのだろうか……。うーん、あったような……なかったような。だめだ。思い出せない。
 俺の原作知識にも錆が出てきたか? はあ、どうせこんなの原作にゃあないんだろうけど。そもそも俺の存在がイレギュラーなんだしな。

 祭壇の列の中をゆっくりと歩く。どうやら、これは一柱に一人ずつ偉人かなにかの名前が刻まれているようだ。この先には……。
 もっとも奥まった場所には、一際大きな祭壇があった。その奥の壁には、なにか大きな絵が“あった”ようであるが、さきほどの壁画のように削られてしまっている。
 さて、これは一体なんなのだろう。始祖ブリミルの墓とか? ……いや、それはロマリアにあるらしいしなあ。なにかを祭っているのだろうが……。
 特に意味はなかったが、俺は何気なく祭壇へ続く階段を昇る。そして、石で出来た大きな物体へと手を触れた。ひんやりとした、石の感触が手に伝わってきた。
 これは……、一体なんなのだろう。生贄を捧げるための台というわけでもなさそうだが……。

「うかつには触らないほうがいい。罠があるかもしれない」
「な…、誰だ!」

 唐突に聞こえてきた声。俺は慌てて後ろを振り返る。そこのいたのは、人のよさそうな顔の、黒髪の美丈夫だった。

「私はマチルノ。ガリア北花壇騎士団の団員だ」

 ガリア北花壇騎士団……。たしか原作でタバサが加入していた、表には出せない汚れ役を専門に任される組織のはず。なんだって、そんな奴がこんなところに。

「いや、なに。我々の任務は、ストラスブールで計画を邪魔してきた、あの女の子を捕獲することだ。だがね、私は戦いよりも探求の方が好きなんだ。だから仕事は相方に任せて、私はこうやって趣味の探索をしているわけだ」
「あの、女の子……?」
「ああ、これは失礼。女の子―――それは、君の従者のアリスという子のことだ」
「な……!」

 ……どういうことだ? なぜ、アリスがこんな連中に狙われているんだ?

「今頃は、山の斜面で私の相方が、君の従者が出てくるのを待ち構えていることだろうな。まったく、奴の趣味の悪さは折り紙つきだよ」
「……」
「わけがわからない、という顔をしているね。そうだな……、せっかくだ。君にも教えてあげるとしよう…」

 そう言って、マチルノと名乗った美丈夫は口を開く。

「我々の『計画』というのは―ゲルマニアをけしかけ、戦争へ導くためのものだった。
 本来ゲルマニア系住民ばかりのアルザス辺境伯領やストラスブールに、大量の同胞が流れ込んだのは―――今は亡き仲間であるジュリアンが、彼らを洗脳してけしかけたからだ。
 そうやって地域の民族のパワーバランスを崩し、かつてアルザスを治めていた選帝侯、ロートリンゲン家を刺激する。あの家は未だにアルザスに執着しているから、きっとなにかしらの行動を起こすだろう。
 そして、選帝侯に突き上げられた立場の弱い皇帝は、やむなくなんらかの対策をとろうとする。そこで、だ。アルザス一帯に集めておいた同胞を一気にゲルマニア側に流入させる。すると、どうなると思う?」

 なんだ。こいつは……、なにを言っているんだ。そんなことをすれば、急激に増えた人口に対応しきれずにゲルマニアの人々が一気に大混乱に陥ってしまう。
 ……いや。“そういうこと”か。

「いきなり大規模な人口移動が起きれば、流入された側は途端に大混乱状態に陥る。……つまり、ゲルマニアは、かなりの確立で治安維持のために軍を動かすはずだ」

 俺がそう答えると、このマチルノというこの男は、ちょっと驚いたような顔になった。

「……ほう。そこまで無能というわけではないか。正解だよ、少年。同胞は潜在意識下で“刷り込み”されている。だから、自分たちの行動にはなんら疑問を持たない。きっとゲルマニア側で大いに暴れまわることだろう。
 それを鎮圧しようとしてゲルマニア軍が動けばこちらの勝ち。“上”はね、自国民がゲルマニア軍に弾圧されているとでも難癖をつけて、一気に開戦に持ち込む算段だったようだよ」
「だが、それは……」
「ああ。失敗した。完全にこちらのミスだったよ。万全を期すために、日和見主義のアルザス辺境伯を殺し、その罪をゲルマニア人に擦り付けようとした。それは、つつがなく終わるはずだった。
 だが、私の相方が欲を出してしまったんだ。ゲルマニア人たちが建設したライン川の橋を焼きたい。彼はそう言った。まあ普通に考えて、進行上なんの問題もない程度のことだ。本来は」

 ……日和見? 焼く? ……なんだ、これ。どこかで聞いたことがあるような……。

「まったく、それが致命的な間違いだったとはね。私の相方―――ミゲルがいざ橋を燃やそうとしたとき、空から突然小さな女の子がやってきて、彼を妨害した。薄紫の髪が綺麗で―――将来はさぞ美人になるだろう」

 ……ミゲル? 飛んでいた? ……なんだ。なにかが頭の中で引っかかる。

「彼女はあの歳にしては異常なほどに強かった。だが、それでも『劫火』の敵ではなかった。そう。そのはず、だった。しかし、ミゲルが少女を追い詰めたとき―――」

 劫火……。知っている。俺は、その二つ名を聞いた覚えがあるんだ。

「透明な『なにか』が、彼女の体から湧き出て、ジュリアンを殺し、ミゲルの片手を切り飛ばしたんだ」

 透明ななにか……。じゃあ、あれは、橋の上で死に掛けていたアリスは―――あの『なにか』は、夢じゃなくて、現実だったのか?

「ジュリアンが死んでしまった時点で、同胞たちにかけていた洗脳の効果も無くなってしまった。私たちは作戦に失敗したんだ。“上”は、子供相手に失敗するなんて! って激怒してね。妨害したその子供を連れて来い、なんて命令を下して……今に至るわけだ」

 そうか。ミハイルさんが言っていたことの裏側には、こんな秘密があったのか……。
 こいつらが、こいつらのせいで、ストラスブールの人たちは困っていたのか……。クリスは。

「どうして、私が君にこんなことを長々と話したか、わかるかな?」

 俺が唇をかみ締めていると、マチルノが杖を取り出しながら問いかけてきた。けっ、白々しい。

「冥土の土産、っていうんだろ?」
「ふっ…。まあ、そういうことさ。君は彼女の主のようだから―――その首でもアリスちゃんに見せてやれば、無駄な抵抗もしなくなるだろう」

 人のよさそうな顔の割りにとことんゲスだな、こいつは。しかもアリスをちゃん付けしやがった。俺でもまだ言ったことなんかないのに……許せねえ。
 杖を構え、マチルノと向き合う。チャンスは一回。『レビテーション』で相手の杖を奪い取る。

 俺だって、やるときはやるんだよ……!









 ●第六話「THE LOWEST」









 火竜山脈最高峰・モンブラン山、その洞窟の中。澄んだ水で満たされた地底湖のほとり。
 そこで、長く白い髭を生やした老人が、まだ年端も行かぬ少女を後ろから羽交い絞めにしていた。

「離してください! 坊ちゃまが、坊ちゃまが…」
「ええい! 落ち着くのじゃ! 消耗しきった今の君が行ったところで、溶岩の熱にやられてしまうだけじゃろう!」

 必死の形相を浮かべる少女をなんとか抑えながら、老人―オールド・オスマンは、彼女をなんとか諭そうとする。その後ろでは、金色の髪を肩の辺りで切りそろえた少女が地面に伏し、気絶していた。
 当初、オスマンは自分が洞窟の地底湖の辺りまで飛ばされていることに気がつかなかった。それほどまでに、突然の出来事だったのだ。
 一体、あの場所で彼―ヴェンツェルになにがあったのか。もうかなりの時間が過ぎた。しかし未だに、オスマンはほとんど現状の把握が出来ていない。
 そんなとき、気を失っていたヴェンツェルの従者の少女、アリスが目を覚ます。すると彼女はいきなりトチ狂ったかのように、洞窟を突き進もうとしたのだ。当然、オスマンはそれを止めることとなった。

「彼がどうなったのか、それはまだわからん! なのに慌てて君が行ってどうなる! あの灼熱地獄の中にそのまま突っ込むなど、ただ命を無駄にするだけの無謀な行いじゃ!」
「でも! でも……!!」
「落ち着くのじゃ、アリスくん。彼が戻ってきたときに、君が元気な姿を見せてやらないでどうするのじゃ」
「うぅ……」

 老人はそのしわだらけの手で、ゆっくりと少女の頭を撫でる。妾の子というその出自ゆえに、祖父母が孫に向ける愛情を知らぬアリスにとって、それは初めて感じる類の優しさであった。
 しばらくすると、彼女はなんとか落ち着いたようである。頃合を見計らって、オスマン氏はアリスへ告げる。

「今は休むのじゃ。備えあれば憂いなし、とはとても言えんが、現状そうするより他にないよ」
「……はい」

 そうしてアリスたちが休んでいると、気絶していた金髪の少女―――リディアが目を覚ました。まず地底湖が目に入ったようで、彼女はきょとんとした少々間抜けな顔になっている。
 オスマンがリディアに状況の説明をしている間、アリスはブーツを脱ぎ、地底湖の水へ小さな足を浸らせた。

「冷たい……」

 思わず、そう洩らしてしまう。地底湖の水は彼女の想像以上に冷たく、そしてどこまでも透明。軽く足を動かすと、ちゃぷちゃぷ、という音と共に、湖面を波紋が走る。
 ふと、彼女は自分の体臭が気になった。先ほどまでかなり暑い環境にいたせいか、汗をかいてしまったようであった。
 そうだ。せっかく冷たくて綺麗な水があるのだから……。と、アリスはリディアを誘い、沐浴に興じることにした。




「冷たいねぇ……。でもそれがいい」

 しばらく後。汗ばんだ服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿となった二人の少女は、まるで鏡のようにその裸体を映し出す水面に足を踏み入れた。
 アリスは両手を合わせ、水をすくう。さらさらと砂漠の砂のように水が手から零れ落ちる。
 全裸にもかかわらず、隣で堂々とのんきにはしゃいでいるリディアのほうへ目をやる。なんだか、ぽよよんと音がしそうな脂肪の塊がある。理由はわからないが、アリスは不愉快な気分になった。

 その頃、洞窟を少し入り口側に戻った所にある岩に縄に縛られたオスマンは、洞窟の向こうで繰り広げられるきゃっきゃうふふな光景に思いを馳せていた。
 少女たちが行っていたのは実際はただの水浴びであったが、彼の脳内では違ったようである。白髪の老人の脳裏に浮かぶのは……。

「モートソグニルや」

 岩に縛り付けられた己の使い魔に、オスマンが呼びかける。
 いかに小さなネズミといえども、アリスは容赦せずに拘束したのだ。ローザンヌの町の宿でネズミに下着を盗まれたことが原因のようである。
 明かりのない中での犯行かつ、直後の騒動のためか、彼女が下着泥棒=モートソグニルであることに気づいた様子はなかったが。
 つぶらな瞳の小さなネズミは、主の呼びかけに応えるかのようにオスマン氏の方を向いた。しかし理不尽なことに、オスマンはそのときには完全に妄想の世界へと旅立っている。
 まるで、明鏡止水の心理に至ったかのように穏やかな老人の姿がそこにはあった。頭の中は描写するに堪えない代物ではあったが。 




 同じ頃、地底湖。

 腰まで水に浸かりながら、アリスはなんとなく、ヴェンツェルのことを考えていた。
 デブで馬鹿でスケベ、もうどうしようもないくらいのダメ人間。だけど、数年前はそんなことはなかった、アリスはそう記憶している。
 あの頃のヴェンツェルは既にスケベではあったが、まだ痩せていたし、毎日、来る日も来る日も魔法の練習に勤しんでいた。嫡流の妹であるベアトリスも、そんな兄を好いているようだった。

 だが、ある日を境にそれは一変する。

 それは、ヴェンツェルが父と共に、ラ・ヴァリエール公爵領への訪問から帰宅したときのこと。城に居残っていたアリスは、帰ってきたヴェンツェルの世話をするため、彼の部屋へと向かった。ところが。

「ヴェンツェル~? どうしたの?」

 彼の部屋の前には先客がいた。大公妃である。しかし、彼は母である大公妃の呼びかけにも一切応えず、一週間も部屋にこもりっぱなしであった。ベアトリスが絵本を持って足を運んでも、メイドがスカートをめくっていい、と言っても部屋から出てこなかった。
 そして、やっと部屋から出てきた彼は憔悴しきり、涙も枯れ果てている様子。
 アリスだけではなく、皆が彼に理由を問いかけるが、とうとう誰も聞き出すことは出来なかった。同行したクルデンホルフ大公もさっぱり理由が思いあたらないという。
 それからだ。
 ヴェンツェルは魔法の練習をやめ(このときに家庭教師のダンケルク男爵がなぜか逃げ出した)、ベアトリスに絵本を読んでやることもしなくなった。一方、メイドに対するセクハラは激化し、体重もみるみるうちに増えていった。
 それが何年も続き―やがてヴェンツェルは一家の鼻つまみ者にまで転落。かなりブラコンの気があったベアトリスも、ここに至ってはとうとう絶交宣言までしている。

 最近は一時に比べ、かなりマシになってはいるようであるが―――結局、大公のとった無謀ともいえる荒療治が功をそうしたのかもしれない。
 なにが彼を追い込み、彼を堕落させたのか。そのことについて、アリスは、ラ・ヴァリエールの人間となにかあったのだろうと踏んでいる。異常にプライド高いトリステイン貴族にしても、あそこの一家はことさら癇癪持ちで有名だ。
 せっかく彼と二人で旅をしているのだから、なんとか更生させたい。
 いつか彼が立派な貴族の嫡男として成長する―――それまでは自分が彼を守る。スパルタでやるけど。そうアリスはそう考えていた。

 水を浴びた後、二人は湖から上がる。そしてタオルを体へ巻いた。
 アリスは魔法で風を起こして服を乾かす。しばらくすると完全に乾いたようで、香料で軽く匂いをつけた服に身を通した。
 やっと岩での放置プレイから開放されたオスマンは、なんだか悟っているような様子であった。彼に一体なにがあったのだろうか。しかし、二人の少女はそのことにはまるで興味はないようである。


 それから、三人はしばらく休む。いくらかの時間が過ぎた頃、水筒をリュックにしまったアリスが立ち上り、向かいで杖の手入れをする老人へと告げた。

「……かなり力が戻って来ました。これなら」
「うむ」

 アリスの言葉に、今度はオスマンも頷いた。ただ、内心ではそのあまりに早すぎる回復力に少々の疑問を抱いてはいたが。実際に回復しているようなので、特に言うこともない。
 そしていざ出発しようとしたとき、“それ”は現れた。


「ひゃぁぁぁぁぁぁぁはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! やっと見つけたぜ、アぁぁぁぁぁリスちゅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあん!!!!」

 一人の赤い髪の男が、叫びつつ洞窟を削りながら、地底湖のある空間へ突っ込んでくる。アリスは涼しい顔をしているが、オスマンとリディアは驚きを隠せない。
 「知り合い?」というリディアの戸惑いを含んだ問いに、「いえ、まったくの赤の他人です」と答えるアリス。
 鼻から蒸気を噴き出しつつ、男が三人に歩み寄ってくる。その後ろからは、気弱そうな金髪の青年がついてきている。

「はぁ……はぁ……、我慢できずに持ち場を離れちまったぜ……。感動のご対面だなぁ……。ふへへ、さあ、殺してやるよ……!」

 目を見開いた男の顔は、あまりにも醜悪に歪んでいる。

「み、ミゲルさん、命令は捕獲ですよ! 殺しちゃダメですって!」
「うるせぇ、黙ってろマンショ! お前も焼くぞ!」
「ひ、ひいぃぃぃ!」

 まるで少女のような情けない悲鳴を上げて、マンショと呼ばれた青年は後ろへ下がっていく。力関係をうかがわせる、理不尽な場面である。

「ミスタ・オスマン。下がっていてください。あいつは……、わたしが倒さなければなりません」

 自ら前へ進み出るアリス。オスマンは特に止める様子もない。

「勝てるのかの?」
「前回戦ったときは、殺されかけました。でも、今日は負けません」

 自信に満ち溢れた声でオスマンに応えるアリス。その表情は、どこか凛々しさを漂わせていた。

「なぜ、勝てると?」
「……一分でも、一秒でも早く、坊ちゃまの元へ急ぐために。わたしに負けるという選択肢はなくなりました」

 まるで根拠に欠ける無責任なアリスの言葉であったが、オスマンは納得したかのように頷く。そして、後ろへ下がった。リディアはよくわかっていないようである。

「そうか。わかったわい。必ず、勝つんじゃぞ」
「はい!」

 少女は、返事と共に腰の鞘に差した短剣を引き抜く。それを見るに、ミゲルも左手で杖を構えた。
 オスマンはリディアを引きつれてかなり後ろへ下がった。マンショと呼ばれた青年も、どこかへ姿をくらませる。

「さぁぁぁぁ、プァァァァァリィィィィィィィィィの始まりだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「なに言ってるのか、全然わかりませんよ」
「YAAAAAAHAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「(だめだこいつ…)」

 完全にラリっている。アリスはさっさと魔法を唱えることにした。ミゲルも、わけのわからない言語でなにか詠唱している。
 そうして生み出される、真空の層を内包した巨大な竜巻。

 先に戦闘開始の鐘の音を告げたのは、アリスの『カッター・トルネード』であった。



 *



 ……ぐっ、痛い……。一瞬、意識が飛びかけた。

 『レビテーション』で相手の杖を浮かび上がらせるまでは良かったのだが、ここでとっさに予備の杖を出されてしまってはもうどうしようもない。
 瞬く間に『エア・ハンマー』で逆襲され、俺は背後の祭壇に背中から打ちつけられる。このとき感じる、ただでさえ折れている肋骨が肉に刺さるなんともいえない嫌な感触。吐きそうになるぜ……。
 なんとか立ち上がろうとするが、飛んできた『マジック・アロー』が足を直撃。俺は無様に床へ転がった。

「あっけない。従者の少女の方がよほど格上じゃないか……。上に立つものがこれではな……」

 悪かったな。どうせ俺はザコだっつうの。

「ふん、では、首を切り取らせてもらう。最初は痛いだろうが、なに。心配するな。すぐになにも感じなくなるさ」

 くそ……。ここまでか……。あんまりあっけなさ過ぎるぜ、俺は…。

『あらあら、情けないわね』

 ……ん? なんだ、この永遠の十七歳声優みたいな声は。幻聴だろうか。ああ、俺もとうとうラリッパーの仲間入りなのか……。

『現実逃避してる場合じゃないでしょ。アタシの話を聞きなさい』

 うるせえ。俺は自分で作った脳内キャラクターと座談会を繰り広げるような痛いヤツじゃない! ないんだよ!!

『もう。いい? 生き残りたいなら、腰にぶら下がってる火石をおもいっきり空中にぶん投げなさい。そして、念じるの。《ああっ女神さま》って』

 ふざけんなコラ。もういい、寝る。

『いま寝たら永遠に目が覚めなくなるわよ? いいの?』

 もういいよ、パトラッシュ。僕は疲れたんだ。ルーベンスなんてバリチェロだけでお腹いっぱいだよ。

『あーあ、アタシがついてれば、たくさんの女の子と仲良くなれるばら色ライフが待ってるのに』

 おい、待て。なんだと。

『そのまんまよ。あなたがアタシを認めれば、あなたのハルケギニアカーストは最下層から一気に五桁くらいには上がれるわ』

 ……なんで五桁なんだよ。すげぇ微妙な数字だな。

『いい? 現状のあなたはハルケギニア屈指の低位カースト。このままだと、あと六行くらいで死ぬのよ』

 うおおい!? ってよく見たら、北花壇騎士の野郎が歩いて数歩の距離にいやがる!? 気の早いことに、すでに『ブレイド』を展開してらっしゃる!?

『で? どうする?』

 ああああああああ、糞がああああああ!!!!!!! 《ああっ女神さま》!!!!!!!!!!


 俺は慌てて火石を放り投げる。敵の驚くような顔。なぜか俺の左目から光が放たれ、放り投げられた火石に命中。火石が瞬時に発火し、まばゆい光におおわれた。
 同時に、背後の祭壇の蓋が勢いよく弾け飛んだ。中からなにか飛び出し、火石と交じり合う。その“化合物”は瞬く間に膨れ上がり、次の瞬間には、柔らかな女性のボディラインが形取られた。
 くせのない、燃えるような長い真紅の頭髪。髪に負けず劣らず紅い、大きなぱっちりとした瞳。
 肌は適度に白い。身長はそれほどないが、その体躯には不釣合いなほどに発達した大きな胸部が目を引く。足は異様に長く、腰の位置がすさまじいほどに高い。

「……ふう。六千年ぶりの空気は美味しいわ」

 なんだかわからないが、俺の目の前に『女神さま』が降臨した瞬間だった。体には妙なボロ切れをまとっている。……なんだか、暑い地方の人が着ている服のようだ。

「また、か。主従揃って、妙なものを呼び出すのが得意のようだな……」

 マチルノが吐き捨てるように呟く。

「あら、妙なものってずいぶんと失礼な殿方ね。消し炭になりたいのかしら?」
「いや、それは遠慮しておくよ。生憎、私はまだ生きていなければならないのでね。それでは、また会おう! どこかの貴族くん!」
 そういうなり、マチルノは後ろを向き、脱兎のごとく逃げ出す。最後に手を振ったりして、無駄に格好つけながら逃げてやがるな。 

 そういや、俺の名前ってばれてなかったのか……。と、『フライ』で逃走する美丈夫を眺めながら気づいた。それなら、実家が狙われる心配もないだろう。
 しかし、いやにあっさりと逃げ出したな。引き際が肝心ということを心得ているのだろうか。


「はじめまして、かな。ヴェンツェルくん。アタシはヘスティア。あなたの女神さまよ」

 俺がぼうっと逃げる美丈夫を見送っていると、先ほど現れた自称・女神さまが話しかけてきた。しかし、一体なんなんだ。これは。
 外見年齢は十六、七といったところだろうか。キュルケ、というよりはシルフィードの人間形体に近い感じだろうか。

「ああ、はじめまして。俺はヴェ……知ってるんだっけ」
「ええ。あなたのことは、あなたが生まれる前から知ってるわよ」

 生まれる前から……だと? どういうことだ。まさか……俺のストーカーなのか? いや、まあそういうことはないんだろうけど……。
 いや……そうだ。忘れちゃいけない。今は、もっと大事なことがあるんだ。

「俺は一度上に戻らないと。アリスたちがどうなったのかわからないし」
「……アタシのこととか、気にならないの?」

 ちょっとすねたような口調で唇を尖らせるヘスティア。

「気になるって言えば気になるけど、今は非常時なんだ。話なら後でゆっくり聞くよ」
「淡白ねえ。そんなだから童貞なのよ」

 うるさいな……。忘れがちだが、俺はまだ十歳なんだよ。だからいいんだよ、童貞でも。童帝にはなりたくないけど。
 俺はすねる彼女を説得する。まあ、本気で怒ってるわけでもないみたいだし、あっさりと納得してくれた。
 彼女に「なんでアタシを見ても驚かないの?」と言われたが、それは「まあハルケギニアだし」の一言で済んでしまうレベルの話だからだ。

 ……あ。しまった。ここをどうやって脱出すればいいのか、まったく考えていなかった。どうしよう……。

「大丈夫よ。アタシが岩盤を砕きつつ、溶かして進むから。大船に乗ったつもりでいなさい」

 おお、なんというチート。ついに俺にも春が来たか……! このサブタイトルに偽りなし、だな。

 というわけで、俺はヘスティアにつかまってモンブラン山の岩盤の強行突破を敢行したのであった。





[17375] 第七話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:626d4b90
Date: 2010/08/25 20:42
 モンブラン山、地底湖沿岸。
 何人もの少女が、赤い髪の青年を取り囲み、散々に痛めつけている。青年は反撃しようとするが、どれだけ潰しても次から次へと少女は再生成される。

 『遍在』と呼ばれる、風のスクウェアスペルが存在する。詠唱者とまったく同じ形質を持った、“もう一人の自分”を生み出すことのできる魔法である。生み出された分身は自立した意思を持ち、本体から遠く離れていても活動できる。
 風系統の魔法は実に幅広い応用が利くため、「風こそが最強の系統である」という思想に至る人間も少なくない。現実にそれを証明しているのが、かの『烈風カリン』であろう。
 確かに風の魔法は強い。だが、対抗する手段がまったくないわけではない。どの系統でも、メイジの応用次第では、いくらでも優劣が入れ替わる。

 だが、このとき赤い髪の青年、ミゲルは酷い錯乱状態にあり、ほとんどまともな思考能力を残していなかった。ゆえに、『遍在』に対して『ブレイド』を振り回し、体力を無駄に消費するという悪循環に陥ってしまっている。

「これはまずいな……」

 岩の陰に隠れながら戦況を見守る気の弱そうな青年、マンショが呟いた。彼は、くすんだ金色の短い頭髪にわしゃわしゃと手を突っ込みながら、さも億劫そうにため息をつく。
 あのままではミゲルは負けるだろう。未だ実力で少女を圧倒するはずのミゲルだが、それは錯乱していなければの話である。今の彼なら自分でも一瞬で倒せるだろう。マンショはそう考えていた。

「仕方ない。とりあえず牽制して、ミゲルさんを無理にでも引きずって、戦線離脱といきますか……」

 マンショ青年はまた呟き、その重い腰を上げた。


「これで、終わりです!」

 少女―――アリスの甲高い叫び声と共に、五人の『遍在』が一気に止めを刺すべく、手にした短剣に『ブレイド』をまとわせる。
 対する赤髪の青年、ミゲルは散々翻弄された挙句、体力をかなり消耗していた。もうほとんど抵抗する力は残されていないだろう。アリスは自らの勝利を確信した。

 だが。

「! ぐうっ!?」

 突如、『遍在』の後列に陣取っていたアリスの本体に、ブーメランかなにかによる強烈な衝撃。とっさに空気を体のそばに集めて防御するものの、予想外の方向からの思わぬ攻撃に対処しきれず、少女は地底湖へ向かって吹き飛ぶ。
 しかし、そこは持ちこたえる。彼女はとっさに『フライ』を唱えて姿勢を建て直し、自らを吹き飛ばしたモノの正体を確かめようとした。

「……ゴーレム。それも……鋼、ですか」

 彼女の眼下には、一体のゴーレムが隊列を組んでこちらを“見上げている”。丸みを帯びた甲冑の表面は鈍く輝き、それが金属で出来ていることを示していた。
 一体の大きさは三メイルほどであろうか。人間からすればかなりの巨体ではあるが、ゴーレムとしてはそこまでではない。
 アリスはその後ろへ目を向ける。先ほどの気の弱そうな青年が、背中に赤髪の青年を背負っているのが見えた。いつの間に戻ってきたのだろうか。少女は舌を打つ。
 すかさず、逃がさないとばかりに『エア・ハンマー』を二人の青年へ向かって放った。だが、それは新たに現れた盾装備のゴーレムによって防がれてしまう。

 風系統の弱点は重い物体に対して攻撃が効きにくいという点である。特に、『エア・ハンマー』のような風そのものを攻撃として使う魔法はそれが顕著に現れる。風メイジにとって最大の難敵は、硬く、重い鉄を生み出すことのできる土メイジなのだ。
 そして、今アリスの目の前に立ちはだかっているのは、その土メイジそのものだった。

「なら―――これで!」

 今度は『ジャベリン』。しかし、それもあっさりと防がれてしまう。鋼で出来たゴーレム相手には、そこそこ密度が高い程度の氷の塊では歯が立たない。

 ならば、どうするか。接近戦は厳しいだろう。既に青年は洞窟の狭まった場所に差し掛かっている。それに、地上に降りてしまえばゴーレムを相手にしなくてはならない。

「追撃は……、無理ですか」

 アリスはため息まじりに呟いた。
 地面を見下ろすと、さらに複数のゴーレムが洞窟の出入り口を陣取り、塞いでいる。数は十体。あの青年は見た目に反してかなりの使い手なのだろう。彼女はそう感想を持った。
 しばらく観察していたが、ゴーレムらはこちらに仕掛けてこようとはしない。あくまでも、青年達が安全圏に逃げるまでの時間稼ぎなのだろう。やはりあの青年は消極的な性格なのだとわかる。

 さて、どうするか。とりあえずオスマン氏らの元へ向かおうか。
 そう考えたとき―突如、ゴーレムたちが佇む地面が轟音を上げて砕け、そこから火達磨の物体が飛び出した。
 とうとう火系モンスターでも出たのだろうか。ところが、そうではなかった。



 *



「着いたわよ。……ってあれ、ここってまだ洞窟の中ね」
「地底湖か……。まあ、後は歩けばいいよ。ありがとう……。しかし、石でも目に入るかと思った」
「あら。それは大丈夫って言ったじゃない」

 確かに、大丈夫なことは大丈夫なんだろうけだなあ……。ヘスティアの体をおおう『力場』に触れると石が溶けてしまうのはこの目で見たんだが、チキンな俺はどうしても怖いのだ。
 しかし、なんだこの鉄の残骸みたいなのは。彼女の『力場』に接触したせいか、皆ことごとく溶けてしまっている。
 一体、ここでなにがあったのだろう……。

「……坊ちゃま。無事だったのですね」

 うん? この声は……。

「アリス。君も無事だったのか」
「ええ。おかげさまで。ミスタ・オスマンやリディアさんも無事です」

 そうか。それはよかった。……ん? なんで途端に不機嫌な表情になるんです? アリスさん。

「坊ちゃま……。その女の子は、一体どうされたのですか? とうとう児童誘拐犯にでも成り下がったのですか?」
「はぃ?」

 なに言ってるんだこの子は。ヘスティアのことなら、彼女は十六、七くらいの外見年齢だぞ。決して児童なんかでは……。そう思い、ヘスティアの方を振り向いた俺は、驚愕のあまりその場で固まってしまった。
 なんというのか……。そこにいたのは、紛れもなく小学校に上がるか上がらないかくらいの、小さな童女だったからだ。

「へ、ヘスティア。それは…」
「あら。小さくなっちゃったわね。力を使い果たしちゃったのかしら」

 当の小さくなった本人はさして重大なこととは思わなかったらしく、のんきに俺の腹に顔を埋め込んで「柔らか~い」などとやっている。
 ……え? あれ。さっきまでお姉さんだったよね。なんなのこれ。

「坊ちゃま……。わたしは寛容な人間なので…。あなたがむごたらしく死期を迎える前に、最後の弁明くらいなら聞いてあげますよ…?」

 妙なオーラを吹き出しながらそう言い、短剣を構えるアリス。なんてこった。また地雷を踏んでしまったのか!

 お、おい。待て。やめろ。俺の話くらい聞きなさい。あ、待って! 弁明させてくれるんでしょう!? あが、それは皮膚をそぎ落とすための物じゃありません! やめて! やめてください! イヤァァァァァァァァァ!!!!!! そこは、ちが、ちg



 *



「無様だな……。ミゲル」
「けっ……うるせえよ」

 モンブラン山の洞窟から少し離れた岩の上。赤い髪の青年、ミゲルが岩の上で横になりながら、そばにいる同僚の黒い髪の美丈夫、マチルノへ悪態をついている。
 彼らは洞窟を各々で脱出した後、この岩で落ち合ったのである。

「前回半殺しにした相手にぼろぼろにやられて、少しは客観的に自分の行動を見直すことができたか?」
「…………おうよ。嫌ってほどにな」

 ミゲル自身、さきほどまでの自分がハイになりすぎていたのは、もはや否定しようのない事実であった。やはり、右腕を失ったのが大きいのだろうか。元々熱しやすいたちなのだ。彼は。

「さて……。この有様じゃあ、“上”もいよいよ黙っていないだろうな。現実に首が飛ぶかもしれん」

 北花壇騎士団に課せられた責務は、想像を絶するほどに重い。だが、彼らは裏社会の人間。いなくなったところで誰も困りはしない。ゆえに過酷な任務に投じられ、いとも簡単に切り捨てられる。

「……」

 二人の間に、重い沈黙が下りた。

 その後、ミゲルとマチルノが軽食を摂りながら休んでいると、どこかへ消えていたマンショが戻ってきた。

「マチルノさん。“上”の伝令から通達がありました。現在の作戦を中止し、ただちにリュティスへ帰還、本部へ出頭せよとのことです」
「なに?」

 どういうことだ……? こちらはまだ作戦の失敗を伝えていない。首都でなにか問題でも起きたのだろうか。
 それに、呼び出しというのが気になる。普段ならば命令を文書伝いにこちらへ送りつけるだけだというのに……。マチルノは顎に手を添えた。

「うだうだしててもしょうがねえ。帰って来いっつうんだから帰るほかねえよ」

 ミゲルはそう投げやりに言い放つと、左手を岩について立ち上がる。

「……そうだな。俺たちはもう地に落ちた身だ。今さら保身など考えることもない……」

 マチルノはミゲルに同意し、自らも立ち上がった。黙ったままのマンショは彼らに異論を唱えない。

 結局、三人は命令通りリュティスへ帰還することになった。









 ●第七話「レッド・ディスティニー」









「アタシの力の源は火石なのよ。これがないと、力を使ったときさっきみたいに小さくなっちゃうの」

 赤く光る精霊石を手で弄びながら、十代後半ほどに見える女性が説明する。彼女が座る椅子の脇には、山積みになった火石の袋が詰まれていた。

「あ、でも当分の間は大丈夫よ。さっきかなり補充したから」

 そう。火石をエネルギーとするらしいヘスティアは先ほど、地底湖にあった火石のほとんどを吸収していたのだ。おかげで地底湖はかなり殺風景になっていた。

 あれから、モンブラン山を降りた俺たちは、とりあえず最初に部屋を借りた酒場へと戻ってきていた。
 店は開いてはいるが、客は俺たちしかいない。もう夜もふけてきたというのに、大丈夫なのだろうか。この店は。

「なるほどのう……。それで、お主は一体何者なんじゃ?」

 真紅の髪の“女神さま”ことヘスティアの隣に腰掛けるオスマン氏が重々しく口を開いた。しかし、その視線はヘスティアの組まれた白く長い脚へ釘付けになっている。なんとも情けない。

「忘れたわよ。なにせ六千年は封印されてたんだもの。ヴェンツェルくんを通して世界を見られるようになるまで、ずっと真っ暗闇の中にいたし……。仕方ないから寝てたわ。そしたらほとんど忘れちゃった」

 あまり緊張感のない声音で彼女は言う。
 まあ、確かに六千年もずっと眠っていたら忘れるのも無理はないか……。

「ヴェンツェル坊ちゃまを通して世界を、というのはどういうことですか?」

 俺の隣に腰掛けたアリスがジト目で問いかける。彼女はまだ不機嫌なままだった。八つ当たりで俺の足をぐりぐりと踏みつけるのはやめてもらいたい。

「それはね、彼の左目に秘密があるのよ」
「坊ちゃまの左目……? たしか赤かったですよね。不吉な月目……」

 一言余計だが、このハルケギニアではそういうことになってるから……、仕方ないのかな。
 
「なぬ!? 君は月目だったのか。まったくわからんかったぞい」
「私も今まで気づきませんでした!」

 リディアとオスマン氏が共に大声を上げる。
 二人はとても驚いたようで、しきりに俺の顔を覗きこむ。そして、「ああ」といった風に納得した。……なんだか、複雑な気分だ。

「……で、坊ちゃまの左目とあなたの視界になんの関わりがあるんですか」
「あなたには教えないわ。ヴェンツェルくんにだけ後でこっそり教えてあげる」

 アリスの問いかけを冷たく受け流すヘスティア。一瞬目が光ったような…。いや、気のせいか。

「あとで二人っきりでゆっくりお話しましょう。ね?」

 いや、そんなウインクされても。
 急に黙り込んだアリスの視線が突き刺さるように痛いのですが。いっそう俺の足へかかる負荷が増してくる。……痛い。

 もう夜も遅い。俺たちはとりあえず部屋をとって休むことにした。だが、ここでまた問題が生じる。

「ヴェンツェルくんはアタシと二人だけの部屋に決まってるじゃない」
「ふざけないでください。男女で一部屋ずつ取ればいいじゃないですか!」

 そう。なぜか部屋割りで揉めだしたのである。
 アリスの方が正論を言っているのは明白。しかし、なるべくなら俺を巻き込まないで欲しいのだが……。

「ねえ。あなたも、アタシと一緒の部屋で同衾したいわよねえ?」

 突然ヘスティアがこちらを振り向き、俺をがばっと抱きしめてきた。……うおっ、胸に顔が埋まる! 柔らかい! でも苦しい! ふしぎ!

「な……。やめなさい!」

 焦るようなアリスの声と共に、後頭部に衝撃が走る。ぐふっ……。なぜ俺が殴られなきゃならんのだ……。

「あら、ジェラシー? おませさんねぇ」

 なにを言い出すんだ君は。

「ぐ、ぬ……、もう知りません! 勝手にすればいいじゃないですか! 行きますよリディアさん!」
「あ……はい」

 怒ったアリスは、リディアを引きずって二階へ上がってしまった。残された俺やオスマン氏は、どうしていいのかわからずにおろおろとするしかない。

「もう二部屋借りればいいじゃない。おじいちゃんは一人で泊まってね♪」

 女神さまの鶴の一声で、オスマン氏も部屋を借りて二階へ上がっていく。なんだか寂しそうな背中だ……。

「じゃあ、アタシたちも行きましょう」
「……ああ」

 ……なんだろう。このグダグダ感。疲れたからだろうか。もう休むか……。
 『レビテーション』で火石の入った袋を持ち上げ、俺たちは階段へと歩みだした。



 *



「ああ、疲れた……」
「どうしたの。夜はまだ長いわよ?」

 新たに借りた二人用の部屋は、昨日まで泊まっていた部屋よりはまだ綺麗だ。今頃あのボロ部屋はアリスたちが使っていることだろう。
 俺は部屋に置かれたボロ椅子へ座る。それは俺の体重のせいか、嫌な音を立てて軋む。
 さて、どうするかな。チートなことはチートだが、はっきり言ってわからないことが多すぎる。アリスに折檻されたおかげで、モンブラン山からの帰りは気絶しっぱなしで完全に聞きそびれたし。

「アタシのこと、聞いてくれる気になったかしら」

 ヘスティアがベッドに腰掛けながら、俺に問いかける。月夜を浴びながら真紅の髪を手先で弄る彼女は、なんだか神秘的な雰囲気を放っていた。

「ああ。現状、わからないことだらけだからね」
「そうでしょうね……。じゃあ、なにから聞きたい?」

 うーん、どうするか。……そうだ、俺のオッドアイについて訊いてみるか。さっき後で教えてくれるって言ってたし。

「僕の左目を通して世界を見てたって言うけど、あれは一体なんのこと?」

 たしか、使い魔の視点を主であるメイジが見ることができたりするらしい。アルビオンでルイズが窮地に陥ったときの才人のように、逆のパターンもある。しかし、彼女は俺の使い魔というわけではない。
 
 するとなにを思ったのか、ヘスティアはベッドから立ち上って俺に顔を寄せてきた。まるで彫刻のように整った女性の顔が近づいてきたので、俺は思わず上体を後ろへそらしてしまう。ブヒッ
 そして、彼女はとても小さな声で言った。

「あなたの右目は青いのに、左目が赤いのは……、そこに『火のルビー』が埋め込まれているからよ。アタシがあなたの目を通して世の中を見てこられたのは、そのおかげなの」

 …。
 ……。
 ………はい?

「…ちょっと、待ってくれ。いま、『火の…」
「しっ!」

 うぐ。
 突然ヘスティアの細い指が伸びてきて、俺の口を塞ぐ。

「その名を安易に口に出してはだめよ。それはただの宝石じゃない。もしかしたら、あなたの運命を大きく変えてしまうかもしれないほどの代物よ」
「あ、ああ…。わかった」

 運命…か。思えば、俺の人生は驚きの連続だな……。

「あ、ちなみに、放浪に出たあなたを干渉してモンブランまで誘導したのはアタシよ。火の…rじゃなかった、『それ』があれば封印が解除できたし……。まさかあんなところで敵が来るとは思ってなかったけど」
「……封印を解くために僕を呼んだのか?」

 こいつの仕業かよ。なんだかえらい目に遭ったぞ。しかし、どうやったのかまったく想像がつかん。

「まあ、それもあったけど……。一番はあなたに会いたかったから。嘘じゃないわよ?」

 どうだか。……と思ってしまう俺はきっと心が歪んでいるのだろう。

 しかし……。火のルビーか。
 なんでそんな物が俺の目に入り込んでるんだ?
 それに、原作では火のルビーは紆余曲折を経てコルベールのおっさんが持っているはず。それも、入手場所は海沿いのダングルテール地方だ。どう流れが変われば、内陸部のクルデンホルフに生まれた俺が……?

「アタシは、あなたに『それ』が宿った経緯はわからない。ただ、ある日いきなり自分の知らない世界が見えたの。それは……、あなたのお母さんのお腹の中だったのかしらね」

 ……そうか。出会ったときに言っていた、「生まれる前から」というのはそういうことか。いや、だが。子宮にいる胎児って目なんかまだ開いてないよな。どういうことだ? ファンタジーだからといってその辺いい加減では困る。

「ずーっと真っ暗い中で退屈してたから、あなたの目を通して見た世界はとても新鮮だったわ。まるで自分がそこにいたような……。不思議な感覚だった……」

 まるで夢見る乙女のような表情で彼女は語った。
 どうしてあんな場所に閉じ込められていたのか。俺にはあずかり知らないところだけど、きっと辛かったであろうことは容易に予測できる。せいぜい寿命が七十年の人間には、永久に理解することのできない苦しみだろう。

 ……ん。待てよ、
「ということは…。ヘスティア。君は、僕がラ・ヴァリエールに行ったときも……」

「ええ。もちろん見せてもらったわ。でもね~、まさかあの桃色ブロンドの可愛い子が……むぐぅ!?」

 俺は、その巨体からはおおよそ想像のつかない素早い身のこなしで、彼女の口へ脂肪のたっぷり詰まった太い指を当てる。

「や、め、て、く、れ……。そのことは……二度と、口に、出さないでくれ……」
「むぐぅ……」

 どうやら彼女もわかってくれたようだ。一生懸命首を縦に振っている。……しかし、まいったな。“あのこと”を知っている人間(?)が、もう一人いたとは……。
 俺は、絶対に思い出したくない過去がフラッシュバックしそうになり、思わず床へ膝をついてしまった。
 いや……。深く考えるのはやめよう。

「もう……、ヴェンツェルったら大胆よ。“そういう”のが好きなのね」

 俺がなんとか立ち上がると、目の前で自称女神さまがくねくねと変な踊りを踊っていた。一瞬、キ○キタおやじを思い浮かべてしまう。が、さすがに彼女に悪いので、その考えはすぐに打ち消した。

「なんだよ、そういうのって……。ああ、もう寝よう」

 もう付き合いきれん。俺は一人でさっさと二つあるベッドの片方に潜り込む。若干ほこり臭いが、贅沢も言っていられない。
 そうして俺が目をつぶったとき、さも当然のようにヘスティアがベッドに入ってくる。

「……ベッドならもう一つあるんだが」
「あら。いいじゃない、減るものじゃないし」

 そう言うと、彼女はかけ布団にしがみつく。てこでも離れる気はないようだ。

 ……わからん。なんでこの子がこんなに好意的なのか。もしかしてなにかの罠じゃないのか?



 *



 ところ変わって、ここはヴェンツェルたちが最初に宿泊した部屋。

 ベッドが一つしかないため、アリスとリディアは一緒に横になっている。幸い、ベッドそのものはキングサイズで二人寝てもまったく問題ない。
 二つの月が天高く昇り、建物の角に位置したこの部屋の中を淡く照らしていた。

「……アリスさん。もう寝ましたか?」
「いえ……。まだ、眠れないです」

 二人はお互い外側を向いて寝ていたが、このリディアの言葉をきっかけにして向き合った。

「リディアさん。結局聞きそびれていましたが……。どうして一人で、こんな場所にいたのですか?」

 アリスはかねてより抱いていた疑問を目の前の少女にぶつけてみる。

「……うーん、ええと……。なんて言いますか。私、家出して来たんですよ。あ、実家はアルビオンなんですが…」

 それから、リディアは延々と身の上話をアリスに語った。

「はあ……。つまり、あなたは自分のお父さまと喧嘩をした。腹いせに宝の地図を持ち出したあげく家出した、と」
「……ええ、そんな感じです」

 たっぷり三十分は語った内容をアリスに散々省略され、リディアはちょっとがっくりとしている。話の大半がどうでもいい雑談にそれていたのが、そもそもの原因だが。

「これから、どうなさるつもりなんですか?」

 アリスは再び彼女に問いかけた。
 すると、金髪の少女は少し悩んだ風な表情になった。「宝はなかったし……」と呟く。そして。

「もうすぐオスマンさんがトリステインにお帰りのなられるそうなので、同行させてもらおうかと。あわよくば魔法学院で雇ってもらえないかと企んだり?」
「ああ、まあ……。このまま宛てもなく放浪するよりはいいですね……」

 それなりの見た目と、そこそこの教養があるらしいリディアなら魔法学院でも働けるだろう。あのオスマンなら望めば雇うだろうし……と、アリスは思った。

「アリスさんはどうするんですか?」

 ふいに、今度はリディアが質問をぶつけてくる。

「……わたしの場合は、完全に坊ちゃま次第ですね。自分は特にどうしたいというのはないので」

 とはいえ、本当に危ないところに彼を近づけるわけにはいかないが……。と頭の中で付け加える。

「そういえば、どうしてお二人だけで旅を?」
「……それは場の成り行きというやつです」
「はあ……。そうなんですか」

 リディアは多少疑問に思ったが、なにか事情がありそうだからと、深く詮索することはしなかった。

 そうして、その後は特に会話もなく、気づけば二人は寝入っていた。





 同じ頃、一人部屋で寂しく月を眺めるオスマン氏は、自らの肩の上で木の実をほおばり、その屑を撒き散らす己の使い魔へ向かってこう呟いたという。

 「……可愛い秘書が欲しいのう」






[17375] 第八話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:626d4b90
Date: 2010/08/25 20:42
 モンブラン山での一騒動から一晩経った、翌日。

 俺は宿をとったローザンヌの町外れにある酒場の一階フロアのカウンター席で、オスマン氏と共に他の皆より一足早く朝食をとっていた。
 白髪の老人の足元では、使い魔のモートソグニルが花の種をかじっている。

「ミスタ・オスマン。この後はどうするつもりですか?」

 彼に、今後どうするのか尋ねてみる。
 すると、オスマン氏はフォークを動かしていた手を止め、重々しい口調で言葉を吐きだした。

「……ここだけの話。ワシは今、一ドニエしか持っておらんのじゃ。これでは魔法学院に帰ることもできん」

 やっぱりというか、彼はほぼ無一文なようだ。しかし、かのトリステイン魔法学院の学院長ともあろうものが、なぜ行き倒れるという失態を? これまでいろいろと経験を積んできただろうに……。

「どうしましょうかねえ……。僕たちもあまり金銭に余裕はないんですが……」

 そう。ここ最近出費が増えてきたせいか、俺の所持金はもう底を尽きそうである。アリスが渋々お金を出している状況なのだ。
 俺たちはため息を吐く。

 すると、それをカウンターの向こうで見ていた店主がこちらに声をかけてきた。年のころは四十代後半だろうか。やせぎすの物静かな男である。

「お客さんたち、メイジなんでしょう? だったら、今日から行われる亜人討伐にでも参加してみてはどうですか? ローザンヌ伯が有志を募っているそうです。成功時には懸賞金が出るらしいですよ」

 亜人討伐? 火竜とかじゃないのか。……お金が貰えるというのは大変興味がある。貴族主催ならそれなりには出るだろうし。

「亜人? この辺りにおるのかの?」

 さっそくオスマン氏が興味を持ったようで、店主に問いかけている。

「ええ。オーク鬼らしいです。最近、火竜山脈の南斜面にいた大きな群れの一部がこちら側に移動してきたとか」
「初耳じゃのう。して、その討伐隊というのはどこで参加を受け付けておるのかのう?」
「もうすぐ、中央広場で討伐隊の編成を行うらしいです。人手不足みたいですから、当日参加でも大丈夫でしょう」
「おお、なるほど。情報ありがとう。助かるよ」
「いえ」

 ……なんか、不人気酒場の店主にしてはやけに詳しいな。でも不思議っちゃ不思議なんだよな。ここの料理はなかなかに美味しいのに、どうして客が来ないんだか。
 試しに店主に聞いてみると、「この酒場は場所が悪いですし、お客さんも“そっち”の人が多いからではないでしょうかね?」と苦笑交じりに言った。
 確かに、初日から変態がいたしなあ……。ぼろいのは、流行らない以上は仕方のないことなのかもしれない。

 その後。女性陣が起きだしてくると共に、俺たちは討伐隊の参加申請をするために町の中央広場へと向かった。

 リディアは亜人討伐には参加せず、給仕かなにかの仕事でも探すと言っていた。まあ、その方が良いだろうな。



 *



「……で、討伐隊ってなんの話ですか。いきなり説明もなしにこれは酷いですよね」

 左横に陣取るアリスが俺の腹を小突きながら問い詰めてくる。…痛い。腹とか突かれると、後からじわじわ痛くなるんだよな。

「やめなさいよ。痛がってるじゃない」

 それを見咎めた、俺の右横にいるヘスティアがアリスを諌めた。

「……」

 するとなにを思ったのかアリスは突くのをやめ、俺の腹をつねりだした。これは酷い。


 ここはローザンヌ市内にある中央広場だ。その真ん中に、この辺りを治めている伯爵とその従者、討伐隊に志願したらしい男たちが集まっている。その数は百人ほど。傭兵らしき姿も見える。
 いま伯爵の部下が集まった人々に説明しているが、オーク鬼は現在百体ほどの数が確認されているらしい。伯爵が自ら動くのだから、よほど事態は急を要するのだろう。

「ええい、メイジはいないのか!」

 隣の部下に向かって伯爵が怒鳴り散らしている。歳は五十の中ごろだろうか。背の低い、器の小さそうなおっさんだ。しかし髭の伸び方がヤバいな。顔からかなりはみ出している。

「え、ええと……」

 怒鳴られながら必死に書類へ目を通しているのは、まだ年若い男性だった。身なりからして貴族なのは間違いない。伯爵の子だろうか。

「あ、はい。三人いました」
「それしかおらんのか! ……まあ、いい。そいつらを呼べ」

 お、これは俺たちが呼ばれるということか。一体なんだろう。

「……なんということだ。メイジの志願者が、いかにも弱そうなデブと女子と老人だけだと!? これではこの数でオーク鬼を討伐するなど不可能だ!」

 失礼な。俺やオスマン氏はともかく、アリスは強いんだぞ。

「それに、そこの女子は本当にメイジなのか? 誤って紛れ込んだとかでは……」

 おっさんがアリスに悪態をついた、そのときだった。ギン! という鋭い音と共に、伯爵の長い髭が綺麗に剃り落とされたではないか!

「あ……? あああああ!!! なんという、なんということだ! 私の自慢の髭がぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 突然の出来事に騒然となるその場のなか、ただ一人冷ややかな表情の少女が手を腰に当て、言い放つ。

「いまやったのはわたしですよ。伯爵さま」
「な、なんだと! この小童め! 今すぐ打ち首にしてやる!」

 大事な髭を台無しにされたおっさんはかなり頭に血が上ったようだ。つばを撒き散らしながら、今にも杖を抜かんとしている。

「ち、父上! 落ち着いてください! いまの技を見ればわかりますが、彼女は相当な手だれですよ! 打ち首などしたら、ますます我々の勝ち目がなくなります!」
「! ぐ……」

 やはり息子だったらしい青年が伯爵を諌めた。そこにい至って、伯爵は自分の討伐隊の絶対的な兵力不足を思い出したのだろう。杖へ伸ばした手を引っ込める。

「……小娘、次はないぞ。キアラ、ルイ。後は任せる」
「はい」

 捨て台詞を残すと、伯爵のおっさんはどこかへ消えてしまう。……たぶん、鏡を見に行ったんだろうな。

「ごめんね。うちの父も焦っているんだ。オーク鬼がこんなに出るなんて、今までなかったことだから」
「いえ……」
「ああ、これは失礼。僕はルイ。君には遠く及ばないけど、いちおう火のラインなんだ」

 ルイ、という伯爵の息子らしい青年がアリスに話しかけている。こっちはガン無視だ。いい度胸じゃないか。
 彼は、父親とは対照的に背が高く、精悍ながら柔らかさも併せもった顔立ちが目立つ。イケメン嫌いの俺には実に不愉快な生き物である。
 アリスは、そんな彼となにごとか言葉を交わしていた。ちらちらとこちらへ視線を飛ばしてくるが、一体どうしたのか。
 一方のオスマン氏は……、先ほどキアラと呼ばれた女性にアタックしているようだ。まったく、いい年こいてなにやってるんだか。

「あっちはあっちで仲良くしてるみたいだし、アタシたちも向こうのカフェで親交を温めましょ?」

 いつの間にか、男たちの輪の外側にいたヘスティアが俺の元へやってきて、シャツのそでを引っ張る。彼女の指差す先には、小洒落たカフェ・レストランのような店があった。

「それも良いな。まだ出発まで時間があるし。……そうだ、君はあそこのイケ……二枚目には興味ないのか?」

 俺はイケメンの方を指差す。ヘスティアは彼を一瞥すると、首を振った。

「あの子は駄目ねえ。あんまり好みではないわ。アタシの求めてるようなタイプじゃないの」

 ……彼女の求めるタイプって、一体どんなものなのだろうか。少なくとも、俺のような人間ではないだろう。
 とりあえず、あの店で暇を潰しますか。



 それから少しして、いよいよ討伐隊が中央広場を出発した。二台の大型馬車に乗って先頭を行くのは、ローザンヌ伯爵とその親衛隊二十名である。彼らは全員メイジのようだが…。
 次の天井が吹き抜けている四台の馬車に、俺たちと先ほどのイケメン、キアラという女性と銃兵。最後が平民の志願者たちだ。一部の者は荷台付きの馬車で物資を運んでいる。
 伯爵らの召使いも入れると、総勢約百三十名の軍団だ。
 目的地には半日程度で到着し、それから野営を組む。討伐を開始するのは一晩の休憩を挟んだ翌日からという話である。

 ……しかし、さっきからルイとかいうあのイケメン、しきりにアリスに話しかけていやがる。どう見てもロリコンです。本当にありがとうございました。

 ふと、そばに腰掛けるオスマン氏の方へ顔を向ける。すると、彼の顔には、まだ夏にも関わらず綺麗なもみじの葉が張り付いていた。見事な朱の色である。

「……」

 オスマン氏はしきりに使い魔のモートソグニルに話かけている。なんだか目が死んでいるように見えるのは気のせいだろうか。……今は、そっとしておこう。

 周囲は高地特有の山々のいただきに包まれたのどかな光景が広がっている。しかし、農業に適しているかといえば否であろう。せいぜい牧畜程度が限度だろうか。
 ……などと考えていると、視界に羊の群れが映った。下草を食べている。すると、おっさんと犬がその群れを柵の方へ誘導しだした。羊の鳴き声がここまで聞こえてくる。
 
「あなた。膝枕してあげるわ」

 そのまましばらく外を眺めていると、なぜかヘスティアがそんなことを言い出した。うむ。振動で頭が痛くなっていたところだ。ここはそうさせてもらうか。
 彼女の、白く柔らかい太ももに頭を乗せる。上を見ると、そこは豊かな双球が広がっていた。うーむ、デリシャス。
 イケメンとの会話の間に、ときおりアリスが刺すような視線を向けてくるが、素晴らしき女体の神秘について思考を巡らせる俺は気づかない。
 ヘスティアが勝ち誇ったような顔をアリスに向けるのも、脂肪の塊に顔面をおおい隠されている俺は気づかない。

 ああ、なんて幸せなんだ。素晴らしきリア充ライフ。


 ……そう。そのときはまったく予想だにしていなかったんだ。まさか、あんなことになるとは。









 ●第八話「女神の火」









 もう、日も傾きだしたころ。俺たちはようやく目的地であるレ・マン湖の沿岸部の小さな村、ジュネーレへとたどりついた。

 途中で荷馬車の車輪が壊れたり、賊の集団が襲ってきたり。いろいろとトラブルに見舞われたのが大きな原因だ。まあ、前者はオスマンがぱぱっと、後者はアリスや親衛隊がさっさと片付けてしまっていたが。
 予想外に親衛隊の連中が強かったり、伯爵自身も自ら出張って戦ったりと、意外な光景を目にすることができた。

 いま、俺は野営のテントに使う資材を運んでいる。例のごとく『レビテーション』を使って、だ。
 建設現場での重労働に比べればこの程度どうということはない。

 そうこうしているうちにジュネーレ村そばへの野営の設営が終わり、夕食の時間となった。

 辺りは美味しそうなシチューの匂いがただよい、俺の腹の虫を鳴らす。よし。腹が減っては戦ができぬってやつだ。たらふく食ってやろう。
 俺がヘスティアと共にシチュー鍋の列の最後尾へ並んでいると、そこへアリスが疲れた様子でやってきた。

「あら、アリスさん。あの殿方と一緒ではなくて?」

 真っ赤な髪の女性が、嫌味たっぷりな口調で薄紫の髪の少女へ問う。

「……お食事に誘われましたが、面倒なので断ってきました」
「あら。彼、どう見てもあなたに気があるじゃない。身分は平民でもうまく立ち回れば、もしかしたら伯爵夫人になれるかもしれないわよ?」
「……いえ、そういうのは、興味ないですから」

 彼女は、本当にだるそうな声音で手を横へ振った。そして、なぜか俺を睨む。…また怒られるようなことをしたのか? 俺は。

 たくさん食べるからと、中型の鍋ごとシチューを受け取り、俺たちはメイジ用に与えられた大型テントそばの焚き木へと向かう。
 先ほどの賊との戦いでのアリスの活躍は、伯爵の目を引いたらしい。随分と俺たち一行に対する扱いは良くなっていた。ついでに髭刈り取り事件は不問らしい。助かった。

「さて。ではいただきますか」

 オスマン氏は未だ復活していないため、さっさと俺たちだけで食べてしまうことにした。アリスはお祈りをしているが、俺はそんなものは知らんのだ。
 しかし、つい手を合わせて「いただきます」とやってしまう。そんな日本的な癖がどうしても抜けないのだ。隣では、俺のしぐさを見たヘスティアも真似をしている。
 この“奇行”は散々周りの人間に怒られたので、人の多いところでは意図的に避けているが、あまり人口密度がなく、暗いここなら別に出てしまっても問題ないだろう。

「……昔から思ってるのですが、坊ちゃまのそれはなんですか? 異端の新興宗教のおまじないか何かですか?」
「まあ、“東方”のおまじない、といったところだよ」

 アリスはそれほど熱心なブリミル教徒というわけではないが、それでも食前のお祈りはするし、ブリミル教の祝日は祝う。忘れがちだが、人間の生活と宗教は密接に関わっているのだ。
 まあ。俺も、ロマリアの異端審問官が鼻息荒く飛んでこない程度には、それっぽく振舞っている。

 やがてオスマン氏も復活し、四人と一匹で焚き木を囲んだ。
 オスマン氏の肩の上で、モートソグニルはナッツらしき木の実を一生懸命カリカリとやっている。削れた粉がシチュー皿にどんどん落ちているが、白い髭の老人は気がつかない。
 ヘスティアは火石が自身のエネルギーだと言っていたが、それはあくまでも力を使うときの話だという。普段は普通に食事をとらなくてはならないらしい。
 やがて、シチュー鍋は空になる。俺はそれと皿を持つと、返却のために配膳係の召使いの元へ歩き出した。




「君は、ヴェンツェルくんといったかな」

 鍋や皿を返却してテントへ戻ろうとしたとき、後ろから声がかけられた。振り返ると、そこにはイケメン野郎が難しい顔して突っ立っている。一体、なんの用だろうか。
「そうですが。……なに用でしょうか?」
「話がある。一緒に来てくれ」

 ……うわ。目がすわってやがる。また、厄介なことになりそうだな。
 これから起きる“ろくでもないこと”を想像し、俺はため息を吐いた。


「君は、さる貴族の子息だというね」

 うわ、アリスさん。なにばらしてるんですか。面倒だからなるべく正体は明かしたくないのに……。それも貴族相手には。
 下手にばれると、どんな目に遭うかわからないからだ。まして俺の実家の名が知られると色々とまずい。さすがにそこまでは話していないようだが……。

 ここはレ・マン湖そばの高台。そこで、俺とイケメン太郎ことルイ・ド・ローザンヌは向かい合っっていた。

「ええ、まあ……」
「ならば、単刀直入に言おう。君の従者であるアリスさんを、僕に譲ってほしい」
「……あ?」

 なにを言ってるんだこいつは。頭沸いてんのか。

「僕と話すとき、彼女はとても疲れた表情をしていたよ。君の従者をやっていて相当苦労しているんじゃないか? それではいけない。あまりにも醜い君の存在は、あれほどに華やかな少女をただ枯らしているだけなんだ。それはあまりにも愚かで、救いようのない話だと僕は思う」
「……」
「だから、アリスさんは僕が面倒を見る。可憐な彼女に相応しい舞台を、僕が用意してあげるんだ」
「少女性愛者かよ……」
「否定はしない。僕は、彼女くらいの年の女の子が大好きだからね……。美しき少女を思うと、気分が高揚するのを抑えられないんだ……」

 げ、こいつ変態なことを自白しやがった!

「そんなふざけた要求は、絶対に断る!」

 こんな変態ロリコン野郎の手にかかったら、一体なにをされるか、わかったもんじゃないからな。

「ならば、決闘を申し込む。男と男の真剣勝負だ。当然、受けてもらうよ? 勝ったほうが彼女の主となるんだ」

 そう言い、ルイは杖を構えた。どうやら、こいつとの戦いは避けられないようだ。ちっ、俺の戦闘力じゃラインメイジを相手にするのも命がけだってのに……。
 このままでは一方的にたこ殴りされるだけだろう。仕方ない…。一か八か、『レビテーション』に全てを賭ける。……すごい情けないメイジだな。俺……。

 だが、やらないわけにもいかない。こいつは少々おふざけが過ぎる。なにが「譲ってほしい」だ。なにが「勝ったほうが彼女の主になる」だ。完全にアリスの自己決定権を無視しているじゃないか……。
 ……いや。そうだ。ここはハルケギニア。「貴族でなければ人にあらず」を地で行く世界なんだ。彼の思想は、取り立てて非難されるモノではない。それがこの世界でのスタンダード。正当なんだ。
 けどな。俺は自分の身内に対して、そこまで非情にはなれないんだよ。
 
 杖を手にし、対峙するピザとイケメン(ロリコン)。緊迫した空気が辺りを包み込む。
 どうする…。この際だから、今まで一度も成功したことのない『マジック・アロー』でも唱えてみるか? いや、駄目だ。限りなく成功率がゼロに近い手段には頼れない。


 そして、不意にカラスが鳴いた―――そのとき。


 ルイが『ファイヤー・ボール』を詠唱した。人の頭ほどの大きさの火の玉が、俺目掛けて一直線に飛んでくる。あまり速度はない。
 俺はそれをなんとか避けると、『レビテーション』で反撃に転じようとした。だが、それを唱え終える前に再び火の玉が二発も飛来。それを避けきれずに、一発が肩に、もう一発が杖に命中。杖に引火してしまう。
 慌てて火を消すが、すでに杖の半分以上が炭化してしまっている。これでは持ってあと数回、呪文を唱えられればいいほうか……。
「これは参ったね。君の杖を焼いてしまうとは。だが、これも決闘の最中におきた、やむを得ぬ事故なんだよ」
 なんてこった。この至近距離じゃ魔法を使う暇もない。こりゃ詰んだか…?
「さあ。降伏するんだ…。君に、もはや勝ち目はないのだから…」
「……なに?」

 そのときだった。ルイの背後に、なにか得体の知れない物体が立っているのが見えた。これは…まさか。

「往生際の悪い子供は苦労するぞ」

 ルイはその存在には気がついていないようだった。俺を説教するのに夢中になっていやがる。構わず、俺は叫んだ。

「避けろ! 後ろにオーク鬼がいるぞ!」
「なに? この期に及んで、君は一体、何を―――」

 この彼の言葉が、最後まで俺の耳に届くことはなかった。オーク鬼が青年に拳をふるったのだ。鈍い音がする。怪力によって何メイルも飛ばされたルイは、地面に頭から落ちた。

「オーク、鬼………!」
 思わず喉をならしてしまう。

 俺の目の前には、奇怪な、とてつもなく醜い怪物が立ちはだかっていた。豚のように歪んだ口や鼻から、耳障りな“鳴き声”を放っている。
 血に濡れた、巨大な拳。その威力にかかれば、普通なら人間など一撃で……。目の前に広がる血なまぐさい光景が、その証だ。
 どうする。このままじゃ俺もあいつの二の舞だ。
 しかし助けを呼ぼうにも、この場所は野営からかなり離れている。絶対絶命。ここに味方はいない。ここは自分で切り抜けなくてはならないのだ。

 振り下ろされる尖った爪を走ってかわそうとするが、足の一部を抉られた。激痛。それでも俺は必死に逃げる。
 すぐにこちらへ振り向いた怪物の目には、獰猛で禍々しい光が宿っている。
 なんとか……、なんとかならないのか。考えろ。……考えるんだ、どうしたら生き残れるのか。
 だが、当然ながら敵は待ってくれない。オーク鬼は再び拳を振るう。今度は横なぎだ。俺がそのタイミングで足をすべらせて転んだのは幸いだった。でなければ、今ごろ俺の体は字の下手くそな人間が書いた、『く』の字のようになっていただろう。
 ここは高台……、もう杖の耐久性には期待できない……。なら。今度こそ完全に博打作戦だ!
 俺は地面の土を手で抉り取り、オーク鬼の顔へ向かって投げつける。目にそれが入ったからか、手でこする怪物。期待したほどの効き目はなかったが、それでも十分な隙を生み出すことができた。

 よし、いまなら!
 俺は、全力で『レビテーション』を詠唱。すると、明らかに人の何倍もの重さがありそうなオーク鬼の体が持ち上がった。が、杖がぼろぼろと崩れだす。もう時間はないだろう。
 あと少しだ。あと少しで―――よし!
 なんとか怪物をレ・マン湖の中に突き落とすことができた。これなら、当分の間は上がってこれないはず。逃げるくらいの時間は稼げた。

 ルイは……。奇跡なのか、まだ息があった。とりあえず、運べるところまで運ぼう。

 そして俺は、オーク鬼が現れた―――その事実を伝えるべく。野営へ急いだ。



 *



「伯爵!」

 ローザンヌ伯の討伐隊。その野営に、大きな子供の声が響き渡ったのは、もう志願兵の皆が休みを取ろうとしていた、そのときであった。

「なんだ、騒々しい。私は酒を……」

 ちょうどそのとき、親衛隊の面子と酒をあおっていた伯爵は、不機嫌な声で闖入者へと顔を向けた。そして、絶句。

 そこにいたのが、自らの息子を引きずりながら背負った、服がぼろぼろの少年だったからだ。たしか、名前はヴェンツェルといったはずだと、伯爵は記憶していた。

「オーク鬼が湖のそばにいました。交戦してなんとか退けましたが、自分と一緒にいたルイさんは不意打ちを食らって……」
「……なんだ、と? もう一度言いたまえ」

 伯爵は信じられない、といった様子で首を振った。

「湖のそばで、オーク鬼と遭遇しました。ルイさんは敵の不意打ちで―――」

 伯爵は少年を押しのけ、慌ててルイの体へ触れた。そして、水のトライアングルメイジである彼は、即座にその重大性に気がつく。

「……なんということだ! ありったけの水の秘薬を持って来い! キアラ、私と一緒にルイへ治癒魔法をかけるんだ!」
「は、はい!」

 それからしばらく、もう一人の水メイジと共に伯爵は治癒魔法をかけ続けた。

 やがてひと段落したのか。伯爵はヴェンツェルの元へやってくる。その顔は憤怒の情によって赤くなり、今にも爆発する寸前であった。
 そして、彼は血まみれの肥えた少年の首を掴みあげた。少年の足は地を離れ、空中でばたばたともがいている。

「あの怪我はなんだ! あれはお前がやったのか! ……今すぐ晒し首にしてやる!」
「や、やめて、ください……! こんな近場に、オーク鬼が、いたんですよ! ということは、もう群れの本体も……!」

 少年は必死に伯爵を諌めようとするが、それはかえって逆効果である。伯爵は完全に周りが見えなくなっていた。

「大体、なぜお前のようなどこの馬の骨ともしれない下衆がルイと一緒にいたのだ! その時点で―――」
 伯爵が怒りに我れを忘れ、『ブレイド』で一気に少年の首を切り裂こうとしたとき、彼の元へ伝令が大慌てで飛び込んできた。

「ご、ご報告申し上げます! オーク鬼と思わしき亜人の大集団を、ジュネーレ村・北西一リーグの地点で確認しました! 奴らはこちらへまっすぐ向かってきているようです!」

 あまりに、突然の報告。伯爵だけでなく、その場にいた全員に緊張が走る。このタイミングでオーク鬼が攻めて来るなど、まったく晴天の霹靂のような事態であった。
 その場は水を打ったようにしん、となる。最初に沈黙を破り、口を開いたのはローザンヌ伯爵であった。

「で、では―――ルイと、この少年を襲った、というのは……」
「は。……おそらく、偵察にきた個体のうちの一体かと…。私も、偵察らしきオーク鬼と交戦しました」

 伯爵はその身をぶるぶると振るった。手は弛緩し、少年が地面に落ちる。
 そして、彼は叫んだ。

「……ルイの仇討ち合戦だ! 現時点をもって亜人の討伐を開始する! 諸君、奴らを、亜人どもを殲滅しろ!!」


 人間と亜人。ハルケギニアの大地で長年行われてきた異種族間での戦いの火蓋が、また一つ切って落とされようとしていた。



 *



「……なんだか、アタシが寝てる間に、すごく大変なことになってたのね」
「……はあ」

 一気に慌しくなった野営の片隅で、俺はアリスに『ヒーリング』をかけてもらったあと、包帯を巻いてもらっている。うぐ……。駄目だ。まだ、ルイとの戦いでついた火傷や、オーク鬼に抉られた足が痛む。
 『ヒーリング』にも当然、限界がある。秘薬なしではさすがに肉の再生までは至らなかったようだ。

 俺は伯爵に締め上げられたあと、仮眠を取っていたらしいアリスとヘスティアを起こして事の一部始終を話した。アリスはちょっとショックを受けているようだ。

「どうもしつこい人だと思ってたら、そんな趣味の人だったとは……」

 ガクガクと震えだす少女を、真紅の髪の女性は優しく抱きかかえ、ささやく。

「大丈夫よ。変態でも、将来はきっと良い旦那さんになるわ。彼は成長した大人のあなたには興味がなくなるでしょう。そうしたら、若い騎士さまと浮気し放題よ?」

 全然フォローになっていなかった。

「……やっぱり、あなたはわたしが大嫌いなんですね」
「ええ、そりゃもう。もしあなたがヴェンツェルの親族じゃなかったら、とっくに消し炭にしているわよ」

 ……なんだか、不穏当な話をしているような気がするんだが……。

 そんな場の空気を読まないやり取りのそばでは、親衛隊の土メイジたちがジュネーレ村をおおう即席の土壁を作り出していた。そこに混じって、オスマン氏もかなりの力量を見せ付けている。
 ローザンヌ伯爵の作戦は、篭城戦である。頭に血が上っているうちは白兵戦を主張していたが、やがて参謀のシャトレー男爵の助言を受け入れたのだ。
 まず、村の周囲を『固定化』で固めた高さ十メイルほどの土壁でおおう。そして、オーク鬼たちが壁を登ってこようとすれば、すかさず頭上から魔法や矢の雨を降らせるのだ。シンプルだが、堅実な作戦だ。
 しかし、問題は物量だ。この村はそれほど人口がおらず、なおかつあまり裕福でもない。食料の備蓄は僅かだ。ここで長期戦を行うのはまず不可能だろう。
 最悪の場合―――ヘスティアに頼る他ない。

「ふう。やっと作業が終わったわい。こんなに働いたのは久しぶりじゃ」

 オスマン氏が作業を終えて戻ってきた。かなりの重労働だったろう。

「お疲れ様です」
「おお、ありがたい」

 アリスがおしぼりを彼に渡す。老人は汗を拭き、さっぱりとしたようだ。

 それからしばらく、俺たちは休憩をとる。この間に、非戦闘員の村人たちが避難していくのが見えた。

 そして、ついに討伐作戦の開始を告げる知らせが届くのである。



 *



「見張りの兵から連絡がありました。間もなく、オーク鬼の第一波が土壁に到達するとのことです」
「うむ。攻撃を開始せよ!」

 伯爵の号令と共に、矢を担いだ志願兵たちが土壁の上部に据えられた台座へ移動。 
 皆が、もう目前に迫っているらしい亜人の群れに向かって攻撃を開始した。
 火メイジが火薬を詰めた樽を投げて、亜人の群れの中で爆発させている。土メイジは攻城用ゴーレムを作成、オーク鬼を蹴りつけていた。風メイジは竜巻を起こして吹き飛ばす。
 それらをなんとか掻い潜って土壁に接近してきた怪物は、志願兵たちの放った矢の雨の前に絶命する。
 戦況は、一見すると人間側が有利であった。しかし。

「……どれだけ湧いてくるんだ、あいつらは」

 土メイジの一人が呟く。どれだけ踏み潰しても、どれだけなぎ払っても、オーク鬼たちは次から次へと森の奥から姿を現していた。

 次第に、怪物が土壁へ到達する数が増してくる。さらに、今までは土壁の一点しか攻めてこなかったものが、次第に包囲するような形へと変化していく。

「ええい、なにをしておるのだ! このままでは…」

 やがて、戦況の移り変わりを察知したのか。伯爵の怒号が飛んだ。しかし変わらず、怒涛のオーク鬼の波は止まらない。

「卿! このままでは、亜人どもに押し潰されます! 一度、撤退を!」

 参謀のシャトレー男爵がローザンヌ伯に進言する。彼も焦っているのだ。まさか、ここまで敵の数が多いとは。完全に予想外であった。

 そしてついに、志願兵の一人が怪物になぎ払われた。それを目にした多くの志願兵は一気に戦意を喪失。我先にと逃げ出そうとする。
 だが、その判断は遅すぎた。総崩れとなったところに、土壁を登りきったオーク鬼たちが突進。どんどん犠牲者が増加していく。

「が……、た、退却だ! 総員、退却! 退け! 撤退だ!」

 一度崩れると、そこからは早かった。土壁の一部を崩し、伯爵の討伐軍は散り散りになって敗走を開始。だが、そんな連中をオーク鬼が見逃すはずもない。耳をつんざくような悲鳴が辺りに木霊し続ける。

 伯爵を中心とするメイジたちは、一塊になって亜人の攻撃をしのぎつつ、撤退を開始した。目ざとい傭兵はすでにそこへ合流している。
 馬車はわずか三台に減少。負傷したルイを乗せたものと、火薬を満載したおとり用の馬車である。まず、最後列の馬車が一団から切り離された。直後、爆発の衝撃と共に、亜人の肉片がぱらぱらと降ってくる。

 薄紫の髪の少女、アリスは風魔法を撒き散らして馬車を護衛しながら、必死に護衛対象を探していた。
 そう。彼女とオスマン氏は、退却の際のごたごたでヴェンツェルやヘスティアとはぐれてしまったいたのだ。まずい。なんとかしないと―――そう考えた、ちょうどそのとき。馬車は山の谷へかかるつり橋へとたどりついていた。行きとはまったく違うルートで敗走してきたようである。

「よし、馬車はここで放棄する! 全員が渡り終わり次第、橋を落としてローザンヌまで引き上げるぞ!」

 そして、ぞろぞろと三十人ばかりに減ってしまった軍団の構成員たちが、橋を渡りだした。アリスは殿を勤めている。まだ、オーク鬼らしき姿は見えない。
 数分の後、アリスを除く全員が渡りきる。まだ、ヴェンツェルたちの姿は見えない。

「なにをしているのだ!」

 聞こえてくる、伯爵の怒号。それに混じって、だんだんと亜人のものと思わしき地響きが近づいてきた。

「くっ―――」

 アリスは毒づくと、『フライ』を唱えてジュネーレの村へ戻っていく。
 しばし唖然とする伯爵だったが、ここに至ってつり橋の上を亜人が疾走するのを見て、慌てて橋を落とした。



 *



 大木の枝の上でヘスティアに抱きかかえられたまま、俺は呆然と、ジュネーレの村の“跡地”で行われた惨劇を目の当たりにしていた。
 あちこちに転がる、死体の山々。オーク鬼が跋扈するかつての、のどかな村の荒れ果てた姿。撤退時の混乱で再び負傷した俺は、それをどうすることもできず、ただ傍観するだけであった。
 生まれて初めて目にする絶対的な“狂気”に、俺の心は完全に押し潰されていた。

「ヘスティア……。あの化け物たちを……」
「……無理よ。いまのあなたを放置したら……」

 彼女の白い手は、俺の血で真っ赤に染まっている。
 多数のオーク鬼が土壁を越えてきたとき、俺たちは伯爵らに合流しようとした。だが、そうは問屋が卸さなかったのだ。周囲はあまりに混乱していて、俺は怪物の接近に気がつけなかった。そして杖のない状態では、『レビテーション』すら唱える術がなかった。
 結果、俺はオーク鬼の持っていた槍に腹部を貫かれ、この有様なのだ。ほんと、今日は怪我ばっかりしてるな…。

 人間たちが退いたあともオーク鬼は増え続け、今ではここに残っているだけでも優に百体を越えるだろう。もはや、俺の力ではどうしようもなかった。

「坊ちゃま……!?」

 この声は―――アリスか。無事なのは良かったけど、ここへ戻ってきちゃったのか……。

「ヘスティアさん。これは…」
「…オーク鬼にやられたの。アタシが気づいたときには…もう」
「待ってください。いま、『ヒーリング』を…」

 アリスは回復魔法を唱える。しかし、槍によって腹部を貫通させられてしまった俺には、ほとんど効き目がないようだ。

「……そ、そんな……」
 彼女は絶望的な表情になり、太い木の枝に膝をついた。……参ったな。そんなに可愛い顔を、苦しげに歪められると、困るんだが……。

「ヘスティア……、頼むよ。もしこのままあいつらを放置したら、もっと多くの犠牲が出る。だから、お願いだ」
「……」
 あんな大群、こんな僻地の貴族たちの手に負える相手じゃない。中央政府が動くまでに、おそらくこの辺りの人間は全滅してしまう。それは駄目だ。
 ヘスティアは随分と悩んでいるようだったが、ついに決断してくれたらしい。

「……わかったわ。火石はある?」

 俺とアリスは、すぐに所持していた火石を彼女へ差し出した。

「これしかないが……、使ってくれ」
「……ありがとう。ねえ、ヴェンツェル」

 ヘスティアは火石を受け取ると、俺の体の支えをアリスに任せて立ち上がった。そして……。

「アタシが帰ってくるまで、目をつぶっていて。いいって言うまで。それが条件よ」

 ……なんだ。そんなこと、か……。もっと厳しい条件かと思ったんだが……。

 俺は無意識に目をつぶる。そして、意識も同時に闇へと落ちていった。



 *



「アリス。諦めないで、『ヒーリング』を彼にかけ続けなさい。強く念じるの。この人を治したい、って。そうすれば……」

 真紅の髪の女性が、気を失った少年を抱きかかえるアリスを促した。

「……でも。わたしの『ヒーリング』では……」
「大丈夫よ。あなたは風のメイジよね。でも、水の魔法も同等に使いこなすことができる。そこに答えがあるわ」
「―――え?」

 薄紫の髪の少女が疑問の声をあげたときには、すでにヘスティアの姿はそこになかった。意味深な言葉だけを残し、彼女は天高く舞い上がった。
 アリスはなぜだか、彼女がでたらめを言っているとは思えなかった。なぜか信じられた。そして―――ひたすら、『ヒーリング』を唱え始めた。



「なんてこった……」
 敗走中の伯爵の討伐隊。その中に、オールド・オスマンの姿があった。彼も他の人間と同じように、命からがらここまで逃げてきたのだ。
 一行はようやく、ジュネーレ村の人々が退避していた避難所までたどり着く。彼らは皆が不安がり、口々に討伐隊の面々へと詰め寄っていた。
 オスマン氏も例外ではない。彼も、他の面々と同じようにもみくちゃにされる。

 と、そのときであった。

「あれはなんだ!?」
 誰かが、西の空を指差しながらそう叫んだ。皆の注目がそちらへそれる。オスマンもその方角へ目を向け―――そして、驚愕する。

 発光する巨大な火の塊が、西の空に浮かんでいた。その色はまばゆいばかりの赤である。
 そして、次の瞬間にはその“塊”から無数の炎―火の柱が放射線状に発射された。それは次々と地に命中し、轟音と共に地面をめくりあげる。同時に、あちこちからオーク鬼の断末魔の叫びと思わしき怒号が上がりはじめた。
 この付近にも幾本かの火の柱が命中し、焦げ臭い臭いと共に、焼け出された黒焦げの怪物の亡骸が生み出される。

「……あんなところにオーク鬼が潜んでいたのか……! もし、あれに襲われていたら……」
「ええ……、本当です」

 ローザンヌ伯爵は戦々恐々とした表情で呟いた。隣で同様に固まっているシャトレー男爵が、頷いた。

「……始祖の加護だろうか。私は、五十年と生きてきて、初めて本当の“奇跡”を目の当たりにしたよ」

 誰ともなしに、皆がお祈りを始めた。

 火の柱は、この地に存在する全てのオーク鬼を焼き払うまで降り注ぐ。その姿を目にした者はすべからく、唖然とした表情で空を見つめている。



「これは……、火の精霊の業火でしょうか……? なぜ、そんなものが……」

 金色の髪を揺らしながら、端正な顔を上げる、年若いブリミル教の司祭がいる。彼もまた、降り注ぐ炎に目を奪われていた。
 光の国、ロマリアの市街地。ここからでも、無数の“火の柱”が地面に放たれているのが見えた。聖職者も、貴族も、商人も、町民も、小さな子供も、奴隷も、誰も彼もが口を開けて空を見上げているのだ。



「きれいな、光……」

 大木の木陰で主の少年を抱きかかえたアリスが空を見上げ、呟いた。少年の傷は命に問題のない程度にふさがり、今はのんきな寝息を立てている。
 彼女の言った通りだった。最初はほとんど効果を現さない『ヒーリング』であったが、ずっと唱え続けているうちにだんだんと効果が上がるのを直感的に感じた。そして……。

 ヘスティアさんが戻ってきたら、彼女のために美味しい料理を作ってあげよう。アリスは、そう心に誓った。





[17375] 第九話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:626d4b90
Date: 2010/08/25 20:43
「ふう……」

 二つの月の光に照らされ、ある女性が宙に浮いていた。彼女は一仕事を終え、ゆっくりと降下している。
 地を焼き、砕く、巨大な火の柱。
 それを一通り打ち出した“女神さま”は緩やかに落下しつつ、深くため息を吐いた。地上では、あちこちに醜いオーク鬼が黒こげになって息絶えている。
 彼女はそんな光景を、苦虫を噛み潰したような、苦しげな表情で見つめていた。だが、次の瞬間には、逃げるようにそこから視線を外す。そして、またも深いため息を吐いた。
 やがて彼女は、降下する速度を速めた。地上で待つ自ら“主”の元へと急ぐために。


「ヘスティアさん」

 先ほどの大木に降り立つと、そこには“主”の従者である少女・アリスが“女神さま”へ声をかけた。
 薄い紫色のロングヘアー。長いまつ毛に、つぶらな青い瞳。薄い唇はリップの類を一切塗っていないにも関わらず、健康的な桃色に染まっている。
 服装は、清潔感のある白いシャツに、灰色のプリーツスカート。夏だからか、靴下は短めのようである。長めの四肢は気絶する少年を支えるのに使われていた。
 一見まだ幼い彼女ではあるが、既に女性としての魅力を放ち始めている。“彼女”はなんだか不愉快な気持ちになり、少し困惑する。

「ヒント、ありがとうございます。諦めずにずっと『ヒーリング』をかけていたら、なんとか坊ちゃまを治すことができました」

 彼女はほっとしたような、嬉しそうな表情を浮かべる。ヘスティアと呼ばれた気まぐれな女神は、それが少々気に障った。

「そう。良かったじゃない」

 なにを思ったのか、ヘスティアは突然、感謝を告げる少女を押しのけて“主”を引き離し、自らの腕の中に抱いた。半ば彼女に突き飛ばされたアリスは少しの間呆然とし、次の瞬間には怒りをあらわにした。

「な……なにをするんですかっ!」
「なにって。この子に膝枕してあげるのはアタシの特権なのよ。調子に乗らないでくれるかしら?」

 やたらに図体のでかい少年の頭を膝に乗せ、彼女はあてつけのように言い放った。
 アリスは不遜な彼女の態度に一つ何か言ってやろうかと考えたが、『ヒーリング』の使いすぎの疲労が今ごろ襲ってきたので、諦めて休息を取ることにする。

 その晩彼らは、オーク鬼によって破壊された村の中の、比較的損傷の少ない家を拝借して宿を取った。

「まったく……。ちょっと関係が改善したと思ったら、今度はあれですか。あのすかぽんたん自称女神は……」

 ヘスティアたちとは別の部屋で横になったアリスは一人、小さく呟いた。



 *



「……なあ」
「なぁに?」

 俺が疑問の声を上げると、背中にいる童女が問い返してきた。身長よりも長い真紅の髪は今は頭の後ろでアップにされている。

「いや、ごめん。今のはアリスにだ。なあ、アリス」
「……」

 再度問いかける。だが、アリスはそっぽを向いたまま答えようとはしない。

「……なんでそんなに怒ってるんだ?」
「知りません。自分のでっ腹にでも聞いたらどうですか?」

 ……俺の腹は虫の音しかしませんよ。


 ―――亜人との戦いから一晩経った、翌朝。

 俺が気絶している間に、ヘスティアがオーク鬼たちを一掃してくれていた。どうやったのかは知らないが、さすが山の岩盤をいとも容易く融解させてしまうだけのことはあるな。
 しかし、その代償か彼女はまた小さくなってしまった。その上疲れているというので、俺は背中に彼女を負ぶって歩いているのだ。オーク鬼に負わされた傷はなぜかほとんど塞がっている。
 傷を治してくれたらしいアリスは昨日からやけに不機嫌である。またヘスティアと喧嘩したらしい。話かけてもぶっきらぼうに返されるだけだ。参ったな。

 そうしてしばらく歩いていると、前方から風竜がやって来るのが見えた。あれは……。

「おお、君たちも無事じゃったか!」

 竜から降り、杖をついてこちらへやってきたのは白髪の老人、オスマン氏であった。彼も相当にぼろぼろではあるが、特に命に別状はなさそうだ。

「はい。なんとか……。あの、討伐隊は?」
「うむ。伯爵たちはもうローザンヌへ帰っておるよ。ワシは君たちが心配での。捜しに来たのじゃ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。本当はすぐに動きたかったのですが…」
「いいのじゃ。夜の森は魔物が出ると云われておる。……まあ、真実はわからぬが。夜の森が危ないというのは確か。君たちだけで単独行動しなかったのは正解じゃよ」

 それから俺たちは、オスマン氏が連れてきたいつかの風竜でローザンヌの町へと帰還した。やっぱり歩くのとは段違いの速さだ。





「へぇ……。それは大変でしたね」

 ここはもうすっかり馴染みとなっている酒場。一人、この町で職を探していたリディアが呟いた。

 あのあと伯爵の館へ向かったのだが、俺たちが担当のメイジから金貨の詰まった袋を受け取ると、彼に屋敷を急かすように追い出されてしまった。
 なんでも、壊滅したジュネーレ村の再建問題や、発光物体を見た近隣諸侯からの事態の説明を求める突き上げによって、もう俺たちなんぞに構っている暇はないそうである。……発光物体ってなんだ?
 そういうわけで、一人頭百エキューもの報奨金を得た俺たちは、移動の準備を進めているのである。
 オスマン氏はやはりトリステイン魔法学院に帰るという。そこですかさずリディアが雇用を頼んだところ、老人は二つ返事で許可していた。
 そんな中、アリスが一人で階段を昇るのが見えた。一体、どうしたのだろうか。


 なんとなく気になったので、俺は彼女がいるらしきボロ部屋へと向かった。
 てっきり『ロック』の魔法を扉にかけているのかと思っていたが、予想に反して鍵はかかっていないままだった。俺はゆっくりと扉を開ける。
 部屋の中のアリスは靴を脱ぎ、ベッドの上で足を抱えていた。その視線は窓の外を向いている。先ほどまで晴れていた空は、今はもうどんよりと曇っているようだ。雨でも降るのだろうか。

「アリス」

 彼女に声をかけると、その狭い肩が少し震えた。今の今まで、俺が入ってきたことに気がつかなかったらしい。

「……なんです、坊ちゃまですか。驚かせないでください」

 心なしか、彼女は浮かない顔をしているようだった。しかし俺の姿を認めた次の瞬間には、またいつもの無愛想なものになる。

「どうかしたのか?」
「……坊ちゃまに心配されるようなことは、なにもないです。一人にしてください」

 ぶっきらぼうに、アリスが言う。

「なにもないってことはないだろ?」
「知りません。さっさとあっちへ行ってください!」

 彼女はいきなり怒鳴ると、手元にあった枕を俺へ向けて投げてきた。だが、所詮は柔らかい寝具だ。俺の脂肪を蓄えた体に命中したそれは、ぽとりと床に落ちる。
 いつもなら魔法を使ってくるところだが、なぜか今回はその程度で済んでいる。これは、話を聞かないとな。

 それから、小一時間も経った頃だろうか。ボロ部屋の隅で座り込んだ俺に、アリスがとうとう声をかけてきた。

「……さっきからずっと、なにやってるんですか」
「座ってるんだよ。それより、なんか悩んでるんだろ? どうだい、話してみなよ」
「あなたに話すことなんて、なにもありません」
「そんなこと言わずに、さ」
「……」

 またも沈黙。一体どうしたいのだろうか、この子は。俺はエスパーでもモテ男でもないから、女の子が考えることはさっぱりわからん。
 ……いや。さっきから窓の外を眺めて憂鬱そうな感じの顔をしているってことは……。

「ホームシック?」
「……はい?」
「アリス。君はもしかして、家に帰りたいんじゃないか?」
「……いつ、わたしがそんなことを言ったんですか。旦那さまは、あなたがラインメイジになって痩せるまで、絶対に帰るなとおっしゃっていたじゃないですか。帰りたいのは坊ちゃまの方でしょう? わたしに責任を擦り付けて帰るつもりですか」
「うっ……」

 こう言われてしまっては、もはや返す言葉もない。俺は一階の酒場へ戻ることにした。



「杖が無くなってしまったか。むう……。おお、それなら、トリスタニアにいい腕の職人がおるぞ」

 アリスの部屋から退散した俺は、オスマン氏とテーブルを囲みながら雑談に興じていた。
 酒瓶の転がったテーブルの上では、オスマン氏の使い魔であるモートソグニルがいつものようになにかの種をかじっている。
 俺やオスマン氏の隣では、ヘスティアとリディアがテーブルに突っ伏して眠っていた。酒を飲みすぎたようだ。白髭のじいさんがうら若き乙女の尻を撫でているのは、通報するべきだろうか。
 まあ、そんなこんなで、杖が無くなったという話を彼に振ったところ、上記のような返答があったのである。

「トリスタニア、ですか」

 トリスタニアはトリステイン王国の首都だ。全人口の十パーセントほどがその町に集まり、政治はもちろん、経済の中心地ともなっている。中心部の白い王城には、あのアンリエッタ姫が居住しているはずだ。
 そこからほど近い場所に、オスマン氏が学院長を勤めるトリステイン魔法学院が存在する。
 クルデンホルフ大公国はトリステインの南端に存在するため、普段はよほどのことがない限り俺が首都へ出向くことはなかった。実際に、あそこを訪れたのは片手で数えられるほどの回数しかない。
 一方で、ベアトリスは何度かアンリエッタらに謁見したことがあるようだ。
 だが、俺はなぜか道に迷って一日中街頭をさ迷ったり、ガキどもにぼこられて伸びていたり、魅惑のなんとかとかいう酒場に迷い込み、そこの一家に食事をご馳走になったりして一日が潰れていたので、ついに姫様のお姿を拝謁したことがない。
 ロリエッタは見たかった。しかし、用も事前のアポもないのに姫様に会わせろ、なんて俺に言えるわけもないのだ。

 話が大幅に逸れたので戻そう。

 オスマン氏曰く、その杖を専門に扱う店はブルドンネ街の裏手、チクドンネ街界隈にあるという。なんでも創業千年の老舗だとか。その店の杖は、魔法学院の教員にも愛用者が多いという。
 杖のないメイジはただの人。魔法が下手糞な俺でも、杖のあるなしは非常に重大な意味を持っている。
 長く使うものだ。いい物が欲しいのは当たり前の話である。まあ、前の杖もガリア製のそこそこ高い代物ではあったのだが……。
 そういうわけで、俺は杖を買うためにトリステイン国内へと戻ることとなるのである。









 ●第九話「トリステインへ」









 数日後。

 俺たちはローザンヌ北方のジュラ山脈を越えた。
 その道中、たまたまあったガリア王国のアルケスナン王立製塩所を遠巻きに観察。そこは重要施設のため、あまり近づくと捕まる危険性があるからだ。
 現代日本ではあまり意識することはなかったが、塩はどの国でも非常に重要な戦略物資である。
 上杉謙信が塩不足に悩む武田信玄に塩を送ったときのエピソードから生まれたことわざ『敵に塩を送る』は、それを端的に表している。

 さらに、かつてインドを支配していたイギリスの塩専売に対し、かのマハトマ・ガンジーが民衆を引き連れ、海まで行進して塩を作ったのはあまりにも有名だろう。
 宗主国による「塩」の支配を非暴力で脱することで、インドは独立への第一歩を歩んだのである。
 ……うん。この話とは全然まったく完全に関係ないな。

 旅路は続き、やがてガリア中部の都市、ディジョンに到着。
 そこから飛行船に乗り、一路トリステインの港町、ラ・ロシェールの港へ向かっていた。そこは港といっても、大木に船がぶら下がっている変な場所のことである。
 飛行船、とはいうがその形は海に浮かぶそれとほとんど変わらない。ちなみに、ガリアは王立両用艦隊という、空・海どちらでも運用可能な艦隊を保持している。その規模は、空中王国であるアルビオンを相手にしても不足なしといえるほどの戦力らしい。
 そういえば、我がクルデンホルフも、アルビオンなどから人を呼んで中規模航空艦隊の試験運用を開始しているらしい。
 ただでさえ空中装甲騎士団なんてものがあるのに、またそんなもんを作って王宮の連中にいちゃもんを付けられなければいいが……。



 そうして、乗船二日目の早朝。

 船の甲板で水を飲みながら景色を眺めていると、ヘスティアがこちらへやってきた。火石を吸収したので、今はお姉さんモードになっている。
 しかし……。彼女は確かに強いのだが、戦うには火石がないといけないというのがつらい。まだストックには余裕があるけど、この先どうなるか。
 買うと高いっていうか、ほとんど手に入らないんだよな……。エルフは自分で作れるんだっけ。いいなあ。一人くらい雇えないものか。

「なにしてるの?」
「空を眺めてるんだよ」

 問いかけてきたヘスティアにそう答えると、彼女も同じように空へ視線を向けた。
 最近、前にも増して彼女がべたついてくるようになった。さらに、四六時中アリスとの間で不穏な空気を醸している。元々仲がいいとはいえなかったが、ここ数日は悪化の一途をたどっている。
 一体、なにがどうなっているんだか。怖くて訊けないけど。

「空は……青いわねぇ」

 雲一つない、澄み渡った空を眺めながら、彼女は呟いた。
 いい眺めだ。遠くの方がよく見える。たとえば、あの真っ黒な帆を張った禍々しいデザインの船とか。あのデフォルメしすぎのドクロマークさ、どっかの海賊漫画じゃないんだから―――

「く、空賊だ! 空賊が出たぞ!」

 マストの見張り台で空域を監視していた乗員が叫んだ。そして、その発言で一気に船の上が騒がしくなる。その間も、賊の船は速度を上げてこちらへ接近していた。
 近づいてくるにしたがい、大体の大きさなどがわかってくる。船体はそれほど大きくないし、数も一隻だ。空を見る限り仲間もいそうにない。
 だがそれでも、ろくな武装のない民間の商船にとっては大きな脅威となる。
 そうこうしているうちに、空賊船はあっという間にこの船へ迫り、とうとう肉薄された。速度を上げてはいるようだが、いかんせん敵の方が速いらしく、一向に距離が広がらないどころか完全に追いつかれてしまった。

「大人しく積荷を渡せ! そうすれば乗員は見逃してやる!」
「ふざけるな! 誰がお前らなんぞ××××に大事な積荷をやるか! かかってきやがれ!」

 ……今の、この船の船長の声なんだが……。なに空賊煽ってんだ? 死にたいのかよ!?

 すぐに俺たちを含め、甲板にいた客は甲板の後部へ移動。中にはあまり裕福そうではない男性メイジもいるが、彼は自分の妻や娘の側から離れようとしない。戦力にはならないようだ。
 やがて、乗り込んできた賊と、船の船員がそれぞれ武器を持って争い始める。


「空賊ですか。なんでまたこんな船を……」

 甲板に置かれた木箱に座りながら、寝ぼけ眼のアリスが言った。彼女はまだ寝巻き姿である。その横では、やはり寝ぼけているらしいリディアがアリスの腕にしがみ付いていた。

「災難じゃのう。まさか賊が来るとは思っていなかったから杖を忘れてしまったぞい」

 オスマン氏は戦力外、と。
 一応アリスは杖……というより短剣を持っているようだが、「自業自得じゃないですか? あの船長」などと呟いている。あまりやる気はないようだ。

「ヴェンツェル。あんな連中、アタシが行ってぱぱっと焼いちゃうけど」
「だめだ。君は戦うな」

 ヘスティアはやる気満々だが、彼女の力を空賊ごときに披露する必要はない。……いや、必要がないというより、あまり積極的に公開するべきではないと思うのだ。
 彼女の力は以前未知数なままだ。恐らく、下手な幻獣など足元にも及ばないだろう。だからこそ、それが広まるのは避けたい。この場にいる人間の誰が情報を広めるかわからないからだ。オーク鬼のときは例外的に力を使ってもらったが、それはあくまでも“ああいう”事態だったから。
 もし万が一、ヘスティアがアカデミーのマッドサイエンティストなどに連れ去られでもすれば、俺は一生後悔するはめになるだろう。そんなのがいるのか知らないけど。

 とりあえず、俺は傍観を決める。
 だが、しかし。そうは問屋が卸すはずもなかった。

「くそ、客室の扉があかねえ! 魔法か!?」
「おい! あそこに客どもが逃げてるぞ!」
「お、本当だな。しかも女の子がいる!」
「お前っていつもそればっかりだよな」

 のんきな会話を繰り広げながら、賊たちが歩きだす。あ……客室の中に逃げればよかったんだ。今ごろ気がついた。後悔先に立たずである。
 彼らは手に短刀やナタを持ち、「げへへ」などと卑しいうめき声を上げながら、主にアリスや貴族の家族の方へ向かう。

「……ふぅ。しかたないですね」

 アリスはそう言うと立ち上がり、腰の鞘から短剣を引き抜いた。そのまま、ゆっくりと賊の方へ向かっていく。

「なんだい、嬢ちゃん。投降すんのかい? いい心がけだ。俺はいわゆる“フェミニスト”でな。女を傷つけるのはどうも―――」
 ボッと、圧縮された空気が奏でる破壊音。
 最後まで台詞を言えずに、賊の一人が『エア・ハンマー』で吹き飛ばされた。ああ、どうせもう出番なんかないんだから、せめて一言くらいちゃんと言わせてあげればいいのに……。
 よく見ると、アリスはぶつぶつと小さな声で魔法のルーンを唱えているようだ。

「ひ、ひぃ! この嬢ちゃん、メイジかよ!」
「つ、杖だ! 杖を取り上げちまえ!」
「え? どれが杖だよ?」
「え、あ…。と、とにかくやっちまえ!」

 慌ててアリスへ飛び掛る三人組。しかし案の定、彼らはまたも唱えられた『エア・ハンマー』によってまとめて吹き飛ばされた。
 激しく音を立てて下の甲板にぶつかる男たち。それに気づいた賊の仲間たちが、続々と集まってくる。
 だが、一応警戒しているのか、すぐに飛び掛っては来ない。遠巻きにアリスを睨んでいる。

「……ふ、ふ、ふ」

 風に長い髪をなびかせながら、少女は不適に微笑む。瞬間、賊の男たちに緊張が走った。そして、アリスはゆっくりと告げる。

「わたし、今日は機嫌がいいんですよ……。やるっていうなら、みんなまとめて始末してあげます……」

 ―――澄み渡った青空に、男たちの野太い悲鳴が響き渡った。



 その後。一分とかからずに賊たちは一網打尽にされ、アリスによって空賊船に放り込まれた。
 いつの間にか、空賊船の風石はほとんどが客船の乗員によって運びだされ、風力を失った空賊船がどんどん地面に向かって落下していくのが見える。
 あのままだと墜落は免れないだろうな。まあ、残ってる風石の力でゆっくりと降下してるみたいだから、死にはしないと思うけど。

 ヘスティアやオスマン氏、リディアは二度寝するらしく、客室へと戻っていった。まったく、のんきな連中だよ。
 アリスはというと、この船の船長に捕まってさっきから美辞麗句を並べ立てられているようだ。甲板に某国民的アニメの穴子さんばりの渋い声が響き渡っている。
 やがてそれも終わったのか、アリスが疲れた表情でこちらへとやってきた。

「アリス、お疲れ」
「……はぁ。汗臭いおっさんにあんな長時間接近されるとか、どんな拷問ですか」

 賊との戦いよりそっちの方が堪えたらしい。彼女は、備え付けのテーブルの椅子へ腰掛ける。そして不意に、彼女は鼻をくんくんとやりだした。

「……坊ちゃまも汗臭いですね。近づかないでください」

 酷っ……。

 といいつつ、彼女は自分の体臭も気になっているようだ。シャツの襟を手でつまみ、ぱたぱたとやっている。
 ハルケギニア人は地球でいうコーカソイド人種(主に白人)に近い生き物らしい。よって、体臭はモンゴロイドの日本人よりきつい。
 きっとアンリエッタ姫の体臭も、香水なしではアレだろう。作戦後の汗をかいたタバサのタイツとか……、ベアトリスがいつも穿いてるニーソックスとか蒸れて……。ふひひ……。

 ……などと変態妄想にふけっていた俺は、顔を真っ赤にしたアリスの水攻めによって、意識を強制的に切断させられた。
 どんなことを考えていたのか、顔に出ていたのだろうか。



 *



「へぇぇ、ここが噂のラ・ロシェールですか!」
「あれま……。世界樹が……。アタシが寝ている間に、こんなものが出来てたのね」

 目をまん丸に見開いたリディアとヘスティアが、上を見上げながら大きな声で叫んだ。
 とてつもない大きさの木の、これまた巨大な枝に、無数の船が接岸している。俺たちの乗った船は真ん中の辺りの枝に取り付いたようである。
 見上げると船。下を見ても船。ここは、船好きな人間なら一日中いても飽きない船スポットだろう。そんな人間がいるのかしらないけど。

「うむ。では、もう遅いし宿を取るとするかの」

 はしゃぐ二人の少女をなだめるようにオスマン氏が提案する。
 たしかに時刻はもう夕方になった頃であろうか。俺たちは宿をとるべく、岩をくり貫いて作られた建築物で溢れる街、ラ・ロシェールを歩いていく。 
 途中『女神の杵』亭なる快適そうな宿屋があったが、馬鹿みたいに宿泊料金が高い部屋しかないのでスルー。その三件ほど隣の小奇麗で安い宿を取った。


 その一階の酒場の席へ陣取り、みんなで夕食をとっているとオスマン氏が切り出した。

「ヴェンツェルくん。ワシとリディアくんは、ここから直接魔法学院に向かおうと思う。もう新学期が始まってしまうでな。同行できなくて申し訳ないのじゃが……」
「いえ。むしろ、ここまでお供させていただけて、助かりました。ありがとうございます」

 うん。まあ、実際に風竜を調達してくれたりしたから、結構助かったんだよな。
 それから、俺たちはこのメンバーでの最後の食事に興じるのであった。

 満腹となり、俺たちはそれぞれの部屋へ戻る。
 部屋割りは相変わらずヘスティアの鶴の一声で決まってしまっている。アリスはヘスティアとは目も合わせようとしない。まったく、二部屋で済むのに。三部屋もいらないよなぁ。



「ねえ、ヴェンツェル。トリスタニアで杖を作ってからはどうするの?」

 埃一つない、完璧に掃除が行き届いている部屋。磨き上げられたピカピカの姿見の前で髪を梳かしながら、真紅の髪の女性がこちらへ問いをぶつけてくる。
 どうするか、ねえ……。トリステインなんていても面白くないしなぁ……。

「『サハラ』にでも行ってみるか? …なんてね」

 俺はおどけながら言ってみる。『サハラ』というのは、現在エルフが支配しているハルケギニア東方の砂漠地帯のことだ。『聖地』もそこにある。

 だが彼女はそんな俺の発言を聞くなり、血相を変えて立ち上がった。そして、いきなり俺の肩へつかみ掛かる。

「だめよ。そんなこと考えちゃ、絶対にだめ! エルフは“絶対に相容れない宿敵”なのよ! 『サハラ』なんて……。もしなにかあったら……。絶対に今のあなたが行くべき場所じゃない!! わかった!?」
「え……、ヘスティア」

 珍しい、というよりは初めてだ。彼女がこんなに必死な表情を浮かべるのは。出会ってからそんなに日が経っているわけではないが、彼女はいつもひょうひょうとした余裕の態度をとっているので、こんな行動に出るわけがないと、勝手に思い込んでいた。
 彼女の瞳には、鬼気迫るものがあった。俺は反射的に頷いてしまう。
 肩を痛いほどに掴まれ、少々恐怖の感情を浮かべる俺を見たからなのか。ヘスティアは急に我に返ったように、慌てて俺から離れた。

「あ……。ごめんなさい。つい……」

 申し訳なさそうにうなだれるヘスティア。…なにが、彼女をそこまで取り乱したのか。彼女は、なにをそんなに心配しているのか。わからない。
 だけど、とても辛そうな彼女の表情を見ていると、実際に俺の身を案じてくれているのは、痛いほどにわかった。

「いや……。僕の方こそ悪かった。軽率な発言だったよ。ごめん」
「……ううん、いいの。わかってくれれば……」

 まだヘスティアは気落ちしているようだった。
 が、しばらくするとまた復活したみたいだ。とびきりの笑顔で同衾を迫ってくる。

 やっぱり、彼女はこういう表情が一番似合うな。添い寝はしないけど。





[17375] 第十話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:448de513
Date: 2010/08/25 20:43
「ぎゃああああああああああああああああああ!! 降ろせ、今すぐ降ろしてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!」


 ここはトリステイン王国の中部、王都・トリスタニアへと続く街道。
 大きな馬から伸びたロープで縛られ、引きずられているのは、なにを隠そう、俺ことヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフである。

 そう。見ての通り、俺は貴族。それも、公爵よりも格上の大公家唯一の跡取りなのだ。ピザっても鯛だ。
 そんな重要で高貴な身分の人間が、こうやって従者の駆る馬によって引きずられているとは、このハルケギニアの一体誰が想像できるであろうか?

 いくら『レビテーション』で浮いているからといって、地面すれすれだからさっきから石やら枝やらがやたらと尻に当たって痛いのなんの!

 オスマン氏やリディアと別れた俺たちは、街道を真っ直ぐトリスタニアへ向かって移動しているんだが…。これは酷い。

「あはは。お似合いよ、ヴェンツェル」

 もう一頭の馬の上で、華麗に乗馬をこなす真紅の髪の美女―――ヘスティアが、俺の方を振り返って笑う。

「笑ってる場合か! 助けてくれよ!」
「嫌よ。だって、あなたは乙女の純情を踏み躙ったんだもの。それで許してあげるアタシの懐の深さに感謝しなさいな」

 いや……。普通、事前同意なしで女がベッドに入ってきたら逃げるだろ。それで純情とか言われても。

「だいたい、坊ちゃまが馬にも満足に乗れないのが悪いんじゃないですか?」

 俺の従者―――アリスがふてくされた声音でそう告げてきた。そう。確かに。俺はここ数年の引きこもり生活のおかげで、めっきり運動などしていなかったのだ。特に乗馬などという、体力を著しく消費する行いはまさに禁忌なのだ。
 馬に乗れないなら、魔法で飛べばいいじゃない。だってメイジなんですもの。……まあ、俺の技量でラ・ロシェールからトリスタニアへ飛ぶなんてまず不可能だけど。
 が、そんな俺の心境など彼女たちにはまったく関係ないらしい。俺は恐らく、ゴールまでこのままだろう……。

 高速で走り続ける馬上にも関わらず、優雅な仕草でヘスティアは水筒の水を飲んだ。実にさまになってはいるが、できれば今この瞬間だけはやめてほしい。さっきから喉がカラカラなのだ。
 二頭の汗血馬もどきは、さっきからものすごい勢いでひた走っている。アリスが『ヒーリング』をかけ続けて無理やり走らせているらしい。止まったのは餌の時間だけ。鬼だな。鬼将軍と命名しよう。

 この分なら、日が暮れるまでには王都へたどり着けるはずだ。それまで頑張れ、俺。



 *



「はぁ……はぁ……、ほんと、死ぬかと思った」
「あら、いい運動になったんじゃない?」
「まさか。もうふらふらだ…。うっ、王都の目の前で嘔吐しそう……」
「……それ、笑うところなのかしら? もしかして、今の時代ってそういうのが流行ってるの?」

 くだらない冗談のつもりだったのだが、真顔で突っ込まれてしまった。せめて苦笑いでもしてくれよ……。すごい虚しいよ……。

 気を取り直して。到着時刻は、午後三時ごろだろうか。予想よりかなり早い。
 ここは、トリスタニア市街をおおう城壁の外側にある駅だ。基本、主要都市では馬を貸してくれる公営の施設があるのである。途中で乗り捨てても、ちゃんと元の居場所に帰るようにしつけられている。
 今はアリスが馬を引き渡しているところだ。彼女が戻ってきたら、いよいよ王都へ入る。
 お、噂をすればなんとやら、だ。アリスがこちらへやってきた。さっそく、俺たちはトリスタニア市街への門をくぐる。

 王都最大の大通り、ブルドンネ街。最大などとは言うが、実際には五メートルほどの狭い道である。さらにそこへ様々な出店や行き交う人々が加わるので、実際に通れる幅はもっと少ない。
 わがクルデンホルフの城下町ですら、十メートル道路が町の端から城まで四本も一直線に走っているというのに。
 ん? ……いや、何気にウチってとんでもないチート貴族だよな。原作では明確な描写がなかったはずだが、あそこまで発展しているのは……。さすがは俺のじいちゃんだぜ。

 様々な出店や商店を見ながらしばらく歩いたころ、アリスが突然、思い出したように声を上げた。

「坊ちゃま。トリスタニアですね」
「ああ、そうだね」

 なにを当たり前のことを言っているんだ。ここがトリスタニアじゃなくてリュティスだったりしたら面玉飛び出るよ。

「以前の約束……、忘れてませんよね?」

 約束? なんのことだろう。そんな覚えはないが……。隣で話を聞くヘスティアは不思議そうな、やたらと興味深そうな表情でこちらを観察している。

「……」

 やがて、前を向いて歩いていたアリスがこちらへ向き直り、三白眼になりながらじっとなにかを訴えかける。
 いや、本当に参ったな。なんのことだっけ。
 彼女はしばらく押し黙って立ち尽くしていたが、やがて諦めたような、「心底お前には失望した」とでも言いたげな表情になり、こう告げた。

「話題の店のクックベリーパイ。王都に来たら食べさせてくれるって、言ったじゃないですか」

 ……ん? ん……あ、ああ、そういえばそんな約束をしてたな。しかし、あれは……。

「実家に帰れたら、って条件じゃなかったっけ?」
「……最低ですね」
「ヴェンツェル。さすがのアタシでも、それはないと思うわ」

 ええっ!? なんだよこれ。普段は犬猿の仲のくせに、こういうときばっかり結託するんだよな。これだから女ってやつは……。
 とはいえ、さすがに強烈な勢いで無言の圧力をかけてくる二人を無視して、さっさと自分の杖を買いに行けるような根性は俺にはない。ここは言うことを聞いておくか……。

 というわけで、俺たちは今トリステイン貴族の子女たちを虜にするという菓子を出す店へと足を運ぶのであった。
 なんで場所が分かったかって? そりゃ、大通りの一箇所に貴族の女の子がわらわらいるんだから、一目でわかりますよ。 









 ●第十話「王都来訪」 









「美味しい……。これが……」
「いい時代になったわねえ。サトウキビをそのままかじっていたあのころが、とってもばかばかしく思えるわ」

 どんな時代だったのでしょうか。時々、ヘスティアさんの発言がとても…前時代的というか、古めかしいというか……。

「……ヴェンツェル。なにか、失礼なこと考えてない?」

 いえ、まったく。


 さて、この洋菓子店「ラ・マルタン」。もう夕方だというのに、一向に客足が衰える気配はない。まあ、もうすぐ魔法学院の夏季休暇も終わるみたいだしな。休みのうちに来ておきたいのだろう。
 どうみても格好が貴族ではない俺たちを見て眉をひそめる子もいるが、大半の子は目の前のスイーツに夢中で、他の客なんぞ眼中にないらしい。変に関心を持たれるよりはよほどいい。
 などと考えているうちに、二人はもう完食していたようだ。俺も慌てて口の中へ放り込み、会計を済ませようとする。その矢先だった。

「ちょっと、そこの貧相な平民たち。ここがどういうお店かわかってますの? まさか注文だけとって食べたらはいさようなら、なんて考えてるんじゃないでしょうね?」

 現れたのは、十代前半ごろの貴族の子女たちだった。三人いるが、横の二人は見るからに意地の悪そうな品の無い顔をしている。唯一まともな顔なのは、真ん中の金髪ドリルロールだろうか。でもどっかで見た顔だな。
 ちなみに、今のセリフは、左側の茶髪が言ったようだ。

「あら、貧相なのはあなたの胸かしら? それとも、お尻? 頭? まあ、大方全部でしょうけど」

 俺がやんわりと彼女らをあしらおうとしたとき、一コンマ早くヘスティアの火に油を注ぐ一言が炸裂してしまった。ああ、なんてことを…。自然と、ため息が出てしまう。

「まあ。頭が足りてないのはあなたの方でしょう? 胸に栄養を全部吸い取られてしまったせいで、平民が貴族に対してどんな立場にあるか忘れてしまったようね」

 これは金髪ドリルのセリフ。顔のおかげか、さっきの茶髪よりはムカッと来ない。

「可哀想ねぇ。胸が吸収する栄養も満足に取れない方って。生憎、アタシは胸にも頭にもいく栄養があるの。それすらもないって、ほんとに貴族なの? まさか領地もない赤貧貴族? 大変ですねぇ、下手な平民より貧乏だろうに、こんなお高いお店で無理してお食事なんて」

 このヘスティアの言葉に、取り巻きの二人が「うぐっ」と息を詰まらせる。図星か…。
 しかし、ドリルは一向に気にする気配はなく、その様子を目にした取り巻きが一気に復活してまくし立てた。

「そ、そうですわ。このお方を誰と存じ上げますの!? あのリジュー伯爵家が長女であらせられる、ミス・リシェルですのよ!」

 今のセリフは、右側の赤毛が言ったようだ。
 ……ん? 待てよ。リジュー伯爵ってたしか……。

「リジュー伯爵家か。うろ覚えだけど、たしか六年前…。生産量を増やしたいからって、変な商人の口車に乗せられて買わされた、出所のわからない怪しい肥料を使うことを農民に強要し、結果領地の大半が有害生物で汚染されたっていう、あのリジュー家ね。はいはい。今じゃ領地のほぼ全てが召し上げられて、クルデンホルフの北側の端っこで細々と暮らしてるって聞いてたけど」
「な…」

 俺の長々としたセリフを聞いた三人組は、ものの見事に固まってしまう。

「ふむ。なるほどね。リジュー家のように爵位だけはある経済的には落ちぶれた家の子供なら、たまには明らかに自分より格下の相手に威張ってみたい……。わかるよ。ほんと悲惨だからなあ、あの家。クルデンホルフにどう考えても返せないような借金があるし。その割には見栄を張って学院に通わせてるのか。絶対学費滞納してるだろ……」
「あ……………う、う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんんんんん!!!!! ぢぐしょーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!」

 一瞬固まった後、突然泣き出した金髪ドリルはそのまま走りさってしまう。取り巻きも慌てて後を追っていった。「キモいくせにっ!」と赤毛が毒づいているが、お前鏡見たことあるのかと言いたい。キモさは俺とそんなに変わらんぞ。


「……で、なんだったんですか。あれ」

 終止、我関せずを貫いて沈黙していたアリスが口を開いた。支払いはいつの間にか済ませているようである。

「やっと思い出したんだけど、あれはウチの一番下の雑用をやってる貴族の家の子だ。なにせ会うのは五年ぶりくらいだから、最初はまったく思い出せなかった」

 それに、昔はもっと地味な子だった気がするんだよな。髪も普通のロングだったし。彼氏の影響でも受けたのだろうか。

「……なんていうか、結構あなたって、えげつないのね……」

 ヘスティアの呆れたような声が聞こえる。いや、俺はそんなに酷いことを言ったのだろうか。だいたい、いきなり絡んできたのは向こうだしな。



 騒ぎのせいか、人目が気になった俺たちは洋菓子屋を出た。目指すはチクドンネ通りにある杖の店、『マエストロ』だ。どう見てもイタリア語だが、それは最初の創業者がロマリア出身だかららしい。
 店は意外にあっさりと見つかった。さっそく扉を開け、その店へ足を踏み入れる。
 ところ狭しと天井まで詰まれた杖の箱。狭い店内は、三人も人がいると窮屈でしかたない。なので、アリスとヘスティアには外へ出てもらうことにした。 

「おや、お客さんかい。いらっしゃい」

 俺が店内に詰まれた箱を物色していると、奥からおじいさんが現れた。人よさそうな顔をした、禿頭の人物だ。

「こんにちは。ええと…、ミスタ・オスマンの紹介でこのお店へやって来たのですが」
「おお、話は聞いておるよ。なるほど、君があのクルデンホルフ大公国のヴェンツェルくんか。杖を壊されてしまったんだってね。大丈夫。私が君にぴったりの杖を作っておいた。ちょっと待っていなさい」

 おお、もう話が通っているとは。ありがたい。オスマン氏に感謝だな。
 そうしてしばらく待っていると、奥から店主が杖を持ってきた。だが、その形状は―――

「久しぶりの自身作でね! ここまでの出来はもう二度と出せないだろう。さぁ、さっそく契約してみてくれ!」

 いや、ちょ、これはないでしょう。これじゃまるで……。
 今すぐ店から逃げ帰りたい気分だったが、店主のおじいさんのあまりにもきらきらとした瞳の輝きを見てしまうと、そうすることはできそうになかった。
 ああ、なんてこった。いや、しかし、これは…。

「五十年ぶりに私のアート魂が爆発したよ! ここ最近、無難な杖を作りすぎた。だが、これからはそういった保守的な考えは捨てる。そもそも、杖というのはだね―――」


 ここから数時間、杖談義が続くので割愛。



 *




「疲れた……」

 俺が店主のおじいさんから解放されたときには、既に日が暮れていた。
 アリスやヘスティアの姿はすでにない。しかたなく、俺は“杖”を持ったまま、とぼとぼと歩きだした。と、そのとき。緑髪の子供が俺の体に思いっきり命中。
 腹に子供の頭部がめり込み、俺は声にならないうめきを上げる。
 しかし子供は「ごめんね~!」と軽く言っただけでどこかへ走りさってしまった。まったく、自分から人に当たっておいて、あの言い方はなんなのだろう。


 またしばらく歩いていると、ふと『ピエモンの秘薬屋』の看板が目に留まった。その先に一軒の武器屋があり、ちょうど見慣れた真紅の髪の美女が一人で入っていくところだった。

「ヘスティア?」
「あら、ヴェンツェル。ずいぶん遅いから、お楽しみ中かと思ってたのに」
「どんなお楽しみだよ!?」
「冗談よ。それより、杖はどうしたの?」
「ん……。ああ、“これ”なんだが」

 ちょっとためらったが、俺は素直に自分の新しい“杖”を見せる。それを見たヘスティアは「あらあら。なんていうか新感覚ね」という、微妙な感想を漏らした。

「あの~、もうすぐ店じまいなんで。へぇ。用がないなら、お帰りくださいやせんか?」

 俺とヘスティアが店内で騒いでいるのに気がついたのか、店主がやってきて、厄介そうに口を曲げて言う。

「いいえ。用ならあるわ」
「……はぁ。わかりやした」

 ヘスティアがそう言うと、店主は彼女の体に、じろじろと嘗め回すように視線を這わせる。そして、なにもない、といった風にカウンターへ引っ込む。
 しかし、その視線は相変わらずヘスティアへ釘付けになったままだ。とんだスケベじじいだな。

「ところでヘスティア。用って?」
「うんとね……。この辺に『インテリジェンス・ソード』の気配を感じるのよ」
「そういうの、わかるんだ」
「ええ。体質みたいね」

 どんな体質だよ。
 それにしても、インテリジェンスソードか。『デルフリンガー』や『地下水』が有名な、様々な魔法のかけられた剣。ものすごく珍しいはずなのに、なぜか人気はないようである。まあ、メイジにとって剣は野蛮人の武器らしいからな。
 いや、そんな大層なものがそもそもこんな場末の武器屋にあるのか。

 などと、思った瞬間だった。

『こいつはおでれーた! 嬢ちゃん、俺のことがわかるのか!』

 かすれたような、金属のこすれ合うような、変な合成音声のような声がボロい店内へ響いた。

「あら、そんなところにいたの。インテリジェンスソードをそこいらのガラクタと同じ扱いだなんて、かわいそうだわ」
『そうだそうだ、嬢ちゃん言ってやれ! あのクソオヤジはなぁ、このデルフリンガー様の凄さをまったく理解できねぇボンクラなのさ!』

 デルフリンガー、か。将来的に才人の相棒となるインテリジェンスソードか。
 そういえば昔、ピエモンの秘薬屋って単語だけはやたらと目についたんだよな。さっきのはそのせいだろうか。

「黙れデル公! その減らず口を引っ込めねえっつうんなら、今すぐ海に放り投げてやんぞ!」
『やれるもんならやってみろや、あかっぱなジジイ! ろくに泳げもしねえくせによ! そのまま海に沈んじめぇ!!』
「こ、この野郎! 今日という今日はゆるさねぇ! よくも俺がカナヅチなのをばらしやがったな!」
『け、悔しかったら泳いでみやがれ! あ、そ~れす~いすいってなぁ!?』
「こ、こ、こ「ストップ!」

 店主とデルフリンガーが果てしない罵倒合戦に入ろうとしたところで、ヘスティアが強制的にその場を収めた。店主は唖然とし、デルフリンガーも沈黙している。

「買うわ。デルフリンガー。おいくらかしら?」
「へ、へぇ……。本当は千エキューなんですが、厄介払いという意味もあるんで、五百エキューでどうでしょうか? へぇ」

 値段を聞いたヘスティアはしばしフリーズ。店主の視線の先を見る。そして…。

「高い。その値段じゃいらないわ」

 とだけ言って、早足で店を出て行ってしまった。
 …って、おい!? こんな潜在一隅のチャンスを…!? ここは買うべきだろ、転生的に考えて!

「あ―坊ちゃん。三百エキューで「スイマセン、イマ、オカネアリマセン」

 原作ではキュルケの色気にやられていたあの親父だ。もしヘスティアがいれば……とは思ったが、俺一人のこの状況下で有利な条件を引き出せるわけがない。
 それに、デルフリンガーと引き換えになけなしの金を失うのはリスクがでか過ぎる。

 そう考え、俺も雷歩を発動して店から逃亡した。

 ……あ。魔法を吸収する剣を持ってれば、少しは魔法相手に痛い目を見なくなったかも……。




 *




 チクドンネ街。

 昼はただの怪しげな裏路地だが、夜は居酒屋や本格的な博打場、娼館といった俗的な文化で華やかに溢れかえる。

 そんな道の影にあるワイン樽に、ヘスティアは静かに腰掛けていた。
 走って息も絶え絶えの俺は、その隣に置かれた木箱へどかっと腰を下ろす。するといきなり、ばきっと音がして木箱の板が抜けた。俺は尻が木箱にはまってしまった状態になる。
 音に驚いてこちらへ振り向いたヘスティアは、一瞬の硬直の後、盛大に噴き出した。

「笑うなよ……」

 尻が痛いし体勢も辛い。自分の椅子の足が折れたときの絶望感ってこんな感じよね。

「ふふ、ごめんなさいね」

 ヘスティアはそう応え、俺を引っ張り上げてくれる。

「なあ、ヘスティア。なんであそこで逃げたんだ?」

 痛む尻を押さえ、しばらく休んだ後。俺がその問いをぶつけると、なぜか途端に彼女は顔を赤りんごのように真っ赤に上気させた。

「う、うーん、なんていうか……に……の」
「へ?」

 彼女の声はやたらと小さくて、俺には聞き取れない。

「……ああいう狭いところで、男の人に、自分の体をじろじろ見られるのがとても恥ずかしいの……」

 ……なんだろう。体をよじりながら、もじもじとしながら……こう。大きな胸が、形を変える……。

「あ」
「…ちょっと? ヴェンツェル?」

 みっともなくフリーズした俺の頬を、ヘスティアがぴしゃぴしゃと張る。そこで、俺はようやく意識を取り戻した。
 そうか。ああ、なるほど。この子がいつもゆったりとした服を身に着けていたのは……。

「別に、町とかではいいのよ。どうせすぐにすれ違うんだから。でも、ああいう場所で、“いかにも”な感じの視線を出されると……」

 そういえば、俺と一緒に寝ろ、とはいうが、着替えるのは、だいたい俺が部屋にいないときだったみたいだしだな…。

「なるほど、乙女の純情、ね」

 別に彼女は嘘や冗談をを言っていたわけではない。俺が勝手な先入観で決め付けていただけなんだ。……うん。やばい、頬の緩みがとまらない。

「ちょっと、ヴェンツェル! なに、にやついてるの!」
「いや、ちょっとね。ふふふ」
「嘘おっしゃい! ちょっとね。ふふふ ってなんなの!」

 珍しく顔を真っ赤に染めて、ぽかぽかと殴りかかってくるヘスティア。でも、ちっとも痛くない。


 ああ、なんか、俺、幸せだ。幸福って、こういうのを―――

 次の瞬間。俺はカッター・トルネードで天高く舞い上げられ…って痛い! 切れる! 皮膚が次々と裂けていくううぅぅぅ!!!

「放置されてるからよぉ……。人がむさいおっさん共相手に、寂しく博打でお金を稼いでるってのに……」

 あ……、あれは、アリス!? 酒が入ってるのか!?

「よりにもよって、博打屋のまん前で、見せ付けるように堂々といちゃつきやがって……」

 へ、ヘスティア! 助けて! え? どうしてこっち向いてくれないの!? 頬を膨らましてる場合じゃないよ! 僕の命の火が消えちゃう!
 「あちゃぁ。酒入れたの失敗だったな」って。おっさん、子供に酒なんか飲ませんなよ!


「ふ ざ け ん じ ゃ」


 ごくり。
 わかる―――今のアリスの力は―――あの『烈風』さえも―――


「ねええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」






 ―――その日のアンリエッタ王女は、日記帳にこう記したという。
  「今日は珍しく、流れ星を見ることができました。とっても長い赤い尾を引いていて、すごく綺麗でした。わたくしの大切なおともだち、ルイズ・フランソワーズも、あの星を見ているのでしょうか……」





[17375] 第十一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:448de513
Date: 2010/08/27 19:27
 ガリア王国の首都・リュティス。

 華やかな宮廷文化を彩るヴェルサルテイル宮殿の舞台裏で、『彼ら』による計画は着々と進行していた。

 宮殿内部に設けられた宰相室は『ディテクト・マジック』や『サイレント』『ロック』を厳重に施された密室と化している。
 そこで、この国の実権を握る老公爵と、影の騎士団の権限を掌握する若き紳士の密談が執り行われている。
 他国民―果ては自国民までもを駒として処理することしか頭に無い男たちの会談。それは、もうまもなく終わりを迎えようとしていた。

「では―――各地への北花壇騎士団員の配置は完了した、と」
「ええ。すべて、まったくの滞りなく進行しております。あとは―宰相閣下のご号令さえ下れば」

 若き紳士の自身ありげな言葉に、老公爵は不快感を隠そうともせずに言う。

「まったくの滞りなくい、か。ふん、君がもっとも信頼を置いていた部下が『作戦』に失敗したばかりだと言うのに。あれでどれほど計画に支障が出たことか」
「その点については、完全に私の不注意、不徳のなすところであります。まったく弁明のしようがありません」

 青年は一切の弁明をせず、まるですべての非は自分にある。処罰するなら甘んじて受けます、とでも言いたげな言葉を口にする。
 小童め……。なにをたくらんでおる。老紳士はひっそりと舌を噛んだ。彼が発案した今回の『計画』だが、その進行の大半を取りしきっていたのは目の前の男である。
 自分ですら、総ての北花壇騎士団員の所在を把握しているわけではない。
 この男は、わしが自分を絶対に切れぬと分かっているからこそ、一切の保身を行わないのだ。
 まったく、どこまでも食えない男だ。水たばこを吸いながら、老公爵はため息を吐く。そして、彼は少し間を置き、瞑想した。まるで、これから起こりうる事態によって得られる結果を思い描くかのように。
 そして、ついに「それ」を口にした。

「……よし。現時点を持って、『作戦』を開始する」
「はっ」

 この密談後、ガリア東部・トリステインに潜伏する北花壇騎士団員らによって、さまざまな破壊工作活動が開始される。
 だがこのとき、それを知るのは彼ら以外に誰もいなかった。
 すべての主導権は、たった二人の―――いや、たった一人の男の手の内にあるのである。



 *



 ところ変わって、ここはトリステイン王国の首都・トリスタニア。その町を流れる川沿いにある狭い通りを、とある親子が歩いていく。

「もう、ジェシカ。あなたはそんなに荷物は持たなくていいのよ」

 そう声を発する、大きなずた袋をたくさん抱えた男性。
 そのすぐ下では、ハルケギニアでは珍しい、黒く真っ直ぐな髪を伸ばした女の子が重い袋を一生懸命に引っ張っている。男性は、どうもそれを見かねたようだった。
 だが、女の子は力を入れすぎて真っ赤になった顔を横に振りながら、彼の言葉に異を唱えた。

「いや。パパだってたくさん荷物を持ってるじゃない。これだけでも、わたしが持ってくから」

 参った。普段なら、馴染みの業者が注文した材料を届けにきてくれるのに。まさか虚無の曜日を明日に控えた今日に限って、彼が風邪でダウンしてしまうとは。
 来れないものは仕方がない。男性は、開店前に自ら材料を調達するべくブルドンネ街へと向かうことにした。そこで一人娘のジェシカが自分についてくると言い出したのでたまには、とつれて来た。

 そこまではいい。
 しかし、買い物の結果、予想外に持って帰る荷物が多くなってしまったのだ。生憎、彼は台車を忘れてしまい、最寄の店にもない。開店時間は刻々と迫る。
 と、そんな様子を見た娘が、「わたしが持つ!」と宣言。それから、ずっと袋を引きずっている。
 彼は運ばなくてはならない袋の中でもっとも軽いものを娘へ渡したが、それでも彼女にとってはあまりに重すぎたようである。「うっ」と一瞬よろめいた彼女は結局、袋を引きずって歩いていた。
 それを見守る少女の父親は内心、摩擦で袋が破れてしまわないかと心臓が早鐘を打っている。
 少女にパパ、と呼ばれた男性は心の中でため息をついた。

 そんなときだった。川にかかる橋のたもとで、娘が足を止めた。とうとう限界なのだろうか。

「どうしたの? 疲れたのなら……」
「ううん。これよ」

 男性へ振り返った少女が指し示す先には、うつ伏せで倒れる太った少年がいた。一目見てわかるほどに、全身のいたるところから血を流している。体の周りには、血溜りが出来ていた。

「まあ、大変。ジェシカ、あなたは荷物を置いて先に店に戻りなさい。そうしたら、厨房のドニールを呼んできて!」

 荷物を地面に置き、傷ついた少年を仰向けにひっくり返しながら男性は娘へ指示を伝える。ドニールというのは、彼の経営する酒場でもっとも恰幅のいい、力持ちの店員のことである。

「う、うん。わかった」

 そこでようやく、ジェシカは袋から手を離して酒場の方へ走っていく。

 彼女が転ばずに走るのを見届けると、男性は自分の破いた自分の服の布で止血を施しながら、仰向けになった少年の顔を見た。
 はて……。どこかで見たような気がする。彼は少し考えるが、記憶が呼び起こされることはない。
 ふと、彼は少年が息をしていないことに気がつく。これは大変だ。こういう場合…、心臓マッサージや人口呼吸が有効だと、トリスタニアタイムズの連載で読んだことがあった。
 なんと、その連載を受け持っていたのが先代のクルデンホルフ大公で、物珍しさ故に彼の記憶に留まっていたのである。
 まずは心臓マッサージ。少年の胸に手を当てて、思いっきりショックを加えてみる。

「ふんぬ! そいや! はぁっ!!」

 野太い雄たけびを上げつつ、男性は渾身の力を入れて心臓へ衝撃を与える。それを何度か繰り返すうちに、少年の呼吸が再会された。蘇生に成功したのである。
 後は少年が目覚めるのを待つだけなのだが、連載を読んだのが随分と昔の話なので、その辺をあまり詳細に覚えていなかった。次にやるべきことを誤認したまま、彼は顔を少年に向ける。
 開店前でノーメイクの男性は、体を折り曲げ、その男らしいダンディズムにあふれた顔面を少年へ近づけていく。
 しかし、少年の唇まであと十サントにまで迫ったところで、不意に少年が目を開けた。そして、呟く。

「す……、スカロン、さん……?」
「あらん?」

 見つめ合う野郎が二人。たまたま通りがかった猫がその妙なオーラに当てられ、血相を変えて逃げ出した。
 しならくぼうっとし、やがて二人の距離が異様に近いことに驚いたらしい少年は、慌てて男性の胸板の下から逃げ出した。そして、ふらつきながらも立ち上がり、こう告げた。

「あー、ずいぶんと太ってしまいましたが、僕はヴェンツェルです。お久しぶりです、スカロンさん」



 *



 ……ふーっ。危なかったぜ。まさか、気絶している間に男に唇を奪われそうになるとは。

 俺にキス、おそらくは人口呼吸をしようとした目の前の男性は、かつて俺がトリスタニアでさ迷って腹をすかして倒れていたところに現れ、ご飯を食べさせてくれた人だ。
 たしかけっこうな美人の奥さんと、俺と年の近い娘さんがいた。他にも大勢、女の子がいたな。確か、魅惑の…、その頃は文字があまり読めなかったので、正式な店名はわからない。
 貴族、メイジであることは伝えなかった。

「あ、ああ! どこかで見たかなと思ってたら、あのときのヴェンツェルちゃんね! 懐かしいわぁ~」

 しばらくうなっていたスカロンさんだったが、やがて思い出してくれたようだ。……いや、しかし。この人、こんな口調だったっけ? これじゃまるで……。

 俺が疑問を投げかけようとしたとき、唐突に人の走る音が聞こえた。

「パパ~、ドニールさん連れてきたよ!」
「旦那、どうされたんですか」

 走ってくるのは二人だ。一人は長い黒髪の女の子で、もう一人は身長の高いがっちりとした男。どちらも息を弾ませている。

「ドニールちゃん、悪いけどこの荷物を店まで運んでもらえないかしら?」

 そう言って、スカロンさんは背後に置かれた荷物の山を指差す。それを聞いた大男はうなずき、荷物を背負ってこの場を後にした。


「……ヴェンツェル? うーん、そんな感じの子がいた気もするけど……、この子とは似ても似つかない、というか……」

 スカロンさんの話を聞いた女の子が、首をひねる。まあ、何年も前に、一日会っただけの人間なんて、よほどのことがない限りは覚えていないだろう。
 まして、彼女とはろくに話していない。最初は、髪を伸ばしていたから彼女だと気づかなかったし。

「で、あなた。なんでそんなところで倒れてたの? 酷い怪我だけど、行くあてはあるのかしら?」
「その辺は大丈夫です。もうすぐ―」

 と、俺が応えるのとほぼ同時に後ろから誰かがやってくる気配がした。振り向くと、案の定“女神さま”こと、ヘスティアが歩いてくるところだった。

「よく吹っ飛んだわねえ。ずいぶんと歩いたわ」
「いや、ごめん。きてくれて助かるよ」

 彼女は離れていても俺の居場所のわかるスキルを持っているらしい。そこはなんとなくGPSでもつけられているような気分になるが、まあ便利だからよしとしよう。
 悠々と歩を進めるヘスティアを見て、スカロンさんは固まっている。だが、数瞬の後には、その瞳が怪しく光った。

「ヴェンツェルくん。彼女、あなたのお友だちかしら?」

 友だち……。そうだな、彼女は俺にとってなんなんだろう。家来って感じじゃないし、今のところは一緒に旅をする仲間、だろうか。
 耳に届いたのか、それに対して真紅の髪の女性はこう言い放った。

「いいえ。アタシはヘスティア。女神……、平たく言うとヴェンツェルの愛人よ」
「なに言ってんだ」

 どんな表現を使うかと思ったら、愛人ときたか。もうどうしようもないな。
 呆れ顔の俺がヘスティアをどついていると、突然スカロンさんが大きな叫び声を上げた。

「トレビアン!」

 うん? これ、どっかで聞いたことがあるような……。

「いい。いいわ、あなた。今、『魅惑の妖精亭』に必要なのはあなたのような人材なのよ! 素晴らしいわ!」
「え? え、え。そうね。アタシは素晴らしいわ」

 目を猛烈に輝かせたスカロンさんが、もの凄い勢いでヘスティアを口説きにかかっている。それを見たジェシカがこう言った。

「ウチの店って、女の子がお酒を注いだり料理を運ぶのが売りなんだけど、最近胸の大きい子ばっかり辞めちゃったの。そういうニーズって絶対あるじゃない? だからパパはああして、巨乳の子を片っ端から勧誘してるの」

 ふむ。なるほど。基本、男という生き物は、かわいい女性の胸にくっついた脂肪の塊が大好きだからな。
 ……ん? だが、そうなると彼女は男に体を凝視されることになるのだが……。

「ね、ねえ、ヴェンツェル。あの人が自分のところの酒場で働いてみないかって言うんだけど……。どうかしら?」

 少し考えにふけっていると、ヘスティアがそんなことを訊きにきた。こいつ、褒められまくって気分が高揚してるな。
 うーん、正直、金に困ってるわけじゃないし……。と、思ってズボンのポケットをまさぐると、そこにあったはずの金貨を納めた袋が無くなっているのに気がついた。
 掏られたか、ちくしょう……。まだ十エキューほど残ってたのに……。くそ、これで金策の必用が出来てしまったわけか。ヘスティアは従者扱いなのでローザンヌ伯爵から報奨金を貰っていない。つまり、無一文。やばいな。
 そんな内心の動揺を隠しながら、俺は淡々と彼女に告げる。

「うん、いいと思うよ」
「じゃあ、そうしましょう」
「交渉成立ね! トレビアン」

 こうして、俺たちはスカロンさんに連れられ、彼の経営する酒場へと足を運ぶこととなった。怪我は向こうで手当てをしてくれるという。
 途中、ジェシカが俺の杖について尋ねてきたので、「非常食だ」とだけ答えておく。それきり彼女は俺に話かけてこなくなり、歩く位置もどんどん俺から遠ざかっていった。きっと、気持ち悪いやつだと思われたのだろう。

 それにしても、俺から金を盗んだやつ……。絶対にゆるせないな。









 ●第十一話「忍び寄る大国の影」









「……ちょっと、“これ”、なんなのよ」

 やたらと体にぴったりで露出の多い、とても扇情的な格好のヘスティアがはずかしそうに呟いた。
 ここは開店前の『魅惑の妖精亭』のフロアだ。ずらっと並んだ女の子たちの目の前にスカロンさんが立ち、ヘスティアをみんなに紹介している。
 ……しかし、彼はすごい格好をしてるな。さっきまではオカマ口調なだけで、見た目は普通のおじさんだったのに。

 手当てしてもらった俺は裏方の手伝いを申し出て、先ほどの大男・ドニールと共に厨房でそんな光景を眺めていた。

 ついさっきまで忘れていたが、ここはルイズが夏季休暇のときに働いていた酒場だ。数年前はスカロンさんがあくまでも普通の男性だったため、まったく気がつかなかった。
 俺の中では、『魅惑の妖精亭』=オカマのスカロンという結びつけがなされていたのだ。原作でもせいぜいが名有りモブキャラの扱いだったので、仕方ない。うん。
 あ……。そういえば、ジェシカのお母さんが見あたらないな。今日はいないのだろうか。


「へ……、ヘスティアです。よろしく、お願いします……」

 いつもの威風堂々とした態度からは信じられないほど、彼女は萎縮している。どうやら、露出した肌を見られるのが嫌なようだ。
 しかし、この店ではそんなことは言っていられない。俺の視界に映るきわどい服に身を包んだ女の子たちを想像してみてほしい。あれを男に見るな、という方が無理だろう。
 ……直前まで、あんな格好をさせられるとは夢にも思ってなかったんだろうなあ。

 妄想しているうちに、いつの間にか開店前の集合は終わりを迎えていた。スカロンさんが華麗にくるっと回転し、大きな声で言い放つ。

「じゃ、妖精さんたち! 今日もばしばし行っちゃいなさい!」
「「「「「「「はい! ミ・マドモワゼル」」」」」」
「トレビアン。さあ、開店よ!」

 その直後、ばこん! と羽根扉が開き、怒涛の勢いで客が店内に流れ込んできた。いやしかし、凄い数だな。

 店が開いてからいくらか時間がたち、洗い場には客の食べ終わった皿が回ってくるようになった。俺は同じく新入りだという見習いの少年とともに、汚れた皿を洗い出した。
 洗い場のシンクにはぶくぶくと洗剤の泡がたち、ふちまでを覆い隠している。そこに皿を突っ込み、ごしごしと汚れを落とす。そして最後に、布で磨くのだ。
 ハルケギニアは地球でいう西洋に近い環境にある。そのため、水の性質も欧州のそれと同じである。日本のようにとても性質のいい綺麗な水というわけではないので、じゃぶじゃぶと水で洗い流すことはしない。
 俺は大体の要領がわかっているからいいが、隣の少年はそうではないらしい、さっきから皿を何枚も割っている。

「ジャン、あんたねえ、それじゃ料理を乗せるのに使う皿がなくなっちゃうじゃない! もういいから、あっちで掃除でもしてなさい!」

 やっぱりというか案の定、彼はジェシカに追い払われてどこかへ行ってしまった。

「へぇ、あんたは意外とできるんだ」

 しばらく二人で皿を洗っていると、俺からずいぶんと離れたところに陣取るジェシカが目を細めて言った。

「まあ、こういうのは慣れてるからね」
「……ふーん」

 昔は家事は全部俺がやっていたからな。あれからもうずいぶんと経つが、俺の記憶にこびりついたあの頃の習慣ってのは消えないもんなのさ。……ん? 昔?
 それきり、沈黙したまま俺たちはひたすら皿を洗っていた。

 いくらか時間が過ぎた頃、スカロンさんがやってきてジェシカに寝るようにと言い出した。そういえばジェシカはまだフロアには出ていないらしい。まあ、まだまだ子供だしな。幼い娘に夜更かしはさせたくないのだろう。
 長い間ジェシカは抵抗していたが、最後はとうとうスカロンさんに襟首を掴まれて強制退場。
 失礼だが、端から見ているとあれは“オカマの変態に襲われるか弱い女の子”という光景に見えることだろう。
 さて、ヘスティアはどうしてるかな。俺は一人で皿を洗いながら、未だに人で混雑するフロアへ目を向けた。

「おうおう、いい胸してるねえ、嬢ちゃん。この店はいい女が大勢いるが、嬢ちゃんほどの珠は見たことがない!」
「あ、ありがとうございます……」

 彼女は恥ずかしさが消えないのだろう、耳まで真っ赤にして、腰を折りながら客のおっさんが持ったグラスへ酒を注いでいる。おっさんは目の前に垂れ下がる大きな胸を、よだれを垂らしながらにやにやと観察している。
 そして、ヘスティアが酒を注ぎ終わると、中年太りで禿頭のおっさんはこんなことを言い出した。

「でもなあ、嬢ちゃん。初々しい反応は俺的にはすげぇ好みだけどよぉ。それじゃチップは稼げねえぜ? どうだい、店が終わったら一緒にこねえか? 俺がお前さんを立派な女にしてやるよ」
「え……、いえ、その……」

 お盆を胸の前で抱え、ヘスティアは明らかに困惑しながら言う。俺は場所を移動し、彼女を凝視する。横から見ると豊満な胸がお盆で押しつぶされ、形を変えているのが見えた。う~ん、マンダム。
 「おい新入りぃ!? なにやってんだ!」というドニールの怒鳴り声が聞こえたので、俺は慌てて洗い場に戻る。
 図に乗ってヘスティアの細い肩に触ろうとしたおっさんを『レビテーション』で吹っとばすのも忘れない。

 セクハラ親父を排除したのが俺だとわかり、あからさまにほっとした様子でこちらへ笑顔を向けるヘスティアを見ていると、つまらない皿洗いにしても、なんだか俺はやる気が出てくるのであった。


 それから、さらに数時間後。


「ふーっ。やっと終わったわ…。もう、くたくた……」

 『魅惑の妖精亭』の客室。その最奥部。倉庫として使われていたその部屋にベッドを運び込み、俺たちはそこを根城としていた。今は、慣れない労働で疲れたヘスティアが大の字で寝転がっている。

「お疲れ。これでも飲んでよ」

 そう言い、俺は余り物のワインを差し出した。彼女は起き上がるとそれを受け取り、ごくごくと喉を鳴らしながら一気に飲み干した。

「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたところなのよ」
「どういたしまして」

 俺もワインをグラスに注いで飲んだ。口の中に広がる、芳醇な葡萄の香り。舌触りは滑らかで、このワインが値段はともかく非常に出来のいいものだと分かる。俺は酒類が正直嫌いだが、それではこのハルケギニアではこの先生きのこれない。
 まあ、これならちょっと味の違うブドウジュースだとでも思っておけばいいだろう。……できれば、果汁百パーセントの果物ジュースを作ってみたい気もするが。
 
 さて、これからどうするか……。しばらくここで働きながらお金を貯めるか。
 うん? そういえばなんか忘れてるような……。あ。

「ヘスティア。そういえば、アリスはどうしたんだ?」
「あの子なら、あなたを吹き飛ばした後にまた賭博やってたわよ。今頃は、あそこにいたおじさんたちの身包みを剥がしてるんじゃないかしら」

 殺人未遂の罪を犯しておいて速攻で賭博に戻るとは……、やるな。さすがだぜ。
 まあ、彼女の機嫌が直るまでは下手に会わないほうがいいだろう。また王都の空を飛行するのはごめんだし。
 そう考え、俺たちは寝ることにした。無論、俺は床で寝る。ワラがないので今日の布団はそこらへんに打ち捨てられていたワイン樽だ。

 そういえば、古代ギリシャには衣服を含めたすべての財産を放棄し、町の片隅の樽でひっそりと暮らす賢人がいたらしい。俺は彼の後を追っているのか……。胸が熱くなるな。



 そして、翌朝。

 やっぱり、木の樽でそのまま寝るのは無理があったようだ。体の節々が痛い。
 ふと上を見上げると、ヘスティアはベッドの上で気持ちよさそうに寝息を立てている。起こすのも可哀想だ。ここはゆっくりと寝かせてあげよう。
 俺は杖を持つと静かに立ち上がり、物置兼仮住まいを後にした。

 そしてやってきたのは、店の裏手にある古井戸。ここから水を汲んで顔を洗うためである。
 だが、既にここには先客がいるようだ。ばしゃばしゃ、と水を流す音が聞こえる。誰かが沐浴でもしているのだろうか。
 もし、先客が店の女の子だったら万々歳。スカロンさんだったら井戸に飛び込んで死のう。大丈夫。絶対数から言って、今この場所にいる確立は女の子である方が高い! 
 俺は逸る気持ちを抑えきれず、スキップを踏みながら井戸のある広場へと突入した。

「あらん。どうしたの? ヴェンツェルくんも一緒に沐浴したいのかしら?」

 スカロンさんだった。……死のう。

 俺はとてもピザとは思えないほどの迅速で広場を駆ける。そして、あと少し―――というところで、物凄い勢いでぶっとい腕を突き出してきたスカロンさんに首根っこを掴まれた。

「だ・め・よ? 沐浴っていうのは井戸に飛び込むんじゃなくて、ちゃんと水を汲み上げるのよ!」

 もりもりと増長する筋肉。その力は……。な、なん……だと……。なんて怪力だ。

 逃 げ ら れ な い …… ?

「大丈夫。慣れればどうってことないわよ! あなたちょっと汗臭いから、わたくしが洗ってあげるわ」

 なん……だと……?

 それだけはやめろ。

 ……やめてくれ! あ、やめr

 


 数刻の後。ここは『魅惑の妖精亭』のフロア。まだ朝で開店前というせいか、不思議な静寂に包まれていた。それを破るのは、二人の女性の高い声。

「ふわぁ~。おはよう、ヴェンツェル、ジェシカ。……あら、どうしたの?」
「……」
「女の子の裸が見たかったら、口説いて自分で脱がすくらいの容姿とスキルを身に着けるべきなのよ。マダオの癖に覗きなんてしようとするから、きっとバチが当たったんだわ。ぷぷっ」

 ……隣であざ笑うジェシカを見ても、俺はとくに感傷といったものは何も浮かんで来なかった。俺、もうほんとに死にたい。あ……思い出したら、一気に鳥肌がひいいぃぃぃぃ!
 あの時とっさに『レビテーション』を唱え、辛うじて広場から逃げられていなければ、今ごろΖガンダム(テレビ版)最終話のカミーユのような状態に陥ってしまっていたかもしれない。

「……そんなに見たいなら、アタシが見せてあげるのに」
「え?」

 なにか背後でヘスティアとジェシカがキャーキャーやっているが、もう今の俺にとってはどうでもいいことだった。



 *



 気分転換に、俺は一人でブルドンネ街へとやってきていた。この通りは朝から大賑わいである。
 果物を買い求める人、吟遊詩人、露天商、物乞い。誰もが、このブルドンネ街で、自分だけの物語を創造している。そう。たとえどんなに些細なことでも、それは日常における“出来事”なのだ。
 たとえば、俺が首筋にナイフ……いや、ダガーを突きつけられるというろくでもない事柄でも、それも俺の“物語”の一部なのだ。

「や、やあ……、アリスさん。おはよう。清々しい朝ですね」
「ええ、ほんとですね、坊ちゃま。清々しい朝。そんな素晴らしい日の目覚めのスパイスに、鮮血を添えてみてはいかがでしょう? きっと彩り豊かになりますよ?」
「か……勘弁してください。マジでお願いします……」

 だがしかし、首に食い込んだダガーは引かれるどころかさらに食い込んできた!

「勘弁……してあげたくないですねえ」
「そこをなんとか……」

 アリスは沈黙し、短剣を俺に突きつけているのが周りにばれないように、ゆっくりと裏路地へ向かって移動しだした。抵抗する術のない俺は、大人しく従う他ない。



「……待てよ。そもそも、俺は『杖屋の前で待っていてくれ』って言わなかったか? それを破ってどっか行ったのはアリスたちだろう」

 ここはとある裏路地。地面は薄汚れ、ねずみの群れが列を作っている。俺はそこへ連れ込まれると、無理やり正座をさせられた。
 そこで、とっさに思いついた弁明を口にしてみる。

「はぁ。まさか、自分は四時間も店の中にいたくせに、わたしたちにはその間、忠犬のように鎮座してあなたをあの通りで待っていろ、とおっしゃるわけですか」

 ……いや、あれは店の爺さんに杖に関する講義をずっとされていたからなんだが…。

「とにかく、一度吹っ飛ばした程度ではわたしは許しません。なにか穴埋めをしてください」
「……生憎なんだけど。僕は昨日金を掏られちゃってね。今は無一文なんだ」
「取り返せばいいじゃないですか」

 いや、そんな無茶な。だいたい、誰が盗ったかなんて。……いや、心当たりは一つだけある。杖を買った直後にぶつかったあの緑髪の子供だ。
 けどなぁ。そんなに都合よく探し出せるとも思えないんだよなぁ。トリスタニアは十万人以上の人口を抱えた、トリステイン最大の都市だし。
 なんてことを思った、そのときだった。

「お、シャル。それどうしたんだ?」
「へへ。昨日な。金持ってそうなデブが杖屋から出てきたんだよ。いかにもカモって感じだったから、ぶつかりながら掏ってやった。モヒカン馬鹿に見つかって持ってかれる前に、これでなんか美味いもん食おうぜ!」
「よっしゃ!」

 裏通りをそんな会話を繰り広げながら通りすぎていく子供二人組。片方は俺が昨日目にしたあの緑髪の子供だった。
 ……なんていうタイミングだろうか。
 後ろを振り返ると、アリスはとても穏やかな笑みを浮かべていた。俺はその意味がわからず、一瞬、硬直してしまう。

「取り返してきなさい」

 表情とは裏腹に、一切の有無を言わせない強い口調。俺は体の脂肪を揺らしながら、慌てて子供たちの後を追った。


「あ? なんだおめぇ」

 俺が先回りして彼らの前に立ちはだかると、二人組みの子供はすごみを利かせた表情でこちらを威嚇しだした。

「昨夜、君たちに金をすられたものだ」

 そう言い、俺は杖を構える。子供たちはその杖をしばし呆然と眺めながら、しかし次の瞬間には後ろを向いて逃げ出した。
 だが、所詮は子供の足。こんな短時間に魔法の射程圏内から逃れられるはずもない。俺は『レビテーション』を唱え、逃げ出した緑髪の子供を宙に浮かせる。もう一人はどうでもいいので放置。

「あ、ち、ちっくしょー! 下ろしやがれクソデブがぁぁぁぁ!!」

 緑髪の子共が、空中でじたばたと暴れている。俺は歩いて近づき、服のどこかにあるであろう金貨の入った袋を探し始める。
 あれ、なんだかなかなか見つからないな。どこだろう。ここか? いや、ここだろうか。

「あ! こら! なにしやがる……や、やめ、汚い手でそんなとこ触るな! ……ひゃんっ」
「男のくせに気持ち悪い声出すなよ……、お。あった」

 ひい、ふう、みい……うん、ちゃんと全額あった。よし、こうなればこいつにはもう用はない。俺は『レビテーション』を解除し、子供を地面に降ろした。

「くっ……」

 緑髪の子供は顔を真っ赤にして息を乱していた。着衣は俺が引っ掻き回したからか乱れている。やつは眉を歪めて、悠々と立ちはだかる俺を睨み付けていた。
 と、そのときだった。後ろのほうから、アリスがこちらへ歩いてきた。

「坊ちゃま。お金は取り返しましたか?」
「ああ。この通りだ」

 俺は金貨の入った袋を掲げ、奪還を示す。しかし、アリスの視線はすでにそこには向けられていなかった。

「……坊ちゃま。あなたの後ろで、服を乱して泣いている子は、一体どうしたのですか……?」
「うん?」

 アリスに釣られて後ろを振り返ると、先ほどの緑髪の子供が体を自分の抱きしめて、涙を流していた。

「うう……。体……汚されちゃった……。よりにもよって、こんな奴に……っ!」

 ……なに? こいつ女だったのか。なんだこのデジャヴ。クリスといい、このくらいの年の子は、一見では性別が分からない場合があるから困る。

「坊ちゃま。あなたって人は……」

 まるで、ごごご、という擬音が聞こえてくるようだった。俺は本能的に不穏な気配を感じ、全力で逃亡を決行した。

「なんで怒るんだ! 取り返せって言ったのはアリスだろ! 全力で見逃せよ!」
「黙りなさい! そそその年でじじじ、自分より年下の子に手を出すなんて、し、信じられない鬼畜外道ですね! 今すぐ矯正します!」

 鬼のような表情を浮かべたアリスが、足の裏側に溜めた高密度の空気を爆発させ、高速で俺へ向かって突進してきた。いつの間にあんな技を……!?

「―――死になさい!」

 あ、あれ? 矯正じゃないの? 殺す気かよ!! 馬鹿は死ななきゃ治らない、とでも言いたいのか!
 猛烈なスピードで振り抜かれるダガーを、俺は映画マトリ○クスでのキ○ヌ・リーブスばりの超姿勢で回避。だが、俺の体型でそんな芸当が最後まで成功するはずもない。案の定、俺は地面に仰向けになって倒れてしまう。
 ……終わった。

 俺の位置からは、スカートから覗くアリスの白く華奢なおみ足が見えている。だが…! スカートの内部はぎりぎりの感覚で秘匿されたままだ! くそ、なんで今日に限って長めのスカートなんだっ!

「……なに、スカートの中を凝視してるんですか」
「なあ。どうせなら、最後は俺をその太ももで挟みながら逝かせてくれないか?」
「……」

 うわ、あれだけ怒っていたアリスがどん引きして後ずさりましたよ。俺の顔で言われると本当に気持ち悪いんだろうな。

「……なんだか最近、あなたに向かって真剣に怒るだけ、時間の無駄な気がしてきました」

 そんな呆れ顔で言わなくてもいいじゃないか……!
 そうこうしているうちに、緑髪の子供は「覚えてろおぉぉぉ!!」などと捨て台詞を残して逃げていった。



 結局、このままアリスをこれ以上一人で放っておくことはできないので、一緒に『魅惑の妖精亭』へ来てもらうことにした。ただし、先にクックベリーパイをおごる、という約束で。ちゃっかりしてるなあ。

 今日は虚無の曜日ということもあってか、ブルドンネ街は昨日よりも活気に満ち溢れている。広場には大道芸人もいる。
 やがて目的の店に到着。まだ午前中のためか、昨日ほど人手あふれ返ってはいない。店内のテーブルに腰掛けると、アリスは昨日と同じメニューを注文。俺は『はしばみ草のパイ包み』という、いかにも地雷臭いお菓子を頼んでみる。
 「なんでそんなものを」と言いたげな視線を感じるが、気がつかないふりをする。男は度胸! なんでも試してみるもんさ!

 しばらくして運ばれてきた、二つのパイ。
 一瞬覚悟するも、『はしばみ草のパイ包み』は意外にも見た目は普通のパイ生地でおおわれている。なんとなく、生地の方にもはしばみ草が練りこまれているんじゃないかと思ってたんだが。
 フォークで切り取り、口へ運ぶ。お、意外と甘…………ぐわっ!! 強烈な苦味が!!! 思わず俺は咳き込み、慌ててテーブルに置かれた水を一気に飲み干す。

「……大丈夫ですか?」

 あまり心配してなさそうな口調で、アリスが問いかけてくる。

「うん……、不味い! もう一口!」

 俺はいつかの懐かしいフレーズのオマージュを言い、一度に残りすべてのパイを口の中へ放り込む。そして鼻をつまみ、ほとんど噛まずに飲み込んだ。
 ……ふう。なんとか生き延びたぜ。まさか、こんなところに地獄からの使者が潜んでいるとは。

 その後、昨日のように変人たちに絡まれることもなく、俺は普通のお菓子を頼んでゆっくりと食べた。うん、美味しい。好奇心は猫をも殺すというが、まさにその通りだな。また一つ学んだ。


 店を出た俺たちは、再びトリスタニアの街角を歩いていた。『魅惑の妖精亭』へ向かうためである。
 再び、噴水のある広場へ出た。ここからは白きトリステインの王城が見え、その優雅な建築様式美を訪れる者たちにまざまざと見せ付ける。
 単純な美しさなら、到底クルデンホルフの城では敵わないだろう。さすがはハルケギニア四王権が一つの居城だ。俺たちはベンチに腰掛け、しばらく城を眺めていた。

 そのとき、遠くに見える城の外壁で、なにか爆発のようなものが起きるのが見えた。なんだ? 演習でもしていて、間違って砲弾を撃ち込んだりしちゃったのか?

 いや、違った。爆発は城壁で連続して起きており、明らかに“恣意的な意思を持った何者か”が起こしているようだった。広場では同じように爆発に気づく人々がいたようで、辺りは騒然となっている。
 次第に、爆発は城の外側でも起き始めているようだった。誰かの悲鳴が聞こえ、群集の動揺が広がっていくのがわかる。
 衛兵らが、緊迫した面持ちで一斉にあちこちへ向かって走り去っていく。いよいよこれはただ事ではないな。

「アリス」

 俺は、隣で同じように城を観察していた従者の少女へと声をかけた。彼女は俺の言いたいことを察したらしく、すぐに頷いた。

「なにか、よからぬ気配を感じます。急ぎましょう。わたしに捕まってください」

 緊迫の面持ちで彼女は告げ、腰の鞘からダガーを抜き放った。よく見ると、その表面が青く光り輝いている。……この短剣、父がアリスに与えたらしいが、やはりただのダガーというわけではなさそうだな。

 俺は杖をズボンに固定し、アリスの腰へ捕まる。それを見た周囲の人間が「こんなときになにをやってるんだ、こいつら」と言いたげな視線をぶつけてくるが、この際すべて無視。
 アリスは短剣を天に掲げ、スペルを詠唱し始める。すると、彼女の足元に莫大な魔力の奔流が起き始め、次第に周囲に風が巻き起こり始めた。
 「な、なんだ?」「一体どうしたんだ?」と、広場の平民たちが騒ぎだす。
 それを聞きつけた衛兵がやってきて、アリスを見咎めるなりぐんぐん近づいてくる。そして、叫んだ。

「そこのお前たち! 一体なにをしているんだ! たった今、戒厳令が出たばかりだぞ! 妙な真似をするな!」

 しかし、アリスはそんな衛兵の存在など完全に無視。そして、ついにスペルが完成した。

「坊ちゃま! しっかりと捕まってください!!」

 彼女のその叫びと共に、体に猛烈なGがかかるのがわかった。アリスは、自分の足の裏に濃縮した莫大なエネルギーを使って一気に天高く飛び上がったのだ。それは、さきほど俺を追い詰めるのに使ったそれとは雲泥の差があった。
 一気に高度数百メイルまで上昇したのち、アリスは王城へ向かって弾丸のように突進を開始した。
 ……ぐう、とんでもない負荷だ!


 やがて、王城の中庭が見えた。そこにいたのは―――


「っ、またあの赤髪ですか!」

 アリスが忌々しげに叫ぶ。魔法衛士隊の一つ、マンティコア隊と交戦している赤髪の青年や金髪の青年、その他多くのメイジの中心には、俺も知っている黒髪のマチルノと名乗った優男がいた。
 ……どういうことだ。なぜ、北花壇騎士団のあいつらが!? 困惑は深まるばかり、そんな中、アリスがいきなり叫んだ。

「突っ込みます!」
「ええ!?」

 そして、そのままアリスは乱戦中の中庭に突撃した。俺を道連れにして―――






[17375] 第十二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/08/27 19:28
 トリスタニアの王城。それは幾度となく、その白亜の城壁で王族や高官を悪意ある外敵から守ってきた。
 そんな歴史ある城のテラスで、グラモン家四男のギーシュ・ド・グラモンは、さる人物と共に、城壁と同じ真っ白に塗りたくられた椅子へ腰掛けていた。

 その隣に座る少女。
 肩まで届く、深みのあるしなやかな栗色の髪。白い肌に浮かび上がる、鮮やかな紫色の瞳。身長は一つ年下のギーシュよりも若干高い。
 それは、この年頃の少女が迎える同年代の男子に比べて一足早い成長をうかがわせた。
 テーブルに置かれたお茶に舌鼓をうちつつ、少女はとろけるような笑みを浮かべ、ギーシュの他愛のない話に耳を傾けていた。相槌を打つときの首を軽く傾げる仕草。それを見つめる少年の心は、もはや彼女の虜とされてしまっていた。
 そう。ギーシュのそばに座るのは、アンリエッタ・ド・トリステイン。正真正銘、この国のお姫様である。

 ああ、今日はなんて素晴らしい日なのだろう。父に着いてきてよかった。

 世間話の中、ギーシュはそんなことを考えていた。彼は、父であるグラモン元帥と共に、グラモンの領地から遠く離れたこの王都までやってきたのである。
 グラモン元帥はトリステイン王やラ・ヴァリエール公爵、クルデンホルフ大公と会談している。なんの集まりなのか? そんなことはギーシュの知るところではない。
 年の近い者同士ならそう違和感なく接せるだろう、という粋な計らいで、ギーシュは王の一人娘であるアンリエッタとあいまみえているのだ。
 いや、しかし。本当にアンリエッタ姫は美しい。
 ギーシュは、目の前にいる少女が本当に妖精のように見えてしまう。例えるなら、美の妖精だろうか。
 アンリエッタの奥で頬を膨らませているクルデンホルフの長女も容姿は優れているが、やはりまだまだ子供だ。彼の視界には入っていない。
 素晴らしい。彼女のためならこのギーシュ、命の一つや二つはまったく惜しみませぬ。アルビオンの淵から飛び降りろと言われればそうしましょう。
 目を輝かせながら、彼は一生懸命、特に実のない話を続けていた。


 一方、王女であるアンリエッタの隣で紅茶をすする、濃い色の金髪を頭の上で二つくくりにした少女。
 彼女は、先ほどからずっと暇を持て余している。なぜか。そこな頭の中身が揮発性の液体で出来ていそうな金髪男が、ずっと王女を独占しているからだ。
 この少女は、ヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフの二つ下の妹、ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフであった。

 本来なら今日は、クルデンホルフ大公国の長女であるベアトリスが、宗主国であるトリステイン王国の王女と、このテラスで親交を温める記念すべき日であるはずだった。
 しかし、いざやってきてみれば、なぜか彼女は蚊帳の外。完全に置いてけぼりである。
 なぜ、大公の娘である自分がこんな見栄っ張り借金貴族の四男坊に軽んじられなければならないのか。まったく納得がいかない。
 父に「粗相のないように」とあらかじめことづけされていなければ、彼女はとっくに感情を大爆発させていただろう。
 気づけば、ベアトリスは四杯目の紅茶を飲み干していた。
 ギーシュとアンリエッタは相変わらず談笑に華を咲かせている。最初はあまり乗り気でなかった王女さまも、ギーシュの一生懸命さが伝わったのか、今では引きつった笑顔を見せている。
 もしこの場に、ベアトリスの取り巻き三人衆ことエーコ、ビーコ、シーコがいれば少しは気張って目立てたのだろうが。現状、あいにくながら彼女は孤立無援である。

 王都の青い空を、ベアトリスはゆっくりと眺めた。雲ひとつない澄み渡った空はどこまでも続いている。
 彼は…、兄は、どこにいるのだろう。
 ふと、ベアトリスの脳裏を行方不明の兄・ヴェンツェルの姿がよぎった。
 もう数ヶ月もの間、彼は音信不通である。大公が彼をガリア国境で追放してからというもの、一切の連絡がないのだ。少なくとも、ベアトリスの元にはまったく情報がない。
 「痩せるまで帰ってくるな!」といって追い出した張本人である大公が日に日に痩せこけていくという、なんともひどい有様である。

 兄には、メイド長のサリア――大公をたぶらかした女狐、だとベアトリスはとある侍従から聞いている――の娘であるアリスが従者としてついているというが、彼女からも連絡はないという。
 彼女は、アリス―――その名前を思い浮かべると共に顔を歪めた。順番でいけば本来、自分の姉となるべき人物だ。しかし、彼女の母親はアルビオンから流れてきたという、どこの馬の骨とも知れぬ平民である。高貴な血族の自分とは比べようもないほどに矮小な、卑しい身分の人間。
 ベアトリスは、あえていうならば一種の嫌悪感のような、憎悪のような感情をアリスに抱いていた。しかし、以前の彼女ならば、アリスという存在をそこまで強く認識はしていなかっただろう。
 しかしなぜ今、そんな感情を持っているのか。それをベアトリスが思い起こそうとしたとき、唐突に彼女の意識が現実へ引き戻された。

「あの、ベアトリスさん?」
「……え?」

 誰かが肩を揺さぶる感覚。ふと視線を横へずらすと、アンリエッタが心配そうな表情でベアトリスを見つめている。いつの間にか、グラモンの四男坊の姿は消えていた。どうやら、用を足しに行ったらしい。



 *



 ギーシュが用を済ませてテラスに戻ってくると、アンリエッタとベアトリスが仲良さげに会話しているのが目に入った。
 いつの間に仲良くなったのであろうか。しかし、妖精のような美しさを持つアンリエッタと、まだ幼いながらも均整の取れた顔立ちのベアトリスが共に微笑む姿は、なかなかに絵になるものである。
 ふむ、よく見ればあのクルデンホルフの子も悪くない。いや、むしろいい。ギーシュはそんなことを考えながら彼女たちのテーブルへと向かう。

 と、その時であった。

 階下の中庭で爆発音と怒号がとどろいた。一体、なにごとだろうか。ギーシュは慌ててテラスの端まで駆け寄って、下を確認する。
 そこで目にしたのは、貴族の少年なら誰もが憧れる魔法衛士隊のマンティコア隊と、正体不明の敵が争っている光景であった。
 ギーシュは直感的に危険を感じ取り、自らの後方にいるであろう少女たちに避難をうながそうとした。しかし。

「な、なんだ、きみは!」

 ギーシュは思わず叫ぶ。
 先ほどまで椅子に腰掛けていたアンリエッタとベアトリスが縄で縛り上げられ、床に倒れている。口には布が巻かれ、なぜか胴体部は亀甲縛りであった。
 そして、彼女たちのそばには一人の青年がたたずんでいる。

「……ぼくか? ぼくはジェロニモ。ジェロニモ・ディ・アマクサだ」

 自らが縛り上げた少女たちの顔を確かめつつ、青年は淡々とした口調で告げる。緊張感のない彼の態度ではあったが、なぜかギーシュには寸分の隙も見つけることはできない。

「ひ、姫さまたちを離せ!」

 ギーシュは、得体のしれない相手に足をがくがくと震えさせながらも杖を構えた。
 彼はまだドットスペルの呪文を習得したばかりではあったが、この場合、他に選択肢はない。明らかな体格差のある相手に杖無しで挑むほど彼は無謀ではないのだ。
 そういえば、なぜこんな騒ぎになっているのに城の衛兵たちが一人も来ないのか。ギーシュは一瞬、そんな疑問を脳裏に浮かべるが、すぐにそれは解決した。
 青年の体には、至るところに返り血を浴びたと思わしき血痕が付着しているのだ。恐らく、この付近の衛兵は全滅してしまったのだろう。
 なんて恐ろしい男だ。ギーシュの足の震えはいっそう増し始め、とうとう止まらなくなってしまう。
 トイレに行っておいてよかった。もしかしたら、姫殿下の前で粗相を働いてしまっていたかもしれない。ギーシュは心の中でため息をつく。

「離せ? それは土台無理な話だな。ぼくの任務は、アンリエッタ王女をかどわかすことなんだから」
「……なんだと! ふざけるな、そんなことは許さないぞ!」

 ギーシュは叫び、ルーンを詠唱する。すると青年の足元が盛り上がり、人の手のような物体が現れた。『アース・ハンド』という土のドットスペルである。
 しかし、それは青年の『ブレイド』によっていとも容易く切断され、テラスの石へ戻ってしまう。ギーシュは舌を巻いた。

「……その程度か。きみと年の近いスクウェアメイジがこのトリスタニアにいると聞いて少々警戒していたが……、まったく無用な心配だったようだな」

 青年は独り言のように呟くと、杖を振った。すると、アンリエッタとベアトリスを縛り付けていた縄がさらにきつく締まり、二人の少女は小さな悲鳴を上げる。
 アンリエッタは顔を赤らめ、体をもじもじとよじらせる。この非常事態にも関わらず、ギーシュはそんな彼女の様子に釘付けになってしまう。なにがなんなのかはわからないようだが、彼の天性のスケベ心は確実に“なにか”を捉えているようだった。

「間違えたか。こっちだ」

 再び呟くと、ジェロニモはまた杖を振った。今度は正解なようで、二人の少女の体が宙に浮かぶ。どうやら、『レビテーション』を唱えたようである。
 まずい。こいつは本当にアンリエッタとベアトリスを連れ去る気だ。ギーシュは焦った。
 しかし、なにも浮かばない。ゴーレム、あれはだめだ。彼はまだゴーレムを満足に作成することはできない。そこまで鍛錬を積んでいないからだ。『錬金』もほぼ使えない。では、どうする。
 ギーシュは、ただなすすべなく立ち尽くした。

「そう。それでいい。ぼくはもう畜生道に堕ちた身だが、それでもきみのような子供を手にかけるのは忍びない。無駄な抵抗さえしなければ……。このままきみがそこで黙って見ていればいいんだ」

 そう言うと、青年は少女たちを浮かべたままゆっくりと出口の方へ向かって歩いていく。


 ―――これでいいのか?

 ―――いいんだよ。ぼくには、彼に対抗できる力がない。

 ―――いや、だが彼女たちはどうなるんだ。

 ―――それはしかたがないよ。どうしようもなかったって、姫さまだってわかってくれるさ。

 ―――ふざけるな、女の子が変な奴に連れ去られそうになっているのに、ただ見て見ぬふりをするのか!

 ―――しょうがないんだよ。もしぼくが出て行っても、せいぜい無駄死にするだけだろ?

 ―――命をかけるって言ったくせに。王族のためにそれができないで、なにが貴族だ。恥ずかしくないのか!!


 少年の頭の中でせめぎ合う、二つの気持ち。どちらも、彼の偽らざる本心である。
 何者にも、彼を非難することはできない。絶望的な力量差を目の当たりにして、それでもなおその敵に立ち向かえる人間など、ほんの一握りの無謀者しかいないのだから。
 だが、思案しているうちに、青年はずんずんと進んで行ってしまう。このままでは、この国の王女が連れ去られてしまう。

 もう、一か八かだ。ギーシュはそう決断した。彼はバカだった。

「二人をはなせぇぇぇぇ!!」

 白い椅子を持ち上げ、叫びながら彼は青年に向かって突進。
 それを見たジェロニモは「…愚かな」と呟き、『レビテーション』を解除。縄で拘束された少女たちは魔法による支えを失い、再びテラスの床に転がる。
 ジェロニモは『ブレイド』を唱える。白い魔法の刃が現れた。それを、椅子ごと突っ込んでくる少年に向ける。無我夢中のギーシュはもう前を見ていなかった。

 そして―――少年の持った椅子が切断され、少年自身もが魔法によって二つに切り裂かれそうになったそのとき―――

 突然天から降ってきた『マジック・アロー』がジェロニモの杖の『ブレイド』に命中し、魔法同士が干渉する際に発生する衝撃で、青年を弾き飛ばした。
 なにが起きたのか。真っ二つになった椅子を持ったまま転んだギーシュは空を見上げる。すると、王城にそびえたつ尖塔の上に、誰かの人影が見えた。女性のようだった。
 長いブロンドの髪を風になびかせながら、彼女はテラスを悠然と見下ろしている。そう思った次の瞬間には、その体がふわりと宙に浮いた。

 まるで、天から舞い降りる天使のようだと―――そのときのギーシュは、唖然としながらも思ったのである。
 果たして、それは正しかったのであろうか。









 ●第十二話「天災」









「アリス!」

 俺が叫んだときには、従者の少女は既にもうもうと巻き上がる砂埃から脱出し、北花壇騎士と思わしき敵の杖を切り落としていた。……ひゅー、さすがだぜ。

「な、なんだ、この子供は!」

 マンティコア隊のおっさん―格好からして隊長、ド・ゼッサールだろうか―が困惑の声を上げた。まあ、無理もないだろう。いきなりこんなガキどもがやってきたらな。
 俺も混乱に乗じて『レビテーション』を使い、北花壇騎士の杖を手当たり次第に吹っ飛ばしていく。ただ、ほとんどの連中が杖をもう一本持っているのは想定外だった。集中砲火を浴び始める。
 どうしようもなく逃げ回っていると、俺の前に立ちはだかる人影があった。
 黒い髪の美丈夫……。確か、マチルノといったか。なんでこんなところにまで現れるんだか……。どこまでもしつこいやつだ。

「こんなところでまた会うとはね……。つくづく、君たちとは因縁があるようだ」

 俺の気持ちと同じことを言うや否や、奴は杖を構えた。今回の杖は、かなり頑丈そうなバンドで奴の腕にしっかりとくくりつけられている。『レビテーション』対策ってわけか……。
 奴は対峙せず、そのまま逃げる。そうしながら状況を確認する。アリスは赤い髪の青年と、ド・ゼッサールは金髪の青年が繰り出すゴーレムと戦っているのが見えた。
 
 アリスは『遍在』を生み出して赤髪の男へ攻撃を加えている。その数は五体。『カッター・トルネード』といい、もう彼女はスクウェアメイジに成長しているといっていいはずだ。
 あの天才との呼び名で誉れ高いシャルル王子ですら、スクウェアになったのは努力を重ねて十二歳だと言う。まったく、いかにアリスの成長速度が化け物じみているかわかるよ。
 対するあの赤髪だが、あれも相当強い。アリスと同格か、下手をすればそれ以上だろう。ランクは間違いなくスクウェア。
 火のメイジといえば、コルベールのおっさん、キュルケやメンヌヴィルが有名だが……。恐らく単純な戦闘力なら誰もあの赤髪には手も足も出ないだろう。勝てる可能性があるのはコルベールのおっさんか。彼の強さは、魔法の応用で得られている部分がかなりあるのではないかと思う。
 単純に火をぶつけてばかりの他の火メイジとは一線を画したバトルスタイルだ。まあ、あの青年は単純に火力が異常なほどに強いようだが。

 一方、ド・ゼッサール。彼はマンティコア隊というだけあって、幻獣マンティコアに乗って戦っている。
 うーん、さすがという他ないな。金髪の青年のゴーレムは明らかな金属製でかなり強そうなのに、まったく苦戦している気配がない。

 俺が再び逃げながらそんなことを考えていると、とうとうマチルノに追いつかれてしまった。

「……二度も遅れはとらない。今回はあの厄介な化け物もいないようだし、さっさと片付けさせてもらうよ」 
 マチルノは呟き、杖に『ブレイド』を顕現させた。そして、そのまま突っ込んでくる。

 俺も『ブレイド』を唱えてみるが、杖に現れたのはせいぜいが一サンチほどの小さな魔法の刃である。ダメだ、こんなんじゃどうしようもない……、ってもう目の前に迫ってる!?
 この距離じゃもう避けられない!
 気づけば俺の『ブレイド』は既に消えうせており、もう裸身の杖となっていた。……くそっ、もう終わりか……?
 と思ったとき、唐突に「ガキンっ!」という何かがぶつかるような音がした。見ると、俺の杖がマチルノの『ブレイド』を弾き返しているではないか!

「な……、なんだと。なぜ、そんな長ネギで私の魔法が……」

 杖を持ったまま、唖然とした様子でマチルノは立ち尽くしている。
 そう。……この杖、見た目が完全に“長ネギ”なのである。およそメイジの使う代物ではないのだが、それ故に、初見でメイジだとばれる可能性が大幅に軽減されるという思わぬ副作用があるのだ。そういえば、アリスもこれが杖だとは思わなかったようだな。
 しかしまさか、こんなので『ブレイド』を弾くことが出来るとは。見た目に騙されると痛い目に遭うという典型例だな。

「くっ……、ならば、これでどうだ!」

 顔に焦りの色を浮かべたマチルノが魔法を唱える。次は『エア・ニードル』のようだった。しかし、これも俺の杖は簡単に弾き返す。
 よっしゃ、反撃だ! 今の俺なら、気分の乗っている俺なら…! 出来るはず!
 俺は『マジック・アロー』を詠唱。しかし、ネギから魔法の矢が放たれることはなかった。

 万事休す。攻撃は受けないが、だからといって反撃できるわけでもない……。もし、奴が何らかの突破方法を見つけてしまえば、その時点で俺は摘みである。

「いや……。そうだ」

 ……なにかを考えていたらしいマチルノだが、突然アイデアが思い浮かんだらしく、そのイケメンフェイスを歓喜に満ち溢れさせた。

「―――ユビキタス・デル・ウィンデ!」

 げっ、これは『遍在』か! 奴はスクウェアクラスなのかよ! 次々と奴の周りに『遍在』が現れた。その数、七体。アリスよりも多い。これだけでも、かなりの使い手だというのがわかる。
 これはまずい。なぜか俺の杖は鉄壁の防御力を誇っているようだが、それで防げるのは正面、あるいは杖を向けた方向だけだろう。つまり……。四方、あるいは両面から同時に攻められただけで終了。
 ……こうなれば、撤退あるのみだ!

 俺は『フライ』を唱え、全力でこの場からの離脱を敢行しようとする。
 だが、そんな見え透いた行動が成功するはずもない。瞬く間に『遍在』によって行く手を塞がれ、たった十秒ほどで俺はマチルノに捕獲されてしまった。

「くそ、放せ!」
「放せと言われて、はいそうですかと放すバカがこの世のどこにいるんだ?」

 なんて正論だ……! 悔しいっ……! ビクt
 マチルノは俺から杖を取り上げると、興味深そうに弄繰り回していた。
 そして、その両端を手で持って一気にひざでかち割る。ポキン、と軽快な音を立てて真っ二つに折れた、杖こと長ネギ。物理的な衝撃にはめっぽう弱いみたいだ……。
 なんてこった……。せっかく手に入れたばかりの杖が、そんな……。

「ふ、ふふふ……、ははははは!!!! 情けない、あまりにも情けないなあ、君は!」

 ……そんなこと、言われなくたってわかってら。

「さて、君の悪あがきもここまでだ。では、死んでもらうよ」

 薄く嗤いながらそう言うと、マチルノは自身の杖を天高く掲げた。今度こそやられてしまうのか。いや、スクウェアクラス相手に今までよく粘ってきたよ。俺……。

 ……でも、まだだ。まだ俺は死にたくない。あのとき、火竜山脈でヘスティアが言ってじゃないか。『アタシがついてれば、たくさんの女の子と仲良くなれるばら色ライフが待ってるのに』って……。
 あれが本当のことかどうかなんて、大して重要じゃない。彼女はそういう可能性を俺に与えてくれた。ただそれだけなんだ。
 たとえそれが、宝くじの一等が当たるものより可能性が低いとしても……。明日、直径十キロの隕石が地球にぶつかって人類が滅亡する可能性より低いとしても……。二〇十二年に地球文明が滅びる可能性より低くても……。佐藤琢磨がF1に復帰する可能性より低いとしても……。

 俺は、生きる……。生きて明日を掴むんだ!

 そう強く願ったとき、俺の左目の火のルビーがまばゆい一条の光を放つ。その光は瞬時に膨張して球状の光源となった。
 もう見慣れた、真紅のロングヘアー。ゆったりとした普段着。赤い瞳は強烈な輝きを放っている。

 そして、まばたき一回分の間には人型となり―――そこから姿を現したのは…。

「へ、ヘスティア…」
「はぁい♪」

 いつものように陽気な笑みを浮かべた、“女神さま”だった。



 *



 衝撃で負傷した右手を庇いながら、ジェロニモは驚愕していた。まさか、『ブレイド』に『マジック・アロー』をぶつけてくるような人間がいたとは……。
 彼を驚かせた当人は、王城の尖塔からゆっくりと降下。地面に降り立つと、転んで倒れていたギーシュに近づき、彼を引っ張って立たせた。

 彼女の、腰より長い綺麗なブロンドヘアー。すらりと長い手足。華奢な胴体には不釣合いなほどのバストとヒップ。まるで絵画の中から飛び出してきたような、この世のものとは思えないほどの完璧な美貌。
 ギーシュはさっそく見惚れてしまっているようで、盛大に鼻の下を伸ばしている。あまりにも情けないその面は、先ほどの命をかけた特攻すら台無しにしてしまっている。

「大丈夫。ボク?」

 女性は微笑み、優しげな表情をギーシュに向けた。手を体の前面で組んでいるので、大きな胸が腕に圧迫され、窮屈そうに形を変える。

「は、はい! 大丈夫どころか本日は快晴です! 波の高さは一メイルもありません! 絶好の海水浴日和です!」

 完全に美女の色気にやられた少年は胸を凝視しながら、見事なまでに、恥ずかしいほど完璧に錯乱している。
 そんなギーシュに、アンリエッタとベアトリスは縛られながらも、物凄く冷たい眼差しを向けていた。

「これは、これは。あなたのような麗人が、あれほど高い精度を持った『マジック・アロー』を繰り出してくるとは……」

 錯乱しているギーシュを無視して、ジェロニモはつとめて冷静な声音で目の前の女性に声をかけた。
 彼は風のトライアングルメイジではあったが、いま眼前にいるこの女性は彼の実力を上回っている可能性すらある。彼はまず、対話による情報の引き出しにかかった。
 下手に戦ってしまって、相手が自分以上の使い手だと非常に生存率が下がるからだ。大抵、相手が人間である以上は、こうやって交渉する意思をちらつかせれば多少の隙は生まれる。彼はそれを利用して生き延びてきたのだ。

 すると、女性はなにか呟きながら、ジェロニモへ視線を向けた。つぶらな、少々の憂いを帯びた美しい鳶色の瞳だった。彼は自然と、その瞳に引き込まれてしまう。
 それは本当にわずかな時間だった。そう。まったく時間はかからず―――

「…はじめまして。早速だけど――――――死になさい」

 彼女が放ったその一言。

 わずかな硬直の後、ジェロニモは『ブレイド』で、自らの首を掻っ切る。
 なんの抵抗も見せなかった。まるで、それが、そうするのが当たり前であったかのように脳の奥深くまで染め上げられていた。彼は、絶対遵守の力に逆らうことができなかった。

 その光景を目の当たりし、口を開けたまま、ギーシュは言葉が出ない。
 アンリエッタとベアトリスはすぐに気絶した。箱入り娘の彼女たちがその光景をまざまざと見るのは、あまりにも過酷すぎたのだろう。


 そして、その言葉を、死の言葉を放ったブロンドの髪を揺らす麗人は…。瞳を怪しく輝かせ、ただ静かに、ただ粛々と、その鮮血を浴びていた……。





[17375] 第十三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/08/27 19:29
「ずいぶんと大きな騒ぎを起こしてくれたようね。ま、アタシが来たからには、もう好き勝手はさせないわよ」

 ここはトリスタニアにある王城、その中庭だ。
 俺の目の前に現れたヘスティアと、北花壇騎士団員のマチルノが向かい合っていた。彼が生み出した七体の『遍在』は依然として健在のままで、俺と彼女を包囲している。

「……まともな存在ではないと思っていたが、まさかここまでとは。君と対峙しているときは、実に奇想天外な出来事が起こりやすいようだな」

 俺たちの正面にいるマチルノが腕を下ろして言った。どうやらこれが本体らしく、『遍在』たちは杖を構えたまま微動だにしない。辺りでは、突然現れたヘスティアの姿を見た人々が驚き硬直している。
 まあ、ピザの目が光ったと思ったら美女がいきなり出てくるんだもんな。そりゃ驚くわ。

「あら。まともじゃないとは失礼ね。いやな殿方だわ。燃やしちゃっていいかしら?」

 小さな炎を指先に燈し、ちょっとした挑発を織り交ぜながら、ヘスティアは言った。

「それは遠慮願いたいところだが……。今度ばかりは失敗するわけにはいかない。私も本気でやらせてもらう」

 そう応え、マチルノは杖を構える。
 次の瞬間には、周囲の『偏在』たちが一斉に俺たちへ遅いかかってくる。ある個体は『エア・ハンマー』を唱え、別の個体は『ウインド・ブレイク』や『ライトニング・クラウド』など……。
 それをヘスティアは、俺を抱えて上空へ上がることでかわした。

 しかし、それは当然マチルノの予想した行動だったのだろう。別の『偏在』がすぐさま上空の俺たちに狙いをつける。
 次々と魔法が飛んでくるが、ヘスティアはそれをかわしながら、よけきれない分は『力場』で無力化していく。

「ヘスティア。僕がいたら戦いにくいだろう。ちょうど渡り廊下があるから、僕をそこに下ろしてくれないか」
「……いいの?」
「杖のない状態じゃなんにもできないんだ。余計な荷物がないほうが戦いに集中できるだろう?」

 役立たずはいないほうがいい。なにかを守りながら戦うのは、俺の想像以上にやりにくいはずだから。

「……そうね。わかったわ」

 ちょっと考えて納得してくれたのか、彼女は俺を城の渡り廊下まで運ぶ。途中で敵の妨害が入るが、ヘスティアは巧みな飛行術でそれをかわしていく。
 廊下の淵までたどり着いたところで、彼女は俺を下ろし戦場へ戻っていった。最後にくれぐれも火石の消耗には気をつけろ、と念を押すのは忘れない。


 渡り廊下を見回した。
 そこで目に飛び込んできたのは、元は衛兵や城の召使い“だった”と思わしき死体の山々だった。どれもこれも、魔法か鋭利な刃物かなにかで首を切断されているらしく、おびただしい量の血で廊下は真っ赤に染まっている。
 ……なんだこれは。一体ここでなにが起きたんだ。この先に一体なにがあるんだ。
 嫌な予感がして、俺はあまりに多すぎる血の放つ臭いに顔をしかめつつ、遺体の転がる方向へ足を進めていった。

 やがて、城にあるテラスが見えるところまでたどり着いたとき、人の声がした。
 俺は物陰に隠れてテラスを見渡す。
 すると、真っ先に飛び込んできたのは、白い椅子を抱えて突進する金髪の少年。俺から見て手前側には杖に『ブレイド』を展開して、それを待ち構える北花壇騎士団員らしきメイジがいる。
 さらに手前には、どこかで見たことのある茶髪の少女――恐らくアンリエッタだろう――と……、ベアトリスが縄で縛られて地面に転がっているではないか! 一体、どうしてあの子が王城にいるんだ?

 ……なんてこった。もしかして、下で暴れてる連中は最初からアンリエッタ王女の誘拐が狙いで、あの部隊は丸ごと陽動だったのか?
 俺がそんなことを考えているうちに、いつの間にか状況は動いている。なぜか青年が杖を手から落とし、右手をかばっていた。一方の少年は転んでしまったようだ。

 なにが起きたのかはわからない。しかし、このままだとあの少年はもちろん、アンリエッタやベアトリスにも危害が及んでしまう可能性がある。俺は意を決してテラスに飛び出そうとした。
 しかし。

 そのとき、上の方から一人の女性がテラスに降り立った。
 長いブロンドの髪を風になびかせるその人は、俺がよく知っている人物だった。数年の時が流れたが、“あのこと”は、今でもはっきりと思い出せる。
 ……いや、忘れたくても忘れられない、という方が正しいのだろうか。

「な……。なんで、あの人が……」

 驚きのあまり、はからずも俺は思わず呟いてしまった。

 ―――カトレア・イヴェット・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。

 彼女は、彼女こそが、あのときラ・ヴァリエール公爵の屋敷で、俺が……、俺が目の当たりにした―――




 *




 ジェロニモの体から吹き上がる血しぶきが止むと、テラスには痛いほどの静寂が訪れた。気絶する二人の少女。ギーシュは、もはやまともな言葉を発することすらできずにいる。
 そこで、血を浴びながら立ち尽くしていた女性が、テラスの奥にある渡り廊下の方へ視線を投げかけてこう発した。

「……そこに隠れているのは誰かしら? 賊ではなさそうだけれど…。こそこそとしていないで、出てきなさいな」

 すると、渡り廊下の物陰からゆっくりと、一人の太った少年が姿を現した。濃い色の金髪に、わかりにくいが青と赤の月目だということが見て取れる。

「……おや。こいつは」

 それを見たブロンド髪の麗人―――カトレアは、先ほどとはまるで違う、別人のような声音で言う。それを端で聞いていたギーシュは、その声の低さに愕然とした。
 太った少年は額に汗を浮かべている。あからさまに緊張しているようであった。実際、彼は逃げ出したい気分ではあったが、それをなんとか堪えている。

「お久しぶりねぇ。まさか、こうしてまた会うことがあったなんて」

 にこやかな顔でカトレアは少年に告げる。しかし、その鳶色に輝く瞳はまったくピクリとも笑っていない。

「……あなたこそ、とても病弱だった、あのカトレアさんの体だとは到底思えない動きをしているじゃないですか……」

 震える声で、少年はそう応えた。

 妙な雰囲気をかもし出している二人の視界の外で、ギーシュはなにか言い知れぬ脅威のようなものをカトレアから感じ取っていた。彼はどうすることもできず、ただただ傍観者に徹する。

「『制約』の魔法があれば、こうやって動くことくらい、なんてことはないのよ。そりゃあ、禁呪になるわけね」

 血まみれのままカトレアは嗤う。その瞳に映るのは、まぎれもない狂気の色であった。それを、少年はただ沈黙したまま見つめる。

 はたして彼らの間で、一体なにがあったのか。


 それは数年前の、秋の入り口を向かえる季節のことであった。









 ●第十三話「過去」









 とある街道を、五台の馬車がゆっくりと通り抜けていく。どれも真新しく立派だが、中央のひときわ目立つ大型馬車にはきらびやかな装飾が施され、その所有者がただ者ではないことを容易に想像させた。
 案の定、車体に記された家紋は、トリステイン随一の大貴族、クルデンホルフ大公家のものであった。

 途中、馬車は先方の迎えを待つために、とある小さな湖のほとりに停車。護衛のメイジたちが周りの安全を確認すると、大型馬車の中から人影が現れた。
 それはすらっとした体躯の、まだ年若い紳士であった。彼は上質の布で作られた衣類にその身を包み、悠然と湖を眺める。
 やがて、大型馬車の一両後ろにある中型馬車の扉を開け、一人の少年が太陽の下にその身を晒した。やはり上物の衣類にその身を通している。短めにカットされた黄金色の頭髪が日の光をきらきらと反射した。その身はほっそりとしており、まさかこの少年が“あのような”状態に陥ると考える人間は誰もいないだろう。

「父上。ラ・ヴァリエールのお屋敷までは、あとどのくらいでしょうか」
「そうだな……。このペースならば、半日もあれば到着できるだろう。ヴェンツェル」
 父と呼ばれた男性―クルデンホルフ大公は自らの息子の問いに、そう答えた。

 しばらくの休息の後、迎えの馬車がやってきた。彼らは再び馬車に乗り込む。夕刻には目的地へとたどり着き、公爵と共に晩餐に興じる予定である。


 道中、大公は馬車の中で腕を組みながら、考えにふけっていた。
 彼はとある事業を進めており、その実現にはトリステイン有数の大貴族の協力が必要不可欠なものであった。故に、自らわざわざ公爵の元へ足を運んでいるのである。
 他にも、公爵の娘―年の遠い長女・次女よりも息子と同い年の三女が望ましいだろう―と縁談を結べはしないだろうか、などと考えていた。
 当時、既にワルド男爵の嫡子、ジャン・ジャックが三女ルイズの婚約者とされていたが、大公はその事実をまったく知らずにいたのである。

 彼の脳裏には、蛮人の成り上がりだの、拝金主義の背教者だのと、散々にけちをつけてくるトリステイン貴族の姿が浮かんでいた。彼の妻はトリステイン貴族ではあったが、それでもゲルマニア上がりだという罵りの言葉が聞こえてきていた。
 なんとかそれを一掃できないものか……。そこで彼は、トリステイン随一の血統を持つラ・ヴァリエールの娘との婚姻を考え出した。

 そこまで考えたとき、大公は唐突に首を振る。それでは結局、自分のわがままを息子に背負わせてしまうだけだ。自分は息子の意思を尊重したい。
 彼は、厳しい父に躾けられて育ってきた。さらに、半ば婚姻を強要されたことがあった。
 諸々の反動で、彼は自分の子供には非常に甘く、優しく接していた。メイドとの間に子ができたときも、自分の子供だから、という理由で彼女たちを追い出さずに手元に置いた。
 召使いに子供など出来ようものならば、暇を出すか、もしくは存在自体をなかったものにされるか……、このハルケギニアではそんなことが日常的に行われている。だが、彼はそうしなかった。
 よく父に「お前は甘すぎる」と言われたものだが、大公はそれでいいと考えている。その甘さが自分の美徳であり、欠点であるということは十分に認識しているのだ。



 夕刻。日はすっかりと地平線の彼方へ身を隠し、山のふちからわずかな光が見えるのみとなっていた。
 予想より早くラ・ヴァリエールの館へたどり着いたクルデンホルフ大公は、挨拶もそこそこに、さっそくラ・ヴァリエール公爵と会談に入っている。

 残された息子―――ヴェンツェルは、館にある貴賓室で一人暇を持て余していた。すると、そこへ一人の少女が現れる。
 長く艶やかな、桃色がかったふわふわのブロンドヘアー。若干釣り目気味の、大きな鳶色の瞳。幼い少女の細い、華奢な体躯。彼女は白いワンピースをその身にまとい、不機嫌そうな表情で部屋の中へ入ってくる。
 ああ、この子がルイズなのか。さすがメインヒロインだけあって可愛いな。……などと、彼は思った。
 おそらく彼女は、公爵に「せっかくだから挨拶でもしてきなさい」とでも言われたのだろう。渋々したがってはいるものの、あからさまに気分を害しているようであった。

「はじめまして。ミス。僕はヴェンツェル・フォン・クルデンホルフと申します。お見知りおきを」
「……ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール」

 目の前の少年がきちんと立ち上がり、丁寧な挨拶を行ったからであろうか。ルイズは依然として不機嫌そうな顔のまま、嫌々ながら自分の名を告げる。
 なんでわたしが、こんな成金の家の人間の相手をしなくてはならないのだろう。そう言っているようにヴェンツェルは感じる。そして、それは大体が合っていた。
 少年はいくつか世間話を振ってみるが、目の前の少女はほとんど興味を示さない。理由は単純で、このときの彼の話は、およそ貴族の箱入り娘、それも十歳にも満たぬ少女が興味を持つようなものではなかったのだ。
 元来、口が上手いわけでもないヴェンツェルは対応に窮してしまう。もしそこで食事会の開始を告げるメイドが現れなければ、もっと重い沈黙が彼の精神を蝕んでいただろう。


 晩餐会は屋敷の大食堂で行われた。上座にはラ・ヴァリエール公爵が腰掛け、クルデンホルフ大公はやや下座に腰掛けている。悲しいかな、彼は大公でありながら公爵に頭が上がらないのである。
 ヴェンツェルは末座に席がある。向かい側にはルイズがおり、その隣にはエレオノール、公爵夫人。少年の隣にはカトレアが腰掛けている。内心、彼はこの配置であることを大変喜んでいた。
 実際に目の当たりににした彼女はとても清楚な雰囲気で美しく、彼は半ば“一目惚れ”してしまっていたからだった。
 カトレアをちぃねえさまと呼び慕っているルイズは、席の配置が大変気に食わないようだった。食事中、常にヴェンツェルを睨みつけ、刺すような視線で彼にプレッシャーを与えてくる。

 晩餐会が終わると、少年は逃げ出すようにして食堂を後にした。ルイズがなにかこちらに言いがかりを付けてきそうな雰囲気を察したからだ。
 しばらく勝手に屋敷の中をうろついてみる。ときおりメイドが忙しそうに駆け回っていく姿が見えた。
 歩きつかれたので廊下の窓を開け、しばらく月を眺めていると、小鳥がこちらへ飛んでくるのが見えた。ゆっくり、ふらふらとヴェンツェルのいる窓辺へと向かってきている。まるで、彼に助けを求めているようであった。
 小鳥はなんとか窓枠の上までたどり着くと、小さく「ぴぃ」と一声鳴く。よく見ると、翼から出血している。
 こいつは参った。せっかくだし助けてやりたいのだが、少年は鳥の治療の心得など持っていない。困り果て、手のひらに鳥を乗せたまま立ち尽くしていると、背後から穏やかな声が聞こえてきた。

「そこにいるのは……、ヴェンツェルくんかしら。どうしたの?」

 ラ・ヴァリエール家次女のカトレアであった。手には絵本を持っている。ルイズを寝かしつけた帰りだろうか。

「……ええと、この鳥がけがをしてしまったようでして」

 ヴェンツェルは、手のひらでうずくまる小鳥を彼女へ見せる。それを見たカトレアは慈しむような視線を小鳥へ向け、こう言った。

「まあ、大変。手当てをしてあげないといけないわ」
 

 それから。ヴェンツェルは小鳥を手に乗せたままカトレアに連れられ、彼女の私室へ入った。

「これで……、よし。しばらく安静にしていれば、すぐに治るわ」
 少年から小鳥を受け取ると、見事な手つきでカトレアは小鳥へ応急処置を施して、部屋に設置された鳥かごの中へ小鳥を入れる。すぐに「ちちっ」という小鳥のさえずりが聞こえた。

 カトレアの部屋は質素な印象だが、なぜか数多の動物がうごめいており、ヴェンツェルは最初に入室するときに白い子犬に足を噛まれた。
 ベッドに腰掛け、狼の子供のような生き物の頭を撫でながら、カトレアは鳥かごの中の小鳥を見つめるヴェンツェルに声をかけた。小鳥は先ほどから、彼の前でぱたぱたと行ったり来たりを繰り返している。

「その子、あなたに『助けてくれてありがとう』、って言ってるのよ」
「……そうなんですか?」
「なんとなく、だけどね。でも、そう見えると思わない?」

 そう言い、微笑むカトレアの笑顔を見て、少年は息が止まりそうになる。
 なぜだろうか。まだまだ子供といっていいはずの年齢であるはずの彼女に、少年は確かな母性を感じた。それは決して、カトレアの年不相応に膨れ上がった胸だけを見てそう判断しているわけではないのだ。
 子犬に噛みつかれたまま、ヴェンツェルは鳥かごを再度眺める。小鳥は動くのをやめ、休むようだった。

 そうしていると、カトレアはなにか外の話―たとえば、クルデンホルフでの生活などを教えてほしい、と言い出した。
 少年は記憶を呼び起こす。たしか彼女はとても体が弱く、今まで一度も領地の外に出たことがなかったはずだ。つまり……、トリステイン魔法学院に通うこともできない。
 彼女が今までどんな思いで十数年の時を生きてきたのか。それを考えると、ヴェンツェルは胸がきゅっと締まる思いだった。五体満足の健康体で自分を生んでくれた母に感謝しなくてはならない、と彼は思う。
 カトレアの隣に腰掛け、少年は今まで自分の身に起きたいろいろな話を彼女に言って聞かせた。
 この前、自分の住む領地で道に迷ってしまったこと。ガリアとの国境にあるエシュの街中をお忍びで歩いていたら、月目だとばれて悪ガキにえらい目に遭わされたこと。たまたま通りかかかった下級貴族の青年に助けてもらい、食事をご馳走になったこと。その彼が、今では空中装甲騎士団で働いていること。
 妹が粗相を働いて泣き出してしまったので、彼が四苦八苦しながらなんとか誤魔化したこと。必死に習得した『レビテーション』を使っていたずらを働いていたら、最後は血を見る鉄拳制裁を食らったこと……。
 少年の話は聞いていて面白いものなのかは本当に謎ではあったが、カトレアはとくに横槍を入れることもなく耳を傾けている。時おり相槌を入れ、笑うことすらあった。

 しばらく話したころ、ヴェンツェルを眠気が襲った。もう夜もふけてきたはずだ。少年は休みをとることにする。

「ミス・カトレア。話を聞いてくれて、ありがとうございます。……それで、もう遅いので、僕は休みをとろうかと思うのですが……」
「あら、もうそんな時間なのね。気づかなくてごめんなさい。もう眠いわよね」

 すまなさそうな表情で少年を気遣うカトレア。

「いえ、そんなことありません。それでは、お休みなさい」
「はい。お休みなさい」

 お互いに挨拶し、子犬を引き離した少年はカトレアの部屋を後にした。また明日、少しでも話ができたらいいな―――などと、思いながら。


 しかし、それは……。カトレアが本当の彼女であった、最後の一晩の邂逅となってしまったのだった。




 *




「……どういうことですか」

 翌朝。ラ・ヴァリエール公爵領への滞在期間は一泊二日。つまり、彼らはもう帰宅の準備を始めなくてはならない。ずいぶんと慌しくはあるが、事業の関係上、仕方のないことなのである。

 そして、ヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフは 非常にデンジャラスな朝の目覚めを迎えていた。
 来賓用の大きなふかふかのベッド。その上で少年は横になっているわけだが、そこに覆いかぶさるようにしてカトレアがこちらを見つめている。一体、どうしたのだろうか。

「きみ、たしかクルデンホルフの長男坊だったよな?」

 なんだか、昨夜のカトレアの話かたとはまるで違う言葉使いだった。少年の困惑はさっきから深まる一方である。

「ええ、そうですが」
「ふーん。じゃ、きみ。『ゼロの使い魔』って言葉に聞き覚えはないか?」

 その瞬間、ヴェンツェルの瞳が大きく見開かれた。体中から汗が噴出し、瞳孔が広がり始める。

「そういう顔するってことは身に覚えがあるんだ? 予感的中だね」
「……な、なんなんですか。あなた、一体、どうしたんですか」

 少年は慌ててベッドから飛び起き、壁際に後退する。まさか……、いや、だが、“こういう”可能性はあった。だからといって……。極度の混乱状態に陥りそうになりながら、少年はなんとか冷静になろうとした。

「この後に及んでしらばっくれるってのは関心しないなぁ。ヴェンツェルなんて人間は原作には一寸たりともでてきてないのよ? そうなると……」

 まさか。

「おっと。勘違いするなよ? 俺はさっき死んだばかりだからな。これは『憑依』だろうな。昨日きみが接していたカトレアはたぶん本物だぜ? だから、そんなに怖い顔をするなって」
「……あんたは、一体どこの人間なんだ」
「俺? 俺は日本人だよ。都心で起きた暴動に巻き込まれて、気がついたらこの体に意識が移っていたってわけさ」

 両手を肩の辺りまで上げながら、“カトレア”は薄く微笑んだ。だが、それは昨日までの彼女とはまるで違ってしまっている。
 都心の暴動。少年はその言葉に少々の違和感を覚えたが、今はそんなことはどうでもいい、と思考を振り切った。

「……これから、どうするつもりなんだ」
「お、いい質問だね。正直、俺はまだこの世界がどういったものなのか厳密には理解できていないんだ。だから、異世界生活の先輩であるきみに教えを乞おうと思って、こうして早朝にここまで足を運んだわけ。正直ほっとしたよ。もし宛てが外れたらどうしようと思っていたところだったからな」

 もし仮に、“彼”のいうことが本当ならば“彼”はカトレアの記憶を持っている、ということになる。だからこうして自分の部屋にやってきた。少年はそう考えた。
 “彼”は日本で死に、なんの因果か霊体となってカトレアに憑依し、彼女の意識を乗っ取ったのだろう。
 まさか、自分以外の同郷人がこうした形で目の前に姿を現すとは……。てっきり、最初に遭遇するのは平賀才人だとばかり思っていた彼には衝撃が大きすぎた。
 ほとんど一目惚れ状態になった女性に、まったく別の人間の人格が入り込んだ―――それは、彼でなくとも驚き、そして絶望してしまうだろう。いくらハルケギニアがファンタスティックな世界だからといって、それを『はいそうですか』と許容できるはずもない。
 ヴェンツェルの頭の中に渦巻くのは、どす黒い衝動だった。なんとか…、なんとかしてこいつを追い出さねば。それだけしか考えられなくなり、杖を取り出しながら彼は顔を鬼のように歪めて叫んだ。

「カトレアさんの中から出て行け!」
「……おいおい、無茶言うなよ。どうしてこうなったのかも分からないのに、いきなり出てくなんて無理だ」

 “彼”は、杖を構えて必死の様相を見せる少年をあざ笑う。

 と、そのとき、唐突に部屋のドアが開いた。そこではネグリジェを着たままのルイズが立っており、その小さな顔は耳まで怒りの色に染まっている。

「あああ、あんた……、そんな大きな声だして……。なに、ちぃねえさまをいじめてるのよ!」

 そう叫ぶと、ルイズは杖を取り出して適当な魔法を唱える。「まずい」と思ったヴェンツェルはとっさに『レビテーション』でルイズの杖を奪おうとした。
 そして―――それは成功したかに見えた。しかしわずかに間に合わない。少年の目の前で爆発が起きる。それを避けようと飛び退いたヴェンツェルの体に、失敗魔法による衝撃が押し寄せた。
 幸いながらあまり威力はなかったが、少年は吹き飛ばされ、壁に強く背中を打ち付けてしまう。

「ま、まあ。たいへん」

 その様子を見た“彼”は慌てたようにヴェンツェルの元へ駆け寄る。痛みにもがく少年の姿を見て、大変なことをしてしまったと気づいたのか、ルイズは顔を真っ青にして部屋から走り去ってしまった。
 この場には、再びヴェンツェルと“彼”だけが残された。

「ちっ……、まあいいさ。きみはあくまでも俺と友好関係を築く気はない、そういうわけだな? だったらもう用はない。俺は俺で勝手にやらせてもらう」
「……だが……、その体で、領地から出ることもできないその体で、お前は一体どうするんだ……」 
「方法なら探せばあるさ。なにせ、俺には『現代知識』という強力な武器があるんだからな。きみみたいな、内政に手も出せないような腑抜けの転生者の力など必要ない」

 “彼”はせせら嗤い、ヴェンツェルを蹴り飛ばした。

 少年はもう、なにも考えられなくなってしまった。自分の力の無さに、好きになった人が変わり果ててしまうのをただ傍観するしかない己のあまりの弱さに、深く絶望した。
 “彼”―カトレアが部屋から出て行くのを、ただ無様に床に転がったまま眺めていた。酷く、他人事のような感覚だった。


 ラ・ヴァリエールからの帰り、ヴェンツェルはずっと沈黙していた。いつの間にか家に着き、彼は家族や使用人に顔を見られぬように自室へ引きこもってずっと泣いた。
 涙も枯れ果てたころ―――少年はほとんど生きる気力がなくなってしまっていた。

 昔から繰り返してきたメイドへのセクハラ行為を今までに増してやってみるが、それでも彼の心の“もや”が晴れることはなかった。

 しかしそれでも、数年の時が流れるうちに、少しずつ少年の心は立ち直るのが―――――その頃には、怠惰な生活故か、すっかり堕落したニートと成り果ててしまったのである。




 *




「ほんと苦労したのよ、この体には。ちょっと遠出なんかした日にはすぐに倒れてしまうし……。数ヶ月前、やっと禁忌の魔法を知るまでは、あの屋敷でうざったい妹相手に“良き姉”を演じなくちゃならなくて、本当に地獄のような日々だったわ。原作をちょっと知ってたくらいじゃ、どうにもならないものね」

 あの『烈風』に毎日のように作法と言葉遣いを叩き込まれるし―――と、カトレアは苦笑する。

「まさか……。禁呪で自分に暗示をかけて、無理やり動かしているのか……?」
「そう。『ギアス』の魔法なら、それができる。あなたも見たでしょう? この男に、わたしがなにをしたか」

 そこで倒れている北花壇騎士の男は、恐らくあの渡り廊下の惨状を引き起こした張本人だろう。衛兵たちにしたように、自分の首を掻っ切って息絶えている。

「ずいぶんと遅れてしまったけど、これでやっとわたしは好きにこの世界をいじることができるのよ。―――さて、まずはなにをしようかしら。今のうちにジョゼフやヴィットーリオを始末するか、それとも内政でもしてお金を稼ごうかしら。あは、夢が広がるわ!」

 なんなんだ……。なんなんだ、こいつは。いきなりカトレアの体を乗っ取って、いきなりまた現れて……。
 ヴェンツェルの体を、あのときのような怒りが襲う。純粋な怒りだった。

「あなたもすっかり醜くなっちゃったけど、まあなんとなく親近感が湧くわね。どう? 今からでもわたしの仲間に入れてあげてもいいわ」

 そんな勝手なことを言い放ち、カトレアは手を伸ばしてきた。
 いや、こいつはカトレアではない。カトレアであってカトレアではない。―――異物だ。

 少年の怒りに揺れる心は、目の前の“敵”を滅ぼしたいと願う。カトレアの肉体に巣食う『悪魔』を焼き滅ぼしたい、と。

 それは、あまりにも強すぎる憎悪だった。




「―――ヴェンツェル!? だめよ!」
「なにを余所見しているっ!!」

 中庭でマチルノと戦闘を続けるヘスティアは、そんなヴェンツェルの異変をその身で感じとっていた。
 『ブレイド』を振り回すマチルノの『偏在』はその数を三体にまで減らしている。決して弱い、というわけではないようだが、マチルノは戦闘よりも、工作などの裏方が得意なメイジであるようだった。つまり、工作活動に『偏在』を多様してきたため、いつの間にか七体もの『偏在』を生み出せるようになったのだ。
 ヴェンツェルが『レビテーション』だけ満足以上に扱うことができるのと、状況が似ている。
 
「もうっ! アタシは忙しいの!」

 しつこく追いかけてくるマチルノを振り払うため、ヘスティアは飛行しながら強力な火の柱を彼に向かってぶつける。今まで繰り出されなかった予想外に強力な攻撃に、黒髪の美丈夫は慌てて防御体制をとる。
 刹那、強大な力の奔流が彼を襲った。その破壊力は、スクウェアメイジの防御魔法すら容易く粉砕してしまう。

「な!?」

 自分…私の魔法がこんなあっけなく!?
 マチルノは驚愕の表情を浮かべ―――ヘスティアの業火に、その身を包まれた。




「な……、なによ、それは」

 王城のテラスで、カトレアは薄ら笑いを顔に浮かべ、額に大粒の汗を浮かべながら、じりじりと後ずさった。
 彼女の前に立ちはだかる少年―彼の手には、めらめらと燃え上がる、赤く長っぽそい炎のような物体が収まっている。それは見ようによっては、剣にも見えた。

「……」
「くっ……!」

 明らかにそれまでとは違うヴェンツェルの様子に、カトレアは余裕の表情を崩す。そして、『禁呪』を少年に浴びせようとする。
 だが。
 いつまでたっても、彼の様子は変わらない。じりじりと、ゆっくりとブロンド髪の女性のほうへ歩み寄っていく。

「な……、なんで。どうして、『ギアス』が効かないの!?」
 カトレアの魔法は確かに彼に届いているはずだった。それなのに―――と、カトレアは舌を巻く。ときおり攻撃魔法を浴びせてみるが、それは手の『炎』によって撃ち落とされてしまう。
 いよいよ少年はカトレアのほんの数メイルの距離にまで迫っていた。まったく予想外の事態に、カトレアはなかば半狂乱になりながら『ギアス』を連発する。しかし、どれだけやろうとも一向に効果が現れない。

 やがてヴェンツェルは、腰を抜かしてテラスの床にしりもちをついたカトレアの前まで迫る。
 左手の『炎』を高く持ち上げ、こう呟いた。

「お前が出て行かないのなら……、俺が無理にでも―――」

 『炎』を大きく振りかぶる。今まさに、なにがなんなのかもわからず、彼は人を殺めようとしていた。

 しかし。

「ヴェンツェルっ!!」

 そのとき、城中に響き渡るような大声でその場に突っ込んでくるものがある。その身には灼熱の業火をまとっている。

 彼女は―――ヴェンツェルの“女神さま”こと、ヘスティアだった。





[17375] 第十四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/08/27 19:29
 少年―――ヴェンツェルは、その手の炎をカトレアに振るうことができなかった。

 深紅の髪をなびかせる女性―――ヘスティアが、彼の振り上げた腕にしがみついていたからだ。少年はわけもわからずに彼女を怒鳴りつける。

「どうして、邪魔をするんだ! 君だって見てたんだろう? こいつは……」
「……アタシには、『憑依』だとか、そういうのはよくわからない。……だけど、これだけは言えるの。ヴェンツェル。今のあなたは間違ってるわ」

 両手で少年の肩を掴み、とても真剣な、悲しそうな表情でヘスティアはそう言った。
 呼び掛けられたヴェンツェルは、ただそれを唖然とした表情で見つめていた。そして、見たままの子供のように反発する。

「……なんでだよ。なにが間違ってるんだ! こいつが、こいつがカトレアさんの体を乗っ取ったのに!」
「……それは、その『彼』のせいなの? 確かに、あなたにとってとてもショックな出来事だったろうけど……」

 そこで言葉を一旦切って、彼女はまた続けた。

「その人を殺めて、それで解決するの? あなたが好きだったあの子が、それで帰ってくるの? 違うでしょう? いま、あなたが為すべきなのは……、そんなことじゃないわ」
「……っ」

 確かにヘスティアの言う通りだと、ヴェンツェルは内心思った。目の前で起きた事象にただ勝手に絶望して、自ら殻に閉じこもり、現実から目を逸らしてきたのは彼自身である。
 もしかしたら、ヴェンツェルにだってなにかできることがあったかもしれない。なのに彼はそれを怠った。自分の無力さを理由に、ずっと怠惰な生活を送るようになったのは彼自身の怠慢だ。身勝手にメイドへのセクハラをそれまで以上に繰り返すようになったことへの言い訳などには、決してならない。
 ヘスティアに諭され、今さらながら少年はそんなことを痛感させられていた。

 しかし、今さらただ引くことなどできはしない。たとえ自分が転生者で、『彼』と同じ穴のムジナだったとしても……。
 カトレアはそれまであった人格を乗っ取られたのだ。もしそれが、生まれた瞬間に『彼』がカトレアと同一人物であったのならば、それはもうしかたのないことだ。
 しかし、そうではない。人格を奪われたのだ。それまでの……あの晩会話した、あの優しいカトレアの人格が上書きされて、消え失せてしまったのだから……。
 少年は、ただ慟哭する。

「だけど、だけど……。他にどうしろって言うんだ」
「それを考えるのよ。大丈夫、あなたには“女神さま”がついてる。できないことなんてないわ」
「……うっ」

 いきり、やがて涙を流し始めた少年をヘスティアは抱き留め、慰める。
 ひとしきり泣いたあと、少年は顔を上げる。手の中の炎は、いつの間にか消え失せていた。どうやら、彼の感情が沈静化したのと同時に消えたようであった。

「……そうだよな。僕は、なにもしてなかっただけなんだ……。頑張れば、自分にだってどうにかできたかもしれなかったのにな……」

 少年は誰にも聞こえないように、小さく呟く。


 体勢を立て直したカトレアは、いきなり現れた美女と二人だけの空間に入ってしまうヴェンツェルを眺めながら、悔しそうに唇を噛み締めていた。

 ―――なぜだ。なぜ、『ギアス』が効かない。

 『彼』が習得したその禁忌の魔法は、ありとあらゆる高等生命体の脳の全域に干渉し、様々な影響を及ぼすことが可能なはずだった。
 本来ならば、カトレアの体は原因不明の奇病によって冒され、まともに出歩くことすらできない。
 そこを自らにかけた『ギアス』の魔法で強引に動かしている。それは明らかにカトレアの命を削る行為ではあったが、『彼』はそういったことはまったく考慮に入れていない。自分は一度死んだ。どうせ死んだ身なのだから好きにやる。もし途中でこの体が限界を迎えたとしても、それはやむを得ないことだと考えている。要はこの体も、この時間も、全てが使い捨てなのだ。
 それにしても……。
 『ギアス』は事前知識無しに回避することはできない。なのに、なぜあのヴェンツェルという少年には効力が及ばなかったのか。彼に禁呪の知識があるようには到底見えなかった。
 と、そのとき、『女神さま』という単語が唐突にカトレアの耳へ入った。女神さま? なんだそれは……。『彼』は、少年を抱き締める女性を観察する。
 彼らに気付かれないように、『ディテクト・マジック』を詠唱してみる。すると、ぽぅ、と光る小さな粒子が現れ、それが深紅の髪の美女へ近づいたとき、一瞬だけ赤く光って消滅した。
 ……そういえば先ほど、あの女性は杖も使わずに飛んできた。これは…、少々気になる。試してみるか。『彼』はそう結論に達した。そして、密かに杖を前方に向かって構えた。


 すぐそばで魔力の変動が起きたとき、ヘスティアはすぐにそれに気がついた。カトレアが『マジック・アロー』を詠唱したのである。
 しかしそのときには既に、カトレアが手にした杖から輝く魔法の矢が発射されている。駄目だ、間に合わない。瞬間でそこまで判断した彼女は、抱き留めていた少年を思い切り突き飛ばす。

「ヘスティア!?」

 酷く驚いたような少年の声。彼に向かって、“女神さま”は微笑む。そして、そのときには―彼女の左胸に、高速で飛来した魔法の矢が突き刺さっていた。

 白いテラスの床に転がりながら、少年はただそんな光景を他人事のように眺めていた。

 ―――どうして? なぜ、『力場』を展開しなかったんだ?

 その理由はすぐに判明する。ヘスティアの体が小さくなった。それはつまり、彼女の力を支えていた火石のエネルギーが尽きたことを意味する。
 先ほど、彼女はマチルノに強力な火の柱を繰り出した。火の柱は、普通に火を出すよりもずっと高威力なのだが、火石の消耗率もその分非常に高い。つまり、ヘスティアにはもうまったく力が残されていないのだ。
 火石の力が無い彼女はただの多少頑丈なだけの人間も同然である。そんな状態で、人を一撃で絶命させることもある『マジック・アロー』に耐えられるわけもなかった。

 ゆっくりと、真紅の髪をぱらぱらと散らしながら、ヘスティアはテラスの床に崩れ落ちる。思った以上に軽い音が、その場に響いた。
 しばし呆然とその様子を眺めるヴェンツェルだったが、すぐに正気を取り戻し、彼女へ向かって走りだす。
 仰向けで倒れる童女の身体を抱えると、彼女の体から血が流れだしているのに気がついた。少年は慌てて懐の火石を探す。
 しかし、先ほど移動しながら渡した分だけで彼の持つ火石はもう底をついており、どれだけポケットをひっくり返しても見つからない。ごみのかすが出てくるだけだった。

「なんでだ……、なんでこんな……」

 少年は独り言のように呟く。

 またか。また、自分はなにもできないのか。また失うのか。そんなの嫌だ。誰か、誰か彼女を助けてくれ。誰でもいい、お願いだ…。

 彼は、そう強く願った。

 すると、突如として彼の左目が淡く光りだし、細い光の柱が生み出された。それは静かに、しかし確実にヘスティアの体へ吸収され始める。
 それと同時に、ヴェンツェルの体を猛烈な寒気が襲った。
 まるで、体の芯からなにか、とても大事なものを抉り出されるような―あまりにも不快な、耐え難い感覚。しかし、彼はぐっと歯を食いしばってそれに耐えた。もし自分がその悪寒に負けてしまったら、ヘスティアがどこかへ行ってしまう、そう感じたから。

 やがて……、彼女の胸に穿たれた、魔法による破壊痕がふさがり始めた。しばらくすると、息も絶え絶えだった彼女の口から、おだやかな寝息が聞こえはじめる。どうやら、峠を越えたらしい。


 そんな一連の流れを、ただじっと見つめていたカトレアに、ヴェンツェルは再び殺気を帯びた瞳で睨みつけた。

「なんで……、ヘスティアを攻撃したんだ。やるなら俺をやればいいだろう!」
「……気になったのよ。自分で『女神さま』なんて自称する存在がなんなのか……。まさか、そのまま食らっちゃうとは思わなかったけど。あんな簡単に斃れるのも予想外だし……」

 特に悪びれた様子もなく、カトレアは杖を少年に突きつけたまま応える。

 彼に言葉を返しながら、カトレアは思考を回転させる。ヴェンツェルの左目。ただ意味のない厨二的なオッドアイかと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
 なぜか、あの目から放たれた光がヘスティアの体を修復するという、わが目を疑うような光景が繰り広げられたのだ。まったく、ただの月目ならいいものを…。

「……わからないわ。あなたがなんなのか。その子のこともね」

 カトレアはただ、首を振る。『彼』の持つ『原作知識』は、ヴェンツェルやヘスティアに対してはまったくなんの役にも立たない。
 自分ならばあのジョゼフやヴィットーリオすら打倒できる。なのになぜ、あの脆弱な少年を倒せる気がしないのだろう。それに酷く困惑していた。

 ……いや。そもそも、自分があれを相手にする必要はないだろう。
 もともと、カトレアは騒がしくなった城内の状況を把握するために尖塔に上ったに過ぎない。たまたま手だれのメイジがいたからテラスに下りただけなのだ。
 これ以上、この場に留まるのはあらゆる意味で危険だろう。そう考え、『彼』は撤退することを決めた。

「……ここは引くわ。人の目もあるしね……」

 カトレアはそう呟くと、血塗れのまま『フライ』でこの場から去っていく。あとには、ヴェンツェルとヘスティア、硬直したままのギーシュたちが残された。






 ●第十四話「再会、父よ」






 呆然と、ことの成り行きをただ傍観していたギーシュは、そこではっと意識を取り戻し、急に慌て始めた。
 まるで、処理落ちしたパソコンが急に復旧して、それまで行おうとしていた処理を次々と開始するかのような、そんな様子であった。

「な、な、なななんだ!? 一体これは、なんなんだね! きみは一体誰な「お兄さま!?」

 しどろもどろなギーシュの言葉を遮ったのは、ジェロニモが死亡したことによって効力を失った縄から脱出した、ベアトリスの叫び声だった。同じように縛られていたアンリエッタはまだ気絶している。

「……ベアトリス」

 彼女の存在を思い出したヴェンツェルは酷くふらふらの疲れた様子で、わが妹の名を呟いた。

「今までどこをほっつき歩いていたの? お父さまはガリガリに痩せちゃうし、お母さまはずっと部屋にこもって気を病んでいるのよ!」
「……」

 自分から追い出しておいて随分と勝手な連中だと思わないことはない。が、それも元を正せば自分の行いのせいだ。ヴェンツェルはそう思い直し、約一年ぶりとなるベアトリスとの会話を始める。

「主にガリアをね……。トリステインに戻ったのは、つい最近だ」
「戻ったのなら、さっさと家に帰ってきなさいよ! わたしだって、まさかあなたが本当にどっかに消えちゃうなんて思ってなかったのに!」

 あのとき、クルデンホルフ家の誰もが、ヴェンツェルは数日で自宅まで泣きながら帰ってくるだろうと思っていた。
 万が一道に迷ったときや、賊に襲撃されるかもしれないリスクを考えて大公はアリスを従者として付けたのである。
 大公ですら、ちょっとお灸をすえるつもりで放り出したのだ。まさかそのまま行方不明になるなど考えもしていない。

 色々な意味で、彼らは甘すぎたのだった。

「……僕はまだ、痩せてもいないし、ラインメイジになるどころか『フライ』すら満足に扱えないんだ。今さら、帰れるわけがない」
「そんなのブラフに決まってるじゃない! 誰もお兄さまに魔法の才能なんて期待してないもの!」

 怒り心頭のベアトリスは、力を込めて叫んだ。それを聞いたヴェンツェルは、下を向いて黙り込んでしまう。

「……それは言いすぎじゃない? さすがに、ヴェンツェルがかわいそうよ」

 気を失っていたヘスティアが目を覚まし、ベアトリスに向かってそんな言葉を投げ掛けた。なぜかその目には、妖しげな光が宿っている。

「はぁ? なんなのあんた……。気安く話し掛けないでよ」
「ねぇ。アタシ、思い出したんだけど。昔、あなたがベッドにでかでかと描いたハルケギニアの地図。とっても素敵だったわね。もう一度見せてくださらない?」
「なっ!?」
 さっとベアトリスの顔が羞恥の赤に染まる。
 その事件は、数年前に彼女が起こした思い出したくもない忌まわしき事件なのだ。それに―――そのことを知るのは、兄一人であったはず。なんで、あんなワケのわからない子供が知っているのだろう。

「……ヘスティア。大丈夫なのか?」

 ヴェンツェルが場の流れを無視し、突然起きだしたヘスティアに向かって心配そうに尋ねた。

「ええ。あなたがすぐに治してくれたから、どうってことはないわ」
「そうか……。よかった」

 しかしそこで、ヘスティアの眼光が鋭くなる。

「ヴェンツェル。今回はもう仕方がないけど…。もう、力を使っちゃだめよ」
「力?」

 なんのことだろうか。少年に思い当たるふしはない。

「あなたがさっき出した『炎』や、アタシを治すのに使った『光』のことよ。それを使うのは決してあなたの為にはならないから…、お願い」
「……あ、ああ。わかった。もう使わないよ」

 使うなと言われても、そもそもどうやったら発動するのかもわからない。
 それに、先ほどああしていなければヘスティアがどうなっていたのかわかったものではない。ヴェンツェルはそう感じたが、やけに重い口調のヘスティアに押され、黙って頷いておく。

「ちょっと、無視しないでよ!」
「そ、そうだ! 無礼だぞ!」

 無視され続けているのに憤慨したのか、ベアトリスとギーシュが怒鳴りながらヴェンツェルに詰め寄る。ベアトリスはともかく、もう一人の少年に見覚えのなかったヴェンツェルは惚けた顔で問う。

「……誰だい? 君は」
 やっとまともな反応を返されたのが嬉しかったのか、ギーシュは胸を張って名乗る。
「よくぞ訊いてくれた! ぼくはギーシュ・ド・グラモン。かのグラモン元帥の息子さ!」
「……君が、ギーシュなのか」

 なぜ、こんなところにギーシュがいるのだろうか。確か、彼はアルビオン行きの直前までアンリエッタと面識はないようだったはずだが……。それは、ベアトリスにしてもそうだ。

「おお、ぼくの名を知っているのか。さすがぼくだな。……で、きみは誰なんだ?」
「ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフ……、そこにいるベアトリスの兄貴だよ」
「嘘をいえ。全然まったく似てないじゃないか!」

 ギーシュが、ヴェンツェルとベアトリスを交互に指差しながらまくしたてる。指をさされたベアトリスは、とても不快そうに眉を歪めた。

「まあ、確かに似てはいないが……」

 ヴェンツェルはそう言って、手を肩の辺りで上げるジェスチャーを行う。
 かつての彼は、あえて例えるならば今のベアトリスによく似た容姿をしていたが、今の彼はお○め納豆のパッケージというか、福笑いの面のような顔である。ギーシュの言い分はもっともなものと言えた。

「それに、そこの赤い髪の女の子はなんだ! グラマラスな美女が現われたと思ったら、いきなり小さくなって! いやまっ」
「ちょっと、黙りなさいよ! そこの借金貴族! 今はわたしがお兄さまと話をするべきところなのに!」

 あまりにギーシュの勢いが酷いからなのか、業を煮やしたベアトリスが、彼をぐいぐいと押し退けるようにしてヴェンツェルの前へずいっと現れる。

「とにかく! お父さまはこの城のどこかにいるはずだから、今すぐ会いに行きましょう! とりあえず土下座しておけば水に流してくれるだろうから!」
「いや、しかし……」
「行くのっ!!」

 少年は抵抗するが、ベアトリスは懐から持ち出した杖で『レビテーション』を唱え、ヴェンツェルを浮かばせるとそのまま連行。渡り廊下の向こうへ消えて行く。
 すぐに「きゃああああ!」という悲鳴が聞こえたが、彼らがこちらに戻ってくることはない。
 テラスに残されたギーシュとヘスティアは、ただ苦笑いするしかなかった。

「で……、ミス。きみは彼とどういった関係で?」
「愛人よ」
「ラ・マンか……。ぼくもいつか愛人を百人ほど作りたいものだな。父のように、常に愛に生きるというのがぼくの目標だからね。……いや、だがやはりたった一人のフィアンセと添い遂げるというのも悪くない。だから、きみの気持ちはありがたいのだが……」

 なにか、彼は自分の頭の中で勝手なストーリーが展開しているようであった。なんだこいつは、とヘスティアは思ったが、別に彼のことはどうでもいいのでそれ以上考えるのはやめた。

「……なにしてるんですか?」

 ちょうどそのとき、今までミゲルと戦闘を続けていたアリスが、中庭からテラスへと上ってきた。

「あら。なんか久しぶりな気がするわねえ。それで、もう賊たちは倒したの?」
「……ええ。なぜかいきなり、なだれをうったように逃走しだしましたよ。何人かは捕まえましたが、残りはマンティコア隊が追撃しているそうです」

 そこまで喋ったところで、アリスの視線がギーシュを捉える。その視線に気がついたのか、ここぞとばかりにギーシュは自己アピールをし始めた。

「やあ、こんにちは。白百合のように可憐だね、ミス。ぼくはギーシ「……で、坊ちゃまはどこにいるのですか?」

 アリスは一瞬ギーシュを見ただけで、彼にはまったく興味がないようだった。そんな光景を微笑みながら眺めていたヘスティアは、「あなたたちのお父さまに会いに行ったわ」と応える。
 それを聞いたアリスが自分も行くと言い出してヘスティアも賛同。彼女たちはさっさとどこかへと消えてしまった。


 とうとう一人だけ残されたギーシュは、テラスの花壇に植えられた真っ赤な薔薇を一本、引き抜く。それを口にくわえ、こう漏らした。

「あのレディたちは、ぼくという薔薇の存在の価値がわからないようだ」

 そして、ぺっと薔薇を吐き出した。どうやら口を切ってしまったようである。しかし、まだとげが口の中に残っている。
 散々苦戦した後やっととげを排除し、なんとか彼は薔薇との戦いに勝利した。くわえるなら、これからは造花にしておくか。と、彼は新たな教訓を得た。

 さて、本来ならばここで場面は終わり、ギーシュも自然とフェードアウトするのだが……。そう。幸運なことに、この場にはもう一人の生存者がいるのである。

「う……、ううん。あれ、わたくしは……」
「ご無事ですか、アンリエッタ姫殿下!」

 今の今まで彼女の存在を忘れていたにも関わらず、白々しくもギーシュはアンリエッタの元へ駆け寄り、彼女に手を差し伸べた。それを、王女は恐る恐る掴み、生まれたての子鹿のように震える脚でなんとか立つことができた。

「あ……、ミスタ・グラモン。その血は……」

 アンリエッタの視線の先には、ギーシュの唇から垂れる一条の流血があった。

「いえ……、これは“思うようにならない厄介なやつ”にやられましてね…、ですが、こんなのはどうということはありませんよ」
「まあ!」

 いちいち気障ったらしいギーシュの台詞ではあったが、なぜかアンリエッタは感動したように目を見開く。次の瞬間には、その白磁のように白いまっさらな頬を赤く染めて、まるで自らの元に現れた白馬の王子さまを見つめるような、とんでもなく熱い眼差しをギーシュへ向けた。

「ああ、わたくし、ベアトリスさんとお話をしていて、怪しい殿方にいきなり縄で縛られたところから記憶があやふやなのですが…。あなたが“厄介なやつ”を倒し、わたくしを救ってくださったのですね! ありがとうございます!」
「え? え、ええ。……姫殿下のためならば、このギーシュ・ド・グラモン、小物ながら命を投げ捨てる覚悟はできております」
「まあ! なんて頼もしい殿方なのでしょう! 先ほどのお話は正直つまらなかったし、情けない方だなぁ、と思っていたのはわたくしの大いなる思い違いでした。どうか、お許しください……」

 突然表情を暗くしたかと思うと、アンリエッタはさめざめと泣き出してしまう。まあ、なんとも大げさな芝居じみた仕草ではある。だが、やっている彼女はまじめもまじめ。本気なのである。
 そんな彼女は姿を見たギーシュはえらく感動してしまった。そこにある大いなる勘違いなど、もはや彼にとってはどうでもいいことであった。 

「泣かないでください、姫! その美しいお顔が悲しみの涙で溢れてしまっては、もはや自分にはとても耐えられそうにありません。どうか、笑顔を。その天に浮かぶ太陽のようにまぶしき笑顔を、卑しきあなたのしもべに!」

 へたくそな三流役者のようなふりつけでそういい、ギーシュはアンリエッタに頭を垂れた。アンリエッタはなんだか頭が沸いていたので、もうギーシュのそんな様子が格好良く見えてしまった。

「ああ……! なんて謙虚な方なのでしょう! わたくし、もう……」

 それから、なんとか体勢を立て直したマンティコア隊の隊長が慌ててここまでやってくるまで、二人はずっとそんな三文芝居に興じていた。



 *



 ところ変わって、ここはトリスタニアの王城内部に設けられた応接間の外側にある待合室である。

 そこのふかふかのソファーに、クルデンホルフ大公が一人で腰掛けていた。丹精な顔は憔悴しきり、見るも無残にやせ衰えていた。
 王やラ・ヴァリエール公爵、グラモン元帥は既に事態の収拾に当たるため、それぞれこの場を後にしていたのだったが、彼はそのあまりにも疲弊しきった様子を心配され、こうしてここに残っているのである。
 しばらくそうしていると、ぎゃあぎゃあと騒がしい声が響いてきた。
 一体、なんだろうか。頭が痛くなるからやめてもらいたいのだが…、などと大公が思ったとき、その目にそれは飛び込んできた。

「お父さま! お兄さまをお連れしました!」

 大公の愛娘であるベアトリスが連れてきたのは、魔法でぷかぷかと浮かぶ彼の息子、ヴェンツェルであった。やがて『レビテーション』が解除されると、少年の体が思い切り床に叩きつけられ、「ぐぇっ」という、なにかが潰れるような声がした。
 そんな様子を、大公はただ呆然とした表情で見つめていた。そして、ふらふらと頼りないながらも立ち上がり、ゆっくりと少年の元へと歩み寄る。
 少年の前に立ちはだかると、彼はその顔を苦しげに、苦々しく歪めた。それを見た少年は「やばい」と思ったが、大公の口からは静かに、たった一言の言葉が発せられただけだった。

「どこをほっつき歩いておったのだ。ばか者が。……帰るぞ。お前の母が待っている」

 それだけ言い残すと、大公は待合室から出て行ってしまう。正直、殴られると思っていたヴェンツェルは拍子抜けして、間抜けな顔で父の出て行った扉の方を見つめていた。



 やがて、人気のないところまで歩いた大公は城の壁に向かい、そっと涙を流した。嗚咽を堪えるように、喉を鳴らした。

「……お父さま」

 すると、そこに一人の少女が現れた。
 長い、屋敷にいた頃よりちょっとばかり伸びた薄紫の髪。平民が着るような、みずぼらしい洋服と、腰の短剣。アリスだった。

「アリス……か。よく、戻ってきた」
「……いえ。まさか、ここでお父さまと、またお会いすることができるとは…」
「ああ、わたしも正直、驚いている。だが、それはそれで良いことだ…」

 そこまで言って、大公は目頭を押さえた。

「お前がいなければ……、あいつは一人では生きていけなかっただろう」

 頬を下る涙をぬぐいながら、大公は精一杯の威厳を持ってして、自らの娘に向かい合う。だがそれは威厳というよりは『普通の優しいお父さん』にしか、見えない。

「いえ……、あの人は、突き放せばそれなりには自活できるようでした。途中ですごく強い人が仲間になりましたし……。わたしは、そんなに必要なかったように……」

 アリスは自嘲気味にそんなことを呟いた。しかし大公は首を横に振って、アリスの小さな頭を、その大きな父の手でゆっくりと撫る。

「……それは違うな。どうも、お前は自分を過小評価しすぎているふしがあっていかん。お前の存在はあやつにとって、自分で思っている以上に大きい。それは私が保証する」
「……そうでしょうか」
「ああ」

 それきり、二人は黙ってしまう。しばらくの間、大公はアリスの頭を撫で続けていた。




 *




「まあ。まさか、彼が大公家のご子息だったなんて……」
「できればご内密にと、大公から仰せつかっております」

 トリスタニア王宮襲撃事件から数日後の、魅惑の妖精亭。

 まだ開店前のメインフロアに置かれたテーブルで、この店の店長のスカロンと、青年が向かい合って腰かけている。
 青年は、クルデンホルフ大公の使いであるモーリス・ド・サックス――彼はかつて、エシュの町で、迷子のヴェンツェルを保護した流れの貴族である。彼は下級貴族ということで通っていたが、実態は…――が向かい合って座っている。
 ヴェンツェルは、就業中に放り出してしまった魅惑の妖精亭のことが気がかりだからと、大公に頼んで彼を遣したのだった。
 モーリスはなにやらじゃらじゃと音がする袋をスカロンに渡そうとするが、彼は首を振ってそれを拒絶した。しばらく押し問答が続いたが、結局、モーリスはそれを渡すのを諦めたようだった。

「では、私はこれで」

 そう言い残し、モーリスはクルデンホルフへ帰るために歩き出した。スカロンはジェシカと共に、その背中を静かに見送っている。
 ……余談ではあるが、彼は最近、空中装甲騎士団の中でめきめきと頭角を現している。副団長への昇進も、もはや時間の問題だった。
 入隊のきっかけを作ったヴェンツェルに対する忠誠は、おそらくクルデンホルフ唯一にして、もっとも高い。メイジとしても指折りの才能を持っていた。
 それでも、彼はこういった雑用を率先してこなす男だったのだ。


「あーあ、まさか貴族、それも超成金のクルデンホルフの嫡子さまだったなんてねえ。人は見かけによらないってホントだったんだぁ……。あーあ、わかってれば垂らしこんでたのに……」

 店内に戻り、扉が閉まると、ジェシカはさっそくぼやいた。実は彼女、スカロンとモーリスの会話をこっそりと盗み聞きしていたのであった。それで、モーリスを見送っていたのだ。
 モーリスの精悍な顔立ちは、彼女的に合格ラインらしい。ゆえにじろじろと盗み見ていたのだろう。

「こら、ジェシカ。そんなお下品な言葉を使っちゃだめよ。それに、このことは絶対に秘密。誰にも喋っちゃだめよ」
「わかってるわよ。ほんとパパは心配症なんだから……」

 仲の良い、親子二人の会話。



 襲撃事件の件については強力な緘口令がしかれたため、それをあえて口に出すものはいなかった。
 そう。トリスタニアは一見、平和だった。たとえその裏で貴族たちが暗躍していようとも。

 しがない平民の彼らにとっては、その仮初めの平和こそが世界の真実なのだった……。




[17375] 第十五話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/08/27 19:30
 それは、俺が自宅へ帰ってすぐの、とある晴れた日のことだった。

「坊っちゃま。ダイエットをしましょう」

 ―――などと、いきなり俺の部屋に現れたアリスが言いだしたのだ。なぜか隣にはヘスティアまで並んでいる。

「……いや、なんでだよ」
「なんでだよ、って……。いつまでそんな歩く恥曝しみたいな格好でいるつもりですか?」

 そういってアリスは、手にした箒で俺の腹を突いた。肉が押され、かなり深く箒の柄が食い込んで痛い。こういう地味に痛いことは本当に勘弁してくれよ……。

「せっかく元はいいのに、これじゃビジュアル的に微妙だから痩せたほうがいい! ……ってアリスちゃんは言ってるのよ」
「ビジュアルは元々見るべきものなど坊っちゃまにはありませんが、その醜い体型は明らかに家の恥です。これから公の場所に出ることも増えるのですから、ここは絶対に痩せるべきです」
「痩せたヴェンツェルはマジイケメンすぎますぅ、そんなお兄さま見たらアリス濡れちゃいますぅ、押し倒されたいですぅ。って言ってるのよ」
「……なんなんですかあなたは!」

 ヘスティアが正体不明なぶりっ子の真似事をしながら茶化していると、やがてアリスはキレた。取っ組み合いのケンカを始める。
 ……しかし、酷いからかい方だな。もうちょっとなんとかならんのか。


 トリスタニアは表向きもう平穏を取り戻していると、昨日戻ってきたモーリスから聞いた。

 そしてあの襲撃の実行犯のうち、七名が魔法衛士隊によって捕縛されたらしい。
 だがその全てが、拘束から一晩経ったときには自害していたという。なんでも、歯に毒物があらかじめ仕込んであったという話だ。『ディテクト・マジック』ではさすがに歯の毒物まで見つけられないからな。
 さらに、城の衛兵が非番の者を除いて根こそぎ殺害されてしまったらしく、現在王城付近への一般人の立ち入りが禁止されているらしい。
 ときを同じくして、ガリア東部の都市のいくつかでテロが起きたらしいが、これはトリステインの件と関連があるのかはわからない。

 カトレアについては、まったく消息が掴めない。恐らく自分の領地にいるのだろうが……。
 何か大きな行動を起こした訳でもないらしいから、父にわざわざ訊ねるのもなんだか不審な感じだし……。打つ手はない。
 『彼』や、北花壇騎士のこと……、俺には色々と気になることがたくさんある。
 しかし、領地に戻った以上、積極的に自分から出ることはできない。まあ、積極的にやっても俺にやれることなんかたかが知れているだろう……。なにせ、俺はまだまだ、ただのガキに過ぎないからだ。

 閑話休題。

 父は新しく俺の家庭教師を雇うらしい。しかし、その人選は難航しているらしく、人の到着は早くても年明けだという。少なくとも降臨祭から年初の辺りまでは、完全に暇というわけだ。
 今が夏が終わって残暑の残る季節だから、あと三ヶ月はフリーに使うことができる。つまりアリスは、その期間を利用して俺に痩せろというのだろう。


「……というわけです。善は急げ、と言いますし、さっそく今日から始めます」

 いつの間にかキャットファイトに勝利したらしいアリスがそう告げてくる。
 見ると、火石不足で童女状態のヘスティアが力尽きて、息を乱しながらベッドに突っ伏していた。…微妙に臭いを嗅いでいるように見えるのは、俺が自意識過剰なんだろうか。

 ……って、今日からかよ。また急な話だ。それに、俺はやるなんて一言も言っていないわけだが。
 そういう意味の抗議を含めた視線を送ると、おもむろに彼女は身につけているワイシャツのボタンを上から順に外しはじめたではないか! コルセットの類を付けていない、まっさらな胸元が現れる。鎖骨フェチという人種がいるらしいが…、まあわからなくもない。

「やるって言ってください。でないと、叫びます。城中に聞こえるくらいの声で。魔法で拡声しちゃいます」
「……脅迫するつもりか」
「いえ? ただ、“前科”だらけの坊っちゃまとわたし。どちらが皆さんの信用たる存在でしょうかねぇ」
「……ぐっ」

 アリスはこのうえないほどサディスティックな笑みを浮かべている。なんかむかつくが……。言うこと自体は正しい。俺は確かに今まで、メイドさんに“そういうこと”をしてきた実績がある。
 もし彼女の起こそうとしている事態に陥ったとき、絶対不利になるのは俺だ。……くそ、自業自得すぎる。

 やがて、俺は諦めたように肩をがっくりと下ろした。どうも、アリスには逆らえない。

「……わかったよ。君のいう通りにすればいいんだろう」
「ふふん、最初からそうしていればいいのですよ」
 俺を従わせられたから機嫌が良いのか、彼女はとびきりの笑顔で言った。なんだかなあ。まったく、とんでもない子だよ。



 ところ変わって、ここは城の裏手にある鍛練場だ。普段は衛兵や空中装甲騎士団の人たちが使っているが、今は誰もおらず、閑散とした空気が漂っていた。
 そこに俺は半袖半ズボンで突っ立っている。アリスはいつも通りのメイド服だ。

「……で、僕はなにをすればいいんだ?」
「走ってください。別にコースは鍛練場の中に限定しませんよ」

 限定しない? まあ、とにかく走れば良いのか。見たところ、鍛練場は半径百メイルほどの広さだから、今の俺でもなんとかなるだろう。

「鍛練場の中でしたら、百周ほど」
「おおぃ!?」

 百周って……、冗談じゃない! そんなに走れるわけがないし、一体何リーグ走らせる気だ! いろいろなところがぶっ壊れてしまう!
 俺が逃げ出そうとしたとき、それを見越していたらしいアリスが突然言い出した。

「ここに、ゲルマニア産のケルベロスがいます」

 彼女がそう言うと、ヘスティアが台車付きの檻の中に繋いだ何かを連れてくる。それは、一見するとちょっと大きいだけの黒い犬だった。しかし、よく見ると……。頭が二つ、だと……。

「希少種よ」

 ヘスティアが微笑みながら言う。その後ろでは、いかにも『いいのかい? 俺は人間でも構わず食っちまう猛獣なんだぜ』とでも言いたげな怪物が、口から涎を垂らして、ぐるぐるとうなっている。

「この子は今、とても腹ペコで人ですら食べかねない勢いです。そこで、坊っちゃまの服に美味しそうなビフテキの匂いを付けておきました」

 なん……だと……? おお、確かにかすかに美味しそうなにおいが俺の服についているではないか。……いや、待て。

「おい、嘘だろ……」
「まさか。わたしが冗談を言うように見えますか?」
「見えません」
「……はい。よくできました。では、頑張って逃げてくださいね」

 にこやかに死刑を宣告しつつ、彼女は檻の扉を開ける。一瞬、アリスとヘスティアにケルベロスが襲い掛からないかと心配になったが、それはまったく杞憂だったようだ。まっすぐ俺の元へ駈けてくるぜ!

 そういうわけで、俺は日が暮れるまでケルベロスに追われたまま逃走を余儀なくされるのであった。









 ●第十五話「安息日」









「はぁ……、はぁ……。虎街道まで行ってきたぜ……※」
 (※物事を大げさに例えて自分を鼓舞すること)

 ケルベロスに散々追い回された少年、ヴェンツェルは本当に死ぬ思いで逃げた。
 なぜかケルベロスは、通りかかる他の人間にはなんの興味も見せずに、ひたすら彼を追い続けたのだ。
 もしそのとき彼が後ろを振り向いていれば、ケルベロスの四つの瞳に“ただならぬ光”が浮かんでいることに気が付いていただろうが、それはまた別の話である。

 結局、本当にかなり遠くまで走って行った彼らは、くたくたになりながらも、なんとかこのクルデンホルフの城まで戻って来たのである。
 ケルベロスの双頭に繋がれた手綱を持ったまま、少年は城の門をくぐる。
 馴染みの年老いた衛兵は彼の疲れ切った顔を見ると、苦笑しながら少年の肩をぽん、と叩く。それにヴェンツェルは手を頼りなくふって応えた。

 もう日が暮れる時間だからか、城は夕焼けの赤い光によって照らされている。
 とにかく疲れた彼は、ケルベロスを召使いのフィリップに預けて自分の部屋へと向かう。本当なら風呂に入るべきなのだが、今の彼にそんな気力は残されていない。

 やがて、彼は城の中庭の片隅にに造られた花壇の辺りにやって来た。ここを抜けると彼の部屋に早く着けるのである。
 ちなみにこの場所は、ヴェンツェルの母親であるクルデンホルフ大公妃たっての願いで建造された。彼女は趣味で野菜の栽培などをしているのである。もっとも、彼女の息子が行方不明になってからはもっぱら召使いが管理していたが。

「ヴェンツェル、お帰りなさい。どこへ出かけていたの?」

 今日は大公妃が管理をしているようだった。
 彼女は白いワンピースに身を包み、頭には麦わら帽子をかぶっている。手袋のはめられた両手にはスコップとバケツのような物を携えていた。その容貌は、まだ十代、と言われてもまったく疑う余地すらないほどのものである。

「どこまで行ったかなぁ。……アルデンヌの森が遠くに見えたから、領地の境界線近くまでか」

 予断であるが、このクルデンホルフの城と城下町は、だいたい大公国の真ん中よりも南側の位置にある。
 そして、大公国の領地はやや縦に細長く、西へ向かって走ったのなら、決して境界線まで行けないことはない。ないのではあるが、普通、子供では無理だ。

「まぁ。どうしてそんなところまで?」
「……うーん、アリスがケルベロスっていう幻獣を持ち出してしまいまして。そいつに追い掛けられて……」

 ここまで言ったところで、ヴェンツェルは「しまった」と思った。
 大公妃とメイド長のサリアの仲は、昔から犬猿の状態にある。理由は特に説明する必要もないだろうが、アリスの存在がその一翼を担っているのは間違いない。
 そういうわけで、大公妃はヴェンツェルがアリスと接触するのを嫌うのだ。さすがに、面と向かって非難するようなことはしないが。しかし、ヘスティアの存在はあっさりと受け入れていたりする。

「また、あの子? あなた、旅の途中でも散々あの子にひどい目に遭わされたのでしょう? ヘスティアちゃんが言ってたわ。……これはちょっと、あの人に言わないと」

 どうやら、ヘスティアが大公妃に、あることないこと吹き込んでいるようである。ヴェンツェルはまったく、頭が痛くなった。

「……いや、いいよ。余計なことは……」

 この人は少々過保護というか、子煩悩というか、ちょっと息子を溺愛し過ぎている。
 ヴェンツェルがメイドにセクハラを繰り返していたとき、彼女が堂々と「メイドにそんなことをするな。やるなら自分にやれ」などと言い出したときはさすがに萎縮してしまったものだ。さすがに実母相手にそういった行為にでるほど鬼畜では……、ないはず。

 と、そこで、ヴェンツェルの発言を聞いた大公妃は、なぜか地面に片手をついてめそめそと泣き出した。

「……ううっ、余計なことなんて……、やっぱりあなたにとってわたしなんて、その程度の存在なのね……!」
「いや、なんでそこまで深刻になるのですか」
「わたしより、あのメイドのほうが大事だなんて……」
「…………」

 もう息子の言葉など聞いていないようだった。大公妃はなんだか妙な一人芝居を始める。こんなのには付き合いきれない。そう考えた少年は、そんな彼女を無視して自分の部屋へと戻っていってしまった。



「なにしてるんだい」

 ヴェンツェルが部屋に戻ると、床に敷かれたガリア製の高級絨毯の上でヘスティアが寝転んでなにかしている。

「あら、お帰りなさい」

 彼女は返事をしながらも、短く小さな足をぶらぶらと揺らしながら手を動かしている。木の板に紙を乗せて、そこら中に散らかしたパステルでなにか書いているようだった。

「……なんだい、これ」
「あら、ヴェンツェルに決まってるじゃない」

 そうは言うが、紙の上にぐちゃぐちゃと引かれた線は、なんだか幼稚園児の描く絵を彷彿とさせる酷いものだった。
 かろうじて中央に人間らしき物体が描写されているのはわかるが、その周りに描かれた、赤・青・白・茶の四色の丸と灰色の物体はまったくもって意味不明である。

 ヴェンツェルは彼女が大公妃に何を吹き込んだのか問いただそうと思ったが、疲れていたし、なにより「ふんふんふ~ん♪」と鼻歌を奏でながら楽しんでいる彼女の邪魔をするのも無粋というものだろう。
 少年はあえてそれ以上かまわず、自分の机の椅子に腰掛けた。そして、羽ペンと紙を取り出した。なんとなく、彼女を見ていて自分も絵が描きたくなったのだ。
 彼はさらさらとペンを走らせていく。そうしていると、紙の上によくある判子的な萌え絵ができあがった。ふわふわ髪で大きな吊り目の、魔法学院の制服を着た少女である。それを見て、彼はため息をつく。
 『前世』の彼は絵を描くのが趣味だった。とは言っても、それは所詮がただの漫画絵である。別に上手なわけでもなかった。ただ、こちらに来ても同じように描けるというのがなんだか不思議だ。しかし、この世界でそれを理解してくれる人間などいないだろう。

 彼は紙をくしゃくしゃにすると、ごみ箱へ投げ入れた。

「あら、坊ちゃま。戻ってらしたんですか」

 そこへ、アリスがやってきた。なぜか手には真っ黒な石の入った籠を持っている。

「ああ……。で、どうしたんだい、それ」

 いろいろ言いたいことはあるものの、もう彼はあまり突っ込む気にはなれなかった。問われたアリスは、籠を掲げながらそれに答える。

「これですか? これはゲルマニアのラインラント……ケルン選帝候領で採れた良質な石炭ですよ。今度、旦那さまが旗揚げする製鉄場で使うそうです」
「なんでそんなものを……」
「旦那さまがサンプルを見たいとおっしゃっていたので、これをフィリップさんから受け取っていまちょうど執務室に向かっているんです。そうしたら、坊ちゃまの禍々しい気配がしたので」

 なんだ禍々しい気配って…。とヴェンツェルは思った。
 だが、やはり、疲れているので突っ込む気にはならない。やがてアリスは部屋を後にした。「後で風呂に来い」とだけ言い残して。



 *



 そして数時間後。ここはクルデンホルフの城に設けられた、貴族用の浴場である。

 ちなみに、『貴族用』というからには召使い用のものもある。そちらは貴族用に比べるとかなり小さいが、ちゃんとした浴槽付きの風呂だった。『メイドは清潔でなければならん。なぜなら、不潔だとくん(この部分は検閲により削除)ではないか』と先代のクルデンホルフ大公が命じて建設させたのである。ついでに、さらに小さい男性用の風呂もあった。

 湯気がもうもうと立ち上がる風呂場に、ぺたぺたと歩く音が木霊した。二人ほどいるようで、なにか話している。

「まったく。またいなくなったと思ったら、そんなことをやっていたのですか」
「ええ。それに、わたしを置いてさっさと部屋に戻ってしまったわ」

 大公妃とベアトリスだった。本来ならば侍女がいて、彼女たちの体を洗うのだが……。大公妃は、娘と二人で入るときは自分で洗うのを好んだ。
 彼女たちは洗い場を目指した。しかしそのとき、大公妃はかすかな違和感に気がついた。

「……あれ、誰か先客がいるようね」
「言われてみれば、そうですね。お母さま」

 見ると、サウナが動いていた。普段はあまり使われないのだが、今日は誰かが使っているようだ。そしてサウナは暑いものだ。それはわかる。ただ、ちょっと扉から漏れ出る湯気が半端ないのである。
 大公妃はとりあえずベアトリスに退出を促し、自らはサウナの方へ向かった。すると、そこでは信じられない光景が広がっていた。

 まず目に飛び込んできたのは、タオルを体に巻いて赤い顔で床に座り込むアリスだった。なぜ、彼女がこんなところで倒れているのだろう。彼女がこちらを見ているのがわかった。
 そう考えたとき、さらに信じられないようなものが目に飛び込んでくる。
 ヴェンツェルである。彼は入り口のそばで、ぐったりと倒れこんでいるのだ。それを見た大公妃は一瞬の間硬直し、次の瞬間には言葉にならない叫び声をあげた。


 さて、なぜ彼らがこんなことになっているのか。それは、大公妃やベアトリスがやってくる、少し前のことだった。


「……暑い」
「そりゃあ、暑いですよ。サウナなんですから」

 アリスに呼び出されたヴェンツェルは、仕方なく風呂場へと向かった。そこで、タオルを体に巻いて仁王立ちをする彼女に言い放たれたのだ。

「痩せるには、汗をかくのが一番。ということで、坊ちゃまにはサウナにしばらく入っていてもらいます」
「いや、無理だろ」
「問答無用です」
「うわっ!?」

 アリスにタオルの淵をつかまれたヴェンツェルは、無理やりサウナの中へ連れ込まれてしまう。むわっ、という熱気が彼らを威圧する。
 仕方なく、ヴェンツェルはアリスの向かい側の席へ腰掛ける。すると、ものの五分もしないうちに彼の体からは猛烈な勢いで汗が噴出してきた。瞬く間に喉がからからになる。

「……だめだ。頭がくらくらする。もう出よう」
「駄目です。脱水症状になるまではいてください」
「それ、下手したら命にかかわるだろ!?」
「……」

 次の瞬間、ヴェンツェルは叫んだことを後悔した。頭が痛くなってきたのだ。
 もう駄目だ。出よう。今のアリスは短剣がない。つまりは丸裸も同然。単純な腕力ならぎりぎりで勝てるだろう。もし妨害されてもなんとかなる。そう考え、彼は扉を強行突破しようとした。
 しかし。

「なんだこれ……、びくともしないんだが……」

 彼は何度か体当たりしてみるが、扉はまるで揺らぎもしない。さすがにそれはアリスも予想外だったのか、慌てた様子で出入り口の辺りまでやってきた。
 まずい。このままだと洒落にならないではないか。ヴェンツェルは焦り、幾度となく扉に体当たりを続けた。
 しかし、どれだけやっても、東ベルリン市民にとってのベルリンの壁のように、扉は威圧的に彼らの前に立ちはだかるだけであった。
 どうやら、立て付けが悪くなっており、内側から開けられなくなったようである。

 やがて、少年は力尽きて倒れてしまう。アリスもサウナの熱気にやられて意識がはっきりしなくなってきた。これでは不味い―――そう、思ったとき、大公妃によってサウナの扉が開かれたのである。




 *




「…ここは」

 ヴェンツェルが目を覚ますと、そこは先ほど気を失う前に見た風呂場ではなく、自分が寝室として使っている二十畳ほどの部屋である。
 ベッドの隣に置かれた椅子にはアリスが座り、半身を少年の寝ているベッドに投げ出していた。眠っているようである。
 とりあえず、ベッドのわきに置かれた水差しの水を一気にぐいっと飲む。からからに乾いていた喉が潤うのを感じた。
 ふと、アリスの寝顔を見てみる。彼が気絶している間に泣いたのか、涙の流れた跡があった。今は、すうすうという寝息を立てている。

 そこへ、ヘスティアがやってきた。手に持ったお盆には軽食が乗っている。

「目が覚めたのね。よかったわ。どう? なにか食べられる?」
「ああ、大丈夫だよ。一つ、もらおうかな」
「どうぞ」

 ヴェンツェルが応えると、ヘスティアが軽食を差し出す。それを受け取ると、彼は一口で全て飲み込んでしまった。

 彼は、自分が気絶したあとの事をヘスティアに尋ねてみた。
 彼女がいうには、寝ていたら突然大きな声が聞こえて飛び起きたのだという。そこで、なんだろうと見に行ったら脱衣所でヴェンツェルが倒れており、大公妃がアリスに掴みかからんとするほど怒り狂っていたという。それを後ろから羽交い絞めにして止める大公は、散々顔を爪で引っかかれたそうである。
 一度アリスはサリアが連れていったのだが、さっきこの部屋へやってきたのだという。

「あなたのお母さまって、本当にこの子が嫌いみたいね。アタシがいろいろ吹き込む前から相当に嫌ってたみたいよ」
「…まあ、そうだろうな」

 しかし、今回のことはあくまでも事故だ。ケルベロスにしたって、彼女がいうほど凶暴な存在ではなかった。たまたま、運が悪かったのだろう。それに、下手をすれば二人ともお陀仏になっていたのだから。
 ヴェンツェルはアリスの頭を撫でた。

「まあ、この子もこの子なりに、いろいろ考えてるんだろうし……」

 それを見ていたヘスティアは眉をひそめた。むくむくと、“あまり気の良くない感情”が芽生え始める。
 突然、彼女は寝ていたアリスを突き飛ばして、自分はヴェンツェルに飛びついた。いきなり体が床に投げ出されたアリスは、わけもわからずに飛び起きる。

「なな、なんです? 地震でもおきたのですか!?」

 きょろきょろと辺りを見回す。そして、ベッドの上の少年と童女に気がついたようだった。

「……ヘスティアさん。また、わたしを突き飛ばしたんですか」
「ええ、そうよ? 文句ある?」

 ヘスティアはヴェンツェルを抱きかかえるようにして、その小さな顎を彼の頭に乗せる。
 そして、アリスに向かってばかにするように舌を突き出した。それを見たアリスは激怒し、またしてもキャットファイトが始まるのである。少年をサンドバッグにしながら。

「痛い! 痛い! やめろ! なんで俺を巻き込むんだ!」

 こうして、クルデンホルフ家の夜は更けていくのである。






 ガリア王国が帝政ゲルマニアに対し宣戦を布告したのは、このわずか二日後のことであった。






[17375] 第十六話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/09/01 23:28
 宣戦布告前夜。

 そのとき、ガリア王政府直轄領ストラスブールでは、既に軍の動きが起きていた。
 市街地の中に次々と武装した兵隊たちが現われたのだ。彼らの被ったヘルメットには、間違いなくガリア王国の紋章が刻まれている。
 クリスティナたちが酒場の仕事を終えたときには、町中にざっざっという、ガリア兵の靴音が響き渡っていた。

「どうしたのかな……」
「わからない。ま、大丈夫さ。いざとなったら俺がなんとかしてやるから」
「クリス……」

 クリスも内心かなり不安を抱いていたが、同じように不安がる同僚の頭をゆっくりと撫でて勇気づける。そんなクリスの頼もしい表情を見た同僚の女の子は、静かに頬を赤らめた。

「父さん、妙だ。さっきからやたらとガリア軍の奴が町に入り始めているぞ」
「ふむ……」

 数刻の後。
 クリスティナは自宅に戻るなり、父にそう告げる。それを聞いた父―――ミハイルは静かに頷いたあと、顎に手を添えて考えるそぶりを見せた。そして、すぐに娘へと向き合う。

「クリス。もしかしたら、これから大変なことが起きるかもしれん」

 彼は戸棚を漁ってある物を見つけると、それを娘に手渡した。しかし、クリスにはそれがなんなのかよくわからない。

「……? これはなんだ?」
「持っていろ。必ず役に立つはずだ」
「……ふぅん」

 いまいち訝しみながら、クリスは父から渡された物を眺めていた。

 そして、そのとき。

「ミハイルはいるか、開けろ! 貴様を国家反逆罪の容疑で拘束する!」

 ドンドン、と家の扉が叩かれる。それと同時に、なんだか穏やかでない単語が聞こえてきた。クリスは大いに慌てた。

「と、父さん!?」
「……やはりそう来たか。恐らく、この町のゲルマニア人の男のところには皆、ああやって官士が回っていることだろう」

 突然の出来事にも関わらず、ミハイルは落ち着き払った声で言った。ただ、額には一滴の冷や汗が浮かんでいる。

「……どういうこと?」
「これから『ドンパチ』が始まるってことさ。そんな状況で俺のような不満分子を野放しにするわけにはいかないんだろう。クリス、お前は隠れていろ。朝になったらガリア兵に見つからないようにして、ミケーネ婆さんの店へ向かうんだ」
「で、でも!」

 父が一体なにを言っているのか、それがよくわからないクリスは彼を必死に止めようとする。しかし、ミハイルの決意は固い。

「大丈夫。お前は強い子だ。なにせ、俺とマリアの娘なんだからな…。行ってくる。帰ったら、お前の作ったじゃがいも料理を食べさせてくれ」
「ぱ、パパっ!」

 クリスを諭すと、ミハイルは家の扉を開けた。すると、彼が何も言わないうちからすぐに四人がかりで押し倒され、拘束されてしまう。
 そして、クリスが止める間もなく、あっという間にガリア兵に連行されていった。


「……どうなってるんだよ…。わけわかんないよ……」

 家に一人残されたクリスは、木の床にぺたっとへたりこんで、ただ呆然と呟いた。




 *




 王宮襲撃事件から間髪入れずに起きた、ガリアによるゲルマニアへの宣戦布告。
 そのとき、ガリア王国摂政ジャン・アラン・ド・アキテーヌがリュティスの聴衆の前で述べた口上は、次の通りであった。

 “昨日、我が国内で起きた複数の爆破事件の犯人は、ゲルマニアへの統合を目指すアルザス分離主義者であることが判明した。
  彼らはアルザス地方を狙うゲルマニア政府と共謀し、複数の破壊活動を行ったのだ。これによる我が国民の死者は百名を優に越える。
  果たして、こんなことがこれ以上許されるのだろうか。自らの権益欲しさに他国民に害を与えるという、ゲルマニア政府のやり方は、まさに恥知らずな蛮人のやり方そのものである。
  よって我々は、これより始祖の名が示す正義の杖の元に、皇帝アルブレヒト三世の退位及び帝政の廃止を求め、ゲルマニア帝国政府に対し宣戦を布告するものである”


 当事者ではないトリスタニアの住人たちは、これを酒の肴に、あることないこと好き勝手に喋っている。
 「優秀なシャルル王子に嫉妬する無能王子ジョゼフが、支持基盤のないアキテーヌ公爵をそそのかしたのだ」「いやいや、あれは病床の王を差し置いて好き勝手に振舞う公爵の暴走なのだ」などと。
 しかし一方で、トリステイン上層部では、蜂の巣を突いたように熾烈極まる議論が繰り広げられていた。

「ガリア軍は国境を越えて、ケルン・マインツ両選帝侯軍と交戦を開始したようですな」
「一部のガリア兵が、不届きにも我が国の国境を侵犯しているというではないか! 厳重に抗議しなくては」
「もしラインラントがガリアに渡れば、我が国の領土が東西からガリアに挟まれてしまう。ここはゲルマニアに援軍を!」
「内務卿の言い分もわかるが、それではゲルマニアの成り上がりを調子付かせるだけでは? それに現状、出兵要請に応じる諸侯はいないだろう」
「いや、そもそも! 我らと双子の王冠にあるガリアを支援すべきだ! これは、かつてあの野蛮人共に奪われた領土を取り戻す絶好の機会だ!」
「ワロン公爵の言う通りだ。我らトリステイン貴族は、始祖から連なる同胞のガリア王国を援助すべきである」
「しかし、一方的に戦争を始めたのはガリアだぞ。しかもこの地域のパワーバランスが崩れてしまえば、この国はいずれガリアに食い潰されてしまう」
「中立宣言だ。早く中立宣言を出せ!」

 トリステイン王は、御前会議であるにも関わらず、貴族たちがみっともなく紛糾するさまを眺めながら、静かにため息をついた。
 そして、それを隣で控えるマザリーニ枢機卿は見逃さなかった。

「陛下。どうなされました。こういった事態だからこそ、あなたがしっかりしてくださらねば」
「……わかっておるよ。ただ、これは隣国の戦争だというのに……。この騒ぎようだ。大丈夫なのか、この国は」
「ガリアがこれほどの動きを起こしたのは久方ぶりですからな。平和に浸かってきた彼らがこうなるのも、無理はありますまい」

 マザリーニはそう言いながら、現在動いているらしいガリア軍の戦力を頭の仲で反芻する。
 情報筋からの報告によると、現在ガリア軍はライン川左岸に集めた三万の兵のうち、実に半数以上をゲルマニア領内へ侵攻させているという。
 とんでもない規模だ。これだけの兵を一気に動員することは通常不可能……、つまり、ガリアはかねてからゲルマニアとの戦争のために兵力を整えていたのだろう。
 クルデンホルフとの国境に一万人規模の部隊を展開している、という未確認情報もある。油断はできない。

 まったく、なんと白々しいことか…。ガリアの実権を掌握するアキテーヌ公爵の口上を思い出し、マザリーニは顔を歪めた。




 *




 開戦から数日。ゲルマニア軍は敗戦を重ねていた。

 ケルン選帝侯、マインツ選帝侯の部隊は、ガリアのアルマニャック元帥率いる部隊によって既に壊滅し、ケルン選帝侯は戦死している。
 ブランデンブルク辺境伯を筆頭とする、ゲルマニア東部の貴族がまったく兵力の抽出に応じなかったのも大きな痛手となっていた。
 ラ・ヴァリエールの向かいにあるアンハルツにまでガリア軍は迫っており、必然的に近辺に集中したゲルマニア軍の影響を警戒するヴァリエール公爵は、ピリピリとした殺気を放っている。

「お父さま。お茶をお持ちしましたわ」

 そこへ、彼の娘であるカトレアがお茶を持って現れた。本来ならば召使いにやらせる類の仕事ではあるのだが…。
 子煩悩な公爵は、娘が自分のためにわざわざお茶を入れてくれたことが嬉しく、わずかな疑念などどこかへと飛んでいってしまう。

「ああ、カトレア。わざわざすまないな。……体は問題ないのか?」
「ええ。大丈夫ですわ。この通りぴんぴんしてますもの」

 そう言って、カトレアは両腕を体の前で肩の辺りまで上げた。
 すると、彼女の体についた胸のふくらみが、その谷間が不自然なほどに、ぐにゃりと形を変える。それを見た公爵は年甲斐もなく鼻の下を伸ばした。
 ……いかん。胸を除いて、いくら彼女が若い頃のカリーヌに似ているとはいえ、自分の娘ではないか。畜生のような考えはやめるべきだ。

「お父さま?」
「うん? あ、いや、そうか。ごほん。…健康なことはいいことだ。ただ、その服はどうだろう? 胸元が開きすぎだ」

 そう言って、公爵は髭を撫でた。明らかに動揺しているのがミエミエではあるが、カトレアは開いた胸元を閉めながら気づかぬふりをする。
 そして、公爵にこの度の戦争のことを尋ねてみる。

「なんでも、ガリア軍はお隣のツェルプストー家の領地まで迫っているとお聞きしました」
「どこでそんなことを聞いた?」

 そんなことをいちいち娘に伝える彼ではない。召使いの連中にだって、大っぴらに喋るなと厳命していたというのに。

「小耳に挟んだだけですわ」
「……そうだな。確かに前線はそこまで来ているという。しかし、安心しろ。先日我がトリステインは中立を宣言したから、滅多なことでは戦争にはならん。お前が心配するようなことはなにもない」
「そうですか。……安心しましたわ」

 一瞬不可解な表情を見せながらもそう応えると、カトレアは公爵の書斎から退出した。


 クルデンホルフ大公国には、人口密集地帯であるラインラントが戦場となった為に、その戦火を逃れようとするゲルマニア難民が大挙して押し寄せてきている。
 これは事実上、トリステイン王国がゲルマニア国境を封鎖したが故に起きた。
 そしてクルデンホルフだけが難民の受け入れを表明していたのも、流入を加速させる要因となったのだ。既に万単位の難民が北部を占拠している。
 これには、従来のトリステイン住民が多い南部が猛烈に反発した。とくに、エシュ伯爵は自分の領地にはゲルマニア人の一人も入れないとしており、事実そのように動いている。

 大公は予想以上に増えた難民の雇用確保という名目で、大公国内で公共事業を開始するのだが……。









 ●第十六話「First Kiss?」









「……まったく、こんな時期に戦争をおっぱじめるなんて、どうかしてるよ……。フゥハァー」

 クルデンホルフ城の中庭をぐるぐると走りながら、ヴェンツェルは息を乱して独り言ちる。


 ガリアとゲルマニアが開戦してから、もう二週間もの時が流れている。

 戦局は、依然としてガリア軍がゲルマニア内に深く侵入していたものの、完全に膠着状態に陥っていた。
 一週間前に起きたコブレンツの戦いで、フォン・ツェルプストー伯爵指揮下の軍団がガリア軍を破り、防衛線をかなり南にまで押し戻したからである。
 現在は、ラインラントの南部を制圧したガリア軍と、対峙するゲルマニア軍が、ラインシーファー山地やネッカー川を挟んで、睨み合っている状態であった。
 ちなみに、トリステインはずっと国境の東側を封鎖している。クルデンホルフとゲルマニアの国境はガリア軍が押さえている。おかげで石炭の流通が停止してしまい、クルデンホルフ大公は頭を痛めていた。

 運動に興じる兄の様子を、ベアトリスは中庭に置かれたテーブル席に腰掛けて眺めていた。ここ最近、彼は暇があるといつもこうして走っている。まあ、大体は走りだして十分ももたずにダウンするのだが…。
 そうしていると城の方から誰かの足音が聞こえる。ベアトリスがそちらを振り向くと、そこにいたのは長身の精悍な顔立ちの青年、モーリス・ド・サックスであった。彼は先日、空中装甲騎士団の副隊長兼ヴェンツェル付きの侍従に就任したばかりである。
 なぜ純粋な副隊長でないのかといえば、単に自分の地位を脅かされるのを恐れた現隊長の差し金であった。そして他の幹部の中にも、本当の身元を明かさない彼を大公の近衛兵力の隊長格にすることには大きな反発があったのである。

「あら、どうしたのですか。珍しい」

 ベアトリスは久しぶりに会った青年に声をかける。

「これはこれは。ベアトリス様。……いえ、ヴェンツェル様からどうにかして『火石』を入手できないか、と仰せつかりまして」

 そう言って、彼は懐から結晶を取り出した。外観は単なる水晶のようにも見えるが、その物体の中では赤いなにかが輝いている。

「……綺麗ですね」
「ええ。ですが、取り扱いには注意せねばなりません。万が一爆発でもしようものなら……。こんな小さな結晶でも、中には膨大なエネルギーが封じ込められていますからね。まあ、滅多なことでは起きえませんが」
「はぁ……」

 ベアトリスは火石を眺めた。こんなに綺麗な物がどのようにして爆発するのだろう……。やがてモーリスは、やはりへばっていたヴェンツェルの元へ歩いていく。

「モーリス。戻ったのか」
「はい、ヴェンツェル様。『サハラ』と交易のある商人を何人かあたってみましたところ、ヴェネツのジュゼッペという商人の男が『火石』を何個か所持しておりました」

 そう言い、彼はこぶし大の火石を三個取り出した。どれもなかなかに立派な代物である。

「おお!」
「ですが猛烈にふっかけられたので、持っていった予算では三個しか購入できませんでした」
「……おいおい、新金貨とはいえ六千枚はあったよな」
「申し訳ありません……。私にも商才があれば、もう少しなんとかなったのでしょうが……」

 一個辺り、新金貨で二千。ヴェンツェルはあまりの高さに立ちくらみしそうになったが、わざわざ遠出してくれたモーリスを責めることはできない。ヴェネツといえばハルケギニア最大級の独立交易都市だ。非常に高い自治性を持つことで有名である。その町は、ここから火竜山脈を越えた遥か南の彼方にあるのである。

「いや、そんなことないよ。ありがとう。できればもっと数が欲しいんだけどね」
「それについては心配いりません。彼は定期的にエルフたちと交渉しているらしいので、次回のときにある程度の数を卸してくれるよう交渉すると言っておりました。もし入荷できた際には伝書鳩を飛ばしてくれるそうです」
「そっか。それなら次はもっと買えるようにお金を用意しないとな。まあ、なんにせよありがとう。助かるよ」

 ヴェンツェルは感謝をモーリスへ告げ、火石を受け取る。それを中庭に置かれていたバッグに大切そうに入れる。
 彼らの会話をひっそりと盗み聞きしていて“エルフ”というぶっそうな言葉が聞こえたベアトリスは眉を顰めるが、モーリスが一礼して中庭を去るまではなんら行動を起さずにただ静観する。そして、侍従の姿が見えなくなるやいなや、彼女は火石の入ったバッグを持ってどこかへ行こうとするヴェンツェルに詰め寄った。

「お兄さま! いま『エルフ』という単語が聞こえましたけど、一体どういうことですか?」
「いや、単に火石を手に入れる為に、エルフと貿易してる商人のところへ、モーリスに行ってもらっただけだよ」
「まあ! 異端審問官に見つかったらどうするつもりですか!」
「そのときは、そのときさ」

 ぎゃあぎゃあとわめく妹を鬱陶しそうに払いのけ、彼は自分の部屋へと戻って行ってしまう。
 それを呆然と見送るベアトリスだったが、やがて、冷たくあしらわれたことに対する怒りがふつふつと沸いてくる。耐え切れなくなり、彼女は人目もはばからずに叫んだ。

「なんなのよ……、人が心配してるのに…………、お兄さまのばぁぁぁぁか!!」

 だが、その叫びに応えてくれるはずの少年は、すでに城の中へ入ってしまっていた。



 *



 数日後。

 その日、ヴェンツェルは父やモーリス、ヘスティアと共に、大公国東部のメルテルト郊外にあるゲルマニア人難民キャンプを視察に訪れていた。
 ヘスティアは本来、来るべきではないのだが、ずっと駄々をこねるのでしかたなく連れてきたのである。

 大公は、お付きの武官とあれこれ話しながら指示を飛ばしていた。
 することがなく暇になったヴェンツェルは、とりあえず難民たちの様子を眺めてみる。皆、一様に疲れきった様子を見せている。無理もない。いきなり他国に攻め込まれ、郷土が戦場となったのだから。
 そんなとき、一人の子供が彼に話しかけてきた。幼い。恐らく、ヴェンツェルの年の半分も行っていないのだろう。

「ねえ、おにいちゃん」
「なんだい」

 ヴェンツェル付きのモーリスは、そんな光景を黙って見つめている。

「アマンダのおとうさん、もうずっといないの。どこに行ったのか、知らない?」
「……いや。ごめん。僕には、わからないな……」
「そう……」

 貴族のマントをつけた彼なら、なにか知っているかもしれない。そう思って、この子は彼に話かけたのだろう。しかし、彼女の父親の消息など、彼にわかるはずもなかった。
 やがて彼女の母親らしき人物が現れた。少年が貴族だとわかるとすくみ上がってしまい、ひたすら頭を下げだした。彼は何度も頭を上げるように諭すが、それでも彼女が頭を上げることはない。結局、彼はモーリスに促され、その場を後にした。

「……なんだかな。自分が貴族だってことを、こんな形で再認識させられるとは」

 長い引きこもり生活、貴族であることを隠しての旅……、彼は行く先々でメイジだと見られることはあっても、貴族として扱われたことはなかった。
 だからなのか。ああしてひたすら貴族にへりくだる人間こそが、この世界での多数派であることを認識していなかったのは。
 ゲルマニアは貴族が軽く見られている、なんて言う人間がいるが、それは大きな思い違いではないだろうか。それを痛感する出来事であった。

 昼過ぎ。

 ヴェンツェルは一人で難民キャンプの端にあるベンチに腰掛けている。モーリスは大公に呼ばれ、どこかへ行ってしまった。
 彼は、新しく買ってもらった上物の杖を見つめながら、陰鬱とすごしていた。どうも、この場所はいけない。社会の嫌な部分をまざまざと見せ付けてくるからだ。物盗り、暴行傷害、強姦……。
 大半は善良な平民であるが、やはりこういった場所である以上は避けようのない事案である。
 このまま避難所での生活が長引けば、今は善良な人々も、やがて犯罪に走るかもしれない。
 それを少しでも止めるべく、大公は難民の為に雇用を創出しているが……それも限界があるだろう。特に、そう遠くなく国へ帰ることができると信じている男は、そう簡単にこちらで職にはつかない。そういった人たちほど、戦争の長期化に失望して犯罪に走りやすくなる。
 まったく、難しい問題だ。俺には荷が重い。
 ヴェンツェルはそんな風に思いながら、ぼぅっと空を眺めた。すると、彼の視界にいきなり誰かが割り込んできた。

「ヘスティア……」
「辛気くさい顔ねえ。せっかくのいい男が台無しよ?」

 今の彼女は、火石を吸収して大人の姿になっている。昨日、モーリスから受け取った火石をすぐに与えたからだ。

「いい男、ってのはモーリスみたいな人間相手に使うんだよ。僕はせいぜい、ブタメンってところだ」
「あら。最近痩せたのに、そんな謙遜はよしなさいよ。じゃがいも三個分も痩せたらたいしたものよ」
「一個二百グラムとして、六百グラムしか変わってないだろ。というか、今までどこにいたんだよ」

 ヴェンツェルに今までの所在を問われたヘスティアは、肩を落としながら答えた。

「難民の子と遊んであげてたのよ。あなたたちは忙しそうだったし」
「ああ、そうか……。悪い」
「それはいいわ。……みんないい子よ。どうしてああいう人たちばかりが、戦争で真っ先に被害を受けるのかしらね……」
「ああ、どうしてだろう。わからないな……。いや、わかりたくないだけかもな……」

 食事の配給が行われているらしい。人手にぎわうテントを見つめながら、少年は静かに呟いた。



 *



「なんだこれは、ガリアが!?」

 クルデンホルフ城。豪華な装飾品の類で彩られた大公の執務室に、その部屋の主の出す大声が響きわたった。彼は一通の簡素な書状を握り締め、今にも唇を噛み切らん勢いで激昂している。

「は、はい! え、エシュの市街が占領され、ロダンジュ要塞が攻め落とされたとのことです! エシュ伯爵は敵の捕虜となり……」
「な……、なんということだ……」

 部下―――空中装甲騎士団員の報告に、愕然としたようすで大公は椅子にその身を落とした。

 ヴェンツェルたちが難民キャンプの視察に行った、その三日後。突如としてガリアから一通の書簡が届けられた。部下からのガリア軍が国境を侵犯したという、慌しい報告と共に。
 書簡には、口上といくつかの要求が記されていた。


『“クルデンホルフ大公国は、中立を宣言したトリステイン王国の宗主下にあるにも関わらず、独断で我々と敵対する国家に対し、人・物的な援助を行っている。
  これは由々しき事態であり、我々の生存権に対する重大な侵害行為であると認識する。よって我がガリア王国は、クルデンホルフ大公国に対し、軍が駐屯し監督することを決定した。
  同国の処分はガリア王国とトリステイン王国の二国間によってのみ解決される事案であり、クルデンホルフ大公は一切の政治的交渉権を有さぬことを、ここに通告する”

  一、クルデンホルフ大公はただちに全権限を放棄し、我が方に投降せよ。
  二、空中装甲騎士団は即時武装解除後、我が方に投降せよ。
  三、クルデンホルフ両用艦隊は無力化し、艦は一切の欠損なく我が方に引き渡すこと。
  四、嫡子ヴェンツェルの身柄引き渡し。

  以上の要求が一つでも履行されない場合、我が方は自己防衛の為、クルデンホルフ市に対し徹底的破壊作戦を実行する。

                                                        ガリア王国外務卿 フランソワ・ヴァロワ・ド・ミッテラン』


「こんなふざけた要求があるものか! 民間人に対する人道支援が、どうやったら軍事的な支援になるというのだ! ガリアを仕切っているのは政治のわからんガキなのか!」
 大公は激昂するあまり、書状を机にたたき付けた。バン!という音が、空しく部屋の中を木霊する。哀れ、大公の怒りを受け止めるのは、まだ年若い空中装甲騎士団員の青年である。

「……いや、すまない。きみに当たっても、どうにもならないな。それで、トリスタニアはなんと言っているんだ?」
「はっ…、それが、どうもこの件では会議が紛糾しているらしく……、外務卿のワロン公爵は即刻クルデンホルフをガリアに割譲しろ、などという支離滅裂な主張を繰り返しているそうです」
「ワロン……、アンリ・ド・ワロンか……。あのガリアの犬は、また我々を見下しているのか……。とにかく、攻めてきているのならこちらは応戦せねばならぬ。回答は先延ばしにして、なるべくボミシュット要塞に兵力を集めろ。私もすぐに向かう」

 部下が部屋を慌てて後にするのを見届けると、クルデンホルフ大公は大きくため息をついた。
 ガリアは一体、なにを考えている。こんな小国を狙う意味がどれほどあるというのだ。それに―――最後の要求でわざわざヴェンツェルを名指ししている。
 どういう意図なのだろうか……。

 いや、今は私が軍を率いて、不届きな侵略者共から国を、民を守らなくてはならない。こんなところで悩んでいても、敵は引いてはくれないのだ。
 そう考え、大公は執務室を後にした。



 * 



「なん……だと……?」

 いや、驚いたね。今回の話の『*』マークの多さとか、時間のすっ飛ばし方とか、超展開とか、そんなちゃちなもんじゃない。
 あのガリアがいきなりクルデンホルフに攻め込んできたんだってよ。
 もうめちゃくちゃだね。王様も宰相も病気らしいから、死ぬ前に一発どかんとやりたいのかね。後に残される人間なんてどうでもいいんだろうなあ。
 だが、そんな理由で大国に踏み潰されちゃ、たまったもんじゃないな。

 父はすでに空中装甲騎士団を率いて、ガリア軍がまだ達していないというボミシュット要塞に向かっているらしい。この要塞はクルデンホルフの主要道路上にあり、それ以降はなんの防衛拠点もない……、つまりそこを破られると、もう打つ手がなくなってしまうわけだ。
 城下町は城壁すらないから、敵の侵攻にはとことん弱い。だからこそ水際の阻止が重要なんだが……、今回はそれをする余裕すらない。

「ガリア軍は一万、こちらはゲルマニア人義勇兵を入れても五百……、メイジは……ああ……、圧倒的な差ですね……」

 戒厳令と避難指示が出て騒然となる城下町を眺めながら、俺の横に立つアリスが呟いた。
 どうやら、風の魔法で状況を把握しているらしい。そういえば、風メイジは耳がいいとかワの人が言ってたっけな……。『偏在』があれば敵情偵察も出来るし。
 こんなとき無○備マンがいてくれたら……、どうにもならないな。むしろ邪魔だ。

「ヴェンツェル! あなたも早く避難しないと!」

 と、そこへやってきたのは母上だった。普段真っ直ぐな髪は乱れて額に汗を浮かべている。どうやら、相当焦っているのがわかる。

「……いえ。僕は、父の後を追って前線にでます」
「どうして!? 敵はあなたの身柄引き渡しを求めてるのよ! むざむざ自分から出て行くことなんてないわ!」

 どうやらそうらしいが……。それでも、こうなってしまった以上、俺は引き下がるわけにはいかない。
 曲がりなりにもこの世界で、この国の人間として生まれたんだ。そこで生きる人たちを、自分の家の領民を見捨てることなんて、できない。そりゃあ逃げ出したいさ。というより、ちょっと前の俺なら逃げてただろうな。

「母上。あなたはベアトリスを連れて、早くお逃げください」
「だめよ! あなたが一緒にいかないなら、わたしだっ……」

 そこで、不意に母が意識を失って倒れた。横を見ると、どうやらアリスが『スリープ・クラウド』を唱えたようだった。まったく。ほんとこういうときはいい仕事をするよ。

「坊ちゃま。お嬢さまや、奥さまはわたしがどうにかするので……、安心して討ち死にするといいですよ」

 無表情で言われると、なんか怖いな。

「ああ。ありがとう。……頼むよ」

「……無事に、戻ってきてくださいね」
「え?」

 いま、去り際にアリスがなにか言っていたような……。まあどうせ「立派に戦って死ね」とかその辺だろうな。

 さて……、一万対五百、か。この戦力差では普通、勝つのは無理だな。精鋭? 戦いは数だよ兄貴。エルフですら、相手が人間でもこれだけの兵力差で正面からぶつかったら勝てないだろう。
 しかし。
 「戦いは数」をひっくり返してしまう存在が、ここにいる。本当はあまり出張らせたくないんだが……。こうなっては仕方ない。

「ヘスティア。また、頼めるかな」
「ええ。でも……」
「ああ。君が目立つことはできない……、戦争とはいえ、どこにロマリアの目があるかわからないからね」
「ええ……。それなんだけど、最近、気づいたの」
「うん?」


 一体どうしたんだ―――と思ったとき、俺のでっぷりとした唇に、ヘスティアのそれが重ねられるのを感じた。





[17375] 第十七話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/09/01 23:29
「へ、ヘスティア!?」

 突然の出来事―――いきなり美女に唇を奪われるという事態に驚いた少年は慌てて飛びのき、背後の石の壁に頭をぶつけた。後頭部が嫌な音を立てるのがわかる。
 彼は、いきなりなにをするのかと目の前に立つヘスティアという女性に尋問しようとするが、それを行う間もなく、不思議な感覚がその身を襲った。

「な、なんだ……、これは」

 一瞬、なにが起きたのか彼は理解が追いつかない。ぺたぺたと自分の体に触れてみるが、特段変わった様子はなかった。と、その時である。

『ヴェンツェル?』
「う、うわっ!? なんだ、どこから!?」

 突然、頭の中で耳慣れた声が響くのがわかった。
 やばい……。俺、とうとうラリっちゃったのか……。人生終わった……。などと、少年は悲観に明け暮れる。しかし、そんな思考を完璧に無視しながら、その『声』の主は彼に指示を飛ばす。

『てんぱってる場合じゃないわよ。いいから前を見なさい』

 もうどうにでもなれや……。と、彼は前を見る。すると、つい先ほどまでその場にいたはずのヘスティアの姿が消えていることを、たっぷり五秒かかって理解した。

「あ、あれ……、ヘスティア?」
『はい?』
「どこに、いるんだ」
『あなたの中かしらね。今のアタシはさっきまでの“実体”を粒子化して、あなたの左目の“火のルビー”を媒体にしつつ、体全体に取り込まれてるの。早い話が合体ね』
「え……? なんだそれ」

 不意に彼の頭の中で“あなたと合体したい”という、創世のなんちゃらのフレーズがよぎるが、これはまったく関係ない。

『アタシも細かい理屈はよくわかんないわ。夜中にこっそりあなたにキスしてたらこうなって、“ああ、こういうのもできるんだ”って気づいたの』

 いや、待て。難しい話は置いておくとして……。“夜中にこっそり”というのはどういうことだ。まさか、自分はファーストキスを自分の知らぬ間に奪われていたというのか……! オーマイガッ!

「いや、さらっと流されたけど……、お前、夜中に僕になにをしていたんだ!?」
『大丈夫よ。キスから先は、さすがに恥ずかしいからなにもしてないわ』
「そういう問題じゃないだろ!! 恥ずかしいって言うけど、そんな痴態を働いといてよく言えるな!!!!」

 端から見れば、今の彼は“壁に向かって一人で怒鳴る明らかな変質者”であったが、幸いながらこの場にはもう、誰もいなかった。
 彼の地べたを這いずる地虫のような名誉は辛うじて土に埋まることだけは避けられたのである。

『勝手にしたのは悪いと思ってるわよ。けど、そんなに青筋立てて怒ることないじゃない……、アタシじゃそんなに嫌だったの?』
「むう……」

 そこでヴェンツェルは、あごに手を添えて一考する。
 確かに、絶世の美女と言っていい彼女相手にするのはまったくやぶさかではない。しかし、彼はそれでも腑に落ちないものがあるのだ。
 そうやって彼がなにも言葉を発さずにいると、ヘスティアはすねたような口調で彼に告げた。

『……とにかく、急ぐわよ。今のあなたはアタシと同じように力が使えるから。じゃ、発進ね』
「え?」

 その刹那、体が猛烈に引っ張られる感覚。どうやら、この状態だとヘスティアがヴェンツェルの体をコントロールすることを出来るようであった。
 少年の体はあっという間にクルデンホルフの城よりも高い高度へ達する。

 そして、なんの前兆もなしに、いきなり青い空をかっ飛んで行った。



 *



 クルデンホルフ大公が、近衛兵やゲルマニア人義勇兵を率いてボミシュット要塞にたどり着いたときには、もう双眼鏡で視認できる距離に、迫りくる総勢一万のガリア軍の威容があった。

 ボミシュット要塞はガリアから伸びるクルデンホルフの主要道路沿いにある中規模の要塞である。
 現在は半ば打ち棄てられていたため、外壁がぼろぼろに剥がれていたり、雑草が伸び放題だったりと散々な状態にある。
 それでも、突然の侵略に晒されたクルデンホルフにとっては、唯一無二の防衛拠点であった。

 やはり朽ちている内部の階段を上りながら、大公は矢継ぎ早に空中装甲騎士団の団長へ指示を飛ばしていく。
 今回の戦いは、この場の兵力だけで勝つことが目的ではない。あくまでも時間を稼ぐことこそが最大の目標である。
 ガリアの要求に従う気など大公には当然ながらない。たとえトリステインに援軍要請を無視され、見捨てられようとも、彼は最後まで自らの身を賭して戦うつもりであった。

「閣下。モーリスたちが敵軍の予想進行ルート上の工作を終えたそうです」
「よし。次は大砲の準備だ。散弾砲の威力を見せてやれ」

 大公は要塞の最も高い城壁に上り、階下に置かれた複数の大砲を眺めた。それは散弾式の砲弾を発射できるタイプの物である。
 砲弾が地面に着弾すると同時に爆発を起こし、中に仕込まれた細かい鉄の破片で敵兵を屠るのだ。直接敵に命中させる必要がないため、こういった戦場ではかなり有効な兵器である。

「……来るなら来い。私は、ガリアなんぞにむざむざやられはせんぞ…」

 刻々と迫りくるガリアの大軍をその眼に収めながら、クルデンホルフ大公は静かに呟いた。


 一方、ガリア軍。

 電撃戦でクルデンホルフ南部の町、エシュを占領したガリア軍は、石で整備されたクルデンホルフの主要道路を行軍していた。
 総勢一万人の規模を持ってしてクルデンホルフに侵攻したガリア軍は、一割の兵士をエシュに残し、他の全ての部隊がクルデンホルフ市に向かって移動していた。
 これほどの迅速な行動が可能となったのは、なによりエシュ伯爵が抵抗せず、真っ先に身の安全と引き換えに投降を申し出て捕虜になったからである。
 元々、ゲルマニア系のクルデンホルフ大公との関係が冷えきっていたエシュ伯爵は、わざわざ大公の為に自分が命を賭ける必要などないと考えていたのだ。

 そして、ゆっくりと行軍を続けていた部隊の先頭の兵が、ついに小高い丘の上に立つボミシュット要塞の姿を捉えた。
 その報告を受けたクルデンホルフ討伐軍司令、プロヴァンス伯爵は兵に陣形を取らせる。前衛の兵たちが横一列に広がり、その手に持った槍や杖を構え、大股で前進を開始した。
 ボミシュット要塞から、大砲による散発的な反撃が彼らを襲うが、前衛に配置された風メイジたちが鉄の砲弾の進路を空気の壁で巧みにずらしてしまう。砲弾はむなしく、なにもない地面に着弾する。

「射角合わせぇ! 砲撃、用意!」

 後衛の自走砲を擁する部隊に指示が下る。それを合図に、何頭もの馬で引かれた真っ黒い巨大な大砲が現れた。それを三人がかりで発射の準備に取り掛かる。

「発射!」

 指揮官メイジの掛け声と共に、巨大な砲弾が轟音を立てて空中へ放たれる。一度目は要塞を通り過ぎてしまい、失敗。すぐさま次弾の発射に取り掛かる。
 二度目は見事な放物線を描き―――ボミシュット要塞の、使われていない司令塔を見事に粉砕した。兵士たちから歓声が上がる。
 続けて三発、四発と次々に、古びた老要塞へ情け容赦なく砲撃の雨が降り注ぐ。最初はそれをなんとかいなしていたクルデンホルフ側も、あまりの物量任せの攻撃に、ついに耐えきれなくなる。あちこちから断末魔の叫びが上がり始めた。

 と、そのときだった。ガリア軍の横っ腹、西方から少数の騎馬部隊が突撃してくるのが見える。

「ええぃ! 聞け、聞けぇ! 我こそはフィデル・ド・リジュー! 誇り高きトリステイン貴族なりぃ!」

 無謀にも特攻してきたのは、かつて自分の領地を失策で潰し、クルデンホルフ内の小領地に転封されていたリジュー伯爵であった。彼は僅かな手勢を連れ、丘の上から突撃を仕掛けているのだ。

「あ、あの馬鹿め! こんな状況、なおかつあんな少数で敵に突っ込むとは!」

 要塞の上でそれを目撃した大公が叫ぶ。しかしそのときにはもう、リジュー伯はガリアの後詰のメイジから集中放火を浴び、命からがらしっぽを巻いて逃げ出しているところであった。
 ……一体やつは、何をしに出てきたんだ……。
 この緊迫した状況の中で、このときばかりは皆が同じ思いであった。

 やがて、前衛の部隊がとうとうモーリスたちが工作を行った地点へと到達した。それを見た大公が指示を飛ばす。
 すると、空中装甲騎士団のメイジの何人かが呪文を詠唱。地面に仕掛けられた硫黄を媒体に、とてつもない大爆発を起こした。地面から炎が吹き上がり、その上にいた兵たちを瞬く間に飲み込んだ。

「むっ……、奴らめ、工作する時間など与えていないはずでは……」

 目の前で、前衛の兵たちが炎によって吹き飛ぶのを目の当たりにし、プロヴァンス伯爵は冷や汗を流す。
 だが、かなりの損害を受けたはずのガリア軍の前進は止まらない。

 やがて、ついに彼らが散弾を込めた大砲の射程圏内に入った。大公が発射命令を下す。それと共に、徒歩で向かってくるガリア兵に向かって、鉄の砲弾が放たれた。
 それは、またしても風メイジによって防がれるはずであった。しかし、なぜか砲弾は敵に届かず、彼らの遥か前方へ向かって落ちていく。
 なんだ。クルデンホルフの奴らは大砲すら満足に扱えないのか。壊滅した前衛に変わって前方に突出した槍兵がそう考えたとき、すでに彼の体は無数の鉄片によって生命活動を停止させられていた。


「閣下! 敵兵の中に少数で突出する者がいます!」
「なに?」

 土メイジに攻城用ゴーレムを作成するよう命じようとしたとき、大公の元にそんな報告が舞い込んだ。
 確かに、約二名…次の瞬間には、ゴーレムらしき物体が増えて十二体の人影が要塞に向かって突撃してくる。なんと愚かな連中か…。と、大公は散弾砲の発射を命じた。
 空気の破ぜるような、爆音。それと共に、蛮勇たちに鉄の雨が降り注――――がなかった。集団の最前列を行く赤髪のメイジが、一瞬にして鉄片を跡形もなく吹き飛ばしてしまったのだ。

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっはぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 片手のない赤髪のメイジが呪文を唱える。強力な炎の塊が生成され、それが高速で要塞前面に置かれた大砲に命中。いや、よく見れば大砲の置かれている地面である。熱によって地中の水分が蒸発、一気に土がめくれ上がって、それに巻き込まれた兵士たちの悲鳴が上がる。
 なんだこいつは―――そう思う間もなく、赤髪のメイジは目にも留まらぬ『フライ』で一気にボミシュット要塞の城壁を駆け抜けた。わずか一瞬で、彼はクルデンホルフ大公の眼前にまで迫っていたのだ。

「お前をぶっ殺せば俺らの勝ちなんだよなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 狂気を宿した瞳を光らせながら叫びつつ、彼は『ブレイド』で切り掛かってくる。
 だが、大公とて伊達にスクウェアメイジなわけではない。驚異的な反射速度で敵の斬撃を回避すると、自身も『ブレイド』を展開して応戦する。
 切り合いながら、大公は周囲の状況を把握しようとする。既に鋼鉄のゴーレムが城壁を破って侵入しており、大公の護衛たちと戦闘に突入していた。
 ―――まずい。虎の子の戦力はまだこちらに到着していないというのに、既に要塞の守りが破られた。これでは、唯一の勝算が……。

「おっさぁぁぁぁぁぁぁぁん! よそ見してんじゃねぇぇぇよ!!」
「なにっ!?」

 ほんの一瞬の隙だった。しかし、歴戦のメイジであった赤髪の青年はその隙を見逃さない。目の前の標的―――クルデンホルフ大公の首を取るために、彼は『ブレイド』をまとわせた杖を横一線に振った。

 ―――しかし。

「ぐぁっ!?」

 突如として天から飛来した物体が赤髪の青年の腹に命中し、双方とも後ろへ向かって吹っ飛ばされた。派手な音を立てて、城壁の上に置かれた木箱がばらばらになった。

「……お、お前は……」

 要塞の床を転がり、立ち上がる一人の少年がいる。その身に紅蓮の炎をまとい、でっぷりとした低身長と脂ぎった肌が印象的だった。

 果たしてそこに現われたのは、クルデンホルフ大公が嫡子―――ヴェンツェルだった。









 ●第十七話「ボミシュット要塞」









「……ヴェンツェル。一体どこから降ってきたんだ。いや、そもそも、私はお前たちには避難するよう命じたはずだが」
「確かに、そうですが……。今はそんなことを言っている場合ではないでしょう」

 問い掛ける大公にそう答えると、ヴェンツェルは突然後ろを振り向く。間髪入れずに、一瞬目にしただけで眼球が焼けてしまいそうなほど白い爆炎が、彼らを襲った。

「こんのやろぅ……。いてぇじゃねぇか!」

 片手で杖を構え、手首から先のないもう片腕で腹を押さえる赤髪のメイジが言う。彼は額に青筋を浮かべている。もう完膚なきまでにヴェンツェルを灰も残さずに焼き切る気でいた。
 しかし……。
 靄が晴れたとき、完全に吹き飛ばしたはずの少年はそこに健在のままであった。予想外の事態に、赤髪の青年はその顔を歪める。

「……な、なんだテメェ……」

 そんな馬鹿な。今の一撃は、自分を三度敗北に追い込んだあの忌まわしき少女を打ち倒す為に編み出した、すべてを焼き払う『却火』のはず。あんな生物に防げる代物ではない……。

「確かに、あんたの火は強い。だけどそれまでだ。ただ勢いが強いだけの火じゃ……、ヘスティアの火には、到底及ばないんだよ」

 全身に太陽の表面を這うプロミネンスのような炎をまといながら、少年はただ淡々と告げる。

 なんだ、なんなんだこいつは。おかしい。そんなことが、あのアリスだけでなく、こんな豚に、俺の『火』が負けるだと……、ふざけるな……。

「ふざけんな……、ふざけんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「み、ミゲルさん!」

 遠くでモーリスと戦う仲間のマンショが叫ぶが、今の青年―――ミゲルの耳には、その言葉が全く入っていなかった。
 赤髪の青年は、白い炎を杖を持つ腕にまとわせた。あまりの高熱に、ちりちりと腕が焼けていくが彼は構わない。そしてなにも考えず、ただ少年へ向かって突進した。

「死ねぇぇぇ!!!」

「ふん……、今の無敵状態な僕をなめてもら……、あれ?」

 ヴェンツェルは杖から炎を出して応戦しようとしたのだが、なぜか杖からはなんの反応もなかった。
 そのとき、ふと体が重くなる感覚。足元を見ると、火石が切れたと思わしきヘスティアが、息を乱して城壁の石に片膝をついていた。

「……ごめんなさい、もう、駄目みたい……」
「えええええっ!?」

 どうやら、先ほどミゲルの炎を防いだときにヘスティアは火石の力を使い果たしてしまったらしく、ヴェンツェルはほぼ丸腰の状態に陥ってしまう。
 これは不味い。なんとかしないと……。
 少し考えるが思いつかず、結局彼は馬鹿正直に突進してくるミゲルに、『レビテーション』を唱えた。
 ここでまさか『レビテーション』を繰り出してくるとは思っていなかったのか。ミゲルは、杖を弾き飛ばされてしまう。

「ちっ……、くそが! だったら素手でもかまわねえ、ぶん殴ってやる!」

 杖を吹き飛ばされようともミゲルは足を止めなかった。そのまま少年に向かって殴りかかってくる。

「おっと、私を忘れてもらっては困るな」
「がっ!? この野郎! 放せ、放せえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」

 ミゲルが気づいたときには、もう彼の体は大公が出した『水の鞭』によってからめとられていた。身動きのできない状況で、彼は叫ぶ。

「悪いが、いま君を放すと私や息子、家臣の命に関わるのでね。それはできないんだ」

 叫び続ける赤髪の青年に、大公は静かに告げた。

「み、ミゲルさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
「貴様、大人しくしろっ!」

 ふと轟いた叫び声にそちらの方を見ると、モーリスがもう一人の侵入者を捕縛するところであった。いつの間にかゴーレムを倒し、メイジを拘束していたようだった。
 そして、大公が階下へ目を向けると、ガリア軍が進軍をやめ、緊張の面持ちでこちらを注視しているのがわかった。
 しかし、うかうかもしていられない。このまま時間が経ってしまえば、奴らは態勢を整えて再び攻めてくるだろう。
 そうなる前に、確実に勝ちに行かねばなるまい。当初は間に合わないと思ったが、これほど時間を稼げたのだ。もう、『彼ら』はすぐそこまで来ているだろう。

 そう考え、大公は『合図』をした。



 ―――いきなり要塞で始まった珍事を、ガリア軍の一般兵士はただ言葉もなく見守っていた。
 やがて、それが沈静化したとき、プロヴァンス伯爵の怒声で、皆が皆、慌てて正気を取り戻すのである。だがそれは少々遅すぎた。

「……お、おい、なんだあれ」

 最初に『それ』に気がついたのは、何気なく空を見た一人の兵士だった。空に無数の、それも大小様々な黒点が浮かんでいるのだ。『それ』は、だんだんと近づいてくる。

「あ……、おい。あれ……」
「竜……だよな」
「空中装甲騎士団……、る、ルフト・パンツァー・リッターだ! あいつら、竜騎士を温存してやがったんだ!」
「それだけじ  ゃない……、船だ。船が、何隻も……」

 ガリア兵は皆、怯えたように空に浮かぶ無数の黒点を見つめる。


「ち、父上……。あれが……」

 要塞上では、ヴェンツェルも驚きの表情を浮かべて天を仰いでいた。彼は話こそ聞きはしていても、こうして実際に艦隊を目の当たりにするのは初めてなのだ。

「……ああ。『空中装甲騎士団』の主力である竜騎士隊と…クルデンホルフ両用艦隊の旗艦『アルロン』だ。北部のトロワビエルジュに港を開いてしまったが為に、随分と到着が遅れてしまったよ」

 大公は、息子の問いにそう答えた。

 空には悠然とその威容を誇示する、戦艦『アルロン』の姿があった。その総延長は百メイルを越える。そしてその側面には、三十門ほどの大砲が積まれていた。アルビオン王国空軍の旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号には遠く及ばないながらも、小国としては考えられないほどの戦力である。
 その隣には、一回り小さい、後に“竜母艦”と呼ばれる『デゥデランゲ』『ディーキルヒ』という艦が浮かんでいる。ちなみに、竜騎士隊はあの船でここまでやってきたらしい。

「あ……、あれだけの船をよくも用意できましたね」
「金はあるからな。もっとすごい船も作っているぞ……」

 大公は目を輝かせながら、『アルロン』に魅入っていた。まさか……わざわざ艦隊などというものを作ったのは、彼の趣味なのだろうか……。と、ヴェンツェルは思った。

 するとそのとき突然、船の側面が光った。ヒュルルという音がしたかと思ったとき、ガリア兵の陣地で大爆発が起きた。『アルロン』が彼らに砲撃を加えたのである。
 それから間髪入れずに竜騎士隊が降下してくる。それに驚き、恐怖したガリア兵は瞬く間に総崩れとなってしまった。
 抵抗を試みる部隊もいるが、それらは火竜が口から放つ強力なブレスによってことごとく灰燼に帰していく。
 ガリアのクルデンホルフ討伐軍には竜騎士や幻獣は配備されていない。そういった複合兵力はゲルマニア戦線に回されている。こちらは、あくまでも地上兵力だけで構成された軍隊なのだ。

「ええい! なにをしておるか! 退却は許さん、前へ進め! あの男を討ち取れ!」

 プロヴァンス伯爵や指揮官メイジの怒号が飛ぶが、一度崩れてしまった態勢を立て直すのは容易ではない。傭兵はとっくに逃げ出しているし、徴兵された平民も腰を抜かすか逃げるかし始めている。
 そうこうしている間にも、次々と空中の『アルロン』から容赦のない砲撃が続く。メイジたちは空に向かって魔法を放つが、遥か上空に浮かぶ船が相手では、まったく意味のない行為であった。
 やがて、伯爵のいる陣地にまで爆音が響くようになり、ついに伯爵からほんの十メイルほどの地点に大砲の弾が着弾。舞い上がる土や肉塊が、ぱらぱらと落ちてきた。

「……た、退却だ! 後退するぞ、総員退却!」

 あまりに苛烈な砲撃の前に、とうとうプロヴァンス伯の心が折れた。
 彼は事実上の撤退命令を出し、自らはもともと後方にいたというのに、真っ先に逃げ出してしまった。後衛のメイジたちも我先にと逃げ出し、後に残された平民兵たちは続々と白旗を上げていく。
 一万、そのうちの大半の兵力を動員しておきながら…、いや、兵の数だけ立派で、装備が貧弱すぎたのが敗因であるのは明白だった。
 ゲルマニア戦線に主力を出している以上、大国ガリアといえどもあまり余裕はないのだ。
 それに、クルデンホルフ程度の小国ならば、とりあえず大軍をぶつければ降伏するだろう、という希望的観測に基づいて寄せ集めで組織された部隊故に、しかたのないところはあるのだろう。

 ほうほうの体で退却するガリア軍。
 ちなみに、せっかくの石造りの道は『アルロン』の砲撃によってもはや原型を留めていなかった。見るも無残な様相を呈している。だが、それに大公が気がつくのは、随分と後の出来事であった。



 *




「……で、ヴェンツェル。お前は私の命令に背き、こんな場所までやってきたわけだが……」
「ごめんなさい」

 ガリア軍を撃退した後の、ボミシュット要塞そばに設営された野営。
 避難指示の解除など、一通りの指示を家臣に伝えた大公は、自分の命令を破って前線に出張ってきた息子に灸を据えてやろうとヴェンツェルをずっと正座させていた。
 『ディーキルヒ』以外の船はトロワビエルジュに向けて帰還を開始した。特に『アルロン』は、ほぼ完成していたとはいえまだ正式な就役をなしておらず、船体側面で大砲の斉射の影響なのかトラブルが見つかったからである。
 竜騎士隊は依然として空に浮かぶ『ディーキルヒ』に竜たちを乗せ、休息を取らせている。

「ごめんで済んだら杖はいらぬのだ」
「申し訳ございません」
「ふざけておるのか」
「この通りです」

 そう言うと、ヴェンツェルは地面に向かって頭を擦り付けながら土下座をかました。それにはさすがに、後ろで控えていたヘスティアも慌てる。

「……もういい、頭を上げろ。部下に見られたら示しがつかん」

 しばしの沈黙のあと、それだけ言うと大公はテントを後にする。まったく馬鹿息子が……。という声がかすかに聞こえた。


 それから、数時間。今回の戦闘はごり押しで勝利したものの、いまだエシュ近辺はガリア軍が占領しているという情報がクルデンホルフの面々に届いた。

「……で、どうなるの? これから」

 ボミシュット要塞の、ぼろぼろに崩れた外壁の壁に背をもたせ掛けながら、ヘスティアは隣でパンに食らいつくヴェンツェルに問いかける。
 どうやら、先ほどの“合体”はとんでもなくエネルギーを消耗するらしく、彼はもう三個もパンを完食していた。

「……当然、ガリア軍を領内から追い出しにかかるんだろうな」
「できるの?」
「わからない。ただ、今回あんな無様に負けたんだ。恐らく、次はもっと陣容を強化してくるだろう。…ただ、ゲルマニアの大反攻作戦が近いってモーリスが言ってたからなぁ…」

 やっぱり、僕にはわからないな。と言いながら、ヴェンツェルは四個目のパンの最後の一欠けらを口に放り込んだ。
 ヘスティアはしゃがみ込みながら、そんな彼の様子を見つめている。そして、静かに口を開いた。

「キスの件だけど……、やっぱり、もう一回謝るわ。ごめんなさい」
「いや、もういいよ。僕もほら、なんだ。悪い気はしないし」
「……ほんとう?」

 ヴェンツェルの言葉を聞いたヘスティアが、少年の太ももに手を置いて身を乗り出した。自然と、彼は背を後退させてしまう。

「ああ。嘘は言わないよ」
「じゃあ……、嫌じゃないなら、もう一回しても、いい?」

 上目遣いでそのつぶらな瞳を潤ませ、頬を赤く上気させながらヘスティアはそんなことを言い出した。これにはさすがのヴェンツェルは参ってしまう。

「いや、だけど。また……」

 “合体”してしまうのでは。そう言おうとしたのだが、それはすぐに否定される。

「大丈夫よ。火石の力がない状態なら。……ほら、さっき力不足になったら分離されたでしょ?」

 確かにそうである。しかし、火石の力がない、ということはつまり、今の彼女の見た目はアレなのである。たとえ六千歳だろうと見た目だけは。それではいろいろと犯罪になってしまうのではないか。

「あ! そうだ、いま」

 ヴェンツェルが最後の悪あがきに転じようとしたとき、ヘスティアが強引に彼へ顔を合わせた。かち、というお互いの歯のぶつかる音がするが、そんなことはお構いなしとばかりの勢いでぐいぐいと唇を押し付けてくる。舌を入れるという発想は彼女にはないようであった。
 ああ……、なんだかんだいって俺、結構幸せかも…。などと、先ほどまでの思考はどこへ行ったのか、少年はすっかり夢見心地になっていた。

 しかし、そんな時間がいつまでも続くはずもない。

「ヴェンツェル……。お前という奴は……」

 耳に入った声は、まさしく大公のものであった。ヴェンツェルは慌ててヘスティアを引き離して体裁を取り繕うとするが、それはもはやなんの意味も持たなかった。
 なんと既に周りを、兵や空中装甲騎士団の面々が取り囲み、こちらをにやにやと眺めているのである。

「いやあ、ようやく坊ちゃんにも春が来ましたか……」
「心配してたんだぜ。その年でガールフレンドの一人もいなかったからな」
「ありゃあ。こりゃなかなかいい女になりそうな嬢ちゃんだなあ。うらやましい」
「これ!、貴様ら! ヴェンツェル様に失礼だろう!」
「固いこと言うなよ、モーリス。大公閣下だっているじゃないか」

 それぞれ好き勝手なことをいう空中装甲騎士団の面々。公開処刑にも等しい鑑賞会を止めようとするのは、モーリスただ一人であった。

「……やはり、私自ら手を下すしかないのか。来い、ヴェンツェル」

 大公は、静かな口調で息子にそう告げる。その姿は、あまりにも静けさに満ちていた。
 まるで、海が嵐の前にひと時の静けさを得るように―――彼は、問答無用でヴェンツェルの首根っこを掴んだ。そして、ずるずると引きずっていく。

 確実にヴァルハラへの階段に近づいていく中、ヴェンツェルは不安げに彼を見送るヘスティアに、こう告げた。

「僕、帰ってきたら……、君にプレゼントをあげようと思うんだ……」


 そう言い残したきり、彼はボミシュット要塞の地下に続く階段の暗闇に消えた。






[17375] 第十八話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/09/17 15:00
 ルイズ・フランソワーズが、二番目の姉―――カトレアの変化に気がついたのが、ちょうど三年ほど前のことだった。

 一見すると彼女はそれまでと変わりないように見える。
 だが、注意深く観察すると微妙な仕草や言動に不可解な点が見られたのである。どうにも、男性のような歩き方をしたり、言葉遣いがおかしかったり、テーブルマナーがめちゃくちゃになっていたりするのだ。

 カトレアは動物が大好きで、自室にたくさんの動物を飼っていたのだが、それもいつの間にかいなくなってしまっていた。ほんのわずかではあるが、ルイズに距離を置くようになったのもこの頃のこと。
 見かねた母親のカリーヌが散々再教育を施したからか。しばらくすると、一見して言動は昔のカトレアに戻ったかのように見えた。
 しかし、ルイズにはそれがどうも不可解なことに思えた。いつもカトレアと一緒にいた彼女だからわかる。微細な、しかし確かに存在を主張する違和感。
 やがていつからか、姉は館の蔵書室にこもるようになった。まるで気の狂ったように本に没頭している。この頃には、もうルイズがいくら話しかけてもかつてのような反応は得られなかった。

 仕舞いには、館の蔵書だけに飽き足らず、トリスタニアやリュティスから本を大量に取り寄せるようになった。
 ルイズはその本の表紙をチラッとだけ見たことがあるが、そのどれもが到底まともな内容が書かれているとは思えない、禍々しい気配を発する代物だった。

 二年半ほどが過ぎた頃。
 ある日、突然カトレアが蔵書室から飛び出してきた。その顔に浮かぶ笑顔は、ここ数年のルイズがまったく見たこともないようなほどに輝いていた。
 彼女は言う。自分はかつての奇病から脱却し、もう自由に外を歩けるのだと。もう病弱な自分は過去のものなのだと。
 それを見せ付けるかのように屋敷内を元気に走り回るカトレアを見て、公爵や、一番上の姉エレオノール、執事、召使いたちは腰を抜かしてしまった。あの鉄仮面な母ですら、思わず口の端が引きつったようにひん曲がっているのをルイズは見た。
 しかし一方で、ルイズは言いようの無い『違和感』を覚えたままだった。
 おかしい。なにがおかしいと明確には指摘できないが、何かが引っかかっていた。
 一時期の姉の様子。もしかしたら、あの前に屋敷を訪れたクルデンホルフの少年が、なんらかのよからぬ影響をカトレアに与えたのではないか。

 あの少年がカトレア相手に怒鳴っていたのをルイズは目撃している。そうだ。あの―――名前は失念したが、彼ならなにか知っているのだろう。いつか、問いたださなくては。
 いや、その前にカトレア本人の身の回りを調べた方が早いかもしれない。


 ガリアがゲルマニアと開戦してから二ヶ月が過ぎた頃。

 ルイズは、カトレアが父と共にアルビオンへ訪問に出かけている隙に、彼女の部屋を家捜ししてみることにした。
 扉には見事な鍵がかかっていたが、メイドが掃除をしに部屋へ出入りしているのは知っていたので、ルイズは無理を言って一緒に部屋に入れてもらった。
 部屋は閑散としており、当然、かつてのような動物の姿はないし、一時期あふれ出さんとするようにあった蔵書もどこかへ消えていた。

 メイドが一旦掃除道具を取りに戻っている間に、カトレアが使っている机の戸棚をルイズは開けた。そこには、たくさんの羊皮紙の束が入っている。一枚手にとって、机の上で広げてみる。

「な、なに……、これ」

 ルイズは思わず、思考を声に洩らしてしまった。
 紙にはなにかの文字らしきものが、上から下までびっしりと描かれてる。
 ただ、その“文字らしきもの”はルイズが見たことの無い不可解な形をしている。少なくとも、ハルケギニアの文明とはまったく縁のなさそうな物にしか見えなかった。
 『東方』の文字なのだろうか。それとも、なにか呪術的な…。気味が悪くなったルイズは紙を元通りにし、早足にその場を去った。
 後に彼女はその文字の正体を知ることになるのだが…。それは、何年も先の話である。


 数日後、父とカトレアが屋敷に戻ってきた。そして出迎えに行ったルイズは、驚くべき言葉を耳にするのである。

「わたし、アルビオンのウェールズ王子と婚約したのよ」

 カトレアは満足そうな声音でそう言った。驚くルイズやエレオノール、カリーヌを前に。とても、可憐な表情で……。




 クルデンホルフ大公国がガリア王国軍の侵攻を受けてから、既に二週間が経過していた。

 クルデンホルフの城の執務室では、着々と反撃の準備を進めている大公が手にする羽ペンの音が響き渡っている。

 先日のガリア軍の行動は、トリステイン王政府に大きな衝撃を与えた。親ガリア派の筆頭、ワロン公爵はクルデンホルフを正式にトリステインの傘から切り離すように主張した。
 しかし、トリステイン王や宰相マザリーニはその要求を突っぱね、リュティスに対して厳重な抗議文を送付した。だが、それ以上の行動はなんら起こしていない。

 クルデンホルフは名目上とはいえ独立した国家である。
 とはいえ外交権が宗主国にある――これは地球のモナコ公国やリヒテンシュタイン公国に近い――以上、本来ならばトリステインがクルデンホルフの処遇に関して責任を負う立場にあるのだが、宮廷貴族の半分近くを占める親ガリア派の苛烈な主張によって、トリスタニアの王宮は身動きの取れない状況にあるのだ。
 そのせいか、先日トリステイン王はついにクルデンホルフ問題についての一切を大公預かりとしてしまった。
 トリステインそのものは中立を宣言しており、たとえクルデンホルフが自衛の為に戦闘を起こそうと、絶対に介入しないというのだ。

 もう何十枚と書類にサインしたことか。そこで大公はペンを止め、メイドの入れた茶を飲む。ほどよく温められた茶色の液体が、乾いた大公の喉を潤した。
 ふと隣を見ると、そこに立っているのはまだ年若い少女である。はて、こんな娘が城にいたのだろうか……、などと、大公は思った。

「きみ。見ない顔だが、新入りかね」
「あ、はい。ゲルマニアからやってきました。ミーナと申します」

 緊張した様子で、少女は大公に自らの名を告げる。
 色の薄い肩までの茶髪、色の濃い青い瞳。染みの一つもない真っ白な肌……。ここ数年、妃とは別室で睡眠をとっていて関係がなくなっていた大公は、変わりに気に入ったメイドと関係を持つことが多かった。

「ふむ。では、ドアに不在札を付けてきてくれたまえ」
「え……、ですが」

 本人がここにいるのに、不在を示す札を付けろとはどういうことだろう。困惑した面持ちで、少女は問おうとする。だが、ここで逆らうことに意味はないだろう。
 言われた通り、彼女は一旦部屋を出て、札をドアの前に取り付ける。
 それをたまたま目撃した大公の執事は、やれやれ、またか。と、静かに『サイレント』をこの辺り一帯にかけた。

 もしこのとき執事が機転を働かせていなければ、今頃廊下中に年若いメイドの嬌声が鳴り響いていただろう。ファインプレーというやつか。だが、それは執事本人にとっては日常の一部のようなものであった。




「ゲルマニア軍が、ラインシーファー山地の南斜面にいるガリア軍に攻撃を加えたそうです。これまでにない規模での作戦だそうですよ」

 城の中庭に置かれたテーブルに腰掛け、新聞を眺めながらアリスがそんなことを言った。それを、必死の形相で腕立て伏せに興じるヴェンツェルは軽く聞き流した。
 遠くの方ではヘスティアがスコップを持った大公妃と共に、泥だらけになりながら野菜畑をほじくり返していた。じゃがいもを掘り出しているようである。
 前回の交戦から今まで、ガリア軍はエシュに布陣したままなんの動きも見せていなかった。
 不気味なほどに沈黙を守っている。砲兵部隊、兵員がゲルマニア戦線に引き抜かれてしまい、再度攻勢に出たくとも出られないのではないか。クルデンホルフではそんな噂が流れていた。

「ふう……」

 やがて、三十回に及ぶ腕立て伏せとの死闘を終えたヴェンツェルが立ち上がった。と、そのときである。アリスが特に面白くもなさそうに、ぼそっと呟いた。

「ヴァリエール公爵家の次女、カトレア・ド・ラ・ヴァリエールがアルビオン王子ウェールズ・オブ・テューダーと婚約……」
「な、なんだって!?」

 するといきなり大声を上げたヴェンツェルが、アリスに飛び掛った。
 アリスはとっさに、自らに向かって飛来する巨体の股間目掛けて蹴りを放った。それは見事に彼の大事な部分を打ち抜き、少年は苦悶の表情を浮かべながら地面に頭から落ちる。

「いきなりなにするんですか」
「……う、うう……。いや、僕はただ、その新聞の記事が読みたいだけだよ」
「はあ……」

 それなら口でそう言えばいいのに、と呟きながら、アリスは新聞をヴェンツェルに手渡した。彼はそれを受け取ると、一面に書かれたその見出しの記事を食い入るように見つめている。
 記事によると、最近ヴァリエール公爵がアルビオンを親善訪問した際、それに同行したカトレアとたまたま顔を合わせたウェールズが意気投合。アルビオン王公認でそのまま婚約に結びついたのだという。なんだか恐ろしいほどの短期間で状況が動いている。
 これは……、なにか臭う。

「坊ちゃま。臭いです」

 アリスが鼻をつまみながら言った。確かに、今のヴェンツェルは汗やらなんやらでかなり汚い。だが、彼が考える臭うとはそういう意味ではない。

「……ただ傍観しているだけじゃ、どんどんあいつの好き勝手にやられてしまう、か……。取り返しのつかない事態に陥る前に、やるしかないな」

 新聞に目を落としたまま、ヴェンツェルは誰にも聞こえないようにそっと呟いた。そしてそのとき、彼は決断をした。近いうちに、ラ・ヴァリエールへ向かうと。









 ●第十八話「終わりと、始まりと、狂う歯車」









 ゲルマニアが起こした大反攻作戦は、当事者であるゲルマニア軍幹部すらも予想しえなかったほどの快進撃を見せた。
 
 ちょうどこの少し前、ガリア内部ではシャルル王子による宰相アキテーヌ公爵の解任動議が提出されるなどして、政局が一気に混乱状態に陥っていた。
 それまで前線に出向いていた、アルマニャック元帥など数少ないアキテーヌ公爵派の貴族がリュティスに呼び戻された。
 後を引き継いだ二人の王子の派閥に属する貴族たちはまったく士気が低く、わずかでも損害が出ると簡単に撤退を繰り返していたから、まったく戦いにならない。
 クルデンホルフに侵攻した部隊が再度の攻勢に出なかったのも、単純に兵力不足もあったが、アキテーヌ公爵派のプロヴァンス伯爵がリュティスに呼び戻された影響によるものが大きかった。



「……くそっ、シャルルめ……! 奴が引っ掻き回してくれたおかげで、せっかくの作戦が台無しになってしまったではないか!」
「閣下。このままでは、ゲルマニア軍に占領地どころか現在の領土すら奪われかねません。一刻も早く休戦調停に持ち込まねばならないでしょう」

 ガリア王国の首都リュティス郊外の宮殿、グラン・トロワ。その中に宰相の執務室はあった。

 そこでは、顔に青筋を浮かべてがなるアキテーヌ公爵と、彼の腹心であるアルマニャック元帥が疲れきった様子で椅子に腰掛けていた。
 腹心の提案に、アキテーヌ公爵は怒りをあらわにしながら反発した。

「ふざけるな! そんな愚策に出てみろ、わたしは世紀の大ばか者として後世の史家にあざ笑われてしまう!」
「この状況でそんな保身に走っている場合なのですか? 今のままでは、ガリアは建国以来最悪の汚名を被るかもしれぬのですぞ!」
「……」

 今まで、公爵の言いなりに等しい態度を続けてきたアルマニャック元帥が放った一言に、公爵は絶句してしまった。
 このときまで、アルマニャック元帥が彼の言葉に異を唱えたことなど、ただの一度もなかったのだ。そんな彼をして異論を唱えさせる―――状況が明らかに逼迫しているのは、明白だった。

 とそのとき、彼らの元へ息を切らせながら走りこんでくる者がいた。

「閣下、閣下! 大変です、陛下が摂政解任動議を了承したと……!」
「なに……!?」

 それは、現ガリア王がアキテーヌ公爵を更迭したという知らせだった。恐らくシャルル王子が、病床の父に公爵を解任するよう迫ったのだろう。そして国王はそれに同意し、サインしてしまった。
 ここにガリア摂政、ジャン・アラン・ド・アキテーヌはその任を解かれ、一介の貴族となったのだ。もう国政に対する影響力はない。

「卿。ラインラントを手に入れるという我々の夢は、もはや潰えたのです……」

 アキテーヌ公爵の肩に手を置き、アルマニャック元帥は彼を促す。それに、公爵はただ力なく首を縦に振るほかなかった。


 数日後。

 ガリアは突如として、ゲルマニア、クルデンホルフ両国に対して停戦協議に入ることを提案。両国はそれに同意し、トリステインも含め終戦に向けた協議に入った。
 条約の調印式はゲルマニア占領下のストラスブールで行われる。
 ガリア側からは王の代理として長兄ジョゼフと摂政代理のミッテラン外務卿らが、ゲルマニアからは大反攻作戦を立案、成功させたハルデンベルグ侯爵が、クルデンホルフからは大公が出席することとなった。トリステインはマザリーニ枢機卿が参加している。

 和平の条件として、ゲルマニアはアルザス地方全域と黒い森を擁するシュバルツバルト地方の割譲に多額の賠償金を要求。クルデンホルフは小額の賠償金と、ガリア北東部を軍備禁止地区とするよう要求した。
 交渉の結果、賠償金はかなり小額となったものの、ガリアは領土の一部を失い、北東部は無防備状態にすることを余儀なくされた。
 ガリア貴族の中では、このような事態を招いたアキテーヌ公爵を吊るし上げろ、という声も聞かれた。しかし結局はガリア王がそれを止めさせ、公爵は自領での謹慎処分に処される。公爵の元で北花壇騎士団を率いていたオレロン子爵が遺体で発見されたが、それは大した関心事とはならなかった。




 調印式の前日。
 クルデンホルフ大公は息子のヴェンツェルを連れて、大型馬車でストラスブール市街に入っていた。
 街はまるで戦勝したかのようなお祭り騒ぎとなっていた。長らくガリア支配下にあったこの町も元を正せばゲルマニア系国家のお膝元だったし、住民は今でもゲルマニア人が圧倒的に多いのである。

「ヴェンツェル。確かお前は、最初の頃にこの町にいたそうだな」

 車窓から歓喜にわく市街地を眺めながら、大公が息子に問う。

「はい。この町の人たちには随分とお世話になりました」

 まあ……、いきなり暴行を受けたり、ワラで寝る羽目になったり、ナタを持ったおっさんに追いかけられたり……と、嫌な思い出もあるにはあるが。
 そういえば、クリスやミハイル、ハインツ爺さんは元気だろうか。戦火に巻き込まれてはいないだろうか。そんなことを、ヴェンツェルは思った。

 国賓待遇の大公らは、町一番の旅館に陣取ることとなった。
 大公はいろいろと忙しいらしい。そこでヴェンツェルはモーリスを護衛に、まず『午後の一息』亭へ足を運ぶことにした。
 やがて店にたどり着く。そこで、彼は店のドアを開ける。果たして、そこには久方ぶりに会う少女の姿があった。彼女は、ヴェンツェルの姿を見るなり盆を手からすべり落とさせ、いきなり飛びついてきた。

「ヴェンツェル!」
「うおう!?」

 突然の出来事に、少年は対処することができない。そのまま後ろへ倒れこむかと思われたとき、誰かが彼らを支える。振り向くと、モーリスが腕を伸ばしていた。

「モーリス。ありがとう」
「いえ……」

 自分の体にかかる重みに、ヴェンツェルは少女へ顔を向けた。そこには、目に涙を浮かべながら彼の体へしがみつく―――クリスティナの姿があった。


「……なるほど。つまり、開戦前にいきなりミハイルさんがガリア兵に連れ去られてから、行方がわからないと」
「ああ。他の男たちはみんな帰ってきたのに、親父だけは…、帰ってこないんだ」

 そこで少年は最悪の事態を想像する。考えたくはないことだが、もしかしたら…。
 だが、クリスの父親以外の連れ去られた男はみな帰ってきているという。彼らに話を聞くと、収容所でミハイルと最後に会ったのは二週間ほど前が最後だという。
 これはいよいよきな臭い。
 クリスは泣きながらそのことを話した。ミハイルがいなくなってからはこの店で暮らしていたという。店を切り盛りする老夫婦、ハインツとミケーネが彼女の面倒を見ていたのだ。

「クリス。ミハイルさんは僕がかならず見つける。だから、君はここでまっていてくれ」
「でも……」
「今、この町は各国の重要人物が集まっているんだ。ところどころ警備が厳重な場所がある。だから、貴族が行ったほうが早いと思ってね。クルデンホルフの人間相手ならゲルマニア軍もむげには扱えないよ」

 ヴェンツェルは自分の考えをクリスに説明した。それを聞いた彼女は一瞬はっとしたような表情になるが、すぐに納得したように頷いた。

「……わかった。頼むよ。ヴェンツェル」
「ああ」

 少年はそう返事を返すと、黙ってそばに控えていたモーリスを引きつれ、店を後にした。



「……大見得切ったはいいけど、何のあてもないんだよなあ……」

 ゲルマニア国旗が掲げられた市内の中央広場。ヴェンツェルは、いつかのように頭を抱えてベンチに腰掛けていた。そばではモーリスが立ちながら辺りを警戒している。
 やがて、あまりに苦悩する姿を見かねたのか、モーリスはこんなことを提案した。

「ヴェンツェル様。なにも思い当たらないようでしたら、ガリア軍が捕虜を収容していた施設をあたってみてはどうでしょう? いまはゲルマニア軍が接収したはずですが、もしかしたら手違いでまだ収容されているかもしれません」
「おお、それはいい考えだな! よし、さっそく向かってみよう!」

 そう答え、彼らは旧ガリア軍の捕虜収容所へ向かった。

「なに? クルデンホルフの人間だと?」

 門番の中年親父は驚いた声を出しつつも、じろじろとヴェンツェルを上から下まで眺める。
 しかし、少年のマントに刺繍されたクルデンホルフの家紋は、ヴェンツェル自身の贅肉によって覆い隠され、彼の目には入らなかった。
 とりあえず貴族ではあるのだろうが、どこの誰かわからない子供を敷地内に入れることはできない。中年親父は首を振った。

「おじさんは忙しいんだ。遊びならあっちでやってくれ」
「貴様! ヴェンツェル様に向かってその口の利き方はなんだ!」

 ぞんざいな門番の態度に怒ったモーリスが、杖を取り出した。それを見たヴェンツェルは慌てて彼をたしなめる。そして、思い出したようにマントを脱ぎ、今まで隠れていた部分に刺繍された家紋を見せた。
 それを帳簿と照会した門番は何度かヴェンツェルと帳簿の間で視線を行き来させ、慌てて頭を下げる。それからすぐに彼らを収容所の中へ通した。

 収容所は四つのレンガ造りの建物で構成されているようであった。
 管理所で話を聞いてみると、つい先日までここには多数のストラスブールの住民が収容されていたが、現在ではほぼ全員が開放されているとのことだった。
 ただ、ミハイルという男だけは出所記録がない。これまでここを管理していたガリア人は追放されたので情報がなく、彼らも困惑しているところだったという。

 ヴェンツェルたちは彼らに許可を取り、収容所で捜索することにした。

「モーリス。彼らにもミハイルさんが見つけられなかったということは、もしかしたら普通の人間は知らない隠し牢獄のようなものがあるのかもしれない。地面の中を探索してはくれないか?」

 地面の土を指差しながら、ヴェンツェルはモーリスに頼んでみる。

「わかりました。やってみます」

 そう答えると、彼は皮の手袋を外してしゃがみ、地面に手を付けた。モーリスはあらゆる系統魔法を使いこなすスクウェアメイジである。土魔法も例外ではない。
 しばらく、彼はそのままの体勢で目を閉じていた。そして、呟いた。

「なんだこれは……、水の音……? 水道か」
「どうした? なにか見つかったのかい?」
「はい。どうやら、この地下に巨大な地下水道があるようです」
「こんなところにそんなものがあるのか。でも、どうやったらそこまで行けるんだろうな」

 ヴェンツェルは足で地面をとんとんと叩く。踏み固められているためか、それはやたらと固く、人力で穴を掘るのは到底無理なように思えた。

「ご心配なく。『錬金』で一定四方の土を砂に変えてしまえば……」

 モーリスはそう答え、杖を取り出して『錬金』を詠唱する。すると、さきほどまでヴェンツェルが足を置いていた箇所が砂に変化し、さらさらと下に向かって落ちていった。
 下を覗き込むと、真っ暗な穴が口を開けており、奥の方から水の流れる音が聞こえた。
 まずモーリスが先に穴の中へ入る。そして、危険がないのを確認してから、ヴェンツェルに合図。それを見たのち、少年は『レビテーション』で穴の中をゆっくりと下っていった。

「思ったより狭いな……」

 地下を流れる川。その脇の道なき道を、『ライト』で照らしながら二人は歩いていた。

「ヴェンツェルさま。かなり足元が濡れてきました。注意してください」

 少年を二メイルほど先行していた青年が注意を促した。ヴェンツェルは足元を確かめる。なるほど、地面が湿って滑りやすくなっているのがわかった。

「ああ、わかった」


 穴に入ってから、少し歩いた頃だろうか。二人の目の前に、古びた木製の階段が現れた。モーリスが調べると、それはかなり古い時代に『固定化』がかけられており、未だに効果が持続しているようだった。
 少し悩んだが、結局それを上ることにした。モーリスが再度『固定化』をかけ直して、二人は静かに、ゆっくりと上方に向かって続く階段を上がっていく。
 ある程度上ったところで、やはり古びた扉に突き当たった。だが、材質は鉄のようであり、今までと比べて明らかに様相が異なっている。モーリスはそれを『錬金』で砂に変えた。
 そこには……。

「み、ミハイルさん!?」

 鼻をつく腐臭。二人の目の前には、石の壁に鎖でつながれた、衰弱しきった様子のミハイルがいた。
 大声が聞こえたのか、彼はすっかり窪んだ眼を開いた。そこでヴェンツェルの姿を認めて、かすれた声を出す。

「ヴェ……、ヴェンツェル、か……。よくこんな場所がわかったな」
「喋っては駄目だ。脱水症状に陥っているな…。これは飲め」

 そこですかさず、モーリスが水の秘薬を持って彼に近づいた。
 最初は警戒したらしいミハイルも、ヴェンツェルが頷くのを見て秘薬を口にした。モーリスは『ヒーリング』をミハイルにかける。
 土のメイジ故に水メイジほどの効果は期待できないが、やらないよりはマシというものだ。

 やがてミハイルが寝息を立て始める。それを見届けると、モーリスが再び『錬金』を詠唱。すると天井に穴が開き、そこから夕焼けに染まる赤い空が見えた。

「いつの間にか、こんなに時間がたってたのか……」

 空を見上げながら、ヴェンツェルは呟いた。



 ミハイルを発見後、ヴェンツェルたちは彼をすぐに地元の診療所へ運び込んだ。
 そこを経営するのは水のラインメイジの老人だった。老医師は酷い姿で運び込まれたミハイルを見て驚き、慌てて『ヒーリング』をかける。話を聞くに、彼らは旧知の仲なのだそうだった。
 やがて、モーリスがクリスに連絡したらしい。どたばたと足音が聞こえたかと思うと、栗毛の少女が大慌ててで診療所へ飛び込んできた。

「親父!?」
「……ああ、クリスか。すまん、心配をかけたな。だが、大丈夫だ。ヴェンツェルや彼が助けてくれた」

 泣きじゃくるクリスの頭を撫でながら、ミハイルはどうしてああなったのか、その顛末を語りだした。
 彼は、収容所に収監された当初は大人しくガリア兵に従っていたという。
 しかしあるとき、些細な出来事からガリア兵といざこざを起こしてしまった。それが原因で、通常は隠されていて、魔法を使わないと出入りできない特殊な監獄に放り込まれてしまったという。

 しばらくしてゲルマニア軍がライン川西岸に到達したため、ガリア軍はミハイルを監獄に残したまま撤退。それからずっと、彼は狭く暗い監獄の中でただひたすら孤独と飢えに耐えていたのだという。
 それを聞かされたヴェンツェルは戦慄した。ちょうど数週間前、彼も父によってボミシュット要塞の地下室に閉じ込められたことがあったのだ。とても他人事とは思えなかった。
 しばらくミハイルはそのまま入院するという。もう遅いから帰れというので、ヴェンツェルは、モーリスやクリスと共に『午後の一息』亭へ向かうことにした。

「おお、ミハイルが見つかったか。よかったわい」

 さっそくクリスからミハイル生還を聞かされたハインツとミケーネはたいそう喜んだ。本人はいないが、ささやかなお祝いを開くからヴェンツェルも食事をとっていけという。
 モーリスは退出しようとしたが、年に似合わぬ怪力のハインツにあっという間に組み伏せられ、半ば強引に席へ座らせられた。仕方がないので、ヴェンツェルは自ら帰りが遅れるという報告を父へ行う。
 テーブルにはたくさんの美味しそうなじゃがいも料理が並べられている。子供たちはワインを飲まず、水で済ませることにした。
 やがて、泣き上戸のモーリスがなんやかんやと泣き出してしまったので、ヴェンツェルは一人、店の外に出る。
 辺りは相変わらず、お祭り騒ぎの喧騒に包まれていた。この寒いのによくやるなぁ、と少年は他人事のように呟いた。と、そのとき背後で扉の開く音がした。

「よう」

 振り向くと、そこには珍しくゆったりとしたスカートを穿くクリスティナがいた。なかなか洒落たデザインだ。これはミケーネのお古だという。

「ありがとうな。もし、今日お前が来てくれなかったら、親父がどうなっていたかわからないよ」
「ほとんどモーリスのおかげだよ。僕自身はなんの役にも立ってないから、礼なら彼に」
「いや。確かにあのモーリスっていう兄さんには感謝するけど、それとは別にお前にも、ありがとう、って言わせてくれ」

 そう言ったきり、クリスはそっぽを向いてしまう。なんなのかよくわからないが、彼女は恥ずかしがっているようだった。耳が赤くなっていた。

 その晩の馬鹿騒ぎは、結局翌朝まで続くのであった。



 *



 翌日。

 ついに、ストラスブール市街の中央広場で停戦条約の調印式が行われた。

 壇上でガリアのミッテラン外務卿が書類にサインしている。周囲は群衆が取り囲み、ゲルマニア兵がぴりぴりとした殺気を放っていた。
 続いて、ゲルマニアのハルデンベルグ公爵がサイン。最後に、クルデンホルフ大公がサインする。
 これによって、正式に三ヶ国は交戦状態を終結させた。壇上の脇では、半ば蚊帳の外にあるトリステイン宰相、マザリーニ枢機卿が調印の様子を眺めていた。

 式は終わり、各国の代表者らはそれぞれ帰国するため、準備を始めていた。
 式に参加せず、特になにもしなかったヴェンツェルは暇を持て余している。例によってモーリスが大公に呼ばれたため、彼の回りには誰もいないのだ。
 することもなくずっと街をぶらついていた。やがて、街の端っこにあるいつかの牧場へたどり着いた。と、彼の目に突然見慣れない色の髪が飛び込んできた。
 それは青い髪の美丈夫だった。彼は牧場の隅に置かれた藁束に腰掛けながら、ぼうっと風景を眺めている。

「太陽は黄色い。だが所詮それは、太陽が放つ光の都合のいい部分を、意図的に人間の目が取り出して認識しているにすぎん。おれたちが見ているものと違う、本当の太陽はどんな姿をしておるのだろうな。それがわからない。おれは真実が知りたいよ、少年」

 空を見上げたまま、そこに腰掛ける彼は言った。
 なんだ、こいつは。怪しすぎる。しかし、上物の服装や装飾品が目に入った。身なりからしてただの放蕩親父というわけではなさそうだ。一体、なに者なんだろう。まあ、それはどうでもいいか。さっさと適当に応えて逃げよう。

「え、ええ……。そうですね」
「ああ。おれにはなにもわからないんだ。無能と蔑まれ、王の代理を務めようとしてみれば“あんな無能に代理が務まるものか”と宮廷貴族に罵られる……。そんな男だからな」

 無能……? やけにその言葉がヴェンツェルの脳裏に引っかかった。それに、王の代理といえば……。

「あなたは、ガリアのジョゼフ王子ですか」
「ああ、そうだ。名もなき少年よ」

 そこで初めて、彼はこちらを振り向いた。
 青い頭髪に、美髯、整った顔立ち……。確かにそれは、ヴェンツェルが『前世』で目にした後のガリアの狂王、ジョゼフ一世だった。いや、この時点ではまだ王子だっただろうか。

「本当は独り言のつもりだったのだがな。そこへたまたま、きみという観客が現れた」
「申し訳ありません。盗み聞きするような真似は、したくなかったのですが」
「おお。いいのだ。いいのだよ、少年。おれはきみの存在に気づいておきながら、ああやって愚痴をこぼしたんだからな」

 手を横に広げながら、彼は大仰にそう言った。

「……しかし、ガリアの王代理ともあろうお方が、なぜこんなところに……」
「人間、誰とて一人になりたいときというのがあるだろう。おれはそれがちょうどこのときだったのだよ」

 そうやって話していると、遠くから大勢の人間がジョゼフを呼ぶ声が聞こえた。やはりというか、どうやら勝手に抜け出したらしい。

「おお、また面倒な連中が来た。それでは、おれは戻ることにするよ。少しだが、誰かに話を聞かせるというのもいいものだな。まあ、きみのようにおれとしがらみのない人間でなければ、まず無理だがな」

 それだけ言って、彼はこの場を去ろうとする。
 運命のいたずらか。突然お衝動。美丈夫の背中に向けて、ヴェンツェルが静かに告げた。

「もうすぐあなたの父上……、ガリア王が崩御します。そうしたら、すぐに王の執務室へ向かってください。そこに、あなたが望むものがあります」
「なに?」

 随分と不謹慎なことをいう小僧だなと、さすがのジョゼフでも感じた。もう一度、彼は少年の方を振り向く。

「ほう。面白いことを言うな。おれはきみと面識などないはずだが、きみはおれの望むものがわかるのか?」
「…あなたが僕の言葉をそのときまで覚えていて、その通りのことをすれば、おのずと答えはでます」

 目の前にたたずむ青髪の美丈夫の目を真っ直ぐに捉えたまま、臆することなくヴェンツェルは言う。その様子に、ほう、とジョゼフは息をついた。

「月目、か。面白い目だな。…いいだろう。覚えておいてやるよ、少年」

 そう言い残し、今度こそジョゼフはこの場を後にした。それをただ沈黙しながら、少年は見送った。



 *



 クルデンホルフ大公国へ続くなだらかな丘の道を、三台の馬車がゆっくりと進んでいく。そのうちの中型馬車の車内で、ヴェンツェルは一人、外を眺めていた。

「……さて、この先どうなるのか」

 彼は、ぽつりと呟いた。

 時系列的には、このあと今のガリア王が亡くなる。その直前にジョゼフが王となるよう言い渡されるのだ。
 今度ばかりは嫉妬染みた言葉を期待したジョゼフに対して、ついにシャルルは自分の心情を兄に明かすことがなかった。そして最後には、とうとう兄に弓で暗殺されてしまうのだが……。
 『土のルビー』に封じられた記憶が確かなら、シャルルは自分の父の執務室で人知れず鬱憤を晴らすはずだ。
 もし、その場にジョゼフさえ居合わせれば。後に続く惨劇はこの世界には存在しえないものとなるかもしれない。

 ヴェンツェルにとって、ガリアの内情がどうなろうとなんの意味も持たない。
 だが、彼は知っている。本来ならば知りえない情報を知っているのだ。ならば、目の前に可能性があるならば、目をそらさずに向き合うのが自分の役割だろう。

 今の彼はこのハルケギニアに生きる一介の人間だ。たまたま生まれ変わる前の記憶があっただけで、人間としては他者と変わらない存在である。

「……タバサ、いや。シャルロットか。彼女はどうなるんだろうなあ……」

 空に浮かぶ二つの月を眺めつつ、少年はそんなことを呟いた。






[17375] 第十九話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/09/01 23:30
 講和条約の調印式から数日が過ぎた。

 その頃、ワロン公爵を筆頭とする親ガリア派の貴族たちは、一人、また一人と宮廷から脱落していった。
 前回の戦争時に自国内部に巣くう他国従属勢力の大きさに驚き、体制の刷新を行うことを目指したトリステイン王によって、訴追を命じられたマザリーニ枢機卿が次々と貴族たちの不正疑惑を追及し始めたからだ。
 しかし、財務卿のリッシュモンは元親ガリア派でありながら、マザリーニ枢機卿の猛烈な追及を上手くかわしていた。
 彼は政治的なことに関しては異様に鼻が利くのだ。その抜群の“空気を読む”嗅覚を持ってして潜り抜けた危機は数知れない。
 自らの友人であるワロン公爵がガリアに国家の機密情報を流していたことが発覚し、領地の大幅縮小、謹慎処分となったときも、リッシュモンは巧みな隠蔽工作で問題が自分に波及することは阻止できた。

 ……だがそんな彼も、いずれは老いと慢心によってその身を滅ぼすことになるのである。


 もう北風が肌寒い季節となっていた。しかし、雲一つない晴天だった為か、降り注ぐ太陽の光でぽかぽかと暖かい陽気の日だった。

 アリスは母親のサリアと共に、物干し場で洗濯物を干していた。こなれた仕草で服を物干しにかけていく。そんな様子を横目で眺めながら、サリアは小さく微笑んだ。
 一時期はどうなるかと思ったが、自分の娘はこうして帰って来ている。あの馬鹿でスケベな出来損ないごときに巻き込まれて、優秀な娘が失われてしまっては本末転倒だ。
 この間、アリスが出来損ないを痩せさせる為にサウナに入れたところ、不具合で鍵が開かなくなってしまったという。それを大公の嫁はアリスのせいにして散々怒鳴りつけたそうだ。
 許しがたいことである。そもそも、あの出来損ないがスリムな体型ならばなんの問題もなかったのだ。悪いのはあの子供だ。

 サリアは昔からヴェンツェルが大嫌いだった。
 あんな凡夫が次期クルデンホルフ大公になる。信じられないことである。
 そんな愚策に走るくらいなら、どこか良家から婿を迎えて家を継がせた方がよほどいい。幸いなことにクルデンホルフにはもう一人の嫡流の子、ベアトリスがいるのだから。
 彼女はそう思案する。しかしながら、そんなことは到底一介の平民が意見出来ることではない。さすがにそれくらいはわかっていた。

 二人が洗濯物を干し終えると、そこへヴェンツェルが現れる。サリアは露骨に嫌な顔をするが、彼はそれに構わない。彼女に煙たがられるのは昔からの話なのだ。

「アリス。ちょっと話があるから、一緒に来てくれないか」

 肥えた少年はゆっくりと手招きをしながら言う。そして、それにアリスは何か答えようとするが、そこですかさずサリアがその発言を遮った。

「ヴェンツェルさま。アリスはこれから仕事があります。残念ながら、あなたのお遊びに付き合っている暇はありません」
「むっ……」

 にべもない言い方に、これにはさすがのヴェンツェルも眉をしかめた。

「じゃあ、それは誰か他の人に変わって貰えないか。悪いけど、アリスにしか頼めないことなんだよ」

 “アリスにしか”という部分で、自分の隣に立つ娘がぴくりと動いたのを感じる。
 なんだかんだ言って、情けない男に尽くして(?)しまう性分がある母娘である。なんとなくアリスの心情はわかる。わかってしまう。だが、だからこそ。

「残念ながら、どこかの誰かのせいでメイドたちが大挙して辞めてしまいまして。現在、メイドは人手不足もいいところなのです。新しく入った者はまだまだ使い物にはなりません」
「うっ……」

 前回のメイドの大量逃亡はヴェンツェルが追放される直前であった。実は追放措置の遠因がそれだとも噂されている。まあ、それは実際に噂でしかなかったのだが。
 それから新しく雇い直したメイドたちは、もう自力で十分に仕事ができるほどにはなっているのだが、サリアはあえてそれを隠した。余計な事は伏せるが勝ちである。

「そういうわけです。お戯れはお一人でどうぞ。アリス、行きますよ」
「え……、でも」

 サリアは有無を言わさずに何か言いたそうな娘をずるずると引きずっていく。その光景を、少年はただ呆然と眺めるしかなかった。


「はぁ……、どうするかな。魔法を習いたかったのになぁ」

 中庭でお茶を飲みつつ、ヴェンツェルはため息をつきながらぼやく。

 彼は今後のことを考え、なるべく魔法の鍛練を積もうと考えたのである。
 しかしながら、参考書の類を読みながら自分一人で頑張っても、なんら成果が上がらないのだ。やはり実際に、誰か実力者に直接見てもらう必要があった。
 目で見てもらえば、アドバイスをもらうことが出来るからだ。

 最初はモーリスに頼むことを考えたが、彼は彼で忙しくなってしまったらしく、最近は大公国の北部にいることが多い。
 帰還を始めたはずのゲルマニア難民の一部が匪賊化してしまったために、彼がそれらを討伐しているのだ。
 大公は当然ながら忙しい。ならばと向かったアリスの元だったが、サリアに出張られてしまい、取りつく島もない。もはや八方塞がり。四面楚歌である。


「どうしたの?」

 すると、小さい状態のヘスティアを膝に乗せた大公妃がそんな息子の様子を見かねたのか、尋ねてくる。
 お互いに気が合うらしく、最近は二人がで一緒にいることが多い。
 膝の上の童女は目の前の少年へ視線を向けつつ、大きなビスケットを貪っていた。ぼろぼろとカスが落ちる。どうにも、彼女は火石がないと見た目だけでなく思考も若干幼くなるらしい。

「いえ、魔法の練習はしているのですが…。それが思うようにいかないのです。誰かに見てもらいたかったのですが、みんな駄目なようで」
「あら。なら、わたしが見てあげましょうか?」
「え?」

 大きくも小さくもない、中程度の形の良い胸を張りながら、大公妃は言った。ヴェンツェルはその意味がいまいちわからないらしい。困惑の表情を浮かべたまま、しばし硬直する。

「あ、もしかしてわたしが土のスクウェアだってこと、忘れてた?」

 そういえばそうである。大公妃が滅多に魔法を使う様子を見なかったから、すっかり失念していたのだった。
 なんとなく信じがたい。モーリスが土のスクウェアというのは簡単に納得できるが、彼女がと言われると…。見栄や嘘ではないのだろうが。

「あ、いえ。まさかそんなことは……」
「そうよねぇ。もし万が一忘れてたのなら罰として食べちゃおうと思ってたけど、残念ね」

 食べる? 人間の肉を食べたら共食いじゃない。というヘスティアに、大公妃は首を振って、童女の耳にそっと口を近づけた。どうやら、なにか言っているようだった。
 ……もしかして、ヘスティアに下ネタを吹き込んでいるのは母上なのだろうか。なるほどといった様子で頷く童女を見て、ヴェンツェルは背中に嫌な汗をかいた。

「とにかく。せっかくだからわたしが見てあげるわ。後で鍛練場に来てね」
「は、はい……」

 とびきりの笑顔で大公妃は言う。だが、有無を言わせぬ圧力のある口調に、少年はただ素直に頷く他なかった。



「さて、まずは初歩。『ファイアー・ボール』を唱えてみましょうか」

 城の裏手にある鍛練場。そこに、いつものように半袖短パンのヴェンツェルと、空中装甲騎士団の制服を着た大公妃がいる。「まずは形からやらないとね」と彼女は言うのだが、男性物を無理やり着ているせいで、かなりだぼだぼになってしまっている。
 胸元がかなり際どいところまで露出していた。なんでわざわざ……。と思わないこともない。

 だがそんな思考は振り払って、彼は頷き、杖を取り出した。千年樹の枝を惜しみもなく使ってリュティスの一流職人が作り上げたそれは、なかなかに値の張る代物である。
 なんでも、一本で庭付きの大きな屋敷が建てられるほどだとか。さすがにぼったくりではないか。

 少年は『ファイアー・ボール』を詠唱。しかし、杖の先にはなんら変化が起きない。ただ、沈黙を守るだけだ。大公妃は残念そうに首を傾げた。

「『火』の魔法は駄目なのね」

 ヴェンツェルは『水』『風』『土』のドット・スペルを順番に試してみるが、どれも失敗。それを見た大公妃は、またしても首を傾げた。さらさらの長い髪が、流れるように左右へ揺れる。

「おかしいわねぇ。でも、コモン・マジックや『フライ』、『レビテーション』は使えるでしょう」
「使つんだけどなぁ……」

 ただ、『フライ』は三十サントしか浮くことができない。『ライト』はせいぜいが十数メートル程度先が見えるくらいだろうか。

「それすら、『スカートをめくりたい』なんてよこしまな気持ちでようやく出来るようになったのよねぇ」
「うっ……」
「まあ、頑張ってみましょう。大丈夫よ。あなたはわたしの子供なんだもの!」 

 大公妃は落ち込むヴェンツェルへ近づき、その手を取って彼を慰める。白く、暖かい華奢な手だった。



 *



 サリアのくびきから強引に脱したアリスは、ヴェンツェルがいるという鍛練場の入り口へやってきた。結局、用事というものがなんなのかわからなかったからである。
 ところが、そこには既に先客がいる。濃い色の金髪を二つくくりにした少女、ベアトリスだった。彼女は一生懸命なにかを聞いているようである。

「……なにをされているんですか、お嬢さま」

 アリスが後ろからそうやって声をかけると、ベアトリスはいきなり飛び上がった。比喩でもなんでもなく、本当に飛び上がったのである。
 そして慌てて振り向き、怪訝な表情を浮かべるアリスを一睨みすると、口の前で「しーっ!」と人差し指を立てた。

「ちょっと黙ってなさい」

 言いつつ、ベアトリスは手を耳の辺りでアンテナのように丸めて、なにかの音を必死に聞こうとしているようだった。
 そんな様子を見たアリスは、一体なにが聞こえるのか気になった。そこで、自身も風の魔法で聴力を大幅に強化してみる。
 すると……。

「……ふぅ、ぐっ、あ……、は、母上。これは……これはいくらなんでも……」
「ふふ。あらあら、こんなに真っ直ぐ、固くしちゃって……。出したらだめよ? 男の子なんだから、もっと我慢しないと……」

 なにやら苦悶するヴェンツェルと、妖しげな大公妃の声がアリスの耳に届く。それと共に、ぴちゃ、ぴちゃ、という液体の音が鳴った。

 ―――なんだ。これはなんだ。何をしているんだ。アリスの頭の中で、どんどんとよからぬ妄想が渦を巻きだした。顔に血が上って熱を持つのがわかる。どうしてどうして、彼女はませているのだった。

 とうとうたまらず、ベアトリスを押し退けて鍛練場に飛び込んだ。

「な、なな、なにをしてるんですかっ!?」

「うん?」
「アリス?」

 そこでアリスの目に飛び込んできたのは、身体中に鉄の重りを付け、水が一杯まで入ったバケツを両腕で持って、腕が真っ直ぐに伸びきったヴェンツェルと、それを眺める大公妃の姿だった。
 バケツの水が腕の震えによって微妙に揺れている。妙な音はそれが原因のようだった。

 急に大きな声を聞いてとうとう緊張の糸が切れたのか。少年は、両手のバケツを手放してしまった。バシャ、という音がして中の水がして、地面に透明な液体が流れ出る。なにを隠そう、ただの水である。

「あら、出しちゃだめって言ったのに……」

 頬に手を添えて、目を細めながら大公妃は吐息混じりに言った。それを見て、アリスは先ほどとは違う意味で頭に血が上るのを感じる。

「な、な、なにをしているんですか!!」
「なにって……、トレーニングよ。どうしても系統魔法が使えないなら、体力くらいはつけておかないとねぇ。それとも、あなたはなにか別のことを想像したのかしら?」
「うぐっ……」

 まさに図星を突かれてしまい、アリスは耳まで真っ赤にして下を向いてしまった。

「いやらしい子ねぇ。まるで、あのアルビオン流れのメイドみたい」
「……!」

 この発言に、アリスはその大きな瞳を細めた。いくら大公妃でも、さすがに自分の母親を非難されたのでは気分を害するというものだ。
 その瞳は大公妃を真っ直ぐに捉え、まさに威嚇するような光を放っている。それに負けじと大公妃もアリスを睨み付けた。
 見れば、両者とも完全に女の目である。まるで背景に龍と虎が浮かび上がるような、そんな雰囲気を醸し出している。

 なんだこれは。今の状況はわけがわからない。あの二人の仲が悪いのは周知の事実だが、この時ばかりは少々様子が異なっていた。

「……アリス。あなたとは、一度魔法で語り合う必要がありそうね」
「ええ。わたしも同感です」

 不思議な同調を見せながら、二人は仁王立ち。そして、お互いに杖(短剣)を構える。その場にはぴりぴりとした緊張の空気が漂っていた。

 そして、鍛練場の入り口でその異様な光景をただ唖然とした表情で見守っていたベアトリスは、ただ一言呟いた。

「なにこれ?」









 ●第十九話「無能と禁忌」









 さて場面は切り替わり、ここはクルデンホルフの城下町。その郊外にある林である。

 ヴェンツェルはいきなり意味不明な決闘を始めた二人を放置し、単身この場所まで逃げてきたのだ。あの場にずっと居続けていたら、今頃巻き込まれて大怪我、もしくは命を落とすかしていただろう。

「なんだかなぁ」

 曲がりくねった獣道を歩きながら、少年はため息をついた。
 水バケツのせいで両腕は痛いし、鉄の重りは依然として彼の体にまとわりついたままだ。『錬金』で生み出された物なのだが、まだまだ元に戻る気配はない。
 こんな姿で街に出れば悪ガキどもの格好の的になってしまう。それは困る。

 しかたがないのでしばらく枯葉の上で寝転んでいると、やがて鉄の重りが元の土くれに戻る。これ幸いとばかりに、ヴェンツェルは街へ向かって歩き出した。

 クルデンホルフの城下町はハルケギニアでもっとも進んだインフラを持つ町として有名である。まあそれもそのはずで、そういう噂を先代の大公が一生懸命流していたからだ。
 ヴェンツェルの祖父は異常なほどに優秀だったが、自己顕示欲も半端なく旺盛だったのである。
 市街地は完全な計画性を持って整然と区画整備されており、市街の中央部にそびえ立つクルデンホルフ城から四方に伸びた横幅十メイルの『十字道』が街の端まで続いている。
 ただ、それは市街地から出るととたんに狭くなってしまうのだが。道の両脇には、様々な商店や宿屋が並んでいる。どの建物もりっぱな石造りであった。

 市街地を東側に出ると、やや整合性に欠ける新市街が存在する。
 一時期の爆発的な人口増で町の外周にスラム街が形成されかけたとき、先代の大公がバラック小屋を無理やり排除して移民向けの簡素な住宅を建設したのである。
 昔はいろいろな国からやってきた流れ者が多かったのだが、今ではそういった身元の定かでない怪しい人間は追放されている。

 それから、彼は『十字道』の南側、商店が軒を連ねる街角へとやってきた。この道はちょうど真ん中に街路樹が植えられ、ベンチが一定の間隔で配置されている。
 そこでは買い物客らしい親子連れが座ってのんびりとくつろいでいた。
 妙な芸を披露して、観衆が投げるコインを集める大道芸人が目に入る。ナイフを何個か投げて、それを手でくるくると回しているのだ。端から見ていると実に危なっかしい。

 しばらくそれを眺めていたが、やがて飽きたので、彼はその辺の商店に入って暇を潰すことにした。
 見ると、ちょうど目の前に綺麗な外装の真新しい武器屋がある。なんとなく興味を引かれて、店内へと足を踏み入れた。

 最近開業したというこの店は、店主が気のいい青年だった。

 なんとなく話を聞いてみる。彼は鍛冶屋の長男として生まれたのが、あまり才能に恵まれなかった。だから優れた腕を持つ弟に家業を譲り、自分は弟の作った製品を街で売っていたのだという。
 それが思いのほか好評だった故に、こうして武器商店を開けるほどになったのだと、青年は言った。
 せっかくなので、ヴェンツェルは彼の店で人気商品となっている折りたたみ式ナイフの最上級版を購入してみる。それはゲルマニア産の良質な鉄を刃に使用していて、切れ味は抜群だという。
 なるほど確かに、店主が手にしたそれは銀色に輝き、レンガですら簡単に真っ二つにしてしまった。さらに、『固定化』がかけられている為、当分は錆びることもない。
 少年は懐から大量のエキュー金貨を取り出して青年に手渡した。それを見た彼はちょっと驚いたようだったが、素直にそれを受け取る。

 いい物を買ったな、とほくほく顔の少年が店を出ようとしたとき、唐突に金属のこすれるようなだみ声が鳴り響いた。

「お! おめぇ、いつかのデブじゃねぇか!」

 その声に、少年は驚いた表情になって、そちらへ顔を向ける。果たしてそこには、いつかトリスタニアで目にしたインテリジェンスソード、デルフリンガーが陳列されていた。
 その上の壁には『特価品』という記載がされている。値段を見てみると……。
 悲しいかな、始祖が使い魔ガンダールヴが手にしたという“伝説の剣”の名誉の為に、それを文章とするわけにはいかないのである。

「ああ、それは……。父の知り合いが経営していた武器屋が潰れてしまいましてね。二束三文みたいなお金でうちが引き取ったんですよ……。興味はありますか?」

 デルフに近づく少年の姿を見て、店主の青年が言った。ピエモンの秘薬屋のそばにある名もなき武器屋。あれ廃業してしまったのか……。と、少年はちょっと物悲しい気持ちになった。
 高いナイフを買ってくれたので、欲しいならただでくれると青年は言う。しかし…。『使い手』でもないメイジの自分が、こんな長剣を持つことに意味があるのだろうか。
 しばらく悩んだが、せっかくの機会だからとヴェンツェルはデルフリンガーを『引き取る』ことにした。それを聞いたときの青年の顔は、安堵したようなとても安心しきった表情だった。

「というわけで自己紹介だ。俺様はデルフリンガー。詳しいことは忘れたが、たぶん超すげぇ剣だ。よろしく頼むぜ」
「よろしく。僕はヴェンツェル」
「まあ、お前さんみたいなオーク鬼の子供みたいなのは『相棒』にはなれねぇけどよ。俺様の子分にしてやるぜ」

 ……なんだか、伝説にしたってずいぶんと態度のでかい剣だなあ、と少年は思った。彼がガンダールヴでないからだろうか。

「ママぁ。剣がしゃべってる」
「しっ! あんな不細工見ちゃいけません!」

 随分とかわいらしい幼女の声が聞こえた。
 デルフリンガーを指差している。と思うと即座に母親がやってきて、なぜかヴェンツェルを睨みながらさっさとどこかへ行ってしまった。とても美人な女性ではあるが、性格はかなり悪そうだった。
 実のところ彼女は、かつて城に勤めていたメイドの一人だったのだが……。

「子分一号よぉ。お前さんってあれだな」
「……あれ、ってなんだよ。はっきり言えよ」
「さあね。あー、マイクが壊れた。もうしゃべれない」

 そう言ったきり、デルフリンガーは沈黙してしまった。このやろう、マイクなんかどこにもないじゃないかとヴェンツェルは思ったが、もうなんだか諦めて城へ帰ることにした。


「ばうっ! ばうっ!」
「ぎゃあああああああ!!!!」

 少年が城へ帰った途端、檻を食いちぎって脱走していたオルトロスが彼に飛びかかった。幻獣に体を圧迫され、情けない悲鳴が上がる。
 とそのとき、唐突にオルトロスの体が宙に浮いた。誰かが『レビテーション』を唱えたようだった。舐めまわされてべとべとになった顔をシャツでぬぐっていると、まだ幼い少女の声が聞こえた。

「情けないですわね。お兄さま」

 その声の主は、得意げに杖を手にしたベアトリスだった。いまの魔法は彼女が唱えたらしい。

「ベアトリス……、魔法が使えるようになったのか」
「ええ。いずれは両親のようなスクウェアメイジになるわ。『凡夫』のお兄さまと違って」

 凡夫とは酷い。せいぜい無能くらいにしてくれないと……、と言いかけてやめる。

 魔法を自慢したかっただけなのか、彼女はさっさと帰ってしまった。あとにはヴェンツェルとオルトロスだけが残される。そして、またもや少年は怪物に追いかけられだした。



 翌日。

 結局、アリスと大公妃の決闘騒ぎは、慌ててその場に駆けつけた大公によって二人が諌められたらしい。
 いつの間にかヴェンツェルのベッドに潜り込んでいたヘスティアがそう告げた。最近は大公妃と一緒に寝ることが多いのだが、昨夜の母はやたらと不機嫌で怖かったらしい。
 だが、そんなことを深夜まで逃げ回っていた少年が知るはずもない。例によって、オルトロスは散々走り回ったあと、いきなり大人しくなって城へ帰りだすのだ。
 もしかしたら、オルトロスにとってヴェンツェルを追いかけるあの一連の所業は、散歩をしているつもりなのかもしれない。

 朝食の席は珍しくヴェンツェル一人しかいなかった。大公は書類仕事があまりに忙しいらしく、ベアトリスは護衛を伴って朝からどこかへ飛び出し、大公妃は部屋から出てこないという。
 ヘスティアはアリスらと共に使用人食堂で食事をとっている。召使いはいるが、ずっと遠くの壁際に控えている。つまり、この場にいるのは実質的に彼一人なのだ。
 かちゃかちゃ、と食器の当たる音だけが静かな密室に響いていく。なんだか『昔』を思い出して、少年は一流シェフが作る美味しいはずの食事を満足に楽しめなかった。

 昼過ぎであろうか。突然、大公から呼び出しがかかった。ヴェンツェルは執事に連れられ、父の書斎へ向かう。

「旦那様。坊ちゃまをお連れしました」
「うむ。ご苦労」

 そこで執事は一礼すると、静かに部屋を後にした。

 大きな樫の木を切り抜いて作られた大公のデスクは大変に立派なものだ。かなりの大きさである。そう、椅子を入れる空間に人間が一人ほど入るくらいには。

「ヴェンツェル。お前は確か、ラ・ヴァリエールへ訪問したいのだったな。先方と相談したところ、公爵はお前の訪問を快諾してくれたよ。さっそくだが、公爵領へ向かいなさい」

 威厳のある大公の言葉。とうとうこのときがきたか。と、少年は拳を握り締める。

「あいにく私は多忙故に同行できないが、召使いは何人かつけよう。アリスも連れて行くといい」
「はい。わかりました」
「うむ。旅の安全を願うよ」

 微笑みながら大公は言う。それは優しげな父親の顔だった。上半身だけなら、彼はハルケギニア屈指の『いいお父さん』だろう。しかし。

「ありがとうございます。あ、ちょっとアドバイスですが、今度からは軽く『サイレント』をかけたほうがいいですよ。さっきから音が駄々漏れなので」
「なに!?」

 慌てた様子で、しかし机の椅子から立つことのできない大公は必死の形相で杖を探していた。

 まったく、いくら激務で疲れているからといってあれはないだろう。どうしようもない人だ。と思いながら顔を歪めたヴェンツェルは、書斎を早足に出て行った。



 *



 数日の後。

 馬車はゆっくりと、トリステイン東部の丘陵地帯を北に向かって進んでいた。やがて、目の前に小さな川が現れる。これを越えるとラ・ヴァリエールの領地なのである。

 しばらくすると、先方から案内の馬車がやってきた。その後に続いて、クルデンホルフが所有する二台の馬車が車輪を回しながら走る。

「しっかしよう、おでれーた。子分一号はとんでもねぇ金持ちなんだな」

 ヴェンツェルが馬車の中から外を眺めていると、窓際に立てかけられたデルフリンガーがかたかたと音を立てる。

「僕じゃなくて、実家が金持ちなんだよ」
「そんでもよ、いずれはぜーんぶお前さんの物なんだべさ? いやぁ、今までろくでもねぇ奴らにばっかりこき使われてたからね。俺は嬉しいよ」
「……そうか」

 デルフリンガー。六千年もの間、彼は一体どこにいたのだろうか。それによくまあ、あんなに口が悪くてやかましいのに溶かされなかったものだ。
 ヴェンツェルの向かいの席では、アリスがしゃべる剣、デルフリンガーを気味悪そうにして見ている。

「お嬢ちゃん。そんなに俺を見つめてどうしたんだい? 惚れちゃあこまる。俺は剣、お前さんは人間。俺はよ、ハッピーがいいんだ。絶対に結ばれることのない悲しいラヴ・ストーリーなんて勘弁なんだぜ」

 本当によくしゃべる剣である。アリスがさらに嫌そうな顔をした。

 ちなみに、ヘスティアはクルデンホルフで留守番をしている。
 大公妃がどうも部屋から出てこないと思ったら、風邪を引いてしまっていたらしく彼女に付き添っているのだ。本当、いつの間にそんなに仲良くなったのだろうか。

 やがて、馬車はラ・ヴァリエールの館へとたどり着いた。

 公爵は急用で不在だという。もうすぐアルビオン王子との籍入れが近いからだろうか。そんな状況で訪問を受け入れてくれたのには頭が上がらない。
 ヴェンツェルを出迎えたのはカリーヌ公爵夫人であった。挨拶を交わして少年は応接間に向かう。
 表向き、この訪問は新興国の次期当主が、歴史ある公爵家と良好な関係を結びたいから、という理由で通されている。だから、二台目の馬車にはこれでもかと貢物、もといお土産が積まれていた。

 なんとかカリーヌ相手にさまざまな話で状況を切り抜け、少年は自らにあてがわれた客間へとむかっていた。
 カリーヌ夫人、やはり油断ならない人物である。ヴェンツェルの真意が単なる親善訪問でないことなど、とっくに見抜いているようであった。だがなぜか、彼女はそれ以上は追及してこなかった。


 夕刻。

 屋敷の中がにわかに騒がしくなっていた。通りがかりのメイドを捕まえて尋ねてみると、どうやら三女ルイズが二番目の姉に魔法の不出来を叱られ、どこかへ消えてしまったというのである。
 二番目の姉―――この時点で彼は気づくべきだった。だが、このときの彼はそれを完全に見落としていたのだ。

 ところが、もしやと彼は気づかなくてもいいことは思い出した。
 ヴェンツェルは、とある場所の位置をメイドに訊いてみる。なんでこいつがそんなのを知っているんだ、という顔をされるが、相手は貴族だ。すぐに答えてくれる。 
 そして、その情報を元に、外に行くなら俺も連れて行けとうるさいデルフリンガーを持って、肉を揺らしながら屋敷の外へと駆けていった。

「坊ちゃま……?」

 その様子は、使用人室で荷物を整理していたアリスにも見えた。一体どうしたのだろうか。自分も、ちょっと見に行ってみようか。そう考え、彼女はドアを開けて廊下へ飛び出した。

「きゃっ!?」

 と、そのときである。アリスはなにか柔らかい物体に顔がめり込むのを感じた。慌てて後ずさると、そこには美しいブロンドの髪の女性が立っていた。どうやらラ・ヴァリエールの人間であるようだった。
 貴族だ。これはまずい。

「も、申し訳ございません。お怪我はありませんか?」
「ええ。大丈夫よ、心配しないで。……でね。それより、一つ聞かせて?」
「はい?」

 なんだろう。この女性とアリスには当然ながら面識などない。それに、貴族のくせにやけにフレンドリーな物言いだ。

「あなた、メイジよね。それに、ヴェンツェルくんの従者だとか?」
「あ……? え、はい。そうですが……」

 どうして、この人はそんなことを知っているのだろうか。そう考える暇もなかった。それに、目の前の女性の放つ柔らかい、害意を感じさせない雰囲気に呑まれていた。

「ふふ……、じゃあ……お願いがあるの。『ヴェンツェルを抹殺しなさい』」

 そう『禁呪』をアリスへ向かってかける女性―――カトレアの眼は赤く染まっていた。まるで、鮮血のような、鮮やかさで。

 そして、薄紫の髪を伸ばした少女の大きく青い瞳は、やがて光彩を失っていった……。






[17375] 第二十話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/09/01 23:31
 ラ・ヴァリエールの屋敷内には、小さな池があった。誰からも忘れ去られたその場所は、魔法の不出来で叱られたルイズがこっそりと隠れるにはうってつけの場所だ。
 今日もルイズは姉に叱られたことが原因で、この池に浮かぶ小船の中に身を伏せて泣いていた。
 昔はワルド家のジャン・ジャックが彼女を連れ戻しに来たりもしたが、今ではもう彼が来ることはない。だから、ルイズは自分の中で気持ちが落ち着いたら、こっそりと屋敷へ戻るのである。

 だが、そのときは少々様子が違っていた。

 今回ルイズを叱ったのは長姉のエレオノールではない。次女のカトレアだった。
 クルデンホルフ家の長男がやってくる日になって急に姉はルイズを呼び出し、魔法の練習を見てやると言い出したのだ。
 珍しい所の話ではない。ここ数年のカトレアが自分を意図的に避けていることくらい、ルイズにだってわかっていたのだ。

 しかし、久しぶりに姉に相手をしてもらえるルイズの心は弾んだ。毎日のように姉の元を訪れても、なにかの理由を付けられては煙に巻かれていたのに、やっとまともに声をかけてくれた。
 嬉しい。どうせ爆発しか起こせないだろうけど、せっかくだから頑張ってみよう。彼女は張り切って中庭に出て行った。

 だが、そこでルイズの失敗魔法を見たカトレアの反応は、とても冷ややかなものだった。

「だめね。全然、だめ。あなたってやっぱり才能の欠片もないわ。二つ名は『ゼロ』で決定ね」

 酷く辛らつな言葉だった。信じられない。ちぃ姉さまがそんな言葉を口にするなんて…。ルイズは唖然としたまま、カトレアの顔を見た。だが、彼女の冷たい瞳にはなんの感情も伺えない。

「ちぃ……、姉さま?」
「はは、ルイズ。『ゼロ』のルイズ。いつもいつもちょこちょこまとわりついてきて目障りなルイズ。でも、利用価値がないわけじゃないのよね。せっかくだし、あなたにはせいぜいわたしのおもちゃになってもらうわ。ふふ……」

 そういって、カトレアはルイズの瞳をじっくりと見つめた。一瞬、震え上がるように猛烈な寒気に襲われ、気がついたときには、ルイズはその場から逃げ出していた。


 池の周囲には召使いも近寄らない。故に、辺りは不気味なほどの静けさに満ちていた。
 だが、唐突に木の葉を踏みしめるような音がする。もしかして、ちぃ姉さまなのだろうか。ルイズは嬉しいような、怖いような、なんともいえない気持ちになった。しかし。

「なぁ、子分一号。こんなところになにがいるってんだよ? 魚でも釣るのか?」
「いや。そうじゃない」

 誰だろう……。聞いた覚えのない声だ。一人は男の子の声であることはわかるのだが……。なんでこんなところに。
 もしや、今日来ているというクルデンホルフの長子だろうか。ならば、問いたださなくては。彼は姉の豹変についてなにか知っているかもしれない。
 ルイズは、目の淵に浮かんだ涙をごしごしと拭って、古びた小船から立ち上がった。そして、目の前に立つ少年の姿を見たとき。彼女はいきなり、その辺に転がっていた木の棒で、肥えた少年に殴りかかった。


「うわっ!?」

 突然の出来事に、少年―――ヴェンツェルの悲鳴が鳴り響く。彼の目の前では、桃色の長いブロンド髪の少女が手にした木の棒を振り回していた。その鳶色の瞳は光彩を失い、虚ろな闇に支配されている。

「で、デルフ! なんとかならないのか!」
「襲いかかって来てるんだから、切っちまえばいいだろうよ」

 駄目だ。
 いくら自分が襲われているからといって……。ルイズは公爵令嬢だ。そんな真似はできない。
 仕方なく、必死の形相で木の棒を避けていく。少年の身長よりも長いデルフリンガーはあきらかに重荷になっていたが、それを使って木の棒を防いだ。

「あれは目が死んでるな。心を惑わす魔法か」
「……そうか」

 ヴェンツェルには、その魔法に思い当たる節があった。
 そう、カトレアの使う『ギアス』だ。対象者の精神に干渉して暗示をかける。一定の条件を付加することで、特定の条件化何らかの動作を起こさせる……。禁呪中の禁呪である。
 もしかしたら。それをルイズにかけて、この小池へ向かわせる。原作知識を元にヴェンツェルが現れたら奇襲を行わせ、あわよくば首を取らせる……。
 同じ知識持ちだからこそ仕組める狡猾な手段だ。だが、成功しない可能性の方が高かっただろうに……。それに、ルイズにそんなことをやらせるとは一体なにを考えているのか。

 木の棒をぶんぶんと振りかぶってくるルイズの動きは単調なものだ。しかし、体重・体力面で大きなハンデを抱えるヴェンツェルにはあまり余裕がない。
 とうとう、木の棒が彼の鼻先をかすめた。少年はどんと地面へしりもちをついてしまう。
 そのとき、彼の懐から数日前に購入した折りたたみ式ナイフが転げ落ちた。まずい。あれがルイズの手に渡ってしまったら……。
 デルフリンガーを突き出すが、桃色ブロンドの少女はそれをいとも容易くかわしてしまう。そしてナイフを奪われてしまった。
 しゃきん、と小気味良い音を立てて、ナイフの刃が現れる。店で見たときは「よく切れるな」と思ったものだが、今この状況ではそれは大いなる脅威でしかない。

「子分一号、俺を使え。鞘を付けたままなら、あの嬢ちゃんにもそれほど危険はねえ」
「……それしかないか」

 やむを得ない。痛いかも知れないが、デルフでルイズをぶっ叩いて気絶してもらうしかない。そう考え、彼はデルフリンガーを構えた。そして、目の前の少女に向かって突進していく。

 だが、それは予想していたらしい。
 あっさりとかわされ、右の横手に回ったルイズが、ヴェンツェルの心臓目掛けてナイフを突き出してくる。慣性の勢いでそれを避けきれないと感じた少年は、体を強引に左側へよじる。
 腕がルイズの手に当たって狙いがそれた。銀色の刃が、少年の右わき腹に深々と突き刺さる。
 そのまま突っ込んでくるルイズを、少年は強引に抱きかかえた。
 抵抗をされるが無理やり押さえつける。そしてそのまま池の水へ飛び込んだ。大きな水の弾ける音と、肉体が平たい水面を破壊する衝撃が響き渡った。
 もがくルイズに向かって、ヴェンツェルはデルフをぶち当てた。きゅう、という妙な声を出して少女は気絶した。それをひきずり、池に浮かぶ小船に彼女を乗せる。

「ふう。なんとかしのげた」

 ルイズが硬く握り締めていた血のついたナイフを回収して布で拭う。そして、ヴェンツェルはため息まじりに呟き、ナイフを懐にしまった。そんな様子を眺めていたデルフリンガーが唐突に言う。

「一体どういうことさね。お前さん、誰かに恨まれるようなことでもしたんかね」
「僕を殺したい奴なら、一人や二人すぐ思いつくんだけどね。今回は一人だ」
「はぁ。大変なこった」

 さて、ルイズをどうするか……。
 気絶させたとはいえ、『ギアス』が有効になったままかもしれない。とりあえず縄か何かで縛っておくか。そう思ったヴェンツェルは、小船に積まれていた縄をルイズの体に巻いていく。

「なあ。わざわざそんな縛り方にする必要があるのかね?」

 その様子を眺めていたデルフリンガーが問う。確かにルイズの体に巻きついた縄は、いわゆる亀甲縛りの形である。
 それに手足を個別に縛って動けないようにしているのだが……。常識的に考えるとありえない仕打ちだ。ルイズは公爵令嬢なのだ。変な趣味に目覚めさせてしまってはまずい。

「……あ。父上がよくメイドにやってるから、いつの間にかそれが正しい巻き方だとばかり……」

 地球には、子は親の背中を見て育つということわざがある。謀らずも、大公はそれを実践しているようだった。
「……ああ、そうかい。もうどうでもいいや」

 呆れた声のインテリジェンスソードに、陸地へ上がったヴェンツェルは渋い顔をした。
 わき腹の痛みを思い出したのである。とりあえず、アリスに治癒魔法をかけてもらおうか……。と思ったそのときである。デルフリンガーがいきなり振るえて大きな声を出した。

「子分一号! なにかくるぞ!」

 その声と同時に、突然上空から猛烈な風の奔流が押し寄せる。猛烈な台風が直撃したかのような強さである。
 たまらず、ヴェンツェルはデルフリンガーを地面に突き刺してそれに掴まる。しかし、風はすぐに止んだ。
 ルイズの乗る小船の方を確認してみる。どうやら無事なようだ。桃色ブロンドの髪がちょっとだけ露出していた。

「なんだ。これは……」

 ヴェンツェルが呟いたとき、空からゆっくりと誰かが降りてくる。
 見慣れた、肩の少し下まで伸びた薄紫の髪。まるで水のルビーのような青さを持った瞳。背は低いながらも、腰の高さが目立つ。そう。それは―――

「あ、アリス……」

 虚ろな目で自らに短剣を突きつける少女。ヴェンツェルは、ただ呆然としたように呟いた。









 ●第二十話「H2O」










「くそっ、まさかアリスにまで『ギアス』が……! 奴め!」

 迫り来る巨大な『ジャベリン』を間一髪でかわしながら、彼は吐き捨てる。完全に油断していた。まさか、アリスにまで……。ルイズはブラフに過ぎなかったのか。
 そんなことを思案する暇さえない。アリスは『偏在』を生み出し、一気にヴェンツェルを仕留めにかかる。速い、速過ぎる。これでは本作はここで終了してしまう。
 少年はデルフリンガーを闇雲に振り回し、近距離にいた『偏在』をなぎ払った。だが、今彼が持っている剣は自身の身長よりも長いのだ。そのまま体が引っ張られてしまう。
 ところが、それが幸いだった。つい一瞬前までヴェンツェルのいた場所の地面を、『エア・ハンマー』と思わしき魔法が粉砕した。衝撃で土が空中へ舞い上がる。

「はぁ……、はぁ……。くそっ、重い!」

 両手でデルフリンガーを抱えた少年は、汗を拭いながら毒づいた。
 最近は少しばかり運動を始めたとはいえ、ずっと引きこもっていた子供に、重い剣を長時間振り回すことなどできはしない。
 まして、彼は切れ味の良いナイフで体に傷を負っていたのだ。それほど深い傷ではないが、血はどんどんと流れ出している。
 とうとう耐え切れなくなり、少年は地面に膝をついた。

「あらあら。情けないわねえ」

 唐突、柔らかな、しかし嘲りを含んだ女性の声がした。少年はその方向へ目を向ける。やはり、そこにいたのはルイズを一回り……胸にいたっては、何倍にも大きくしたような容姿のカトレアだった。

「……あいにく、まだまだガキの体なんでね」
「ふふ。そんなこと言って、先日は変な力で私を殺しかけてくれたわよね。だけど、今日はそうはいかないわ。アリス」

 一通り述べると、彼女はアリスを呼びんでなにかを手渡した。それは黒い首輪のような物体であった。

「どう? これはありとあらゆる魔法の発動を阻害するマジック・アイテムなの。『先住魔法』さえもね。これがあれば、あなたの妙な魔法も使えなくなるでしょうね」

 アリスがゆっくりと近づいてくる。やはり、今の彼女は完全にカトレアの隷属化にあるようだ。ヴェンツェルは呼びかけてみようか考えたが、それで禁呪に対抗できるとも思えない。
 首輪を少年につけると、アリスは後ろへ下がった。そして、魔法を封じて安心したらしいカトレアが前に出てきた。
 動けないヴェンツェルからデルフリンガーを奪って、思い切り蹴り飛ばす。無様な様相を見せながら、少年は地面を転がった。

「ふうん。デルフリンガー、ね。あの後、トリスタニアをいくら探しても見つからないわけだわ。あなたが持っていたのなら」

 本当は例の店が潰れてクルデンホルフまで運ばれただけだったが、特に意味はないのでヴェンツェルもデルフリンガーも訂正はしなかった。

「なんだ嬢ちゃん。あんた、妙な気配がするな」
「あら、わかるんだ。さすがは『伝説』ってところかしら」
「ふふん、おうよ。なんせ俺はすげぇ剣だからな」

 なんと薄情なことだ。デルフ、今の主であるヴェンツェルをほったらかしにして、桃色ブロンドの美女と会話を楽しんでいるではないか。

「ああ、そういうことだから。ヴェンツェルくん。この子はわたしが貰っておくわ。どうせ『ガンダールヴ』でもないあなたじゃ、この剣の実力を腐らせてしまうだけだし」
「……あんただって、使いこなせないだろう」
「ええ。それはそうよ。だから、これはルイズが召喚するであろう『平賀才人』にあげるの。王子さまと結婚しても、わたしは偽名で魔法学院に行くつもりだし」

 どういうことだ。アルビオンのウェールズ王子に嫁入りするのなら、自身がアルビオン大陸に渡ることは確定しているのではないのか?
 デルフリンガーを「重い」と遠くに放り投げたカトレアは、そんなヴェンツェルの疑問に答えるように、長々と一人口上を述べた。

「大体想像がつくと思うけど、今回の婚姻は『ギアス』でウェールズ王子や宮廷貴族をわたしの隷属化においたからこそ実現したの。向こうに行くのは身代わりのガーゴイルよ。実際にお嫁になんか行くはずないじゃない、あんなまずいエール酒ばっかり飲んでて、お仕舞いには残飯みたいなご飯を出す国なんて」

 そこで一旦切って、カトレアは続けた。

「平賀才人が召喚されたら、適当に誘惑してわたしの言うことをなんでも聞くように仕向けるわ。彼は童貞みたいだから簡単よ。あ、『ギアス』は本来の感情を殺してしまうから、“心の震え”で動く『ガンダールヴ』の力が上手く使えなくなる。だからあくまでも正攻法でね。そうしたらこっちの物よ。この後、一度だけアルビオンに渡るけど、そのときにレコン・キスタにつきそうな貴族は徹底的に『ギアス』で洗脳するの。ええ、国民全部を洗脳して回ってもいいわ。そのくらいの苦労はしないとね」
「そんな、そんなことをしてどうする気なんだ……」

 なんなんだ。なんなのだ、こいつは。アルビオン、いや、ハルケギニアの人たちを人間扱いしていないのは明らかじゃないか。まるで、自分が動かすお人形を見るような目だ。

「そうしたら、アルビオンはガリアやゲルマニアを『親善訪問』するわ。まあ、ジョゼフは無理でも、あのがめつくて若い女が大好きなアルブレヒトなら会ってくれるでしょうね。そうしたら、彼もわたしの隷属化において…。ロマリアを訪問するのもいいわ。後で教皇になるヴィットーリオをわたしの下僕にする…。そして、ジョゼフを異端認定して『聖戦』を起こしてガリアも手に入れる…。まさにハルケギニアの頂点に立つのよ、わたしが。それって素敵だと思わない?」

 まるで夢を見る乙女のような、上気した表情でカトレアは語った。

 そして、それは夢だ。そんな簡単に、あの虚無の担い手であるヴィットーリオを、ロマリア連合皇国を下せるなどと、ヴェンツェルは思わない。
 初代始祖の盾である聖エイジスではなく、どうにも怪しいフォルサテがあの国を建国し、ずっとハルケギニアを裏で支配してきたのだ。ぽっとでの人間が思うようにはいかない。そう確信できた。

「だが、それをやってどうするんだ。いずれハルケギニアの大地は浮かび上がって壊滅する。『サハラ』のエルフたちをどうにかしないと、いずれこの地域は滅んでしまうんだぞ!」

 痛むわき腹を押さえながら、なんとか立ち上がったヴェンツェルはカトレアに問いかける。だが、彼女の反応は少年の想像すら超えた耳を疑うようなものだった。

「知らない。わたしが死んだあとに起きるんでしょ。『大隆起』は。自分が死んだあとに世の中がどうなろうと知ったこっちゃないわ。それが人間ってものでしょう?」

 なんだ。一体、なんなのだ。この“男”は。この世界を戦略シミュレーションゲームかなにかと勘違いしているのか。

「……違う。違うだろ、それは! あんたが他人の上に立つ存在になるっていうなら、それはあんたの下にいる全ての人間の生活と命、未来に対する全責任を負う立場になるってことだ! 世界を好き勝手にいじりたい、そんな理由でこの世界の人たちの生きる権利を奪うのか!」
「ふぅん……。なんか、どこかの人が似たようなことを言って政府を批判してたわね。まあ、結局は当局に撃たれて死んでたけど。まさか、そんなのに感化されてるの? 変な人ね」

 そして、カトレアは止めの一言を告げた。

「わたしにとっては、ハルケギニアなんてただの箱庭なのよ。ジョゼフと同じ…、いいえ。彼はこの世界の住人だけど、わたしは違う。そう。選ばれたのよ! 神様にね! わたしの前に神様は現れなかったけど、きっとそういうことなのよ!」
「ふざけるな!」

 神に選ばれた? 馬鹿をいうな。そんなことがあるものか。この世に神なんてものは居はしないのだ。
 ヴェンツェルは痛むわき腹を無視して、カトレアへ向かって走り出した。方法なんかない。だが、だけど。もう我慢ならない。刺し違えてでも、カトレアからあいつを引きずり出さねば。

「ふふ。さて、おしゃべりはお仕舞いね。感謝してよ? 死に行く人間にこんなに話してあげたのは、せめてもの同郷のよしみよ。……じゃあ、アリス。始末しちゃいなさい」

 そう言い、カトレアは手を振った。
 同時にアリスが現れ、少年へ切りかかる。回避は―――間に合わない。次の瞬間には、ヴェンツェルの胴体が綺麗に斜めに切れられているだろう。
 そう思ったとき不意に、一瞬だが、アリスの手の動きが緩まったように感じた。しかし、それでも短剣は少年の体を切りつけた。
 刹那。
 血が噴出し、力なくヴェンツェルは地面に崩れ落ちた。だが、その胴体はまだ繋がったままで、出血こそ酷いものの内臓にまで傷は達していないようだった。

 それを見たカトレアは、ただ呆然と立ち尽くすアリスを怒鳴りつけた。

「ちょ、ちょっと、どういうこと!? わたしは殺せって命じたのに……!」

 ヴェンツェルは薄れ行く意識の中で、自分を見下ろすアリスの顔を見た。無表情だ。
 ……いや、違った。『ギアス』の効力によって感情の変化を抑えられているはずの両目から、たくさんの涙が溢れ出していた。死んでいない。
 アリスの感情はまだ残っている。それが、必死にカトレアの呪縛を破ろうとしているのだ。

 どうやらカトレアも『その可能性』に気がついたらしい。慌ててデルフリンガーを拾い上げ、鞘から抜き放つ。錆びて切れ味の悪そうな諸刃が露出した。

「しかたない……。自分の手を汚すことになるが……」

 先ほどまでとは違う、低い声だった。まるで男のような…。どかどかと歩きながら、カトレアはアリスを突き飛ばす。アリスはなすすべなく転がって、そのまま動かなくなった。
 そして、息を切らしたカトレアは、デルフリンガーの刃先をヴェンツェルの心臓に向ける。一突きで絶命させるつもりのようだ。
 ああ、そうか。とうとうやられてしまうのか。わずかに、いつかのようにヘスティアが現れるのを期待したが、首輪のせいか、それはできないようだった。
 今まで、ピンチは“女神さま”やアリスが救ってきてくれたが…。今回ばかりはもう年貢の納め時なのだろうか。そう覚悟して、彼は目を瞑る。
 それを見たカトレアが、剣を彼の体に向かって一気に突き落とした。


 だが。どうやら、彼の悪運はここで尽きたわけではなかったらしい。


 突然、アリスの周囲から、なにかが現れた。『触手』のようなそれは伸びて、カトレアが落とそうとしていたデルフリンガーに巻きついた。
 そして、そのまま引っ張りあげてしまう。その光景を目の当たりにしたカトレアは素っ頓狂な声を上げた。

「な、なによ、これっ!!?」

 あっという間に、彼女の周囲を『触手』が取り囲んだ。それは水のように無色透明ながら、生命を持っているようにうねうねとした動きを繰り返している。

「くっ……、また妙なものが……」

 吐き捨て、カトレアは『フライ』でこの場から離脱しようとするだが、そうは問屋が卸さなかった。
 一斉に伸びた『触手』が瞬く間にカトレアを捕縛し、彼女の体中にまとわりつき出したのだ。抵抗するも、無色の物体は強烈な力でカトレアの体を締め上げる。
 そして、どんどんと彼女の服の内側に侵入する、ぬめっとした物体の感触に甲高い悲鳴が上がる。
 それでも『触手』の動きは止まらない。やがてそれの先端部分が、カトレアの瑞々しく薄い桃色の唇を強引にねじ開け、口腔に侵入。
 口を満たす異物を追い出そうと、カトレアは言葉にならない叫び声を上げた。しかし、どれだけ抵抗しても無駄だった。
 耳のから鼻から、体中の穴という穴から、『触手』がカトレアの体内に侵入し出した。彼女は顔を真っ赤にしてじたばたと暴れていたが、やがて脱力したように大人しくなってしまう。
 そしてとうとう、彼女の体のなかに『触手』が全て収まりきってしまった。

 そのときだ。
 カトレアの体からいきなり淡い灰色の光を放つ物体が飛び出した。気味の悪いことに、それには骸骨のような目と鼻があるのがわかった。そしてもう一つ、真っ黒な禍々しい形をした靄のような物体も現れる。
 続いて、カトレアの体から『触手』も飛び出した。それは瞬く間に丸くなり―――すぐに、美しい女性の姿となる。ただ、その体は透明で、まるでガラス細工のような儚さを持っていた。そして、ヴェンツェルにはその姿に見覚えがあった。

『――――――』

 “何か”が、エコーのような、妙に頭の中で反射する声を発する。それと同時に、黒い靄が“何か”に突進。一瞬、猛烈な光がこの辺りを覆い隠す。少年はたまらずに目を固く瞑った。
 
 次に彼が目を開けたとき、もうその場に黒い靄はなかった。見ると、灰色の物体はいつの間にやら天に浮かぶシリウスのように白く輝いていた。それは何度か池の上空を回った後、ゆっくりと消滅した。

「な……、なんだったんだ。今のは……」

 地面に仰向けに転がったまま、少年は空を見上げる。そして、視界に“何か”が映った。
 ただ佇むだけでなく座ることもできるらしい。そうだ。まだ、自己紹介を済ませていなかったな…。と意味不明なことを考え、“何か”に、ヴェンツェルは問いかけた。

「やあ、また会ったね。僕はヴェンツェル……。君の名前は?」

 いきなり名前を聞かれて驚いたのか。動きの少ない表情ながら、“何か”の顔が、ゆっくりと微笑に包まれる。

『私は……ガラテイアといいます。ヴェンツェルさん』
 ガラテイア……か。いい名前だね……。と言い残して、ヴェンツェルは気を失った。血が流れすぎたようだった。今はまだ命を失うようなことはないだろう。
 しかし、このまま放置すればどうなるかわからない。だからといってガラテイアは、あまりアリス……厳密には『短剣』から離れて行動することはできない。
 だから、彼女は自分にできることをした。少しでもヴェンツェルの傷を癒すために。少し間が空いたが、やがてゆっくりと唇にあたる部分を少年へ重ねる。
 すると、彼の傷ついた箇所からの出血が止まるのがわかった。

 そうしていると、空から何か強力な力を持った存在が降下してくるのを、ガラテイアは感じた。



 それは、高価な婦人服に身を包む女性だった。もう年は四十を過ぎているだろうに、その異様な美貌は一回り以上年下だと言われても、疑う余地のないほどに優れていた。
 彼女は池の周りの惨状を確かめる。そして、倒れこんだカトレアに近づいていった。

 自らの二番目の娘を抱き起こす。見ると、カトレアはまるで憑き物が落ちたような、安らかな表情で寝息を立てている。
 次に、ルイズのいる小船へ向かった。そこには、なぜか体を亀甲縛りで放置された愛娘の姿があった。女性は、魔法でそんないけない縄を切り裂いてやった。

 さらに、クルデンホルフ家の従者の少女へ近寄る。顔色は悪くない。ただ、どうしてか泣いたらしく、その柔らかな頬には二条の筋が浮かんでいた。
 最後に、クルデンホルフの嫡子、ヴェンツェルの元へ向かう。そこには先客がいる。静かに夫人を見つめる、ガラテイアだった。

「あなたは?」
『……それをあなたに語るわけにはいきません。大いなる力を持った人間よ』

 静かな、しかし威厳を孕む声音が響き渡る。女性は直感的に、その“存在”に対して、余計な詮索を行うべきではないと判断した。

「……失礼しました。ですが、せめて状況だけでもお聞かせ願えないでしょうか?」

 女性は跪き、頭を垂れて願い出た。今度は答えてくれる。
 それから、数分ほどかけて、ガラテイアはカトレアの身に起きたこと、そしてこの場で先ほどまで行われていた事象を説明する。それを黙って聞いていた女性は、話が終わると共に、大きくため息をついた。

「……信じられませぬ。まさか。よもや。様子がおかしいとは感じていましたが……。ですが、あなたが言うには真実なのでしょう。わかりました」
『物分りの良い人間は助かります。……もうすぐ私の顕現体は消えます。後のことは頼みましたよ』
「御意に……」

 それからすぐ、“何か”はゆっくりと姿が薄くなり、最後には空気に溶け込んで消えてしまった。その様子を、女性はただじっと見つめていた。
 さて、夫たちにはどんな言い訳をしようか―――徐々に大きくなる召使いたちの声を聞きながら、カリーヌ公爵夫人は、ゆっくりと惨状を呈す池の周りを見渡した。




 *




「……ここは」

 ヴェンツェルが目を覚ましたとき、そこは見知らぬ屋敷の一室であった。
 豪華な調度品で彩られてこそいないが、かなりの気品を感じさせる部屋だった。そして、少年は自分の体の上にかなり重いものが圧し掛かっているのを感じた。

 そこへ視線を向けると―――ピンク。ピンクシスターズだ。カトレアとルイズが、仲良くヴェンツェルを枕にして眠っている。
 これなんてパラダイス? もしやここはヴァルハラか。それとも涅槃か。この子たちはピンクな天使なんだな…。と、不可思議なことを少年は妄想した。

 と、そこへ見知った顔の少女が現れた。アリスだ。彼女手のお盆に水差しとコップを置いている。

「坊ちゃま……。よかっ……、今頃起きたのですか? もうあなたが倒れてから四日も経つんですよ。いつまで寝てるんですか」
「あ、アリス。そりゃないよ」

 ヴェンツェルは泣きそうな顔で言った。
 それはそうだ。昼ドラ展開をやってみました的な主人公の首がリアルに飛ぶあの作品にはほど遠いもの、それでも彼は美少女に刺されるわ切られるわと散々な目に遭ったのである。
 マゾ体質ではない少年にとっては単なる苦痛なのだ。

「アリス。君は、なんともないのか?」
「ええ。念のために、あの場にいた全員がお医者さまに見ていただきましたが、特に異常はないそうです。それと一番不思議なのが、そこで寝ていらっしゃるカトレアさまなのです」
「不思議?」
「はい。今まで彼女は不治の、原因不明の病に侵されていたそうですが……。どういうわけか、その根本原因と思わしきものが体からすっかり消え去ったそうです」
「ええ?」

 カトレアの体を蝕んでいたという、正体不明の病。それがなぜか直っているという。ヴェンツェルは『触手』が彼女の体内に入ったときのことを思い出した。では、あれは……。
 そこまで考えたとき、アリスが新聞を差し出してきた。読んでみると、突如としてラ・ヴァリエール公爵家とアルビオン王家の縁談が破談になったことが書かれていた。
 王子がベタ惚れしているからと後押ししていたアルビオン王は激怒して、今後のトリステイン王国との関係悪化は避けられないとのことだ。まったく、そんな情報をどこから仕入れるのやら。

「わたしね……。アルビオンに嫁ぐのは、辞めたの」

 いつの間にか、カトレアが起きたようだ。
 今の彼女は昔少年が出会ったカトレアそのものだった。なんとなく雰囲気でわかる。隣で眠るルイズの頭を優しく撫でながら、彼女はヴェンツェルに語る。


「夢を見ていたの。とても、長くて、嫌な夢。……いいえ、夢なんかじゃない。全部現実だった。大好きなルイズにずっと意地悪をして……、動物たちを追い出して。世界をめちゃくちゃにする為に、禁呪を探すことに没頭する毎日。そして……、人を、殺めてしまった。禁呪を試すなんて、それだけの為に……。最後には、あなたまで手にかけようとしたのよ……」

 一気にそれだけ言うと、しくしくと彼女は泣き出してしまう。それを慰める為の適切な言葉を、このときのヴェンツェルは持ち合わせていなかった。

 アリスが泣き止まないカトレアを部屋から連れ出した。どうやら、外で待機していたカリーヌ夫人と合流したらしい。
 ちなみに、この部屋はかなりの上客でないと使わない客間なのだそうだ。
 すると、それまでぐうぐうと寝息を立てていたルイズが起き出した。きょろきょろと辺りを見回して、彼女の寝起き顔を眺めるヴェンツェルへ言った。

「……あれ? ちぃ姉さまは……」
「さっき外へ行ったよ。今は自室にいるんじゃないかな」

 そう、とルイズは呟いた。てっきりそのまま外へ出て行くと思ったら、なぜかベッド脇の椅子に座ったままだった。なぜかそっぽを向いて、ぶつぶつと何か呟いていた。
 なんだろう。「ちぃ姉さまをおかしくしたのはあんたに決まってるわ! 死んじゃえ!」と言われて爆発魔法を直撃させられるという、最悪の展開が頭をよぎる。
 思わず逃げ出そうとするが、体が悲鳴を上げた。苦悶の表情を浮かべ、少年は体を折り曲げた。

「あにしてるのよ」
「え、い、いや。ははは……」

 慌てて手を振ってごまかす。彼の額を、嫌な汗の粒が流れていった。
 やがてルイズは意を決したように、しかしその態度とは裏腹に、とても小さな声でぼそっと言った。

「…………かったわよ」
「え?」
「……るかったわよ」
「えっ」
「悪かったわよ! ごめんなさい!」

 ヴェンツェルが何度も聞き返したからだろうか。ルイズは顔を真っ赤にして怒鳴った。耳を彼女のそばに近づけていた少年は、耳がキィンとなってしまい、思わず仰け反った。

「母から聞いたのよ。うちの姉が、変な魔物に取り付かれていて、禁呪を使ったって。わたしもそれにあてられて、あんたに怪我させちゃったことも……。だから謝るわ。ごめんなさい」

 なんという。なんという奇跡であろうか。あのルイズが人に頭を下げる……。どうせなら昔爆発魔法を食らわせてきたことも……と、思いかけてやめた。いちいち引きずるほどのことでもない。

「ああ、ああいや。しょうがないことだからね。ぜんぜんまったく気にしてないよ。大丈夫だから」
「……なら、いいんだけど」

 それだけ言うと、逃げるようにルイズは客間から去っていった。なぜか、スカートのポケットから縄のような物がちらっと見えたのは……。気のせいだろう。たぶん。


「いやあ。子分がデブのくせに女にもてるったぁ、俺も鼻が高いよ」
「もててないし、鼻なんかついてないだろ……、っていたのか。デルフ……」

 窓際に立てかけられた、さびさびの古びた剣。そこから鳴るかたかたという金属の音。そう、デルフリンガーだ。

「ああ、俺はずっと子分のそばにいたよ。手下の面倒を見るのも親分の仕事だからな」

 ……なんてやつだ。カトレアにでれでれしてやがったくせに。

「ところでよ」
「うん?」
「なんであの姉ちゃん、俺が『ガンダールヴ』の使っていた剣だって知ってたんだ?」

 デルフリンガーがいきなりそんなことを言い出したので、ヴェンツェルは飲みかけの水を口から噴出しそうになった。それをなんとかこらえる。

「さ、さあね」
「うーん、気になるなぁ」

 とりあえず沈黙を貫こう。ヴェンツェルは、そう固く心に誓った。



 *



 翌日。

 とりあえず動けるようになったヴェンツェルは、クルデンホルフへ帰還することに決めた。ヘスティアや母が待っているだろうし……、あと、オルトロスも。
 公爵は一昨日には屋敷に戻っていたそうなのだが、婚約の破棄とそれにともなう騒動のおかげで、またしても家を空けていた。なので、少年の見送りには公爵夫人と、ルイズ、召使いたちがやってきていた。

「お世話になりました。カトレアさんにもよろしく伝えておいてください」

 なぜかカトレアは出てこなかった。まあ、顔を合わせづらいんだろう。と、少年はとくに気に留めなかった。
 確かに、彼女は彼がこの世界で生まれて初めて恋した人間だ。しかし、それも今は昔。もう、あの気持ちは過去のものとなりつつあった。

 そんなことを考えていると、穏やかな笑みを浮かべた公爵夫人が口を開く。

「ええ、なんだかとんでもない騒動にあなたを巻き込んでしまったけど―――得られたものがあったわ。ヴェンツェルくん、そしてアリスといったわね。あなたたちには、感謝しなくてはなりません。おかげで、カトレアが無事に元気となったのですから」
「いえ……」
「あっ。詳細は“彼女”から語るな、と言われていたのを忘れていたわ。それでは、お元気で」
「はい。それでは―――」

 別れの挨拶をしようとした、まさにそのとき。小走りに駆けてくる軽い足音が辺りに響き渡る。はたしてそれは、カトレア・ド・ラ・ヴァリエールのものであった。

「ミス・カトレア……」

 息を切らせながら、彼女はヴェンツェルに近寄ってくる。少年は、ただぼうっとしながら、その女性の名を呟いた。

「ヴェ……、ヴェンツェルくん。ごめんね。どうしても、なかなか顔を合わせる勇気が出なくて……」

 うつむきながら、彼女はやっとやっとといった表情で言葉をつむぎ出した。その頬は、走ったせいか朱の色に染まっている。

「いえ、それはしかたのないことだと思います。やっぱりああいうことがあると辛いですからね……」
「うん……。でもね。……ううん、やっぱり、なんでもない。ありがとう」

 それだけを言い残し、カトレアは後ろを向いてまた走っていってしまった。一体、どうしたのだろう。ルイズが険しい表情でこちらを見ているのも、なんだが気になった。

「ミス・ルイズ。一体どうしたのですか」

 ヴェンツェルが話しかけると、ルイズはびくっと体を震わせた。そして、なんだか妙に熱を帯びたような、危なげな視線を向けてきた。

「ええと……、あのね。あんた、小船の上でわたしを縛ったでしょ。あれってどうやるのかぁ、って……」

 ま ず い 。

 熱っぽいルイズの視線を見て、とたんに公爵夫人の顔が険しくなった。
 彼女はヴェンツェルがルイズに“どういう仕打ちをしたか”知っているのである。そして、ルイズがそういったことに興味を持ってしまった瞬間というものを、目撃してしまったのだ。
 やばいあ。やばい。マジやばい。カリーヌさんマジで目がヤバイ。あ、アリス。そんな! 目をそらすなんて! と、ヴェンツェルは心の中で悲痛な叫び声をあげた。

「……ミスタ・ヴェンツェル。お話があります。ご帰宅の予定は、一日引き伸ばしにしてくださいね」

 能面のような、般若のような、とんでもない顔だった。あ、やばい、ちびりそう……。



 結局、ヴェンツェルがクルデンホルフに到着したのは、当初の予定を三日ほど過ぎた、深夜のことだった。






[17375] 幕間一
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fc006360
Date: 2010/10/21 20:07
 アルビオン王国東部の田舎町、ハンティンドン。
 穀倉地帯から得られる豊かな作物の実りによって、その土地の人々はの生活レベルは、平民としてはかなり高いものだった。

 そんな小さな町の地主―――俗にジェントリと言われる富裕平民の屋敷で、一人の男児が生まれた。
 初めての男の子の誕生に両親は大そう喜び、オリヴァーと名づけたその少年をとても大切に育て始めた。
 父と母の愛情を一身に受けて育った少年は、街の簡易教育所でとても優秀な成績を収めて、皆から褒め称えられた。
 両親や姉、弟との平穏な暮らし。オリヴァー少年は子供故の冒険心を発揮することはあったものの、同じ年頃の子供たちと比べてずっと落ち着いていたのである。
 彼が七歳になる頃には、もう簡易教育所で地元の子供たちに勉強を教えてやるほどとなった。
 この頃になると少年を気味悪がる大人もいたが、両親はそんな彼に今まで以上の愛情を注いでいった。

 そんなあるとき。
 少年は町外れでルサリィという記憶喪失の少女と出会う。綺麗な銀色の髪をくるぶしの辺りまで伸ばした、不思議な雰囲気を放つ少女だ。
 年はオリヴァーよりもちょっと上くらいだろうか。彼女は行くあてもなければ、自分の名前以外はなにもわからないという。
 ところどころ破け、ぼろぼろの服を着た彼女の有様。それを不憫に感じたオリヴァーは、ついて来いと言って自宅に連れ帰った。
 薄汚れた、しかし妙な気品を放つ少女を、息子は家に住まわせてやってくれという。両親は当然ながらそれを拒むが、オリヴァー少年も頑として譲らない。
 結局、珍しい我がままの一つくらい聞いてやるか、と父が折れた。

 そして次の日から、ルサリィは召使いとして家に置いてもらえることとなる。
 最初は警戒していた姉や弟も、ルサリィのほんわかとした性格に接するうちに、次第に打ち解けていった。

 だが、そんな、変化はなくともかけがえのない生活は、たった一晩で灰燼と帰してしまった。

 それはオリヴァーが十五歳の誕生日を迎えてから数日後の、沈み行く赤い太陽が眩しい日だった。
 夕食の買い物に賑わう町の入り口に突然、アルビオン王家の旗を掲げた軍団が現れたのである。
 一体、こんな田舎町に何の用なのだろうか。何かの用事ならば、事前になんの連絡も遣さないのはおかしいのではないか。
 当時、ハンティンドンの町長を務めていたオリヴァーの父が、その軍団の元へ向かった。

 彼が町の門をくぐると、兵隊の指揮官らしきメイジが進み出てくる。貴族だろうか。
 しかし、町長はたとえメイジ相手でも物怖じしない。彼の生家も随分前に没落してしまっていたとはいえ元を正せば、れっきとした貴族の由緒正しい家柄だったのだ。
 と、そのときだった。指揮官メイジがいきなり杖を構え、町長がなにか言う前に、一瞬で彼の首を切り落としたのだ。
 鮮血が吹き上がり、首を失った細身の中年男性の体はゆっくりと崩れ落ちる。そしてそれを遠巻きに眺めていた町の住民たちは、一気にパニック状態に陥った。
 もう後は早かった。
 兵隊たちは雪崩を打ったように町の中に侵入し出し、手に持った槍や剣、弓で住民を襲い始める。逃げ惑う人々の叫び声が、断末魔の叫びが辺りに響き渡った。
 兵士は松明を手に、次々と建物に火をつけていった。

 燃え上がる町から吹き上がる炎を目の当たりにしたオリヴァーの母は、その壮絶な光景に息を呑んだ。
 そして、屋敷に駆け込んできた召使いの一言によって、自分の夫の死を知る。
 彼女は自分の娘と下の男の子を自分のところへと呼んだ。今はまだ、武装した農民が抵抗しているが、相手には貴族もいるという。もうそれほど持たないだろう。

 長男オリヴァーは遠くへ調べ物をしに行ったきり帰ってこない。だが、今はそれでいい。この場所にいて巻き込まれるよりは。
 そうして、彼女が子供たちを連れて屋敷を脱出しようとしたとき―――指揮官メイジが現れ、その場にいた四人の命を、無慈悲に奪った。


 オリヴァーが焼け落ちたハンティンドンの町に到着したのは、謎の襲撃の翌日だった。
 町の“あった”場所では、たくさんのアルビオン王軍と思わしき兵隊たちがうろついている。
 あまりのショックに気を失いそうになりながらも、彼は自分の住んでいたレンガ造りの屋敷を目指した。

 なんとか監視の目を潜り抜けた少年の目に、貴族と思わしき人間が、銀髪の少女を押さえつけている光景が飛び込んできた。

「はぁ、はぁ…。よくもまあ、手間をかけさせてくれたものだ。なんで王宮はこんなガキを捕まえろなんて……。まあ、せいぜい楽しんでから引き渡してやるか」

 そう呟きながら、貴族はルサリィの服を破きだした。か細い少女の悲鳴が上がる。
 なんだあいつは。嫌がる女性を無理やり組み伏せるなど、到底まともな人間の所業ではない。

 その辺りに落ちていた木の棒を拾って、後ろからそろそろと近づいていく。
 そして、木の棒の太い部分を貴族の脳天に叩き付けた。後頭部を襲った激痛によって、思わず苦悶の声を上げる貴族を尻目に、少年は半べそをかいていたルサリィの手をとって走り出した。
 だが、ほとんど逃げられないうちに、後ろから『マジック・アロー』が飛来。
 オリヴァーの左足を貫いた。体重を支えきれなくなった少年は地面に転び、それにルサリィも巻き込んでしまった。折り重なるようにして倒れ込み、二人は逃げ場を失う。

「このガキが……。けっ、そんなにその娘が大事だっていうんなら……」

 下卑た笑みを浮かべ、貴族はルサリィの長く艶やかな髪を引っ張った。悲鳴が上がるが、彼はそれを気にも留めない。
 そして、少女の着ていたメイド服を全て剥ぎ取ってしまう。
 白磁のような、神秘のべールに包まれた白い肌が、白日の元へ曝け出された。それを見た貴族は顔をいやらしく歪めて、舌をなめずる。
 少女はもう小刻みに震えて下を向くだけだ。そして、その胸元には見慣れない刺青…、古代のルーン文字を模したような文様が浮かんでいた。
 オリヴァーはその文様に目が釘付けとなった。粉雪のようにまっさらな肌に浮く、一条の古代文字。どうしてか、彼はそこから目を放すことができない。
 貴族はそんな少年を無視して、ルサリィを地面に仰向けに寝かせた。
 少女の震えがよりいっそう、強まる。もう見ていられない。少年は痛む足を踏み抜いて、強引に地を蹴った。
 ズボンのチャックを外しにかかっていた貴族は、対処が後れてしまい、少年の渾身の体当たりをもろに受けた。
 そして、彼はそぐそばにあった岩に顔を直撃させる。しばらく、体を痙攣させた後、彼はもう動かなくなった。
 オリヴァーは少女に自分の着ていた皮のコートを着せる。ルサリィが淡々と昨日からの出来事を言ってきかせると、少年は大きくその端正な顔を歪めた。

 だが、涙を流すことはしなかった。

「オリヴァー……」

 不安げな、泣きそうな顔で、ルサリィは少年の名を呼ぶ。しばらく、窓から煙を吹き上げる屋敷を見上げていたが、オリヴァーはすぐに少女の方を向いて、頷く。

 そして、彼らはアルビオン兵によって焼き払われた故郷を捨てた。いや、捨てざるを得なかったのだ。








 ●幕間一「オリヴァー」









 オリヴァーが故郷を捨てた日から、十数年の時が流れた。

 それまで彼はハルケギニア各地をルサリィと共に放浪していたが、現在は故国であるアルビオン王国の首都、ロンディニウムの下町に居住している。
 白亜の町などというが、平民街は薄汚れていて酷いものである。
 結局なぜ、彼が生まれ、住み慣れた町が焼かれなければならなかったのか。それを調べるために、さまざまなところを回ったが、結局なにも掴むことはできなかった。
 かなり強固な情報統制が敷かれている、ということだけはわかったのだが……。
 そして、彼が住みかを転々としているのにはもう一つのわけがある。

「オリヴァー、ただいま!」

 元気な声を出しながら、彼が間借りしている賃貸住宅へ一人の少女が駆け込んできた。
 見事な銀色の髪を頭の横で二つくくりにしている。そう、彼女は昔ハンティンドンの町外れでオリヴァーに拾われた少女、ルサリィだった。
 最初に住んでいた町では、いつまで経っても成長しない彼女を不審がった町の住民によって、領主に『男が亜人らしき生物を連れている』と通報されてしまった。
 しかたなく、彼らは住所を転々としているのだった。
 実際のところ、オリヴァー自体、この少女がどういった存在なのか気になるところであった。
 しかし、これだけ長期間一緒に生活してきたにも関わらず、彼女のことはまったくわからずじまいだった。本人に訊いてみても「記憶がない」と返される。
 そんなやり取りを、もう何百回繰り返したことか。

 ご飯、ご飯とルサリィがせがむので、オリヴァーは仕方なく、台所に立った。
 放浪生活の当初、アルビオン北部のエディンバラ公爵領にいたのだが、彼はそこで現地の料理に魅せられてしまった。
 それまでアルビオンの東部で口にしていた『料理』を称するものが、どれだけ酷い物体だったかを思い知ったのだ。
 トリステインやガリアにロマリア、それにゲルマニアに渡ったこともあった。
 前の三ヶ国の料理人はそれなりに美味しい料理を作るので彼も満足だったが、ゲルマニアは酷かった。来る日も来る日も、山のようにじゃがいもだらけなのである。
 しかもいちいちフォークで潰しながら食べるのだ。なんだこの国はと思い。大した情報もなかったので、一週間ほどでトリステインに脱出した。

 料理が出来上がると、それを部屋の中央に置かれたテーブルへ乗せた。
 『東方』産だというスパイスの香りが鼻を刺激する。待ってました、とばかりにルサリィはそれにむしゃぶりついた。
 出会ってから数年の彼女は、それはそれは物静かな性格だったのだが、次第に今のように快活な言動を取るようになった。
 あるいは、そういう風に彼女は人格を作り変えたのかもしれない。
 行く先々で彼女を化け物扱いする人間と遭遇したから、自分の精神を守るために、わざと明るく振舞っているのかもしれない。
 食器を洗いつつ、テーブルで眠りについた少女を眺めながら、オリヴァーはため息をついた。


 ある日。
 ロンディニウムの市街を買い物に歩いていると、とある商店の壁に貼られた掲示物が目に入った。
 それには『隊員募集! 君の力でアルビオン王国が誇る王都の治安を守ろう!』などという、妙な文言が書かれている。
 まだこの町に来たばかりだった彼は、無職である。
 先日までいたシティ・オブ・サウスゴーダでは、料理屋の厨房手伝いをしながら暮らしていた。
 だが、たまたま遊びに来たルサリィに言い寄る男と喧嘩になってしまい、怒り心頭の店主に解雇を言い渡されたのだ。そうして、なんとなくこの雑多な街を訪れていた。

 なんだか怪しいが、王宮が直接募集に関わっているらしい。最近のアルビオンは異様なほどに治安の悪化が深刻な様相を呈している。
 ウェールズ王子とトリステインのラ・ヴァリエール家次女の縁談が破談になったのは、アルビオンの治安の悪さが原因ではないか。そんなデマカセを言いふらす者もいるほどだ。
 このハルケギニア――厳密にはアルビオン大陸ではあるが――で流れ者のオリヴァーが仕事を得るのは簡単なことではない。
 せっかくだからと、彼はロンディニウム治安維持隊の面接を受けてみることにした。


「お帰りなさい。今日は遅かったね」

 布で出来た買い物袋を手にぶら下げたオリヴァーが借家の扉を開けると、ルサリィが彼を迎えてくれた。もう何千回と繰り返した、夕刻の行事である。

「ああ。ちょっと仕事の面接を受けていてね」
「え! どうだった?」

 そう問われると、オリヴァーは右手の親指をぐっと立たせる。それを見た少女は目を大きく見開いて、自分よりずっと大柄になった男性の胸に飛び込んだ。
 最初は嬉しそうに、顎の下を撫でられる猫のような顔をしてすりすりとしていたが、やがて小さく呟いた。

「……昔は、わたしの方がずっと背が高かったのに……、いつの間にかオリヴァーの方がずっと大きくなっちゃうんだもの。もうおじさんになっちゃったし……」
「はは……、すまないね。加齢臭とかするかな?」
「ううん。大丈夫。わたしは好きよ、あなたのにおい……」

 そう呟いて、ルサリィは男性の硬い胸板に顔を埋める。
 男性の手に柔らかな白銀の髪が触れる。なんだかそのままベッドになだれ込みそうな勢いだったが、オリヴァーは自制心を発揮して、彼女の体を自分から離す。
 そして、食材を袋から取り出しつつ言った。

「今日は鶏肉の香草焼きを作るよ。なに、お楽しみは後にとっておいてもいいだろう?」



 ―――翌朝。

 狭いベッドの上で、一糸まとわぬしなやかな肢体を朝日の陽光にさらしながら、ルサリィは目を覚ました。
 腕を頭の両脇まで上げて、ぐっと背筋を伸ばす。すると、隣に眠るオリヴァーが寝返りを打った。
 もうすぐ中年に差し掛かるだろう男と、どう見ても成人していない少女が同じベッドの上で裸体をさらけ出しあっている。
 世が世なら男は警察にしょっ引かれ、牢獄に放り込まれた挙句、マスコミによって実名晒し上げの刑に処されるだろう。しかしながら、この世界ではそういった心配はない。

 昨晩の情事を思い出した少女は、ぺたぺたと自分の胸に手を当てた。何年経っても一向に成長する気配すらない。
 オリヴァーは別に気にしないとは言ってくれる。だが、町行く女性の多くは彼女よりもふくよかな物をぶら下げている。それすらない自分とは、一体なんなのだろう。
 老化しないのはメリットだとしても、やはりある程度の大きさは欲しい。
 あっと。そろそろ彼を起こす時間だ―――と、彼女は自分の愛する男性の体を揺さぶる。すると、微妙な部分がテントを張っているのに気がついた。

「まったく、昨夜あんなに出したのに……」
 咎めるような口調とは裏腹に、ちょっとばかり嬉しそうに呟いたルサリィは掛け布団をめくり、その闇の中に姿を消した。



 *



「オリヴァーくん、だったな。どうしたのかね。初日である今日が大事なのだよ。しっかりしてくれたまえ」

 アルビオン王家の居城、ハヴィランド宮殿。真っ白な外壁に覆われた、ハルケギニア一の美しさを誇ると言われる建造物があった。
 その威容を望む場所に、ベルグラヴィア兵站場はあった。
 何十人もの面接に合格した志願者たちがその場を埋め尽くしている。先ほどオリヴァーを叱ったのは、治安維持隊の隊長ハムレッツ子爵だ。
 この部隊に貴族は老人の彼一人しかいない。装備も、当初予定されていたはずの物から、随分と質が落とされている。
 子爵は適当に部下へ指示を飛ばすと、兵站場の事務所に引っ込んでしまった。後を継いだ男たちから大きな声で指示が飛ばされる。

「おっさん、あんた大丈夫なのか?」

 オリヴァーが一対一で訓練を組まされたのは、まだ年若い青年だった。
 ハリーというのは、アルビオンではあまりにもありふれた名前だ。識別が面倒なのでミドルネームは必須である。
 彼はふらふらの相手を見て、きちんと訓練が出来るか心配になったのだろう。

「あ、ああ。すまない。ちょっと疲れていてね」

 朝からフルマラソン三回分の過酷な試合を強要された彼は、もういろいろと辛そうだった。
 これから同僚となる男が、こんな腑抜けとは……。ハリーは手にした木刀を持って、いきなりオリヴァーに殴りかかる。
 周りでその様子を見ていた者たちは思った。『ああ、これはすぐ終わるな』と。

 しかし。

「うおっ!?」

 驚いたような声を上げて、ハリーの体が宙を舞った。
 どうしたことか。
 それまで目の下にくまを浮かべてふらふらとよろけていた男が、猛烈な速度で突っ込んできたハリーにいきなりカウンターを浴びせたではないか。
 あまりにも鮮やか過ぎて、皆が一瞬、口を開けたまま動きが固まってしまう有様だ。

「う、うお……、なんだあいつは」
「ハリーって小僧の動きが単純すぎたにしても、あれはすげぇぜ」

 青年の体が地面に落ちるやいなや、周囲の人間ががやがやと騒ぎ立て始めた。
 こいつはすごい、と。地面に座るハリーは苦々しげな様子で、唇をかみ締めながらただ沈黙するしかない。
 そこへ、オリヴァーが手を差し出した。だが、それを青年は払いのける。

「け、そんな腕があるんなら先に言えよ」

 吐き捨て、彼はどこかへと消えてしまう。しかたなく、オリヴァーは一人で鍛錬に勤しむことにした。

「なあ、お前さん。さっきの投げ技、見事だったな。ありゃ素人の動きじゃないぜ。前はどこにいたんだ?」

 その日の訓練が終わった後、一人の中年男性が声をかけてきた。
 名前はダニエル。年の頃は五十に行くか行かないかくらいだろうか。つるつるとよく光る禿頭と、筋肉が盛り上がった太い体つきの男だ。
 今日の帰りの買い物はルサリィがやってくれるという。
 だから、特にやることのないオリヴァーは、彼と少し話してみることにした。

「サウスゴーダだよ。そこで、厨房の仕事をやっていた。くびになってしまったがね」
「おいおい、冗談だろ? あんたほどの腕を持った人間が、まさかコック風情で収まるわけがない」

 これはちょっと厄介だな……。しかし、別に無理して隠すこともないか。
 そう考え、とりあえず重要なことを巧妙に省いて話してみることにした。
 自分がハルケギニア各地を旅したこと、そこでいろいろな人と出会ったこと、亜人と遭遇したとき、剣を使ってなんとか生き延びたこと。
 そして、生きるために腕を磨いことたなどを語った。
 それを聞いたダニエルは驚いた顔になって、オリヴァーの肩を叩く。

「なるほどなぁ! 旅か! 俺は生まれてこの方この国の南部から出たことはないが、そうか、ハルケギニアにはそんな化け物がうようよしているのか!」

 彼はうんうんと頷くと、そこで手を上げ、言った。

「ようし。俺もいつか旅に出てみるかな。話、ありがとうな。明日は俺に稽古つけてくれや!」

 豪快な笑い声を上げながら、ダニエルは兵站場を後にした。

 オリヴァーも着替え、正門の方へ向かっていく。
 すると、彼と同じように帰宅しようとしている治安維持隊員見習いたちの視線が、ある一点を凝視しているのがわかる。
 なんとなくそちらへ目を向けると、そこには、銀色の髪と白いワンピースを風になびかせ、物憂げな表情で立ち尽くすルサリィの姿があった。手には買い物袋がぶら下がっている。
 とんでもない美少女にしか見えない彼女がそうしていると、なんだか絵画にでも起こすべきだと思ってしまう。
 そうやってぼうっと眺めていると、少女と目が合う。途端に、ルサリィは子供のように頬を膨らませてオリヴァーに駆け寄ってくる。

「もう! 気づいてたのなら、声くらいかけてよ」
「あ、ああ。ごめんよ」

 怒り心頭、といった様子で詰め寄ってくる少女にはさすがのオリヴァーもたじたじである。
 そんなバカップルの痴話喧嘩を、道行く独身男性はうらやましそうに見つめていた。そして、その中には…、茶髪の青年、ハリーの姿もあった。


 ―――数日が過ぎた。

 オリヴァーの腕前はすっかり隊員の中で評判となっている。
 二日前、第一次採用の彼らがロンディニウム市街の中心部、通称『シティ』周辺の治安維持を任されることが決まった。
 ちなみに、ハヴィランド宮殿の周囲には旧来の衛士隊が配置されている。平民など信用ならない、という宮廷貴族の言い分が通ったからだそうだ。
 任務の開始は本日からだ。そういうわけで、オリヴァーはダニエルらと共に『シティ』へ向かった。

「『シティ』には我が国の経済を支える主要施設が存在します。この地域の治安の改善は我々にとって急務なのです。ですので、気を引き締めて任務にあたってください」

 任務について簡単に説明してくれた女性が、最後に言った。オリヴァーやダニエルを初めとする治安維持隊の面々は、それに大きく頷く。

「さて、治安維持っていうが……。とりあえず哨戒にあたって、犯罪者がいたら捕まえればいいんだよな」
「ああ。それに、怪しい奴がいたら訊問してみる、とかな。未然に犯罪を防げるのなら、それが一番いい」

 オリヴァーとダニエルは二人で『シティ』の路地を歩きながらそんなことを話していた。基本的に治安維持隊は二人組みでの行動が主体となる。

 その日は特に変わった事件は起きなかった。
 せいぜい、酔っ払いの喧嘩や引ったくり、強盗未遂といったところだろうか。
 ダニエルもそれなりに鍛えている人間だったので、オリヴァーに遅れをとることもなく迅速に対処に当たることができた。
 
 そうして仕事を終えた二人は、治安維持隊の詰所へと戻ってきた。着替え、またいつかのように正門へ向かっていく。そのときだ。よく聞きなれた声が耳に届いた。
 一人はハリーだ。もう片方は…、最近ハリーとよくつるんでいるジョンという男だったか。

「ごめんなさい。わたしはオリヴァーを待っているんです。だから、あなた方と酒場に行くことはできません」
「そんなこと言うなよ。なあ?」
「そうだ。そんなに綺麗な髪を毎日毎日見せ付けておいて、そりゃないぜ」

 そう言って、ジョンがルサリィの肩に手をおいた。びくっと少女の肩が震える。怯えているようだった。
 それを見たオリヴァーとダニエルは頷きあい、彼らの方へ向かっていく。

「ハリー、ジョン。その子は僕の家族だ。迂闊な手出しは無用だぞ」
「あ? ……っておい、マジかよ……」

 こんなに早くオリヴァーが現れたことが予想外だったのか。ハリーは毒づいた。
 ジョンに至っては、先ほどまでの威勢の良さなどどこかへ吹っ飛んでしまっている。
 彼は、最初の頃にダニエル相手にぼこぼこに『教育的指導』を受けたことがあったのだ。
 オリヴァーがやってきた途端、ルサリィはその可憐な顔に嬉しそうな笑みを浮かべ、ハリーの脇をすり抜ける。
 そして、自分の伴侶ともいえる男性の背中にしがみついた。そこから顔を半分だけ出して、ナンパ二人組みの方を睨む。
 そして舌をちょっとだけ出しながら『べーっ』と煽った。

「ちっ……」

 唾を吐き捨て、相方を引きずりながら、ハリーは詰所の門を出て行った。



 *



 それからは早かった。
 たった半年の間に、王都治安維持隊の活躍によってロンディニウムの治安は激烈なほどの改善を見せたのである。
 ただ、それまでがあまりに酷すぎた、というのも少なからずあるが。治安維持隊の人員は、今では五百を数えるほどとなった。
 その中心にいたのがオリヴァーやダニエルが率いる『第一哨戒分隊』だ。
 総勢二十名のその隊は主に『シティ』の哨戒に当たっているが、彼らが現れてからというもの、そこで犯罪を起こそうとするものが大きく減ったのである。
 特に、武術の達人であるという評判の高いオリヴァーを見たらなりふり構わずにすぐ逃げろ、と言わしめるほどであった。
 そして、そんな彼を時のアルビオン王は放っておかなかった。


 そして、ロンディニウムにやってきてから一年が経とうとしたとき。いきなり詰所の事務所に呼び出されたかと思うと、彼を衝撃的な一言が襲う。

「じょ、除隊、でありますか?」
「うむ。王宮からの命令じゃ。わしにはどうしようもない。すまんが、この後に来る迎えの指示に従ってくれ。今までご苦労じゃった」

 ハムレッツ子爵はそれだけ言うと、オリヴァーの肩を叩き、退室してしまった。
 除隊。そんな馬鹿な……。自分はお上に目を付けられないように上手くやってきたつもりだ。生活も安定してきたし、友人もできた。なのに……。

 その後やってきた王宮の使いを称する貴族に連れられ、彼は呆然としたまま、ハヴィランド宮殿へと向かっていった。


「やあ、オリヴァーくん。きみの活躍は常々耳にしているよ。アルビオン王子ウェールズ・テューダーだ。よろしく」
 そういって、目の前に立つ金髪の青年が手を差し出してきた。年の頃は二十に届くか、届かないか。あるいは。
「は、はぁ…。いえ、オリヴァーです。お目にかかれて光栄です。殿下」

 なんと驚くことに、彼をハムレッツ子爵に命じて除隊させたのはアルビオン王だという。
 ウェールズの語るところによると、最近、王弟であるモード大公の近辺に不審な動きが見られるという。エルフを目撃した、などという話もあるほどだ。
 そこで王は信頼に値するメンバーだけを集めて、モード大公が捜査要求に応じない場合、秘密裏に排除することを決めたのだという。

「わたしが、そこまで陛下の信任を得ていると?」
「ああ。君のことはとある人間がずっと…、言い方は悪いが監視していた。その結果、君は父の信頼に沿うだけの人間だと認められたんだ」
「で、ですが。大公を排除、というのは…」
「……叔父には悪いが、我々も王家の名誉を汚すようなことをされるのは、たいへん困るからね」

 既に、何度も王はモード大公を呼びつけては翻意を促しそうとしたらしい。
 しかし、王弟はそれに一切応じず、挙句の果てには自身に従う貴族をまとめ、中央政府に対し謀反を起こす可能性すらあるという。
 それは一大事だ。この国が二つに割れてしまったら、かつての自分のような悲劇を味わう子供が大量に出かねない。

 しばし考え込み……オリヴァーは、決断した。

「わかりました。殿下。このオリヴァー、祖国アルビオンの為に身を粉にして働きましょう」
「そうか! ありがとう、オリヴァーくん」

 二人は、固い握手を結んだ。


 年が明けてから一ヶ月後。
 モード大公に対し、実に三十回目となる王都への出頭命令が下された。
 しかし、それに対する返答はやはり「拒否」だった。ついに、ジェームズ三世は特殊部隊によるモード大公捕縛、もしくは暗殺を決定。苦渋の決断だった。
 ロンディニウムの借家で、オリヴァーはルサリィにひと時の別れを告げる。彼女はそれがどんな仕事なのかとは聞かず、ただ彼を送り出してくれた。

 そして、さらに数日後。
 風のトライアングルメイジであるクローリー男爵指揮下の部隊が、夜闇にまぎれてモード大公の屋敷の敷地内へと侵入した。
 目標は大公本人だ。このとき、捕縛が無理なら殺害。目撃者も全員口を封じろ。そんな命令が出された。
 オリヴァーは若干の反感を覚えたが、これも国の為だと思い、黙って男爵に従った。
 静かに、ゆっくりと彼らは屋敷の外壁に近づく。途中、衛兵がやってきたが、それはクローリー男爵が瞬く間に肉塊へと変えてしまう。
 やはり、魔法は恐ろしい。オリヴァーは、昔自分の足を貫いた『マジック・アロー』のことを思い出して、ひそかに身震いした。

 やがて、部隊は一気に屋敷の内部へ侵入した。
 このとき、兵は三派に分けられた。一つは衛兵を一掃。残りは片方が大公を、もう片方はエルフの排除を命じられた。
 オリヴァーはエルフのいる方面を目指した。事前に内通者によって提供された見取り図を眺めながら、どんどんと奥へ進んでいく。
 そのとき、前方にいた仲間が、強力な炎によって焼かれるのを目の当たりにした。焦げ臭く嫌な臭いがあたりに充満する。
 そして、煙が晴れたときそこに居たのは、この世のものとは思えない美貌をもった金髪の女性だった。
 杖の類は持っていない。と、なると…。彼女がエルフか。剣を握り締める手のひらに、じっと汗がにじむ。

「お願いです。わたしたちはこれ以上あなた方と争う気はありません。どうか、引いてください……」

 エルフの彼女は、物悲しい、悲痛な表情でそう告げた。しかし。

「ふざけんじゃねえ! よくもピーターをやってくれたな!」
「この怪物が!」

 同僚を殺され、いきり立った兵たちが一斉にエルフの女性へと切りかかる。あまりに数が多い。
 もう駄目だと観念したのか、彼女は目を瞑る。
 そして、兵の剣が彼女の体を貫いたとき―――屋敷の窓枠を突き破るほどに猛烈な爆発が起きて、その場にいた人間たちごと、エルフの女性は自爆した。

 ぱらぱらと落ちてくる肉片に顔をしかめながら、床に倒れていたオリヴァーはなんとか立ち上がる。
 彼だけは無謀な突進を行わなかった。とっさに後ろへと身をかわしたのだ。その為か、彼は火傷や打撲こそ負っているものの、なんとか作戦を継続することはできる状態だった。
 そして、斃れたすべての人々に黙祷を捧げたあと、彼はたった一人で屋敷をさらに奥へと進んでいった。

 最後にたどり着いたのは、ひっそりとした、誰からも忘れ去られたかのような暗闇の部屋だった。

 彼は用心しつつ、その扉を開ける。果たして、そこには一人の少女が床にぺたりと座り込んでいる。
 先ほどのエルフのように輝く、金色の髪…。白磁のように、病的なほどに白い肌。尖った耳…。その少女は間違いなく、モード大公とあのエルフの女性が残した忘れ形見だった。
 オリヴァーの姿を見た少女は怯え、後ずさる。杖を必死に探すが、運の悪いことに、それは遠い机の上にあった。

「きみも、か……」

 思わず、オリヴァーは呟いた。
 今、こうして自分の存在に怯える少女が、かつてのルサリィの姿と重なる。
 自分の任務には『目撃者の口封じ』が含まれている。ならば、任務に忠実にやるならば、この少女の口を…。
 駄目だ。そんなことはできない。彼女に一体、なんの罪があるのだ。
 いや、待てよ…、自分は口封じしか命じられていない。ならば、この少女の命を奪う必要など、ないではないか。
 要は解釈の問題だ。彼は自分にそう強引に言い聞かせる。

「わたしはオリヴァー。きみの名前を聞かせてはくれないか」

 殺されると思ったのに、なぜかそこに立つ男性は自分の名前など尋ねてくるのだろう。少女は不思議に思ったが、彼が名乗ったのだ。自分も応じなくては。

「ティファニア……。わたしの名前は、ティファニアです……」
「そうか……。では、ティファニア。わたしと一緒に、ここを脱出しよう」
「え?」

 なにを言っているのだろう、この人は。彼は自分を殺しにきたのではないのか?
 ごつごつとした大きな手を差し出してくる精悍な顔立ちの男性を、大きな目を見開いて唖然とした様子で見つめた。

「こうして屋敷を襲撃しておきながら、あつかましい真似だとは思うのだがね。どうにも……」

 男性がそういったとき、突然足音が響いてきた。ティファニアはとっさに机の上の杖を手にする。
 そして、部屋に数人の兵士が飛び込んできた。エルフの少女と思わしき人物に手を差し伸べるオリヴァーを見て、隊長…クローリー男爵が叫んだ。

「お、オリヴァー! 貴様、亜人の妖力に魅せられおったか!」

 そう言うや否や、彼はいきなり、前方に向かって『エア・ニードル』を放った。
 よけ切れずそれをわき腹に食らい、オリヴァーはなすすべなく床に倒れこんだ。少女の悲鳴が聞こえる。

「卿。あのガキ、よく見ればかなりの上物ですぜ……」

 一人の兵士が、男爵にそう耳打ちした。確かに、あの少女はまだ幼いながらも、不思議な魅力を放っているのがわかった。

「む。確かに……」
「エルフが相手でも、子供を作れるのはモード大公が証明してくれましたし…、どうしやしょうか?」

 下卑た嗤い声を上げながら、兵士は言う。やがて、男爵もその気になったらしい。じりじりと、ティファニアに近寄りだした。

「あ……、あう……」

 長い耳を下げ、少女は必死の形相で後ずさりし始めた。しかし、腰を抜かしてしまっているためかどうにもおぼつかない。
 と、そのときだ。男爵の足を掴む手があった。見ると、オリヴァーが片手でわき腹を押さえつつ、もう片方の手で掴んでいるようだった。

「や……、やめろ……」
「ええい、貴様には後で回してやるから、どけ!」

 色欲に取り付かれた男爵は、オリヴァーを蹴り飛ばす。顔面に靴を叩き込まれてしまい、彼はそのまま動かなくなった。

 ―――助けて、誰か……。

 ティファニアは願った。誰でもいい。自分を、あそこで倒れている男性を、誰か助けて……。
 そう、強く願った。すると彼女の脳裏に、浮かぶものがある。なにかのメロディーのようだった。
 なんだろう、これは……。不思議だ、懐かしい感じがする。自分はこの旋律を知っている……。

 無意識のうちに、彼女は杖を振った。



 *



 次にオリヴァーが目を覚ましたとき、彼はベッドに横たえられていた。
 とっさにわき腹へ手を添える。包帯が巻かれていて、止血などの応急処置がされているようだった。
 視線を横へ向ける。すると、そこには一人の少女がくーくーと寝息を立てて眠っていた。

 そうか。自分は、男爵に撃たれて……。だが、あの後どうなったのだろうか。不思議なことに、周囲に人の気配はしなかった。
 ならば、なぜこの少女と自分は無事だったのか。わからない。わからないことだらけだ。
 しばらくそうしていると、ベッド脇の少女が目を覚ました。

「あ、起きたんですね。良かった……」
「き、きみは……、それに、彼らは一体どうしたんだ?」
「ええと……」

 もともと垂れ目なにを節目がちにしながら、彼女は語った。
 自分が襲われそうになったこと。オリヴァーが蹴られ、動かなくなったこと。
 もう駄目だ、と思ったとき、不意に奇妙な旋律が頭の中で渦巻いたこと……。
 そして、杖を力任せに振るったところ、貴族や兵士たちが記憶を失って、赤子のような状態になってどこかへ行ってしまったこと……。
 魔法。不思議な魔法だ。
 いや、しかし。オリヴァーには思い当たる節があった。ロマリアに行ったとき、たまたま『虚無』の呪文に関する本を読んだことがあったのだ。
 古書店の片隅に放置されてぼろぼろになっていたそれは、今は失われたとされる伝説の系統、虚無についていくらか記されていた。
 『虚無』は各王家の血筋の中で目覚める。
 つまり―――王弟の子であるティファニアがその才覚を持っていてもなんらおかしくはない。

 なんということだ。自分はまたしてもとんでもない少女と出会ってしまったのか。

 彼は、心の中で乾いた笑い声を上げた。



 それから、一ヶ月後。


「わたしなんかが一緒にいたら、迷惑ではないですか?」

 ブリミル教の修道服に身を包んだ少女が、ぽつりと言った。
 その隣では、同じように僧服を着て、かつらと、付け髭を顔に貼り付けたオリヴァーが歩いている。彼は少女の問いを否定した。

 ここはロンディニウム市街の中にある平民街だ。
 モード大公の排除には成功したものの、部隊の人員の大半が反撃によって命を落とした特殊部隊はその存在を闇に葬られていた。
 残ったクローリー男爵らもどういうわけか白痴化してしまい、もうどうなったかすらわからない状況となっているのが、オリヴァーの調べによって判明したのである。
 公式上、オリヴァーは謎の失踪を遂げたことになっている。
 それは、あの部隊に参加したほぼ全ての人員に言えることだった。結局、彼らは使い捨ててもいいような扱いだったのである。
 わざわざウェールズ王子が出てきたのは一体、どういうつもりだったのか。

 オリヴァーは借家の扉を開ける。一応、家賃は任務に出る前に半年分ほど前払いしてあるので、まだ問題ないはずだ。

「オリヴァー!!!」

 その途端に、銀髪の少女が彼に向かって飛びついてきた。ルサリィだった。そんな光景を見て、ティファニアは目を丸くするのだった。

 一通りの話を聞いたルサリィは、お茶を出しながらため息をつく。

「そっか。そんなことがあったのね…」
「ああ。それでね。取り潰しになった元サウスゴーダ太守の娘、マチルダとの連絡がついた。僕たちは彼女と合流して、人里離れた場所に住もうと思っている」
「当然、わたしも行くわ」

 ルサリィが少々不安げな口調で言った。それに、オリヴァーは強く答える。

「ああ。もちろんだ。ルサリィとはずっと一緒だよ」

 その後、彼らは借家を引き払って、ロンディニウム市街を後にした。
 市街地を覆う城壁の門番に若干怪しまれるが、ブリミル教の僧服を着たオリヴァーらに対して、そこまで強く出ることもできない。


「マチルダ姉さん!」
「テファ!」

 まるで実の姉妹のように抱きあう、二人の少女。ティファニアとマチルダだ。久々の再開に、彼女たちは思わず涙を流してしまう。
 この場所は、シティ・オブ・サウスゴーダからずいぶんと離れた丘陵地帯の端にある森である。彼等は、新たな住居をこことすることにしたのだ。

「ミス・マチルダ。こうして実際に顔を合わせるのは初めてだったな。僕はオリヴァー。オリヴァー・クロムウェルだ。これからよろしく頼む」
「へぇ、あなたがあの……。テファを助けてくれたことには感謝してるよ」

 互いに笑みを交わして、彼らは、がっちりと手をつないだ。

 そうして、亡きアルビオン王弟の娘、ティファニアの新たな生活がここに始まるのであった。





[17375] 第二十一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/10/21 20:08
「ギーシュさま。それで、どうなされたのですか?」
「ああ。そこでぼくは杖を構えながら言ってやったのだよ。『ぼくを誰と心得る! かの元帥が息子、ギーシュ・ド・グラモンぞ!』ってね。そうしたら後は簡単。賊共は尻尾を巻いて逃げ出したのさ!」
「まあ! さすがですわ!」
「…………」

 トリステイン南東部、アルデンヌ高地の外れ。風が吹き抜けるこの丘は、緑に溢れた草原がずっと広がっている。
 その中央で、三人の子供たちが草の上に敷かれたシートの上で、わいわいと談笑に興じている。
 まあもっとも、楽しそうなのは金髪の気障っぽい少年とほんわかとした栗毛の少女だけで、その隣のブロンド髪の少女は不機嫌なのが丸わかりだったが。
 さっきから二人で三文芝居にふけっている二人組みの前で、桃色ブロンドの少女―――ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールはサンドウィッチを口に加える。
 すると、ハムと玉子の味が口の中に広がった。なかなかに美味しい。

 それにしても。

 まったく、せっかく姫さまと一緒にお忍びで旅行に来られたと思ったのに……。
 どうしてあんな見栄っ張りのどうしようもないのまで付いてきているのだろう。
 グラモンだかデジモンだか知らないが、元帥の子息とはいえ、伯爵の子供が王族と公爵令嬢の間で好き勝手やるとは。
 それに、姫さまも姫さまよ。一番の友人のわたしを差し置いて、あんなもやしみたいなのの話ばっかり聞いて―――と、二つ目のサンドウィッチを口に加えながらルイズは思った。
 今度は分厚い牛肉が挟まれている。口の中で咀嚼すると、濃厚な肉汁が口腔を満たしていった。

 そうしていると、なにか地響きのようなものが聞こえてくる。
 叫びのような声と、獣がうなる音も同時に耳へと入ってきた。
 一体、なんだろう。この辺りは先代のクルデンホルフ大公が亜人を殲滅してから、ずっと平和なはずなのだけども。

 だんだんとその姿が近づいてきた。やや色の濃い金髪の少年だ。どうやら、奇声を発しているのは彼らしい。
 あれ、どこかで見たことがあるような。ルイズは目を凝らした。
 そこへ、事態に気がついた護衛たちが慌てて制止に向かうが、少年の背後から飛び出してきた双頭の黒い怪物が彼らを弾き飛ばした。

「で、殿下! お逃げください! 奴はこのギーシュが止めてみせます!」

 後ろから声が聞こえた。見ると、グラモン家の四男坊が薔薇の造花を模した杖を構え、前方に走りだしていくのが見えた。無謀なことに、彼は一人であの怪物を止めるつもりらしい。

「ぎ、ギーシュさま!」

 栗毛の少女が不安げに叫ぶ。それに、ギーシュと呼ばれた少年はぐっと親指を立てて返した。

「さあ、かかってきたまえ! このぼくがお前のような醜い怪物を成敗してくれる! いくぞ、来い、ヴァルキューレ!」

 彼が杖を振ると、薔薇の花びらが一枚、地面に向かってふわりと落ちていった。
 そして、それが地面に達する直前―――むくむくと膨れ上がって、瞬く間に人の形となった。
 鈍い輝きを放つそれは、どうやら青銅で出来ているようだった。彼が最近取得した魔法、『クリエイト・ゴーレム』だ。

 女性体型の騎士を象ったそれは、がしゃん、がしゃんと音を立てつつ、目の前の怪物相手に突進していった。
 そして、手に持った青銅の剣で横ざまに切りかかる。だが。
 ヴァルキューレの放った剣戟はあっさりと漆黒の怪物鋭い牙によって捉えられ、がっちりと顎で挟まれてしまう。
 そのまま剣がばきっと折られてしまった。続いて、青銅の戦乙女もあっという間に噛みつかれて粉砕、細い胴体が両断されてしまう。

「な……、僕のワルキューレが!」

 愕然とした様子でギーシュは呟く。思わず目を瞑ったが、怪物が彼に襲いかかることはなかった。
 見れば、足元で伸びる人間の臭いを嗅いでいるようだった。すると、その人物が立ち上がる。
 細身の、美形の少年だった。ギーシュは自分の顔に絶対の自信があるので、「ほう。僕ほどじゃないがそこそこの顔だな」などと思うに留まった。

「いてて……」
「き、きみは誰だね!」

 ギーシュは目の前の少年に大声で問いかける。すると、そんなことを問われるのが心外だとばかりに、少年は憮然とした表情で言った。

「誰って……、もう忘れられたのか。僕はヴェンツェル。ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフだ。ギーシュ・ド・グラモン。君たちを迎えに来た」

 そう、彼は言った。見ると、後方から数台の馬車がやってきているのが見えた。









 ●第二十一話「王女さまご一行、新興国へ行く」









 クルデンホルフの城下町。親善訪問の一環で、王女アンリエッタ一行はこの場所を訪れることとなった。

 本来ならばトリステイン王夫妻がやってくるはずだった。
 しかし、ここ最近起きたアルビオンの政変に際して、爵位を剥奪されるなどした貴族たちの亡命が相次いでいたために夫妻は多忙を極めていた。
 王は、自分たちが行けない代わりに娘を遣したのである。

 ちなみに、現アルビオン王の弟がトリステイン王だ。モード大公とも兄弟ということになる。

 馬車から見えるクルデンホルフの城下町は、それはそれは立派なものだった。町の北側にある、横幅十メイルの道路をゆっくりと抜けていく。

「なんできみは怪物……、いや。オルトロスだったか。そんなものに追いかけられていたんだね」

 ギーシュが呆れたような声をあげた。
 クルデンホルフ家が所有する大型馬車の中に、四人の少年少女が腰掛けている。
 前方の席にアンリエッタ、ルイズ。その向かい側に腰掛けているのがギーシュ、ヴェンツェルだ。

「王女殿下一行を出迎えに行こうと思ったら、オルトロスがいつものごとく檻を突き破ってくれてね。それであのザマなのさ」
「ううむ。やはり、生き物を飼うのは大変だねえ」

 ギーシュは、昔自分が飼っていたグリフォンのグリちゃんのことをちょっとばかり思い出した。まあ、結局彼の不始末が原因で逃げられてしまったのだが。

「……っていうか、あなた。なんでそんな痩せてるのよ。去年会ったときはオーク鬼みたいな生き物だったのに」

 さっきからずっとヴェンツェルをにらむように見つめていた、ルイズが言った。
 確かに、今の彼はかつての姿からは想像がつかないほどに容姿が変貌している。
 その問いに、光る銀色の指輪をつけた指で頬をかきながら、少年は答える。

「はは、いやね。せっかく姫殿下にご足労願うんだ。無様な体型ではあまりに失礼だと思って」
「まあ。わざわざわたくしの為に、減量を?」

 そこへアンリエッタが割り込んできた。それに、ヴェンツェルは笑顔で返す。

「ええ。お恥ずかしい話ですが」

 このときの彼は目を見張るような美少年だった。
 故か、微笑み返されたアンリエッタは微妙に頬を染め、もともと美形好きのルイズもちょっとだけ赤くなった。
 それをギーシュは面白くなさそうな顔で見つめていた。


 クルデンホルフ城に到着した一行は、大公夫妻とベアトリス、メイドたちによる盛大な出迎えを受けた。
 アンリエッタやルイズはそれを当然のように受け止めたが、ギーシュはちょっとだけ驚いたようだ。
 そして、挨拶も早々に一行は客間へと通される。

 ギーシュにあてがわれたのは、十畳ほどの部屋だった。しかし、そこかしこに豪華な装飾品が置かれて飾り立てられている。
 部屋を出て少し歩いてみるが、なぜかアンリエッタやルイズは見つかない。
 まあ、晩餐会までは自由にしてよいとのことなので、彼は城の敷地内を散策してみることにした。

 やがてやってきたのは王宮の中庭だ。その片隅に、なにか花壇のようなものがあった。
 そこで、赤い髪の小さな女の子がシャベルを使って地面を掘り返している。なんだろう。彼女は一体なにをしているのか。

「やあ。いつかのお嬢さん。なにをしているのかな?」

 自分で最高にかっこいいと考えた角度で微笑を浮かべながら、ギーシュは目の前の少女に問いかけた。

「地面を掘ってるの。見ればわかるじゃない」

 にべもなく、童女はきつい口調で切り捨てた。

「は、はは……。そうだね……」

 彼をまったく眼中に入れもしないで、一心不乱にシャベルを地面に突き立てる様子をぼうっとして眺めていると。
 そこへ一人の少女が現れた。手にはティーポッドの乗ったお盆がある。花のように綺麗な薄紫の髪が腰の辺りまで伸びている。
 一度見た美女・美少女の顔を忘れないギーシュは、それが昨年トリスタニアの王城で目にした少女であることに気がついた。
 さっそく、話しかけてみる。どうして彼女がここにいるのかとか、そういったことは彼にとってそれほど大きな意味は持っていない。
 
「やあ、お嬢さん。また会ったね。僕はギーシュ……」
「ミスタ・グラモン。旦那様があなた様にお茶をお出ししろと仰られておりましたので、これをどうぞ」

 ギーシュの言葉をさえぎって、少女は近くのテーブルにお盆を置いた。そして、そのまま直立不動の姿勢で少年を見つめる。
 なんだか冷ややかな視線を向けられているなあ、と思ったが、それはそれでいい。
 気障少年は、とりあえずテーブルでお茶を飲むことにしたのである。


 一方、ここはクルデンホルフ大公の執務室だ。大きな机に肘を乗せた大公が、自分の息子に向かい合い、なにか告げている。

「ヴェンツェル。つい先ほど、オルトロスが地下室への扉を破壊してしまった。いいか。絶対に姫殿下や公爵令嬢を地下に行かせてはならん」
「やや。そこには一体、なにがあるのですか」
「それはお前が知るべきではない。……いいか、とにかく彼女たちから目を放すな。グラモンの四男坊はアリスに見張らせている」
「はぁ……。わかりました」

 今日はさすがに、机の下には誰もいないようだった。少年は頷いて、大公の執務室を後にする。

「さて、近づけるな、とはいうけどなあ」

 ヴェンツェルは二人の少女の行方を捜していた。
 果たして、どこに行ったのだろうか。途中、大公の執事とアンリエッタの侍従が酒を飲んで騒いでいるのが見えた。
 まったく、こんな真昼間からなにをやっているのか……。
 彼女たちが行きそうな場所が思いあたらないので、とりあえず地下室の入り口を目指すことにした。


 地下室への入り口は、一階の大階段の裏手にこっそりと設置されている。普段ならば近づかないような場所だ。

 そこへたどり着くと、入り口を警護している衛兵たちが困った様子で顔を見合わせていた。

 近寄って一人に話を聞いてみると、突然やってきたラ・ヴァリエール家の令嬢がこの場所のことを尋ねてきたという。
 そこで衛兵の彼が立ち入り出来ない、と返したところ「なんか怪しいから通るわ」と言って彼女は彼らの間を強引に通って行ったのだという。
 ルイズは名門公爵の三女だ。手荒な真似は出来ないし、彼女の機嫌を損ねることを恐れたのだそうだ。
 栗毛の少女ことアンリエッタは同行しておらず、ルイズ一人だったそうである。

 それを聞いたヴェンツェルはそっと胸をなでおろす。いや、ルイズだけでもそんな何があるのかわからない場所に入れてはならない。
 そう思い直し、衛兵に地下へ向かうことを告げると、彼も地下へ続く暗闇への階段を下りていった。

 地下には長い廊下が続いている。
 見ると、松明が無くなっている。どうやら『ライト』を使えないルイズが持っていったようだった。
 仕方なく。ヴェンツェルは『ライト』を唱え、冷たい石の廊下を突き進んでいった。

 しばらく歩くが、扉の類と思わしきものは見えなかった。それになんだか角が多く、ぐるぐると回らされているような気がする。
 そんなことを思ったとき、唐突に目の前に扉が現れた。
 ずしんと重そうな石造りの扉だ。ただ、微妙に隙間が開いて中から光が漏れている。一体なんだろう。そう思い、扉を開けて中に入ってみる。
 すると、そこには……。
 おびただしい数の、『そういう道具』が大量にディスプレイされ、それを手にとってまじまじと眺めているルイズの姿が目に入った。
 ついには縄で自分の体を縛って、くいくいとそれを持ち上げている。しかも微妙に上気した嬉しそうな表情なのである。
 なんてこったい。

「み、ミス・ヴァリエール?」

 こちらにまったく気が付かないようなので、後ろから声をかける。するとルイズはびくっと背中を震わせ、こちらを恐る恐る振り向いた。
 その瞳にはそれはもういろいろな感情が渦巻いていると、さすがのヴェンツェルにもわかった。

「ヴェ…、ヴェンツェルじゃない。どうしたのかしら?」

 それでも、彼女はシラを切るつもりだったらしい。あわてて手にしていた縄や赤いロウソクを背中のほうに隠し、視線をあらぬほうに向けながら口笛など吹いている。なんとも哀愁漂う姿である。

「……ミス。このことは誰にも言わないでおくから、今すぐ地上に戻ろう。そして、ここで見たものは全て忘れるんだ」

 そう言って、爽やかな笑みを浮かべたヴェンツェルは少女に手を伸ばした。
 最初はそれを上目がちに涙目で「う~」と睨んでいたルイズも、やがて諦めたのか、素直に彼に従うことにしたらしい。
 そのときだ。うっかりさんの少年は、つい余計なことを口にしてしまった。

「いや、それにしても……。すっかり変態になってしまったんだなあ……」

 本当に小さな、蚊の鳴くような声だったが、それをルイズは聞き逃さなかった。みるみるうちに顔が赤く、鬼のように歪み、杖を振り上げながら叫んだ。

「だ、だ、だだ誰のせいだと、お、おお、お思ってるのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!」

 それと共に猛烈な光が地下室に満ち、少年の視界を白く染めた。




 さて、時間は少しばかり巻き戻る。

 城にある貴族用の大浴槽に、二人の少女が浸かっている。
 一人は栗色の髪を肩の辺りまで伸ばした少女、アンリエッタだ。そしてもう一人は、金色の長い髪をアップにしてまとめている少女、ベアトリスである。
 ベアトリスがクルデンホルフ自慢の風呂を見せたがり、アンリエッタをここまで連れてきたのである。
 水面には薔薇の花が浮かべられ、なんともいい匂いを放っている。
 アンリエッタはそれを一つ手に乗せ、自らの顔へ近づける。そして、微笑んだ。ギーシュ辺りが見たら卒倒しかねない、なんともいえない表情だ。

 そういえば、またしても姫さまはギーシュと一緒にいるが、一体なぜなんだろう。ベアトリスはそんな疑問を隣の少女へぶつけてみることにした。

「姫さま。なぜあのグラモンの子息とご一緒されているのですか? 彼は特に姫さまにお近づきになれるような人物とは思えませんが」

 なんとも辛らつな言葉である。だが、それが彼女の本心だ。
 急にそんなことを問われ、驚いたのか。アンリエッタはしばらく目をぱちぱちと閉じたり開いたりしていたが、やがて微笑を顔に浮かべながら、こう言った。

「ええ。普通ならそうかもしれませんね。出会ったとき、わたくしは彼が暴漢から自分を救ってくださったのだと思っていたのですが、後から話を聞くと、どうにもそれは間違っていたそうなんですよね。それには幻滅しました」

 そこで一旦切って、少女は話を続ける。

「でも、彼はやるときはやるお人なのです。この前、わたくしが暗殺者に襲われそうになっているときのお話です。
 彼は相手が手だれのメイジであるにも関わらず、大怪我を負いながらも命がけで立ち向かってくれたのです。
 いまどき、それを出来る人がこの国にどれだけいるのでしょう。確かに、ギーシュさまはちょっと問題のある殿方です。ですが、わたくしは……」

 それだけ喋って、アンリエッタは頬に手を当て、うっとりと微笑む。
 なるほど、自分の知らないうちにそんなことがあったのか…。などとベアトリスが思ったとき、それは起きた。

 轟音と共に、浴槽の床が吹き飛んだのだ。

 猛烈な勢いで宙に舞い上がるヴェンツェルは、浴室を眺めた。見れば、姫殿下と妹が唖然とした顔でこちらを見上げているではないか。
 ナイスちっぱい。彼は親指をぐっと立てると、そのまま風呂場の壁に頭から激突した。吹き上がる鮮血。それと同時に、指のシルバーリングが砕け落ちる。

 それと共に、それまで美少年であったはずのヴェンツェルの体型がいっきに膨れ上がる。頭から足の先まで、爆発的に肉が増えていく。
 そしてとうとう、元のピザ体型に戻った少年は床に落ちた。それを見たベアトリスは「ざまあ見ろ」と言った様子でゲシゲシと少年の頭を踏みつける。

 なにがなんなのかわからず放心していたアンリエッタは、そこで階下のルイズに気が付いた。水をかぶってずぶぬれとなったルイズは、なんだか危うげな視線を彼女に向けていた。



 *



「もうしわけありません」

 そういって、顔中ぼこぼこの肥えた少年が床に頭をつけた。その先には、アンリエッタ、ルイズ、ベアトリスがソファーに腰掛けている。
 アンリエッタは相変わらず困惑した表情で、残りの二人は顔を憤怒の情に染めている。片方は変態呼ばわりされたこと、もう片方は裸を見られたことなどが原因であった。
 知らせを聞いた大公はそれはもう慌ててしまい、姫殿下と公爵令嬢にひたすら頭を下げまくった。
 もう貴族の面子もくそもなかった。
 アンリエッタはそれに驚いてしまい、「どうぞお気になさらないで」と言って大公を慰めるほどであった。そこでとうとう大公は気絶してしまい、医務室へと運ばれて行った。

「ゆ、ゆゆゆ許せないわね。わ、わたし、とても身も心も汚された気分だわ」

 ヴェンツェルの頭を革靴を履いた足で踏みつけ、そのまま顔をカーペットに押し付けながら、ルイズは震える声で言った。顔には見事な青筋が浮かんでいる。もう、いろいろと不味かった。

「しょほうぉ、にゃんほら」
「……こ、こここのぶ、豚が…。オーク鬼以下の汚物まみれの豚がっ! わわわわたしになにしてくれてるのよっ!」
「る、ルイズ。あまり痛くしてはいけませんよ。それにそんなはしたない言葉は……」

 見かねたアンリエッタが仲裁に入るが、ルイズはそれにこう答える。

「姫さまの嫁入り前の神聖なお体を、この生き物に視姦されたのですよ。ええ。もうわたし、許せなくって。この惨めな物体をこの世から排除しないと気がすみません」

 とうとうルイズはそばに置かれていた燈台を手に取り、踏みつけた少年をばしばしといたぶり始めたではないか。
 と、そこへ唐突に霧のようなものが現れた。それはルイズの頭の辺りに留まり……。不意に、ルイズは意識を失って倒れる。
 アンリエッタはそれが『スリープ・クラウド』だと気づいたが、術者がどこにいるのかまでは判別できなかった。
 そして、頭を抱えたまま這い蹲る物体は、そっとため息をつくのであった。




「わたし、なんだか不思議な夢を見ていたみたい……」

 晩餐会。大公国内の貴族も呼んで、ちょっとしたパーティーとなっている。
 アンリエッタの隣で、ぼうっとした表情のルイズが呟いた。どうやら、いろいろとショックなことがありすぎて記憶が吹っ飛んでしまったらしい。
 ルイズの魔法によって吹き飛んだ風呂場の床は、大公妃がさっさと直してしまった。
 さすがといったところだろうか。理由は「これじゃわたしがお風呂に入れないじゃない」というものだったが。

 膨れ上がった顔のヴェンツェルは、そんな会場の隅っこで食事をむさぼっている。彼が痩せたように見えていたのは、指にはめていたマジック・アイテムのおかげだったのだ。
 ダイエットは舞踏会、パーティー続きだった昨年末にはやめてしまい、その後まったく行っていなかった。
 一度中断してしまうとなかなか再開するのは辛いものがある。そして、結局体型は元のまま変わらなかった。

 肉を葉っぱで包んだ料理へ手を伸ばしたとき、同じように隅っこで黙々と料理にありついている少女の姿が目に入った。
 それはいつかの、リジュー伯爵の娘だった。今はドリルヘアーではなく、真っ直ぐに髪を伸ばしている。ドレスはどうにも古びていて、それを着た彼女は居心地が悪そうだった。
 どうせ暇だし、たまには話してみるか。そう思い立ち、ヴェンツェルは彼女の元へ歩いていった。

「やあ、リシェル・ド・リジュー」

 声をかけられた彼女は最初、胡散臭そうにしていたが、少年のマントに付けられたクルデンホルフの家紋に目がいくと、途端に顔を変えた。
 そして、目の前の少年にどうも見覚えがあることに気が付いたらしい。

「あ、あなた……。クルデンホルフの……? いえ、トリスタニアで見たあの少年に……」
「ああ、いかにも。トリスタニアで君が平民だと嘲ったヴェンツェルさ」

 なんということか。
 まさか、自分が八つ当たりの為に絡み、そして言い負かされた相手が大貴族の嫡男だったとは……。
 恐ろしいまでの失態だ。なぜ今まで自分は無事だったのだろう。今後のことを頭に思い浮かべてしまい、彼女は明らかに震えているようだった。

 ちょっと脅かしすぎたか。
 がくがくになってしまったリシェルの姿に良心を思い出したヴェンツェルは、彼女を促してパーティー会場を後にした。


「うむ。よく似合っているな」
「……」

 着衣室の前で、綺麗な色調のドレスを着たリシェルの姿を見て、満足そうな声でヴェンツェルは頷いた。
 なぜか少年は彼女をつれ、この場を訪れたのだ。そして侍女に適当なドレスを着させるよう命令し、こうなったわけだ。

「元がそこそこ以上にいいからね。あんなお古のドレスなんかより、よっぽど映える」

 確かにあのドレスは町の古着屋で彼女が購入したものだ。デザインは古いわ物自体が古いわで最悪だったが、一着一エキューという破格さには換えられなかった。
 まあ、それを着て魔法学院のパーティーに出たら思いっきり馬鹿にされたので、もう着ることもなかったが。
 大公国内のパーティーなら問題ないだろうと着てきたのだ。結局は隅っこにいることしか出来ないが。

 しかし、この嫡子は一体なんのつもりなのだろうか。
 自分がそれほど価値のない人間だというのはわかっている。せっかく、やっとの思いで出来た彼氏が、キスの一つもしないうちから同級生に寝取られる。
 そんな苦い経験をしたばかりの彼女は、かなりネガティブな思考に陥っていた。

 ……はっ!
 もしや、彼は自分にドレスを着させて、それと引き換えに体を迫るつもりなのだろうか。
 「ドレス着たろ? 後はわかってるだろうな……」などと言いながら。自分の純潔があの脂ぎった巨体に汚されてしまうの……? と、少女は妙な興奮を覚えた。
 ところが、そんな少女の思考など露ほどにも知らぬヴェンツェルは、リシェルのを容姿を褒めるだけ褒めて、そのままパーティー会場へと戻ってしまった。

 後には、拍子抜けした表情の少女だけが残された。



 *



「……なあ、いつまできみは穴を掘っては埋めて、埋めては掘ってを繰り返しているんだね?」
「わからない。わからないわ。別に最近ヴェンツェルがかまってくれないとか、そういうことは関係ないの。ただ無性に、穴を掘りたい気分なの」

 二つの月に照らされた中庭で、もう何百回と穴を掘っては埋めるを繰り返している童女に、ギーシュはもう何十回目となるかわからない質問をした。
 ティーポッドのお茶はとっくに底をついている。

 世界から忘れ去られた二人は、いつまでも同じ行動を繰り返していたという……。






[17375] 第二十二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/10/21 20:09
 アンリエッタ王女たちがクルデンホルフ大公国にやってきて二日目となる今日は、クルデンホルフ両用艦隊の母港があるトロワビエルジュを訪れていた。

 この辺りは少し前まで治安が悪化していたものの、モーリス・ド・サックスを初めとする空中装甲騎士団員らの努力によって、かつての平穏を取り戻している。
 大公国にとって非常に重要な軍事施設を擁しているため、この地域の安定は大公国内の貴族たちにとって至上命題なのである。


「なんか随分と寂れたところね」
「ああ。まったくだ。華やかさが足りない」 

 市街地を歩きながら、桃色ブロンド髪の少女ルイズが、あまり人気のない市街地を眺めながらそんなことを言った。
 それに、金髪の気障っぽい少年、ギーシュも応じる。確かに、目だったものは町外れにある古びた城程度で、この町自体はそれほど名所も規模もないようだった。

 しかし―――市街を通り抜けたところで広がっていた光景に、そんな彼女たちも目を見開いてしまう。

「まあ……」
「な……、なによ。これ」

 ルイズたちの目の前には、明らかに人口的に作られたと思わしき巨大な湖がある。
 そして、その中に十隻ほどの艦艇が浮かんでいるのだ。
 陸地にはドックらしきものがあり、その中には全長二百メイルほどの、アルビオン空軍旗艦『ロイヤル・ソヴリン』級に匹敵する巨大艦艇があった。
 ルイズたちからは艦の上部しか見えていないが、それでもその威容ははっきりとわかった。

 案内役を任されたモーリスが驚く一行を引き連れ、人造湖へ続く階段をゆっくりと下りていく。

「……ねえ。あんたの家って、こんなもの作ってどうするつもりなのよ」
「まあ、なんていうのかな。国防を兼ねた父の趣味だろう」
「はぁ!? 趣味でこんな船をたくさん作るとか、どんだけ頭がぶっ飛んでるのよ! 謀反の疑いをかけられてもおかしくないわ!」

 ルイズが怒鳴り散らす。まあ、確かにそう言いたくなる気持ちも、肥えた少年―――ヴェンツェルにはわからなくもないのだが、こればっかりは彼にはどうしようもない。

「いや、その辺は問題ないよ。父は陛下とは個人的な付き合いがあるし、そもそもこの国の成り立ちからして、トリステイン王家には頭が上がらないしね」
「はぁ……」

 かなりの暴論だとは言っている本人も思う。しかしながら、彼にはそれ以上の言い訳は思いつかないのであった。


「クルデンホルフ両用艦隊提督、ネルソンであります。この度はアンリエッタ姫殿下にこのような僻地までご足労いただき、まこと感動の極みであります」

 立派な制服に身を包んだ四十代くらいだと思わしき男性が、びしっとアルビオン式の敬礼を決める。
 彼は、アルビオン空軍から引き抜かれた巡洋艦の元艦長だ。本来ならば戦艦クラスの艦長を任されてもいいほどの卓越した才覚を保持していたが、彼は政が苦手だった。
 故か随分と長い間、閑職に追いやられていた。
 そこに目を付けた大公によって、現両用艦隊旗艦『アルロン』艦長、艦隊提督、もう間もなく完成する新型艦の艦長に任ぜられたのである。

 提督自らの案内で、一行は湖の周囲を歩いていく。
 そこには、先の戦争で竜騎士隊が搭乗した艦、『デゥデランゲ』『ディーキルヒ』が停泊していた。それを見たアンリエッタは、ぽつりと呟く。

「まあ。なかなか面白い形のお船ですわね」
「さすが姫殿下。お目が高い。あれは我が艦隊が誇る『竜母艦』です。これまでにない設計思想を採用した新型艦で、竜騎士隊を効率よく運用できます」
「まぁ! それは素晴らしいですわ! それで、図面はどこにあるのですか?」
「ず、図面、でありますか? それは大公が直々に保管しているとのことなので……」

 軍事に興味のきの字もなさそうな少女がいきなりそんなことを尋ねてきたのに驚いたのか、ネルソンはやや焦り気味の口調で答えた。

「そうですか……」

 アンリエッタは少し残念そうな、しかし妙な怪しさを秘めた少女の瞳を『竜母艦』へ向けるのだった。


 昼食までかなり時間が空いたので、ヴェンツェルは人造湖に注ぎ込む小さな川で釣りに興じることにした。
 少し離れた場所には、同じように竿を持ったギーシュ、モーリスの姿もある。ちなみに、女性陣は湖横にある貴賓館そばでお茶を飲んでいるそうだ。

 しばらく糸を垂らしてみるが、一向に魚がかかる気配はない。あくびををかみ殺しながら、ギーシュは竿を上に上げる。釣り餌が針ごとどこかに消えていた。

「まったく、釣りってやつは退屈だね。魚なんかちっともかからないじゃないか」
「その『待ち』時間を楽しめるようになれば、君も一人前さ」
「なんだなんだ。えらく年寄りくさい事を言うね。きみは」

 竿を多きめの石に挟み、地面に寝っ転がるヴェンツェルの様子を呆れたように眺めながら、ギーシュがそんなことを言った。
 ふと遠くを見ると、モーリスがさっきからものすごい勢いで魚を釣り上げている。やっぱりあのくらい派手にやりたいなあ、と見栄っ張りの少年は思った。

「ところで、ヴェンツェルくん」
「なんだい」

 相変わらず魚のかからない竿に釣り餌をつけながら、ギーシュはサワガニに顔を蹂躙されている太った少年に問いかけた。
 ヴェンツェルの顔は、わらわらと気持ちの悪いほどにカニだらけとなっている。

「あの、モーリス・ド・サックスといったかね。彼は優れたスクウェアメイジなんだろう?」
「ああ。そうだよ。けど、それがどうかしたのかい」

 大量のサワガニを払いのけながら、ヴェンツェルは上半身を起こし、訝しげな表情で問い返す。
 すると、サワガニは抗議するかのように彼のシャツをハサミで器用に掴み、またわらわらと登りだした。

「いや、きみもぼくが土のメイジなのは知っているだろう?」
「初耳だな」

 どこからか取り出した薔薇の造花を掲げながらギーシュは言った。すぐさま否定が入るも、気障っぽいポーズを決めた少年はそれを無視して続ける。

「ぼくはまだ『ドット』だが、いつかは『スクウェア』になりたい。姫さまを守るためにもね。そこで、だ。優秀なメイジに鍛錬を頼みたいのだよ」

 ああ、そうか。つまりこいつはモーリスに稽古をつけてもらいたいのか……。とヴェンツェルは納得した。

「なるほど。でも、彼は『空中装甲騎士団』の副団長だ。僕の一存で動かせる人間じゃない」

 そう。
 つい最近、モーリスは正式な副団長となり、ヴェンツェルの侍従の任を解かれたのだった。
 今一緒にいるのは、ヴェンツェルやアンリエッタの護衛を大公に命じられたからだ。普段は忙しく、城にいないことが多い。

「なんとかならないかね」
「そう言われてもな」

 しばらく悩んでいると、そこでとある人物の顔が浮かんだ。彼女ならあるいは…。そうだな。戻ったら頼んでみるか。そう結論付ける。

「で、どうだね」
「わかったよ。その辺はなんとかしてみよう」
「おお、ありがとう!」

 ヴェンツェルの言葉に、ギーシュは喜びの声を上げながら竿を持ち上げる。やっぱり、糸の先にはなにも付いていなかった。









 ●第二十二話「夜更けに散る」









 昼食後。

 トロワビエルジュを発った一行は、夕刻にはクルデンホルフの城へと戻ってきていた。ちなみに、今夜も晩餐会が行われるという。

 城の中庭でお茶をたしなんでいたクルデンホルフ大公妃の下へ、二人の少年が現れた。
 一人は彼女の息子ヴェンツェル、もう一人はグラモン元帥の子ギーシュだった。美人の類が大好きなギーシュはさっそく頬を染めて大公妃に見入っている。

「あら、ヴェンツェル。どうしたの?」
「いえ。実は、このギーシュ・ド・グラモンに稽古をつけてやって欲しいのですよ」

 え? なんのことだ。と不審がるギーシュを尻目に、サワガニを頭に乗せたままのヴェンツェルはそのまま続けた。

「土のスクウェアメイジである母上ならば、彼に指南を施すこともできるでしょう。お願いします」

 大公妃は息子の頼みをむげに断る人ではない。
 とはいえ、彼女にも思うことはあるようだ。いたずらをする子供のような顔で、ヴェンツェルに条件を突きつけてきた。

「ええ。それは別にかまわないわ。ただ、条件があるの。あなたも一緒にわたしの訓練を受けること。いいわね?」

 その言葉に、言われた本人はなんとも渋い顔をした。どうも彼は本当に魔法の才能がないらしく、未だに簡単な魔法しか使うことができないのだ。
 数ヶ月に及んだ練習の末に突きつけられた結果がそれなのだから、いい顔などできるはずもない。
 しかし、後ろに立つギーシュが「きみ。なにをしているんだね。さっさと頷きたまえ」と背中を小突いてくる。
 大公妃は相変わらずのんびりとした表情のまま、気乗りしない息子の返答を待ち構えている。しかたない……。そう思い、彼は首を縦に振った。

「うん。じゃあ、さっそく始めましょう」

 その様子を見た大公妃は、よく通る声で快活に言いながら、白い椅子から立ち上がった。


 その頃の、ヴェンツェルの私室。
 ヘスティアが床に寝そべって、紙にパステルでなにか書きなぐっている。真っ黒に塗りつぶされたそれは、まるで今の彼女の心境をそのまま表しているかのようだった。
 そこで彼女は一旦立ち上がり、部屋の隅に置かれた戸棚に手を伸ばした。
 この部屋にはヘスティア専用の洋服入れと小物入れが置かれているのだ。
 その場所にしまわれたパステルの残りを取り出すと、また床の紙に線を引き始めた。周囲には色とりどりのパステルが散乱している。

 彼女はよくこうやって部屋を散らかすのだ。
 それを片付けるのは大抵ヴェンツェルの仕事である。メイドを呼べばいいのに、彼はそういった雑用程度なら自分でやってしまう人間だった。
 もちろん、先にメイドが見つけたときはそのメイドの仕事となるが。

 と、そこへメイド服を着た少女、アリスが現れた。
 彼女は床に散らばった画材を見て憂鬱そうにため息をついた後、それを拾い始める。
 赤髪の童女はそんな様子は一切意に介さず、ぶらぶらと足を振りながらのんきに絵など描いている。

 片や、奉公人として勤労に勤しむ少女。片や、好き勝手気ままに生活を送る少女。
 そんな状況ならば文句の一つも言いたくなるものだ。

「いつもそうやって散らかしますけど、たまには自分で片付けたらどうですか?」
「別にいいじゃない。放っておいても誰かが片付けるんだから」

 この言葉にはアリスもかちんときた。
 ヘスティアにとっての“誰か”は文字通りの意味しかもたないが、アリスにとっては違う。自分のことなのだ。
 だいたい、なんでこんな得体の知れない生き物が貴族の一員のような待遇を受けているのだ。納得いかない。

 しかし、だからといって喧嘩を売る気にもならない。
 なんだかんだいって彼女には恩がある。
 異様な力を持っているから、正面からぶつかっても自分では敵わないのも理解している。結局、アリスはため息をついて部屋を後にした。

 そうしてアリスが城の廊下を歩いていると。
 桃色ブロンドの少女と栗毛の少女がきょろきょろと周りを見回して、なにかを探しているようだった。探し物だろうか。
 やがて、すぐにお目当てのものが見つかったらしい。外部へ通じる階段を下りていった。
 なんだろうか、と思ったアリスは窓から二人が向かった方向を眺めてみる。
 すると、鍛練場のほうで何か大きな音が響いているのがわかった。土煙がもうもうと上がっており、なんだか酷い状況だ。
 仕事はもうない。ならば、少し様子を見に行こう。そう思い立って、アリスは鍛練場の方へ向かって行った。


「ほらほら、どうしたの! そんなんじゃ姫殿下は守れないわよ!」
「……っく!」

 鍛練場では、ギーシュ『ワルキューレ』を苦しそうな表情で操作して、大公妃のゴーレムと争っていた。
 明らかに手加減されているが、それでも『ワルキューレ』は防戦一方でまったく相手になっていない。ヴェンツェルはとっくに退場しており、広場の端っこで気を失って倒れていた。

 大公妃のゴーレムは鋼で出来ていて、『ワルキューレ』よりも一回り大きく体格も無骨な男性騎士のものだ。
 あれではパワーも断トツに勝っているだろう。そこに繊細なコントロールが加わるのだから、『クリエイト・ゴーレム』初心者のギーシュに歯が立つわけもない。
 ついに『ワルキューレ』の左腕を、接近した鋼のゴーレムが、手にした大剣によって切り裂いた。
 がしゃん、と金属音を響かせ、青銅の腕が地面に落ちる。

「まだだ!」

 そこでギーシュは叫ぶ。
 すると瞬時に『ワルキューレ』は体勢を立て直し、手にした青銅の剣を鋼のゴーレムの股関節の隙間へ差し込んだ。
 ものすごい音がして、巨体の動きが止まる。

 すかさずギーシュは薔薇の造花を振り、もう一本の青銅剣を生み出した。
 それを自ら手にして、ゴーレムに飛び掛る。そうして、肩の間接目掛けて一気に差し込んだ。
 さらに『錬金』で剣を溶かし、硬い金属に変化させて関節にへばりつかせる。ぐぎぎ、という音がして、鋼のゴーレムは完全に身動きの取れない状況となった。

「あら。面白い戦法じゃない」

 ちょっとだけ驚いた様子で、大公妃は『錬金』を唱える。
 すると、鋼のゴーレムの間接にあった金属が砂となって、再び行動可能となったゴーレムが動きだした。
 そして、そのまま『ワルキューレ』を弾き飛ばしてしまう。ついに、最後は大剣で青銅のゴーレムを真っ二つに切断。

 ギーシュはもう何度目かわからない敗北を喫した。

「あ、ああ……。今回は上手くいくと思ったのに……」

 それだけ言って、ギーシュはばたんと地面に倒れ落ちる。もうずっと魔法を唱えていたせいで、どうやら精神力が切れてしまったようだ。

「ぎ、ギーシュさま!」

 固唾を飲んでそんな状況を見守っていたアンリエッタが、もう我慢ならないといった様子で金髪の少年へ飛ぶように駆け寄っていった。
 そんな様子を、大公妃は苦笑しながら眺めている。

「あんたって本当によわっちいのね。あんたのお母さんはあんなに強いのに」

 ルイズは非難を浴びせながら、伸びたままサワガニに耳を挟まれるヴェンツェルに軽い蹴りを入れた。
 白い布切れが見える。しかし、気絶しているのだから大丈夫だと彼女は特に気にしなかった。

 そんな様子を見つめていたアリスはちょっとムッときたが、自分が普段ヴェンツェルに行っている制裁とそう変わるものではないと思い直した。
 しかし、彼女はなんだか釈然としない気持ちだった。そんな視線を感じたのか、ルイズがアリスのいる方向を振り返る。

「あによ」

 自分に向けられた、妙な視線を発する人物の正体が平民だと気が付いて、ルイズの眼光が鋭くなった。
 彼女は誇り高きトリステインのラ・ヴァリエール家令嬢である。腐っても鯛なのだ。プライドの高さは、東京スカイツリーを抜いてブルジュ・ドバイに匹敵するくらいはある。
 アリスは一瞬だけ針先のように鋭い視線を放ったあと、ぺこりと頭を下げてこの場から去っていく。
 その様子を、太った少年の顔の上で仁王立ちしたルイズは苦々しげに見送った。

「白、か……」

 そのとき、彼女の足元からくぐもった声が聞こえてきた。
 見ればヴェンツェルが幸せそうな顔で、ルイズの太ももの間にあるぷっくりとした大事な部分を凝視しているではないか。こころなしか彼の顔をはいずるサワガニも嬉しそうだ。

「な……、な、な……」

 顔を真っ赤にしたルイズがほっそりとした脚を思い切り上げた。
 危険を察知したのか、無情なことにサワガニは少年から離れ、どこかへ退避していく。
 ああ、なんで俺が暴行をくらわなきゃいけないんだよ……。そんなの才人だけ食らってればいいのに……。
 とヴェンツェルは思ったけれども、残念ながら食らうべき当人はこの場にいないのである。

「だだだ誰の下着見てんのよっ、こここここの、ぶ、豚ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 ルイズはげしげしと肥えた少年の顔を蹴り始める。
 しかし、そこへ妨害が入った。突然、ルイズの体が宙に浮いたのだ。
 どうやら『レビテーション』のようだった。ふわふわのブロンドヘアーがあっちこっちばらばらに、あらぬ方向を向いてしまっている。

「ミス・ヴァリエール。わたしの息子にそれ以上危害を加えるというのなら、黙って見ているわけにはいきませんよ。
 だいたい、下着を見られたくないのなら、わざわざ人の顔の上に立つなどしなければいいのです。対策を怠ったあなたに責任があるのではなくて?
 男という生き物は、目の前に女性のお尻があれば必ず見てしまうと、相場が決まっているのですから」

 なんだかどす黒いオーラのようなものを放出しながら、大公妃が静かに歩み寄ってきた。
 怖い。
 本能的な恐怖だった。見れば、アンリエッタとギーシュは怯えて抱き合って震えてしまっているではないか。

「うう……」

 これにはさすがのルイズも参ってしまった。地面に下ろされたあと、彼女は頭を下げざるを得なくなってしまう。

 大公妃はルイズ、アンリエッタ、ギーシュの三人に退出を促す。そうすると、後にはヴェンツェルと大公妃だけが残された。

「あなたもあなたよ。なんであんな子の下着なんか見たがるの。見るならわたしのを見ればいいのよ」

 いきなりそう言って、大公妃はがばっと自分のスカートをめくり、自分の息子の顔をそこに突っ込んだ。一瞬、なにが起きたのかわからない少年はむごむごと顔を動かして暴れ始める。

「あ……、やんっ。そんなに激しく動いたら……っ! ひゃうっ」
「なにやってるんですかっ!?」

 ぱしん、と乾いた音が響き渡る。ルイズたちが鍛練場を後にするのを目撃して、再びこの場にやってきたアリスだった。
 手には布団たたきを持っている。無謀にも、それで大公妃の頭を引っぱたいたらしい。

「見ればわかるじゃない。親子のスキンシップよ。お邪魔虫はどっかへ行っちゃいなさいな」
 わなわなと震えるアリスに対して、大公妃はそんなことを嘯いた。

「なにが親子のスキンシップですか。どう見ても痴女のそれですよ。この変態!」
「え? 今なんて言ったのかしら。変態? よく言うわよ、あなた夜中に「それ以上言うと仰るのなら、物言えぬ屍に変えますよ。本気で」

 やっと狭い空間から脱出したヴェンツェルは修羅場を見た。
 なんだかわからないが、またしても二人は喧嘩をおっぱじめるつもりらしい。これはまずい。

「よせ、よすんだ。なんだかわからないが、魔法を使って戦うのはやめなさい! 怪我したらどうするんだ。姫殿下や公爵令嬢も城にいるんだぞ。見苦しい真似はよすんだ」

 慌てた太っちょの少年が二人の間に割り込んだ。
 実際問題、スクウェアクラス同士の二人がまともにぶつかったら確実に片方、あるいは両方が命を落とす可能性すらある。
 これだけ険悪な仲なのだ。その確率はさらに膨れ上がる。
 しばらく二人はにらみ合っていたが、結局はヴェンツェルの言うことを聞くことにしたらしい。
 つん、と顔を背けたアリスはこの場から去っていった。

「……もう我慢ならないわ、あの子。本気で追放してやろうかしら」
「そんなことをしたら、僕はあなたとの縁を切ります。というより、もうそろそろ本当に縁えお切るか考えないといけない時期に入ってきているかもしれません」
「え、そ、そんな……」

 いきなり、ふにゃ、と大公妃は整った美貌を崩してしまった。今にも泣きそうな顔である。

「……いえ、冗談ですから。本気にしないでくださいよ」
「本当に?」

 涙を目の端に浮かべながら、大公妃は問いかけてくる。ああ、可愛いなあ。なんでこんな可愛いのに実母なんだろうか……。
 不幸だ。と思わないこともないが、今のヴェンツェルにとってはもっと死活問題が目の前に迫っている。彼の背後に立つ鋼のゴーレムだ。

「ええ……、だから……、ゴーレムで羽交い絞めにするのはやめて……、痛っ! 痛い! 逃げないから、やめっ、肉が、肉が抉れるっ!!!」



 *



 二日目の大ホールでの晩餐会。昨夜よりも多くの貴族たちが招かれている。

 その中にはモーリスの姿もあった。実直な性格の成長株で、魔法の才能に溢れ、顔もイケメンときたら人気が出るのは必然である。
 彼の元にはわらわらと貴族の夫人、令嬢たちが集まっていた。

 一方のヴェンツェル。こちらは閑古鳥も鳥かごを突き破って逃げ出すほどの惨状を呈している。
 会場の反対側にいるモーリスやアンリエッタが人を集めているせいか、彼の周囲半径五メイルには人の影すらない。
 大公位の筆頭継承者といえども、彼に期待している人間はほぼいないのだった。

 長女のベアトリスに良家から婿を取らせるという予想の方が、遥かに信憑性がある。というより貴族たちはそう思っている。
 おかげで、せいぜいモーリスくらいしかヴェンツェルに忠誠を誓う貴族はいない。

 孤独な彼は、ただ寂しく肉にがっつくしかないのだ。
 と、そこへ金髪の気障っぽい少年が現れた。
 アンリエッタの周囲はまるで囲むように男性貴族だらけになってしまい、そこからはじき出された彼も孤独の身らしい。
 趣味の悪いとしか言いようのない紫のシャツを着たギーシュを気に入るマニアな女性は、どうやらここにはいないようであった。

 しばらく無言のまま二人で料理にがっついていると、耳慣れた声が彼らの元へ聞こえてくる。

「また寂しいことですわね」
「辛気くさいわよ、あんたら」

 真っ白なドレスに身を包んだベアトリスと、自らの髪の色のような桃色のドレスを着たルイズが、呆れたような顔をして喪男二人組みを眺めている。
 ルイズの華奢な手にはワインの入ったグラスがあった。
 彼女たちへちらちらと視線を向ける貴族もいたが、まだまだ子供なのでどうにも声をかけにくいのだろう。
 アンリエッタは王族ゆえに、また別問題なのだが。

「僕たちは別に寂しくなんかない。だって、ここに大切な同志がいるのだから」
「ああ。そうだとも。友情は不滅だよ」

 あんたたちいつからそんな仲良くなったのよ。とルイズは呟いたが、彼らの友情にひびを入れることなど出来ない。
 そう、彼らの間で交わされた鉄血同盟は不滅なのだ。

「ぎ、ギーシュさま~」
「はいぃっ!!」

 アンリエッタが困ったような声音でギーシュを呼ぶと、彼は一目散に飛んでいってしまった。
 喪男鉄血同盟はここに瓦解。孤立無援となった少年はただ朽ちるだけだ。
 真っ白な灰のような物体になったヴェンツェルはやがて誰からも見捨てられ、夜中まで寂しくソファーに鎮座していたという。


 彼が自室に戻ったのは、もう日付が変わる頃だった。
 誰もいなくなった大ホールから追い立てられるようにして出てきたのである。

 見れば案の定、紙やパステルが床に散乱している。それを拾い上げ、ヘスティアの戸棚にしまう。
 彼女本人はというと、待ちくたびれたのかベッドの上で寝息を立てていた。
 どんどん暖かくなってきたとはいえ、まだまだ夜は冷える季節だ。そう思い、少年は毛布を彼女にかけてやった。

 さて、自分はどうやって寝ようか。いくら品質のいいカーペットだとはいえ、床の上で寝るのはちょっと嫌だ。
 かといってベッドはヘスティアがいる。しかたない、ワラでも持ってこよう。

 ヴェンツェルはそっと扉を開けて、馬小屋を目指すのだった。



 *



「ったくよお、いつまで俺たちはこんなところに閉じ込められなきゃならねえんだ。マチルノの野郎はどうした!」

 クルデンホルフの城の外縁に設けられた、犯罪者収容施設。何十もの壁に覆われたそのぼろぼろの小屋の中で、赤髪の青年、ミゲルは毒づいた。すぐそばにはマンショもいる。

「マチルノさん、最後まで音信不通になってましたからねえ。この国にガリアが攻め込んだときも、結局連絡取れなかったですし……」

 彼ら二人は、昨年に捕虜となってからずっとこの小屋に収容されたままとなっている。
 クルデンホルフがガリア側に引き取りを要求したところ、「そんな人物は我が国内には存在していない」として突っぱねられたのだった。
 かといって危険人物の二人を解放するなどできない。そんなわけで、こういった処遇となったのだ。
 とはいえ、いつまでもこうしていても仕方ない。二人はもうすぐチェルノボーグの監獄へ送られることとなった。いまさらではあるが。

「やっぱ、隙を見て脱出するしかねえ。杖もどきしかねえが、これでなんとか押し切れれば御の字だ」

 そう言って、ミゲルは巧妙に隠していた二本の木の棒を取り出した。荒削りの即席杖だ。かろうじて契約は出来るものの、なんだか頼りない一品である。

「ですが……。この先は」
「なに、最近反乱が起きそうになってるっていう、アルビオンへ行けばいいじゃねえか。傭兵なら喉から手が出るほど欲しいだろうよ」

 杖と契約を結びながら、ミゲルは狡猾な嗤いを浮かべた。



「冷えるなあ」

 馬小屋から、お馬さんからの冷ややかな視線を無視しながらワラを運んでいるコソ泥……、ではなく少年、ヴェンツェルは帰路を急いでいた。
 とにかく冷えるのである。これはたまったものではない。
 そうやって走っていると、不意に自分の視界を照らしていた月明かりに、影が差し込むのがわかった。

「おらぁっ!!」

 突然、少年の顔面を強い衝撃が襲った。ワラを撒き散らしながら後方に吹き飛ぶ。
 最後には、馬小屋の中に突っ込んでしまった。馬が大きな鳴き声を上げて暴れ出した。

「けっ、糞ガキが……。ついでだ。ぶっ殺してやる」
「み、ミゲルさん! そんな暇ないんですよ!」

 いきり立つミゲルと、それを必死に諭そうとするマンショだった。
 あれだけ派手な音を立ててしまった以上、それほどかからずに衛兵なり貴族なりが飛んでくるだろう。それを考えての行動である。しかし、赤い髪の青年はそれを意に介さない。
 馬小屋まで歩き、鼻や口から血を流して倒れているヴェンツェルを、小屋の外に再度吹き飛ばした。ぐしゃり、という嫌な音を立てて少年の体が地面に落ちる。

「けっ、他人がいなくちゃ、なにもできねえんじゃねえか。なんでこんなクズがのうのうと生きてやがるんだ」

 ミゲルは苦々しい表情で唾を吐きながら呟いた。
 彼やマチルノ、マンショ、そしてジュリアンはそれぞれが複雑な事情を経てガリア北花壇騎士となったのである。
 彼らから見れば、裕福な家で贅沢な暮らしをしている貴族は、全てが敵のようなものなのだった。それはこの少年にしてもそうだ。
 顔も腹も関係ない。手当たり次第に、散々に蹴りを加える。それをマンショは黙って見つめていた。彼にはもうその行為を止める意思はない。

「てめえなんか燃やす価値もねえ。無様に血反吐でも吐いて死にやがれ」

 だんだんと興奮状態に陥ってきたミゲルがそう呟き、さらに腹を蹴ったときだった。

「き、貴様たち! なにをしている!」
「ヴェ、ヴェンツェル様が!」

 けたたましい警報音と共に、数人の衛兵が突っ込んできた。
 彼らは血まみれでぼろぼろのヴェンツェルを目にすると、怒りをあらわにしてミゲルたちに切りかかる。
 ヴェンツェルは貴族には絶望的なまでに人望がないが、城の男性召使いや衛兵とはそれなりに親しくしてきたから、彼らがこんな光景を見て激怒するのも当然であった。

 だが、彼らがそれ以上ミゲルたちに近づくことはできなかった。
 目を覆ってしまいそうなほどに真っ白な筒状の炎が彼らを瞬時に消し飛ばしてしまったからだ。その炎は勢いを失わずに城の外壁を貫通し、大爆発を起こした。

「けっ、雑魚が。手ごたえもねえぞ」

 既に城の中は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなっている。
 このとき、大公はアンリエッタの身の安全を最優先したため、ほぼ全てのメイジがヴェンツェルとは真逆の方向へ向かっていた。

 ただ一人のメイジが混乱状態の中この場所へ向かってきているが、もう間に合いそうもなかった。

 もともと肉の多いまぶたは、余計に膨れ上がってしまっている。
 さらに血で極端に視界の悪くなった目で、彼はぼんやりと視線を空へ向けた。赤い髪の青年が、憤怒の情をあらわにして、自分を睨みつけている。
 すると彼が、「見てんじゃねえよ」と言い、靴が彼の視界を覆い隠した。かなりの衝撃があったはずだが、もうヴェンツェルはなんの痛みも感じなかった。
 「ワラを取りに来ただけなのに……、ほんの一瞬でここまで変わるって。人生ってなにが起きるかわからないな」などと、少年はぼんやりと考えた。
 しかも、よりによってアンリエッタたちが訪問している最中とは。

 やがて、ミゲルは止めを刺すべく、即席杖に『ブレイド』を展開させた。
 獰猛な光を宿した瞳がそこにはある。いつかのような荒々しさはない。だが、その表情が連想させる狂気は、この世のものとは思えないほどに、暗く、深かった。

「手足を全部切り取ってやる。せいぜい、苦しみながら死ねよ」

 躊躇なく魔法の刃が肉も骨も裂き、ついに少年の左腕が胴体から切り離されたとき―――ようやく、風の閃光が現れた。


「坊ちゃまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!!」

 目の良いアリスには、はっきりと見えてしまった。
ボロ雑巾のように転がるヴェンツェルの姿を。
そして、彼の腕が、ただのマネキンの腕のように、力なく落ちているのを。それを見たとき、もう彼女は感情を抑えきれなくなった。

「くかかっ! なんだ、アリスちゃんもおでましかぁぁぁ!!!」

 ミゲルは、まるで待ち人が現れたときの幼い少女のように純粋な笑みを浮かべる。もっとも、ベクトルがあらぬ方向を向いていたが。そして、彼の興奮状態は極限に達した。

「……ミゲルさん!」

 だめだ。まずい。この状況では、撤退する時間がなくなる。
 マンショは今度こそミゲルを止めようとするが、その顔に浮かんだ『悪魔』を見て、もう諦めてしまったようだった。
 一人、『フライ』でこの場から脱出する。最後に、「さようなら、ミゲルさん」と呟いて。

「ああああああああっ!!」

 六体の『偏在』を展開し、次々と雨のように魔法を放ちながらアリスはミゲルに突進していった。
 とはいえ、攻撃範囲の広い魔法は使えない。地面のヴェンツェルに当たってしまうからだ。

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「がっ!?」

 そんな馬鹿な。
 アリスが気づいたときにはもう、ミゲルが放った白い筒状の炎が『偏在』を吹き飛ばし、彼女の本体に迫っていたのだ。
 とっさに防御するが、それでもすべての威力を無力化することはできなかった。爆発が起き、少女は地面に落下する。

「く……ふ、ははははははははははははははははははあはははっははははははははは!! どうだ、見たか俺の『劫火』を!!」

 地面に落ちたアリスにミゲルは歩み寄っていく。そして、いつかのように長い髪を掴んで、持ち上げる。

「……っ」
「綺麗だ。綺麗だよ、アリス。ああ、本当に綺麗だ。ずっと俺のおもちゃにしてやる。
 そうだ、お前には『死』なんて生ぬるい罰は与えない。もっと辛い、生きているのが嫌になるくらいの地獄を見せてやる。
 まずはどうするか? そうだ、公開貫通式なんてどうだ? それがいいな! 決まりだ!!」

 そう言って、ミゲルはアリスの、既にぼろぼろとなっていたメイド服だけを焼き払う。
 地面に落ちたせいで多少薄汚れていたものの、石灰のように真っ白な肌が露出する。少女は悔しさと羞恥で、頬を赤く染めた。


 ―――なんだこれは。左腕の感覚が、あるのに、動かない。いや、ないんだ。
    脳が、その部位を失ったのだと認識できていないのか。だけど…。右腕なら、動かせる。あれは右ポケットにあるはずだ…。

 かすむ視界の中、少年は『それ』を取り出す。そして、動かないはずの体を強引に動かした。
 左目が熱い。さっきから、燃えるように熱いのだ。だが、その痛みが自分の痛覚を思い出させてくれる。
 自分がまだ生きているのだと、まだ死んでいないのだと。心臓に近い左腕がほぼ失われているせいか、出血が酷い。
 だが。
 そんなことはどうでもいい。とにかく、アリスを助けなければ。
 満身創痍の状態ながら、彼はゆっくりと、足を引きずるようにしてミゲルの背中へ近づいていった。
 そのときだ。ミゲルが、アリスのメイド服を焼き払ったではないか。そして、なにか叫んでいる。

 ふざけるな。お前はなにもわかっちゃいない。メイド服は―――ちゃんと、自分の手で脱がすものなんだよ。

 そのとき、ミゲルは自分の背中に何かが突き刺さるのを感じた。

 なんだ。これからお楽しみだってのに。まだ服を取っ払ったばかりだ。邪魔する奴はゆるさねえ。
 首だけ振り返ると―――そこでは、先ほど自分が散々に痛めつけた少年がナイフをミゲルに突き立てているではないか。
 だが、そこは心臓はおろか肺もあたらないような場所だった。

 馬鹿なやつだ。結局、最後まで……。
 と、そこでミゲルは自分の体の中で渦巻く、妙な熱に気が付いた。それはナイフを中心に、どんどん面積を増している。最初は爪の先ほどだった違和感が、どんどん膨れ上がっていく。
 おかしい。なんだ、これは。ミゲルはこのとき、ようやく自分の体に起きている異変に気が付いた。

 熱い。熱い。熱い。
 なんだ。なんでこんなに熱いんだ。わけがわからない。どうして、火メイジである俺の体が……。

 とうとう、アリスの華奢な体を地面に落としてしまう。呆然とした表情のまま、少女はじりじりと後ずさった。

 そして。
 ミゲルの体が燃え上がる。それも一瞬のことで、次の瞬間、彼は灰も残さずにこの世界から消滅した。



 数多の制止を振り切って、大公、大公妃とヘスティア、モーリスが爆発の現場へようやく到着したとき。既に、事は終わったようだった。

 左腕を失い、上半身裸で横たわるヴェンツェルと、彼のそでが片方ないシャツを着たアリスがいたのだ。
 アリスは珍しく泣いていて、涙をぽろぽろと流しながら、少年へ必死に『ヒーリング』をかけているようだった。
 しかし、一度離れてしまった腕は、そう簡単にくっつくことはない。

「これは……。なんということだ。これだけの状態で……。生きているのが奇跡じゃないか……」

 急いでヴェンツェルに駆け寄った大公は、自分の息子が負った怪我のあまりの酷さに舌を巻いた。
 一目見てわかるが、ショック死していてもおかしくないほどの傷だ。内臓もかなりの損傷を負っているはず。なのに、彼は立ち上がり、ナイフを使って脱走囚人を倒したのだという。
 信じられない。魔法をろくに使えない息子が、どうして……。

「そんな……」

 大公妃とモーリスは、ただ唖然とした様子でそんな情景をただただ見守っている。
 その横のヘスティアは、不意に懐からいくつかの『火石』を取り出した。そして、それを吸収して―――久方ぶりに、女性の姿となる。

「ヘスティア、ちゃん……」

 初めてヘスティアが火石を吸収したのを見た大公妃が、驚いた口調で呟いた。そんな彼女に、ヘスティアはすまなさそうに告げる。

「ごめんなさいね。騙すつもりはなかったのだけれど……」

 やはり驚いた表情を見せる大公に頭を下げ、彼女はヴェンツェルのそばに膝をついた。そして、無我夢中で『ヒーリング』をかけ続けるアリスの肩を掴み、こう告げた。

「アリス。今からアタシがヴェンツェルの中に入って、強引に腕を接合する作業を行うわ。だから、あなたたちはそれを外側から手助けしてちょうだい」
「え……」

 アリスが驚くものつかの間、ヘスティアは自らの唇を少年に重ねる。
 すると、彼女の体が赤い粒子状のものとなって、ヴェンツェルに吸収された。
 やがて、ヴェンツェルの左肩の切断面から赤い光が伸びてくる。慌てて大公が左腕をその部分に近づけると、ゆっくりと糸のようなものが伸び、両壁が連結。
 アリスと大公がそこで『ヒーリング』を再びかけ始める。
 ゆっくりと、しかし確実に腕は接続を取り戻していく。緊迫の時間がすぎ―――ついに、腕がしっかりと接合された。『ヒーリング』の効果で、皮膚が修復され始める。

 そのときだ。
 再び小さくなったヘスティアがヴェンツェルの体から分離した。酷く汗をかいており、かなり憔悴しきった様子だ。
 『強引に』と言っていた以上、彼女も相当に体力を消耗したのだろう。ふらりと倒れそうになったとき、そんな彼女を支える人がいた。大公妃だ。

「……ジャンヌ。いいの? アタシは……、化け物なのよ」
「関係ないわ。あなたはヘスティア。それ以外の何者でもないでしょう? ……ヴェンツェルを助けてくれて、ありがとう。今は、それだけよ……」

 恐る恐るといった口調のヘスティアに、大公妃は震える声で応えた。どうやら、涙を必死にこらえているようだった。

 それでも『ヒーリング』をかけ続けていたアリスは、とうとう気を失って倒れてしまう。
 もともと疲弊しきっていたところを、無理に魔法を唱え続けていたのだから、当然といえば当然である。

 やがて大公はアリスを優しく抱きかかえ、一方ではモーリスがヴェンツェルを医務室へ運んでいく。

 そして、あとには、全てが燃え尽きた残骸だけが残った。




 *



「あんたって……、なんか怪我ばっかりしてない? しかも重傷の」
「まったくだ」

 朝。城の内部にある医務室で、ヴェンツェルは痛みによって目を覚ました。
 そこにいたルイズが開口一番こう告げてくるし、裏切り者のギーシュがそれに同意してくれるのだから、たまったものではない。
 ふと辺りを見回すと、隣のベッドでアリスが横になっているのがわかった。彼女はまだ眠っているようだ。

「いや……。そうだ、姫さまは?」
「ぼくがお守りしたからね。傷一つなかったよ!」

 ギーシュが諸手を挙げながら、寛大な態度でそう言った。
 などとのた打ち回っているが、実際には彼は自分の寝室の中で震えていたのである。彼の名誉の為に、それを公開することはないが。

「そういえば姫さまが、大公閣下になにか仰っていたわね。「このことは不問にするから、かわりに設計図を寄越しなさい」とか。設計図ってなんのことかしら」

 ルイズが少し首を傾げながら呟いた。なんだか犬が小さく傾げる仕草を思い出す。
 それと重なってしまい、ちょっと可愛い。そんなことを言ったら止めをさされるから言わないが。

 設計図、というのは恐らく『竜母艦』のものだろう。あれはまだトリステインには思想そのものが存在していないはず。
 ならば、それをアンリエッタが欲しがるのも……、あまりわからない。どうやら、ギーシュという情けない男といるせいで、原作よりもアンリエッタはしっかりとした女の子になっているようだ。

「む。きみ、今なにかぼくの悪口を考えなかったかね」
「なんのことだよ」


「お、お兄さま」

 ルイズとギーシュが退室するのと入れ替わりに、ベアトリスが現れた。そういえば彼女の存在をすっかり忘れていたな、とヴェンツェルは思った。

「やあ。怪我はなかったかい」
「え、ええ。もちろん」
「そっか。よかった」
「…」
「…」
「…」

 どうしたのだろう。一向に喋る気配のない妹の様子を見て、ヴェンツェルは少し不安になった。

「…ベアトリス?」
「は、はい。なんでしょう」
「どうしたんだ、さっきから黙って。お腹の具合でも悪いのか?」
「…いえ」
「便秘になったらちゃんと診てもらうんだぞ。放っておくと最悪の場合死にいたb」

 ヴェンツェルがそんなことを話していると、とうとうベアトリスがなにか投げつけてきた。りんごだった。あれ、りんごってハルケギニアにはあるのか……。
 と思ったのもつかの間、ベアトリスが叫んだ。

「なによ便秘便秘って、人が心配してきてみれば! ばぁぁぁぁぁぁか!!」

 最後にレモンを投げつけて、ベアトリスは怒りながら医務室を後にする。図星をついたか……。
 などと、完全に的を外したことをヴェンツェルは考えていた。救いようがない。

「……なんだかなあ」

 「レモンちゃん恥ずかしい…」ってハルケギニアに残る名言だよなあ。聞く機会があったら才人の伝記に乗っけてやろう。
 少年は手のひらのレモンを見つめながら、そんな意味不明なことを考えていた。





[17375] 第二十三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/05/30 07:21
 アンリエッタ姫一行の訪問も、三日目となった。
 昨夜の騒動の後始末に追われる慌しい城内とは違い、静まり返ったクルデンホルフ大公の執務室で、二人の男女が向かい合ってソファーに腰掛けている。

「ヴェンツェルとあの…ヘスティアといったか。彼女はどういった関係なのだね」
 大公妃に押される形で、なし崩し的に同居を認めていた彼は、真紅の髪の童女がどういった存在なのかまったく把握していなかった。せいぜい、そこらへんの孤児でも拾ってきたのだろうという認識だったのだ。まさか、あんな力を持っていたなどとは露ほどにも考えていない。

 彼と向かい合う、メイド服を着た薄紫の髪の少女は、それに淡々と答える。
「火竜山脈で坊ちゃまが見つけたようです。ただ、わたしもその時の状況を詳細には把握しておりませんが…。力の行使に『火石』を要する点など、かなり不可解な存在であることは確かです。自分で“女神さま”などと名乗っていますし」
「うむ…」
 男性は頷きながら、自分の記憶を探る。しかし、彼が今まで得てきた知識の中に、そういった存在に関連するものはない。
「彼女の炎の力は尋常なものではありません。それに窮地を救われたこともありましたが…。少し考えてみると、やはりどうにも腑に落ちないですね」
 紅茶の注がれたカップへ口をつけ、少女は言った。思い出されるのは、ジュネーレ村上空でヘスティアが放った『火の柱』だ。あのときはただただ、その神々しいばかりの光の奔流に魅せられていたが、よく考えてみれば…おかしいことだらけだ。

「…しばらく、独自に調べてみよう。それでなにか掴めるのか、まったくわからぬが」
 カーテンをそっと開け、その先に見える日の光に目を細めながら、大公は静かに呟いた。



 *



「…やっぱり、違和感があるな」

 医務室で一人、ベッドに腰掛けるヴェンツェルが小さく呟いた。さっきから左手を、握ったり開いたりしてみているのだが、どうにも感覚が掴めていないようだ。困惑した表情のまま、彼は立ち上がる。予定では、今日はエシュを訪問するはず。あまり寝ているわけにもいかないだろう。
 散々痛めつけられた内臓が悲鳴を上げるかと思ったのだが、予想していたよりはずっと“軽い”。これならば動くのにも支障はない。
 そこで、ふと思い起こす。昨夜、彼は初めて人を殺めたのだが、これといって実感は湧かなかった。昔、生まれて初めて人間なり亜人なりの命を奪った人間が、後で吐くという展開をよく目にしたものだが…。
 自分は殺しもいとわない冷酷な人間なのだろうか。それとも、どこかおかしいのか。壊れてしまっているのだろうか。わからない。考えるだけ無駄かもしれない。この先、どれだけ多くの人間を倒すことになるのかわからないのだから。
 そういった思考を振り払って、ゆっくりと彼は医務室を後にした。


 やがて彼がやってきたのは自分の寝室だ。ドアを開けると、ヘスティアがデルフリンガーに向かってなにか呟いていた。
「ヘスティア。なにをしてるんだい」
 彼が声をかけると、ヘスティアはびくっとした様子になり、慌てて少年の方を向いた。そして、取り繕うようにデルフリンガーを突き飛ばした。床に転がったさびさびの剣が「いってーな」と抗議の声を上げるが、彼女はそれを意に介さずに言った。
「あ、あら。おはよう、ヴェンツェル。体はもういいの?」
「おはよう。もう大丈夫だよ。昨日は君が助けてくれたみたいで…、いつもありがとう」
 そこでなんとなく、ヴェンツェルはヘスティアの頭を撫でてみた。もしかしたら嫌がられるかもしれないと思ったが、彼女は目を細めて気持ちよさそうにしている。しばらくそうしていると、「おうやだやだ。いつまでやってんだか」という金属の擦れるような声がしたので、慌てて手を離した。

「まったくよぉ。せっかく晴れて自由の身になったと思ったら、ずっとクローゼットの奥に放り込みやがんの。俺はね、馬鹿なヤツにこき使われんのは癪だけどよ、ああやって放っておかれるのも気に入らないわけよ。それがずっとなんてね。やってらんねぇわ」
 なんだかうるさいから出してあげたの。とはヘスティアの弁だ。デルフリンガーは鞘に収まっていると声を発することは出来ない。おそらく、なんらかの拍子に鞘がずれてしまったのだろう。
 そういえば、手に入れるだけ手に入れて放っておいてしまったな。ヴェンツェルはそう思い起こした。最初は、いずれは才人にあげようと思っていたので、変に情を抱かぬようにとしまい込んでいたのだが…。
 いつの間にか、街で買った折りたたみ式ナイフの方が取り回しがいい故に、ついそちらばかり持っていたのだった。もうかなりの長い間、デルフリンガーは持ち出していない。
 意思のあるデルフリンガーに、それはちょっと酷な仕打ちだったかもしれない。

「悪い悪い。これからはちゃんと相手するからさ」
「はぁ? か、勘違いすんなよ? べ、別に、子分に相手されないのが悔しいとかじゃないんだからなっ!」

 デルフリンガーの声でこういう台詞を言われるのは辛いなあ。というより、なんでこのインテリジェンスソードはありがちな台詞など知っているのだろう。ヴェンツェルはそんなことを思うのだった。







 ●第二十三話「王女さまご一行、新興国へ行く。飛んで三日目」







「昨晩は大変だったそうですわね。もう、お体の方は問題ないのですか?」
「ええ。問題ありません。お気遣いいただきまして、ありがとうございます」

 正午。
 クルデンホルフ南端の町エシュに、アンリエッタ一行は訪れていた。馬車で通り抜けながら、様々な施設を説明していると、アンリエッタがヴェンツェルにそんな言葉をかけてきたのだ。

 エシュは現在クルデンホルフ大公の直轄地となっている。エシュ伯爵がガリア軍の捕虜となったまま、消息不明になったからだ。彼には妻も子もなく、従って領地・爵位を継承できる人間もいない。
 大公国といっても、その全ての土地を大公が直接支配しているわけではない。配下の貴族たちに土地が分配され、それを彼らが経営しているのだ。

 ちなみに、大公の直轄地は他にトロワビエルジュがある。その他の土地はだいたい貴族たちに下賜されていた。とはいっても、貴族は準男爵のモーリスのような土地のない連中が多数派を占めているが。
 国境の町だからなのか、この辺りはガリアから越境してくる人間が多い。最近開通した、ゲルマニアのラインラント地方への幹線道路を利用する商人が多いのだ。ゲルマニアの北部や首都へ行くなら、あまり治安のよくないトリステインや、近ごろ物騒なアルザスを通るより、治安がかなり安定しているクルデンホルフのルートを選ぶのも当前だろう。

 王女一行が視察に訪れるということで、市民たちはこぞってアンリエッタらを見物しに来ている。馬車の中から優雅に手を振る王女殿下の姿を見て、道沿いの人々は歓声に沸いていた。
 一方、反対側から身を乗り出したヴェンツェルには「王女さまを出せ!」「なんで豚が姫殿下の馬車に乗ってるんだ!」などと罵声が浴びせられ、挙句の果てには物が投げられる始末だった。それを、顔を真っ赤にしたモーリスが怒鳴りながら追い払っている。
 今回彼らが搭乗しているのはクルデンホルフ家の大型馬車だ。昨夜の事件後、アンリエッタの馬車の車輪が破損していたのが見つかった為、急遽こういった形がとられたのである。

 石が額に当たって涙目で馬車の中に引っ込んだヴェンツェルに、さっきからそれを呆れた様子で眺めていたギーシュが言った。
「きみは本当に貴族なのかね?」
 たった一言ではあるが、いろいろな意味が込められた言葉だ。そこらへんの底辺貴族だって、平民が無礼な態度をとれば切り捨てるのが当たり前の世の中である。大貴族である大公の嫡子にも関わらず、平民に舐められ、それでもやり返さないヴェンツェルは、ギーシュにとっては実に不思議な行動をとる人物だろう。

「…貴族ではある。そういうつもりさ」
 額を押さえながら、肥えた少年は誰に向けるでもなく、そう小さく呟いた。


 クルデンホルフの城へ戻ってきた一行は、思い思いの時間を過ごしていた。例によって、今夜もパーティーが開かれるのだ。

 ヴェンツェルが廊下を歩いていると、紙の束を抱えたアンリエッタが角の向こう側から出てきた。その方向にあるのは大公の執務室だったはずだが…。まさか、父は王女までその毒牙にかけてしまったのだろうか。美人なら年齢も身分もほぼ見境なしに手を出す人なので、彼は大いに不安を抱いた。
 しかし、そのすぐ後ろから侍従のラ・ポルトが現れたのを見て、その不安はなくなる。アンリエッタも別に変わった様子はない。そうだな。いくらなんでも王族に手は出さないだろう。彼はそう思い直した。

「姫殿下。不躾ですが、その紙は…」
「これですか? ふふ、秘密ですわ」
 笑顔でそれだけ言って、彼女はたたた、と駆けて行ってしまう。それを慌てた様子の侍従が必死に追いかけていく。なんだろう。気になる。ヴェンツェルは、とりあえず大公の執務室へ向かってみる。

 扉へノックをしても返事がない為、少年は扉を開けて中へ入った。そこでは、自分の父が机で頭を抱えているではないか。一体、どうしたのだろう。
「ち…、父上」
「………」
 へんじがない。ただのしかばねのようだ。

「父上」
「…うん…。ヴェンツェルか。どうした」
 何度か呼びかけると、ようやく大公が顔を上げた。すると驚くことに、彼の顔は見事に憔悴しきっているではないか。ここで一体なにがあったのだ。
「どうされたのですか?」
「ああ…。本来ならば『竜母艦』の設計図だけを渡すはずだったのだが…。新型砲の設計図まで持っていかれてしまった。おまけに王家への貸付金の返済無期限延期まで…。完全に不覚だ…。まさか、あんなところに侍従が潜んでいるなど…」
 大公は、この世の終わりだといわんばかりの苦悶と悲壮に満ちた表情で自らの頭を殴りだした。
 ああ、なんか断片的に聞いただけで、どういった状況なのかが手に取るようにわかる。もう駄目だな、この親父。チェルノボーグにぶち込まれてしまえばいいのに。そんな風に心の中で父親を罵って、ヴェンツェルは執務室を後にした。

 その日、大公は最後まで執務室にこもったままだったという。



「またやってるのか。懲りないなあ」
 クルデンホルフ城の渡り廊下。外が一望できるこの場所からは、城の裏手にある鍛練場を見渡すこともできるのだった。そして、呆れたような口調でヴェンツェルが鍛練場の方を眺めながら呟く。
 またしてもギーシュが大公妃に訓練を頼んだのだろう。さっきから土煙と悲鳴が上がっている。にしても、すごい煙だな…。と、他人事のように少年は考える。

「あら、ヴェンツェルじゃない。どうしたの?」
「え? 母上?」
 そこへ現れたのは、彼の母親である大公妃だった。見事な色の金色の髪に、青い瞳。胸は大きくも小さくもないが、細い胴体のせいか、割合大きく見える。とても二児も産んでいるとは思えない、若々しい美貌の持ち主だ。
 だが、そんな彼女がなぜこの場所にいるのだろう。ではいったい、鍛練場で土煙を上げているのは誰なのか。それが気になって、少年は現場へと向かうことにする。

「なんだかすごい音ねえ。ミスタ・グラモンが鍛練場にいるって聞いたけど、あとは誰かしら。モーリスくんはいないんだけど…」
 さも当然のようにヴェンツェルの後についてきた大公妃が呟いた。白いワンピースを風に揺らしながら、編み上げのサンダルを履いた足で地を蹴る。
 鍛練場に近づいてくるにしたがって、どんどん音が大きくなってくる。やがて、ずしん、ずしんと地を揺るがす振動が彼らを襲う。地震大国日本でも滅多に遭遇しないような、非常に大きな地響きだ。攻城用ゴーレムが地面を踏み鳴らしても、ここまでの音はでないだろう。
 この頃になると、ヴェンツェルはもう大方想像がついていたが、ならばなおさらのこと止めなくてはならない。地面を抉られると後々修繕が大変なことになるのだ。

「ひえぇぇぇ! 許しておくれ、ほんの出来心だったんだ!!」
「ひ、ひ人の、むむむむむむむむむむ、む、胸をををさささ、触っておいて出来心…? ふ、ふざけんじゃないわよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 やはりというか、そこにいたのは額に青筋を浮かべて、必死の形相で逃げるギーシュを追い掛け回すルイズだった。手には杖を持ち、手当たりしだいに振りまわしている。
 辺りは散々な様相を呈している。地面はクレーターだらけになっているし、壁は抉れるどころか吹き飛んでいる箇所すらある。ハルケギニアの英雄たちを模した石造も無残な有様だ。こんなことをしたらバチが当たるのではないか、そう思わずにはいられないほどの悲壮さであった。

 ため息をつきながら、ヴェンツェルは『レビテーション』を唱えた。すると、ルイズの体が逆さまに浮かび上がり、下着が丸出しとなってしまう。すると、先ほどまで逃げていたはずのギーシュがいつの間にか現れ、まるで教会で祈りを捧げるようなポーズで下着を凝視していた。
「ううむ…、この三角形…。神が創りたもう女体の神秘! 男児が決して得られぬ黄金比…。ぼくはこれが欲しい…。きみもそうは思わないかね?」
 いきなりギーシュが顔を自分の方へ向け、そんなことを言ってきたのだ。女性化願望のないヴェンツェルは首を横に振った。
 そんな馬鹿をやっていると、いろいろな理由によって顔が真っ赤になったルイズが杖を振ったではないか。それと同時に、ギーシュの体を大爆発が襲う。そしてそのまま、彼は天高く吹っ飛んでいった。

「ヴェンツェル。そろそろ下ろしてあげなさい」
「あ…、はい」
 大公妃に促されたヴェンツェルは『レビテーション』を解除すると、ルイズが地面に落ちる。近くにクレーターがあったが、辛うじてそこに落ちることはなかったようだ。
 そこへ大公妃がゆっくりと近づいていく。少女は先日の彼女の剣幕を思い出したのか、体をすくませる。だが予想外にも大公妃は優しく声をかけて事情を聞きだし、ルイズを慰めるだけだった。息子が絡まないことには極端に優しく、寛容になるらしい。
 そんな様子を、「ああ、鍛練場どうするんだろう」と思いながら、ヴェンツェルは眺めていた。


「いてて…」
 ギーシュが目を覚ましたとき、彼は城の正面玄関の辺りに仰向けで倒れていた。体をまさぐってみるが、どこもおかしなところはないようだ。これは助かった。そう思い、立ち上がる。

 すると、彼の目の前に巨大な黒い物体が出現した。体長が三メイルはあろうかという、漆黒の塊だ。しかも首が二つある。
 彼は少なく頼りない知識を総動員して、なんとかその生物の名前を思い出そうとした。…そうだ。こいつはオルトロス。訪問の初日に突っ込んできた凶悪な犬もどきだ。ワルキューレの胴体を牙で粉砕してしまうほどの怪力を持った、文字通りの怪物じゃないか!
 そうとわかれば逃げるのである。ギーシュは一目散にこの場から逃げ出そうとした。しかし、よく考えてみると、なにか引っかかる。
 なぜ、かなりの距離を『フライ』無しで飛行した自分が無事なのか。なぜ、オルトロスはこんな近距離にも関わらず自分を襲ってこないのか。それらをつなぎ合わせると…。そうか。そういうことだったのか。
「そうか…、お前…」
 助けてくれるなんて、感動した! とばかりにギーシュはオルトロスの頭を撫でてやろうとして―――ばくっと頭をかじられた。

「ミスタ・グラモン。空から落ちてくるあなたに『レビテーション』をかけたのはわたしです。そのオルトロスは、さっきからあなたの隙をうかがっていただけです」
 突然、後ろから可愛らしい声が聞こえてくるが、頭をがっちりと固定されたギーシュは振り向くことができない。
 ああ、そういうことはもっと早く言ってくれよ…。遠のく意識のなか、彼は呟いた。



 *



 今夜も、城には大勢の貴族たちがやってきていた。昨日の騒ぎなどこの頃にはすっかり忘れ去られており、城内の慌しさの原因もパーティーに起因するものとなっていた。

 そんな中、ヴェンツェルはなじみの老衛兵と共に、城壁の外側にある墓地を訪れていた。騒がしさなど、この場にはない。貴族たちから忘れ去られ、月明かりの中…ただ静けさだけが支配する“異質な空間”だった。
「急ごしらえですが…。あいつらの分の石は、用意しておきやした」
 老衛兵はそういって、あまり出来のよくない、四つの墓石の元へ少年を案内する。それは、石に名前を彫っただけの簡単な作りだった。
「いや…。マジソン。ありがとう。あいつらも、これで少しは報われるさ」
 それだけ言って、彼は手にした花束を献花台に添えた。

 この場所に据えられた墓石。それは、昨晩殉職した城の衛兵たちの物だ。本来ならば大公がそういう作業を行うべきだったが、今回はヴェンツェルがエシュへの出立前に老衛兵に頼んで、墓石を用意させたのだった。自分の為に怒って、守ろうとしてくれた彼らの為に、せめてもという思いがあった。
 ミゲルに焼き殺された彼らの遺体は、灰すらも見つからなかった。あるいはあったかもしれないが、もう他のものと混じってしまっていて、とても識別ができる状態ではなかった。だから、ここにあるのは石だけの空っぽなお墓だ。
 いったい、なにを思うのか。黙祷を捧げながら、ヴェンツェルと老衛兵は、ただただ下を向いていた。


 数刻の後。

 大ホールへ向かう気分ではない少年は、自室へと向かうために廊下を突き進んでいた。途中、大公の執事からパーティーに出るよう言われたが、結局それを断ったのだった。
 やがて自室へとたどり着いたヴェンツェルは、インテリジェンスソードのデルフリンガーしかいない部屋のベッドに、ぼふっと音を立てて寝転がった。

「どうした子分一号。えらくナイーブな様子じゃねえか」
「いいや。別にそんなんじゃないさ。ただ…」
 華やかな貴族の生活。一見優美に見えるそれにも、どす黒い舞台裏が存在していることは知っている。過酷な生存競争が繰り広げられていることも。ここ最近のトリステインやアルビオンで貴族が大粛清されたのは、その最たる例だ。
 アルビオン東部で、ブリミル教の教義の忠実な実行を掲げる勢力と、没落したモード大公派の貴族が結託し始めているという。彼らは、数十年前に設置されて、すぐに廃止になった貴族議会の再設置を王政府に要求しているという。だが、ずっと中央集権化・王権強化を推し進めてきた現王がそれに応じるはずもない。
 自分以外の一族を幽閉・追放・粛清して今の地位を築きあげたゲルマニアのアルブレヒト三世の動向も気になる。選帝侯の一部に、離反する動きが見られるからだ。ウィンドボナに権力を集めようとしている皇帝に対する抵抗なのだろう。
 ガリア。これも気になる。未だに現王は健在だが、病床に伏して長い彼は、もうそろそろ崩御するだろうと見られている。その後どうなるか。もしジョゼフが王位についてシャルルを暗殺した場合、史実通りにレコン・キスタが発生して、最後は凄惨な戦争へ発展するだろう。
 いや…。そうなのか? そもそも、自分の持っている『原作知識』はどれだけ通用するんだ? 既に、そんなのがまるで役に立たない事案ばかり起きているじゃないか。この世界が、限りなく『原作』に近いだけの、平行世界なのは間違いないが…。そうでなければ、自分という存在が現れるはずがない。

「難しい…。難しいな…」
「まったく。そんなに一人で悩む暇があるんなら、誰かに相談したどうよ?」
 ベッドの上で腕を組みながらぶつぶつと呟くヴェンツェルを見かねたのか、デルフリンガーがそんなことを言った。
「いや…。こんなこと、誰かに言ったってわかりゃしないさ」
「そうか。じゃあ、女でも漁ってみたらどうだよ。一発かましゃあ、大抵の嫌なことなんて忘れちまうんじゃねぇか?」
 さらっと、とんでもないことを言う剣である。

「…そういうことは、時と場合と相手を選んで言えよ」
「なんでさ。貴族のお前さんなら、そこら辺の女の一人や二人、簡単にてごめにできんべ?」
 なおもデルフリンガーがなにか言っていたが、それを無視してヴェンツェルはベッドから飛び出し、寝室を後にした。ばたん、という扉が閉まる音を聞いたデルフリンガーは、ぼそりと呟いた。

「ありゃヘタレだな。先が思いやられるぜ」



 *



 今さら大ホールへ向かう気にもならない。ヴェンツェルは、ひっそりと静まり返った中庭を訪れていた。
 
 そうしていると、誰かの話し声が聞こえてきた。これは…。耳を澄ましてみる。聞こえてきたのは、ルイズとアンリエッタの声だ。だが、なぜ彼女たちがこんなところに。
 しばらく歩くと、茂みの向こうでこっそりと体育座りをしながら星を眺める二人の少女の姿があった。よく見ると、その奥では、葉っぱのついた木の棒を持ったアリスが、周りを警戒するかのように、きょろきょろと視線をあちらこちらへ飛ばしている。どうやら護衛をしているようだった。

「アリスさん…、と言いましたか? わたくしたちとほとんど同い年だというのに、スクウェアスペルを使いこなせるとか。すごいですね」
「…」
「ちょっと、姫さまが、あんたみたいな薄汚い平民にお言葉をおかけになられてるのよ。喜んで返事をするべきでしょう?」
「…浴槽つきのお風呂には毎日入っています。石鹸だって使っています。汚くないです」
「そんなときばっかり饒舌って…」
 ものすごく不満そうなルイズの声がするが、アリスは特に気にした様子はない。

「やあ」
 ここにいると盗み聞きをしているようになってしまう。ヴェンツェルは、彼女たちに声をかけてみることにした。

「げ。なんであんたがここにいるのよ」
 露骨に嫌そうな顔を隠しもせずに、ルイズが言う。アンリエッタも驚いているようだ。
「いや…、なんとなく、大ホールに行くのが嫌でね。見たところ、きみたちもご同類のようだが?」
「はぁ? そんなわけn」
「ふふ。ばれちゃいましたか。たまには、こうやってのんびりと夜空を眺めるのもいいですよね」
「ひ、姫さま…」
 あっけなくばらしてしまったのがショックなのか。ルイズはがっくりとうなだれている。一方のアンリエッタはいい気なもので、つぶらな瞳に星の光を反射させながら、一心不乱に恒星の瞬きを見つめている。
 どうやら、大ホールには身代わりのガーゴイルを置いてきたらしい。今頃はそれ相手に貴族たちが詰め掛けているということになる。

「あ」
 ヴェンツェルもそんな集いに混ぜてもらっていると、不意にルイズが間抜けな声を上げた。いったい、何事だろうか。
「あんた、このアリスって子の躾はどうしてるの? 貴族に対する態度じゃないわよ、この子」
 そう言いながら、桃色ブロンド髪の少女は、アリスの頬をつねった。木の棒を持ったまま、じっと耐えるメイド服を着た少女の姿はなんだか哀愁を誘う。

「うーん。そこはかとなく大目に見てやってくれないか」
「なによ大目にって。主人であるあんたがそんなだから、こんなのになっちゃうんじゃない」
 そういって、ルイズはさらに頬をひねり上げる。これにはさすがのアリスも、痛みのゲージが上限を振り切ってしまったらしい。じたばたと暴れ、荒く息をつきながらルイズを睨みつける。その手は、太ももにくくりつけられた短剣をがっちりと掴んでいる。
「な…。なによ。平民が貴族にそんな目をしていいと思ってるの?」
 ルイズがさらに挑発的な言動をとった。それに対し、ヴェンツェルがアリスに近づいて、そっと耳打ちした。最初は「はぁ?」といった様子だったが、次第に納得がいったらしい。いつもの冷ややかな瞳に戻ってなにか詠唱しだした。そして。

「な、なによ、これ!?」
 風のロープで拘束されたルイズは、なすすべなく地面に転がった。心なしか、顔が上気し始めている。
「ふぅうん。へぇええ。公爵令嬢ともあろうお方の性癖が、そんなものだったなんて…。皆さまが知ったら、どんなお顔をするでしょうか?」
「ちょ…!?」
 アリスが、つい、とルイズの華奢な顎を人差し指で持ち上げた。悔しそうな表情でそれに抵抗を試みるルイズだが、どうやら力が入らないらしい。泣きそうな表情になっている。

「え? え? なんですか? これ」
 状況に追いつけないアンリエッタが困惑の声を上げたとき、突然彼女の頭の周囲に雲のようなものが現れた。それを吸った姫殿下はあっさりと眠ってしまい、倒れこむ彼女をヴェンツェルがなんとか抱きとめた。
 『スリープ・クラウド』の詠唱によって風のロープから解き放たれたルイズは、息も荒く立ち上がり、アリスに杖を突きつける。
「はぁ…、はぁ…。この…。もう、許さないんだからっ!」
「甘いですね」
「えっ? …ひゃうっ!?」
 見れば、なんとアリスの『偏在』が二人がかりでルイズを押さえ込み、もう一体の『偏在』が彼女の小さな耳へ息を吹きかけているではないか。さっきまで怒っていたはずのルイズ、なんだか瞳がとろけだしてしまっている。

「へ、『偏在』って…。しょんはの、らめぇ…。ひゃうっ!?」
 なんだか、なんだかすごいことになっている。ヴェンツェルですらこれはさすがにやりすぎではないかと思い、アリスを諌めようとする。そのときだ。不意に、鼻をつくようなアルコール臭が…。
 唐突に気配がしたので振り向くと、なんとアリスがもう一人いて、驚くべこことに酒瓶をあおっているではないか。いつの間に。

「そこにいるのはわたしの『偏在』です。本体はわたしなのですよ」
 そう言って、彼女はふらふらと歩きだした。どうにも足元がおぼつかない。そして、“それ”は最悪のタイミングでおきてしまった。
 アリスが躓いて、ルイズのスカートをずり下ろしてしまった。これには、いろいろな場所を責められてトリップ寸前のルイズでも反応することができたのだ。

 振り上げられる杖。このタイミングで、窮鼠の表情を顔に浮かべながら、アンリエッタを連れたままあたふたと逃げ出そうとする少年。

 だが、無情にもそれが振り下ろされるとき―――中庭で、大爆発が起きた。



 *



「おぉぉい。誰かいないのかぁ…」

 ギーシュが目を覚ましたのは、城の尖塔の先だった。そういえば、自分はどうしたのだろう。確か、あの怪物に頭をがぶりとやられて―――そこから先の記憶がない。
 誰か助けに来てくれないのか。だが、数時間待てども誰も来ない。


 結局彼は、朝になって中庭で掃除をしていたメイドに発見されるまで、ずっとそのまま放置されるのだった…。



[17375] 第二十四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/06/04 05:57
 来訪、四日目。
 アンリエッタ王女がトリスタニアへと帰る日がやってきた。出立の準備は昨日のうちに済ませていたので、後は馬車に乗り込むだけだ。

 アンリエッタ、ルイズ、尖塔の上から救出されたギーシュは、大食堂でこの城最後の朝食をとる。その場には、どうにも気まずそうな大公と大公妃、ヴェンツェル、ベアトリスが同席している。なぜ大公が苦しげな表情をしているのか。だいたいの理由を知っているヴェンツェル、勘の鋭い大公妃はそれに特に関心を向けることはなかったが、ベアトリスだけはどうにも不審がっている。

 王女らが城を発つのは正午の予定だ。最後の残された時間で、ベアトリスはアンリエッタやルイズと共にすごしている。一方、ギーシュは薔薇の造花を模した杖を手にし、とある女性の元を訪れていた。

「ミセス。お願いがあります。最後に、実戦形式の稽古をつけてくださいませんか」
 中庭でくつろいでいた大公妃は顔を上げ、少年の表情を垣間見た。ずいぶんと自信ありげなものであった。これは相手をしてみるのも、面白いかもしれない。なんとなく、大公妃はそう考えた。
「ええ。いいわ。じゃあ、わたしについて鍛練場へ来なさいな」
 頷き、それだけ言うと大公妃は城の裏手へ向かって歩き出した。

 ルイズによって破壊された鍛練場の地面はすっかり修復され、壁も応急措置とはいえ元の形をおおよそ取り戻している。二人は向かい合い、それぞれゴーレムを生成した。
「じゃあ、いくわよ」
「はい!」
 ギーシュの返事と共に、二人のゴーレムがお互いに向かって突進を開始。次の瞬間には、金属の激しくぶつかる音が鍛錬場内に響き渡った。


 それから数時間後の、クルデンホルフ城の正面にある広場。

 いよいよ、王女一行が出発する時刻となった。ところが、ギーシュが時間になっても現れないのだ。それが気になったアンリエッタがとうとう捜しに行こうとしたとき、不意にぼろぼろのギーシュがふらふらと彼女たちの元へと歩み寄ってきた。

「ま、まあ! どうされたのですか、ギーシュさま」
 慌てた様子で駆け寄ってきたアンリエッタが、少年へ問いかける。それに、笑顔のギーシュがこう答えた。
「ええ。大丈夫です。それより、姫さま。ぼくは…、大公妃殿下から一本とってやりました」
「まあ!」
 先日、大公妃の力をまざまざと見せ付けられたのもあってか、アンリエッタはその知らせを聞いて大そう喜んでいる。ギーシュはギーシュで、でれでれとみっともない顔だ。一方で、ルイズは当の大公妃の姿が見えないことに気がついた。一体、どうしたのだろう。

 そんな疑問を抱いたまま、彼らは馬車で王都への帰路につくのであった。



 *



「なにやってるんですか、母上。殿下のお見送りにも顔を出さないで」

 王女一行を見送ったあと、ヴェンツェルは自室へ戻ってきていた。すると、そこでは自分の母親が毛布に身を包み、座り込んでいるではないか。なぜ俺の部屋で。少年はそう思わずにはいられない。

「…れたの」
「はい?」
「触られちゃったの。ミスタ・グラモンに、胸を…」
「はぁ…」

 状況がつかめない。一体どうすれば、そんなことになるのであろうか。そんなことを思いながら立ち尽くしていると、不意に大公妃の手が伸びてきた。それを退いてかわすと、大公妃の顔が泣きそうになって、ふにゃっと崩れた。すねたような口調で、口を尖らせる。
 泣かれても困る。仕方がないので、とりあえず話を聞いてみることにした。
 それによると、なんでも、先ほどギーシュが彼女に実戦形式の鍛錬を申し込んできたという。ルールは単純で、相手の体に先に手を触れたほうが勝ち、というものだ。
 それを大公妃は了承し、ゴーレムでつばぜり合いを始めたそうだ。予想通りあっという間にギーシュを追い詰めたのだが―――なんと、そこで彼はゴーレムを一度に六体も生み出して、一気に大公妃へ差し向けたのだという。
 まさか、彼がそんな数を出せると予想していなかった大公妃は、一瞬だけ判断が遅れてしまった。そこで『ワルキューレ』に自分を弾丸のように投げ出させたギーシュが突っ込んできて―――彼の手が、胸に命中してしまったらしい。おまけに思い切り揉まれたそうだ。
 その後は、誰もが目を覆うような制裁をギーシュに加えたものの、あまり他人に体を触られるのが好きでない大公妃はすっかり落ち込んでしまった。だから、こうしてヴェンツェルの私室で気を落としていたというのだが…。まったく説得力のない話だ。

「誰かに慰めてほしい気分なのよ」
「父に慰めてもらえばいいじゃないですか」
「いやよ」
 子供のように、まるで駄々をこねるように、それは嫌だと首を振る。まったくどうして、ヴェンツェルは頭が痛くなった。
「どうしてです」
「あの人は嫌なの」
「答えになっていませんよ」
「…いじわるね」
 なにが意地悪なのか。そんなことより、さっさと部屋から出て行ってもらいたい。ため息をつきながら毛布を剥ぎ取って、大公妃を強引に部屋から追い出そうとする。しかし、彼女はてこでも出て行かないつもりらしい。ベッドの柱にしがみついている。
 参ったな。これじゃ自分が昼寝をすることができないじゃないか。彼は再度、大公妃を引き剥がそうとしてベッドへ圧し掛かる。と、そんなところで、誰かが部屋の中に入ってきた。

「ヴェンツェル。明日にはイルソン卿が実家から戻ってくるらしい。そこから勉強を再開―――」
 やってきたのはクルデンホルフ大公だった。手紙を手にした彼は、下を向いていた視線を、おもむろに上げる。すると、そこでは…。ベッドの上で、自分の妻を押し倒そうとしているようにしか見えない、肥満児ならぬ愚息の姿があった。
 凍りつくような空気の流れるその場で、中年男性は手を顎に添えてなにか考えるそぶりをした。
「…そうか。ベアトリスが生まれてからというもの、ジャンヌはすっかり私と夜を共にしなくなっていたが…、そういうことだったのか…。さすがは私の息子だよ、ヴェンツェル」
「ち、父上。なにか勘違いをされているようですが、僕は…」
 肥えた少年は、なぜか壮絶な思い違いをしているだろう大公に対して、必死に弁明しようとするが、それはまったく意味をなしていないようだった。大公妃はなにも喋らず、ただにやにやとしている。

「お前がそういうつもりなのならば仕方がない。やむを得ないが、家庭の和を乱すものは排除しなくてはな」
 そういって、大公は杖を構えた。そうすると、少年の年不相応な巨体が宙に浮く。『レビテーション』を唱えたようだった。ヴェンツェルの脳裏で、いつかの記憶がフラッシュバックする。

「自分の妻に蛮行を働いている者は――たとえ家族だったとしても、容赦はしない…」

 冷徹な声で告げ―――大公は、端正な顔を鬼のように歪めた。

 そういえば、父の甥が、父が気に入っていたメイドに手を出して、暗黒大陸に流刑になったとか聞いた気がするな…。この場合どうなるんだろう。などと、ヴェンツェルは今さらながら思い出していた。



 *



 数日後。

 トリスタニアに戻ったアンリエッタは、クルデンホルフ大公からぶんどった設計図と、王室への債務返還の無期限延期に関する書類を手にして、王の執務室へ向かった。
 ちょうどそこでは、王と、彼女の母親であるマリアンヌ王妃がなにかの書類を手にして、話し合っているところだった。
「お父さま。お母さま。ただいま戻りました」
 花のような笑顔を見せながら、アンリエッタは両親へ駆け寄っていく。先ほどまで険しい表情だった二人は、アンリエッタの声を聞いた途端、ひどく穏やかな笑みになり、娘を迎え入れた。

「おお、わたしのアンリエッタ。よくぞ無事で戻った。危ない目には遭わなかったかい?」
「はい。クルデンホルフの方々は、皆良いお方たちばかりでしたわ。こんなに素晴らしいお土産もくださいました」
 そう言って、少女は手にした紙を王の机に広げる。『竜母艦』の設計図、新型砲の設計図、貸付金返済の無期限延期に関わる書類。これを見た王は、一瞬の間、まるで時間が止まってしまったかのように動かなくなってしまった。
「あ、あの…?」
「…い、いや。なんということだろうか…」
 アンリエッタに、「なにかめぼしい物があったら、ぜひ貰ってきなさい」的なニュアンスの言葉をかけた彼でさえ、これほどの成果は予想だにしていなかった。
 たった一枚の紙切れだが、これによって王室が抱えていた、数えるのも億劫なほどのクルデンホルフに対する莫大な累積債務が、事実上無くなったに等しいのである。財政難に苦しむ王にとって、これほどの吉報はなかった。
「なんという記念すべき日だ!」
 喜びのあまり、王は思わず娘を抱きしめ、頬を摺り寄せてしまう。それを、婚姻後十年を過ぎてもなお王にぞっこんのマリアンヌ王妃は、微妙に嫉妬した様子で見つめていた。


 一方のルイズ。
 頭髪を頭の両脇で二つくくりにした彼女は、自分を迎えにきたカトレアと共に、トリスタニアの城下町の雑踏を進んでいた。
 最近、カトレアはフィールドワークを行うことが多くなった。まるでそれまで表に出られなかった鬱憤を晴らすかのようにあちこちへ出かけるから、公爵たちは彼女の身の安全に神経を尖らせているのだが…。
 立ち話もなんだからと、彼女たちは貴族御用達の菓子屋、『ラ・マルタン』へと足を運ぶことにした。

「ルイズ。クルデンホルフはどうだった?」
 白いテーブル席へ腰掛け、ケーキを手際よくフォークで切り分けながら、カトレアがルイズへ問いかけた。
「それなんですけど、ちぃ姉さま! あのグラモンの…ええと?」
「ギーシュ・ド・グラモン?」
「そう! あのナルシストったら酷いの! わ、わたしの、む、むむむ胸にさささ触ったし!!」
 震える声で、ルイズは己の胸部を張り上げながら主張する。しかし悲しいかな。そこに広がるのはかつて、フン族こと北匈奴のアッティラが拠点としたパンノニア平原を思わせる、雄大でなだらかな大地でしかなかった。
「まあ…」
「そ、それに、あのメイド! へ、へへ平民のくせに、み、み耳を、耳を…!」
 頭を抱え、真っ赤な顔でルイズはのた打ち回った。何事かと周囲の視線が集まるが、ルイズがきっ! と吊り上った目で睨みつけると、皆ささっと顔をそらして去っていく。

「ヴェンツェルくんは? 彼、魔法を使えるようになったのかしら」
「未だにコモン・マジックしか使えない、なんて嘆いていましたね。まったく、いいご身分だわ」
 系統魔法はもちろん、コモン・マジックすらただ爆発するだけのルイズにしてみれば、そう思うのも仕方ないだろう。

「そうなの。不思議ねえ…。わたし、彼が炎の剣を手に出す場面を見た気がするのだけれど…」
 カトレアが紅茶の注がれたカップをソーサーに下ろして、呟いた。彼女の中で、『彼』に体を支配されていた頃の記憶はどんどんと薄れていっている。いまでは『禁呪』も使えないし、使う気もない。忘れないのはルイズ関連の記憶だけ。
 当然ながら、『彼』が持っていた記憶を今のカトレアは知らないし、知りたいとも思っていない。できれば『彼』絡みのことは忘れてしまいたいとさえ思っている。だからなのか。どうにもその辺りの記憶が曖昧だった。

「ちぃ姉さま。冗談にしてもそれはひどいわ。ありえないと思う」
 ルイズが、半眼でカトレアを見つめていた。
「え、ええ。そうよね。まさか、彼がそんな魔法を使えるとも思えないし…」

 自分の知らぬところで、散々な評価を受けるヴェンツェルだった。






 ●第二十四話「異なる道」







 ガリア王国の首都リュティスの郊外に建設された王族の居城、グラン・トロワ。真っ青な外壁で覆われた建物の、王の寝室。そこへ二人の王子が呼び寄せられていた。

 自分の弟が励ましの言葉を父にかけるさまを、兄であるジョゼフは冷ややかな視線で眺めていた。
 全盛期は各地の小国へ自ら遠征を仕掛けたり、通商ルート確保の為に先代のクルデンホルフ大公に喧嘩を売って惨敗し、それでも生き延びてきた自分の父親。それがベッドで寝たきりとなり、水メイジのかける魔法で延命を施されるようになったのは、いつの頃からだろう。
 あの頃の父親は、まぎれもなく「立派な王」だった。厳格さゆえに涙を呑まされたことも一度や二度ではなかったが、それでも偉大な背中を自分たちに見せていた。

 シャルルとて、そんな父の背中を追って今の実力を身につけたのだろう。なのに、いまの病床に伏したジジイのなんと情けないことか。
 腹心であったアキテーヌ公爵の暴走を許すという大失態を演じ、それでもなお王の地位にしがみついている。ここまで病状が悪化したのなら、いい加減に次の者へ地位を譲るべきだろう。だが、彼はそれをしなかった。あくまでも『ガリア国王』の地位にこだわったのだ。
 その気持ちがまったくわからないといえば嘘になるが、やはり釈然としないものがあった。

 実は――王は、二人の王子のどちらを戴冠するかで真っ二つに割れた国内を憂い、それ故に死に逝く間際まで結論を下せなかったのであるが――そのことをジョゼフが知る由はない。


「兄さん。父君が呼んでいるよ」
 突然シャルルが、彼の後ろに居たジョゼフを呼んだ。どうしたのか。言われるがまま、ジョゼフは父の枕元へ顔を近づける。

「ジョ…ゼフか。聞け…。次のガリア王は…、お前とする。…人の痛みがわかるお前ならば…。生涯に渡る、弱き者…民に喜ばれる、良き政治を…………」

 それだけ言って、王はついに力尽きた。だが、それはまるで生きているかのような、安らかな寝顔だった。彼は、最後に決断したのだった。ジョゼフに国を任せると。

 そして、指名を受けたジョゼフは、信じられない、といった様子で身を凍らせていた。

 まさか…、おれが王? 無能と蔑まれ、常に暗愚と罵られてきた自分が。あの優秀なシャルルを出し抜いて、王に?

「ふは…。ははは…、シャルル! 聞いたかシャルル! 父上はおれを次代の王にするとおっしゃったのだ! おれがガリア王だ!」
 まるで天啓を受けたといわんばかりの狂気ぶりで、ジョゼフは悔しさに打ちひしがれているであろう弟の方へ顔を向けた。
 だが。
 そこに存在したのは、彼の歓喜に沸く表情を一瞬にして凍りつかせてしまうほどに残酷なものだった。
「おめでとう、兄さん。兄さんが王になってくれて、本当によかった。ぼくは兄さんが大好きだからね。ぼくも一生懸命努力する。父さんの遺言を守って、二人で一緒にいい国を作っていこう」

 まるで悔しさを感じさせない、晴れやかな笑みだった。その顔を見て、ジョゼフは自分が子供のように喜んでいたのを後悔する。

 ―――どうしてだ…? お前は王になれなかったのだぞ。おれなんぞより遥かに優秀な…、そう、たった十二才でスクウェアメイジとなって、勉学に優れ、貴族の信認も厚いお前が…。主流派になれぬ雑魚ばかりが言い寄ってくるおれとは違って、優秀な家来に恵まれたお前が…。

 ジョゼフの中で、なにか大切なものが、がらがらと音を立てて崩れていった。


 数刻の後。


 快晴の空の下。グラン・トロワの中庭に一人、悲壮に満ちた様子で座り込む青髪の男性がいた。ジョゼフだ。王となったのに、その表情はどこか暗く、まるで暗雲が立ち込めたとうに危うげな雰囲気をかもし出していた。
 そして、その姿をじっと見つめる影がある。彼の一人娘、イザベラだ。幼少の頃より父から突き放されて育った彼女は、どうにもあの美丈夫が苦手だった。髪の色ばかり酷似している。
 それでも、自分の父親だ。年相応に甘えたいという思いもあるし、従妹のシャルロットが両親や家臣に囲まれて幸せそうに暮らしているのを、羨ましげに端から眺めるのはどうしても辛い。

 だが、王となったこの瞬間ならばあるいは、自分に少しでも関心を持ってくれるかもしれない。そんな思いを抱いて、彼女は父の元へ歩み寄っていった。彼女は王子たちがそんな会話をしているのを、盗み聞きしていたのだ。まだ誰にもこのことを知らせていないのも承知していた。

「お父さま…」
 話しかけてみるが、反応は返ってこない。どうしたのだろうか。よせばいいのに、彼女はそっと腰を折って、ジョゼフの表情を盗み見てしまった。

「ひっ…!!」
 そこで思わず、彼女は石造りの床へしたたかに尻餅をついて、腰を抜かしてしまった。下腹部のさらに下の辺りを、ゆっくりと暖かさと湿り気が支配していく。それでも、彼女は足を使ってじりじりと自分の父親から遠ざかっていった。
 なんて顔だ。人間のそれじゃない…。まるで鬼のようだ。
 恐怖を顔に浮かべたイザベラは、背中が花壇にぶつかっても、なお後ずさるのをやめることができなかった。それほどまでに、今のジョゼフの顔は、にじみ出る威圧感は、恐ろしいものと化していたのだ。

 そんな娘に気づいたジョゼフは、乾いた嗤い声を上げた。
「ふ、ははは…。わが娘、イザベラよ。お前もおれを嘲笑いにきたのか。あのシャルルのように、おれを…」
 思考がこんがらがり、半分ほど錯乱していたジョゼフは、そこで初めて正気に戻った。見れば、哀れな愛娘が粗相を働いてしまっているではないか。

「…ふん」
 ごみでも見るような目で、震える娘を置き去りに彼はその場から去っていった。


 しばらく廊下を歩いていると、シャルルと思わしきマントを背負った男性がどこかへ向かっていくのが見えた。
 だが、それももう、ジョゼフにとってはどうでもいいことだ。せいぜい、“良き王様”になってやるさ―――そんなことを思い、反対側を向いてそこから去ろうとしたとき、不意に彼の脳裏にある言葉が浮かび上がった。
 『もうすぐあなたの父上…、ガリア王が崩御します。そうしたら、すぐに王の執務室へ向かってください。そこに、あなたが望むものがあります』
 いつかストラスブールで出会った、よく太った月目の少年の言葉だ。マントに刺繍された家紋からすると、クルデンホルフの人間だろう。話半分にしか覚えていなかったが、なぜかそのときの状況がフラッシュバックする。そして、シャルルが向かう先は―――
 もうなにも考えられなくなって、彼は亡き王の執務室へと全力疾走した。

 先回りしたおかげか、まだシャルルはやってきていないようだった。そこへ、誰かの――おそらくは弟だろう足音が響く。ジョゼフは、とっさにカーテンの影へその身を隠す。
 

 果たしてそこへやってきたのは、やはりシャルルだった。だが、今の彼は今までジョゼフが見たことのないほどに歪んだ、劣悪な感情を露にした表情をしている。どうしてこの部屋にいるのか。なぜ、そんなに険しい顔をしているのか。
 そんな疑問を思い浮かべていると、カーテンの中に潜む兄に気がつかないシャルルは、王の机の引き出しを開けた。そして、中身をすべて床に向かってぶちまけてしまう。
 きらきらと輝く宝石や、数々の勲章、重要な書類などが、すべて一緒くたになって床に散ってしまう。
 一体、なぜ。どうしてそんなことを―――カーテンの中のジョゼフが息を呑んだとき、シャルルがいきなり床につっぷして、低い嗚咽を漏らし始めた。カーペットの上に、ぽたぽたと水滴が落ちていくのも見えた。
 泣いているのか。なぜだ…。今すぐにでも出て行って、彼に問い詰めたい。そんな欲求に駆られたとき、不意にシャルルが嗚咽まじりに吐き出した。

「どうして…? どうして僕じゃないんだ…」
 その言葉を聴いて、ジョゼフは半ばカーテンからはみ出しかかっていた体を強引に押し戻した。
「父さん。どうしてぼくを王さまにしてくれなかったんだ。おかしいじゃないか…。兄さんの何倍も魔法ができて、家臣のやつらだってみんなぼくを支持してるのに! わからないよ。どうしてなんだ? わけがわからないよ…」
 そのとき、シャルルが一つの指輪を手にした。ガリア王家に伝わる秘宝、土のルビーだ。始祖の血脈である各国の王だけが持つことを許された、王の宝石…。

 ジョゼフの弟は、人目もはばからずに、土のルビーを胸に押し当てながら再び泣き出した。信じられない。これがあのシャルルなのか。おれがついぞ勝つことのできなかった、あの…。

「ぼくがどれだけ苦労をしてきたと思っているんだ。兄さんよりも優秀だって周りのやつらにわからせてやるために、見えないところでどれだけ頑張ってきたと思ってるんだ。すべて今日という日のためだった。全部、兄さんに勝つためにやってきたのに!」

 ああ…。そうか。先ほどおれにかけてきた言葉は、決して本音ではなかったのか。自分の本心、嫉妬を悟らせぬための、必死の抵抗だったのだろう。つまり、それは今までのことも…。

 気がつくと、ジョゼフは一歩踏み出していた。それを見たシャルルの顔が驚愕に歪み、慌てた様子でなにか取り繕うとする。
「…兄さん。いや、違うんだ。これは、父君の荷物を整理していたら、慌ててしまって…」
 しかし、それに対して、ジョゼフは静かに、とても穏やかな口調で言った。

「いいんだ」
 その態度に…、シャルルはこの場で自分が行ったことが知られたのだとわかった。ついに、その端正な顔が悔しさで歪んでいく。

「どうしてだ…、どうして。悔しい。わからないよ。ぼくは…。ぼくは…!」
「シャルル。いいんだよ。お前のことは、おれが一番知ってるんだ。だから…」

 どうしてだ。どうして兄さんはいつもそうやって、僕が勝っても平気でいられるんだ。どうしてそんな風に振舞えるんだ。なんでだ。どうして、そんなに気丈な態度をとれるんだ。なぜ…! ぼくは…!

 いつもいつも、そんな哀れむような目で、兄さんに見られなくちゃならないんだっ!!



 ジョゼフが弟の肩を叩こうとしたとき―――突然、彼の体を『マジック・アロー』が貫いた。


「な…、シャ…、ル…ル…?」

 あまりにいきなりの出来事に、床に向かって崩れゆくなか、ジョゼフは呆然とした表情で呟いた。そう。今しがた魔法を放ったのは、自分の弟だったのだ。
 憎しみに染まった瞳で、弟は兄を睨みつけた。

「ぼくのことを知っている? ふざけないでよ。兄さんはなにも知らない。兄さんをいつもそばで見てきたぼくだからこそ、それを知っているんだ。兄さんには生まれ持った統治者としての素質がある。だけど、ぼくにはない。そのことを知っていたから…。ぼくは死にもの狂いで頑張ってきたんだ。なのに…!」
 シャルルは、吐き捨てるようにして言った。瞳には、涙が浮かんでいる。

「そうか…。それが、お前の答えなんだな…。ははは…。やっぱり、直情的なところは…、治って…い、な…」
 独り言のように呟いた後、ジョゼフはそれきり動かなくなった。しかしその顔は、まるで彼の父親のようにおだやかなものだ。真実を知った彼はもう、誰も恨むことはない。ただ、満足げな様子だった。

「ふ、ふ…、ははは…! あっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!!!!!!!」
 土のルビーを指から外し、王の机に置いたシャルルは、高笑いを上げた。まるで気が狂ってしまったかのように。

「…そうだ。ぼくが王…、ぼくがガリアだ! 見ててよ、兄さん、父さん。ぼくは一生懸命、“良き王さま”になるからさ…」

 もう彼は振り返らない。そのまま、王の執務室を後にした。



 一部始終を物陰から垣間見ていたイザベラは、今しがた起きた出来事にすくみ上がってしまっていた。濡れたままの肌着が嫌な音を立てる。だが、ここでこうしていても仕方ない。彼女は、父の元へ向かった。

「お父さま…」
 血濡れとなった自らの父の元へ、イザベラはひざを落とす。まだ、ジョゼフの息は潰えていない。だが、もう心臓の動きは弱ってきていて、彼が命を落とすのも時間の問題だと思われた。
 硬く、ごつごつとした血まみれの父の手を握る。それは驚くほどに冷たかった。こんなに冷たいものなのか…。と、そのときだ。もう開かれることはないかと思われた彼の瞳が、ゆっくりと開かれたではないか。

「イ…ザベラ…か。よもや、あんなみっともないところを見られていたのか…」
「…」
 生まれてから初めて目にする、父の穏やかな顔。イザベラに向けられる視線もどこか優しげだった。
 こんな…。死ぬ間際にこんな顔をされても。どうせなら、もっと早く見せてほしかったのに。少女は世界の理不尽さに、ただ慟哭する。

「いいんだ…。あいつなら、おれなんかよりもずっと、この国をいい方向へ導けるだろう。だから…おれは…もう…」
 ―――死んでもいいんだ。
 不意に、イザベラの脳内をそんな言葉がよぎる。だが、それは彼女にとっては最悪の答えだ。せっかく、自分の目を真っ直ぐ見てもらえたのに。いまさらだけれど、やっとこの人が“父親”なんだと実感することができたのに。あんまりだ。
「いや。いやです。わたしは…、そんなの…」
 だが、彼女になにが出来るのだろう。イザベラは魔法に関してはさっぱりで、最近やっと水のドットになったばかり。とても、こんな重傷を負った人間を治すことは――と、そのときだった。

 彼女の視界に光るものがある。それは床に落ちた宝石の中の…。前王、イザベラの祖父が遺した、宝石のはめられた指輪だ。だが、『水』の使い手の端くれである彼女には、それがただの指輪でないことはすぐにわかった。それを手にとって、まじまじと見つめてみる。
「これは…、まさか…。『アンドバリの指輪』…?」
 昔、彼女は気取って難しい本を読み漁っていたことがある。そのときに目にした図解の指輪とそっくりなのだ。では、これなら…。
 イザベラはそれを指にはめて、じっと念じた。どうか、父を助けてほしい。わたしになにも父親らしいこともしないで逝くなんて、絶対に許さない。生きて欲しい。生きて、わたしに甘えさせてほしい―――

 そう、強く願った。そして、その思いの行く先は―――





 *





 一週間後。

 ガリア王国とクルデンホルフ大公国の国境にあるエシュの町で、イザベラは颯爽と馬車から降りた。

 ガリアでは北部諸侯を中心として、ジョゼフについていた貴族たちの粛清が始まった。死体のなくなったジョゼフや、その娘であるイザベラの拘束もしくは抹殺の命令も出された。そういった一連の事象の影響か、他国への亡命が相次いでいる。問答無用で拷問・処刑されるという噂が広まっていたのも、大きな問題だ。
 またも日和見で国境を閉ざしたトリステインを避けて、クルデンホルフやゲルマニアには亡命希望者が殺到していた。そうした連中に紛れ込み、イザベラたちはなんとか脱出を図ったのだった。

 ゲルマニアという手もあったが、自分が政治利用されてしまう可能性を考慮すると、そうもいかなかった。もし憲兵などに捕まってアルブレヒト三世の元に送られてしまえば、即刻婚約させられた挙句、彼はイザベラを盾にガリアの王位を主張しだすだろう。そんなのは嫌である。
 そういうわけで、彼女たちはこの街へとたどり着いたのである。当然、髪の色を変えて変装するのも忘れない。

 と、そこへ一人の少年が現れた。でっぷりと太った巨体をえっさほいさと揺らしながら、帳簿を持って忙しそうにしている。

「えーと? ガリアのオルレアン出身の…、エカチェリーナ? 変な名前だな…。まるでロシア語じゃないか。まあ、いいや。どうぞ、難民申請はこの先の赤い屋根の建物で…」
 偽名とはいえ、いきなり人の名前を変呼ばわりするとは、とんでもなく無礼な人間だ。しかも、こんな見苦しいほどに太った子供に馬鹿にされるとは。王族たる自分を…、とそこまで考えたところで、思い直した。そうだ。今の自分はお尋ね者なのだ。下手に波風を立てないほうがいい。
 ふと、少年が自分の顔を訝しげに覗いているのが目に入った。なんだろう。まさか、自分が王族だとばれたのか? こんな子供に?
 慌てたイザベラがどう脱出しようか考えを巡らせたとき、唐突に、渋いおじさまボイスが馬車の中から聞こえてきた。

「おお、どこかで見たと思えば! ストラスブールで出会った少年じゃないか!」
「お、お父さま!?」
 なんと、まだ体の回復しきらないジョゼフが馬車の中から出てきてしまったではないか。彼は変装の類は一切していない。まずい。青い髪はやたらと目立つし、周りの亡命貴族たちに気づかれてしまえば、最悪の場合、情報がリュティスに漏れてしまうかもしれない。
 イザベラは、少年を『レビテーション』で浮かせて身動きをとれなくすると、全身で父親を弾き飛ばし、強引に馬車の中へねじ込んだ。

「おいおい、なにするんだよ」
 宙に浮かんだ少年が、なんとか馬車の荷台にしがみつきながら、中を覗き込んでくる。そして、その中にいた人物を見つけて、目を丸くした。

「あ…、あれ? あなたは…、じょ、ジョゼフ・ド・ガリア…。じゃあ、こっちのは…イザベラ?」
「おお、そうだよ少年。久しいな」
「え? な、なに? 知り合いなの?」
 二人の間で、何らかの面識があることに驚くイザベラ。一方のジョゼフはなんだか上機嫌だった。

 いまいち事態を把握できていない少年は、額に汗を浮かべながら、これからどうするか、そんな思案を巡らせるのであった。



 *



「…なるほど」

 旧エシュ伯爵館の応接間で、真っ白なソファーに腰掛ける太った少年―――ヴェンツェル・カール・ド・エシュ・フォン・クルデンホルフは、ため息をついた。
 ジョゼフから話を聞いて、事態が想定外の方向へ進んでいることを知らされたからだ。

 ちなみに、彼の名前が長くなっているのは、大公が彼に領地と爵位を下賜し、それにかこつけて城から追い出したからだった。本来なら懲罰的な意味で追い出したのだが…。なぜか、大公妃、アリス、ヘスティア、マジソンを初めとする衛兵など、かなりの数の人間がヴェンツェルについていってしまった。母親がいなくなったことに驚いたベアトリスも後を追う始末である。
 そのおかげか、クルデンホルフの城はずいぶんと人の気が少なくなっている。分家という方法にしなかったのは、大公の最後の甘さだろうか。

 若くしてエシュ伯爵の地位を押し付けられたヴェンツェルは、大量の難民が押し寄せるという事態に対処するため、自ら現場に足を踏み入れていたのだ。そこで、よりによってガリアの王族と鉢合わせしてしまったわけである。

「…で、どうするの? ヴェンツェル。事は重大よ。一歩間違えば、またガリアと戦争が始まってしまうかもしれないわ」
 少年伯爵の隣に腰掛け、カップを持った大公妃は、静かに言った。顔はにこやかな表情であるが、目はまったく笑っていなかった。

「話を聞いた限り――ジョゼフ殿下は、もうガリアに戻る気も、干渉する気もない。そうですね?」
「ああ。おれはもう、王位などには興味がない。弟が繁栄させるガリアをゆっくりと眺めながら、静かな余生を過ごしたい。それだけだ」
 ジョゼフは、どこか優しさのこもった瞳でヴェンツェルに告げる。ストラスブールで出会ったときの危うさは、どこかへ消えていた。
 そして、少々考えて、彼は決断した。
「わかりました。あなたがたの身元はこちらで保証しましょう。ただ、僕の権限が及ぶのは、この町と北東部の周囲三リーグ程度です。窮屈かとは思いますが…、なにとぞ、ご了承ください」
「実にありがたいよ。感謝する」
 笑顔で応え、ジョゼフは手を差し伸べてきた。ヴェンツェルは一瞬だけ戸惑うが、横の大公妃が頷くのを見て、自らも腕を伸ばした。そうして、二人は固く握手を結んだのだった。


 二人には仮の住まいとしてエシュの館の客室を提供することとなった。
 メイドに案内されて部屋へ上がっていく親子を眺めながら、ヴェンツェルは小さくため息をついた。

「…とんでもない爆弾を抱え込んでしまったかもな」
 今の彼は、突然もたらされた領地を、なんとか安定的に切り盛りするのが目標となっている。もちろん実際の領地運営は家来たちにやってもらうが、せめて自分にできることはやっておきたいのだ。
 そんな状況下で舞い込んできた地雷。場合によっては戦火の火種となりかねないが…。今さら彼らを放り出すこともできない。

「坊ちゃまの自業自得でしょう」
「でも、あなたのそういう後先考えないところがアタシは好きよ」
 ヴェンツェルの発言を聞いたアリスとヘスティアが、それぞれ言いたいことを言う。それを聞いた少年は、また、深くため息をついた。

「ヴェ、ヴェンツェルさま…じゃなかった。伯爵! 難民がさっきからひっきりなしに役場へやってきて、申請書類をよこせと大騒ぎを…!」

 と、そこへ新たに執事となったラ・アーグが飛び込んできた。彼は初老の下級貴族で、昨年までは前任のエシュ伯の秘書を務めていた。かなり慌てているようで、顔中汗だくになっている。
 それを見たヴェンツェルは苦笑し、入り口へ向かって歩きながら、こう呼びかけた。

「ああ、今向かうと伝えてくれ。じゃあ、行こうか。アリス、ヘスティア」




[17375] 第二十五話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/06/04 06:05
 ジョゼフ親子を迎え入れてから半月ほどが過ぎた。この頃になると、ガリアのジョゼフ派に対する粛清も一段落し、新たなるガリア王シャルル・オルレアン一世が即位した。


 亡命貴族やその従者、さらにはどさくさまぎれに入国してきた平民たちでごった返すエシュの市街。その中心部にある大きな館の執務室で、太った少年―――ヴェンツェルは、腕を組んで考えにふけっていた。
 もうそろそろ、布を張っただけのテントでの暮らしに不満を唱える者が出てくるだろう。あまり数のない旅館を貴族連中に占領されているのも好ましくない。
 先日、難民の処遇に関して大公へ助けを求める書簡を送ると、「自分でなんとかしろ」という返事が鳩と共にやってきた。まだまだご立腹のようである。

 貴族用のそれなりに広い住居を建設してはいるが、彼らは亡命者の身分のくせに「こんな狭いウサギ小屋に住めるか」と駄々をこね、責任者であるヴェンツェルが出向くと、露骨に嘲ったような尊大な態度をとる。おまけに貴族は家族連れを合わせると百名ほどいるので、彼らに反乱でも起こされた場合、エシュにいるメイジや衛兵ではまったく歯が立たない。
 いきなり全ての連中に言うことを聞かせることなど、当然ながら不可能だ。ならばどうするか。まずは、現状を少しでも憂えている連中と接触して、彼らをこちらの陣営に引き込むことが必要だ。とりあえずふんぞり返っているようなやつらは、ひとまず放置を決め込む。
 では、どのようにして自分の味方になってもらうか。
 本来ならば、亡命貴族の大半がかつてのジョゼフ派に所属していたので、ジョゼフ本人に協力を仰いで統率をとろうとした。しかし、それには彼の娘であるイザベラが強行に反対した。刺客の魔の手を恐れているのだ。確かにそうだ。うかつに情報を漏らすのはリスクが高すぎる。ヴェンツェルは、現状考えうる最上の策を放棄せざるを得なかった。

 それから随分と悩んでいると、瞬く間に半月もの時間が流れ去ってしまったのである。もちろん、彼自身いろいろと動いていたのも大きな要因だ。

 給金を支払うことで雇う、というのも真っ先に考えた。だが現在の伯爵領の歳入では、とてもではないがたくさんの貴族たちに支払う財源は確保できない。バルカン半島南端の某国のように、公務員(貴族は一種の公務員のようなものだ)の人件費で財政破綻を起こしてしまう。

 ならばと、歳入確保の為になんらかの産業を興そうとしたが、そもそもエシュ伯爵領はかつてのそれに比べ、大部分が大公直轄領となったままであり、あまりにも狭かった。では手っ取り早く増税。それはとんでもない。これ以上平民たちから搾り取りでもすれば、最後に待っているのは…。

 定番の土壌改良などやろうとしても、既に現在考えうる策は先代のクルデンホルフ大公がすべて行ってしまっている。ちなみに、じゃがいもをどこからか調達してハルケギニアに広めたのは、先代の大公だ。
 さらに言ってしまえば、この場所は前述の通り領地が狭く、さらに森林が多いのでそもそも農地すらろくにない。開墾なんぞしていたら作物が取れるようになるのに何年もかかる。事実上、農業政策は始まる前から終わっていた。
 この状況も金山でも見つけられれば一気に解決するのだろうが、そんな夢物語を語っても飯は食えないのである。

 そうこうしている間にも時限は刻一刻と近づいてきている。いつ炸裂するかわからない時限爆弾を、朝も昼も夜も肌身離さず持ち歩いている気分だ。さすがにストレスで体調も崩れる。ここへ来てから体重はどんどん落ちてきているが、あまり良い傾向だとは思えない。
 ならば…、いっそのこと、強攻策に出るか。貴族の子を人質にして、もういっそこの領地から追放してしまおうではないか。このままでは破滅は免れない。そもそも、国境を開放するよう命じてきたのは大公なのだ。そのくせ責任をすべて自分に押し付けてくれるとは…。

「貴族たちの子弟を少人数で拉致して、なんとか強引に従わせ―――」
「ふざけないでください」
 机に肘をつきながらそんな物騒な考えを口にしていると、お盆がすぱん、と乾いた音を立ててヴェンツェルの頭に容赦なく振り下ろされた。痛みに目へ涙を浮かべて振り返ると、メイド服を着たアリスがこちらを睨みつけている。
 しかし、なぜこの少女は自分についてきたのだろうか。正直、城に残るとばかり思っていたものだが。そんな疑問を顔に浮かべていると、不意に彼女が再び冷徹な瞳を向けてくる。
「坊ちゃまは放っておくと、極端なことをしでかしかねませんからね。わたしが間近で見張っていないと、危なっかしくてしかたありません」
 お盆で顔の下半分を隠しながら、彼女はそんなことを言った。
 一方、見事に図星を突かれてしまったヴェンツェルは、とりあえず「グゥ」のねを上げる他なかった。


 どうしようもなくなって、少年伯爵は護衛のアリスを引き連れて街をふらふらと歩く。マントを外しているので、今は顔色の悪いただの太った子供にしか見えないだろう。
 街の中央にある広場までやって来たところで、子供が道端で転んで怪我をしているのが見えた。そこへアリスが駆け寄って行き、『ヒーリング』で簡単な治療を施す。子供はそれを見てなんだか喜んで騒いでいる。
 そんなところへ慌てた様子で現れた、子供の母親らしき人物と一言二言交わしてからアリスは戻ってきた。
「坊ちゃま…。いま簡単にお話をお聞きしたところ、この街には診療所がないそうなのですね」
「え? いや、だけど。そんなはずは…」
 家臣が上げてきた報告書によると、この街には一軒だけそういう施設があると記載されていた。人口三千人弱とはいえ旅人がよく訪れる街にはそれでも少ないかもしれないが、ないよりはマシだろう。
「一月ほど前に閉鎖してしまったそうですよ。あの奥方も大変お困りのようでした」
「そうか」
 どういうことだろう。報告書は三日前の日付で作成されている。なのに…。いや、もしかしたら情報が古いのかもしれない。自分が領主になってからというもの、経営を家臣たちに投げっぱなしにしていた弊害だろうか。もともとは前エシュ伯の家臣だった者がそのままスライドしているケースが多いので、新しい主人であるヴェンツェルの下ではあまりやる気がないのかもしれない。
 とりあえずラ・アーグに相談してみるか。彼は、館へ戻ることにした。


「診療所…、ですか」
「ああ。出来れば、市街の南北に二箇所は作りたい。亡命貴族の中には水メイジもいるから、彼らにも協力を頼みたいのだけど…」
「難しいでしょうなあ…」
 ヴェンツェルの提案にそう返して、ラ・アーグは腕を組んだ。
「とりあえず、医療器具の発注はそちらに頼みたい。貴族への協力は…、僕がなんとかするから」
「はぁ…。まあ、やってみましょう」
 なんとも胡散臭そうなものを見る顔をして、初老の執事は執務室を去って行く。

 さて、あまり実のない相談となってしまった。このまま無策で貴族たちに交渉も持ちかけても、「なんで自分がそんなことをしなくてはならないんだ」と返されるのがオチだろう。かといって強攻策はリスクが大きい。
 どうしたものかと考えながら館の廊下を歩いていると、前方から青い髪の少女がやってきた。そういえば、イザベラは水メイジだったか。ひとまず、彼女に協力を頼めないものだろうか。

「やあ、ミス・イザベラ。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「なにかしら。いまは暇だからかまわないけど…」

 彼女やジョゼフは、こちらへやってきてから屋敷にこもりっぱなしだ。迂闊に外を歩くのは危険なのもあったが…。一応、ジョゼフが勉強を教えるなどはしているようだった。
 ヴェンツェルは、それとなく診療所の話を彼女に振ってみる。

「うーん、そういう仕事をしたいのは山々なんだけど。まだまだ学ぶことが多くて…。お医者さまのようなことはできないわ。ごめんなさい」
「いや、それなら仕方ないよ。気にしなくていいから…」
 まあ、そういえばそうだろう。イザベラはまだまだ子供なのだから。勉強のほうが大事だ。
 仕方ない。自分でやってみるか。そんなことを考えた少年が「じゃあ」と言ってその場を去ろうとすると、不意にイザベラがこんなことを言い出した。

「亡命者の中に、何人か信頼できる貴族がいるわ。彼らにわたしから話をつけるくらいなら、してもいいけど。お父さまにそういうことをやらせるなって言った手前もあるし…」
「本当かい?」
「ええ。ただ、彼らがその話に乗るかはわからないわよ。父じゃなくて、わたしだし…」
「それでもありがたいよ。さっそく彼らを呼んでみようか」
 今まで暗雲の中を必死で潜り抜けてきた少年にとって、これは思わぬ突破口だ。そのメイジたちを皮切りに、なんとか貴族たちを引き込みたい。ようやくその展望の一部分が見えてきた。

 さて、どうやって丸め込むか。ヴェンツェルは、思案を始めるのだった。







 ●第二十五話「領地経営はじめました その一」







 翌日。

 エシュの館の応接間に、四人の貴族たちがやってきていた。ヴェンツェルが直接貴族たちの元を説得に回って呼び寄せたのだ。実際に足を運んで来たのは、声をかけたメイジのうちの半分ほどだったが。彼らは皆、行方不明扱いとなっていたイザベラの姿を見て、目を丸くしている。
 五人がけのソファーにヴェンツェルとイザベラが腰掛け、テーブルを挟んだ向かい側のソファーには二人の若い男性と、やや高齢の男性貴族。若い女性の貴族は一人がけの椅子に座っている。他には、アリスがヴェンツェルの背後に佇み、静かに目を光らせている。

「みなさん、お久しぶりです。伯爵の呼びかけにお答えいただいて、本当にありがとうございます」
 イザベラが頭を下げながらそう言うと、若い女性貴族が慌てて立ち上がって、口を開いた。
「めっそうもありませぬ。お顔をお上げください、イザベラさま。いろいろと大変なことになりましたが、殿下がご無事でなによりです。わたしとしては大変喜ばしいことですわ」
 女性貴族の言葉に、残りの三人の貴族も頷いた。
 そのタイミングでヴェンツェルが立ち上がり、皆に向かって声をかける。

「本日はご足労ありがとうございます。さっそくですが、皆さまに本日お越しいただいたのは、我がエシュ伯爵領の統治にご協力願いたかったからです」
 それを聞いた若い男性貴族が、さっそく問いかける。金髪で気の弱そうな顔をしている。
「協力、ですか。それは一体…」
「あなたがたには、公営の診療所で働いていただきたいのです。水メイジの方々に集まっていただいたのは、それが理由となります」
「診療所、ですか…?」
「はい。現在、この街には一つもそういった医療施設がないのです。そこで、医療にも見識があろうあなたがたに…」
 そこまで言ったところで、高齢の男性貴族の一人が声を上げた。
「しかし、診療所とはどういうことかね」
「恥ずかしい限りですが、僕に下賜された領地は非常に狭いのです。大きさで言ったらそこらの男爵領以下でしょう。ですから、経営を安定させるにはどうしても農業以外の方法で租税を得るしかないのですよ」
「だが、それと診療所にどう関係があるのかね」
「まずは、このエシュの街で人々がきちんと暮らしていけるよう、生活基盤を整備していかなくてはなりません。これは身分の貴賎なくすべての方々の為に行います。その第一歩がこの診療所なのです」
 話しながら、少年はアリスへ指示を出す。すると彼女は、手にした何枚かの紙を四人の貴族たちに手渡した。昨夜、ヴェンツェルが書き上げたものだ。
 それを読んだ老貴族は、顔を真っ赤にして声を荒げた。
「なんだと? 低負担で領民に医療を提供する為の診療体制の確立…。ふざけておる。わしらに平民相手に働けというのか!」
「平民に限定はしませんよ。まあ…、どうしても嫌だと仰るなら無理強いはしません。ですが、あなたがたはなんの職も持たずに生きていけるのでしょうか? 残念ながらこの領地の財政では、石潰しを養うほどの収入はありません。ゲルマニアに行ってもらうか、ガリアに戻ってもらうしかないのですよ。要は出て行けってことです」

 ヴェンツェルにはっきり『出て行け』と言われた老貴族は、うっと喉を鳴らした。脱出しようにも、トリステインは亡命貴族を見つけ次第ガリアに送還すると発表している。一方のゲルマニアは、亡命貴族の扱いが悲惨なことになっているという噂が流れている。かといってガリアに戻るなどとんでもない。粛清されるのがオチだ。内戦寸前のアルビオンなど問題外である。
 つまり、彼らにはほぼ選択肢はない。
 反乱でも起こせばエシュ伯爵領を占拠するくらいはできるだろうが、それではクルデンホルフ大公が鎮圧のために出てくるに違いなかった。彼の指揮下には、先の戦争で十倍近い軍勢を簡単に屠ってしまった強力な軍隊が存在する。それこそ自殺行為だ。

「ふふ。なかなか、いやらしいことをしてくれるじゃない。でも、ならどうしてそれを他の貴族に突きつけないのかしら?」
 最初の発言以来、ずっと沈黙を貫いてきた女性貴族がヴェンツェルに問いかける。
「出来れば穏便にやりたいのですよ、僕は。下手に暴動でも起こされると大変ですし。でも、あなたがたなら交渉の余地があると判断したのです。これが粗暴な貴族なら、この瞬間にも僕の首は床を転がっているでしょう」
「穏便、ねぇ…」
 女性貴族は呟く。支離滅裂なことをいう坊やだ。これでは、事実上強制に近い形ではないか。
 …しかし、ここでの生活基盤を持たない自分たちはなんらかの職を得ることが必要なのは間違いない。それを認識していない愚かな連中もいるが、そういう奴らと一緒にされるのはごめんだ。
 資料を見る限り、診療所で働けば年六〇〇エキューの所得を保障すると記載されている。下級貴族の年金よりやや多い額だ。まあ、そんなに人口の多い町でもないから楽だろうし、この収入なら普通に暮らすことはできる。
 最初にこの少年へ協力し、他の貴族に対する手本となることで恩を売ることにもなる。なにより、忠誠を誓ったジョゼフの娘であるイザベラの身柄が彼の元にあるのだ。

「わかったわ。わたしはこの話に乗ります。あなたたちは?」
 女性貴族がそういうと、老貴族が渋々といった様子で手を上げる。それを見て、若い男性貴族たちも同じように手を上げた。
 それを見たヴェンツェルは、満足そうな顔で立ち上がって、貴族たちに告げる。
「ありがとうございます。ではさっそく、診療所の予定地へ向かいましょう!」



 *



 数日後の、夜。
 きりきりと痛む胃を押さえながら、ヴェンツェルはエシュの館にある寝室のベッドで横たわっていた。

 報告書の誤った情報について担当の家臣を問い質したところ、なんとこの領地では半年も前からなんの調査も行われていなかったらしい。あまりに酷すぎる有様だ。縛り首をちらつかせて領勢調査を命じたが、はたしてあれで大丈夫なのだろうか。いまいちやる気の見えない中年親父の顔を思い浮かべ、少年はため息を吐いた。
 診療所についてはこれといって問題がなくことを運べそうだが、まだまだやることは山積みだ。
 数日前、領地の収入が不自然に目減りしているので調べてみると、一部の家臣が資金を横領しているのを発見。理由ときたら「町人の娘を囲うのに必要だったから」ときたものだ。その家臣は免職したが、同じように不正を働いている連中は多そうだ。前エシュ伯が相当アレな人だったのか、それとも直轄地になってから好き放題やりだしたのか。まったく、ひどい状況としか言いようが無い。

 彼は執務室で大量の書類に判子をつく作業を終えたばかりだった。原作で、女王となったアンリエッタが書類地獄に参っていたが、恐らくそれよりも遥かに少ない作業量にも関わらずこの疲労度だ。大変だったんだなあ…。などと、今さらのように感じていた。
 領民の為に目安箱のようなものを置いてみると、それはもう大量の要望が押し寄せた。道行く人々に要望を言わせて、それを文字の書ける平民に代筆させるのだ。
 「税金下げろ」「診療所を早く開け」「おれの家の前の道を直せ」「パンを安くしろ」「ジャンの家の犬がうるさいからどうにかしろ」…一例だけでもこれだけある。まったく、民衆というものは一度権利を与えるとどこまでも増長するものらしい。特にこの町は酷い。これからはもっと引き締めを図らねば。
 亡命貴族の連中にしてもそうだ。事務処理能力のある十人ほどを欠員を埋める形で家臣として雇用したが、依然として何十人もの貴族たちが好き勝手に暮らしている。彼らは旅館を占拠するため、今までこの町で一泊していた商人が通過するだけとなってしまった。金は落ちないわ評判は悪くなるわで悲惨である。
 貴族用の住宅は相変わらず入居者が少ない。かなりの余りが出てしまっている。維持するだけでも金はかかるので、早急に貴族を放り込まねばなるまい。

 あれこれ考えているうちに、すっかり疲れ果ててしまった。果たして明日はどうなることやら。最近体調が悪いし、大丈夫だろうか。そんなことを考えながら、彼は眠りについた。


 翌日。
 目を覚ますと、ヘスティアの顔があった。最近、彼女がこの寝室に来ることが増えた。あまり構ってやらないからだろうか。
 のっそりとベッドから這い出したヴェンツェルは、メイドが持ってきた桶の水で顔を洗う。最近、どうにも顔に違和感があるのだ。クルデンホルフ市ならともかく、この町には水道なんて便利なものはないのだった。格差社会はどこにでもあるものである。

 目の下にクマを作ったまま階段で屋敷の食堂へ向かっていると、ジョゼフとイザベラも起き出してきたようだ。
「おはようだな、少年」「おはよう」
「おはようございました」
 なんだか語尾がおかしい返事をしながら、ヴェンツェルは青髪の二人と共に食堂の中へ入る。既に、席には大公妃が腰掛けていた。彼女と朝の挨拶を交わしながら、三人はそれぞれ席についた。

 朝食を取り終えると、ヴェンツェルは自らの執務室へと向かう。そこでは、彼の執事ラ・アーグと秘書が書類を持って待ち構えている。
「伯爵。医療器具の搬入が終わりました。予定通り今日から診療所を開けると、ベルネ男爵から報告が…」
 ベルネ男爵、というのは先日の老貴族の名だった。結局、なんだかんだいって、水のトライアングルである彼が陣頭指揮を執らされることとなったのだった。

「卿。北東部の森林に匪賊らしき集団がいるのが確認されたそうです。近隣住民から討伐の要請が出ています」
 秘書として雇われた年若い女性――ミス・コタンタンが書類を眺めながら告げてくる。彼女はガリア人だそうで、最近ヴェンツェルに雇われた。眼鏡をかけた長い黒髪の大人しそうな女性だ。貴族ではないが、なぜか優れた教養を持っている。
 匪賊。放っておくと、あの黒い害虫と同様に無限に増殖する厄介な連中だ。さっさと排除しなくてはならない。
「わかった。討伐隊を編成して、正午には現地に着くようにしてくれ」
 なんで狭いエシュの領内に入ってくるかなあ。判子をつきながら、ヴェンツェルはそんなことを思った。


 その日の午後。やっと仕事が一息ついた頃だ。

 領地の財政見通しは暗い。果たしてこれでやっていけるのか。やはり、なんとか産業を興さねば。
 そこでふと、なんともなしに階下の道へ目をやる。ちょうど、商人の馬車が過ぎ去っていくところだった。ガリアからゲルマニアへ向かっているらしい。
「やっぱ、商売しかないのかな」
 呟いてみるが、すぐにやはり駄目だと首を振る。自分には祖父や父のような商才はない。その場合は、誰か優秀な商人を引き込むしかないだろう。どっかに良い人材はいないものか…。そういえば、昔ローザンヌの町で出会った少女の父が商人だったといっていたような…。

 そんな風に考え事をしていると、背後から誰かがやってくるようだ。振り向くと、そこには青髪の美髯を揺らす美丈夫ことジョゼフがいた。手には『イーヴァルディの勇者 アッタロス朝編』なる本がある。最近、トリスタニアの暇な貴族が出版したらしく、ちょっとした話題となっていた。

「どうした、少年。なにか悩んでいるようだな」
「ええ…。どうにか、いい収入元はないかと」
 その言葉を聞いたジョゼフは、ヴェンツェルが座る席の反対側に腰掛ける。そして、空を見上げながらこんなことを言った。
「商人というものは、実に嗅覚が鋭い。己にとって不利なことがあればすぐに逃げ出すし、逆に有利なことなら我先にと飛びついてくる。はたして、彼らをうまく掌握できれば巨万の富を得ることができるだろうな」
 それは少年とて理解しているつもりだ。しかしながら、どうやったらいいのかわからない。そんな不満を顔に出していると、ジョゼフは笑いながら言う。
「案外、答えは簡単なところにあるものだぞ。たとえば、既成の枠組みに囚われず、自由に商売を行える…、おっと。これは余計な一言だったな。イザベラに怒られてしまう」
 そう言って笑い、ジョゼフは席を立つ。
「なに、時間がないわけではない。ゆっくりと考えるんだな」

 テラスから去っていくジョゼフの靴の音を聞きながら、ヴェンツェルは呟いた。

「自由…。そうか。もしかしたら…」




 *




 深夜。
 館にある伯爵の寝室に、静かに侵入する人影があった。

 双月に照らされた長い髪を揺らしながら、その人影はゆっくりとベッドに近づいていく。そこには、一人の少年が苦しそうな表情で、汗を盛大にかいて寝ている。

「はぁ…。はぁ…」
 それを目にした“影”は鼻息を荒くしながら、目をぎらぎらと光らせて、少年の首筋へ顔を近づける。そして、汗まみれの首筋に赤い舌を這わせた。それと同時に汗が“影”の体内に消え、代わりに“影”の唾液がそこに残される。
 我慢できない、とばかりに“影”は首筋から舌を移動させ、ついには顔中を舐め回した。

「う…。や、やめろ…」
 そこで少年がうめいた。驚いたように、“影”は後ずさる。まさか、気づかれたのか。
「オルトロス…、俺は餌じゃないんだっ…! そんなに舐めても美味くないだろ…! やめろ、噛むな!」
 違ったようだ。単に、なにかの夢のようだ。
 それにしても、普段は「僕」と言っているのに、夢では「俺」というのか。面白いことを発見した。“影”は、くすりと笑った。

 しばらく経っても起き出さないことに安心したのか、“影”は再びベッドに向かう。
 震える手で、少年のズボンのふちへ手をかける。『ここは』今日で三度目だ。大丈夫、またあの赤いのが来なければ…。初日は大丈夫だったのだから。
 “影”は自分を奮い立たせて、そのしなやかな指に力を入れようとした。しかし、そのとき。

 ばん、と大きな音を立てて、寝室の扉が開いた。その音を立てたのは、赤い髪の童女だった。
 彼女はなにかを探すそぶりを見せながら、きょろきょろと部屋の中を見回している。だが室内には、彼女と、悪夢にうなされる少年の他には誰もいない。
 なにか呟いたあと、童女は少年のベッドに潜る。そして、まるでなにかから守るかのように、一生懸命に少年へ抱きついた。

 空に浮かぶ、二つの月だけがその真実を知っている。けれど、彼らは決して語ることはない。

 夜は更けていく。


 ゆっくりと、しかし確実に。



[17375] 第二十六話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/06/07 18:42
 時間は少しばかりさかのぼる。

 ある日の、白亜のトリスタニアの王城。その主であるトリステイン王の執務室。まだまだ若く精悍を顔立ちのマザリーニ枢機卿が、妙に上機嫌な様子で執務に当たる中年男性に気味悪げな瞳を向けていた。

「陛下。どうされたのです? なにか良い知らせでもあったのですかな」
「ああ、マザリーニくん。まだきみに見せていなかったな。これだ」
 そう言って、王は机の中から一枚の紙切れを取り出した。アンリエッタがクルデンホルフ大公から貰ってきた、貸付金返済の無期延期に関わる書類だった。それを上から下までまじまじと眺めたマザリーニは、次の瞬間には耳をつんざくような大声を上げていた。
「へ、陛下! なんですか、これは!!」
「な、なにとはなんだね。見ての通りだよ」
 なんということだ。この書類の持つ意味がわからないのか! マザリーニは、思わず手のひらでまぶたを覆ってしまう。書類を彼の手から取り戻した王が、不機嫌な様子で問いを発した。

「どうしたのかね。なにか問題でも?」
「も、問題などというものではありませぬぞ! 経緯はわかりませんが、王家がこんなものを書かせたことが露呈すれば…、ただでさえ貸し渋りをしている商人たちからの資金が途絶えてしまいます!」
 これは王家の信用を失墜させてしまう悪魔の紙切れですぞ!と、マザリーニはそれはもう必死の態度でまくし立てた。だが、王はそれでも「それがどうした」といわんばかりの表情で言う。
「はぁ。どうしてそうなるのかね」
 駄目だこいつ…。もう中年だしどうにもならない…。
「とにかく! 今すぐこの書類は返して、存在そのものをなかったことにするのです!」
「だが断る。せっかくアンリエッタが持ってきてくれた成果だ。それを無下にするなど…」

 なおも渋る王に、とうとうマザリーニが胸に付けた宰相の紋章を外した。そして、それを王の机へと置く。

「ならば、わたしはここで職を辞し、故郷で教皇を目指そうと思います。さすがにこればかりは容認できません。これまでありがとうございました」
「ま、待て!」
 まずい。実質的に国の政務を仕切っているこの男に出ていかれたら、トリステインはお仕舞いじゃないか! いや、しかし、娘がせっかく…。
 そこで王は、立ち止まってこちらを見つめるマザリーニを見た。酷く冷ややかな視線だ。これは本気でロマリアに帰られてしまう! くそ、すまん、わたしのかわいいアンリエッタよ…。

「…わかった。大公の元に使者を派遣しよう。この書類はなかったことに…」

 王がそう言い、書類をマザリーニへと手渡す。それを受け取った宰相は、いつのまにか紋章を身につけ、満面の笑みを見せた。

「さすがです、陛下。それでこそ一国の王というものです」




 *




 季節は初夏。だんだんと日差しの強さが増してくる今日この頃、エシュ伯ヴェンツェルはやつれた様子で部下から上げられた報告書に目を通していた。

 最近、自分からどんどん精気が失われていっている気がする。心労かもしれない。なぜかヘスティアが日増しに機嫌が悪くなってきていて、最近では目がぎらつき始める有様だった。
 あー、早く仕事終わんないかなあ、もう毎日毎日朝から仕事は嫌だ…。などと考えていると、彼の前に懐かしい香りのする液体の注がれたカップが置かれた。昔よく目にした緑茶のようだった。そういえば、この世界では『東方』産として少数が流れてきているんだったか。そんなことを思った。

「お疲れ様です、卿。もう少し頑張れば終わりですよ。この珍しいお茶を飲んで、頑張ってくださいね」
 笑顔でそう告げてくるのは、ヴェンツェルの秘書であるミス・コタンタンだった。やつれ気味の主と違い、なんだか肌はつやつやと輝くようで、まるで湯上り玉子肌だ。来た当初よりも明るく、そして元気になっている。
「あ、ああ。ありがとう」
 なんとか例を告げて、少年はカップに口をつけた。猛烈な渋みが口の中に広まり、思わず“渋い顔”になってしまう。紅茶と同じ淹れ方をしたせいらしい。まあ、ハルケギニアの人間に緑茶の淹れ方なんてわからないだろうし、仕方ないのだろう。
「クッキーもどうぞ」
 次に差し出されたのは茶色いクッキーだった。一つ手にとってみると、ほんのりとした甘みが口の中に広がる。美味しい。美味しいのだが、このお茶とはどうにも合わなかった。紅茶となら最高に合うのだろうけども。
「美味しいな、どこのだい?」
「ええと…これ、わたしが作ってみたんです」
「へぇ! そいつはすごいな」
 驚いた声を上げながら、ヴェンツェルはばりぼりとクッキーを口の中へと放り込んでいく。どうしてか、食べるに従ってだんだんやる気が出てくる。
「不思議だな…。なんだか、やる気になってきた」
 そう言うと、彼はまた作業を再開した。先ほどまでの疲労困憊ぶりが嘘のようであった。そしてそれを、ミス・コタンタンは静かに眺めていた。


 夕刻。すっかり日も伸びた為か、まだまだ太陽の光は辺りを明るく照らしている。

 エシュの市内を流れるアルゼット川の脇の歩道を、ヴェンツェルは家臣たちを連れて歩いている。目標は現在建設中の、平民向けの公衆浴場だった。
 エシュの北東十五リーグにあるクルデンホルフ市は水道・公衆浴場完備なのだが、この町は依然としてそういった設備がない。そこでまずは、水道の敷設とそれに平行する形での公衆浴場の建設に取り掛かったのである。
 資金は大公への借金である。利子はないが、気の遠くなるような大金を借りている為、返済はかなりの困難を極める。それでも資金不足でなにも出来ずに破綻するよりはマシだという考えだ。
 工事には主に土メイジたちを動員している。土の国ガリアであるためか、亡命貴族にも土メイジが多かった。とはいえ、彼らだけでは仕事が回らないので平民も雇い入れている。エシュの住民よりも、ガリア人の比率が高い。
 再調査の結果、現在エシュの町には四千五百人程度の人口があるらしい。つまり、平民の難民は千四百人程度だということになる。彼らの生活環境は非常に劣悪で、仮住居の準備に手間取ってしまった為か、ずいぶんと不満が高まっている。そういった不平・不満を抑える為にも、公共事業を起こして働き口を作るしかないのだ。

 平民向け浴場はほぼ完成しかかっている。男女別で、最大五百人程度は収容できる作りだろうか。ゴシック様式のような外観の白い建物だった。内部にはいくつかの浴槽が設置されている。階段状で、好みの深さで湯に浸かることができるという趣向のものだった。
 一体、なにを建てているのか。道行く人は、皆物珍しそうな視線を向けながら通りをすぎて行く。

「坊ちゃま。どうしてこのようなものを?」
 ヴェンツェルの横で、興味深そうに建設作業を眺めていたアリスが問いかけてくる。
「いや、どうせならみんな風呂に入って綺麗になりたいんじゃないかな、と思って。格安で入浴できる風呂があるって宣伝すれば、それなりに人が集まるかもしれないし」
 日本と違ってそれほど湿度の高くないハルケギニア中部の気候ではあるが、やはり体の汚れを落とさないことには始まらないだろう。従来のサウナ式の風呂はどうも好きではない。極端に寒い地域で使うばならともかく…。


 屋敷の執務室に戻ったヴェンツェルは、とある書類を眺めている。
 それはこのエシュの町を経済特区とし、税を大幅に下げることで商人を誘致しようという計画の素案だった。
 しかし。まずは、肝心の商人を呼び寄せなければならない。だが、彼にはどうもその“つて”がなかった。エシュの町には小規模な小売商がいるだけだ。彼らは基本的にガリアやクルデンホルフ商会組合から品物を卸してもらうだけである。
 ガリアの商人でも誘致できまいか。国内のクルデンホルフ商会組合はとんでもない曲者ぞろいなのを彼は知っている。だからこそ、彼らを誘致することなどできない。父でなければ完全な制御下に置くことはできないような困った連中なのだ。
 中継貿易という考えもあるにはあったが、現状はクルデンホルフ市がその役割を担ってしまっている。トリステイン、ガリア、ゲルマニアを結ぶ主要幹線道路の基点に存在するのがヴェンツェルの生まれ故郷なのだ。
 ならば、倉庫なり商会の事務所なり置いてもらおう。税金を周囲のどの都市よりも…。近郊のガリア都市…、立地条件の良さを笠に着て、税金が高いことで有名なメス市に対抗してみるか。
 と、そこまで考えたところで時間が来たようだ。メイドが彼を呼んでいる。夕食の時間だった。


 夕食を終えた後、彼は風呂へ入る。そして、今度は執務室ではなく自分の寝室へ向かった。
 部屋の扉を開けると、なぜかそこではヘスティアが頭に白い布を巻いて、手には槍を持っていた。隣にはアリスの姿もある。どうしたのだろうか。若干の戸惑いを覚えながらも、ヴェンツェルは問いかけてみる。
「なにやってるんだい」
 すると、アリスが露骨に疲れたような顔でこう応えた。
「さあ。わたしも事情はわかりませんが、一緒に朝までこの部屋で見張っていろと。もう眠いのですが、無理やり引きずられてしまって…」
 一体なんなのか。今度は床で座り込みを続けるヘスティアに顔を向けた。
「…」
 しかし、だんまりを決め込むようだった。目が相変わらずぎらついている。しかたない。明日は早いのだ。もう寝よう、そう思って少年がベッドに入り込むと、なぜか赤い髪の童女まで入ってきた。
「なにやってるんですか」
 眠いというのに無理に連れてこられたアリスが、不快感を露にした表情で言う。今日は珍しく紙を束ねていたので、薄紫の髪がぶらぶらと揺れた。
「…アタシね、火石が切れているときは、いろんな部分で見た目相応になっちゃうの。頑張ろうと思ったけど、やっぱり寝ることにするわ。じゃ、あとは頑張って」
「ふざけないでください!」
「じゃあ帰れば」
 アリスが怒ると、もうお前は用済みだと言わんばかりの態度で、ヘスティアは冷たい視線を放つ。
「…な、なんなんですか、もう…」
 呟きながら、アリスはヴェンツェルの寝室から去っていく。かなり不機嫌な様子だったが、睡魔には勝てないようで、あっさりと引き下がる。だが、どうにもふらふらとしたおぼつかない足取りだった。

 しばらくして、それと入れ違いにして現れたのは大公妃だった。枕を両手で抱えている。

「…今度は母上ですか。なんですか、僕の安眠を妨げたいのですか」
「そんなつもりはないのよ? ただ、最近ベアトリスとばっかり一緒に寝てるから、たまにはと思って…」
 そう言いつつ、彼女は半ば強引にベッドの中に割り込んできた。五人程度は横になれる特大サイズの代物なので問題はなかったが、それでも落ち着いて眠れたものではない。
 しばらく、二人の真ん中でヴェンツェルが難しい顔をしていると、心配そうな声音で大公妃が話しかけてくる。

「最近、体調が優れないみたいだけど…。大丈夫なの?」
 そう。このところの激務のせいなのか、ヴェンツェルの体重はだだ減りしていた。だが、どうにもそれ以上に顔色が悪くなっているのだ。食事の量を減らしているのも問題なのかもしれない。
「大丈夫ですよ…」
 そうは答えるが、彼自身自分の不調は痛いほどに理解していた。だからといって政務をやめるわけにはいかないが。

「なにか困ったことがあったら、お母さんに言いなさい。駄目よ。一人で抱え込んじゃ…」
 そう言って、大公妃は息子の頭を撫でる。

 蚊帳の外に置かれたはずのヘスティアはただなにも発さず、じっと寝室の周囲の気配を探っていた。そして、そんな様子を見て、ベッドの脇に放り出されていたデルフリンガーは呟いた。

「やれやれ、子分もいろいろあれだねぇ」



 *



 数日後。

 ヴェンツェルは大公妃やアリス、こちら側に取り込んだ貴族に協力してもらい、旅館を占拠していた貴族連中の排除に成功した。
 当初、彼らは最後まで徹底抗戦する構えだったが、大公妃の生み出した大量のゴーレムが宿のドアを突き破り、風のように舞い込んできたアリスの『遍在』によって、とうとう宿から追い出されたのだった。
 それを後方で見学していたベアトリスは、ただ唸るしかなかった。なんて使い手なのだろう。あの二人を自分が追い越せるのだろうか…。恐らく無理だろう。

 長い間占領されていた宿は荒れ、それはもう悲惨な様相を呈している。だが、それでも完全に駄目なわけではない。平民の大工を入れて修復を命じた。メイジならばもっとすぐ終わるが、農地がほぼないこの領地では、建築も重要な雇用機会なのだった。


 屋敷に戻ると、来客が訪れているとメイドから告げられる。アポをとっていたメス商会の使者だろう。さっそく、ヴェンツェルはミス・コタンタンを引きつれ、応接間に向かった。
 部屋の中にいたのは、初老の男性だった。身なりは普通だ。あまり地位の高い人物ではないらしい。しかし、それでも使者は使者だ。文章では伝わりにくい表現を直接聞いてもらう必要がある。

「お待たせしてもうしわけありません。ヴェンツェル・カール・ド・エシュ・フォン・クルデンホルフです。本日はご足労いただきて、ありがとうございます」
「いえ、わたしもたった今着たばかりでしてな。メス商会のポールです。よろしくお願いしますぞ」
 挨拶を済ませると、ヴェンツェルはさっそく自分の構想を語り出した。ポールという使者は、終始無言でそれに耳を傾けている。表情は読めない。

 しばらくして話が終わると、初老の男は難しい顔になった。これは駄目なのだろうか。ヴェンツェルが額に汗を浮かべていると、唐突にポールが口を開いた。

「メス伯爵なのですがな。近頃、浪費癖のある妻を迎えてしまったせいで、前にも増して商人たちに重税をかけようとしていると言うのです」
 まあ、メスはゲルマニアへの主要道路がありますしな。と、彼は言った。
「おまけに、ゲルマニアもガリアからの物産に対する関税の引き上げを始めた。これには、どうにも我が商会の経営は苦しめられておりましてな。ちょうど、クルデンホルフを経由するルートを考えていたのです」
 これはどういうことだろう。なぜ、この人はそこまで詳しいのだろうか。“考えていた”などという内部情報は、そこいらの身分の低い人間が知りえる情報なのだろうか。

「あなたのいう案を呑むには、いくつかの条件がある。一つは、我が商会への優遇処置。次に、クルデンホルフ商会組合の影響力排除。最後に、租税の大幅引き下げ。これですな」
「…それが、商会の条件なのですか?」
「正確には私の、だがな」
「では…」
 やはりそうか。ただの使いではないと思っていたが…。
「ああ。私がメス商会頭取、ポール・ボーヌだ。エシュ伯は子供だと聞いてな。どんなものなのか、こうやって下の人間を装いながら、きみの元を訪れたわけだ」
 変わった人だ。しかし、変わった人間でないと商会の親分など務まらないのかもしれない。ヴェンツェルは少し考えて、条件に対する返答を行った。
「優遇処置ですが、これは租税の引き下げと同時に行います。倉庫と事務所に使える建物の提供、馬車類の提供。商会組合の影響力は現時点ではエシュにはそれほどありません。関税の引き下げなど、できる限りのことはしますが…、個人商人の商行為を妨げるような施策は行わないことにしています。…どうでしょう?」

 ポールは、目の前に腰掛ける少年の顔をじっくりと観察した。酷く疲れきった様子だ。それでも、こうして言うことは言っている。
 メスに商会を置き続けるよりは、自分たちを優遇してくれるというこの田舎町に置いた方がいいだろう。そう考えたからこそ、こうして自ら足を運んだくらいなのだ。

「…」
 しばらく、ポールは考えるようなそぶりを見せた。それを、緊張の面持ちでヴェンツェルは見つめていた。そして。

「わかりました。メス商会は、エシュに本部機能を移転しようと思います。つきましては…」
 そう言って、初老の男性はにやりと笑う。
「ええ。その点については、問題ありません」

 ヴェンツェルは相変わらず冷や汗を流しながら、ポールと握手を結んだ。






 ●第二十六「領地経営はじめました その二」







 交渉の成立から間もなくして、メスから逃げるように多くの商人がエシュの町へとやって来ていた。とうとう本格的に重税がかけられることが決まったらしい。

 彼らは、町の北東部へ新たに建設された商人街に拠点を構え出した。この頃になると、新たに流入した人々によって、町の人口は五千人程度にまで膨れ上がっていた。これはハルケギニアの都市としてはそこそこ大きな部類に入る。しかも、まだまだ流れてくる人々がいるのだ。
 こうなっては治安が問題だが、亡命貴族の治安維持隊や、エシュの元々の住民の自警団などの存在もあってか、まだまだ乱れてはいない。

 半年も経つ頃には、いつの間にかメス商会はエシュ=アルゼット商会と看板を変え、伯爵お抱えの商会となっていた。ちなみに、メス市はもう見る影もなく没落してしまったらしい。
 当初は人手不足でヴェンツェル自身が事務作業を行うことも多かったが、この頃になると実務はほとんど家臣にやらせても問題がなくなっていた。

 あっという間に寒さが身にしみる季節となった。寒さに身を震わせながら、ヴェンツェルはアリスを引き連れ、エシュの市街の中央通りを散歩していた。いい加減、彼がこの町の領主であることは知れ渡っていたが、誰も特に気にするそぶりは見せなかった。

「いやあ、ついこの間まで暑かったのになあ」
 灰色の雲に覆われた空を眺めながら、少年はため息をついた。ここ数ヶ月、あまりの忙しさにまったく首が回らない状況だったのだ。
「時間の流れなんてあっという間ですからね」
 アリスが、道端の露天商が広げている装飾具へ視線をやりながら応える。

 そうしてしばらく歩き、彼らはアルゼット川脇の道へ備え付けられたベンチへと腰掛ける。彼らの手には、先ほど購入した、小麦粉を使った生地でチョコレートを包んだお菓子が握られている。最近、この町の若い女の子たちに人気のある品だった。チョコレートも普通に存在するのが、この場合のハルケギニアである。
 しばらく、川で釣りに興じるおっさんたちを眺めていた。そして、その横を荷物を積んだ小船が通り過ぎていく。道行くおっさんが新聞を手に広げていた。
 エシュの町では、平民の識字率を上げる為の施策を行った。亡命メイジに教員となってもらい、子供はもちろん、大人にも簡単な読み書きな習わせたのだ。もちろん最初は参加を拒む連中もいたが、参加者が続々と文字を読めるようになるのを見て、負けたくないと参加する人も増えていった。

「エシュもずいぶんと発展しましたね。来た当初は考えられなかったことです」
「ミスタ・ジョゼフのおかげな部分も大きいけどね…」
 ヴェンツェルは当初、経済政策に失敗し、多額の損失を出してしまった。あまりの損害ぶりに、それを見かねたジョゼフが協力を申し出てきてくれた。それからは早かった。彼は変装してジョン・シェフィールドと偽名を名乗り、表向きヴェンツェルの家臣として経済政策を担当したのだ。イザベラの反発も起きたが、それはジョゼフ本人が説得してくれた。

 アリスと他愛のないことを話しているうちに、すっかり日が暮れてしまった。季節的に日が短くなったのだ。彼らは、屋敷に戻ることにした。

 屋敷へ戻ると、なんだか館内が慌しくなっていた。やはり慌てた様子の老衛兵、マジソンへ問いかけてみる。
「どうしたんだ、この慌てようは」
「ぼ、坊ちゃん。大変です。大公閣下が訪問されたのです。いまは応接間にいらっしゃると…」
 なんだって。ずいぶんと急な話だ。なにかあったのだろうか。
「わかった。すぐに向かうよ」
 ヴェンツェルは、ひとまず応接間へ向かうことにした。


「ち、父上」
「やっと来おったか。…ずいぶんと痩せたようだな」
 応接間には、大公妃やベアトリスと向かい合ってソファーに腰掛ける大公の姿があった。こうして姿を見るのは春以来だろうか。

「お久しぶりです」
「…うむ。それにしても驚いたな。かつてのエシュとは似ても似つかぬほどに発展しておるじゃないか。まるで別の町に来てしまったかのようだ」
 屋敷の窓から景色を眺めながら、大公は静かに告げた。
「父の融資が受けられなければ、ここまでの事業を起こすのは不可能だったでしょう。感謝しています」
「う、うむ」
 ヴェンツェルが礼を述べて頭を下げると、大公は唸るような声を出した。だが、どこかうわの空のような顔だ。そして、その視線の先には大公妃やベアトリスの姿があった。

「それでだな、ジャンヌ。いつになったら城に…」
「戻る気はありませんわ。だって、この土地の方が居心地がいいんですもの」
 大公の問いかけに、大公妃は冷たい口調で返した。そんなやり取りの中で、ベアトリスはおろおろと視線をさまよわせている。
「…」
 しばらく、痛いほどの沈黙が続いたが…、結局、大公は疲れたようにため息をついた。

「…わかったよ。きみが戻って来る気になるまでは、気長に待つさ…」
 呟いて、大公は応接間から出て行ってしまった。そういえば、ヴェンツェルは父に話があったのだ。せっかくだから話しておこう。


「父上」
「…どうした」
「ええと、エシュ伯爵領の周囲にある直轄地を元の伯爵領に編入してほしいのですが…」
 断られるかとひやひやしながらお願いをしてみる。
「ああ。わかった。そうするように命じておくよ…」

 予想外に、あっさりと認めてくれた。だが、なんだかがっかりした様子で、大公はとぼとぼと玄関から去って行ってしまった。一体どうしたのだろうか…。



 *



 年が開け、ヴェンツェルにとって十一回目となる始祖の降臨祭がやってきた。それは十日ほど続く、大きなお祭り騒ぎの時期だった。

 エシュの町もその例に漏れず、街頭では町民たちが好き勝手に大騒ぎを繰り広げていた。商人も商人で、儲かるからとどんどんワインやらなんやらを商人街の倉庫へと搬入していく。彼らにとって降臨祭とは、一年で最初にして最大の儲け時なのだ。休むなど考えられない。

 領主の館の一室では、ジョゼフが酒を飲んで歌を歌っている。信仰心など欠片も持ち合わせていない彼だが、こういうお祭りには便乗するのである。まるで現代日本人のようだった。それを、娘のイザベラは困ったような表情で見つめていた。
 彼女の手にあるのは、王の執務室から持ち出してきた、土のルビーと始祖の香炉だった。どちらも、王家に伝わる秘宝として名高い一品だ。最近荷物を整理していてその存在に気づいたのである。

「うん? どうした、イザベラよ。面白そうなものを持っているじゃないか」
 すっかり出来上がっていたジョゼフは、赤ら顔でイザベラに声をかけた。酒臭い息が顔にかかり、青髪の少女は眉をゆがめる。
「これは王家の秘宝ですよ、お父さま。なんとなく持ち出した物で…」
 そんなことを喋っていると、不意にジョゼフが土のルビーを取り上げ、自分の指へはめた。前所有者である彼の父と、今の彼の指の太さはほとんど同じだったらしい。綺麗にはまっている。
 しばらく、それまで酔っていたのはどこへ行ったのかというほどの鎮痛な面持ちで指輪を眺めていたジョゼフだったが、今度は始祖の香炉でお香をたきだしたではないか。
「お、お父さま!? な、なにを!?」
「これは香炉だろう。ならば、香をたくのが筋というものだろう」
 イザベラは父の顔を見た。さっきの真剣な表情など吹き飛んでおり、やはり彼が酔っ払ったままなのだと思う。そうこうしているうちに、部屋の中を煙に混じったなんともいえない甘ったるい香りが漂っていく。
 花の匂いだろうか。なんだか、心が落ち着いていくようだ。イザベラは椅子の背もたれに体を預け、ゆっくりと目を閉じた。

 しばらくそうしていると、突然、ジョゼフが立ち上がった。なんだか目が血走っており、かなり危うげな様子だった。彼はおもむろに杖を取り出すと、聞いたことのない言葉で魔法の詠唱を行う。
 父がそうやって魔法を唱える姿を、イザベラは初めて目にした。“無能王子”という不名誉なあだ名をつけられていた彼は、決して自分から魔法を使おうとはしなかったのだ。最近、ラインメイジとなったイザベラも、才能がないなどと揶揄されることが多かった。
 今回も父は魔法に失敗するのだろうか―――そんなことをイザベラが思って前を見たとき、ジョゼフの姿が彼女の目の前から消えていた。


 ヴェンツェルは、館の庭で網に乗せた肉を焼いていた。肉の焼ける音がして、美味しそうな匂いが辺りを漂っている。その隣では野菜がいい具合に焼けている。
 地面に置かれたテーブルにはベアトリスが腰掛け、肉と格闘している。辺りには近しいもの―具体的には、大公妃、ベアトリス、ヘスティア、アリス、秘書のミス・コタンタンと少数のメイドしかいない。木で覆われたこの場所は、静かに時間を過ごすのにはもってこいの場所だった。
 伯爵領に再編入された土地には、大規模な牧場も含まれていた。そこの牛の肉を購入して、こうしてバーベキューのようなことをしているのである。彼の隣では、ヘスティアがよだれを垂らしながら肉に魅入っている。さすがにみっともないので、それをハンカチでふき取ってやる。
 そろそろジョゼフとイザベラも呼ぶか。そう思ったヴェンツェルは、近くにいたメイドに声をかけようとして―――高速で飛来した物体に弾き飛ばされた。

「ヴぇ、ヴェンツェル!?」
 それに驚いた大公妃が慌てて駆け寄っていく。しかし、そこには既にミス・コタンタンが到着していて、自分の太ももに主の頭を乗せていた。
「…」
 無言の圧力をかける大公妃を、まるでいないかのように無視しつつ、ミス・コタンタンは言う。
「これは大変ですね。全身を複雑骨折しています。さっそく医務室へ運ばないと…」
 微妙によだれが口の端から覗いていた。その様子を見た大公妃は、あからさまに不信感を募らせたようで、ヴェンツェルの足を引っ張り出した。
「どこが複雑骨折だか。いいから、さっさとヴェンツェルを離しなさい。医務室へいかなくちゃならないなら、わたしが連れて行くわ!」
「いえいえ、殿下はどうぞお肉をお召し上がりになられ、どんどん肥えてください」
「あなた、わたしを馬鹿にしているの?」

 そんなやり取りをしていると、その場に影を落とす人物がいた。さらさらの髪を風に揺らし、美髯を切りそろえた男―ジョゼフだった。その姿を認めたヴェンツェルが、彼に話しかける。
「あ、今呼ぼうと思ってたんですよ…。早かったですね」
 頭から血を流す彼に、ジョゼフは声を震わせながら応える。
「しょ…少年」
「はい?」
 どうしたのだろう。なんだか、あまり落ち着きがないようだ。今にも盗んだ馬車で走り出しそうな勢いである。そして、ジョゼフは叫んだ。

「…ついに、ついに、おれも魔法が使えたのだ!」

 ―――このとき、この場に少人数、それもヴェンツェルの側近しかいなかったのは僥倖だろう。

 もし、誰かに聞かれていたら…、それは…。



[17375] 幕間二
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/06/16 17:27
 白の国アルビオン。ハルケギニア上空三千メイルの高度を周遊するこの空飛ぶ国でも、始祖の降臨祭が祝われている。
 だが、そんなお祭りとは無縁の場所もあるにはあったのである。

 ロサイス港から北東へおよそ五十リーグ。地元の者でも近づかないような森の奥に、ウエストウッド村は存在している。そこはある一定の部分だけ木が伐採され、広場のようになっていた。その場所に木造住宅が五棟ほど立ち並んでいる。どれもまだ新しい。
 広場の中央で、長身の男が木の棒を持ってなにかしている。その背後では、緑色の髪を腰の辺りまで伸ばした女性が、なにか指示を飛ばしていた。それを受けた男性が頷いてなにか呟く。すると突然、彼の目の前に置かれた丸太が割れ、真っ二つとなったではないか。
 木を割ったのは、風の魔法『エア・カッター』のようだった。

「うん、なかなか上達が早い。やっぱりあんた、才能があるんじゃない? どうして今まで杖を持っていなかったのさ」
「はは、いやね。僕のご先祖さまは、政府の宰相だったらしいんだがね。どうにも政敵との政争に負けてしまったようで、爵位を剥奪されてしまったんだ。杖の所持も禁止されてね。何百年と経つうちに、もうすっかりただの平民になっていたわけさ」
 女性の問いに、まだ購入したばかりの杖を懐にしまいながら、端正な顔立ちの男―――オリヴァー・クロムウェルは語った。
 彼は最近になって魔法の練習を始めた。オリヴァーの“同居人”ことルサリィがそう薦めてきたのだ。どうしてなのか、その理由は尋ねても教えてはくれなかったが。そこで、自分の先祖の逸話を思い出した彼は、緑髪の少女―――マチルダ・オブ・サウスゴーダに魔法の指南を頼んだのだ。
 オリヴァーはどうやら風の魔法と相性がいいらしい。ここ最近でどんどんと腕を増している。そのうち、剣を杖として契約できないかと考えているほどだった。

 今日の分の鍛錬は終えたので、二人でしばらく雑談に興じていると、近くの建物から一人の少女が現れた。
「おじさま、マチルダ姉さん。ご飯が出来ましたよ」
 おっとりとした声だった。絹のように滑らかな、金色に輝く長い頭髪を揺らしている。そして、小作りの頭蓋の両脇には長い物体が伸びている。それは耳だった。人間とエルフの間に生まれた彼女は、エルフの特徴である優れた容姿と、その長い耳を持っているのであった。
「ああ、ありがとう。今行くよテファ」
 オリヴァーは頷いて、マチルダと共に立ち上がる。良い香りだ。今日は、かつて偶然立ち寄ったトリステインのタルブ村で、平たい顔の老人からご馳走になった一品、『ヨシェナヴェ』をテファとルサリィが作ってくれたのだ。かなりうろ覚えのレシピで作っていたが。

 皆で食堂でなかなか変わったシチューの味に舌鼓を打っていると、そこで突然思い出したかのように、ティファニアが一通の封筒を取り出した。真っ白な便箋で、差出人はおろか宛名すらも記載されていない。それを、やや顔に影を落としたマチルダが受け取り、中にしたためられていた便箋を取り出す。
 しわの出来ないように綺麗に折りたたまれた紙には、びっしりと送り主の書いた文字が綴られている。最後まで読んでいくと、小さく差出人の名が記されていた。
 文章を読んで、よりいっそう表情が暗くなったマチルダはため息をつき、その手紙を火のくべられた暖炉の中に放り込む。白い紙が少しずつ炭化していく様子を、彼女はただ黙って見つめていた。

 食事を終えた後、オリヴァーは自室へ戻ったマチルダの元へと向かった。

「失礼するよ、マチルダ…」
 ノックをしてから、木で作られた扉を開けてマチルダの寝室へと足を踏み入れる。年頃の女性の部屋らしく、少し甘ったるい匂いが漂っていた。
 マチルダ本人は自分のベッドに腰を下ろし、うつむいていた。やはり、ただ事ではないようだ。オリヴァーは彼女へ問いかけてみる。
「彼から、連絡が?」
「ええ。とうとうケンブリッジで、東部諸侯・新教徒連合軍と王軍が衝突したらしいわ。トマスも頑張ってくれたみたいだけれど…」
 そう言って、彼女は顔を歪めた。

 トマスというのは、サウスゴーダ太守の家臣の一人だった。モード大公一派の粛清後、各地にばらばらと散らばった家臣の中で、数少ないマチルダと行動を共にした貴族だ。
 彼は東部諸侯のとある貴族の家臣となり、マチルダに生活資金を仕送りしたりしてくれていた。だが今回の手紙には、情勢の悪化で今後それが不可能になると記されている。しかしマチルダにとっては、お金の問題よりも、ずっと自分に付き従ってくれた初老の男性の安否の方が、ずっと心配だった。
 その手紙が書かれたのが昨年暮れで、少し間が空いていたのも彼女の不安感を煽ってしまっていた。

 戦争。もともと、とある事件で現王家と折り合いの悪い東部の貴族たちが、自分たちの勢力拡大を図る新教徒たちと結んだのがそもそも政情悪化の始まりだったのだ。アルビオン有数の穀倉地帯を有しているとはいえ、戦力では圧倒的に劣勢な東部諸侯はそうもたないだろう。そうなれば…。

 マチルダの悲しさに沈む顔を見て、オリヴァーは自分の心も痛めた。どうにかしてあげたい。だが、自分になにが出来るのだろう。
 この一年弱の間、オリヴァーがしてきたことといえば、近く(といってもかなり距離はある)の町で働いたり、農作業をして野菜を育てたり、魔法の練習をしたり…。故郷の焼き討ち事件の資料の捜索は、宮廷内に残ったマチルダの息のかかった貴族に頼んであるとはいえ、彼はずっと目標を見失っていたのだ。
 自分はどうしたかったのか。テファの、その姉ともいえる人物の笑顔を守りたい。最初はそう思っていたはずだ。だが…。

 そのときだ。くいくいと、オリヴァーの服のすそが引っ張られた。見れば、銀色の髪の少女―――ルサリィがそこにいた。彼女の瞳は、ただ静かにオリヴァーへと向けられている。口は開かない。しかし、彼女が言いたいことはなんとなく理解できた。
 彼は一度大きく深呼吸をして、ベッドに腰掛けるマチルダと同じ高さまで目線を下げた。細く華奢な肩に両手を置く。それに驚いて顔を上げたマチルダは、赤くなった瞳で、目の前の精悍な顔立ちの男性を見つめている。

「マチルダ。僕がミスタ・トマスの安否を確認してくる。だから、泣いてはいけない。きみはテファのお姉さんなんだから…」

 真摯な声でオリヴァーがそう告げたとき、とうとうマチルダは泣き出してしまうのであった。








 ●幕間ニ「風と目覚めと」







 数日後。
 オリヴァーとルサリィは二人で、アルビオンの東部諸侯軍と王軍が睨み合うイーリーの町の郊外を訪れていた。ティファニアとマチルダは居残り組みだ。

 始祖の降臨祭ということで、両軍は一時的な休戦状態にはあるものの、イーリーを絶対に明け渡す気のない東部諸侯軍は未だ臨戦態勢を解いていなかった。この町の東側にある川を越えると穀倉地帯なのだ。ケンブリッジで大敗を喫した彼らにとって、大きな橋のあるこの町を守ることは避けて通れない道だった。
 また、兵には新教徒が多く、信仰心の強さによる彼らの士気の高さによって、この“革命軍”の体裁が保たれている感があった。

 そんなぴりぴりとした空気の漂う町の中を、ブリミル教の僧服に身を包んだ男女がゆっくりと通り抜けていく。一瞬だけ不審なものを見るような視線を向けられるが、彼らにとってブリミル教の司教とは非常に神聖な事案を扱う人々だ。たとえ旧教側の僧だとしても、滅多なことでは手は出さない。

 オリヴァーがこの危険地帯に足を踏み入れたのは、トマスの現在の主人である貴族が連合軍の司令官としてこの町にいるらしいとの情報を得たからだ。城壁の向こう側に見えるノーフォーク公爵家の旗を眺めながら(ノーフォーク公爵家はアルビオン東部の大貴族だが、新教徒を忌み嫌っており、王軍側についている)、近くの酒場へと入る。
 兵士たちでごった返す酒場の中の、端っこでちょうど二席分空いた席があったので、そこへ腰を下ろす。店主は、僧服を着ているくせに酒場へ堂々と入店したオリヴァーを訝しげに眺めながらも、すぐに注文を受けた。
 隣のルサリィがフードを下ろすと、流れるようなしなやかさを持った、艶やかな銀髪が男たちの目に触れた。しばらく魅入る者もいたが、ブリミル教の服を着ているためか、すぐに視線をそらす。彼らのルールでは、尼にちょっかいをかけるような行為はご法度なのである。
 実際、非正規軍にしては異様なほどに統率が取れている。

 やがて運ばれてきた料理の、まるで残飯を思わせるような不味さに顔をしかめながら、オリヴァーは必死に周りの会話に聞き耳を立てていた。
 しかし。やれ貴族はおれたちの扱いが悪いだの、やれ飯がまずいだの、やれ娼婦がいなくて溜まってるだの、そんなどうでもいい話ばかりが飛び込んでくる。しばらくやってみても駄目だった。もうこれでは無駄だろう。食事をなんとか完食して、店を出ることにする。

 店を出た後は、宿をとることにした。一旦寝床を確保したらば、ブリミル教の説法がどうだのと唱えながら司令官のいるらしい屋敷へと向かうのだ。長い放浪生活の間、オリヴァーはブリミル教の経典を読み漁ってきた。それなりの説法ならできる自信がある。
 
 宿に荷物を置いた彼らは、さっそく司令官の屋敷を目指した。やはりというか、レンガ造りの屋敷の周囲は警護の兵でびっしりと固められている。オリヴァーはつとめて明るい声で、そんな連中の元へと足を運んで行った。
 一方のルサリィである。彼女は、マチルダから聞いたトマスの容姿に沿う人物がいないか目で追っていた。途中、幾人もの男と目が合い、その度ににっこりと微笑んでやる。そうすれば、女日照りの兵たちはたちまち顔を赤らめ、ルサリィに魅入られてしまう有様だった。
 しばらくそんなことを続けていると、やがてオリヴァーが彼女を呼ぶ。どうやら、うまく取り入ることができたようだった。
 先導する若い兵士の後を歩きながら、二人はトマスらしき人物がいないか目を凝らしていた。しかし結局のところ、そこまで頑張る必要もなかったのである。

「ようこそおいでくださいました、ミスタ・クロムウェル。私はトマス・コーウェンと申します。東部諸侯軍司令・ノリッジ伯爵の執事を務めさせていただいております」
 クロムウェル、という名をオリヴァーがハンティンドン焼き討ち事件以降、公式の場で使用したことはない。だから、今名乗ろうとも、これといって問題は起きないのだ。
 トマスの年齢、容姿はまさにマチルダから聞いた通りだった。まず本人だと見ていいはず。しかし、どうにか三人だけにならないか…。と思っていたとき、「では私はこれで」と兵士が去って行った。これは僥倖だ。さっそく彼に正体を明かし、一緒に来てもらおう。

「ミスタ・コーウェン。出会い頭にこういったお話をするのもなんなのですが…」
 伯爵の執務室へ案内します、と言って歩き出したトマスの背中に、オリヴァーは声をかけた。いぶかしむような表情で、初老の男性はこちらを振り返る。
「どうしましたかな?」
「実は…」

 まず、辺りに人影がないのを確認し、オリヴァーは『サイレント』で音を遮断してから彼にゆっくりと話し出した。マチルダがトマスの身を案じていること。本格的な戦いとなる前に、なんとかトマスを連れ出せないかと、自分が考えたこと。
 すべてを話し終えたとき、トマスはゆっくりとハンカチを取り出して、目に浮かぶ涙をふき取った。

「そうですか…。お嬢さまがそんなことを…」
「信じていただけるのですか? 自分でこんなことを言うのもなんですが、証拠が…」
「いいえ。私も無駄に長く生きてきたわけではないのです。向かい合って話す人間が、嘘をついているか、いないのか。それくらいは見抜けますよ」
 まあ、絶対というわけではないですがね。と、トマスは笑う。
「では…」
 安堵したのか、オリヴァーが期待をはらませた瞳で問うた。

 だがしかし、初老の執事はそこで首を横に振った。

「大変、本当にありがたいお話です。ですが、あなた方のご提案に乗ることはできません。今の私はノリッジ伯爵の執事として重大な責任のある立場にいるのです。戦時下に主をほっぽり出して自分だけ逃げ出す。それは出来ないのです。本当に申し訳ないが…」
 うつむき、心底辛そうな声でトマスは心情を吐露する。悲痛な感情を思わせる皺が、深々と刻まれていた。
 だが、それならば仕方がない。彼は決断したのだから。自分がこれ以上どうこう言うこともない。マチルダには悪いが、彼女ならばきっとわかってくれるだろう。
「わかりました。その思いだけでも、ミス・マチルダにお伝えします。ですから、どうか顔を上げてください」
 オリヴァーの言葉に、トマスは応える。
「こんなところまでご足労いただいたのに…」
「いいのですよ。こうしてお元気でいられた、それだけでもマチルダには十分でしょうから」
 なおも暗い様子のトマスに、今まで会話に入ってこなかったルサリィが声をかけた。先ほどからちらちらと視界に入るこの少女のことが気になったのか、トマスが問いかけてくる。

「おや、きみは…、ミスタ・クロムウェルの付き人かな?」
「ただれた関係です」
「きみはいきなりなにを言っているんだ!」
 ふところから取り出した杖が、ルサリィの頭部にスパンと軽快を音を立てて命中した。思わず涙目で頭を押さえる少女。そんなコントのような珍事を目撃したトマスは笑いながら、オリヴァーたちに告げる。

「せっかくここまで来ていただいたのですから、伯爵にお会いになられてください。気のいいお方ですよ」
 それだけ言って彼は背筋を伸ばし、再び歩きだした。


 ―――それから。


 すっかり日も暮れたころ、オリヴァーとルサリィは宿に戻ってきていた。ノリッジ伯爵はなるほど、人当たりのよい紳士だった。トマスの紹介があったとはいえ、どうにも身元の怪しい二人を歓迎し、晩餐会まで開いてくれたのである。
 窓の外の街はもうすっかりと静まり返っている。夜間は外出禁止令が出されているのだった。

「ねえ、この後はどうするの?」
 オリヴァーが机に広げた新聞へ目を通していると、ベッドの上に座り、櫛で髪を梳くルサリィが問いかけてきた。さらさらと髪が流れていく。
「そうだな。ミスタ・トマスの件は残念だが…、無事を確認できただけでもいいだろう。さっそく帰って、マチルダに教えてあげよう」
 そう言って、彼は新聞を閉じる。ルサリィの座るベッドと、対になるようにして備え付けられたベッドへと潜り込む。そして、すぐに寝息を立て始めた。
 それを見たルサリィはつまらなそうにため息をつき、さっそくオリヴァーのベッドに忍び込んだ。せっかく二人部屋にしたというのに、結局一人分の代金が無駄になってしまうのであった。



 *



 誰かの叫び声がして、ルサリィが目を覚ましたのは深夜のことだった。まだ日付が変わったくらいの時間だろうか。耳を澄ましてみる。――おかしい。なにかが燃える音に、人々の悲鳴が聞こえる。これはひょっとしたら一大事かもしれない。そう考え、彼女は横で眠るオリヴァーの体を揺すった。
「起きて。起きてよオリヴァー。町の様子がおかしいの!」
「…う、ううん。どうしたんだ」
 やっと目を覚ました男に、ルサリィは町でなにか大変な事態が起きているかもしれないことを伝える。それを聞いたオリヴァーは、すぐにベッドから飛び出し、窓を覆っていたカーテンを一気に開けた。その刹那。
 燃え盛るイーリーの街が、彼らの視界に映った。


 大慌てで宿を飛び出したオリヴァーたちは、状況を把握する為、近くを通りかかった兵士を捕まえる。幸運にも、それは昼間に屋敷の中まで先導してくれた若い兵士だった。
「一体、なにが起きているのだね!?」
「そ、それが! つい先ほど、敵方から火矢が市街地に向かって放たれたと…。休戦協定を破って奴らが攻撃を仕掛けてきたのです!」
「なんだと!?」
 そんな馬鹿な。始祖の代より血統を今に伝える由緒あるアルビオン王家の軍が、正式な場で締結された協定を破っただと! なんということだ。
 一礼して去っていく兵士の背中を呆然とした表情でオリヴァーは眺めていた。そして、視線を周囲へと向ける。燃え盛る建物が、黒々とした煙を天に向かって吐き出していた。それを見て、彼の中で昔の記憶がよみがえる。真っ黒こげとなった故郷。煤にまみれ、汚されようとしていたルサリィ…。
 いても立ってもいられなくなって、オリヴァーは走り出した。


 その頃、市街を覆う城壁が、王軍の攻城用ゴーレムによって易々と突き崩された。それを操る金髪の気の弱そうな青年が手を上げると、それに合わせるかのように巨大な鉄の塊が腕を振り上げて突き落とす。たった一撃で、城壁の近辺にいた東部諸侯軍の兵士たちは、もはや体の原形を保てなくなるほどの圧力を受けた。

 城壁の破壊と共に、次々と王軍の兵士たちがなだれ込んでいく。すぐにそこら中で平民兵たちによるつばぜり合いが始まるも、大勢のメイジ部隊を突進させた王軍はどんどん市街地を奥へと進んでいく。やがて、東部諸侯軍のメイジ部隊がそれに立ちはだかった。しかし、数の差は明らかだ。ほとんど抵抗もできないうちに全滅。敵の進軍を妨げることは叶わなかった。
 そしてとうとうメイジ部隊が、ノリッジ伯爵が指揮をとっていると思われる屋敷へと到達した。一斉に魔法を放ち、わずかな時間でレンガ造りの風情ある建物がただの瓦礫の山となってしまう。


 オリヴァーはルサリィとともに、そんな現場へと到着した。前方では多数のメイジが魔法を放ち、逃げ惑う市民たちの命を奪っている。
 ―――そんな。王軍ともあろうものが、協定破りだけでなく、罪のない自国民にまで手をかけている…!? どういうことだ。なぜ、どうしてこんなことを!
 怒りに我を忘れたオリヴァーは杖を構え、メイジ部隊の後方に向かって『エア・ハンマー』を放った。一人がそれに気づかず、見えない空気の壁に吹き飛ばされる。しかし残りの連中の反応は速い。薄暗い中であっという間に“敵”を見つけると、容赦なく魔法の集中砲火を浴びせてくる。

 間一髪で魔法をかわして建物の陰に隠れたオリヴァーは、隣で目をぱちぱちとしばたかせるルサリィに声をかける。
「きみは逃げろ。あの数が相手じゃ、僕一人ではせいぜい囮になるくらいが関の山だ。だから―――逃げろっ!!」
 いきなり怒鳴り、彼はルサリィの羽根のように軽い体を思い切り突き飛ばした。ごろごろと地面を転がり、彼女は一瞬だけ上下がわからなくなった。それでもすぐ立ち上がり、抗議の為にオリヴァーの方へ視線を向けると―――

「お、オリ、ヴァー……」
「る…、さりぃ…。にげ、るんだ…」
 『ブレイド』がオリヴァーの体を貫通していた。そして彼の背後では、先ほど鉄の攻城用ゴーレムを練成した金色の髪の青年が、ただただ無表情に杖を構えている。すぐに『ブレイド』を血の噴出と共に引き抜くと、今度はルサリィに向かって歩き出した。

「悪いね。だけど、目撃者は全て消せといわれているんだ。前払いで報酬を貰った以上…、仕事は成功させないと」
 青年は、目の前の事象など見ていないかのように、陰鬱とした瞳の色をしている。
 ルサリィはじりじりと後ずさった。大丈夫。オリヴァーはまだ生きている。なら、こいつさえ引き離せば――そう思って、逃げようとしたときだった。彼女の体が、背後から何者かによって羽交い絞めにされた。鉄の冷たさと固さが背を圧迫する。苦しい。

「よお。こんなところで出会えるなんてなあ…。ルサリィ!!」
 その声には聞き覚えがあった。確かロンディニウムにいた頃、オリヴァーの同僚をやっていた男だ。入り口でオリヴァーの帰りを待っていてからまれたこともあった。けれど。どうして彼が、こんなところに? そんな疑問に答えるかのように、彼は独りでに自分語りを始めた。
「俺はね、オリヴァーの野郎が行方不明になってからすぐに、治安維持隊を首になってな。そんで傭兵業をやっていたわけさ。まあ、なんだ? そこで無様にくたばってるおっさんには感謝してるぜ。俺が傭兵として名を上げられたのは、そいつにぼこぼこにされながらつけられた訓練のおかげなんだからな!」
 言葉とは裏腹に、到底感謝しているとは思えないような口調で、彼は吐き捨てた。

「ハリー、といったか。さっさとその娘を処分しなくてはならない。そこを退け」
 そこへ、先ほどから傍観していた青年が口を出してきた。
「はっ、ちょっと待ってくれよ。せっかく邪魔な奴がいないんだ、少しくらいは楽しんでもいいだろう?」
 少し焦った様子で、ハリーはそう返した。青年は悩むように顎に手を添えたあと、「ああ、わかった。終わったら呼べ。手短にすませろよ」と言い、どこかへ去ってしまう。

「…ふう。メイジにしちゃあ話がわかる奴で助かったぜ。それじゃ、お楽しみといきますか」
 言うなり、彼はルサリィの服を破きにかかる。びりっという音を立てて、若草色のスカートが破かれた。次に上着を強引に剥ぎ取られ、白い肌が露出する。そして、その布が破ける音を聞いたとき、少女の中で何かが弾けた。

 ―――町の人たちだけじゃない。オリヴァーまで酷い目に遭わせて…。テファが初めて作ってくれた洋服だったのに。なんで。どうしてこいつは、他人の幸せを壊して、笑っていられるの? わからない。どうして、罪のない人たちをそんな簡単に手にかけられる…!!

 そう思った瞬間…、ルサリィの体が唐突に光り始めた。ハリーが驚いて飛び退ると、少女は宙に浮かび上がった。周囲から白い光の粒子がふわふわと舞い上がり、彼女の体に吸収されていく。それまでの華奢な少女の体に肉が付き始め、身長も伸び始める。すっかり大きくなった細身の体には、まるで僧侶がまとうような布切れを体に巻いていた。
「な、なんだ、なんだこいつは!?」
 先ほどまでの余裕はどこへ行ったのか、茶髪の青年はすっかり怯えて、じりじりと後ずさりを始める始末だった。

「…」
 今まで感じたことのない高揚感を、ルサリィはその身で感じていた。まるで大切な人と一つになっているときのような…、得も知れぬ不思議な感覚だった。もう、彼女の目にはハリーなど映ってはいない。その瞳が見つめる先には、平民たちに乱暴を働くメイジたちの姿があった。皆、その醜悪な顔面を、より一層欲望まみれの汚物へと変えている。
 …許せない。

 ルサリィは、小さくなにかを唱え始める。そして、それが終わると共に、イーリーの町を猛烈な豪風が覆いつくした。



 *



 オリヴァーが目を覚ましたとき、眼前には見たことのない女性の姿があった。しかしなぜか、彼はその人が“ルサリィ”であると直感的に理解できる。彼女は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたあと、すぐにしゅんとうなだれてしまう。

「ルサリィ」
 彼が呼びかけると、女性はぱあっと顔を輝かせた。やはり、自分が誰なのかわかってもらえないかも知れない。そんな風に思っていたようだった。
 痛む頭を押さえて、オリヴァーは上半身を起こした。手を腹に当ててみると、なぜか傷が塞がっているではないか。どういうことだろう。
 ちょうど日が昇る時間帯だったようで、地平線の彼方から太陽の光が漏れ出ている。周囲を見渡して、彼はぎょっとした。なんと、あれだけ燃えていたたくさんの建物が、土台を残して綺麗さっぱり吹き飛んでいるではないか。

「これは…、君がやったのか」
「………うん」
 少しの沈黙のあと、彼女はゆっくりと頷いた。そしてよく見れば、城壁の向こう側にいた王軍の本隊が撤退していくだはないか。見るからに損害を負っているようで、馬車を放棄したりしている。
 やがて周囲から、「始祖が我ら新教徒を豪風でお守りくださったのだ!」「ノリッジ伯爵ばんざーい!」と、いたるところから叫び声が鳴り響き始めた。次第にそれは大きくなっていゆき、仕舞いには耳が痛くなるほどであった。

 惨敗を喫したケンブリッジの戦いから一転、彼らは勝利をもぎ取ったのである。もっとも、これは公式な勝ち戦としては記録されなかったが。
 やがて、サセックス伯爵を中心とする反王家の貴族たちがこの勝利に目をつけ、次第に影響力を増していくことになる。最初は東部貴族と新教徒が主体であったこの動きは、やがて大きな力を持った中央諸侯によってその主導権を奪われるのである。

 だが、それはもう少しだけ未来の出来事であった。




 *




 始祖の降臨祭が終わってから、数日が過ぎたころ。オリヴァーとルサリィはウェストウッド村の入り口までやってきていた。

 そこから見える村の広場で、そわそわとせわしなく行ったり来たりを繰り返すマチルダを観察していると、やがて彼女が気づいたようだ。顔を真っ赤にして、オリヴァーたちへ怒鳴りつける。
「ちょ、ちょっと! いたんならそう言ってよ!」
「ははは、悪いね。ちょこちょことしていて可愛い動きだったから」
「…!!」
 笑いながらそうのたうつ男性に向かって、顔を耳まで真っ赤にしたマチルダはぽかぽかと殴りつける。どうみても手加減しているので、まるで痛そうには見えないが。銀髪の少女、ルサリィはそんな様子を冷ややかな瞳で見つめている。

「…それでだね。ミスタ・トマスとは会うことが出来たのだが…、その、なんだ。彼は今の職場から離れることができないそうだ。代わりと言ってはなんだが、手紙を預かってきたよ」
 申し訳なさそうにそう言って、オリヴァーは一通の手紙を取り出した。イーリーの町を出る直前、生き残っていたトマスから受け取ったものだ。幸いにも、ノリッジ伯爵やその家臣はほとんどが無事だったらしい。
 手紙を受け取ったマチルダはさっそく開封して、食い入るように文面を見つめる。…やがて読み終わったのか、満足げな様子で便箋を封筒に戻した。
「ふふっ。…ありがとうね、オリヴァー」
 はにかんだ笑みを見せながら、マチルダは木造の建物の中へと姿を消した。

 それと入れ替わりに、ティファニアがいぶかしげな表情で家から出てくる。
「お帰りなさい、おじさま。ルサリィ。…それで、なにかあったの? マチルダ姉さんの顔がすごく怖いのだけれど…。なんだかふにゃふにゃとしていて…」
 まるで「怪物を見た」とでも言いたげなティファニアの台詞である。まあ確かに、普段のマチルダは表情を引き締めているのだけれど。
「さあ? そんなことより、二人でお料理でもしましょ! 今日は腕を振るっちゃうわ!」
「え? あっ、ちょ」
 ルサリィがいきなり出てきて、ティファニアの背中を押していく。テファ。まだまだ子供だと思っていたのに、すっかり体の一部分に脂肪が付いている。これは将来が楽しみだ。

 そして、一人中庭に残されたオリヴァーは、小さく呟いた。

「守ろう…。今度こそ。…強くならなくてはいけないんだ」




[17375] 第二十七話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/06/16 17:33
 クルデンホルフ大公国南端、エシュの町。

 一週間あまり続いた始祖の降臨祭も終わりを告げ、市街は平穏を取り戻している。
 穏やかな空気の漂うなか、町とその周囲の土地を治めるヴェンツェルは、お忍びでとある施設を訪れていた。

 もうもうと白い湯気が立ち上っている。周囲では男たちのガヤ声が響き渡り、実に騒々しい。そんな騒音をBGMに、テニスコート二枚分ほどの広い湯船に浸かりながら、少年はため息をつく。
 ついに二人目の虚無の担い手が覚醒した。事情を訊いてみれば、なんのことはない単なる“偶然”に依るものだというのがわかる。だが、彼にはとてもそうは思えない。
 こうなると怖いのはロマリア教皇庁とヴィットーリオだ。彼は既に虚無に目覚めているはず。そしてロマリアという国の性質上、既にジョゼフが虚無の担い手であることはほぼ突き止めているだろう。なにせ彼らは歴代の“担い手”を把握してリストまで作成していたではないか。
 だが、エシュの町には小さな教会があるだけだし、ロマリア出身者は司教も含めて存在していない。それでも、後々を考えれば早急に対策をとる必要がある。課題は山積みだ。
 だいたい、自分は内政に手を出す気などなかったのに。父の気まぐれには本当に困ったものだ―――などと、彼は既に自分がどうしてこの領地を与えられたかすら忘れ去っていた。


「どうした。悩みかな、少年。まあ、若いうちは大いに悩むといい。あまり直感的に生きると、おれのような困った大人になるからな」
「そんな簡単に言いますけどね……、え?」
 自分の横から聞こえてきた声にそちらを向くと、そこでは青髪の美丈夫が悠々と浴槽に張られた熱い湯に浸かっているではないか。
「なにやってるんですか、せめて髪の色くらい変えてください! それじゃ…」
「心配するな。ここまでは『加速』で来たからな。誰の目にも留まっていないはずだ。いやはや、まったく便利だな、魔法は!」
 そう言って、青髪の男ジョゼフは立ち上がった。すると、無骨な黒光りする銃を思わせる物体がぶらぶらと揺れる。さすがはヨーロピアンサイズである。
「…いや、ここに人がいますから」
 反論しながら、「うわぁ、ろくでもないものを見た」と、ヴェンツェルは顔をしかめる。同性のナニなど見ても不愉快になるだけだ。

 しかしながら、ジョゼフは小言を言って聞くような人でもない。仕方なく、そのまま二人で湯に浸かる。しかし、やはり普段まったく目にしない青髪は平民たちの目を引くらしく、皆が皆、じろじろとこちらを観察している。気分は檻の中のパンダだ。
「やっぱり、目立ちますよ。帰ったほうがいいです」
「…む。そうか」
 さすがのジョゼフも、何人もの子供たちに目の前でじっと観察されるのは気になるらしい。立ち上がって浴槽から出ると、どこからか持ち出した杖を構える。
「では、先に帰るぞ」
「えっ、ちょっと!」
 いきなりルーンの詠唱を始めたジョゼフを慌てて止めようとするも、そのときには既に彼の姿は公衆浴場から消え去っているのだった。


 屋敷の敷地内にいきなり全裸の男が現れ、その場に居合わせたメイドたちが大騒ぎ(黄色い声)を起こし、それを聞き付けてやってきたイザベラがゆでダコのように真っ赤になってぶっ倒れてしまったのは、もうまったくの蛇足である。



 *



 その日の午後。
 ヴェンツェルは、己の執務室に置かれたソファーに座り、ミス・コタンタンが作ったというケーキを彼女と共に食べていた。
 なんのことはない、普通の白いケーキだ。ただ、なぜかそれを食べると元気が湧いてくるのである。彼女の作るお菓子はなぜかそういう効果があるらしい。どうしてなのか尋ねても、彼女からは曖昧な答えが返ってくるだけだ。しかし、別に毒というわけでもないだろう。
 背の低いテーブルを挟んで真向かいに腰かける女性は、黒く長い髪を頭の後ろでまとめあげている。この人も、ここに来た時と比べるとずいぶんと変わった。間食を終えた少年は、熱い紅茶の注がれたカップに口をつける。


 ミス・コタンタンがこのエシュの町に現れたのは、ちょうどヴェンツェルがジョゼフやイザベラと遭遇した日の夕刻のことである。
 難民たちとの押し問答で全身ずたぼろになったヴェンツェルは、後片付けのために町外れで働いていた。当時はまだ家臣の数が少なく、しかも絶対数の少ない彼らには難民の誘導などを行わせている。残った仕事は自分がやるしかないのだ。

 そして、作業を終えて帰宅しようとしたとき、彼の視界に一人の女性の姿が映った。
 どうしたのか、彼女は煤けたような汚れのこびりついた服を着ている。ところどころには穴が開いており、どう見てもただの浮浪者である。しかしよくよく見てみれば、確かに身なりこそ乞食のようなものだが、彼女の背中に下ろされた黒髪は夕日を受け、艶やかに輝いている。手入れが行き届いているのは間違いない。
 では、なんなのだろうか。可能性としてはやはり、ガリアからの亡命貴族か。しかし、それならば難民申請をしに来ないのはおかしい。変装の為に扮装をしているのだろうか。ならば召使いの一人はいてもおかしくないが、この周囲にはヴェンツェルと女性の二人だけしかいない。
 とりあえず話しかけてみよう。少年は、彼女の元へと歩み寄って行く。

「どうしたのですか。ここはもう誰もいなくなりますよ。あなたのような若い女性が一人で夜を明かすのは危険です。難民の方でしたら、避難所へ向かってください」
「…っ」
 いきなり話しかけられて驚いたのか、女性はびくっと体を震わせて後ずさった。あからさまに不審なものを見るような視線を向けてくる。そして、まるで犬が自身の脅威となりうる存在に対するときのように、うなりながら言葉を吐き出した。よくよく見れば、その視線は少年の持つ杖に向いているのがわかったのだが…。
「…放っておいてください。どこでどう生きようとわたしの勝手です」
 それだけ吐き捨てて言って彼女が立ち去ろうとしたとき、唐突に体が浮かび上がる。ヴェンツェルが『レビテーション』を唱えたのだった。
「そうはいかない。郷に入っては郷に従えという言葉があるんだ。勝手は許さないよ」
「な、離しなさい! 離せっ!」
 彼女は黒髪をめちゃくちゃに振り回しながらじたばたと暴れるが、魔法の力の前では、それはまったく無意味な行いだった。やがて観念したようで、ぐったりと脱力した。


 数刻の後、エシュの館。その執務室で、メイド服の少女―アリスが、とても不機嫌そうな表情でソファーに座るヴェンツェルたちを見下ろしていた。
「坊ちゃま。どうしたのですか、その人は」
「いや、町外れにいたんだよ。難民の人数を把握しなくちゃならないから、役場に連れて行ったんだ。そしたら、貴族じゃないっていうのに自分で文字が書けるじゃないか。本も読めるし、内容も理解できる。驚いたんで、ここまで来てもらったんだ」
「はぁ…」
 ここで少女は、目の前にいる太っちょの少年の瞳を見つめた。赤い瞳が微妙に妙な方を向いている。これは彼がなにかやましいことを隠そうとするときに出る現象だ。
「…」
 一方の黒髪の女性―自称クロエ・コタンタンは、やはり不機嫌そうな様子でうつむいている。実際は、明らかに常人とは異なる類のオーラを放つアリスの存在に怯えていたのだが、なんとか態度には出さずにいた。
「…わたしは他に仕事がありますので、これで失礼します」
 刺すような視線をヴェンツェルへ向けたあと、アリスは執務室から退出していった。心なしか、コタンタンは若干落ち着いたようだ。

 そして、唐突に問いかけてきた。
「なぜ、あなたのような子供が貴族の執務室に?」
 さっきから子供ばかりいるのを疑問に思ったらしい。確かに、通常ならばこんなところをヴェンツェルのような少年が管理しているはずがない。
「いやね、この部屋は僕が使っているんだ。ここは僕の執務室だよ」
 そう簡潔に答えると、女性は大いに驚いていた。
 この反応はいい。なぜかエシュの町の連中は、異様に珍事慣れしているというか、子供店長ならぬ子供伯爵を見てもそれほど驚かないのだ。さすが、いくら相手が子供だからといっても貴族の乗った馬車に石を投げるだけのことはある。

「で、君には聞きたいことがあるのだけど…。どうしてこの町に?」
 話題を変えながら、問いかける少年の顔を見て、女性は少し考えている。

「細かいことは省きますが…」
 やがて顔を上げた彼女は、ぽつりぽつりと話し出した。後の話では、ずっと独りで誰とも会話できなかったせいか、自分のことを他者に問われたのが嬉しかったのだという。
 どうやら、彼女は引きこもりがちで、両親に狩りへ行けと言われてもやる気にならず、ずっと家にいたらしい。そうこうしているうちに、厳しい母に実家から追い出されたという。そのまま行く宛てもなく、ずっと獣道を進んでいた。すると、目の前をたくさんの人々が歩いて行くのを目撃したという。これといって目的のない彼女は、そのまま一団の後を追ったそうだ。そうするうちに、この町へとたどり着いていたらしい。
 どこかで聞いたような話だ。どことなく、ちょっと前の自分と目の前の女性の姿が重なる。…狩り、というのが少々引っかかったが、猟師の家なのだろうか。いや、それはないだろう。ならば言い間違いか。

「君の家は平民なんだろう? そのわりに文字がきちんと書けるし、勉強だってできる。どこか商人…、良家なのかい?」
「…いえ、そんなのではないです。別に、村では普通の…」
 彼女はまたうつむいてしまった。あまり自分の村のことは話したくないらしい。
 それにしても、教養のある平民。これは貴重な存在だ。前エシュ伯爵の家臣たちに舐められている現状、自分の側近として置ける人物は非常に限られている。アリスはあくまでもメイド、それも子供なので、家臣にはカウントできない。
 かなり身分の怪しい人物だが、根は悪くなさそうだ。それに美人である。美人秘書というものを一度は雇ってみたかったし、いい機会である。べっ、別にやましい気持ちなど微塵もないのだ。

「ミス・コタンタン。なんというか――提案があるのだけれど」

 立ち上がると、ヴェンツェルは自分の考えをミス・コタンタンへ向かって話し始めるのであった。



 *



 雪に覆われたエシュの町。その領主の館にある一室では、ジョゼフが本を片手に暖炉の前へ置かれた椅子に腰掛けていた。

 立派な装丁の施された本の表紙には、『イーヴァルディの勇者 最強王子編』という題名が記されている。それはリュティスで、とある大貴族の子息だと噂されているヤシイセン・テハレオというペンネームの作家が発刊した。しかし発売早々に回収され、今では希少品である。
 読んでみると、文章は改行と空白だらけ。各話は続いているくせに完全に脈絡がなく破綻しているし、やたらと古語を多様した内容など、あってないようなものだ。『最終章 ソードマスター・イーヴァルディ』に至っては、もはや「書くのに飽きたから打ち切った」といわんばかりの破天荒な終幕を迎えている。
 当然こんなものがハルケギニアの住民に受け入れられるはずもない。
 おまけに、一部にブリミルとロマリアを揶揄、見方によっては中傷するような文言が含まれているとかで、焚書指定&著者の異端審問の実施が検討されているらしい。一体どこのばかだろうか、そんな行いに走るのは。
 しかし、ばかと言いつつちょっとだけわくわくするジョゼフだった。


 彼が本を持ったまま屋敷の一階へ下りると、そこで娘であるイザベラと遭遇。すると彼女はいきなり顔を真っ赤にしたかと思うと、そのまま反対方向に走り去ってしまった。先日の“まるで彫刻のようだ”事件がまだ尾を引いているらしい。もう三日ほど口を利いてもらえていない。

 そのまま休息室(執務室の隣に設けられた、伯爵用の休憩室。空き部屋を改装している)のドアを開けると、そこではヴェンツェルがベッドに横たわっている。

「おやおや、もう姥捨て山に行く時期なのか、少年」
「笑えない冗談はやめてください…」
 まともに応える気力もないようだった。全体的に丸々とした体の中で、顔だけが不気味にこけている。
「元気がないようだな。きみの母君と…、ヘカテといったか? 彼女がいないからか?」
「ヘスティアですよ…」
 ジョゼフの言葉に、少年はやはり力なく突っ込みを入れる。

 現在、大公妃とヘスティア、ベアトリスは竜籠でクルデンホルフ城へ戻っている。なにやら大公が病気になってしまい、どうしても戻ってきてほしいとのことだった。ヴェンツェルにはこれといって呼び出しはかからなかった。ヘスティアは万が一のときの為の護衛。彼女が肩からぶら下げているポシェットのようなものに、火石が詰まっている。
 妙に心配そうなヘスティアに対してヴェンツェルは「大丈夫」と言って送り出したのだが…。どうにも、あまり大丈夫ではないようである。彼女がいなくなってからというもの、少年はやつれる一方だった。

「水メイジに診てもらったほうがいいのではないか?」
「いえ。その必要はありません」
 珍しく心配そうな表情のジョゼフの言葉を遮ったのは、秘書のミス・コタンタンである。彼女は湯気の立ち上るカップを手に持っており、それをヴェンツェルの元へと運んで行く。
「…コタンタン、といったか? 少年はきみの主なのだろう。ならば、彼の体調を第一に考えるべきではないのか」
「ですから、こうして秘薬入りのお茶を持ってきたのです。伯爵はわたしが見ていますので、ジョゼフ様はお好きなように過ごされてください」
 そう受け答えしつつ、彼女は少年の上半身を起こしてカップを口へ当てる。

 ミス・コタンタン。ジョゼフもちょっとした政務のときに同行したことがある。なかなかに優秀な女性だが、どうしてか得体の知れないところがある。かといって、今の彼女から悪意は感じ取れない。ならば目くじらを立てても仕方あるまい。彼は休息室を後にした。


 翌日。
 あれから、なぜかすっかり回復したヴェンツェル。彼は仕事を家臣に任せ、館の中庭で魔法の練習に打ち込んでいた。老衛兵のマジソンやメイドの一部が、そんな光景を退屈そうに眺めている。

「…くそっ、『ファイアー・ボール』は何回やっても駄目か」
 もう何百回と魔法の詠唱を続けているが、どれだけやっても火の粉一つ出はしない。やはりヘスティアがいないと火の魔法は使えないらしい。
 次々に水、土、風と魔法を唱えていく。しかし、そのどれもが不発に終わる。これは酷い。彼はもうずっと魔法の練習を重ねているのにこの有様なのだ。

 それからも必死に杖を振っていると、慌てた様子の執事、ラ・アーグが少年の下へとやってきた。この寒い中でも汗を大量に噴出していて実に見苦しい。彼は盛大に真っ白な息を吐きつつ、大声で叫んだ。

「た、大変ですぞ! 大公妃殿下がご実家に連れ戻されてしまったと、大公の執事から連絡が…!!」







 ●第二十七話「女神たち」







 トリステイン王国には、ブラバント公爵領という歴史ある大貴族の領地がある。かつては独立国家だった時期もあったが、現在ではトリステイン王国の公爵家として存続していた。

 ジャンヌ・フランセット・ド・ブラバントはそんな由緒正しい家の元に生まれた、第五子である。末っ子だったこともあってか、上の兄弟たちとは違って甘やかされて育ち、勝手に森や草原へ遊びに出て行っては、とんだおてんば娘だと評論されることもあった。
 しかしながら、時は残酷にも過ぎ去っていくものだ。
 いつの間にか兄が家を継いで、三人の姉が良家に嫁いでいく。年の離れた兄弟たちの末子であるジャンヌは、優しかった姉たちが次々とよその家に嫁ぐのを目の当たりにして、自分の将来が真っ暗なことを嫌でも悟らされた。好きでもない相手の妻となることを強要される姉たち。自分もやがてはああなるのだろうか。いつからか、彼女はそんなことばかり考えるようになっていた。
 目の前に浮かぶのは恐怖心だ。姉たちとばかり過ごしていたせいか、彼女は異性に対する免疫というものがほとんどない。もしこのままどこかへ嫁がされたらと思うと…、背中を冷たい汗が流れる。

 ―――そしてとうとう、ジャンヌの周りから姉が誰もいなくなった年。彼女は、ずっと魔法の練習に打ち込むようになった。
 ある日、彼女は父に呼び出された。応接間へ足を運ぶと、そこにはいまやトリステイン王国で知らぬ者はいない男であるクルデンホルフ大公と、その息子らしい男性が佇んでいる。

「ああ、来たか。大公閣下、ご紹介します。我が愛娘のジャンヌです。…ほら、お前もご挨拶しなさい」
 ぼうっと突っ立っているだけの娘の態度に業を煮やしたのか、ブラバント公爵は彼女を視線で叱る。それを見たジャンヌは、慌てて頭を下げる。
「いやはや、これは素晴らしく可愛らしいお嬢さんですな。ぜひとも息子の妻として迎え入れたいものだ、はっはっは!」
 そう言って、大公は豪快な笑い声を上げる。一方で、彼の息子は嫌そうな顔をした。それはそうだ。ジャンヌと彼では、あまりにも年齢が離れている。まともな神経をしていれば、そういう感情を態度に出してしまうのも仕方ないだろう。
 しかし、大公は息子のそんな粗相を見逃さなかった。

「…まあ、妻にというのは冗談のつもりだったが…。いや、よく考えればいい案かもしれんな。どうかな、公爵?」
「あ、ああ、そうですな。それは良い考えです。私としては大歓迎といいますか…!」
 額に脂汗を浮かべながら、ブラバンド公爵は焦り交じりの口調で言う。彼は大公に多額の借金をしており、もはや頭の上がらない状態だったのだ。
「ち、父上! 私は子供と結婚する気などはありません、どうか…」
 いきなりの展開に、大公子は驚いたらしい。やはり焦りを見せつつ、自分の父に抗議しようとする。だが。
「逆らうのか? お前が、このわしに?」
 ものすごい形相で、大公は自らの息子を睨みつけた。ジャンヌからは横顔だけしか見えなかったが、あまりの鬼のような表情をしているのがすぐにわかった。恐ろしい。あまりにも…。一代でクルデンホルフをハルケギニア有数の経済大国にまで押し上げた人間の威容を、まざまざと見せ付けられた気がする。

 結局、大公子はそのまま沈黙し、大公の思うままにジャンヌはクルデンホルフへ嫁入りさせられたのである。



 強引に結ばされた婚約から、一年ほどが過ぎた。このときジャンヌは、本来ならば通う予定だったトリステイン魔法学院への入学を取りやめている。
 クルデンホルフの城。とある部屋を改装した即席の分娩室のベッドでジャンヌは横たわっていた。生まれてくる赤子の名は既にクルデンホルフ大公が決めていて、男なら『ヴェンツェル』、女なら『ベアトリス』にする予定だった。

 やがて、生まれてきた赤子を抱き上げたとき、産婆が悲鳴を上げて取り落としそうになった。赤子の目が、ハルケギニアで不吉の兆候を表す“月目”だったからだ。左目が淡い赤の光を放っているのも、その場にいた人々を混乱させる要因となってしまった。
 叫び声に気づいて飛び込んできた家臣の一人が赤子に気づき、杖を抜いて命を奪おうとする。“月目”の子を見たら生かしておくな。そう言われて育ってきた彼に、迷いはなかった。
 出産直後で体が非常に不安定な状態のジャンヌは、その光景を他人事のように眺めていた。

 家臣が魔法で、首をはねようとしている。誰の? 自分の子だ。身ごもったときの経緯は思い出したくないが、それでも初めての子供だった。今までずっと愛情を注いできた。なのに、目の前でその命が奪われようとしている。駄目だ。たまたま目の色が赤かったからなんだというのだ。そんな理由で殺させてたまるか。

 気づいたときには、ジャンヌは家臣の目の前に飛び出していた。そして、床に放置されたわが子を抱きしめる。酷い。生まれてきたばかりの子供が、どうしてこのような仕打ちを受けなければならないのか。震える体で、瞳に涙を浮かべながら彼女は家臣を睨んだ。睨まれた家臣は、うっ、と後ずさる。
 そして、ジャンヌは言い放った。
「この子はわたしの子供です。誰かが命を奪うことなど、絶対に許しません! それでもやるというのなら、わたしが相手になります!」
 その場の誰もが固まっていた。出産直後にベッドから飛び起きた女性の話など、聞いたことがない。自身も三児の母親である産婆の記憶や経験では、出産直後はしばらくまともに動けなかったのだ。なのに、こんな小娘がそれを実行している。信じられない。

 だが、ふと、そこでジャンヌは床に崩れ落ちた。やはり、今の状態で起き上がったのは奇跡に近かったらしい。そこへ、事態を呆然と静観していた大公子が割って入る。倒れこんだ妻を抱きかかえて『ヒーリング』をかかえながら、叫んだ。
「な、なにをしている! お前たちも手伝え!」

 ―――その後。出産以来関係を拒絶していたが、またしても彼女は大公子の子を産むこととなってしまった。どうしてどうして、大公子はときおり理性を失って襲いかかってくるのだった。そしてそれは、大抵が大公と晩酌をした後のことだったのだ。
 そうして生まれたのがベアトリスだった。自身の経験から、この子には自分の好きな道を歩んでほしいと願っている。だが、はたしてそれがこのハルケギニアの世で可能なだろうか。ならば…、それを変えなくては。



 大公妃は、鉄の監獄の中に置かれたベッドに腰掛けながら、かつてのことを思い出していた。すると、そこへ一人の男性が訪れる。長身の茶髪を伸ばした、いかにもな優男だった。

「ジャンヌ。悪いね。ぼくとしても、大事な妹をこんな鳥かごの中に閉じ込めておきたくはない。だが…、こうするしかないんだ」
 ギヨーム・ド・ブラバント。現ブラバント公爵で、ジャンヌの兄だ。彼は端正な造りに微笑を浮かべ、にこやかに話しかけてくる。ただ、状況があまりにも異常だった。
「…お兄さま。わたしには、あなたがなにを言っているのか、わかりません」
「ああ、わからないだろう。それはそうさ。ぼくはただの“道化”だからね。知っているかい? ブラバント公爵家は、父がこさえてくれたとんでもない借金のおかげでもう破産寸前なんだよ。でも、きみをこうしてこの場所に繋ぎとめておけば、それがチャラになる。いい話だろう?」
 ぺらぺらと話しているが、いまいち要領を得ない。観察してみると、目の焦点が合っていないことに気がつく。なんだか、気持ち悪くなってしまった。
「…」
「まあ、全部終わったらそこから出してあげるから、大人しくしていてくれ」
 それだけ言うと、彼はその場から立ち去った。



 ブラバント公爵邸、その地下深く。ヘスティアが四肢を鉄の鎖で固定され、地下に囚われていた。
 彼女の目の前には、一人の少年がいる。年のころは十ほどだろうか。肩から下げられているのは、ロマリア連合皇国北西部の国、サヴォイア公国の紋章が刺繍されたマントだった。それで細身の体が覆い隠されている。

「…どういうつもりかしら。どうも、あなたの目的はアタシのようだけど…」
 火石のない状態で、闇での目が利かないヘスティアは、努めてひょうひょうとした態度で問いかける。それに、少年は薄ら笑いを浮かべつつ、応えた。
「ああ、別に俺は君に興味はないんだけどね。連れが会いたいんだそうだ」
 彼が言うのと同時に、周囲で松明の明かりが灯された。ぼんやりとした空間の中を、ゆっくりとこちらへ向かってくる人影がある。それは、少年よりも一回りほど小さな栗毛の童女だった。

「久しぶり…、というには少し時間が経ちすぎたかしら? ヘスティア」
「デ、デメテル…。どうして、あなたがここに…」
 まるで、彼女が存在しているのが意外だったというふうに、信じられないのものを見るような瞳で、ヘスティアは呟いた。

「ふふ…。わたしもまさか、また地上へ出られるなんて思ってなかったのだけれど、この子…、カルロが目覚めさせてくれたのよ。しばらく普通に暮らしていたのだけど。そうしたら、火竜山脈の北側で、ばかみたいな炎を撒き散らす子がいるじゃない。すぐにあなただってわかったわ。それから調査させて…。ようやく、あなたの居場所を突き止めたの。色々と手回しをしたわ。邪魔の入らない場所でこうやってあなたとお話するために。結構骨が折れたのよ?」
「まあ、ほとんどやったのは俺だけどな」
 憮然とした様子で少年、カルロは呟く。しかしそれを華麗に黙殺して、デメテルは続ける。
「まあ、ここでこうして会えたのもなにかの縁よ。運命って素敵だと思わない?」

 愉快そうな表情で言いながら、デメテルはなにか石ころを取り出す。ゴーレムなどの生成に使われる精霊石、土石だった。それが自ら砕け、少女の小さな体に吸収されていく。同時に、彼女の体が一回り以上大きくなった。

「せっかくだし、六千年分の恨み…、きっちりと晴らさせてもらうわ」

 息を呑むヘスティアを嗜虐的な眼差しで見つめながら―――デメテルという名の女神は、その大きな瞳を怪しく光らせた。




[17375] 第二十八話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/09/21 00:01
 母とヘスティアが連れ去られたという一報を受けたヴェンツェルは、城で一泊した後、竜籠で大公妃の実家であるブラバント公爵家の館へと向かっている。
 ちなみに、大公は彼らが城についたときには既に出奔してしまっていた。使用人たちも行方を知らないらしく、この非常時に大公は行方不明となってしまった。
 城に一人残されてしまい、とても不安がるベアトリスをなだめるのは一苦労であった。

 使用人たちにさらに詳しく話しを聞いてみる。風を引いていた大公の症状がよくなったとき、城を大公妃の兄が付き人を伴って訪ねてきた。
 そして、気づいたときには大公妃とヘスティアが連れ去られていたのだという。
 父の行方は知れぬが、だからといってこのまま大公妃を放置しておくことはできない。ヴェンツェルは、独断で現地へ向かうことにしたのだ。

 それから、しばらくの後。

「いやあ、空は冷えるな」
「ああ、まったくだ」

 四頭の風竜に牽引され、高速で空を翔けぬけて行くクルデンホルフ印の竜籠。
 その内部に設けられた席に腰掛け、高速で流れる雲を楽しげに眺めながら、子供のように青髪の美丈夫は呟く。それに、インテリジェンスソードのデルフリンガーが同意した。
 武器があった方がいいということで、持ってきたのだ。なぜかジョゼフと意気投合しているが。

 一方、その反対側の席では子供二人が妙に密着している。

「……坊ちゃま。どうしてジョゼフ様が……」
「わからないよ。どうしてだか、いつの間にか……」

 まったくいつの間に彼が侵入したのだろうか。恐らく『加速』を使ったのだろうが、あまりの早業すぎてもう対策の取りようがなかった。

「……もう皆まで言いませんが、どうしてついて来たのですか?」

 ヴェンツェルは、無駄だと知りながらもジョゼフへ問いかける。

「いや、なんだか面白そうなことになっていたのでな。たまには見知らぬ土地へ赴くもの悪くないだろう」

 これといって悪びれた様子もなく、彼は淡々と答えた。

 ……なんということだ。よりによってジョゼフがついてきてしまうとは。
 この人は自分がどういう立場で、どれだけ重要な人物なのかわかった上でこういった行為に出ているに違いない。
 少年が睨むと、もういい年だろう青髪の中年は笑い声を上げた。まったく反省している様子はない。


 やがて、竜籠はブラバント公爵の館の中庭に着陸した。
 竜籠の中からヴェンツェルが外へ出ると、そこでは何十人もの公爵家の召使いと思わしき人々が、それぞれ剣や槍、フライパンなどの得物を手にしていた。思わず、ヴェンツェルも杖を構える。
 すると、人垣が割れて男性が前へ進み出てくる。長身の優男だ。ヴェンツェルは彼の姿に見覚えがあった。伯父のギヨームだ。もっとも、母の実家との付き合いはほとんどなかったが。

 ギヨームはその端整な造りの顔に微笑を浮かべ、目の前の少年に声をかけた。

「やあ、ヴェンツェルくん。ようこそブラバント公爵領へ。本日は何用かな?」

 あくまでシラを切るつもりらしい。周りを取り囲んでおいてなに事もなかったかのような振る舞いを見せる伯父に、少年はちょっとした怒りを覚えた。怒気を含めた声でそれに応じる。

「何用? 決まっているでしょう、あなたが連れ去った僕の母を取り戻しに来たのです」
「おいおい、言いがかりはやめてもらいたいなあ。そんなことをしてぼくになんのメリットがあるんだい?」

 確かに。別に身代金を要求しているわけでもないし、そもそも母はこの家の生まれだ。どうして誘拐などという手段を講じなければならなかったのか―――
 そのときだ。竜籠から降りてきたジョゼフがブラバント公爵をひとなめして、言い放った。

「なるほど。ブラバント公爵家は多額の債務を抱えていると聞いているが…。もしや、少年の母君を連れ去ることで、それが大幅に軽減されるなどの密約があるのかもな。クルデンホルフ大公はトリステイン内外を問わず敵が多い。大方、取引を持ちかけてきたのはロマリアの通商国家辺りだろう?」
「うっ!」

 マシンガンのようなジョゼフのトークを聞いた公爵は、思わずのけぞってしまう。
 ジョゼフにただならぬ気配を感じたからなのかもしれない。そしてすぐに自身の犯した愚行に気が付くも、時既に遅しだった。

「……最低のゲスですね。いくらお金が無いからって、実の妹を誘拐するなんて……」

 そこで、今まで後ろで控えていたアリスが呟いた。かなり呆れ気味なようで、半眼になってギヨームを見つめている。

「っく……。なんだお前は! 平民が貴族、それも公爵に楯突くとは……。一体どういう教育をしているんだ!」

 まさか彼を罵ったメイドの少女が、妾腹とはいえ大公の娘だなどとは気づかないのだろう。明らかに格下の相手を見つけた彼は、不快感を露にして吐き捨てた。

「まあいい。とにかく、ここにはなにもない。そういうわけだから、帰ってくれ」
「そうはいかない。事実、当家の複数の使用人があなたの姿を目撃しているんだ。いい加減認めて、二人を解放しろ!」

 ヴェンツェルが杖を向けながら、大きな声で言い放つ。

「ちっ、忌々しいガキめ……」

 ここに来て、ギヨームの顔色が変わった。顔を醜く歪めると、使用人へ合図を出す。
 すると、後方で控えていた男が弓を構えた。それをきっかけとして、この場にいた使用人たちがそれぞれの得物を強く握り締める。

「『凡夫』のヴェンツェル。貴様はクルデンホルフの恥さらしらしいな。まったく、優秀な母体からこれほど酷い欠陥品が生まれるとは…。とにかくだ。当家の敷地内への不法侵入の件で、きみたちは拘束させてもらう。なに、死人が出るかもしれないがそれは不可抗力だ」

 ギヨームが腕を振ると共に、竜籠へ向かって矢が放たれた。それは綺麗な放物線を描き、ヴェンツェルたちの元へ――降り注がなかった。
 豪風が吹いて、矢を吹き飛ばしてしまったのである。見れば、アリスが太ももに括り付けられた鞘から抜き放った短剣を構えている。

「な……。他にメイジがいたのか! ならば……」

 この一撃で仕留められると思っていた公爵は驚愕しつつも、再び合図を出した。すると、後方からぞろぞろと杖を持った男たちが現れる。

「へえ、公爵。おれたちの出番ですか」
「ああ。見事やつらを仕留めたものには、報奨金をやろう」

 報奨金、という言葉に男たちが沸いた。どうやら雇われ傭兵のようだ。厄介なのは、彼らの大半がメイジであるという点だろうか。

 ヴェンツェルが息を呑んでいると、唐突に隣へやってきたアリスが、耳へ顔を寄せた。

「……坊ちゃま。この場はわたしがなんとかしますので、あなたは先行して奥さまを迎えに行ってください」
「だけど、この場は囲まれている。僕の足じゃ追いつかれるだけだ」

 少年が懸念を示すと、そこへジョゼフが割り込んできた。

「大丈夫だ。おれが『加速』で運ぼう」

 自信満々に彼は言う。それは確かに有用だ。
 しかし、ジョゼフは今まで何度も『加速』を連発しているはず。まだ使えるというのだろうか。そんな心配など露知らず、アリスとジョゼフは二人で打ち合わせに入ってしまった。
 そして、それが終わったのか。ジョゼフはヴェンツェルを軽々と持ち上げる。

「はっ、なにを話し合っていたかと思えば……。今さら逃げ出す気か? そんなことを許すはずがないだろう!」

 唾を飛ばしながら、ギヨームは怒鳴った。彼が杖を前方へ向けると、傭兵たちもそれにならった。そして、魔法の詠唱を始める。
 このタイミングで、アリスとジョゼフは行動を開始した。

 まず、アリスが傭兵の後方にいる使用人たちへ向かって『ウィンディ・アイシクル』を叩き込む。
 一気に大騒ぎとなって、傭兵たちの集中が乱れたところをジョゼフは見逃さなかった。『加速』を唱え、メイジのいない方向を瞬時に駆け抜けていく。この間はわずか十秒にも満たない。
 一瞬でジョゼフが姿をくらましたことに驚いたギヨームは、再び怒鳴り声を上げた。

「な、なんだ!? なにが起きた!」

 そして、一人この場に残されたアリスは不敵に微笑みながら、冷ややかな口調でこの場の全員に告げる。

「大丈夫です。命までは取りませんから。ただちょっと、坊ちゃまが帰ってくるまで眠っていてもらうだけです」

 その刹那、ブラバント公爵邸の中庭で人々の断末魔の叫びが響き渡った。









 ●第二十八話「公爵邸突入」









 『加速』で一気に館の内部へ侵入したヴェンツェルたちは、長々と続く廊下を必死の形相で走り抜けていた。
 彼らの後方から追ってくるのは、真っ黒な体毛を生やしたドーベルマンのような犬だった。それが三頭もいるのである。比較的小型だが、ひとたび噛み付かれてしまえばたまったものではない。

「な……、なんとかならないんですか!? 『爆発』とか!」
「ん? なんだそれは」

 逃走を続けながら、ヴェンツェルはジョゼフに爆発の虚無呪文について問うてみる。
 しかし、彼はそんなものは知らんと首を横に振ってしまう。やはりというか、虚無呪文はそう簡単に習得できるものではないらしい。

「じゃ……、じゃあ! また『加速』で……!」
「それも考えたのだがな。どうやらさっきので精神力が切れたらしい」
「なん……だと……?」

 絶体絶命。四面楚歌。万事休す。
 このままでは、大きく開いた口からよだれを垂らして追いかけてくる犬に食い殺されてしまう。そんなことを考えたとき、更なる絶望が少年を襲った。

「大変だ、少年。目の前は行き止まりだ」

 ジョゼフが少し焦ったような口調で告げてきた。
 なるほど確かに、暗がりの廊下は、彼らが向かう先で行き止まりとなってしまっている。前門の壁。後門の犬。もはや座して死を待つ敗軍の将のような心境であった。

「……少年。短い付き合いだったが、楽しかったよ。おれはもう満足だ……」
「だ、駄目ですよ、諦めたら! 僕はまだ死にたくない! それにほら、あの先はよく見たら扉になっているじゃないですか!」

 よく目を凝らしてみると、暗がりでよく見えなかっただけで奥には扉があったのである。
 二人は最後の力を振り絞ってラストスパートをかける。
 そして一気に扉を開け、部屋の中へ。それとほぼ同時に扉を閉めて手近な家具を強引に引きずった。直後、どしんという何かが扉にぶち当たる音と、「きゃいん」という情けない泣き声が鳴り響く。
 しばらくじっとしていると、犬たちは去っていったようだった。安堵し、胸をなでおろす。

 カーテンの引かれた、薄暗い部屋の中を見回す。ところどころに調度品が置かれており、部屋の中央には大きな机があった。
 どうやらここは公爵の執務室のようだ。
 すると突然ジョゼフが机に近寄り、その引き出しを開けたではないか。中から一枚の紙切れを取り出す。それを上から下まで読み終えた彼は、にやりと顔に笑みを浮かべるのであった。

「なるほど、これはいいものを見つけた」


 ―――少ししてから公爵の執務室を出た二人は、長い木の階段を上っている。

 これが一体どこまで続いているのか。もしや屋上へ出てしまうだけではないか。
 そんなことを考えたとき、不意に踊り場が見えた。その奥には重々しい鉄の扉が存在しており、近寄る者にその威容を見せ付けている。
 さて、これはどうすればいいのか。『爆発』をジョゼフが使えない以上、これを破るのは至難の業だ。そう思った少年が別ルートでの捜索を試みようとしたとき、唐突にジョゼフが杖を振った。

「開いたぞ」
「え、どうやって?」
「『アンロック』をかけたらあっさりとな。普通、こういった扉には厳重なプロテクトがかけられているのだが……。ここの領主は相当にズボラなようだ」

 魔法使えないんじゃないのかよ。と思ったが、虚無魔法と比べれば、ただのコモン・マジックである『アンロック』は消費する精神力が少ないのかもしれない。
 それに、時間が少々経過しているのも要因だろう。

 重い鉄の扉を二人がかりで開けると、途端に眩しい陽光が差し込んできた。上を見上げると天窓があり、そこが光源となっているようだった。

「ヴェンツェル?」

 と、そのときだった。少年を呼ぶ声がするではないか。
 見れば、太い鉄格子の向こうに自分の母親がいる。ジョゼフに再び『アンロック』をかけてもらって、ヴェンツェルは一見して貴人用だとわかる監獄の中へ足を踏み入れた。
 すると、感極まったらしい大公妃が飛びついてきた。どうも疲れていたようで、そのままぐらついて二人とも床に倒れてしまう。ジョゼフときたら、そんな様子を愉快そうに眺めているではないか。

「もう、どうしてこんなところに来ちゃったの? 危ないわよ」
「……自分の家族が連れ去られたと聞いたら、助けないわけには行きませんよ。さあ、行きましょう。ヘスティアも捜さないと。どこにいるかわかりませんか?」

 まず自分が立ち上がり、大公妃の腕を引っ張って彼女も立ち上がらせる。見たところこれといって変わった様子はなかった。そして、ヘスティアの名を聞いた大公妃が言った。
「そうよ、ヘスティア。彼女はわたしと違って、地下へ連れて行かれたみたいなの。早く助けてあげないと……」
「わかりました。僕が地下に行きます。母上は、ジョゼフさんと一緒にここから脱出してください」

 大公妃は気丈に振舞ってこそいるが、どうにも疲労は隠せない。ならば付いてこさせるのは危険だ。
 それはジョゼフも同じである。今の彼は『加速』を使うだけの精神力はないだろう。ならば、自分だけで行くのが得策だ。

「……おれはかまわぬが、本当にそれでいいのか?」
「ええ。行ってください」

 ジョゼフの問いに、ヴェンツェルはすぐに頷いた。それを見た美丈夫は、大公妃の体を強引に持ち上げ、いわゆる“お姫様だっこ”の姿勢をとった。

「ひっ……」

 すると大公妃が短い悲鳴を上げてかたかたと震え出した。彼女は異性との接触を好まないと聞いていたが、まさかここまでとは。しかたがないといった様子でジョゼフは床へ下ろす。

「……大丈夫です。自分で、歩きます、から……」

 ふらふらとおぼつかない足取りで、大公妃は歩いていく。
 そんな中でも、最後にヴェンツェルの方を振り返り、「お願いね」とだけ言った。微妙に目が赤くなっているのが見えて、少し不憫だった。



 数刻の後。

 単独行動となったヴェンツェルは、館の一階を訪れていた。地下への階段を探すためである。
 ここまで、先ほどの犬や使用人と鉢合わせることはなかった。皆、部屋にでも引きこもっているのだろうか。

 ふと、彼はなにかの気配を感じた。それは階段裏の小さな扉から漂ってくる。普通ならば、そこはただ掃除用具を入れるだけの狭い空間のはず。ためしに扉を開けてみる。
 その奥に広がっていたのは、なんの変哲も無いただの掃除用具の山だった。外れか。そう考えたとき、ふと床に目が行った。
 かすかだが、床に切れ目のようなものがある。なるほど、それはよく見ればなにかの蓋のようだった。周囲には誰かの足跡がある。これはもしかしたら当たりだったのかもしれない。
 そう思って蓋を開ける。するとやはり地下へと続く、真っ黒い穴があった。杖を取り出して『ライト』を詠唱、彼はゆっくりとその中へ入って行った。

 はしごを下っていくと、やがて石造りの床へたどり着く。
 その先には階段があって、どうやらそれはらせん状に渦を巻くようにして下の方へ向かっているらしい。ヴェンツェルは意を決して、その暗がりを突き進んだ。

 そして、彼はついに階段の最後の段を下りきった。そこには大きな空間がある。
 魔法かなにかで照らされていて、この広大な空間の端っこまで見渡すことができる。奥には大きな穴があった。どうやら、あの向こうにもなにかの空間があるらしい。

 そのときだった。突然、彼の目の前に女性が現れたのだ。ふわふわの栗毛の少女だ。
 年齢は十六、七といったところだろうか。そしてその後ろには、ヴェンツェルと同じ年の頃の少年がいる。しかし、なぜこんなところにいるのだろう。

「ようこそ、ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフ。わたしはデメテルといいますわ。後ろのはカルロ」
「……」

 このとき、ヴェンツェルは直感的に感じた。この少女は人間ではない。恐らくは―――ヘスティアの同類なのだろう。自分の名前を知っているのは、なんとなく想定内の出来事だった。

「ああ。そうか。で、デメテルさん。ヘスティアはどこだい。返してもらいたいんだけど」

 つとめて冷静な声で、少年は己の要求を切り出した。しかしデメテルはそれに答えず、後ろの少年の方を向いた。

「カルロ。わたしはあいつをいたぶりたりないから、またやってくるわ。その間に、あなたはあの子供の左目を抉ってきなさい。そうしたらご褒美をあげる」
「えぇぇ。俺、グロいの嫌なんだけど。それにご褒美っても石っころとかだろ……」

 きわめて嫌そうな口調でカルロは抗議するが、それは完全に通じないようだ。
 デメテルは、そのまま奥へ進んでいく。ヴェンツェルも同様に抗議の声を上げるが、まったく同じように無視されてしまった。

「……まあ、嫌な女だよ。散々いたぶられても、一途にお前さんが助けに来てくれるって言ってたあの子の方が、よほどいい女だ」
「いたぶるってなんだよ……!? くそっ!」

 一体ヘスティアがどんな目に遭わされているのか。それを考えたヴェンツェルは怖くなって、カルロを無視したまま走り出した。しかし次の瞬間には、彼の体は大きく宙を舞っていた。

「っぐぅ!!」

 硬い石の床に叩きつけられたヴェンツェルは、カエルのつぶれるようなうめき声を上げた。その様子を眺めていたカルロが言う。

「まあまあ。そう焦るなよ。俺としてもさ、お前さんとはちょっとお話がしたいんだ。同じ元・地球人としてさ」
「君も……」
「ああ。俺はカルロ。カルロ・レムス・ディ・サヴォイア。風のスクウェアだ。お前さんと同じ、貴族に生まれ変わることのできた数少ない幸運の持ち主さ。それも超一流の貴族としてね」

 そう言って、彼はマントをひるがえした。その黒い生地には、『シュヴァリエ』の紋章が刺繍されている。 

「……」
「まあ、他に同胞がいるのはお前さんにも予測できたろ?」

 それはそうだ。カトレアの件があったのだから。

「それで。俺が苦労して調べた結果なんだが、今現在十数人の転生者がこのハルケギニアに存在していることがわかった。だが、貴族階級に転生できた奴はほんの一握りなんだよ。大半が平民だ。それに原作知識を持った奴も数が少ないから、その多くがただの変人の平民として生涯を終える」

 そのまま、カルロは続けた。

「そして、たまに変な気を起こした転生者の平民が処刑されることもある。かつての百年戦争でガリアを勝利に導いたジャンヌ・ダルクも、どうやら転生者だったらしいからな。それらしいことがロマリアの機密書類に書かれていたよ。……つまり、だ。俺とお前は本当に希少な存在なんだ。原作知識もある。まさにやりたい放題なわけだ」
「……なにが言いたいんだ」
「いや、そういう話をしたかっただけさ。せっかく同胞に会えたんだ。ほんのちょっとの遊び心は許してくれてもいいだろ?」

 そう言って、けらけらとカルロは笑う。

「どうせなら俺もトリステインに生まれたかったよ。いいなあ。ルイズやアンリエッタ……、あの空気の……、ベアトリスともいちゃいちゃしてるんだろ? 俺のところじゃ、せいぜいヴィットーリオに取り入るくらいしかできないもんなあ。次男だったのが唯一の救いか」

 ずいぶんと勝手なことを。
 とんでもない思い違いだ。冗談は顔だけにしろと思う。いちゃいちゃなどできるものか。まして、アンリエッタに至ってはなぜかギーシュとフラグを立てている有様ではないか。

「……そんなに上手くいくはずがないだろう。だいたい、自分に前世の記憶があるからって、それで他人を好き勝手にできると思ったら大間違いだ」

 辟易としながら、ヴェンツェルは応えた。
 そして、それに対するカルロの返答は、いつかの“彼”を思い出すものであった。

「はぁ? なに言ってんだよ。これは所詮、ラノベの世界なんだ。俺たちは原作キャラクターのおおよその言動を知っている。それを上手く活用して、ハーレム構築でも統一君主でも好きなものになれるんだ。そんな美味しい話があるなんて、俺は未だに信じきれていないくらいだ。まして、それがお前ほど恵まれたポジションなら生かさないはずがない」

 彼は、お前はなにを言っているんだと言いたげな表情だった。

「君は自分がこの世界の住民だという意識はないのか? まして、自分の身勝手な思惑で誰かの運命を狂わせていいと思っているのか!」

 思わず、少年は叫んだ。一方のカルロは、それを軽蔑するかのような視線を向けてくる。

「まぁた、臭い綺麗事だな。所詮お前は俺と同じなんだよ。世界の異物なんだ。無理に適応しようなんてのがそもそもの間違いなんだって。自分に正直になれよ。どうせ空想の世界なんだよ、ここは。自分が死ねば全て終わる。ある種の夢だ」
「……」

 駄目だ。こいつはもう聞く耳を持っていない。

「……まあ―――せっかく会えたんだけどな。デメテルってのはうるさい女でさ。言うことを聞いてやらないとすぐ怒るんだ。ほんと、ガリアの遺跡へ旅行になんて行くんじゃなかったよ」

 投げやりな彼の言葉と共に、広い空間を猛烈な風が包み込んだ。




 *




 一方、ブラバント公爵の館の中庭。

 無数の人々が地面に突っ伏し、あちこちでうめき声が上がっている。その中心では、二人の男女が向かい合って立っていた。

「……はぁ、はぁ、小娘、なかなかやるな……はぁ……」
「いえ。ただ、あなたがここまで持ちこたえるとは予想外でした」

 男はギヨーム。女はアリス。二人は、死屍累々のこの場所でさっきからずっと戦い続けているのだ。しかし、満身創痍のギヨームに対して、アリスの方は未だに涼しげな顔である。

「……っく、余裕そうだな。ならば見せてやる。ぼくが編み出した最強の必殺技『ギヨーム・スペシャル』を!!」

 恥ずかしい技名を大声で叫んだ後、彼は杖を天に向かって振り上げた。と、そのときだ。彼の後方にある公爵の館の三階部分が、突然轟音と共に吹き飛んだではないか。
 その光景を見たアリスは絶句した。なんて威力だ。狙いが外れたようだが、あれほどの攻撃を受けていたら……。

「へぇ、やりますね。そろそろ本気で潰さないと駄目かもしれません」

 少女は表情を引き締め、短剣を低く構えた。
 ところが、対するギヨームが慌て始めたのだ。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! ぼ、ぼぼくはなにもしていない! いきなり屋敷が吹き飛んだんだ!」
「? なにを言っているのですか。そんな嘘をついてわたしを騙そうとするとは……、坊ちゃまより外道ですね。許しません」
「い、いや、だから!」

 と、ギヨームが叫んだとき、再び轟音が彼らを襲った。今度は一階部分、それも厨房に命中したようで、そこから火の手が上がっている。逃げ惑う料理人たちがわらわらと出てきた。

「これは……」

 さすがにアリスも不審に思った。そこで彼女は背後を振り返る。すると、なにかの黒い塊が猛烈な速度で接近してくるではないか。

「な、なんだあれは!?」

 ギヨームが情けない叫び声を上げる。迫り来る黒点はさらに大きくなり、やがて肉眼でもその威容をはっきりと識別できるほどになった。

「これは……、船ですか」

 そう。
 空中に浮かぶのは、クルデンホルフ両用艦隊の旗艦『アルロン』だった。
艦の前面に突き出した、真新しい長身の砲が際立っている。その先端部分が光ると、猛烈な速度で砲弾が発射される。
 ほぼ真っ直ぐに飛来した砲弾が館の二階部分に命中し、とうとうブラバント公爵の屋敷が爆発を起こして吹き飛んでしまった。直後、火がばっと燃え広がる。

 その様子を、ジョゼフは逃げ出した館の使用人たちと共に、ただぼうっと眺めていた。
 一方の大公妃である。彼女は館が吹き飛ぶのも目の当たりにすると、血相を変えた。ふらふらの状態のままで、彼女は屋敷へ向かって走り出した。だが。

「……奥さま。いけませんよ。なんの為に坊ちゃまがあなたを助け出したのですか」

 大公妃を見つけたアリスが、魔法のロープで大公妃の体を押さえつけた。

「放して! まだヴェンツェルが中にいるのよ、わたしが助けないと……。わたしの……」
「黙りなさい!」

 そこで、少女が大声を上げた。薄紫の髪が風に揺れている。

「なんの為に坊ちゃまが、あの面倒臭がりのあの人が、自分からこんなところまでやってきたと思っているんですか!? 全部あなたの為なんですよ! なのに、そのあなたがあんな火災の真っ只中に飛び込んで帰ってこなかったら……。坊ちゃまが帰ってきたとき、どうしろというんです!」
「……」

 怒気を孕ませたアリスの物言いに、大公妃は黙り込んでしまう。目には大粒の涙が溜まっていた。


 やがて、中庭の空中に静止した『アルロン』から、三人の男たちが降りてきた。一人はクルデンホルフ大公、もう一人はモーリス。最後にマザリーニ枢機卿だった。


「ブラバント公爵。貴殿は自家の借入金の返済の為に、クルデンホルフの大公妃を誘拐したそうですな。まして自分の妹を…。許されぬ行為ですぞ」
「ま、マザリーニ枢機卿! は、ははは、嫌ですね。まさか…。…そうだ、ぼくは騙されたんです! あのサヴォイアの次男坊に! あいつが、あいつが借金を肩代わりしてくれるって、だから僕は…」

 実質的にトリステインの政務を取り仕切る男の登場に、ギヨームはそれはもう焦りまくっていた。
 この男に目を付けられてワロン公爵が最後には廃嫡されてしまった事件は、もはやトリステインで知らぬ者はいない。

 と、そこへ、さらに事態を引っ掻き回す男が現れた。ジョゼフだ。

「やあやあ、マザリーニ枢機卿にクルデンホルフ大公。高名なあなた方のご活躍は常に耳にしているぞ!」

 既に彼の存在を報告されていた大公はともかく、マザリーニは驚いた。とにかく驚いた。普段の彼からは考えられぬほどに驚いた。

「あ、あなたは……、ジョゼフ・ド・ガリア! なぜこんなところに! どういうことですか、大公!」
「あ、いや。これは……」

 さっきから鬼のような形相でギヨームを睨みつけていた大公だったが、マザリーニに詰め寄られて一気に先ほどまでの勢いがなくなってしまった。
 親に叱られる子供のように、頭を下げてうなだれてしまっている。

「それに、いくらなんでもいきなり貴族の館に砲撃を加えるなどと! 今回は奥方が無事だったから良かったものの、下手をすれば彼女まで巻き込まれていたのですよ!!」
「ついカッとなってやった。今は反省している……」

 物凄い勢いでがなるマザリーニに、ジョゼフが近づいた。なにかの書類を手渡し、枢機卿の肩に手を置く。

「まあ、まあ。よいではないか」
「あなたの存在が一番よくないのです!!」
「す、枢機卿。落ち着いてください」

 もうマザリーニの激昂は止まらなかった。ジョゼフにつかみかかったではないか。それを必死の形相でモーリスが止める。
 だいたい、彼はたまの休暇を楽しんでいるところを、突然やってきたクルデンホルフ大公に無理やり連れ出されたのだ。
 それでこんな状況に直面したのでは、日ごろ溜っているストレスも爆発してしまうわけである。

 一方、大公妃やアリスには、そんなおっさんたちのやり取りはまったく耳に入っていない。ただ静かに、ヴェンツェルとヘスティアの無事を祈っていた。




 *




「ぐわっ!」

 目の前を魔法で作られた空気の壁が通り過ぎていく。それをなんとか間一髪で回避するも、ヴェンツェルはそのまま床に転がってしまった。

「……驚くほどに弱いな。俺だって、そんなに努力せずにスクウェアになれたのにな。いるんだな、才能の無いやつって」

 自らの生み出した風にマントをなびかせながら、カルロはため息をついた。

「悪いのか」
「いや。ただ、あまりに手ごたえがないのは困るな。自分の目がくり抜かれるんだぜ? もっと必死になってくれよ」

 駄目だ。正攻法でカルロに勝つことはできない。『レビテーション』で杖を取り上げようにも、自分の詠唱よりも早く魔法が飛んでくるのだ。とてもではないが、このままでは……。
 いや、そうか。正攻法などに頼らなければいいのだ。

「その前に、どうして君は僕の左目を狙うんだ!」
「いや、それはデメテルに聞いてくれよ。俺はどうしてかなんてしらないからな」

 ……どうやら、あの“女神”は、ヴェンツェルの左目に火のルビーがあることをカルロに伝えていないようである。ならば、今後彼経由で情報が流出する心配はなさそうだ。
 それに、今のでわずかながら時間が稼げた。

「なに考えてんだ? まあ、もういいか。弱い奴なんかにかまってても仕方ないからな!」

 そう叫んで、彼は魔法を詠唱する。だが、彼は自身の慢心ゆえに、周囲の状況を把握することをまったく怠っていたのだ。
 ヴェンツェルは宙を見つめる。そこには、大きな石の塊があった。それは『レビテーション』でふわふわと浮き、カルロの頭上で落下のときを今か今かと待ちわびているのだ。
 カルロが魔法を唱え始めるのと同時―――巨大な石が、彼の頭に思い切り命中した。
 驚愕の表情を浮かべたまま、彼はゆっくりと床に向かって倒れる。

 頭から血を流して倒れる“敵”を、ヴェンツェルは見下ろした。まだ息はある。しかし、もう立つことはできないようだった。

「僕は弱い。ああ、弱いさ。それでも本気でやれば、君のように他人を見下して手を抜くような奴には、負けはしないんだ」

 それだけ言って、彼は奥の穴を目指した。


 大きな穴の奥は、血の臭いで満ちていた。

「は! この、裏切り者が! あんたなんか、こうなってしまえばいいのよっ!!」

 頬を上気させて叫ぶ少女がいた。本来ならば美しかったはずの美貌は鳴りを潜め、消えることのない憎悪によって彩られている。

「なにをしているんだ」
「……あら。カルロに勝ったの。意外ね」

 薄暗い空間の中で、栗毛の“女神”―――デメテルは、こちらを振り向いた。
 その奥では、真紅の髪を自らの血で染めたヘスティアの姿がある。それは見たヴェンツェルは、あっという間に激昂する。

「なにをやっているんだ、ヘスティアを放せっ!」

 彼は怒りに任せてデメテルに飛び掛った。
 しかし、それは容易くかわされて回し蹴りのカウンターを食らってしまう。鹿のようにしなやかな脚が伸びて、少年の出っ腹に食い込んだ。そのまま背後の壁まで吹き飛ばされてしまう。
 愉快そうな表情を顔に浮かべたデメテルは、そのまま少年を踏みつけた。

「ねえ、坊や。どうしてわたしがこんなにヘスティアを恨むのか、せっかくだから教えてあげましょうか?」

 デメテルがそう言ったのを耳にしたヘスティアは、声にならない叫びを上げる。だが、栗毛の少女はそれを黙殺した。

「ふふ。あれはそう、六千年……、正確にはもう少し前かしら。わたしたちは“ロ……、痛っ!」

 突然足に走った痛み。見れば、ヴェンツェルが彼女の足に噛み付いているではないか。そのままぎりぎりと歯を立たせる。あまりの痛みに、デメテルは仰け反った。

「……ちょ、ちょっと! あなた、聞きたくないの? あなたとも関係している話なのに……」
「うるさい、黙れ」

 負傷した体を押して、ヴェンツェルは立ち上がる。そして、続けた。

「ヘスティアの過去は、彼女が僕に話してもいい、そう思えるようになったときに聞く。だから、お前なんかから聞かされたくはない!」

 杖を構えたまま、少年は叫んだ。
 そう。いくら彼だって、ヘスティアが自分にずっとなにか隠しているのには気がついているのだ。
 それでも、彼女から語ってくれるそのときまで待とうと決めていた。無理に聞き出しても、それはお互いが不幸になるだけだという、予感めいた感情があったからだ。

 完全な拒絶をされたことに驚いたのか、デメテルはしばし絶句する。しかし次の瞬間には微笑んだ。 

「あら、嫌われちゃったみたいね。まあどうでもいいけど。…ふん、気に入らないわね。さすがは裏切り者に選ばれただけのことはあるわ」

 刹那、彼女の周囲にある“魔力”が膨れ上がった。それはどんどん膨張を続け―――最後には、彼女の背後に巨大な騎士が出現した。否、それはなにかの金属で作られた人形だった。

「ふふ、わたしのしもべ、トロイヤの騎士よ。すごく強そうでしょ? まあ、実際に強いんだけどね」

 デメテルの言葉と同時に、騎士がヴェンツェルに向かって切りかかってきた。
 ぶん、と巨大な剣が振り下ろされる。それを飛び退って回避。次の瞬間には剣によって床が粉砕された。衝撃はなおもとまらず、そのまま床の石の下の地面までを深く抉り取った。
 ……確かに、とんでもない馬鹿力だ。あんなものをまともに受けてしまえば、体がばらばらになるに違いない。
 それに、素材についても気になる。見た限りではかなりの硬度を持っているように思うのだが……。恐らくは合金だろう。どうしてそう感じたのか、それはわからないが。

「ほらほら、どうしたの? さっさと降参しなさいよ」

 デメテルが煽り立ててくるが、ヴェンツェルはそれを無視した。
 というより、もはや彼女にかまっていられる暇がなくなってしまったのである。予想外に俊敏な動きを見せるトロイヤの騎士はとてつもなく手ごわい。このままでは。

 しばらくして飽きたのか、デメテルは再びヘスティアをいたぶり始めた。両手を鎖で繋がれたまま、痛みに耐えているようだ。それを見たとき、ヴェンツェルはどうしようもない憤りを覚えた。
 ……理由なんか知らないし、知る必要もない。なぜなら、彼女はずっと自分を助けてきてくれたのだから。
 ならば、俺が守らなくては。ヘスティアはもちろん、アリスだって。母だって。ベアトリスだって……。大事な、家族なのだから。

 その瞬間、ヴェンツェルの左手に再び“炎の剣”が現れた。
 それを目の当たりにしたヘスティアが、いつかのようにその顔を苦渋の色に染めた。
 デメテルは足を動かすのをやめ、その光に魅入っている。騎士はその装甲を鈍く輝かせながら、大剣を大きく振りかぶった。

 ヴェンツェルが炎を、振り下ろされる騎士の剣へと向けた。
 大変な強度を持っているはずの剣は引き裂かれ―――地面に落ちる。続けて、少年は炎をよこざまに振り切った。太い騎士の胴体が容易く切断され、上半身がけたたましい音を立てて崩れ落ちる。
 それを目撃したデメテルは、ただ呆然と呟いた。

「……嘘。ヘスティアの炎じゃ、わたしの騎士は切れない……。いいえ、この世界で、わたしの生み出した騎士を切り倒せるものなんて……、あ、はは……」

 それから、まるで狂ってしまったかのように、デメテルは笑い出した。

「―――ははっ! そういうことね! そう、この世界での常識が……っ! さすがよ、さすがは狡猾な女だわ!」

 やがて、彼女はゆっくりとヴェンツェルの元へ歩み寄ってくる。

「……ふふ。ほんの少しだけど、あなたに興味が湧いたわ。ヴェンツェルくん」

 そう言って、彼女は唇を目の前の少年のそれに重ねた。

「!?」

 驚いて飛び退るヴェンツェルに流し目を送りながら、デメテルは告げる。

「また、いつかね。次にあったときが、あなたの年貢の納め時よ」

 そして、彼女はそのまま去って行ってしまった。
 いつの間にか少年の手の炎は消えていて、直後に猛烈な倦怠感が彼を襲った。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。今にも倒れそうな体を無理に動かしながら、ヴェンツェルはヘスティアの元へと向う。

「今、鎖を外すから。遅くなってごめん」
「……ううん、いいの、よ……」

 悪戦苦闘しながらも、ヴェンツェルはなんとか全ての鎖を外すことができた。
 体中に酷い裂傷を負った彼女の姿は、見るに耐えない。少年はズボンのポケットから火石を取り出した。すると、火石はさらさらと崩れ、細かい粒子となる。
 それがヘスティアの体へと吸収され、若干ではあるが、外傷が緩和されたように感じた。
 それでも、見るからに辛そうなので、少年は童女をおぶって行くことにする。自身もかなりの疲労に襲われているが、ずっと痛めつけられたヘスティアに比べればどうということはない。

 しばらく、ゆっくりと階段を上って行く。

「……ごめんね。護衛だってついていったのに、全然役に立たなくて……。みんなに迷惑をかけてしまったわ」
「いいんだよ。悪いのは、伯父とあいつらなんだ。君が気に病むことじゃない」

 そう答えると、彼女はようやく安心したらしく、静かに頭を少年の背中にもたれさせた。



 二人が地上へ出ると、それはもう大騒ぎとなっていた。

 遠くでは、なぜか大公とジョゼフが正座をしてマザリーニに説教されているし、空には『アルロン』が浮かんでいるし、屋敷は跡形もなく吹き飛んで煤けた残骸しかないし、大公妃が飛びついてから鼻をすんすんやったかかと思うと「知らない女の臭いだわ」などと言い出すし、アリスはアリスでいつも通りだし、と。

 混沌とした状況だったが、悪い気はしなかった。




 *




 ブラバント公爵邸全壊から、一ヶ月が過ぎた。

 ギヨームは、ジョゼフが持ち出した書類のおかげで数々の汚職が発覚したという。
 領地は、現在の半分以下である北側の部分だけに縮小された。残りは王家直轄地に編入である。トリスタニアの周囲までブラバント家の領地があって邪魔だったらしい。
 焼け跡の地下からサヴォイア公爵家の次男、カルロが発見された。ただし彼はそれまでの記憶を全て失っているという。なにを訊かれてもわからないらしい。
 ジョゼフやイザベラの身柄は大公預かり。マザリーニ枢機卿が秘密保持の為に協力。これは王家にも極秘で行われる。
 ヴェンツェルはエシュ伯爵の地位を返上。一部の家臣はそのままクルデンホルフ城へ移動。エシュは大公の間接統治の自由都市として扱われる。仮代表はラ・アーグ男爵。

 ―――というのが、この一月の間に起きた出来事であった。
 正直、大公は出て行った連中全員に帰ってきてもらいたかったらしい。さすがに年単位で一人なのはいろいろと堪えたようだった。

 そういうわけで、ヴェンツェルは久々にクルデンホルフの城へ戻ってきていた。
 ちなみに、秘書のミス・コタンタンはそのまま彼の付き人になるらしい。さっきから後ろで控えているが、なぜかヘスティアが厳しい視線を送っている。

 まだまだ肌寒い季節だが、もう春の足音はすぐそこまで迫っている。
 新たな季節の到来に胸を躍らせながら、ヴェンツェルは中庭のテーブルで紅茶を楽しむのであった。






[17375] 第二十九話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/06/20 21:50
 その日のクルデンホルフ大公国は、雲一つない澄んだ青空が広がっている。

 クルデンホルフ市の郊外を流れる小川で、一人の少年が釣りに興じていた。
 もう何時間も彼はこの場にいるが、一向に魚が釣り針にかかる気配はない。竿を上げてみれば、糸の先には針すら付いていないでないか。いつの間にか食いちぎられたらしい。仕方なく、針と餌を付ける。
 そうしていると、彼の背後から誰かがやって来るのがわかった。
 そちらを振り向けば、そこには荷物を持った、縁なしの眼鏡をかけた女性がいる。長く青みがかった黒髪は艶やかだ。年の頃は十七、八といったところだろうか。綺麗めの顔だが、全体的に気弱そうに見える造形をしていた。

「卿。そろそろお昼の時間ですわ」
 そう言うと、彼女は手にしたバスケットを掲げて見せた。
「もうそんな時間か。…というより、“卿”ってのはやめてくれよ。今の僕は爵位なんか持ってないんだから」
「あら、失礼しました。ずっとそう呼んでいたもので…、癖というのは、なかなか抜けませんね」
 ころころとした笑みをこぼしながら、黒髪の女性はバスケットの中からサンドウィッチを取り出した。

 アルビオンの某伯爵が発明したとか、いやそうでもない、というそれは葉物の野菜で肉を挟んだ物だ。他には、茹でた玉子を潰して味付けしたものもある。 地面に敷かれたゴザの上に座って、少年はサンドウィッチを一つ手に取った。それを口へと運ぶ。途端に、肉汁が口の中いっぱいに広がった。咀嚼すればするほどに味が出てくる。
「うん。これは美味しいよ。クロエは本当に料理が上手なんだなぁ」
「…いえ、こんなものは」
「それは違うよ。中の具は君が調理したんだろう? それに、パンだってちょうどいい焼き具合だ。ちゃんとした料理だよ」
 実は彼は、クロエと呼んだ女性が朝から厨房で一生懸命に何かを作っているのを目撃していたのだ。腹が減り、ハムでもつまみ食いしようと思って厨房へ行ったのは内緒である。
 やたらと褒め称えながらばくばくとパンを口に運んでいく少年を、女性は静かに見つめていた。
「ふふ、もっとありますからね。たくさん食べてください」
 そう言い、彼女はにっこりと嬉しそうに微笑む。
 そしてなにを思ったのか突然、サンドウィッチを一つ掴むと、それを目の前に座る少年に食べさせようとし始めた。
「いや、自分で食べられるよ」
「いえいえ、遠慮なさらずに」
 そう言いながら、彼女はぐいぐいとパンを押し付けてくる。見れば、豊満な胸が腕に押し潰されて形を変えているではないか。ぱっと見よりも大きいようだ。これは新発見だった。
「もがっ」
 かなり強引に口の中へ突っ込まれたせいか、彼は食べきるのにずいぶんと時間がかかってしまった。


 夕刻。
 結局一匹も釣れないまま城に帰ると、正門の前で一人の少女が佇んでいた。
 外見は、少年の隣に立つ女性をそのまま子供にしたような感じか。いや、よく見れば目がつり上がり、眉は細い。たれ目で眉の太いクロエとは違うようだった。
 一体どこの子供なのだろうか。黒い髪の人間はハルケギニアではあまり多くない。その辺り地球の欧州とは事情が異なっているようだ。なにせ、地毛が青かったり緑だったりする人もいるのだから。

 なんとなくクロエの方を見る。すると、彼女は目を見開いているではないか。明らかに動揺しているようで、体が小刻みに震えている。そうこうしているうちに、向こうの少女がこちらに気がついたらしい。大きな瞳を真ん丸にしたかと思うと、両手を振り上げながら走ってくる。そして、そのままクロエに飛び付いた。
 いまいち状況を把握出来ていない少年がぼうっと突っ立っていると、少女が口を開く。

「やっと見つけた、クロエお姉ちゃん!」



 *



「妹さん?」
「はい…」

 数刻の後。
 城の内部にある客間で、少年――ヴェンツェルはクロエことミス・コタンタン、そしてその妹と向かい合っていた。ミス・コタンタンの要望でこの場には使用人はおらず、三人がいるだけである。
 ミス・コタンタンの妹は名をリゼットといい、姉を追ってガリアからこのクルデンホルフの城までやって来たのだという。

「…いや、しかし。確か出身地はガリアの北の方だったよね。場所だってよくわかったね。よく無事に来れたものだよ」
 少年が驚きを込めた口調でそう告げると、目の前の少女は得意気な顔になった。そして、まだまだ姉には遠く及ばない小さな胸を張りながら、鼻を鳴らす。
「へへん。別にこのくらいはどうってことないよ。場所はお姉ちゃんからの手紙に書かれていたし、なにせわたしたちは吸――むぐっ!?」
 リゼットがなにか言いかけたとき、隣のミス・コタンタンが急に妹の口を手で塞いだ。苦しげに顔を赤く染めながら、少女はむぐむぐと顔を動かした。
「きゅー?」
「い、いえ。なんでもないんです。この子ちょっと世間知らずで…」
 疑問を投げかけるヴェンツェルに、ミス・コタンタンは曖昧な笑みでなにかを誤魔化すように応えた。やがて手を放すが、リゼットは相当辛かったらしく、ごほごほと咳き込んでしまっている。
 怪訝な表情を浮かべる主に適当な言い訳を述べて、二人は客間を退出してしまった。


 客間から逃げるようにして出てきたクロエは、妹を連れて自室にやって来ていた。城の隅にある使用人の居住区だ。彼女は人数の関係で一人部屋だが、通常はアリスとサリアのように、二人で一つの部屋を使うことが多い。
 広さはヴェンツェルの私室の半分程度だろうか。それでも作りの面などで、貴族が使用人の平民へあてがう部屋としては上物の部類に入る。

「なんで逃げるのよ、お姉ちゃん。あの人って今のお姉ちゃんの雇い主なんでしょ? まだ伝えてなかったの?」
 腕を曲げ、小さな手のひらを腰に当てながら、不満げな様子でリゼットは頬を膨らませる。一方のクロエは、困った様子でそれに応えた。
「…だって、ほら。人間はわたしたちを恐れてるし…。彼も例外じゃないかもしれないじゃない…」
「ふぅん。そんなんで一年も一緒にいるの? どうしてるのよ、アレは」

 リゼットは問いかけながら、姉の使っているベッドに腰を下ろして足を組んだ。

「…その、夜中にこっそりと。最初は汗をもらってたんだけど…。ほら、血を吸ったら後が残っちゃうじゃない」
「あの人以外には?」
 半眼のリゼットが再度問いを発すると、クロエは首を横に振った。すると少女は呆れたような顔になり、ため息を吐いた。
「お姉ちゃんって、本当に変わり者よねぇ。それを否定するってことは、自分の存在を否定するのも同義よ?」
「いいのよ。汗は元々血だし…。…も…だし…」
 最後の方は小さく、途切れ途切れになっていた。しかしそれでも、耳の良いリゼットは聞き逃さない。ぴくん、と彼女の耳が動いた。
「…なんていうかホント、お姉ちゃんって妙なところでぶっ飛んでるわね。なんていうか…、変態?」

 かなりあきれた様子で、リゼットは呟くのであった。



 *



 あの後、大公に呼び出されていたヴェンツェルは、とりあえず自室へ向かうために城の廊下を歩いていた。

 話によると、サヴォイア公国側は身内の非を認めて謝罪、多額の賠償金も支払うという。しかし、どうして次男がそういった突拍子もない行動に出たのかは、まったく把握できていないらしい。
 カルロは幼い頃から神童と呼ばれ、ついこの間までジェノバで交易を担当して莫大を利益をもたらすなど誇れる息子だったそうだ。
 だが、記憶喪失となってしまった彼はもうかつての天才的な活躍はできないらしい。大きな石をぶつけたのが原因だろうか。


 やがて二階へ上がる大階段の下までやってきたとき、前方から一人の少女が現れた。メイドのアリスだった。彼女は両手でなにか重そうな物を持っている。よく見れば、それはインテリジェンスソードのデルフリンガーであった。

「坊っちゃま。竜籠の中で放置されていたみたいですよ、これ」
 ややご機嫌斜めらしい彼女は、半ば押し付けるようにしてデルフリンガーをヴェンツェルに渡す。ずっしりとした重みが少年の腕に乗る。
「あ、すっかり忘れてた」
 完全に今思い出したようで、少年はばつの悪そうな顔になる。
「そりゃねぇよ、子分一号。俺がどれだけ惨めな思いをしたか、お前さんにわかるか? 『よっしゃ! 俺様の出番だな、いっちょ大活躍してやるぜ!』って勇んでたらよぉ、どいつもこいつも俺を置いてきぼりにしやがるんだぜ。ジョゼ公の野郎といい、お前さんといい…』
 かたかたと震えながら、デルフリンガーは愚痴を吐き出している。表情はないのに、やさぐれているのがすぐにわかる。

「いや、悪かった。ごめん」
 さすがにこれは悪かったなと、ヴェンツェルは剣に向かって謝罪の言葉を向けた。と、ちょうどそこを通りかかった年若いメイドがその不気味な光景を目の当たりにして、気味が悪そうにそそくさと走り去って行く。あからさまに汚物を見るような目をしていた。
 するとデルフ、今度はぷるぷると震え出したではないか。
「けけけっ、ざまぁみろ!」
「口の悪い剣ですね。どこが口なのかは知りませんけど」
「…」
 ああ、こいつらなんなんだと思いつつ、少年はメイドの去っていった方向をただ眺めるのであった。しかし、もう彼女の姿は見えなかった。







 ●第二十九話「しまいま」







 その後、やっぱりオルトロスに追いかけ回されたあと、ヴェンツェルはほうほうの体で城へと戻って来た。

 クルデンホルフ城の衛兵に復帰したマジソンが、オルトロスの手綱を受け取って例によってぼろぼろに疲弊した少年の肩を叩く。それに片手を上げて応えながら、彼はゆっくりと城の中へと入って行った。
 ふらふらと歩きつつ、少年は自室へ足を踏み入れる。今日は部屋に誰も来てないようだった。そのまま、ヴェンツェルはベッドに倒れこむ。もうくたくたで、風呂に入っている余裕などないのだ。汚いなどと言われようがお構いなしである。
 しばらくすると、彼は寝息をたて始めた。疲労が限界に達したらしい。

 ―――深夜。

 天に浮かぶ双月から降り注ぐ、柔らかな光が部屋の内部を照らしている。
 そこで突然、家具の影がぬうっと伸びた。細いそれは人のシルエットを形どっている。大小二つのそれは足音を立てずに、ゆっくりとベッドへ近づいていった。

「…やっぱり、ただの太った子よね。言い方悪いけど、すごく不味そうなんだけど」
 一つの声は幼い。これは小さな影から発されたものだった。
「…ええ、わたしも最初はそう思ってたのよ。でも、試しに…」
「ふぅん…」
 大きな影の言葉に、小さな影からは半信半疑の声が漏れる。それでも、若干の興味はあったらしい。ゆっくりと、恐る恐る顔を寄せる。漂ってくる汗の臭いにかすかな興奮を覚えつつ、小さな影から舌が伸びた。そして、うつ伏せの少年の首筋を舐めとる。
 途端に驚いたような表情になって、大きな影の方へ顔を向ける。

 やがて一時的に月を隠していた雲が動き、双月が再び姿を現した。そのとき影の正体は暴かれる。それはクロエとリゼットの姉妹だった。二人とも、長く艶やかな髪がすだれのようにゆらゆらと揺れている。
「…むうぅ。どうしてこんなに…。なんか癖になりそう」
 信じられない。なにかの麻薬でも入っているのかしら。と呟いて、月明かりに自分の姿が晒されるのも構わずにリゼットは再びヴェンツェルに近づく。

 と、その時だった。寝室の窓ガラスが盛大な音を立てて内側へ向けて砕け散ったではないか。
 舞い散るのはガラス片だけではない。赤く光る火の粉も降ってきた。そして、大きな窓枠の向こう側には…、赤い月をバックに真紅の髪を風になびかせて高笑いを上げる女性、ヘスティアの姿があった。
「…ふ、ふふ。あはははは…。ついに、ついに、現場を押さえたわよ、この淫魔!」
 彼女の、メデューサのようにまとまった長い髪がわらわらと浮かぶ。なんとも気味の悪い光景だった。

「淫魔? わたしたちは誇り高き吸血鬼よ! いくら姉が不甲斐ないからって、ずいぶんと甘く見てくれたものね!」
「ちょ…、リゼット!」
 自分たちの正体をあっけなくばらす妹を諌めながら、クロエは目の前の女性を観察する。確か、いつもヴェンツェルに引っ付いていた子供があんな容姿をしていた気がする。だがしかし、あれは小さな子供だったはず。間違っても眼前の女性とは違う。

「…へぇ、吸血鬼! その割には真っ昼間だろうと堂々と出歩いてるし、血じゃなくて汗や…せ、せ…。…と、とにかく! 許さないわ、燃やし尽くしてやるから覚悟なさい!」
 なぜか顔を真っ赤にしながら、ヘスティアは右手から炎を射出。一直線に姉妹を狙ったその一撃はかわされ、轟音と共に寝室のドアを破壊した。
 優々と炎を回避したリゼットは、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「はっ。ずいぶんと舐めてくれたものね。だけど、わたしたちの一族はそこら辺の放浪吸血鬼とは次元が違うのよ!」
 そう叫び、リゼットが何かの口上を述べようとしたとき―――どたどたと、複数の足音が迫ってくる音がした。どうやら、先ほどヘスティアが放った炎で扉が破壊されたとき立てた音が原因らしい。それはどんどん近づいてくる。

「リゼット!」
「…っ! 小賢しい真似を――逃げるわよ、お姉ちゃん!」
「あ、う、うん…」
 言うなり、吸血鬼の二人はヴェンツェルの寝室から逃亡するのであった。



 クルデンホルフの城から脱出した二人は、近くの林の中で足を止めた。突然、先を急ごうとするリゼットをクロエが制止したのだ。

「どうしたの、お姉ちゃん。早く逃げないと。想定外の人物に正体が知られた以上、もうここにはいられないじゃない。万が一領主に気づかれたらその場で殺されるわ。ああいう城は、メイジの手勢もいるでしょうし…」
 リゼットは、その場に踏みとどまろうとする姉を急かした。そこで、クロエはかねてより抱いていた疑問をぶつけてみることにした。
「…ねぇ、リゼット。あなたはやっぱり、わたしを連れ戻しに来たの?」
 その問いに、しばしの沈黙の後で少女は頷いた。
「ええ。当たり前じゃない。わたしはお姉ちゃんに帰ってきてほしいし、お父様もそう言ってるわ。お母様は…、まああれだけど」
「そう…」
 姉が家を放逐されてからというもの、リゼットはどうにかしてクロエを連れ戻したかったらしい。妹の大きな瞳が彼女を見つめている。

「…でも、やっぱりわたしは城へ戻るわ」
「お姉ちゃん」
 姉の答えに、リゼットは非難するような声を発した。
「どこの放浪者とも知れないわたしを雇ってくれたのよ、彼は。でなきゃ…、生きるために、誰かを殺めるしかなかっただろうし」
「またそんなことを…。おかしいよ。だからお母さまも怒って追い出すわけだわ」
 呆然とした様子で、少女はため息をついた。そんなときだった。

「はぁ、はぁ。やっと見つけた…」
 後ろから、誰かが走って来る。それは睡眠中であるはずの少年、ヴェンツェルだった。杖を手にしている。ただ、彼の他に人はいないらしい。辺りは、再び静けさを取り戻した。
「…なにをしに来たの? その杖でわたしたちを排除しに来たのかしら?」
 辛らつな口調で、リゼットは吐き捨てた。だが、目の前の彼が放ったのは、そんな彼女すら予想だにしない一言だった。
「いや、この杖は窓から脱出するときに使ったんだよ…。それより、クロエに妹さん。城に戻ろう。ヘスティアは口止めしておいたから」
 そう言って、彼は手を差し出してくる。だが、反射的にその手を取ろうとした姉の手をリゼットが払う。

「口止め? あなたがそれを確実にしているという保証があるの? それに内心、あなたはわたしたちを恐れているでしょう! 油断させておいて、領主に引き渡すつもりなのはわかっているんだから!」
「いや、そんなつもりはないよ」
「うそ! 人間が吸血鬼を―――」
 少女は叫ぶ。彼女が母親から聞かされていた話は、決して嘘ではないはずなのだから。
「吸血鬼だからなんだ。僕はクロエとずっと一緒にいたけど、なんの危害も加えてはこなかった。やる気ならとっくに殺されているだろうからね。だから、僕は少なくとも、君たちをどうこうしようという気持ちはないよ。クロエだって、別に僕たちに危害を加えたいわけではなかったんだろう?」
「え、あ…。はい…」
 クロエは少々居心地が悪そうな表情で頷いた。実際にはいろいろとしていたが、彼は眠っていたので気がついていないだけである。
「…信じられないわ」
 疑心に満ちた瞳で、少女は太っちょの少年を睨みつける。

「そうね。アタシは今でもあなたたちを焼き払いたくてしょうがないわ」
 突如として空に浮かぶ真紅の影。どうやら、ヘスティアがやってきたようだった。体の周囲には火で構成されているらしい、燃え盛る輪が存在した。
「ヘスティア! 来るなって言ったろ!」
「城の人たちには何も言ってないわ。その二人が吸血鬼だと知っているのは、この場のアタシたちだけよ」
 そう言いながら、彼女はゆっくりと地面に降り立った。相変わらず臨戦態勢は解いていなかったが、ヴェンツェルにたしなめられるとようやく火の輪を引っ込める。
 身構えるリゼットに、ヘスティアは心底どうでもよさそうに呟いた。
「別にもう襲わないわよ。ヴェンツェルがこう言っている以上、アタシはなにもできないもの」

「…」
「そういうわけだ。だから、城へ戻ろう。…いや、実家へ帰るというなら止めないけど」
 頬をかきながら、少年は言った。
「いえ。もう、実家へ帰るつもりはわたしにはないです。…ここの方が、自分にとっては居心地が良いので…」
「お姉ちゃん…」
「母の言う吸血鬼としての生き方はわからなくもない。でも、わたしにはどうしても合わないのよ。それは…。ごめんね」
「…そう」
 とうとう、リゼットは俯いてしまった。そして、二人のやり取りをそっと眺めていたヘスティアは、静かにため息を吐いた。



 ―――翌朝。

「どうして、あなたたちがここにいるのよ!」

 ヴェンツェルの寝室のベッドで、紅い髪の童女が叫び声を上げた。彼女の視界には、同じベッドの上に座る黒髪の姉妹―――クロエとリゼットの姿があった。部屋の主であるはずの少年はベッドから転げ落ち、カーペットの上で苦悶の表情を浮かべている。
 そして髪を櫛で梳かすリゼットは、特に悪びれた風でもなく言い放った。
「だって、お姉ちゃんが帰らないっていうんだもの。帰る気になるまでわたしがそばにいるの。血は吸わないんだから、文句はないでしょ?」
「…! そんなこと言って、そこら中の人たちから血を吸う気でしょう! でなきゃヴェンツェルに…!」
 いきり立ったヘスティアが指をさすと、困ったような顔のクロエがそれに応える。
「いえ、別に…。あなたが妨害さえしなければ、わたしたちは勝手に補給するので」
「それをやめろって言ってるのよ!!」
 ヘスティアはもうなんだかキレまくっているが、昨日吸収した火石がもう切れてしまっていた為に小さくなっている。そんな状態で凄んでみても、ただ子供が大人の真似をして背伸びをしているようにしか見えない。
 それを見たクロエはなんだか微笑ましい気持ちになって、ヘスティアを抱きしめる。ちなみにどうしてヘスティアが小さくなるのかは、昨夜ヴェンツェルが説明していた。

「ちょっと、やめなさいよ!」
 今の彼女には抵抗する力がない。なんとか抵抗しようとして、じたばたと暴れる。
「ふふ。これからもよろしくお願いしますね、ヘスティアさん」

 笑みをこぼしながら、クロエはそう呟くのだった。




 *




 ゲルマニア帝国、ワイゼンベルク。

 現皇帝アルブレヒト三世とかねてより関係の悪化していたベーメン王国を中心とする新教徒諸侯は、ついにウィンドボナにあるゲルマニア中央政府に対して反乱を起こした。
 ベーメン側の諸侯には新教の信徒が大勢いる。ゲルマニアは四王権国家と違い、それほど大規模な新教徒に対する迫害が行われなかったのが、新教徒が増加した最大の要因であるといえた。しかしながら、そういった弾圧策をとっていないにも関わらず、手のひら返しで反乱を起こされてしまったのである。

 総勢五万の反乱軍に対し、皇帝が動員出来た兵力は二万弱。実際には一万五千に満たない兵力であった。皇帝はそれほど大きな基盤は持っていない。選帝侯は全てが兵の拠出を拒み、上級貴族で皇帝の下へ参じたのは、ハルデンベルク侯爵を中心とするわずかな貴族だけであった。
 だがしかし、眼前に迫る敵軍を、自ら先頭に立つアルブレヒトは、冷ややかな視線で眺めている。

「娘。本当に貴様を信用してよいのだろうな」
 彼は確認するかのように、隣で優雅に腰掛ける少女へ視線を向ける。
「ええ。陛下も、わたしの力はその御眼でご覧になられたでしょう?」
 少女は、アルブレヒトを『陛下』と呼ぶ。
 だが、それは一般的な呼称ではない。始祖ブリミルからの血脈こそがもっとも重要視されるこのハルケギニアにおいては、ゲルマニアの王であるアルブレヒトは『閣下』と呼ばれる。本来なら『陛下』というのは、三王権の王のみに許された敬称なのだ。
 それについて問うと、少女は微笑みながら「全てのメイジは、元をたどれば始祖に突き当たるのです。ですから、ゲルマニア皇帝だろうとわたしは『陛下』とお呼びしますわ」と言った。
 もっとも、彼女は常に尊大な態度を見せている。アルブレヒトを敬う気持ちなど、欠片も持ち合わせていないのは明白である。しかしそれでも、皇帝は少女を重用することにした。目の当たりにしたのだ。彼女の『力』を。

「閣下。反乱諸侯の軍勢が前進を開始しました」
 先ほどから、自らの家臣へ指示を飛ばしていたハルデンベルクが皇帝に報告する。
「…では、行って参りますわ」
 すると、先ほどまで椅子の上で脚を組んでいた少女が立ち上がり、つかつかと靴のヒールを鳴らしながら歩いていく。ハルデンベルクは胡散臭そうな顔をしているが、これといってなにか言うということはない。そして、少女の後姿を眺めながら、アルブレヒトは命じる。
「卿。我が方の軍勢は待機だ」
 それを聞いたハルデンベルクは、おもわず我が耳を疑った。敵軍が進攻を開始したというのに、この男はなにをトチ狂っているのか。しかし、皇帝はそんな侯爵の心中を見抜いてると言いたげな様子で口走る。

「戦いはすぐに終わる。まあ、見ていろ」


 一方、反乱諸侯軍。
 
 アルビオンで新教徒たちが立ち上がり、そして王軍に対して勝利を掴んだという報せが舞い込んだとき。それは彼らを大いに鼓舞するものとなった。
 新教に改宗していたベーメン王はそれを利用して、自分の政敵であるアルブレヒトを排除しようとしたのである。一部の選帝侯がそうした動きに賛意を示したことで、動きは加速したのだ。

 圧倒的な軍勢の本陣で、王はほくそ笑む。これで自分の天下だ。
 自らの一族を、血も涙もなく排除して皇帝にまで成り上がったアルブレヒト。だが、そんな奴にいつまでも国を任せてはおけない。これからは自分が諸侯を率い、このゲルマニアをハルケギニアの覇権国家とするのだ。無能坊主に支配されているロマリアも、ついでに潰してしまえばいい。
  天幕の中でそんなことを考えたとき、彼の元へ一人の使者が飛び込んできた。

「か、閣下! ご、ご報告申し上げます! 敵方が新兵器を導入、我が方の前衛部隊に甚大な被害が出ています!」
「なんだと!?」
 まさか。こちらは五万。それも士気に溢れる勇敢な信徒が中心だ。数も質も劣る皇帝軍に遅れをとるなど、あってたまるか!
 王は天幕から飛び出す。そして飛び込んできた光景に、我が目を疑った。
「そ…。そんな、馬鹿な。なんだ…あれは」

 彼の視界に映るのは、とてつもなく巨大な人型の人形であった。否、頭頂部の高さが百メイルにも達するであろうそれは、もはや人形と呼ぶにもおこがましいほどの巨大さである。ウィンドボナのどこを探そうとも、あれほどの大きさの建造物は存在していないだろう。
 巨人が兵たちを踏み潰し、なぎ払っていく。魔法も大砲も、あれほど大きな巨人の前には子供の玩具に過ぎないのである。
 不意に―――巨人の視線が、王を捉える。
 そんな予感に駆られた王は、魔法でその場から逃げ出そうとする。だが、それは叶わなかった。なぜならば、そのときには既に彼は巨人に踏み潰されていたからだ。


 巨人によってなすすべなく蹂躙される反乱軍を、ハルデンベルク侯爵は呆然とした様子で眺めていた。いや、彼だけではない。皇帝側の人間は誰も彼もが、その現実味のない光景を呆けた顔で眺めている。ただ一人を除いて。
 そう。アルブレヒト三世は、ただ一人嗤っていたのだ。

「く、くくく…。ふははは…。人がごみのようではないか!」
 立ち上がり、彼は天に向かって叫んだ。
 もしそれが通常の会食のときならば、人は彼が狂ったと感じることだろう。しかし、今は誰もその言葉に耳を傾ける余裕すらない。皆、目の前の光景に恐れおののいている。

 巨人の肩に乗った少女―――デメテルは、大混乱に陥って潰走を始める新教徒たちを、巨人に命じて手当たり次第に踏み潰させていく。もう戦術などそこには存在していない。あるのは、圧倒的な殺戮。それだけだった。
 これほどの光景を見せ付ければ、自らに力を欲するアルブレヒトはますます自分を重用するだろう。そして、ゲルマニアという国の中枢に入り込める。あんな小国の役立たずに取り入る必要などなかった。最初からこうすればよかったのだ。と、そんなことを考えていた。


 この戦いでゲルマニアの新教徒は壊滅し、残党はアルビオンへ逃亡。白の国で起き始めていた内乱は、さらなる混迷状態へと突入するのであった。



[17375] 第三十話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/06/23 19:52
 季節は春である。

 野には花々が咲き乱れ、蝶や蜂が蜜を求めて活発に行動を繰り広げる。また、たまに春うららの陽気にあてられて奇人が出没することもあった。
 クルデンホルフ市の郊外にある草原も、それは例外ではなかった。
 柔らかい草の上にぺたりと座り込んだ、青い髪の少女がいる。彼女はガリアの王族、イザベラであった。諸事情により、彼女は父と共にこのクルデンホルフ大公国で匿われているのだ。一見して静かなこの草原ではあるが、実は複数の護衛が辺りに潜んでいるのである。
 それもそうである。彼女たちの身分を考えれば、それ相応の警護体制はあってしかるべきだった。

「…」
 先ほどまで、野に咲き誇る花のような笑みを顔に浮かべていたはずのイザベラの表情が怪訝なものとなる。いくらなんでも、数十人規模で周りを固められれば、その存在には嫌でも気づかされる。
 うんざりとした表情になった少女は、近くで草の上に身を投げ出す美髯の男性に声をかけた。
「お父さま。そろそろお城へ戻りませんか?」
 すると彼は瞑っていた目を開き、それに応じる。
「…ん。そうか、もうそんな時間なのだな」
 男性が立ち上がると、周囲に潜んでいた男たちも姿を現した。近くの林からは、馬車ががたがたと音を立てながらこの場所へと向かってきている。
「まったく、騒々しいな。エシュにいた頃が懐かしくなったよ」
 そんな仰々しい光景を見つめながら、青い髪の男性―――ジョゼフは呟いた。



 ところ変わって、クルデンホルフの城。
 広々とした自室で、新聞に読みふける濃い金髪の少年がいた。ここ最近の堕落した飽食生活故か、彼は再びオーク鬼の子のような有り様となっている。ちょっと痩せては太るのを繰り返しているのだ。

「ベーメン王家は取り潰し、皇帝アルブレヒト三世がベーメン王位を継承…か」
 新聞には、先日のゲルマニアでの反乱に関する記事が掲載されていた。
 数で圧倒的に劣るはずの皇帝軍が新教徒の反乱軍を鎮圧し、さらには背後で反乱軍と繋がっていた選帝候が取り潰されたという。小規模国家の寄り合い所帯であったゲルマニアで、皇帝による中央集権化が確実に進んでいることをその記事は伝えていた。

 本来ならば、原作開始時点ではゲルマニアはまだ諸侯の利害関係によって結びついた、結束の弱い国家だった。しかしながら現時点では確実に皇帝、ひいてはウィンドボナの支配力が強まっている。アルザス地方やシュバルツバルトをガリアの長年の支配から奪回したことで、皇帝の威信が高まる要因もあった。
 将来的には…、いや。そう遠くないうちに、ウィンドボナに対抗できる数少ないの勢力である、バイエルン王国やプロシア公国とより緊密に結びつくことを父に進言するべきかもしれない。
 上記のニヶ国は依然として中央政府に対する独立性が高い。それに、現状でもクルデンホルフとはそれなりの友好関係にあるのだから。

 などと、新聞を読み終えたヴェンツェルが食堂へ向かいながら唸って考えていると、外からジョゼフとイザベラが戻ってきた。
「どうした少年。難しい顔をしておるな」
「いえ。近頃、ゲルマニアが予想外に強くなってきていますよね。それについて…」
「ふむ。アルブレヒトか。あの器の小さい男に、強力な諸侯を屈服させられるとは思えないのだがな。なにかよからぬ力でも手に入れたのだろうか」
「そうなんですよねぇ。もしかしたら…」

 なにやら政治談議を始めた二人を、イザベラは呆れた様子で眺めていた。彼女はまつりごとにはそれほど興味がない。最低限の教養があれば、それでいいと思っている口だった。


 昼食後。

 ヴェンツェルは家庭教師であるイルソン女史に勉強を教えられている。女史はラ・ヴァリエールのエレオノールの同期だといい、つまりは二十代前半である。そろそろ本気で結婚を考えねばならないお年頃なのだが、彼女はこんなところで子供の相手をしているのだった。
「違います。英雄男爵はユーグ・カペーではありません」
 今はトリステインの歴史を教わっているところだ。女史が持ってきたテキストには、どこかで聞いたような人物名やら出来事が飛び交っている。ハルケギニア六千年の歴史は伊達ではなく、覚えなければならないことは山積みだ。もっとも、現時点では浅く広く学ぶ程度だったが。
 さらに、帝王学だなどといって色々と教え込まれるが、ヴェンツェルは言われたそばからそれを忘れていく。彼は興味のないことはとことん覚えないのだ。これにはイルソン女史も手を焼いていた。

 やがて勉強の時間が終わると、少年はさっさと学習室から出ていってしまった。その後ろ姿を見送りながら、女史は静かにため息を吐く。
 寝たきりになってしまった祖父の代わりに、彼女が家庭教師としてやって来てから早一ヶ月。一向に成果は上がっていない。これでは先が思いやられる。ああ、自分の結婚相手すらまだ見つかっていないのにこれでは…。と、女史はかなり悲観的になっていた。


 ヴェンツェルがおやつのバターたっぷりサンドを持って城の廊下を歩いていると、突然異臭がするではないか。その発生源は彼のすぐ横にある扉のようである。だが、そこはもう何年も空き部屋となっていたはず。一体、なにがあるのだろうか。
 興味を持った少年は、そうっと扉を開けてみる。鼻を突くような臭気がさらに激しさを増した。

「…アリス? なにしてるんだ」
 あちこちに何かの実権器具や薬品、標本の置かれた部屋の中にいたのは、マスクをして白衣に身を包んだ少女、アリスだった。彼女は古ぼけたテーブルの上にデルフリンガーを置いて、なにかの薬品を刃の上から垂らしている。スポイトの先からなにか毒々しい色の液体が垂れると、デルフリンガーがけたたましい叫び声を上げる。
 しかし、少女はそんなのはおかまいなしである。薬品が付着した部分の錆びが取れていないのを確認すると、どうしてだかわからないと言った表情でテーブルの上に戻した。
「あら、坊ちゃま。どうされたのですか」
「こ、子分! 助けてくれ! 助けt」
 哀れなデルフリンガーが懸命に助けを求めるが、アリスはそれを鞘で封殺した。さすがは鬼将軍。血も涙もない。

「いえ、あまり暇なもので、暇つぶしにこのインテリジェンスソードの錆びをとってしまおうかと思ったのです。もう何十種類と薬品を試したのですが、どうしても取れないんですよね。不思議な剣もあるものですよ」
「…と、いうより。この部屋はなんなんだ?」
 ヴェンツェルは悪臭に鼻をつまみながら尋ねてみる。
「大旦那さまがご使用になられていた実験室ですよ。昔はここでなにか怪しげな薬を作ったりしていたそうです」
「へぇ、そんな趣味があったのか」
 ヴェンツェルは、偉大なる祖父の顔を思い出してみた。息子には尋常でないほどに厳しい人だったが、孫である自分やベアトリスにはそれこそ尋常でないほどに甘い人なのだ。ベアトリスが本物の小熊が欲しいといえば、自ら素手で捕獲してきたことさえあった。もっとも、小熊がかわいそうになってしまったらしいベアトリスの要望ですぐに親元へ返されたが。

「実はわたし、この部屋でいろいろと実験をしておりまして。いま作っているのは大旦那さまが知り合いから製法を教わったという、『バーロー』薬です」
 なんだか、真実はいつも一つな某漫画を思い出すネーミングである。
「なんだそれ?」
「ふふふ、それは秘密です。完成してからのお楽しみということで…」
 珍しく可愛らしい笑みを浮かべながら、アリスは指を立てる。しかしこのアリス、ノリノリである。なにか良いことでもあったのだろうか。


 実験室を出たヴェンツェルは、今度こそおやつにありつく為に自室へ戻った。すると、そこには既に先客がいる。ヘスティアと、ミス・コタンタンことクロエの妹のリゼットだった。彼女は姉が家に帰るまではこの城に居座ると宣言しており、実際に姉の部屋に居候している。
「あ、帰ってきた。ヴェンツェル、汗ちょうだい」
 嬉しそうな顔でリゼットが近づいてくる。彼女曰く、ヴェンツェルの汗はなにか他の人間とは違うらしい。普通なら男性の汗など不味くて吐き気がするそうなのだが。別に薬をキメていたりもしないし、そのつもりもないのに。
「やっぱりそうくると思ったわ。そんなのアタシの目が黒いうちは許さないわよ」
「なんであんたの許可なんて取る必要があるの? 馬鹿なの?」
 リゼットが煽り立てたので、そのまま二人は喧嘩を始めた。いわゆるキャットファイトだった。あまり体格差がないので、いつも勝負は拮抗しがちである。まあ、結局は体の頑丈なヘスティアが勝つのだが。

 しかし、吸血鬼。
 ハルケギニア最悪の妖魔と言われている存在だが、果たしてヴェンツェルの前に現れた姉妹はあまり危険性は感じない。それは彼女たちが特別なのだろう。リゼットに関しては、ヴェンツェルが提供を拒んだ場合は城の若い女を皆ミイラにすると脅してくるけども。
 最近は堂々とクロエが迫ってくる。その場合は大抵ヘスティアが妨害するのだけれど。


 ―――そんなまったりとした日常が続くなか、突如としてクルデンホルフ大公宛てに『緊急招集令状』が届き、大慌てで大公はトリスタニアへと向かうことになるのである。 




 *




 一週間後。

 ヴェンツェルは大公に連れられ、馬車でトリスタニアを訪れていた。
 悪化するアルビオンの情勢を重く見た王が、諸侯を召集したのである。もっとも、子供に関しては単にアンリエッタと顔合わせをさせるだけのつもりであった。

 白亜の城には多くの馬車が集っていた。その中でも、ラ・ヴァリエール公爵家、クルデンホルフ大公家、グラモン伯爵家の馬車は一際目立っている。まあ、グラモンの場合は完全に見栄を張って無理をしているのがばればれであったが。今回の馬車を調達する為に、またしてもクルデンホルフへの借金が増えるという有様だった。

 子供たちは、大会議室へ向かう大人とは別れ、王城の遊戯室へと集められていた。ヴェンツェルが見た限りでは、アンリエッタを初めとして、ルイズ、ギーシュの姿がある。ここ数年では見慣れたメンバーだった。

「皆さん。本日は遠いところからご足労くださって、ありがとうございます」
 アンリエッタがにこやかな表情で皆に歓迎の挨拶を向ける。すると、突然ギーシュが立ち上がった。
「いえ、姫殿下の下僕であるこのギーシュ・ド・グラモン。まったく労することなどありませぬ! 姫さまの号令あれば、この場の者共を従えただちに馳せ参じましょう!」
「なんでわたしが、あんたなんかに従えられなきゃならないのよ」

 ギーシュの好き勝手な物言いに、ルイズが彼をぎろりと睨みつける。だが、薔薇の造花を振り回す少年はそれを完璧に無視した。そこでヴェンツェルが横やりを入れてみる。

「そうだな。グラモンはまず、ウチへの借金を返してからそういうことを言ってほしいよ」
「うっ。だ、だがね。それは実家の借金であって…」
 借金の話を聞いた途端に慌てだし、おろおろとし出すギーシュ。すぐにヴェンツェルが「冗談だ。君の言うとおり、実家の話だからね」と言われるとあからさまにほっとした様子になる。アンリエッタは、そんなやり取りを微笑みながら見つめていた。


「姫さま。今日はなにをしましょう?」
 せっかく四人もいるのだからと、彼らはなにか遊びを行うことにした。ただ、彼らは結構微妙なお年頃である。ちょうど小学校高学年、異性同士で反目する時期である。もっとも、ギーシュとアンリエッタにはそういった事象は存在しないようだったが。
「そうだな。イーヴァルディの勇者ごっこなんてどうだい?」
「はぁ? なにその子供っぽいの。却下よ」
 まったく空気を読まないギーシュの提案。それを聞いたルイズは眉を吊り上げ、侮蔑の感情を込めた視線を送る。一方の気障少年は、即座に自分の提案が否定されたのが気に入らないようだった。口から泡を飛ばして、目の前のブロンド少女へ詰め寄る。
「なぜだい!」
「そんなの決まってるじゃない。どうせあんたがイーヴァルディで、姫さまがさらわれた女の子。わたしは村人Aかなにかで、そこのは家畜とかなんでしょ」
「まさか! ぼくがイーヴァルディなのは当然だが、きみも姫さまもさらわれた姫君役だよ!」

 ルイズの問いに、やはり気障ったらしいポーズを決め、ギーシュは白い歯を見せながら言う。いちいち癪に障る子供である。

「僕はどうなるんだよ」
 ヴェンツェルはすっかりギーシュに無視されたので、憮然とした様子で彼に問いかけた。
「…うん? きみか…。そうだな、村人Aと家畜とドラゴンを兼務してもらおうか」
 物凄くどうでもよさそうな顔で返された。結局家畜かよ。というか、村人と家畜とドラゴンを兼務するとかどんだけだよ。とヴェンツェルは思った。なんとなく頭にきたので、こっそりとギーシュの造花を部屋の花瓶にあった本物の薔薇とすり替えておく。
 
「うぅん…。あ、そうですわ。わたくし、ちょっとやりたいことがありまして…」
 アンリエッタがなにか思いついたらしい。手のひらを合わせながら、残りの三人へとなにか提案するのであった。







 ●第三十話「紛糾」







 トリスタニアの城下町で、町娘が着るような服に身を通したアンリエッタは周りをキョロキョロと楽しげに眺めていた。その姿は町娘のようであり、しかし見る人が見ればすぐに高貴な存在であると識別できるものである。生まれ持った高貴さというのは完全に隠すことは不可能なのだった。
 その横では、やはり平民が着るような、しかしむやみに派手な装飾が施されているためにかなり目立つ服を着たギーシュが楽しげに歩いている。そして後列では、だぼだぼのワイシャツとプリーツスカートに身を包んだルイズ。さらには田舎者が着るような簡素な服のヴェンツェルが続いていた。ルイズの格好は見る人が見れば激しく劣情を刺激されるものであろう。

「…わたしは反対したのに」
「そりゃ僕だってそうさ」
 ほとんど独断で飛び出したアンリエッタとギーシュを追って、ルイズとヴェンツェルも後を追ったのだった。
 当然ながら見張りがついていたのであるが…、なんと、アンリエッタが『スリープ・クラウド』で皆眠らせてしまったのである。そして四人は、ギーシュがどこからか持ってきた平民の服を来て城を脱走したのであった。とある古井戸を使い、地下水路を通って街へ出るのだ。
 
 市街地は相変わらずの賑わいを見せていた。アンリエッタとギーシュは、道端に広がる露店商が売る装飾品などを楽しげに眺めていた。
 一方のルイズとヴェンツェルである。彼らはこれといって仲が良いとは言えない。共通の話題とてなく、べたべたとくっつく二人をただ後ろから眺めている。

 そんなとき、ふとルイズが立ち止まった。彼女の視線を追えば、そこには、銀細工らしい猫を象ったアクセサリーの類いがある。首輪にあたる部分に宝石が埋め込まれているのだ。お値段百エキュー…と、どうして出店などで売っているのかが不思議なほどの高価な代物である。
 しばらく物欲しそうにそれを見つめていたが、やはりあまりの高さ故に諦めるようだった。ヴェンツェルは懐を確かめる。最近の彼は普段からある程度の金貨を持ち歩くようにしているが、無駄遣いは禁物だ。。それに、そんな大金をルイズの為に使う意味があるのだろうか。
 そんなときである。前方で、ギーシュが髪飾りをアンリエッタにつけてやっているではないか。姫殿下、それはもう顔を綻ばせている。相当に嬉しいようだった。ルイズはそれを羨ましそうに見ていた。
 ここで彼女だけにわびしい思いをさせるのは男がすたるというものだ。見栄を張って、ヴェンツェルは銀細工を購入しようとする。だが、そこで思わぬ妨害が入った。ルイズだ。

「なに? それ買うの?」
 酷く不機嫌な様子で、桃色髪の少女が銀細工を指差した。
「あ、ああ。君が欲しそうにしてたから…」
「へぇ。わたしが買えないのをわかっていて、意地悪するんだ」
 ルイズ、さらに機嫌が悪くなったらしい。目や眉は吊りあがり、いまにも頭のてっぺんから尖ったツノが生えてきそうな勢いである。
「いや、君にあげようと思って」
「なんで?」
 どうしてそんなことを? と思っているらしい。彼女の表情がそれをよく物語っている。
「欲しそうにしていたからだよ」
「はぁ? ふざけてるの? なんでわたしが物乞いみたいに言われなきゃならないのよ。だいたい、あんたに買ってもらう理由がないわ」
 ルイズは半ギレ状態で腕を振り上げる。
 だが、それを相手にせずにヴェンツェルは商人から銀細工を購入した。
「まあまあ、遠慮するなよ。ほら。せっかく可愛いんだから、たまにはお洒落でもしようぜ」
「遠慮なんかしてないわ…、むうっ。…ていうか、あんたに可愛いって言われてもすごく微妙な気分だわ」
 半ば強引に銀細工を押しつけると、ルイズは渋々といった面持ちでそれを受けとる。毒を吐くのも忘れない。

「…でもま、一応礼を言っておくわ。ありがとう」
 言葉の通り、一応は感謝しているらしい。ルイズはそっぽを向きながら言うのであった。



 やがて一行が訪れたのは、正規の大通りであるブルドンネ街の裏手にある、チクドンネ街であった。ここに来ることはギーシュが言い出したのだが、彼にはどうしても立ち寄りたい店があるそうなのである。
 そうしてやって来たのは、ヴェンツェルにとって非常に見覚えのある酒場だった。かなりきわどい格好の女の子たちが呼び込みを行う―――そう、この店こそ『魅惑の妖精』亭であった。

「…ここって、子供が来るような場所なの? なんか、すごく胡散臭いんだけど」
「いや、兄からここのことを聞いたことがあってね。いつか足を運んでみたかったんだ…」
 呆れ顔のルイズが言うと、ギーシュがうっとりとした声音で応える。あまりちゃんとした答えにはなっていなかったが。
「あんたね、姫さまをこんないかがわしい店に入れるつもり? 絶対駄目よ! こんな下品さ丸出しな店!」

 ルイズが一人で営業妨害に等しい大騒ぎを繰り広げていると、店の奥から一人の長い黒髪の少女が現れた。年はこの場の四人と同じほどだろうか。彼女はルイズやアンリエッタを胡散臭げに眺め、言い放つ。

「ちょっと。あんまり店の前で騒がないでよ。お客が逃げちゃうじゃない!」
 と、そこで少女の目がヴェンツェルを捉えた。それまでの気だるげな顔から一転。とたんに表情を変え、彼に近寄っていく。そして、ひそひそと小さな声でささやく。

「――久しぶりね。でも、どういうこと? あなた、貴族なんでしょ。こんなところをほっつき歩いていていいの?」
 かつて、モーリスの口からヴェンツェルが貴族であることを聞いていたジェシカは、ちょっとばかり腰が引けているようだった。それでも、それを思い切り態度に出さない辺りはさすがだが。
「ああ…久しぶりだね、ジェシカ。まあ…いや、姫殿下のわがままでね。城を抜け出してきたんだ」
「姫? 姫って、アンリエッタ殿下?」
「あそこの栗毛の子だよ。もう一人は公爵令嬢だ」
 信じられない、といった様子のジェシカは二人の少女を交互に観察。大きな目を瞬かせながら、再びぼそぼそと問う。
「…本当?」
「嘘を吐いても仕方ないだろう」
 ひそひそと声を潜ませながら、二人は会話を続ける。そんな様子を、蚊帳の外な三人の子供たちは怪訝な表情で眺めていた。ギーシュは「むう。なかなか可愛い子だな。だが、どうしてあんな子がヴェンツェルとくっついているんだ」という視線であったが。

「…うーん、今の今までほんのちょっと疑問に思ってたんだけど。あなたって、本物の貴族だったんだ…」
 心底驚いたという様子で、ジェシカは呟いた。



 *



「まさか王女殿下にお越しいただけるなんて…。今日は『魅惑の妖精』亭の歴史で記念すべき日だわぁん!」

 ものすごく野太い大声を上げながら――『魅惑の妖精』亭の店長、スカロンは全身で喜びを表した。彼なら大丈夫だろうということで、ヴェンツェルがばらしてしまったのだ。久しぶりの再会ということで、毛がたっぷりの胸板やぶっとい腕に抱かれたときは死にかけたが。
 お店の女の子たちも、その辺りは心得ている。開店直後で客がいなかったのもあって、その日の店はアンリエッタ一行の為に貸し切りとなった。代金は必然的に、唯一まとまったお金を保持していたヴェンツェル持ちである。なんだがちょっぴり納得がいかない。

「…なあ。彼はその、なんなんだね。なんだかすごいことになっているが」
 ばっちりとメイクを決めた中年のおっさんであるスカロンを気味悪げに眺めながら、ギーシュがヴェンツェルに問いかけた。スカロンはといえば、アンリエッタの元へ行ってやたらと褒め称えたり料理を勧めていたりと大忙しである。
「見た目はあれだけど、スカロンさんはいい人なんだよ。試しに話してきな。僕は遠慮しとくけど」
「な、きみは自分がやりたくないことを、人にやらせるのかね。ぼくも遠慮しておくよ」

 相手が平民だろうとも、威張りも物怖じもせずににこやかに話しかけるアンリエッタは、この酒場の少女たちにも好評を博しているようであった。だが、ルイズはなんだか居心地が悪いらしく、さっきからずっとそわそわと落ち着かない様子だ。
 どうせ女の子はアンリエッタやギーシュに付きっ切りである。声をかけてみよう。
「どうしたんだい」
「わたし、こういうお店に来たことがないのよ。それに今さらだけど、勝手にお城を出ちゃったのが…」
 ヴェンツェルが話しかけてみると、彼女はやはり落ち着かないらしく、キョロキョロと辺りを見回しながら言う。それはそうだ。彼女は公爵家の箱入り娘である。こんな場末の酒場に来る理由もない。

「なに、もうなるようにしかならないさ。いざとなったら全部ギーシュのせいにしてしまえばいい」
 ギーシュの責任は彼のもの。自分の責任はギーシュのものである。
「そんなに上手くいくかしら…」
「最悪の場合は、僕とギーシュが君たちを連れ出したことにすればいいから。なに、君や姫様には責任が及ばないようにするさ」
 少なくとも、アンリエッタが言いだしっぺだと白状してしまうよりは良いだろう。
「ふぅん…」
 とりあえずヴェンツェルがそう言うと、ルイズは呆れたような瞳で彼を見やるのだった。


 四人が『魅惑の妖精』亭へやって来てから、既に二時間ほどが経過していた。偶然置いてあった酒を飲んでしまったアンリエッタ、ルイズ、ギーシュはすっかり出来上がってしまっている。

 しかし、テーブルの隅っこでふかしたじゃがいもを食べる太っちょの少年だけは酒に酔っていない。彼は、他人なら泥酔するほど酒を飲んでもあまり酔うことがないのだ。どうやら母方の血が要因らしかった。クルデンホルフの人間はそれほど酒に強くないのである。だからといって酒が好きな訳ではないが。

 一人で水ばかりがぼがぼと飲んでいると、彼の隣にジェシカが腰をかけた。そして酒を一杯飲むと、子供らしからぬ流し目を送ってくる。

「ねぇ。ちょっとわたしの部屋に来ない?」
「だが断る。というより、成人していない人間が酒を飲むと毒だぞ」
 即座に拒否すると、まさか断られる上に注意されるとは思っていなかったのか。ジェシカは目をぱちぱちと瞬かせた。
「えぇっ? どうして?」
「子供は趣味じゃない」
 キリッ、という擬音が聞こえてきそうな表情でヴェンツェルが応えると、しばらくの沈黙の後…ジェシカは突然吹き出した。それはもう愉快そうな顔と声で。言った本人ですら完全な失言だと気づいているというのに、容赦がない。。
「ぷ、ぷぷぷ…っ、あははは! なによそれ、久々に腹の底からわら、ひっ、あはははは!」
 なにがそんなに面白いのか、彼女は腹を抱えて笑うのである。じたばたと身をよじりながら、テーブルをバンバンと叩き出した。
 すると、テーブルの向こう側で泥酔していたルイズがこちらをギロリと睨みつけた。つかつかと靴を鳴らしながらこちらへやってくる。顔は真っ赤で、足取りはふらふら。今にも倒れてしまうそうな危うさをかもし出している。

「ねぇ、そこの平民」
「は、はい?」
 さすがに気品溢れる貴族の少女に睨まれるのは効くらしい。先ほどまでの威勢はどこへやら。ジェシカ、すっかり萎縮してしまっているではないか。
「わたしは貴族なのよ。平民の分際で貴族のいるテーブルを叩くとか、あんた何様なのよ?」
「ご、ごめんなさい」
 なんだか本職の方もびっくりな凄みを利かせながら、ルイズは高圧的な態度に出る。
「ごめんで済んだら杖はいらないのよ。謝りなさいよ。ほら、さっさと謝れ」

 そろそろやりすぎか。ヴェンツェルが諌めようとしたとき。なにを思ったのか、ルイズがいきなり靴を脱いだではないか。靴下も脱ぎ捨て、小さな素足がむき出しとなる。そして、それをジェシカに向かって突き出した。

「平民。足を舐めなさい。そうしたら許してあげる」
「え、ええぇ…。水虫とかいそう」
 思わず、嫌そうな顔でジェシカを失言を漏らしてしまった。当然、それをルイズが聞き逃すはずもない。
「はぁぁっぁぁ? わたしはね、貴族なのよ。あんたみたいな薄汚い平民と一緒にすんじゃないわよ!!」
 怒鳴りながら、桃色ブロンドの少女は足をぐいぐいと黒髪の少女の顔に押し付ける。見れば、足の爪が顔に食い込んでしまっているではないか。

「わ、わかりました…。わかったから、うう…痛い…」
「感謝しなさいね。貴族の足を舐められるなんて、普通は一生ないんだから!」

 いや、身分に関係なく足なんか舐めないだろ、普通もなにもあるか。とヴェンツェルは思った。ふとなんとなくギーシュたちの方を見る。なんだかギーシュが魔法を使おうとするが、使えずに苦戦しているようだ。それもそうである。彼が持っているのは杖ではなく、ただの薔薇なのだから。

「はぅぅぁ…。あ、そこ。指の間…、ひゃん」
 再び視線をルイズたちに戻すと、そこではなんだか淫靡な光景が繰り広げられていた。
 目を細め、気持ちよさそうに体をぷるぷると体を振るわせるルイズ。一方のジェシカは乗ってきたのか、ぴちゃぴちゃと音を立てながら一心不乱に下を這わせる始末である。二人ともやけに頬が上気していて…。そう、妙な雰囲気が漂っている。
 これはもしかしたら役得かもしれない。ああ、カメラが欲しい…、と思わないこともなかった。誰か発明してくれないものか…。

「あ。さっきあの子たちが飲んだのって、すっぽんとダイオウマムシの…」
 ちょうどそのとき、厨房裏でスカロンが額に冷や汗を浮かべたが、それは永遠の秘密である。



 *



「悪い夢よ、これは。そうに決まってるわ…」

 城への帰路。
 顔を真っ赤にしたルイズが、なにやらぶつぶつと自分に言い聞かせている。あの場で行為を目撃したのはヴェンツェルだけだったのは不幸中の幸いだ。そんな彼には失敗魔法の爆発を食らわせたので、もう物言わぬ屍と化していた。それをずるずると引きずる。
 酔っていた三人は、酔いなおしという水の秘薬をスカロンに処方してもらったのだ。当然、高価な薬である。ヴェンツェルはさらなる出費な強いられた。まあ、それはギーシュが勝手に肉塊の財布から抜き出したのだったが。

 やがて三人と肉塊は城の警備網を突破して古井戸を上り、再び遊戯室へと戻って来ていた。ラ・ポルトやその他の見張りはまだ眠っている。少しして元の服へと着替えた三人は、顔を見合わせた。
「…どうしてでしょう? 行きよりもずっと警備が緩くなっていましたね」
「というより、人がいない感じだったね。眠ったままの彼らが発見されなかったのもおかしい」
「姫さま。ちょっと様子を見てきますわ」
 そう言って、ルイズは部屋を出て行く。かつてヴェンツェルだった肉塊は、まだ蘇生には程遠い状態のようである。

 ルイズが城の廊下を歩いていると、なにやら先の方が騒がしくなっていた。急いで現場へと向かってみる。

 すると、大会議室の周囲に大勢の人が集まっているではないか。血まみれの貴族が次々と運び出されていく。彼女は自分の父が巻き込まれていないか心配になった。思わず、衛兵の隙をついて扉から大会議室へ入り込んだ。
 心配は杞憂だったようで、少し埃を被っただけのラ・ヴァリエール公爵は、会議室の最下段で衛兵になにか指示を飛ばしていた。やがて衛兵が去ると、たまらずルイズは父に呼びかけた。
「お父さま。これは一体どうされたのですか!」
「ルイズ。どうしてここにいるんだ!」
 公爵は驚きながらも、慌てた様子の愛娘の肩に手を置いた。
「それより、これはどういうことですか? なぜ血を流して倒れる人が…」
「子供には関係のないことだ。お前は知らなくていい。ここは私に任せて、部屋へ戻っていなさい」
 そう言ったきり、彼はルイズを手近の衛兵に任せ、自身はどこかへと去ってしまった。

 結局、三日間の予定で行われるはずの諸侯会議は、わずか半日後には無期延期となってしまったのである。負傷者も多く、とてもではないがすぐに再開などできはしない。


 ―――翌朝。
 朝一番に起き出したヴェンツェルは、ソファーに深く腰掛けて難しい顔をする父に向かって問いかける。

「父上。ミス・ヴァリエールから話を聞いたのですが、昨日は諸侯会議で流血沙汰があったとか。どういうことなんですか?」
 本来なら、昨晩のうちに尋ねようとしたのだが。どういうわけか、大公が客間へと戻ってきたのはもう早朝のことだったのだ。なおも難しい顔をしたまま、大公はヴェンツェルへと言葉を向ける。

「会議が、アルビオンに対する我が国の今後の行動を話し合うものだったのは知っているな」
「はい。もしかしたら出兵要請を出されるのではないか。そんな噂がありましたね」
「うむ。そのまさかだったのだよ。王が、独断でアルビオンへ援軍を派遣すると主張してな。それに賛同する貴族が大規模な出兵に関する投票を行ったのだ。その結果…。二票差で派兵が決議された。しかし、それはどうにも不自然なものだったのだ。そこで挙手を求めたところ、今度は反対が上回った。そうして会議は次第に紛糾し…、最後は乱闘が起きて流血沙汰となったのだ」
「…? つまり、投票のときは誰かが票を操作した?」
 ヴェンツェルが自信なさげに呟くと、大公は頷いた。
「ああ。その疑いを持ったラ・ヴァリエール公爵が諸侯に挙手を求めたのだよ。まあもっとも、匿名の投票と顔が見える挙手で態度を変える輩がいてもおかしくはないがな。とにかく、前後で数が食い違ったことが最大の原因だろう」
これからどうなるか。まあ、恐らく会議は中止だろうな。と、大公はため息混じりに呟いた。

 その後、マザリーニ枢機卿や一部の有力諸侯による密室での会談が行われ、トリステインはアルビオンの内乱への不介入方針を正式に決定。公式に王の名義で声明を発表する運びとなったのである。



 彼らがのん気にそんなことをしている間にも、アルビオンではある大きな動きが起きつつあった。
 サセックス伯と東部諸侯の軍勢がロンディニウムを占領したのだ。都を追われた王、ジェームズ一世は王党派の勢力が強いオックスフォードへ逃亡。勝利者であり、反乱軍の実質的な権限を掌握したサセックス伯は『議会派』の結成と、現王家の廃嫡を宣言。貴族による連合国家の樹立を目指すと発表した。

 そしてこのとき、混乱状態のロンディニウムからは膨大な数の機密資料が流出。その一部がサウスゴーダ家はマチルダの息のかかった者の手へと渡り…、

 歴史は、大きな転換期を迎えることとなるのである。



[17375] 幕間三
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/07/22 20:11
 オリヴァー・クロムウェムは、ウエストウッドの中庭で薪を割っていた。勢いよく斧を振り上げ、切り株の上に置いた木に降り下ろしていく。

 そのそばでは、絹の布ようにしなやかな髪を揺らしながら洗濯物を干す少女たちがいた。金色の髪で耳が長いのがティファニア。銀髪の少女がルサリィだった。
 洗濯物が入った大きなかごを、ふらふらとよろけながら運ぶルサリィをティファニアは心配そうに見つめていた。そしてやはりというか、少女は足元の石に引っ掛かってずっこけた。大小様々な大きさの、色とりどりの布がその場に散らばった。
「ああ、やっちゃった。洗い直しだわ。ごめんね、テファ…」
「ううん、いいのよ。それより怪我はない? 洗濯物はまた洗えばいいけど、怪我をしちゃったら大変だから…」
 洗濯物を拾い上げながら、ティファニアは銀髪の少女の体を確かめる。幸い、下が柔らかい下草だった為か、大事には至らないようだった。

 その日の夕刻。太陽はまだ大地を明るく照らしている。
 三人で食事を作っていると、付近の町まで出ていたマチルダが帰って来た。なんだか深刻な表情をしており、挨拶もそこそこに厨房からオリヴァーを連れ出す。
 そしてやって来たのは、マチルダの自室だった。その顔は先ほどよりさらに深刻さを感じさせるものとなっていて、オリヴァーは少々嫌な予感を覚える。

「町でプリマス男爵と接触したわ。噂通り王党派は、議会派を破って東進してきたコーンウォール公エドワードの軍団と合流したみたい。近々大きな戦いになるみたいね」
「そうか…。この辺りはまだまだ平穏を保っているが…。それもいつまでのことかわからないな」
 顎に手を添え、今後の治安悪化への対策を考えていると…、マチルダがとある書類を懐から取り出した。
「それは?」
「男爵から預かったの。あなたの出身はハンティンドンよね。どうやら、そこの焼き討ち事件に関係する書類みたいだけど…」
 そう言いながら、彼女はそれを目の前の男性に手渡した。さっそくそれを広げ、目を通す。淡々とした字体で記されている事項に、彼の顔はみるみるうちに歪んでいく。マチルダはそこになにが記されているのか、詳細までは伝えられていない。

 彼女の目の前で一心不乱に書類をかじりつくように読むオリヴァーの瞳は、今まで目にしたことのない強烈な憎しみの感情を宿していた。思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。

「なんということだ…。そうか、すべては…」
 この世の終わりだとでも言い出しそうな声音で、オリヴァーは呟いた。次に彼は、その足でずっと自室へとこもってしまう。

 それを三人の同居人は、ただ不安げな表情を浮かべて見守ることしかできずにいた。



 翌日。一晩経った後、朝食の席にオリヴァーが現れた。昨夜の深刻な顔ではなく、いつもの彼の顔に戻っている。しかしルサリィだけは、その表情に暗い影が落ちているのを見逃さない。彼女はずっと彼と一緒にいたのだから。
「いや、すまない。昨日は思わず取り乱してしまって…。もう大丈夫だ。なにも心配はいらないよ」
 気遣わしげな面々の感情を察したのか、オリヴァーは慌てた様子で手を振る。その仕草を見て安心したらしく、緊張していたのか吊りあがっていたティファニアの耳が、だらんと垂れ下がった。
 その日も、今までと変わらない一日がやってくる。

 だが、オリヴァーの心情はそれまでとは大きく変わっていた。家族の復讐。今までかたくなに心の奥底に沈めていた想いが、理性という呪縛を突き破って水面に顔を出す。それは決して止めようのない感情。

 やがて。彼はマチルダに自分の考えを伝え、それに協力を申し込んだ。初めは渋っていたマチルダだったが、やがて彼に説き伏せられ、最後は協力することになるのである。 

 本来ならば戦争に関わることのない運命を辿るはずの男が、このとき動いた。それは、アルビオン王家の運命すら大きく変えてしまうことになるのであった。



 *



 書類を受け取った一件以後、オリヴァーとマチルダはウエストウッド村を空けることが多くなった。マチルダのつてで各地の没落貴族たちと接触を図っているようだった。

 そして、三ヶ月ほどが過ぎた頃だろうか。久しぶりに四人で夕食をとっていると、突然オリヴァーが話を切り出した。

「みんな。食事中にすまない。だが、聞いてほしいことがある」
 彼はきわめて冷静な口調でそう告げる。そしてルサリィは、「ついにこのときがやって来てしまった」と覚悟を決め、身構えた。

「この数ヶ月、僕はマチルダと共に、各地に潜伏していたモード大公派の貴族と接触を図っていた。そして、ついに彼らが貴族派に参加することになったんだ。サセックス伯爵指揮下の部隊で、僕とマチルダも参加する」
 その言葉を耳にしたティファニアは、思わず目を見開いて口を手で覆い隠した。彼女は、オリヴァーがなんらかの動きを起こしていることには勘いていたが、それが果たしてどういった動きなのかについては、まったくあずかり知らぬところだったのだ。
「わたしもいろいろと考えたのだけど…。やっぱり、父と母の仇は取りたいと思うの。だから…」
 マチルダが言いにくそうにそう告げると、ティファニアは表情を暗くした。
「…でも。戦争なんて…」
「テファ。これは決して褒められたことじゃないかもしれない。でも、今の王は…、わたしたちの家族を奪っただけじゃないわ。罪のない多くの人々の命を奪う、そんな命令を出した張本人なの。それはいけないことだわ。捕まえて、その罪をちゃんと償わせないとならないのよ」
「…確かに、そうかもしれないけど…」
 なおも渋るティファニアを、マチルダはゆっくりと説き伏せていく。彼女の説得はマチルダに任せ、オリヴァーはそっとルサリィを連れ出すことにした。


 星空の広がる夜空。地上から遥かに上空、三千メイルの地点を浮遊しているせいなのか。アルビオンの夜空はハルケギニアのそれより、もっと澄んでいて星がよく見えた。もっとも、ハルケギニアならばどこであっても現代の煤けた東京の空よりも澄んでいるだろう。

「星がきれいね。なんだか、こんなちっぽけな島でくだらない争いごとをしているのがばかみたい」
 空を見上げながら…、銀髪の少女は呟いた。頬を撫でる風が、ぱらぱらと銀糸を彼女の顔に這わせてゆく。悠然とした茂りを見せる森の中でのその立ち姿は、どこか妖精を思わせた。銀色の髪をきらきらと輝かせ、風をまとう妖精…。

「ルサリィ」
 オリヴァーは、上を向いたままのルサリィの名を呼ぶ。
「いいの。いいのよ。わたしは、あなたが好きなことを好きなようにしてほしいと思っているわ。ずっとあなたを振り回してきたんですもの。このくらいは…」
 そう言って、彼女はオリヴァーに背を向けた。
「…申し訳ない。だが、真実を知ってしまった今。もう僕は立ち止まるわけにはいかないんだ」
 彼の言葉に、少女が顔を振り向かせる。
「オリヴァー…。あなたが立つ理由…。それって、わたしに関係のあることなの?」
 唐突な少女の言葉。オリヴァーは一瞬だけ固まってしまったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「そうじゃない。それはないんだ。だから、きみが気に病むことなんて、なに一つない」

 否。オリヴァーが知る限り、実のところ彼の故郷が焼かれた最大の原因は目の前の少女である。だが…、彼女がなにかの罪を犯したわけではない。すべては殺戮を命じた王、アルビオンに君臨するジェームズ一世が元凶なのだ。

「…そう」
 どこか悲しげな瞳で、彼女はオリヴァーの方へ体を寄せた。爽やかなハーブの香りがそっと彼の鼻を撫でる。
「…すまない」
「ううん。いいの、いいのよ。テファのことはわたしに任せて…。大丈夫よ。あなたたちが迎えに来るまで、ちゃんとここで待っているから…」

 そう言って、二人は自然と抱き合った。お互いが涙している。二つの月が、ただ彼らの姿を明るく照らしていた。







 ●幕間三「アルビオン内戦」







 オリヴァーやマチルダ、没落貴族は大挙してアルビオン議会派へ参加していた。このときには、ルサリィやティファニアとの一時の別れから、既に半年以上が過ぎている。

 長らく停滞している戦線を動かすため、議会派は各地の王党派に対して大規模な攻勢に出ていた。しかし、それは思うように上手くいかず、敗戦することも多かった。
 いくつもの戦場をマチルダと共に駆けたクロムウェルは、議会派の軍勢に致命的な欠陥があるということに気がついている。新教徒とそうでないものの対立だ。教義を違える者との共闘を嫌う新教徒は、上官が旧教徒である場合には命令に背くことも少なくない。
 そのため、彼はマチルダ経由で上層部にその主旨を提言。新教徒の暴走に頭を痛めていたサセックス伯爵は、さっそくその案を取り入れた。もっとも、やけにあっさりと受け入れたのは、元サウスゴータ家の子女であるマチルダに伯がお熱を上げているためらしかった。
 やがて、議会派は新教徒でない兵士の増員を始める。

 年明けには、議会派は二つの派閥に分かれるようになった。サセックス伯爵を中心とする貴族派と、ノリッジ伯爵を中心とする進歩派だ。クロムウェルは貴族派でサセックス伯に近しい配下となった。そして、主にモード大公派の貴族や下級貴族、平民を中心とした部隊を結成。各地の戦場で次々と戦果を上げていった。

 それから二ヵ月後、議会派が真っ二つに分裂するという事件が起きた。進歩派と貴族派に分裂したことによって、今度は反乱勢側で内乱が起きたのだ。
 
 貴族派が進歩派の鎮圧に当たるのを王党派は見逃さなかった。王党派の本拠地であるオックスフォードから出発した、カンバーランド公ルパードが指揮する軍勢がロンディニウムに向かって進撃を開始したのである。その数は約ニ万。さらに、別ルートからコーンウォール公エドワードの軍勢も同規模で進軍を開始。
 カンバーランド公を迎え撃つクロムウェル指揮下の部隊は五千。それが彼の指揮権の元にある全ての兵だった。もっとも、オリヴァーは負ける気はなかったようだが。

 王党派軍勢の侵攻ルート上の町、スロー。幾本もの川が流れる境目にあるこの場所で、クロムウェル軍は敵軍を迎えうつこととなった。

「オリヴァー。本当に勝てるのかい」
 クロムウェルが地図を眺めていると、そこへマチルダがやってきた。オリヴァーと最精鋭部隊がこの陣地を抜けるため、彼女が残った部隊の指揮をとることになったのだ。

「大丈夫だ。心配はいらない。今回は心強い味方がいるからね」
 今回オリヴァーがとる作戦はかなり変則的なものとなった。そうしたのは、両者の数があまりにも違いすぎて、馬鹿正直に正面からぶつかったのでは到底勝てないという判断からだった。
「僕はそろそろ出発するよ。ここは頼んだ」
「ええ、任せて。大船に乗ったつもりでいなさい」
 冗談めかした口調でマチルダがそう言うと、オリヴァーはぐっと親指を立てる。そして手勢を引き連れ、自らの陣地へと向かって行った。


 やがて、カンバーランド公ルパートの部隊がその姿を現した。圧倒的大軍勢である。だが、それ故か敵方は慢心があるようだった。ずいぶんと進軍が遅い。
 それもそうだろう。ルパートが放った密偵の調査によれば、クロムウェルという男が指揮する議会派の軍勢はせいぜいが三千人弱なのである。二万もの大軍ならば、どうやっても負けはしない。ましてここは見渡す限りの肥沃な平地。奇襲など仕掛けようがないのだ。
 平民ごときの軍が私に勝てるものか。誤報を信じきったルパートは、自らが搭乗する白馬の上で不敵な笑みを浮かべる。だが。

 彼らの軍勢がマチルダの部隊の手前一リーグの地点まで迫ったとき、それは起きた。

「な、なんだこれは!」
 前衛の騎馬兵の一人が大声を上げたのである。見れば、辺り一帯がまともに立てぬほどの泥沼状態となってしまっているではないか。
 ルパートは慌てて自分の周囲を見回した。幸いにも、まだ彼の周囲はなんらおかしくはなっていない。
「くそ、姑息な真似を!」
 大方、これは敵方の土メイジの仕業だろう。だが、ルパートの軍勢はかなりの広範囲に散らばっている。これほどの規模をカバー出来るほどの数の土メイジ…、それが平民の下などについているというのか。

「か、閣下! 前衛部隊に甚大な被害が出ております! 救助作業を…」
「なに?」
 慌てた様子で、ルパートの家臣が被害状況を彼に上申してきた。しかし、被害に遭っているのは平民ばかりだ。少数の前衛貴族は皆『フライ』などで脱出を果たしている。
 残された兵たちは、まるで底無し沼に落ちたかのようにずぶずぶと体が地面の中に沈んでいく。悲鳴を上げ助けを求めるが、被害に遭っていない者は誰もがそれをただ眺めるだけだった。
「ええい、捨て置け。所詮は平民の傭兵だ。我軍には一寸の損害ですらない。それに、救助などしていて隙を作れば、敵に突撃の機会をくれてやるだけだ」
「で、ですが…! それに、迂回などすれば川を渡るしかなくなります!」
 彼らがとっていたルートは、スローの町へ川を渡らずに攻められる唯一の道だった。だからこそ敵はここに罠を張ったのだろう。
 なおも食い下がる家臣を冷たい瞳で見下ろしつつ、カンバーランド公は言い放った。
「敵の罠が張られていると思わしき地帯は迂回し、側面から敵陣地を討つぞ。全軍に命じよ」
「っ…。は、はい…」

 それから瞬く間に、被害を受けていない部隊は転進。実に千名にも及ぶ数の味方を見捨てるという信じられない事態を起こして。王党派兵力の大部分を占める傭兵たちが、この光景を目の当たりにして士気が駄々下がりになっていることなど、馬上の温室育ちの貴族は知るよしもなかった。

 やがて。なんの妨害もなく細い小川を越え、彼らは川を挟んで敵軍陣地の側面三百メイルまで到達。運んできた火砲による攻撃を加え始めた。それに対して散発的な反撃が来るが、それは最前列の平民数名を絶命させるだけに留まった。敵方にはあまりやる気がないらしい。

「よし、全軍に突撃を命じる」
 カンバーランド公は、そこで指示を下した。
「卿! 未だ敵戦力の全容がわかっておりませんし、火砲の無力化もまだです。今川を渡らせるは避けるべきでしょう。もっと慎重に…」
「なにを言う。これ以上の余計な時間はかけられぬのだ! ぐずぐずしていると、ロンディニウムへの一番槍をあのエドワードのやつに奪われてしまうではないか!」

 この時、王党派は南北から総勢四万の軍勢でロンディニウムを目指していた。北から進むカンバーランド公としては、南から進むコーンウォール公に絶対に負けたくないという思いがあったのである。

 功を焦る彼の軍団はしゃにむに突撃を繰り返す。だがこの時になって、三千名に満たないマチルダ指揮下の議会派軍勢は、川の反対側から次々と砲撃を浴びせ始めた。急な水の流れに足を捕られ、王党派の兵士たちは思うように進軍が出来ない。被害はどんどん増していく。
 それを見てしまえば、ルパードもさすがに焦った。自らの軍勢を下げようとして後ろを振り向く。そして我が目を疑った。なんと、彼が先ほど渡った小川は小川でなくなり、平地だった場所が中洲と化しているのだ。どうやったのか、川の水はみるみるうちに増水し続けているのである。水位は次第に増し、兵たちから悲鳴が上がる。

 何人かのメイジが『フライ』で脱出を図るが、彼らは瞬く間に撃ち落とされ、川に転落していく。
 驚いて空を見上げたカンバーランド公の視界に映ったのは――おびただしい数の、羽根をまとった怪物―――翼人の群れだった。亜人を恐れる兵士たちから、次々と大きな悲鳴が上がる。
「あ、亜人だと! そんなものまで投入してくるのか!」

 ついに中洲が消滅し、馬の上で叫ぶ指揮官の前に、一人の男が現れた。黒鉄の甲冑に身を包む、オリヴァー・クロムウェルだ。

「カンバーランド公、ルパード卿。私はアルビオン革命軍のクロムウェルです。さっそくですが、貴殿には我が方に投降していただきたい」
 二体の翼人に支えられ、まるで守られるようにして現れた男は、ただ淡々と告げた。もっとも、そんな要求がカンバーランド公に呑めるはずもないが。
「降伏しろだと? は、ふざけるな! 私を誰と心得る! アルビオン王家から由緒正しきカンバーランド公を賜ったルパードだぞ! 貴様のような下賤な輩になど降伏するくらいならば、潔く死を選ぶ! それは私が指揮する全ての兵も同じだっ!」

 ルパードがそうわめくと、オリヴァーは残念そうな表情でかぶりを振った。

「さすがに自分の状況の判断くらいは出来ると思ったのですが…」
「ふははは! 貴様こそ自分の状況を自覚したらどうだ! こちらにはまだ一万以上の軍がある! 飛んで火に入るなんとやらだ!」
「ほう。では、あれはなんでしょう?」
「なに?」
 オリヴァーの言葉に、とうとうルパードは周囲を見回した。すると、半ば川の中に囚われた軍勢のあちこちから白旗が上がっているではないか。空を飛び交い、なんとか放った矢を叩き落としてしまう翼人たちにいよいよ恐れをなしたらしい。
 そして、川の両岸は杖を構えた多数のメイジや火砲によって包囲されている。もはや四面楚歌の惨状であった。
「な、こんなことが…」
「残念ですが、ルパード卿。これで終わりです」

 思わず杖を取り落としてしまったルパードの肩を、オリヴァーがゆっくりと叩いた。


 その日、アルビオン王党派は主力部隊の半数を喪失。南方から侵攻していたコーンウォール公の部隊も、王党派から議会派に寝返ったランカスター公と、進歩派を早期に鎮圧したサセックス伯の連合軍の前に撃退された。

 ―――夕暮れ時。

 自軍よりも数の多い捕虜を抱えることとなった、クロムウェル。王党派に属していた傭兵の一部は、既に議会派へ参加勢力を鞍替えしてしまった者も多かった。彼らは強者と弱者の臭いを敏感にかぎ分ける。弱者と見なされてしまった王党派に残る者など、もういようはずもない。

 事務処理を部下に任せたオリヴァーは、隅で佇む一人の翼人の元へ向かった。ちなみに他の者たちは、既に自分たちの里へと帰っている。

「アーサー殿。今回は協力していただき、感謝します」
「…いや。我々は自分たちの権利を得るために力を貸したまでだ。礼を言われる道理はない。それより、“契約”のことを忘れるな。貴様が我らの力を欲するならば助太刀は惜しまぬ。しかし、それとて全ては“契約”を履行させるだけのため」
 真っ白な大きい羽根を背中から伸ばした男性は、ただ淡々と言葉を紡いだ。
「はい。我らが勝利した暁には、翼人自治区の設置を必ず実現いたしましょう」
「うむ。頼むぞ。我々の願いを聞き入れるただ一人の人間、オリヴァーよ」

 それだけ言うと、翼人の長である彼は羽根を羽ばたかせて、赤く染まる空への何処へと飛び去っていった。
 その光景をただ後ろから見守っていたマチルダは、深いため息を吐く。なんだか呆れたような口調であった。
「まったく、翼人ねぇ。いや、心強いけどさ。どうやって味方に引き入れたんだい?」
「昔、か。ルサリィと旅をしていたとき、西部の森の奥深くへ迷いこんだことがあったんだ。そのときに知り合った。そのツテさ」
「へぇ。あの人間嫌いの連中と知り合い? それはまた奇妙な…」

 遠くで上がる勝どきもなんとやら。一体この男は今までどれだけの経験を積んだのだろうか…。マチルダは、自分に先だって歩く男の背中を見つめながら、そんなことを考えるのだった。



 *



 それから一年余りで、議会派は王党派勢力をアルビオンの北部に閉じ込めてしまった。王党派は、オックスフォードを含めた南部の主要都市を失っている。
 さらに、最大の戦力を保持していた王党派のヨーク公がマーストン・ムーアの戦いでクロムウェルに討ち取られ、戦死。爵位を継承した嫡男は議会派へ参加した。
 防衛のために、いにしえの古城を改装して急遽建造された大規模防衛拠点、ハドリアヌス線は議会派の激しい攻勢に曝されている。陥落も時間の問題であった。

 そして、アルビオン北部はシリコングレン地方の要塞都市、エディンバラ。王党派に残された最後の大都市である。

 都市の近郊に存在する港には、ウェールズ王太子が大将として指揮を執る、アルビオン王立空軍が駐屯している。
 艦隊の二割ほどが議会派へ離反したものの、旗艦である『ロイヤル・ソヴリン』号を初めとした主要艦艇は未だに王党派の手の内にある。壊滅寸前の王党派にとっては、この艦隊こそが王国再興への最後の希望なのだった。さらに竜騎士隊の大部分も王家側に残っている。

 クルデンホルフの技術供与で建造された新型戦艦『ドレッドノート』の館長に任ぜられたボーウッドは単身、港の埠頭で自らが搭乗することになる船を見上げていた。
 アルビオン王家と密接な関係にあるトリステイン王国は、今回の内戦への直接的な介入を見送った。無理もない。あの国には国内を満足に統治する力もないだろうから。―――いや、それは我が国に言えたことではないか。と、彼は皮肉をこめた笑みを浮かべ、首を振った。

 だが、直接的な介入こそ見送ったものの、トリステインは公然と王党派へ物資面での援助を行っていた。当然ながら、議会派がそれを快く思うはずもない。度重なる妨害を行っていたが、いかんせん数が少なく、さらには小型艦艇ばかりなので、トリステイン側の反撃によって返り討ちに遭うことも多かった。
 議会派は何度も正式な手続きを踏んでトリステインに対して抗議を繰り返しているが、それは完全に黙殺されてしまっていた。トリステイン王国からしてみれば、盟友であるアルビオン王家に楯突く賊共の話など、まともに聞く必要はないのだ。
 これに対抗すべく、議会派も正式な艦隊の創設に向けて動いていたが、いかんせん技術も乗員も不足しており、まともに空中艦隊を展開させられるまでには数年を要するだろう。つまりは、まだ空中兵力は王党派が優勢な状況であった。

 そして、もうすぐ秘密裏にクルデンホルフ大公がこのアルビオンの地を訪れるという。王の代理としてジェームズ一世に謁見するらしい。ボーウッドは『ドレッドノート』でクルデンホルフ側を出迎えるのである。
 まったく、わざわざ大公ともあろう者が自ら出向くとは。相当な物好きのようだ。彼はそんなことを考えた。

 やがて、彼を呼ぶ副長の声がする。ボーウッドはゆっくりと息を吐き、自らの乗艦のタラップへと向かうのである。



[17375] 第三十一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/08/02 06:06
 俺の名前はヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフ。いろいろな意味で将来を期待されるクルデンホルフ大公国の貴公子だ。
 ところで、久しぶりに一人称になったと思ったらいつの間にか中二病真っ盛りの十四歳になっていたんだが。時間が流れるのはあっという間だな。作為的なものを感じるぜ。


 俺は父のクルデンホルフ大公と一緒に、アルビオン北部の王党派支配地域へと船で向かっていた。
 いつの間にかアルビオンの王様は反乱軍に追い詰められたらしい。まったく、弱すぎて話にならないね。そうそう。原作と違って、もうニューカッスルは破壊されているらしい。城が築かれていた地面ごと爆破されて、海へ真っ逆さまに落下したんだとさ。悲惨だね。
 議会派とかいう連中(原作では貴族派だったはずだが)が途中で妨害しに来たけど、うちの『アルロン』って船の大砲の砲弾を一発浴びせたら直撃したらしく、一気に火を吹いて落下していったね。

 アルビオンの空岸線?が肉眼で見えるくらいになったとき、アルビオン空軍の『ドレッドノート』という船が迎えにやってきた。うちの技術がかなり使われているらしい。どこからそんな物を持ち出したのだろうか。謎だな。
 ちなみに、その船の艦長の渋いおっさんはボーウッドという名前だという。はて。どこかで聞いた名前だ。
 先導されて、俺たちを乗せた『アルロン』は、エディンバラという港町に到着した。ここは今現在王党派の拠点だという。ということは、あのジェームズとかいうじいさんや、イケメンゾンビことウェールズ王子もいるのだろうか。いや、まだゾンビにはなっていないか。

 船から下りると、エディンバラ公爵のおっさんとふわふわ金髪の可愛い子が俺たちを出迎えてくれた。女の子の名前はシャレイリアというらしい。なんか、某ラノベの日本へやってきたドルイドさんの名前がそんな感じだったな。アルビオンと言ってもケルトっぽい人たちなんだろうか。もっとも、俺が相当に気持ち悪いらしく、彼女の名前を訊いただけで吐きそうな顔をされたけど。
 そう。俺は未だにピザなのだ。一時期は頑張ったけど、もう二年くらいなんのイベントも起きなかったのだ。やる気も無くなるというものである。マリアンヌ王妃のパーティーがあった気もするけど、俺は呼ばれなかったし。
 それにね、新しいシェフの人が作る料理が美味しいのなんのって。それまでの二倍くらいは胃に収まっちゃうから不思議だよ。

 そうこうしているうちに、俺たちはエディンバラ公爵の居城へと案内された。
 この公爵家は、トリステインでいうラ・ヴァリエール家と同じような立ち位置にあるらしい。初代アルビオン王の三男坊が、ハイランド地方の先住民国家を征服して公爵領としたのがその始まりだと、アリスから教わった。
 今回は、俺の世話人としてアリスも同行している。同時に大公の世話人として、俺の苦手なサリアも一緒だ。アリスを数段酷くしたような性格で、ことさら俺に厳しく当たってくるから苦手なんだよな。まあ彼女の故郷がこの国だから、そういう配慮を父がしたのかも知れないけどね。

 父が王様たちと謁見している間、俺は暇になった。公爵が気を利かせてシャレイリアちゃんを応接間に残してくれたので、とりあえず話しかけてみる。まずは名前からか。さっき聞いたけど、一応。
「やあ。先ほど紹介に与ったけど、改めて。僕はヴェンツェル。君の名前は?」
「…シャレイリア・オブ・エディンバラ…」
 すると、彼女は小さな顔を苦痛に歪めて返事した。よほど俺といるのが嫌なんだろうか。

「坊ちゃま。シャレイリアさまが嫌がられていますよ。どこまで空気が読めないんですか?」
 そこで、アリスがきつい一言を言い放った。最近成長期なのかしらないけど、母親に似てきたな。胸部が。
 アリスの言葉を聞いたシャレイリアは、自分の言いたいことを言ってくれたとばかりに大きく、何度も頷いたではないか。
 表向きはトリステインが支援していることになっているが、資金の出所は九割九分うちだからな。その恩恵に与っているアルビオンの王党派貴族は、たとえ相手が俺であっても失礼な口は絶対にきいてはならないのだろう。
 しかし、どうして父はそんなにたくさんの金を出したんだろう。拠出が決まる直前にアンリエッタ王女と面会していたのは関係あるのだろうか。…いや、まさかね。はは…。

 などと考えているうちに、シャレイリアとアリスが仲良さげに話しているではないか。俺と面と向かっていたときには、どうしても考えられないようなほんわかとした可愛い笑みを浮かべている。あ、目があった。…うわ、汚物を見るような視線を…。
 もうなんだか居た堪れなくなって、俺はその場から逃げた。


 適当に城をうろついてみる。窓から王立空軍が停泊する軍港が見えた。かなりの規模の艦隊がいる。通常時は各地にばらばらに停泊している船がこの港に集められているせいか、かなり窮屈そうだった。それでも数は全体の半分に満たず、残りはダーダルネス港やアバディーン港に振り分けているという。さすがは空中王国といったところだろうか。
 その直後、変な子供がうろついていると衛兵に連行されかけたが、辛くも脱出。俺はさらに城を進んでいく。と、そのときだった。
 ちょうど窓が頭上にある部屋で、父がアルビオン王に謁見しているみたいだ。原作ではまったくといっていいほど出番のなかったじいさんだ。ちょっと声でも聞いておくか。

「…さ、サリア。どうしてお前がここに…!」
「ええ。忘れもしませんわ、父上。あなたが私たち親子を見捨てたあの日のことは…」
「だ、だが、仕方なかったのだ。いくらジェントリ出身とはいえ、平民との間に子を作ったと知った妻に半殺しの目に遭わされたのだ。お前たちを追放しなければトロル鬼と同居させるとも…」
「言い訳は聞きたくありません。わたしは…」
 …ん? いま物凄い発言が飛び出したような…。まあいいか。

 そこから離れ、俺は中庭の方へ向かった。そこではいい趣味の花々が花壇に植えられている。手入れもきちんと行き届いていて、管理の良さがわかる。

「くそっ、なんだこの趣味の悪い花は。引っこ抜いてやる」
 む、趣味が悪いとはなんだ。そんなことを言うやつの顔が見てみたい。というわけで、俺は草葉の陰からこっそりと声のする方向を窺った。
 …どうしてだろう。やけに見覚えのある顔だ。具体的には、アルビオンの王子みたいな顔。まあ、大方そっくりさんかな。偉い人は常に暗殺から身を守るために影武者を用意するっていうし。あのイラクのサダム・フセインなんて、公式映像でもしょっちゅう影武者が映っていたらしい。
 せっかくの花壇をめちゃくちゃにするイケメンは見なかったことにして、俺は再び放浪を始めた。すると、後方から何かが人間の体を貫く音と、女性の叫び声。さらには若い男の悲鳴が上がった。まあ、関わってもろくなことにならないだろう。無視だ無視。


 そして気が付いたら、いつの間にか応接間の前に戻っていた。部屋の中からはなんの音も聞こえない。どうしたのだろうか。
 こっそりと部屋を覗いてみる。そこではソファーの上で、二人の少女が肩を寄せ合って寝息をたてていた。ふむ、これはいい。眼福眼福。目に美少女分を与えるのは視力回復の大いなるコツなのだ。俺はそのおかげで視力三.〇を誇っている。ただし、自己申告なので根拠などあるはずが無い。
 どうせやることもない。ならば風呂にでも入ろう。
 そこら辺を歩いていたメイドさん(本場らしく、シックなビクトリアンメイドだ。正統派という言葉が似合う)に頼んで、風呂を借りることにした。

 やがて俺は大浴場に到達した。当然ながら、メイドさんは誰も来てはくれない。仕方なく自分で体を洗う。クロエも連れて来れたらなあ。彼女なら喜んで洗ってくれるんだが…。
 そんなことを考えていると、わりと早く体を洗い終えた。よし。さっそく薔薇が浮かぶ大きな浴槽に入ろうではないか。
 そう思って、俺は足を一歩踏み出した。杖を持っているのは、なんとなく湯船の上を『フライ』で翔けたいからだ。

 と、そのときである。目の前に何かが現れた気がした。


「―――ん? なんだ今のは。気のせいか」
 たまにあるんだよな。体がどっかにすっ飛んでいくような感覚ってのが。
 そうして辺りに視線を向けると―――なぜか、そこは森だった。よく見ると、目の前に絹のような質感の金髪の、胸がとてつもなく大きな、とてつもなく可愛い女の子がいる。耳が長いのは…、エルフ? にしてもなんで風呂場に。いや、ここは森だったか。…うん? どうして俺は森なんかにいるんだ。
「…きゃ…」
「きゃ?」
 しばし呆然としたあと、なぜか彼女はぷるぷると体を震わせ、恐ろしい物でも見てしまったかのように顔ややけに長い耳を真っ赤に染めている。どうしたのだろうか。熱でもあるのかな。
 こんなに可愛い子が体調を悪そうにしている。それを放っておく俺じゃないさ。さっそく、彼女に話しかけてみる。
「やあ、お嬢さん。どこかで会ったことはありませんか? 僕はすごい親近感を…」
 だが、彼女は俺の言葉を最後まで聞くことがなかった。近くにあった丸太を持ち上げて―――

「きゃあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 という叫びのあと、一気に振り下ろした。俺の頭を太い幹が破壊せんとする音だけが、記憶に鮮明に焼き付けられ…。俺の意識はどこかへと吹き飛ぶのであった。






 ●第三十一話「レヴォリューション」







 おじさまやマチルダ姉さんがこのウエストウッド村を出て、早二年が経ちました。
 二人とは手紙でやり取りをするだけだけど…、家族のルサリィがいつもついていてくれるので、寂しくはありません。

 …ごめんなさい。嘘をついちゃました。本当はちょっとだけ寂しいです。
 おじさまはもちろん、ずっと実の姉妹のように育ってきたマチルダ姉さんと離れ離れになるのは辛いです。…でもこんなこと言っちゃうと、ルサリィに悪いですよね。

 彼女はいろいろなお話を聞かせてくれます。昔は、おじさまとハルケギニア中を旅して回っていたそうです。剣でオーク鬼をやっつけたり、崖から落ちそうになったルサリィを腕の力だけで持ち上げて助けたこともあったそうです。
 最近は、『昔のオリヴァーはベッドの上でもそれはもうすごかったの。今もすごいけど…』『ご無沙汰で寂しいわ』ということをよく呟いていますが、わたしにはそれがなんなのか、未だによくわかりません。勉強不足でしょうか? もっと頑張らないといけませんね。


 そんなある日のことです。やっぱり、どうしても二人だけの生活はいまいち活気がありません。近くの孤児院から子供を引き取ることも考えたのですが…、そのことを手紙に書いたところ、マチルダ姉さんが駄目だと返事を寄越したので、断念しました。
 ここの場所が誰かに露見するようなことをしては絶対にいけないそうです。約束は絶対です。守らないといけませんね。ぐすん。
 そのことをルサリィに話してみたら、「あなたメイジでしょ? だったら、使い魔を呼んでみなさいな。使い魔は動物だから、ここを言いふらしたりしないわよ」とアドバイスしてくれました。
 すごく良いことを聞きました! これならマチルダ姉さんとの約束を破らずに済みますし、ペット(?)もいれば、今よりもっとにぎやかになるはずです。
 さっそく、わたしはおじさまの書斎から本を持ち出してみました。『人には訊けない、魔法使いの基礎』というタイトルです。著者はオールド・オスマンという立派な方だそうです。奥付にそういう風な記載がされてました。きっと、すごいメイジなんだろうなあ。一度でいいからお会いしてみたいです。

 この本によると、呼び出される使い魔はそのメイジが得意とする属性に沿ったものが圧倒的に多いということです。…でも、わたしの魔法ってどの属性なのでしょうか?
 今のところわたしが満足に扱えるのは、狙った人の記憶を消してしまうという魔法だけです。でも、これは怖い魔法なのです。わたしはかつて、自分の身を守るためにとはいえ…、一人の男性の人生を壊したことがありました。もう、そんなことはしたくありません。
 …話が逸れてしまいましたね。ここでいう属性とは、火、水、風、土の四系統を指します。だけど、あの魔法はどれというわけでもなさそうです。精神に影響を与えるのは『水』らしいのですが…。わたしは水魔法を一切使えませんでした。

 でも、とりあえず使い魔を呼び出してみればわかりますよね。自分の系統を知るのは、それからでも遅くはないでしょう。
 さっそくわたしは中庭に出て、本に記載された『サモン・サーヴァント』の呪文を詠唱してみます。呼び出される動物の大きさは千差万別です。手のひらに乗ってしまうねずみから、森の木よりも大きなドラゴンまで、どんなサイズの生き物が召喚されるかわかりません。家を壊してしまうと大変ですからね。たぶん…、杞憂だと思うのですが。

「我が名はティファニア・オブ・モード。五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし使い魔を召喚せよ」

 呪文を唱え終わると、目の前にゲートが現れました! わあ、すごいです。わたしでも成功させられたんですね!
 一体、どんな子が来るのでしょうか。でも…、たとえどんな子が来ても、絶対にお友達になってみせます。はぅ…。まだかなあ…。すごく楽しみです。




 *




 ―――といういきさつを聞いた。俺はとにかく驚いた。なんだか、物凄く土下座して謝りたいという衝動に駆られた。
  
 目の前の超絶美少女の名はティファニア。『ゼロの使い魔』に登場する、四人目の虚無の担い手だ。ハーフエルフだというが、どう見ても純正エルフにしか見えない。そして、どうやら俺は彼女の使い魔として召喚されたらしい。
 …なんというご都合主義。なんという役得。神とやらがいるのならば、毎日感謝を捧げなくては。
 なによりも驚いたのは、あのクロムウェルが彼女を救出し、なおかつ数年前まで一緒に住んでいた、という点だ。どういうことだ。別人なのだろうか。だが、オリヴァー・クロムウェル。最近、アルビオンの議会派で頭角を現しつつある男と、彼女のいうオリヴァーは同一人物であるらしい。
 …シェフィールドが存在せず、ガリアがアルビオンの内戦に一切関わっていないこと、史実よりも王党派の勢力が持ちこたえていること。そして、クロムウェル…。
 一体、どうなっているんだ…?


「あ、起きたんだ。ずっと寝てたね。なにか食べられる?」
 と、そこへ現れたのは、白銀の髪の美少女だった。この子も可愛い。ただ、彼女はクロムウェルの自称『妻』らしい。なんてこったい。
「ああ。カツサンドを頼む」
「…? よくわからないから、フィッシュ&チップスでいいよね?」
 げ、それって偉大なブリテン島名物のジャンクフードじゃないか。というより、なんでそんなものが海のないこの国にあるんだよ…。いや、川にいるんだろうけどさ。

「あの…、本当にごめんなさい。勝手に呼び出してしまって」
 俺が難しい顔をしていると、すまなさそうな顔でティファニアが頭を下げてきた。そんなことされても困るんだけどな。
「いや、いいよ。どうせもともとアルビオンに来ていたところだったんだから。父も最低一週間はこっちにいるし、それまでに帰れば…」
「でも…」
 なおも彼女がなにか言おうとしたとき、銀髪の少女が皿に乗った料理…を運んできた。ごくり。これが本場の…。いや、美少女が作ったのだ。きっと美味しいはず。そう思い込むようにしながら、俺は“フィッシュ”を口の中に入れた。
 咀嚼。すると、どんどんと油があふれ出す。待て、これはちょっと油が多すぎるだろ。さらに身はぱさぱさで生臭く、食感もぐにゃぐにゃとしていて不快な感触が襲ってくる。…うおう。これほど不味いものは久しぶりに食べた…。うげぇ。
 戻しそうになるのを堪え、俺はなんとか完食。胃がぎゅるぎゅるとうごめき、拒絶反応を起こしているのがわかった。
「わあ。オリヴァーだと作っても食べてくれないんだよね。でも、普通のアルビオン人はこれを食べないと怒り出すらしいから」
 嬉しそうな顔で、美少女―――ルサリィは空になった皿を抱え、部屋を後にした。怒るって…。それはデマだろう。明らかに。

「…よく食べきりましたね。あれ、わたしとルサリィとマチルダ姉さんとおじさまは食べられないんです」
 なんだそりゃ。全員じゃないか。つまりあの子は、自分が食べられない物を俺に出したのか…。物悲しくなった。俺をアルビオン人かなにかだと思ったのだろうか。舌の肥えた今の状態であれは本当に地獄だ。アルビオンの連中はどうしてあんな不味いものを食ってるのだろう。本当に信じられん。

 服がないので、俺は適当な布を腰に巻いておく。はみ出した腹の肉がやばいことになってやがるな。
 うん、そういえば。俺は『サモン・サーヴァント』で呼び出されたそうだが―――契約はしたのだろうか? いきなりぶっ叩かれて気絶しちまったから、その後のことがわからないんだよな。
 そのことを尋ねてみると「契約はしていない」とのことだった。方法もわからないらしい。彼女は『人には訊けない、魔法使いの基礎』という本を開いて、ぱらぱらとページをめくっていく。該当の部分を見つけたのか、一生懸命読んでいたが…、どうやら契約の方法を見つけたようだ。顔が真っ赤になってしまった。うむ、かわいいな。

「無理には契約しなくてもいいんじゃないかな。ほら、君も予想外だったみたいだし…」
 俺がそう言うと、ティファニアは露骨に安心したらしい。ちょっと傷つくけど、まあ俺の容姿では仕方がない。
 それに、だ。わけのわからない第四の使い魔なんぞになってしまったら、どうなるかわからないからね。今のところ、確定している使い魔はロマリアのジュリオだけだろう。才人はまだだし、シェフィールドも召喚されていない。
 …いや、もしかしたら俺が『ガンダールヴ』か『ミョズニトニルン』になる可能性もあるんだろうけど、下手な博打は打てないしな。

「…でも、この先どうすればいいのかしら。あなたは、あのクルデンホルフのご子息なのでしょう? だとすればハルケギニアに帰らないといけないし…」
 そう。それが非常に問題なのだ。こんなおいし…げふんげふん。完全に予測外な出来事に巻き込まれてしまったのだ。よく考えて行動しないと…。

 腕を組みながらうなっていると、またルサリィが部屋に入ってきた。どうしてか、彼女は首をかしげている。
「うぅん。妙ね。あなたは人間じゃない。どうして召喚…、あ…。もしかして、オーク鬼の亜種だったり? たまに突然変異で韻獣が出てくるわよね」
 酷い言われようだ。すると、唐突に彼女が俺の左目を覗き込んできた。お、いい香りだなあ…。
「…。それ、火のルビーよね。どうしてあなたが持っているの?」
「っ!」
 突然放たれた一言。俺は反射的に思い切り仰け反り、ベッドの後ろにある壁に頭を思い切りぶつけてしまった。がこん、という音と共に、後頭部を激痛が襲う。
 …まさか。この子も、ヘスティアやデメテルの同類なのか? いや、だが。デメテルのときのような直感がなかった。ルサリィは、ごくごく普通の女の子にしか…。
「いや、それは僕にもわからない。というより、母もよくわからないらしくてね」 
 そうなのだ。ちょっと前に、俺の目について質問してみたのだが、母もこの目のことについてはなにもわからないらしい。ただ、やけに冷や汗をかいているのは気になったが。

「…そう。まあ、いいわ。それよりもお風呂に入ったらどう? あなた、臭うわよ」
 嫌そうな顔で言われてしまった。…くっ、さっき入ったばかりなのに…。ってあれ、今はいつだ? 一体、何時なんだ。
「ちょ、ちょっと。今日の日付って? 確かフェオの月だったよね」
「え、ええ。そうです。ニューイの月はティワズの週、オセルの曜日です」
 慌てる俺に、ティファニアが戸惑いながらも教えてくれた。
 …くそっ、なんてこった。丸々一週間も寝ていたのか。俺がアルビオンに来たのは、先週の六日目、ダエグの曜日なのだ。…もしかして、今ごろエディンバラやクルデンホルフは大騒ぎになっているのだろうか。
 参ったな。もし来れるならとっくにヘスティアが来てるだろうし…。それがないってことは、もう行方不明になったジュゼッペの火石は底を尽きたのだろう。彼女、最近は宝探しだって言ってあちこちに出かけてたからね。タルブで面白いものを見つけたって言ってたけど、ゼロ戦なんてどうでもいいから俺は知らんぷりした。

「て、ティファニア! 地図をくれ! 早く戻らないと」
 かなり焦っていた俺は、気づかぬうちにティファニアの肩を掴んでいたらしい。びっくりするほどの華奢な体に不釣合いなデカブツ…。不意に視線を下に落とし、とんでもない谷間に気がついた俺はもうなんだか…。若いのだから仕方ない。仕方ないのだ。
「え、で、でも。硬!? ひゃうっ!?」
 あ、むにゅんって感触が…。もう俺、死んでもいいかも。

「テファ! 調子はどうだい? たまたま近くに寄ったから、久しぶりに帰ってきちゃ―――」
 そのときだ。いきなりドアが開かれて、緑髪の女性が姿を現した。お、また美人か…。熱くなるな。
 彼女は、おそらくマチルダ・オブ・サウスゴータだろう。優しげなお姉さんフェイスが…! 眉がびっくりするほどに、まるで猛禽類のように吊りあがった。
「…ルサリィ。どういうことだい、これは…」
「見ての通りよ」
 やれやれと、呆れたような口調でルサリィは呟いた。…っておい。なんだと。君は全部見ていたんだろう!? どうしてそんな、見捨てないでくれよ!

「こ、か、くけ…。よくもわたしの可愛い妹を辱めてくれたね…! 絶対に許さないよ…。覚悟は出来てるかい、このガキが…!」
 なんだこれは。圧力が尋常じゃない…! トライアングル? 馬鹿言っちゃいけない。どう見てもスクウェアクラスの精神力の奔流だよ、これは!

 あ、なんか床から手がたくさん出てきた。足が! 足が! うおっ、鉄で顔が塞がれて…、息が、でき、ない…。



[17375] 第三十二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/09/17 15:01
 クルデンホルフの少年、ヴェンツェルがアルビオン王弟の忘れ形見である少女ティファニアに『サモン・サーヴァント』によって召喚されたのが今から八日ほど前の事である。

 彼は、偶然ウエストウッド村へ帰ってきたマチルダ・オブ・サウスゴータによって捕縛され、現在は彼女の私室へ閉じ込められていた。
 アルビオン議会派に所属するマチルダにしてみれば、王党派に支援を行うクルデンホルフの人間は間接的にとはいえ敵であり、そこら辺に放っておくわけにはいかないのだ。
 もっとも、ヴェンツェルがクルデンホルフの人間だと知ったのは監禁後だったけども。


「テファ。どうするんだい、あれは。なんならその辺に捨てるかサセックス伯辺りに引き渡すけど」

 朝食を取り終わったマチルダは食器洗いなどの片付けを手伝いながら、自らの妹のような存在へ問いかけた。

「だ、だめよ、そんなの。わたしが勝手に喚んじゃったんだから……」

 すると、金糸のように滑らかな細い頭髪をぶんぶんと振り回しつつ、ティファニアはそれを拒絶する。

「……っていってもねぇ。わたしは許せないんだよ。あ、あんな下品なモノを、てててテファに……」

 かたかたと全身を震わせながら、マチルダは絞り出すかのように呟いた。そして、その言葉に昨日の出来事を思い出したティファニアは、どうしてか顔が熱くなるのを感じた。

「マチルダ姉さん。彼の体から出てたアレって、一体なんなの? なんか……、すごく熱くって、妙にドキドキしたの……」
「テファ。あれは悪魔なんだよ。女の子に悪さをする怪物なのさ」
「え? そうなの? でも、彼は普通の人間……」

 不思議そうな表情を顔に浮かべながら、ティファニアは首を傾げた。
 そんな仕草はあまりにも愛らしく、思わずマチルダは彼女に飛びつきそうになったが……、そこで、あの少年に対する怒りが湧いてきた。
 許せない。こんないたいけな少女にあんなモノを……。昨日はティファニアに制止されたから生かしてやったが、本来ならその場で……。
 いや。信じがたいことではあるが、もし本当にあの少年がクルデンホルフの嫡子だというのなら。
 少し、ちゃんと話してみようか。ティファニアにその趣旨を伝えると、マチルダは自室へと向かって行った。


「……だから、あれは生理現象なんだよ。仕方ないじゃないか」
「そうなの? オリヴァーはそんなことなかったけど」
「クロムウェルったらもうおっさんなんだろ? そりゃそうなるさ」
「そんなことないもん。本気でされるとぶっ飛びそうになるもん」
「へぇ」

 マチルダが部屋の扉を開けたとき、そこではヴェンツェルとルサリィが猥談を繰り広げているところだった。まったく、なにやってんだこの子は。と、頭が痛くなる光景であった。

「なにいかがわしい話を楽しげにやってるんだい、あんたたちは」
「あ、マッチー」
「……マ、って……。いや、とりあえずそれはいいよ。そこの坊主と話をするから、あんたはあっちに行ってなさい」
「え。せっかく久しぶりに他の土地の人とお話が出来るチャンスなのに」
「え、じゃないよ。早くあっちへお行き」

 完璧に子供扱いをして追い払うような仕草をするマチルダに、ルサリィは頬を膨らませながら退出していった。
 あとに残されたのは、もうすっかりげんなりとした様子のマチルダと、いつの間にか体を縛りつけていた縄から脱出を果たしていたヴェンツェルの二人だった。

「……って、あんた! いつの間に縄を!」
「いや、彼女がほどいてくれたんだけど。苦しそうだからって」

 慌てた様子で詰め寄るマチルダに対して、少年はごくごく淡々と返事をする。その手には、なぜか彼の杖があった。

「それより、いい加減帰らせてくれないかな。もう一週間はここにいるんだ。そろそろ連絡の一つもとりたいし」

 さもうんざりした様子で、少年は言い放った。

「ふざけるな! あんた、自分の立場がわかってるのかい?」
「隠れ里のハーフエルフに使い魔として呼び出された。家族の元に帰りたいけど帰らせてもらえないかわいそうな子」
「……自分でそういうこと言うかね。ていうか…はぁ…」

 ひどく呆れた様子で、マチルダは呟いた。そのとき、彼女はヴェンツェルを脅威とは全く見なしていなかった。その為に、一瞬の隙が生まれたのである。

 わずかな時間でヴェンツェルは素早く『レビテーション』を詠唱。油断していたマチルダの杖を吹き飛ばした。

「なっ、あ、あんた!」
「はっ! 油断は死を招くとティアンム提督もおっしゃられていたぞ!」
「誰だいそれは!」

 ハルケギニアの人間が宇宙世紀の地球連邦軍の軍人の名など知るはずもない。
 杖のないメイジはただの人である。まして彼女は女性、重量級のヴェンツェルが飛びかかって間接を押さえ込んでしまえば、そう簡単には脱出は出来なくなる。
 少年は先ほどまで自らを縛っていた縄で、一気にマチルダを縛り上げた。当然ながら亀甲縛りで。

「……くっ、そのティアンムってやつの言うことはもっともだね……。完全に油断した。わたしの負けだよ」

 ごろん、と縄で縛られたマチルダは床に転がった。悔しそうな表情である。

「ふぅ。これで脱出できるな……」

 汗をぬぐいながら、ヴェンツェルは部屋を出ようとした。

 まずい。今あの子供を野放しにしたら……。
 そう思ったマチルダは、その背中に向かって声を張り上げた。

「ま、待ちな! この後どうするつもりさ!」
「うん? そりゃあ、ティファニアに……」
「ちょ、ま、待て!」

 彼は地図でも貰ってエディンバラ公領に帰る、と言おうとしたのだが、それは必死の形相を浮かべたマチルダに遮られる。

「……なんだよ」
「あんた、テファになにするつもりだい」
「? 貰うつもりだけど」
「―――んなっ!?」
 もらう? まさか。まさかこいつは、ティファニアの純潔を奪う気なのか。
 本当は全然まったくそんな思考などヴェンツェルには欠片もなかったが、先ほどの猥談が頭に残っていたマチルダは壮絶な勘違いをしていた。完全に頭が茹であがっていたのである。
 ティファニアは純真無垢な子だ。意図せずとはいえ、目の前の少年を召喚してしまったという負い目もあるだろう。いいように言いくるめられ、凌辱の限りを尽くされてしまう可能性がある。
 ではどうするか。ティファニアは自分の妹も同然の人物である。ならば、彼女を守るのが“姉”である自分の使命……、一か八か。やってみるしかない。

「……テファには手を出さないで。わたしなら、いくら好きにしてもいいから……」
「は?」



 この発言の瞬間、永遠とも思える静寂が辺りを支配する。



「ん?」

 最大限の羞じらいをもってして、まるで生娘のような仕草でマチルダは渾身の一撃を繰り出したのだったが……。しかし、それは実に無遠慮な一言によって霧散するだけである。
 一方の少年、ヴェンツェルはマチルダの心中に気がついたらしい。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、床に転がったままの緑髪の女性に話しかける。

「なるほど、あなたは僕がティファニアにいやらしいことをすると思ったわけだ。……ただ地図を貰おうとしただけですよ。そんな意図はない」
「なっ……!」

 ぼっ、とマチルダは耳まで赤くなった。ともすれば湯気が吹き上がりそうな勢いである。

「案外いやらしいんですねぇ。相当遊んでるとか? まあ、好きにしていいというなら……」

 言うなり、ヴェンツェルは眼下の女性の顎を持ち上げる。そして片手を……。
 嫌悪感とそれを上回る妙な高揚感に戸惑いつつ、苦しそうに息を吐いて涙を目の端に溜めながらマチルダはうなった。

 やがて少年の肉厚な唇が彼女のそれに迫り……、ついと顔が離される。

「ふ、ふざけるんじゃないよ! 大人をからかうんじゃない!」

 マチルダは感極まってしまったらしく、なにやらわめきだした。ただ、床で芋虫のようにくねくねと動いているだけなので、威厳もへったくれもなかった。

「……ま、それはいいとして。僕は先を急ぐので……」

 好き放題やるだけやった彼は、部屋から出ていこうとする。
 ところが。
 扉を開けた彼はすっころび、そのまま顔がなにかの壁にぽむんと埋まった。それはひどく柔らかく、なんともいえない感触に包まれる気分を味わえた。

「ひ、ひゃう」

 見事なまでに胸にうずまった顔を上げると…、そこでは、白磁のように白い肌を赤く染めた少女、ティファニアがいた。

「て……、テファ……」

 まさか、あの痴態を見られていたのか?
 長い耳の先まで真っ赤にしながら自分をちらちらと見つめる“妹”の視線に……、マチルダは絶望のどん底にまで突き落とされたような気分になった。


 ―――ウエストウッド村の入り口。

 巧妙に隠蔽されたそれは、ただ通りがかっただけの旅人ならば、まず見逃してしまっただろう。
 しかし、この場所の住民であった彼にはその発見は雑作もないことだ。

 木の枝には、色とりどりの実がなっている。その一つをもぎ取り、彼はそれを口にした。濃厚な、しかししつこさのない爽やかな甘みが口腔を満たしていく。これは彼のお気に入りの果物だった。
 やがて、彼は森の中で唯一の開けた場所にたどり着いた。ちょうどそこでは、一人の少女が建物の窓枠を覗きこんでいる。カモシカのようにすらりとした両脚を、一生懸命に伸ばしている。

「ルサリィ」
「わっ!」

 彼はその少女へ向かって声をかけた。すると彼女は驚いてしまったらしく、足を滑らせて転んでしまった。
 それでも、男の姿を認めるとその小さな顔が歓喜に満ち溢れる。

「オリヴァー! 帰って来たんだ!」
「ああ。湖水地方の王党派を鎮圧できたからね。総司令から休暇をもらえたんだ―――っと!」

 いきなり飛び付いてきた少女をしっかりと抱き止め、彼―――オリヴァーはそう告げるのだった。









 ●第三十二話「契約」









 ウエストウッド村は母屋の食堂。

 ヴェンツェルとオリヴァーは、木の幹を加工して作られた大きなテーブルに向かい合って椅子に座っていた。

「ふむ。なるほどな。テファの使い魔……」

 ヴェンツェルとティファニアからそれぞれ話を聞いたオリヴァーは、しばらく腕を組んでなにか考えていた。そして、大きくため息を吐く。

「……それで、僕はどうなるのでしょう。自分で言うのもなんですが、僕はあなた方―――議会派から見れば大いに有用な人質になるはずです」

 少年がそう告げると、目の前の男性は少しばかり驚いたような表情になる。

「君は、自分が政争の具にされても構わぬというのかね」
「なるようになるだけです。僕がどう思おうとも。それを決めるのはあなた方ですから」
「なるほどな。それは確かにそうだ。しかし、そこに君の意志がまったく入り込む余地がないのかといえば、それは違う。君は自分の選択でこれからの未来を変えることだって出来るんだ」
「……それは詭弁ですよ。ここは議会派の占領地。まして僕の目の前にいるのは、今回の内戦で数々の戦果を上げた唯一の平民将軍、クロムウェル。僕の力だけでどうにかなる存在なんですか? あなたは」
「ふむ。それはそうだ」

 なにやら異様な雰囲気を発しながら二人が会話を繰り広げていると、そこへ銀髪の少女が割り込んできた。顎をテーブルの上に乗せて二人に告げた。

「難しいお話をしているところ悪いんだけど、そろそろご飯の時間よ。まずは腹ごしらえをしなくっちゃ。ね?」

 その言葉に、二人は思わず顔を見合わせる他なかった。



 ―――食事を終えた後、ヴェンツェルは再び縄で縛られてマチルダの部屋に放り込まれた。

「なんでまた」
「あんたを放っておくと、何をしでかすかわからないからね」

 少年のぼやきに、マチルダはそんな返しをする。アリスみたいなことを言うなぁ……。と、彼は思った。

「なにもしないから縄を解いてくださいよ」
「信じられないね」
「そう言わずに」
「やだね」

 そんなやり取りを何度か続けているうちに、ヴェンツェルは眠くなったらしい。いつの間にか寝てしまっていた。
 よだれをだらだらとだして、実にみっともない眠り方である。もっとも、眠り始めてすぐにこんないかにもな爆睡状態に陥るとは思えないのだが。
 だが、そんなことは少しも疑問に思わずに―――「わたしも寝るか」と呟いたマチルダは、ちょっとした情けで少年の縄をほどいて、自分も眠りについた。


 一方で、オリヴァーの自室。
 木製の椅子に腰かけながら本を読んでいると、誰かが部屋のドアをノックする音がした。

「おじさま。少し、いいですか?」
「ああ、いいよ」

 そう答えると、部屋の中にティファニアが入って来る。エルフが着るようなゆったりとした寝間着だ。それでも、成長期である彼女の胸部の隆起は隠しようがない。

「あの。ヴェンツェルさんのことなのですが」
「ふむ」
「……お願いがあります。彼を……、このまま王党派の支配領域まで返してあげてほしいんです」

 やや伏し目がちになりながら、彼女は言う。

「それは……」

 これにはオリヴァーも参ってしまった。彼個人の心境としてはそれもやぶさかではない。だが、今の役職をかんがみれば……。
 彼はちょうど、手紙を書いて上層部に指示をあおごうとしたところなのだった。

「身勝手な言い分だというのはわかっています。でも……」
「……」

 ティファニアがわがままを言うなど、今まで全くと言っていいほどなかった。そんな彼女の願いの一つくらい、叶えてあげたいのだが……。難しい問題だ。

「……少し、考えさせてくれ。休暇が終わるまでには結論を下そう」
「お願いします」

 頭を下げ、ティファニアはオリヴァーの部屋を退出して行った。


 やがて、金糸の髪の少女と入れ替わるようにして、銀糸の髪の少女がやってきた。ルサリィだ。

「意地悪しないで、連れていってあげたら?」
「……そうは言うがな。今の僕はそれなりの立場にあるんだ。個人的な感情で……」
「ふぅん。今はお休みの最中なんだから、別に無理に守らなくてもいいと思うんだけど」

 ルサリィはベッドの上に身を投げ出した。
 オリヴァーのいない間、彼女がこのベッドをずっと一人で使ってきた。たまにティファニアと寝ることもあったが……。

「と、とにかく。この話は終わりだ。もう寝よう」
「むぅぅ」

 頬を膨らませるルサリィをなだめながら、オリヴァーはベッドへと向かって行った。



 *



 その後、なにごともなく三日ほどが過ぎた。

 オリヴァーとの遭遇から四日目の朝食後、ヴェンツェルは食事の後片付けを手伝っていた。隣にはティファニアの姿もある。

「なんだか、ごめんなさい。手伝ってもらって」
「いや、こういうのは慣れてるから。大丈夫だよ」

 何気なくそう答えたとき、ふと違和感を覚える。そして、かつての自分の記憶を呼び起こそうとする。
 どうして自分は食器洗い、あるいは家事に慣れているのだろうか?
 “前世の記憶”が一部分―――たとえば、住んでいた場所、あるいは趣味、雑学、自然の景色などは覚えているのだが、自分の家族についてはおぼろげな記憶しかなかった。
 たしか、母親がいたはずである。そして、自分が家事関連をこなすようになったのも、それに関連しているような……。だが、そこで記憶は途絶えてしまう。
 いろいろと引っかかるものはある。しかし、今の自分にはそれがどうにもわからなかった。

「どうしたの?」

 難しい顔をしていると、怪訝な顔のティファニアが問いかけてくる。
 なんでもないよ、と手を振ってヴェンツェルは作業を再開した。しかし、脳裏にはどうしても違和感がくすぶり続けていた。


 一方、オリヴァーの自室。

 彼は虚無にまつわる書籍に目を通していた。『始祖ブリミルの使い魔たち』という本だ。

 ありとあらゆる武器を使いこなしたという、神の左手『ガンダールヴ』。ありとあらゆる乗り物を乗りこなしたという、神の右手『ヴィンダールヴ』。
 ありとあらゆるマジック・アイテムを使いこなしたという、神の頭脳『ミョズニトニルン』。
 そして最後は…。
 記述、そして実情を見る限りでは、ブリミルの使い魔は人型であり、高等な知能もあったようだ。『虚無』の使い魔は、普通のメイジの使い魔とは一味ことなるようである。

 そして、彼の推測通りにティファニアが『虚無』の担い手だとすれば、呼び出された少年はいずれかのルーンを得ることになるだろう。それはどれだけの力を持っているのか。気になった。
 もし記されていない使い魔だとしたら、それはそれで見てみたい。
 長年ブリミル教に関する経典なり史書なりを読み漁ってきたオリヴァーは、意外と好奇心の強い男だった。

 だが、あの少年はクルデンホルフ―――つまりは敵方の人間だ。そんな人間に強力な力を与えてしまって大丈夫なのだろうか?
 しかし、彼自身にこちらと敵対する意思は微塵も感じられない。
 それに『サモン・サーヴァント』で呼び出されるのは、そのメイジにとってもっとも相性が良いと判断された生物らしい。
 つまりは、あの少年は現時点でもっともティファニアの使い魔に相応しいということになる。

 恐らくは少年が死亡でもしない限り、彼以外の使い魔は召喚されないだろう。
 ならば、いつまでも放っておいてもしかたない。

 そう考え、彼は食堂へ向かった。




「―――契約、ですか?」
「ああ。『コントラクト・サーヴァント』をしてもらいたい」

 オリヴァーが厨房にいた二人にそのことを伝えると、ティファニアは顔を真っ赤にしながら困惑気味に呟いた。
 そして、食器を拭き終わったヴェンツェルが、顔をしかめながらその提案に反対の意を表す。

「僕は反対です。あなたは虚無の使い魔がなんなのか知っているようですが、大きな危険性を孕んでいる以上は賛同できません」
「危険性?」

 オリヴァーが問いかけると、ヴェンツェルはばつの悪そうな顔になった。彼自身、原作でデルフリンガーが『第四の使い魔』の復活を恐れているらしい、ということしか知らない。
 反対しようにも、明確な理由など述べられるはずもなかった。

「……で、でも。彼が反対しているから。わたしは」
 ティファニアは顔を耳まで赤く染めながら、ついと背けてしまう。『コントラクト・サーヴァント』の方法を思い出してしまったようだ。

「ヴェンツェルくん。どうやらきみには『虚無の使い魔』の適正があるらしい。ということは、きみ以外にもそういった存在がいる可能性が高い。もし、悪意を持った人間が担い手だとしたら……。強大な始祖の虚無の力に対抗できるのは、同じ虚無の力しかないんだ。僕はテファを守ってやりたい。だけども、今の僕の力だけではそれはできないんだ」

「……ですが」

 ヴェンツェルはなにか言おうと口を開きかけたが、あまり有効な口上は思いつかなかった。

「僕はもうすぐ、前線に戻らなくてはならない。君の立場というものは理解しているつもりだが、もしロンディニウムの連中に君の存在が知られれば、恐らくは人質として外交の“駒”にされるだろう。だが、ここにいてテファを守っていてくれるというなら、僕は上層部に君の存在を秘匿しておく。まあ……つまり、これは取引だ」

 そう言って、オリヴァーはティファニアに視線を向けた。

 この男はなにを言っているのだろうか? 
 ヴェンツェルはあくまでもクルデンホルフの人間である。言い方はあれだが、敵国の将軍の家族であるティファニアを守ってやる義理など無い。
 トリステイン王国の属国である以上、外交方針はあくまでも宗主国の打ち出したものに従っているのだ。

 だが、だからこそ―――いまロンディニウムに連れて行かれるのはまずい。
 議会派の中には、船に乗って輸送船を狙ったところを随行していたクルデンホルフの艦艇による反撃によって戦死した人間が少なくない。
 つまり、彼らの多くはクルデンホルフに対して大きな憎しみを抱いてすらいる。
 そんな状況下で彼らの前面に引きずり出されれば……、良くて十字架、市中引き回し。悪ければ…、考えたくもない。

 オリヴァーの言う通りに外交の駒にされるというのなら、それはまだ救いようがある。


「……どうして、ぼくにティファニアを守れ、なんて言うんですか? こんな信用の置けない人間に対する台詞じゃないですよ」
「ああ、そうだろうね。普通なら。だが、きみはティファニアに『選ばれた』んだ。『サモン・サーヴァント』における原則論はきみも知っているだろう?」

 その言葉に、ヴェンツェルは困惑気味に首を縦に振った。
 それを見て、男性はまた続ける。

「だからだ。この近辺は最近治安が悪くなっている。今まではまだ大丈夫だと思えたが……。そこに他の『虚無の担い手』が加わるとしたら、もう対処のとりようが無い」

 そこまでオリヴァーが話したところで、いささか混乱気味ののティファニアが問いを発した。

「あ、あの……。わたしが『虚無』系統の使い手かもしれない、ということはわかったのだけれど……。どうして、他にも同じ系統の人がいて、その人たちがわたしに害を与えると思ったんですか?」

 もっともな疑問だった。
 なぜオリヴァーがそこまで早急に結論を出したのか。それがどうにもわからなかった。

「……ヴィットーリオ。今は聖エイジス三十二世といったか。僕は、彼も『虚無』の担い手だと見ている。そしてロマリアのことだ。テファのことを知れば、必ず利用しようとするだろう。あの国が今まで行ってきたことを鑑みれば……」

 ロマリアの教皇。本来ならば、ヴェンツェルの左目にある宝石を所持する権利を持った唯一の存在だ。
 そしてロマリアは長い間、ハルケギニアの精神文化の根源であるブリミル教の権威を振りかざしてきた国家だ。ヴェンツェルはどうにもあの国が好きになれなかった。

 まだ虚無に目覚めていないだろうルイズを除けば、もっとも無防備なのがこのティファニアである。
 ジョゼフは放っておいても自分でどうにかしてしまうだろうが、目の前の少女はどうだろうか。普段はルサリィと二人っきりで、このウエストウッド村にいるのだという。
 ならば、もし賊の集団でも来たら……。『忘却』は完全ではない。油断しているところを襲われたらひとたまりもないのだ。
 史実の世界でアルビオン戦争後まで無事でいられたのは、完全に奇跡だといえるだろう。

 家のことは気になるが、これもなにかの縁かもしれない。
 それに、ここで要求を呑んでおけばいろいろと展望が開ける可能性が出てくる。残念ながら、ヴェンツェル一人で議会派の支配下にあるアルビオンを脱出することなど、できはしまい。
 なに、まだ第四の使い魔になると決まったわけじゃない。『ガンダールヴ』や『ミョズニトニルン』になる可能性の方が高いではないか。
 きっと大丈夫だ。

 少年は決断した。

「わかりました。契約しましょう。……ティファニアさえ良ければ、だけど」
「あ、はい。わたしは大丈夫……、え、ええっ!?」

 急にヴェンツェルが方針転換したのに驚いたのか、ティファニアは素っ頓狂な声を上げた。

「……嫌なら、いいんだ。無理にとはいわない」
「あ、い、いえ。大丈夫です!」

 ちょっと傷ついたふうなヴェンツェルの表情を見たティファニアは、慌てて手をぶんぶんと振り回す。そんな二人のやりとりを眺めていたオリヴァーはしかし、すぐにごほんと喉をならす。

「……僕がいては、やりにくいだろう。退出するよ」

 そう言うと、彼はさっさと食堂から出て行ってしまった。


 あとに残されたティファニアは参ってしまった。
 どうすればいいのだろう? いや、契約すればいいのだろうけど……。
 その方法がキスだなんて、顔から火が出そうになる。どうして始祖ブリミルは他の方法も残してくれなかったのだろう?
 今は亡き始祖に恨み言を呟くが、それが果たしてブリミルに届くのだろうか。

「いや、無理ならいいんだよ。本当に」

 なおも卑屈な態度のヴェンツェルがそんなことを言ってくるが、ここでティファニアは覚悟を決める。
 大きく息を吸って深呼吸。胸を張ったときに少しばかり脂肪の塊が揺れ、それを凝視されているのに気がついて妙な気持ちになった。
 ―――この人、むっつりじゃないの?
 だが、今それは置いておく。
 ゆっくりと気を落ち着かせ、その呪文を唱えていく。

「我が名はティファニア・オブ・モード。五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」

 震える声で詠唱したティファニアは、静かに唇を近づけてくる。
 そして―――彼女の柔らかく瑞々しいそれが、ほんの少しだけヴェンツェルの唇に触れた。ほんの一瞬の、短い間の出来事だった。

 しかし、契約の履行にはそれで十分すぎたようである。

 次の瞬間、ヴェンツェルが胸を押さえてもがき出したのだ。
 彼は声にならない叫び声を上げながら、食堂の床をごろごろと転がっていく。テーブルの柱や壁に体のいたるところをぶつけ、損傷をどんどん増やしていった。それでもまだ止まらない。

 ティファニアが呆然とその光景を見守っていると、やがて彼の動きが止まった。

 そして、彼はいきなりシャツをはだけた。飛び込んできた物体に、きゃっと言ってティファニアが顔を背ける。

 しばらく自分の胸を凝視していたヴェンツェルは、呆然とした口調で呟いた。

「お、おい……、嘘だろ」

 信じられない、というった口調だ。
 ティファニアが指の隙間からこっそりと様子をうかがう。すると、彼の胸にはしっかりと使い魔の契約を示すルーンが刻まれていた。一体どうしたのだろうか。

「……りー……。ふむ。『リーヴスラシル』、か。三体のいずれにも該当しない……。つまり」
「記すことすらはばかる、って使い魔のことかしら?」

 そこで、いつの間にか再びやってきていたオリヴァーがルーンを読み上げた。彼は古代語も読めるらしい。その隣では、ルサリィが興味津々、と言った様子でルーンのスケッチをとっている。

 ヴェンツェルは自らの浅はかさを悔いた。しかし、公開先にたたずである。もうどうにもならない。
 油断は死を招くぞ―――ティアンム提督の言葉が、脳裏に木霊する。


「俺……、どうなるんだろう」

 汗だくのまま、彼はただ呟くしかなかった。






[17375] 第三十三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/09/17 15:01
 ヴェンツェルがティファニアと契約したことで現れたルーン、『リーヴスラシル』。
 それは、前世の記憶を持っている彼をしても正体を掴むことができなかった。

 ガンダールヴ、ヴィンダールヴ、ミョズニトニルン。いずれも、始祖の使い魔はルーンが刻まれた者に超人的な力を与える。
 だが、今のヴェンツェルはこれといって変わった様子はなかった。
 何日かオリヴァーと一緒に調べてみたけれども、やはりどういった効果なのかわからない。
 前述の三体の使い魔は目に見えて効力を現すのに対して、今回現れたルーンはやや様相が異なっているようだ。

 意図的に歴史から抹殺されたであろうこのルーンのことは、恐らくハルケギニアで調べても何らわかることはない。
 手がかりがあるとすれば、それは人間たちよりも古代の知識を多く所持しているであろうエルフたちの居住地、サハラだけだろう。
 オリヴァーはそう結論づけた。
 しかし。彼らは人間を忌み嫌っている。ブリミル教にとっての聖地を『シャイターンの門』などと呼び、忌避している。これでは協力を仰ぐことなどできないだろう。
 まして、人間とエルフは長きに渡る血の抗争の歴史を繰り広げてきたくらいなのだから。
 虚無の使い魔だなどということが知れれば、最悪の場合捕まって一生を牢獄で過ごす羽目になるかもしれない。

 そうこうしているうちに、オリヴァーの休暇の期限が近づいていた。そろそろ前線に戻らなくてはならないのだった。

 最初の頃はギクシャクとしていたヴェンツェルとオリヴァーだったが、今ではずいぶんと打ち解けている。なにか通じるものがあるらしい。
 しかし、それでも根底の部分で二人は敵同士だ。少なくともヴェンツェルは、相手が笑顔を見せていてもどこか緊張感は抜けなかった。



 昼食を終えたヴェンツェルとティファニアはオリヴァーに呼び出された。
 森の奥へ行くから、ついて来いという。いったいどういうつもりなのだろうか。わからない。
 しかし、ティファニアがいる以上は彼も乱暴を働いたりはしないだろう。そう考え、言われるままについて行った。

 やがてたどり着いたのは、ウエストウッド村から歩いて五分ほどの土地だった。草がぼうぼうに茂ってしまっている。広さは大体三十メイル四方の土地だろうか。伐採された木が端っこに転がっていた。

「アルビオンの食料事情が悪化してきたのは知っているだろう。ここはそれを見越して僕が作った畑……の跡地だ。すっかり手入れを怠っていたから、こんなザマだけどね」

 オリヴァーは苦笑しながら、元は畑だった土地の方を見やる。
 ここまで聞けば、なんとなくヴェンツェルには察しがついていた。つまりはここで畑を耕せというのだろう。先ほどから手にしてそういる袋は種だろうか。

「畑ですか」
「ああ。今までは、僕が抜けると女手しかなかったんだがね。せっかく男手が増えたんだ。自分の食い扶持くらいはなんとかしてくれ」

 そういうなり、オリヴァーは種の入った袋、耕し方の書かれた紙、地面に半ば埋もれていたクワをヴェンツェルに手渡した。

「……」

 それらの一式を持ったまま少年が黙っていると、オリヴァーは静かにため息をつく。

「なに。王党派さえ打倒すれば、戦争は終わる。この辺りの治安維持に回せる兵が増えることになる。そうしたらきみも国へ帰すことを約束するよ」

 それはクルデンホルフのヴェンツェルにとっては納得のいかないことだ。しかし、今のなんら後ろ盾の無い彼にはどうすることもできない。
 ただクロムウェルの出した提案に乗り、ひたすら内戦の終結を願うことしかできない。
 戦時下での子供など、いくらメイジとはいえ……、どこまでも無力だ。

 簡単なレクチャーを行ったあと、オリヴァーはティファニアを連れて畑から去っていく。オリヴァーとマチルダはもうすぐ前線へ向けて出発するのだそうだ。
 それの意味するところは、貴族派による王党派防衛拠点に対する攻勢の激化。
 オリヴァーたちの休暇は嵐の前の静けさだったのか。きっと、議会派はハドリアヌス要塞の攻略に向けたなんらかの策を考えているはず。

 もし長大な防衛線が一箇所でも破られれば……、第二次世界大戦時のマジノ線を迂回されたときのフランスのように、あっという間に降伏へ追い込まれてしまうだろう。
 それほどに王党派の陸上兵力は損耗しているのである。
 幸いなことに、王党派が未だに大規模な航空艦隊を保持していることだけが唯一の頼みの綱だろうか。それがあるうちはまだ脱出もできる。
 未だに存命のトリステイン王は、恐らくアルビオン王家の亡命を受け入れる。議会派にはまともな艦隊がない。強大なアルビオン艦隊を引き込めれば、トリステイン本国は早々攻撃されるということもない。
 まだ、トリステインは安泰だ。

 こんな状況だが、できるだけ自力での脱出も考えていこう。

 そんなことを考えつつ、ヴェンツェルはふらふらとクワを持って、固くなった地面に打ち下ろしていくのだった。



 *



 その頃の王党派拠点、エディンバラ。

 クルデンホルフからやってきた大公の嫡子が消息不明になったという情報が伝わり、付近の兵士が総出で少年の行方を追っていた。
 城の中も慌しい動きに包まれている。最後に少年と接触したというメイドは、彼が風呂に入ったところまでは見ていたのだという。しかしながら、それ以後はまったく動向がわからなかった。

 既に捜索範囲はエディンバラ市街を越え、王党派支配地域の大部分に及んでいる。それでも一向に足取りはつかめず、エディンバラ公はどんどんと焦りばかりが膨れ上がっていく。
 ここまでくればもう考えられる線は一つしかない。貴族派による誘拐だ。よりにもよって、王党派最大のスポンサーの子女を誘拐させてしまうとは。
 しかし、誘拐ならばいい加減議会派から人質交換なり身代金なりの要求がくるはずである。今回はそれが一切なかった。そればかりか議会派は攻勢を停止し、まったく動きがない。
 まったくわけがわからなかった。

 そんなときであった。
 クルデンホルフ大公の元に、アルブレヒト三世の私兵がゲルマニア北方のプロシア公国を武力によって取り潰した、という情報が舞い込んできた。
 プロシアといえば、ブランデンブルク選帝侯、ホーエンツォレルン家が事実上の君主として君臨する国家である。
 それが取り潰しになったということは、次はホーエンツォレルン家そのものが危ないということと同義。
 かの家とクルデンホルフは縁戚関係にあり、同盟条約の締結を検討していたほどだ。このまま黙って見過ごすわけにはいかない。

「サリア。わたしは一旦、本国へ戻る。お前たちはここでヴェンツェルが戻ってくるのを待っていてやってくれ」

 若干の焦りを含む声音で、クルデンホルフ大公がそう告げてくる。
 サリアにしてみれば、どうして自分がそんなことを思う。このところ自分をまったく相手にしてくれない大公は、とうとう自分たち母娘を見捨てるつもりなのだろうか。そんな疑心暗鬼に陥ってしまう。
 だが、あくまでも今の自分は使用人。ならば主である大公の命には、絶対に従わなければならない。

 なお渋々といった様子でサリアが頷くと、大公はきびすを返してエディンバラの城を去っていった。









 ●第三十三話「百姓ヴェンツェル」









 アルビオン大陸中部。
 地元の人間があまり近づかない森のなかに、ウエストウッド村はあった。

 最近まで少女が二人で暮らしていたが、一ヶ月ほど前にそこへ一人の少年が加わった。名をヴェンツェルという。彼は知る人ぞ知る小国のプリンスだった。

 しかしそんな彼はいま、自らが耕していた畑の上に倒れてぐったりとしている。

 この日のアルビオンは季節はずれの記録的な猛暑日だった。軽く摂氏四十度はあろうかという、殺人的な暑さである。
 どこぞのマッチョな老人曰く、「火の精霊がお怒りじゃ。もうおしまいじゃ、せめて死ぬ前に若い貴族の娘っ子と寝たかったわい」とのことである。

 そんな日に農作業などしているのである。水も飲まずに、近くの洞窟そばから湧き水を汲んでは撒き、汲んでは撒きを炎天下で繰り返していれば、それはぶっ倒れるというものだ。
 本来なら、森は日陰になってひなたよりは涼しくなる。しかしながら、少年が倒れているのは木を伐採して開いた耕地だった。
 野菜は日の光がなければ育たない。ならばその地点に猛烈な太陽光線が降り注ぐように仕向けるのも、また然りといったところか。

 と、そこへ麦藁帽をかぶった少女が駆け寄ってくる。彼女は倒れこんでいる肉塊を見つけると、慌てたようにそれを引っ張りだした。だが、酷く重いためにかなりの牛歩にならざるを得なかった。

 なんとか木陰まで引っ張ると、熱くなったヴェンツェルの顔に自らが持っていた水筒の水をかける。
 後から、それが自分が口をつけたものだと気づいたが、そのときには水のほとんどが地面に流れ落ちていた。
 もう一つの水筒を取り出して、それを少年の口に突っ込む。すると、彼はゆっくりと水を飲みだした。

「赤ちゃんにミルクをあげるお母さんみたいね」
「えっ!?」

 唐突に後ろから聞こえてきた声に、麦藁帽の少女―――ティファニアは、思わず水筒を取り落としてしまった。それが少年の顔に音を立ててぶつかり、地面に落ちる。

「冗談よ。本気にしないでよね」
「も、もう。ルサリィ、そういうのはやめて」

 赤らんだ耳をぴこぴこと動かしながら、ティファニアは自分の傍らに腰掛けた少女に向かって抗議する。

 と、そこでヴェンツェルが目を覚ました。彼は視線をきょろきょろとさ迷わせている。やがてティフニアと目が合い、呟いた。

「……僕は、倒れたのか」
「水も飲まないで、こんな日に外に出てるからよ」

 やや咎めるようにそう言いながら、ティファニアは三本目の水筒を差し出してきた。ヴェンツェルは礼を言ってそれを受け取ると、一息もつかずに一気に飲み干してしまう。

「でも水をまかないと、せっかく育ってきた芽が駄目になってしまうんだ。まさかこんなに暑くなるなんて、完全に予想外だったよ」

 何度かの失敗の末に、ようやく彼はオリヴァーから託された種を発芽させることができたのである。ところが、その矢先に熱波が発生したのだった。
 彼はそういうのだが、どう考えてもこんな日に農作業を行うのは自殺行為である。ティファニアはヴェンツェルを諭し、半ば強引に連れ帰ろうとする。そのときだった。

「……雨?」
 
ルサリィが呟く。それを聞いたティファニアも手を天にかざしてみると、そこに冷たい水の感触があった。
 先ほどまで快晴だった空には暗雲が立ち込め、いまにも大粒の雨が降り注いできそうな気配を放っている。

「とにかく、家に戻りましょう。ね?」
「あ、ああ。うん」

 状況の急変に、思考の切り替えが追いつかないまま少年が立ち上がろうとしたとき。彼らの頭上から、バケツをひっくり返したような豪雨が降り注いだ。

 あっという間に着衣はずぶぬれとなり、水を吸って重くなった服を着たまま三人は、必死で家まで走っていく。
 途中で雷の閃光と、一瞬遅れた轟音が鳴り響いて、ティファニアは思わず前を行っていたヴェンツェルの背中に飛びついてしまう。
 背後に感じる“圧倒的な存在感”に、思わず前かがみになってしまった。しかし、それを背後の少女に悟らせるわけにはいかない。
 前方を走る銀糸の髪の少女はとっくにテントの存在に気がついており、この豪雨のなか、にやにやと笑みを浮かべている。

 なんとか住居までたどり着いたヴェンツェルは、慌てて自分に割り振られている建物に飛び込む。
 五棟あるうちのもっとも北側に存在するこの住居は、かつて物置として使われていた建物だ。
 オリヴァーがヴェンツェルの家として片付けを行ったのである。無論、ここに住むことになる少年もそれに参加させられたのだが。

 使い魔とはいえ、年頃の少年をティファニアやルサリィと同じ家で寝かせたくはなかったのだろう。部屋が余っていない、という理由もあったが……。


 安い――と言っても、それは貴族の価値観からすればの話だが――布で作られた質素な服を脱ぎすて、また似たような服を取り出した。
 ティファニアが作ってくれたそれは、手作りながらしっかりと縫合されている。丈夫で農作業もどんとこいだ。布の値段などあまりあてにならないと思わされる。

 タオルで頭を拭きながら、ヴェンツェルは机の上に置かれた新聞を手に取ってみる。これは、ルサリィが付近の町にでかけたときに買ってきてくれたものである。

 ずらりと並んだ文字列をずっと追っていくと……、そのうち、いくつか気になる記事へたどり着く。

 『ガリア経済の停滞は現王の失政―――ダントン氏、語る』
 『ブランデンブルク選帝侯、クルデンホルフ大公の仲介で皇帝と和解 領地は大幅縮小へ』
 『アルビオン共和国議会、正式にサセックス伯ジョンを初代護国卿に任命―――各国にアルビオン共和国の国家承認を要請へ』

 一つ目の記事。
 ジョルジュ・ダントンなる右派の貴族が、現王であるシャルル一世の批判を行っていた。たしかに、ここ最近のガリアはあまり景気がよくないようである。
 二つ目の記事。
 ヴェンツェルの父であるクルデンホルフ大公が、いつの間にかゲルマニアで活躍しているようである。まあ、一ヶ月以上も国家元首が他国に留まってはいられないのだろう。これは仕方のないことだ。
 三つ目の記事。
 いよいよ議会派が、国家としての体裁の本格的な整備に乗り出したようだ。いよいよ貴族による共和制国家が始まったらしい。共和制は地球では歴史があるが、果たしてこのハルケギニアではどうだったか。

 新聞を閉じて、それを机の上に置く。
 しばらくぼうっとしていると、不意に鼻に良い香りが飛び込んでくる。どうやら、ティファニアとルサリィが食事の用意を始めたようだ。

 まずは腹ごしらえをしよう。そう思い立ち、ヴェンツェルは席を立った。



 *



 三日降り続いた大雨のあと、ヴェンツェルは再び畑にやってきた。

 そこで目にした光景は―――予想通り、全滅だった。小さな芽はすでに枯れ果て、見るも無残な様相を呈している。
 発芽して間もない芽が、あんな強烈な日照りや大雨に耐えられるはずがなかったのである。だが、それがわかっていても悲しいものは悲しいのだった。
 しかし。過ぎたことはしかたない。気を取り直さなくては。そう思い直し、少年は土地の隅へ向かう。

 大きな木の根元には、即席で作った屋根のついた箱がある。大雨でもなんとか耐えてくれたようだ。
 そして、そこには葉っぱが詰め込まれていた。肥料を作ろうという目論見だ。しかしながら、青々とした葉っぱは未だにその存在を誇示しつづけている。
 やはり落ち葉でないと駄目らしい。
 肥料。それは作物を大きく育てるのに欠かせない物品だ。だが、買うとけっこう高いのである。そこで、自作することでなんとかしようとしたのだが……。
 とりあえず、肥料のことは後回しにしよう。そう考え、彼は畑にしぶとく生えてくる雑草を素手で引っこ抜き始めた。


 しばらく作業を続けていると、森の木々の切れ目から誰かがやってくるのが見えた。ティファニアのようだった。彼女は両手でバスケットのようなものを持っている。

「お疲れさま。サンドウィッチを作ってきたから、食べて」

 かなり重そうなバスケットを両手で掲げながら、彼女はヴェンツェルは呼ぶ。
 それに答えるかのように、少年は頭にかぶった麦藁帽を脱いで大きく振りかざした。


 二人は、ベンチ代わりの倒木に腰かける。ちょうどこの場所は木陰にあたるようだった。
 いただきます、と言ってヴェンツェルはサンドウィッチに口をつけた。ティファニアはその口上の意味がいまいちわからないらしく、大きな瞳をぱちくりとさせていた。
 また、ついやってしまった。ここに最近は自重していたのに。不思議そうな少女には「なんでもないよ」といい、ごまかすようにばくばくとサンドウィッチを口の中に放り込んでいく。
 夏ということもあってか、どれもあっさりとした味付けだった。どんどん食が進む。
 おいしい、と言いながらものすごい勢いで平らげていくヴェンツェルを、ティファニアは少し引き気味で眺めていた。


「その……、どうだった? 畑……」

 大きいバスケットの中身を一人で半分以上平らげたとき、ティファニアが言いにくそうに問いかけてきた。彼女もなんとなく結果は見えているのだろう。
 少年はすぐに質問には答えず、水筒に口をつけて水を飲む。そして、ゆっくりと言葉を発した。

「全部駄目だった。けどまあ、仕方ないよ。成功するまで何度でもやるだけさ」

 彼が畑を眺めながらそう言うと、ティファニアがかすかに目を見開いた。恐らく、彼女はヴェンツェルがここまで畑仕事を続けるなどとは思っていなかったのだろう。
 母が趣味で野菜を栽培していたためか、彼はちょっとだけそういったことに興味があった。とはいえ、それだけで続けられはしないのだろうが……。

 やがて、ティファニアは空になったバスケットを回収して家に戻っていく。
 それを見送り、少し休んだあと、ヴェンツェルは再び雑草を抜き始めた。


 一時間ほどすると、一区画の雑草はほとんどなくなった。次にクワで土を耕す。通り道にするため、一部の土は踏み固めておく。
 そして円形に縁取った土の中に、ぽろぽろと何個かの種を入れていく。一個では発芽しない可能性があるため、念のための措置だ。
 最後に柔らかく土をかぶせ、完成。これを延々と繰り返していくのである。
 ひどく気の遠くなるような作業だ。しかし、ヴェンツェルはこれを幾度となく繰り返してきたのである。


 夕刻となった。農具を先ほどの肥料箱と別の屋根つきの箱の中に入れると、少年はタオルで汗を拭う。
 彼はここ最近、晴れていれば日中のほとんどを農作業に費やしている。まあ、それだけやってもなかなか成果は出ないのだが。
 ふと、家のことを思い出した。母やベアトリスはどうしているのだろう。
 リゼットはメイドに手を出していないか。クロエは仕事があるのだろうか。マジソンは体調を崩していないか……。オルトロスは城の使用人に危害を加えていないか。
 そして、アリスは……。
 だが、今の自分にはどうしようもない。一種の逃避手段として農作業の真似事に無我夢中になっているといわれても、それを否定する気はなかった。

 五分も歩けば、あっという間にウエストウッド村の建物が見えてくる。
 さて、今日はどんな夕食だろうか。ティファニアは料理上手で、彼女の作る食事はいつも腹一杯食べてしまう。たくさん食べるせいか、厨房の鍋はかなり大型化している。

 だが、少し歩いたところで彼は異変に気がついた。いつもなら漂ってくる料理の匂いが、今はまったくしなかったのだ。いったいどうしたのだろう。
 それに妙な気配を感じる。それも複数だ。
 これはもしかしたら……。万一に備え、ヴェンツェルは静かに、ゆっくりと建物伝いに村の入り口へ向かっていく。


「は、放してください!」
「うるせえ、黙ってねえと酷い目に遭わせるぞ!」

 先ほど予想した通り、四人の賊らしき男たちによってティファニアが捕らわれていた。ルサリィの姿はない。
 ……いや。賊たちの背後、かなり近い距離で身を潜ませている。彼女はティファニアの杖を持っているようだ。恐らく、なんとかして渡すために持ってきたのだろう。
 恐れていた事態が起きてしまった。さて、どうするか。ここは自分が出て……。
 と考えたとき、男の手に杖があるのを見つけてしまった。まずい。敵は一人とはいえ、メイジがいる。それに、賊たちは傭兵流れらしい。ヴェンツェル程度では軽くいなされてしまうだけだろう。

 では、どうするか……。とまで考えたとき、ルサリィが賊に発見されてしまった。慌てて逃げ出すルサリィを、二人の男たちが追っていく。
 残ったのはメイジともう一人。戦力的にはまだヴェンツェルが相手をするのは厳しいが、追われているルサリィも助けなくてはならない。ならば、早急に行動をおこすべきだ。

「け、なんもねえ村だぜ。まあ、こんな可愛い嬢ちゃんがいたってだけで儲けもんだがな!」
「だ、だけんど。こいつ、み、耳が…」
「かっ、そんなことは関係ねえ。おれは穴が付いていれば、翼人だろうが吸血鬼だろうがエルフだろうがかまわねえんだ」
「…さ、さっすが兄貴ィ! おれには真似のできないことを平然と言ってのける! そこに痺れるぅ、憧れるぅ!」

 賊二人は、なんだか下衆な会話を繰り広げている。

 さて、思いっきり油断しているようなので始末させてもらおう。
 ヴェンツェルは『レビテーション』を詠唱。子分らしき男を宙に浮かせると、それをメイジにぶつけようとする。だが。

「は、『レビテーション』ごときでおれが倒せるかよぉ!」

 意外なことにメイジはかなりいい反応を見せた。飛んでくる子分を軽く回避すると、地面で縄に縛られていたティファニアを組み敷いたではないか。ちなみに、子分はそのまま木に激突した。

「どこに隠れていやがる! 出て来い! じゃねぇと、今すぐこの嬢ちゃんをキズモノにしてやるぜ!」
「くっ……」

 まずい。ああいう輩は、何度も戦場に出るうちに間違いなくそういった蛮行を働いている。
 このままでは確実にティファニアがそういう目に遭わされてしまうだろう。それだけは絶対に避けたかった。

 やむを得まい。意を決して、ヴェンツェルは賊の前に身を晒した。

「けっ、なんだこのデブガキは……。失せろ」

 出て行った途端、賊が魔法を唱えた。どうやら風の使い手らしく、瞬く間に飛来した空気の塊がもろに直撃したヴェンツェルは、そのまま建物の壁に打ち付けられてしまう。
 だがいつもとは違い、そこでヴェンツェルは諦めなかった。背中の痛みを無視して強引に立ち上がり、杖を賊に向かって構える。

「その子から体を離せ! でないと……」
「でないと、なんだ?」

 すぐに魔法が飛んできた。しかし、それは直線的な軌道で飛来するだけである。予測さえしていれば回避するのは不可能ではない。

 食らってみてわかったが、賊の魔法はあまり威力のあるものではない。それこそ本物の風使いの魔法は、同じドットスペルでもこれとは比較にならないような破壊力だ。
 この賊はメイジではあるが、はっきりいって今までヴェンツェルが遭遇したメイジの中ではもっとも格下の部類に属する。
 ならば、やり方次第では自力で勝利することも可能だろう。
 
 ヴェンツェルは『フライ』を詠唱。
 未だに最大でも四十サント程度浮かび上がるだけの魔法だが、ここで重要なのはイメージだ。いつかアリスがやっていたように、足の裏に空気を集めるのである。
 一サントほど浮かび、イメージする。するとわずかではあるが、空気が集まってくる感触。だが駄目だ。まだ足りない。もっと、もっと空気が必要だ。
 そこで、再び賊が魔法を放ってきた。だが今度はもう当たらない。ヴェンツェルは足の裏の空気の流れを“創造”する。

「右だっ!」

 少年の叫びと共に空気が足の左側に流れ、一気に体が高速で右側に押し出された。賊の風はその横を通りぬける。
 だがしかし、そのままコントロールを失ったせいで、近くの木々に頭から突っ込んでしまった。
 すぐに体勢を取り戻したヴェンツェルは、再び足の裏に空気を集め始める。

「け、なにやら妙な真似をしやがって……。だがよ、こいつで終わりだ!」

 未だに余裕ぶった態度で、賊は『ウィンド・ブレイク』を詠唱。だが、その風が到達する前にヴェンツェルの体は左側に押し出されていた。

「予想通りだぜっ!」

 そこで賊がいやらしい笑みを浮かべた。ヴェンツェルが左側に避けることを見越していたらしい。さらに風の塊が飛んできた。しかし、少年はそこで足の裏の空気を振動させる。
 すると、ヴェンツェルの体が不規則な軌道を描き、賊に向かって突撃を始めたではないか。
 風は避けられ、さらには奇妙な動きで接近される。賊の顔が青くなった。

「な、なんだこいつ! 気もちわりぃ!」

 賊は額に汗を浮かべ、風を乱発してくる。しかしそのどれもが少年に当たることはない。紙一重で風をかわし続けながら、少年はどんどん賊に近づいていく。
 次の瞬間―――肉薄するピザ少年から、どうにか逃げようと後ろを向いた賊の後頭部に、ヴェンツェルの頭蓋が思い切り命中した。



 *



「……ぐっ、ここは」

 彼が目を覚ましたのは、ティファニアやルサリィが住居として使っている建物の内部だった。質素な内装の中に置かれたハープが、やや異質な存在感を放っていた。
 ……たしか、あれはティファニアがたまに演奏している楽器だったはず。と、いうことは……。

「あ、起きた?」

 そこへ、銀髪の少女ルサリィが現れた。なにやら少し深刻そうな顔になっている。

「ああ。それで、いったい賊はどうなったんだ?」

 ヴェンツェルが最後に見た光景―――前のめりにぶっ飛ぶ賊と、目を見開くティファニア。そして、眼前にせまる丸太。それらを考えると、自分は頭を打って気絶したのだろう。

「大丈夫。テファが魔法で記憶を消して、わたしが台車でその辺に捨てておいたから」

 では、二人はとりあえず無事だったのか。それならよかった。
 すると、なにか言いたげな様子だったルサリィが、ヴェンツェルに向かって声をかけた。
 
「……あー、その。ヴェンツェルくん。なんか言いにくいんだけど…。ちょっと来てくれる?」

 ベッドから身を起こした少年の手を取りながら、少女はやや深刻そうな表情になった。
 いったい、どうしたのだろうか。

 数刻後。

 二人は、ウエストウッド村のある森のなかをゆっくりと歩いていた。すでに辺りは暗くなりかけていて、森の中はちょっと不気味な雰囲気が漂っている。
 ふと、畑の入り口のところでルサリィが立ち止まった。
 ヴェンツェルの方を向く彼女の瞳は、なんだか潤んでいる。どうしたどうした。まさか、まさか。
 すると突然、ルサリィはヴェンツェルの目を両手でふさいできた。どこかひんやりとしていて、それでいて人間としての温かみを持った小さな手のひらだった。

「その……、わたし、あなたに言わなくちゃならないことがあるの……」
「え?」
「ごめんね、全部見てもらわないといけないの。……じゃあ、いくよ?」

 そして、彼女は手をゆっくりと放していく。
 次の瞬間、少年の瞳にはとんでもないものが飛び込んできた。

「こ、これは……」


 彼の眼前に飛び込んできたもの―――


 それは、無残にも荒れ果てた、彼の畑の姿だった。


「……え?」
「盗賊の人たちを追い掛け回してたら、ここに逃げこんじゃったの。本当はこんなことしたくなかったんだけど、ついうっかりやりすぎちゃって……」

 呆然とするヴェンツェル。
 一方でルサリィは、なんとかして少年を励まそうと声をかけてくる。だが。日中あれだけ精魂投じた畑が、またしても灰燼と帰してしまう。もう駄目だった。


  全身が灰のように白くなったヴェンツェルは、地面に膝を落としてしまう。

「……燃え尽きたよ。ああ、僕はもう…、まっしろに……」


 畑“だった”土地を呆然と眺めながら、ヴェンツェルは呟いた。





[17375] 第三十四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/07/30 08:20
 賊の襲撃から数日後―――ヴェンツェルは、畑をクワで耕していた。

 壊滅直後の畑は、もはや復旧するのも億劫だと言わざるを得ない、あまりにも見るも無惨な状態だった。
 なにせ地面が抉れているのである。嵐、あるいは竜巻が通った後のような無残さだった。その爪痕は尋常ではなかったが、それをなんとか地面を慣らしたのである。
 本当は、壊滅した畑を見ただけで心が折れそうになったが、ティファニアに「何度でもやるさ」と宣言してしまった以上、途中で投げ出すことはしたくない。

 それに、なんの詳細も告げられずに手渡された種がなんの種類なのか。それを知りたいというのもあった。
 オリヴァーからの仕送りに生活を依存しているのだから、彼に言われたことくらいはやってやろうという気持ちもある。

 ヴェンツェルは数日前、もしくは一月前と同じ作業を繰り返していく。種まきが終われば今度は雑草取りだ。今の時期は雑草の伸びが早い。さっさと除去しないともっと厄介なことになるのである。
 しゃがんで草をむしっていると、いつの間にか雲行きが怪しくなってきた。だが、適度な雨ならば、作物にとっては恵みの雨となる。
 作業が一段落したのを区切りにして、ひとまず農具をしまって村に帰ることにした。


 村に到着すると、ティファニアが庭に干していた洗濯物を取り込んでいた。それなりに量があったので、声をかけて運ぶのを手伝う。
 洗濯物を村の中央にある一番大きな住居――そこがティファニアとルサリィの住居である――に運び込むと、ヴェンツェルは一度家を出る。向かう先は自分の住居である。

 ルサリィにシティ・オブ・サウスゴータで購入してもらった、農業関連の書物を読むためだ。今までは完全に独学でやっていたので、いい加減知識の一つも身につけなければならないと考えたのである。
 しかしながら、いま彼が手にしているのはかなり難解な内容らしい。書かれていることはまったくちんぷんかんぷん。専門用語のオンパレードである。
 残念だが、これではいまの自分には役に立たないだろう。そう考え、ヴェンツェルは本を大きな樫の木で作られた本棚にしまう。

 そのとき、窓の向こうから雨の降る音がしてきた。予感的中である。そろそろ母屋に行くべきだろうか。しかし、夕食までにはまだ時間があった。では、なにか良い暇つぶしはないだろうか。

 何気なく机の上を見てみると、そこには羽ペンとインク壷、束になった羊皮紙が大量に置かれている。ルサリィが行商の不良在庫を格安で買い取ったのだという。使われる気配はまったくないが。
 と、ここで、ヴェンツェルはあることを思い出した。
 たしか、原作でいつかシエスタが小説を持っていた気がする。雇われメイドと主人が淫猥な行為を行うというものだ。
 となれば、もしかしたらアルビオンの住民にもそういう需要はあるかもしれない。娯楽のない世界は罪人の処刑すら大衆娯楽としてしまう。
 そういった文化は、二十一世紀の倫理感を持った人間としては理解しがたい。もちろん、まるで常識の異なる世界でそんな感情を抱いても仕方ないのだが。
 ちなみに、『倫理』というのは近代以降の日本で生まれた造語である。

 江戸時代の日本では、町民の生活をえがいたある種の小説が存在していたらしい。それは当時の日本の、近代化前としては高めの識字率の賜物だろうか。
 クルデンホルフ国内はかなり識字率が高いが、アルビオンはそうでもなさそうである。しかしながら、シティ・オブ・サウスゴータほどの大都市ならどうだろうか。
 人口が多く、商業も盛んな都市部ならかなりの識字率を見込める。そういった連中向けに娯楽本を出版してみてはどうだろう。
 幸いなことに、活版印刷と凹版印刷の技術はすでに開発されていて、ハルケギニア全土に拡散している。凹版印刷にはコストの問題が立ちはだかるものの、やろうと思えば挿絵をつけることが可能だ。
 実際のところ、すでに普通の娯楽小説の類は大量に出ているので、ヴェンツェルはやや違った趣向を狙ってみることにする。

 さっそく、彼は小説の設定を考え始めた。



 *



 あの事件以来、ヴェンツェルの畑が明確に荒れるということはなくなった。二週間も経つ頃には、まいた種から伸びた茎が少しづつ長さを増やしていた。どうやらこれは茄子の一種らしい。
 この日は相変わらずの快晴日和だった。だが、湿度は低くカラッとした陽気だ。いつかの猛暑はいったいなんだったのか。ただ、乾燥に弱い茄子にはあまりいい気候ではない。水は多めにまいておく。
 相変わらず我が物顔で生えてくる雑草を引っこ抜きながら、少年は汗を拭った。


 一方、ウエストウッド村。
 集落の一番北側にあるヴェンツェルの仮住まいを、一人の少女が訪れていた。彼女は口に布を巻いてハタキをぱたぱたとあちこちに打ち付けている。
 まったく小屋の掃除をしない使い魔の少年のことを見かねての行動だった。なるべく入るなと言われているが、いつまでも不衛生な状態にしておくのはティファニアとしては許せない。野良仕事ばかりしていて、疲れているのはわかるのだけれども。

 ふと、ヴェンツェルが普段使っている机が彼女の視界に入った。よく見ると、椅子の横に置かれた物入れからなにかはみ出している。きちんとしまわなかったのだろう。
 まったくだらしないことである。あれでは紙が痛んでしまうだろう―――そう考え、ティファニアは何気なく物入れの引き出しを開ける。

 そしてその大きな青い瞳に飛び込んできたモノに、彼女は一度、息をすることすら忘れてしまう。
 震える手で、一枚の紙切れを手にする。
 そこに描かれていたのは、明らかに自分をモデルにしたと思わしき少女の絵だった。小説の挿絵らしい。だが、それだけならいい。問題なのは、その場面にあった。
 しばらくまじまじと凝視したあと、ティファニアは顔中真っ赤になってしまい、尖った耳の先端部までをも朱に染めている。それが上下に動く。かなり動揺しているのが丸分かりであった。

 もうなにも考えられなくなり、彼女は小屋から飛び出した。



 
 ルサリィがいつものように買出しから戻ると、なにやらウエストウッド村は異様な雰囲気に包まれていた。
 なんというか、空気が“重い”のである。いままで感じたことのない強烈なプレッシャーすら漂ってきていた。そして、その根源は村の中心部、母屋の方から漂ってきているようである。

 銀髪の少女は、恐る恐る母屋の扉を開ける。そしてゆっくりと廊下を進み、食堂前にやってきた。
 こっそりと内部を覗いてみる。


「もうしません。許してください」

 なぜだか、全身ずたぼろのヴェンツェルが、目の前で正座をするティファニアに土下座をかましていた。一方で、普段の暖かな美貌を完全に凍りつかせた無表情のハーフエルフの少女は、ゆっくりと口を開く。

「…こういうの、まだわたしたちくらいの年頃の子には早いわ。まだ子供だし、そういうのは、駄目だと思うの」

 ティファニアは手に羊皮紙の切れ端を持っていた。それはヴェンツェルが、就寝前の時間を活用してこの二週間の間心血を注いで書き上げた“作品”の残骸であった。
 とてもではないが、大っぴらに人に見せられるものではない。明らかにニッチすぎるターゲットを想定して生み出された…、某仏書院も真っ青な作品といってよかっただろう。

 だが、それが世に公開されることはなかった。

 作中に登場する、神から授けられた五つのスーパー能力で貴族に成り上がった元平民主人公のメイド―――エルフのファーティマのモデルと思わしき少女によって、その妄執に憑りつかれて頭がイカれたとしか思えない文章の集まりは、『爆発』によって木っ端微塵に砕け散ったのである。
 この世の悪は“虚無”によって無に帰されたのだ。
 いや、ここでティファニアが小説を潰したのは正解かもしれない。もしそれがロマリアの知るところとなれば、ほぼ確実に異端認定を受けるだろう代物だったのだから。


 その後しばらく、ティファニアによるしどろもどろな説教が続いた。
 哀れなのか自業自得なのか、ヴェンツェルは今後“こういうもの”を書くことが一切禁止された。『主人として』のティファニアに命じられたのである。これで本を売って儲けようという野望は潰えた。
 彼にまともな教養本など書けるはずがないし、それが売れるわけもないのだから。









 ●第三十四話「決意」









「―――と、これが『始祖のオルゴール』。音は鳴らないがね」

 アルビオン王国北部、エディンバラ。領主の城に設けられた王の一室で、アルビオン王ジェームズ一世は、目の前の椅子ちょこんと腰かける少女に、古ぼけたオルゴールを手渡した。
 ちょうどこのころ。ウエストウッドの森では、ティファニアがヴェンツェルに羊皮紙を投げつけ、『爆発』を命中させたところだった。

「なるほど」
 その手の中には、まさに秘宝といえる貴重な宝物がある。
 だが、老いた王の孫に当たる少女―――アリスは、音のしないオルゴールをただつまらなさそうに眺めるだけだった。

 ジェームズ一世には、サリアのほかに娘がいなかった。だが、そのサリアは妾の子なので大っぴらに世間には出せない。挙句の果てには妻に母娘もろとも追い出すことを強要された。
 彼があまり弟のモード大公を表立って非難できなかったのは、自分にもやましいことがあったからなのだ。

 王が中央集権化を進める過程で、かなり強引にアルビオン各地の貴族から土地を召し上げることなどを繰り返した結果、彼は窮鼠に牙を向かれ、ロンディニウムを脱出せざるを得なくなった。
 そんな状況でいきなり飛び込んできた初見の孫。それがアリスだ。奇特なことに彼女も妾の子だという。だがそれとこれとは無関係だ。普段の宮廷ならば袋叩きにされるだろうこの少女の存在も、非常時下ならまったく問題にならない。堂々と面会できる。
 そんなわけで、老王はアリスを自室へ呼びつけたのだ。
 しかし、孫の顔は浮かない。いきなり「わしがお前の祖父なのだ」などと言われて困惑しているのかもしれない。

「そ、そうだ。いいものをあげよう」

 言うなり、彼は懐から宝石を取り出す。それはアルビオン王家に伝わる秘宝、『風のルビー』だった。それを無理やりアリスの指にはめ、杖をリングに当てる。すると魔法によって、大きな輪っかが、か細い少女の指にフィットする。
 さすがにこれがとんでもない代物だということは少女にも理解できた。怪訝な顔で問いかける。

「たしかに、いいものですが…。わたしのような人間が持つべきではないのでは?」
「なに。きみはわしの孫だ。せめてもの気持ちということで、受け取っておくれ」
「は、はぁ…」

 アリスは曖昧に頷くが、自分がこんなものを貰ってもしょうがない。あとでヴェンツェルにあげようと思った。

 そして、彼女はずっと行方不明の少年のことを思い出す。

 もう二ヶ月近く消息が知れない。アリスとサリアはその間ずっとエディンバラに居候している。いつの間にか、エディンバラ公の娘シャレイリアに懐かれてしまう始末である。
 もしかしたらヴェンツェルは明日帰ってくるかもしれない。そう思うと、なかなかクルデンホルフに帰る気にはならなかった。
 しかし。そんな自分のわがままで母まで巻き込んでしまっている。
 サリアはヴェンツェルが行方不明になってから一ヶ月ほど過ぎたとき、娘を連れて帰ろうとした。だが、それに反対して居座ったのはアリスの意思であったのだ。

 エディンバラからそう遠くないチェヴィオット丘陵の王党派はもはや死に体と化している。長らく敵軍の侵攻を阻止してきた要塞集団ハドリアヌス線は、もうそう遠くなく崩壊するだろう。
 そうなれば、いよいよ自分も脱出しなくてはならない。どこにいるのかもわからないヴェンツェルを置き去りにして。

 相変わらず笑みを浮かべて話しかけてくるジェームズ一世を尻目に、アリスは深くため息をついた。





 その一週間後。

 クロムウェルの鉄騎隊を中心とするアルビオン共和国軍精鋭部隊は、輸送船を使い、王党派の警備が手薄なアルビオン最北端へ上陸。
 そしていま、王党派第二の軍港であるアバディーン港に程近いハイランド地方東部を進んでいた。これはクロムウェルの立てた“奇襲作戦”によるものだった。

 鉄騎隊を構成するのは、主にモード大公派の貴族や他の没落した貴族である。黒い甲冑に身を包んだ一段は、粛々と馬を前方に向けている。
 その中の紅一点、マチルダ・オブ・サウスゴータは、隣の馬に乗る副官のトマス・コーウェンとなにやら話し合っていた。

 トマス・コーウェンはアルビオン西部出身で、元モード大公の家臣であり、一時は東部のノリッジ伯爵の執事を務めていた。
 しかしながら、伯爵は議会派の内部抗争の末に戦死。それとともに議会派内部の新教徒は一気に勢力を失う。そこに途中からゲルマニアの新教徒が押し寄せ、アルビオンは大混乱に陥った。それを鎮圧したのがまだ十代のジョージ・オブ・ヨークだった。
 とにかく、そういった混迷の情勢のなかをトマスは生き延び、なんとか再びマチルダに仕えることとなったのだった。

 クロムウェルは度重なる軍功によって、平民としては唯一の将軍の地位にいた。
 彼の軍隊はマーストン・ムーアの戦いで前ヨーク公を討ち取り、ウェイマスの戦いではコーンウォール公を捕縛している。再度王党派へ寝返ったランカスター公が逃げ込んだ湖水地方では、最終的に現地の王党派を全滅に追い込んでしまった。
 彼のやり方はいささか乱暴だと非難を浴びることも多かったが、それはクロムウェルとて承知していた。
 議会派に参加したのは、あくまでも二度と王家による暴虐を起こさせないためである。長きに渡る平和を勝ち取ることさえできれば、あとはどれだけ自分一人が汚名を被ろうとも構わない。

 強い決意を胸に、クロムウェルは敵―――アルビオン王ジェームズを討ち取るべく、静かにアバディーンへ軍を進攻させていった。



 ほぼ同時刻。

 アルビオン共和国護国卿ジョン・オブ・サセックスは、自らが心血を注いで建造した大型戦艦『リパブリック・オブ・アルビオン』に搭乗し、多数の兵を引き連れてハドリアヌス線の眼前に迫っていた。

 共和国軍は総勢三万。五隻の戦闘艦艇による援護射撃がある。王党派は一万。ところが、その数には各地で背走した多数の負傷者が含まれていた。それを外すと五千名程度の兵士しか残っていない。
 べリック要塞はハドリアヌス線の東端、ツウィード川の終わりにある。
 川の流れが生み出した平地にあるため、今まで幾度と無く攻撃が加えられてきたが、それでも持ちこたえてきた。
 しかし、ことこの状況ともなればもはや防衛することは不可能だ。

 それでもなお降伏しようとしない基地司令の考えを改めさせるために、護国卿就任直後に一足飛びに大公となったサセックス大公ジョンは、艦体側面の主砲の発射を命令。
 敵兵を焼き尽くす、無慈悲な砲弾の雨が要塞に降り注いでいった。



 *



 べリック要塞壊滅の報を受けたジェームズ一世は、ついにエディンバラ、ひいてはアルビオン全土からの段階的撤退を決断せざるを得なかった。
 ヴェンツェルの予想と違って、もう王党派は大規模な航空艦隊を運用できるだけの力すら失っていたのだ。一直線にトリステインへ亡命させるのならまだしも、戦闘を行う余裕などなかった。

 エディンバラに駐在していたトリステイン大使に連絡をとり、急ぎトリステイン王、つまりは自らの弟であるヘンリーに王党派貴族の亡命を打診。すぐに得られた返答は、『即時亡命受け入れ』というものだった。それからすぐに、女性や子供を満載したアルビオン空軍艦がエディンバラを脱出。
 このとき、トリステイン王と家臣の間には熾烈なやり取りが生じたという。王が半ば押し切って受け入れを認めたのだ。

 護衛艦艇の中には、サー・ヘンリ・ボーウッドが艦長の『ドレッドノート』の姿もある。結局、新型艦は内戦では一度も使われることがなかったのである。

 エディンバラの城のテラスで、アリスは大規模艦隊がゆっくりとアルビオンの地を去っていくのを、ただ静かに眺めていた。

 
 一方で王は、直々に空軍旗艦『ロイヤル・ソヴリン』号に乗り込み、付き従う家臣、王太子らと北のアバディーン港へ向かった。
 わざと目立って自分の位置を共和国軍側に流すことで、亡命船に危害が及ぶのを防ごうとしたのである。せめてもの陽動だ。敵を引き付け、最後に自らも亡命するつもりだったようである。

 最後の王党派は皆、一縷の望みを賭け、北へ向けて進む。

 そう。まさか、自分たちの行動を既に見透かしていた男がいるなどとは、つゆにも思わず…。



 *



 その日は、夏場にしては涼しい風が舞っていた。


 苦難の末にようやく実った茄子を茎から切り離していく。茄子の茎を支えるために添え木をしてあるため、しゃがむとちょうどいい高さに茄子がある。
 ヴェンツェルは切り取った茄子を籠の中に入れていく。予想外の豊作だ。なすは黒く、紫のような色がへたの方に見える。傷も無い。これなら、町で売ってもいいかもしれない。

 背中に大きな籠を背負ったヴェンツェルは、やがていつものようにウエストウッド村の広場へたどり着いた。と、そこで一人の少女が立ち尽くしているのが目に映った。ルサリィだ。
 彼女はいつになく真剣な表情で少年を眺めている。二ヶ月程度一緒にいたのだが、彼女がこんな表情を見せたのは初めてだった。
 ルサリィは無言で手にした新聞を渡してくる。

 そこには、

 『王党派、エディンバラ放棄 残党がアバディーン港へ集結している模様』
 『アルビオン共和国軍、亡命船一隻を撃沈 トリステイン王国が非難声明』

 との見出しがあった。

「…これは」

 思わず、ヴェンツェルは呟いてしまう。自分がのんきに畑を耕し茄子を植えて、あまつさえ低俗な小説を書いている間に状況が一気に悪化していたのだ。

 これでよかったのか? 今さらながらそんな自問をする。
 けれど、そんなはずがなかった。もし、もし撃沈されたという亡命船にアリスやサリアが乗っていたとしたら? いや、身内だけの話ではない。たった一隻の船でも、乗員はたくさんいるのだ。まして非戦闘員が…。
 不甲斐ない自分にやるせなくなって、ヴェンツェルは新聞を握り締めた。くしゃ、という音がして、紙が潰れる。
 だが、こんな風にもたもたしているうちに王党派は全滅してしまうかもしれない。

 このとき、彼は猛烈な悪寒に襲われていた。今すぐアバディーンへ向かわなければ。そうしなければ一生後悔する。直感的にそう感じていた。


「ヴェンツェル?」

 と、そのとき。なんの当てもなく走り出そうとしたヴェンツェルを呼び止める声がする。後ろを振り返ると、ティファニアがこちらへ駆け寄ってくるところだった。
 小説の一件以来、彼女とヴェンツェルの関係は非常にぎくしゃくとしていた。それは少年の方が全面的に悪いのだが、ティファニアの方もほとんど意地になってしまっていたのだ。
 だが、この場のただならぬ気配を感じ取ったらしい。焦りを込めた瞳で問いかけてくる。

「いったいどうしたの? なにがあったの?」
「…」
 その問いかけに、無言のヴェンツェルが新聞を手渡した。そこに記されていた記事にティファニアの目は釘付けとなってしまう。しかし、すぐに正気を取り戻した。とがめるような口調で、まるで諭すように告げてくる。

「…でも、だからってあなたが戦場に行くことはないでしょう。なにか大切なものがあるの? 流れ弾に当たって命を落とすのかもしれないのよ?」
 困惑気味なティファニアの口調に、ヴェンツェルはただ淡々と返答を行う。

「わからない。だけど…。自分の中にある“なにか”が警鐘を鳴らしてくるんだ。いま行かなくちゃ死ぬまで後悔するって」

 真剣な表情になったヴェンツェルは、じっと目の前の二人の少女を見据える。その瞳には、かつてないほどの“決意”が宿っていた。なにが彼をそこまで駆り立てるのか。それは少女たちが知ることではない。

 だが。
 いつもの彼とは違う、ひどく強い意志を見せた瞳の意味するところはティファニアにも理解できた。

 ―――ああ、この人は大切な人がいるんだ。その人を守りたいから、こんなにも…。


「…はぁ。まったく、しょうがないなあ。なんだか、きみを見ていると思い出しちゃうな。昔のオリヴァーのこと。…いいよ。連れていってあげるわ。アバディーンまで」

 そこで唐突にルサリィが言い出した言葉に、ヴェンツェルとティファニアはしばし呆然としてしまう。連れて行く? 言っては悪いが、ルサリィがどうやったらそんな手段を用意できるんだ?
 そんな疑問を思い浮かべていると、突然、銀髪の少女の体が淡く光り出した。
 いや、その光はアルビオンの大地から次々と湧き出しているのだ。それが次々と吸収されていって…、ルサリィは、一回り以上も大きな女性の姿となった。

「き、きみは…」
 開かないまぶたを精一杯開け、目を見開いたヴェンツェルの呟き。ヘスティアのことが口から出かけた瞬間、ルサリィは大人っぽい、しかしどこか子供染みた表情で答える。

「わたしは風石を吸収することで、本来の姿と能力を得ることができる。そしてここは浮遊大陸アルビオン。地面の結構上の方まで風石があるの。…実を言うとね、この前の強盗さんたちを捕まえるとき、こうなったのよ。まだ力を上手くコントロールできないから、あんな風にめちゃくちゃにしちゃったけど…」

 舌を少しだしながら、おどけるように言う。未だに固まったままのティファニアを放置し、少年はふと湧いた疑問を投げかけてみた。

「どうして、僕を連れて行くなんて…」
「わたし個人としては、本当は今回の内戦にオリヴァーが関わるのは反対だったの。でも、彼の好きにやらせてあげたいから、って行かせてあげたんだけど…。もうずっと離れ離れ。たまに会えてもはぐらかされちゃうし…。言っとくけど、建前としては、わたしは彼に会いに行くだけよ? 誰かがくっついてきてもそれは責任なんて持てないわ」

 建前、と堂々と言い放ってしまう辺りがなんとも正直というか、見かけによらず子供のような論調だった。

 そうと決まればあとは早い。一刻も早く現地へ向かわなくては。情報伝達の速度を考えれば、最悪アバディーンはもう戦場となっているかもしれない。

「じゃ、じゃあ。よろしくおねが「待って」」

 ヴェンツェルがルサリィに歩み寄ったとき、横からティファニアが制止してくる。また止める気なのだろうか。

「わたしも行きます!」
「え? それは…」
「いえ、やめたほうがいいわよ」
 二人に一気に駄目出しされたティファニアは一瞬涙目になりかけたが、それでも引き下がるつもりはないようだった。

「使い魔はメイジの一生のパートナーです! それを見捨てるようではメイジの名折れ。なら、呼び出してしまった責任もあるので、わたしも行きます」
「でも、耳が…」
「こうすればいいんです」
 言うなり、ティファニアは服に備え付けられたフードを深く被った。なるほど、これならフードが取れさえしなければ彼女がハーフエルフであることはそう簡単には露呈しないだろう。

「はあ。テファってほんと、妙なところで決断が早いっていうか…。耳だけは絶対に隠さないとね。じゃ、行きましょう」
「でも、どうやって?」

 もっともな疑問である。いや、半ばヴェンツェルはこのあとの未来を知っていたのかもしれない。かつてトリスタニアやクルデンホルフの上空を高々と飛行したことのある彼は…。

「もちろん、わたしが抱えていくわ」

 言うが早く、ルサリィはヴェンツェルとティファニアを抱きかかえた。それと同時に感じる、重力に逆らう猛烈な加速。
 案の定、三人の体は地上の遥か上を高速で飛行し始めたではないか。


「…」

 吹きすさぶ風のなか、ヴェンツェルはずっと前を見つめていた。
 その視線の先には―――




[17375] 第三十五話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/07/30 08:22
 ヴェンツェルとティファニアが、ルサリィに連れられて飛び立つ直前。

 アバディーンの港に、一隻の大型艦艇が停泊していた。
 その名は、アルビオン王立空軍艦隊旗艦『ロイヤル・ソヴリン』という。周囲には、中小十隻ほどの船が同じように港の岸壁へ係留されている。

 王たちが臨時の司令部へ向かったあと、船から埠頭へ繋がるタラップをゆっくりと下りていく親子の姿があった。
 一人はアリスだ。冷たい風が彼女の頬を撫で、薄紫色の頭髪を風下へなびかせる。同じ髪の色をした母親のサリアは、はぁとため息をつきながら娘に続く。

 エディンバラから王党派の艦隊が脱出すると聞かされたとき、今度こそ娘を連れてクルデンホルフへ帰ろうとした。
 だが、それはどこまでも頑なな少女の態度によって破綻した。大事な娘である以上、それを置き去りにして自分だけ逃げ出すことなどできないのだ。
 しかしここは紛争地帯。まして、ほぼ敗戦が確定している王党派の最後の軍港だ。最悪の場合、敵に攻め込まれてしまうかもしれない。
 やはり無理にでもアリスをエディンバラ公の娘と一緒に地上へ下ろすべきだったのだろうか。しかし、いまとなっては考えるだけ無駄なように思えた。

 アバディーンには、各地で共和国軍に敗れた敗残兵たちが列をなしてやってきていた。その数は数千人。負傷者が多く、とてもではないが王党派に残されたメイジたちだけでは手に負えない。
 間借りした宿でぼうっとしていたアリスは、彼女が魔法が使えるという噂を聞いたアルビオン王太子ウェールズに呼び出された。
 向かった先で王太子から告げられたのは、敗残兵への医療行為に対する協力要請だった。別に断ることもないだろう。そう考えたアリスは、二つ返事でその要請を受け入れた。
 夜になったら部屋に来いとも言われたが、それは丁寧にお断りする。

 いざ現場に行ってみると、そこはまるで地獄絵図のような光景が広がっていた。
 つん、と鼻をつくような血の臭いがした。
 辺りを見回すと、様々な人々が目に飛び込んでくる。
 体に欠損を負ったことで痛みにもがく兵士。目の焦点が定まらず、正気を保っているのか分からない少女。
 縫合が甘かったために傷口が開き、血を流してぐったりとする男性。そして、その男性の手をとって必死に呼びかける、やはりぼろぼろの衣服を着た女性。

 そういった人たちを魔法で治療するため、アリスは無造作に置かれたベッドの海へ突き進んでいった。
 正直、めまいがするような光景だ。それでも、苦しんでいる人たちが目の前にいるのである。





 アバディーン市街地に設けられた臨時司令所。

 アルビオン王ジェームズ一世が窓際の大きな椅子へ腰かけ、眼前の男たちと会議を行っていた。
 もっとも王に近い左側の席には王の第二子であるウィリアム王子。右側の席はエディンバラ公爵。将軍や政府高官が残りの席を独占し、王へ向けてああでもないこうでもないと進言している。
 末席で顔を青くしているのはアバディーンの市長だった。本来なら精悍な顔立ちであったはずの彼は萎縮し、おろおろと視線をさ迷わせていた。市長は艦隊の脱出後に、反乱軍側へ降伏するよう命じられていたのである。
 情けない男だ。埠頭の初見でジェームズ一世はその男をそう評価し、以後まったく気に止めることがなかった。

 敗残兵の収容が終了次第、王党派はアルビオン本国から完全撤退、トリステインへ亡命する手はずとなっていた。
 ここにきて、今まで不介入を徹底していたトリステインもついに本格的に動きだした。ラ・ラメー伯爵指揮下の艦隊を出迎えに遣すとまで通達してきたのである。
 そうなれば、反乱軍側が保有するわずかな艦艇に打ち負かされることもない。
 あとは早く撤退の準備が整うのを待つだけだ。

 だが。
 そこでふと、王はかすかな違和感を抱いた。部屋にいる使用人たちだ。彼らはみなただ黙し、影のように壁際にいるだけである。
 しかし。その中に混じっていた一人の女性の姿に、王は違和感を抱いたのだ。

 奇妙な既視感を抱くのと同時に、彼の記憶がフラッシュバックする。
 あれは、もう二十年も昔のことだろうか。

 弟のモード大公の誕生会に出席したときのことだ。ワイングラスを持って談笑する弟たちの隣に、同じように仲むつましげに寄り添う男女の姿があった。
 そして、その女性の方と目の前の眼鏡の女性は顔がそっくりだった。いや、瓜二つの生き写しと言っていいかもしれない。
 そう―――あれは、サウスゴータ太守夫妻。そして、彼らには娘がいたはず。果たして眼前の女性が無関係な一般人なのだろうか?
 偶然にしてはあまりにも似すぎている。

 つまり、それの意味するところは…!

 ある疑念を持って、ジェームズ一世が杖を構えて立ち上がったとき。
 突如として、アバディーン市長が同じように椅子から飛び出した。
 まったく周囲の反応が追いつかないほどの速度で男の体が宙を舞い、ほんの一瞬で老王の首を切り裂いた。王は目を見開いたまま、糸の切れた操り人形のように、床へ崩れ落ちる。
 あまりに突然の出来事に、ウィリアム王子や政府高官らは判断が追いつかない。ただ一人、エディンバラ公爵だけがとっさに反応。風の魔法で防壁を生み出した。

 そして、その一瞬の判断の違いが彼らの生死を分ける。

 壁際にいた使用人たちこと、鉄騎隊メイジ――彼らは、事前に元々の使用人と入れ替わっていた――が高速で呪文を詠唱。
 次々と放たれた様々な魔法がその場の王党派貴族たちを襲い、そのほとんどを絶命させるに至った。
 それでも、ただ一人、風のスクウェアメイジであるエディンバラ公爵だけは脱出してしまったのだったが。


 あとには死体の山だけが残される。

 アバディーン市長を捕縛し、成り済ましていたクロムウェルは、そこで市長の服を脱ぎ捨てた。
 予想通り王党派はこの町にやってきた。そして、普段は田舎の港町に過ぎないアバディーン市長の顔を知る政府高官など誰もいない―――その目論見すら的中していたのだ。
 クロムウェルは部下に王党派貴族の遺体を片付けるように命じる。敵とはいえ貴族だ。丁重な扱いは欠かさない。
 そして、杖を持った腕をだらんとぶら下げたまま、部屋の隅で蝋人形のように固まるマチルダへ歩み寄って行った。

「マチルダ。終わったよ」
「…あ、お、オリヴァー…」

 マチルダの肩にぽんと手を置くと、クロムウェルは静かに告げる。その体には、王を切り捨てたときに浴びた返り血が、べっとりとこびりついていた。

「ごめん。ごめんなさい…。おかしいよ。あんなに両親の仇討ちがしたかったのに。いざ目の前にあの老人がきて、はらわたが煮えくり返っていたはずなのに。どうして、どうして討てなかったの。ずっと戦場にいたのに、なんで肝心なときに…」

 端整な造りの顔をとても苦しげに歪めながら、マチルダは床で泣き崩れてしまった。
 無理もないだろう。彼女は戦場にいたが、それはほぼ後方でのことだった。クロムウェルが知る限り、彼女が直接人を殺めたという話はまったく聞いたことがなかった。
 普段はティファニアの“姉”としての体面があるからこそ、気丈に振舞っていたのだろう。今までかなり無理をしていたのかもしれない。

 自らの胸の中で泣きじゃくる女性の背中をゆっくりと撫でてやりながら、しかしクロムウェルはどうしようもない喪失感に襲われていた。
 確かに王への復讐は果たした。それは、ここで絶命した王によって、自らの生活基盤を破壊された者たちのほぼすべてが望んだことなのだろう。それは自分も同じはずだ。
 しかし、家族の“仇”を討ったのに、どうして自分は喜ぶことができないのだろうか。
 すべては今日のために行ってきたはずだった。なのに、この満たされない感情はなんなのだろう。

 クロムウェルは自問自答を始めた。だが、いつまで経っても答えが脳裏に浮かび上がることはなかった。





 ジェームズ一世、そして司令部の貴族は、アバディーンに潜入していた反乱軍兵の奇襲によって壊滅の憂き目を見る。
 その情報は、全身に傷を負ったエディンバラ公が、港に停泊中の『ロイヤル・ソヴリン』号の甲板にいたウェールズ王太子の元へ駆け込んだことで発覚した。

 父や弟の死を受けたウェールズ王太子はしばし呆然としていたが、すぐに両の手を強く握り締めた。

「バリー。残った将校を集めろ。…これより、アルビオン軍の指揮はわたしが執る」

 だが、すぐに顔を上げて、執事のバリーに自分の意思を継げる。
 そして、一部の家臣たちに負傷者の船への搬入を命じた。周囲に残った家臣や将校には、港の周囲にある倉庫脇の通路にバリケードを作らせる。
 これから突撃してくるであろう、反乱勢との決戦に備えるためだ。
 彼は悲しむことよりも、これから守らなくてはならない人命を優先したのだった。


 王太子のそんな様子を、負傷者の搬入を手伝うアリスはぼうっと眺めていた。ふと、風メイジ特有の耳の良さが発揮される。
 それがもたらしたのは、アルビオン王が敵に討たれた、という事実だ。

 初対面の自分に笑顔を振りまき、彼女がろくな反応も返さずにいるにも関わらず、王は一生懸命アリスとコミュニケーションをとろうと頑張っていた。
 きいてもいない昔話を聞かされて辟易としたが…。
 思えば、彼は自分の娘とずっと離れ離れになっていたのだ。ただ捨てたのではなく、理由があったという。だから、その子供―――孫と会えたのが、本当に嬉しかったのかもしれない。
 もっと真剣に話を聞いてあげるべきだった。しかし、それはもう遅すぎたのだった。

 どうしようもないやるせなさに襲われたアリスは、負傷者を船に搬入したあと、どこかへ姿を消した。誰の目にも映らない場所を求めて。

 やがて、行方知れずとなった娘を探していたサリアは、民間人を船に非難させるという命を帯びていた貴族によって、避難船『ウェリントン』号に放り込まれてしまうのだった。



 *



 ヴェンツェルたちがアバディーン市に到着したとき、すでに街中では王党派と反乱軍の大規模な市街戦が発生していた。

 町外れにあったレンガ造りの建物の上に着陸したルサリィは、ヴェンツェルとティファニアを屋根に下ろす。
 この辺りではもう戦闘が終っていたらしく、散発的な銃撃音や爆発の音は確実に港の方向へと移動していた。それはつまり、王党派が次第に追い詰められているということを意味する。

 もうもうと真っ黒な煙を吐き出す市街地を眺めながら、ティファニアはただ呆然としていた。
 そこには、自分の見たことがない世界が広がっていたのである。
 彼女がヴェンツェルについてきたのは、ただ使い魔である少年が心配になったということもあったが、実のところクロムウェルの行いをこの目で見極めようとしたのである。

 自分の命を救った男。そんな人が戦争に参加して人殺しを行っている。どうしようもない矛盾が感じられた。
 眼下に広がるのは、荒れ果てた町の様子だった。建物の壁は抉れ、地面はところどころ黒こげになっている。この町の人々はどこへ消えてしまったのだろうか。本当ならば活気に満ちているはずの港町が、自分の恩人によって破壊されている。

 今まではなにが起きようとも、知らないふりをして目を瞑ってきた。
 だが今日、半ば突発的にとはいえティファニアは村を飛び出した。そのきっかけを作ったのは、隣で港のほうを観察しているこの少年だ。彼が無理やりにでも村を出ようとしなかったら、こうして自分がこの場所に立つことはなかったし、きっと一生を隔離された場所で過ごして生涯を閉じていた。
 自分がいかに厄介な存在だということは、彼女自身がもっともよく把握していたのである。

 そういえば、どうしてヴェンツェルは初見のときに自分のことを恐れなかったのか。ハルケギニアの人間ならば誰もが忌み嫌う存在、それがエルフのはずだったのに。
 しかし、今の状況でそんなことを尋ねるのはばかられた。


「で、どうするのかしら。ヴェンツェルくん? ここまでは連れてきてあげたけど、この先は協力できないわよ」
「ええ。わかってます。ここまで連れてきてもらえただけでも、十分ありがたいですから」

 空から吹き込んでくる風に銀髪を揺らしながら、ルサリィは少年に問う。
 それに答えるヴェンツェルは、相手が大人の姿をしているからか微妙に丁寧な言葉遣いになっていた。

「…とりあえず、僕は港へ向かうことにする。さっきから嫌な胸騒ぎばっかりして、もういてもたってもいられないんだ」
 少年の言葉に、ルサリィは小さく頷いた。
「じゃあ、わたしとティファニアはオリヴァーのところへ向かうわ。ここでお別れね」
「ええ」

 二人はそんなやり取りをしていた。
 やはりというか、彼とはここで袂を分かつしかないのだろう。あくまでも王党派の側に立つヴェンツェル。そして、一応は議会派側の人間であるティファニア。
 なぜ二人が『サモン・サーヴァント』を通して出会ったのか。どうして彼が『リーヴスラシル』などという得体の知れない使い魔のルーンを得たのか。
 それはまだ、ハルケギニアの誰にもわからない。


「じゃあ…。ティファニア。短い間だったけど、いろいろとありがとう」
「あ、うん…」

 ぼうっとしている間にルサリィとヴェンツェルは話をまとめてしまったらしい。
 少年はもう杖を持って歩き出していた。はっと意識を取り戻したティファニアは、その背中に問いかける。

「ヴェンツェル。わたしたち、おともだちよね」
「ああ。ともだちだよ。だからいつかまた、きっと会える」

 それだけ言い残して、ヴェンツェルは階段を駆け下りていった。


 それを見送ったあと、ルサリィがティファニアに告げる。

「じゃあ、オリヴァーのところへ行きましょう」


 結局、なぜルサリィが大きくなっているのか、ティファニアはわからないままだった。










 ●第三十五話「第三の虚無」












 向かい合う二つの人影。
 対峙するのは、気の弱そうな金髪の青年と、薄紫の髪を頭の後ろで束ねた少女アリス。
 そこはアバディーンの港を少し南に下った断崖絶壁のそばだった。下を見下ろせば、真っ白な雲の海が見えた。きっと、この下には青々とした海があるのだろう。
 そしてここは前線から外れているからかなの、辺りには二人のほかに人の気がまるでない。

「まったく、奇遇だね。トリスタニアの城以来かな、こうして会うことになるのは」
「あなたは…」

 青年は、かつてガリア王国の北花壇騎士団に所属していた。名をマンショといい、一時期はクルデンホルフ攻めに参加して捕虜となっていた。
 牢獄を脱走した彼はアルビオンに流れて傭兵ギルドに登録していた。そして先日、さる貴族からギルド経由で出された“依頼”を実行するため、この場所へやってきていたのだ。
 もうすぐ“標的”のそばに近づける―――その矢先の遭遇だった。

「いまのぼくはただの雇われ傭兵だ。きみと敵対するつもりはないし、きみがどうしてこんなところにいるのか訊くつもりもない。ただ依頼を実行したいだけだ。だから、そこを通してほしいんだよ」

 アリスは思考する。
 恐らく、青年の言っていることは嘘ではないだろう。偽る意味がないからだ。重要なのは“依頼”の内容である。
 ほぼ間違いなく、それは要人の暗殺のことを差すのだろう。それが誰なのかはわからない。ただ、なにをされるかわからない以上はここを通すわけにはいかなかった。

「…いえ。そういうわけにはいきません。あなたのような怪しい人は、さっさと牢屋に帰るべきです」
「そうか。なら、力ずくでも通らせてもらうよ」

 アリスの言葉は予想していたのか、マンショは『クリエイト・ゴーレム』を詠唱。
 地面から三体のゴーレムが現れた。その威容を目にした少女は、思わず息を呑む。
 ゴーレムの外装が金属で出来ていることは以前と変わりない。だが、外装面の意匠が大きく異なっているのだ。
 以前見たときは、全体的に丸めでトゲのないデザインだった。しかしいま目の前に立ちはだかっているゴーレムは、かつてからは考えられないほどに禍々しい凶悪さを感じさせる、鋭利な存在感を放っている。
 全身に刃物がついているようにすら見える。あれでは、生身の人間がそのまま接触すればただではすまなくなるだろう。

 重量のある相手だ。風の魔法には期待できず、『錬金』で対抗しようにもアリスは土の魔法は大の苦手だった。どうも相性が最悪らしい。
 あるいは『ブレイド』ならば金属の装甲を切り裂くことも可能かもしれないが、目の前のゴーレムは『触れるな危険』状態の相手である。
 初手はどうするか。そんなことを思ったときだった。

 ずしん、という大きな衝撃が彼女らの元に伝わってきた。それは散発的に起き、何度も地面を揺らす。
 思わず背後を振り返ると、港の方に大きな船が浮かんでいるのが見えた。それはアルビオン王立空軍旗艦、『ロイヤル・ソヴリン』号だった。
 艦の側面を港の方向―――正確には、クロムウェルの鉄騎隊がいる倉庫の方向に向けて、艦砲射撃を行っていたのだ。

 それは数分間続いた。

 ところが。

 瞬いた、次の瞬間―――『ロイヤル・ソヴリン』号が、目もくらむようなとてつもない大きな光に包まれ、そうしたかと思うと急に浮力を失ったかのように降下を始める。
 やがて港の北側に轟音と共に不時着した戦艦は、火災をおこしたらしい。マスト上に白旗が昇る。

 その光景を、戦闘を中断した二人は呆然と眺めていた。


 そこへ、さらなる驚きが舞い込んでくる。


「アリス!」

 突然、彼女の耳に懐かしい声が飛び込んできた。
 思わず、その方向を振り向いてしまう。すると、西の方角から一人の少年が駆けてくるところだった。彼は質素な服に身を包み、メイジの象徴である杖を手にしていた。

「…坊ちゃま」

 信じられない、といった様子で少女は呟く。まさか、王党派が撤退する直前の、このタイミングで帰ってくるとは。

「ごめん、待たせた」
「…」

 見ないうちに、少しばかり日焼けしたらしい。たった二ヶ月しか経っていないのに、どうしてか様相が異なっているように感じる。

「どこ行ってたんですか、ばか…」

 大きな、サファイアのような青を宿した瞳に大粒の涙を浮かべながら、少女はぼそりと呟いた。
 すまないと言いながら、ヴェンツェルはアリスの頭を撫でてやる。すると、頭に載せられた手が思い切り弾かれた。

「…なに調子に乗っているんですか」

 再会の嬉しさでナデポとはいかないようである。


「…あー、取り込み中悪いんだが。もう行ってもいいのかな」

 投げやりな様子のマンショが問う。アリスとしては通したくなかったが、
 「もう王党派は終わりだ。さっき、『ロイヤル・ソヴリン』が沈んでいただろう? あれ以外の船は出港してしまっているから、もう守るものはないよ」
 と言われて、彼を連れて脱出する道を選ぶ。
 このままマンショとやりあっても、お互いが損耗するだけだと考えたからだ。

 ヴェンツェルを抱きかかえると、アリスは近くにあった岸壁から飛び降りた。

 そのまま、大陸の下を航行していた船に向かって、彼女たちは滑空していくのであった。




 *




 アリスとヴェンツェルの脱出から、時間は少しばかり遡る。

 クロムウェルが鉄騎隊の主力を率いて港へ向かったとき、すでに港への道の大部分は障害物によって封鎖されていた。
 主力はメイジだけで構成されているため、『フライ』でそれを越えることもできたが、もしかしたら銃を持った兵士が待ち構えているかもしれない。空を飛ぶのは危険すぎると判断。
 一団は、もっとも大きな道路上にあるバリケードの撤去を始めた。

 と、そんなときである。空から二人、誰かが飛んでくるのが見えた。それを見て慌てたメイジの一人が打ち落とそうと杖を構えたが、クロムウェルはすぐに制止。『ライト』を唱えて杖を振り始めた。どうやら、自分の位置を知らせているらしい。
 やがて、その場に二人の少女が下りてくる。先ほどのメイジは、銀色の髪の少女の頭身が下がっている気がするも、クロムウェルに促され再び撤去作業を始めた。


「…どういうことだい」

 眼前に立つ少女たちの目をまっすぐに見つめながら、クロムウェルは低い声で問う。
 今まで見たことのない覇気を感じたティファニアはすくみ上がってしまうが、ルサリィは怯えた様子など微塵も見せずに言う。

「ヴェンツェルくんがここに来たいっていうから、連れてきたの。ティファニアはそのついで」
「なぜ、そんなことを?」

 クロムウェルは酷く困惑した表情で問いかける。様々な疑問の数々が、その一言には込められていた。

「本当はあなたの言うとおり、ずっとウエストウッド村にいさせるべきだったんだろうけど。けど―――」

 ルサリィが説明を行おうとした、そのときだった。その場にずしんという大きな音が響き渡り、彼らの後方で大きな爆発が起きた。
 空を見上げれば、大陸の上方に大型戦艦『ロイヤル・ソヴリン』号が側面をこちらに向けて浮かんでいるではないか。そして、その一部が光り―――

「逃げろ!」

 というクロムウェルの叫びが聞こえたときには、ティファニアの目の前の地面に、空から降ってきた砲弾が直撃するところだった。



 ほんの一瞬だったのか、それとも何時間も経っていたのか。地面に転がっていたティファニアは目を覚ました。

 彼女のそばでは、ルサリィとクロムウェルが同じように倒れこんでいる。どちらもかなり吹き飛ばされたらしく、とくにクロムウェルは背中に裂傷を負い、おびただしい量の出血を起こしていた。
 よく地面を観察してみると、なぜか三人の周囲だけ被害は軽微だったようだ。
 どうにも不自然な破壊痕が、それを如実に物語っていた。
 やがてルサリィも目を覚ましたらしい。横で倒れこむ男性の姿を見るやいなや、その大きな体にすがりついた。

「お、オリヴァー!」

 ルサリィは泣きそうな顔になる。そのとき、ティファニアは不穏な気配を感じて上空を見上げた。巨大な戦艦はまだ先ほどと同じ位置を漂っており、今にも砲弾を発射してきそうだ。
 はっきりと意識の中で改めて周囲を見回すと、そこには地獄絵図が広がっていた。
 漂ってくる猛烈な血の臭いとあまりに凄惨な光景に、一瞬気を失いかける。
 だが、彼女はそこで倒れなかった。なんとか持ちこたえる。

 生き残った水メイジがやってきて、クロムウェルへ必死に『ヒーリング』をかけている。そのとき、再び地面が揺れた。
 『ロイヤル・ソヴリン』号が砲撃を再開したのだ。無慈悲な砲弾の雨が、侵入者である鉄騎隊の隊員たちをなぎ払うべく降り注いでいく。
 次々と市街地に砲弾が落下し、断末魔の叫びが木霊していく。

 どうして。どうして、こんなことをするのだろうか。もうこちら側に戦闘を継続する力はないのに、相手は容赦なく砲弾を浴びせてくる。

 だが、これが戦争だと、ティファニアの変に冷静な部分が告げてくる。
 恐らくはクロムウェルも王党派相手に似たことを繰り返してきたのだろう。
 一人でも多く敵を倒さねば、敵を殺さねば、戦争は終わらない。

 それが現実だった。

 ティファニアはそのことを考えたとき、思わず重圧に押し潰されてしまいそうになる。

 そのとき、彼女の脳裏にあるルーンが浮かび上がってくる。それは先日、卑猥な文章と絵を描いていたヴェンツェルにお仕置きをしたときに唱えた魔法だった。
 しかし、今回のそれは、先日のものよりずっと長いルーンである。
 彼女は無意識にその魔法を詠唱していく。

 前回は漠然としたイメージしか浮かばなかった。しかし、今度は違う。明確な“意思”が彼女の脳裏を駆け抜け、選択を求めてくる。
 破壊するのはなにか。殺すか、殺さぬか。

 ティファニアは即座に答えを出す。
 壊す必要などない。戦闘能力さえ奪えれば、それでいい。だから彼女は望む。

「みんなの、命を―――」

 最後にそう呟き、少女は杖を天高く掲げる。それと同時に、『ロイヤル・ソヴリン』号の上空に小さな光の玉が現れる。
 それは次第に大きくなって、最後には大型戦艦を飲み込むほどになったではないか。

 だが、そこまでだった。
 光は『ロイヤル・ソヴリン』号のみを覆ったあと、すぐに消滅。大慌てで港から脱出する他の船には、まったく効力が及ばなかった。

「はぅ…」

 爆発が収縮して消え去ったとき、ティファニアは思わず体から力が抜けて、その場にへたり込んでしまいそうになる。
 だが、その体を支える者があった。金色の髪の、まだ年若い青年だ。ただ、彼が身に着けているマントに記された刺繍は、青年がかなりの高貴な身分の存在であることを示していた。


「ヨーク公…」

 水メイジの必死の治療で傷が若干回復したらしいクロムウェルが呟いた。
 そう、彼こそはジョージ・オブ・ヨークである。実の父を議会派によって討たれたにも関わらず、自らはヨーク家の残党を率い、議会派に参加した人物だ。
 最初こそ疎まれていたものの、ゲルマニアからの新教徒移民による混乱を沈静化させた手腕を、当時のサセックス伯に買われて共和国政府の内務卿に就任していた。

「久しぶりだね、クロムウェル将軍殿」

 端整な造りの顔に、にこやかな笑みを浮かべつつジョージは言葉を続けた。

「そして、始めまして。ティファニア様。ジョージ・オブ・ヨークと申します。以後、お見知りおきください。…さっそくですが、どうかこの矮小なわたくしめに、貴女の麗しき御手を」
「え? は、あの…」

 突然の出来事に驚くが、言われるがままにティファニアは右手を差し出す。すると、ジョージはよりいっそう輝くような笑みを浮かべ、その手の甲に接吻を行う。

「まこと光栄の極みです。偉大なる始祖から伝わる系統、“虚無”の担い手。そして我らを導く新しき王よ」

 その言葉に、ティファニアは思わず目を見開いた。
 知っているのか? この人は、“虚無”のことを。そして、自分がその担い手であるということも。

「ヨーク公。いったいどういうことですか。なぜ、その子が“虚無”の担い手だと…」
「将軍。世の中には終生知らぬほうがいいことが、いくつかあるのですよ。…まあ、いずれは知ることになるでしょうが。少なくとも、いまは…」

 騒然となるその場の生き残りメイジたちに向けて、ヨーク公は声高々に叫ぶ。

「さあ! 始祖の加護を受けて生き延びた諸君ならば証明できるだろう、彼女が偉大なる“虚無”の担い手であることを!
             愚かな他国の王族共に見せつけてやろうではないか! 亡きモード大公の遺されたご息女であるこのティファニア陛下こそが、新たなるアルビオンの君主であることを!!」

 演説に乗せられたのか、一部のメイジが勝どきを上げる。それはだんだん波及していき…、ついには、辺り一帯がティファニアの名を叫び始めた。

 彼らの多くはこの目で見たのだ。
 ティファニアの『エクスプロージョン』を。

 古き『王権』を焼き払った、その始祖の光を。

 重傷を負っていたクロムウェルは、ヨーク公が始めて拡散していった大騒ぎを、ただ黙って見守ることしかできずにいた。




 このとき―――歴史が動いたのだった。もう、誰にも止められないほどに。







[17375] 第三十六話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/08/05 15:36
 アルビオン王国北東部のアバディーン港を脱出した十隻の避難船団。その最後部の船『ウェリントン』号の甲板で、一人の女性が物憂げに進み行く前方の船を眺めていた。
 ラベンダーの花のような色の、長い髪の毛が風でばさばさと流れる。一本の細い髪が目に入ったらしく、目に涙を浮かべながらうっとうしそうに片手で押さえつける。

 彼女は、港で離れ離れになってしまった娘の安否が非常に気になっていた。
 いったいどこへ行ってしまったのだろうか。もし他の避難船に乗り込めていたのならいい。だが、もしそうでないなら…。脳裏で嫌な感触がうごめく。
 あの無能坊主のために、そこまでしてやることなどないというのに。いつも娘が振り回されているのが不憫でしかたない。
 いや…、いまはただ、娘の無事を祈ろう。

 女性―――サリアがそう考えるのと、避難船団の前方にアルビオン共和国軍の戦艦『レパブリック・オブ・アルビオン』以下六隻の戦列艦が出現するのは、ほぼ同時に起きた出来事だった。




 *




 時間は、ほんの少しだけ遡る。

 アルビオン大陸の崖から飛び降りたアリスとヴェンツェルは、大地の重力に導かれるまま、青い海の上をゆっくりと降下していた。
 遥か下方には王党派の艦隊が見え、そう遠くなく乗船することができるはずだ。
 妙な胸騒ぎを覚えていたヴェンツェルは、そこでようやく落ち着くことができた。まさか、ここならば敵は襲ってはきまい。内心びくびくとしていたが、嫌な予感が当たらなくてよかったと思う。
 事情については後で説明するから―――そう言い聞かせたアリスは、いまは無言で滑空に集中している。

 そこでふと、彼は肩の辺りになにやら柔らかいモノを感じた。
 いまのアリスは清涼感のある真っ白なワンピースに身を通していた。つまり、コルセットの類は身に着けていない。
 年齢の割りにかなり大きいのである。当然ながらティファニアの敵ではないが…。
 まあそれはおいておこう。いまはこの感触を…。などと考えていると、上方にある少女が汚物を見るような視線をぶつけてきているのが分かる。

「…なにしてるんですか」
「あ、いや。別に…」

 言い訳を述べつつ、少年は肩をいやらしくうごめかせている。これにはアリスの額に青筋が浮かぶ。
 やがて、少女はヴェンツェルの頭をぽかぽかと殴り出した。それ自体は大した力ではないのだが、手に持った短剣の柄ががしがしと当たって非常に痛い。
 そう、彼らは油断していた。
 だが、その油断こそが生死を分けることになる。


「…あ、ひゃ、ん、ふぅ…。…ちょ、ちょっと、坊ちゃま! 本当に怒りますよ!」

 頭から流血し出しても、信念で肩を柔らかく動かす。それを何分か繰り返すうちに、肩に妙な感触を感じ、アリスの吐息になにか甘いものが混じり始めた。
 ふらふらと飛行が安定しなくなり、高度はぐらつき軌道は逸れ、端から見ているとわけのわからない曲芸のような飛行をしている。

 そのときだった。彼らの頭上を、猛烈な威力の風のブレスが通り抜けたのだ。

 空気を圧縮するときの“ぼっ”という、一聞ではあまりにもまぬけな音。だがそれは、人の体程度なら、一撃で絶命させられるほどの威力を保持していた。

「な、なんだ!」

 アリスは滑空を中止してその場で滞空。その脇の下でヴェンツェルが叫ぶ。視線の先では、ちょうど一体の風竜が滞空したところだ。

 よく目をこらすと、その風竜の背中には誰か人が乗っていた。
 がっちりとした体格からすると、男性のようだ。そして奇妙なことに…、その顔面には、まるで鼻から上を覆うような黒いマスクが装着されていた。
 マスクのデザインは、赤い三倍の人ではなく、アメリカ人なのにミスター・ブシドーと呼ばれていたあの御仁のように見えた。少なくともヴェンツェルには。
 謎の男性は恰好がまた奇妙だ。全身を真っ黒な金属の鎧で守り、背中には風になびくマント。右手には巨大なランスが握られていた。
 騎士といえばそうなのかもしれないが、そう断定するにはいささか奇天烈な恰好だと形容する他なかった。

「…ほう。私も運が良い。まさか、こんなところできみたちと再び会いまみえることができようとは。だが…、いまは遊んでいる場合じゃないんでね!」

 そう呟くと、彼は風竜の手綱を叩いて発進させる。
 瞬く間に風竜は接近し、騎士はアリスたちへランスを突き立てる。しゅ、と空気を切る音がして、その先端部分が少女の脇の少年を貫こうとする。
 だが、そこでアリスはとっさに回避行動に出た。自らの体の左側で空気を圧縮させ、それを一気に“破裂”させたのである。
 大きな空気の流れによって少女と少年の体は吹き飛ばされ、『フライ』の効力が切れたせいなのか、頭から真っ逆さまに落下を始めた。

「く、お…っ!」

 海に向かって体が強引に引っ張られる。アリスは先ほどの回避時に気を失ってしまったらしく、短剣を握り締めたまま頭から落ちている。
 それをなんとか抱きとめると、上空から風竜が降下してくるのが見えた。とても本気を出しているとは思えず、にも関わらずあまりにも速かった。
 自らの体が空気を切る音に耳をやられそうになりながら、しかしヴェンツェルは自らの杖を構える。
 だが次の瞬間、それが手からすっぽ抜けた。
 ヴェンツェルの体を離れた杖は風に流され、どこかへと消えていってしまう。もうどうしようもなくなってしまった。

「くそっ! …起きろ、起きてくれ、アリス!」

 もう手段がなくなってしまった少年は、右手で抱えたアリスをなんとか起こそうとする。胸を揉んだり胸を揉んだり胸を揉んだり…だが、いくらやっても起きてはくれない。幸せな気持ちにはなれたが。
 見ると、もう眼前に風竜と騎士が迫っていた。敵はにやりと口の端を歪め、一旦方向を変えた。その方向には―――

「あ、あれは…。アルビオンの船団か!」

 もうそう遠くない場所に、アバディーン港から脱出したと見られる十隻ほどの船が航行している。そしてその先には、共和国側だと思わしき数隻の艦艇が、側面から砲を向けて攻撃を繰り返していた。
 やがて、王党派側の最前列にいた船が砲撃に耐え切れなくなったらしい。火災を起こし、やがて火薬庫に火が回ったのか、大爆発を起こして空の藻屑となった。

 なんということだ。あの船団には多くの避難民が搭乗し、その半数近くが民間人だったはず。それを攻撃するなんて。
 アリスから船団の情報をかいつまんで訊いていたヴェンツェルは、思わず唇を噛み締める。

 やがて、隣を併走するかのように飛んでいた風竜がこちらへ近づき出した。
 騎士はランスの先端をこちらへ向け、ヴェンツェルを貫く気のようだ。果たして、自分はあの騎士に恨まれるようなことをしたのか。

 そんなことを考えたときだった。

『…苦戦しているようですね。手をお貸ししましょうか?』

 ヴェンツェルの脳裏にいつかの声が響いてくる。それはラ・ヴァリエール邸の戦いで聞いた『ガラテイア』の声であると、すぐに気づかされる。
 こんな状況で、気絶した少女を抱きかかえたままで聞こえてくる、よくわからない“声”。人に聞かせたらとうとう頭がやられたのかと言われそうだった。

「あ、ああ。正直、猫の手も借りたい気分だよ。頼む」

 それは彼自身の偽らざる本音だった。このままでは自分たちはコンクリートのような硬度の海面に叩きつけられて死ぬ。それだけは避けたい。

『決断が早いのはいいことです』

 その言葉と同時に、ヴェンツェルとアリスの体の周囲を、青い“膜”が覆う。それは手で触れてみるとやたらにぷにぷにとしていて、まるでグミのような弾力を持ち合わせていた。

「こ、これは…」
『これがあれば、海へ落下しても大丈夫です』

 いや、だが待って欲しい。
 こういうときはなにか超パワーで空を飛ばすとかしてくれるんじゃないのか? そのまま海に落ちたら、その場では死なないにしても漂流して水竜に食われてしまうのではないのか!
 いや、水竜だけではない。海は怖い生き物の宝庫だというのに。
 そういった主旨の抗議を行うと、

『いえ―――大丈夫ですよ。ここは陸地からそう遠くないですから』

 などと言う。
 なおも抗議を繰り返していると、痺れを切らした風竜が突っ込んできたようだった。
 だが、騎士の手にしたランスは、あらゆるものを弾き返してしまう“膜”の効力によって思い切り弾かれる。そして、衝撃がそのまま跳ね返されたせいか、騎士は風竜ごと後方へ吹っ飛んだ。


『どちらにせよ、ありがとう。あなたが来てくれなかったら、この子は今ごろ…、あの風竜に…』

「え?」
「…う、あ…。坊ちゃま?」

 アリスの胸を強く揉んだままのヴェンツェルが疑問を発するのと、少女の意識が覚醒するのは、ほぼ同時に起きた。

 視線が自分の胸と少年の顔を行き来する。そして、彼女が絶叫しようとした瞬間―――


 “膜”に包まれた二人は、けたたましい音と共に海面を深く抉った。





 *





 その頃、避難船団の第二列、エディンバラ公が搭乗する戦艦『グラスゴー』。

 目の前に突如として現れた反乱軍の艦艇『リパブリック・オブ・アルビオン』の砲撃によって、最前列の巡洋艦『ダーネス』が撃沈させられるのを、皆黙って見つめていた。
 だが、それではいけない。すぐに正気を取り戻したエディンバラ公は、手前の椅子で狼狽する『グラスゴー』艦長を怒鳴りつけた。

「なにをしているんだ! 反撃しろ、このまま黙って沈められるわけにいくか!」

 思い切り肩を揺さぶられた艦長はしかし、すぐに頭を下げてしまう。

「…ないのです。ないのですよ、砲弾が。この船は他の船に入りきらなかった避難民まで入れているのです。弾薬は置いてきました。もう、どうしようも…」
「…くっ…」

 まさか。まさか、ここまでなのか。愛しい娘の顔を見ることも叶わず、このまま、こんな場所でむざむざ死ぬしかないのか。

 目の前でこちらに砲塔を向ける『リパブリック・オブ・アルビオン』を憎憎しげな表情で睨みつけながら、エディンバラ公爵は自らの死さえ覚悟した。

 だが。

 次の瞬間、敵艦に無数の砲弾が飛来。それは瞬く間に『リパブリック・オブ・アルビオン』を爆発・炎上させた。

 敵味方を問わず、誰もが信じられないものを見るかのように、ただ呆然としていた。


 そして、南の方からやってくる巨艦を目の当たりにして、共和国の戦艦『ナイト・ホライズン』艦長は我が目を疑った。
 彼の瞳に映っていたのは、全長が三百メイルを優に越すような―――とてつもなく巨大な船だったのだ。あまりの大きさに、自分でもそれが本物の船なのか確信が得られなかった。


 一方の、巨大戦艦。

 ―――王党派救援艦隊旗艦、『リュクサンブール』の甲板に、二人の対照的な年齢の男性が佇んでいる。

 初老の男は、トリステイン航空艦隊司令のラ・ラメー。そしてもう一人の若い男性は、クルデンホルフ両用艦隊司令のホレーショ・オブ・ネルソン。
 三度アンリエッタ王女に嵌められたクルデンホルフ大公は、秘匿していたハルケギニア最大級の戦艦を王党派の救援に投入させられてしまった。
 故に、艦隊司令のネルソンが作戦遂行を命じられ、ここまで差し向けられたのだ。

「…辛いでしょうな。同胞で撃ち合うなど」

 搭乗していたサセックス大公ごと爆散していく『リパブリック・オブ・アルビオン』を眺めながら、ラ・ラメーは呟いた。

「確かにアルビオンは祖国です。ですが、今の自分はクルデンホルフ大公から一国の艦隊を任されている身。私情は挟めませんし、なによりやつらは反乱軍です。“共和国”などという愚かしい名を用いる連中を討つことに、抵抗などありません」
「ふむ」

 決意を込めたネルソンの言葉に耳を傾けながら、ラ・ラメーは撤退を始めた共和国艦を眺めていた。









 ●第三十六話「流れる先」









 王党派の完全排除から、一週間後。

 選挙王制法を通過させたアルビオン共和国議会は、すぐさま亡きモード大公の遺児であるティファニアを、正式なアルビオン女王として戴冠することを満場一致で決議。
 即日のうちにそれが公表された。

 このとき同時に、先の空中戦で戦死したサセックス大公に代わる護国卿を選ぶ投票が行われた。
 結果。ヨーク公に支持され、有効投票の過半数を得たクロムウェルが護国卿へ就任。同時に議会から名誉称号のロンディニウム伯爵位を贈られ、正式に貴族の一員となったのである。

 さらに二週間後、ロンディニウムの市街で新たなる王の即位記念式典が開かれることとなった。
 ロマリア、ゲルマニアから教皇、皇帝が出席することになったのである。トリステイン及びその属国は出席を拒絶。両者の対立が鮮明となり、溝がさらに深まる事となる。
 そして、ハルケギニア最大国家ガリアは不気味な沈黙を貫いている。アルビオン共和国については完全に黙殺しており、外交使節の一人も遣さないという状況だった。



 式典を二日後に控えた、ある夕暮れ時のこと。

 ロンディニウムはハウィランド宮殿内部にある自室で、ティファニアはため息をついていた。
 いきなり「王になれ」と言われてからのこの三週間は、本当にあっという間に時間が過ぎている。
 ヨーク公という人に「きみの正体は確実に隠さねばならない。だから、これを」といって、ブリミル教の僧服を渡された。自室以外では常に身につけなくてはならないということである。

 なるほど、黒地に布の多い僧服さえ身にまとっていれば、彼女の特徴的な長い耳さえ覆い隠すことができる。
 エルフの致命的な特徴をもったティファニアが表舞台に立つには、もうこうする他ないのだろう。

 だが、それはいい。別に苦痛ではないのだから。

 問題はヴェンツェルのことだった。アバディーンの町で成り行きで別れてしまったが、果たしてあれでよかったのだろうか?
 彼は“虚無”である自分の使い魔だ。
 もしそれが議会…、あるいはクルデンホルフやロマリアに知れれば、彼はどうなってしまうのだろう。
 呼び出してしまった以上は責任を取らなくてはならない。しかしながら、その方法がティファニアには無かった。




 
 ロマリア教皇である聖エイジス三十二世は、アルビオン共和国からの国家承認要請を早々に許可していた。

 自ら、明後日のティファニアへの戴冠式を直々に行うことを提案するなど、かなり今回の王権委譲に熱心な様子だった。
 それは表向きに議会派が『聖地奪還に向けたロマリア教皇庁との連携』を大きく謳っているからだと言われていたが、それは大した意味を持っているわけではなかったのである。

 教皇が宿泊している宿の一室に、一人の青年が現れた。金髪の端整な顔立ちをしている。

「よくぞ参られましたね、ヨーク公」
「お目にかかれ、まこと光栄の極みであります。聖下」

 ヨーク公は聖エイジス三十二世の足元にひざまずく。そしてすぐに教皇から促されて立ち上がると、下座の席へ腰掛けた。

「…卿の働きには、わたしとしても非常に感謝しております。これほどまでに早期に第二の『虚無の担い手』を発見できたのは貴方のおかげでしょう」
「恐れ多きお言葉です」
「ですが…、問題は、『風のルビー』『始祖のオルゴール』の行方でしょうか。担い手だけでは『聖地』奪還には届きません。なんとしてでも、始祖の秘宝を見つけ出してください」
「わかりました。謹んでお受けいたしましょう」

 ヨーク公が頭を下げると、教皇…ヴィットーリオ・セレヴァレは微笑む。慈悲に溢れた、威光すら感じさせる聖像のような完成されたその笑みに、ヨーク公はさらに頭を下げる。

「ありがとうございます。必ずや…」

 そう言って、ヨーク公は教皇の部屋を退室していった。




 後に残されたのは、聖エイジス三十二世と一人の少年。年の頃は十代半ばだろうか。どこか異国然とした容貌は、彼を西洋的な内装のこの部屋から大きく浮き上がらせていた。

「…大変ですねえ」
「ふふ。信心深い教徒の皆方に愛想を振りまくのも…、聖職者の仕事ですから」

 とあるインテリジェンスソードを担いだ少年の方へ、それまでの作り物めいた笑みとは違う“生の笑顔”を向けながら、教皇はテーブルの上に置かれたカップに口をつけた。
 そして一旦、白い陶器から口を離し、静かに呟く。

「さて、ハーフエルフ。どう転ぶか…」




 *




「はぅ…、疲れた」
「お疲れ、テファ」

 ハウィランド宮殿は王の執務室。いまやお飾りとなったその部屋に、二人の人影がある。

 一人は戴冠式を終えたばかりのティファニア。そして、もう一人は新たなるサウスゴータ太守となったマチルダ・オブ・サウスゴータである。
 ロンディニウムへ来るにあたり、マチルダは家臣のトマス・コーウェンらに領地の経営を任せていた。
 かつては領地議会に牛耳られていた経営権はサウスゴータ家の手のうちにあり、彼女も多忙を極めている。そんな中での来訪であった。


 マチルダはずっと後悔していた。
 アバディーンでヨーク公がティファニアの王位を宣言したとき、彼女はその近くにはいなかった。市街地の外にある野営で療養をとっていたのだ。
 自分の不甲斐なさでティファニアが望まぬ表舞台の矢面に立たされる―――それは、絶対に避けるべきだった。
 だが。
 もうこうして彼女は王になっているし、いくら実権を議会が握っていようとも、王を“補佐”する立場である護国卿がクロムウェルならば問題はないだろう。
 マチルダはそう思っていた。

 だけども、ロンディニウム市街中心部のサザーク大聖堂で、ティファニアがアルビオン王の王冠を聖エイジス三十二世から戴冠されたとき、マチルダは思わず涙してしまった。

 あれだけ虐げられ、生きる場所すら森の中にしか見出せなかった“妹”が、こうして皆に認められている。本望といってよかった。
 ただ、それも彼女が人間だと思われていれば、の話だ。
 もしハーフエルフだと知れれば…。
 ずっとそばにいてやりたいのに、それが出来ないのがもどかしい。マチルダはずんと落ち込む。

 そんな様子を見つめていたティファニアは、“姉”を励ますように言った。

「大丈夫よ。マチルダ姉さん。わたし、頑張ってこの国をよくしていくわ。みんなと一緒に。おじさまがいれば大丈夫よ!」
「テファ…」

 なんだか目の前の少女がいとおしくなって、マチルダはティファニアを、この国の王を、ぎゅっと抱きしめた。






 *





 即位式から遡ることは三週間。

 ヴェンツェルが目を覚ましたとき、そこはなにやら柔らかいモノの上だった。

 目を見開けば、それは案の定アリスの胸の上だ。なにやら押し倒すような形になってしまっているのがちょっと問題である。

「ああそうか。流されて…、どうなったんだろう」

 周りを見回してみる。なんだか植生が微妙にクルデンホルフやアルビオンと違うような気がするが…。ここがどこなのかはわからない。
 それよりもアリスだ。まずは人口呼吸……をしようとしたところで、ヴェンツェルは股間を思い切り蹴り上げられた。あまりの痛みに悶絶し、砂浜の中に頭を突っ込んでしまう。

「坊ちゃま。すっかり忘れているようですけど、わたしは一応あなたの血縁者なんですよ」
「…そういえば」
「とうとう痴呆にでもなったんですか? 気持ち悪いです…。おぇっ…」

 再度なにかを言おうとしたヴェンツェルは、短剣の柄で思い切り腹を突かれた。今度ばかりは痛みが半端ではなく、奇声をあげた少年は地面に崩れ落ちた。

 立ち上がったアリスは服についた砂を払い落とし、周囲をきょろきょろと見回してみる。どこかの海岸。少なくとも南国ではないだろう。
 アルビオンの位置から考えれば、恐らくはトリステイン西部の海岸部。もしなんらかの理由で長距離を流されていたのならゲルマニアの北西部。
 どちらにせよクルデンホルフまでは果てしなく遠い。

「さて、どうしますか…」

 などと考えたとき、誰かがここまでやってくるのがわかった。とっさに身構え、アリスは“アンノウン”に対し、備える。


 果たしてそこへやってきたのは…。

「あら? どうしてこんなところに人が倒れているのかしら…。うん? そこのあなた、もしかして」
「ちぃ姉さま? どうしたんですか」

 現れたのは、ストロベリー・ブロンドの髪のでこぼこ姉妹だった。アリスはその姿に見覚えがあった。たしか、大きなほうがカトレア。小さなほうがルイズだ。

「ちょ、あんた! あのときの失礼なメイド! なんであんたがこんなところにいるのよ!」
「…いえ。別に、貴方様には関係ないことだと思います」 
「な! あ…、あんたねえ。貴族にそんな口きいていいと思ってるの!」

 今にも感情が爆発しそうなルイズ。それを必死になだめようとするカトレア。と、そこへさらなるピンク頭が現れた。

「先ほどから騒がしいようですね。いったいなにをしているのです?」

 それはラ・ヴァリエール公爵家夫人…カリーヌだった。日傘を差しつつ、彼女の視線は砂浜から二本の足だけを出して砂に埋まっている少年のほうに釘付けになっていた。

「…なんですか、あれは?」
「さあ?」

 はぁ、とため息をつくと、アリスは『レビテーション』を唱えた。すると、砂の中にあった少年が引きずり出される。

「あら。あんたヴェンツェルじゃない。どうしてこんなところにいるのよ」
「奇遇ねえ」
「…」

 やけにまったりとした様子の桃色頭髪の三人を眺めながら、ヴェンツェルはほうけた表情で問いかける。

「…ええと、ここは?」
「トリステインのカレー伯爵領。ここの領主の家はうちの親戚なのよ。だから、こうして海水浴に来ているの」

 カトレアがそう答えると、いきなり上着を脱いだではないか! だがしかし、その下から現れたのは囚人が着るような縞々の、全身を覆うダサい水着であった。
 一瞬だけ期待に満ち溢れたヴェンツェルに冬が訪れた。

「…で、どうされたのですか?」

 今まで沈黙していたカリーヌが、ちょっとばかし凄みを利かせた表情で問いかけてきた。

 さて、なにから説明すればいいのやら。

 砂のついた頭を払いながら、ヴェンツェルは考え始めるのだった。





[17375] 閑話一
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/08/02 06:21
 ●閑話一「イザベラの一日」





 イザベラ・ド・ガリアはガリア王国の王族である。しかし、故あって今はお隣の小国、クルデンホルフ大公国で匿われている。
 彼女の父は元ガリア王子のジョゼフ。なぜ“元”なのかといえば、本国ではすでにジョゼフは死亡したことになっているからだった。
 リュティスは秘密裏に二人の行方を追っていて、見つけ次第拘束するか、あるいは暗殺するかの命令を下しているという。最近エシュの町から上ってきたイザベラに近しい水メイジの証言である。

 ちなみに、クルデンホルフといえば、この家の嫡男がアルビオンの地で行方不明になってから早二ヶ月が過ぎようとしている。気を病んだ大公妃がずっと引きこもりになってしまい、メイドたちが苦労している光景を彼女は目撃したことがある。
 ちょっと過剰かもしれないが、そこまで母親に心配してもらえる彼のことが、ちょっとばかりうらやましかったりもする。

 イザベラには母親の記憶がほとんどない。自分が幼いころに亡くなったのだというが、父に尋ねてもあまり色よい返事はもらえなかった。なにか言いたくないことでもあるのだろうか。
 そんな彼女は、従妹のシャルロットがうらやましかった。
 優秀な父と優しい母に囲まれた生活。それとは対照的にずっと孤独だった自分。たしかにシャルロットやその両親はイザベラによくしてくれたが、それは実の両親の代わりになるとは言いがたかった。

 だからなのか、イザベラは祖父の元に行くことが多かった。
 二人の王子に対しては非常に厳しい、厳格な態度をとっていた祖父。しかし、孫であるイザベラには、時間さえ空いていれば優しく接してくれたのである。
 彼は語った。自分の人生を大きく変えた人物との出会いを。その人間と出会っていなければ、きっと自分はいまだに愚かなままだったと。それが誰だったのか―――名を聞いた覚えはあったのだが、なぜか靄がかかってしまったかのように思い出せない。たしか、ゲルマニア系の名前だった気がするのだが。
 結局、ごたごたがあったせいで祖父の葬儀にも参加できなかった。だが、きっと彼ならば許してくれるだろう。
 だから、いつか祖国に帰ることができたのなら…、まずは祖父の元へ向かおう。そう思っていた。


 夢見心地のイザベラは自室のベッドで目を覚ました。カーテンの隙間からは、柔らかな朝の日の光が差し込んでくる。
 彼女が今いるのは、クルデンホルフの城に設けられた彼女のための部屋だった。あまり派手な内装にはしていないものの、結構な値段のアンティークで溢れている。
 寝巻きを脱いでたたんだイザベラは、洋服入れから自分の着替えを取り出してそれを身に着ける。
 かつては使用人の女性にやらせていたが、リュティスを脱出してからこちら、自然と自分のことは自分でやるのが習慣付いてしまった。貴族らしからぬとは思うが、今の状況を鑑みれば仕方のないことだろう。

 着替えを済ませると、姿見を覗き込みながら櫛で長い髪を梳かす。ガリアにいた頃よりも髪質がよくなっている気がした。過剰なストレスのない生活を送っていたからだろうか。
 もう一度鏡を見ながらチェックを終えると、イザベラはドアを開けて城の食堂へ向かった。


 クルデンホルフの城の食堂は広い。普段使っている身内用のそれすらばかみたいな面積を費やしている。そして、その場所を使うことが出来るのは本当に限られた人間だけだった。

 イザベラが到着したとき、すでにクルデンホルフ大公、その娘であるベアトリス、そしてジョゼフの姿があった。大公妃の姿は見えない。まだまだ篭城中であるようだ。
 挨拶をして父の隣に腰掛ける。すると必然的にベアトリスと向かい合う形となり、そうなれば視線がぶつかることも少なくない。ただ、いまは食事の席だ。これといって実のある話でもない限りは談笑に興じるということもない。

 食事を終え、食堂を後にする。用を足してから玄関ホールへ向かうと、そこではジョゼフがなにやら荷物をまとめていた。どこへ行くのか尋ねてみれば、近くの川へ釣りに出かけるのだという。
 そんなにほいほい出て行って大丈夫なのかと思わないこともないが、まあ心配しなくても大丈夫だろう。
 最近イザベラも伝えられたのだが、ジョゼフは伝説の系統『虚無』の担い手であるらしい。父が使うことが出来るのはその中の一つ、『加速』だという。それは物理法則を無視した急加速が可能で、その動きを捉えられる人間は存在しないと言ってもいいそうだ。
 一緒に来るかという父の言葉をやんわりとお断りして、イザベラは自室へと戻る。

 それから昼間ではずっと勉強の時間だ。彼女は将来的に医者のようなことをやりたいと考えている。エシュから移転してきた診療所の手伝いをしようかとも思っている。

 ちなみに。エシュはラ・アーグ子爵の元で着実に発展している。半ばヴェンツェルが放り出した債権もすっかり返し終わり、今では潤沢な歳入によって行われる公共事業で人口も増え続けているとか。
 メイジの人口も増えたことで、イザベラに近い位置にいる水メイジたちはクルデンホルフ市へ移転。それが前述の診療所である。

 しかし、まずは基礎作りだろうか。実際に現場で働くことはなにより重要だが、なんの予備知識もないのでは足手まといになるだけだし、取り返しのつかない失態を犯すことにも繋がる。
 
 ただ、人間の集中力の持続時間はせいぜいが一時間半である。普通の人間がそんなに長時間机にかじりついていれば、集中力も乱れてしまう。
 そんなわけで、イザベラは勉強を始めてから二時間後には頭がぼうっとしだしてしまっていた。

 『水』の魔法がかけられた、部屋を冷却してくれるマジック・アイテム(元来製法が難しいとされてきたが、先代のクルデンホルフ大公が品質の安定化に成功。非常に高価)の出力を上げ、イザベラはよろよろと椅子から立ち上がった。

 そして、彼女はぼうっとしながらふかふかのベッドに横たわる。天井を眺めていると、ふと自分の体に横の投げ出された一冊の本に目が行く。
 見覚えのない本だ。誰かの忘れ物だろうか? とりあえず、手に取って表紙を眺める。タイトルは『風の姫騎士』と記されていた。
 ぱらぱらとめくってみる。最初はいたって普通の小説だった。
田舎出身の貴族の男の子が、ひょんなことから王女さまと入れ替わって生活を送る。たびたび男だとばれそうになりながらも、彼は立派な姫君として、他国の若きプリンスと出会い見初めあう。やがて男性だとばれてしまうのだけれども、プリンスは―――って、なんだこれは。

 それはいわゆる衆道の変節版のようだった。イザベラはわけのわからない文章を、どうしてか顔を赤らめながら読み進めていく。
 「そう……。そのまま、飲み込んで、僕のデルフリンガー……」などという台詞を目にしたときは、もう頭がこんがらがりそうになった。
 これは自分には早すぎる。そう考えたイザベラは、その本をベッドの上に放り出した。

 なんだか頭がもやもやとする。やがて、ただぼやっとしているうちに昼になったようなので、イザベラは勉強を中断して部屋を出ることにした。

 昼食の席に大公はいない。なにか用事でもあるのだろうか。そうなると、この場で食事をとっているのはイザベラとベアトリスだけである。
 二人の仲は良くも悪くもない。イザベラは父といることが多く、ベアトリスは子分の下級貴族たちを取り巻きにして遊んでいるほうが多い。毎日顔を合わせさえするが、せいぜい関係の希薄な知り合い程度の間柄だった。
 せっかくだから仲良くしたい、という感情はあるが、いまいちそのきっかけが掴めなかった。

 昼食を終えたイザベラは再び勉強を始めた。しかしそこは夏の終わりの午後の陽気である。部屋の仲は涼しくとも、膨れたお腹との相乗効果によって睡魔が襲ってくるのだ。
 今度は一時間程度しかもたなかった。気分転換にと、外へ出てみる。

 それから、イザベラは城の中庭へとやってきていた。するとそこでは、クルデンホルフ家の長女ベアトリスがお茶をたしなんでいるではないか。

「ヴェンツェル……。ヴェンツェルはどこにいるのかしら…」
「お母さま。どうせ放っておけばそのうち帰ってくるのですから、気に病むだけ無駄ですよ」

 しばらく観察してみると、大公妃は壊れてしまった蓄音機のようにずっとぶつぶつと呟いている。それに答えるベアトリスの台詞も、なんだか同じことをずっと繰り返しているだけに思える。
 得体の知れない空気が怖くなったイザベラは、用事を思い出したと言ってその場から逃げ出した。


 城の正門広場にある噴水脇を通りかかる。すると、全長が三メイルはあろうかという巨大な双頭の黒い犬が不貞寝を決め込んでいた。オルトロスである。
 普段はしょっちゅう暴れまわるこの犬(?)だが、いまはだいぶ大人しくなった。散歩に行けるのがヴェンツェルしかいなかったため、この動物は城の敷地と周囲の林を行き来するだけになっているようだった。
 しかし。よくもまあ、こんな生き物の散歩などしようという気になるものである。

「…あんたたちも、寂しいのかねえ」

 怪物とはいえ立派な生き物だ。知能とてある。なんとなく訴えたいことは雰囲気で察することとて不可能ではない。
 噴水脇のベンチに腰掛けたイザベラは、両手でゆっくりとオルトロスの頭を撫でる。するとオルトロスは目を開き、こちらを見つめてくるではないか。その瞳はどこか優しげな雰囲気が漂っている。

「驚いた。メスだったのかい…」

 よく見れば明らかに雌の顔をしていたのだが、このときまで誰もそのことに気がつかなかったのである。それは普段から追い掛け回されていた少年も同様であった。
 そもそも、性別があったというのが驚きである。

 そのまま、イザベラはベンチの背もたれに背を預ける。晴天の空の一部を夏の終わりの雲が覆い、もうすぐ秋がやってくることを暗示していた。
 遠くでは使用人のフィリップが草を刈っている。老衛兵のマジソンがなにやら資材らしき物を台車で運んでいく。どこか牧歌的な印象を受ける光景だった。少なくとも、権謀渦巻くヴェルサルテイルにいたころには、ここまでのんびりと落ち着いた光景に出くわしたことはない。
 ここは小国で、もう君主の血筋が決まっているからかもしれない。
 王家の分家だの傍系だのが無数に存在する大国ガリアでは、親族は常に王位を争うライバルであり、敵だ。片時も気を抜くことは許されない。
 もっとも、それは継承権の低い連中の話だが。王朝の直系であるイザベラはそこまで巻き込まれることはない。
 ガリアにはさまざまな公爵家が存在し、そのどれもが覇権を巡って争っている。今でこそ失脚したものの、アキテーヌ公爵はガリア十三大公爵家の一角ではあったのだ。

 前方へ目をやると、オルトロスはまた眠りだしたようだ。それを見ていたイザベラは本格的に眠くなり、こくりこくりと船をこぎはじめた。

 噴水そばのベンチで眠る青髪の少女。使用人のフィリップはえらくその光景が気に入ってしまい、画材を持ち出して油絵を描き始める。彼は暇だったのだ。
 今日は筆の乗りがいいなどと、近寄ってきたマジソンと会話を交わしながら、フィリップはぺたぺたと筆で色を乗せていった。



 *



 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。誰かに肩を揺すられる感覚とともに、イザベラは目を覚ました。

「起きたか」

 そこにいたのは、釣り道具を肩にぶら下げたジョゼフだった。どう見てもそこら辺の川にいる釣りのおっさんと変わらない出で立ちである。誰もいまの彼を見てガリアの王族だなどとは思わないだろう。

「お父さま。お帰りになられていたのですか」
「ああ」

 そう言って、彼はバケツを見せてきた。中には数匹の魚が入れられている。どうやら、ジョゼフが釣ったらしい。
 それを嬉しそうに自分へ見せる父の姿。かつての陰鬱とした空気などまったくどこかへ吹き飛んでしまっている。それこそ、ロバ・アル・カリイエのかなたにでも吹っ飛ばしてしまったのだろう。

 今の生活に不安がないわけではない。クルデンホルフ大公の厚意で自分たちは平穏な暮らしに興じているが、情勢次第ではどうなるかわからない。
 しかし……。少なくとも、いまはまだ何事も起きていない。ならば、その時間を大切にしたい。

 くすっと笑みをこぼした娘の顔を不思議そうな表情で見つめるジョゼフからバケツを受け取ったイザベラは、城へ指をむけながら言う。

「行きましょう、お父さま。せっかくだから、魚を焼いてもらいましょう?」



 平凡な、なにか特別なことなど起きはしない日常。
 それでも、彼女にとっては幸せな、平和な日々だった。ずっとこうしていたい。こんな日常が永遠に続けばいいのに―――父の手を取りながら、イザベラは願った。



[17375] 第三十七話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/08/05 08:39
 トリステイン王国西部、カレー伯爵領。アルビオンの地からハルケギニア沿岸部に墜落したヴェンツェルたちが流れ着いた先である。
 偶然にも現地でラ・ヴァリエール一家と遭遇。事情をかいつまんで話し、どうにかクルデンホルフへの連絡を取ってもらえた。そして、大公国側の返答によれば、出来る限りすぐに迎えをこちらまで遣すとのことであった。
 ただ、このときのクルデンホルフ大公はアルビオンへの作戦行動中であり、準備は少々遅れるかもしれない、とのことだ。


 残暑の厳しい季節である。砂浜では、一人の泳げない少年が死んだような目で海を眺めていた。視線の先には、全身を覆う色気の欠片もないような水着の少女、女性たちが水をかけあって戯れている。
 否、若干名を除けば色気には事欠かないかもしれない。
 たとえばカトレア嬢である。彼女は、頭の上でまとめた艶やかなピンク・ブロンドの髪を存分に揺らしつつ、また胸部のはち切れそうな脂肪も凶悪なほどに振り回しつつ、海面を縦横無尽に駆けている。
 そしてアリスである。彼女は平民ながら、カトレアに誘われて共に海で水遊びに興じていた。年齢不相応な胸の柔らかな塊は、大公妃の嫉妬すら買うほどのモノ。
 それは同じように水遊びに興じる、カトレアを一回り小さくしたような少女もご同様であるようだった。彼女はルイズ。ラ・ヴァリエール公爵家は三女であり、未だ目覚めてはいないものの、伝説の系統『虚無』の担い手である。胸も虚無であるなどとは断じて考えてはいけない。ルイズは異様に勘が鋭いことがあるのだ。

「ちょっと! あんた、いま失礼なこと考えてなかった!?」

 案の定、ルイズはヴェンツェルの不躾な視線に気がついたようである。しかし少年の顔面に浮かぶのはささやかな哀れみの色。それを目にしたルイズがどうしてか激昂し、砂のこびりついた足で勢いよく蹴りをかますのも、また宿命であった。
 哀れカナヅチ少年は吹っ飛ばされ、後方でパラソルを開いてゆったりとくつろいでいた金髪の女性の胸元に飛び込んでしまった。
 頬に感じる確かな柔らかさ。ただ、それは少々物足りないと形容する他ない。けして無いとはいえないが、彼女の三つ年下の妹に比べるとかなり見劣りしてしまうのも、また事実。
 これは胸であろう。決して「おっぱい」と呼べる代物ではない―――少年がそう呟いたとき、激昂した女性によって散々に踏まれ出した。この女性、ラ・ヴァリエール公爵家は長女、エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエールという。かなり長ったらしい名前であるが、貴族はこんなものである。

 しばらく痛めつけると、エレオノールは満足したかのようにパラソルの下へ戻って行った。彼女は先日、婚約したばかりのバーガンティ伯爵にフラれたばかりである。
 伯爵曰く、「ここまでとは予想外だった。事前に気性を知っていても、上手く対処できるとは限らないね……」とのこと。

 砂浜はゆったりとした波の音と、かしましい少女たちの笑い声に満ちている。だが、少年―――ヴェンツェルの心は、暗黒物質に塗り固められてしまったかのように陰鬱としていた。
 そう。内陸育ちの彼は、いままで海に来たことなど数えるほどしかなかった。そして知ってしまう。この世界の水着が、まま十七世紀ヨーロッパのそれと大差ないという事実に。彼は嘆き悲しみ、そして自らがカナヅチであったということも相まって、非常に落ち込んでいるのである。
 目の前には、弾けんばかりの成熟した肉体がある。だが、それは華やかさの欠片もない水着よって覆い隠されてしまっている。もったいない。MOTTAINAI。人類の宝が、ただ秘匿されて貴重な時期が過ぎ去ろうとしている。それは彼にとっては苦痛でしかない。
 と、そのとき―――唐突に、ヴェンツェルの脳裏に、電撃のように走るイメージがあった。それはあまりの衝撃。そう、無いなら作ってしまえばいいのだ。
 そうと決まればさっそく実行するべきだろう。彼は、浜辺からやや離れた来賓館に走り出した。この土地に漂着したヴェンツェルたちは、ラ・ヴァリエール家が使用している広い別荘のような建物の一部を間借りしているのである。


 やがて昼となった。執事たちが食事を運んできたので、カトレアとルイズは一旦海から上がる。大きなパラソルの下に集まったラ・ヴァリエール三姉妹は、各々で食事を取り始める。
 カトレアはアリスを誘いたかったようだが、それはエレオノールの反対で頓挫した。エレオノール曰く、平民ごときが貴族と食事の席を共にするなど絶対にあってはならないことなのだそうだ。
 皆、良家中の良家の令嬢ということもあってか、食事の光景も絵になりそうなほどに優雅なものである。日ごろの教育というものは、些細な仕草にさえ現れてしまう。


 午後である。少々の休憩を挟んだのち、カトレアとルイズは再び海で遊ぶことにした。ところが、そのときである。館のほうから、ヴェンツェルがなにか布切れを持って駆けてくるではないか。
 その視線はルイズにはまったく向かず、不思議そうな表情を顔に浮かべるカトレアだけに向けられている。彼はカトレアの元へ到着するなり、手にしていた布切れを差し出し、荒い息で目をぎらつかせながら、これを着てみろと言う。
 それは、一対の胸当てのついたぺらぺらの布だった。まるで下着のような形状の水着もあり、セットだという。それは地球でいう“ビキニ”タイプの水着を模したものであったが、水爆もビキニ環礁も存在しないハルケギニアには、存在するはずのない名称のものだった。
 それを見たルイズ、顔を真っ赤にして怒り出した。「こんな破廉恥なものを」「あんたちい姉さまになにさせるつもりなの」と叫びながら、杖を持って、逃げるヴェンツェルを追いかけ回す。哀れ少年は失敗魔法を背中に受け、くるくると宙に舞い上がった後、海に落下していった。
 ぱらぱらと舞い落ちる砂。中には、先ほどカトレアに手渡したものと同じ水着が混じっていた。それが砂浜の端っこにいたアリスの頭にかぶさる。一部始終を眺めていた彼女にはそれがなんなのかわかりさえすれど、あまりに衝撃的過ぎる形状故、それを着用に及ぶことはなかった。

 だが、それを着てみようなどとする人物がいた。カトレアである。なにをトチ狂ったのか、彼女はそれを持って館へ向かう。使用人の悲鳴と共に砂浜に戻ってきたカトレアの姿に、ルイズはおろか姉のエレオノールまで度肝を抜かれる始末となってしまう。
 真っ白な布から、はち切れんばかりに、窮屈そうにその豊満さを主張する胸。滑らかな腹部はまるごと露出し、スリットのような形状のへそが顔を見せている。まさに下着そのものと言っていい形状の水着からは、適度についた尻の肉と、白く長いカモシカのような美脚をすらりと伸びている。
 圧倒的過ぎた。ルイズはショックからぺたぺたと自分の胸を手で押さえながら、「わたしもいつかああなるもん。きっとああなるもん……」などと呟いているし、エレオノールは現実から目を逸らそうとして失敗、思考が完全にフリーズしていた。騒ぎを聞きつけたカリーヌが現れ、カトレアの扇情的過ぎる姿を目の当たりにし、思わず失神してしまう有様であった。


 夕刻である。ヴェンツェルはもう何時間もカリーヌに説教を食らわされていた。件の水着の製作者が彼であるという証言を得たからである。
 やれ慎みを持てだの、あなたもトリステイン貴族として生きるのならゲルマニアかぶれのことはやめろだの、それはさておき、あの水着一着貰えないかしら―――などと、館の一室でずっと言われるのである。

 なんとかカリーヌから開放されたヴェンツェルは、自分にあてがわれている部屋のドアを開ける。
 すると、そこには、少年が作成した水着を着用に及ぶ一人の少女がいた。ただ、どうにも胸の部分がきついらしく、顔をしかめながら布の位置を指でずらしている。なんともいえない光景だった。
 しばらく格闘していると、二つの布を繋ぐ部分が切れてしまったらしい。はらりと水着が床に落ちる。残念そうな顔つきになりながら、少女は前かがみになってそれを拾い上げる。
 思わずヴェンツェルは物音を立ててしまう。すると、少女は自分が見られていることに気がついたらしい。薄紫の髪を振り回しながら、ドアの方向を思い切り振り向く。そして、そこには自らをいやらしい顔でしげしげと観察する少年の姿があるではないか。
 少女―――アリスは、声にならない叫び声をあげ、杖代わりの短剣を振りかざす。すると、圧縮された空気の塊が出現。少年を断末魔の叫びと共に弾き飛ばすのだった。





 *





 ヴェンツェルたちがカレー伯爵領に流れ着いてから三日。とうとうクルデンホルフから迎えがやってきたらしい。館の中庭に、大きな竜籠が着陸した。
 竜籠の扉が開くや否や、中から一人の女性が飛び出してきた。出迎えに来ていたラ・ヴァリエール家の面々が唖然とする中で、その女性―――クルデンホルフ大公妃ジャンヌは、わが子に勢いよく飛びつく。それがあまりの勢いだったためか、二人とも地面にそのまま倒れ落ちてしまう。
 それからすぐに、自分の周囲をラ・ヴァリエール家の住民たちが取り巻いていることに気がついた彼女は、こほんと咳をする。そして、なにごともなかったかのように公爵夫人カリーヌへ挨拶をし始めた。


 来賓館で大公妃ともども昼食をとる。カリーヌがせっかくだからと大公妃も誘ったのだった。普段の行動からは考えにくいことだが、彼女は元々からして公爵家の令嬢である。その優雅な仕草はラ・ヴァリエールの子女たちにもまったく引けを取らない、見事なものであった。
 ちらちらとルイズは大公妃に視線を飛ばしている。食事中にいったいどうしたのだろうか。そんなことを考えていると、こっそりとヴェンツェルに耳打ちをしてきた。

「……ねえ、前から気になってたんだけど。あんたのお母さまって、すっごく若いわよね。それこそエレオノール姉さまとあまり差がないような気がするんだけど……」
「ああ。僕も本人に直接尋ねたことはないけど。父が言うには、たしか今年で二十……」

 そこまで言いかけたところで、カリーヌがぎろりとルイズを睨みつける。食事中に無駄な私語は慎めということらしい。結局、ルイズは大公妃の年齢を知ることが出来なかった。
 ヴェンツェルはカリーヌを観察してみる。それこそ若々しい貴婦人だ。元々田舎出身で、根は臆病なところがあるというが、その威風堂々とした立ち居振る舞いからは、それをうかがい知ることは出来そうもなかった。人間、年を取るといろいろと変わるものなのだろうか。
 ……などと考えていると、訝しげな表情のカリーヌが視線をぶつけてきた。何かを察しているらしく、その顔には鬼気迫るものがある。怖くなって、ヴェンツェルは視線を逸らした。
 食事はおごそかに進行していく。一通り食べ終わるとデザートが出てきた。果物を水の魔法で凍らせた、いわゆるシャーベットのようなものであるようだ。なぜか付け添えに、はしばみ草が置かれているのはまったく理解に苦しむ状況ではあったが。


 昼食後、少しの時間を置いてヴェンツェルたちは出発することになった。アリスと一緒に間借りしていた部屋を掃除していると、そこへ大公妃がやってくる。なんだか嬉しそうな表情である。

「ねえ、ヴェンツェル。せっかく帰ってきたのだし、お城に戻る前にちょっと寄り道でもしていかないかしら?」
「寄り道? どこへですか」
「ラグドリアン湖よ。どう?」

 ラグドリアン湖。トリステインとガリア王国を隔てる巨大な湖だ。たしかクルデンホルフから追い出されたとき、これといって行く必要もないと考えた場所だが……。今まで一度も行ったことがないというのも、少し寂しいだろうか。しかし、あまり近づきたいとも思えない場所である。どうするべきだろう。
 まあ、大公はまだトリスタニアで亡命貴族たちとの調整に当たっているとのことなので、当分はクルデンホルフには帰らぬだろう。ならば、少しくらい遅れても構うまい。そう考え、二つ返事でラグドリアン行きを承諾した。


 ラ・ヴァリエール家の面々に礼を言いながら竜籠に乗り込む。直前にカリーヌへこっそりと水着を手渡したが、いったいなにに使うのだろう。だが、そんなことを尋ねるのは命知らずな気がして、ヴェンツェルは結局訊けず仕舞いだった。
 カトレアやルイズ、むすっとした顔のエレオノール見送られながら、竜籠はゆっくりと上昇する。目標はカレー伯爵領を国境沿いに南下した場所にある、ラグドリアン湖の東岸。
 そして、ある程度上昇した竜籠は、南の方角へ向けて進み出すのであった。









 ●第三十七話「ラグドリアンにて」









 トリステイン王国とガリア王国の自然国境となっている湖、ラグドリアン湖。この湖の底には、古くから水の精霊が存在しているという。
 その浜辺に、大きな竜籠が降り立っていた。手綱を握っていたメイドの女性が台座から降り、三体の風竜の世話を始める。驚いたことに、この女性のほかに竜籠に搭乗していたのは、大公妃とヴェンツェル、そしてアリスだけだった。護衛はどうするのかといえば、小型のガーゴイルを使うらしい。そんなもので大丈夫なのかと思わないこともないが。

 湖の周囲はしん、と静まり返っている。訪れる者はあまり多くなさそうだ。だが、だからこそ、ゆっくりと落ち着くのにはもってこいだろう。
 メイドの女性が折りたたみ式のテーブルを運び出し、手早くお茶の準備をしていく。アリスもそれを手伝い、あっという間に二人分の席が出来上がった。大公妃はヴェンツェルを促し、まずはお茶にしましょうと言い出した。
 椅子に座り、辺りの風景を見回す。空は雲ひとつない快晴。辺りの森林は青々とした色彩の強い木々で構成され、湖の水面は透き通るような色をしている。
 昔地球で見たことのあるダム湖などとは、もうまったく比較にならない綺麗さだ。地球では、北米はカナダの人里離れた湖くらいでしか、このような光景は味わえないのだろう。

 しばらく涼んでいると、辺りが暗くなってきた。メイドの女性が竜籠の荷台からガーゴイルを運び出して、それを竜籠の周囲に配置していく。風と土の魔法が使われていて、空地両面からやってくる侵入者を察知できるそうだ。発見次第、手にした弓や斧、剣で侵入者を攻撃するらしい。
 と、ここまで説明を受けたところで、このメイド―――ミーナというらしい彼女がいったい何者なのか非常に気になった。たしか、ラインラントでの戦争あたりから大公に仕えていた気もするのだが、いまいち確証が持てない。本人曰く、ゲルマニア出身とのことであるが。
 夕食はバーベキューをやるらしい。いつの間にかミーナが石を積み重ねた上に網を敷き、かと思えば火を用意していて、それに薪をくべていく。赤い火はゆらゆらと燃え上がり、辺りを照らしている。
 どこからともなく取り出した肉や野菜を網で焼いていく。香ばしい臭いがヴェンツェルの鼻を刺激して、ぐうと腹の虫が鳴き声をあげる。
 この場合は無礼講だ。メイドも交えて、食事に興じることにする。肉は塩をかけるだけであるけれど、それでも十分に味を楽しむことができた。


 深夜。湖の周囲は驚くほどに静まり返っていて、聞こえてくるのは虫の鳴き声ばかりだった。
 砂浜に腰を下ろしたヴェンツェルは、ぼうっと双月や湖面を眺めている。ラグドリアン湖の湖底には水の精霊がいる。水の力を司るトリステイン王家、あるいはトリステイン貴族は、かの精霊に畏敬の念をして特別な感情を抱いている。
 盟約の精霊などと呼ばれ、水の精霊の名の下に誓った事柄は決して破られないとされる。始祖が降臨する以前から存在し、そして普遍的な存在である水の精霊は、すぐに驚くほどに社会が移り変わってしまう人間からしてみれば、古きよきものを守る盟主のような存在なのだろう。まったく、勝手に崇めているだけだろうけども。

 しばらくしたころ、背後に誰かの気配を感じた。振り返れば、そこには大公妃がいる。ただ、顔にやや影が下りている。

「隣、いい?」

 と尋ねられれば、わざわざ断ることもない。ロングスカートを身にまとう女性が砂浜に腰を下ろすのを、ヴェンツェルは視線を湖面に向けたまま気配で感じる。
 二ヶ月ぶりの母親との再会。当初は今までと変わりないように思えていたが、こといまになって雰囲気が一変する。まるでなにかに怯える少女のように、大公妃はヴェンツェルの衣服の袖をきゅっと掴んだ。

「どうしたんですか」
「……ううん、ちょっと。ちゃんと、ここにいるかなって」

 なにを妙なことを、とは言えなかった。どうしてか大公妃の青い瞳には大粒の涙が浮かび上がり、今にも泣き出しそうな、潤んだ瞳でヴェンツェルを見つめてきている。

「いつも、夢に見ていたの。わたしたちを置いて、あなたがどこか遠いところへ行ってしまう夢。それがもうずっと。そうしたら、本当にアルビオンで行方不明になったから……。心配で……」

 そう呟きながら、頭を息子の肩へよりかからせる。ふわ、と花のような香りが少年の鼻腔を撫でた。ふんわりとした香りのする香料を使っているようだ。

「でも、大丈夫よね? あなたはここにいる。もう、勝手にどこか知らないところへ行ったりしないよね?」
「……え、ええ。僕はそんなことはしませんよ」
「うそばっかり。いつも、わたしが知らないうちにどこかへ行ってしまうくせに……」
「いや、本当に」
「……なら、誓って?」

 先ほどまでの憂鬱な表情はどこへやら、大公妃はいきなりいたずらっぽい笑みを浮かべた。ヴェンツェルの手をとって、彼を湖の中へ連れて行く。まだまだ暑い季節なので、温度の低い湖の水が足を冷やす感触はたまらなく気持ちがいい。
 膝まで水に浸かりながら、大公妃はヴェンツェルに誓約を行うように促す。どうやら、彼女がヴェンツェルを連れてきたのはこれが目的であったようである。

「ほら、水の精霊に誓うのよ。『もう僕はお母さんを置いてどこかに行ったりはしません』って」
「いや……」

 なんて気恥ずかしいことを言わせるつもりなのだろうか、この人は。年頃の子供に言わせる台詞ではないだろう。そう思って抗議するも、大公妃はがんとして譲らないつもりのようだった。
 しかたない。さっさと誓約とやらをして、この人を満足させてしまおう。そんな風に考え、言われるがままに口上を述べようとした、そのときだった。

「ヴェ、ヴェンツェル!?」


 大公妃の叫び。気がついたときには、ヴェンツェルの体が猛烈な力によって湖の内部に引きずりこまれていた。


 いったいなにが起きたのか。それを考える間もなく、見えない“力”が少年をずんずんと水の奥底へ引きずり込もうとしてくる。必死にもがいていると、やがて触手のようなものが現れた。それはヴェンツェルの首に巻きつき、まるで彼を絞め殺そうとしているかのような、強い力で首を絞めてきた。
 それに抗いつつ、なんとか脱出の道を探るも、杖がない状態に気がついてしまった。一気に絶望の色が彼の瞳に浮かんでいく。

 ―――去れ! 終末をもたらす者よ! 自らの意思で去らぬというのならば、我が直接お前を排除してやろう!

 唐突に、そんな声がヴェンツェルの脳裏に響き渡る。自分から引きずりこんでおいてそれはないだろう、と思ったが、抗議を行おうにも口を開けばがぼがぼと泡が吹き出すだけだった。杖のない状態の少年には、万一の確立でも“力”に抗うことはできない。
 水面がどんどん遠ざかっていく。耳ががんがんと打ちつけられるような痛みが走り始め、頭が破裂しそうなほどの痛みが襲う。もう、耐えられなかった。
 やがて、“力”に抵抗できなくなったのか、だらりと体の力が抜けた。意識がなくなったようである。


 ヴェンツェルを引きずり込んだ“なにか”は、このまま湖底まで彼を連れて行って止めを刺すつもりのようだった。だが、それは無粋な闖入者の妨害によって中断させられてしまう。水を切るようにやってきた空気の塊が、触手の一部を弾き飛ばしたのだ。

「……なんでまた、坊ちゃまは妙なものに襲われているんですか!」

 妨害したのは、空気の膜に身を包んだ少女アリスだった。彼女はかなりの広い範囲の空気の膜を生成していたため、“なにか”の反撃をものともせずに突っ込んでくる。
 水中の生物に、相手のホームグラウンドである水中で挑むのは自殺行為である。だからこそ、水の中に入るときは空気の膜を張っていくのである。特に全身が水で出来ている『水の精霊』には、空気の膜は絶大な防御力を誇っている。
 そこから導き出される結論は―――そこに思い至ったアリスは、恐れ多さのあまり思考からその結論を追い出した。なぜヴェンツェルがそんなものに襲われるのか。まったく理由など思い浮かぶはずがない。

 ―――単なる者よ。なぜ我の行いを妨げる。

 ふとアリスの脳裏に、そんな“声”が響いた。まるで頭の内部に直接語りかけるかのような音だ。

「決まってるじゃないですか! その人を助けるためですよ!」

 不気味な声を頭の中から振り払うかのように、アリスは大声で叫ぶ。もっとも、水中にいる相手にそれが聞こえるとは思っていなかった。だが。

 ―――解せぬ。この者は将来的にお前たちだけでなく、この地に大きな災厄を、終末をもたらす。ならば今のうちに危険を取り除くのは、お前たちにとっても有益なことではないのか?

「そんなのは知りません!」

 ―――愚かな。……ならば、我からこの者を取り戻してみるがいい。

「言われなくてもそうします!」

 “なにか”の言葉をまったく相手にせず、アリスは魔法を連発して触手を打ち消していく。だが、消えた途端に触手は再び生えてくるという有様だった。風の魔法を乱発しすぎたせいか、みるみるうちに空気の膜が磨り減っていく。もうあまり時間の余裕はなかった。
 ならばと、アリスは短剣に『ブレイド』をまとわせて“なにか”に突撃していく。実体のない相手を捉えることは難しい。しかし、相手は触手でヴェンツェルを捉えている。だいたいの本体位置を把握しながら、アリスは短剣を切り結ぶ。すると、ヴェンツェルと“なにか”を結んでいた触手がわずかに途絶えた。その隙を見逃さず、アリスは空気の膜のなかに少年を引きずりこんだ。

 ―――む、“それ”は……。なるほど、“奴”の生み出した、忌まわしき出来損ないの力を宿しているのか。

 水の中で、どこからともなく二人の少年少女を見つめながら、“なにか”はゆっくりと湖底へ戻っていく。最後に、意味深な台詞を残しながら。

 ―――単なる者よ。我の行いを妨害したその選択、いつか後悔することになるぞ……。


 それきり、頭の中に割り込むような声は聞こえなくなった。そして、アリスの腕の中には、水を大量に吸ってしまった少年がいる。

 じっと彼の顔を見つめながら、少女は頬を朱に染める。しかし、彼女はすぐに決断した。




 *




「ヴェンツェル!」

 アリスがヴェンツェルを引きずって砂浜に現れると、大公妃が慌てた様子で駆け寄ってきた。彼女はすぐに湖の中に入ろうとしたのだが、それはメイドのミーナによって押し留められたのであった。
 見るからに疲弊した少女には目もくれずに、大公妃は少年を抱きかかえる。脈があるのを確かめると、すぐにその表情が変わる。

「これは―――人口呼吸を、しないと、いけない、わね」

 ぷるぷると手を震わせながら、大公妃は取り繕ったような困惑の表情でそんなことを言うのである。だがそれは、次にアリスが放った一言によって一気に絶対零度のブリザードに凍てつかされてしまう。

「大丈夫です。……もう、しました、から」
「……な、ん、ですって……?」

 凍りつくその場。普段はにこにこと笑みを浮かべて佇んでいるだけのミーナでさえ、アリスの発言にはたいそう驚いたらしい。目を見開いて、わくわくとした様子でことのなりゆきを眺めていた。
 大公妃、無言で杖を取り出す。それに対抗するかのように、アリスも短剣を構えた。ここにきてミーナはあることを思い出す。そういえば、二人ともスクウェアメイジなのだ。そんな強力なメイジ同士がぶつかりあえば、とんでもないことになるのは間違いない。最悪、領主に通報する領民が出るだろう。それは避けねばなるまい。

 彼女は、こっそりとスカートの下の太ももにくくりつけておいた杖を取り出す。そして、眠りの魔法『スリープ・クラウド』を詠唱。まったくミーナの方向に気を向けていなかった二人は、驚くほどにあっさりと眠りだしてしまった。見た目より、疲れていたのかもしれない。


 『レビテーション』で二人を運んだミーナは、濡れ鼠のアリスの衣服を剥ぎ取った。綺麗なタオルで体を拭いてやり、真新しい寝巻きに着替えさせる。大公妃も同様に体を簡単に拭く。そして、二人をそれぞれのベッドへ仰向けで寝かせた。
 ふと、彼女は外にヴェンツェルを放置したままだったと気がつく。彼になにが起きたのかわからないが、放置しておくとまた怪物に襲われるかもしれない。そう考え、竜籠の外に出る。

 すると、彼女の目の前に壮絶な光景が映った。
 風竜が、少年を頭から丸呑みにしているのである。ミーナは慌てて彼を風竜の口から引き出そうと、悪戦苦闘するのだった。



 翌日。冷戦状態のアリスと大公妃に挟まれながら、なぜかはわからないまま、ヴェンツェルは気まずい空の帰路を味わうこととなるのである。



[17375] 第三十八話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/08/06 08:09
 クルデンホルフの城。無事に帰還を果たしたヴェンツェルは、ジョゼフ主催のお祝い会に強制的に参加させられていた。

「少年の無事を祝って、乾杯!」

 青髪の美丈夫はジョッキを高々と掲げ、祝杯をあげる。

 とは言っても、参加しているのは身内のわずかな人間だけだった。なにせ会場が普段使用している食堂なのである。
 主催者であるはずのジョゼフは、もう酒を大量にかっくらってべろべろに酔うという有様である。どう見ても、今回のことにかこつけて自分がタダ酒を飲みたかったようにしか見えない。

 椅子に腰掛けながら、ヴェンツェルは骨付き肉にかぶりついていた。彼は動こうにも動けない。なぜなら、真紅の髪の童女がずっと彼にへばり付いているからだ。彼女の名はヘスティア。なんだか、ずいぶんと久しぶりにその名を耳にする気がした。それもそのはずで、ヴェンツェルは二ヶ月は行方不明になってアルビオンにいたのだから。
 なんだかその光景は、母コアラにしがみつく子コアラのような構図になってしまっている。ヘスティアは、はしばみ草をむしゃむしゃと咀嚼しながら、ときおりワインに口をつける。当然ながら酔いが回った彼女はもうへろへろである。それでもヴェンツェルにしがみついたままなのは、さすがといえようか。
 なぜか傭兵連中まで便乗して酒を飲んでいるのにはあきれ果てる。城を守るべき彼らがこんな場所で戯れていて、いったい誰が城を警備するというのだろうか。


 大公は相変わらずトリスタニアで釘付けになってしまっているらしい。なので、この場にはいない。なんでも、アルビオンからやってきた亡命者をどうするかで政府内が揉めに揉めているという。
 事実上、アルビオン王家の人間は壊滅した。ウェールズは行方不明となっているらしいが、ほぼ戦死しただろうと言われている。
 王家の断絶に伴い、亡命アルビオン政府の首班はエディンバラ公爵が務めている。
 アルビオン王家の血脈が途絶えたとなると、元々はアルビオン王家の出身であるトリステイン王ヘンリーが王位を主張することもできる。だが、既に共和国側が新たなる王の擁立作業に入り、ロマリアが同国政府の支持に出たとの情報も流れてきていて、王宮の貴族たちは酷く混乱していた。
 かつてアルビオンからの移民が居住していた、北部の半無人地帯であるダングルテール地方に亡命者を入れるという案もあったが、それは遅々として進まないというのも現状である。


 やがて。ちょっとしたパーティーは、自称主催者のジョゼフが泥酔してぶっ倒れるのを切りにしてお開きとなった。明らかな飲みすぎである。
 子猿のようにへばりついたヘスティアをくっつけたまま、寝ぼけ眼でヴェンツェルは数ヶ月ぶりの自室へ向かう。
 ドアを開けると、そこにはなぜか肌色の空間が広がっている。一瞬まじまじとその光景を眺めてしまったヴェンツェルはしかし、すぐにドアを閉じる。信じられないものを見るような表情でしばし目を瞬かせたあと、もう一度ドアを開ける。すると、そこには、体にラッピングテープを巻いただけの黒髪姉妹が鎮座しているではないか。

「……なに、やってるんだ?」
「お出迎え?」

 姉妹の妹のほう、リゼットはなぜか疑問系でそんなことを言うのである。ヴェンツェルは頭が痛くなった。服を着るように言いつけ、また扉を閉める。しばらく待ってから再びドアを開けると、そこには普段着に戻った吸血鬼?の姉妹の姿があった。
 ひどくつまらなそうな表情で、リゼットはあぐらをかいて座る。足の裏側をすり合わせながら、ぶつぶつと呟く。

「酷い仕打ちだと思わない? ねえ、お姉ちゃん。ずっと我慢してきたのに。何度メイドさんを干物にしそうになったかわからないのよ。しょうがないからお姉ちゃんの汗で我慢してたのに……」
「なん…だと…?」

 聞き捨てならない発言である。お姉ちゃんので我慢? まさか。百合百合なのか? ヴェンツェルの脳内をピンク色の妄想が駆け巡る。クリームとかつけちゃうのだろうか。いや、もしかしたらそれ以上のハイレヴェルな……というところまで考えたところで、それまで顔を真っ赤にしていて沈黙していた、リゼットの姉―――クロエが逃げ出した。思うところがあったのだろうか……。そして、それを追ってリゼットも部屋を出て行く。

 物凄く疲れた気がして、引き離したヘスティアをベッドに寝かせてやると、ヴェンツェルは自らの椅子に腰掛けた。見ると、机の上に可愛らしい便箋が置かれていた。宛名を見るに自分宛らしいので、丁寧に開封。本文を読んでいく。
 それはクロエがしたためたらしい手紙だった。流暢な字体で文章が綴られていた。あまり口が上手くない彼女だが、文章はそうでもないらしい。ただ、ちょっと内容がポエム染みているのが気になった。
 手紙を丁寧に折りたたむと、机の引き出しの中にある手紙入れにしまう。その中には、稀に手紙のやり取りをするオールド・オスマン氏からの手紙も入っていた。ただ、内容の大半がどうでもいいことばかりなのがたまに傷だが。

 さて、今日はいろいろとあって疲れた。もう寝ようか。
 ふらふらになりながら、ヴェンツェルは自らのベッドへ向かう。このとき彼は、確かに存在していたはずの微かな違和感にまったく気がつかなかった。いや、気づけなかった。

 あるべきであるはずのものがない―――そう、少年が戻ってきたとき、かたかたとやかましい音を立てるはずの、錆びた剣の存在が……。











 ●第三十八話「束の間の平穏」









 

 ヴェンツェルがクルデンホルフへ帰還した日の翌日。
 ずっとヘスティアと離れていたので、とりあえず彼女を連れて町を散策してみることにした。なんとなく誘ってみたら飛びついてきたので、引っ込みがつかなくなったのもあったが。

 クルデンホルフの市街はアルビオン行きの直前とそう変わりないように見える。相変わらず町は人で溢れていた。平民たちに混じってマントをつけた貴族もそれなりに見える。この町の平民は、基本的にはハルケギニアではかなり上位の部類の生活を送る人たちばかりだ。九割以上といわれるこの町の識字率の高さが、それを如実に物語っている。
 識字率の高さを背景に、平民向けの娯楽小説の類も大量に供給されている。平民の生活を面白おかしく描いたものや、貴族の娘に恋した平民の少年の末路を描いたもの、中には翼人の少女を好き勝手に調教する、などという卑猥なものも多い。というよりそんなのばっかりである。世界が違ってもエロースは偉大なのだ。

 しばらくぶらぶらと歩いていると、唐突にヘスティアが立ち止まった。見れば、そこにはロマリアからの移民らしき少年がなにか出店を開いていた。

 なぜ少年がロマリア人だと分かるのかといえば、彼の発音がかつて聞いたロマリアなまりのものだったからだ。
 ハルケギニアでは、それこそかつてのフランス語のように、ガリア語が国際的な言語として認知されている。トリステイン北部やクルデンホルフの住民は、ゲルマニア系言語を母語とする者が人口比では多い。しかしながら国家の上層部にいる貴族たちはガリア語を使うので、ゲルマニア系の言語は劣等言語として扱われていた。
 それはちょうど、ベルギーにおけるフラマン語話者の立場と似ている部分がある。
 幼少よりガリア語での会話ばかりの環境で育ってきたヴェンツェルに至っては、かえってゲルマニア語の方が苦手となっている始末である。

 出店は圧倒的に女性客が多いようで、とんでもない美形の金髪少年――どこかで見たような顔だ――がアクセサリーの類を勧めている。飛ぶように売れていくのを見ると、やっぱり世の中イケメンが勝ちなんだなあ、とヴェンツェルはしみじみと思うのである。
 ヘスティアはアクセサリーに興味を示していたが、出店の品はあっという間に完売してしまった。ホクホク顔の少年が出店を片付ける。そんな様子を眺めていると、彼の方から声をかけてきた。

「あ、すみませんね、お嬢さん。もう売る物がないんですよ」

 やはりあからさまに美形である。白い歯をきらりと光らせながら、彼はヘスティアに向かって微笑んだ。ただ、よく見るとオッドアイ、月目である。ハルケギニアでは忌み嫌われるというのに、それでも女性たちに大人気というから憎たらしい。月目を馬鹿にされるか、あるいは恐れられた経験しかないヴェンツェルとは大違いである。

 それは置いておくにしても、やっぱりどこかで見たような顔だ。ヴェンツェルは気になって、しかめっ面をしながら少年に詰め寄った。

「きみ、名前は?」
「あ、はい。貴族の坊ちゃん。ぼくはジュリオ。ジュリオ・チェザーレと申しまして。見ての通り、ロマリアからの善良な移民です」

 よく言うものだ。クルデンホルフで犯罪を起こす者といえば、まず真っ先に挙げられるのがロマリア移民である。彼らは盗みを平気で働くし、徒党を組んで治安部隊と衝突することもある。先代の大公時代にそういった問題が山積みとなったがために、ロマリア移民が全員強制退去させられるという事態も起きた。
 ただ、最近は正式な審査さえ経れば、移民を認めるケースもないわけではない。このジュリオという少年がそれをパスしているとも思えないが……。

 だが問題はもっと大きいことに気がつかされる。
 ヴェンツェルの記憶が正しければ、この超絶美形の少年はロマリア教皇の使い魔『ヴィンダールヴ』になるはずの人物なのだ。しかし、両手の甲や額を見ても、なんらルーンが刻まれている気配はない。いったいどういうことなのだろうか? だとすれば、教皇の使い魔は誰なのだろうか。

 とりあえず、“この”ジュリオは教皇とは関係があるようには見えない。彼を解放する。すると、なんだか頭を下げたジュリオの元に一人の少女が現れた。青い髪のツインテールの少女。そう。それはまるで、ガリア王国の王女、シャルロットに瓜二つの……。
 どういうことだ。まさか…? 誰かの仕業だろうか。ヴェンツェルは仲むつましげに去り行く二人の背中を眺めながら、激しい疑問に襲われる。

 だが……。幸せそうにしている二人を見ていると、悪い気はしない。ああなった経緯はまったくもって不明だが、まあ、幸せに暮らしてくれればそれでいいだろう。
 すべてを見なかったことにして、ヴェンツェルはヘスティアと共に市街地を進み出した。




 市街の南側の商業街道路の中央にはベンチがある。そこでくつろいでいると、城の方向から貴族の集団がやってくるのが見えた。よく見ればそれは十代に入ったばかりだろう少女たちの集まりであり、中心にはヴェンツェルの妹であるベアトリスがいた。
 そういえば近ごろ、彼女は子分を引き連れて歩くようになったと耳にしていたのを思い出した。取り巻き連中も調子に乗って『ベアトリス姫殿下』などと呼んでいるらしい。

「殿下には兄君がいて、大活躍なさっているそうですね。領地経営を任されたエシュの町をあっという間に大発展させたとか!」
「容姿端麗で魔法の才能もあり、火のスクウェアになられているとも、殿下からお聞きしましたわ。本当にすごいです」
「ええ。なにせわたくしの兄上ですもの。そのくらいは当然ですわ」

 ベアトリスが胸を張って話すと、周囲の貴族の子女たちはきゃあきゃあと大声を上げた。いったいなにを言っているのか、ヴェンツェルにはまったく理解不能である。もしかしたらベアトリスは脳内に理想の兄がいて、それをあたかも現実のように錯覚しているのではないのだろうか。いや、もしかしたらヴェンツェルが知らないだけで、クルデンホルフにはもう一人男児がいるのか?
 ちなみに、エシュの経済を軌道に乗せたのはジョゼフだ。ヴェンツェルのやったことといえば、ハコ物行政をやって借金を増やしただけである。容姿は端麗というより醜悪である。魔法の才能は悲劇的なほどにない。スクウェア? なにそれおいしいの?
 普通に考えるならば、ベアトリスが見栄を張って適当なことを吹聴して回っているのだろう。まったく迷惑な話である。

「姫殿下。わたし、兄君とぜひお会いしてみたいですわ!」
「……え? あ、いや……そ、そう! 兄上は少し、ロマリアのさる枢機卿の元へ説法を学びに出ていますの! 当分は帰ってこないはずですわ!」

 目を輝かせる褐色髪の少女に、ベアトリスは視線をあらぬ方向へさ迷わせながら、しどろもどろな言い訳を行う。そのときふと、ベアトリスの瞳がヴェンツェルを捉え、驚愕に見開かれる。
 「なんでこんなところにいるの!?」と視線で訴えかけているのがよくわかった。そして、そんなベアトリスの露骨な視線を追った取り巻きの少女たちの顔も、ベンチに腰掛けるピザ少年に集中するのである。

「……まあ、醜い殿方ですわ」
「殿下の兄君の対極に位置するような汚物ですわね。マントなんてつけて、貴族の真似事でもしているのでしょうか」
「小さな女の子を連れていますわ。あれはぜったい悪戯目的の誘拐でしょう! 通報しましょうか?」
「あ、あなたたち。捨て置きなさい。あれはわたくしたちが触れるべき存在ではありません。言うならば不可触賎民です」

 ベアトリスが大慌てで取り繕うように少女たちに言葉を投げかけると「そうですわね。ああ昼間から嫌なものを見てしまいましたわ」「目に毒です」などと言いながら、さっさとヴェンツェルとは反対の方向へ去って行った。
 あまりにも散々な言われようである。少年が落ち込んでいると思ったのか、彼の隣に腰掛けたヘスティアが励ますように言った。

「大丈夫。人間、顔だけじゃないわ」


 全然フォローになっていなかった。




 太陽が天高く昇る、昼食時の空。

 ヴェンツェルとヘスティアはとある食堂の前へやってきていた。安くて量が多く、味もなかなかの店があると老衛兵のマジソンから聞いていたので、せっかくだからと来てみることにしたのだった。ヘスティアは小洒落たカフェ・レストランでも所望するかと思ったが、案外となにも言わずについてきた。
 店の扉を開けると、いきなり青い髪の親子が目に飛び込んでくる。案の定、それはジョゼフとイザベラだった。

「おや少年。きみもこの店を知っていたのか」
「ええ。衛兵から聞いていたので」

 なんとなく成り行きで、ヴェンツェルとヘスティアもジョゼフたちのテーブル席に腰掛けた。ジョゼフ曰く、この店にはスペシャルメニューがあるらしい。彼が指差した方向へ目を向けると、なるほど、なにかの張り紙がしてある。『じゃがいも大食い挑戦 完食できたら賞金五十エキュー』とある。
 一度だけジョゼフもチャレンジしてみたそうだが、それこそ山のように出てくるじゃがいもの前に、不本意ながら敗北を喫してしまったという。失敗すると五エキューも請求されるらしい。
 ヴェンツェルは大食らいでじゃがいもは好物だが、さすがにそんなハイリスクな賭けには出たくない。なので、普通に料理を注文することにする。
 店主は物静かな男だった。ゲルマニアのウィンドボナからやってきたという。淡々と作業をこなすその様は、よく洗練された動きである。ただ、帽子を深く被った、妙な身なりの老人と話すときはやけに饒舌だった。声量そのものはひどく小さいが。


 食事を終えたヴェンツェルとヘスティアは、これから城に帰るという青髪の親子と別れた。向かう先はとくに決めていないので、適当にぶらつくことにする。
 やがて、二人は市街地の外れにある公園にたどり着いた。この場所は、木々に囲まれたひっそりとした場所だった。公園の外れにある掘っ立て小屋には、近所の子供から『マダオ』と呼ばれる管理人の男性が居住している。彼はいつもやる気なさそうに掃除をしているので、すぐにそれとわかる。一部では有名人だった。

 まだまだ残暑が厳しい。噴水の淵に腰を下ろしたヘスティアは、その小さな足を水面につける。冷たかったらしく、驚いたように足を水面から離した。
 何度か足を水に触れさせて慣らしている。やがて大丈夫になったのか、彼女は足を噴水池の中に入れた。とても気持ちよさそうに目を細めている。ヴェンツェルも真似をしようと思ったが、そこでマダオが捨てたと思わしき新聞が目に飛び込んできた。
 マダオは自分が管理人であるにも関わらず、空いた酒瓶や読み終わった新聞をポイ捨てするのである。本人曰く「どうせ掃除すんのはオレなんだからよ、別にいいだろ」とのこと。それを注意する人間に堂々と宣言して顰蹙を買うのだから、本当にまるでだめな男である。
 よく考えると、新聞を買うということは、マダオが文字を読めるということの裏返しである。新たな発見だ。……そんなことは酷くどうでもいいと気づくのに、三秒もかかった。

 微妙な表情を浮かべるヴェンツェルを、ヘスティアは不思議そうな顔をして見つめている。彼女の足がちゃぷちゃぷと水面を撫でて、遠くの方まで波紋を生み出していた。
 アンニュイな気分とはこのことだろうか。とくに動きがあるわけではなく、ただ平凡な時間が過ぎていく。ただ、それがとても大事なことであるのは確かだ。ひとたび動乱が起きでもすれば、この無駄だとしか思えないような安息日が失われる。そして、失ってから初めて気がつくのだろう。そのかけがえのなさに。
 
 しばらく二人でぼうっとしたあと、特にやることもないので城に帰ることにした。途中、マダオがベンチで寝ていたので新聞をかぶせておく。こういうのは元の持ち主に返すのが一番だ。





 寄り道をしながら、だらだらと帰路についていたせいか、城についたのはもう夕刻のことだった。ヴェンツェルが自室に戻るために廊下を進んでいくと、自らの部屋の前に誰かいるのが見えた。
 この城で金髪の髪を二つくくりにしている人間はたった一人しかいない。ベアトリスだ。どうしてか、彼女は不安げな表情でドアに背をつけている。

「どうしたんだ」
「あ、兄上……」

 最近、ベアトリスはヴェンツェルのことを『兄上』と呼ぶようになっていた。元々あまり一緒にいない兄妹なので、呼び方が変わった程度でどうということはないが。極端な、ある意味でわかりやすい性格のアリスより、ちょっと見栄っ張りなだけの普通の少女であるベアトリスの方が扱いにくい。それが少年の感想である。

「え、ええと……。その。さっきはごめんなさい。酷い言い方をしてしまって。やっぱり、言い過ぎたかなって」

 なんだそんなことか。と、ヴェンツェルはやけに冷めた頭で思考する。彼女がこうして謝ることなど、今までほぼ目にしたことがない。それでも特に感慨はなかった。きっと、たまたま聞かれてしまったからこんな殊勝な態度に出ているのだろう。

「いや、いいよ。気にしてないから」

 とにかくにも、このときのヴェンツェルは外出をして疲れていたのである。面倒臭そうに妹をあしらい、彼はさっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。ばたん、とドアが乱暴に閉められる。

 一人残されたベアトリスはなにか思うところがあるらしく、少しの間、ドアの前に立ち尽くしていた。





 *





 それから、ティファニアの戴冠式まで時間は流れる。

 事態は急転直下の様相を呈していた。アルビオン共和国が突如として王の戴冠を宣言。その王というのが、亡きモード大公の娘であるというティファニア・オブ・モードを称する少女だった。
 ロマリア及びゲルマニアは、戴冠式に国家元首が直接訪問するという好待遇をもってして、新たなる王を迎えた。一方のトリステインは、戴冠式どころかアルビオン共和国の承認そのものを拒絶。ガリアに至ってはうんともすんとも言わない、異例の対応だった。
 このときよりトリステインの王宮内部では、現王がアルビオンの王位を主張せしという意見が散見されるようになってきた。ただ、王としてはそんなつもりなど毛頭ない。にも関わらず、一部の貴族が無断でそのような動きを加速させていた。

 アルビオン女王ティファニアの正当性は当初疑問する声もあったが、ロマリア教皇庁幹部が正式な会見にて『ティファニア・オブ・モードは、正統なる始祖の血脈を受け継いだ、正当なアルビオンの君主である』という声明を発表。
 ハルケギニアの頂点に立つ教皇庁の公式見解とあっては、もうそれに表立って異論を唱えることができる者はいなくなった。

 その情報は瞬く間にクルデンホルフにも伝わり、まさかそんな事態など微塵も予想もしていなかったヴェンツェルを、大いに驚かせることとなるのである。




 *




 ―――深夜のクルデンホルフ市街。三名ほどの人影が、月明かりに照らされていた。一人はマントを風になびかせているため、メイジなのだろう。そして、長身の男の影に隠れるようにして一人の少女が佇む。
 彼女は肩までの栗毛を風に揺らしながら、目の前の男性に問いかける。

「念のために確認するけど―――この国はイザベラ・ド・ガリアを匿っている。その情報に間違いはないのね?」
「はい。かなり頻繁にうちの店に来ますので。間違いありません」
「そう。ふふ……。彼女、次はいつ一人で外出してくれるのかしら。楽しみだわ」

 眼前に聳え立つクルデンホルフの城を眺めながら、少女は呟く。その瞳は、まるで獲物を狙う猛禽類のような鋭さを秘めていた。




 安息日はまだ続く。少なくとも、今のうちは。



[17375] 第三十九話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/08/07 08:17
 クルデンホルフ市の商業街。
 さまざまな店が軒を連ねるこの街の中で、一人の少女が買い物に興じていた。彼女は名をイザベラという。生まれはガリアの王族。現在は故あってクルデンホルフ大公国で匿われていた。
 彼女はたまにこうして一人で外出することがある。たまには、一人でのんびりと買い物を楽しみたいと思うからだ。……もちろん護衛が陰ながらついているし、イザベラもそれを承知しているが。

 もっとも近くでイザベラの護衛をしていた女性メイジが異変に気がついたのは、イザベラが飲食店でお菓子に舌鼓を打っているときだった。他の護衛の連中から定期連絡がない。いったいどうしたのか。伝達ミスならばいいのだが、いままで一度もそんなことが起きていなかったがために、彼女は大きく不安を覚えてしまう。
 やむを得まい。イザベラ殿に接触して、城へ帰るように促そう―――彼女がそう考えたときには、背後に巨大な“騎士”が接近。手にした大剣を、一気に振り下ろした。



「ねえ、あなた」

 イザベラが飲食店を出て、少し歩いたときだったろうか。彼女とほとんど同い年の、あるいはやや年下かもしれない少女が声をかけてきた。濃い色の栗毛に、透き通ったようなやわ肌。見るからに美少女といういでたちで、まったく害意の類は感じなかった。誰に声をかけたのか。思わず、イザベラはきょろきょろと周囲を見回してしまう。

「あなたよ、あなた。イザベラさん」
「……!?」

 突然、見知らぬ少女に自分の名を呼ばれる。イザベラは警戒心をあらわにして、腰に差していた杖を構えた。かつては無能王女と陰口を叩かれた彼女だったが、いまでは水のラインスペルを使いこなすほどに成長している。見た目ほど柔ではない、そう自分では考えていた。

「ねえ、王女さま。ゲルマニアの皇帝陛下はあなたを必要としているの。どう? 形だけでも結婚してくださらないかしら。ああ、でも子供は一人くらいいたほうがいいかもしれないけど」

 ひょうひょうとした、馴れ馴れしい態度で少女は話しかけてくる。いったい何者なんだ、こいつは。どうしてゲルマニア皇帝を持ち出すのだろう?

 そう考えたとき、ふと目の前の少女の靴が視界に入った。……塗れている。まだ新しい血の赤が、そこには存在していた。いったいなんなんだ。この少女は。
 もしや、どこかからの刺客? その考えが脳裏に浮かんだとき、背中を冷たい感触が撫でていく。本能的にイザベラは後ずさった。そして、背中が硬く冷たい、金属の質感に触れる。
 声にならない叫び声を上げながら、イザベラは腰を抜かしてしまった。彼女の背後には、体長が三メイルはありそうな鋼鉄の騎士が、拭いようのない違和感を放ちながら鎮座している。

 “騎士”は軽々とイザベラを抱きかかえる。恐怖を顔に浮かべたまま硬直するイザベラに、少女―――デメテルは、妖艶な笑みを浮かべつつ、告げた。

「大丈夫よ。あなたの身の安全は保障するから。まあ、大人しくしていてくれれば、だけど?」




 *




 ヴェンツェルは、ヘスティアと共に町を散策していた。先日同じようなことをしたばかりだが、今日も外に出たいと彼女が言うのだ。
 ちなみに、いまのヘスティアは火石を吸収して、いつもの童女とは似ても似つかぬ美女となっている。火石は、再びモーリスに依頼して手に入れてもらったそうだ。あとでモーリスに礼を言わねば。
 目を見張るような美人の女性を引き連れて町を歩くのは、実に爽快な気分である。男共が浴びせてくる嫉妬の視線もなんとやらだった。


 しばらくぶらぶらと歩いていた、そのときである。ヘスティアがなにかを感じ取るかのように、ぴくりと体を震わせた。ヴェンツェルが疑問の声を上げると、彼女は言う。かつて、ブラバント公爵邸で出会った“女神”デメテルの気配がすると。
 デメテル。ブラバント公ギヨームをそそのかして大公妃やヘスティアを誘拐させた人物だ。ずっと行方知れずになっていたが、いつの間にクルデンホルフに来たのだろうか。
 そんなことを考えたのと同時に、前方で女性の悲鳴が上がる。そこへ駆けつけてみれば―――大公の配下にいたはずのメイジが、無残な姿となってこと切れているではないか。いったい誰がこんなことを。

 衛兵がやってきて付近を通行止めにするなか、ヴェンツェルはどうしようもない憤りを覚えた。
 すると、彼らの元に一人の女性メイジが現れた。見るからに負傷していて、まさに満身創痍の状態である。彼女はヴェンツェルを見つけると、額に脂汗を浮かべながら、焦った様子で報告してくる。

「わ、若さま! た、大変です! イザベラさまが……イザベラさまが、何者かに、ゆう…か…」

 そこまで話したところで、女性メイジは糸の切れた操り人形のように崩れ落ちてしまった。ちょうどそこに、衛兵から死亡事件発生の連絡を受けた水メイジが現れ、女性メイジを診てくれる。どうやら、極度の緊張状態の持続による、軽い神経障害らしい。外傷は見た目ほど酷くはないらしいので、一安心だが…。

 このとき、イザベラを密かに護衛していたメイジ六名のうち、五名の死亡が衛兵によって報告された。皆頭蓋や胴体を剣のようなもので一刀両断にされ、目を覆いたくなるほどの無残な状態になっているという。あの女性メイジが生き残れたのは、大きな幸運だったのだろう。

 ヘスティアの証言。そして、イザベラだけを狙った誘拐。間違いなく、今回のことにはあのデメテルが絡んでいる。そう考えたヴェンツェルは、衛兵に指示を出すと、ヘスティアと共に目の前の建物に飛び込む。そして、階段を駆け上がって屋上へ出た。

「―――どうだい?」
「……うん。やっぱり、これはデメテルね。北東、ゲルマニアの方角へ向かっているわ。かなりの速さよ」

 どうするべきか。やはり、ここは大公に連絡をとって―――いや、それならば、もう衛兵たちから連絡が行っているころだろう。わざわざ自分がする必要もない。ならば、やることは決まっている。

「ヘスティア。追跡は出来るかい?」
「ええ、もちろん。あれだけ濃い気配を放っていたら余裕よ」

 そう言うなり、ヘスティアはヴェンツェルを抱きかかえた。北東の方角を見据え、小さく呟く。すると、彼女の体が浮き上がり、デメテルの元へと飛行を開始した。










 ●第三十九話「ヘスティア」










 ゲルマニア西部、トリステインとの国境に存在する町アーヘン。

 トリステイン建国時はアクア・ラ・シャペルと呼ばれていた、歴史ある都市である。現在ではゲルマニア領土になっているものの、この地を取り返そうとするトリステイン貴族はあとを絶たなかった。
 その代表格が既に失脚したワロン公爵であり、彼はラインラントがガリアの手に渡れば、この都市も交渉次第ではトリステインに帰属すると考えていたのだ。もっとも、それはいささか甘い考えであったと言わざるを得ないが。彼は必要以上にガリアを妄信していたのである。

 そこまで貴族たちがアーヘンへ固執する理由の一つに、この町の大聖堂が挙げられるだろう。ロマリアにあるものを除けば、現存する最古のブリミル教の聖堂である。大きさはそこそこながら、この建物が持つ歴史的意義は非常に大きい。戦乱の最中でさえ、この聖堂の存在を理由にアーヘン市街は戦火を逃れていたという。

 そんな歴史ある建築物のなかで、イザベラは縄で縛られて捉えられていた。脱出しようにも杖を取り上げられているため、それは叶わない。彼女のそばでは、ハインリヒ・フォン・バッセンハイムと名乗る騎士が見張りをしていた。皇帝直属部隊の騎士の一人で、今回の作戦に辺り皇帝から抜粋された人物である。

 作戦。それは、密偵の情報によってもたらされた『クルデンホルフにイザベラあり』との報に基づいて計画されたものである。
 アルブレヒトは常に始祖の血を引く三王権の子女を狙っていた。だが、それが叶う事はなかった。先代のクルデンホルフ大公の兄の元にはトリステインから王族が嫁いだというのに、自分の元にはそういった話が一切無い。屈辱である。
 だから、皇帝はガリアで起きた政変のときは大いに期待したものである。しかしながら、ゲルマニアに流れてくるのは平民や下級貴族ばかり。一向に王族らしき姿は見えない。
 そこで、隣接するクルデンホルフ市街に密偵を放ったのだ。もっとも、あまりに厳しい警備網のために、作戦を遂行できたのはたった一人だけだったが。しかし、そのたった一人によって、アルブレヒトはイザベラという、自らが喉から手が出るほどに欲していた、至高の材料を発見することができた。
 そこで皇帝は、自らがアルビオンに渡っている間に、デメテルに命じてイザベラを誘拐することにしたのだった。


「……ふう。なんとかゲルマニア国内まで来れたわね。休憩の一つもとらないで、辛かったでしょう? ごめんなさいね」
「いえ。これも任務ですので」

 デメテルは、ねぎらうかのような言葉をバッセンハイムへ向けた。今回の作戦がデメテル自身驚いてしまうほどに迅速に進んだのは、命令を忠実にこなす、優秀な騎士である彼のおかげでもあったのだ。

「……くっ、あんたたち、こんなことをしてただで済むと思ってるの!? 外交問題よ、これは!」
「あら? そうはならないと思うけど。あなたたちの存在は、トリスタニアの連中でも知る者がほとんどいないっていうじゃない。ほとんどいないのも同然。でも、もしクルデンホルフが、王さまに黙ってあなたたちのような重要人物を匿っていたのが露呈したらどうなるのかしら? 一番困るのはクルデンホルフよ。ゲルマニアは痛くも痒くもないわ」
「なっ……」

 思わず、イザベラは言葉に詰ってしまう。なるほど、確かにクルデンホルフにイザベラとジョゼフがいるのを知っているのは、トリスタニアではマザリーニ枢機卿だけである。王にすら知らせずに他国の王族を匿っていたと知られれば、大公や枢機卿の信用問題となるのは違いない。
 ―――つまり、クルデンホルフ大公が動くことは、ない。見ないふりをされるだろう。だが、それもまた仕方のないことである。

 絶望に打ちひしがれた少女を、デメテルはサディスティックな笑みをもって見つめる。そんな様子を、バッセンハイムは眉をしかめながら眺めていた。


 だが、そのときである。聖堂の扉が勢いよく開き、少年の声が木霊した。


「母上やヘスティアだけでなく、イザベラまで誘拐するとは。きみは相当に誘拐が好きなようだな、デメテル!」


 そこへ現れたのは、ヴェンツェルだった。背後にはヘスティアの姿もある。

「あら、もう見つかっちゃったの。……久しぶりねヴェンツェルくん。でも悪いけど、いまはあなたに構っている場合じゃないのよ」
「それはこっちの台詞だ! イザベラを返してもらうぞ!」

 来るとは思わなかったクルデンホルフの少年。イザベラはしばし呆然としたあと、救いを求めるように彼の名を呼ぶ。それを忌々しそうに制止したデメテルは、バッセンハイムへ命じる。

「『巨人』を出すわ。あなたはあのガキを足止めしなさい」
「了解」

 デメテルの命を受けたバッセンハイムは、そのいかつい体躯から想像もできないほどの速度でヴェンツェルたちへ迫った。一方のデメテルはイザベラを抱きかかえ、古代語で長々とした詠唱を開始。すると、彼女の体の周囲に褐色の粒子が集まり始める。
 まずい―――直感的にそう感じたヴェンツェルだったが、もうそのときにはバッセンハイムの剣が目前に迫っていた。すかさずヘスティアがそれを妨害。展開された“力場”によって、バッセンハイムの剣の刀身がいとも簡単に融解してしまった。それを見たバッセンハイムは剣の柄を投げ捨て、杖に持ち替える。迅速な動きだった。

「このままじゃ埒が開かない。なんとかしてイザベラを助け出さないと……」
「ヴェンツェル、杖は?」
「だめだ。発注した分がまだ届いていない」

 そう。彼の無くしてしまった杖は、リュティスの職人が木の切り出しから加工まですべてを一括で行うという、とんでもなく値が張る上に納期も長い代物だった。そして、それはまだまだ到着する気配すら見せない。丸腰の状態のヴェンツェルは『レビテーション』すら詠唱できない。これではどうしようもない。

「どうしたらいいのかしら。デメテルをあのままにはできないわ」
「せめて、なにか武器があれば……」
「武器……」

 ヘスティアはそこで顔を歪めた。なにか悩んでいる様子だった。だが、デメテルが『巨人』生成の最終段階に入っているのを見ると、腹を決めたようだ。
 『巨人』。ワイゼンベルクで反乱軍を壊滅に追い込んだデメテルのゴーレムである。かつて、ヘスティアはその巨人と一戦をまみえたことがある。圧倒的な巨大さと、どれだけ破壊してもすぐに再生を繰り返す怪物には苦戦させられた。だから、その出現はどうにかして阻止したいと思っている。
 炎を撒き散らし、ヘスティアはバッセンハイムを牽制。そして、耳慣れない言語でなにか呟いた――それは古代の言葉で、『九つの鍵の解除』を意味する――と思ったとき、彼女の右手に、一振りの黄金色に輝く剣が出現していた。それを素早くヴェンツェルに手渡す。

「これは?」
「『レーヴァテイン』。あなたの……いいえ。あなたが持つものであり、同時に絶対に持つべきでないもの」
「なんだい、それは」
「……とにかく、それがあれば、あなたが傷つくことはないわ。ここはお願い」

 よくわからないことだけ言って、ヘスティアはデメテルの方へ飛び去ってしまった。すかさず、様子を窺っていたバッセンハイムが『ブレイド』を詠唱。ヴェンツェルに切り込んでくる。それを少年は、『レーヴァテイン』をかかげ、なんとか防いだ。そして、そこで違和感を覚える。

 どうしてか。わからない。

 なぜか、この剣はヴェンツェルの体にとても馴染んだ。そう、まるで、この剣を持つことが自分の宿命であるかのような不思議な感覚。わけもわからないまま、なにかに導かれるかのように剣を振り回す。

 遠くでは、ヘスティアがデメテルの妨害を行っているようだった。しかし、それはデメテルの背後から出現した異形の騎士の妨害によって頓挫する。
 そして、ヘスティアが炎で異形の騎士を吹き飛ばした、そのとき―――デメテルの『巨人』が、完成した。轟音と共に巨大な体が地面から姿を現し、大聖堂の屋根を突き破る。

 建物を支えていた支柱の崩壊と共に大聖堂が崩れ行くなか、バッセンハイムは『ブレイド』でなおもヴェンツェルに切りかかってくる。この状況下でも脱出できるという、絶対的な自信があるのだろうか。
 騎士の『ブレイド』がヴェンツェルを捉えたかに見えた瞬間。少年の体が、物理法則を無視するかのような急激な回避を行い、それと同時に『レーヴァテイン』から噴出した炎が、バッセンハイムのわき腹を貫いていた。鮮血が一瞬で蒸発する。
 驚愕の表情を見せ、しかしすぐに屋外へ後退する騎士。それを尻目に、ヴェンツェルはほうほうの体で逃げ出した。脳裏に残るのは、先ほどの不可解な感覚だった。本来なら『ブレイド』のほうが先に自分の体を貫いていたはずなのに、なぜかあのときの自分の体は信じられないような動きを見せた。まさか。いや…。


 悠久の時を過ごしてきた大聖堂が、轟音と共に崩れ落ちる。あとに残るのは、瓦礫の山と、とてつもなく巨大なゴーレムだった。体長が百メイルはありそうな…。
 あまりの異様な光景に、なにも知らないアーヘンの住民たちは逃げ惑う。
 聖堂跡からかなり離れた場所では、ヘスティアとデメテルが壮絶な争いを繰り広げている。火が舞い土が舞い、まるでよくできたCG映像を見ているかのようだった。
 どうしてかイザベラは放り出されていて、地面に転がっていた。ヴェンツェルは駆け寄り、彼女の体に巻きついていた縄をほどいてやる。

「……ねえ、ヴェンツェル。なにが起きているの? あの怪物は、いったいなんなの……?」

 怯えた瞳で、イザベラは問いかけてくる。だが、いまのヴェンツェルはそれに対する答えを持っていなかった。ただ、痛いばかりの沈黙が二人の周囲を支配する。そして、その沈黙と同時。出現後はずっと静止していた巨大ゴーレムが動き出し、手当たり次第に周囲の家屋を破壊し始めた。破壊音と共に砂埃が舞い上がる。
 どうやら、デメテルがまともな制御を放棄したらしい。それはつまり、彼女がヘスティアとの戦いに手を抜けない―――追い詰められていることを示していた。

「わからない。わからないんだ。とにかく、きみはゴーレムの進行方向とは逆に逃げてくれ!」
「で、でも……」

 ヴェンツェルは『レーヴァテイン』を地面に差し込んだ。そして、なおも躊躇するイザベラの肩を掴み、諭すように話しかける。

「大丈夫。ここは、僕と……ヘスティアがどうにかするから。だから、きみは安全なところで待っていてほしい。必ず迎えに行く。約束する」
「あ……、う、うん……」

 真剣な表情でそう説得すると、なんとか理解してくれたらしい。目を見開きながら、イザベラは小さく頷いた。そして逃げ惑う民衆に混じり、トリステインのある西側の方角へ走って行く。
 少女の小さな背中を見送ったヴェンツェルは、ヘスティアとデメテルがいるであろう方角を目指し、走り出した。




 *




 ヴェンツェルがその場にたどり着いたとき、すでに勝敗は決していた。

 少年の瞳に映るのは、異形の騎士を従え、肩で息をしながら立つデメテル。そして、火石切れの体になりながら、地面に力なく崩れ落ちた、ヘスティアの姿だった。

「……はぁ、はぁ……。はっ、ようやく来たの、ヴェンツェルくん。でも、もう遅いわ。勝ったのはわたし。地面に微量でも含まれている土石と、地下深くか火山にしかない火石……。どっちが有利かなんて、初めからわかってたのよっ!!」

 体に傷を負ったデメテルが叫び声を上げる。すると、巨大な影がこの場を覆い隠す。どうやら戦闘を終えたことで余裕ができ、ゴーレムは再び彼女の制御下に戻ったらしい。大きな手を差し伸べ、その上にデメテルは乗る。そして、血で塞がった片目を擦りつつ、呟く。

「ふ、ふふ……。まだよ。まだ……その忌々しい裏切り者を殺しただけじゃ、まだ終わらないわ。あの小娘……イザベラを、捕まえ、ないと……」

 デメテルはゴーレムを西の方角へ向ける。その方向には、突如として現れたゴーレムから逃げる人々が大勢いた。このままでは、被害が拡大する危険性が高い。
 だが、いまのヴェンツェルにはそんな彼女の行動すべてが目に入っていなかった。ゆっくりと、まるで夢遊病患者のような足取りで、少年は見慣れた真紅の髪の元へ歩いていく。

「ヘスティア……」

 まるで出来の悪い人形のように地面を転がるヘスティアを、ヴェンツェルは抱き上げた。すると、彼女の目が開く。それと同時に、赤い鮮血が口から漏れ出した。

「ヴェ…ヴェンツェル……」
「駄目だ。しゃべっちゃいけない」

 まるで映画か漫画の登場人物の台詞だ、などとヴェンツェルは思う。そんなこと、言うだけ無駄だってわかってるというのに。

「ご、めんなさいね……。負け、ちゃった……」
「いいんだよ。いいんだ、……くそっ、なんでだよ、なんで今度は、きみを治す光が出ないんだ!」

 いつかヘスティアが“彼”によって重傷を負わされたとき、ヴェンツェルの左目から出た光が彼女を修復したことがある。だが、今回の方がよほど重傷だろうに、どうしてか出てこなかった。

「……『レーヴァテイン』に、あなたの力が吸われているの。それはあなたの剣。その剣を使うためには、大きな代償を強いられる。本当はずっと出すべきじゃなかった……。でも、それを出さなかったら、きっと、あなたは……、あの騎士に勝てなかった」
「ヘスティア……」

 わけがわからない、といった困惑の表情を顔に浮かべ、ヴェンツェルは首を振った。力が吸われているなどと言われても、それがなんなのかすら理解しようがない。あまりにも情報が少なかった。
 “力”を直接使うよりは、剣の方が消耗が少ない。だが、それはもっと大きなリスクを招きかねない。ヘスティアは小さくそういったニュアンスの言葉を呟いたが、それがヴェンツェルの耳に入ることはなかった。

「ねえ、ヴェンツェル。聞いて? 前から、言おうか悩んでた、わたしの、本当の名前……」
「本当の名前?」

 それは初耳だった。ずっと『ヘスティア』が本名だとばかり思っていたのだが……。違ったのだろうか。彼女の隠し事とは、そのことを指すのか。わからない。

「本当はね、わたし、シンモラっていうの。いつも『アタシ』って言っていたけど…。あれは、今のわたしが、『彼』に生み出されたときに付加された記号。ヘスティア、というのは、この世界に元々いて、…………に、抵抗した人たちの…伝承を…元に……うっ……」
「無理するな。なんとかするから、俺がなんとかするから……」

 もう半泣きの状態に陥っているヴェンツェル。彼の涙が頬を伝わり、静かにヘスティアの顔に、落ちていく。

「泣いたらだめ。あなたは男の子でしょう? せっかくのいい男が、台無しよ」
「また、そうやって、笑えない冗談なんか……」

 ふわふわと、赤い粒子が天に向かって上っていく。それはヘスティアの体の一部が、先端部分から消滅していく残滓だった。ヴェンツェルはただそれを見つめる他ない。どれだけ願っても、どれだけ目に力を入れても、もはやどうにもならない。真っ赤な瞳は、ただ目の前の童女の顔を映すだけだった。

「いい? その剣の力は、あまりにも強すぎるの。だから、それに飲み込まれちゃだめ。でも大丈夫よね……。あなたは、もう……。だから、ラグ……」

 そう話す間にも、猛烈な速さでヘスティアの体が消滅していく。止められない。どれだけあがいても。もう少年に彼女の消滅を止める手立てなどあるはずがなかった。
 宙に赤い粒子が舞う。あまりの己の無力さに、ヴェンツェルはもう泣くことすらできなくなっていた。


「最後だけど―――大好きだわ、ヴェンツェル」


 その言葉を残して、ヘスティアの体は跡形もなく消滅した。あとに残されたのは、ふわふわと漂うわずかな赤い粒子と、無機質な一本の剣。そして、泣き叫ぶ少年だけだった。




 *




「デメテル……、よくも、よくも………!!」

 『レーヴァテイン』を手にしたヴェンツェルは、ただ己の破壊衝動のみによって突き動かされ、立ち上がった。左目からは尋常ではないほどに眩しい、血よりも赤い強烈な閃光が放たれている。
 その視線が捉えるのは、デメテルと、巨大なゴーレム。見えるものが絞られていく。彼の視界に映るのは、ただの二つとなった。それは驚くほどに鮮明な映像となって、彼にその存在を知覚させる。

 ―――壊してしまえ。燃やし尽くしてしまえ。終末の炎で全てを灰燼に。いや、灰すら残してはならぬ。燃やせ。焼き払うのだ。我は……。

 頭の中に浮かぶ、“誰か”の声。破壊しろと命じる、男の声。
 その言葉に導かれるまま、ヴェンツェルは両腕で『レーヴァテイン』を天高く構えた。そして、そのとき。
 剣から強大なエネルギーが放出され、それは瞬く間に天へと伸びる一条の光となる。かと思えばそれは急激に増幅され、さながら炎の剣のような形状を持つに至った。長さがすでに巨大ゴーレムを遥かに上回るそれは、見るもの全てを驚愕させる。



「まずいな…。なにかはわからないが、急ごう」

 このとき、アーヘンへ向かう、一人の男性が呟く。
 だが、そのときには既に、“輝く剣”が、振り下ろされていた。



 デメテルは、自らの背後で異様な力が生じるのを感じた。思わず振り向けば、そこには巨大な火の柱―――否、“輝く剣”が出現している。それは見ようによってはとても美しく、一種の芸術であるようにさえ感じられた。だが、それは間違いなく地獄の業火である。触れるもの、近づいたもの全てを焼き尽くす、破滅の炎であった。

 彼女はその光を戦慄をもって見つめていた。どういうことだ。自分はあんなものは知らない。あの子供はヘスティアの力の恩恵に授かっていたのではないのか?
 それこそ、さまざまな疑念が渦を巻きながら頭の中に鎮座する。だが、そこで彼女は思考を振り切った。自分の目的はまだ終わっていない。こんなところでやられてたまるか。
 翼人型のゴーレムを生み出したデメテルは、炎に巨大ゴーレムが消滅させられる寸前、命からがら脱出を果たした。
 化け物、という台詞を残し、彼女はウィンドボナの方角目がけて飛び去って行った。

 炎はゴーレムを破壊しただけでは止まらない。そのまま市街地の地面を焼き払い、大きく、深く抉りとった。幸いながらその地点に人間はいなかったものの、そのあまりの破壊力に、避難していた住民たちはただ度肝を抜かれるほかなかった。それがなんなのかもわからず、人々はただ荒れ狂う炎から逃げる他ない。

 ―――燃やせ。まだ生きる者がいる。すべてを燃やし尽くせ。生きとし生けるものすべてを。神でさえ、己でさえ、我が炎の前には生きることを許さぬ。

 このときには、すでにヴェンツェルの意識はないといっても過言ではなかった。

 “声”に命じられるまま、彼は炎の剣を、住民が避難していたトリステイン国境へ向か―――わせようとしたところで、彼の体を猛烈な衝撃が襲った。少年の体は吹き飛び、それと同時に剣も吹き飛んだ。くるくると宙を舞った『レーヴァテイン』は、そのまま地面に突き刺さる。
 それまで出現していた“輝く剣”は、その姿を微塵も残さずに消滅させていた。まるで、初めからそんなものなど存在していなかったかのように。




「……少年。きみたちがこちらへ向かったと聞いて、『加速』で急いでやってきたのだが―――」

 ヴェンツェルを弾き飛ばしたのは、青い髪の美丈夫、ジョゼフだった。イザベラ誘拐を聞きつけた彼はいてもたってもいられなくなり、衛兵から聞き出した情報だけを頼りにこのアーヘンまでやってきたのである。

 彼の視界に映るのは、めちゃくちゃになったアーヘンの市街地だった。街の中央部を巨大な破壊痕が貫き、大聖堂もかつての威容などとうに消えうせ、ただ瓦礫の山と化している。
 いったいなにをどうすればこうなるのか―――遠くからこちらへ向かってくる愛娘の姿を瞳に納めながら、ジョゼフはただ唖然とするしかなかった。




[17375] 第四十話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/11/29 11:58
 どこかぼんやりとした感覚。自分は夢を見ているのだろうか。


 俺はとても暑い、いや“熱い”土地の上に立っていた。燃え盛る火事場のような風景が辺りには広がっていて、まるでそこは地獄のような雰囲気に包まれている。
 とは言っても、本当に地獄なのかどうかと考えれば違うことに気がつく。
 視界の先には真っ黒な森が広がっていて、大きな虹色の橋が見える。その更に向こうには緑豊かな土地と、とてつもなく壮大な大木が大地に根を張っていた。

 熱い世界の端で、俺は境界線に目を光らせながら佇んでいる。
 それを何日も何十日、何百日何千日もやっている。それどころか、永久に同じことを繰り返しているかのような感覚さえ覚えた。

 だけど、いつもいつもその場所にいるわけじゃない。たまに持ち場を離れて自分の家に帰ることだってある。
 家――それが家なのか、俺にはよくわからないが――に帰ると、いつもとても美人な女性が出迎えてくれるのだ。
 燃え上がる真っ赤な炎のように紅い髪。対照的に肌は雪のように白く、端整な作りの顔には微笑が浮かんでいる。
 驚いたことに、彼女は俺の奥さんであるらしい。夢とはいえ既婚とは。まったく、こんな美人がお嫁さんにもらえれば本望だ。
 食事を出してくれる彼女の背後には大きな箱がある。なんだか、自分はそれを知っているような、知らないような。不思議な感覚を覚えた。

 そんなあるときのことだ。

 いつものように境界線に立っていると。黒い森の先、視界の遥か彼方にある巨大な木の方から、なにか鳥の鳴き声が聞こえてくる。
 俺にはその鳴き声の意味は理解することができない。だけど、なぜか体は勝手に動き出していた。いったい、どこへ向かうつもりなのだろう。

 すると……。
 紅い髪の女性が俺の元へやって来る。
 「行ってはいけない」と言っているみたいだ。だけど、俺の体は止まらない。彼女が筋肉質な腕に自分の華奢な体を絡めようと、どれだけ止めようとしても俺は止まらない。

 どうして止まってあげないのだろう。
 我ながら意味がわからない。強引に首を回して振り返ってみると、女性は地面に崩れこんで涙を流している。
 なんで泣かせるんだ。俺はいったいなにをやっているんだ。
 頭ではそう思っていても―――“俺の体であって俺の体ではない”せいか、この無闇に巨大な体が足を止めてくれることはなかった。

 境界線のそばで俺を待っていたとてつもなく巨大な馬に乗り込む。そして手綱を引き、走り出した。
 いつの間にか後ろには大勢の“同胞”が現れていた。彼らのうち、何人かの姿は見たことがあるかもしれない。
 そして何がなんだかわからないうちに、俺は生まれ育った灼熱の世界を出ることになった。

 しばらくの間、馬は空を移動していた。空を翔る馬―――ペガサスといえばいいのだろうか。まあ、ずいぶんと見た目は違うけど。
 まったく気づかないうちに、俺の体は燃え盛る真っ赤な炎に包まれている。だがどうしてだろうか。まったく熱く感じない。

 やがて、俺を先頭とする馬に乗った大集団は虹色の橋までやって来た。
 実に見事な、綺麗な発色の虹の橋である。なんでこんなものが……。そう思う間もなく、俺たちは一斉にその橋を渡り出すのだ。
 とんでもない数である。どどど、と地響きが鳴り渡るように思えた。
 全員が渡り終えたか―――それを確認したとき、強烈な破砕音と共に虹の橋が崩れ落ちる。ああ、もったいない。

 またしばらく進む。そして、俺と“同胞”たちは、なんだかやたらと小さい人間たちを蹴散らし、時々武器を持って向かってくる連中も吹き飛ばしながら前進する。

 と、前方では、がたいのいいおっさんがうねうねとした、長い蛇のような生き物と戦っている。ハンマーを投げつけているようだ。
 巨大な犬と戦う青年もいた。いくら大きいからって、犬相手にかなり真剣に戦っているというのが……なんだか、哀愁を誘う。
 東の方角では巨大な船が浮かび、どこかで見たような男が軍勢を引き連れてこの場に降りてくる。
 槍を持った爺さんが真っ黒な狼に向かってどこか威圧感のある禍々しい槍を向け、小競り合いを繰り広げている。

 なんだろうあいつらは。
 そんなことを思っていると、先行した一部の“同胞”が吹き飛ばされる。彼らは圧倒的な力によって消し去られてしまったようだ。 
 前方には人影。これはただ者ではないだろう。

 残った“同胞”たちを転進させ、俺が一人で向かい合ったのは―――とんでもない美形の青年だった。
 今まで見たことのないほどにとんでもないイケメンだ。神さまに貰ったんじゃないかってくらい、あまりにもイケメン過ぎて清々しさすら感じる。

 その青年は大きな鹿の角を構えた。どうやらそれが武器らしい。
 対する俺が持っているのは、紅髪の女性から受け取った黄金色の剣と自分の炎。どう見ても勝負になりそうにはない。

 そう思いつつも、彼と戦うために俺は前進した。


 ―――だがそこで、唐突に風景が切り変わる。


 次に俺が座っていたのは、とてもボロいアパートの内部だった。
 そういえば、この場所は俺がいつか住んでいた家だ。築三十年で駅へは歩いて二十分。家賃は格安のはず。

 この家には部屋が二つしかない。さらにはトイレはあっても風呂がない。
 だから、近所のお婆さんが切り盛りしている銭湯はとてもありがたい。
 ここ最近は、変な企業がやっている複合施設以外では、めっきり目にしなくなった個人経営の昔ながらの銭湯だ。毎日のように通っているから、そこの従業員とも顔なじみになってしまっていた。
 しかし、二十一世紀にもなって風呂無し物件ってどんだけなんだろう。

 そのとき、ふと漂ってくるとても良い匂い。
 台所の方を見ると、やはり見知らぬ女性が立ち、鍋をぐつぐつと煮ただせている。すらりとした背筋に淡い色の頭髪の、明らかに日本人とは異なるスタイルの女性。
 すると、彼女がこちらを振り向く。青い目の、かなり綺麗な女性だ。外国人にありがちなゴリラのようなごつさがない。だが、おかしい。こんな美人なら顔を忘れるはずがないのに。
 ……まあ、いいか。

 女性が声をかけてくる。どうやら、ご飯ができるまでは時間があるらしい。
 暇なので、俺は本棚から一冊の本を引き抜く。それは自分がいま一番大好きなライトノベルだった。
 …………さんからはよく思われていないみたいだけど、趣味なんだから別にいいだろと思うものだ。
 寝転がりながら、本を開く。それはファンタジー物だ。
 日本のごく普通の高校生が、異世界の美少女に召喚されてしまう。なぜか伝説の力を手に入れた彼は、やがて壮大な歴史流れの中に巻き込まれていく……というもの。
 漫画・アニメ化もしたらしいが、それは原作のファンからすれば完全に黒歴史と化しているらしい。もったいないものだ。

 しばらくすると、食事ができたらしい。俺は配膳の手伝いをするために、その本をテーブルの上に置いて立ち上がった。
 さて、今日の夕飯はなんだろうか。 匂いからすると、肉じゃがだろうか。




 *




 ヴェンツェルが目を覚ましたとき、彼はガタゴトと揺れる感覚をその身に感じていた。

「……ここは」
「トリステインよ。馬車でクルデンホルフまで向かっているの」

 少女の声だ。そちらの方向へ視線を向けると、青い髪の少女が少年の額に乗ったタオルを取り替えてくれたところだった。
 ものすごく気だるい。だが、どうやら眠っていたらしい自分の世話をしてくれていた少女を、これ以上心配させるのも悪いだろう。
 そう思い、ヴェンツェルは無理を押して体を起こした。

「あなた、三日も眠りっぱなしだったのよ。一時はどうなるかと思ったわ」
「三日? 僕はそんなに寝ていたのか……」

 イザベラの話によると、『加速』によってアーヘンまでやってきたジョゼフに思い切りぶつけられ、ヴェンツェルは弾き飛ばされたのだという。
 “輝く剣”の出現に驚いたイザベラが駆けつけたときには、もうその状況に陥っていたらしい。
 大慌てで出動してきたゲルマニア軍から、そそくさと逃げるようにしてトリステイン側に脱出した青髪の親子は、急ぎクルデンホルフ大公へ連絡。
 迎えにきた大公国の馬車で城へ向かっているとのこと。そしてその間、ヴェンツェルは常に眠りこけたままだった。

 座席の傍らには、ヘスティアが遺していった剣が鎮座していた。
 『レーヴァテイン』という名の、正体がわからない代物だ。手にとって見ると、ずっしりとした重さが伝わってくる。
 刀身は光輝いていて、そこら辺の『錬金』で作られたものなど比較にならない出来だった。恐らく、この剣を作成した人物は、とても腕のたついい職人だったのだろう。

 剣をしげしげと眺めていると、イザベラがなにやらもじもじと指を動かしている。いったいどうしたのか。

「……ねぇ」
「なんだい」
「助けに来てくれて、ありがとうね。……正直、誰も助けに来てくれるなんて思ってなかったから、あなたたちが来てくれたとき、すごく嬉しかったの」

 素直に礼を述べるのが恥ずかしいのか。若干頬を染めながら、イザベラはそんなことを言ってくる。

「いや。僕が行かなくても、ジョゼフさんが……」

 などとヴェンツェルが謙遜の言葉を吐き出すと、青い髪の少女は怒ったような口調になる。

「またそんなこと。たまには、こういう言葉を素直に受け取った方がいいわよ」

 元々吊り上がり気味の目をさらに吊り上げながら、イザベラはヴェンツェルの頬をつつき出した。
 思いの外柔らかい感触が気に入ったらしく、彼女はその後しばらく指を突き立て続けるのだった。



 *



「……そう。ヘスティアちゃんが……」

 クルデンホルフの城に戻り、大公に一部始終をかいつまんで報告した後、ヴェンツェルは大公妃にも同様の内容を伝える。
 それを聞かされた彼女は、悲しそうに俯く。ヘスティアが火石によって戦闘力を得ることは、大公夫妻のどちらもが知ることだ。
 しかし、『レーヴァテイン』については、どうしても話す気にはならなかった。

 すると、今度は大公妃から驚くような話をされる。
 なんでも、吸血鬼(いま、それを知るのはヴェンツェルしかいない)のクロエやリゼットの母を自称する女性が現れ、二人を強引に連れ帰ってしまったのだというのだ。
 連絡先を示したメモを預かっていた大公妃からそれを渡されたヴェンツェルは、ただただ唖然とする他ない。

 取り急ぎ手紙を書いてみようとは思ったものの、果たして無事に届くのだろうか。疑問だった。


 アーヘン市街に関する事象は緘口令が敷かれているらしい。
 不確かな情報は入ってくるものの、詳細な事態についてはまったく来ていないらしい。
 ヴェンツェルがモーリス・ド・サックスを訪ねたときに得た証言だ。彼には火石のことに関する礼も言っておきたかった。
 あれだけの大事件にも関わらず、どうしてゲルマニア政府は秘匿しようとするのか。

 それについては、デメテルがイザベラを誘拐したとき、ゲルマニア皇帝の関与を疑わせるような発言があったらしい。
 つまりは……、なんらかの理由でデメテルはウィンドボナに接触し、協力関係を築いている、ということだろうか。
 デメテルの行動と皇帝の思惑はリンクしていて、大事件ももみ消そうとするほどの大きな恩恵がある。それは間違いなかった。

 しかし、彼女はそれをしてなにをしたいのか。まったくわからない。

 ヴェンツェルは自室に戻った。
 ヘスティアの遺品となってしまった『レーヴァテイン』をベッド脇に立てかけると、自らの椅子に腰掛ける。
 酷く寂しい光景だった。
 ここ数年、いつも寝室には誰かの姿があったのだ。それがない。いるときはうるさくていなくなれと思っていたのに、本当にいなくなるとどれだけ寂しいものなのかわかった気がする。
 ふと、机の上にヘスティアが書いていたと思わしき絵を見つけた。相変わらずへたくそなものだったのだけれども、確実に進歩している形跡がある。だが、もうその先を見ることはできない。

 少年は一晩中、椅子に腰掛けたままだった。



 *



 翌日の朝一、ヴェンツェルは大公の執務室を訪れていた。
 例によってメイドの少女とにゃんにゃんしていた大公は、もはや冷静な態度で息子を迎える。開き直りもここまで来ると、ある意味で潔い。
 恥ずかしがりながら部屋を去るメイドを尻目に、少年はその光景には目もくれず、ただ父の顔を見つめつつ、言う。

「父上。魔法を習わせてください。いまのままでは、僕はもう、なにも守れません」

 大公は今度こそ本当に驚いた。
 まさか、まさか、まさか、自分の息子が、あのヴェンツェルが、自ら強くなりたいと言い出したのだ! なんという驚愕の事態か! 有り得ないことだ!
 しばし呆然としていた大公はしかし、すぐに真剣な表情になった。やはり、今までが今までである。真意を図りかねているようだった。

「この先、僕はもっと大きな困難に直面するでしょう。そんな予感がします。そんな状況下で、もうだらだらと過ごしていることはできない……。だから、せめて魔法を使えるようになりたいんです」
「……そうか。うむ。よくぞ言った、ヴェンツェル! わかった、私がなんとかしてやろう。なに、数日あればすぐにいい人材を見つけてやる!」

 大公は妙に嬉しそうだった。
 これで子供の面前で――ベアトリスの場合は避けているようだが――生殖活動的な行為に及ぶという、ちょっと頭のぶっとんだ行いに走らなければいい父親なのだが。




 そして、数日後。


 ヴェンツェルは大公に呼び出されて執務室へやってきていた。大公は自身満々の様子で、目の前に立つ息子に結果を告げる。

「喜べ、ヴェンツェル。お前に最適ないい先生を見つけてきたぞ。これほどの人材はガリアはおろか、ゲルマニアやロマリアにもいない! まさにうってつけの人物だ!」

 大公はそう言いながら、一枚の紙切れを手渡した。そこに記されている名前を目にしたとき、ヴェンツェルは思わず我が目を疑う。

「……。父上。これは、僕の、見間違いでしょうか?」
「いや、書類に不備はない。それがお前がこれから住み込みで鍛錬をつけてもらう、先生の名だ!」

 そんな馬鹿な。ヴェンツェルは、己の覚悟が雪崩をうったように崩れ落ちていくのを感じた。なにせ、そこに記されている名は、

 かつて“烈風の騎士姫”であり、鉄の規律で知られた魔法衛士隊の隊長でもあった、ラ・ヴァリエール公爵夫人、カリーヌだったのだから……。









 第四十話「奥さまは騎士姫」









 一週間後。

 ヴェンツェルは、ラ・ヴァリエール家の敷居をまたいでいた。
 前方には、これからヴェンツェルに特訓を施してくださる御仁、カリーヌが堂々とした立ち居振る舞いで少年を見つめている。

「よ、よろしくお願いします……」
「はい。大公殿の依頼ですので、私情を挟まずにきっちりがっちりと鍛えてあげましょう」

 そんな馬鹿な。
 既に現役を引退して長く、アンリエッタですらカリーヌが烈風カリンだと知らなかったのに、なぜ大公がそんなことを知っているのだ。
 ……微妙に夫人がばつの悪そうな顔をしているのも気になった。だが、いまは少し無駄口を挟んだだけで切られる。そんなぴりぴりとした雰囲気が漂っていた。

「まずは痩せなさい。それが出来るまでは、何年でも減量に挑戦してもらいます」

 ぎろりとした瞳を向けながら、カリーヌはまず走れという。
 しかたなく、ヴェンツェルはラ・ヴァリエール公爵邸の中庭を走り出した。
 だが、普段から運動不足の彼に持久力など期待できるはずがない。あっという間にへろへろになってしまう。
 だが。

「止まらない!!」
「ひっ!!」

 すぐに『エア・カッター』が飛んできて、驚いて尻餅をついたヴェンツェルの頬を掠めていった。
 つう、と血が流れ出る。
 しかしながら、もはや痛みに構っている場合ではない。顔を歪め、必死の形相になりながら、少年はほうほうの体で走り出した。


「……いきなりやって来たと思ったら、いきなりなにしてるのかしら。あいつ……」
「あらあら」

 そんなカリーヌとヴェンツェルをルイズとカトレアは屋敷の窓から見下ろしていた。
 彼女たちにヴェンツェル来訪が知らされたのは、ほんの数日前である。

 それを告げるカリーヌが、どうしてか物凄く歪んだ表情をしているのが気になった。
 クルデンホルフ大公、という言葉を口にするたびに彼女は爆発しそうになるのだ。
 普段はポーカーフェイスをほぼ崩さない夫人が、あそこまで感情を露にするのは、本当に珍しいことである。

 ヴェンツェルが立ち止まるたびにカリーヌの魔法が飛んだ。
 日が暮れて鍛錬が終わるころには、そこには汗だくのカリーヌと、なにやらよくわからない肉の塊が転がっているだけだった。

「はぁ…、はぁ…。今日はここまでです。また明日、日が昇る前に掃除用具入れの前へ来ること」

 カリーヌがそう告げると、なんだかよくわからない物体はぴくりと震えた。それを返答だと思ったらしい。夫人は屋敷へと戻っていく。




 翌日である。

ヴェンツェルは朝から屋敷の掃除をさせられていた。
 どう見てもこき使われているだけであるが、抗議の一つでもしようものなら魔法が飛んできそうだった。
 当のカリーヌはといえば、彼をほっぽってどこかへ消える始末である。それは確かに、四六時中構っているわけにはいかないのだろうけども。

 たまたま通りかかったルイズが、そんなヴェンツェルを見下したような目で見ている。
 少年は雑巾で床の汚れを拭いていたため、ちょうど短めのスカートの中身が見えてしまう形となった。だが、ルイズはそれに気がつかないらしい。

「あんた、うちの使用人になったの?」
「いいや、これも修行の一環らしい」

 ヴェンツェルがそう答えると、目の前の桃色頭髪の少女の吊りあがり気味の目が、さらに吊りあがった。

「……そもそも、修行ってなんなのよ」
「きみには関係のないことだ」

 そろそろ子供っぽい下着の観察にも飽きたので、床の掃除を再開しながら冷たくそう答えると、ルイズの目が余計に吊りあがった。

「はぁ!? なによその態度!」
「掃除の邪魔だから、どこかへ行ってくれ」

 さらに冷たくあしらうと、ルイズの顔が怒りの赤に染まった。
 だが、これ以上絡み続けるのも意味がないと思ったらしい。ふん、と鼻を鳴らしながら、廊下を歩く。ヴェンツェルは、その背中に声をかけた。

「もう十三だろ? ウサギの柄とかやめたらどうだよ」

 いらん一言だった。いつかのように爆発を浴びたヴェンツェルは窓を突き破って中庭の茂みに落下。その日は行動不能に陥った。




 *




 それから、二週間ほどが過ぎた。

 ヴェンツェルは相変わらず持久力に欠けているものの、来た当初よりは若干だけ走れる時間が伸びた。本当に微々たるものではあるが。
 食事は使用人と同じ、住居も使用人と同じという、貴族に対するものとは到底思えない扱い方だった。
 しかし、こちらからお願いして鍛錬をつけてもらう身だ。あまり贅沢は言えない。それに、この我慢のときを耐え―――魔法の訓練をつけてもらえれば、きっと大きな成果を上げられる。
 そんな予感があった。

 この頃になると、鍛錬は午前中だけとなった。午後はラ・ヴァリエール家の雑用を命じられるのである。
 そんなわけで、ヴェンツェルはいろいろな部屋の掃除を行っていた。
 カトレアの部屋に踏み込んだ瞬間、大きなクマに頭をかじられて流血したせいか、意識が朦朧としていた。だからか。ノックもせずに、とある人物の部屋へ入ってしまったのは。

 その部屋には、いろいろな実験器具や材料・資料などが溢れかえっていた。そして、その部屋の中央で、一人の金髪の女性が服を着替えているのである。
  眼前には妙齢の女性、エレオノールが呆然とした表情で立ち尽くしていた。
 上着を脱ぎ捨て、別のものに換える最中だったらしい。ルイズよりはよほどあるものの、やはりカトレアに比べると貧しい胸部が白日の下にさらけ出される。
 ある意味で、それは美しい。
 年の割りに肌は少女のように滑らかで、しみの一つもない。ささやかな脂肪の先端部はそれこそ色素の沈着など起こしておらず、まるでソメイヨシノの淡い桜色を彷彿とさせる―――まで考えたところで、彼女の、耳をつんざくような悲鳴が鳴り響いた。

 まずい。これは非常にまずい。もしこんな場面を使用人に見られてしまえば。鉄拳制裁で済めばまだいい。
 だが、もしそれが法廷へ持ち込まれでもしたら。
 ヴェンツェルの脳裏に、父から絶縁状を叩きつけられる光景が浮かんだ。アリスやベアトリスの蔑む視線が見えた。自分ごと心中しようとする大公妃の姿が見えた。
 これはなんとかしなくては。
 そうこうしているうちに、声を聞きつけたメイドのものと思わしき足音が近づいてきていた。もう時間はない。
 少年は、覚悟を決めた。

 顔を真っ赤にしてベッドの隅に退避しているエレオノールを、抵抗されながらも強引に抱きかかえ、ヴェンツェルは部屋の奥のクローゼットに強引に押し込む。
 そして、蓋をするように自分もその中に入った。
 しかし、ここで予想外の事態が生じる。思ったよりもクローゼットの内部が狭いのだ。二人は密着する形となり、顔と顔が思っていたよりも近づいてしまう。

「―――ちょっと! 離れなさいよ! なんなのよ、あなた!」
「裁判は勘弁してください、本当お願いですから」
「……は? あ、あのねえ。わたしだってそこまで分別のつかないわけじゃないわよ。つい条件反射で叫んじゃっただけで、あなたが負傷していて、わざとやったんじゃないのはわかっていたもの」

 予想外である。てっきりルイズのような感情的な行動に出られるかと思ったが、そこは妙齢の女性。妹よりはずっと冷静な思考ができるらしい。と、思った矢先だった。

「……あ、ふぁっ」

 エレオノールが、妙な声を上げた。ヴェンツェルは思わず下を見る。エレオノールはまだ上着を着ていなかったらしく、上半身がもろに露出していた。つまり、擦れていたのである。
 完全に予想外なほど可愛らしい声と反応を見せられて、多感な時期の少年に反応するなというのが無理だった。
 彼の自己主張の強い部分が余計に自己主張を始め、その感触をもろに受けたエレオノールは、耳まで充血させながら、目を大きく見開く。
 この年の女性とは思えない、少女のように初心な反応すぎた。どこまで箱入りなのだ。自己主張はやめられない。止まらない。

「……ちょ、ちょっと! あなた、なに大きくしてるのよ! あ、やだ、当たっ……! もう、いい加減にしなさいよっ!!!」

 そこでエレオノールがぶちきれた。ヴェンツェルを弾き飛ばすようにして、クローゼットの扉を押しやったのだ。
 扉は開き、エレオノールとヴェンツェルは重なり合うようにして床に倒れこむ。

「はぁ…、はぁ…。まったく、なんなのよ、この子―――」

 途端、彼女の表情が凍りついた。

 視線の先には、頬を真っ赤に染めて、エレオノールとヴェンツェルを凝視するカトレアとメイドの姿があった。
 息を荒くしながら、少年を押し倒す半裸の女性。どう見ても犯罪の臭いしかしなかった。

「あ……、うん。その、しょうがないわよね。姉さまもお年頃だし……、異性に興味だってあるわよね」
「驚いちゃいました! さっそく奥さまにご報告差し上げないと!」
「……え? 報告って? あ、ちょっと、ま、待ちなさいよ! こらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 猛ダッシュで走り出したメイドを止めようにも、服を着ていないので止めようがないエレオノール。慌てて服を探して着込んだときには、もう眼前に悪魔が迫っていた。

「エレオノール。わたしは、あなたをそんな悪い子に育てた覚えはありませんよ」
「ち、違うんです。お母さま! これは、これはそこの子供が……!」
「黙りなさい! 子供に責任を押し付けるような言い訳をするなど、ラ・ヴァリエール家の人間がすることではありません! あなたがそんなだから、いつまでたっても嫁ぎ先がないのです!」
「そ、そんな。ゆ、許してくだ」

 問答無用でカリーヌがエレオノールを引きずっていく。彼女たちがどこへ向かうのか。それはその場にいた人間の誰にも想像できることではない。


 その日の深夜。エレオノールは、カリーヌによって無実のお仕置きを受ける羽目になったのだった。





[17375] 第四十一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/08/11 07:42
 その日も、ヴェンツェルはカリーヌ監督の下で過酷な鍛錬を続けさせられていた。なぜ大公が彼女を自分の教員役に選んだのか、このときの少年には痛いほど理解できていた。
 ないのだ。一切の妥協が。
 カリーヌは自分の言った事をヴェンツェルが成し遂げるまで、それこそ夜中までかかっても続けさせる。酷いときには徹夜で完遂させられるし、雑用も手抜きなどしようものなら本気でぶっ飛ばされる。それがないときは教養を叩き込まれる。なんだか私怨が入っている気がするのは気のせいだと思いたい。

 魔法衛士隊・鉄の規律を作り上げた張本人ということもあってか、主従の関係と化しているヴェンツェルにはそれこそ鬼のように規律を守るように要求してくる。
 三週間目になる頃には、もう魔法とかどうでもよく、ただ体を鍛えるためにここに来たのではないかと勘ぐってしまうほどだった。


 足が笑うことすら出来ずに動かなくなったころ、ヴェンツェルはようやくその日の鍛錬から開放された。このときには雑用が午前、鍛錬が午後になっている。
 下半身が動かないので上半身だけでの匍匐前進で屋敷まで戻っていると、そこへカトレアが現れた。ここ最近は彼女が鍛錬のあとにやってきて、『治癒』の魔法をかけてくれるようになっていた。

「今日も手ひどくされたのね」

 カトレアが『治癒』を詠唱すると、ボロ雑巾のようだった少年の体が修復されていく。ここ最近はカリーヌのしごきが苛烈を極めているため、この習慣がなければ、とっくにヴェンツェルはくたばっていただろう。もうそろそろ本気で命の危機を感じる有様だった。

 と、そこへルイズがやってきた。カトレアがヴェンツェルといることが気に食わないらしく、刺すような視線をギンと向けてくる。相変わらず嫌われているようだ。


 なんとか歩けるようになると、使用人たちに混じって食事を取る。ヴェンツェルが大量に食べるため、厨房が余計大忙しになったのは、屋敷の内部では結構有名な話だ。
 さすがに短期間で素早く早く痩せることはできない。やはり食事のコントロールも合わせなければならないのだが……、少年は、うまいうまいと言ってどんどんご飯を平らげるのだ。最初はそんな光景に驚きを隠せなかった使用人たちも、いまではすっかり見慣れた光景として誰も気に留めていない。一応貴族なのだが。

 食事が終わると、あとは風呂に入るだけだ。ただ、ラ・ヴァリエールはクルデンホルフと違って平民はサウナ式の風呂しかない。湯船はぜいたく品なのだ。しかたなく、ヴェンツェルは他の使用人に混じって灼熱のサウナで汗を流すのだった。

 すべてが終わるころにはもう寝る時間だ。明日は早い。さっさと寝るべきだろう―――ヴェンツェルは、ようやくその日を終えることとなった。



 *



 クルデンホルフの城。

 ベアトリスと大公妃は、いつものように二人で城の中庭の椅子に腰かけ、お茶をたしなんでいた。大公妃の表情は暗い。あれだけどこかへ行くなと何度も伝えていたヴェンツェルが、また自分に黙って出て行ってしまったからだ。やはり、水の精霊の名の下に誓約させることに失敗してしまったのが大きいのだろうか。
 ベアトリスはそんな母親を慰めているが、本人もあまり元気があるとは言えない。約一ヶ月前、兄に冷たくあしらわれてからというもの、なんだか胸の奥がずっともやもやしていた。どちらかといえば、それは怒りの感情であった。
 彼は妹は妹でも、妾の子とばかり一緒にいる。そりゃあベアトリスの方から絶交宣言をしたこともあったが、それはそれである。男なのだから、ヴェンツェルが自分に気を使うべきなのだ。

 そんな中、近くを件の少女が通りかかる。アリスだ。ベアトリスは彼女に憎悪に似た感情すら抱いている。その理由というのが、彼女が内緒で大公に魔法を教わっている光景を目撃してしまったからだった。
 自分は忙しいといって構ってくれないのに、妾の子には手取り足取り魔法を伝授しているのだ。許せなかった。だから、今のベアトリスは父にもそれほど良い感情は抱いていない。
 単に構って欲しいだけといえばそうである。取り巻きを作ってわいのわいのとやっているのも、結局はそこに理由が落ち着くのである。だが、それを彼女が認めるつもりは毛頭ない。ベアトリスは寂しがり屋のくせにかなりの強がりという、少々厄介な性格をしていた。

 とりあえずアリスにいちゃもんをつける。まったく、素直ではなかった。

「……ところで、その瓶はなによ?」
「これですか? これは『バーロー薬』という劇薬です。投与した人間の体内に干渉し、骨を初めとした……」
「なんでそんな危ないものを持っているの!」
「いえ。せっかく作ったので、動物で実験でもしようかと……。暇ですし」

 高圧的な態度でがなるベアトリスに、アリスはただ面倒臭そうに答えるだけだった。いったいなんだ。使用人のくせに。態度がなってない。許せない。
 金髪を二つくくりにした少女は、アリスの手から魔法薬の入った瓶をすっぱ抜いた。

「あ、なにをするんですか。返してください」
「いやよ。あなたが使用人としての身分をわきまえた態度を取らなければ返さないわ」

 瓶を高く掲げたベアトリスから取り戻そうと、アリスが手を振り上げる。二人の身長と腕の長さはほとんど変わらないので、すぐに接戦となった。だが、そのとき。
 ベアトリスの手から、瓶がすっぽ抜けた。テーブルに落下した瓶の蓋が外れ、中の液体が大公妃のカップの中に流れ込む。ぼうっとしていた大公妃は、それを気にもせずに口に含む。直後、彼女は喉を押さえて苦しみ出した。
 地面をのた打ち回る母親に駆け寄ったベアトリスは、泣き叫びながら大公妃の体を揺らす。劇薬、と聞いていたので、このままでは大変なことになると思ったのだ。
 しかし。
 その背後に佇むアリスは、頭こそ抱えているものの、まったく心配などしていなかった。それどころか、これは厄介なことになると内心毒を吐く有様だった。



 ―――クルデンホルフ市のとある酒場。

 昼間で人もまばらなカウンター席で、ジョゼフはエシュ=アルゼット商会の頭取と酒を飲んでいた。近ごろ物騒なガリア王国や、世界の情勢について情報を得るためだ。

「……なるほど。リュティスで大きな動きがあったのか」
「ええ。強硬派の貴族が民衆を扇動していたようです。もっとも、いまは鎮圧されているようですが」
「つまり、ガリアがアルビオン共和国に対し、なんら動きを見せなかったのは……」
「そういうことでしょうな。ただ、これから動きだすのは間違いないでしょう。反対派を粛清した王がどう出るか。まだ不確定要素が大きい」

 アルビオン共和国でティファニアが戴冠された前後、ガリアでは食料不足をきっかけとした平民の暴動に乗じ、反体制派勢力が革命を画策していたらしい。リュティス市街が『リュティス・コミューン』を称する団体に制圧され、それを排除するために相当な血が流れたようだ。
 干渉を防ぐために一切の情報が漏れないように国境を封鎖していたため、アルビオンに対してもまったくなんの反応も見せなかったということらしい。

 シャルルは改革派の急先鋒だった、国民からの人気も高いマクシミリアン・ド・ロベスピエールを抱き込むことに成功したものの、いまだ国内の政情は不安を極めている。この状況下ではもう、ジョゼフやイザベラの追跡などに人員を割いている暇はないのだろう。だが、だからといって油断は禁物だが。

 ジョゼフには気になることがまだあった。近ごろ、トリステイン籍と思わしき艦艇がアルビオン共和国の商戦を攻撃し、通商妨害を行っているという噂があるのだ。
 それが本当ならまずい。敵にこちらを攻撃させるための恰好の材料を与えるだけだ。
 第一次世界大戦時、アメリカはドイツによる無差別通商破壊を口実に、国内の反戦論を押し切ってヨーロッパでの戦争に参加した。今回のトリステインの行いはそれと同種の事態を引き起こす可能性がある。
 だが、それがどうにも信じられなかった。この国の宰相であるマザリーニが、果たしてそんな愚行を許すのであろうか?
 主観でいえば、それはないだろう。恐らく、国内の対アルビオン主戦派勢力が無断で行っているはず。近いうちに、大公経由で枢機卿と話し合ってみよう。

 ジョゼフはグラスに注がれた酒を飲み干すと、梯子をするために頭取と店を出た。



 *



 アルビオン共和国首都、ロンディニウム。

 共和国議会に提出された一本の法案を巡り、議会は激しい議論の渦の中にあった。
 その原因は、護国卿であるオリヴァー・クロムウェルの提出した『翼人自治区設置法案』というものだ。カンバーランド公ルパードを捕縛したスローでの作戦を初めとして、翼人は各地で積極的にクロムウェルの部隊と共同して王党派と戦った。
 そのときに翼人首長アーサーとクロムウェルの間で交わされたのが、この『翼人自治区』の設置。だが、議会の右派貴族の反発は想定以上に苛烈を極めた。

「亜人に権利などやってどうする! 奴らをつけあがらせるだけではないか!」
「翼人に権利を与えるというのなら、トロル鬼を筆頭とした他の亜人、如いてはあの忌まわしきエルフにも与えると宣言するに等しい!」
「エルフだと? とんでもない! あんな化け物が、我が国内にいてたまるか!」

 まさか、自分たちの上座に腰掛けている少女がエルフとの混血だと知りもしない貴族たちは、散々にエルフを、亜人を罵り始めた。クロムウェルはティファニアの顔色が悪くなっているのを見るや否や、すぐに銀色の髪の小姓に視線を送る。すると、彼女はティファニアを連れて議場から退出していった。

「静粛に! 陛下のご気分がすぐれないとのことである。審議は一時中断し、午後より再開するものとする」

 年老いた貴族院院長の一言をきっかけとして、その日の午前の審議は中断されることになった。


「テファ。すまない。嫌な思いをさせて……」
「ううん、いいのよ。“普通の人たち”がエルフをどう思っているかなんて、最初からわかっていたことだもの。我慢できなかったわたしに責任があるわ」

 クロムウェルは、控え室で休憩を取っていたティファニアの元を訪れるや否や謝罪。それに法衣服を目深に被った少女は慌てて手を振った。ただ、口では大丈夫とは言うものの、明らかに心を痛めていたらしく、顔色がよくない。
 なんだかんだ言いながらも、ティファニアはまだ十四歳の少女に過ぎない。いくら飾りだとしても、王として一国の元首を務めるには少々無理があるかもしれない。最悪の場合、強硬手段に出ることも視野に入れておかなければならないだろう。
 だが……。今回のティファニアの戴冠にロマリアの影がチラついている以上、迂闊な行動は起こせない。“内患”はヨーク公だけではない。まだまだ大勢いる。
 ならば。少しずつ、懐柔するなり排除するなりして、議会の権限を弱めよう。そして自分が実権を掌握した上で、ティファニアを退位させる。そのあとは自分の仕事だ。アルビオンに巣食う身中の虫を一掃してやる。
 責任は、すべて自分がとればいい。

 なにやら、よからぬことを考えているらしいクロムウェルを銀髪の小姓―――ルサリィは、不安げな表情で見つめていた。




 一方、そのころ。アルビオン西部はカンブリア山脈。

 数人の護衛に付き添われ、一人の青年が山岳地帯を進んでいた。無精ひげこそ生えてしまっているものの、生まれ持った端整な顔立ちは決して失われることはない。
 やがて、彼らはとある洞穴の入り口に近づいた。否、そこはただの岩壁のようにしか見えない。特殊な魔法で暗い穴を隠匿しているのだった。
 護衛の一人が杖を持ち、魔法を詠唱。すると、いまのいままでただの岩肌だった部分へ、明らかに人が手を加えたと思わしき構造物が見えてきた。そのまま、数人の男性はその奥へ向かう。

「これは、驚いたな……」

 洞窟の最深部までたどり着いたとき、青年は思わずため息をついていた。彼の眼前には巨大な地下施設が存在し、無数の人々がうごめいていたからだ。

「殿下。まだ王党派の火は潰えたわけじゃないんですぜ。トリステインに逃げた連中だけじゃない、まだこの国に残って戦おうと決めた奴らだっています。『ロイヤル・ソヴリン』号は沈んじまいましたけど、まだまだ『王権』は健在なんでさぁ」
「ああ、そうだな。ハリー殿。……まだまだ、我々は戦える」

 傍らの中年男性がそう告げると、青年は感嘆の声で呟く。そこで、来たるべく盟主の存在を目にした、一般兵士や敗残貴族たちが一斉に押し寄せる。

「諸君。よくぞこの地に残ってくれた。よくぞわたしを信じてやってきてくれた。そうだ、いるのだ。わたしにはこれほど心強い味方が、諸君らがいる! ……ここに宣言しよう。アルビオン王子、ウェールズ・テゥーダーはこの身をとして祖国解放のために戦うと! 皆でこの偉大なるアルビオンを、私利私欲に目のくらんだ貴族たちから取り戻そうと!」

 青年―――元アルビオン王太子ウェールズは、そう宣誓した。直後、周囲から大歓声が巻き起こる。

 わずかに残った、アルビオンの地で抵抗を続けることを決意した者たちのレジスタンス。それはのちに勢力を少しずつ拡大し、やがて『レコン・キスタ』と称されるようになるのだった。

 ティファニアの平和を願う想いとは裏腹に、空に浮かぶ島国は、更なる流血の事態に陥ることがもはや避けられない事態となる。それは、そう遠くない未来の出来事。









 ●第四十一話「そして修羅の道へ」









 ラ・ヴァリールで迎えた、三回目の虚無の曜日。

 カリーヌが外出するとのことなので、珍しくヴェンツェルの鍛錬は中止となった。
 暇だからと日が昇っても寝ていると、誰かが少年をベッドから引きずり下ろす。見れば、それはルイズだった。いったいなんの用だろう。

「ちぃ姉さまが呼んでるわ。ピクニックに行こうって。……ったく、なんでわたしが。なんであんたなんかがついてくるの」
「知らないよ。自分の胸に訊いてみな」

 そこで口答えをするとルイズの足が飛んできた。それが腹にジャストミート。ヴェンツェルはしばらく腹を押さえ込む羽目になった。口は災いのもと、とは本当によく言ったものである。

 着替えを終えて玄関前広場に行くと、そこではいつものようにのんびりとした笑みをたたえたカトレアと、さきほどから不機嫌なままのルイズが睨みつけている。エレオノールの姿はない。彼女はトリスタニアの『王立魔法研究所』に勤めているのだ。実際、ヴェンツェルがやってきてから会ったのは数回しかない。

 数名の護衛とともに、桃髪の姉妹を乗せた馬車が公爵邸を出発した。ヴェンツェルは使用人のメイドと同じ馬車に放り込まれる。

 なんでだ……。などと、思っていると、隣に腰掛けたメイドがいきなり肩にしなだれかかってきた。流し目を送ってきていて、見るからに“誘っている”のだとわかる。

「ヴェンツェルさま。ヴェンツェルさまは、あのクルデンホルフの嫡子さまであらせられますよね?」
「あ、ああ」
「なのに、当家での扱いは劣悪。それではストレスも溜まるというものでしょう。……そこで! わたしがその解消にご協力しましょう。青臭い若気のいたりの発散と玉の輿……あ、いえ、なんでもありません」

 呆れることにこのメイド、この場で強引に既成事実を作るつもりらしい。どうやら二人っきりになるように仕向けたのも彼女のようだ。
 だが、そうは問屋が卸さない。馬の手綱を引いていたメイドの一人が乗り込んできた。かなり怒っているらしい。

「ちょ、ちょっと! 昨日決めたでしょう、抜け駆けはなし、って!」
「は、世のなかヤったもん勝ちなのよ! ……あ! そうだ! どうせなら三人で、っていうのはどう?」
「うぅん。……まあ、クルデンホルフはお妾さんの面倒もちゃんと見てくれるって噂だし、大丈夫よね」
「そうそう」

 なにやら勝手な連中だった。しかしいったい、どこからそんな噂が流れたのか……。まあ、あれだけ酷い状態なら噂の一つくらい起きていても不思議ではないか。
 だが、いつも女性のペースに乗せられるのは好ましくない。

「ふざけるのはよしたほうがいい」
「……え?」
「ラ・ヴァリエールにはあくまでも、自分を鍛えてもらうために来ているんだ。それに、よその家のメイドに手を出すなんて非常識なことはしない」
「ええっ。そんな! 赤ちゃんが出来れば、破格の待遇だっていうクルデンホルフに行けると思ったのに……」
「ゲルマニア系の人は好色だって聞いてたのに……。あ、でも自家のメイドには……」
「うちのメイドは父のお手つきなんだよ。……ってそんなことはどうでもいい。とにかくよせ」

 メイドたち、酷く落ち込んだ様子である。だが。すぐに気を取り直しらしい。

「でも、お屋敷は監視がきつくて無理。なら、やはりいましかないです」
「そうよね。無理やりヤっちゃいましょう」

 そんなことを言いながら、メイドたちは手をわしゃわしゃと動かしながらやってきた。だが。ここで負けてはいけない。先ほど本人が述べた通り、ヴェンツェルがラ・ヴァリエールにやってきたのはあくまでも己を鍛え、いまよりも強くなるためである。そのためなら掃除雑用だろうがこなすし、瀕死の状態に追い込まれても投げるつもりはない。
 それほどまでに、ヘスティアの消滅は少年の中で大きな比重を占めていた。

 だが。
 メイドたちにそんなことが関係あるかといえば、否であった。クルデンホルフ家のメイドといえば、その待遇の良さは世の使用人として働いている女性の多くが知ることだ。だから、諦めきれないのである。
 多勢に無勢。杖を取り上げられたヴェンツェルは押さえつけられ、抵抗できなくなった。メイドが妖しく微笑み、その顔を近づけたとき―――

 直後、馬車の屋根が吹き飛んだ。

 前方を見ると、額に青筋を浮かべて頬を真っ赤に染めたルイズが、杖をこちらに向けているではないか。口がゆっくりと動く。「あんた、うちのメイドとなにしようとしてるの?」と言っているようだった。

 


「ごめんなさいねえ。うちのメイドが……」

 一時停車した馬車の車外。
 困った表情のカトレアと、杖を振り回しながらメイドをしかりつけるルイズ。しゅんとうなだれた二人は、いかにも反省しているというポーズをとっている。ちなみに、左側の濃い茶髪の少女は、先日エレオノールの痴態を公爵夫人に報告した張本人だった。
 あの子たち最近来たんだけど、いつも問題ばかり起こすのよねぇ。とカトレアはため息混じりに呟いた。
 危うく父と同じ失態を働くところであったヴェンツェルは、たらりと冷や汗を垂らすのである。


 今度はカトレアとルイズの馬車に一緒に乗せてもらえることができた。ただ、やっぱり不機嫌なルイズに睨みつけられているのがどうしようもなく辛い。姉と一緒にいたいのはわかるが、こんなので再来年の魔法学院入学に備えられるのか。
 そういえば、魔法学院の入学ももうすぐか。ヴェンツェルはそう思った。長かったような、短かったような。いろいろな人と出会い、たかられ、罵倒され、馬に引きずられ、刺され、追い掛け回され、石を投げられ、『爆発』で吹き飛ばされ、『加速』で轢かれ……。どうしてか、嫌な思い出しか出てこないのはなぜだろう。

「そうか。ミス・ルイズも再来年には魔法学院へ行くのか……」
「うっ」

 ヴェンツェルが呟くと、ルイズはあからさまに気後れしような表情になる。彼女は『虚無』の覚醒を迎えるまではコモン・マジックすら使えない。学院で馬鹿にされるのは、もうこの時点でほとんどわかりきっていた。

「そうね。わたしも行きたかったかな、魔法学院。でも、こんなおばさんが今さら行ったら迷惑になっちゃうわ」

 おばさん、などという自嘲気味な台詞をカトレアが吐くと、ルイズもヴェンツェルも「ないない」と手を振った。十代と言っても無理はないカトレアである。十分通えるはずだ。
 とはいえ、どちらかといえば教員の方が似合いそうではあるけども。


 しばらくすると、目的地に到着したらしい。小さな池のある場所だった。周囲を木々に囲まれていて、なんだか空気が澄んでいる。
 すぐに馬車から出ると、なぜか先客がいる。馬車の家紋からすると……。

「おや、ヴェンツェルじゃないか。それに、そこにいるのはミス・ヴァリエール。いったいどうしたんだね」

 なぜか、ギーシュが池のほとりで釣りに興じていた。しかも呼び捨てである。その隣には、金髪ロールの少女が腰かけている。初めてみるような、しかしどうにも見たことのある顔だった。



 *



 やはりというか、少女はモンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシと名乗った。
 自分の家が借金をしているクルデンホルフの人間と遭遇したという事実に驚いたようだが、ヴェンツェル個人にはそれほど興味はないらしい。ルイズやカトレアとばかり話していた。
 そして、簡単に挨拶を済ませたあとは、女性陣はお茶をしに馬車の方へ向かって行く。一方、ヴェンツェルはギーシュの予備の竿を借りて釣りに興じている。

「しかし驚いたな。まさか、きみとミス・モンモランシが幼馴染だったなんて」
「まあ、よくある腐れ縁さ」

 たまたま聞きかじったところによると、ギーシュの家とモンモランシーの家は旧知の仲らしい。その縁で幼いころからよく遊び、結婚の約束までしていたとか。なんだかんだ言って一緒にいる二人の関係は幼少のころから続いていた。意外な発見だった。まるで正統派恋愛シミュレーションゲームのようだ。爆発しろと思う。

「仲がよさそうだけど、姫さまはどうしたんだい」
「ふっ……。薔薇は特定の人に愛を捧げるわけではない。より多くの人を楽しませるためにあるのさ」
「ふられたのか」
「な、ない! それは断じてないぞ! うっかりお城のメイドさんを口説いているのを見られて泣かれてそれ以来連絡が取れないなんて、絶対にない!」
「……よくわかったよ」

 ケティにしてもそうだが、結局のところギーシュの浮気癖に耐えられるのはモンモランシーしかいないらしい。なんだかなあ、と思うわけである。

「そういえば、ギーシュはどうしてこんなところに来ているんだ?」

 最初に呼び捨てにされたのでヴェンツェルも同じように呼んでみる。それについてギーシュはとくに気にした風もなく、やや興奮しながら言ってくる。

「うむ。ここだけの話だが……。この池には、“ヌシ”がいるらしい。それは下手な水竜よりも大きく、とんでもなく強いというんだ。ぜひ釣ってみたいじゃないか」
「こんな池にそんなのがいるかい? そもそも、そんなのを釣ったら命が危ないんじゃないか」
「……う、ううむ。そういえばそうだな。つい自慢したい一心でここまでやってきてしまったが……」
「成体の水竜はあのエルフですら苦戦するっていうぜ。まあいないだろうけど、念のために竿を上げたらどうだい?」

 それを聞いたギーシュは、顔を青くして竿を支えから取り外そうとする。ハルケギニアの貴族にとって、エルフとはもっとも恐ろしい存在の一つとして受け止められている。それが苦戦するほどなのだから、恐らくとんでもなく強い。それくらいはギーシュだってわかっていたが、いまになって急に怖くなりだしたのだ。
 だが、それは少し遅かった。

 突然池の水面が震えたかと思うと、なにか巨大な影が湖底から上がってくるようだった。竿はあっという間に池に引き込まれ、ばきべきと折れてしまうのがわかった。
 ヴェンツェルはギーシュに避難と女性陣への言伝を頼もうとしたが、そのときには既にギーシュは女性陣の前に立っていた。あまりにも速すぎる身のこなしすぎた。なんてこった。

「ヴェンツェル! きみの勇姿は忘れない! 安らかに眠ってくれ!」

 馬鹿を言うな。それは洒落にならないではないか。本当に見殺しにする気なのか。そんなことを考えていると、とうとう水面からその巨大な姿が全貌を現した。

「な! か、かかかかかカエルっ!」

 突然現れたその“怪物”を目にしたルイズは、目を回してひっくり返ってしまった。そう。現れた怪物とは、体長が二メイルはあるような真っ赤なカエルが現れたのだ。形はアマガエルのようであるが、その巨体さゆえにあまりにも不気味だ。見ると、竿が口にへばりついている。

 カエルは大きな鳴き声を上げながら長い舌を出した。それを手当たり次第に振り回し、一発がヴェンツェルに命中。吹き飛ばされた少年は地面を転がる。
 それを見ていたカトレアは、なにかに気がついたらしい。モンモランシーにルイズを託し、大急ぎで池の方向へ向かう。ギーシュも『ワルキューレ』を生み出してそれに続こうとするが、それはカトレアに制された。わけもわからず、ギーシュやモンモランシーはただ困惑する。
 カエルに近づいたカトレアは、『レビテーション』を詠唱。すると、カエルの口に刺さっていた竿の釣り針が抜けて浮かび上がる。竿はそのまま地面にゆっくりと落下した。

「それが痛かったのよね。でももう大丈夫よ。この子たちにはわたしから言っておくから、あなたは安心してゆっくりしているといいわ」

 カトレアが優しげな笑みを浮かべて話しかけると、カエルはその言葉の意味が理解できたのか。げこっ、と大きな鳴き声を上げ、池の中に戻って行った。
 唖然としたままそれを見守っていたギーシュたちの元に、やや険しい顔のカトレアがゆっくりとやってきた。

「ギーシュくん、だったわね。あの子、あなたの使っていた釣り針が口に刺さっちゃったみたいよ。糸を長くしていたでしょう?」
「あ、はい。そうです。奥まで届くようにって……」
「もう。必要以上に長くしちゃだめよ。それに、あの子は大人しいからいいけど、もし気性の荒い生き物に当たったら危ないわ」
「す、すみません。気をつけます」

 ギーシュ、なんだか萎縮してしまっているようである。だが、すぐにカトレアは表情をやわらげた。金髪の少年の頭を撫でると、ほんわかとした笑みを浮かべる。

「でも。しょうがないわよね。あんなに大きな子がいるとは思えないだろうし」

 カトレアがそう間、ギーシュの視線は間近に迫ったカトレアの胸部に集中していた。それを見て嫉妬したモンモランシーがギーシュの足を踏みつけるものの、気障少年の目線は動かない。


「……生きてるの?」
「できれば、『治癒』をかけてもらいたい」

 馬車の方で三人が話し合っているころ、放置されて怪我を負ったヴェンツェルにルイズが話しかけていた。出血してうめいている少年を、ルイズはしゃがみ込みながらただ観察しているのだ。

「かけてあげようかしら?」
「勘弁してください。本当にごめんなさい、それだけは……」
「むう、なによ」

 いまのこの状況で失敗魔法など食らったらひとたまりもない。ヴェンツェルは、瀕死の状態でひたすらルイズに謝り続けていた。
 結局、このあと、ピクニックはとくに滞りもなく行われた。




 *




 ヴェンツェルがラ・ヴァリエール家にやって来てから一ヶ月。減量はあまり進まず、このままでは魔法の練習に入ることすら叶わないし、成果は上がらないとカリーヌは考えていた。

 ならば…。やるべきことは一つ。このぬるい環境から強制的に引きずり出し、過酷な状況下で訓練を積ませるというもの。それを聞かされたラ・ヴァリエール公爵は猛烈に反対したが、一度決めたらなかなか考えを曲げないカリーヌは案を強行することにした。

 早朝である。使用人室で睡眠をとっていたヴェンツェルは、何者かによって布団から引きずり出された。またルイズだろうか? 
 驚いて目を開くと、なんと彼を引きずっているのはカリーヌではないか。

「ミスタ・ヴェンツェル。これから山篭りに行きますよ」
「え?」
「使用人から聞きましたが、あなたは食堂で、食事を大量にとっているそうではないですか。そんなことをしていて痩せられるはずがないでしょう。ですから、“そういう環境”へあなたを放り入れます。安心してください。わたしも成果が上がるまでは付き添いますので」

 寝ぼけたまま、疑問符を浮かべたヴェンツェルは、カリーヌに引きずられて何処へと連れて行かれるのであった。

 果たして、彼の運命やいかに。




[17375] 第四十二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/11/01 20:50
 ガリア王国首都、リュティス。

 一部の貴族によって扇動された市民が結成した組織、『リュティス・コミューン』を南部諸侯中心の王軍が強制的に排除したことによって、その市街地は大規模な損害をこうむっていた。
 敵軍の侵攻を妨げるための曲がりくねった細い道は、かえって反乱市民が拠点を作り上げるのに好都合となってしまっているのが露呈する結果となった。
 宰相となったロベスピエールは、かねてよりリュティスの大改造を主張していた。今回は、暴動によって荒廃した市街地の再建と同時に、それが実行されることとなった。
 首都の復興、それに伴う大規模な公共工事。それには莫大な予算が必要とされた。だが、いまのガリア経済は停滞しきっており、とてもではないが満足な予算が拠出できる状況ではない。

 しかし。
 それを可能としてしまう禁じ手が、ないわけではない。

 それは戦争だ。戦争によって勝利を収めることが出来れば、敗戦国から多額の賠償金を得ることが出来る。勝てば名声も得られる。下馬評と違い、実際の国政運営に失敗していたシャルルは名声を欲していた。自分が殺害した兄に国家の発展を堂々と宣言したのに、いまのガリアの惨状は目を覆いたくなるほどのものだ。
 ちらほらと自分から距離を置こうとする貴族連中も少なくない。一例をあげれば、南部諸侯のローザンヌ伯爵は近ごろ、ロマリアの一国であるサヴォイア公国と接触を図っている。好ましい事態ではない。

 そういった連中に、自分が偉大なる国家ガリアの王であることを示さねばならない。

 そのための犠牲が、トリステインだ。
 あの国はアルビオン王党派の艦隊を迎え入れたことで財政が逼迫。さらに、本来のトリステイン艦隊は老朽化した旧式艦艇ばかり。稼働率もたかが知れている。ガリア両用艦隊の敵ではない。
 懸念すべきはクルデンホルフ両用艦隊だが、所詮は小国。大勢に与える影響など微々たるもの。だが、あの国はいち早く製鉄所の運営を初め、『錬金』では製造出来ないレベルの品質の鉄を作り出せる。そして、その技術力はゲルマニアを遥かに越えている。
 手に入れる価値は大いにあるだろう。

 かつてアキテーヌ公爵はラインラントへの侵攻に失敗したが、今回の相手は比べるのもおこがましいほどに脆弱な国家トリステインだ。ガリアの誇る軍団で攻め落とせない相手ではない。
 アルビオン共和国を巡ってあの国が孤立を深めているいまならば、可能性は高いだろう。

 そこまで考え、シャルルはグラン・トロワ内に置かれた王座から立ち上がると、手近に控えていた従者に告げる。

「大元帥を呼べ。戦争の準備をする」




 *




 トリステイン某所。秘境めいたその場所がどこにあるのか、それはヴェンツェルが知る由もない。

 桃髪の女性、カリーヌに見張られながら、少年は斧で薪を割っていた。かれこれ三時間はずっと割りっぱなしである。もうそろそろ肩の痛みすら感じなくなるほどであった。

「あ、あの、これ、いつまで続ければ?」
「当面の生活で使える分ですね。あとこれだけ頑張ってください」

 そういうカリーヌのそばには、身長ほどの高さの木材の山があった。風魔法で切り出してきたらしいのだが、そんなことをするならば薪割りも魔法でやってほしいものである。

 それからしばらくして、ようやく薪割りが終わる。腕がぱんぱんに腫れたヴェンツェルは、思わずその場に倒れこんでしまう。

「お昼まで休憩です。休んでいてください」

 言うなり、カリーヌは魔法でどこかへ飛んでいってしまう。へたれこんだまま、少年は空を見上げた。

 彼がこの場所に連れて来られたのは、つい昨日のことだ。馬車で来たのではあるが、なぜか道中は目隠しをされていた。外してもらったときには見たことのない土地にいたのである。場所をわからないようにしたのは、やはり逃亡防止のためなのだろうか。

 周囲はうっそうとした木々に覆われ、ヴェンツェルが寝そべっている草むらの周囲だけは日が差し込んでいる。なんだか、ウエストウッド村を思い出した。
 そういえば、ティファニアはどうしているのだろう。アルビオン王に担がれるという、まったく予想外の事態になったが……。『史実』から完全に逸脱したこの世界では、一寸先は闇だ。他の転生した連中もさぞ困っていることだろう。そういえば、カルロは記憶を取り戻したのだろうか?

 ヴェンツェルは一旦思考を断ち切って立ち上がり、近くの急流の端に手を突っ込む。冷たい水の感触が伝わってきた。

 気になることは山ほどある。トリステインは史実通りにアルビオンへの攻撃に踏み切るのか。王党派の艦隊があるならば、もしかしたらやりかねない。さらには、ゲルマニアでウィンドボナへの中央集権化が異常なほど高速で進んでいること。諸侯の反乱は瞬く間に鎮圧され、その家の貴族が取り潰しになること。
 鎮圧に絡んでいるのは間違いなくデメテルだろう。ちらほら、とてつもなく巨大なゴーレムが目撃されているらしい。
 最後に……、ヘスティアの遺した、『レーヴァテイン』。そして、近ごろよく見る不可解な夢。なにもかもがわからない。

「まったく、面倒だなぁ……」

 誰ともなしに呟いたヴェンツェルは草むらに寝転がる。空は快晴模様だ。きな臭い世界とは裏腹に、青い空間はどこまでは澄み渡っている。


 しばらくするとカリーヌが戻り、鍛錬という名のダイエットが再開された。今度は水泳らしい。水着を着させられたヴェンツェルは、流れの速い急流に放り込まれた。
 カナヅチヴェンツェルにしてみればこれは拷問と同義である。しかも季節はこれから冬へ向かうのだ。必死に犬掻きで岸までたどりつこうとするが、そのたびに少年は風の魔法でぶっ飛ばされる。

「わたしが上がっていいというまでは、絶対に陸には上げませんよ」

 まるで死刑を告げる裁判官のよううな口調で、カリーヌはそう言うのである。デス・バイ・スイミングである。処刑といったいなにが違うのだろうか。
 仕方がないのでそこら辺の岩にしがみついていると、あっという間にカリーヌが魔法で岩ごと吹き飛ばす。良い子は夏だからといって急流に飛び込まないように。命に関わるので。


 死と隣あわせ(実際にはカリーヌが見張っているとはいえ)の水泳を終えたころには、もうヴェンツェルは立ち上がれないほどに衰弱していた。いままではカトレアがかけてくれた『治癒』も、この場では望むこともできない。
 這うように木の根元にたどり着くと、垂直な梯子を登ってなんとか自分の荷物の置き場へ進む。なぜかツリーハウスが用意されていたのには驚いたものだが、あらかじめここに来ることが決まっていたのならまあ、納得できないこともない。
 リュックに入った特製の栄養剤を探していると、ごろんと一つの瓶が転げ落ちる。なんだか綺麗なハチミツ色の液体が中に入っていた。いったいなんなのだろうか。
 とくに気にせずに、ヴェンツェルはそれをそこら辺に放り出した。

 食事はカリーヌが作ったシチューだった。貴族の子女といえば料理はせいぜい趣味のお菓子作りくらいしかしない。味に不安を覚えたが、口にしてみると、特に異常はない。ごくごく普通の、これといって特筆することのない味だ。
 味の加減を尋ねられたので、おいしいですよ、とだけ返しておく。悪い気はしないのか、吊り上がったカリーヌの目がちょっと、ほんのちょっとだけ下がったような気がした。

 さて、明日はどんな苦行を味あわされるのか……。ヴェンツェルは、満天の星空を眺めながら呟いた。









 ●第四十二話「混沌」









 ヴェンツェルが秘境で鍛錬を始めてから一ヶ月ほど経ったころ。アルビオン共和国では、大きな動乱が起きていた。

 各地で、ウェールズを信奉する敗残貴族やジェントリに扇動された平民が、一揆や地方貴族の館の破壊などの反乱を起こし始めていたのだ。
 原因といえば、共和国議会が貴族の利権を孕んだ路線対立でまともに機能せず、復興への支援がまったく行われなかったからだろう。そもそも、議会内部で予算すら通せないのだから、復興に使う金などあるはずもない。
 独自に復興を進めるサウスゴータなどの例外を除けば、戴冠早々にティファニアの支持率は急落していた。そもそも、ロンディニウムの平民ですら彼女の顔を知らない。目深に被った法衣服が少女の顔の上半分を完全に覆い隠してしまっていたからだった。

 この事態を重く見たクロムウェルは護国卿権限で強行的に法案を通過させることにしたが、それは対立貴族の更なる議事進行の妨害を招くだけとなった。
 もともと平民上がりと罵られていたクロムウェルの敵は多い。味方もそれなりにいるものの、やはり大勢は旧来の貴族が支配する国家であることに変わりはない。


 ハヴィランド宮殿。その一室に設けられた護国卿の執務室で、クロムウェルは配下の貴族に敵対貴族の暗殺に関する命令を下していた。
 このままでは、苦労して王党派を打倒した意味がなくなる。もう手段に構っている場合ではなくなった。出来る限り迅速に、この国の権限を自分一人に集中させる必要がある。そう考えての行動だった。

「オリヴァー。大丈夫なの? 近ごろ、あまり寝ていないでしょう?」

 貴族が部屋を退出したあと、部屋のすみにいた銀髪の少女が近寄ってくる。彼女は名をルサリィといい、護国卿となったクロムウェルの小姓をやっていた。どうにも不安げな様子で、彼女は眼前の大仰な形式ばった椅子に腰かける男性に声をかける。

「大丈夫だよ。……大丈夫だ。もうすぐ、大規模な粛清が決行される。そうすれば、国の再興を阻む貴族たちは……」
「ううん。違うのよ、オリヴァー。そうじゃなくて……」
「わたしは大丈夫だよ。きみが心配することはなにもないんだ」

 それだけ言って、クロムウェルは執務室を出る。慌ててルサリィもあとを追った。


 宮殿の最深部には、王族の個人的な空間が用意されている。この場に立ち入る権限を与えられてるのは、王族の他には護国卿だけ。この町に王族は一人しかいないし、クロムウェルも基本的には立ち入らないので、実質的にティファニアだけの空間と化していた。

 花壇に植えられた花に水をやりながら、ティファニアは沈んだ様子で立ち尽くしていた。情報統制されていてもなお、彼女の耳には国内の動乱の様子が入ってくるのだ。
 結局、内乱は収まらない。近ごろのクロムウェルが主張するように、敵対勢力を徹底的に殲滅するしか平和への道はないのだろうか。それは違う。違うと思いたい。
 しかし、大陸西部での反乱組織『レコン・キスタ』の台頭を見るに、もう新たなる戦争は避けられなくなってきた。議会が未だにごたついている現状では、それも仕方のないことだろう。
 ティファニアは王である。しかし、それはあくまでも飾りに過ぎない。クロムウェルという庇護者を失えば、途端に廃絶されてしまいかねない。なぜならば、ティファニアの正体は……。

 少し休もう、とティファニアが自室に向かおうとしたとき。唐突に床を蹴る音が響いてきた。それはたくさんの音だ。慌てながら、ティファニアは法衣服を被った。

 果たしてそこに現れたのは、数名の騎士だった。彼らはティファニアを見つけるや否や、手にした杖を構える。

「な、なんですか、あなた方は!」
「我らはこの国の将来を憂い、決起する者。この国の君主をあるべき血統へ戻し、正しき王権を復古するために集まった同志だ。偽りの王ティファニアよ。あなたに恨みはないが、クロムウェルが企む独裁体制への移行を黙認しているのもまた事実。残念だが、あなたにはここで崩御してもらわなければならない」

 騎士たちは杖を目の前の少女に向け、今にも魔法を放とうとしている。『忘却』の使用も考えたが、それは間に合わない。きっと、杖を出す前に魔法がこの身を貫いているだろう。
 そう考え、いっそ刺し違えてでも―――と思ったとき、唐突に猛烈な風が吹いた。こんな建物の中で風が吹くとは予想していなかった騎士たちは動揺し、ほんの一瞬ではあるがティファニアから注意が逸れてしまった。

「こっち!」

 そのとき、少女の手をとる者がいた。ティファニアも見慣れたルサリィだった。彼女は手を引きながら、必死に騎士たちから逃げおおせようとする。

「る、ルサリィ。どうして?」
「さっき、あの人たちが勝手にここへ入ろうとしていたのを偶然見たから。怪しいと思ったら、案の定ってところね……」

 そのまま、二人は宮殿の最奥部へ到達してしまった。歴代のアルビオン王たちの胸像や肖像画が陳列されているこの空間は、ある意味でアルビオン王権の象徴的な場所だとも言える。

「見つけたぞ!」
「あれはクロムウェルの小姓か。どうしてこんなところに……」

 騎士たちはすぐに追いついて来た。息を切らしているティファニアやルサリィとは対照的に、彼らの息は整っている。基礎体力の違いをまざまざと見せ付けられた気分だった。

「あなたたち、どうしてこんなことを!」

 ティファニアの前に立つルサリィが、背後の少女をかばうようにして叫んだ。

「さっきも言ったのだがな。このままではクロムウェルが独裁者となるのは間違いない。それを憂える方々はこの国の内部にも大勢いらっしゃるのだよ。だから、その前に奴の権力を支えているティファニア偽陛下にご退場願おう、ということだ」

 吐き捨てるように、先ほどとは異なる騎士の一人が言う。
 彼らから見ればティファニアは単なる王権の簒奪者でしかない。敬う必要もなければ、そもそも君主だと認めるつもりもない。名もなき騎士たちにとって、ティファニアとは排除すべき存在。それだけだった。

「……そうですか」

 それを聞いたティファニアは、腕をだらんと下げた。杖も放り捨て、抵抗する意思がないことを見せる。そして続けた。

「残念ですが、いまのわたしにあなたがたを説得するのは無理なようですね。なら…」

 言うなり、ティファニアは深く被っていた法衣服を脱ぎ捨てる。輝くような、まるで妖精のような美貌がその下から現れた。この世のものとは思えないその圧倒的な容姿に、思わず騎士たちはごくりと生唾を飲む。だが、少女の頭の側面から生えた物体に目が行った瞬間、彼らは驚愕に包まれる。

「……耳!? エルフだと……!」
「あ、亜人が王座にいたというのか!?」

 騎士たちが動揺しているのは明白だった。一連の流れを見ていたルサリィは、ティファニアに半ば悲鳴に近い声で問いかける。

「て、テファ! どうして!」
「……どうせ死ぬというなら、最後は本当の自分で逝きたいの。それに、わたしの体を流れる母の血は汚らわしいものなんかじゃない……。“普通の人”と同じものなんだって、せめて証明したいのよ。……あなたは逃げて。彼らは動揺しているから、いまがチャンスだから」
「で、でも……」

 狼狽するルサリィに、ティファニアは優しげな笑みを浮かべて言う。
 だが、少々長く悩みすぎたようだった。騎士たちはその瞳に憎悪の炎を浮かべ、威圧感だけですべてを燃やし尽くそうとするほどの鋭い眼光を浴びせてきた。

「貴様……! その汚らわしい身で、我らの王座を陵辱していたのか!」

 憤怒の情に顔から火が噴出さんとするほどの怒りを見せる騎士に、ティファニアは毅然とした態度で答えた。

「わたしの父はモード大公です。母はエルフでさえあれど、決して汚らわしい存在などではありません。普通の人とエルフでも、互いを理解し愛し合えた、それを証明する存在がわたしです!」
「なんだと……、抜かせ抜かせ抜かせ抜かせっ!!! 豚にも劣る野蛮人が、王弟であったモード大公を侮辱するとはっ!!」

 騎士の一人が激昂し、『エア・ハンマー』を詠唱。空気の塊がティファニアを狙い……、それは、ルサリィによって阻まれた。彼女は右手を前方に突き出して、威嚇するようにうなった。

「……ちっ、亜人がまだいたのか! もう手加減する必要などない、一気にやるぞ!」

 隊長格らしい騎士がそう叫んだとき。彼らのもっとも後方にいた騎士が突然、真っ白な炎に包まれる。悲鳴を上げる間もなく騎士は絶命し、遺体は灰も残さずに消滅してしまった。

「な、なん……あああああああああっっ!!!」

 驚いて残りの騎士が振り向いた刹那―――周囲を目を覆うようなまばゆい光と、肉体を焦がすような熱が襲う。だがそれは巧妙にティファニアやルサリィを避けているのもまた事実。

 
 沈黙。それを破ったのは、『白炎』を生み出した張本人だった。

「陛下。助けに参りましたぜ」
「あ、あなたは……」

 あまりに一瞬の出来事だった。呆然とするティファニアに歩み寄りながら、白髪の男はしかし、その“生きた”瞳で確かにティファニアを捉える。

「おれは『白炎』のメンヌヴィル。クロムウェル閣下に雇われた、陛下の護衛でさぁ」




 *




 ―――ロマリア連合皇国が存在するアウソーニャ半島。ガリア王国との天然の国境となっている火竜山脈の南斜面に、サヴォイア公国はあった。

 ロマリア教皇領が母体の皇国連合には、大小無数の国家が存在している。それはさながら、統一前の分裂時代のイタリア半島を思わせた。
 東のヴェネツ共和国、西のサヴォイア公国領ジェノバ。南のナポリ王国。火竜山脈に程近いベルゲン大公国も、一部はロマリアの勢力圏内に属していた。

 サヴォイア公国はジェノバをもって東のヴェネツと熾烈な通商勢力圏争いを繰り広げている。かつては、エルフとの最前線国家であったビザンツ帝国を、利権争いでまるごと滅ぼしてしまったことすらあった。そのために、ロマリア教皇庁の勢力が大きく後退したほどである。

 小さな国家とはいえ、その国を治める君主であるサヴォイア家は名門中の名門である。一族は始祖の血を濃く引き継ぎ、ロマリアの系統『火』を初めとしたさまざまな優秀なメイジを輩出してきた。


 そんな公国の外れ。誰からも忘れ去られた小さな屋敷で、一人の少年が椅子に“座らされていた”。

 彼の名はカルロ。カルロ・ディ・サヴォイア。かつては生まれ持った優秀さで家の発展に大いに寄与したものだが、とある事件をきっかけにして記憶を失った。
 それどころか、幼児退行化した彼はトリノの居城で問題を起こし続けた。
 たまらなくなった彼の母が、父である公爵の反対を押し切り、トリノから遠く離れた山の中に隔離したのである。

 そこでは、四人のメイドの少女が彼の世話をする。彼女たちはいずれもカルロに拾われた。それこそ乞食のような生活を送っていた者すらいたなかで、カルロの行いによって人並みの生活を手に入れたのだ。体を求められれば応じたし、そのくらいはどうということはなかった。
 だが、当のカルロは痴呆のように間の抜けた行動を繰り返すだけ。よほど頭を強く打ったらしく、医者も回復は絶望的だとさじを投げた。

 だがある日、そんなひっそりとした屋敷に、一人の男が現れた。

 メイドは当初彼を警戒したものの、『カルロを治してやる』という言葉に動揺。この場所のことを知っているのはほんの一握りの存在。それを知ってなおやってくる理由……。いまさら、公位継承権を剥奪された白痴を殺す必要などない。ならば。
 いちるの望みを賭けて、メイドは男を通すことにした。

 道中、少女に名を尋ねられた男は、こう答えたという。

「私か? 名乗るほどのこともないが……。私はヤシイセン・テハレオ。売れない小説家だよ」

 いったい彼の目的はなんなのか。そもそも、どこの誰なのか。それは、まだこの場の誰にもわかることではない。





 *




 ヴェンツェルが秘境にやってきてから三ヶ月。そろそろ寒くなってきたというか、始祖の降臨祭は終わってしまったような。

 カリーヌの拷問に近い鍛錬は一応効果はあったらしい。そろそろ体型が変化してくるのを感じるようになった。継続は力なり、とはよく言ったもので、過酷な環境に体が慣れてきているようだ。

 いつものように薪割りをしていると、木の上に設営されたツリーハウスから、どんがらがっしゃんという猛烈な破壊音が聞こえてきた。いったいどうしたんだろう。自分の荷物もあるから、できれば荒らさないで欲しいのだけれど。
 その後しばらくなにもなかったので、ヴェンツェルは一生懸命に斧を振り上げた。

 夕食の時間である。カリーヌはここ最近食事を毎日作っているせいか、少しずつ腕が上がってきたようだった。いい年でも成長ってするんだなあ……、などと思ってはいけない。そんなことを一瞬でも頭に思い浮かべた瞬間、容赦のない風の刃が襲い掛かってくるのだ。

 閑話休題。

 もうとっくに準備を始めてもいいころなのに、なぜかカリーヌは現れなかった。おかしい。昼に姿を見たときは普通だったのに……。体の具合でも悪いのだろうか。ちょっと様子を見てみるか。
 そう考え、ヴェンツェルは梯子を登り始めた。

 ツリーハウスの内部は三部屋にわかれている。共用空間とそれぞれの個室だ。カリーヌが使っているのは入り口から向かって右側。とりあえず、ドアをノックする。返事がない。もう一度ノックする。やはり返事がない。さらにノックする。相変わらず返事がない。
 女性の部屋に無断で入るのもどうかと思ったが、いるかいないかもわからないのでは仕方ない。失礼します、とだけ言ってヴェンツェルは部屋に入る。

 内部は見事に荒れ果てていた。まるで嵐がこの部屋の中だけで発生して、大いに荒らしまわったのかと勘違いしてしまうほどだ。どうしたのだろうか。
 部屋の内部を見回す。すると、なぜかベッドの上で毛布が丸くなっているではないか。ためしに上から押してみる。きゅう、という妙な声がした。誰かいるのか。

「ミセス・カリーヌ?」

 呼びかけてみると、わずかに毛布が震えた。なぜかがたがたと震えており、片手を出してなにかの瓶をヴェンツェルに押し付ける。その手は少女のように華奢だった。
 とりあえず蓋を開けてみる。その瞬間、なんともいえない、甘ったるい香りが鼻をついた。これはハチミツのような香りだ。ただ、ちょっと違う。ほんの少しの違和感がある。

 瓶は置いて、再びカリーヌに呼びかけてみる。相変わらず反応はない。
 と、ここでヴェンツェルはある予感にたどり着いた。もしや、この毛布の中にいるのはカリーヌではないのでは? 誰かが泥棒に入って物色中にたまたま自分が来たのでは。そう考えると、うずうずとしてくるものである。杖を構え、少年は一気に毛布を剥ぎ取った。

 すると、

「……え?」

 唖然となり、呟く。ヴェンツェルは己が目を疑った。なぜなら、毛布の下でぶかぶかになった衣服を、大粒の涙を目に溜めながら抱きしめているのは……。


 幼き日の、『烈風』カリン、その人であったのだから。





[17375] 閑話二 ※R15
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:40c43b73
Date: 2010/12/04 06:29
 ●閑話二「記憶」





 それは突然の出来事だった。

 トリステイン某所の森の、奥深く。そこでヴェンツェルに訓練をつけていたカリーヌが、なぜか小さくなってしまったのだ。
 信じられない事態ではあるのだが、それが、それこそが彼の目の前で起きた純然たる事実そのものである。

 数日前まで―――いや、昨日の昼までカリーヌはそれ相応の見た目だった。もちろん、実年齢をまったく感じさせないほどの若さであったのだが。
 それが今や、まるで三十年以上昔の男装時代のような若々しさとなってしまっているのだ。
 理由はまるでわからない。
 どうも、彼女が暖めたミルクにハチミツを溶かし込もうとしたのが原因であったようなのだが……。

「なにをぼうっとしているのです! しっかりなさい!」
「は、はいっ」

 そんなふうに、ぼやっと考え事をしていると。彼の眼前に、太い木のつるで作られた鞭が高い音と共に振り下ろされた。
 鞭を手にするのは若返ったカリーヌ・デジレだ。見れば見るほど、その姿は『烈風の騎士姫』時代のそれであるとしか思えない。何度だって思う。
 肌の艶といい、幼い顔の作りといい……。華奢な体は、もし抱きしめたら折れてしまいそうなほどだった。
 無論、実際にそのような行動には出られないが。ヴェンツェルとて命は惜しいのである。

 それから二週間ほど、ヴェンツェルに対する苛烈なしごきが行われ続けた。この頃には、既に体型も大きく変貌を遂げていた。
 ……だが、そこで大きな問題な立ちはだかった。今度は筋肉が増えてきてしまったのである。
 脂肪が再び増えるよりは、筋肉が増えた方がいいに決まっている。だが、それも度を越えるとろくなことにならないのだ。バランス考えろである。

 そういうわけで。彼はこれ以上筋肉が増えすぎないよう、調整する必要に迫られたのだった。


 一方、巨木に設営されたツリーハウスの一室、カリーヌの部屋。

 自分で吹き飛ばしてしまったその部屋の内部は、今ではすっかりと片付けがされていた。ばらばらだった物品が整理され、綺麗に掃除されている。
 ちなみに、清掃作業をしたのはヴェンツェルである。彼にそういった技能があると思っていなかったカリーヌは、少しばかり感心させられた。
 自らの体型が劇的に変化してしまったことについて、カリーヌは未だ混乱しながらも少しずつ受け入れ始めていた。
 そうやって順応しなければ、すぐに発狂でもしてしまいそうになるからだ。生き延びるためには認め、受容するしかないのである。
 手にした小さな鏡に映る、自分の顔を。目の前の事実を。それしかなかった。

 鏡を机に戻してベッドに腰掛けた彼女は、例によって、温かいミルクの注がれたカップに口を付けながら少しばかり思案する。
 思っていたよりも、ヴェンツェルは自分の鍛錬についてくる。かなり過酷な仕打ちをしてきたと自分では思っているのだが、それでも逃げ出したりはしないのだ。
 だが。今まで、過去にあった限りでは。彼はそこまでの人間だとは到底思えなかった。
 クルデンホルフ大公の息子。それだけだ。興味の対象であったわけではない。ただ、なんとなく気が向いたからボコって……訓練しているのだ。

 ……それが、どうだろう。
 痩せるにしたがって……、あの少年の顔が、似てきたのだ。
 かつて突然、目の前に現れ……事ある毎にちょっかいを出し、紆余曲折あって自分の貞操を奪っていった男に。
 それは、後に婚約した夫にすら秘密にしている事案だった。

 青と赤の月目であるところまでそっくりだったと思う。いや、まるで生き写しといってもいいだろう。

 今まではてっきり、自分を襲ったのは今代のクルデンホルフ大公だとばかり思っていたが。
 どうも彼の年齢的に、それはありえないということが、ヴェンツェルの何気ない一言でわかったのだ。
 それによると、当時の大公はまだ小さな子供のはずであるらしい。実際に実家のカトレアに頼んで確認を取ったのだから、間違いはないのだ。

 また、大公は月目ですらない。若い頃の肖像画を見る限り、顔こそ“忌々しい男”にそっくりだったが……。大公は両目が青い。
 血縁者かとも思ったが、やはりあの当時は先代の大公ですらその条件には合致しない。
 該当しそうな人間がいないし、いても遥か東方のゲルマニアはパンノニア地方にいたらしいのだ。ウィンドボナよりもさらに遠方である。
 わざわざトリスタニアに出てきているなどとは、到底思えなかった。

 つまり、自分が先代の大公に抱いていた感情というのは……。ほぼ、まったくの根拠のない妄執に過ぎなかったのである。
 少し冷静になればわかることだというのに。どうも熱くなっていたらしい。

「……わかりませんね。なにがどうなっているのか」

 小さく呟き、また考えに耽る。彼女の表情には、ありありと困惑の色が浮かんでいた。
 鍛錬を続けるうちに、見る見るうちに“忌々しい男”そのものになっていくヴェンツェルを見ていると、どうも落ち着かない。
 かの一件はもう何十年も前のことで、彼が関わっているはずなどないということはわかっているのに。

 ―――かつて。

 エスターシュ大公の屋敷に忍び込んで捕まるという失態を働き、王都の中央広場で処刑されそうになっていた自分の元へ、一番に特攻してきた男。
 メイジのくせに、平民が使うような黄金色の剣を振り回して、エスターシュのユニコーン隊をその剣から出す炎だけでなぎ倒していった男。
 遅れてやって来た衛士隊の仲間たちと一緒に敵を倒したあと、周囲が呆然となる中、自分を連れ去って……。

 それを思い出すだけで、強烈にむかっ腹が立ってくる。婚前の女性を勢いで押し倒しておいて、そのあと責任も取らずに消え去るとは。
 男は自らをゲルマニアの流れの貴族だといい、名をカールだと名乗ったが……。それはあまりにもありふれた名前だった。まず偽名だろう。

 そういった記憶は、夫と幸せな家庭を築く過程ですっかりと消え失せていたはずだった。否、正確には封印だろうか。
 ……そう。ヴェンツェルが痩せ始め、“忌々しい男”そっくりの容姿となりさえしなければ。
 あまりに酷似しすぎているのだ。自分の心の奥底で封印していた記憶を呼び起こしてしまうほどに。何か、どうしようもなく胸騒ぎを覚えてしまうほど。

 ただ、そのときは……。一人で悩めばよかった。夫への愛を疑うこともしなかったのである。



 *



 カリーヌ縮小事件から、二ヶ月が過ぎたころ。

 徐々にヴェンツェルの体型は整い、あとはゆっくりと最終調整を行えばいいというまでになった。
 もういい加減に、カリーヌの科す過酷な追加訓練にも慣れてきたころである。枷が無ければだらけるが、義務が生じたときには割りと早く順応するのである。
 さて、そんな彼が森の一角での鍛錬を終えてツリーハウスに戻ると……。
 厨房が備え付けられた共用空間で、カリーヌがテーブルになにやらたくさんの小さな物体を広げていた。

「ミセス・カリーヌ。なんですか? その木の実は」
「ええ。これはこの地方だけで採れる木の実です。きちんと処理をしてから乾かして食べると、とても美味しくて。これはもう乾かしてありますよ」
「なるほど」

 なんだか奇妙な見た目の木の実だった。一つ掴んでみると、どうもどんぐりに似ているように見える。

「ただ、この木の実は稀に猛毒が含まれているとか」
「……猛毒?」
「ええ。本当に稀なのだそうですが、それを食べてしまった人間を“狂わせる”危険な代物であるそうです」

 猛毒。そんな危ないものは食べられないのである。ヴェンツェルは、手にした木の実をそっとテーブルに戻した。

「大丈夫ですよ。言ったでしょう、本当に稀に混入するだけだそうですから。見れば一目でわかるそうですし……」

 そう言いつつ。カリーヌは手にしていた真っ赤な木の実を一つ、口の中に放り込む。だが、どう見ても今のは他のとは様子が異なっていた。
 大小さまざまな木の実は、その全てが濃い茶色、焦げ茶に分類できるものだった。真っ赤な実など一つもなかったのだ。

「……ミセス。いま、あからさまにおかしい色の実を……」
「そうですか? 普通に美味しいので、気が付きませんでした」

 指摘しても、それに対してきょとんとした表情でカリーヌは言うのである。まるで気にしていない様子だった。
 彼女は、この森に来る途中で行商から購入したというお菓子にも手をつけていた。どうにも甘ったるい匂いが漂ってくる。
 なんだか、小さくなってから食いしん坊になった気もするのである。

 件の木の実のことは。それからしばらくしてもなんともなかったので、ヴェンツェルもすっかり忘れてしまったのであるが……。



 ―――事が起きたのは、それからしばらくした夕食後の時間だった。

 カリーヌが食事の後片付けを終え、椅子に座ってゆっくりとしていると……。不意に、脚の付け根に奇妙な感覚が湧き起こり始める。
 なにかの勘違いだろうか。最初こそ、そうやって気のせいだと思っていたのだが―――その奇妙な感覚は、時間と共に膨れ上がっていく。
 だんだんと自分の息が荒くなり、鼓動が速まっていくのが感じられる。体温も上がり始めたらしい。
 これはいよいよおかしい。たまらなくなって、彼女は丈の短い短パンに包まれた両脚を擦り合わせ始めた。

「ふぁ、はぁっ、ん……。ううぅ……。体の調子が……。お、おかしい……」

 こんなところで自分はなにをしているのか。ヴェンツェルが来るかもしれないというのに。だが、そうはわかっているのだが……どうにも止まらない。
 仕方がないので、なんとか自分の部屋に向かおうと、立ち上がれ……なかった。
 もう足腰すらまともに使えなくなってしまっているらしい。派手な音を立てて、カリーヌは椅子ごと床に転がってしまう。
 痛みが襲ってくるが……、それよりも、己の体の芯からはじき出されてくる、どうしようもない劣情の方が強いらしい。思わず体を捩らせる。

「何の音ですか?」

 すると、音を聞きつけたのか。カリーヌから見て向かい側にある部屋のドアが開き、ヴェンツェルが姿を現した。
 彼は床で倒れこんでいるカリーヌを見るけるや否や、すぐに駆け寄った。肩を抱いて何事かと尋ねてくる。赤い顔を見て、ついでにおでこに手を乗せた。

「どうしたんですか? ……熱がある。風邪でも引いたのかな」
「……い、いえ。その……違うんです」
「違うって……。こんなに発熱してるじゃないですか! これは風邪かなにかでしょう」
「ううう……」

 困った。まさか自分が、とても恥ずかしい状態になっているなどと、この少年に知られたくない。それどころか、誰にだって知られてなるものか。
 そう思うのだが、体は言うことを聞かないのである。それどころか、抱きすくめられて、かえって火照りが増す始末である。
 これは重症だった。相手はクルデンホルフの馬鹿息子ではないか。そんな人間なのに、なぜ自分は……。
 必死に呼びかけてくる声がする。段々と朦朧とし始める意識の中で……ヴェンツェルの声が、どうにも過去に聞いた声と被った。
 もうずっと昔の記憶であるはずなのに。どうしても、そう思えてならなかった。

 ヴェンツェルはといえば、さっきまでぴんぴんしていたカリーヌが“こんな”状況になってしまったので、ただ困惑するばかりであった。
 ……しかし。なんだか、妙に色っぽい仕草をしている気がする。吐息はやけに熱いし、頬を赤らめ、先ほどから華奢な両脚や胴体をゆっくりと捩っているのだ。
 本人は気がついていないらしいが、どうにも艶かしい液体のような音が耳に届くのも、また事実だった。
 しかし。今はそんなことを考えている場合ではない。とにかく、一度ベッドかなにかに寝かして安静にさせないと。

「ミセス。とりあえず、あなたの部屋へ行きましょう。立てますか?」
「む、無理ですね……」
「そうですか。……困ったな」

 参った。動けないのでは仕方がない。ここは自分が運ぶしかないだろう。そう考え、ヴェンツェルはカリーヌの体を持ち上げる。

 そして、いきなりお姫様抱っこで自分の体を持ち上げられたカリーヌはといえば。
 どうにも不可思議な感覚を覚えていた。いつか自分がこの胸に抱かれたような。忘れていたはずの、思い出すはずもない記憶が掘り起こされるようだ。
 懐かしい。それが最初の感想だった。この少年の胸板に触れたのは、これが最初であったはずなのに……。
 不思議だ。あれほど憎んできた男と同じ感覚だというのに。やけに心が落ち着くのはなぜだろう?
 ……いや。そうではないのかもしれないが……。認めるのは癪だから、とにかく否定しよう。

「……あの? もうベッドにつきましたよ。下ろしますから」

 ずっと自分に厳格な態度で接してきた女性の変貌ぶりに、ヴェンツェルが狼狽している様子が見える。
 カリーヌが自分の胸に頬を摺り寄せている光景を目の当たりにすれば、それはそう思うだろう。いきなりツンからデレに移行したようなものなのだから。
 しかし、そこでつまずいていては仕方ない。無理に引き剥がし、カリーヌをベッドに横たえる。

「とにかく、安静にしていないと。いま、毛布を持ってきますから」

 そう告げ、ヴェンツェルは一旦その場から離れようとするのだが……。次の瞬間には、彼の手をカリーヌがしっかりと掴んだ。

「ま、待って、ください。少し、しゃがんでください」
「……え、ええ。はい。わかりました」

 目に涙を溜めてそうお願いするのだから、それを断ることなどできはしなかった。ヴェンツェルは言われた通りにしゃがみ込む。

「こうですか?」
「ええ。ありがとう」

 そう、やり取りをした瞬間。一瞬のうちに、ヴェンツェルがベッド側に引きずり込まれた。
 なにが起きたのかもわからぬうちに、結っていた桃髪を解いたカリーヌによって、少年は瞬く間にマウントポジションを奪われてしまったのである。

「み、ミセス?」
「……ごめんなさい。でも、もう駄目なんです。体が疼いて……、あの木の実のせいでしょうか。もう、どうしようもないんです」

 突然の出来事にヴェンツェルは困惑の声を上げるものの。それは、カリーヌの高揚しながらも静かな声によって、ただちにかき消されてしまう。
 もう彼女はどうにもならない状態だった。体の抑えが利かないのだ。自分でも、どうすればいいのかわからないほど、脳内が色情に支配されていた。
 彼女は自分の指をくわえながら、腰を蠢かせながら上体を下ろしてくる。体を密着させながら、少年の耳元で囁くのだ。

「悪いようにはしません。だから……今夜だけ。今夜だけ、どうか、わたしと―――」

 その言葉に対する反論の弁は、ついにヴェンツェルの口から出なかった。それはそうだった。なにせ、唇を塞がれてしまったのだから……。




 *




 ―――翌朝。

 自らの部屋のベッドでカリーヌは目を覚ました。そして、昨夜の狂乱ぶりが嘘のような落ち着きぶりで、自分の体を確認する。
 なにも異常はない。ただ、妙に満たされたような、いけない感情がこみ上げてくる。すぐに、自分の行いの記憶が蘇ってきた。

 ……やってしまった。
 自分の失態で体がおかしくなっていたとはいえ、まだ年端もいかぬような子供に手を出してしまったのだ。それも大公家から身柄を預かった嫡子を、だ。
 これはまずい。もしこのことが発覚すれば、家庭内の騒ぎでは済まなくなる。不義理を働いたとして、夫から制裁を受けるだろう。
 それだけでは済むまい。もっと強烈な騒動になるはず。娘たちからも見放されてしまうに違いない。
 最悪の結果を予測したシミュレーションを、一晩経って冷静になった脳が告げてくるのである。

「どうしましょう……」

 悩む。悩むのだが……。

 昨夜のことを思い出すと、なんだか胸が高鳴りだした。
 今まで幾度となく重ねてきた夫との行為よりも、昨晩のそれの方がより満たされる感覚を得たという、あってはならない感情を抱く。
 この少年はかつての見かけによらず、もうやることはやっているようだった。それなり以上の心得を持っていたらしい。
 結局、何度果てたのかわからない。

「いけない。いけないのですカリーヌ。あなたはラ・ヴァリエール公爵家の夫人ではありませんか。それが、それが……不貞を働くなど……」

 そうは言うのであるが、すべてが終わってしまってからでは遅かった。
 ふと下腹部に確かな存在感を感じて、慌てながらも彼女は、万が一に備えて用意していた水の秘薬に手を伸ばす。
 まず必要はないだろうと思っていたが、まさか本当に使う羽目になるとは思わなかった。備えあれば憂いなしとはこのことだろう。
 もっとも、それで憂いなしとはいかないのが現実であるが……。

「あ、起きたんですね……。大丈夫ですか?」

 そこへ、湯気の立つカップを片手に持ったヴェンツェルが現れた。どうやら先に起きていたらしい。
 なんでもないというふうに、平然とした様子で立っているように見えるのだが……。どうにも、そんな少年の顔を見ていると、胸の奥から何かがこみ上げてくる。
 それは決しての胃の内容物だとかではなく、なにか得体の知れない感情なのだ。
 とりあえず、向こうが平静を装っているのだから……、自分も同じようにしよう。そう考えた。

「はい。もう大丈夫です。なんともありません」
「よかった。あ、これ飲みます?」
「ええ。いただくわ」

 腕を伸ばしてカップを受け取る。その受け渡しのとき、わずかではあるがお互いの指が触れ合う。
 そうすると……、途端にカリーヌは恥ずかしくなってしまうのである。昨夜はお互いに指を絡めあっていた気もするが、それはそれだった。
 彼女の心象がわかるのか。ヴェンツェルは、少し照れくさそうに言う。

「……ええと。ほら、“猛毒”のせいなんじゃないかな、と僕は思いますから。ええ。だから、そんなに気にしないでくださいよ。忘れてしまえばいいんです」
「忘れる……。そう、でしょうか」

 カリーヌは一応、自分が『おかしくなった』とは伝えている。それを目の前の彼はあっさりと受け入れてくれたのだが……。
 その顔を見つめていると、どうしても昨夜の情事が頭から離れなくなってくる。

 ここしばらくは夫ともご無沙汰だったからだろうか。いや、問題はそこではない。得られるものが致命的に違っているのだ。
 それは錯乱した自分の精神の影響なのだろうか? それとも、もっと別の……。異なる要因があるのだろうか。
 いずれにせよ、カリーヌの心の中では、もう一度同じことをしたいという欲求ばかりが膨れ上がっていった。まるで風船だった。

「じゃ、じゃあ。僕は薪割りをするので……」
「待ってください」

 少し躊躇している間に、ヴェンツェルは部屋を去ろうとする。反射的に、カリーヌは彼を呼び止めていた。そして、すぐに続ける。

「その……。わからないのです。昨夜のあれが、一時の気の迷いなのか。それとも……。いえ、べ、別に積極的にしたいとか、そういうわけではなくて……」

 自分でも、そのよくわからない感情に戸惑いながら。慌てながら、カリーヌは告げる。

「その。“確かめる”ために……、もう一度、お願いできませんか?」

 ひどい発言だった。上目遣いでそんなお願いをされたら、健康な思春期男子であるヴェンツェルが断れるはずもないのである。
 朱に染まったカリーヌの頬の上の鳶色の瞳は、それこそ期待に満たされている。もう一度肌を重ねたいと、そう無意識に感じている表れだった。
 彼女本人が気づいていないだけなのだ。こんな『お願い』をする時点で、もうカリーヌは若い燕に夢中なのだと。泥沼に半身を浸けているのだと。

 ……結局、その泥沼は底なし沼だった。

 彼女はどんどんと深みにはまっていく。それは、もうどうしようもないことだったのだ。





[17375] 第四十三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/11/01 20:51
 トリステイン王国南部、エノー伯爵領はモンス。

 一週間ほど前、突如として国境を侵犯したガリア軍によって、トリステイン西部国境地帯は大打撃を受けた。国境地帯の軍は、ほとんどまともに反撃も出来ずに壊滅を繰り返している。
 そのせいで、トリステインはわずかな時間で南部の国土を蹂躙されるという有様だった。

 モンスには現地のエノー伯爵軍を中心とした防衛部隊が陣地を構築しており、迫り来る敵軍の侵攻に備えている。
 もっとも、二万以上とも言われているガリア軍に対し、トリステイン側はわずか千名程度の兵がいるに過ぎない。
 王都への援軍要請も「各自奮戦し、王国の領土を死守せよ」という定型文が帰ってくるだけ。

 領地が侵略にさらされているエノー伯爵本人からしてみれば、これはたまったものではない。
 単独での勝算はゼロである。数も兵站も士気も、なにもかもが劣っているのだから。
 だからといって尻尾を巻いて逃げ出すなどという選択肢はない。かといって近隣諸侯の援軍は望めない。
 ならばせいぜい派手に討ち死にしてやろう―――現地の要塞の司令室で伯爵がそんなことを考えたとき、彼の元に慌てた様子の家臣が駆け寄って来た。

「ご、ご報告申し上げます! 敵軍が侵攻を再開、まっすぐにこの要塞を目指していると……」

 ついにこのときが来たのか。
 伯爵は覚悟を決め、自分の妻子を初めとした非戦闘員の退避を命令。わずかな手勢には大砲の整備を行わせ、ほんの少しでもガリア軍の進軍を食い止めるための供えを行う。
 もうすぐ、凄惨な戦いの幕が開けようとしていた。


 一方のトリスタニア。

 突然の開戦に王宮が大混乱に陥りながらも、軍務卿らによって急遽王軍の編成が行われていたが、とてもではないがガリア軍に対抗するだけの兵を集める力が王政府にはない。
 諸侯軍の派遣を要請し、一部の貴族はそれに応じる姿勢こそ見せているものの、動きは牛歩になっていると言わざるを得なかった。
 アルビオン亡命政府首班であるエディンバラ公爵は、この事態に全力で協力するという立場を表明したばかりだ。
 しかしながら、実質的な行動に出るには亡命貴族の中に異論が多いという、身動きの取れない状況に陥っていた。さらには、艦隊は風石不足で動かせない。

 宰相であるマザリーニは、王の執務室で軍務卿らと今後の対応を話し合っていた。
 ガリアが大規模な戦争を起こしたのは、ここ数年で二度目である。
 かつてラインラントへの領土的野心から始まった戦争は、ゲルマニア軍の反撃と、ヴェルサルテイルでの宮廷闘争によってガリア側の敗退に終わった。
 そのときは、もっともな理由をつけて開戦したのも事実である。
 しかし。
 今度はそれがない。ガリア軍はなんの兆候もなしに突然攻撃を始めたのだ。リュティスに問い合わせても反応がない。大使の生死すらまったくわからない状況である。

 どう王都を守るかの話し合いに入ったとき、王と枢機卿の元に伝令が駆け込んでくる。それは、モンスの戦いでトリステイン側が敗退したというものだった。
 エノー伯爵以下参戦した貴族は全員戦死。ただ、ガリア軍にも相当数の損害を与え、一時的に進軍できなくなっているという。

「……伯爵が作ってくれたこの時間、決して無駄にはできませぬな」

 諸侯軍の編成状態の報告書を眺めながら、マザリーニは王にだけ聞こえるように呟いた。




 *




 「……それなりに引き締まりましたね。これなら、問題ないでしょう」

 トリステインのどこか。秘境めいた森の奥底で、桃髪色の少女が細い、しかしながら筋肉質な腕を掴んで顔を赤らめる。

 ……否、その人物は少女であって少女ではない。
 かつてハルケギニアを席巻した魔法衛士隊の隊長、『烈風』カリンその人である。彼女は故あって肉体が急激に若返ってしまったのである。

 ヴェンツェルのリュックの中に入っていたハチミツのような液体の瓶。
 それをままハチミツと間違えたカリーヌがミルクに入れてしまい、今回のことに繋がったのだ。ただ、その瓶がいったいなんなのかはまったくわからないのだけれども。
 そのきっかけとなった事件から、既に三ヶ月ほどが経過していた。当初は信じられない事態に大きく取り乱していたカリーヌも、いまでは落ち着き払っている。というよりもう開き直ってしまっている。
 開き直りすぎていろいろ困るくらいだった。
 ともすれば公爵邸に戻ったときが大変なことになるだろうが、それはいま考えても仕方のないことだろう。

 ヴェンツェルはどうにか減量することができたが、それは苦難を伴うものであった。
 カリーヌのしごきがあまりにも苛烈を極めたため、どんどん筋肉ばかりがつきそうになってしまったのである。
 それをなんとか方向修正するのに、実に三ヶ月を要したのだった。
 いまや少年の姿は、一般的なその年代の平均的な体型であるといえる。それはかつての彼の姿を見てきたものからすれば信じられぬ姿だろう。

 だが。

 肝心の魔法がまだなのだ。
 いまだ魔法の鍛錬に入っていない。もう半年近く野宿を続けているにも関わらず、である。それはさすがにまずい。いい加減に自分の系統くらいは見極めたいものである。
 目の前に立つ、自作の粗雑な服をまとった“少女”に声をかける。

「ミセス・カリーヌ。そろそろ魔法を教えていただきたいのですが……」
「……はい。そうですね。やっと目標も達せたことですし、そうしましょうか」

 ヴェンツェルの言葉にそう返し、カリーヌは杖を手にした。ごくごく普通のタクトである。

「魔法の基礎がイメージだということはわかっていますね? これから使いたい魔法を頭の中で構築してください。『レビテーション』が使えるならば、系統魔法の素質がないわけではないはずですから」
「わかりました」

 ヴェンツェルは頷くと目を瞑り、自身の杖を構える。なぜかガリア製のものが間に合わなかったため、いまはトリステイン製の物を代用品として使っているのだ。

 まずイメージするのは、カリーヌの系統であり、『レビテーション』と同じ風。
 たとえばそれは、アルデンヌの丘を駈けるそよ風。夏の暑い日に肌をなでてくれる心地よい風。あるいは、嵐のように家屋の屋根を吹き飛ばしてしまうほどの突風。
 一口に風と言っても、千差万別の姿がある。それを応用するのが風魔法の基本だ。
 ヴェンツェルは強い風をイメージする。それこそ土で出来た巨大なゴーレムすら吹き飛ばしてしまうほどのものを。
 ただ杖の先に意識を集中したまま、少年は杖を振り下ろす。

 刹那。
 森の木々を揺らす強い風が生まれた。それはどんどん強さを増し………なぜか、カリーヌの周囲だけ豪風が吹き荒れた。
 次々と粗雑な服の部分部分が吹き飛び、カリーヌは悲鳴を上げる。そして、次の瞬間には、彼女の服がすべて空のかなたに飛んでいってしまっていた。

 その身で感じた確かな手ごたえに、ヴェンツェルは信じられない、といった面持ちで目を見開いた。あれだけの風を起こせるのなら、きっと通常の系統魔法とて使うことに支障はないだろう。
 だが。
 次の瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは、なぜか一糸まとわぬ姿となり、ぷるぷると震えながら殺気を孕ませた視線を向けてくる桃髪の少女の姿だった。

「あれ? なにやってるんですか?」

 頭の上に疑問符を浮かべているヴェンツェルは、いったい自分がなにをしたのかわかっていないようだった。カリーヌはみるみるうちに頭に血を上らせ、声にならない叫びを上げる。

「~~~~~!!」


 トリステイン某所。とある森の奥深くで、半径百メイルの森林が消失するという事件が人知れず起きた。そして、それを知るのはたったの二人だけである。









 ●四十三話「ニヴェル攻防戦」









 開戦から二週間。

 ほぼ真っ直ぐにトリスタニアへ侵攻するガリア軍を、トリステイン軍はモンスとトリスタニアの中間点にあるニヴェルで迎え撃つこととなった。

 編成が間に合った諸侯軍を合わせたトリステイン軍の戦力は七千。援軍として北上中のクルデンホルフ軍は二千。トリステイン軍の総司令官はラ・ヴァリエール公爵である。
 超大国の侵略を受けるという国難。そして王直々に任ぜられた以上、彼に断るという選択肢は存在しなかった。
 ただ、彼はメンタル面で非常に大きな問題を抱えている。
 それは何ヶ月も連絡がとれない妻・カリーヌのことであった。彼女はクルデンホルフの嫡男を鍛えるといって、トリステインのどこかへ姿を消してしまったのだ。
 最初は連絡が来ていたのに、ここ三ヶ月はまったく音信不通である。

 ちなみに。本来ならばグラモン元帥か王が指揮を執るはずだったのだが、二人とも体長不良を理由に仕事を公爵へ押し付けたのだった。

 数日の間を置いて、ガリア軍はニヴェルへの攻撃を開始。

 心神喪失気味のラ・ヴァリエール公爵はまずい指揮を乱発し、戦端が開かれてからわずかな期間でトリステイン軍の左翼は総崩れとなった。
 クルデンホルフからの援軍がガリア軍の側面を突いたことでなんとかその場をしのいだものの、司令官があれでは兵の士気も落ちるというものである。


 そして、その隙をガリア軍の最高司令官である大元帥アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュは見逃さなかった。
 一晩で軍を再編すると、再びトリステイン側に猛攻を仕掛けたのだ。
 クルデンホルフは『空中装甲騎士団』で左翼を支えていたが、やはり数が違いすぎた。ガリアの竜騎士隊を圧倒する力を持ちながら、なお地上兵力の劣勢状態は覆せない。
 トリステイン軍は次々と要塞へ向かって押し込まれ始めた。

 クルデンホルフ軍の指揮官であるアルロン子爵は、トリステイン軍のあまりの体たらくぶりに激怒した。
 このままでは『空中装甲騎士団』に損害が出かねない。自国の虎の子の兵力まで投入したのはこの事態に全力で対処するためだというのに、肝心の主力があれではまったく無駄な話となってしまう。

 鼻から湯気を噴出さんとする勢いで子爵は司令室に飛び込んだ。そして、そこで子爵が目にしたのは……しなびた姿の、この国の公爵の姿だった。

「公爵! この非常時になにをしているのですか!」
「……」

 返事がない。ただのしかばねのようだ。

 それから何度も呼びかけるが、公爵はほとんど反応を返さない。どうやら、いろいろと圧し掛かってきたストレスについに耐え切れなくなってしまったらしい。目が死んでいる。
 もうなにも言う気にならなくなったアルロン子爵は、公爵を強引に要塞の上に連れ出した。


 子爵らの眼前では、圧倒的な勢いで進撃を続けるガリア軍に、後退し続けるトリステイン軍の姿があった。
 ガリア竜騎士隊はすでに追い払われているものの、『空中装甲騎士団』も無傷とはいえなかった。ちょうど、モーリス・ド・サックスが搭乗した風竜がガリアの砲兵に攻撃を加えている。
 ラ・ヴァリエール公爵はそんな光景を呆然と眺めていた。いや、それは果たして“見て”いるのかわからない。死んで時間の経った魚のように濁った目だ。

 そんなとき。
 要塞にガリア軍が放ったと思わしき砲弾が着弾し始めた。どうやら、かなり後方から大砲でこちらを狙っているらしい。
 慌てた子爵は公爵を連れて退避しようとするが、そのときには要塞上空に無数の散弾が迫っていたのだ。
 思わず目を瞑り、子爵は死を覚悟する。まさか。せっかく大公に軍の指揮官を任されたのに、こんなところで死ぬのか。

 ……だが。いつまで経っても子爵に死は訪れなかった。

 どういうことだ。まさか、痛みすら感じないほどに自分の体はずたずたに引き裂かれてしまったのか―――そう考え、恐る恐る目を開いたとき。

 子爵の視界には、一体の老いたマンティコアと、それに搭乗する桃髪少女の姿が見えた。つやつやと輝く髪を風になびかせながら、“少女”は落ち行く砲弾を次々と打ち落としていく。
 信じられない。あれはいったいなんだ。そう思ったとき、その細い肩を叩く者がいる。

「アルロン子爵。久しぶりだね」

 子爵の背後にいたのは、剣をかついだ見たことのない少年である。
 金髪の髪に青と赤の月目といえばクルデンホルフの嫡子、ヴェンツェルの特長である。しかしながら、彼は相当な肥満体型であったはずである。目の前にいる細身の少年とは似ても似つかない。

「あ、あなたは……。そ、その。ヴェンツェルさま……、です、よね?」
「そうは見えないだろうけど、一応本人だよ」

 答えながら、ヴェンツェルは戦場を見回した。トリステイン軍の戦況は刻一刻と悪化の一途を辿っている。このままでは、要塞に敵軍が取り付くのは時間の問題だろう。
 ならばどうするか。数では適わない。それならば……。頭を取ってしまおう。

「ミセス・カリーヌ! 敵の本陣まで行けますか?」
「……そうですね。風竜の支援があれば、恐らくなんとか」

 少年の呼びかけに、しばし悩むような表情を見せたあと、マンティコアにまたがった少女は答える。
 彼女の視界にはラ・ヴァリエール公爵の姿が入っていたものの、いまは話しかけるようなタイミングではないだろうと、目を逸らす。
 と、そこへ数騎の竜騎士が現れた。その中央にいるのはモーリス・ド・サックスだ。彼はヴェンツェルの姿を真っ直ぐに捉え、目を爛々と輝かせている。

「ヴェンツェルさま。よくぞお戻りくださいました。不肖ながらこのモーリス、風竜にて助太刀いたしましょう」

 彼は一発で少年がヴェンツェルだと見抜いたらしい。周囲の騎士たちは未だにその意味がわからないらしく、モーリスとヴェンツェルの間で視線をきょろきょろと動かしている。

「ああ、頼むよ。モーリス」

 そう答え、少年は降下してきたカリーヌのマンティコアに乗り込む。老いながらもなおその猛々しさを失わないその幻獣は、見るものに畏怖の感情すら与える。

「では行きましょう」

 少女の一言をきっかけとして、一体のマンティコアと四騎の竜騎士が空を翔けた。
 その光景をただ唖然と眺めていたアルロン子爵はしかし、すぐに周囲の兵士たちに向かって大声で徹底抗戦を告げる。



 *




 ガリア侵攻軍は本陣。大元帥アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュは退屈そうな様子で戦況報告に耳を傾けていた。

 彼はガリア王であるシャルルから、今回のトリステイン侵攻の総司令官に任ぜられたのだ。
 大元帥という、史上数名しかいない名誉職を手に入れたアンリは、もう前線に立つ気などさらさらなく、領地で平々凡々とした余生を送るつもりだった。
 そんな中で舞い込んできたトリステイン侵攻の命令。
 断ろうと思えばできないこともなかったが、自分の長い軍歴の最後を華々しく飾るのも悪くはない、そういう考えから王の要請を受けたのだ。

 だが、まさか。
 その行動が、自分の首を絞めることになるなど……、このときの老将は、まったく想像だにしていなかったのである。





 数騎の『空中装甲騎士団』の風竜に守られながら、カリーヌのマンティコアはガリア軍の上空を飛行していた。

 地上から彼女らを狙う魔法や砲撃が浴びせられる度に、マンティコアはアクロバティックな動きでそれを回避していく。
 振り落とされそうになるヴェンツェルは毎回カリーヌの体にしがみつくことになるのだが、その度にカリーヌは小さな悲鳴を上げた。
 とはいえ、この状況では仕方がない。そう、なだらかな丘の頂点を散々刺激されても、仕方のないことなのだ。いまは非常時なのだから。ええ。

 ガリア軍の竜騎士がときおり妨害を加えてくるが、『空中装甲騎士団』最強の乗り手といわれるモーリス・ド・サックスの敵ではない。次々と打ち落とされるだけだった。

「……あの方、ミスタ・サックスといいましたか。とてもいい腕をしていますね」
「モーリスは陸でも空でもかなり強いんですよ。たぶん、クルデンホルフで彼に勝てる人はいないと思います」

 前列で道を空けていく風竜を見つめながら、二人はそんな会話をする。やがて、くすぐったそうにカリーヌが身をよじるようになった。見ていて腹立たしい光景だった。


 やがて風竜も出てこなくなったころ、いよいよガリア軍の本陣と思わしき軍勢が見えた。
 かなりの兵を前線に出しているためか。はたまたトリステイン軍がここまでやってくるとは思っていなかったのか。本陣の守りはかなり手薄である。

 風竜とマンティコアを発見したガリア兵、とりわけメイジは敵を打ち落とすために魔法を放つ。
 だが、それは焼け石に水の様相を呈している。やがて、風竜の上からモーリスが『クリエイト・ゴーレム』を詠唱、出現した巨大な攻城用ゴーレムがガリア兵を踏み潰していく。
 さらにカリーヌが『カッター・トルネード』で残った兵士を吹き飛ばす。
 いまのカリーヌは体が若いころのそれと同等。そこに長年の経験が加わるのだから、もはやその辺の雑兵の手に負える相手であるはずがない。

 司令官がいると思わしき豪勢な天幕を見つけたカリーヌは、そこへ向かって突進していく。ちょうど、天幕から退避しようとしていた老いたメイジが出てくるところのようだった。

 そのとき、天幕そばの地中から巨大な影が出現。土と同色の長い毛並み、つぶらな丸い瞳……土竜ことジャイアント・モール。
 とはいえ、その大きさはちょっと尋常ではない。ギーシュが召喚するであろうヴェルダンテをさらに大きくしたような個体である。軽く五メイルはありそうだ。
 ジャイアント・モールは老メイジの使い魔らしい。つぶらな瞳を主人にあだなすマンティコアに向けながら、目にも留まらぬ速さで土を巻き上げる。

「ミスタ・ヴェンツェル。このモグラはちょっと厄介なので、わたしが相手をします。あなたは後ろの老人を捕まえてください」
「彼がガリア軍の司令官でしょうか?」
「ええ。恐らくはそうです。先ほどちらっと、軍服についたたくさんの勲章が見えましたから。どちらにせよかなりの高級将校でしょう」
「……」

 腰の剣に手をやりながら、ヴェンツェルはやや悩むような表情を見せた。彼は未だにまともな魔法の訓練を受けていない。いくら相手が老いているからといって……。
 そのとき。彼を見かねたのか、カリーヌが体ごと振り向き、ヴェンツェルの手を包み込むように握り締めた。

「大丈夫です。あなたなら出来るでしょう。……その、予想外に上手でしたし。あ、いや、これは関係ないですね……」

 耳まで赤らめながら、カリーヌは呟く。最後の部分は蚊の鳴くような声ではあったが。
 ヴェンツェルはここでようやく覚悟を決め、杖と『レーヴァテイン』を手にして地上へ下りていく。それを見送ったカリーヌは、ジャイアント・モールへマンティコアを突進させた。



 アンリ大元帥は驚愕していた。まさか、味方が劣勢のときにほんの数騎で突っ込んでくるばか者がいるとは。
 恐ろしいのは、風竜の精悍な顔立ちの青年と、マンティコアに乗った桃髪の少女だ。あの二人は人間離れしすぎている。
 とくにあの桃髪の少女―――風の魔法でわずかな護衛をなぎ払ってしまった。あれはスクウェアの魔法だろう。見かけによらず凶悪な少女だ。
 だが。あの娘は自分の使い魔である土竜のホルンボリが押さえてくれている。逃げるには問題ない。

 しかし……。まさか、自分が天幕から逃げ出すことになるとは。おのれトリステイン。絶対に許さぬぞ……。
 大元帥が呪詛のような言葉を呟いたとき。彼の後方から、高速で迫る物体があるのを感じた。

 まだ追っ手がいるのか―――驚いて振り返ったとき、そこでは、少年が空気を足の裏に集めて大砲の弾のように飛んでくるところだった。手には剣を持っている。

「クルデンホルフのヴェンツェル・フォン・クルデンホルフだ。かなりの名のある将とお見受けするが……。どうか、素直に投降してはいただけないだろうか」
「かっ!! お前のような小童なんぞに名乗る名は無し! 投降などもってのほか! 蹴散らしてくれるわ!」

 そう叫ぶと、老メイジは杖を構えようとする。だが、所詮は老体のそれだった。ヴェンツェルはアンリより早く動き、彼の杖を『レビテーション』で弾き飛ばした。

「……ぐっ! 貴様……!」
「覚悟してもらいます」

 鬼のような表情を浮かべて少年に殴りかかった大元帥だったが、体力で劣っているためになすすべはなかった。
 逆にあっさりと捕縛され、ロープをぐるぐるに巻かれて地面に座らされる。ヴェンツェルは再三名乗るように要求するも、結局彼は折れなかった。
 
 しばらくすると、ジャイアント・モールを倒したらしいカリーヌがやってきた。彼女は大元帥の顔をしげしげと眺めると、見覚えがあったらしく、ヴェンツェルの方を向いてやや緊張した声で告げる。

「驚きました。この方は……ガリア王国で一人しかいない大元帥、テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ殿ですよ。大手柄ですね」
「なるほど……、ってええ!?」

 大元帥。
 ガリア王国の史上でも数名しかいない稀有な存在だ。確かに、それほどの有名人ならば名乗らずともすぐに素性は割れる―――頑なに口を割らなかったのは、せめてもの抵抗だったのだろう。

 アンリを連れて天幕のあった場所に戻ると、モーリスたちが地上に下りてきていた。この辺りの敵兵は一掃したらしい。
 モーリスに大元帥の身柄を任せると、マンティコアに乗ったカリーヌとヴェンツェルは風竜らとニヴェルに向けて帰還するために飛び立った。
 道中、撤退するガリア軍の長い列が見えた。総指揮官と本陣を失ったガリア軍は指揮系統に混乱をきたし、そのせいで臨時司令となった若き将軍はパニックを起こして撤退の命令を出してしまったのだ。
 故に、余力を残したままガリア軍は戦場から後退したのである。


 ニヴェルの要塞に降り立つと、さっそくアルロン子爵が駆け寄ってくる。
 彼女は今回の戦闘の結果を詳細に話してくれる。報告を聞きながら、ヴェンツェルはさっそく大公に連絡をとろうか考えていた。

 一方。
 放心したラ・ヴァリエール公爵の元に、桃髪の少女が歩み寄る。彼女はなんだか不安そうな表情になりながら、公爵の名を呼ぶ。

「ピエール……」

 その声に、公爵はようやくまともな意識を取り戻したようだった。鋭い眼光になり、カリーヌの顔を見つめながら、静かに呟いた。

「……はて。お嬢さん……、誰だったかな」

 刹那。

 ぱん、という乾いた音がその場に鳴り響くのだった。





[17375] 第四十四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/11/01 20:51
 ニヴェルにおける予想外の勝利、そしてガリア軍大元帥の捕縛。
 依然としてトリステイン南部にはガリアの大軍が居座っているものの、編成を完了したトリステイン王軍と諸侯軍が殺到したことによって、敵の侵攻は大いに阻害される結果となっていた。
 なんといっても、大元帥という重要人物を捕らえたことは非常に重大な意味を持っている。そして、それを行ったのがクルデンホルフの嫡子であるということは、巷では大いに話題となっていた。


 トリステインの王都、トリスタニア。

 王直々に功労者へ勲章を授与することが決まり、ヴェンツェルとモーリスは王都へとやってきていた。
 既にモーリスはクルデンホルフ大公権限で男爵へと昇格するということが伝えられている。
 ヴェンツェルにはなにも伝えられていないので、せいぜいが報奨金の授与くらいだろうか。そんな風に考えていた。

 クルデンホルフ家所有の屋敷。客間に腰かけるクルデンホルフ大公は、非常に機嫌がいいようだ。
 ようやく痩せることを決心した息子がそれを達成し、いきなりの初陣でガリアの大元帥を捕らえてしまったのだから。初めて鼻の高い思いをしたものである。
 半年前には城では大事件が起きていたが、いまは落ち着いていた。

 一方のヴェンツェルである。彼は大公の向かい側にあるソファーに腰かけながら、非常に気まずい思いをしている。両隣には刺すような圧力を発する、似たような容姿の少女が腰かけているからだ。

 右隣はカリーヌ。『烈風』カリンとして腕をならした歴戦の勇士である。ただ、いまはわけあって少女のような姿をしているか。
 左隣はルイズ。ラ・ヴァリエール公爵家は三女であり、いまだ覚醒こそしていないものの、伝説の系統『虚無』の担い手である。

 先日、ちょっとしたことでラ・ヴァリエール公爵とカリーヌは喧嘩になった。というより、一方的にカリーヌが切れただけではあるけれども。
 そのせいでカリーヌは家出状態となり、ニヴェルの戦いから一週間経っても公爵邸に戻らなかったのだ。
 「昔散々やらかしてくれたのに、わたしのこの姿を見てわからないのってないわ」と愚痴をこぼす有様である。

 とばっちりを受けたのはヴェンツェルだった。
 王宮から表彰式の通達があったヴェンツェルは、珍しくトリスタニアの屋敷(貴族はその国の首都に屋敷を持っていることが多い)に宿泊していたのだが、そこにカリーヌが転がり込んできたのである。
 衣食住の世話をさせられるわ、母が戻らないことに怒ったルイズが怒鳴り込んでくるわで散々だった。


 ルイズと、見事なまでに若返りしたカリーヌは、ニヴェルの戦いの直前に一度対面している。
 とある事件でカリーヌが森の家を吹き飛ばしてしまったため、修行を中断して一度ラ・ヴァリエール邸に戻ったのである。
 そのときにガリア軍がトリステインに攻撃を仕掛けたことを知り、カリーヌは自分のマンティコアとともにニヴェルへ向かったのだった。最初にカリーヌを母親だと気づけなかったルイズはカリーヌを侵入者呼ばわりし、それをすぐに正体に気がついたカトレアがなだめるという図式になった。
 ヴェンツェルも誰だこいつ状態となったが、かつてマジック・アイテムで痩せた姿を見たルイズは気がついたりしたりする。

 その後すぐにマンティコアで離脱したので、まともな説明などまったくしていない。


「どうせあんたが悪いに決まってるわ。どうすんのよ、お母さまをこんなにしちゃって。なんとかしなさいよ!」
「って言われてもな……」

 謎の液体の入った瓶は、カリーヌが森を吹き飛ばしたときに行方不明となってしまった。なので、それがどうなったのかなどヴェンツェルは知らない。そもそもあれがなんだったのかすらわからない。どうしようもない。
 カリーヌは涼しい顔をして紅茶をすすっている。まったく他人事のような顔である。ヴェンツェルは頭が痛くなった。



 翌日。

 ついに王城で簡単な授与式が行われることとなった。これはマザリーニによる提言で、ニヴェルでの“奇跡的な勝利”を積極的に表彰することで、国威の発揚を狙ったのである。

 なぜか存命のトリステイン王、マリアンヌ王妃、アンリエッタ王女の親子がそろい踏みしている。次々と受賞者らに王が祝辞を述べ、報奨金なり勲章なりを手渡していく。
 モーリスにはマリアンヌ王妃が直々に『シュヴァリエ』を授与していた。

 最後。ついにヴェンツェルの順番が回ってきた。名を呼ばれたヴェンツェルはゆっくりと壇上へ上がっていく。
 久しぶりに会うアンリエッタはまこと見事に美しく成長している。まさに王女さまといった容貌である。
 ギーシュとは仲直りしたのかなあ……、などと思っていると、彼女が笑顔を浮かべながら声をかけてくる。声も素晴らしい。

「ヴェンツェル殿。あなたのニヴェルの戦いでのあなたの働き、まこと誇らしいことですわ。大変な状況にある我が国ですが、きっとあなたのような勇士が国を救ってくださると信じています」

 アンリエッタは真剣な表情で告げつつ、ヴェンツェルが着る服の左胸に徽章をつける。それは『シュヴァリエ』であった。ヴェンツェルは呆けた顔で呟く。

「……これは?」
「シュヴァリエ、です。騎士号ですわ」
「騎士? ……って、これって僕がいきなりもらっていいんですか?」
「はい。功績には、それに見合うだけの褒章を与えなければなりませんから」

 アンリエッタは言う。しかし『シュヴァリエ』である。それだけ大元帥捕縛の意味合いが大きいのだろうか。

「おめでとうございます。どうか、これからもこの国をよろしくお願いしますね」

 難しい顔をして考えていると、アンリエッタが笑顔を向けてきた。ヴェンツェルとしては、勲章よりもこの笑顔のほうが嬉しいなあ、と思ったりするわけである。



 授与式を終えたあとは王城での舞踏会となる。
 しばらく時間が空いたので、ヴェンツェルはどうしようかと悩んでいると、アンリエッタの侍従が声をかけてきた。なんでも、アンリエッタ本人が話をしたいらしいとのこと。
 別にいますぐやりたいこともないので、ヴェンツェルはその提案を二つ返事で受け入れた。
 
 客間でヴェンツェルを待っていたアンリエッタは、彼の顔を見ると微笑を漏らす。やはり美しい。どうしようかとヴェンツェルが言葉を選んでいると、アンリエッタは表情を崩さずに話しかけてくる。

「それにしても、見違えましたね。今日お会いしたとき、失礼ながら本当にあのヴェンツェル殿か目を疑ってしまいましたわ」
「ごもっともです」

 相槌を打ったあと、しばしどう話すか考える。そうしていると、アンリエッタが目を細めながら問いかけてくる。

「それで……あなたが仰りたいことは大体わかります。ギーシュ殿との関係のことでしょう?」
「……」

 いきなり図星を突かれたヴェンツェルは狼狽してしまった。しかし言い当てたアンリエッタはとくに表情を変えず、淡々と言う。

「確かに彼は才能があります。いずれはこの国に歴史に残る人物となるでしょう。ですが……、『英雄』にはなれません。それこそ、この……」

 そうアンリエッタが言いかけたとき、客間に桃髪の少女が飛び込んできた。ルイズだ。カリーヌの姿はないようである。

「姫さま! こんなところにいらしたのですね! ひどいですわ、表彰式が終わったらわたしとお茶をしてくださると仰られていましたのに!」

 ヴェンツェルには絶対に使わないような仰々しい口語で、ルイズはアンリエッタに駆け寄る。ちなみに、ラ・ヴァリエール公爵も報奨を受けていたようであり、ルイズはそれにかこつけて王城にいるのだ。
 ほんの一瞬、アンリエッタの目が物凄いことになったが、桃髪の少女はそれに気がつかない。王女はいつもの表情に戻り、“王女さま”然とした対応に出る。

「ええ、そうですね。では、参りましょうか」






 夜である。舞踏会である。

 礼装は、大公が青年時代に着用していたものを借りることで対応した。トリスタニアの屋敷に保管されていたのだ。これがないと舞踏会のような洒落た場には出られない。

 クルデンホルフ家でトリスタニアに来ているのは大公だけだった。
 勲章こそ貰えど、とくに貴族たちと話すことのないヴェンツェルは、体型が変わる前と同じようにホールの隅っこで食事にありついている。
 テーブルの真ん中に角羊のスープが置かれていたので飲む。ちなみに、それはアンリエッタの好物である。
 肉とはしばみ草を口いっぱいにほうばっていると、見事なピンク色のドレスを身にまとった少女がやってきた。カリーヌだ。男装時代のように髪をまとめあげ、ボリュームのある髪がふわふわと揺れている。隣にはルイズの姿もある。こうして見ていると、二人は姉妹のようにしか見えない。

「でも……。はぁ、本当に信じられないわ。なんでお母さまが“ああ”なっちゃったのかしら」

 ヴェンツェルから一つ離れた席に腰かけたルイズは、いまは姉妹としか言いようのない母を見つめる。
 料理を皿によそるその姿は、どこからどう見てもそこら辺の幼い貴族の子女である。とても三女の母であるなどとは思えない。

「わからないんだよ、本当に。たぶん魔法薬の一種なんだろうけど、どうしてあんなものがあったのか……」

 もし可能性があるとすれば……、アリスだろうか。彼女、なんだか数年前からいろいろな魔法薬の研究をしていたように思うのだ。異端認定されなければいいのだけれどと思うものである。

 視線を流してみる。モーリスは相変わらず女性に人気があるようで、かなり頻繁にダンスのお誘いを受けていた。まあ、端でこそこそとしているヴェンツェルはそもそも見つからないのだけれど。
 カリーヌは皿に盛ったパイ包みを食べている。体は子供、頭脳は大人というフレーズが思い出されるが、カリーヌの場合は精神にも影響が出ているような気がしないでもない。

 さて、これからシャルルはどう出るのか……。

 窓越しから見える天に昇った双月を眺めつつ、ヴェンツェルは誰にも聞こえないほどの声量で呟いた。





 *





 ニヴェルでの敗戦以降、トリステイン南部の占領地で一向に動きを見せないガリア軍に対し、トリステイン側は反撃に出ることにした。その第一歩が南部で展開している軍の再編である。
 ちなみに、ガリアのクルデンホルフ国境地帯は軍備禁止地区である。ゲルマニアを刺激しないためか、条約通りに軍はいない。つまり、クルデンホルフは北からの攻撃にだけ備えておけばいいのだ。

 ガリア軍が占領しているモンス市への攻撃に集まったクルデンホルフ軍は、増員分も含めて二千五百。
 数はそこそこながら、『空中装甲騎士団』と、なぜか『烈風』カリンがいるので、単純な戦闘力なら他のどの軍団よりも高い。

 数日を要したのち、総勢一万のトリステイン軍は再編を終え、いよいよガリア軍に対して攻撃を加えることとなった。軍の左翼集団にはクルデンホルフ大公軍、ブリュージュ伯爵軍の計三千名が配置。
 中央の主力は、ド・ポワチエ将軍指揮下の四千名の王軍となった。魔法衛士隊などの戦力は王都に残されたままである。
 ラ・ヴァリエール公爵は配下の公爵軍と共に王都の防衛についている。というより、王によって前線から外された。前回のまずい指揮はさすがに看過できなかったらしい。


 ヴェンツェルは戦場に向かう軍用の大型馬車に乗りながらメイドの入れたお茶を飲んでいた。
 「前線をきちんと見て、経験を積むのもいいだろう」という大公の一言がきっかけである。今回は大公自身が指揮を執るため、アルロン子爵は補佐に回っている。
 大公本人は、ド・ポワチエ将軍らと作戦に関する会議を行うため、中央集団の方にいるのである。 

 少年と同じ馬車にはカリーヌが乗っている。当初彼女の姿を見た大公は驚いていたが、すぐに平静さを取り戻した。まるですでに前例を見ていたかのように。

 今回の彼女の参加はマザリーニ枢機卿の要請によるものである。
 枢機卿はカリーヌの姿を見てもとくに驚かず、それどころかあっさりと受け入れた。どうやら大公からある程度の話が行っていたらしく、冷静にカリーヌへ戦闘へ参加するように提案したのだ。
 モンスは依然として二万以上のガリア軍が占領を続けており、数で半数にも満たないトリステイン側としては、メイジが一人でも欲しかった。
 まして一人で一個大隊にも劣らぬほどの戦闘力を持った人間ならば、なおさら。

 大公の参謀としてジョゼフもやってきていた。彼はヴェンツェルと同じ馬車で同じようにお茶を飲んでいる。カリーヌの件はやはり知っているらしく、なにか思うところがあるのか、含み笑いをしていた。
 「少年も大変だな」という短い一言には、それはもういろいろな意味が含まれていそうだ。
 今回の戦争。本来ならば彼は静観を決め込むはずだったが、亡命先のトリステインが存亡の危機に立たされているのもまた事実。大公の頼みでこうしてやってきていたのだ。

「しかし、少年。よくそこまで体型が変わったものだな」
「ミセス・カリーヌのおかげですよ。僕一人ではどうしようもなかったでしょうし」
「ふむ」

 ジョゼフは頷くと、カリーヌに視線を向けた。だがすぐに視線に逸らして窓の向こうを見つめながら、ヴェンツェルに向かって告げる。

「少年。今回のガリア軍の動きには気をつけたほうがいいぞ。シャルルはな……ときおり、とんでもない禁じ手を使ってくることがある。根は真っ直ぐなやつなんだが、勝利への執着心はとても大きいからな」

 長年の付き合いであった弟のことを考えているのか。ジョゼフは、静かに目を瞑った。






 現地に到着したトリステイン軍がまず行ったのは、改修されたモンス要塞や市街地に立てこもるガリア軍に対する攻撃だった。

 ド・ポワチエ将軍の軍団が攻城用ゴーレムで要塞の一点に集中攻撃を浴びせている。クルデンホルフ軍は左翼から自国製の大砲でそれを援護する。
 ガリア側も散発的に反撃してくるものの、それはほとんどトリステイン側に被害を与えるものではなかった。

 攻撃の様子を後方で視察していたジョゼフは、すぐにその違和感に気がついた。偵察兵の情報によれば、実際に確認できたガリア兵の数が当初の想定より遥かに少ないのである。
 要塞から攻撃してくるのもガーゴイルばかり、という前線からの報告も上がり始めていた。
 これはなにか臭う。その思いは隣で指揮を下していたクルデンホルフ大公やド・ポワチエ将軍も同様らしく、一度軍を下がらせて様子を見ようと合議した、そのときだった。


 モンス要塞が、轟音を立てて大爆発を起こしたのである。


 次の瞬間には、巨大な火の塊と化した城壁が、次々とトリステイン軍の上空へ降り注ぐ。
 メイジのいない平民主体の部隊は火の塊を防ぐ手段などなく、次々と真っ赤に焼けた石の塊にその身を焼かれていく。

「ヴェンツェルさま、失礼します!」

 かなり前方に出張っていたヴェンツェルも、降り注ぐ火の塊によって命の危険に晒されていた。
 彼がモーリスに引っ張り上げられて風竜に乗せられた直後、先ほどまで立っていた場所は火の海と化している。
 ふと横を見ればカリーヌも離脱に成功していて、黒々した煙を噴き上げる要塞を、呆然と見つめていた。


「ガリアにしてやられたようですな……」
「ええ。まさか、要塞を自爆させるとは思っていませんでしたな」

 しばし呆然としながら、しかし落ち着き払った様子でクルデンホルフ大公とド・ポワチエ将軍は顔を見合わせる。
 ジョゼフは相変わらずなにかを考えていたようだったが、すぐに顔を上げる。そして大公らに告げた。

「すぐに撤退の準備をすべきです」
「どうしてだね」

 撤退、という言葉にポワチエが反応した。将軍は、ジョン・シェフィールドなどと名乗る、この身元不詳の怪しい男をまったく信用していない。
 確かに才能はあるようだったが、それでもわけのわからない人間には違いないのだ。大公が連れてきたから大目に見ているものの、あまり快くは思っていない。

「偵察兵、そして前線からの報告……、ガリア軍の本隊はどこかに潜んでいるはず。要塞を自爆させ、こちらに大きな被害が出た。これは彼らにとって最大のチャンスでしょう」
「……う、ううむ。しかし……」

 ポワチエがうなった、そのときである。空から風竜とマンティコアが現れ、風竜の青年が焦った口調で報告してきたのだ。

「『空中装甲騎士団』のモーリス・ド・サックスがご報告申し上げます! 西の空からガリア両用艦隊と思わしき大艦隊が、さらに多数の地上兵力がこちらへ接近しているのを確認しました!」
「なんだと! それは間違いないのか!」

 ポワチエが驚愕の表情を浮かべる。クルデンホルフ大公は伝令の家臣を本国へ飛ばせると、隣の将軍に告げた。

「……やむを得ませんな。急ぎ撤退しましょう。態勢を整えないことには、一方的に蹂躙されるだけです」


 こうして、一度の戦いで千名近い戦死者を出したトリステイン軍は、大きく後退せざるを得なくなったのだった。









 ●第四十四話「ラ・ベル・アリアンスの決戦」









 後退を続けたトリステイン軍は、“奇跡の勝利”によって守っていたはずのニヴェルを失った。

 ガリア軍は王立両用艦隊を出撃させ、四万人に膨れ上がった地上兵力の支援を行わせた。そして、その両用艦隊の旗艦で直接指揮を執っていたのは、ガリア王シャルルだった。
 艦隊提督であるピエール・ド・ヴィルヌーヴがその隣に立ち、悠然とそう遠くない距離にあるトリスタニアを見下ろしている。
 シャルルは残されたトリステイン軍を殲滅し、トリスタニアに降伏を迫るつもりだった。王女でも人質にとってしまえば、彼らは要求に応じ続ける。

 勝たなければ。勝って名声を手に入れなければ、自分の王座が脅かされる。それは絶対に避けたい。自分は兄に手をかけて王座についたのだから。
 眼下の光景には目もくれず、シャルルは攻撃の準備に備える兵たちの慌しい音に耳を傾けていた。

 トリスタニア南方のラ・ベル・アリアンスにまでトリステイン軍が後退する羽目になったのは、モンス要塞の自爆という奇策と、この両用艦隊、そして一度に投入された四万人の兵士の猛攻が原因である。
 数十隻の戦艦から放たれる砲弾の雨の前に、トリステイン軍は既に半数の兵を失っていた。退却が遅れた軍団は万単位のガリア兵に押しつぶされ、消息が途絶えた貴族は後を絶たない。

 王自らが前線に出張ってきたこと、そしてかつてない規模での大兵力の投入。超大国ガリアが本気で小国トリステインを潰すつもりなのは、もう間違いなかった。

 対するトリステイン側が増員出来たのは平民ばかりの三千名であり、もうほとんど勝ち目はないと言っても過言ではない。
 頼みの綱のアルビオン艦隊は、マザリーニが周囲の反対を押し切って風石の無償供給を行っても稼動できたのはたったの一桁。係留地はダングルテールに新設した港。間に合うかは果てしなく疑問だった。


 大公はいつの間にか本国に戻ってしまった。残されたヴェンツェルは、ラ・ベル・アリアンスのクルデンホルフ陣地にある天幕でジョゼフと共に戦況図に目を通している。

 破竹の勢いで北上を続けるガリア軍。一方、疲弊しきって士気がガタ落ちの自軍。
 トリステイン艦隊は稼働率が著しく低く、完動時のアルビオン艦隊に匹敵する大艦隊に対抗できるだけの兵力など、あるはずがない。
 ジョゼフはうなっている。退却時、ガリア艦隊が虐殺行為を働いたのを目の当たりにしたからだ。抵抗できない平民の兵士にすら、祖国は容赦なく砲弾を浴びせた。
 彼は直感的にガリア軍の指揮官がシャルル本人であることを見抜いていて、だから余計にやるせない気持ちで一杯だった。


 重苦しい雰囲気に耐えかね、戦況図を放り出したヴェンツェルは天幕を出ることにした。周囲は負傷した兵士らでごった返し、とてもではないが戦争をするような状況ではなくなっている。
 天幕のすぐそばでは、カリーヌがマンティコアの毛の手入れをしていた。老体の幻獣は丁寧に櫛を梳かれるのが気に入っているらしく、目を閉じて心地よさそうに寝そべっている。

 戦勝気分から一転、あっという間にトリステインは追い詰められている。国としての地力の差を思い知らされる場面だ。多少不景気だろうと、あれだけの軍を動かせるのだから。
 ラ・ベル・アリアンスは丘の上にある。西の低地を見つめれば、それこそ山のような数のガリア兵たちが突撃のときを今か今かと待ち構えている。きっと、艦隊の準備が終わり次第、艦砲射撃が始まるのだろう。そして地面が捲れ上がるほどの砲撃の次は、凄惨な地上戦だ。

 ヴェンツェルとしては戦争なんてまっぴらごめんである。しかし、敵が攻めてくる以上は守らなくてはならない。
 トリスタニアには見知った顔もいる。彼らは自分の身を守る力がない。もし王都が陥落してしまえば……。それだけは阻止したい。
 じっと、『レーヴァレイン』の柄を握り締める。覚悟なんてものはない。しかし、もう敵は目前に迫っているのだ。もしかしたら一時間後にはヴェンツェルなどただの屍になっているかもしれない。
 そう思うと身が震えるが、もうここまで来てしまったのだから逃げ出すこともできない。
 どちらにせよ、ここで敵を食い止めなければ終わりなのだ。クルデンホルフの家族を守るためにも、ここはせいぜい派手に死んでやるしかない。


 だが、本当にこのまま、ただむざむざと討ち死にしていいのだろうか?


 ―――どうせ死ぬのならば、一人でも多く道連れにしてやるべきではないのか。たとえば、あの空に浮かぶ玩具だ。地を這う蟲共だ。自分にはそれが出来る。ならば……。


 握り締めた柄から、なにかがゆっくりとこみ上げてくる。ヴェンツェルのなかで、なにか黒いモノが渦巻き始めた、そのとき。



「どうしたのですか?」

 見れば、カリーヌが隣にやってきていた。彼女はちょこんと草地の上に腰かけると、ヴェンツェルにも座るように声をかける。
 すると、少年の左目がどす黒い赤に変色しかけていたのが、いつもの明るい赤色に戻る。

「……誰でも、不安になることはあります。わたしだって、昔は愚かなことをして処刑されそうになったこともあったのですよ。とても不安でした。でも、そのとき助けに来てくれた人たちがいたんです。王命に背く……、それがどれだけのことかわかっていながら」

 ブラシをくるくると手でもてあそびながら、カリーヌは続ける。

「絶望的な状況でも、希望を見失ってはいけません。きっと活路はあるはずです。だから……」

 カリーヌの言葉を聞きながら、しかし彼女が震えているのがわかった。化け物染みた戦闘力の『烈風』カリンといえど、所詮は個人に過ぎない。圧倒的な戦闘力を持った“国家”に対抗できる存在ではない。
 急転直下のこの状況。いかに歴戦の勇士といえど、やはり恐怖するなと言うほうが酷だろう。
 なんだか、そんなカリーヌが無性に愛おしく見える。半年間を共にし、彼女のいろいろな面を見てきたが、彼女はどうしてどうして、ときおり妙に可愛らしさを見せるのである。
 相手は人妻で五十……と思っても、その感情は湧き出てくる。鉄の規律だけではない、別の側面を知っているのだ。

 なんとなく、カリーヌの細い肩を引き寄せる。一瞬ぴくりとその身が強張るが、すぐにやわらぐ。そういえば、あの日もこんな感じだっただろうか、などと思ったりするものだ。
 ばれたらいろいろな方面から糾弾されるんだろうなあ、と思いつつもやめられない。まるで麻薬のようだ。一度のめり込むと、容易にそこから脱することはできない。
 吊り上がり気味の潤んだ大きな目が間近に見える。小さな、しかしふっくらとした淡い色の唇がある。まっしろな肌がそこにはある。暖かな吐息が漏れた。
 思わず顔を寄せると……。

「感心しないな、少年。さすがにこの場所でご夫人といちゃつくのはどうかと思うぞ」

 聞きなれた声がしたので、慌てて顔を離して飛び上がった。見れば、ジョゼフが難しい顔をして立っている。

「……」

 直後、まるで茹でタコのように顔を真っ赤にしたカリーヌは、なにも言わずに立ち去ってしまった。


「軽率でした。すみません」
「……まあ、若いうちはいろいろなことがあるさ。それは仕方のないことだよ。おれも昔はやんちゃをしたからな……」

 ヴェンツェルの言葉に、ジョゼフは苦笑しながら言う。なんだか遠い目をしているようなのが気になった。
 いったいどうしてやってきたのかと言えば、ガリア軍から半刻後に攻撃を仕掛ける旨の文章が送られてきたらしいのだ。つまり、もうすぐ敵の攻撃が始まる。

「……ミスタ・ジョゼフはどうするのですか?」

 ジョゼフはトリステイン人ではない。亡命した身とはいえ、ガリアの王族だ。非常に難しい立場にいるとしか言いようがない。
 だが、ヴェンツェルの予想に反し、青髪の美髯が言い放ったのはたったの一言だった。

「あいつを一発殴りにいく。それだけだ」




 *



 
 ついに、ガリア軍による総攻撃が始まった。トリステインは老朽化した船を敵艦隊にぶつけて対抗しようとしたが、そんなことが出来るわけもない。あっという間に沈められてしまう。

 丘に三層に渡って建造された、急ごしらえの城壁にガリア軍が殺到する。いきなりすべての兵が来ることはないが、それでもトリステイン軍と同数以上の兵たちが突入してくるのだ。
 土メイジの作り出したゴーレムが兵をなぎ払う。だが、それはガリア艦隊の放った砲弾によってすぐにばらばらに爆散してしまう。

 後方の陣地は、それこそ雨のような激しい砲撃に晒されている。地上部隊に攻撃されるまでもなく、次々と損害が増していく。カリーヌやモーリスはあえて前線に出ずに飛んでくる砲弾の処理をしようとしていたが、ときおり飛んでくる地上からの攻撃と同時にさばききれる数ではない。また一発が着弾し、天幕が吹き飛んだ。


 ガリア艦隊旗艦『シャルルマーニュ』で、王であるシャルルは退屈そうな様子でその光景を眺めている。命令を出したのは彼本人だというのに、その表情は底冷えするかのように暗い。
 いくつもの戦場を見てきたヴィルヌーヴ提督ですら冷や汗を浮かべるようなあまりにも悲惨な光景だというのに、隣の王はただ涼しげな顔をしているのだ。

 シャルルが兄を殺害した、という噂は常に流れていた。それでも最初のうちはよかったのだ。
 なにせ、民衆の大部分がシャルルの戴冠を望み、ジョゼフは魔法が使えないという理由だけで母に冷遇され、貴族や民衆の非難に晒されるほどであったのだから。
 ところがどうだ。実際に王になったシャルルは、周囲の貴族を引き留め続けるために八方美人的な政策を連発し、国の財政をどんどん追い込んでいった。その果てがリュティスにおける民衆の蜂起である。あれは貴族が扇動するまでもなく、いずれは起きていた事案だろう。
 ヴィルヌーヴはあくまでも軍人である。政への関心は薄い。だからこそ、こうして提督の地位まで上り詰めたのだ。

 そうこうしているうちに、ついにトリステイン軍の陣地が二層目まで破られた。もう戦線の崩壊も目前だろう、提督がそう考えたときだった。

「報告! 北東より接近する船影があります!」
「なに?」

 この期に及んでやってくるばか者がいたとは。大人しくゲルマニアにでも逃げていればいいものを。
 それは、八隻ほどの艦艇だった。掲げられた旗はアルビオン王立空軍のもの。どうやらダングルテールの港から出航した船が間に合ったらしい。だが、四十隻以上のガリア艦隊に対抗するには、あまりにも少なすぎる数だった。
 縦一列に展開するガリア艦隊に対し、アルビオン艦は横一列で突っ込んでくる。このまま艦列に強引に割り込んで分断するつもりなのだろうが、そうはいかない。
 ヴィルヌーヴは前列の艦艇にアルビオン艦の撃沈を命じ、旗艦はそのままの位置で待機させることにした。

 だが。予想以上の速度で接近を続けるアルビオン艦に対し、ガリア側は地上へ砲を集中させているせいか、あまり効果的な攻撃を行えなかった。やむを得ず、一部の艦に地上への砲撃を停止させ、空中戦に移行させる。
 こんな時間稼ぎなど、するだけ無駄だというのに―――提督がそう考えたとき、再び見張りの兵から報告が飛び込んでくる。

「提督! 南南東より新たな艦隊が出現! 二列になって突っ込んできます!」

 今度はいったいどこのばかだ。そう思い、雲の隙間から現れた艦隊を目にした提督は、我が目を疑った。二十隻ほどの艦列の最後部に位置する戦艦に、目が釘付けとなってしまった。
 でかい。とにかくでかい。この旗艦を一回りも大きくしたような船だ。あれほどの大型艦は見たことがない。
 そして、旗を見るにクルデンホルフの艦隊だとすぐにわかる。まさか、小国と揶揄されるトリステインよりもさらに小さいあの国が、明らかに身の丈を越えた艦隊を保持しているなどと考えるものか。

 二列のクルデンホルフ艦隊は、縦一列のガリア艦隊を分断するために進撃してくる。
 すでにアルビオン艦隊に釘付けとなっている前列艦は動かせないため、ここにきてヴィルヌーヴ提督は、旗艦を含めたすべての艦に地上への砲撃を停止させた。

 だか、すでに時遅し。猛烈な速度で突っ込んできたクルデンホルフ艦隊はガリア艦隊を分断し、一分に一発という驚異的な速さで砲撃を加え始めた。ガリア艦が二分に一発なのに対し、実に二倍もの回数の砲撃を行っているのだ。もはや訓練でどうにかなるレベルではない。
 分断されたガリア艦隊の前半分は、アルビオン艦とクルデンホルフ艦に挟み撃ちにされる形となり、次々と撃沈されるか、ほうほうの体で戦線から離脱することを余儀なくされた。


 クルデンホルフ両用艦隊旗艦『リュクサンブール』艦上では、艦隊の指揮を任されたホレーショ・オブ・ネルソンが次々と変化する戦況に対応すべく指示を下している。
 彼の立てた作戦『ネルソン・タッチ』は、縦一列になって侵攻する敵艦隊のわき腹を突くというものだ。先行していたアルビオン王立空軍司令官、ボーウッド指揮下のアルビオン艦隊も艦列の分断を図ったようだが、まとまった数がなく、横一列で実行するのはいささか無理があったらしい。
 提督の目論見どおりにガリア艦隊は寸断され、徐々にこちらが押し始めている。これならばなんとか艦隊は沈黙させられる―――そう考えたときだった。

「ネルソン提督、あなたの命はもらいますよ」

 いつの間にか、眼前に一人の男が立っていた。気味の悪い木製の仮面を付けた男の瞳は、真っ直ぐにネルソンを捉えている。仮面の奥の瞳は見えないというのに、とてつもない不快感を覚えさせられた。

「なんだ、貴様は! どうやってここに……!」
「一応、名乗っておきましょう。私はヤシイセン・テハレオ。ベルゲン大公国は特務傭兵隊の隊長を務めさせていただいております。……まあ、私“個人には”まったく無意味な肩書きですがね」

 言うなり、男は杖を構える。次の瞬間には彼の体はネルソンの眼前にあり、首筋が狙われた。だが、それは突然後方から飛んできた風の刃によって阻害されてしまう。
 風は目にも留まらぬ速さだ。ネルソンはしばしなにが起きたのか認識できず、狼狽して立ち尽くしてしまった。
 瞬時に後退し、しかし風によって衣服の一部を切り裂かれていたテハレオは、心底驚いたといったような口調で問いを発する。

「……ほう。この私の動きに反応できる方がいるとは。ぜひ、お名前をお聞かせ願いたいものです」

 呼びかけに答えたわけではないのだろうが、果たして、そこに現れたのは一人の青年だった。魔法衛士隊の制服に身を包み、手にはレイピアのような形状の杖を保持している。

「魔法衛士隊はグリフォン隊の副隊長、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドだ。宰相の命によりネルソン提督の護衛を務めている」
「……ほう、あなたが! くくくっ……、まさかこんなところで『原作の人物』にお会いすることが出来るとは……! 殺しがいがあるというものだ!!」

 なにを考えているのか。瞳に狂気を浮かべ、男はワルドに飛び掛る。それはあまりにも速い。普通の人間ならば、絶対に捉えることのできない速度だ。そう、“普通の人間ならば”。

 次の瞬間、ワルドはテハレオよりも速く動いた。彼は風のスクウェアであり、その中でも突出した才能を持っている。驚くテハレオの『ブレイド』をレイピアで受け流し、そのまま懐に飛び込んだ。
 レイピアで敵の体を貫いた若き魔法衛士は、やや早口な口調で告げる。

「テハレオ、と言ったな。確かにきみは速い。だけどそれまでだ。きみの中にある“驕り”がぼくに対する油断を生み出した。なぜだか、きみはぼくに勝つつもりでいたようだが―――それは、大きな間違いだ。自らの実力をはかり違えた者に後塵を排すほど、ぼくは甘くない」

 直後、猛烈な電流が発生。それは風の魔法、『ライトニング・クラウド』だった。
 テハレオの体から、煙と肉の焦げるような臭いが噴出し、それと同時に男は力を失った。そして、甲板に倒れこむ。

 もう、二度と彼が立つことはない。




 *




 空の上で趨勢が決まりかけていたころ。地上では、艦砲による支援を受けられなくなったガリア地上部隊が、次々と前進を始めていた。
 地上部隊の指揮官は、ニヴェルの戦いで撤退命令を下した若き将軍である。血統だけしか取り得がないと言っても過言ではない彼は焦り、兵站を無視した大軍による殲滅戦を選んだのだった。

 だが、ガリア艦隊に代わって地上に攻撃を加え始めたのはアルビオン艦隊だった。ガリア軍の陣地には次々と砲弾や爆弾が投下され、なすすべもない兵たちが犠牲になっていく。

 そして、彼らにとってさらに恐るべき事態が起きた。クルデンホルフ大公が、自ら砲亀兵を率いて戦場に舞い戻ったのである。
 砲亀兵というのは、四メイルほどの大型の陸亀にカノン砲を搭載した兵器である。概念としては自走砲に近い。
 遠距離から、二十体ほどの砲亀兵が背中のカノン砲を次々と発射。空から陸から砲撃を浴びせられ、ガリア軍の被害はどんどん増していく。

 陣地の第三層付近で、突入してきたガリア兵ともみくちゃになっていたヴェンツェルは、父の出現に驚いた。
 本国に戻っていたのはこのためだったのか……、と感動するのもつかの間、槍を持ったガリア兵が突っ込んでくる。慌てて右手で杖を構え、『レビテーション』で槍を弾く。丸腰になったところを剣でぶったたいて気絶させた。

 徐々に展望は開けてきたが、満身創痍のトリステイン軍はもうあまり持ちこたえられないだろう。一気に敵を追い込むには、やはり頭を潰すしかない。

 ヴェンツェルは周囲を見回した。すると、ジョゼフがなにやら竜騎士の一人に詰め寄っている。ガリア艦隊の旗艦に行かせろ、という言葉が聞こえた。
 恐らく、ジョゼフは敵の旗艦に乗り込むつもりなのだ。だが、どうして。
 頭に疑問を浮かべたまま、二人の元へ走る。

「ヴぇ、ヴェンツェルさま。なんとかしてくださいよ、さっきから敵の旗艦に連れて行けって……」
「ミスタ。この風竜は傷ついています。混戦状態の空を飛ばせるのは、無理でしょう」
「だが、少年。おれはいかなくてはならないんだ。このままでは……。恐ろしいことが起きる。なぜだかわからないが、嫌な予感がするんだ。だから、おれはあいつの、シャルルの元へ……」
「シャルル? ガリア王が、ここに?」

 ヴェンツェルは驚愕の表情で呟いた。王が直接出てきている? なら、虐殺まがいの命令を出していたのは……。

「……わかりました、ミセス・カリーヌ、モーリス!」

 呼びかけると、すぐにマンティコアに乗った少女と風竜の青年が降下してくる。ずっと砲弾や矢、魔法を防いでいたせいか、肌にはうっすらと汗がにじんでいる。
 とりあえず、敵の旗艦を目指す主旨の話をすると、あからさまにカリーヌは眉をひそめた。

「敵の旗艦に突入する、ですか……。でも、前回のようには行きませんよ。あのときは敵の守りが薄かったからなんとかなったのです。今回は旗艦、まして乗っているのが王だなんて…」
「行きましょう、ヴェンツェルさま。このままでは我が軍は持ちません。絶対的に不利な状況を打開するには、それしかないでしょう」

 慎重なカリーヌと違い、モーリスはやる気満々のようだった。それを見た桃髪の少女は、仕方ないという風に首を振る。

「まったく……。どうしてこう、無茶なことが好きなんでしょうね、男の子は……」


 いつかのようにマンティコアと風竜は空を翔ける。ただし今度は二体だけで、敵の“要塞”とも言うべき巨大艦艇に向かって。


 マンティコアにまたがったカリーヌとヴェンツェルは、ひたすらにガリア旗艦『シャルルマーニュ』を目指していた。すでにガリア艦隊の陣形は崩壊し、無傷なのは旗艦一隻だけと言っても過言ではない。
 汗をかいていたカリーヌは恥ずかしそうに身をよじるが、いまは非常事態である。汗などにかまっている場合ではない。わざと密着して悶えさえているわけではない。ええ、そうですとも。

 予想していた妨害はなく、幻獣と風竜はあっさりと『シャルルマーニュ』艦上に取り付いた。慌てた兵士らが攻撃を加えてくるものの、それはカリーヌが風を起こして防ぐ。そしてモーリスが『錬金』で兵の銃を使い物にならないようにしてしまい、抵抗する能力を失った兵たちはヴェンツェルに殴り倒される。

 艦上の奥には、一人の壮年の男性と年老いた貴族が佇んでいる。幻獣を目にした老貴族は、慌てて杖を構えた。


「シャルル」

 ジョゼフの呼びかけに、それまで“どこを見ていたのかわからない”男が、はっ、としたような表情になった。急に瞳に精気が戻ったかと思えば、次の瞬間には呆然と呟いた。

「に、にいさん。どうして?」

 ぼくが殺したはずなのに、という言葉はシャルルの喉の奥に消える。

「シャルル。もうやめるんだ、こんなこと。お前のやっていることはただの殺戮でしかない。それで得られるものなんて、なにもないんだ」
「……ふ、はは、おかしいな。ぼくも焼きが回ったかな……、死んだにいさんの幻影が見えるなんて」

 自嘲めいた、乾いた嗤い声を上げながら、シャルルは視線を明後日の方向へ向ける。そして、呟いた。認めるつもりがないのだ、彼は。兄が生きているなどと。

「ヴィルヌーヴ卿。“あれ”を使え。『原子の兄弟』が作ったものだ」
「へ、陛下。あれはサン・マロンの周囲を丸ごと吹き飛ばしてしまった、たいへん危険なものです。そんなものを実際に使うわけには……」

 ヴィルヌーヴ、と呼ばれた老メイジは王の命令に異議を唱える。だが、王はそんな老メイジをぎろりと睨みつける。

「卿。わたしはガリア王として命じているのだ。一介の貴族であるきみが、その大命に異を唱えるというのか?」

 ヴィルヌーヴはしばし悩み、そして告げる。

「……陛下。今日まであなたに黙ってついてきましたが、それだけは看過できませぬ。いまこの場にて、わたしは両用艦隊提督の職を辞します。罰はなんなりとお与えください。しかし、わたしにはあの兵器の使用だけはどうしても見過ごせないのです」

 それだけ言い、老メイジは艦上から去っていく。あとには、王であるシャルルだけが残された。

「くそっ……! またか、またぼくの元から去っていくのか! どうしてだ。あれだけ金をばらまいてやったのに、あれだけ融通を図ってやったのに、どうしてどいつもこいつもぼくから離れていくんだ。なんでぼくは……、ぼくは、ガリアの王なのに!!」

 だん、とシャルルは近くの船体を拳で打ちつける。

「シャルル。思い出せ。どうして俺たちは王になろうと思ったんだ。王家に生まれたからか? 違うだろう。おれたちは追ってたんだよ、あの親父の姿を。立派な王になって、民衆から慕われるよき政治を行う……。決して自己満足のためじゃない。貴族の利権のためじゃない、そうだろう? なあ、シャルル……」

 ジョゼフは弟に問いかけながら、ゆっくりと歩み寄って行く。なだめるように、ときに叱るように。だが、シャルルはまだ現実を受け入れる気がないようだった。

「……黙れ黙れ黙れ、にいさんの亡霊がっ!! 死んだはずなんだ、にいさんは! ぼくが、ぼくが、殺した―――」
「馬鹿野郎っ!!!」

 その瞬間。

 振りかぶったジョゼフの拳が、シャルルの頬にめり込んだ。細身のシャルルは吹き飛び、背後の樽の中にその体ごと突っ込む。

「おれは死んじゃいねえ! ここにいるだろうが! なんでそれがわからないんだ、なあ、シャルル!」

 思わず叫ぶジョゼフに、樽の中から飛び出してきたシャルルが下から突き上げるような拳を見舞う。

「殴った―――よくも殴ったな、にいさんにもぶたれたことないのにっ!!」
「ああ殴ったさ、おれが殴った! お前がおれを認めるまで、何度でも殴ってやるよ!!」

 そのまま二人は掴みかかって、殴りあいの喧嘩を始めた。魔法など使わない。純粋に素手での争いだ。相手を罵り、言いたいことを好きなだけ言い合い、拳を顔面にめり込ませる。
 鼻が折れて血が吹き出ようとも躊躇しない。お互いが本音を叫びながら、まるで聞き分けのない子供のように互いを痛めつけあった。

 そんな様子を、ヴェンツェルとカリーヌは呆然と眺めていた。モーリスは先ほどの老メイジを初めとした船員の捕縛に向かっているため、この場にはいない。

「止めたほうがいいんでしょうか、これ……」
「好きなだけやらせてあげましょう。きっと、いままでああやって喧嘩をしたことなんてないんですよ。だって……」

 少年が最後に発した言葉は、隣のカリーヌにしか聞き取ることが出来なかった。

 その直後、『シャルルマーニュ』のマストに降伏を示す白旗が上る。事実上、ガリア両用艦隊がその機能を失った瞬間だった。





 ジョゼフとシャルルはしばらく殴りあったあと、どちらともなしに甲板へ崩れ落ちた。二人とも顔から酷く出血しているわ、腫れあがって美貌が台無しになっているわで、見ていて気の毒だった。

「うう……痛い、痛いよ。本気で殴らなくたっていいじゃないか……」
「ああでもしないと、お前はいつまでもおれを幽霊扱いすると思ったからな。おまえこそ、かなり本気でやっただろうが。口の中が血の味で一杯だ」

 そう言ったあと、どちらともなしに笑みがこぼれた。二人は、こんな風に本気で喧嘩をしたことなどいままで一度もなかったのだ。

「本当はわかってたんだ。こんな戦争を始めたって、どうにもならないことは……。それでも、ぼくは認められたかった。でも、にいさんよりもうまくやれるって、あれだけ豪語したのに結局だめだった。こんなにちっぽけな、弱い国に反撃されて負けたんだ。ぼくは本当に情けないよ」

 シャルルは小さく呟く。その言葉には悔しさが滲み出ていた。

「……おれが王になったところで、認めるやつなんかいなかったさ。お前との対立を煽られて、結局は潰されていただろう」
「でも、にいさんは……。魔法以外でぼくが勝てる分野なんて、ただの一つもなかった。リュティスの暴動だって、にいさんならもっと……」
「なあ、シャルル。会ったことのないような人間の評価が、そんなに大事か?」

 ジョゼフは起き上がり、まだ起き上がれない弟に告げる。

「おれは知っているよ。周囲から不当に過小評価されてた少年のことをな。それでも、その少年は周囲からの評価なんて気にしないで、実にマイペースに生きていたんだよ。最初は不思議だったさ、いくらなんでもそれはないんじゃないかってな」

 そのまま、続ける。

「でもな、最近わかったんだ。彼には、ずっと無条件で自分を認めてくれる存在がいたんだ。それは決して良い影響だけを与えるわけじゃない―――だけどな、そういう、自分の醜いところも全部ひっくるめて、何もかも受け入れて認めてくれる存在がいれば、それでいいと思うんだ。もちろん、その人間のことも同じように受け入れてやるべきだけどな」

 そこでジョゼフは立ち上がった。膝をつき、手をシャルルへ差し伸べる。

「だから、さ。おれがおまえを認めてやる。お前がガリアの王だよ。それに文句を言うようなやつは、二人でぶっ飛ばしてやればいい。これからは二人でやろう。おれたちが束になれば、適うやつなんていないんだ」

 しばし目を瞬かせたあと、シャルルはどうしようもなくなったのか、そこで初めて涙をこぼした。ぽろぽろと涙の粒が甲板に染みこんでいく。

「ずるいんだよ、にいさんは、いつもそうやって……」

 ふてくされたような態度をとりながらも、シャルルはジョゼフの手をとって立ち上がった。顔は腫れてぼこぼこで酷いことになっているものの、先ほどまでの危うげな目の光は消えうせている。



 ―――国を巻き込んだ兄弟喧嘩が、ようやく終わりを迎えた瞬間だった。





[17375] 第四十五話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/11/01 20:52
 ラ・ベル・アリアンスの戦いから三日。

 フェオの月も中旬を過ぎたこのごろ。なんだか、だんだんと暖かい陽気に包まれてくるように感じるものである。

 ヴェンツェルはトリスタニアの屋敷にある部屋のベッドで惰眠を貪っていた。
 戦勝、とはいってもトリステインが負った被害は甚大すぎた。大公は戦後処理に忙殺されているし、市街はお祭り騒ぎの平民で溢れかえっている。
 ヴェンツェルも大公に引っ張られながらあちこちを回っていて、昨日の深夜になってようやく開放されたのだ。くたくたになった彼はすぐにベッドへ飛び込んだのである。

 カーテンの引かれた部屋の中は、日が昇ってもなお薄暗い。寝返りをうつと、顔がなにか柔らかいものに触れる。暖かい。それにミルクのような香りもする。
 そこで彼はようやく目を覚ました。目の前にあるのは薄い生地で作られたネグリジェである。視線を上に向ける。やや頬を染めた少女の瞳が、こちらを捉えている。カリーヌだった。
 いったい、どういうことだろうか。
 ゆっくりと上半身を起こし、部屋の中を見回す。自分の使っていた部屋とはやや内装が違う―――そして、ベッドの少女。どうやら、彼は間違ってカリーヌの部屋に入ってしまったようだった。
 ふと、こちらを上目遣いで見つめる視線に気がついた。彼女の鋭い眼の下縁には大きなクマが出来ている。見るからに寝不足な様子に見える。

「……昨夜、いきなり部屋に現れたから、びっくりしたんですよ。かと思ったらいきなりベッドに潜り込んできて。そんなことをするから、ずっと眠れませんでした。なのにあなたときたら、いまのいままでぐっすり寝て……」

 彼女が寝不足な原因はヴェンツェルにあるらしい。慌ててベッドから出て行こうとすると、そんな彼をカリーヌは力任せに押さえつける。

「とりあえず、寝不足にしてくれた責任はとってもらいますよ……?」

 妖艶な笑みを浮かべながら、カリーヌはそう告げるのだった。






 正午。

 屋敷の敷地に降り立つ竜籠があった。三体の大型風竜に牽引されたそれは、南方のクルデンホルフ大公国からやってきたものである。
 到着からすぐ、待機していた召使いによって、竜籠の扉が開かれる。思うと、中から一人の少女が飛び出してきた。彼女はベアトリス。クルデンホルフ家の長女である。トレードマークの長い金色の髪を二つくくりにしている。
 そして、次にまた誰かが出てくる。ベアトリスとよく似た容姿の少女だった。ただ、こちらは髪を結うということはしていない。

 久しぶりのトリスタニア。騒がしい市街地の喧騒は、貴族の屋敷が密集しているこの地区にまで届いてきている。うるさいといえばそうだが、気持ちがわからないというわけではない。
 あの兄がガリア軍の大元帥を捕縛した、という知らせはとっくにベアトリスの耳にも届いている。そして、『シュヴァリエ』を受領したことも。まさかそんなことになるとは微塵も期待していなかったけれども、いざそういう話題に上がるのは誇らしい気持ちになるものだ。堂々と周囲の貴族の子女に自慢できる。
 ただ、問題は容姿だが……。ラ・ヴァリエール家のカリーヌ夫人に鍛えられていたそうなのだが、彼女は詳しいことを知らない。だからこそ、余計に気になる。

 二人は屋敷の中庭に差し掛かった。そのとき、ベアトリスの隣を歩く少女の動きが固まった。その視線は庭の奥の木陰に集中している。なんだろう、とその方向へ視線を向けると……。
 桃髪色の長髪を下ろした少女が、金髪の少年の頭を膝に乗せて、なんだか鼻歌のようなものを歌っているのである。桃髪といえば、以前会ったことのあるラ・ヴァリエール家のルイズが記憶に残っている。しかし、いま目の前にいる人物には見覚えがない。ルイズの妹かなにかだろうか?
 そして、もう一人の少年。なんだか、どこかで見たことがあるような……。はて、いったいどこでだったのだろう。

 ベアトリスがそんなことを考えていると、隣の少女が靴の音を鳴らしながら、ずかずかとその方向に向かって歩いて行く。

「あ、お母さま……」

 その行動の意味が解せないベアトリスは呼びかけるものの、“お母さま”にその声はまったく届いていないらしい。どんどんと進んでいく。



 一方、カリーヌの膝に頭を乗せていたヴェンツェルは、なにか不穏な気配を感じて目を開ける。すると、なにやらベアトリスのような容姿の少女がこちらへ歩いてくるところだった。
 だが、その後ろには、久しぶりに目にするベアトリス本人がいて、いま歩いてくる少女が自身の妹ではないことを示している。では一体、誰なのだろうか。
 彼女はヴェンツェルの瞳を覗き込んだ。左目の色を確かめると「やっぱり」と小さく呟く。そして言葉を発した。

「久しぶりね、ヴェンツェル。見違えたようだわ」

 春の暖かな陽気のなか。なぜだか底冷えするかのような感触に襲われる。おかしい。彼女は笑顔なのに、猛烈な殺気を放っている。今にも刺されるのではないかという、恐ろしいものだ。
 それは決して自分に対してではなく、背後のカリーヌに向けられているのだとすぐにわかるのだけれども。

「……えっと」
「あら、半年ちょっと会わないうちにすっかり忘れられちゃったのかしら……。残念だわ」

 言うなり、彼女は着ていたロングスカートのすそを両の手で掴んで持ち上げる。そしてお辞儀のような姿勢を取りつつ、告げた。

「わたしはジャンヌ・フランセット。あなたの母です」

 ……しばし、呆然としてしまう。それはカリーヌも同様だったらしく、大きな目を見開いていた。

「えっと、それ、その姿は……」
「『バーロー薬』というのを誤って飲んでしまったの。そうしたら体がこの通り。自分の娘くらいの体になっちゃうなんて、喜劇でも見たことがないわ」

 『バーロー薬』。そういえば、アリスがそんな薬を作っていた気がする。結局ヴェンツェルはその薬の効果を知ることはなかったが、完成していたということか。
 そして、自称母の言うことが本当だとすれば、カリーヌがミルクに入れて飲んでしまったハチミツもどきとは……。

「さ、行きましょう。ヴェンツェル。今日は久々にあなたと昼食でもとろうかと思っていたの。ずっと会えなかったから、わたし、今日を楽しみにしていたわ。いろいろ情報交換したいし、ね?」

 ヴェンツェルの手を強引にとって立ち上がらせる。大公妃は眼下のカリーヌには目もくれない。ただひたすらに、呆然となる息子を屋敷の方へ引っ張っていこうとしていた。
 だが、それはカリーヌが許さない。少年のシャツの首元を掴み、強引に自分の方に引き寄せる。ぐえ、という声がしたが気に留めない。

「……あら、どこの娘かしら。ヴェンツェルは忙しいのです。あなたがどこの家のご令嬢かは知りませんけど、身分というものは弁えたらどうですか? どうしてこの子と一緒にいるのかわからないですけど、しょせんあなたなんてお遊びの相手ですから。さっさと尻尾を巻いて逃げ帰るといいですよ」

 初対面の相手に対してずいぶん酷い言い草である。これにはヴェンツェルも驚いた。だが、カリーヌは特に臆した風でもなく言い放つ。

「ずいぶんと保護欲のお高い方なんですね。そういういけない願望でもあるのでしょうか」

 その一言に、あからさまに大公妃の顔に青筋が立った。ぴくぴくと引きつった笑顔を見せながら、震える声で告げる。

「ふ、ふふ。ええ、そうですとも。で、それがなんですって? 家族を大事に思うのは当たり前じゃない」
「いえ、単に事実を指摘したまでですから。これ以上言うことはありません」

 もっと突っ込むところがあるだろう、たとえばお互いの体が小さくなってるところとか……とヴェンツェルは思ったが、もはや彼が口を出せる状況ではなくなっていた。

「そういえば、名乗っていませんでしたね。わたしはカリーヌ・デジレと申します」
「カリーヌ? あら、ラ・ヴァリエール家のご夫人と同じお名前なの」
「同名もなにも、本人ですが?」

 しばし、時間が止まったようだった。呆然としながら大公妃はカリーヌとヴェンツェルの顔を交互に見つめる。自身に起きたことが、なぜかカリーヌにも起きていたという結論に達したらしい。女のカンというやつだろうか。実に鋭い。

「不倫! だめよヴェンツェル、それはだめよ! いけないことだわ、そんな若い身で公爵夫人のおばさんと不道徳なことだなんて!」
「むっ……」
「ヴェンツェル、見た目に騙されちゃだめよ、その人の中身はものすごいおばさんだわ! 腐敗しきってるわ! 汚らわしいわ!」
「な、それはないでしょう、この×××××××! あなたのほうがよほど汚らわしいです!」

 二人がなにやらお互いを罵り始めた。なんという修羅場。なんという混沌。端で話を聞いていたベアトリスは、もうわけがわからなくなっていた。いったいなんなのだ、この状況は。


「なんなんだろう、これ……」

 二人の狭間でもみくちゃにされるヴェンツェルを眺めながら、妙に冷めた心でベアトリスは呟いた。









 ●第四十五話「秘め事」









 トリステインとガリアの講和条約は、トリスタニアの王城で行われることが決まった。調印式は急ぎ一週間後を目処に準備が進められている。

 ジョゼフはシャルルと共に帰国し、彼らの予想通り、シャルルの退位を迫る議会の貴族たちの前にその姿を現した。失踪、事実上の死亡扱いとなっていた王兄の出現に、一時その場は騒然となる。
 それを片手で制したジョゼフは演説を始める。それは後に王族たちの語り草となるものであるが―――なぜか、内容は王族以外には厳重に秘匿されるのだった。

 イザベラはごたごたが収まるまではクルデンホルフにいろと言われていたものの、とりあえずトリスタニアの屋敷に居を移すことにした。近々ジョゼフがやってくるのを見越しての行動だった。



 大公妃やベアトリスがクルデンホルフの屋敷を訪れてから二日後、とある訪問者がやってきた。


「カリーヌ。わたしが悪かった。お願いだ、戻ってきてくれ。娘たちも待っているんだ……」

 クルデンホルフ家の屋敷、その客間。二人の男女が向き合って牛皮のソファーに腰かけている。
 さっきから頭を下げてばかりのこの男性はラ・ヴァリエール公爵。そして向かい合う、まだ幼さが垣間見える少女は公爵夫人カリーヌ。どうやったのか自分の妻の所在を突き止めた公爵は、こうやって連れ戻すために説得へやってきたのだ。
 実は、これは公爵家との関係悪化を恐れた大公の仕業なのだが……。それを知る者は大公一人である。
 懇願する公爵に、カリーヌは悩むようなそぶりを見せる。さて、どうすればいいのか……。

「少し、考えさせてください」

 それだけ言い、カリーヌは客間をあとにした。


 次にカリーヌがやってきたのは、ヴェンツェルの部屋である。ノックをしてなかに入ると、少年は机に向かってなにかしているようだった。背後から近づくと、手紙を書いているのがわかった。

「……それは?」
「去年まで従者をやってくれていた人に、ちょっと。いろいろあって、実家に連れ戻されちゃったから。こうして手紙でも送らないと連絡取れないんですよ」
「なるほど……」

 頷きつつカリーヌはベッドに腰かける。ふわふわの髪を指でいじりながら、ため息をつく。ヴェンツェルが振り向くと、困ったような声音で問いかけた。

「先ほど、夫がやって来たのですが……。あの人の言う通りに家へ帰るべきでしょうか?」

 ちょっとした期待も込めつつそんなことを口走る。だが、少年の答えはそんな期待を裏切るものだった。

「帰るべきですね。一応、あなたは公爵家の夫人です。お互いに立場だってあるでしょう」
「……」

 黙って半眼になりながら睨む。すると、ヴェンツェルは椅子から立ち上がる。ゆっくりとした足取りでカリーヌも元へ歩みった。

「まだ早い。なんというか―――まあ、こうなってしまいましたけど、いずれ方法は見つけます。こういうの、あんまり褒められたことじゃないですから。いまは我慢してください」

 そう告げると、彼はカリーヌの隣に腰かける。カリーヌはなんだか無性に寂しくなって、その細い体を成長期の少年の肩に預けた。

「誰から見ても、絶対に許されないことだというのはわかっています。夫を裏切っているのも……。ああ、でもいまは……」

 どうしようもないほどに悩ましげな声で、節目がちになりながらカリーヌは呟いた。




 *




「おお、戻ってきてくれるか! あ、ありがたい!!」

 客間に歓喜の声が響いた。ラ・ヴァリエール公爵のものだ。

 結局、一時間ほどしてから戻ってきたカリーヌは、公爵の求めに応じることにしたのだった。それを聞いた公爵は沈痛な面持ちから一転、狂喜乱舞している。

 屋敷の玄関からスキップを踏まんとする勢いで、公爵は門の前に止めていた馬車へ歩いていく。
 道中、カリーヌが振り向くと、見送りにきていたヴェンツェルと目が合った。その瞳を見つめているとなんだか切なくなってしまって、彼女は前を向いて走り出してしまう。
 やがて、その小さな背中は馬車の奥へと消えた。

 馬車は屋敷から走り去っていく。果たして、次にヴェンツェルとカリーヌが会い見えるのはいつのことになるのだろうか。否、実際にはそう遠くないのだろうが。




 *




 馬車が出発してからしばらくしたあと、ヴェンツェルは中庭の木陰で本を読んでいた。昨日は散々大公妃に連れまわされたし、今日も今日で疲れることがあったからだ。

 すると、そこへ誰かやってくる気配を感じた。また大公妃だろうかと思って顔を上げると、意外や意外、そこに立つのはベアトリスだった。彼女は少し気まずそうな顔になりながら、ヴェンツェルとやや距離を置いた位置に腰を下ろす。

「こうして二人になるのは久しぶりですね、兄上」
「……そうだな」

 こんな風に隣り合って話すのは、実際のところ七年ぶりくらいかもしれない。ぶくぶくと太り出したヴェンツェルをベアトリスが猛烈に嫌っていたからだ。
 それは放浪が終わったころには少しばかり落ち着いたものの、やっぱり関係が良好だとは言えななかった。城にいてもエシュにいても、二人はほとんどすれ違いを起こしていたのだから。
 その原因はといえば、やはりヴェンツェルの体型だったのだろうか。
 幼いころは魔法の練習を積極的にして、自分にも優しくしてくれた。なのに、ぶくぶくと太ってからは魔法の練習はしなくなるわ怠惰だわ引きこもるようになるわで、とてもではないが正視できる存在ではなくなっていた。
 醜い体型が無関係というわけではないが、やはり太って駄目人間になったのは致命的だった。元々いろいろと問題のある部分もあったが……それは、この場合は重要ではない。

 しかし、どうだろう。

 いま自分の横で静かに本のページをめくるヴェンツェルは妙に落ち着いた態度だ。昨日、大公妃に連れまわされるのに同行したが、ちょっと前までの酷く馬鹿っぽい行動を取らなくなったのである。
 ベアトリスがここに来て聞いた話では、彼はかの有名な『烈風』に地獄のような特訓を施されたのだという。それが効いたのだろうか。なぜか『烈風』本人が小さくなってしまっていたのが意味不明だが。
 痩せたから、というだけではないのだけれども、いまのヴェンツェルは昨年までのそれとは別人に見える。いったい、なにがあったのだろう。
 しかし、だからといって「なにがあったのか」などと直接訊ねるのは気恥ずかしい。
 そんなわけで、ベアトリスは沈黙したまま木陰に居座り続けた。

「……ところで、いったいなんの用なんだ?」

 三十分ほどしたころ、ヴェンツェルが本を読み終えた。ぽん、と本を閉じながら問いかけてくる。ちなみに、その本はとても人に言えないような内容の本だった。
 それをベアトリスが知ったら、それはもうこれ以上ないほどに酷く幻滅するのだろうが、幸いにも表紙は一般書籍に“偽装”してある。
 知らぬが仏、とは本当によく言ったものである。

「……いえ、別に。なんとなく暇だったので」
「そうか」

 興味がなさそうに呟くと、ヴェンツェルはさらにもう一冊の本を取り出した。表紙には『ゲルマニアの歴史』と記されているが、それはまったくのフェイクである。中身はただの……。
 だが、少年はそれを表情を崩さずに読んでいく。妹の目の前で官能小説を読みふけるという、とんでもなくクレイジーな狂った行いを働いているのである。表面に出ないだけで、馬鹿は馬鹿だった。
 残念ながらベアトリスの目はあまり正確ではないらしい。いろいろぶち壊しである。



 ―――数時間後。


 日が下がり始めるころになって、ようやく大公が戻ってきた。見てわかるほどにくたくたに憔悴している様子で、少し気の毒だと思うのである。
 ふらふらとよろつきながら、彼はヴェンツェルとベアトリスの元へ向かうと、

「今晩は王城でパーティーをやるそうだ。私は見ての通りの状態だから遠慮させてもらうが、お前たちは出なさい」

 と言うのである。すぐに使用人がやってきて、二人を馬車に押し込んだ。ちなみに、大公妃はしばらく表舞台に立つつもりはないらしい。余計な混乱を招きかねないので、それはそれで正しいのかもしれない。



 トリスタニアの王城には全国から大勢の貴族が集まっていた。とはいえ、まだまだ夕刻にはほど遠い。どうしたものかと思っていると、そこに見慣れた顔の人間が現れた。

「おや、きみはミス・ベアトリスじゃないかね。お隣の少年は誰だい?」

 例によってギーシュだった。彼はベアトリスに、目の前の少年がヴェンツェルだと告げられると驚き、「よくもまあ、そんなに変わったものだね。まったくわからなかったよ」とこぼす。
 彼は目ざとく『シュヴァリエ』の徽章を見つけると、うらやましそうにため息をついた。騎士は少年にとっては憧れの勲章である。喉から手が飛び出るほどに欲する気持ちも、わからなくはない。だからといってくれてやったりはしないが。
 と、そこへモンモランシーやってきた。彼女はまったくヴェンツェルの顔など覚えていなかったので、簡単な挨拶だけを済ませる。反応などあるはずもない。

 控え室へ向かうという二人と別れ、ヴェンツェルとベアトリスは歩き出した。ベアトリスは控え室へ行くべきだとヴェンツェルは言ったが、彼女はそれに応じない。困ったものだ。
 しばらく歩いていると、前方でみかん色の頭髪の少年が右往左往していた。いったいどうしたのだろうか。

「きみ、どうしたんだ?」
「あ、ああ。眼鏡がなくて困ってるんだ。よかったら一緒に探してくれないかな?」

 そう言う彼の頭の上には、見事に眼鏡が乗っかっていた。

「いや……、普通にあるんだけど。きみの頭の上に」
「え? ……あ、本当だ! いやあ、助かったよ。これがないとまったく目が見えないからね!」

 なんともステレオタイプなギャグを見ているかのようだ。目の前の少年は眼鏡をかけなおすと、自分の名前を告げてくる。

「ぼくはレイナール・ド・ブリュージュ。これでもブリュージュ伯爵家の長男なんだ。よろしく」
「ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフだ。こっちはベアトリス・フォン・クルデンホルフ。こちらこそよろしく」
「へえ、きみがあの! ニヴェルの戦いで大元帥を捕まえたんだってね。とてもじゃないがぼくには真似できないなぁ。あ、それと、ラ・ベル・アリアンスの戦いにはうちの父もいたんだよ」

 そう言われてみれば、ブリュージュ伯爵の姿は見た気がする。ブリュージュ伯領は単独で運河と貿易港を保持しているためか、家の財政は豊かだ。故にクルデンホルフに借金はしていない。
 だからだろうか、初対面でまったく嫌悪感を出されずに接されるのは。ヴェンツェルがあまりトリステインの貴族連中と話したがらない理由の一つが、貴族連中による罵りだった。

 少し話をしていると、レイナールを呼ぶ男性の声がする。彼は申し訳なさそうな顔をしながら、「悪いけど、父が呼んでいるんだ。じゃ、また!」と行って去って行った。
 ごく普通の少年のようだ。ちょっとした懸念があっただけに、内心ほっとしたものである。






 パーティーの時間である。続々と貴族たちが会場に押し寄せ、なんだか辺りは騒然となっていた。見回すと、結構な数の子女もいるようだ。

 なぜかいつの間にか現れたモーリスと共に、ヴェンツェルとベアトリスは声をかけてくる貴族と挨拶を交わす。ときおりベアトリスを危ない目で見る変態なほうの紳士が出現するが、それはモーリスが睨みをきかせて追い払う。大丈夫なのだろうか。いろいろと。
 そうこうしているうちに、会場の入り口で人がワッと沸いた。
 どうしたのかと思っていると、どうやら国王夫妻とアンリエッタがやってきたらしい。人の流れが起きる。

「あ、ヴぇ、ヴェンツェルさま!」
「兄上っ」

 この流れに三人はもみくちゃにされ、ヴェンツェルだけが窓の方にはじき出されてしまった。まったく、落ち着きのないやつらだ……。などと思っていると、目の前に小さなハイヒールが見える。

「ヴェンツェル?」
「ミセス・カリーヌ……」

 そこにいたのは、綺麗なドレスに身を包んだカリーヌだった。さっき別れたばかりだというのに、また会うことになるとは。
 少し話をしてみる。
 今日はルイズやカトレア、それにエレオノールも来ているらしい。なるほど、たしかに遠くでは公爵と三人の姉妹が戯れている。……カトレアはともかく、王立魔法研究所……『アカデミー』所属のエレオノールは、カリーヌが小さくなってしまったことに対して、学術的な興味を持たないのだろうか。
 カリーヌにそのことを訊ねると、なにやら不穏な返答が返ってきた。体は小さくなってもやはり逆らえないということだろうか。

 と、そのとき。ヴェンツェルの体が強引に引っ張られた。窓際の大きなカーテンに二人はすっぽりと納まってしまう。

「……おや? ここにカリーヌがいたような気がしたんだが……。カトレア、カリーヌがどこに行ったのか知らないか?」
「ええと……。わからないですわ。どこへ行かれたのでしょう」

 先ほどまで二人がいた場所に公爵とカトレアがやってきたようだった。しかし、なぜ隠れる必要などあるのか。そう、思ったときだ。カリーヌがヴェンツェルの胸に顔を押し付ける。

「……はぁ。どうしてでしょう。もうわたし、いろいろとだめになりそう。あなたが悪いんですよ。最初は、そんなつもりじゃなかったのに……」

 ぎゅっ、と抱きしめてくる。互いの吐息の熱すらも覚めやらぬ距離だ。密着したまま、緊迫した空気が漂う。ほんの少しのような、されど無限の時のような感覚。
 やがて、二人が去っていくのが足音でわかった。どちらともなく、ほっと一息をつく。

「でも、ミセス。これは、さすがに……」

 いまはいいが、いったいこの先どうするのだろう。まだ国王一家が人を引き付けているが、そろそろ人がばらけそうだ。そうなるとパーティが終わるまでは出られなくなる。
 やや焦りを浮かべた表情で呟くと、カリーヌはぷう、と頬を膨らませる。

「……」
「うっ……」

 子供のように上目遣いで睨まれると、どうにも断りづらい。しかたない。しかたない。自分が悪いんだと心のなかで呟きながら、ヴェンツェルは―――





 *





 火竜山脈にまたがって存在する小国、ベルゲン大公国。

 長年ガリア王国に傭兵を派遣してきた、山岳部族による強盛な兵士を保持する有数の軍事国家である。西にはローザンヌ伯領、南西にはサヴォイア公国が存在していた。

 この国を支配しているのは大公ではない。君主は数年前から病床に伏し、実質的な采配を執っているのは宰相を務める嫡男である。
 三十代に差し掛かった壮年の男は、首都ベルンの城から夜景に視線を向けていた。……彼は知っている。数年後、この国の大部分を占める火竜山脈が隆起し、事実上大公国が滅亡することを。
 だが。彼の瞳に大きな焦りはあっても、悲壮感はない。
 なんとしても“大隆起”を阻止する。そして、その方法をすでに彼は見つけていた。

 “この”ハルケギニアには、無数のイレギュラーが存在する。たとえば、この壮年の男がそうである。いまのベルゲン大公国も、実質的にはイレギュラー化しているかもしれない。

 男がワイングラスを片手で弄んでいると、部屋の扉が開いた。ゆっくりと仮面の男が入室してくる。その仮面の造詣は、宰相が見たことのないものだ。下膨れの、目が細い女性の顔。気味が悪い。

「閣下。『六号』がトリステインで消息を絶ちました。恐らくは……」
「そうか」

 特に感慨もなく、宰相は呟いた。彼と『特務傭兵隊』はお互いの利害関係の上で結びついているに過ぎない。“大隆起”を阻止する方法を見つけたことには感謝するが、それはそれ、だ。

「テハレオ。『風の妖精』のルーンはどこにあるんだ?」
「はっ。恐らくは、『世界の記述』の内容通りにアルビオンかと。北部で所持者らしき人物がいたという目撃証言はあるのですが……。共和体制が成立してからというもの、潜入は困難を極めております。『八号』は遭遇した『白炎』に倒されました」

 またか。いつものように同じことを繰り返すだけだ。そうしている間にも、風の精霊の力は火竜山脈を押し上げる。ハルケギニアでもっとも早く“大隆起”の被害を受けるのはこの国なのだ。そんな体たらくでは困る。
 宰相は愛国者だ。やや柔軟な考えを持ちながらも、ハルケギニアの貴族であることに変わりはない。彼は国を愛している。だからこそ、災厄は阻止したい。いや、阻止しなくてはならない。

「急ぎ、ルーンの奪取を行え。どれだけ被害が出ようと、だ。肝に銘じろ」
「……はっ、了解しました」

 仮面の男に指示を下したあと、宰相はワイングラスを揺らす。

 自分の命が薄氷の上にあるとも知らずに、彼は国を想う。だが、もう“大隆起”の片鱗が見え始めている以上、それは仕方のないことなのかもしれない。


 ハルケギニアの夜は更けていく。ゆっくりと、闇が世界を覆い尽くすまで。




[17375] 第四十六話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/11/01 20:52
 ついに、講和条約の調印式当日となった。

 早朝のトリスタニアには、ガリア側の全権代表としてジョゼフがやってきた。彼には、シャルルの特命を帯びた東花壇騎士団員らが同行している。
 その団長は、異例の人事でシャルルに抜粋されたバッソ・ド・カステルモールだ。彼は元来、ジョゼフに敵愾心すら抱いている節があった。だが、この王兄は敬愛する王と和解したのだ。彼と自分から敵対する意思はない。

 まず、ジョゼフはカステルモールだけを連れてお忍びでクルデンホルフの屋敷へと向かった。
 事前にイザベラがトリスタニアへ移転したという連絡を受けていたからだ。彼女には共に講和条約の調印式へ出席してもらうつもりだったのである。

 屋敷へと到着すると、まず『空中装甲騎士団』の新団長であるモーリス・ド・サックスが彼らを出迎える。
 カイゼル髭がトレードマークの前団長は、ラ・ベル・アリアンスの戦いで致命的な負傷を負っていた。それにより、泣く泣く一線を退くことになったのだった。

 モーリスに案内され、二人は客間へと向かう。ドアが開くや否や、青髪の少女が部屋から飛び出してくる。笑顔を浮かべ、ジョゼフの大きな胸板に頬をぐりぐりと擦り付ける。

「お父さま!」
「い、イザベラ」

 まるで小さな子供のような振る舞いを見せるイザベラの姿に、思わずカステルモールは唇の端に笑みを浮かべる。
 昔、彼女がシャルロットと一緒に遊ぶとき、カステルモールもそばにつく事があった。今のイザベラの表情は、そのときのことを彷彿とさせたのだ。

 そして、氷のような冷たい目で周囲を見下していたジョゼフ。彼もずいぶんと変わった。まるで憑き物が落ちたようにすら感じる。
 カステルモールは疑問に思う。シャルルの戴冠、ジョゼフの失踪、政策判断の誤りの果ての王都での暴動、トリステインへの一方的な侵攻、敗北。そして、二人の兄弟は再び手を取り合った。どうしてそうなったのか。わからない。それを知るのは、ほんの一握りの人間でしかないのだろう。

 屋敷で朝食を出してくれるとのことなので、三人は食堂へ向かう。
 カステルモールは辞退しようとしたが、そこへ現れたクルデンホルフ大公の嫡男ヴェンツェルに勧められたので、遠慮がちながら参席することにした。

 ジョゼフ、イザベラ、カステルモール、ヴェンツェル、ベアトリス、大公妃にモーリスが食堂に集まった。
 カステルモールはクルデンホルフ大公妃の姿が見えないことが気になったが、それよりも目の前に視線がいく。眼前にはモーリスが座り、 鮭のムニエルを口に運んでいるところだ。
 不思議だ。彼の食事のときの動作は、とても優美なものに見える。エシュのサックス准男爵―――いまは男爵か。その後継者らしいのだが、領地もないような貴族の人間に行える動作ではない。彼の動きは、まるでそれこそ、どこかの上位貴族か王族のように洗練されたそれなのだ。
 だが、あまりじろじろと見るのは失礼だろう。視線を逸らし、カステルモールも料理にありつくことにした。シェフの腕がいいらしく、彼も大満足の出来栄えだった。



 調印式に向けて、ジョゼフとイザベラはカステルモールらを伴って王城へと向かって行った。
 ヴェンツェルも調印式に出席するため、やや遅れて馬車に乗り込んだ。御者が手綱を引くと、ゆっくりと馬がトリスタニアの王城へ向かって進み始める。
 石畳の道を、馬車はゆっくりと進んでいく。白亜の城は目の前だ。

 王城には多数の貴族たちが集まっていた。ただ、それらはほとんどが職業軍人の貴族か、あるいは王の呼びかけで参戦した地方領主だった。パーティーをやるわけでもないので、それはそうだろう。
 しばらく待っていると、マザリーニ枢機卿が現れてなにか宣言を始めた。それが終わると、ガリア側の全権代表ジョゼフとトリステイン側のマザリーニが、共に条約の書かれた書類にサインしていく。

 こうして、正式に両国の交戦状態は終結したのである。

 ガリアは財政難のため、賠償金の金額を抑えるのと引き換えに、オルレアン王領を初め、アミアンやランスといった歴史ある都市を内包する地域の割譲をせざるを得なくなった。
 これによってトリステインの国土は大幅に南下することとなり、ラグドリアン湖の沿岸地域はすべてトリステイン領と化したのだ。


 調印式が終わったあと、ヴェンツェルはジョゼフとイザベラと別れの挨拶を行っていた。二人は正式にガリアの王族として復帰することになり、もうトリステインに居残る必要はなくなったのだ。
 それはクルデンホルフ国内にいる亡命貴族もそうである。しかし、イザベラに近かった一部の貴族を除いて、ほとんどはガリアに戻るつもりがないらしい。
 「ここの方が居心地がいいや」と言って帰化する連中ばかりだった。そもそも粛清されそうになって逃げてきた連中なので、戻るのには大きな不安があったのかもしれない。

「世話になったな、少年」
「いえ。こういう結果になって、よかったと思います」

 戦争で多くの人々の命が失われたのは確かだ。しかし、その犠牲によってトリステインとガリアは平和を手に入れた。無論、これからガリア国内は熾烈な勢力争いが待っているのだが……。
 ジョゼフとシャルルならなんとかするだろう。そんな気がした。確証はないけども。

「いままでありがとうね、ヴェンツェル。あのとき、エシュであなたに見つけてもらわなかったと思うと……。なんだか、背筋に寒気が走るわ。どうなっていたのかしら」

 別れ際。イザベラはヴェンツェルの方を振り向いて、そんなことを言った。あのまま難民に混じっていたら……ジョゼフのことがある。もしかしたら悪い方向に事態は流れていたかもしれない。

「いや。僕の方こそ、きみがいなければ貴族たちの協力も得られなかっただろうし……。助かったよ。ありがとう」
「……うん。じゃあ、また。いつか会いましょう。そのときはベアトリスさんともゆっくりお話したいわ」
「ああ」

 ヴェンツェルは二人に向かって手を振る。ジョゼフも振り返り、大きな声で叫んだ。

「少年! また会おう!」
「ええ!」

 ヴェンツェルも大声で返し、二人を見送る。

 青髪の親子の姿が見えなくなったころ、自身も屋敷へ戻るために歩き出すのであった。




 *




「魔法の練習、ですか」
「はい。まだ彼にはきちんとした指導を行っていないのです。ですから、ぜひ中断してしまった鍛錬の続きをやろうかと」

 クルデンホルフ家の屋敷。
 客間のソファーには、カリーヌとクルデンホルフ大公が向かい合って腰かけている。
 カリーヌは睨むような目つきを大公に浴びせているが、それはいままでよりはずっと柔らかい。いまの彼女にとって、大公など大した価値のある人間ではないのだから。

「し、しかし。公爵殿は……」
「夫には許可を得ました。娘たちも異議は唱えていませんし、あとは大公殿のお一声で決まります」
「う、ううむ……」

 カリーヌの提案というのは、彼女が住み込みでヴェンツェルの魔法の鍛錬をするというものだった。静かな場所で付きっ切りで鍛錬を仕込むというのだ。
 しかし、そう易々と受け入れるべきだろうか。どうすべきかと悩んでいると……。

「あら、別にうちの城でやればいいじゃないですか?」

 いつの間にか、二人が腰かけるソファーの中間辺りに、大公妃が出現していた。

「……あなたには」
「関係あるわ。自分の子のことですもの。それに来年、あの子は魔法学院に入学するんです。また家から放るなんてしていたら、いろいろと問題でしょう」
「むう……」

 カリーヌは、少々自分の考えが甘かったことを認めざるを得なかった。
 邪魔者が入らないところで二人っきりになりたいという想いばかりが先行して、普段の彼女ならば絶対に周到な手回しをするところをまったく怠っていたのである。

「そうですな。とりあえず、当家の城に貴女の居室を用意しましょう。どうですか?」
「……わかりました」

 もうこうなれば仕方ない。どれだけ妨害が入ろうと知るものか―――『烈風』は、決意を新たにした。方向性があまりもぶっ飛んでいなければ褒められたのだろうが……。
 ヴェンツェルの忠告は、あまり彼女の耳に入っていないのであった。





 一方、ラ・ヴァリエール家の屋敷。意気消沈した様子の公爵が、エレオノールやカトレアに慰められながらソファーで脱力していた。

「……カリーヌがおかしいんだ。それもこれも、あのクルデンホルフの子供がやってきてからだ。どうしてこうなったんだ。どうして……」
「お父さま。元気出してくださいな。お母さまは使命感の強い人ですから、きっとヴェンツェルくんの魔法がしっかり上達するまで、一緒についていてあげたくなったんですよ」
「なにも心配はいりませんわ。考えすぎなのよ」
「……そうかな」
「ええ。そうですとも」

 言いながら、カトレアは父を抱きしめる。まるでマシュマロのような柔らかさが、心地よさが公爵の頬に伝わってくる。母性を感じさせるその体温に、公爵の心はやや落ち着きを取り戻した。
 そうだ。自分とカリーヌはあれだけの思い出と共に結婚したのだ。なにを不安がっているのか。
 それに、相手はまだ子供じゃないか。なにか憂慮すべき事態であるなどとは思えない。なのに本気で嫉妬しそうになるとは、なんと情けないことだろう。
 自分は泣く子も黙るラ・ヴァリエール公爵。そう、どっしりと構えるべきなのだ。カリーヌはいずれちゃんと帰ってくる。いまはまだ静観すべきだ。
 そこまで考え、公爵はカトレアの胸から顔を離した。できれば一晩中しがみついていたかったが、相手は娘である。自重すべきだろう。

「ありがとう、エレオノール、カトレア。おまえたちが娘でいてくれて、本当によかった」

 普段の威厳に満ちた態度もなんのその、公爵はそんな殊勝な言葉を吐き出してみせたのだった。

 いまいち状況がわかっていないルイズは、そんな光景から離れた場所で顔に疑問符を浮かべるのである。









 ●第四十六話「虹色」









 ウルの月はティワズの週も終盤である。

 カリーヌがやってきてからというもの、大公妃は常に彼女の周囲に密偵を放っていた。そして、その報告でまったく動きが見られないためか、大公妃は油断しきっていた。
 そう。大公妃は熱くなりすぎてすっかり忘れていたのである。カリーヌには、『遍在』という風の魔法があったことを。それを夜な夜な使い、いろいろと役立てていることを見落としていたのだ。

 当初、ヴェンツェルはカリーヌの独断専行に驚いたものの、それはそれで仕方ないかと納得することにした。

 だんだんと気温が上昇を始めるころ季節。クルデンホルフの城の鍛練場。ここ最近のヴェンツェルは、カリーヌ監督の下で魔法の練習をしていた。
 カリーヌはヴェンツェルの系統を『風』であると推測していた。彼が最初に使っていたのは『レビテーション』『フライ』で、なかでも『レビテーション』はかなり使いこなすというから、という理由である。
 事実、彼は森の中で強烈な風を生み出したし、いまでも風を巻き起こすことが出来る。



 ―――そして、アンスールの月が終わるころには、ヴェンツェルは『風』のラインスペルが使えるようになっていた。
 なにか一つ上達するごとに、カリーヌが“ご褒美”を聞いてあげるのである。そうすると、彼は尋常ではない集中力を発揮するのだ。
 この方法、そもそも彼が『レビテーション』を使いこなすに至った経緯を耳にしたことから始まる。彼はメイドさんのスカートがめくりたい、などという非常にクレイジーな思考を持ってして魔法を習得したのである。
 つまり、そういった“餌”をぶら下げてしまえば、もしかしたら魔法を覚えられるかもしれない。
 そして。
 それは、見事に的中してしまった。


「風、か……。そういえば、お前の曾祖父は風のスクウェアだったな。三十年戦争では大金星をあげたという話だ」

 ヴェンツェルから習得の状況を聞かされた大公は、遠い目をしながら話す。
 大公妃は、てっきりヴェンツェルは自分と同じ系統だとばかり思っていたので、それはもう落胆した。カリーヌは得意げな表情でそんな大公妃へ視線を送っている。




 *




 あっという間に夏も終わりに近づいた。ティファニアに召喚されてからもう一年以上も経ってしまったのである。時間の流れは遅いようで速い。

 ヴェンツェルは、カリーヌと共にクルデンホルフ市街地の外れにある公園にやってきていた。管理人のマダオは相変わらず管理する気がないようで、ベンチに寝転がって新聞を読んでいる。

 噴水のそばに腰かける。去年、ヘスティアとこの場を訪れた直後、彼女はデメテルとの戦いに負けた。『レーヴァテイン』という置き土産だけを残し、光の粒子となって消えたのだ。
 そのことを思い出すと、なんだか無性に悲しくなる。
 ずっと助けられっぱなしだったのに、自分は結局彼女を守れなかった。大切なものを失ってから魔法を使えるようになったとして、それがどれだけ意味のあるものなのだろう。

 台座から噴出す水の流れをじっと観察していると、自分にカリーヌが身を預ける感触がした。ふわふわの桃髪は下ろされ、ばらけた一部分がヴェンツェルの頬を撫でる。
 まるで失ったものを取り戻そうとするかのように、少年はカリーヌに腕を伸ばす。抱きしめ、その小さな体を包み込む。甘い香水の香りに混じって、彼女の体臭がする。とはいえ、それは不快なものではない。

 ヴェンツェルの二の腕に顎を乗せながら、カリーヌは幸せを感じていた。
 最初はほんのちょっとした事故だった。こんな感情を抱くことになるとはまったく予想だにしていなかったし、まさかこの少年が、自分のために命を張るとも考えられなかった。
 見るからに情けなさそうな人物だったのだ。ルイズを変な趣味に目覚めさせたとき折檻したり、浜辺で水着を奪ったときのことといい……。そう、それほどの価値は感じていなかった。
 でも……。である。
 “あの”とき、自分はきっと恋をしてしまったのだと思う。そして、それは次第に大きく膨れ上がって……。たくましくなった彼を見てしまったとき、止まらなくなった。
 家族がいるのに。夫という伴侶がいるのに。それはどうしようもなく彼女の心を締め付け、またそこから逃れることは大きな開放感を、爽快感を生み出した。
 もう、このままでは逃れられなくなる。やめようと思ったことはあっても、それを実行に移すことはできない。実際、こうやってクルデンホルフまで押しかけてしまったのだから。

 ああ、始祖よ。背教者であるとの罵りも甘んじて受けましょう。もう、自分は―――

 悶々と、カリーヌは耳まで赤らめながら妄想にふける。なんだかんだいって、やっぱりルイズとは親子であるとよくわかる光景だった。



 マダオに煙たがられながら、二人は散々爆発させたくなるような光景を繰り広げたあと、市街地の中心部にやってきた。
 するとベアトリスが、取り巻きの少女たちとなにやらわいのわいのとやっているではないか。いったいなんだろう。

 しかし、あまり関わりたくないのも事実だ。ヴェンツェルはカリーヌと一緒にその場を立ち去ろうとしたが……。

「あ、もしかしてヴェンツェル殿では?」

 などと声を張り上げる少女がいた。ヴェンツェルが振り向くと、そこにいたのはトリスタニアのパーティーでもみかけた少女だった。どうやら彼女はクルデンホルフ大公軍の指揮官の一人のご令嬢らしい。
 あっという間に少女たちがわらわらと集まってくる。昨年とはえらい反応の違いだ。なんだか、少し悲しくなった。

「わあ、本当に月目なんですね」
「『シュヴァリエ』を受領なされたとか? すごいですわ」
「火のスクウェア、というのは本当なんですか?」

 輝くような瞳で、少女たちは詰めよせる。見れば、カリーヌはそんな少女たちの輪のなかから弾き出されてしまっている。目をぱちくりとさせていた。
 現金なものである。本質は同じものなのに、見た目が変わっただけでこの扱いの差。城のマジソンや衛兵たちはいままでとまったく変わらない反応を返してくれたというのに。
 見た目だけで態度をころっと変える。なんだか、そんな少女たちが滑稽に思えてくる。正体をばらしたら、どういう反応をするのだろう。
 別に自分がどう言われようが、それは関係ない。ただ、それでいいのかという疑問は大いにある。

 わいのわいのと身を摺り寄せてくる少女たち。二の腕に感じる柔らかい感触。これはこれで悪くない……。いや、駄目だろう。と考えた、そのとき。

 突然、一迅の風が起きた。外延部にいたベアトリスを除く他の少女たちは巻き上げられ、地面にしりもちをつく。

 唖然となるその場を、カリーヌは悠然とした足取りで進む。彼女はヴェンツェルに歩み寄ると、その腕にしがみついた。柔らかな感触が伝わってくる。

「さ、行きましょう? ダーリン」

 とんでもない爆弾だった。少女たちはなお唖然と、とくにカリーヌが公爵夫人であることを知っていたベアトリスは、それこそ雷でも落ちたような顔になった。状況がいまいち理解できない少女たちを尻目に、カリーヌはヴェンツェルを引きずってその場を離れるのだった。




「ミセス……」
「か、かカリーヌと呼んでください、って言ってるじゃないですか……」

 しばらく早足で歩くと、顔から湯気でも出そうな顔になったカリーヌは大慌てで体をヴェンツェルから離した。まるで茹でたタコやエビのように真っ赤かな顔である。
 恥ずかしいならやめればいいのに、と思わないこともないが。悪い気はしないのでその言葉は胸の奥にしまっておく。

 とりあえず、ご飯でも食べよう。そう考え、ヴェンツェルはまだもじもじとしているカリーヌを連れ、近くの料理屋の扉を開けるのだった。




 *




 その日は暑かった。とにかく暑い一日であった。

 ヴェンツェルは冷却装置をつけ、自室でくつろいでいた。ベッドでは男物のシャツに身を包んだカリーヌが、足をぶらぶらとさせながら新聞に目を通している。
 カリーヌは、自身が密偵に見張られていることを、そしてヴェンツェルの周囲は意図的にその対象から外されていることを知っていた。だから、自分の部屋には『遍在』を残していた。そうすれば、密偵はひたすらに部屋に張り付いたままになるのだ。
 詰めが甘い、という感想をカリーヌは抱いた。

 と、そこへ扉をノックする音が響く。その音を立てた主はヴェンツェルの返事を聞くまでもなく、扉を開けて中に入り込んでくる。

「坊ちゃま。お茶をお持ちしました」

 今年で十四になるメイドのアリスだった。彼女はおぼんに乗せたお茶を、ヴェンツェルの部屋にあるテーブルへ移した。
 その手に光る大粒のルビー……アルビオン王家に伝わる秘宝『風のルビー』である。
 前アルビオン王であり、彼女の祖父であったジェームズ一世から受け継いだ代物である。結局ヴェンツェルには渡さず、そのまま自身が身に着けているのであった。
 ちなみに、もう一つの秘宝『始祖のオルゴール』は、彼女の母親であるサリアが持ち帰っている。二人の部屋にそれは置かれている。ただ、音が鳴らない欠陥品だとサリアはこぼしていた。

 カリーヌはそんなアリスには目もくれずに立ち上がった。ぶかぶかのシャツのすそから手の先だけがはみ出している。それで新聞を掴み、ヴェンツェルの机の上に戻した。
 自分でやるからいいよ、と言うヴェンツェルを一睨みしたあと、アリスは部屋を出て行った。

「……ミセ、じゃなかった。……カリーヌ。その恰好はどうかと思うんだけど」

 シャツの一枚しか身に着けていないカリーヌに、ヴェンツェルは苦言を呈した。なにせ着ているのはたったの一枚である。すそからはみ出した、白く艶かしい脚の付け根が見えてしまいかねない。

「あら。あなたが書いていた絵のなかに、こういうのがあったのだけれど……。お気に召さなかったのかしら」

 ヴェンツェルは冷や汗をかいた。彼は“主人”であるティファニアに禁止されながらも、まだ小説出版を諦めていなかったのだ。文と挿絵を自作し、ひっそりと物入れのなかに潜ませていたのである。
 それを発見したらしいカリーヌが、その内容の一部を実践している……。もう、なんだか頭がフットーしていそうである。

 とりあえずまともな服を着るように言うと、彼女はヴェンツェルの『シュヴァリエ』の刺繍が施されたマントを体に巻きつけた。
 顔を半分以上埋めながら、なにやら上目遣いで見つめてくる。どうやら、服は持ってきていないらしい。いろいろと頭が痛くなった。




 涼しくなったころ、二人は鍛練場へ出た。風が吹いているので、それほど暑さは感じない。
 ヴェンツェルは『風』のトライアングルスペルを唱えてみる。失敗のようで、なにも起きなかった。まあ、短期間で一気にラインまで上がれたのだからいいだろう。
 一時期は危うく二つ名が『凡夫』『無能』『怠惰』のいずれかにされそうだったので、そこから考えると飛躍的な向上である。もっとも、その原動力は人に言えたものではないが。

 そういえば、魔法の刃である『ブレイド』は使えたほうがいいだろうか。そう考え、カリーヌに提案してみる。

「軍用魔法ですが……。使えて困ることはありませんよね。やってみましょう」

 了承の返事をもらったので、さっそくヴェンツェルは『ブレイド』を詠唱してみる。杖の先に精神力が流れ込み、それは実体を持たない実体となり、顕現する。
 かつてはまったく使えなかったというのに、こうもあっさりと出来てしまうのが奇妙でさえある。

「……これは」
「不思議ですねえ」

 次の瞬間、ヴェンツェルの杖に現れた『ブレイド』は、奇妙な色をしていた。平たく言えば虹色をしていて、目まぐるしく色が変化していくのである。ただ、根元は常に赤く輝いていた。

「綺麗ですけど、いまいち意味がわかりませんね。……あなたの系統は、風ではないのでしょうか」

 カリーヌはいぶかしむような声を上げた。『ブレイド』といえば、本来はその詠唱者がもっとも得意とする系統の影響を強く受けるはず。たとえば、大公やアリスならば青いし、『劫火』のミゲルは恐ろしいほどの赤い色をしていた。モーリスの場合は少しヴェンツェルに似ていたが。
 では、ヴェンツェルはいったいなんなのだろうか。こんな例は見たことがないとカリーヌは漏らす。

 しかし、そうこうしているうちに日が暮れてしまったので、その日の鍛錬はそこでおしまいにすることにした。




 *




 アルビオン共和国。
 ヴェンツェルがのんきにカリーヌといちゃついている間に、この国では大規模な政変が起きていた。

 護国卿オリヴァー・クロムウェルが敵対貴族を粛清し、実権を掌握したのである。共和国議会は形骸化され、新たに設立されたクロムウェルに近しい貴族による、革命評議会が議会の役割を果たし始める。
 トリステインらしき艦艇によって、多大なる通商妨害を受けていたアルビオンでは「打倒トリステイン」のスローガンの下、大艦隊の建造が急ピッチで進行。
 その技術は、ガリアの反体制派やトリステインのある大物貴族から不正にもたらされたものであった。


 そして粛清の直後、身の危険を覚えたヨーク公はロマリアへ亡命。友好ムードだった両国の関係は、一気に冷え切ることとなるのである。





[17375] 第四十七話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/09/01 23:48
 クルデンホルフ大公国内のとある森林。

 ちょっとした用事でカリーヌが一時的にラ・ヴァリエールへ戻ったため、ヴェンツェルは珍しくアリスを伴ってこの森の川に釣りをしにやってきていた。
 連れてくるのは他のメイドでも良かったのだが、城に帰って来てからというもの、彼女とあまり話す機会がなかった。故にあえて連れてきたのである。

 まったく魚のかかる気配のない釣竿。それをじっと見つめるのにも飽きた少年はふと、背後で岩の上に腰を下ろしていた少女へ視線を向ける。
 肩胛骨の辺りまで伸びた、ラベンダーを彷彿とさせる薄紫色の髪。青い瞳はヴェンツェルの右目のそれよりも濃い色をしていて、まるで広い海のような深さを持っている。白磁のような肌は弾力性がありそうで、思わずつまみたくなる。先ほどから窮屈そうにコルセットの辺りを触っているのは、中々にポイントが高い。
 そんな舐めるような視線に気がついたのか、アリスは眉をしかめる。

「……坊っちゃま。そういうの、やめませんか?」

 かなり迷惑そうな表情で告げる。
 だが、そんな言葉を耳にしても少年は眉一つ動かさなかった。苦笑いをしながら、そんな言葉に同意せんとでも言うような口調で喋る。

「ははっ、なかなか手厳しいな」

 この反応に、アリスは少々驚いた。今までは睨んであれだけ言えば黙ってしまったのに、こう軽く受け流されるとは思わなかった。

 それもこれも、あのラ・ヴァリエール家の夫人のせいだろうか。自分が鍛えてやろうと思っていたのに、それは他人の手によってあっさりと行われてしまった。
 かつてはヴェンツェルに近づく女などほとんどいなかったのに、今は……。そう考えると、少しばかり胸が苦しくなる。心の奥底の独占欲の塊を削がれる感覚がする。

 だが、もうなってしまった以上は仕方ない。自分の立場上、もう彼の生活にそこまで介入できるわけもない。
 子供だからと許されている部分が多かったのだ。もういい加減分別のつく年である。少なくとも他の人間の前で立場を弁えない行動は取らないし、取れない。
 それがわかっているからこそ、アリスはカリーヌ相手にはなんらアクションを起こさなかった。
 大公妃がカリーヌに密偵を放ち、そしてヴェンツェルにそれが発覚するのを恐れ、彼の周囲だけは監視していないのも知っていたが、これといって感想もない。あくまでも自分の管轄外の話だ。

 最近ヴェンツェルとはあまり話すことがなかったので、今日自分が呼ばれたのは予想外のことだった。どういう心境なのだろうか。


 二人がいる森は人里から離れている。聞こえてくる音といえば、流れの速い水の音と鳥のさえずりくらいだ。まれにヴェンツェルが竿を引き上げるので、釣餌を投げ込むときにちょっとした音が立つ。
 ゆったりとした時間が流れていく。思えば、ヴェンツェルとこうして二人でいるのは本当に久しぶりだ。たまにはこういうのも悪くはない―――そう、思ったときだった。

 彼女は周囲の“異変”に気がつく。なにか異様な気配が周りの草木から発されているのだ。
 アリスは視線を動かさずに、ささやくような声で危険を伝える。そして、静かに太ももに括り付けられた短剣に触れる。静かに『風』の魔法で周囲の気配を探ると……。

「五……、いえ八。こちらの様子を窺っています」
「……そうか。わかった」

 報告を受けたヴェンツェルは、そのまま竿に視線を向け続けた。彼も『風』の魔法が使えるようになった以上、アリスには遠く及ばないながらもある程度の索敵能力を得ている。
 緊迫した空気が辺りを包み込み―――ついに、異様な気配の正体がその姿を表した。

 それは、八体のオーク鬼だ。醜く太った巨体に豚の頭が乗った生き物で、困ったことに好物は人間の子供だったりする。さらには、子供を産むことが出来る女性を誘拐することもあるので、人々から大いに恐れられていた。地方領主の頭を悩ませる要因には、常にオーク鬼の存在が挙げられる。
 そして、例によって彼らが目をつけたのはアリスだ。耳障りな鳴き声を上げながら、二人の少年少女から見て背後の草木から飛び出す。
 かと思えば、前方からばしゃばしゃと川の水をはね上げながら三体ほどが迫る。
 オーク鬼は、一体で熟練剣士五人分に匹敵する戦闘力を保持している。まともにやりあえば普通の人間がただで済むはずがないし、メイジとて、亜人相手に八対二では分が悪い場合もある。

 アリスは『遍在』を使用して前方のオーク鬼に対処しようとしたが、それはヴェンツェルが片手を上げて制止する。

「坊っちゃま?」
「せっかく魔法を覚えたんだ、たまには自分の身くらい自分で守ってみせる」
「あ、駄目ですよ離れたら!」

 川の中にいるオーク鬼へ向かってヴェンツェルは杖を構える。確かに、水で相手の動きは鈍っているが……、それでもいまの彼が相手にするのはきつい。
 アリスはそんな少年を止めようとするが、もう彼女の目前には五体のオーク鬼が迫っていた。
 その怪物たちの濁った瞳に浮かぶのは、本能だ。目の前の少女を汚れ切った欲望の眼差しで見つめ、大きく開いた口からは涎がだらだらと流れ落ちる。本能的な嫌悪感を感じ、アリスは後退る。
 だが、その行動は完全に失敗だった。わずかでも怯えを見せれば、それは負けを認めたも同然である。オーク鬼たちは、間髪入れずに飛び出した。

 アリスはとっさに『エア・ハンマー』で一体を吹き飛ばす。しかし、それは残った怪物を巻き込むものではない。ぴぎぃ、という不愉快な鳴き声と共に、オーク鬼が手にした斧を振りかぶる。それを飛び退いて回避すると、今度は矢で狙われているのがわかる。されはすぐに発射された。避けられない。魔法で防ぐ暇もない。

 古びた矢は真っ直ぐにアリスの眉間を捉えている。もう間に合わない―――少女が目を瞑り、自らの死を覚悟したとき。

 彼女は、自らの眼前を豪風が駆け抜けていくのを感じた。

 それと同時に、追撃をかけようとしていた斧持ちのオーク鬼の断末魔の悲鳴が周囲に轟いたのだ。
 思わず振り返ると、川へ向かっていたはずのヴェンツェルがこちらへやってくるのが見えた。その後ろからはオーク鬼が迫ってくる。どうやら、一人では勝ち目がないと思い直して後退したところで、視界に入った窮地のアリスを助けるために魔法を放ったらしい。
 忠告を無視して独断専行したヴェンツェルに対する飽きれと、窮地に陥ったところを助けてもらったという想い―――なんだか、複雑な気持ちが渦巻く。
 たが、それよりもまずはこの状況を打開するべきだろう。すぐに体勢を立て直し、アリスは『遍在』を詠唱。

 すぐに現れた六体の『遍在』が、残ったオーク鬼を始末するのに、それほど時間はかからなかった。



 戦いのあと。川から離れた場所に、『レビテーション』で運んだ遺骸を魔法で深く掘った穴に埋める。そこに土を被せた。

 アリスはオーク鬼の返り血がついたメイド服を見て顔をしかめると、それを洗うためにヴェンツェルの釣場から離れていった。
 既出だが、この森は人里から離れている。人が来る心配はないようだ。とはいえ、服を洗うのならばなにか体を覆うが必要だろう。ヴェンツェルは自身のマントをアリスに手渡した。

「……覗いたら、あそこに埋めたオーク鬼たちと同じ末路を辿りますよ」

 半眼でそう告げ、少女は上流の方へ向かって行こうとする。だが、ここでヴェンツェルはあることに気がついた。

「あれ、そういえば。こんなところにオーク鬼がいたってことは……上流の方にもいるかも」

 その言葉に、ぴくりとアリスの体が震えるのがわかった。次の瞬間には、彼女はすたすたとヴェンツェルに歩み寄る。

「……ここで洗いますから、そこの岩陰にいてください。いいですか。くれぐれも覗かないでくださいね」
「わかってるよ」

 信用ならないといった視線をぶつけながら、アリスは川へ向かう。一応、この付近でも水はとてもきれいなので、大丈夫だろう。
 ヴェンツェルは岩陰に座り込むと耳を澄ませた。流水の音に混じり、メイド服から発されるであろう衣擦れの音が耳に届く。しばらくすると、ばしゃばしゃという水の音がする。服を洗っているのだろうか。
 岩の向こう側には、一糸まとわぬ少女の体がある。だが、彼はそれを覗こうとは思わない。相手は腹違いだろうと妹だ。そういう対象ではない。
 ……どの面を下げて言うのか、という声が聞こえてきそうである。もちろん建前だ。

 そのまま待っていると、近づいてくる足音がした。上を見上げれば、そこにはきちんと服を着直したアリスの姿がある。

「服は乾いたのか?」
「完全とは言いがたいですが……、もう帰るだけなので、いいでしょう」

 それだけ言うと、アリスは荷物を持って歩いて行ってしまう。ヴェンツェルはその後ろ姿を追いながら、ちょっとした疑問を抱いていた。
 オーク鬼。先代の大公によって、クルデンホルフ大公国内からは駆逐されたはずの生物だ。それがなぜこんなところにいたのか。
 ……そこでふと、ローザンヌ伯領に大量のオーク鬼が現れた事件のことを思い出した。あれは、本来は追い出したオーク鬼が、再び領内に侵入したのだ。
 もしかしたら、彼らは亜人を放置している領地で繁殖して、かつて居住していた地域に戻って来るのかもしれない。

 だとすれば、それは非常に大きな問題だ。大公に討伐をするよう進言すべきである。せっかく怪物の脅威とは無縁でやってきたのだから、それを今さら打ち壊されるわけにはいかないのだ。



 *



 時刻は夕方。

 城へ戻り、アリスと別れたあと、近道をするために中庭を通る。すると、大公妃がベアトリスと一緒に野菜を収穫していた。いつの間にか植えていた茄子が育っていたらしい。秋茄子というやつだろうか。
 なぜハルケギニアに南米原産の品種が存在するのか、それはまったくの謎である。だが、この世界と現実の欧州は似ているようで異なるし、深く考える必要もないだろう。

 しばらくすると夕食の時間である。

 普段は忙しい大公が、今日は珍しく上座にいる。一家四人が久しぶりに揃った日だ。夕食の一品には、先ほど収穫された茄子が使用されていた。
 茄子に炒めた肉や野菜を詰めたもの……そう、茄子の肉詰めだ。見た目は本来の姿をそのまま保っている。ところがいざ切り分けてみると、中から肉汁と共に香辛料と肉の香りが漂ってくるのだ。
 やはり季節の野菜は美味しい。温室栽培もクルデンホルフでは行われているが、路地栽培で季節物を食べたいという気持ちはある。

 テーブルにはクルデンホルフ産のワインが置かれている。この国では、ごく少量ながらワインが製造されているのである。とても輸出するほどの供給量はないが、他国の愛好家からの評価は高い。
 しかし。ヴェンツェルはあまり酒が好きではない。大公妃の方針でまだワインを飲ませてもらえないベアトリスと一緒に、水ばかり飲んでいる。
 ちなみに、飲み水は公国内の源泉から調達している。採取地によってはかなり硬度が高いので、家臣のメイジがいちいち硬度を落としていたりする。これは先代の大公時代からの風習だ。あくまでも大公家の人間のための物だ。生産性や採算など最初から考えていない。

 食事を終えると、彼は風呂に入る。たまに大公妃が乱入してくることがあるので、入り口の方向には細心の注意が必要だ。
 貴族ともなると使用人に体を洗わせる者もいるらしいが、ヴェンツェルに言わせれば、そんなのはただのあほうである。自分でやってしまった方が早い。もちろん、“そういう”目的で使用人を連れてくるというのならわからなくもないのだけれど。

 なに事もなく風呂から上がると、あとは寝るだけである。
 さて、明日はどんな一日が待っているのだろう。少しばかり楽しみだ―――などと考え、彼は魔法のランプの灯りを杖で消した。









 ●第四十七話「時は流れて」









 ラドの月―――九月の終わり。

 ヴェンツェルはいつの間にか風のトライアングルとなっていた。自分の欲望が絡むと成長が早いらしい。なんとも自分に正直な人間である。ただ、スクウェアの壁はなかなか突破できずにいた。
 しかし実戦形式の鍛錬を繰り返し、それなりに戦うことへの自身も深まった。あとは、本格的な戦いの経験だけである。彼はまともに系統魔法を使って“実戦”を戦ったことはいまだにない。

 今日はいよいよカリーヌが選んだメイジと実戦形式で戦うらしい。男装時代に着ていた服とほぼ同じデザインの服を身に着けた『カリン』が少年の隣に立ち、対戦相手の到着を待っている。
 しかし、この服装。リクエストしたのはヴェンツェルであるが、かなりすごい。胸元の大きなリボンといい、腰周りが丸出しの短パンといい……どう見ても美少女である。これを男だと認識するのは厳しい。
 そうやって、むず痒そうな表情をしているカリーヌをじろじろと眺めていると、やがて対戦相手がやってきたらしい。

 誰かと思えば、それは……アリスである。動きやすいように軽装で身を包み、短剣を構えていた。

「あ、アリス……?」
「ミセス・ヴァリエールからお願いされましたので……。坊ちゃまがどれだけ強くなったのか、確かめさせてもらいますよ」

 そういうアリスの表情は、酷く不機嫌そうである。これは本気でやらないと再起不能に追い込まれるという予感が渦巻いた。―――やむを得まい、ここは全力でいくか。
 考え、ヴェンツェルは左手で『レーヴァテイン』を持ち、右手で杖を保持した。それを見たアリスは不可解そうな顔になるが、すぐに表情を引き締める。


 そして。カリーヌの号令をきっかけに、二人の戦いが始まる。

 先に動いたのはアリスだった。足の裏に溜めた空気を“破裂”させ、一気に左横方向へ高速移動。その最中、『エア・ハンマー』を連続で詠唱して三発の空気の塊をぶつけるという攻撃に出た。
 それをヴェンツェルは上空へ飛ぶことで回避した。しかし、それはかなりの悪手である。『フライ』及び『レビテーション』を詠唱中であるいま、彼は一切の魔法に対する防御力がないのだ。
 アリスは地上から悠々と『エア・スピアー』で対空攻撃を行う。少年は空中で必死に動き、ときおり命中しそうになる空気の槍を『レーヴァテイン』で弾く。
 たまらず地面に降りようとするヴェンツェルに、アリスは『エア・カッター』を見舞う。空気の刃が足先をかすめ、態勢を崩した少年は地面に落ちる。だが、彼はそこで後方に猛烈な速度で移動。いや、移動した、というより『飛んだ』というほうが正しいかもしれない。
 ヴェンツェルは尻の下に空気を溜め、それを前方へ押し出すことで離脱を図ったのである。

「……ラナ・デル・ウィンデ」

 再び『エア・ハンマー』が飛んでくる。そこでヴェンツェルは『エア・シールド』を張ったが、力量差が出たらしい。威力を殺しきれず、空気の塊で彼は後方に吹っ飛ばされた。

「降参しますか?」
「まだ始まったばかりじゃないか。まだまだやれるよ」

 上から目線の言葉にそう返すと、ヴェンツェルは『ウィンド・ブレイク』を唱えた。しかし、そこは絶対的な力の差がある。実にあっさりと防御されてしまった。
 続いて、アリスの早すぎる反転攻勢。足の裏に溜めた空気で一気に突っ込むと、彼女は『ブレイド』を詠唱。青い魔法の刃が短剣を包み込む。
 斬激。『レーヴァテイン』は『ブレイド』による驚異的な切断力に耐えた。ヴェンツェルは力技でアリスを弾き飛ばすと、『レーヴァテイン』を地面に差し込んだ。
 ―――その刹那、地面がひび割れを起こし、アリスの片足を引きずり込む。

「!?」

 想定外の事態だ。アリスは一瞬だけ反応が遅れる。そして、ヴェンツェルはその隙に剣を手放して飛ぶのだ。そして、虹色の『ブレイド』が薄紫の髪に触れそうな瞬間―――ヴェンツェルの体が、側面から飛んできた突風によって弾き飛ばされた。
 吹き飛びながら、風の飛んできた方向を見やる。すると、自分のすぐそばにアリスの『遍在』が佇んでいるではないか。それを使われたら厳しいなぁと思うものである。

 無様にごろごろと転がった少年は木にぶつかって頭を打つ。だが、まだだ。まだ終わらんよ―――そう、悪あがきしようとしたとき。

「チェック・メイトです」

 アリスの短剣がヴェンツェルの首筋に当てられていた。首の皮が切れ、つうと一筋の血が流れる。



「やっぱり、アリスは強いな。完全に不意を突いたと思ったんだけど」

 頭をぽりぽりとかきながら、ヴェンツェルは魔法でひび割れた地面を修復している。
 実戦経験が豊富なアリスの方がずっと状況判断に優れていたし、そもそもスクウェアとなって長い人間とトライアングルに成り立ての人間である。
 どう戦えばいいのか、どう判断するのか。そういった能力に差が出るのは、ある意味で当然と言えた。

 ちなみに、『レーヴァテイン』を地面に差し込んだのはフェイクである。剣の表面に風を流すことはしていたが、剣そのものが地面を砕いたわけではない。
 先ほどの魔法はうまくやらないとひび割れにならずに地面をめくり上げるか、あるいは風が土の固さに負けてしまうので、実は高度な技だった。使っている本人はまったく考慮していないのだが。

「……わたしに『遍在』を使わせたことは褒めてあげますよ」

 とても目の前の少年には聞こえないような声で、アリスは呟く。負けるかもしれない、と判断した彼女はとっさに禁じ手を使ってしまったのだ。

「ヴェンツェル。よくやりましたね。かなり手加減されていたとはいえ、全ての面で上位の相手によく戦いました。あとはゆっくりと経験を積めばいいでしょう」

 嬉しそうな声音で、カリーヌはそう告げるのだった。






 深夜。

 ヴェンツェルの自室で、カリーヌは荷物をまとめていた。もともとほとんど荷物は持ってきていなかったが、それでも女性である。荷造りは必要なのだ。それにしてもここでやるのは疑問だが。
 一応、ヴェンツェルの魔法の能力は人並み以上になった。もう、カリーヌがあれこれ理由をつけて居座るのは無理だろう。

「はぁ。長かったようで、あっという間でした。……やっぱり、ずっとこうしていたい気がします」

 バッグの口を閉めると、カリーヌはため息混じりに呟く。彼女はまた男物のシャツ一枚しか着ていなかった。楽だからと言うのだが、果たしてそれはどうなのかと思うわけである。

「大丈夫ですよ。会えなくなるわけじゃないんですから」
「でも……」
「公爵に関係が疑われれば、それこそ一大事です。もう魔法の指導という大義名分がなくなった以上、お互いが今までの生活に戻るしかない」

 でも、とヴェンツェルは続ける。

「いつかの繰り返しになりますが、絶対になにかしらの方法は見つけます。それがどんな方法でも、僕たちにとって最善ならば実行しましょう」
「……ええ。そうですよね。やっぱりまともじゃないですから、いまの状況は。耐え忍ぶこともまた……」


 一応はお互いの生活に戻ることとなった。この先どうなるのか。わからない。本人たちにすら。

 そして翌朝、クルデンホルフ家の馬車に乗せられ、カリーヌは自らの“居場所”へと帰ることになる。だが、それが彼女望むことかといえば……。





 *





 年末。

 寒さも一段と強さを増したころ。クルデンホルフは真っ白な雪に覆われていた。ヴェンツェルの魔法学院入学まで、もう正味三ヶ月ほどである。

 カリーヌが帰宅したあとも、たまに隙を見つけては二人は密会していた。それを知るのは、無理やり協力させられているアリス一人。
 彼女は“兄”の、そういう半ば倒錯した行動に疑問を抱いていたが、使用人としての自分の立場を自覚するならば、将来的な主人には絶対に従わなければならないのだ。
 たとえそれが、自分にとってまったく面白いものでなくとも。
 なぜカリーヌがあそこまでヴェンツェルに入れ込むようになったのか。それはアリスがあずかり知らぬことだ。平民である自分が首を突っ込むことでもない。
 だが……頭ではそう思っていても、心がなんとなくそれを許さない。あのままではヴェンツェルは破滅するだけではないのか。そう考えるようになった。

 しかし、彼はそんなことはわかっているようだった。それでも、自分に好意をぶつけてくる人妻が可愛くて仕方がないらしいのだ。もう駄目だこいつ……と、傍観しながら思うのである。


 防寒着を身にまとったアリスは、真っ白な雪に覆われたクルデンホルフの城を見上げている。吐く息は白い。まさに冬だ。
 もうすぐヴェンツェルは魔法学院に入学し、三年間の大部分を自分とは無関係な土地で暮らすのだ。なんとなく寂しいような気もすれば、別にそうでもない、と思うこともある。

 いまの彼に、自分は必要ない。魔法が使えるようになったのだから。

 ただ……、なんとなく、本当になんとなく、置いていかれるような気がした。
 大公妃がうなされるという悪夢。ヴェンツェルが自分たちの前から消え去ってしまうという夢だ。カリーヌとの関係を考えれば、それは案外と可能性のあること。

 だが。

 いまのアリスには、どうにもそうは思えなかった。彼がカリーヌとどこかへ行くことは絶対にない。なぜか、そう確信できる。
 怖いのは、“それ”ではない。

 ラグドリアン湖の水の精霊―――ヴェンツェルを排除しようとした、始祖ブリミルより古き存在。あのとき、精霊は自分になんと言ったのか。

 『―――単なる者よ。我の行いを妨害したその選択、いつか後悔することになるぞ……』

 不意に、その言葉がフラッシュバックする。言いようのない、どうしようもない不安感に襲われた。
 だが、そこで頭を振ってその思考を追い出した。大丈夫だ。彼がどこかへ行きそうになったのなら、自分が繋ぎとめればいい。大公妃は気に入らない存在だが、きっと彼女と自分は同じ考えをしている。

 後悔などしない。するはずがない。どんなに辛い態度をとっても、自分を誤魔化して、どんな態度に出ようと、自分は……。


「アリス? なにしてるんだ、こっちへ来なよ」

 思考を巡らせたとき、彼女を呼ぶ声がした。その方向へ顔を向ければ―――アリスと同じような防寒着を着たヴェンツェルが、彼女を手招きしている。少年の背後には『カマクラ』という雪で作られた大きなドームがあり、その中では大公妃とベアトリスが椅子に腰かけてなにかしていた。

 不思議だ。“兄”は、いつも自分の知らない東方の文化を知っている。もしかしたらそれは、東方の文化ではないのかもしれない。どこか遠くの―――いや、やめておこう。いまは。
 せっかく、使用人の自分を混ぜてくれるというのだから。いまは素直にその言葉に甘えよう。

 ゆっくりと、アリスは歩き出した。

 どこまでも白い世界の中で、その一部分だけが色づいたように思えた。アリスは足取り確かに、ヴェンツェルへ向かって歩くのだ。『カマクラ』ではなく、自らの“主”の元へ。





 ―――この先、どんな未来が彼らを待ち受けているのか。それはまだ、誰も知らないことだった。










 第一部 了





[17375] 【第二部】第一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:6c6389aa
Date: 2010/11/01 20:53
 トリステイン王国中部には、トリステイン魔法学院という学校施設が存在する。
 貴族の子女たちが三年間を過ごす学舎であり、将来の人脈を築く場でもある。“名目上”は、家の爵位に関係なく、皆が対等な立場で学習するのだ。

 フェオの月はフレイヤの週の終わり。そんな学院に向かう主要道。

 近隣の農村に居住する農夫がいつものように畑仕事をしていると、南の方角から大きな馬車がやって来るのがわかった。
 農夫はもう何台と貴族の馬車を見ていたが、今回のそれは今までの物とは格が明らかに違うものだとわかる。
 無駄にごてごてと装飾の施された大型馬車が土煙を上げながら道を進む。今年はえらいのが入学するんだなぁ、と思いながら、農夫は仕事を再開するのだった。


 がたごとと揺れる馬車の内部。一人の金髪の少年がふかふかの寝台に寝転がり、新聞に目を通している。他に人の姿はない。使用人が御者台に二人いるだけだ。
 少年の名はヴェンツェル。半独立国家クルデンホルフ大公国に君臨する大公家の長男だ。彼は今年、トリステイン魔法学院へ留学という形で入学することになったのである。

 彼の母親である大公妃は、当初自分も身分を偽って入学すると言いだしていた。彼女はとある理由で十代中頃の容姿となっているのだ。
 しかしそれが息子によって拒絶されると、大公国の兵力である『空中装甲騎士団』を護衛に出すと言いだしたので、二人はちょっとした喧嘩状態になった。
 結局大公妃側が折れたものの、入学する前からヴェンツェルは大きな心労を負う羽目になったのである。



 数日をかけ、いよいよ馬車は魔法学院に到着した。周囲には同じように貴族の馬車が停車しているが、そのどれもがヴェンツェルの乗って来たものよりも小さい。
 他にグラモン家の馬車は目立っているのだが、それは借金をして無理やり調達したのである。

 使用人が馬車の扉を開けたので、ヴェンツェルは馬車から降りる。まずゆっくりと、草地に足をつく。
 見上げれば、そこには魔法学院の尖塔が立ちはだかっていた。実際に目にしてみると、思っていたよりもずっと高さのある建物だ。優秀な土メイジたちが作り上げたという話は本当なのだろう。
 私物は基本的に前もって運び込まれている。ヴェンツェルは身につけているものしか持つ必要がないのだ。

 会釈する使用人に礼を言って、少年は魔法学院の門をくぐる。
 すると、見事にウェーブした金髪の女性が、子供たちを入学式の会場であるアルヴィーズの食堂へ誘導している。
 よく見れば、その女性はかつてローザンヌの町で出会った少女、リディアだった。眼鏡をかけた彼女は、かつてのお転婆娘のような雰囲気から一転、大人の女性らしい佇まいをしている。
 懐かしいなぁ、と思いつつ、向こうは多分自分に気がつかないだろうとも思うのだ。
 そんなことを考えながら、リディアのいる方へ歩く。彼女はヴェンツェルの顔を見て一瞬だけ疑問を感じたようだが、すぐに営業用の笑顔に戻った。アルヴィーズの食堂を指し示されたので、少年は礼を言って中央塔に向かう。


 アルヴィーズの食堂は新入生でごった返している。貴族の子弟が王国の各地から集まっているのだ。補足すると、この場にいるのは領地持ちの家の子供が大半だ。
 ちなみに、クラス分けもこのとき行われるらしい。

 テーブルは先に来た人から順番に詰めていくらしい。ヴェンツェルもそれに倣って、置かれていた椅子に腰掛けた。
 『シュヴァリエ』の紋様が刺繍されている黒いマントへ視線を向けた、一部の生徒がささやく声がする。大方、「あれがクルデンホルフの……」などと話しているのだろう。

 しばらくすると九十個の椅子は埋まったらしい。
 なんとなく周囲を見回すと……真っ先に、桃色の髪の少女が飛び込んでくる。気がつかなかっただけで、真向かいにいたらしい。一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らされた。
 見れば見るほど、カリーヌと似ているものだと思うし、しかしそれでいてやはり別人だとわかるのだ。
 そして、なんとなく後ろを振り返ると、何個か後ろの席……そこにいたのは、褐色肌で赤毛の美人な女性である。これは十中八九、キュルケだろう。
 他にも、見たことのある顔の生徒が何人かいた。……なんだろうか。妙に見たことのある顔がいるような気がするのだが。具体的には、この国のお姫様。……いや、他人の空似だろう。髪結ってるし、眼鏡かけてるし。そう思おう。そうしよう。


 やがてこの学院の長であるオスマン氏と数人の教員が現れ、中二階に立つ。威厳のある姿である。

「生徒諸君。諸君らはトリステインの、いや、ハルケギニアの将来を担う優秀な貴族たれ!」

 ヴェンツェルの予測とは違い、オスマン氏は中二階から飛び降りなかった。その場で立派な言葉を吐き出し、生徒たちは噂に聞く高名な魔法使いに賞賛の拍手を送る。
 彼の背後にいるキュルケも拍手を送っている。ぼろを出さなかったオスマン氏に幻滅することがなかったのだろう。それでも眠たそうだが。

 オスマン氏が長々とした祝辞を述べ終わると、学院の教員らが一斉にクラス分けの説明をし始めた。真剣な表情の生徒が多い中、キュルケは興味がなさそうにあくびをかましている。
 ヴェンツェルはソーンのクラスに振り分けられたらしい。入学式が終わると同時に、クラスの担任に引き連れられて教室へと向かった。


 教室はよく見る大学のような構造になっている。教室の前方の低い位置で教師が授業を行う。そして段々畑のように、生徒たちが授業を受けるための机が配置されているのだ。
 ヴェンツェルは適当に腰かける。周囲を見回すと……先ほど目撃した、王女のそっくりさんがいる。しかしよく似ているなあと思うものである。彼女と目が合うと、なにやらその青い瞳が輝いた。いったいどうしたのか。そんな疑問を浮かべる。
 すると、隣に誰かやってくるのが見えた。誰かと思えば、ガリアとの講和会議で出会った眼鏡の少年、レイナールであった。

「やあ」
「あ、きみはクルデンホルフの」

 声をかけると、レイナールは驚いたような顔になった。ただ、ヴェンツェルのことは覚えていたらしい。ここで会ったのもなにかの縁だ。せっかくなので友好的に接しておこう。

「ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフだ。改めてよろしく」
「レイナール・ド・ブリュージュ。こちらこそよろしくお願いするよ」

 そう言って、二人は握手を交わす。
 しばらく二人で他愛のない雑談に興じていると、どこかへ消えていた担任の教師が戻ってきた。簡単な自己紹介のあと、今後の日程などに関する説明が始まる。




 *




 入学式と簡単なオリエンテーションは終わり、ヴェンツェルは男子寮の自室へとやってきた。

 十畳ほどの広さの居室は、クルデンホルフから運ばれてきた荷物で溢れている。基本的な家具はあらかじめ設置が済んでいるので、あと小物を取り出すだけだ。
 一時間ほどで作業は終わった。鞘に入れた『レーヴァテイン』を壁に掛け、ヴェンツェルは大きなベッドに横たわる。十畳といえば、今まで自分が済んでいた部屋の半分ほどの広さしかない。それでも一人で住むには大きいくらいだろう。
 さて、これからどんな生活が待っているのだろうか。

 ……少し考え事をしていると、トイレに行きたくなった。ヴェンツェルは部屋を出て、トイレに向かう。

 用を足したあとヴェンツェルが部屋に戻ろうと歩いていると、隣の部屋から誰か出てきた。いったい誰かと思えば……。

「ヴェンツェルじゃないか。きみはそこの部屋かい? 奇遇だね、ぼくはこの部屋なんだ」
「おや。本当に奇遇なものだ」

 金髪の気障男、ギーシュだった。せっかくだからと少し話をしてみると、彼はさっそく女の子をナンパしに行くつもりらしい。初日からどんだけ気が早いのだろう。
 というより、モンモランシーに怒られるのではないか。

「きみ、ミス・モンモランシはどうしたんだ。付き合ってるんじゃないのかい」
「うん? いや、彼女とはそういう関係ではないよ」

 ギーシュは不思議そうな顔で言う。どうやら、まだモンモランシーと付き合っているわけではないらしい。

「そうか。まぁ、それはいいんだが、初日からいきなりナンパするのはどうかと思うぜ。早漏だと思われる。それより、実家から持ってきたワインがある。いまから開けようと思ったところなんだ」
「ワイン?」
「うちの国で生産してるやつだよ。結構うまいんだぜ」

 うまい、とは言うがヴェンツェル自身はあまり酒類を飲まない。ただ、実家ならそれでも良かったが……。ここでは、そういうわけにもいかない。

「う、むむむ……」

 女の子とワインを天秤にかけているらしい。ギーシュは唸っていたが……。
 クルデンホルフのワインといえば、生産国を除いてはほとんど流通しない代物である。彼としてはぜひ飲んでみたい。しかし、麗しの美少女たちとの出会いを求めたい気持ちもある。

 しばらく悩んだあと、ギーシュは顔を上げた。

「よし。ワインを貰おう」
「そうこなくちゃ」


 その日の夜。入学初日から、二人は遅くまでワインを飲み明かすのであった。









 ●第一話「トリステイン魔法学院」









 入学から三日後。朝合流したレイナールやギムリと共に、ヴェンツェルはアルヴィーズの食堂を訪れた。

 椅子を引いて席に腰掛けた。すると、周囲からいろいろな視線を感じる。羨望、やっかみ、侮蔑……悪い方向だけではないのが救いだろうか。
 クルデンホルフ家の嫡男である彼は、ほとんどの生徒に遠巻きに観察されている、というのが現状だ。成金クルデンホルフの評判はあまり芳しくないらしい。
 それでも、最近では同じクラスのレイナールやギムリ、違うクラスながらたまにギーシュとつるむことが増えた。かなり積極的に話しかけたのが功を奏したようだ。

 彼らから少し離れた場所にはルイズがいる。落ち着いた様子で座っているようだ。周囲の生徒たちは、そんな桃髪の少女を遠目に眺めている。
 それもそうだろう。なにせルイズはトリステインの大貴族ラ・ヴァリエール家の令嬢なのだ。公爵家は数あれど、ラ・ヴァリエール家に匹敵する格を持っているのは、今ではもう存在しない。
 大公妃の生家であるブラバント公爵家も歴史は古く、過去の偉容もあるが、今ではすっかり没落してしまっている。
 さらに。ルイズは幼少時のアンリエッタの遊び相手としてそれなりに名が知れているらしい。先ほどからひそひそ声が聞こえてくる。

 そういえば。ヴェンツェルは、施設を見学したいというレイナールと共に学院を探検したのだが、ルイズの姿を見たのはこの食堂でしかない。普段は自分の部屋にいるのだろうか……。
 などと思っていると、生徒の一部がルイズの元へ向かった。

 少年少女たちはルイズに挨拶をしたかったらしい。おずおずと話しかけている。だがルイズはといえば、返答こそすれど前を向いたままだ。
 ああいう誤解されるような態度は、嫉妬深く思い込みが激しいトリステイン貴族に行うのはよくない。現に、ルイズに話しかけていた連中はあからさまに気分を害したようだ。
 そこで前に進み出てきたのがモンモランシーだ。見事にロールした金髪をかきあげ、なにか言っている。
 ルイズとモンモランシーの口が矢継ぎ早になにか吐き出している。そのうち二人とも顔面が赤くなり始め、かなり剣呑な雰囲気が流れる。

「相手はラ・ヴァリエールだもんなぁ。そこら辺の伯爵風情じゃ話にならないよ」

 ルイズを見つめながら、レイナールはぽつりと呟く。我関さずという態度を貫いていたギムリは、食事を止めてじっと遠くで起きている騒動を眺める。

「ま、こっちはこっちでやればいいさ。なんせ大公子さまがいるんだぜ」
「爵位だけなら上だけど……、うちも、ラ・ヴァリエールには頭が上がらないんだよ」

 などといいつつ、公爵夫人と関係を持つヴェンツェルである。ある意味綱渡りである。

 と、そのときギムリの目が細められる。その視線の先には、いつの間にか赤髪の女性―――キュルケが現れていたのだ。その場は騒然となる。

 少しばかり二人の会話が気になったヴェンツェルは、そっと腰の杖に触れた。空気の流れを操作し、自分の耳にルイズとキュルケの会話だけが入りやすくする。


「あなたがラ・ヴァリエールだったなんてね。寮でもほとんど見かけなかったから、まったくわからなかったわ」
「……誰。あなた」
「キュルケ・フォン・ツェルプストー。あなたのお隣さんよ。二つ名は“微熱”」
「なっ!」

 ルイズは目を見開いた。フォン・ツェルプストーといえば、国境を挟んだトリステイン側にあるラ・ヴァリエールにとって宿敵とも言うべき間柄だ。
 両国が戦争に陥るたびに真っ先に両家が杖を交え、お互いに殺しあった一族の数は計り知れない。ましてラ・ヴァリエールは、ツェルプストーに恋人や妻を寝取られまくっているのである。
 そうなれば当然、両家の関係は最悪である。

「そんな目で見ないでよ。領地だけじゃなくて、寮の部屋までお隣同士の仲じゃない。先祖云々なんて言わないで仲良くやりましょ?」

 そう言ってキュルケは手を差し伸べるのである。ここでこれ以上荒波を立てたくないルイズは、その手を握る。その瞬間。猛烈な圧力が彼女の小さな手を握りつぶそうとしてくる。
 キュルケ、その額に青筋を浮かべているではないか。そう見ても確信犯だ。
 ルイズはかなり痛いはずだが、プライド故か、一言も漏らさずに握り返した。ぎりぎりと猛烈なデッドヒートが繰り広げられる。

「どうされたのかしら、ヴァリエールさん? お顔が真っ赤ですわよ」
「る、ルイズでいいわ。だってわたしたち、仲良しなんですものね!」
「じゃあ、じゃあ。わたしもキュルケでいいわ、ルイズさん」

 端から見ていても異常な光景だとしか言いようがなかった。見かねたのか、モンモランシーが諌めるように口を動かす。すると、二人ははっとしたような表情になって手を放した。
 ここは魔法学院である。公衆の面前でみっともなく対立してもしょうがないと感じたのだろう。
 モンモランシーがキュルケになにか言っていると、慌てた様子のギーシュが乱入してきた。キュルケの胸の谷間に夢中らしく、視線を隠そうともしない。そんな彼の耳を、不機嫌気味なモンモランシーがぐいと引っ張り上げた。

 やがて、ギーシュとモンモランシーが名乗りを上げたのをきっかけにして、その場に食事を終えた連中が集まりだす。どうやら、社交の場が形成されつつあるようだ。

「殿下。わたしもあの場に参加したく存じ上げます!」

 ちょうど食事を終えたギムリがそんなことを言い出した。彼の視線はといえば、さっきからキュルケの胸元に夢中である。生真面目な性格のレイナールは諌めるような視線を送るが、やっぱり褐色美人のことは無視できない存在らしい。
 やれやれ。こういうのも貴族のたしなみかねぇ、などと考えながら、ヴェンツェルはレイナールやギムリと共に席を立った。

「ヴィリエ・ド・ロレ……」
「ほら、退いた退いた! クルデンホルフ大公家の公子さまのお通りだい!」

 名乗りを上げようとした少年をギムリが押しのけ、集団の中に入っていく。ギムリの目的は完全にキュルケで、そのために邪魔な生徒を押しのける必要があったのだ。
 唖然とするヴィリエという生徒の横を、ヴェンツェルは悠然と歩いて行く。通り過ぎる瞬間、名乗りを妨害された少年は悔しそうに顔を歪めたが……、それは本人以外の誰も知る由がない。

「あら。あなたが噂のクルデンホルフの……」
「ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフだ。ミス・ツェルプストー」

 むせ返るような色気を放つ美人が眼前にいる。ギムリはと言えば、名乗りも上げずに胸を凝視している。一応態度を取り繕っているので、実に滑稽な姿であるとしか言いようがない。
 彼らの姿を認めたルイズの顔が、途端に強張る。ヴェンツェルはルイズが魔法をろくに使えないことを知っているからだ。彼の登場によって余計に野次馬が集まりだしたので、退路すらふさがれてしまった。

「わたしの名前をご存知なのね。光栄ですわ、ミスタ」
「ええ。まぁ」

 キュルケは品定めをするような視線を浴びせる。容姿は……合格。かなりの上物。家柄……当然問題ない。魔法……ガリア軍の大元帥を捕獲するほどなのだから、それなりだろう。あとは……。
 まずはこの少年にしてみようか。キュルケは男漁りの第一号をヴェンツェルに定め、さも偶然を装うかのように蹴躓いた。
 豊満な肉体が目の前の月目の少年に倒れ掛かる。きゃ、という声をわざとらしく上げ、キュルケはヴェンツェルに抱きとめさせる。

「大丈夫ですか? 気をつけてください」
「え、ええ。ありがとう」

 柔らかな胸部の塊を少年の胸板に押し付け、形が変わる様を見せ付けるかのようにキュルケは言う。ちなみに、彼女の方がヴェンツェルよりも少しばかり身長が高い。ちょっと不自然な体勢だったりする。
 これには自信があった。ウィンドボナの魔法学校では、軽くすれ違ったときに“サイン”を見せただけで男は告白してきたのだ。
 見た感じ、目の前の少年はあまり女っけがなさそうなのも自信に繋がったのである。
 しかし。
 とくにヴェンツェルは表情を変えず、目の前にいる女性の体を気遣うそぶりを見せただけだ。豊満な胸も“自然に”眼中に入っていない。

「殿下……」

 一方で、ギムリがうらやましそうな視線を向けてくるのだった。

 ヴェンツェルはルイズへ視線を向ける。どうにも居心地が悪そうで、いますぐにでも逃げ出したい気持ちなのがありありとわかった。しかし、それは周囲が許さない。
 いつの間にか、ルイズにキュルケが話しかけている。かなり不機嫌そうだ。いったいどうしたのか。

「ねぇ、ルイズ。そういえば、まだあなたの二つ名を伺っていなかったわ。わたしが名乗ったのだから、あなたも名乗りなさいな」
「……」
「それって礼儀だと思わない? まぁ。まさかねぇ、公爵家のご令嬢ともあろうお方に、二つ名がないなんてことはないだろうけど」

 それに便乗するように、誰かが「あのラ・ヴァリエール家なんだから、さぞかしすごい二つ名をお持ちに違いない」と言い出した。周囲から無遠慮な視線が向けられる。
 ヴェンツェルはそれを静観している。よく考えたら、自分にも二つ名なんぞないのである。尋ねられたときのために、いま必死で考えているのだ。

 ルイズはしばらく硬直していたが、ついに観念したらしい。呟くような声で言う。

「………いわ」
「え?」
「ないわ。二つ名は」

 場が騒然となる。まさか。あの名門の公爵家、そのご令嬢に二つ名がない?
 ギーシュが「きっと、“ないわ”っていうのは古代語なんだよ。意味は『エターナルフォースブリザード。相手は死ぬ』……」などと意味不明なことを言い出したので、モンモランシーに脛を蹴られた。

 キュルケはルイズの様子を観察していて、なにかに気がついたらしい。立ち去ろうとするルイズの細い肩に手を回し、耳元で小さく呟いていた。
 どうやら、もうすぐ始まる授業で系統魔法をルイズにすべて使わせるつもりのようだ。酷薄な笑みを浮かべている。恐らく、もうルイズの実力が口に出せないレベルのものだと気がついているのだろう。

 ちなみに、ヴェンツェルは最後まで二つ名を尋ねられることがなかった。




 *




 夕刻である。

 レイナールと一緒に図書館の蔵書を漁った帰り。魔法書を抱えたヴェンツェルが自室の前にやってきたとき。ドアの下に、小さな紙切れが挟まれているのを見つけた。
 拾い上げてみると……流暢な文体で『日が暮れたら火の塔へ来てください』とだけ記されている。これは女性の書いた文字に違いない。
 これは……来たのか。入学早々来てしまったか。いや、落ち着け。相手がそこら辺の男爵家の四女などだとやっかいだ。貴賎結婚は避けるべきである。
 などと思いつつも、本を自室にしまったあと、うきうき気分で少年は火の塔へ向かうのだった。


 火の塔は通常の場合、授業以外では使用されない。いまは無人である。
 そんな建物の内部に侵入する人物がいる。ヴェンツェルだ。彼はきょろきょろと周囲を見回しながら、そっと物陰に身を潜ませる。すると……、誰かの足音がした。

 月明かりを背に受けているため、それが細身の少女であること、ふわふわの長い髪の持ち主であることくらいかわからない。彼女は足を止めると、先ほどのヴェンツェルのように辺りを見回す。

「やぁ」

 立ち上がり、少年は少女に声をかける。びくり、と目の前の少女が震える。

「な、あ、あんたが、あの紙切れを寄越したの?」
「え?」

 いったいなんのことだ。それにこの声、たいへん聞き覚えがある。試しに杖を取り出して『ライト』を詠唱すると……。

「……ミス・ヴァリエールじゃないか。いったいなにをしているんだ」
「あ、あんたこそ。なにをしにこんなところに……、はっ!」

 なにかに気がついたのか、ルイズはじりじりと後ずさりを始めた。額には汗が浮かんでいる。なにか壮絶な思い違いをされているようだった。

「勘違いしてもらっては困るな、ミス。僕は部屋の入り口にあったメモを見てこの場所まで来たんだ」
「……本当?」
「ああ。ほら、この通り」

 そう言って、ヴェンツェルはルイズに小さな紙切れを手渡した。すると、彼女もスカートのポケットから同じような紙切れを取り出し、両者を見比べている。

「……ええ、そうね。両方とも同じ筆跡みたいだわ」
「誤解が解けたようで」
「でも、じゃあ。いったい誰がわたしとあんたを呼び出したのよ……」

 少し落ち込んだ様子のルイズが、ぼつりと漏らした。よく見れば、その白い頬には涙の枯れたあとがある。やはり、魔法の使えない状態で魔法学院に来ることは大きなプレッシャーになっていたらしい。
 と、そのときである。ヴェンツェルは“なにか”の気配を察した。ルイズを抱き寄せ、風の魔法で高速移動。物陰に身を潜ませる。

「ちょ、ちょっと! あんた、なにくっつ―――」
「しっ! なにか来る」

 突然の出来事に暴れるルイズを強引に押さえ込みつつ、ヴェンツェルは塔の入り口付近を注視。すると、そこに一つの影が現れた。フードを目深に被っており、性別の判断がつかない。
 ……いったい、あれは誰だろう。この場所に自分たちを呼び出した本人だろうか。に、しても怪しい。こんな人気のない場所に、大貴族の子弟二人を呼び寄せる―――もしかしたら、その手の賊。あるいは……。
 やがて、フードの人間は杖を取り出した。『ディテクト・マジック』を唱えるつもりのようだ。だが、そうはさせない。いつの間にかくたりとへたれこんだルイズから身を離すと、ヴェンツェルは足の裏に空気を溜め、一気に加速した。

 フードの人物がこちらを振り向く。しかし、そのときにはヴェンツェルの体は目前に迫っていた。手刀で杖を相手の手から弾き落とすと、抵抗する間もないフードの人物の腕を掴む。瞬間的に女性の物だとわかったので、攻撃方法を変える。腕を折らないように押さえ、力任せに床に押し倒す。
 「きゃっ」という声が聞こえてくるが気にしない。相手が女だからと油断して暗殺された人物は数知れないのだから。

 上半身を床に這い蹲らせ、両の手を尻の少し上の部分で締め上げる。ちょうど、正座をしたまま上半身だけが床についているような状況だった。尻がつきだされる形となり、フードの人物が羞恥の声を上げているのがわかった。だが。だがである、油断してはならない。相手は貴族の暗殺を目論んでいるかもしれないのだ。
 ルイズがこそこそと物陰から出てくる。ヴェンツェルはフードの人物が何者であるかを見極めるため、一気にフードを引き上げた。

 そして。

 フードの下から出てきた顔に、思わずヴェンツェルは唖然としてしまう。

「あ、あなたは……」

 なぜなら、その場にいたのは。


 頬を上気させ、苦しげな表情で大きな目に涙を浮かべる少女―――この国の王女である、アンリエッタ・ド・トリステインだったのだから。





[17375] 第二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:5725dbe8
Date: 2010/08/27 23:39
 トリステイン魔法学院を構成する尖塔の一つ―――火の塔。

 明かりのない暗がりのなかで、三人の少年少女が顔を見合わせている。

 その中の一人、金髪の少年ヴェンツェルの顔にはいくつかの引っ掻き傷があり、それは栗毛の少女に寄り添う、桃髪の少女ルイズによって付けられたものである。
 肩までの栗毛の少女―――アンリエッタは、両手で顔を覆いながらしくしくと俯いてしまっている。なにを隠そう、彼女はトリステイン王国の王女なのである。
 そんな高貴な箱入り娘である彼女に、ヴェンツェルはかなり恥ずかしい格好をさせてしまったのである。もし王にそれが知られれば、最悪の場合打ち首になるかもしれない。

 どうしたものかとヴェンツェルが悩んでいると、アンリエッタが顔を上げた。少しだけ目は赤いものの、いまは落ち着きを取り戻している。

「あー……、すみませんでした。まさか殿下ご本人だとは……」
「ひ、ひひひ姫さまに、ななななんてことを……」

 ぷるぷる震えながら、ルイズはわなわなとほとんどキレそうになりながら口を開く。だが、それはアンリエッタ本人が制した。桃髪の少女の握りこぶしを両手で包み込むように押し止めたのだ。

「……いいのです、ルイズ。むしろ、これほどの対応が出来るのならば、かえって安心できるのですから」
「ふぇ?」

 突然の王女の言葉に、ルイズは思わず唖然とした表情で呟いた。

「ルイズ、ヴェンツェル殿。わたくしがあなた方にこの場へお越しいただいたのは……、この学院に通うに当たって、ご協力をお願いしたかったからなのです」
「……協力?」
「はい。わたくしは身分を偽って―――アルビオンの亡命貴族、ヘンリエッタ・ステュアートとして入学したのです。あくまでも“一貴族”、ごく普通の生徒として」
「なぜ、そのようなことを?」

 ヴェンツェルが疑問符を浮かべながら問うと、アンリエッタは隣のルイズへ顔を向けて手を握りながら、静かに答える。

「父上に、勧められたのです。お前もたまには世間に出てみろと。いつまでも城にこもっているなと。タイミングとしては良い機会なのです。ちょうど今年は、信頼できる方々が入学されますし」

 トリステイン王はなぜかまだ存命している。そして彼が生きていることで、この国は“史実”ほど弱体化はしていない。しかし一方で、こういう完全に予想外の事態が起きてしまうのだ。
 ヴェンツェルは頭が痛くなってきた。それを知ってか知らずか、アンリエッタは少年に顔を向け、続ける。

「ですから、まずは信頼に値すると判断したあなた方にお越しいただいたのです。自分一人ではどうしようもないので……、ご協力、お願いできないでしょうか?」

 少々ためらうようなアンリエッタの声。それをすぐに打ち破るのは、桃髪の少女の大きな声だ。

「なにを迷うことがありましょう! もちろん全力でお手伝いさせていただきますわ!」
「ルイズ……」
「姫さま!」

 なんだか知らないが、二人は急に感極まったらしく、がしっとお互いを抱き締めた。置いてきぼりのヴェンツェルは頬をぽりぽりと掻くしかない。
 アンリエッタの顔を直接見たことがあるのは、本当に少数の生徒しかいないはず。それも何度も見たという人間は本当に少ないだろう。変装さえしていれば気づかれない、とは思う。
 それにしても。信頼してもらえるというのは光栄ではあるが、これは大きな問題ではないか。もしアンリエッタの身になにかしら悪いことが起きれば……。
 いや。それを防ぐために自分たちが呼ばれたのだろうか。

 オスマン学院長だけはこの件を承知しているのだという。王都からの護衛は一切ついておらず、まさに単身でアンリエッタはこの学院に来たらしい。
 魔法学院といえばメイジの巣窟であり、そこら辺の賊程度が迂闊に侵入できる場所ではない。とても安全な場所、というのが大方の見方。
 むしろ恐れるべきは、同級生の男子が放つ魔の手であると言われているくらいだ。
 まして、アンリエッタは変装していてもかなり目立っていた。
 浮き名を流すような上級生は特に危険である。現状ではペリッソン、スティックス、エイジャックス……イケメン軍団に世間知らずな王女は騙されてしまうかもしれない。
 前々から思っていたが、あの王はいろいろと大丈夫なのだろうか……。ヴェンツェルは大いに疑問を覚えた。


 細かい話は明日にするということで、ヴェンツェルはルイズとアンリエッタを女子寮に送る。そして、そのまま男子寮には戻らず、オスマン学院長の元へ向かうことにした。



 学院長室は中央塔の内部にある。名乗りを上げながらノックをすると、内側から扉が開かれた。その奥には軽くウェーブした金髪の女性―――リディアがいて、ヴェンツェルの姿を見て驚く。

「最初に見たとき、もしかしたら……と思いましたが、ヴェンツェルくんだったんですね」
「ええ。お久しぶりです」
「すっかり変わりましたね~。お姉さん驚きました」

 眼鏡をかけた姿は理知的な秘書という出で立ちであるが……、いざ話してみると、あまり変わっていないように感じる。
 しかし。数年前の時点でかなりあった胸はさらに大きくなっていて、目測ではキュルケを上回っているようにすら見える。
 ……と、本題を忘れてはならない。奥に腰かけるオスマン氏に用件を伝える。すると、白髪の老人はリディアに目配せをする。秘書の女性は頷くと、ヴェンツェルに小さく「そのうちお話しましょう」と囁いて去って行った。
 あとには、学院長であるオールド・オスマンとヴェンツェルだけが残された。白髪の老人は少年に視線を向けると目を細める。

「お久しぶりです」
「うむ。大きくなったのう。……時間が経つのはあっという間じゃ……、ヴェンセラスくん」
「ヴェンツェルです」

 懐かしそうな表情でオスマン氏は名前を間違える。ヴェンツェルは思わず突っ込んだ。
 挨拶もそこそこに、アンリエッタに関する話を始める。まずは、学院の最高責任者であるこの人物と話をしないことには始まらないだろう。

「王女殿下のことなのですが……」
「おお。きみの元には連絡があったのじゃな」

 なにが嬉しいのか、オスマン氏は言う。そして続けた。

「ということは、殿下から協力してほしいという話もきておるのじゃろう?」
「はい。その通りです」
「うむ、ならば。きみには王女殿下の護衛をお願いしたい」
「な……」

 いったいなにを言っているのか、この老人は。いくらなんでもそれはないだろう。ヴェンツェルがそんな疑念を顔に浮かべていると、オスマン氏は口を開く。

「実を言うとな。国王陛下から、『娘に普通の学院生活を送らせてやりたいので協力してほしい』という頼みごとをされてのう。普通なら断るところなのじゃが……」

 そこまで言って、オスマン氏は腕を組んで俯いた。苦悶の表情を浮かべている。……どうやら、なにか弱味があるらしい。それを察せぬほど鈍感ではないつもりだ。

「……なるほど。だいたいの事情はわかりました」
「うむ。察してもらえて助かるよ。……お主には、三年間を通じて殿下のよき友人兼護衛であってもらいたい。そのためなら多少の便宜は図ろうぞ」

 オスマン氏は長い白髭を撫でながら、満足そうな声音で言う。だが、急に表情を引き締めたかと思うと、険しい口調になった。

「くれぐれも言っておくが、相手は王女殿下じゃ。ワシの首なら飛んでも構わぬが、決してきみたちに責が及ぶような行いは避けるようにしておくれ」
「……はい。わかりました」

 断ることもできたのだろうが、既に本人に頼まれている以上、オスマン氏の要請を断っても仕方がない。

「うむ。それでは頼む」

 その言葉に返事をして、ヴェンツェルは学院長室をあとにする。


 最後に扉を閉めたとき、彼はあることに気がつく。

「……あ。結局いいようにされてしまったじゃないか」

 気がついたときには後の祭りである。これから三年間、彼はアンリエッタの動向に目を光らせなければならなくなったのだ。だが……。

「ま、ルイズがいるし……なんとかなるだろ」

 深くは考えず、楽観的な考えを持ってしてヴェンツェルは男子寮へ歩きだすのである。 だが、果たしてそんなに簡単に行くものだろうか。このときの少年には予想もつかぬことであるが。









 ●第二話「その名はゼロ」









 翌朝。

 今日からいよいよ、実技の授業が始まる。そろそろルイズにとっては地獄の始まりだと言っても過言ではない。
 朝食の席でヴェンツェルがレイナールやギムリとパンをかじっていると、仲良さげな雰囲気のルイズと変装したアンリエッタが現れた。談笑に興じているようだ。

「……お。あっちの茶髪の子、かなり可愛いな」
「確か、ヘンリエッタ・ステュアートって言うんだっけ? 聞いたことがない家だなぁ」
「……」

 やはりというか……、このところ話題のルイズと一緒にいると余計に目立つらしい。地味にしていてもそれなりに人目を引いてしまうのだから、あの二人が束になればどうしても注目を浴びざるを得ない。
 アンリエッタはヴェンツェルの顔を見つけると微笑み、こちらに向かってきた。ギムリは自分に笑みが向けられたと思ったらしく、にやにやと締まりのなくだらしのない顔になっている。
 三人の中で一番左端に座っていたヴェンツェルの隣にアンリエッタが腰かける。ふわ、と花のような香りが鼻を撫でる。髪を結って眼鏡をかけていても、まるでその美貌を覆い隠すには至らない。
 ルイズはこの席が気に入らないらしいが……見れば、マリコルヌが行儀も悪く食事にありついている。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」

 アンリエッタの挨拶に、ごくフランクな返事を行う。あくまでも“普通”の貴族的な生活を望んでいる以上は、こういう態度を取るべきである。
 ……魔法学院に通うのを“普通”と形容する辺り、やはり王家というのは雲の上の存在であるとわかる。ヴェンツェルも、前世の記憶を持っていなければ似たような人物像になっていたのだろうが……。

 アンリエッタやルイズは食事の作法も見事なものである。もちろんヴェンツェルや、生真面目なレイナールはそれなりに見栄えはする。ギムリもそこまで酷くはない。
 だが、他の生徒はどうか。女子生徒はともかく、男子生徒は食事のマナーがあまりよろしくない。スープはこぼすわパンのカスをばらまくわ、鶏の丸焼きは好きな部分だけ持って行くわ……。
 彼らにはぜひ『もったいない』という日本語が持つ精神の一部分でも知ってもらいたいものだ。



 朝食を終えると、いよいよ授業の時間である。

 記念すべき最初の実技授業は『火』の授業である。三クラス合同で行われるため、火の塔の特別教室に九十人の生徒が集まった。
 授業の担当教員はコルベールという禿頭の人物だ。彼は目を輝かせながら、眼前の生徒たちを見回している。

「よし、まずは『着火』をおさらいしてみようか。誰か前に出てやってみなさい」

 そんなコルベールの言葉に、少年少女たちからは疑問の声が上がる。
 『着火』というのは、『火』の魔法の中でもっとも初歩に分類される魔法だ。それもそのはずで、『火』の魔法は読んで字のごとし、火を起こせなければ話にならない。
 ほとんどのメイジにとっては出来て当たり前で、わざわざ魔法学院でやることではないという考えが根強い。
 そういった主旨の発言をする女生徒に向かって、しかしコルベールは諭すように言うのだ。

「確かに『着火』は初歩の初歩。しかし、基本をしっかりやっておかないと応用にはつながらない。初歩だからこそ、おろそかにしてはいけません」

 そのまま続ける。

「『着火』とは言っても、火の強弱は千差万別。ロウソクに火を灯す程度の小さな火をチョロチョロと起こしたり、反対に大きな薪に大きな火を起こすことだってできる。基礎とはいえ、『着火』の持つ可能性は無限大にあるのですぞ」

 コルベールは熱く語りだした。生徒たちは引き気味になりながらそれの光景を眺めている。少し話したあと、誰かから野次が飛ぶ。そこで彼はこほん、と咳払いをして、再び呼びかける。
 だが、誰も前には出て行こうとしない。いまさらやりたくもないのだろう。
 しかし。そのとき、名乗りを上げる少女がいた。

「やります」
「おお、いたか! きみは誰だったかな?」

 びしっと手を上げたのは桃髪の少女。彼女は緊張気味に前を向き、自分の名を告げた。

「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールです。よろしくお願いします」
「うむ。では、ミス・ヴァリエール。よろしくお願いしますぞ」

 あの名門の……などと、教室がざわめいた。人々の視線は教室の前方に移動するルイズに集中しており、その隣に腰かけていたアンリエッタには向いていない。
 ヴェンツェルはこっそり『エア・シールド』を詠唱し、分厚い空気の膜を王女の周囲に展開させておく。

「なんだなんだ。まるでドラゴンでも退治しにいくかのような雰囲気だな。『着火』ってそんなに難しい魔法じゃないのに」

 隣席のレイナールが呟いた。キュルケも似たようなことを言っていて、それはこの場にいるほとんどの人間の共通認識らしい。例外といえば、ヴェンツェル、アンリエッタ、ギーシュだろうか。
 わずかながら、後者の二人もルイズの魔法が一般的なそれとは異なると知っているのである。

 ルイズは緊張しきった様子で教室の前にやってきた。自分を落ち着かせるかのように一度深呼吸をして……杖を頭上で構える。彼女がいうには先祖伝来の品らしく、何日もかけて契約したのだそうだ。
 そして。
 彼女は、とても真剣な表情で、意気込みが伝わってくるような声音で魔法を詠唱。一気に杖を振り下ろした。

 刹那。

 耳をつんざくような大音響が辺りを震わせ、それと同時に爆発が起きた。
 もくもくと舞い上がる煙が教室を灰色に染め上げ、咳をする者が続出。空気の壁に守られたアンリエッタだけは無事で、彼女は不思議そうに周囲の光景を見回している。
 やがて、誰かが風の魔法で煙を吹き飛ばしたとき。

 教室の前面では、積み上げられた枝がその下部の机ごと爆発し、体を煤けさせてぼろぼろのルイズと……黒板に体を打ち付けられ、壁にもたれたまま力尽きたコルベールの姿があった。
 やがて、中年の男性は顔を上げる。呆然としたまま、目の前の少女に問いかける。

「み、ミス・ヴァリエール?」
「ごめんなさい。失敗してしまいました」
「あ、ああ……。そのようだね」

 ルイズは、教室のざわめきなど一切意に介さず、といった傲慢な態度で立ち尽くしているように見える。しかしよく見れば体はぷるぷると震えており、虚勢を張っているのがわかる。
 ヴェンツェルももうさすがにやめるだろうと思ったが、彼のそんな淡い期待は大きく裏切られる。

「ミスタ。もう一度やらせてください」

 なんと、ルイズはまだやるというのだ。その言葉に、コルベールは唖然しつつただ頷くしかない。


 結局そのあと、二十回に渡ってルイズは『着火』を唱えた。それはすべて失敗に終わり……自身で爆発を受け続けた彼女は、精神力切れも相まって医務室送りとなるのであった。
 ちなみに、特別教室は失敗魔法の影響で床や壁が散々に破壊され、もう使い物にならなくなった。閉鎖である。




 *




「……」
「ルイズ。目を覚ましたのね」

 ルイズは、見たことのない部屋で目を覚ました。隣を見上げればアンリエッタが椅子に腰かけて、自分の手を握っているのが分かる。
 ここは医務室だという。魔法を失敗し続けてついに気絶したルイズは、ここまで運ばれてきたらしい。倒れたのは精神力の使いすぎと、過度の緊張状態の持続、軽い貧血が原因らしい。

「姫さま」
「いまはヘンリエッタよ。……あなたは、ヴェンツェル殿が運んできてくださったの」

 アンリエッタはそう言うと、コップに汲んだ水を差し出してくる。ちょうど喉がからからになっていたルイズは上半身を起こし、受け取る。それを一気に飲み干して一息ついた。

「ひめ……ヘンリエッタ。やっぱりわたし、魔法の才能ないのかしら……」

 コップを両手で持っていじりながら、ルイズは呟く。
 せっかくちい姉さまが、荷物の中に励ましのお手紙を入れてくれたのに。なんとか頑張ろうと思ったのに。結局自分に起こせたのは、例のごとく爆発だけ。
 あのヴェンツェルですら、自分の知らない間に魔法を使いこなすようになっていたというのに。ずっと努力を重ねてきたはずの自分にそれができないのはどうしてだろう。
 惨めさで心が押しつぶされそうになる。

 だが。そんなルイズの手に、アンリエッタの手が重なる。彼女はその青い瞳で鳶色の瞳を見つめ、静かに言う。

「ルイズ。そんなことはありません。確かにいまのあなたは、系統魔法を使うことができませぬ。ですが“魔法を使うことに失敗しているわけではない”のですよ」
「……?」
「メイジでない方が魔法を使おうとしても、なにも起きません。ですが、あなたは何かしらの効果が目に表れています。きっと、いまはまだ、あなたの魔法の才能が開花しきっていないだけなのですよ。努力を続けていれば、いつかは使えるようになります。きっとそうです」
「で、でも……」

 ルイズは俯く。確かに、アンリエッタの言うことはもっともなことだとわかる。しかし、それでは……それでは駄目なのだ。自分が目指すべきは、周囲の人から認めてもらえる『立派な貴族』。
 だが……、いまの自分はまったくそう足りえていない。ただの“異端モドキ”でしかない。父のような、母のような、尊敬を集める貴族でなくてはいけないのだ。

「アン……ヘンリエッタの言う通りだな」

 そのとき。ベッドの周囲を覆うカーテンをかき分け、金髪で月目の少年が現れた。彼は手に果物の類が入ったバスケットを持っている。
 彼はベッド脇の台にバスケットを置くと、『ディテクト・マジック』と『サイレント』を唱えた。これからアンリエッタとも少し話をするつもりなので、誰の耳があるかわからないのは困るからだ。

「……なに、勝手に入ってきてるのよ」
「まぁそう言うなよ。果物でも食って休んどけ」

 言うなり、彼は懐から小さなナイフを取り出す。それは昔、彼がクルデンホルフ市街の店で購入したものだ。非常によく切れるので、まだ所持していたのだった。
 彼は見事な手つきで青い林檎の皮を剥いていく。ずいぶんと器用なものだ。

「綺麗な形になるのですね。いったい、どこで習得なされたのですか?」
「……そういえば。どうしてか僕はこういう作業に慣れているんですよ。不思議なものです」

 ウサギのような形の林檎が出来上がった。ルイズは不思議そうな顔をしていたが、恐る恐る手を伸ばしてそれを一つ口に運んだ。咀嚼するとしゃりしゃりと音がする。酸味と甘みが口腔を満たしていく。
 アンリエッタも同様に林檎をかじる。これは近隣の王領で栽培されたものらしく、たまに農家から買い付けるのだそうだ。

 やはり疲れていたらしく、ルイズは再び眠りについた。桃髪の少女の額に手を当てるアンリエッタ。彼女に声をかけ、今後についての話し合いを行う。
 いまのところ、アンリエッタはルイズくらいとしか話をしていないらしい。得体の知れない人物だからといえばそうだ。ただ、既に数人の男子からお茶のお誘いを受けているという話である。
 その中には上級生の、学院屈指のイケメンと名高いペリッソンが含まれているのだという。

「でも……、ヴェンツェル殿。あまり神経質にならなくても。今日だって、わたくしの周りに魔法を張ってくださっていたのでしょう?」
「一応、ですよ。ごく普通の生活を送るにしても、ある程度の用心は必要です」

 なんだかなし崩し的になってしまったが、せっかくの学院生活だ。女子の方はなにやらどろどろとしていそうなのが気になるが……、そればっかりは男にはどうしようもない。
 アンリエッタとは同じクラスなので、当面の問題は解決できる。ただ、やはり異性だというのが大きく圧し掛かる。女子寮までは見張れないからだ。
 そこはルイズ頼みとなるが……。二人いれば、一人で孤立するよりはいいのだろうか。

「わたくし、自分でも頑張ってみますわ。あなたやルイズに頼りっきりではさすがに申し訳ありませんし。……ただ、まずくなったらフォローをお願いしますね?」
「……はい」

 最後に少しだけ茶目っ気を出したアンリエッタに、ヴェンツェルは苦笑するほかない。


 その後、目を覚ましたルイズとアンリエッタを女子寮まで送ったあと。少年は男子寮の談話室へ向かう。


 談話室の中はたくさんの男子生徒で溢れており、なにやら話し合っている。渋い顔でそれを遠巻きに眺めているレイナールに、ヴェンツェルは声をかけた。

「どうしたんだい?」
「あ、ヴェンツェル。……いや、ね。ミス・ヴァリエールのことなんだけど……」

 レイナールが眼鏡を拭きながら言うには、一部の生徒たちが、ルイズに『ゼロ』という二つ名を贈ろうと言い出したらしい。
 魔法の成功率ゼロ。才能ゼロ。そんな思い込みから生まれたそのあだ名は、既に一年生の大部分に浸透しているという。だが、それは……。

「相手は公爵家の令嬢だぜ。それはどうかと思うんだが……。それ以前に、そういう意地の悪いことはよしたほうがいい」
「同感だよ。褒められたことじゃないし、よくないと思う。でも、なぁ。もうみんな乗り気だし」

 見れば、一部の生徒たちが『ゼロのルイズの歌』などという妙なものを歌い出しているではないか。女子生徒の一部が作ったらしい。これは酷い。トリステイン貴族の底意地の悪さを見た瞬間だった。






「よう、『ゼロ』のルイズ! 今日も魔法の失敗に期待してるぜ!」

 朝食の席で、ルイズに心無い言葉を浴びせる男子。女子も女子で、直接的な言葉こそ口に出さないが、ひそひそとルイズの方を見やりながら馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
 しかし。
 ルイズは、そんな連中のことなどまったく気にも留めていないようである。アンリエッタと談笑しながら、優雅な時間を過ごしているのだ。
 ああいう毅然とした態度もいいのだが、逆恨みが心配である。

 どうせならルイズもソーンのクラスにすれば面倒がないのになぁ、とヴェンツェルは思うわけである。

 そして放課後。

 教室でレイナールと魔法書を開いていると、教室の後ろの方でなにか騒動が起きたらしい。振り返ると、赤髪の女性キュルケに、何人かの女生徒が詰め寄っているところだった。
 とうとうキュルケの男漁りが炸裂したらしい。噂に聞くところには、既に十股を決め込んでいるとか。恐ろしいまでのハイペースである。
 抗議している女子のなかの一人――確か、トネー・シャラントと言ったか――が、灰色の髪をかきあげている。彼女たちは、自分の彼氏をキュルケに掻っ攫われたのが大層お気に召さないようである。

 やかましいなぁ、と思いつつも、ヴェンツェルは我関さずを貫くのだった。




 *




 状況が動いたのは、最初の『風』の授業のときのこと。

 例によって合同授業である。三クラス九十人が学院の南側、スズリの広場に集められていた。担当教員はミスタ・ギトー。彼は風のスクウェアメイジである。
 教員は周囲の生徒たちを一瞥したあと、にべもなく言い放った。

「今年の新入生は不作だ。まったく困る」

 その言葉に、多くの生徒が不満げな表情となる。

「大半がドットで、ラインがやっと数名。トライアングルは皆無。スクウェアに至ってはわずか一名。どういうことだね。書類を読むのにかかった時間が無駄というものだ」

 ヴェンツェルはぼうっとしながら、その言葉に疑問を覚えた。おかしい。自分はちゃんと書類にトライアングルであることを明記しているし、確かキュルケもトライアングルだったはずだ。
 もしかすると、あの脂ぎった黒髪のギトーとかいうス○イプもどきの人物、留学生の書類に目を通していないのではないか。
 ……ただ、トリステイン国内から入学した生徒にスクウェアが一名いる、というのは驚きだ、いったい誰のことなのだろう。まさか。

 ミスタ・ギトーはぶつぶつと生徒たちの悪口を言いつつも、授業を始めた。

 まず、ヴィリエ・ド・ロレーヌという男子生徒。彼はいきなり天高く『フライ』で飛び上がり、数名しかいないというラインクラスの力を見せ付けた。
 アンリエッタはラインクラスであると申告していたらしい。ギトーは書類を読んでいないようだが……。それなりの高さを飛んだものの、『水』である以上はロレーヌに比べるとかなり低い。
 レイナールやギムリはそこそこ。普通すぎてミスタ・ギトーからも注目されなかった。
 マリコルヌ。彼はその太っちょの体からは想像も出来ないほどに高く飛び、危うくロレーヌに達するかもしれない、というところまで到達した。
 ルイズはやはり爆発。爆発して伸びているところを、アンリエッタが『治癒』で治療している。

 ヴェンツェルの番がやってきた。そういえば、『フライ』を使うのは久しぶりである。たまには全力でかっとんでみるか―――そう考え、彼は杖を構える。

 次の瞬間。

 少年の体は急上昇を始め、わずかな時間でロレーヌの高さを追い抜いてしまった。これはまずい、と思ったヴェンツェルが急制動をかけたとき、彼のいる高さはロレーヌの倍以上の高さになっていたのだ。
 これにはミスタ・ギトーも首をひねった。はて、あの少年はどう見てもドットではないな……。などと考えつつも、言い放った。

「きみたち。あのような成金国家からやってきた人間に負けて、くやしくないのかね」

 呆然と空を眺めていた生徒たちは、その言葉に憤慨した。クルデンホルフといえばゲルマニア上がりの成金である。蛮人に負けて悔しくないのか、と言われたも同然である。
 彼らがヴェンツェルの出自を正確に把握していれば、絶対にそんな考えには至らないのだが……。悲しいかな、そんなことは誰も知る由はないのである。
 ギトーの発言はかなり問題のあるものだったが、それを耳に留めたのはアンリエッタやレイナールだけであった。



 この翌日、中庭でくつろいでいたヴェンツェルの元に、一人の人物が決闘を申し込みに現れるのである。






[17375] 第三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:5725dbe8
Date: 2010/11/01 20:55
 風の実習授業の翌日は虚無の曜日である。

 暇なヴェンツェルは、じめじめとしてあまり人が来ないヴェストリの広場で昼寝に興じていた。
 ここならば静かに休日を潰すことが出来る。アンリエッタのことはルイズに任せていればいいだろう―――などと思っていると、誰かの足音がした。それはだんだんと近づいてくる。

「ヴェンツェル」

 耳慣れた声だ。目を開けると、そこには薔薇の造花を手にした金髪の気障男がいる。なにやら困惑したような表情でこちらを見つめているではないか。

「なんだギーシュか。どうしたんだ、珍しい」

 ここ最近のギーシュといえば、四六時中女の子のお尻ばかり追いかけている。この間も二股をかまして、双方の女子生徒から絶縁通告と魔法の制裁を受けたばかりのはずだ。
 ギーシュはなにか話したいそうだ。部外者に聞かれたくない類の話だろうか―――そう考え、ヴェンツェルは『サイレント』を詠唱した。周囲からこの辺りの空間だけを隔離する。

「うむ。いや、ほら。ヘンリエッタ・ステュアートという生徒がいるだろう。彼女、どう見ても姫さまなんだが……」
「ああ、そうだよ」
「……やっぱり、そうだったのか」

 どうせギーシュなら顔を見ればわかるのだ。そっけなく答えると、彼の予想通りだったのか。ギーシュは沈痛な面持ちになった。

「……きみには、姫さまが入学したとき、連絡があったのかい?」
「ああ。ミス・ヴァリエールも呼ばれてたよ」
「……そうか。やっぱり、嫌われてしまったのかな。ぼくは」
「だろうね」

 ヴェンツェルがまたもオブラートも何もなくそっけない返事をすると、ギーシュは不満げな顔になる。

「……きみ、もうちょっと言い方というものがあるだろう」
「まぁ、終わったものは仕方ないんだ。過去のことは忘れて、また新しい恋でも探しなよ。あ、あと彼女の正体はばらすなよ。そんなことをした日には、うちの父に頼んでグラモンを破産に追い込むからな」
「わ、わかっているよ! きみはいきなりとんでもないことを言い出すな、まったく!」

 ぷんすか怒ってギーシュは去っていった。しかし。自分のことを、皆を楽しませる薔薇などと言うわりには、アンリエッタ個人のことを気にするのか……、と思うわけである。



 そして、ヴェンツェルが昼寝を再開しようとした、そのとき。彼に声をかける少年がいた。

「ミスタ・クルデンホルフ。少し良いかな」

 しかし、まだ『サイレント』は有効であった。影響圏外にいる少年の声はヴェンツェルに届かないし、彼にヴェンツェルの声が届くこともない。これは参った。
 仕方なく、少年はヴェンツェルに近づいてみることにした。

「……ん? 誰だい、きみは」
「おお、やっと聞こえたか。これは『サイレント』かい? さすがは『フライ』でぼくより高く飛んだだけのことはある」

 せっかくうとうととしかけていたのに、誰だか知らない人間に邪魔をされた。これはたいへん不愉快な話である。さっさと出て行って欲しいものである。

「ぼくはヴィリエ・ド・ロレーヌ。きみに風をご教授願いたくてね、ここまで足を運んだんだ。苦労したよ、まさかこんなところにいるなんて思わないからね」

 言うなり、彼は杖を取り出した。まったく面倒なものである。どうしてこう、すぐに決闘だのなんだのが始まってしまうのか。
 しかし、たいへん体が重いが、受けてやらないと彼が立ち去ることはないだろう。仕方なく、ヴェンツェルは起き上がった。

 彼は“試合”をしたいらしい。試合とは言っても、この場合はほぼ決闘のことを指すのである。決闘禁止令の網をかいくぐる為の方便だ。いわゆる脱法行為というやつだろうか。
 昔はとどめをさすのが作法などと言われていた時代もあったらしい。だが、現代においてはまったくどこかへ消え去ってしまっている。
 殺傷能力の低い魔法を唱え、相手の杖を落としたり、軽く出血させれば勝ち、というのが一般化したルールだ。『ブレイド』『マジック・アロー』などの殺傷能力の高い魔法はお法度である。
 風魔法でも、もっぱら『ウィンド・ブレイク』などの簡単な魔法を使うことが多い。

 あくびをかましながら立つヴェンツェルを、ヴィリエは殺気だった瞳で見つめている。
 ヴィリエの生家であるド・ロレーヌ家は、優秀な風メイジを多数輩出してきた名門である。彼自身、風で自分に並び立つ者はないと周囲に豪語するほどだった。
 ところが。
 確かに、並び立つ者はいなかった。……圧倒的に格上の存在だったのだ。しかも、それはクルデンホルフからやってきた成金の息子だというじゃないか。
 クルデンホルフなど、所詮は蛮人の国から派生した国家。先代の王に大公領を与えられて調子に乗っているのだ。
 トリステイン貴族に高利で金を貸し、血も涙もなく金を毟り取っていくさまはまさに蛮族のやり方だ。伝統と格式を重んじるトリステイン貴族とは、根本部分から異なっている。

 『シュヴァリエ』とて、きっと金の力で得たに違いない。大元帥捕縛も金で手柄を買ったに違いない。だいたいあまりにも胡散臭いのだ。たかだか十五の子供にあげられる手柄ではない。
 ヴィリエに限らず、そう思っている生徒は多い。決して口には出さずとも……。

 歴史ある国の誇り高きトリステイン貴族としては、そんな卑劣な奴に負けることは許されない。絶対に勝つのだ。勝って、目にもの見せてやるのである。


「ヴィリエ・ド・ロレーヌ。謹んでお相手仕る」
「ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフ……」

 名乗るだけか。これだから―――ヴィリエは憤りを覚えつつ、『ウィンド・ブレイク』を詠唱。
 彼はラインメイジである。ドットメイジに比べてかなり強力な突風が、正面に立つ月目の少年を吹き飛ばさんと高速で迫る。その速さは目にも留まらぬほど。
 しかしそれに対し、ヴェンツェルは杖を構えただけだ。小さく、わずかに呟く。すると、彼の周囲に強力な空気の流れが形成された。ヴィリエの風は簡単に呑み込まれ……、跡形もなく消滅する。

「……っく、ならば!」

 移動しながら、再び風を発射する。しかし、それもまた防がれるだけだった。駄目だ。『ウィンド・ブレイク』では勝てない。ならば―――
 わずかな時間で実力差を痛感させられたヴィリエは、禁じ手を使うことにした。殺傷能力の高い魔法『エア・カッター』だ。その名の通り、鋭い刃のような形状の空気を射出する魔法である。切れ味がよく、まともに食らえば人間の体など簡単に切断されてしまう。
 だが、それすらまったく歯が立たない。到達する前に一瞬で無力化されてしまう。

 どうすればいいんだ。これ以上の威力がある魔法は使えない。
 そう、考えたとき。

「ふぅ。じゃあ、次はこっちの番だな」

 ヴェンツェルが動いた。彼は杖を構えると、なにかのスペルを口から吐き出す。……と思うとやめた。

「たまにはアリスみたいな魔法が使いたいな。よし。―――ラグーズ・ウォータル・デル・ウィンデ」

 呟き、別の魔法を唱え出した。やがて、彼の周囲に無数の氷の破片が形成され始める。それは風に混じってくるくると回り出し……ついに、小さな嵐のような様相を呈し始める。
 風と水のトライアングルスペル『アイス・ストーム』であった。

 轟音と共に巻き起こる風の奔流を目の当たりにしたヴィリエは、正々堂々と正面から勝負を挑んだことを大いに後悔していた。
 ラインである自分より高く飛んだということは、相手がトライアングル以上の可能性があったということではないか。なのに、自分は根拠もなくあの少年を見下し、完全に馬鹿にしていた。
 少し考えればわかることだというのに……。頭に血が上っていたのだ。
 もう駄目だ。このあと自分は医務室送りになるだろう。そう考えると……。駄目だ。やはり恐ろしい!!

「ま、参った! ぼくの負けだ、悪かった! だから聞いてくれ、降参する! 命だけは……」

 周囲に巻き起こるのは轟音である。残念ながらヴィリエの声はヴェンツェルにまったく届いていないようであった。竜巻が迫る。このときになって、ヴィリエは自分の下半身が濡れていくことに気がついた。
 恐ろしいまでの失態である。彼は腰を抜かし、迫り来る竜巻に思わず目を瞑る。

 しかし。

 いつまで経っても、魔法が襲ってこない。閉じた目を開けば、なぜかヴェンツェルが消し炭のようになっている。そして響く可憐な少女の声。右の方を見やれば―――

「あ、あんたねぇ! なに弱い者いじめしてるのよ! 見なさいよ彼、すっかり怯えてるじゃない! 漏らしちゃってるわ!」
「る、ルイズ。最後の言葉は口にしてはいけませんよ」

 この場に現れたのは、ルイズだった。彼女はぷすぷすと煙を上げるヴェンツェルに蹴りを入れる。後ろからはアンリエッタがやってきていて、ルイズを必死になだめようとしていた。
 やがて、アンリエッタの『治癒』でなんとか一命を取り留めたヴェンツェルは立ち上がる。既にヴィリエの姿はなく、あとには出所不明の水溜りがわずかに残されているだけだった。

「……いや、喧嘩を売ってきたのは彼の方なんだよ。仕方ないじゃないか」
「でも、決闘は危ないです。下手をすれば命に関わるのですよ。ですから、なるべく話合いで場を収めるようにしてください」
「……わかりました」

 アンリエッタの言葉には素直に頷くヴェンツェル。自分のときとは違って口答えすらしない。そんな対応の違いを見て、ルイズは眉を吊り上げた。



 結局、ヴェンツェルは二度もヴィリエに恥をかかせてしまったのである。それは回避できたはずの事案ではあったのだが……、いまさら、どうしようもないのだった。









 ●第三話「日常と非日常」









 ウルの月は第一週、フレイヤの週の初め。

 その日は筆記科目の授業だけで、これといって注目すべき出来事はなかった。
 生徒たちの話題といえば、あと二週間ほどに迫っている新入生歓迎の舞踏会くらいだろうか。上級生たちがホールの飾りつけをしてくれるらしい。
 ということは、来年は自分たちの番であるということだ。気が早いようで、実はあっという間に時期は訪れてしまう。

 この頃になると、キュルケの男漁りの噂は学院中に広まっていた。十股というのはさすがに誇張だったらしいが、それでももう七人と付き合ったらしい。ここまでくるとさすがである。


 いつものように中庭でヴェンツェルが学院のメイドさんを観察していると、背後から誰かが近寄ってくるのがわかった。振り返ると……そこにいたのは、栗毛を結った眼鏡の少女アンリエッタである。

「どうしたんだ?」

 つとめて、同級生に向けるような軽い口調で話しかける。すると彼女は、心底疲れたと言いたげな表情になった。

「ミスタ・ペリッソン……、という方のことなのですが……」

 アンリエッタは話をし始める。もう先月の終わりごろからずっと、ペリッソンという上級生の男子生徒に舞踏会で踊らないかと誘われているらしい。何回断っても諦めずに申し出てくるのだという。
 他にもかなりの数の生徒から声をかけられ、そのたびに断りを入れているのだという。一見して眼鏡をかけた地味な少女に見えなくもないが、やはりその程度の変装で気品を覆い隠せはしないのだろう。
 舞踏会に出ない、という選択肢もある。実際のところヴェンツェルはそんなものはすっぽかしてギムリと“工作”に励もうとしていたくらいである。
 なにせ、目ぼしい女の子は大抵が上級生に取られてしまうのだ。
 確かに下級生を歓迎する、という主旨には沿っているかもしれないが……。どうにもやっていられない。出るだけ損というものである。
 しかし、アンリエッタは舞踏会そのものには出たいようだった。それはそうかもしれない。彼女は“普通”の生徒として入学しているのだから。

 なにか良い案はないだろうか。少し考え、唐突に思いつく。

「じゃあ、僕と―――」

 満面の笑みを浮かべたヴェンツェルがなにかを口にしようとしたとき。彼の顔面に、真っ黒なニーソックスに包まれた膝が命中した。
 尖塔の壁に後頭部を強打するヴェンツェル。じたばたと転げまわっていると、上方から冷たい声が飛んでくる。

「姫さ……ヘンリエッタはわたしと一緒に出るわ。あんたはあのもてない男たちと踊ってなさいな」

 酷い言い草である。レイナールはともかく、ギムリはキュルケと付き合―――うのだろうか? なんだか、普段からギムリといると、とてもそうは思えなくなってくる。
 良い奴ではあるのだが、ちょっとお調子者な部分があるのだ。あまりもてそうではない。

「ふむ……。そうか。ところで、きみは上級生の誰がお好みなんだ?」
「はぁ?」

 いきなり話題を変えると、ルイズはとんでもなく胡散臭いものを見るような目になったではないか。

「いや。ほとんどの場合、舞踏会は上級生と踊ることになるからね。出たがってるってことは、誰かお目当てがいるんだろう?」
「……いないわよ。悪かったわね。だいたい、わたしとダンスをしたいなんて殊勝な上級生がいるとも思えないわ」

 このところ『ゼロ』と蔑まれているのは、少なからずルイズの心に悪影響を与えているらしい。アンリエッタがそばにいても、やはり辛いものは辛いというのだ。ちょっとだけネガティブになっている。
 だが。腐っても公爵令嬢である。きっと、ダンスを申し込たい男子は多いだろう。話しかけることは出来ないのだろうが。

「なに、もうちょっとおしとやかにしていれば、さあいてててててぃ!」
「なによ。わたしは十分おしとやかじゃない!」
「る、ルイズ……」

 ヴェンツェルの頬をつねり上げるルイズ。それを止めようとするアンリエッタ。とてもではないが、ルイズはおしとやかには見えないのが実情であった。




 *




 今週、いよいよ新入生歓迎の舞踏会が行われる。そんなヘイムダルの週は虚無の曜日。

 ヴェンツェルは久しぶりにカリーヌと会うために、トリスタニアへと向かうことにした。
 学院の馬を借りて乗り込む。乗馬は入学前に大公妃から突貫で教わったのだ。なので、まだまだ慣れないところが多い。
 手綱を引き、トリステイン魔法学院の門を出る。見渡す限りの草原が視界に映った。この辺りは王領なので、あまり無茶な開発をするような封建領主は存在していない。

 街道を王都へ向けて進む。流れる風が肌を撫で、とても心地が良い。
 途中、学院の生徒が泉で休んでいた。見覚えがあるような……と思ったら、ギーシュだった。もう一人の金髪ロールはモンモランシーだろうか。
 特に用もないので、ヴェンツェルはそのまま馬を走らせた。


 休日のトリスタニアは人でにぎわっている。
 街には行商が溢れ、通りは人でごった返している。魔法学院生の姿もちらほらと見えた。

 ヴェンツェルは目立たないように移動しながら、裏通りのチクドンネ街へやってくる。そして、一軒の小奇麗な宿を訪ねた。お目当ての部屋は二階の一番奥である。
 階段を登り、ゆっくりと歩を進めていく。常に周囲を警戒しながら、追跡者がいないか、監視の目がないか確かめる。過剰かもしれないが、このくらいはしておいても間違いはないだろう。
 廊下を進み、もっとも奥まった場所にあるドアをノックする。数秒後、がちゃり、という音と共にドアが開いた。

「……久しぶり」
「ええ」

 久々の再会である。二人が最後に会ったのは、たしかティールの月の終わりごろだった。
 軽く抱擁を交わし、近況を報告しあう。学院でのヴェンツェルやルイズの生活状況、公爵邸での状況……、語ることは多い。時間は足りないが。


 少しの後。

 カリーヌはなぜか魔法学院の制服をもってきていた。確かにこの恰好ならば、学生カップルかなにかだと思われて怪しまれにくいだろう。学院の生徒以外には。
 そこはカリーヌがもってきたポマードで対応することにした。普段はなにもつけていない頭に、とろりとした薬剤を塗りたくって頭髪をまとめる。これはオールバックというやつだろうか。
 ヴェンツェルは普段前髪が長いので、かなり印象が異なっている。瞳の色が問題だが……、そこまで誰かと近づくこともないだろう。

「すごく変わりましたね。恰好いいですよ」
「そうかな」

 部屋に置かれた鏡を覗き込みながら、ヴェンツェルは百面相のような顔をしてみる。なんだか、子供が背伸びをしたような風貌にしか見えない気もしたが……。これなら、ヴェンツェルだとはわからない。
 念のためにマントを無地の物に替え、身支度を済ませたカリーヌと共に、トリスタニアの市街地へ出る。

 市街地は相変わらず人でごった返している。はぐれないように腕を組みながら、二人は道を進んでいく。
 その途中、先ほど泉にいたギーシュとモンモランシーの姿があった。ギーシュはまったく気がつかなかったようだが、モンモランシーは少し違和感を覚えたらしい。じっと見つめてくる。
 これはまずい。ヴェンツェルとカリーヌは、早足でその場を離れた。

「……ねぇ、ギーシュ。いま、ヴァリエールが誰か知らない男の人と歩いて行ったみたいなんだけど」
「え? なんのことだい。それより、このお店の銀細工が綺麗だよ。中に入って見てみよう、モンモランシー」
「……うん、そうね。見てみましょうか」



 危うく窮地を脱した二人は、トリスタニアの市外を突き進んだ。まだ時刻は午前のうち。いまのうちに食事を取ろうと思い立った二人が近くの店に入ろうとした、そのときだった。

「げ……」

 なんと、前方から見慣れた桃髪の少女―――ルイズがやってきているではないか。その隣にはアンリエッタとレイナール、ギムリの姿があった。なぜあの四人が。いや、いまはそれより隠れよう。
 カリーヌの手を引き、そばの細い路地に駆け込む。少女の体を包み込むように抱きしめ、四人が通り過ぎるのを待った。

「ねぇ、あんた。ギムリって言ったっけ? なんでわたしが尾行なんてしなくちゃならないのよ。おまけにあいつを見失ってから結構経つし」
「……う、ううん。なんか今日の殿下は雰囲気が違ったんだよなぁ。妙にそわそわしてて、急にトリスタニアへ行くなんて言って出て行ったから。なにかあると思ったんだが」
「考えすぎな気もするよ。ここまで来ておいてなんだけど、あまり詮索すべきでもないような気がするし」
「そうでしょうか。なにか臭う気がしますわ……」
「ミス・ステュアートの言うとおりだぜ。とりあえずもうちょっと殿下を探してみるか」

 ……なんて迷惑な連中だ。風の魔法で会話だけを拾っていたヴェンツェルは、思わず毒づいた。ついうっかり行き先を漏らしたのがまずかったらしい。
 一方でカリーヌは、そんな緊迫した状況にも関わらず、目の前の胸板に顔を摺り寄せていた。恐ろしいまでに可愛い。愛らしい。こんな状況でなければ可愛がってやるところだ。

 さて、どうするか。このまま見つからずに動くことはかなり厳しいだろう―――かと言って、せっかくカリーヌが忙しい合間をぬって作ってくれた時間だ。無駄にはしたくない。


 その後二人がやって来たのは、とても学生や下級貴族では手も足も出ないような高級レストランである。ここならばあの四人もやってこれないだろう。

「……たいへん失礼でございますが、当店は貴方がたのような―――」

 案の定、ヴェンツェルとカリーヌの姿を認めた、店員らしき禿頭で初老の男が追い返そうとやってくる。しかし。
 ヴェンツェルは肩にぶら下げていたかばんの中から、じゃらじゃらと音がする金貨のつまった袋を取り出した。彼の記憶では、確か、結構な金額になるはずである。

「これに見合う料理のコースを頼みます。足りないのならば、まだありますが……」
「……いえ。失礼いたしました。こちらへどうぞ。お客さま」

 ちょっとした爽快感である。

 そして、ヴェンツェルとカリーヌが食事を楽しんでいる合間。

 店の奥に、初老の男がやってきた。金貨の入った袋を開け、中身を確かめる。偽造か、あるいはマジック・アイテム絡みではないか。それを調べるための魔法装置にかける。……すべて問題なし。
 あの少年、ただの貴族ではないらしい。まぁ、正体はどうでもいい。これだけの大金を払ってくれるというのだから。
 もし偽物だったりしたら酷い目に遭わせるところだったが……。ちゃんとした客ならば、きっちりとした接客を心がけるだけである。



 食事を終えた二人は、昼時のトリスタニア市外を進む。とくに目的はない。ただ二人でぶらつくのが目的と言っても過言ではない。
 しかし。その時間が大事なのだ。ゆっくりと、二人でリラックスしながら街を行く。尾行などされていたらたまったものではないが、彼らは見失っていたというから大丈夫だろう。

 やがて、トリスタニアの市街地を二分する川の縁にまで到着した。目の前には橋があり、その先は貴族の屋敷が大量にある一等地で、そのさらに奥にはトリスタニアの王城が存在する。

 街路樹の木陰に設置されたベンチに腰かける。まだまだ春の陽気であり、暑くもなく寒くもない、そんな心地よい気温である。
 ふと、カリーヌがヴェンツェルの肩に頭をもたれさせてくる。香料に混じって、年頃の少女が放つ独特の香りが漂ってくる。

 『バーロー薬』という、先代の大公の知り合いが発明したらしい薬。それはただ体を小さくするだけではなく、細胞レベルで人体を若返らせてしまうものらしい。
 魔法の恐ろしさがよく伝わる。地球の常識ではまったく計り知れない次元のお話のようだ。
 解除薬はいまのところ存在しない。一度使ったら若くなってそれきり、というのがアリスの見解であった。一応、服用者である二人が文句を言っていないのでそのまま放置されている。
 エレオノールがカリーヌの体を調べようとしたらしいが、カリーヌがそれを全力で拒んだらしい。『王立魔法研究所』の資料にもそのような効果の薬は記載されておらず、まったく意味不明だという。
 まったく、祖父はどこでそんなものの製法を手に入れたのか。知り合いとは誰なのか。まったく不明である。
 

 夕刻。

 宿に戻っていた二人は、そろそろ別れる時間となっていた。ヴェンツェルはシャツを着なおし、『シュヴァリエ』のマントを羽織る。隣のカリーヌも、落ち着いた雰囲気の服に着替えた。

「……じゃあ、また」
「はい。また、連絡くださいね」
「ええ」

 最後に、二人は顔を寄せる。……しばらくその姿勢を保ったあと、ヴェンツェルは部屋のドアを開け、カリーヌの元をあとにする。

 残されたカリーヌは……、どうしようもない甘美な感触に、その身を震わせていた。







「さて。帰るか」

 日が傾き、空が赤くなった頃。
 王都の城壁にある駅舎で、ヴェンツェルは預けていた馬を引き取った。あとは学院に帰るだけである。そうして、彼が馬にまたがろうとしたとき。

「あ、やっと見つけた!」

 よく耳にする声が轟いてきた。後ろを振り向けば―――そこでは、四人の少年少女が、なにやら疲れた様子で立ち尽くしているではないか。
 なにがあったのかは知らないが、尾行されていたという事実がある以上は、こちらもそれなりの対応をするまでである。

「どうしたんだ? 四人そろって」
「どうしたんだ? じゃないわよ! あんたねぇ……むぐぐ!?」
「あ、いや! 奇遇っすね、殿下!」
「いやいや、まったく偶然だなぁ!」

 勢いで、秘密の尾行のことをばらそうとしたルイズの口を、ギムリが必死の形相で塞ぐ。その隣ではレイナールが薄笑いを浮かべ、額に汗している。
 アンリエッタは……、彼女はなぜか近づいてきた。青い瞳を夕日に光らせながら、鼻をすんすんとやっている。

「くんくん……。あら、なんだか妙な臭いがしますわ。誰のものでしょう……」
「……!!」

 アンリエッタはヴェンツェルの首筋に鼻を近づけながら、そんなことを呟くのである。慌ててヴェンツェルが彼女を引き離したものの。アンリエッタ、なんだかきょとんとした表情になっている。

 ……なんでこう、騒がしくなるのやら。

 夕日をバックに、ヴェンツェルはただ立ち尽くすほかなかった。




 *




 ―――時間は遡り、ヴェンツェルがカリーヌとべたべたしているころ。

 ミスタ・ギトーは、いきなりオスマン学院長に呼び出されていた。
 
 彼は『最強の系統は風である』という結果ありきな内容の論文を執筆している最中だったのだ。そんなときに、学院長の秘書を務める平民がやってきて、いきなり呼び出しを告げられたのだ。
 まったく、たまったものではない。一ヶ月をかけた力作なのだ。早く書き上げてしまいたいというのに。こちらの予定というものも考えて欲しいものだ。

「学院長。ギトーです」
「開いておるよ、入りたまえ」

 まったく、こんなときに秘書はどこに行ったのか……。ぶつくさと呟きながら、ギトーは扉を開け、学院長室の内部に入室する。

「おお、よく来てくれたのう」
「……要件はなんでしょうか」
「うむ。実はのう。王宮から、きみに減給一年間の処分をするように達しがあったのじゃ」
「……なんですと?」

 どういうことだ。自分はそこまで失態を働いたわけではないはず。なのに、一年も減給とはいったいどういうことか!
 沸騰しそうになる思考を押さえ込み、ギトーはなるべく冷静な声音で問う。

「理由をお聞かせ願いたいものですな」
「『特定生徒に対する誹謗・中傷』じゃ。お主、心当たりがあるじゃろ?」

 ……誹謗? 中傷? まさか、あのクルデンホルフからの留学生に対して言った言葉か?

「うむ。どういうわけか、その件が王宮に届いてしまったらしくてのう。最初は陛下が「国家の危機を救った英雄の一人になんと無礼な発言か! その教員は解雇してしまえ! 打ち首にしてくれる!」と言われておったのじゃ。なんとか交渉して、いまの処分にまで譲歩させてのじゃが……」
「は、はぁ。ありがたいことです」

 なんということだ。あの少年はなぜだかわからないが、かなり王に入れ込まれているらしい。さらに、彼に対する悪態を王に伝えてしまう存在がいる……。恐らくは生徒の中に。
 ギトーは、背筋が凍るような感覚がした。

「まぁ。そういうことじゃ。今後は気をつけておくれ」
「は、はい。わかりました。肝に銘じます」

 恐縮しながら、ギトーはオスマンに頭を下げる。そして慌しく学院長室を去って行った。


 一人残されたオスマン氏は、窓の方を見上げながら―――疲れたように呟く。

「ほぅ。まったく、王女殿下には困ったものじゃ。いろいろと……」





[17375] 第四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:5725dbe8
Date: 2010/09/01 23:59
 ウルの月はヘイムダルの週の週末に、新入生歓迎の舞踏会は行われた。

 ヴェンツェルは真新しい礼服に身を包み、ホールに置かれたテーブルのそばに立っていた。彼はさきほどから、他の生徒には目もくれずに料理で胃袋を満たしている。
 周囲からは上級生たちが下級生の誰にダンスを申し込むのか話し合う声がするが、彼にとってはどうでもいいことだった。
 少し離れた場所では、アンリエッタにダンスのお誘いをする上級生はルイズに追い払われていた。ルイズは真っ白なドレスに身を包み、桃色の髪をまとめ上げている。彼女にも声をかける男子生徒は多いが、やはり軽くあしらわれていた。もったないと思わないこともない。

 ヴェンツェルが鳥の丸焼きを突ついていると、そこへなにやら気合いの入った身なりのレイナールがやってきた。どうやら彼は彼なりに意気込んでこの舞踏会に参加しているらしい。

「どうしたんだい、一人で」
「うん? いや、これがうまくてね」

 そう言いながら、ヴェンツェルは鳥の肉を切り分ける。レイナールにそれを手渡すと、彼は口に含んだ。もぐもぐと咀嚼する。

「うん、これはおいしいな」

 彼がそう言って、肉をもう一切れ手に取るのと、髪を流行りの形に結い上げたキュルケが現れるのはほとんど同時であった。
 非常に目立つ恰好のキュルケの首で赤く輝くルビーのネックレスは、情熱の色を表している。さらには、大きな胸を余計に強調するようなきわどい形状の黒いパーティードレス。
 ヴェンツェルの隣に立つレイナールも、会場の紳士たちの例に漏れず感嘆のため息を漏らした。ほんの一瞬で会場の注目はキュルケに集まったのだ。

 一方、先ほどまで注目を浴びていたルイズとアンリエッタは、ルイズの不遜な態度のせいかすっかり人がよらなくなっていた。
 肝心のアンリエッタがかなり地味な格好をしているのもそれに拍車をかけたのだろう。

 会場の女の子たちはそんなキュルケから視線を逸らし、口々に難癖をつけ始める。
 彼女たちも自分なりに気合いを入れて着飾ったというのに、瞬く間に注目を奪われてしまっていた。それが悔しく、嫉妬していたのだ。

 キュルケの周りには上級生の男子が群がり、次々とダンスを申し込んでいく。その中にはアンリエッタにダンスの誘いを断られ続けた青年、ペリッソンの姿もあった。
 まるで女王のような振る舞いを見せるキュルケの姿に、周囲の少女たちは歯軋りをしたくなるような気分であった。ルイズは単純にキュルケが気に入らないらしく、刺々しい視線をぶつけている。

 やがて音楽が奏でられ始める。ヴェンツェルはまた一人だ。なんと、レイナールは上級生の少女に誘われて去っていってしまっていたのだ。
 残された少年が好きでもないワインをあおっていると、そこへアンリエッタがやってくる。

「ヴェンツェル殿。一曲お相手願えませんか?」

 そんなことを言いながら、彼女は手をさしのべてくる。
 ルイズはどうしたのだろうか。見れば、彼女はワインを飲みすぎたらしく、メイドに介抱されながら椅子に腰かけている。

 せっかくの舞踏会だ。幸い、ダンスなら大公妃に教え込まれている。王女殿下の相手が務まるかは甚だ疑問ではあるが、やるだけやってみよう。
 アンリエッタの提案を受け入れることにして、彼女の手を取った。小さな手だ。身長はややヴェンツェルが高いだけなので、両者の目線の位置は変わらない。
 音楽に合わせながら、二人はステップを刻む。手をとりながら、会場の一角で回る。あまりダンスに慣れていない一年生が目立つなか、二人は下手な上級生よりも見映えがするダンスを行っている。
 途中、ペリッソンと腕を組むキュルケの姿が見えた。彫刻のような顔つきの美青年だ。ふと、彼と目が合う。
 自分がどれだけ誘っても、ただ首を横に振るだけだった少女と楽しげに踊るヴェンツェルを、苦々しげな表情で睨みつけたあと。ペリッソンはすぐに微笑を浮かべながら、キュルケに話しかける。

 そのころ。ホールの端に置かれたテーブルの辺りから、数人の少女たちが嫉妬の視線を赤髪の女性へ向けていた。
 彼女たちはキュルケに復讐を目論む少女のグループである。自分の彼氏や憧れの上級生らをことごとくかっさらわれたことで、とても深い恨みを抱いているのだ。
 女子生徒の一人がキュルケとペリッソンを悔しそうに見つめながら、ハンカチをくわえて唸っている。
 そんな彼女たちには、一人の協力者がいる。ヴェンツェルに恥をかかされたヴィリエ・ド・ロレーヌだ。よりによって二人もの美少女に粗相を目撃された彼は、虎視眈々と復讐の機会を窺っている。
 復讐グループのリーダー、トネー・シャラントと打ち合わせを重ねた結果……、舞踏会という、非常に目立つ場面で大恥をかかせてやろうという結論に至ったのだった。

 そして、ついに“その”ときが訪れた。景気づけにワインを浴びるように嚥下していたヴィリエは、ほくそ笑みながら杖を構える。

 だが。

 このときになって、彼は急に酔いが回ってくる。ふらふらと足取りがおぼつかなくなり……、集中が乱れる。それは、魔法の行使にも大いに影響した。

 ホールの中心では、キュルケとペリッソンがダンスを一度終え、談笑に興じていた。そんなペリッソンの周囲に、つむじ風が巻いた。
 彼はそれに気がつかず……、瞬く間に風が彼のスーツを切り裂いていく。無数の小さな風の刃が、美青年の下着まですべてを切り裂いてしまったのだ。

「きゃああああああ!?」

 生まれたままの姿となったペリッソンは、呆然と立ち尽くした。近くの女子生徒が悲鳴を上げて手で顔を塞ぎながら、指をほんの少し開いて、青年の裸体をまじまじと食い入るように見つめている。
 復讐グループの一人、ペリッソンに憧れていた少女が鼻血を噴き出して倒れる。トネー・シャラントらも倒れこそしないが、筋肉質な裸体をやはり食い入るように見つめていた。
 騒ぎに気がついたアンリエッタが何事かと確かめようとするので、既に風の魔法でだいたいの状況を掴んでいたヴェンツェルは彼女の目を手近な布で塞ぐ。

「ヴェ、ヴェンツェル殿。いけませんわ、こんな人目があるところで……」

 なにか勘違いしたアンリエッタが、頬を染めて騒ぎだしたので、今度は口を塞いだ。

「むふぅっ」

 苦しそうに呻く栗毛の少女。その場の関心はホールの中心に向いているので、誰も後ろを振り向きもしない。


 一方、杖を構えたままのヴィリエは愕然としていた。
 やってしまった。本来なら、自分がキュルケのドレスを切り裂くはずだったのに。よりによってペリッソンのスーツが切り裂いてしまうとは!
 とっさに杖をしまい、周囲を見回す。周囲に人影はない―――大丈夫だ。見られてはいない。
 真っ裸になったペリッソンは大慌てで会場を飛び出していく。場内は騒然となり、とてもではないがキュルケにまで手が回る状況ではなくなっていた。

 ヴィリエとトネー・シャラントの計画―――自分たちが工作を働き、同じゲルマニアの人間であるヴェンツェルとキュルケを憎みあうように仕向け、目障りな二人を共倒れにさせようという企み。
 それは、ヴィリエの失態によって初手からつまずくこととなってしまった。

 ちなみに。アンリエッタを背後から拘束していたヴェンツェルは、酔いから冷めて事態を目撃したルイズのハイキックで撃沈させられていた。




 *




「決闘だ」

 舞踏会の翌日。
 いつものようにヴェンツェルがヴェストリの広場で昼寝をしていると、そこに険しい顔の青年、ペリッソンが現れた。そしていきなり決闘だなどとのたまっているのだ。

「……いったいなんですか。いきなり」
「昨晩、ぼくは恥をかいてしまってね。とてつもない屈辱だった」

 身ぶり手振りを大げさに行いながら、ペリッソンはため息を吐きながら言うのである。

「それと僕にどんな関係が?」
「きみはミス・ステュアートと付き合っている。そして、自分の彼女にちょっかいをかけていたぼくが気に食わなかった。だから、舞踏会の場でぼくに大恥をかかせることにした……違うかい?」

 なんて壮大な勘違いだ。自分は騒ぎの直前までアンリエッタとダンスを行っていたというのに。いったいどうやって魔法を使ったというのだ。
 そういった主旨の反論を行うものの、ペリッソンはまったく聞く耳を持たないようだった。杖を構え、ヴェンツェルも杖を持つように促している。
 またもや決闘騒ぎである。先日アンリエッタに注意されたばかりではないか。
 なおも話し合いを続けようとするヴェンツェルに対し、ペリッソンは額に青筋を浮かべながら、吐き捨てるように言う。

「まだシラを切るつもりか? いい加減認めたらどうだ。それとも、ゲルマニアの貴族はそうやっていつまでも自分の非を認めないという風習でもあるのか? 潔くしたらどうだ」

 酷い言い草である。この二年生もまた、目の前の月目の少年の出自を正確に把握していないらしかった。というより、舞踏会で自分と踊ったキュルケのことまで悪く言ってはいないか。
 ここまでだと、もう言うだけ無駄だろう。話し合いを諦め、ヴェンツェルも杖を構えた。


「ポール・ド・ペリッソン。いざ尋常に勝負!」

 名乗りを上げた途端、ペリッソンはいきなり突っ込んで来る。トリステイン貴族の作法はどこへ行ってしまったのか。おまけに、彼が唱えているのは『ブレイド』だった。
 このまま黙ってやられるつもりはない。ヴェンツェルも『ブレイド』を詠唱し、二人の杖が交差した。
 虹色の魔法の刃を見たペリッソンは少々驚いていたものの、それは状況に影響を与えるものではない。すぐに後方へバックステップで退避した青年は、『ファイアー・ボール』を詠唱。すると、杖の先から人の頭ほどの大きさがある火の玉が飛んでくる。
 これにヴェンツェルは『フレイム・ボール』で反撃。広げた新聞紙ほどの大きさの火球が『ファイアー・ボール』を弾き飛ばし、ペリッソンを襲う。
 だが、それは『フライ』でなんとか回避。すぐに青年は地面に降り立った。

「これは驚いたな。きみは風が得意だと聞いていたが……、火のラインスペルも使えるのか」

 そう告げつつ、ペリッソンは矢の形をした炎を放ってくる。
 ヴェンツェルは火の矢を避けると、今度は『エア・ハンマー』を発射した。反応しきれず、ペリッソンは風の塊に押し出され、背後の樹木に背中を打ち付けてしまう。
 だが、すぐに彼は立ち上がった。威力が抑えられていたせいもあったのかもしれない。
 『アース・ハンド』。ヴェンツェルの片足が土から生えてきた土の手によって捕らえられ、自身の身動きが取れなくなる。
 しかし、移動出来なくとも魔法の詠唱は出来る。さっさと勝負を決めるために、少年は『ウィンディ・アイシクル』を詠唱。氷の矢が生成され、発射される。
 それを見たペリッソンは『ファイアー・ウォール』を唱え、来るべき氷の矢にそなえた。目論見どおり、氷の矢は炎の壁によって溶かされてしまう。じゅう、という水の蒸発する音が聞こえた。
 次はどうするか―――青年がそう考えたときには、既に背後へヴェンツェルが迫っていた。彼お得意の風を使った加速を行い、『アース・ハンド』を強引に引きちぎったのである。

「なにっ!?」

 反撃する暇もない。懐に潜り込まれたペリッソンは杖を奪わてしまった。とっさに殴ってやろうとするが、戦い慣れしていない彼にそれは土台無理な話である。逆にアッパーを決められ、宙を舞った。
 どしん、という音と共に、青年の体が地面に叩きつけられる。
 ヴェンツェルはゆっくりと歩み寄り、うめき声を上げるペリッソンに向かって、杖を突きつけながら告げる。

「まだやりますか?」

 その言葉に対する返答は、当然ながら―――降参する、というものであった。



 そしてこのとき、トネー・シャラントは、偶然にもヴェンツェルとペリッソンの決闘を目撃していた。

 戦いはあっという間に終わってしまっていた。一部始終を見た限り、ペリッソンはほとんど手も足も出ずに敗北を喫していたではないか。
 恐らく、学院の生徒でヴェンツェルに適う者などほとんどいないのでは。そういう感想を抱かずにはいられなかった。事実、ラインメイジであるヴィリエも敗北したというらしいのだから。
 あまりこの場に長居するのは危険だ。もし発見されれば、なにをされるかわかったものではない。

 そう考え、逃げるようにして灰色髪の少女はその場を去って行った。









  ●第四話「嫉妬と微熱」









 ペリッソンとの決闘から一夜明けた、ユルの曜日。

 その日最初の授業は土の実習授業だった。

 スズリの広場で、老体のミスタ・セダンがふらふらと歩きながら、生徒たちへ地面に埋めた無数の『お宝』を探してみろと言い放った。と思えば、彼は用意された椅子に座ってしまう。
 彼はかなりの年齢らしい。どうして教員を続けていられるのか不思議なくらいだそうだ。故に、授業もこういった投げやりなものが多かったりする。

 ヴェンツェルは地面に手をつけて、地中にあるという物体の在り処を探る。大まかな位置くらいなら、なんとか把握できるようである。
 学院入学前に大公妃が無理やり教え込んだことの一つが、土魔法である。彼女はカリーヌに対抗心を燃やし、あの手この手でなんとか土魔法を覚えさせようとしたのだ。そして、その結果は……。

 とりあえず、二人一組で一緒になったレイナールと共に土を掘り返していく。
 すると、わりとあっさりと『お宝』は見つかった。しかし、それはただの赤茶けたレンガであった。表面には『一点』と記されている。

「掘り出したレンガの得点が一番高い生徒が優勝じゃ。商品はなにもないがな」

 やる気激減の一言である。



 そして、放課後。

 スズリの広場にあるベンチに、一人の少女が腰かけていた。トネー・シャラントだ。彼女は、どうにかして目障りなゲルマニアの生徒二人をぶつけ合えるか考えていた。
 何度も考えるうちに、いつか見た光景がフラッシュバックする。
 あれは確か、自分たちが入学してすぐのことだったか。
 あのとき、キュルケがクルデンホルフの少年にしなだれかかっていたが、あの月目の少年がキュルケに交際を申し込んだという話は聞かない。他の男たちは軽く流し目を送られただけで交際を申し込んでいたというのに。
 これは案外と使えるかもしれない。あの調子に乗ったゲルマニア女に一泡吹かせてやれそうだ。
 運さえ良ければ二人を仲違いさせることだって出来るかもしれない。我ながらいい案だ。さっそく、帰って詳細な計画を練ろう。

 トネーは流行る気持ちを押さえきれず、つい早足で女子寮の自室へと向かうのであった。


 夜である。

 夕食を終えたキュルケが寮の自室へ戻ると、ドアと床の隙間になにか挟まっているのがわかった。
 封筒……、ラブレターの類いだろうか。どうせなら直接申し込めばいいのに―――そう思いつつも、恋には手を抜かないキュルケである。

 部屋に入り、丁寧に手紙を開封する。流暢な字体で記された手紙を上からゆっくりと読み進める。
 最後まで目を通したとき、赤髪の女性はにやりと微笑んだ。最初に“誘い”をかけたときのそっけない態度。あれは照れ隠しに過ぎなかったのか。結局は、彼もそこら辺の男子生徒と同じなのか。
 このとき、キュルケは大いに慢心していた。奢る者は目が濁るものである。それはこのときの彼女も例外ではなかったのだ。
 すぐに身支度を揃えたキュルケは、待ち合わせ場所―――ヴェストリの広場へと向かうのであった。


 そしてヴェストリの広場。

 まだまだ夜は気温が下がる傾向にあるなか。茂みのなかに潜んだヴィリエは、キュルケがやって来るのを虎視眈々と待っている。

 やがて、この場を目的の人物が訪れた。キュルケだ。彼女は周囲をきょろきょろと見回しながら、手紙の主が現れるのを待っているのだ。
 だが、その主が現れることはない。なぜなら、キュルケに手紙を書いたのはヴィリエであり、それを忍ばせたのはトネー・シャラントだからだ。

 キュルケはとりあえず待つことにしたらしい。尖塔の壁に背を持たれかけさせながら、星空を見上げている。
 ヴィリエは杖を構え、小さく魔法を詠唱。褐色の肌を覆う服の周囲につむじ風が舞う。キュルケはすぐにそれに気がついたが、もうそのときには服は切り裂かれていた。
 悲鳴を上げ、その場にへたれこむ。だが、誰もその場にはいないのだ。
 あわよくば、彼女は露出狂の汚名を拝領することになるだろう。
 しかし……。
 屋外に誘いだし、全裸にして女子寮へ帰らせる。途中で一味の女子に見つけさせ、キュルケの悪評を広めさせようとは。トネー・シャラントもなかなかに意地の悪い計画を立てるものだ。
 注目を浴びる場での復讐に失敗して、一時はどうなるかと思ったが……。

 あとは、自分が後ろ姿を見せつけながら去るだけである。ヴィリエとヴェンツェルは同じ金髪だ。手紙がヴェンツェル名義である以上、キュルケはヴィリエの後ろ姿をヴェンツェルと見間違える可能性がある。
 もしそうならなくても、表向きはまったく無関係なヴィリエの名が上がることはないであろう。

 さて、ではそろそろ立ち去ろうか―――ヴィリエがそう思ったとき。
 彼の体を猛烈な突風が襲った。吹き飛ばされ、木に頭から突っ込む。かと思えば風のロープで体を拘束され、強引に引っ張られた。

 地面を引きずられながら、彼は尖塔のそばに引き寄せられる。見れば、目に涙を溜めたキュルケが誰かのマントでその身を包み込んでいる。
 そのそばではトネー・シャラントを筆頭とする四名ほどの女子生徒が捕らえられ、ロープで体を巻かれて地面に転がっている。
 恐る恐る視線を上げてみれば……そこでは、腕を組んだ月目の少年がヴィリエを見下ろしているではないか。

「ヴィリエ・ド・ロレーヌ。トネー・シャラント……、どうも覚えがあると思ったら、入学早々に問題を起こす生徒たちだとようやく思い出してね。見張っておいて正解だった」

 そう呟きながら、ヴェンツェルはキュルケに歩み寄る。

「ミス。僕やあなたを陥れようとしていたのは、この生徒たちです。煮るなり焼くなりお好きなようにどうぞ」

 褐色肌の女性の手を取り、立ち上がらせる。四人の女子生徒はヴェンツェルに「きみたちが犯人だろう?」と問われると、慌てて首を縦に振った。どうやら、もうある程度制裁を加えられているらしい。
 その様子に、しばらく考えをまとめていたようだが、彼女はそこで酷薄な笑みを浮かべたではないか。

「……そうね。あなたにお任せしますわ。見ての通り、わたしはこんな状況だし」
「そうですか」

 そこで、ヴェンツェルは顎に手を添えて生徒たちを見る。とりあえず宙吊りにでもしておくのがいいだろうか?
 いや、もっと。二度とこんな行いをしなくなるようなお仕置きが必要だろう。

「そうだな。ヴィリエ。きみはミスタ・ペリッソンのところに行って、自分がスーツを切り裂いたと白状すること。女子生徒は、やっぱりミス・ツェルプストーに処遇を任せるよ」
「あら。いいの?」
「ええ。どうぞ、お好きなように」
「そうねえ。じゃあ、ちょっとマントをお借りしますわ」

 マントで体を覆ったまま立ち上がり、キュルケは獲物を狙う猛禽類のように獰猛な笑みを浮かべた。慌てて逃げだそうとする女子生徒たちだったが……、ロープで縛られているためにどうしようもない。
 ロープを残したまま髪や服が焼き払われ、悲惨な姿となる女子生徒たち。キュルケはそんな連中を引きずり、尖塔の中に入っていく。

「ロレーヌ。逃げるなよ」

 そして。そろそろと歩き出したヴィリエの背中に向かって、ヴェンツェルはそんな言葉を向けるのだった。




 *




 翌朝。

 やっぱりヴィリエはペリッソンにぼこぼこにやられたらしい。全身に切り傷や大やけどを負った上に、複雑骨折もして医務室送りとなったという。
 しかし。ことがことなので、下級生をタコ殴りにしたにも関わらず、ちょっとした謹慎処分が下っただけで済んだらしい。

 いつものようにヴェンツェルが食事を取っていると、いつもマリコルヌが座っている席に誰かやってきた。赤髪で褐色肌といえば一人しかいない……、そう、キュルケだ。

「……なによ、ツェルプストー。なにしに来たの」
「あら、いたのヴァリエール。でも、あなたに用はないわ」
「ふん、あっそ」

 なにやら邪険な様子の二人はともかく……、キュルケはヴェンツェルの方を見て微笑んだ。それをやっぱりギムリが勘違いし、にやにやとしまりのない笑顔になる。
 一方のマリコルヌである。彼は普段自分が座っている場所―――ルイズという美少女の隣をキュルケに奪われ、半ば呆然としていた。

 そして。
 アンリエッタは、明らかにキュルケの態度が変わったことをつぶさに感じ取っていた。ヴェンツェルに対しいままでは、教室でたまに話しかける程度だったはず。それがいきなり食事の席で近づいてくる……。なにかあったのだろうか。
 凝視していると、キュルケがちょっと狼狽したようだった。

「え、ええと。ステュアートさん、だったかしら? わたしの顔になにかついてます?」
「……いえ。なんでもないです」

 それ以降はなにも言わず、アンリエッタは食事を再開する。キュルケはそんなアンリエッタを不思議そうに見つめていた。


 尖塔へ宙吊りにされたトネー・シャラントらが発見されたのは、それから間もなくのこと。
 彼女たちはなにを尋ねられても「自分でやった」としか言わず、教員たちを大いに困惑させ、四人の学院での評判は地に落ちることとなるのであった。





[17375] 第五話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:5725dbe8
Date: 2010/11/01 20:55
 ウルの月も終わりに近づいたころ。
 だんだんと気温が上がり始め、もうそう遠くなく夏がやってくることを感じさせる季節。

 朝食を終えたあと、トリステイン魔法学院の中庭でルイズとアンリエッタはお茶に興じていた。

 彼女たちは基本的に二人で行動することが多い。クラスこそ違うが、なにかあれば一緒にいるのだ。
 アンリエッタはアンリエッタで交友関係を築いているが、やはり幼少のみぎりであるルイズとの関係はもっとも重視しなくてはならないと考えているのだ。
 『ゼロ』と罵られるこの友人は、きっと一人きりでも耐え抜くことは出来ると思う。しかし、やはり出来る限りは共にいてあげたいと思うのである。
 お茶を入れてくれたメイドの少女に礼を言いながら、アンリエッタはティーカップに口をつける。彼女は、相手が平民だからといって高慢な態度には出ない。この国の頂点に立つ王族故の余裕だろうか。

 トリスタニアで流行りの服装、流行語……。いかにも貴族の子女、といった会話を繰り広げていく。やがて、二人の話題はラ・ヴァリエール家の家族について移った。

「そういえば、ルイズ。カトレア殿はお元気ですか?」
「ええ、とっても元気ですわ。なぜか持病もなくなりましたし……」
「まあ! それは初耳でしたわ」
「お医者さまもさじを投げていたのに……、世の中、わからないこともありますよね」

 そう言い、ルイズもお茶を嚥下する。
 そのときふと思い出される、あのときの記憶。まだ太っていたころのヴェンツェルを酷い目に遭わせて、自分もそういう目に遭ったこと。思い出すとなんだか体がむず痒くなる。
 あああ、いけないわ。どうにか封印しようと頑張ってきたじゃない。自分がそんな趣向に陥ってしまってるなんて他人に知られたら……。
 想像するだけでも恐ろしい。今のところそれを知る人物は限られているが……。いや、もう忘れているだろう。そうに決まっている。
 精神の均衡を保つために、ルイズは都合の悪いことは無視することにした。

「カリーヌ殿がニヴェルやラ・ベル・アリアンスで出陣なさった、というのはご存知ですか?」

 すると、アンリエッタがそんなことを言ってきた。

「え、ええ。知っています。わたしも最初は驚きました。母は、もう戦場に出ることなどないと思っていましたから」

 鉄の規律で知られた“烈風カリン”。そんな母だったが、父との結婚をきっかけとして忽然と行方をくらませたらしい。数々の伝説を残して。
 かつての豪傑がいまでは公爵夫人になっているというのが、なんとも数奇なものである。

「ニヴェルの戦いでは、ヴェンツェル殿がガリア軍の大元帥を捕縛なされました。それがなければ、あの戦いでトリステインは敗退していたでしょう。いまこうして、わたくしがあなたと共にいることもできなくなっていたはずです」
「……そうですわね」

 ただ、である。だからといって叙勲騎士『シュヴァリエ』に叙するのはどうだろう。
 夢を見るようなアンリエッタの表情を見ていると、なんだか不安になってくる。 
 しかし。確かに、ガリアに敗北していれば。いまごろアンリエッタはリュティスにでも捕らえられているだろう。それがないのは非常に良いことだ。


 二人でしばらく談笑に興じていると、そこへ招かれざる客が現れた。赤髪で長身の女性、キュルケだ。彼女はプリーツの入ったスカートを揺らしながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「ミスタ・ヴェンツェルがどこにいるかご存知ないかしら」
「知らないわよ。なんでわたしが知ってるのよ」
「あら、そう」

 ルイズの答えには特に期待していなかったのか、キュルケはあっさりとした返事を行う。そして、アンリエッタの方を向く。

「ミス・ステュアートはご存じないかしら?」
「……いえ。わたくしも存じあげませんわ」

 アンリエッタもそう返すと、キュルケは残念そうな顔になる。礼を言い、その場を去って行った。
 ルイズはふと考える。ヴェンツェル、いったいどこへ行ってるのかしら。アンリエッタ曰く、朝食終了までは姿を確認できたというのだけども。
 ……いや、なにを気にしているのだ。あんな変態、どうでもいいではないか。わざわざ気にかけてやる必要なんてないのだから。ルイズはそう思い、話題を変えることにする。




 *




 ―――ここはどこだろうか。

 どうやらトリスタニアのようだが、なにかが違う。道行く人々の恰好が時代遅れなのだ。最近ではまったく目にしないような服装ばかりが目立つ。
 そういえば、屋敷にあった昔の服があんな感じだったろうか。

 ヴェンツェルは周囲をきょろきょろと見回した。おかしい。先ほどまで、自分は魔法学院にいたはず。それがなんでトリスタニアなどに来てしまったのか。

 確か……、先ほどまでキュルケに追い回されていたはず。なんだか知らないが目をぎらつかせながら「お話しましょう」などと言って追いかけてくるので、必死になって逃げていたのだ。
 そして、逃げ込んだ先の火の塔にある倉庫。そこに置かれていた妙に古めかしい箪笥に隠れたはずなのだ。確か、入ったのは自分だけだった。それがどうして……。そう思わずにはいられない。

 とりあえず、なんとかして魔法学院に戻らないと。まずはクルデンホルフの屋敷へいって、管理をしている使用人に路銀でももらわねば。金がなくては帰ることもできない。

 そのとき。ふと、周囲の人々が自分を遠巻きに観察しているのがわかった。いったいなんだろう。自分が月目だから、気味悪がっているのだろうか?
 そんなことを考えたが、どうやら原因はそうではなかったらしい。

「おい、貴様!」
「ん?」

 なにやら聞き覚えのある声がしたので下を向けば……そこには、見慣れた桃髪の少女が倒れ伏していた。どうやら、自分の下敷きになってしまっているらしい。
 いきりたったその人物の顔は、どう見てもカリーヌの少女時代そのものである。はて、なぜ彼女がこんな恰好でこの場にいるのか。会う約束はなかったが。
 そうやって腕を組みながら考えていると。我慢できなくなったカリーヌによって、ヴェンツェルは風の魔法で吹っ飛ばされた。

「い、いつまでも人の上に乗っかるやつがあるかぁ!」

 ぷるぷると震えながら、カリーヌは軍杖を突きつけながら怒鳴りつけてくる。はて。妙だ。彼女はこんな言葉遣いなどしないはず。では、いったいどういうことだろう。

「カリーヌ。どうしたんだ? いつもとはずいぶん態度が違うじゃないか」
「は……、か、カリーヌ? ……ふ、ふざけるな! ぼくはカリンだ! カリーヌなんて名前じゃない! そ、それになんだ! 馴れ馴れしい!」 
「なに?」

 カリン。『烈風』カリン……。そういえば、男装時代のカリーヌは魔法衛士隊に入るために性別を偽っているんだった。
 で、なんだろうこれは。“そういう”プレイかなにかだろうか。だって、どう見ても目の前の人物は少女にしか見えないではないか。
 年頃の少年とは思えない、華奢な体つき。ほとんど足の付け根までしかないホットパンツから伸びた真っ白な細い脚。長く艶やかな髪。……へそが見えるが、どう見ても女性の位置にある。
 これを男だと強弁するのはかなり無理がないか。

「貴様も貴族なんだろう? 少しは礼儀を弁えたらどうだ」

 そう言って、“カリン”はヴェンツェルの目を見る……、すると、ははぁ、といった感じな顔つきになった。

「“月目”か。不吉の象徴……。ふん。貴族のくせにそんな目の色だなんて」

 月目。ハルケギニアでは忌み嫌われる、瞳の色が左右非対称なオッドアイのことを差す。地球では一部の中二病患者に愛好されるステータスだ。現実には存在しない赤目などがとくに重宝される。

 しかし、妙すぎる。このカリーヌ、まるで自分のことなど覚えていないようである。記憶喪失かなにかだろうか。

「変なこと言ってないで、さっさと着替えないと。二人でいるところを誰かに見られたら大変だし……」
「はぁ? なんでぼくと貴様が一緒にいると大変なんだ?」

 駄目だ、このカリーヌ。完全になりきってしまっている。きっと怪しい薬でも飲んでしまったのだろう。これは大変な事態である。さっさと目を覚まさせてやる必要がある。
 そう考えつつ、ヴェンツェルはカリーヌをひょいと抱き上げた。体は羽根のように軽く、男に比べればよほど柔らかい。

「こ、こらっ! なにをする、はーなーせっ!!」

 がしっ。カリーヌが振り上げた拳がヴェンツェルの顎を捉えた。いくら少女の力とはいえ、このころのカリーヌは男に混じって訓練を積んでいる。そこら辺の街娘よりはよほど力が強い。
 顔を真っ赤に染めたカリーヌは、腰から取り外した軍杖を構えた。はーっ、はーっと息を乱しながら、目に涙を溜めつつ怒鳴る。

「こ、この……、無礼者! 成敗してやる!」
「うおっ」

 激昂したカリーヌは『ブレイド』を展開させた軍杖をむちゃくちゃに振り回し始めた。これはまずい。本気で錯乱している。
 仕方ない。『烈風』相手に勝てるか、正直かなり微妙なところではあるが……、まずは、なんとかして……。
 そう思ったとき。びゅん、と目の前を『マジック・アロー』が飛んでいく。速い。あまりにも速い。目にも留まらぬ速さというやつだ。これでは本当に殺されてしまう。
 こうなれば……。

 逃げるが勝ち、である。後ろを向いて走り出す。ヴェンツェルは敵前逃亡を決行した。

「あ、待て! こらぁ!」

 後ろからカリーヌが追いかけてくる足音がする。ひとまず、人目につかないところまで逃亡しなくてはならないだろうと考えた。









 ●第五話「過去との邂逅」









「追いついたぞ! 覚悟しろ!」

 カリンが自分に無礼な行いを働いた少年を追いかけはじめてから十数分。

 途中で見失っていた月目の人物を見つけたのは、トリスタニア市街の外れにある空き地だった。
 先ほど尻尾を巻いて逃げ出したとは思えないような、ひどく尊大な態度で少年は悠然と佇んでいる。その姿に、カリンはちょっとした怒りを覚えた。

「くっ……。ぼくが騎士見習いだからって馬鹿にして……」

 思わず呟いた一言に、しかし少年は呆けたような口調で答える。

「騎士見習い? ……そういう設定なのか?」
「設定ってなんだ、設定って! 人を愚弄するのも、いい加減にしろぉっ!」

 腹に思いきり力を込めた叫びと共に、カリンは眼前の少年に飛びかかる。鋭く突き出された軍杖は風をまとい、避けきったと確信していたヴェンツェルを吹き飛ばした。
 地面に落ち、ごろごろと転がる“敵”。敵ならば情け容赦など無用である。カリンは一気に突撃をかける。跳躍し、少年の数歩手前に着地。勢いを殺さず、そのまま地面に向かって軍杖を向ける。

「う、うわっ!?」

 だが、どうしたことか。急に地面がそれまでの固さを失い、カリンの足をずふずぶと飲み込んでいくではないか。だが、そこは腐っても騎士見習い。『レビテーション』で脱出を図った。
 しかし、今まさに浮かび上がろうとしたとき。
 彼女の体が、背後からがしっと捕まえられた。ごつごつとした感触に悲鳴を上げながら振り返ってみれば、そこには何やら金属で出来たゴーレムがいるではないか。
 これはまずい。身の危険を感じたカリンが軍杖を振り回そうとしたとき、先ほどまで倒れ伏していた少年が立ち上がった。
 かと思えば、ゴーレムとカリンに向かって突進。少女の手に握られていた軍杖を奪い取る。

「あ、こら! 返せ!」
「そうはいかない。僕はまだ死にたくないからな」

 ゴーレムに肩をがっちりと押さえつけられながらも、なお暴れる少女に対し、そんなことを言いながら、ヴェンツェルは掠め取った軍杖を地面に突き刺す。

「悪いね。だけど、怪しい薬を飲んだであろうきみを放置するわけにはいかない」
「あ、怪しい薬ってなんだ! ぼくはそんなもの知らないぞ!」
「問答無用」

 ヴェンツェルはゴーレムに命じ、半ば錯乱しながら騒ぎ立てるカリンの量腕を上げさせた。
 袖のない服装をしているので、彼女のまっさらな脇の下がまま露出してしまう。そして、少年はその辺りに手を伸ばしてくすぐり始める。

「ひゃっ! うわっ、はゎゎゎゎ……や、やめ、そこはやめろぉ!」
「きみの体の弱い部分はだいたい知ってるんだ。覚悟してもらおう」

 言いつつ、わさわさと手を動かしながら、なおも体の至るところをくすぐり続ける。
 耳、首筋、脇の下、へその周り、太ももの内側……と、どんどんくすぐっていく。しまいには、その辺に生えていた草まで使い始める。
 的確に弱点を攻められ続けるカリンは涙を流して体をよじる。それでも続けていると、彼女はやがて口の端からよだれを垂らし始め、脱力してしまった。
 これはやりすぎたか―――さすがにそう思い、カリンを解放する。地面にぐてっと倒れ込んだ少女は、しばらく立ち上がれなくなってしまったようだった。びくびくと体を痙攣させている。

「……くっ。ひっ……。ゆ、許さない……よくも、よくも……」

 やがて起き上がったカリンは、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
 これはいよいよやり過ぎたのを自覚したヴェンツェルは歩み寄って、なにやら色々な体液でぐちゃぐちゃになってしまった少女の顔をハンカチで拭ってやる。
 それでもやはり泣き止まない。困った。本当にどうすればいいのか。完全にヴェンツェルの自業自得ではあったのだが。
 そんなことを考えていると、カリンが急に泣き止んだ。そして、それと同時に猛烈なオーラがもわもわと湧き出してくるではないか。

「許さない……。絶対に許さない……」

 負の力に満ちたカリンの威圧感は凄まじい。そして、尻込みしている間に軍杖を取られてしまった。こうなると、とてもではないが、いまのヴェンツェルの手に負える相手ではない。
 どうする。一か八か、やってみるか。
 覚悟を決め、少年は身構える。

 そして、気配の変貌を察知したのか。カリンも目を細めた。
 にらみ合いが続くなか―――ついに、ヴェンツェルが動いた。風を足の裏に溜めて破裂させる。ロケットのように急加速する動きに、カリンはほんの一瞬だけ反応が遅れた。
 そして、その時間は、少年がカリンに肉薄するのには、十分すぎる時間だったのだ。

「うおぉぉぉぉぉ!!」

 雄叫びを上げながら目の前の少女に突っ込む。そのまま押し倒し、二人の体は大きく吹き飛んだ。






 倒れ込んだまま、上に覆い被さる少年を突き飛ばそうともがくカリン。しかしどうにもならず、とうとう我を忘れて叫びだした。

「……な、なんなの、なんなのよ、あなた!」
「なにって……。本当に覚えていないのか」
「は、はぁ? わたし、あなたのことなんか知らないわよ!」

 驚愕である。カリーヌ、どうやら本当に記憶喪失になってしまったらしい。これは一大事だ。今度こそ医者に診てもらわないと……。
 その前に、女言葉に戻っているのはいいのだろうか。そういった主旨の質問を行うと、

「う、うるさいっ! 黙れっ!」

 と、股関を蹴りあげられた。
 箪笥の角に小指をぶつけた痛みに匹敵する―――あるいはそれすら上回る猛烈な痛さに、ヴェンツェルは顔を苦痛に歪めながら、地面でのたうち回る。
 だが、彼はすぐに立ち上がった。脂汗が額に浮かんだまま、にやりと口の端を歪める。

「その胸の脂肪、出っ張ったモノがない足の付け根。さらには男の大事な部分を躊躇なく狙う攻撃。やはり、きみは女だ! いい加減認めたらどうだ!」
「な……、ど、どさくさに紛れて、どどどこ触ってるよぉぉぉぉぉぉぉ!」

 その刹那。

 カリンの風魔法が暴発した。
 ヴェンツェルの風など到底比較にならないような、とてつもない強さの烈風が吹き荒れる。少年の体はいとも容易く持ち上げられ、どこかへと吹き飛ばされるのであった。


 吹っ飛んでいく少年を見送りつつ―――ふと、彼女は思い出す。

 今日。自分が仲間たちと共に、ゲルマニア人と決闘を行うということを。




 *




「サンドリオン。どうするんだい、これは」
「……ちょっと、数が多すぎるな」
「うおお! おれは、おれはまだ生きるぞぉ! 麗しのレディに仕えるまで……! おれは、死なぬ!」


 トリスタニアは某所、セント・クリスト寺院。

 トリステイン魔法衛士隊の三馬鹿……ならぬ三傑は、二十名ほどのゲルマニア貴族と決闘を行っていた。
 サンドリオン、バッカス、ナルシス。いずれも腕っ節で適う者などそうはいないが、さすがに多勢に無勢である。九倍以上のメイジを相手に苦戦を強いられていた。

 彼らゲルマニア貴族を率いるのは、バイエルン大公国は公子マクシミリアン。優秀なメイジを輩出する家としても名高いヴィッテルスバッハ家の子息であった。
 だが、そんなことを三傑たちが知る由もない。
 マクシミリアン自身はこの決闘にあまり乗り気ではない。だが、出自もわからないような三人に同国の貴族たちが倒されたのでは恥さらしである。ここは汚名を雪がなくてはならないのであった。
 彼の指揮下で、ゲルマニア貴族たちは徹底的な集団戦法を行う。

 徐々に三傑は追い詰められ、ついには寺院の壁面にまで追いやられた。

「くっ……。サンドリオン。きみだけでも脱出してくれ。あの壷をマリアンヌさまに……」
「いや、そういうわけには……」
「口惜しいぜ。せめて姫さまに踏みつけられて死にたかった……」
「バッカス。こういうときだからって、そういう自分の恥ずかしい性癖を暴露するのはやめてくれよ」

 最後までどうしようもないやつらだ。灰色髪の青年―――サンドリオンはふぅとため息を吐きながら、両脇の二人に告げる。

「ま、やるだけはやってみよう。まだ精神力が切れたわけじゃないからな」
「そうだね」
「戦って潔く散るのも悪くはないな」

 じりじりと距離を詰めるゲルマニア貴族たち。三傑は軍杖に力を込め……。いよいよ、三人が逆に突撃を仕掛けようとした、そのとき。

 ゲルマニア貴族たちが、その下の地面ごと浮き上がらされた。彼らは態勢を崩され、慌て始める。
 その隙をサンドリオンは見逃さない。それはいかつい体つきのバッカス、気障男のナルシスも同様である。三人は一斉に攻撃を仕掛けた。

 そんな様子を、最後列のマクシミリアンは呆然とした様子で眺めていた。
 地面をその上の人間ごと引き剥がす……。そんな無茶苦茶があるか。いったいどこの化け物なんだ、そんなことをしてくれたのは。
 彼がそう思い、周囲を見回したとき。頭上から、一人の少年が落下してきたところだった。
 次の瞬間、マクシミリアンに少年が命中した。直前に『レビテーション』で制動をかけていたものの、威力が完全に殺されることはなかったのだ。

「あれ? ゲルマニアの……」

 少年の呟きは、地面に崩れ落ちた青年の耳に入ることはなかった。


「ま、マクシミリアン殿が!」
「くそっ」

 司令塔を失ったゲルマニア人たちは慌てふためいた。そうこうしているうちに、桃髪をはためかせながら一人の騎士見習いがやってくる。

「か、カリン! どこ行ってたんだよ!」
「……少し、野暮用があって」
「なんで顔が赤いんだ? カマでも掘られたか?」
「う、うるさいっ!!」
「お前ら、そいつをからかってる場合か! まだ敵は倍以上の数が残っているんだぞ!」

 サンドリオンの叫びと共に、残ったゲルマニア貴族たちが一斉に飛び掛ってくる。しかし。四人揃った魔法衛士たちの前には敵ではないのだろう。
 灰色髪の青年が水の鞭で一人を弾き飛ばし、氷の矢を命中させる。ナルシストな青年が『クリエイト・ゴーレム』を使って二人を叩き潰そうとする。バッカスが唸り声を上げながら突進する。
 最後にカリンが、突風で相手を三人まとめて吹き飛ばす。
 対するゲルマニア側は統率がとれず、次々と負傷者を増やしていく。
 ものの数分で、ゲルマニア貴族たちはマクシミリアンを引きずって逃げ出さざるを得なくなっていた。


 逆転勝利に沸く一同。
 そんな四人の様子を、ヴェンツェルは少し離れた場所で観察していた。
 灰色髪の青年サンドリオン。ごつい体つきのバッカス。金髪気障男のナルシス。そして……、桃髪の男装少女カリン。

 これは……、ひょっとすると、ひょっとするかもしれない。先ほど自分が逃げ込んだ箪笥。あれはもしかして、なにかのマジック・アイテムだったのでは。
 そして、その効果は……。人間を、過去の時代に飛ばす。俗にいうタイムトラベルを可能にする技術だろうか。だが。だがである。そんなことが現実にありうるというのか。
 で、ある。もし、本当に自分が過去に来てしまったというのなら。

 ここが数十年前のトリスタニアだとしたら。あの“カリン”はまさにこれから新時代を築く『烈風』であって、だとすれば―――


 感じるのは、戦慄。


「ふ、ふふ。貴様、よくもまだ抜けぬけとぼくの前にいられるものだな……」

 顔に影を落とし、うつろな目をしたカリンが、目の前に立っていた。

「ここだけの話……。ぼくは、魔法衛士隊に入るために性別を男だと偽っているんだ。でも……貴様は知ってしまった。ぼくの正体を。そ、そればかりか、お、お前は……」
「いや、待ってくれ。勘違いだったんだ。あれは―――」
「か、かかかか勘違い? い、いきなり、ひ、人にあんなことをしておいて、勘違い、ですって?」

 やばい。ヴェンツェルはとっさに逃げだそうとする。だが、そうは問屋が卸さないのだ。

「こ、……殺す! 肉片一つ残らないように、刻んでやる!! よくも、よくも……!!」

 今度こそ爆発した。カリンは軍杖を振り上げて逃げる少年を追いかけ出した。本気である。次々とヴェンツェルから血が噴出していく。

「なぁ、なにやってんだ、カリンは。というより、あの少年は誰なんだ」
「これじゃないかな」

 ナルシス、指を一本突き上げた。それを見たサンドリオンは驚き、バッカスは「ふむ」と呟いた。

「両方男じゃないか!」
「なるほど、やっぱり掘られたのか。痛かったんだろうなぁ……」

 顔を狂気に歪めながら走り回るカリンに、憐憫の視線を向けるバッカス。

「……“そういう”ケがあるとは前から思っていたが……。まさか、本物なのか?」
「いやぁ。怒ってるし。無理やりかね」
「あの名もなき少年もなかなか色男だからね。ま、ぼくには到底適わないけど。で、ほいほいついていったら食われたんじゃないか?」

 バッカスもナルシスもまさに他人事である。カリンと同居しているサンドリオンだけは顔が青ざめていたが……。それでも、三人とも好き勝手な言いようであった。

 そして。
 それと同時に、カリンの雄たけびに合わせるかのように。

 ヴェンツェルが、体から血しぶきを撒き散らしながら、一際高く宙を舞った―――




 *




 次にヴェンツェルが目を覚ましたのは、魔法学院の医務室であった。

 体をまさぐってみる。カリンに付けられたと思わしき傷は―――ない。肌には傷一つないのだ。胸の『リーヴスラシル』のルーンもそのままだ。
 いったいどうしたものかと思っていると。

「目を覚ましたかのう」
「が、学院長……」

 オスマン氏がベッド脇に立っていた。彼は長い白ひげを撫でながら、ゆっくりとした口調で告げてくる。

「きみが入っていた箪笥。あれはのう。『夢見の箪笥』というマジックアイテムなのじゃ。壊れておるとばかり思っていたのだがのう……。まだ動いておった」
「夢見の箪笥?」
「そうじゃ。その中に入ると白昼夢を見てしまうという、どんな意味があるのかわからない代物じゃ」
「……え? じゃ、じゃあ。僕は夢を見ていただけなんですか」
「左様。まったく、困ったマジックアイテムじゃよ」

 夢……。なんだ夢か。ヴェンツェルはオスマン氏の言葉を鵜呑みにし、大いにほっとした。過去に飛ばされるなんて。そんなことがあってたまるものか。

「は、はは……」

 なんだか安心してしまい、医務室のベッドの上でヴェンツェルは乾いた笑い声を上げた。




 ―――少しの後。

 オスマン氏は、火の塔にある倉庫を訪れていた。ヴェンツェルには『夢見の箪笥』と伝えたそれを見つめ、ふぅとため息を吐く。と、そのとき。

「それはなんですか?」
「ふぉ!?」

 オスマン氏がぎょっとしながら振り返ると、そこには、この国の姫―――アンリエッタの姿があった。
 発見されたとき、ずたぼろの血まみれになっていたヴェンツェルを治療したのは彼女である。既に水のトライアングルに達していた彼女の応急措置で、少年は一命を取り留めたと言っても過言ではない。

「う、うむ……」

 白髪の老人は言葉に詰った。この箪笥、『夢見の箪笥』などという名ではない。本当は『過去への箪笥』といい、かつてとある魔法使いが作成したものだ。
 誰が作ったのか。どういった目的で生み出されたのか。時間跳躍などというものをどのようにして可能としたのか。それは、オスマン氏にすらわかったものではない。謎だらけなのだ。
 わかっていることといえば、その箪笥に入ると過去のトリスタニアに飛ばされること。横にあるボタンを押せば、飛んでいった人間が戻ってくること。それだけである。

 どうしたものかとひげをいじっていると、アンリエッタは急に真剣な表情となった。

「あ、そうです。気になることがあります」
「う、うん? なんじゃね」

 これは幸い。姫さまは箪笥にはそれほど興味を持っていないようだ。彼女には『夢見の箪笥』で夢遊病患者のようになったヴェンツェルが勝手に怪我をしたと伝えてある。
 そして、しばらく口をつぐんだあと、アンリエッタは静かに呟く。

「……ヴェンツェル殿の胸に、ルーンが刻まれていましたね」
「そうじゃったかの?」
「ええ。……いったい、彼はどこでそんなものを付けられたのでしょう?」
「ルーン、か。となると、彼は一度使い魔として召喚されているのかもしれん」
「使い魔、ですか?」
「うむ。人が使い魔になったという話など聞いたことはないが……。他に、可能性はないじゃろうしのう」

 使い魔。貴族を、それ以前に人を使い魔にするなどという話は聞いたことがない。もし呼び出した人間がいるとするなら……、それは誰のことだろうか。
 本人に尋ねてもいいだろう。だが、それははばかられる。胸部を凝視していたことがばれるのは恥ずかしいからだ。

 オスマン氏が箪笥に『オスマン氏専用下着入れ』と貼り付けるのを眺めつつ。アンリエッタの脳裏に、小さな疑念が渦巻いた瞬間であった。






[17375] 第六話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:a6b6fe98
Date: 2010/09/18 21:06
 ニューイの月に入ってから数日。この月の半ばから、トリステイン魔法学院は二ヶ月半にも及ぶ夏季休暇に突入するのだ。

 入学時は緊張感を持ってやってきた生徒たちも、いまとなってはすっかり夏休み気分である。中には休暇中の予定を食堂で立てている者までいるのである。

 クルデンホルフ大公国からやってきたヴェンツェルも、そんなだらけきった連中の一員であった。
 彼は城を出る際、母親である大公妃から「休みが終わったらすぐに帰ってきなさい」と言われているが、そんなのは御免である。
 青春真っ盛りなのだから、遊び倒したいものである。
 とはいえ、実家に戻らずに休みを満喫するのは容易いことではない。ほとんどの生徒が実家へ帰るからだ。それはレイナールやギムリ、ギーシュも同様であった。
 レイナールの実家があるブリュージュ伯爵領といえば、数百年前の大津波によって形成された運河が有名だ。
 いまではトリステイン北西部最大の交易拠点となり、領主であるブリュージュ家は栄華を極めている。

 せっかくだからこっそりと行ってみようか。朝食後の食堂でそんなことを考えていると。彼の元に、なにやら手紙を携えたギムリがやってきた。

「殿下。そこで会った学院長がこれをって」

 そう言い、ギムリがなにやら手紙を手渡してくる。よくみれば、その封印はガリア王国の国章で刻まれている。いったいなんだろうか。
 とりあえず、開封してみる。
 読んでみると……、それは、ガリア副王ジョゼフからの招待状であった。夏季休暇を利用して、リュティスにヴェンツェルを招きたいとのことらしい。
 そういえば、タバサことシャルロットは魔法学院には入学していない。いったいどんな状況にあるのだろうか。イザベラと仲良くやっているのか。ふと、そんなことを考える。

 ガリアでは最近までシャルル王の廃位を主張する一派が跋扈していたものの、現状ではずいぶんと落ち着いたらしい。
 やはり、優秀な手腕を持ったジョゼフの再登板が大きいのだろうか。

 そんなことを考えていると、ギムリが手紙を勝手に覗き込んできた。文面を見つめ、うへぇ、などと大きな声を出す。

「さっすが殿下っすねえ。ガリアの王族から直々に王宮へ招待されるなんて!」

 その声に、周囲の生徒たちが視線を向けてくる。まったく迷惑なことをする。こういうことを関係のない人間にまで広めたくないというのに。

 ヴェンツェルはギムリの頭を杖でぶっ叩くと、手紙を持って食堂を後にした。



 *



 その日最初の授業は、水系統の実習授業である。

「今日は『凝縮』を応用してみましょう」

 水の塔にある教室へ集まったソーンのクラスの生徒たちを見回し、担任であるミス・リジューが告げる。彼女は水のトライアングルである。

 彼女は金色の髪を日の光にきらきらと光らせながら教室にいる生徒たちを見回す。ヴェンツェルを見るといつものように目を細めた。
 リシェル・ド・リジュー。かのリジュー伯爵家のご令嬢だ。彼女は学院を主席で卒業してから王都の上級学校へ通い、最近赴任してきたらしい。
 ヴェンツェルはどこかで聞いた名前だなと思いつつ、すっかり彼女の存在を忘れ去っていた。故にまったく彼女と面識があるなどとは思っていなかった。

 『凝縮』は大気中の水蒸気を水の粒にする水系統の基本的な魔法だ。難易度は水系統の中ではもっとも低い部類に入る。

 教室の生徒たちは口々に魔法を唱え、次々と水の塊を作っていく。しかし、ヴェンツェルはそれが出来ない。せいぜい米粒程度の水の塊が出るだけだ。
 彼は水の魔法がまったく駄目だった。練習すらろくにしていないのもあったが。

 と、教室で大きな声が上がる。アンリエッタが一際大きな水の塊を生み出したからだ。大きく透明な塊がふわふわと宙に浮いている。
 一方のキュルケ。彼女は水はからっきしらしく、まったく身が入っていないようだ。同じように水の魔法が苦手らしいヴェンツェルの方を見つめ、なにやら笑顔を振りまいていた。

 水の魔法ができないというのは単なる練習不足だろうか。なにせ父であるクルデンホルフ大公は水のスクウェアなのだから。血を引いている以上、まったく出来ないとは思えない。
 事実、風や土の魔法は短期間で習得に成功したのだ。
 それがヘスティアの消滅以後である部分が微妙に引っかかるものの。それが大きな意味を持っているとは考えもしなかった。

 そのときだ。

 教室の隅にいたトネー・シャラントの水玉が、なぜかどんどんと膨らんでいく。
 本人もどうしてそうなっているのかわからないようで、目をぱちぱちとさせながら慌て出している。
 それは止まるところを知らず……、最後には新聞紙三枚ほどもの大きさとなってしまったではないか。これはまずい。制御が追いついていないのは明白だった。
 シャラントはこの異様な膨張に戸惑い、つい手を離してしまう。

 すると……。
 なんと。水の塊が突然爆発し、教室中に降り注いだではないか。辺りから悲鳴が上がる。

 水浸しになる教室。桃色電波を察知したヴェンツェルは、素早く女子生徒に視線を向ける。
 ハルケギニアにはブラジャーというものが存在しない。それに類似する効果のものは昔からあるものの、それをつけている子女などいないのだ。
 つまり……、特に胸が大きいキュルケやアンリエッタのシャツはそれはもうすごいことになっている。ぴっちぴちである。桜色パラダイスである。
 それはミス・リジューも例外ではなく、盛大に水を被っていた。

 教室は大混乱に陥った。シャラントはわけも分からぬうちに非難の対象とされ、目に涙を浮かべてしまっている。
 先日の一件以来、クラスで孤立していた彼女にこれは追い討ちに等しい。そのまま彼女は駆け出してしまった。

 結局うやむやのうちに授業は中断され、女子生徒たちはマントを体に巻きつけて着替えに走らねばならなくなったのだった。



 午後である。

 どういうわけか、ヴェンツェルはオスマン学院長に呼び出されていた。
 呼び出してきたというのに本人は不在で、残っていたリディアがお茶を出してくれている。

「ごめんなさいね。学院長は急用で飛び出しちゃって……」
「いえ」

 答えながら、ソファーに腰かけたヴェンツェルはカップへ口をつける。いい香りのお茶だった。
 そういえばここに来てからリディアとはろくに会話をしていないと思い、目の前で同じようにお茶を飲む女性に話しかけてみることにする。

「ミス。どうです? ここでの生活は」
「そうですねぇ~。結構快適ですよ。学院長に下着を覗かれるのがたまに傷ですけど。あ、今日は新しい物なんですよ。見ます?」
「いえ、遠慮しときます」
「うう、おばさんには興味ないんですね……」
「からかうのはよしてください」
「むぅ。からかってなんかないですよ」

 ぷくう、とリディアは頬を膨らませた。恰好は大人になっていてもやはり子供っぽい。単純に童顔なのも関係しているのだろうが……。
 そういえば、彼女の故郷はアルビオンだとアリスから聞いたことがあるのを思い出した。とりあえず話題を変えるためにも、それについて尋ねてみる。

「そ、そういえば。あなたの故郷はアルビオンだと聞きましたが、ご家族は?」
「あ、はい。弟から連絡がありました。父の商会はあくまでも中立の立場で商いを続けているようです」

 弟とは初耳だった。それを口にするときの彼女の表情からして、なにか彼女が実家を飛び出したことと関係でもあるのだろうか。
 そんな疑問を浮かべたが、すぐにリディアは新たな話題を振ってきた。

「アリスさんはお元気ですか?」
「ええ。元気ですよ。元気すぎて困るくらいには」
「そうですか。それはよかったです」

 嬉しそうな顔でリディアは呟いた。ほんのわずかな期間とはいえ、共に旅をした仲だ。その後は気になるのだろう。
 その後、他愛の無い話をしていると、そこへ遅れてオスマン氏がやってきた。

「おお、待たせてしまってすまないのう。ヴァーツラフくん」
「ヴェンツェルです」

 そろそろボケでも回ってきたのか、と思いかねない台詞に、ヴェンツェルは冷静な声音で返すのだった。









 ●第六話「夏へ」









「ねえ。一緒にピクニックにでも行きませんこと?」

 虚無の曜日。
 朝食を終えたあと、キュルケがそんなことを言い出した。それを聞いたアンリエッタが口を開く。

「そうですわね。とてもいいご提案ですわ。“皆さん”で行くというのは」
「え、ちょっと。ステュアートさん?」
「ねえ、ルイズさん。楽しみですわね!」
「え? え、ええ。そうですわね」

 唖然となるキュルケを尻目に、アンリエッタは主導権を掌握していく。
 キュルケはどう見てもヴェンツェルだけに話しかけていたのだが、いつの間にかこの場の全員で行くという話しにすりかえられていた。ほんの一瞬の間の出来事だった。
 ギムリは喜び、レイナールは突然の決定に荷物のことを考え出し。ルイズはわけもわからずに目をぱちくりとさせている。
 なんだかなぁ、とヴェンツェルは思ったのである。



 魔法学院から歩いて三十分ほどの距離にある、小さな池。木々に囲まれたひっそりとした場所で、ピクニックに来た一行は荷物を下ろした。
 学院からは二名ほどのメイドがついてきている。彼女たちは手早くテーブルをセットした。
 池に釣竿を下ろしたヴェンツェルへ近づこうとするキュルケのシャツの襟首を、アンリエッタはむんずと掴む。華やかな笑顔を浮かべつつ言うのだ。

「ミス・ツェルプストー。わたくし、ゲルマニアのことはあまり存じ上げませんの。ぜひいろいろとお聞かせねがいたいですわ」
「え、ええ……」

 妙な迫力を放つアンリエッタに、キュルケは終始圧倒されていた。微熱もたじたじである。
 一方で、森で狩りでもしようとするギムリ、植物を収集するというレイナールは森の奥へと入って行く。

 やがて。

 なんとなくテーブルは居心地が悪いらしい。ルイズがヴェンツェルのそばへやってきた。
 竿を石で挟み込んだまま地面に寝転がってぼうっとしているヴェンツェルを見て、桃髪の少女はため息をつく。

「はぁ……。なんだか最近、姫さまが妙に怖く見えることがあるわ。……あんたはいいわねえ、いつも気楽そうで」
「そうでもない」

 地面に横になったまま、ヴェンツェルは呟いた。それを耳にしたルイズの眉が吊り上がる。

「はぁ? どう見たって何にも考えてなさそうじゃない、あんた」
「いや、考えている。たとえばここからきみの下着が見えるわけだが、もうちょっと足を開いてほしいと考えている」

 無言で、靴を履いたままルイズはヴェンツェルの顔をぐりぐりと踏みつけた。ぐぐもった悲鳴が聞こえてくるものの、それは考慮に値するものではないらしい。
 しばらく踏んだ後、桃髪の少女はスカートの後部を手で押さえながら地面に腰を下ろした。

 ルイズは周囲を見回す。静かな湖面に浮かぶ葉が流れていく。アンリエッタに拘束されるキュルケのうんざりとした顔。森の木々。地に伏す少年。
 どれもが平穏な光景だ。ふと、屋敷の中庭にある池を思い出した。
 いつも一人で逃げ込んでいた場所。迎えに来てくれたワルド。思い出。
 それとは違う場所でこうして座り込み、仲間……たちと共にいる。ラ・ヴァリエールと同じ青い空が広がっている。
 “ゼロ”と罵られようとも、アンリエッタが一緒にいてくれるおかげで辛さはない。もちろん公爵家令嬢のプライドはいたく傷つけられるのだけれども。

 そんな風にルイズが感傷に浸っていると、それまで倒れ伏していたヴェンツェルが起き上がった。

 池に糸をたらしたままの竿を引き上げ、彼は糸の先を確かめる。見事に餌だけが取られていた。それを見るや、新たな餌を釣り針につけていく。
 釣り。ヴェンツェルはよく釣りをしている。ルイズは魚釣りには興味が無い。貴族のたしなみといえば乗馬だろう。事実、それはルイズの得意技だ。
 それをせずに平民のような釣りに興じるのは理解に苦しむ。
 というより、この少年の存在自体が理解に苦しむものだと言わざるを得ない。

 そういった主旨の視線を半眼で送っていると、ヴェンツェルはそれに気がついたらしい。ふっと笑みをこぼしながら告げてくる。

「よせよ。ぼくは貧乳にガッ」

 問答無用でルイズは蹴りを浴びせる。そして、再び地に転がったクルデンホルフの嫡男を見つめた。

 ルイズは普通の女性の例に漏れず美形の男性が好きである。しかし、このヴェンツェルはたとえそういう類に属する人間だったとしても“そういう”態度で接する気にはならない。
 一時期とんでもなく太っていたとか、セクハラを働かれただとか、いろいろ理由はある気がするのだけれど。

 それからしばらく経ったころ。森の方から人間の足音が聞こえてきた。聞いたことのある少年の声が辺りに木魂する。

「ヴェ、ヴェンツェル! 大変だ、森の奥にオーク鬼がいたよ!」
「なんだって?」

 森の方から焦った様子で走ってきたレイナールの言葉を、驚きを持ってしてヴェンツェルとルイズは受け止めた。
 これほどトリステイン魔法学院からほとんど距離がない場所で、オーク鬼のような亜人が出現するなどとは、まったく聞いたことがなかったからだ。
 ずれていた眼鏡をかけ直したレイナールは早口で告げてくる。

「ギムリが見張っていてくれてるけど……」
「わかった。僕が行く。きみは彼女たちを避難させておいてくれ」
「あ、ああ。わかった」

 レイナールにそう伝えると、ヴェンツェルは森の方に向かって走り出した。オーク鬼がいる位置は音で判別が出来る。先ほどから、派手な音が立っているのだ。
 そして彼が森に入り込んだとき、併走してくる影があった。誰かと思えば、それはキュルケだった。

「ミス。避難して……」
「あら。わたしは火のトライアングルよ。戦力的には申し分ないと思うけど?」

 確かに、敵の戦力も未だに不明のこの状況では単身で突っ込むよりも味方がいたほうがいいだろう。
 しかし。オーク鬼は非常に危険な生物だ。まして女性は特に危ない。
 だが、キュルケはそんな懸念を抱くヴェンツェルへ艶やかな笑みを向けながら、短く告げてくる。

「それに、いざ危なくなったらあなたが守ってくださるでしょう?」
「……ええ」

 適わないなと思いつつ、ヴェンツェルは小さく返事をした。


 現場は数分ほど走った先にあった。ヴェンツェルの姿を認めたギムリが珍しく真剣な表情で駆け寄ってくる。

「で、殿下! レイナールから聞いたとは思うが、結構な数のオーク鬼が……」
「そのようだね。数は……」

 杖を持ち、ヴェンツェルは周囲の状況を探る。アリスほどの索敵精度はまったく望めないのが辛いところだ。
 そうしていると、醜い怪物の鳴き声が鳴り響いてくる。こちらを探しているようである。
 一体で訓練を積んだ人間の兵士五人分に匹敵する怪物に対し、こちらはトライアングルクラスのメイジが二名。ドットメイジが一名。戦力的にはやや不足している感が否めない。
 ならばどうするか。
 人間の武器は知恵だ。少なくとも知能が劣るオーク鬼に負けるわけにはいかない。

「オーク鬼の大体の位置はわかる。ただ、数は……。ならば、面で攻めよう」
「面?」
「ああ。ミス・ツェルプストー。協力して欲しい」

 不思議そうな顔で問いかけてくる褐色肌の美女に、真剣な表情でヴェンツェルは告げた。



 総勢七体ほどのオーク鬼は、森のとある開けた場所で休息をとっていた。

 彼らは元からこの場所にいたわけではない。妙な人間によって捕らえられ、なぜかここまで運ばれたのだ。
 いったいなんの目的でここまで運ばれたのかなどわかりはしない。だが、あの人間が自分たちに危害を加えずに放置したという事実だけは残っている。
 理由などどうでもいいのだ。
 自分たちは生存するために敵である人間を殺す。子孫を繋ぐために人間の女を浚う。
 それだけだ。

 ほとんど本能だけで生きているような彼らだ。酔狂な考え方など端から持っていない。

 そんなとき……。
 一体のオーク鬼の鼻に、油のような臭いが飛び込んできた。それと同時に、美味そうな女の匂いも漂ってくる。
 なぜ今まで気がつかなかったのか。これはかなりの上物の匂いではないか。
 周囲の仲間たちも気がついたらしい。立ち上がり、ぴぎぃという獣の鳴き声を上げる。今日の獲物を決めたのだ。
 彼らは匂いのする方向へと歩き出し―――突如として、目の前が炎に包まれた。

 森が燃えている。火は瞬く間に周囲を多い尽くしていく。
 背後を振り返った。もう火はそこまで回っている。

 そんな馬鹿な。なにが起きたんだ。

 肌をじりじりと焦がし始める熱気。肺に入ってくる空気は熱され、強靭な肺を徐々にあぶり始める。オーク鬼たちが悲鳴を上げ始めた。

 その刹那―――彼らが立つ地面は丸ごと油に『錬金』され、一気に勢いを増した炎によってオークたちは一気に骨まで燃やし尽くされた。



 炎を鎮火させたあと、ヴェンツェルやキュルケ、ギムリは元いた場所に戻ってきた。
 アンリエッタが駆け寄ってくる。心配そうな表情を見せる彼女に、ヴェンツェルは「みんな大丈夫だったよ」とだけ答えた。

「炎の壁を維持するのが大変だったわ」

 そんなふうにキュルケは呟いた。かなり熱かったらしく、シャツの胸元をぱたぱたと仰いでいる。ギムリの視線は釘付けだ。彼も風を使って壁の成形には一役買っていた。
 まず周囲の木に付けた土を油に『錬金』し、『ファイアー・ウォール』を次々と引火させていく。それをキュルケの反対側に立っていたギムリが風で制御するのだ。
 個別に倒すよりも確実だと判断したのだが……。果たして、どうだったのだろうか。

 ひとまず、ヴェンツェルは池に放っておいた竿を取りに戻った。竿は相変わらず地面に転がっていて、魚はかかっていなかったようだ。





 念のためにピクニックは中止とし、昼前には一行は学院へ戻った。

 そして、ヴェンツェルが学院長室でオスマン氏への報告を行っているころ。

 学院の浴場では、褐色肌の女性―――キュルケが大きな湯船に浸かっていた。
 周囲には人っ子一人いない。それはそうだ。時間的にも、まだまだ風呂に入るようなタイミングではないのだから。
 彼女が風呂に入っているのは、オーク鬼を討伐するときに体についてしまった臭いを落とすためだ。怪物たちのかなり近くにいたせいか、結構な臭さとなってしまったようだ。

 見事なラインを描く脚を湯の上に持ち上げる。すらりとした綺麗な脚だ。その筋の趣向の持ち主にはたまらないだろう。
 彼女は自らのプロポーションを究極の状態に保つための努力は怠らない。体の全ての部位で男の目を引き付けるのだ。

 だが、それが効かない人間がいた。ヴェンツェルだ。
 ウィンドボナの魔法学院にいた頃とて、自分を拒絶する人間はいた。それは大抵が自分を見もせずに拒否する、というものが大半だった。
 しかし。
 あのクルデンホルフの少年は、自分をしっかりと見た上で誘惑に動じない。目を必死に逸らしていた他の男たちとは明確に違う。
 心に誓った相手でもいるのだろうか。

 今日。本当ならば、オーク鬼を討伐するときに彼の実力を確かめたかったのだが……、それは適わなかった。
 戦場に出ていたというから、実力はあるはずなのだが。実際に行ったのは、包囲して燃やすという個人の力量はほぼ無関係な戦術だったのだ。

 いつか、彼の実力をしっかりと目にすることは出来るのだろうか―――そんなことを考えていると、背後に人の気配がした。

「あ……」
「あら。ステュアートさん」

 現れたのは、噂のアルビオンからの亡命遺族だった。名をヘンリエッタ・ステュアートというらしいのだが、なんだか謎の多い人物だ。
 絹のように滑らかな肌、清楚さを感じさせるたたずまい。栗色の髪は手入れが行き届いており、ゆったりと流れる水面のようだ。大きなぱっちりとした目は綺麗な青い色……。
 ずば抜けている。それこそ、あのヴァリエールの娘と互角、あるいはそれ以上の美貌だ。

 それに、不自然なほどにルイズと仲が良い。知り合ったばかりだとは思えない。
 
 キュルケは当初からあまりこのヘンリエッタが自称のような人物だとは思っていなかった。
 とはいえ、あまり他人の事情を詮索するのは彼女の趣味ではない。

 ゆっくりと湯船に浸かってくる美貌の女性。いまは先ほどのような覇気は感じられない。なので、とりあえずキュルケは他愛のない世間話を振ることにするのであった。



 一方。

 学院長への報告を終えたヴェンツェルは、一旦自室に戻ってジョゼフへ招待を受けるという主旨の手紙を書いていた。
 それを本塔へ運び、城の召使いへと手渡す。すると、使用人の青年は白い鳥の足に折りたたんだ手紙を紐でくくりつける。途中で外れてしまわないように、しっかりと結ぶ。
 これは伝書鳩だ。きちんとしつけられているからこそ出来る輸送手段である。
 
 青年に礼を告げ、男子寮へ戻るために歩き出す。すると……。
 先ほど学院の入り口で別れたばかりのルイズが、渡り廊下の真ん中でなにやらきょろきょろと周囲を見回しているではないか。

「どうしたんだ?」
「姫さ……ヘンリエッタがいないのよ」

 そう言いながらも、なおルイズは辺りを見回している。周囲にはアンリエッタらしき姿はなく、ギーシュが女子生徒に声をかける様子が見られただけだった。
 まあ、別に無断で出かけたわけでもないだろうし、そこまで心配する必要もないだろう。大方、風呂にでも入っているのではないか。
 そう考え、渡り廊下を進もうとする。

「そっか。まあ頑張れよ」

 そのままルイズを放置してその場を去ろうとした少年。しかしその首根っこをルイズは思い切り引っつかんだ。振り向けば、彼女は鬼のような顔になっている。

「あによ。人が困ってるのに見捨てるっていうの?」
「わかった、わかったから。やめてくれよ」
「ふん。わかればいいのよ」

 まったく困った話だ。普段からつんけんしているくせに、構ってやらないとこうやって不機嫌になるのだから。面倒である。
 などと考えていると、ちょうどそこへアンリエッタが現れた。やや顔が赤みを帯びているところを見ると、風呂から上がったばかりだったのだろう。香料の香りが漂ってくる。

「あ、姫……ヘンリエッタ。ちょうどよかった。今からお茶にしようと思って。ご一緒しません?」
「ええ。では、一杯いただきますわ」

 ルイズはあっという間に自分が拘束していた少年のことなど忘れてしまったようだ。アンリエッタと談笑を交わしながら、日の当たる中庭の芝を歩いて行く。
 真っ白なテーブルにはクロスがかけられ、スコーンとメイドが入れるお茶がもう用意されている。

 平和な光景といえばそうだ。つい先ほどまで、命に関わるかもしれない現場にいたことを忘れてしまいそうになる。

 少しぼうっと佇んでいると、背後から誰かやってくるのがわかった。どうやらレイナールのようだ。彼はヴェンツェルに声をかけてくる。 

「あ、いたいた。ちょっと図書館で調べ物をしたくてさ。手を貸してくれないかな?」
「わかった。行こうか」
「助かるよ」

 新たに出来た友人との学院生活。

 ルイズが自らの使い魔を呼び出すそのときまで、この平和は続いてくれるのか。

 それとも。この果てしなく歪んだ世界は、その束の間の休息すら許してはくれないのだろうか。

 少しばかり不安な気持ちになる。
 それでも、自分にはかけがえのない仲間たちが出来たのだ。自分の持つ“知識”がまったく通用せずとも―――なんとか出来る。そんな気がした。

 




[17375] 第七話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:3db3b367
Date: 2010/09/22 20:56
 ニューイの月も半ばを過ぎ、トリステイン魔法学院は長い夏季休暇の期間となった。
 アンリエッタからルイズと一緒に王城まで来ないかと誘われたものの、ヴェンツェルはそれを丁寧に断った。まずは、実家へと帰らないといろいろと面倒だからだ。

 そして。

 場所はトリステイン王国とガリア王国の国境地帯。

 先の戦争が起きる前―――ついこの間まではガリアの領土であった土地を、三台ほどの大きな馬車がゆっくりと通りすぎていく。
 二台の馬車に前後を挟まれた中央の一際大きな馬車。そのきらびやかな装飾が施された車体の前部には、とある大公家の紋章が刻まれている。
 なにを隠そう、この馬車はトリステイン王国の南端に存在するクルデンホルフ大公国の君主、クルデンホルフ家のものだった。

「兄上。本当に、わたしが同行してよろしかったんですか?」
「ああ。……母上が来るよりは、よほど」

 馬車のふかふかのソファーに腰かける月目の少年―――ヴェンツェル。彼が発した言葉の後半部分は、ひどく小さいものだった。
 向かい合って腰かける金髪の小さな少女はベアトリス。クルデンホルフ家の長女である。
 普段は二つくくりにすることが多い長くしなやかな金髪は、今日は下ろされている。そうしてしまうと、まさに彼女の母親と瓜二つの容姿になって並みのことでは見分けがつかないのだ。
 手入れの行き届いた細い髪を指先でもてあそびながら、ベアトリスは小さくため息をつく。

 彼女の母親であるクルデンホルフ大公の妻ジャンヌは、今回のガリア訪問に自らも随行するつもりでいたらしい。
 だが。それはヴェンツェルが拒絶した。彼は元々、イザベラがらみでベアトリスを連れて行くことにしていたのだ。
 それを見た大公妃がベアトリスに成りすまして馬車へ乗ろうとしたものの、結局はヴェンツェルに見抜かれて城の柱へと縛り付けられていた。
 かつての聖女のように柱へ縛られた、己の母親。その哀れな姿には、いささかの哀愁を感じるベアトリス十三歳の夏であった。

 ふと視線を兄へ向ける。彼は新聞を読んでいるようだ。
 週に一回ほど発行される紙の媒体には、記者が調べたハルケギニア各地の情報と広告がこれでもかと並べられている。
 広げられた新聞紙の一面には、『アルビオン共和国クロムウェル護国卿 戒厳令を発布』と記されている。
 それは、最近になって台頭してきた反政府組織『レコン・キスタ』の活動家がロンディニウムで大量に拘束され、地下組織への捜査のために首都が戒厳下に置かれたことを伝えていた。
 物騒な記事だ。
 比較的に平和なクルデンホルフで、それこそ城や家臣の庇護下で暮らしてきたベアトリスからしてみれば、まさに対岸の火事である。

 そういえば兄は戦争に参加したことがあるのだった。
 どうも、ベアトリスはヴェンツェルがラ・ヴァリエール家の夫人といちゃいちゃしている光景ばかりが頭に残っていたのである。
 結構どころかかなり重大な問題の気がする。

 あのへたれた兄がどうやってそういう状況に持ち込めたのか。
 それはベアトリスの預かり知らぬことだし、知る必要もないが―――少しだけ、ほんの少しだけは気にならないこともないわけである。

「兄上」
「なんだ?」

 つい、口を開いてしまう。ちょっとした後悔が後を過るものの、言ってしまった以上は押し通すことにする。

「その……。ずっと気になっていたのですが。ラ・ヴァリエールのご夫人とは、いったいどのような……」

 ベアトリスが言葉を紡ぎ出すと、ヴェンツェルは「ついに訊かれたか」というような顔になった。新聞を折りたたみ、席を立つ。
 不意に兄の顔が近づく。お互いの顔はこぶし一つ分ほどの距離しかない。これほど近づいたのは、幼少の頃以来だろうか。
 無意味に、自らの頬や耳が熱を帯びたのを少女は感じとる。
 そんな妹の様子や微妙な心中などまったく察することもなく、彼女の耳にヴェンツェルの口が近づけられる。吐き出される吐息によって耳を撫でられ、ぴくりと体が震える。

 ぼそぼそと事の成り行きを少年が話続ける間……、ベアトリスはくすぐったさに首から下をよじらせていた。
 話を聞き終えたベアトリスは、不思議そうな表情を顔に浮かべた。なにやら頭の上に『?』が出ていそうだ。

「兄上。仰っている言葉の意味がわからないのですが。いったい……?」

 疑問を浮かべた表情で問うベアトリス。
 箱入りな上に、母親から徹底的にそういう情報を遮断されて育った彼女は、そっちの知識はもうまったく駄目だった。
 貴族の子女といえども、ある程度はそういう教育を施される場合もあるのではあるが。

 その様子を見て、なにやら達成感をにじませるオッドアイな変態。その頭を、それまで沈黙を保ちながら馬車の中でたたずんでいたメイドが手にした短剣の柄で殴る。
 がつん、という鈍い音が馬車の中に響き渡った。
 メイドはついやってしまってから「まずい」と思ったものの、恐れるべき金髪の少女の視線は窓の外を向いていた。

 つられて外を見ると。ここはもうガリアの国内だったらしい。開けた草原に、大きな竜籠があった。その隣にはやはり大型の風竜が五体ほど鎮座している。
 そして、その竜籠の前に立つのは青い美髯の男。
 彼こそが、ガリア副王ジョゼフ・ド・ガリアだった。
 なんと直々に迎えに来たらしい。人懐っこい笑みを浮かべ、馬車から出てきたヴェンツェルたちに声をかける。

「よく来てくれた、少年とその妹君よ」

 久々に――とは言っても、もともとあまり話したことはなかったが――顔を合わせたガリアの王族。始祖の力“虚無”の力をその身に内包しているという男。
 ごく普通に接しているものの、少し考えただけでそれがいかにとんでもないことなのかがわかる。
 なにせ、“虚無”の系統は既に失われたとされていたのだ。
 それが実際には王家の血統に受け継がれ、力を継承する人間が自分の国で亡命生活を送っていたという事実。なんだか、ひどく現実味のない話だと思えた。

「お久しぶりです。本日はお招きにあずかり……」
「堅苦しい挨拶は不要にしておこう。久しいな、少年。立ち話もなんだ。さっそく竜籠に乗ってくれ」

 ヴェンツェルが前に出ると、ジョゼフはそう言う。すると、ずっと竜籠のそばについていた使用人らしき男性が扉を開けた。
 竜籠の内部がかなり豪勢な内装をしているのが、少し離れた位置のベアトリスからでも垣間見える。クルデンホルフのものより金がかかっているらしい。
 やはり、王族は格が違うようだ。

 ジョゼフに先導され、二人の兄妹が竜籠に乗り込んでいく。
 薄紫の髪のメイド少女はガリアには行かないようだ。ヴェンツェルが振り返ると礼をし、去っていく。
 そうこうしているうちに、クルデンホルフの馬車から他の使用人たちが荷物を竜籠に運び込む。貴族ともなれば荷物も多くなるのだ。
 それが終わると、いよいよ竜籠の出発となる。
 副王の護衛も兼ねているらしい西百合花壇騎士が手綱を引く。すると、大きな鳴き声と共にゆっくりと風竜が空へ舞い上がっていった。


「どうだね、少年。魔法学院での生活の方は」

 飛び始めて少し経ったころだろうか。王宮から連れてきたらしいメイドの淹れたお茶に舌鼓を打っていたヴェンツェルに、目の前に腰かけるジョゼフが声をかけた。

「ええ、順調と言えば順調です。少しトラブルもありましたが」
「そうか。……うむ。今年、イザベラを姪のシャルロットと共にリュティスの魔法学院へ入学させてな」
「彼女を学院に?」
「シャルルのやつと話し合ったんだ。変な虫でもついたら大変だが、それは教師として潜入させたカステルモール―――ああ、こいつがなかなかに出来るやつでな。少年も見たことがあるはずだ」

 バッソ・ド・カステルモール。東薔薇花壇騎士団の団長だったはず。現在はダルタニアンと名乗って風の教科を担当しているというのだか……。
 東花壇騎士団はどうしているのかと尋ねてみれば、副団長のアルマン・ド・ドートヴィエイユというやや年上の騎士が実務を取り仕切っているらしい。
 そこで話題がイザベラの方に戻る。

「イザベラのやつも最初は戸惑ったりしていたみたいだが、シャルロットのおかげで学院にも慣れたそうだ。まったく、あの元気娘のおかげでいろいろと助かっているよ」
「それはよかったです」

 どこの娘想いの親父だ、と言いたくなるような顔でジョゼフは言う。
 弟と和解したことがこれほど彼の精神面に大きな影響を与えたということだろうか。もともと、こういう性格だったのかもしれない。それが歪みなく出ているのだろう。

 それからしばらくイザベラの自慢を聞かされながら、竜籠はガリアの内陸部―――リュティスへ向かって飛行していくのだった。









 ●第七話「リュティス訪問」









 ガリアの地を流れる河川、シレ川。その大きな川にある中州を中心に発展した都市が王都リュティスだった。

 ヴェルサルテイルの中庭に降り立ったヴェンツェルとベアトリスは、ジョゼフに連れられて大きな青い宮殿、グラン・トロワへとやってきた。
 ガリア王が采配の杖を振る場所であり、彼らの住居でもある。
 ちなみに、いまはプチ・トロワという小さな宮殿がジョゼフとイザベラの住居となっているらしい。

 護衛を伴ってぞろぞろと歩いていると、グラン・トロワの扉が衛兵によって開かれた。中からジョゼフと同じような青髪の少女が出てくる。
 快活そうな表情を浮かべる、肩までの青い髪を伸ばした背の低い少女。どうやら、彼女がシャルロットのようだった。

「はじめまして、クルデンホルフの公子さま。シャルロット・ド・ガリアです」
「こちらこそはじめまして。ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフです、ミス」
「ベアトリス・フォン・クルデンホルフです」

 さっそく挨拶を交わす。
 同じ年頃の少女とはいえ。相手は正真正銘、ガリアという巨大国家の王族だ。もともと緊張していたベアトリスはさらに緊張しているらしく、体がかなり硬くなっている。
 見た感じ―――初対面の相手だからだろうか。シャルロットはごくごく上品なご令嬢といった様子だった。
 “タバサ”とは違って表情がよく動く。同じ顔をしているはずなのに、ずいぶんと雰囲気が違った。こちらが本来の彼女なのだろうし、それでいいのだろうが……。

 王の執務室への道中。ジョゼフとシャルロットはごく普通に会話を行っている。どちらも当たり前に、普通の家族のように言葉をやり取りしていた。
 政変以前はあまり話す機会はなかったが、帰還以後はそうではなくなったのだという。

 いよいよ王であるシャルルがいる執務室の前に来た。
 ここに来て、とうとうベアトリスはがちがちになってしまっている。仕方ないので、ヴェンツェルは彼女の小さな頭に手を乗せた。
 すると、ベアトリスは驚いたような瞳で見つめてくる。もともと距離を置かれていると感じていて、こういう風に緊張をほぐしてくれるとは思っていなかったからなのだろうか。目を細める。

「シャルル、入るぞ。客人を連れてきた」

 ノックをし、ジョゼフは執務室の扉を開けた。
 隙間から垣間見える、広い室内。王の威厳を感じさせる、けれども過剰ではない品のある内装。部屋の奥にある机……その椅子に、ジョゼフを細身にしたような男性が腰かけている。
 ヴェンツェルとベアトリスはジョゼフに促され、その中に足を踏み入れた。

「やあ、久しぶりだね。ミスタ・クルデンホルフ」

 シャルルは立ち上がり、ヴェンツェルに握手を求めてきた。少年はためらわず、それに応じる。がっちりとお互いの手が握られた。
 次に、王の視線はヴェンツェルの背に微妙に半身を隠した少女へと向けられる。

「きみが妹君か! これはまた可憐な少女だね。ミネッテと呼んでもいいかい?」

 そう言って、シャルルはベアトリスの手を取った。真っ白な歯を光らせ、微笑みかける。
 見事なイケメンスマイルである。厳格な雰囲気をイメージしていたであろうベアトリスはあっけにとられ、けれどもすぐに頬を赤らめた。

「シャルル。あまり調子に乗ると、ダントンのようにロベスピエールから酷い目に遭わされるぞ」
「う。そ、そうだね。彼の追求は容赦がないから……」

 兄の言葉に、少し焦りを見せながらシャルルは後ろへ下がった。
 なんだかもっと厳粛な、形式ばった王家の様子を想像していたらしいベアトリス。一連の光景を見て、彼女はもう唖然としてしまっている。

「ま、まあ、とにかく。……ごほん。ようこそガリアへ。歓迎するよ」

 今さら慌てて取り繕ったような態度で、シャルルはそう告げてくるのだった。





 これから執務があるというジョゼフやシャルルとは別れ、ヴェンツェルとベアトリスはシャルロットに案内されながら、ヴェルサルテイルの宮殿を歩いていた。
 道中、用事を終えたイザベラが合流するためにやってきた。今日の彼女は髪を頭の後ろでまとめている。ポニーテールという髪型だろうか。

「久しぶりね」
「そうだね。もう、結構経つのかな」

 最後に会ったのが講和条約の調印式の直後だった。それから、もう結構な時間が過ぎている。
 四人で宮殿群の中を歩いて行くと、花壇騎士の名の由来でもある花壇が見えた。そこでは多くの花が咲き乱れている。ここは南側の花壇のようだ。甘いような香りが鼻をつく。
 
 イザベラがお菓子を作ってきたらしい。青い屋根の東屋に置かれたベンチへ腰かける。
 
 やがて、どこからともなくメイドが現れ、東屋のテーブルに香り立つ紅茶が注がれたカップを置いていく。
 王族特製のお菓子は二種類ほどのクッキーのようだ。イザベラがバスケットの蓋を開けると、シナモンが放つ独特な匂いが漂ってくる。

「わたしが作ってみたの。食べてみて」
「美味しそうだね。じゃあ、お言葉に甘えて……」

 そう言い、一つ手に取ってみる。小さめで厚みのあるクッキーだ。あえて例えるなら、日本の五百円硬貨と同じくらいだろうか。
 口に入れてみる。すると、シナモンの香りと砂糖の甘みが口を満たしていく。咀嚼してみるとしゃりしゃりと音を立てながら崩れていく。硬すぎず、柔らかすぎるわけでもない。
 無言のまま、もう一種類も口に入れる。こちらはチョコレートが混ぜられているようだ。なんだか、懐かしい味がする。

 そういえば昔、こんな味に出会ったことがあったような―――いや、なんだったろう。

「わあ、美味しい。ちょっと前は焦げ焦げで食べられたものじゃなかったのに……。ずっと頑張ってたものね」
「ちょ、ちょっと。エレーヌ」

 シャルロットのミドルネームを呼びつつ。イザベラは慌てたような口調になった。
 ベアトリスも同様にクッキーをもぐもぐと咀嚼しながら、もう一枚手にとって眺めている。

「うん、美味しいよ。何枚でもいけるな」

 ヴェンツェルはどんどんクッキーを貪る。甘いものが大好きかつ美少女の手作りとくれば、手が出ないわけがない。味だってなかなかのものだ。

「たくさんあるから、遠慮せずにいっぱい食べてね」

 なるほど、バスケットの中にはそれこそ大量にクッキーが詰め込まれている。本人曰く、つい作りすぎてしまったとか。
 シャルロットも競うようにクッキーを口の中に放り込んでいく。大食いのきらいがあるのは、この場合の彼女でも同様らしい。
 そのとき。じっと手元を覗き込んでいたベアトリスが口を開いた。

「イザベラさん。わたしに、お菓子の作り方を教えてくれませんか?」
「え? ……ええと。わたしもまだ王宮の職人に教わっている最中なの。それでもよかったら、一緒に習いませんか?」
「はい。お願いします」

 なんとも珍しい光景だった。ベアトリスが他人に頼みごとをする光景なんて、いままで数えるほどしか見たことがないというのに。


 クッキーがすっかり空になったころ。膨れたお腹をさすっていると、イザベラとベアトリスが立ち上がった。

「兄上。いまからイザベラさんとお菓子作りを教えてもらいにいきます」
「と、いうことなのだけれど……。いいかしら?」
「ああ、いいよ。行っておいで」

 初日はなんの予定もない。ならば、そうやって親睦を深めるのもいいだろう。ヴェンツェルは二つ返事を送った。

「エレーヌ。彼を頼んだわよ」
「うん。任せておいて」

 シャルロットがそう言うと、イザベラはベアトリスをつれて東屋を後にする。
 さて。これを機に二人が仲良くなってくれたりしないものかとヴェンツェルは思ったりするのであった。


 メイドが再び注いでくれたお茶を、礼を言って受け取る。それを飲んでいると、シャルロットがこちらを見つめていることに気がついた。
 感情があるせいか、タバサというよりもシルフィードに近い気がする。雪風よりも、春のそよ風というほうが正しいかもしれない。

「な、なにかな?」
「ありがとうって言いたくて。イザベラや伯父のこと、お父さまのこと。伯父を殺してしまったと思い込んで変わっていった父を、わたしはただ見ているしか出来なかったから……」

 先ほどまでの元気な様子はどこへやら。沈んだ目で、シャルロットは言う。

「先の戦争でだって、あなたが伯父たちと一緒に『シャルルマーニュ』に乗り込んでとめてくれたと聞きました。やっぱり、すごいなって思います」
「いや……。あれは、協力してくれた人たちがいたからだよ。僕一人ではどうしようもなかった」
「でも。わたしにだって、東薔薇騎士団の人たちのように協力してくれる人たちはいました。けど、できなかったんです。母と一緒に、ただ父の暴走を傍観することしか……」

 辛そうな表情だった。彼女の父が一方的に起こした戦争による犠牲は大きい。王女として、それを止められなかったことを悔いているのだろう。
 しかし。いくら王女といえど、まだ十代も前半の彼女がそんな重責を自覚する必要があるのだろうか。
 そう感じた。
 けれども、ヴェンツェルは彼女にかけてやるべき言葉が見つからなかった。しばし、沈黙が周囲を支配する。

「すみません。こんなこと言って。行きましょうか」

 しかし。すぐにシャルロットは立ち上がった。なんでも、これから王宮のさまざまな場所を案内してくれるのだという。
 無理にしているのかわからないが、彼女の表情は明るい。
 変わったのか。それとも、今の彼女が本来の姿なのか。それはわからない。

 なんだかもやもやとした気持ちを抱え込みながら、ヴェンツェルは彼女に先導されて東屋を後にした。



 *



 夜。ヴェルサルテイルでは、ちょっとした舞踏会が催されていた。

 人で賑わうホールの隅。ヴェンツェルがワインをあおっていると、そこへジョゼフがやってきた。顔が赤い。もうかなりワインを飲んでいるらしい。
 仲良さげに談笑するイザベラ、シャルロットたちを見つめながら。彼は口を開く。

「どうした少年。せっかくの舞踏会だ、そこなご夫人方と一曲踊ったりはしないのかね」
「そうですねえ」

 談笑に興じる夫人たちを言葉で示すジョゼフに曖昧な返事をしながら、ヴェンツェルはガリア中部のブルゴーニュ地方で生産されたというワインを口にする。
 味はなかなかのものだ。酒はあまり好まない彼でも飲める。名産地とされることだけはある。
 ふと。そこでベアトリスの姿が見えないことに気がつく。

「……そういえば、ベアトリスを見ませんでしたか?」
「ん? あ、ああ。そういえば彼女はホールを出て中庭に行った気もするな」
「わかりました。ちょっと見てきます」
「うむ。気をつけるんだぞ。植え込みの影に愛を語らう連中がいるかもしれんからな。下手に目撃すると面倒なことになるかもしれん」

 そんなジョゼフの言葉に、頷きながらヴェンツェルはホールを出て行くのであった。


 
 一方。中庭―――東花壇の辺りを、ベアトリスはゆっくりと歩いている。
 いや、よく見ればふらふらとしているかもしれない。出立前に母から散々言われていたにも関わらず、彼女はワインに口をつけていたのだ。
 母と違ってあまり酒に強くないらしい。一杯飲んだだけでもう駄目なようである。
 歩きつつ、ふと空を見上げる。火照った体を少しでも冷やそうと、ドレスをぱたぱたとあおる。

 イザベラと行ったお菓子作りは、まあまあの成果を上げていた。プチ・トロワに割り振られた自分の部屋には、その成果が置かれている。
 しかし、である。せっかく兄へ作り立てを上げようとしたというのに、本人がなかなか見つからなかったのだ。
 結局、見つけたときには舞踏会が始まってしまっていた。
 この機会になんだか自分と彼の間に横たわる妙な距離感を解消しようと思ったのに。なんだか、それは空回りしているように思えた。

 しばらく歩くと、宮殿群の端にある森の手前まで来てしまったらしい。

「なにやってるのかしら。帰らないと……」

 一人呟き、ベアトリスは舞踏会の会場に戻ろうとする。だがそのとき。耳に怪しげな声が飛び込んできた。

「……なあ七号さん。本当に大丈夫なのか? ていうかよ、ガリアの副王なんか暗殺してどうするんだ」
「……黙れ。二号がお前を治したのは無駄口を叩かせるためではない」
「ちっ、わかったよ。まったく、とんでもない警備をかいくぐってなにをするかと思えば……」

 飛び込んできた声に、ベアトリスは思わず耳を疑う。
 暗殺? ガリア副王といえばあのジョゼフではないか。いったいどういうことだ。だが、不審者がこの場所に侵入してきているのは間違いの無い事実だろう。急いで知らせないと。
 そう、思ったときだった。

「盗み聞きはよくねえなあ、嬢ちゃん。……ん? よく見たらお前、ベアトリスじゃないか」
「十三号!」

 背後に感じる悪寒。瞬間だった。息を吐く間もなく。見たことない、おぞましい意匠の仮面をつけた少年がベアトリスの背後へ回っていた。

「はじめまして、か? クルデンホルフのご息女さん。ヤシイセン・テハレオ十三号だ」
「……っ!?」

 ベアトリスの口を背後から押さえつける、十三号という少年。
 なぜ自分を知っているのか。どうしてこんなことをするのか。そんなことはわからない。わかっていたのは、自分の身が危険に晒されているということだけだった。

「俺を“あんな状態にしてくれた”張本人の妹さんか。七号さん。こいつ連れてっちゃっていいかね?」
「十三号。自分の役割を自覚しろ! 目撃者は殺せ!」
「……っち。わかったよ」

 そう言って、少年は『ブレイド』を詠唱した。杖の先から出現した魔法の刃がベアトリスの首筋を狙う。

 わけもわからないうちに自分は殺されてしまうのか。戦争でもなく、他国へ訪問している最中にだなんて。そんなことが……。
 思わず、ベアトリスは目を瞑る。

 だが。

 いつまで経っても、“その瞬間”が訪れなかった。恐る恐る、目を見開く。すると……。
 自分の体が、ヴェンツェルに抱きかかえられていたのがわかった。

「兄上……?」
「よかった、間に合って」

 どうして自分の体が兄に抱きかかえられているのだろう。それに、この体勢は……。いわゆる、お姫様だっこというやつではないのか。
 不思議と顔が熱を持つのをベアトリスは感じた。

 宙に飛び上がっていたヴェンツェルは手近な場所に下りる。怯えるベアトリスを背にし、侵入者たちと向かい合った。

「何者だ! 返答しだいでは切り捨てるぞ!」
「誰だお前は。よくもやりやがったな……」

 見れば、先ほどベアトリスを襲った少年は腕を押さえ、杖を取り落としていた。どうやら、ヴェンツェルに奇襲を受けたようだ。

「十三号。作戦の失敗は許されない! 目撃者は始末するのだ!」
「ああもう、わかってるって!」

 怪物のような仮面をつけた大柄な男が、杖を拾う少年を叱り飛ばす。

 どうするか。奇襲にこそ成功したが、あいては厳重なヴェルサルテイルの警備網を突破してきた連中だ。ただ者ではないだろう。それに、自分一人で勝つことが出来るのか。
 否。勝つ必要などない。いかに逃げるか、いかに事態を詰めている花壇騎士に知らせるかが重要なのだ。

 じりじりと侵入者たちが近づいてくる。それに合わせるかのように、ヴェンツェルたちも下がる。

 ジリ貧とはこのことだろうか。迂闊な行動には出られない。かといって、このまま時間をいたずらに消費することもできない―――

 どうしたらいいのか。そう、考えたときだった。

「ガッ……」

 突然、七号と呼ばれていた大柄な男が血を吐いて倒れた。十三号と呼ばれた少年が慌てて振り向いたとき。すでに、男は息絶えているではないか。
 見れば、いまは亡き者となった彼の胸―――心臓に当たる部分に、一本の木の枝が突き刺さっている。
 あまりも不自然な伸び方をしているところを見ると、誰かの意思が働いたのは明白だった。

「“先住”だと!? くそっ、どういうことだ!」

 仮面の下から聞こえてくる、焦ったような声。仲間がわけもわからぬうちに殺されてしまったのだ。焦るのも当然と言えた。
 一方でヴェンツェルはまったくわけがわからなかった。敵が勝手に死に、生き残ったほうが「先住だ」などと騒ぎ立てているのだから。
 そして。
 次から次へと、木の枝が伸びだした。そのどれもが明確な意思の元に仮面の少年を狙っていく。
 最初こそ木の枝を切り落としていたものの、だんだん捌き切れなくなってしまったらしい。
 ついに、彼は撤退を決意したようだった。
 『フライ』で上空へと上がる。その瞬間、哨戒していた花壇騎士が彼に気がついたようだ。けたたましい音とまぶしい光が発生。すぐに周囲が騒がしくなる。

「あ、兄上。これは……」
「なんだろうな。まったくわけがわからない」

 二人で唖然としていると。なにやら、こちらへ駆け寄ってくる人物の姿が見えた。

「ご無事ですか!?」

 その人影は女性のようだった。長い、艶やかな黒髪。真っ黒なドレスを身にまとっている。そして、その顔には一対のレンズ……眼鏡が光っていた。
 その姿に、ヴェンツェルは大きな既視感を覚える。どこかで見たことがある―――あるいは、自らと就寝を共にしたことがあるもの。
 自らの体の一部を糧としていた女性。先住魔法を使うことが出来る存在……。

「クロエ……」

 思わず、ヴェンツェルは呟いていた。





[17375] 第八話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:238289c4
Date: 2010/09/26 13:48
 仮面の二人組の襲撃、その後。

 警備に当たっていた西百合花壇騎士らの事情聴取を受けたヴェンツェルは、クロエを連れてプチ・トロワにあてがわれた自らへの自室へと連れていく。

 薄桃色の小さな宮殿を見上げる黒髪の女性は不安げな様子だったが、先導する少年がためらいもなく警護の衛兵を引かせることを見るや否や、決心でもするかのように後へ続いていった。
 客人のために作られたものなのか。ベッドと最小限の家具が置かれただけの質素な部屋の中で、長い黒髪の女性は眼前の少年を見つめる。
 彼がアルビオンで行方不明になり、そのまま別れてから今日へ至ったからなのか。
 やや身長が伸び――それでも、まだクロエの方がほんの少しだけ高い――驚くほどの細身となったその体躯。
 彼女の妹がその姿を見たとなれば、たちまちに大きな目を見開いて感嘆の声を上げていたことだろう。

 そんなふうに考え事をしながら立ち尽くしていると。
 ヴェンツェルは部屋に置かれた真っ白なシーツが敷かれたベッドに腰を下ろし、自分のすぐ横の辺りをぽんと叩く。
 クロエはそれに従い、静かにその場所へ座ることにした。
 少しだけ、ほんのわずかな沈黙の後。
 大きな窓から射し込んでくる双月を眺めながら、少年は『ディテクト・マジック』、ついで『サイレント』を詠唱。誰の耳や目もないことを確かめる。

 そして、静かに問いかけるのだ。

「……久しぶり。で、簡単でいいから事情を聞かせてもらえるとありがたい」
「はい」

 その問いかけは彼女の予想した通りのものだったのだろう。頷くと、彼女は静かに告げる。

「いまのわたしは、見ての通り貴族―――クロエ・ド・コタンタンとして、この場にいます」

 小さな、呟くような声。
 それでもその細い首が発する音の響きは、確実に隣で耳を澄ませるヴェンツェルに届いて行く。
 曰く。
 自らの父親はガリアの伯爵であり、母はガリア北西部に居住する吸血鬼たちの頂点に立つ人物であこと。
 兄がいるが、彼は先住の力を一切使うことができないごく普通のメイジであり、普段はクロエたち母娘は領地でひっそりと暮らしていたこと。
 だんだんと母が先住の力を行使できる自分たちを吸血鬼たらんと育てようとし始め、妹であるリゼットが少なからずその影響を受けていること……。
 今日はたまたま体調を崩した兄の代わりに来たらしい。
 滅多にない社交の場に馴染めず、こっそりと会場を抜け出した先で匂ってきた、いつか嗅いだことのある体臭―――それをたどり、あの場面に出くわしたのだという。

 そして。ずっと黙り込んで話を聞いていたヴェンツェルは、話が途切れると同時に頭を抱え込んだ。

「ど、どうしたんですか?」

 隣で頭を抱えて腰を折ってしまった少年の肩を、慌てた様子で揺さぶる黒髪の女性。
 ヴェンツェルのただならぬ雰囲気を察したのか。クロエは、慌てて両の手を振りだす。

「あ、いえ。大丈夫ですよ、責任取れなんて言いませんから。わたしは吸血鬼の血が強すぎて、とてもじゃありませんが結婚するようなことはできませんし―――」

 と、慰めの言葉を向けるのである。そして、ゆっくりと脂肪の薄くなった背中を撫でていく。
 しばらくたち、ようやく落ち着いたのか。ヴェンツェルは再び問いかけた。

「……わからないんだが、きみの母上はどうして人間と結婚したんだ? それに、貴族でないのになにも問題は生じなかったのか?」
「あ、はい。母が言うには一目惚れで、身分については資料を改竄したとか……」
「大丈夫なのか、それ……」
「今のところは問題ないようです。親戚に政府の中枢にいる方がいるそうで……。ガリアはそれこそ無数に貴族がいるので、領地のない赤貧貴族に紛れ込ませれば……」

 そう言うのだが、果たして本当に大丈夫なのだろうか。ちょっとどころじゃない気もするが……。まあ、問題が起きていない以上、自分が口を出しても仕方ないだろう。
 しかし……。平民らしからぬ容姿の端麗さと教養があると思えば、である。
 おまけにコタンタン伯爵といえば、退役したヴィルヌーヴ提督の後継者であり、新たなガリア両用艦隊の提督となった人物。もし吸血鬼などめとったなどと知れれば……。

 それとなくジョゼフにでも頼み、裏で根回ししてもらった方がいいだろう。
 そんなことを考えていると、クロエがなにやら自分に熱い視線を送って来ているのに気がつく。
 どうしたものかと彼女の方を見てみれば、頬を上気させて体を擦り寄せてくる。

「……なんだか、頼もしくなりましたね。変わらない部分もありますが……」

 うっとりとしたような、そんな表情だ。二年ぶりの、あまり変わっていない、美しい顔立ちの顔が近づいて―――



 *



 訪問二日目の、朝。

 昨夜の舞踏会は不法侵入者騒ぎで中止となってしまっていた。
 ベアトリス。彼女も昨夜ヴェンツェルと共に花壇騎士から事情聴取を受け、解放されたのはもう日付が変わった頃になってしまっていた。
 それからすぐに彼女は部屋のベッドに倒れこむようにして寝てしまったので、あれ以来兄とは話していない。
 故に、ヴェンツェルが連れていった女性―――いつか見たことがある元秘書のクロエがどうなったのかなど、知るはずもなかったのである。

 とりあえず、彼を起こしにいこう。そう考え、身支度をして部屋を出る。
 クルデンホルフの二人の部屋はそれぞれが廊下を挟んだ向かいにある。なので、ドアを一歩出てしまえば相手の部屋が見えるのだ。
 そういうわけで、細やかな金髪を揺らすベアトリスという美少女はヴェンツェルがいるであろう部屋の扉を開け―――られなかった。どうやら『ロック』がかけられているらしい。
 どうしたものかと思っていると。そこへ、ジョゼフがやってきた。

「おお、妹君か。ちょうど朝食の席に少年ときみをお招きしようと思っていたところだよ」

 彼はそう言う。そして、ベアトリスが杖を手にしているのを見つけ、状況を理解したらしい。ぽん、と大きな手を少女の細い肩に置いた。
 なにをするのかと思えば、彼も杖を取り出したのだ。しかし『アンロック』は既にベアトリスが一度試している。どうするのだろうかと観察していると……。

「エオルー・スース・フィル・ヤルンサクサ……」

 なんだか耳慣れない単語である。一体なんなのだろう。そう考えた瞬間。
 ドアに設置された大きな鍵が、その輪郭をなぞるような小さな爆発と共に破裂したのだ。
 唖然となる少女に対し、ジョゼフはいたずらっぽい笑みを向けながら言う。

「『アンロック』では微妙そうだったからな。これが『爆発』だ。いまは威力を抑えているが、その気になれば軍隊一つを吹き飛ばすこともできる。……ま、それはいいとして兄上殿を起こしてくるといい」
「……あ、はい。そうですわね」

 この人というのはどうも調子が狂うような言動が多いのは気のせいだろうか。
 “虚無”を鍵を開けるために使うなんて。いや、深く考えるだけ無駄だろう。ここは流すのが自分の精神衛生面上いい。と、そんなことを考えつつ。
 ベアトリスは破損したドアを開けてヴェンツェルの部屋に入って行った。
 見ると……部屋のすみに置かれたベッドの上が膨らんでいる。
 まだ寝ているのか。まったく、寝起きが悪いのは昔から治っていない……と思いいつつ、質素な内装の部屋を進んでいく。

「兄上。起きてください」

 が、反応がない。仕方がないので揺さぶったり叩いたりしてみる。

「あ~に~う~え~……あら?」

 妙である。布団の下にある感触がなんというか……、そう。柔らかいのだ。ちらっとしか見たことはないけども、筋肉質なヴェンツェルがこんなに柔らかいはずがない。
 なんだかベアトリスの中で疑念が沸き上がり、むくむくと膨らんでいく。
 そうして、いよいよこの布団を剥ぎ取ってやろうとしたとき。突然と、それが巻くれあがった。

「もう。リゼット、起こすときはもっと穏やかに―――って、え?」
「ふぇ?」

 現れたのは、上半身どころか全裸の女性。長く黒い髪をすだれのように垂らし、その隙間から覗く大きな目をより大きく見開いている。
 確か、この人間は数年前にヴェンツェルの秘書や付き人をしていた人物のはず。あるとき彼女の母親を名乗る人物が妹ごと連れ帰ったはずなのだが……。

「……あなた、なにしているの……?」
「え、ええと……、あ、その、あう……」

 茫然自失となりかけつつ、ベアトリスはなんとか言葉を紡ぎ出した。その視線は、もぞもぞと動き出したもう一つの膨らみに移って行く。

「騒がしいな……。なんだ一体」

 上半身を起こした彼は―――見てしまった。あちゃあと顔を手で押さえるジョゼフの姿を。俯き、ぷるぷると震えながら杖を構える妹の姿を。

「昔から思っていましたが……。やっぱり兄上は兄上ですよね。変わったのは見た目だけって思いました」

 怒っている。今のベアトリスは間違いなく怒っているのだ。たとえその小さな、整った顔が、輝くような笑みを浮かべていようとも。それが直感的にわかった。

「……あ、兄上の……」

 もう駄目だ。逃げる暇すらない。ヴェンツェルは咄嗟にクロエを突き飛ばした。

「ケダモノぉぉぉぉぉぉっ!!」

 刹那。耳をつんざくような轟音と共に、プチ・トロワの窓から大量の土が流れ出す。
 それを目撃した衛兵たちからは悲鳴が上がり、我先にと警護をほっポリ出して逃げ出す有り様だった。

 ベアトリスがラインメイジへと成長したのは、この日のことである。









 ●第八話「落差」









 騒然となった場はジョゼフが収め、ぼろぼろで土まみれとなったヴェンツェルは風呂送りとなった。
 戻って来てみると……。ベアトリスはもう完全にそっぽを向いてしまっている。目を合わせるどころか顔を見ようとすらしない。

 騒動の一部始終を目にしたシャルロットは多いに驚き、熱心にイザベラから話を聞いている。
 イザベラはイザベラでヴェンツェル周りの珍騒動はよく目にしていたので、苦笑しながら口を動かしている。

 朝食の席には国王一家も揃っていた。ヴェンツェルは気を取り直し、とりあえず王妃を見つめる。ガリア王族特有の青い髪。顔の作りはシャルロットの未来を予感させる顔立ち。
 青い髪が多い。相当血が濃いのだろうか……などと下世話なことを考えていると。唐突にジョゼフが口を開いた。

「今日はお忍びでリュティスの市内を案内しようと思っていてな。せっかくだから二人一緒にと思ったんだが―――」

 そう言い、ジョゼフは苦笑いをする。完全にへそを曲げてしまったベアトリスをヴェンツェルと共に連れ歩くのは無理があると判断したのだろう。
 自業自得とはいえ、この状況はヴェンツェルとしてもなかなか困った状況である。

 結局。
 ジョゼフとイザベラがベアトリスを、クロエがヴェンツェルを案内することが決まった。
 なぜクロエなのかといえば、それはやはりジョゼフの鶴の一声があったからこそだろう。それは彼の気遣いなのか、あるいは意趣返しなのか。コタンタン伯爵には既に話をつけているらしい。
 そういった説明を受けている間にもベアトリスの機嫌はどんどん悪くなっているのがわかった。

 どうすれば彼女の機嫌は直るのだろうか―――結局、それを思いつく間もなく。

 あっという間にヴェンツェルはヴェルサルテイルから放り出されることになってしまったのだった。



 *



 そしてリュティスの市街地。

 あちこちで再開発が行われている町の中を、金髪の少年と黒髪の女性が歩いて行く。女性の腕は少年のそれにがっちりと回され、テコでも離さないと言いたげな雰囲気を放っている。

「あそこの広場がヴォージュ広場です。あ、そこの路地にいい呉服屋さんがあって―――」

 嬉しそうだ。とにかく嬉しそうである。久しぶりに会ったからなのか、こうして予想外の事態に遭遇したからなのか。恐らくは両方であろう。
 そしてなるほど、彼女が指し示す先には、貴族を主眼においたような高級感溢れるお店が鎮座しているのだ。
 この通りは人でごった返している。クロエはそれにかこつけているのか……堂々と抱きついていて、それを一向にやめる気配がない。
 しかし。
 まさか貴族に吸血鬼が紛れ込んでいるなどと誰が思うのだろうか。
 もっとも、この女性の場合は人間に害意など持っていないのでヴェンツェルとしては問題ないが……。
 ハルケギニアの常識としては、とてもそれどころではないのが現状だ。
 ……まあ、それは昨夜考えたようにジョゼフに協力してもらえばいいだろう。そう考えておくことにした。

 しばらく歩いていると、シレ川の川辺にたどり着く。視界には大きな聖堂らしき建物が見える。

「クロエ。あれはなんだ?」
「ノートルダム寺院ですね。中州のシテ島にある建築物で……、行ってみますか?」
「うん、いや。ちょっと気になっただけだよ」

 そう言い、ヴェンツェルはまた歩き出す。
 また少し進むと、右手にリュティスの市庁舎が現れる。大きい建物であることには間違いないのだが、それほど豪奢な印象は受けなかった。
 そのうち、視界に橋が映った。大きな橋で、先ほどのシテ島へ繋がっているらしい。シレ川を越えた先にはリュクサンブール宮殿という建物があるという。

 そうやってリュティスの名所を見聞きして歩いていると。二人はエリゼという市街地のとある地域へとやってきていた。
 壮大なエリセの宮殿を眺めつつ、大勢の人々が行きかう商業地域を進んでいく。
 この通りはシャンゼリゼ通りというらしい。真っ直ぐに向かうと、エトワールの広場へ行き着く。その広場から放射状に伸びる道路が現在各所で建設中とのことだ。

「放射状に伸びる道路って、なんだかクルデンホルフみたいですね」
「ん。言われてみればそうだな」

 言われてみて、なんとなくクルデンホルフ市の構造を思い出す。
 市街地の中心部にある城を基点として伸びる幅の広い大きな道路。その隙間をクモの巣のように這う細い道路。町に城壁がない。郊外に要塞がいくつかあるだけ。
 ヴェンツェルの祖父が生み出した新興都市は、これから大改造を向かえるであろうリュティスの構造を先取りしているようにすら思える。
 果たして、これは偶然なのだろうか。
 そうやって、少し考えにふけっていると……。

「おや、少年じゃないか」

 前方から誰かやってくるのが見えるではないか。いかにも平民が着るような服装に帽子を被った怪しいおっさん……ではなく、ジョゼフだった。
 ベアトリスは普段と同じようなフリルのついたロングスカート姿であり、イザベラも青い髪を魔法で染めてこそいるが、ごく普通の恰好だ。
 金髪の少女は目の前に立つクロエを一睨みし、すぐにそっぽを向いてしまった。

「どうしましょうか? せっかく会ったことですし、このまま……」

 そうヴェンツェルが言うと。ベアトリスが彼を睨み、イザベラの影に隠れてしまう。どうやら本格的に嫌われてしまったらしい。
 この様子ではまだまだ一緒に行動することなど出来ないだろう。
 顎に手を添えてそんなことを考えていると。クロエが近づいてきて、少年の腕を取った。なにやら笑顔である。

「ベアトリスさんはわたしたちとご一緒したくないみたいですし、このまま別々に行動なさるのがよろしいかと……」
「そうか?」
「うっ……」

 なんだかクロエの態度がベアトリスを挑発するようなものに見えるのは気のせいだろうか。ヴェンツェルは思わず冷や汗を流した。
 と、そんなときだった。

「おやおや、これはこれは。ジョゼフ副王ではございませんか」

 エトワール広場―――北西の方角から、男ばかりが何人もやって来た。一人は馬に乗っていて、豪華な装飾の施された服に身を通している。

「ジョゼフ・ド・フーシェ……」

 いったい彼が誰なのかと訪ねようとしたとき。普段のおっとりとした様子はどこへ消えてしまったのか、犬歯をむき出さんばかりの威圧感を持ってしてクロエは馬上の男を睨みつける。
 フーシェという男は仰々しい仕草で馬から下りると、舗装された道に足を下ろす。そして眼前の王に頭を垂れた。

「フーシェ……、警察大臣だったか」
「おお! 矮小な田舎貴族に過ぎぬわたしの名をお覚えになっていてくださるとは。まこと光栄の極み!」
「そうだな。愚かにもヴェルサルテイルに“犬”を放っていた浅はかな人間として覚えているよ。バスティーユ牢に放り込んだ貴様の犬どもを引き取りに行ってやらないのか?」

 下を向いているフーシェに向かい、ひょうひょうと、しかし明確な敵意を持った声音でジョゼフは声をかける。
 なんだか嫌われているようだ。ぎゅっと袖を掴んできたクロエの腕に手を添えてやりながら、ヴェンツェルはフーシェを見つめる。

「はは……お戯れを。……おや。そこにいらっしゃる御方は、もしやクルデンホルフからご来訪されているという……」
「ヴェンツェル・フォン・クルデンホルフです」
「おお! 訛りのない見事なガリア語だ! クルデンホルフは大昔にトリステインで政争に敗れ、なくなくゲルマニアへ流れたと聞いていましたが。先祖帰りした意味はあったようですな」
「ええ。おかげさまで大公領を拝領しまして」

 なんだか嫌な男だ。容姿は端麗なほうだと言っていいのだろうが……。なんだか、底意地の悪さを感じる。
 それはベアトリスも同じらしい。あれだけ嫌悪した対応を取っていたヴェンツェルの背後に隠れてしまったではないか。

「フーシェ。悪いが、いまはお忍びで客人たちを案内しているところなんだ。ロベスピエールの悪口ならあとで聞いてやる」
「またまたご冗談を。……おっと、わたしも先を急がねばならない用事があるのです。それでは」

 そう言い残し、フーシェと取り巻きの男たちはその場を去って行った。

「すまないな。まさかあんなやつと出くわすとは思っていなかった。それでは行こう」

 ほんの少しだけフーシェの後姿を見送ったジョゼフは、すぐに皆の方を向いて歩き出した。誰も異議を唱えず、それにぞろぞろとついていく。
 しばらく歩いたころ、ヴェンツェルのすぐ後ろにいたベアトリスが口を開いた。

「兄上。先ほどのお方のお話……、当家がトリステインでの政争に敗れたというのは……」
「ああ。事実だよ。うちの本家もその話はなるべく闇に葬り去りたいらしいけど」

 ヴェンツェルは「自分もあまり詳しくは無いんだけど」と言い、短く告げる。
 クルデンホルフ家の大本はトリステインから独立していたブラバント公国に仕えるとある貴族であり、かつて起きた『トリステインの乱』事件以後にトリステインを追われたらしい。
 その後紆余曲折を経てゲルマニアに移動、いま現在ではパンノニア地方などに巨大な領地を持った大貴族になったという。

「なるほど……」
「ま、眉唾かもしれないけどね」
「……」

 ヴェンツェルが言い終えると。ベアトリスはなんだか考え込むような表情になった。
 そんな少女に向かって、クロエが声をかける。

「あの……、ケダモノさんにそんなに近づいて、大丈夫なのですか?」

 すると……、ベアトリスは己が必要以上にヴェンツェルとくっついていたことに気がついたのか。みるみる顔が赤くなっていく。
 さっと身をかわし、しどろもどろな口調になった。

「ふ、ふん。大丈夫ですわ。まさか妹であるわたしを襲うなどとは思っていませんから!」
「はぁ」

 ならなぜ朝に土の奔流をお見舞いしたんだとか、どうしてさっきまで顔を合わせようともしなかったのか。クロエはそんな疑問をぶつけようとするのだが……。

「昼食にしよう。もうすぐ良い店があるんだ。ほら、見えてきたぞ」

 というジョゼフの声によって、それはかき消されてしまうのであった。




 *




 その日の深夜。

 男……フーシェはリュティス市内にある自らの居室に置かれた椅子へ悪態をつきながら腰をおろす。
 ワインをグラスに注ぎ、一気に飲み干す。そして目頭を押さえた。彼の目に焼きついていたのは、のうのうと生き残り続けるジョゼフの姿だった。

「まったく……。政局下手なシャルルが退場しさえすれば。まだ幼いシャルロットを王に擁立して、わたしが天下をとれたというのに……」

 宰相として国家の頂点に立とうとしていた男。
 それを妨害したのは、政府を批判していたくせに宰相となったロベスピエールに、ヘルヘイムの底から舞い戻ってきたジョゼフだ。
 彼はロベスピエールとまったく親交がなかったわけではないが、あまり仲がよいとも言えない間柄であった。故に、現政府内では警察大臣という地位に甘んじている。
 警察大臣。実際のところ、警察権力を掌握できているのは非常に大きい。秘密警察を使ってヴェルサルテイルを漁ろうと企むこととて出来る。

 それを許さないのは副王のジョゼフだ。

 フーシェは、あの自分と同じ名持った王族がひどく鼻持ちならなかった。
 政において散々失態を晒していた弟を補佐し、マイナスをプラスに変えてしまうほどの力量の持ち主。
 宰相ロベスピエールらの働きも大きいが、いかに有能な政治家や官僚がいてもトップにそれを扱いきれなければただの宝の持ち腐れとしかならない。
 それはトリステインやアルビオンがいい例だろう。

 だからこそ、フーシェは幾度と無くジョゼフの排撃を目論んだ。だが、その全てがことごとく読まれ、かわされ、反撃される。
 昨夜王宮内で死亡が確認された不審者は、フーシェがジョゼフ暗殺のために雇い入れた傭兵だったのだ。
 しかし、それすら失敗した。直接の原因はジョゼフではなかったようだが……。運も実力のうち、とはよく言ったものである。

 自分が泳がされているだけだというのは、彼自身がよく理解していた。そろそろ大きな行動は慎むべきかもしれない。
 だが……、だからといって、納得できる話ではない。

 しばらく沈黙したあと、彼はまたワインの注がれたグラスをあおった。




 *




 一方、こちらはアルビオン。

 ロンディニウム郊外にあるとある工廠を、今やこの国の最高権力者となっていた護国卿クロムウェルが訪れていた。彼の隣には、技術仕官の姿がある。
 彼らの眼前では、既に何隻もの戦闘艦艇がほぼ完成している。あとは最終チェックを行い、竣工を待つ状態だ。

「こちらが艦隊の新たな旗艦、『ヴィクトリー』号です。王党派追撃時に現れたトリステインの大型艦に対抗できるだけの火力があります」
「ふむ。それは頼もしいな」
「艦隊再建にあたって、ゲルマニアからの大規模な支援が受けられたことは非常に大きな意味を持っています。閣下のおかげですな」

 そう。
 少し前、クロムウェルは隠密行動を取りながらウィンドボナにまで出向いていたのである。
 そこで皇帝アルブレヒト三世との秘密会談を行い、トリステインに関する処遇などを話し合ったのだ。
 アルビオンは、トリステインやロマリア……特に前者との関係は壊滅的なものとなっているが、まだガリアやゲルマニアとは良好な関係を維持していた。
 空に浮かぶアルビオンは地上の国家との交易なくしては生き残れない。

 とはいえ、小国であるトリステインをその交易網に混ぜる必要はまったくないのである。





 ロンディニウム郊外にあるウィントミンスター宮殿で、この国の女王であるティファニアは静養していた。
 屋内だというのに、彼女は真っ黒な僧服で体のほとんどを覆い隠し、物悲しそうにただ月夜へ視線を向けている。
 彼女の憂い―――その原因は、昨日クロムウェルが連れてきた技術仕官が見せてきた新造艦の基礎となる大量の図面だった。

 いったい、あの戦艦にどれだけの民が乗り込むことになるのだろう。
 いったい、あの船が何人の命を奪うのだろう。

 そんなことばかりが頭をよぎっていく。

 しばらく考え込んでいたせいか……、いつの間にやら周囲が騒がしくなっているのをティファニアは感じた。
 
「なにかしら。いったい……」

 聞こえてくる声は怒号のようにも思えるし、それに悲鳴や爆発音が混じっている。いつかハヴィランド宮で襲撃されたときのことを思い出し、机の上に置かれた杖を手にする。
 だが。
 すぐにそれは止んだ。あたりは再び静寂が支配する。

「終わったの……?」

 不気味なほどに静かだ。どうしたものかと、彼女は立ち上がり―――その存在に気づかされる。

「誰です? わたしはアルビオン女王です。逃げも隠れもしません! あなたも誇りあるアルビオンの国民であるなら、正々堂々と前に出てきなさい!」
「これは失礼した。いや、野営での生活が長かったものでね」

 若く、凛々しい声だった。害意は微塵も感じられず、それがかえってティファニアを混乱させる。
 声の主である男は、言われたとおりに堂々とした足取りでその姿を現す。そして口を開いた。

「『国土回復運動』―――いや、『レコン・キスタ』の方が通りがいいかな。わたしは元アルビオン王太子ウェールズ・テゥーダー。『レコン・キスタ』の総司令官を務めさせてもらっている」 
「『レコン・キスタ』……!? まさか、王族が……そんな!」

 『レコン・キスタ』。アルビオンの王権を再びテゥーダー家の正当なものに戻そうと活動を続けている非合法団体だ。
 数多くの分派組織が存在し、その中にはいささか野蛮と形容する他ない手法を使う構成員がいるのが実情である。

「本当は、ただ祭り上げられただけのきみにまで手を伸ばすことは考えていなかったのだけどね。状況が変わった。先日ロンディニウムでうちの構成員が大量に摘発されたのは知っているだろう? 彼らの中には『レコン・キスタ』にとって非常に大きな意味を持った人物も多い」
「……だから、わたしを人質にして交渉すると」
「やはりあの叔父のご息女であることだけはあるね。そのとおりだ。話が早くて助かるよ」
「断ります。わたしは現アルビオン女王です。国家元首として、非合法団体へ屈するつもりは毛頭ありません!」

 明確な拒絶。大きな青い瞳には、強い意思の炎が宿っている。これは到底降伏などしてはくれないだろう。
 だが、それは想定の範囲内。
 ウェールズは指をぱちんと鳴らした。それと同時に、多数の黒い影が宮殿の窓や天井から侵入してくる。

「きみが“虚無”を行使する、というのは知っている。それが厄介な魔法だとも。だから、それを想定して狙撃班を準備しているんだ。不審な動きがあれば……」

 彼が示した方向では、無数の銃口がこちらを向けて威嚇するかのようにしているのがわかった。

「……っ!」
「杖を捨てて、ここは我々の要求に従ってほしい。命は保証する。構成員さえ戻ってくれば……」

 命は保証するというウェールズの言葉が、なんだかティファニアの胸に突き刺さった。
 モード大公一派を粛清し、ティファニアの両親の命を奪う命令を出した人間の息子がそんなことを言っているのだ。信じられるはずがない。信じたくなどない。
 本人がどんな気持ちだろうと、彼はもう明確な敵なのだ。

 そう、思った瞬間だった。

 ティファニアとウェールズを取り囲むようにして侵入していた人々――恐らくは『レコン・キスタ』構成員だろう――たちが、一斉に燃え上がった。
 悲鳴を上げる間もなく彼らは炭と化す。ごろんと転がり、床に当たって脆い部分からばらばらになってしまった。

「くそっ、“白炎”かっ!!」
「ご名答!」

 ウェールズの叫び声に被せるかのように、メンヌヴィルの太い声が鳴り響いた。

「元王太子だかなんだか知らないが、今の女王陛下を守るのが私の仕事でね。不審者は問答無用で排除しろと命じられている」
「くっ……」

 ウェールズは思わず後ずさりした。
 ティファニアを誘拐して交渉の材料とする今日の計画は、もう完全に破綻してしまった。これでは自分の生存すら危うい。
 やむを得まい。
 元王太子の青年は、ふところに忍ばせた照明弾を取り出した。魔法が付加されたそれは、衝撃を与えると大きな音と光を放って周囲の者の目を眩ませる。

「わたしはいつかクロムウェルの独裁政府を打倒し、アルビオンを正当な王権の手に取り戻す! そのときまで、決して諦めはしない! 生き延びてみせる!」

 そう叫び、ウェールズの手から照明弾が放たれた。地面に叩きつけられたそれはティファニアの視界を覆い潰し―――


 次の瞬間には、もう青年の姿はどこにもなくなっていた。

「逃げられましたな」
「……ええ」


 砕け散った窓を見つめながら、ティファニアは気のない返事をするのであった。






[17375] 第九話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:e4c51b3f
Date: 2010/10/25 17:57
 ヴェンツェルとベアトリスのガリア訪問も三日目。

 ヴェルサルテイルの一角、プチ・トロワに新たに割り振られた客間で、ヴェンツェルは自らの剣である『レーヴァテイン』の手入れを行っていた。
 黄金色に輝くその刀身はひどく見事なものである。いつ見ても思うのだが、いったいどこの人物が作ったのか知らないのだけども、製作者には称賛を送りたくなる。

 手入れを終えた剣を眺めていると、真っ白なシーツに覆われたベッドがなにやらもぞもぞとうごめく。
 そこから姿を現したのは……長い黒髪の女性、クロエだった。彼女は寝ぼけ眼を擦りつつ、もそっとした動きでベッドから這い出る。

「おはよう」
「おはようございます……ふぁぁ」

 手で押さえながらも見事なあくびをかますのが垣間見える。
 クロエは脱ぎ散らかしていた衣服を身に付けると、部屋のすみに置かれた姿見を覗き込みながら櫛で髪をとかしていく。さらさらの髪が流れるのが見えた。
 若干はねていた髪を整え終わったらしく、彼女は腰かけていた椅子から立ち上がる。

「今日は父について行かなくてはならないので……」
「そうだったね。わかった、行って来なよ」
「はい」
「じゃあ、そこまで送って行くよ」

 そんなやり取りの後、ヴェンツェルも立ち上がる。ドアを開けて廊下へと出た。廊下を歩き、扉から外へ出る。
 プチ・トロワを警護している衛兵たちの不躾な視線を感じつつ、二人はヴェルサルテイルの内部を歩いていった。
 先々代のガリア王が森を切り開いて建設したこの宮殿群は、その成立過程を反映するかのように多くの青々とした樹木に覆われている。
 たまに通りかかる貴族たちと会釈を交わしながら進んでいると、クロエの父が滞在しているという建物にたどり着いたようだ。

「ありがとうございます。とりあえず、ここまでで大丈夫ですわ」
「そうか。じゃあ」
「はい。また後で……」

 そう言って建物の中に入って行くクロエを見送り、ヴェンツェルはその場を後にした。

 しばらくぶらぶらと歩きつつ、ゆっくりとプチ・トロワに戻る。
 すると……、見慣れた金髪の少女が、なにやら不機嫌な表情を顔に浮かべながら佇んでいるではないか。案の定、それはベアトリスだった。

「兄上。いったいどこをほっつき歩いていたんですか」
「クロエを送って行っただけだよ」
「ふぅん……」

 そう嘘偽りのない言葉を述べたのであるが、彼女はあまり信じていないのがありありとわかった。困ったものである。

「ベアトリス。なにをそんなに気を悪くしているんだい」
「……別に、気を悪くしたりしていませんわ」

 そう言いつつ。あからさまに不機嫌な様子で、彼女はさっさとプチ・トロワの中に入って行ってしまった。
 なにやら衛兵共がこちらを見てひそひそと話し合っている。そんな連中を意に介さず、ヴェンツェルはベアトリスの後を追うのであった。


 そして、朝食後。

 食堂を出たヴェンツェルの元に、後からジョゼフがやって来た。なにやら、申し訳なさそうな顔になっている。

「少年よ。すまないが、朝になって急用が出来てしまった。本当ならシレ川を遊覧船で下ろうと思っていたのだが……」
「あ、いえ。仕事なら仕方ないですよ。気にしないでください」
「うむ。そう言ってもらえると助かるよ」

 さっそく用事を済ませるためにジョゼフが立ち去ったあと、入れ替わるようにしてイザベラがやって来た。そして提案してくるのだ。

「遊覧船が駄目になってしまったから、みんなで近くの森に出てみない? 水が綺麗で静かな場所よ」
「森?」
「ええ。トリステインのアルデンヌの森にも負けないような、とてもいい場所よ。……どうかしら?」
「そうだね。僕は行ってみたいな。ベアトリスも呼んでみるよ」
「お願いね」
「うん」

 シレ川を船に乗って見物するというのも良いが、これはこれでいいかもしれない。
 使用人にベアトリスの行方を尋ねてみると、どうやら彼女は自分にあてがわれた部屋へ戻っているらしい。さっそく向かう。
 部屋の前にたどり着いたヴェンツェルはドアをノックしつつ、呼びかける。

「ベアトリス。いるか?」

 すると、すぐにドアが開いた。ただ開け方が妙である。ほんの少しだけ、足の幅くらいしか隙間がないのだ。

「……なんですか」

 ひょっこりと顔の一部だけを覗かせるベアトリス。指先がドアをがっちりと掴み、こちらを警戒するような視線を向けてくる。

「いや、ちょっと話があって」
「お話?」
「ああ。イザベラがみんなで森へ行こうって行ってさ」
「……わかりました。支度をしたら行きます」

 やはりよそよそしい。
 それはそうかもしれない。なにせベアトリスは思春期真っ盛り。
 そういった男女の関係にはことさら敏感なお年頃なのである。
 いくら情報を遮断されているからといって、さすがに裸の男女が同じベッドにいる場面を目撃してしまえば気がついてしまうものなのだ。
 なんだか申し訳なくなって、ヴェンツェルは彼女に向かって頭を下げた。

「あ、兄上?」
「いや、すまない。昨日は嫌なものを見せてしまって悪かった」
「……」

 なんなのだ。なんなのだろう、この人は。昨日は平然としていたくせに、今日になっていきなり悪びれた様子を見せるとは。
 というより、些細なことですぐに頭を下げてしまう兄がどうにも理解できない。
 あの無礼なメイドに対する扱いはもちろん、そこら辺の平民に対する接し方もおかしい。
 他の貴族ならその場で無礼討ちをしてもおかしくないようなことをされても、毅然とした対処を取らないのだ。
 そのまま少し考えたが、面倒臭くなったのでベアトリスは目の前の少年を追い払うことにした。

「……もういいですから、それは。着替えている最中だからさっさとどこかへ行って」
「ん、そうか」

 なんとベアトリス、どうやら服を来ていないらしい。微妙に覗く肩は陶器のように真っ白な色をしていることからの推測である。
 そんな状況でドアを開けなくてもいいのにな、と思いつつ。ヴェンツェルはじゃあと言ってその場をあとにする。移動した自分の部屋へと向かうのだ。
 そんな後ろ姿を見送りつつ―――昨日の破廉恥な光景を思い出してしまったベアトリスの頬が朱に染まる。
 はっとして周囲を見回し、誰もいないことを確認すると。
 彼女は勢いよく部屋のドアを閉めるのだった。



 *



「みんな揃ったわね」

 ヴェルサルテイルの玄関広場にあたる場所。
 イザベラが見事な青い髪を揺らしつつ、集まった他の三人を見回した。
 彼女の背後には巨大な馬車が鎮座し、その乗降口には東薔薇花壇騎士団長―――カステルモールが背筋を伸ばして佇む。その隣には副団長の姿があった。
 花壇騎士を丸ごと動員しているらしい。王族と他国の貴族の子女の身に何かがあれば一大事なので、厳重な警備を張るのもまた必然といえる。
 そして。
 馬車に乗り込んだ四人と護衛たちは、ヴェルサルテイルの敷地内を出ることになった。

 森はヴェルサルテイルからほど近い距離に存在する。かつてヴェルサルテイルを建造するために切り開かれた森の外周部ともいうべき土地であった。
 初夏の暖かな陽気の中でも、森の木々に日光が遮られているせいか。どこかひんやりとした空気が漂っている。
 馬車が森の入り口に留まると、イザベラとシャルロットが真っ先に馬車から降り、それにヴェンツェルとベアトリスが続く。
 踏みしめた地面は柔らかく、あまり人がこの場所へ入っていないことを示していた。

「静かな場所だわ」
「そうだな」

 ベアトリスが背伸びをしながら言う。
 確かに、三台ほどの馬車の周囲を除けば、辺りに人の気配は無い。
 そのとき、何か水の音がする。その方向を見れば。イザベラとシャルロットがもう森の中を流れる小川に素足を突っ込み、ぱしゃぱしゃと水遊びをし始めているのだ。
 見た目が小川のようなものだとは言っても、結構な流れの速さと深さはある。油断は禁物だ。
 青髪の二人が戯れる光景を見たベアトリスも、今の今まで履いていたブーツを脱ぎ捨てて二人の方へ歩いて行く。
 真っ白な素足が―――と、あまり見ていると心証を悪くされるかもしれない。

 さて、自分はどうしたものかとヴェンツェルが突っ立っていると。そこへカステルモールがやって来た。

「ミスタ・クルデンホルフ。周囲の警戒は我々にお任せください。ねずみ一匹この周囲には近づけません」
「それは頼もしいです。ぜひお願いします」

 カステルモールとそんなやり取りをしたあと、ヴェンツェルも水場で遊ぶ少女たちの元へと向かった。
 小川の水はそのまま飲めそうなほどに透明度が高く、まったく汚染されていない。もっとも、飲み水には適さない水質なのだろうけども。
 少年は眼前で戯れる少女たちを見つめる。
 水しぶきが舞い、青と金の髪が舞う。なんの布切れもまとっていないまっさらな細い脚がまぶしい。
 川辺の大きな石に腰を下ろし、ヴェンツェルはただただその光景を見つめている。幾度と無く濡れたワンピースが捲れ上がる。眼福である。

「ヴェンツェル? あなたもこっちに来てみない?」
「わかった。いま行くよ」

 ふと、少しばかり遠くにいるイザベラが手を振りながら声をかけてくる。
 せっかくお誘いを受けたのだ。それを断る意味などない。ヴェンツェルは手を振り返して立ち上がった。

 近くでよく見ると、イザベラもシャルロットもベアトリスも皆服がずぶ濡れになってしまっている。川で遊べばそうもなるのだろう。
 当然、そうなれば服は透ける。いろいろと眼の栄養になる光景が目の前に広がっているのであるが、少女たちはそれに気がついていないようだった。
 やれやれとヴェンツェルが首を振ると。唐突に、彼の顔目がけて水が飛んできたではないか。びしゃっという音と共に上半身が水浸しとなる。
 少年が唖然としていると、水をかけた張本人であるらしいシャルロットが笑い転げている。

「おいおい、いきなりはひどいなぁ……」

 そう呟きつつ、ヴェンツェルは水に濡れたシャツを脱いだ。その下から現れたのは……見かけよりも筋肉質な体と、胸に刻まれた奇妙なルーンだった。
 ベアトリスは男性の体を見た気恥ずかしさよりも、なにやら得体の知れない雰囲気を放っているそのルーンの方が気になった。
 「使い魔のルーンかしら……」というイザベラの声が、やけにはっきりと聞こえる。
 そんな視線に気がついたのか。慌てたように、その文字を隠すかのように彼はシャツをまた身に着ける。

「兄上。そのルーンはなんですか?」
「いや、これは火傷だよ。記すことすらはばかられるいけない火傷なんだ」
「ヴェンツェル、それは無理があると思うわ」
「わたしもそう思います」
「まったく意味のない言い訳はよしてください。兄上」

 どう考えても苦しい言い訳を繰り出すヴェンツェルに向かって、三人の少女からほとんど一斉に突込みが入る。
 さて、どうしたものだろう。
 「今のアルビオン女王に呼び出されて使い魔になった」なんて馬鹿正直に話せるわけもない。まず間違いなく大事になるだろう。
 どうにも困ったヴェンツェルが冷や汗を流したとき―――不意に、護衛の東薔薇花壇騎士と思われる叫び声が轟いた。
 まだ若い声だ。

「た、大変です! 賊が襲撃してきました!」

 その言葉と共に、馬車の方向からとてつもない爆音と赤い輝きが巻き起こる。猛烈な爆風がヴェンツェルたちを襲うのであった。









 ●第九話「ガリアに散る」









 バッソ・ド・カステルモールが上空から急速に接近する物体に気がついたのは、ヴェンツェルが小川へ向かってからしばらくしてのことだった。
 自分は護衛に任ぜられたのだ。ねずみ一匹王族や客人には近づけない。特に敬愛するシャルロット王女には。
 そうした決意と共に、不届きな侵入者を撃退するため彼は軍杖を構える。
 ほんの少しの静寂の後―――突如、彼の視界に一人の仮面を付けた少年が現れた。気味の悪い、嫌悪感を覚えるデザインの仮面だ。
 団員たちが移動するのを待って、カステルモールは眼前の不審人物に向かって声を張り上げる。

「貴様はなんだ! ここは現在部外者の立ち入りを禁じている! 名乗られい!」
「は。悪いがそれは出来ないな。生憎お尋ね者なんでね……」

 そんな返答は予想済みだった。カステルモールは相手がいい終わる前に突進。瞬く間に懐へ飛び込んだではないか。
 そして一瞬で先の尖った軍杖を使って少年の体を貫く。そう、貫いたはずだった。
 だが。

「なにっ!?」

 “手ごたえが違う”―――カステルモールがそう感じたのも無理は無い。なにせ、対峙していた少年は『遍在』によって生み出された魔力の塊なのだから。
 そして彼の軍杖が貫いていたのは、予めひびが入れられていた赤く輝く魔法石であった。

「火石だとっ!? っく、全員退避しろぉぉぉぉぉっ!!!」

 青年の叫び。
 その刹那、軍杖の先に刺さった火石から閃光が迸る。目を覆うほどの輝きは瞬間的にその場を包み込み……、馬車や周囲の木々、地面を巻き込んで大爆発を起こした。



「馬車の方角だ。誰かが襲撃してきたようだな……」

 そう呟きながら。ヴェンツェルは腰の杖差しから自分の杖を引き抜き、周囲の音に耳を澄ませる。
 事態をなんとなく把握したらしいイザベラ、シャルロットも杖を引き抜く。ベアトリスはヴェンツェルのシャツをつまんだ。

「兄上……」
「大丈夫だ。守ってみせるさ…………きっと」
「……」

 ことこんな状況においてもそんなことを言い出す兄を、ベアトリスは刺すような目つきで睨みつける。
 そんな視線を受けつつ。ヴェンツェルはこれからどうすべきか考える。
 あれだけの爆発だ。恐らく馬車は駄目になってしまっただろう。もしかしたら……なんとなく持ってきた『レーヴァテイン』も吹き飛んでしまったかもしれない。
 ヘスティアが遺した数少ない品をこんなことで失うのは不本意だ。すぐにどうなっているか確かめたい。
 しかし、今は身内や知り合いの命を優先しなくてはならないのだ。

 相手がどのくらいの規模でどのくらいの質なのか。まずはそれを見極めねばならない。だが、庇護対象が三人もいてはなかなか動きづらい。
 ここまでやって来てくれた花壇騎士もたった一人では心もとなく、これでは取れる手段は非常に限られることが浮き彫りとなった。
 と、そのとき。
 前方で再び魔法による破壊音が轟いたではないか。誰かが生存し、敵と交戦状況にあるらしい。
 ここは助けに行った方がいいかもしれない。

「僕は向こうの様子を見てくる。きみたちはどこか岩陰か何かに隠れていてくれ。そこのきみ、彼女たちを頼んだ」
「は、はい!」

 まだ若い、自分とほとんど同い年であろう東花壇騎士にそう声をかけ、ヴェンツェルは馬車の方角へと向かう。

 風の魔法で移動すると、それほど時間はかからずに馬車のある森の入り口付近へとたどり着いた。
 そこは何か強大な力によって地面が抉り取られ、木々がなぎ倒されている。負傷者と思わしき男たちのうめき声と魔法の刃による剣戟の音が耳に飛び込んだ。

「……貴様っ! なぜこんなことを!」
「はっ、よく生き延びてやったと褒めてやりたいが……、悪いな!」

 どこかで聞いた声だった。
 ヴェンツェルの前方では、ぼろぼろでいたるところを負傷したカステルモールと、趣味の悪い仮面を付けた少年が『ブレイド』で斬り合っている。
 あれだけの爆発が起きたというのに、双方ともまだ動けるというのが……。敵が傷一つ負っていない、というのが気になった。
 だが、あまり悠長に傍観している暇は無さそうだ。
 やはり怪我が響いたのか、カステルモールが予備の杖を弾き飛ばされた。蹴りを食らって地面に倒れこむ。

「カステルモール……。ふん、過大評価もいいところだろうが」

 仮面の少年はそう吐き捨て、カステルモールの喉元に『ブレイド』を突きつける。
 しかし、その魔法の刃が青年の喉を引き裂くことはない。妨害が入ったからだ。風の刃が仮面の少年だけを狙って高速で飛翔した。
 舌打ちと共に仮面の少年は後退。現れたヴェンツェルを見て、忌々しそうに悪態をつく。

「っち、またお前か。この間といい今日といい……。雑魚がいきがるんじゃねえよ」

 刹那。『エア・ハンマー』が飛来。ヴェンツェルはそれを飛んで回避したものの、一発目に間髪入れずに二発目が向かってくる。
 そんな空気の塊に自分が出した空気の塊を衝突させ、なんとかやり過ごす。しかし力量は明らかに敵の方が勝っているようだ。ヴェンツェルは思わず冷や汗を流す。

「お前は……、どうしてこんなことをするんだ。いい加減にしろ」
「はぁ? 関係ねえよ。俺は俺のために仕事を引き受けてるだけだ。さっさと死にやがれ!」

 叫ぶなり仮面の少年は勢いよく飛び出した。速い。あまりにも速すぎて、今のヴェンツェルの動体視力では到底追いつくことなど出来はしない。
 とっさに『エア・シールド』を張るものの、敵の『ブレイド』はそれすら簡単に貫通した。
 直後、わき腹に激痛。肉を裂かれたようだ。
 敵は強い。スクウェアクラスの上に戦い慣れしているのだろう。トライアングルのヴェンツェルが敵う相手ではないのである。
 それでも、こんな状況下で引くわけにもいかないのであるが。
 どうにか解決策はないものか。
 そんなことを思案しつつ視線をずらすと……。ふと、ヴェンツェルの視界に馬車の残骸らしきものが映った。
 傷一つない、最後に目にしたときと変わらない黄金色の輝きを放つ『レーヴァテイン』が地面に突き刺さっている。
 あれだ。あれを手に出来れば、きっと形勢は逆転できる。そう感じた。

「なにしてんだ?」

 突然に沈黙したヴェンツェルを見て不審に思ったのだろう。
 仮面の少年が訝しげな視線を向け―――馬車の側の地面に突き刺さる『レーヴァテイン』に気がついたらしい。
 気がついたときには、もう敵の手に黄金色の剣が握られていた。やはり速い。もうここまで能力差があるとどうにもならないようにさえ感じる。

「……っ」
「ふん。こいつはお前のか? ずいぶんと良い物を持っているようだな。『火石』の爆発をもろに浴びても死なない筋肉バカに変な剣……。ガリアってのはすごいもんだ」
「それを返せ!」
「返せと言われて返すわけがないだろ。台詞がいちいち間抜けすぎねえか?」

 小ばかにしたように言いながら、仮面の少年は『レーヴァテイン』をもてあそぶ。
 その様子を黙って見つめる、ヴェンツェルの脳裏を駆け抜ける感情。
 それは怒りだった。

 それはヘスティアが自分にくれたものだ。今となっては彼女が存在した数少ない証左の一つ。それが訳の分からない人間に奪われ、おもちゃのように遊ばれている。
 それは剣だ。地面に文字を書くためのものじゃない。
 それは剣だ。素振りをするためのものじゃない。
 それは剣だ。石に叩きつけるものではない。
 それは自分の、自分だけが持つべきものだ。決して他人が手にすべきものではない。

 どこから湧いてきたのか、唐突に負の感情が湧き上がる。

 ヴェンツェルの様子が明らかに変わったからなのか。仮面の少年はそれまでのふざけたような態度を改め、卑下するように呟いた。

「おいおい。なんだよ……。剣ごときに本気になるなって。今どきの切れる子供かよ」

 ごとき?
 ごときとはなんだ。お前になにがわかる。それがどんな意味を持った代物なのか―――それもわからない人間がなにを。

 あざ笑う仮面の少年の姿が見える。馬鹿にしたような、嫌味な笑みを浮かべているのが仮面の上からでもわかる。
 このとき、ついにヴェンツェルの怒りは頂点に達した。
 その次の瞬間。

 仮面の少年が手にした『レーヴァテイン』が、突如として発火した。

 一瞬で燃え盛る炎の塊と化した剣。いったいなにが起きたのか、それもわからないうちに仮面の少年は大慌てで剣を放り投げた。
 『レーヴァテイン』はヴェンツェル目がけて宙を舞う。そして、すぐに地面に突き刺さった。
 それでもなお剣は燃え続ける。まるで、もう“主”以外に触れられることを拒むかのように。

「燃える剣なんて珍しい、聞いたこともないマジック・アイテムだな。まったく、ゲームじゃないんだからよ……」

 火傷を負った右腕に『治癒』を施しつつ。仮面の少年は呟く。
 剣を放り投げてしまったのは、彼にとって最大のミスであり、命取りとなってしまった。。
 気がついたときには、仮面の少年の目の前にいるヴェンツェルが燃え盛る剣を手に立ちはだかっていたからだ。
 おかしい。自分が一瞬で火傷を負うほどに高温であるはずのあの剣を、どうして眼前の少年は掴むことが出来るのか。どうして握り締めることが出来るのか。
 訳が分からなかった。

「なんだ。なんだお前は……」

 敵が最後まで呟く間もなく。ヴェンツェルが手にした『レーヴァテイン』から幾本もの炎の奔流が噴出した。
 それは瞬く間に仮面の少年を飲み込み、跡形も無く消滅させる。

 敵を炙ったあと、炎はすぐに止んだ。
 先ほどまで敵の少年が経っていた場所には誰もいない。それこそ、本当に誰もいなかったかのように。
 おかしい。灰すら残らないとは。人体とはそれほど燃えやすいものだったのだろうか?

「み……ミスタ・クルデンホルフ。あれは、恐らく『遍在』です。きっと本体はどこかに……」
「ミスタ・カステルモール。大丈夫……ではないですよね。立てますか?」
「わ、わたしのことはいい。それよりもまず、シャルロット様たちの身の安全を……!」
「は、はい。わかりました」

 重傷を負っているはずながら。カステルモールは『シャルロット』と口にするときだけは、やたらと覇気のある口調になっている。
 確かに彼の言う通り、先ほど戦ったのは『遍在』かもしれない。
 ならば、早くベアトリスたちの元へ急がねば。なにかあってからでは遅い。

 そう考え、ヴェンツェルは負傷した東花壇騎士たちを置いて森の奥へと引き返した。




「もう来たのか。思ったより早かったな」
「兄上っ!」

 森の奥―――川の流れが急な場所の近く。ごつごつとした大きな岩の斜面に仮面の少年はいた。
 悪い方の予想が当たってしまったようだ。彼の背後ではイザベラとシャルロット、ベアトリスが縄で縛られて捕まってしまっている。

「その子たちを放せ!」
「はぁ。だから、言っただろう? そう言われてほいほい応じるヤツがどこにいるんだ」
「だったら……。なにがなんでも助け出してやる!」

 『レーヴァテイン』を左手に。杖を右手に構え、ヴェンツェルは仮面の少年に向かって突進した。
 だが、そんな単調な攻撃が通じる相手ではないことは既に分かりきっている。
 案の定、敵はあっさりと突撃を回避。すぐさま反撃の『エア・ニードル』を見舞ってくる。それを風の防御壁で受け流し、イザベラたちが捕まっている岩を目指す。
 だが、それは敵の突進で頓挫。二人は川原目がけてごろごろと岩肌を転がった。
 川原まで落ちた二人はすぐに立ち上がり、距離をとった。
 仮面の少年は『ブレイド』を詠唱。杖の先から長さが一メイルはありそうな魔法の刃が出現した。

 一方のヴェンツェルは『レーヴァテイン』を地面に突き刺して左手で保持する。
 勝負は一瞬で決まる。相手は手だれだ。一撃で方をつけなければどの道やられる。だから、次の一手で決着をつける。

「『ブレイド』も無しで、剣を地面に刺して戦うつもりか。舐めやがって」

 そう吐き捨て、仮面の少年は杖を持ったまま突進。速い。先ほどの『遍在』の比にならないほどの速度だ。
 しかし、ヴェンツェルの詠唱の方が若干だけ速い。それは僅かな差だ。
 次の瞬間、仮面の少年が立っていた地面が一気にひび割れを起こした。地面にぽっかりと開いた隙間に足を取られて隙を見せる。
 そんな敵に向かって、ヴェンツェルは残された渾身の力で地面から引き抜いた『レーヴァテイン』を振り抜いた。
 頭部に刀身が命中し、弾き飛ばされた敵の少年は川に転落。杖を取り落としていた彼は脱出も出来ず……悲鳴を上げながら、下流へと押し流されていった。


 ―――三人の体を締め上げていた縄を解いてやると。感極まったらしいベアトリスが飛びついてきた。

 実は、先ほど自分たちに危機を知らせた東薔薇花壇騎士は仮面の少年が変装していた姿だったらしい。油断したところを拘束されたのだそうだ。
 確かに、今思えばおかしいところだらけだったかもしれない。
 彼が最初にやって来たのは、不審者が出現したのとほぼ同時刻と思われるタイミングだった。
 魔法を使っても、森の入り口から川辺まで来るのはそれなりの時間がかかる。それを完全に見落としていた。

 しかし……。あの仮面の少年。どこかで会った事がある気がするのは気のせいなのだろうか?
 トライアングルであるヴェンツェルを明らかに凌駕する、恐らくはスクウェアクラスの戦闘力。あれは並大抵のものではない。
 『エア・シールド』が簡単に突破されるなど、そうそうあってたまるものではないのだ。
 敵は川に流されたとはいえ、油断は出来ない。

 泣きじゃくるベアトリスの頭を撫でてやりながら。ヴェンツェルはイザベラに『治癒』の魔法を施してもらうのであった。






[17375] 第十話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:81790908
Date: 2010/11/01 20:59
 ガリアの地を横断し、リュティス市内を流れる大河シレ川。ゆったりとした水面を一隻の遊覧船が下流に向かって進んでいく。

 それはとても大きな船だった。周囲で警戒するように取り巻く小型の船と見比べれば、それがいかに巨大な物であるのかがよくわかる。
 まだまだ太陽も昇りきっていないころ。
 その船の甲板では、金色の髪の少年と青い髪の美丈夫が向かい合ったなにやら話し合っている。
 先日少年たちが襲撃を受けたことへの謝罪だとか、もうそういった事態には絶対陥らせないという主旨の言葉が青い髪の男性、ジョゼフの口から出てくる。
 それを金髪の少年、ヴェンツェルは素直に受け止めていた。

 そのすぐそば―――遊覧船から身を乗り出して吹き抜ける風にその身を晒しているのは、クルデンホルフ大公家の長女であるベアトリスであった。
 彼女は流れ行く景色を見つめつつ、ぱたぱたと風になびく自らの美しい髪を片手で押さえ込む。
 甲板に置かれたパラソルの下に設置されたテーブルには、お茶と甘い香りを放つ菓子類があり、青い髪のイザベラがそれをつまんでいる。
 もう一人の青髪であるシャルロットは、先ほどから船の上を行ったり来たりしていた。そのうちにベアトリスの元へと歩みより、なにか話始める。

 ヴェンツェルは川の両脇にある景色を眺めた。
 川に埋もれるようにして設置された水車が稼動している。中には船を出して漁をする平民や、女性たちがなにかを洗う姿も散見される。
 シレ川の流れは非常にゆったりとしている。その中を遊覧船は静かに突き進む。
 途中、人らしき物体が乗った木の板があった気もするが……。それは目の錯覚だろう。そうに決まっている。

 遊覧船は正午には下流の停留所に到着。そこからまたリュティスへ引き返し始めた。

 本来ならばもっと下流まで行き、その先にある町で一泊する予定ではあったのだが。先日の襲撃を鑑み、大幅に予定が縮小されたのであった。
 それはヴェンツェルにとってはひどく残念なことではあるのだが、身の安全を考えれば仕方のないことである。
 ちなみに。
 『火石』の爆発を受けたはずのカステルモールは現在入院しており、彼の他にも多数の負傷者が出ているので、東花壇騎士団は機能停止状態に陥っているのだそうだ。
 なので、今日遊覧船を警護しているのは西百合花壇騎士たちだ。
 東花壇騎士に比べて影の薄い彼らではあるのだけども、その構成員たちの戦闘力は決してひけをとらない。

 そんなわけで、彼らはやや短い船の旅を終えるのであった。



 *



 リュティス訪問は七泊八日の予定である。
 七日目の夕刻にもなると、いよいよこの町を離れるのだということが実感されるようになってくる。

 最後の晩餐となる今日。プチ・トロワでは、ちょっとした夕食会が催されていた。

 とはいっても、それは例によってジョゼフが酒を飲む口実にしかなっていないのではあるが。
 開始からほとんど経たないにも関わらず、既にべろべろに酔ったガリア王国の副王は娘によって介抱されているという有り様だ。
 大器なのか、あるいはただのアル中なのか、その判断はつけにくい。

 大きなテーブルには、美食で知られるガリアの料理が所せましと並べられている。どれもいい香りが漂ってきて、食欲を大いにそそる物ばかりだ。

 さっそくヴェンツェルは鮭のムニエルを口にした。その近くにははしばみ草も置かれていたものの、さすがに手を出す勇気はない。
 すると。ぎざぎざとした緑色の葉っぱを目につけたシャルロットが大きな瞳を輝かせ、むしゃむしゃと葉っぱを口にしたではないか。
 彼女はタバサにならずともはしばみ草が好きなようだ。いったいどうしてだろうか。
 ベアトリスも真似をして食べてはみるものの、やはりというのかまったく口に合わないようだった。
 これは脂っこい肉と一緒に食べることが一番良い方法なのだと、ヴェンツェルは思うわけである。

 しばらくすると、政務を終えたらしいシャルルがこの場にやって来た。
 改めて現ガリア王の姿を見る。ジョゼフを細くしたような出で立ちで、どちらかと言えば優男の部類に属するだろう。
 まだ会ったことはないが……あえて言うならば、ワルド子爵辺りが近いかもしれない。
 王の向かう先では、先ほどまで勢いよく食事にありついていたシャルロットも眠りこけ、イザベラの腕の中ですやすやと寝息を立てている。
 そんな娘の頭を撫でてやり。シャルルはヴェンツェルの元へとやって来た。

「やぁ。やっとまともに話が出来そうだ」
「国王陛下」
「そんなに固くならなくていいよ。この場では無礼講だ。それに、きみには恩もあるし」
「いや、恩だなんて」
「そう謙遜しないでほしいな。この国を脱出した兄さんやイザベラを匿ってくれていたのはきみなのだろう? それも政治利用もせずにね」

 そう話しつつ。シャルルはどこか遠い目になった。
 かつて自分の暴走で兄を傷つけ、多くの人々のを迫害した。今でも未帰還の貴族は数知れない。そのことを思っているのかもしれない。
 今さら、もうどうにもならないことではあるのだけれど。それを考えるか否かでは大違いだ。

「僕じゃ利用するだけの頭も無かったってだけですよ。ただ亡命者を受け入れただけです」
「なんにせよ、その判断のおかげでぼくはこうやって笑っていられるんだ。だから……ありがとう、と言わせてくれ」

 そう告げ、シャルルは頭を下げてくる。これにはヴェンツェルも慌てた。
 なにせ相手は国王なのだ。国の頂点であるほどの人物に頭を下げられても、それは返って困ってしまうだけではないか。
 トイレから戻ってきたベアトリスなどは、その光景に目を見開いてしまっている。
 とりあえずシャルルの頭を上げさせ、ヴェンツェルは言った。

「とりあえず、お礼はお礼として受け取っておきます。でも、これだけは覚えておいてください。
 あくまでも確執を、障害を乗り越えて、手を取り合ったのはあなたたち兄弟がしたことです。僕はただ、その可能性の一部に関わっただけですから」

 その言葉を受けたシャルルは呆れたように笑った。「まったく、変わったやつだな」と呟く。
 そして、部屋の真ん中で酔っぱらっている彼の兄の元へとシャルルは向かうのであった。

 しばらくしたころ、シャルルも酒を飲んでジョゼフと共に二人してどんちゃんやり始める青髪の兄弟。
 そんな彼らを呆れ顔で見つめつつ、先ほどからヴェンツェルの隣にいたベアトリスが口を開いた。手には空になったワイングラスが握られている。

「王ともあろうお方が一介の貴族に頭を下げるなんて。いったいどんな弱味を握ったの?」
「……いや、そういうのはないよ」
「ふーん……。ま、いいですわ」

 そうは言うのだが。あまり信用している目には見えない。彼女はさらに追撃してくる。

「兄上。兄上はラ・ヴァリエールのご夫人と懇ろになっていますし、その上でガリアの名門伯爵家のご令嬢とも一緒にいましたわよね。なんですか? 次はアンリエッタ姫殿下にでもお手を出すのかしら」
「ベアトリス?」
「ふんっ。わたし、知ってるの。お父さまが他で隠し子ばっかり作っているの。同じ血を引いているんですもの。き、きっと、あ、あ兄上もそこら辺で、た、たくさんこここ子供をこしらえるんでしょうね」

 なんだか息がワインの香りである。つまり、彼女は酒を飲んでしまったようだった。
 弱いくせになぜ飲むのか。というか、背伸びしたい気持ちもわからなくはないのだが……。やめた方がいいのにと思うわけである。

「まあ……そうだな。僕には返す言葉もないよ」
「開き直るんですか?」
「なんていうか、その。ごめん」
「むぅ……」

 追求をかわすために、ヴェンツェルはベアトリスの頭を撫で始める。
 かなり苦し紛れの行動ではあったのだが、彼女は目を細めてただされるがままになっているのだ。
 飲み慣れない酒を飲んでいたからか。そのうち、赤い顔をしたまま、ヴェンツェルの胸元に倒れ込むようにしてベアトリスはすやすやと寝息を立て始める。
 立ったままではどうしようもない。とりあえず眠り姫を部屋まで運ぶことにした。

 背中にベアトリスをおぶったまま、プチ・トロワの彼女の部屋までやってくる。
 部屋の鍵はかかっていないようなので、片手でドアノブに手をかけて部屋の中に入った。
 さて、ここまで運んだのはいいが、彼女が着ているドレスはどうすべきなのか。着た切り雀ではあまりよろしくないだろう。
 かといって誰もいない密室で妹の服を脱がせることはさすがにはばかられる。誰か侍女でも呼んでこようか。
 そんなことを考えたときだった。
 少しばかり開いた扉の向こう―――廊下の方から、控え目な女性の声が聞こえてきたではないか。

「ヴェンツェルさん?」
「……クロエか。どうやってここに?」

 現れたのは長い黒髪の女性、クロエ・ド・コタンタンだった。
 ちなみに、彼女は人間と吸血鬼の混血児である。あえていうならばハーフバンパイアといったところだろうか。
 閑話休題。
 そういえば。今の時間に一介の貴族が、王族のいるプチ・トロワに入ることなど出来るのだろうか?

「衛兵の方に事情を話したら、にやにやしながらわたしを入れてくれましたよ」

 ……とまあ、ついこの間に賊の襲撃があったとは思えない対応をされたというのだ。大丈夫なのだろうか、いろいろと。
 にやにやというのがまたなんだかなぁと思ったりする訳である。しかし、これはかえって僥倖かもしれない。ここは彼女にベアトリスのことを頼もう。
 そう考え、クロエにベアトリスを着替えさせてもらいたいという主旨の言葉を伝える。

「……というわけだから、頼めないかな」
「ええ、大丈夫ですわ。任せてください」

 二つ返事で彼女が受け入れてくれたので、ヴェンツェルはとりあえずその場を後にすることにした。


 ―――しばらくの後。

 ヴェンツェルが自室でくつろいでいると、誰かが扉を叩く音がするのがわかった。
 返事をすると、その人物がの声がする。どうやらクロエがベアトリスの寝仕度を終えたようだった。
 礼を言い、少年は部屋のドアを開ける。そして部屋に入ってきたクロエは、なんだか思い詰めた様子で歩み寄ってくる。

 次に、彼女は椅子に腰かけたヴェンツェルの背中にしなだれかかった。
 数年前よりもずっと広くなった背中が、なんだか頼もしいような、でもやはりまだ頼りないような。不思議な気持ち。
 微妙な感情を抱きつつ、クロエは首を曲げて自分に視線を向ける少年に声をかけた。

「もうすぐお別れですね。せっかくまた会えたのに。なんだか寂しいですわ」
「なに、もうずっと会えなくなるわけじゃないんだ。そう悲しむことはないよ」
「でも……」
「夏期休暇はまだまだあるんだ。きみとご実家の人たちさえ良ければ、コタンタンの領地へ行ったっていい」

 コタンタン伯爵領はガリア北部にある同名の半島に存在する。
 トリステインの港から海路で行けばそう遠くない距離にあるので、行こうと思えば比較的簡単にことは進むだろう。
 ヴェンツェルの言葉を受けたクロエの顔が輝き……あっという間に曇ってしまった。

「本当ですか! ……あ、でも……。母が駄目と言いそうです」
「お母さんが?」
「ええ。うちの母は、父や兄以外の人間を極端に嫌ってるの。とくにあなたは『うちの娘をたぶらかした野蛮な劣等人種が憎いわ。もし顔を見る機会があったら八つ裂きにしてやろうじゃない』って……」
「ひゅー……」

 驚愕の事実だ。自分はそれほどまでに嫌われていたのか……と、背筋を悪寒が駆け抜ける。
 思えばそれも頷ける。なにせ他国の、それも大公家の居城に乗り込んで娘を奪回するような母親なのだ。
 まして、その人物は強力な吸血鬼であるとさえ言う。
 どうしてガリアの貴族であるコタンタン伯爵がそんなリスクを冒してまで婚姻に踏み切ったのか、今更ながら疑問である。
 恋は盲目、とはよく言ったものだ。
 いずれにせよ、クロエの母と会うことはあらゆる意味で危険なことなのは間違いない。

「困りました。わたしもガリア国内から出てはいけないと言いつけられていますし……」

 クロエは言葉の通りに困った顔になってしまう。そんな彼女に向かって、ヴェンツェルはまた別の提案をする。

「きみさえ良ければ時間があったときにガリアへ来るよ。現状、それしかないもんな」
「わたしとしては、いつでもお願いしたいところです。また手紙を送ってくださいね」
「ああ。わかった」

 ヴェンツェルは頷き、クロエに向かって微笑んでみせるのであった。


 ―――そして、翌朝。ついにガリア国内を後にする日がやって来た。

 なんだかあっという間の一週間であったと感じるものだ。襲われてばかりだった気もするのだけども……。
 ヴェルサルテイルの正門前には、クルデンホルフから迎えにやって来た数台の馬車がこれから乗り込むだろう子供たちを待ち構えている。
 ほとんどの荷物は既に馬車へ運び込まれているようだ。
 見送りに来たのは、ジョゼフとイザベラ、シャルロットにガリアの王妃だった。シャルルは政務の関係で来ることができないそうだ。
 まあ、国王陛下にわざわざ見送ってもらいたくもないのだが。無駄に大きなプレッシャーがかかるのはごめんである。

「済まんな、少年。こちらの手違いや不手際で迷惑をかけた」
「いえ。そんなことはありませんよ。リュティスへ来るのははじめてだったので、とてもいい経験になりました」
「そうか。それならばよいのだが」

 ヴェンツェルの言葉を受け。ジョゼフは安心したように笑みを浮かべた。しかし、見れば見るほどいい男である。
 次にイザベラやシャルロットに向き直り、ベアトリスと共に別れの挨拶を行う。

「今回はありがとう。じゃあ、また」
「お二人ともお元気で」
「ええ。またいつか会いましょう」
「楽しみにしています」

 二人の兄妹は手を振り、正門の向こうに停車する自国の馬車へと歩いて行く。

 そうして、ヴェンツェルとベアトリスはヴェルサルテイルを後にするのであった。









 ●第十話「予兆」









 ゲルマニア西部の町、ボン。古くから存在するボン魔法学院を中心として発展した、いわば学院都市としての体裁を保つ都市である。

 そんな都市の一角―――巨大な時計塔の直下に存在する地下施設に、複数、それも数十人規模の集会のようなものが行われていた。
 年齢は様々といって良いだろう。若い青年もいれば、杖無しでは歩けないほどのご高齢もいる。若干名ではあるが女性の姿もあった。
 彼らは皆、ゲルマニアの西部や辺境部に土着した諸侯である。
 中にはなんと王国の君主や選帝侯の姿すらあり、この密室の集会がなにやらただならぬ気配を放っているのも、また頷ける話ではあったのである。

 すり鉢状になった地下室の、もっとも下部。一人の青年が大きな声を上げた。

「もうこのままでは我々はやっていけない。あのアルブレヒトは、あの狡猾で残忍で欲望に駆られた男は国の権力を自らの手に収めようとしている!
 我々の権限を次々と縮小し、弱みを握った諸侯の領地をあからさまに収奪しているではないか! これは由々しき事態だ!」

 その声に呼応するかのように、また一人の諸侯が声を荒げた。

「そうだ! ベーメン、プロシアに続いて、とうとうリトアニア大公国も取り潰されたではないか。これ以上奴の横暴を許していいのか!」

 リトアニアというのはゲルマニアの最東端に位置“していた”半独立国家のことである。
 かつては巨大な領土を保持していたが、現ゲルマニア皇帝派の貴族によって土地を散々に分割され、現在では大公の所領が完全に消滅する有様であった。

「だが。やつめには亜人……。得体の知れない力を持った化け物がついている。それにガリアから“異端”もどきの兄弟が流れて来たと言うではないか」

 白髪の老人、プファルツ選帝侯が口を開く。その言葉に、何人かの貴族が首を縦に振った。

「だが、アーヘンでその化け物の繰り出すゴーレムを破壊した者がいるという。あれは決して破壊できぬものではないのではないか? 砲亀兵を使えば、あるいは……」
「はっ、馬鹿げている! わたしはこの目で直接“巨人”を見たのだ。あれは人間がどうこうできるものではない!」
「奴は異端の力すら利用しているのか? ロマリアはどうした!」
「あんな生臭坊主共がなんの役に立つと仰る。それに、今のゲルマニアは皇帝に尻尾を振る司教や司祭で溢れかえっている。恐らくは教皇庁にも内通者がいるのだろう」
「なんだと! それでは打つ手もないではないか!」

 諸侯たちの会議は紛糾する一方だった。だが、それは無理もない。
 もともとゲルマニアの皇帝は、有力諸侯たちの権限を侵害せずにパワーバランスを保てるような、つまりはそれほど大した実力のないものが選ばれることが多い。
 現皇帝アルブレヒト三世も、当初は諸侯に擦り寄って、自分の一族を政治的に抹殺した上で今の地位に就いているのである。
 それが、年月が過ぎ去るうちにこのザマである。
 かつては諸侯たちの寄り合い所帯であったゲルマニアは、今となってはウィンドボナに権限が集中する中央集権国家に近づいている。
 皇帝に対する独立性を保てたのは、ウィンドボナから遠いライン川沿岸の諸侯や、ザクセン、バイエルンといった非常に強固な権力基盤を持った大貴族だけとなってしまっていた。
 これまでの慣例からは考えられないほどに権力の集権化が進んだのは、もはや諸侯たちの想定外の事態としか言いようがない。

「……マクシミリアン殿。やはりここは始祖ブリミルの血を引く貴方がゲルマニアの王に。皇帝になられる他ないでしょう」

 とある初老の男性の隣の席に腰かけた女性貴族が、耳打ちをするように囁いた。しかし、男性はそれに答えない。

「いずれにせよ。このままでは、我々もそう遠くなく、あの忌々しい男の前に頭を垂れることとなってしまう。それだけはなんとしても阻止しなければならない」
「そのための『ライン連盟』か。しかし、いささか時期尚早ではないですかな。“巨人”への対抗策もないままでは、土地を蹂躙されて終わりでしょう」
「やはりここは他国、特にガリアへ協力を仰ぐしかないだろう。アルザスやシュバルツバルトを手土産に支援要請を……」
「しかし。アルザスはアルブレヒトの、ハプスブルク家の所領ではないか。皇帝直轄軍がいる。それを簡単に引き渡す目処など立たぬよ」

 やはり話はまとまらない。この集団のリーダー足るべく男がまったく口を開かないのだから、それはある意味で当然のことかもしれないが。
 いずれにせよ、この場に集まった人々は、全体の権利擁護よりも自分の権限の心配の方が先なのである。

「どうですかな、ツェルプストー卿。わたしはこの連中が領地を守れるとは考えられないが」
「なかなかきついお言葉ですな」

 壮年の紳士の問いに。ラ・ヴァリエールと向かい合った領地のゲルマニア貴族が、苦笑しながらも静かに頷いた。



 *



 一方、こちらはガリア王国の北端部。大きな川の下流で、一人の少女が釣竿を片手に岸辺を歩いていた。
 年の頃は十代も後半だろうか。どこか端整な顔立ちで、身にまとっている安物の服とはまるで釣り合わないように思える。
 ぺたぺたと地面を踏み込み、なにかを物色するように川へ眼を凝らせていたが……。やがて流れて来たものに、彼女は思わず大きく目を見開いた。

「え? 人!?」

 そう。川の上流から流されてきたのは、軽そうな木の板の上に仰向けで乗った金髪の少年だった。
 マントを付けているところからすれば貴族だろう。少女は料理に使う食材を求めて探索中であったのだが、さすがにこんな事態に陥っているのは見過ごせない。
 彼女は履いていたブーツを脱ぎ捨て、大河の端に流れてくる少年と木の板を受け止めた。

「大丈夫なのかなぁ……」

 引き上げた少年は、見るからに衰弱している。とりあえず応急処置をし、服を脱がせて手持ちの薄っぺらい毛布をかけておく。
 いったいどこから流されて来たのだろう。とりあえずは命に別状はないようだが……。
 そうだ。きっとお腹もすいていることだろう。ここは自分が美味しい料理を振る舞い、栄養を付けてあげないと。
 急に思い立ち、少女は細身の体で背負ったバッグの中から調理器具を取り出し始めた。


 ―――なんだ。自分はどうしてこんなところで寝ているんだ。

 “彼”は硬くごつごつとした感触を背中に覚え、違和感を抱いたまま背を起こした。周囲を見回すと……、そこには、雄大な川の流れる光景が広がっている。
 ここはどこだろう。……いや、待て。そもそもどうして自分はこんなところにいるのだろう。
 確か…………。
 少年がそこまで考えたときのこと。

「あ、起きたんだ。よかった」

 目の前に、自分よりも少しばかり年上であろう少女が現れたのである。はて。自分はこの人間と会った記憶がない。
 いや。それどころか、自分がどこの誰なのかもわからない。いったいどういうことだ。なぜ自分にはこれまでの記憶がないんだ? わけがわからない。

 呆然としたまま、少年は眼前でスープの入れられた皿を手にする少女を見つめた。
 なにを勘違いしたのか。顔だけは一級品である少年に見つめられるのが少しばかり恥ずかしいのか。少女は皿を押し付けながら告げて来るのである。

「もう。大丈夫? わたしはリュリュって言うんだけど……、きみの名前は?」

 笑顔で放たれるその問いに答える術を、記憶を失っていた“彼”は持っていなかった……。






[17375] 第十一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:1c357698
Date: 2010/11/02 22:22
 夏季休暇も中盤―――アンスールの月はヘイムダルの週。クルデンホルフ大公国はクルデンホルフ家の居城。

 夏の暖かい朝。開け放った窓から風が吹き抜けていく。
 いつものようにヴェンツェルがふかふかのベッドの上で身を起こすと。手のひらに何やら柔らかい感触が伝わってきたではないか。白パンのごとき感触だ。
 ふと、視線をその方向へとずらしてみる。すると。案の定、白いシーツの上に金糸のような髪の少女が横たわっていた。
 彼女はすやすやと気持ちが良さそうな寝息を立てている。まるでヴァルハラで名誉の戦死者を迎える使いのようだ。
 しかし。少年は辟易とした様子で、そんな眠り姫をベッドから叩き出した。
 哀れ、叩き出された少女はごろごろと地面を転がり、床に敷かれたカーペットの上で停止。うなり声を上げながら上半身を起こした。

「もう、ひどいわ!せっかく気持ちよく寝むれていたのに!」
「母上。ぐっすり寝たいのなら自分の部屋で寝ればいい。そんな当たり前のことがなぜわからないのですか」

 あくまでも自分はここで睡眠をとる権利があるのだと主張する大公妃。
 それに対し、ヴェンツェルはどこまでも冷ややかな視線を向けるだけである。
 さて。彼の目の前にいる少女は彼のなんであろうか。結論だけ言えば、彼女はヴェンツェルの母親だった。そう見えないのも無理はない。
 なにせ、彼女は怪しげな薬の作用により、体だけが実年齢の半分以下の若さになってしまっていたのだから。
 ちなみに。薬とは、城勤めのとあるメイドが作った薬である。なぜメイドにそんなものが作れるのかは割愛する。

 薄いネグリジェ一枚だった大公妃は、息子に叱られたので仕方なく、いそいそと着替えを始めた。
 こうして見ると、本当にベアトリスと瓜二つの容姿をしていることがわかる。いや、彼女の方が先に生まれているのではあるが。
 母親の着替えを凝視などすると、まさに変態そのものである。目をそらし、ヴェンツェルは窓の向こうへと視線を向けた。
 すると……。背中に何かが張りつく感覚。

「……なにをしているのですか」
「服を着ていないと寒いわ。夏だけど。ああ、凍えてしまいそう」

 なんと大公妃、服を着ないで背後にいるというのである。だがおかしい。さっきまで服を着ていたのではないのか。
 また自分をからかっているのだろう。辟易としつつ、首と上半身を回して振り向く。

「きゃっ!」

 高い声と共に大公妃は胸を押さえてうずくまった。どうやら、本当に下着しか身に付けていないらしい。いったいなにを考えているのやら。
 こちらを上目使いで「う~」と睨んでくるのだが、元はといえば自分が下着だけで抱きついてきたのではないか。
 朝っぱらからこれではもうなんだか疲れてくる。
 叱って着替えをさせた大公妃を部屋から追い出すと、ヴェンツェルも自分で着替えを始めるのであった。


 ブラバント公――大公妃の実家だ――の執事から手紙が届いたのは、その日の午後のこと。
 食事の席で自分の執事から一枚の紙切れを受け取ったクルデンホルフ大公は、険しい表情で文面を目で追っていく。
 しばらく沈黙したあと。大公は己が妻の方を向き、渋い顔をしたまま言い放った。

「ジャンヌ。お前の兄君が隠居するそうだ。そこで、かつての罪滅ぼしも兼ねてブラバントの公爵位を譲りたいらしい」
「わたしに?」

 心底驚いた、と言いたげな口調で大公妃は言う。身内で兄ほど権力に執着していた人物は見たことがないからだった。
 ブラバント公爵家は、数年前の不祥事で大幅に領地を縮小されて以来、より没落の度合いが加速している。
 歴史だけはラ・ヴァリエールすら遥かに上回りこそすれど、実勢力としてはまったく及ぶことがない。
 近年は借金まみれで財政もほぼ破綻していると言われているほど。
 要は、妹たちが嫁いだ家の中で、もっとも資金的に余裕のあるクルデンホルフに債務を押し付けてしまおうというのが本心なのだろう。
 ヴェンツェルは特にその事へ口を出さない。自分がなにか言うことでもないからだ。

「困ったわね。今さら実家の爵位なんてもらっても……」

 大公妃はなにやら悩んでいたが、そのうち名案を思いついたらしい。ぱぁっと顔を輝かせた。

「そうね。せっかくだから兄のお話を聞いてみましょうか」
「……そ、そうか? では使いを出しておこう」

 急に態度を変えた大公妃の様子に面食らいながらも、大公はただ頷くのであった。


 大公夫妻はすぐに出発した。どうやら大公妃がなにかせがんだらしい。

 ヴェンツェルはといえば城で留守番である。相変わらずオルトロスに追いかけ回されたあとは、中庭に置かれたパラソルの下でただのんびりとしている。
 そばで控えるのはメイドのアリスだ。彼女はお茶を注いだカップを差し出しながら、刺々しい口調で尋ねてくる。

「お城に戻ってきてから、ずっとラ・ヴァリエール夫人とお会いになられていないようですね。もう飽きてぽいですか。鬼畜ですね」

 問い、というより断定口調だった。語気は強くない。冷ややかな視線が浴びせられる。
 それには答えず、ヴェンツェルはただ黙って新聞に目を通すだけだ。黙して語らず、である。
 それが気に食わないのか。アリスは角砂糖をどぼどぼと落とし込んだ紅茶を差し出したではないか。
 気が新聞に向いていたせいか、砂糖たっぷりの紅茶を口に含んだヴェンツェルは、まるで苦虫を噛み潰したような顔になった。

「どれだけ砂糖を入れたんだ。じゃりじゃりするぞ」
「その紅茶のように無駄に甘いひとときを、ご夫人とお送りになられていたではありませんか」
「……」

 久しぶりにゆっくり出来ると思えば……これである。まったく敵わない。
 城に戻ってからしばらくは大人しくしていたのだが。どうもここのところ機嫌が悪いらしい。女性はいろいろと大変なのだろうか。
 なんにせよ、自分に当たられても困ると思うものである。
 そういうわけで、ここはとにかく目を合わせないようにしつつ新聞に目を落とす。
 なんでかわからないが、実は近日中に会うのだと言いでもしたらまた機嫌が悪くなりそうだ。沈黙は金である。

 なんとなく、皿の上に盛られていたクッキーを手に取る。さくっと軽い歯応えとほんのりとした甘味が口に広がった。
 これはなかなかに美味しい。プレーンなものだけでなく、チョコレートやシナモンを混ぜたものもあるようだ。
 そこでふと、アリスがじっと自分の顔を覗き込んでいることに気がついて、ヴェンツェルは訝しげに問う。

「なんだ? アリスも食べたいのか?」
「いえ。どうでしょう、そのクッキー」
「うん? いや、美味しいと思うよ。ちょうどいい焼き加減だし、甘さも適度だ。これを作った職人は誰だろう」
「さあ」

 会話のあと、また食べる。クッキーを噛み砕く音ばかりがその場で響き渡る。
 アリスはなにも言わない。ただ黙ってヴェンツェルがクッキーを食べる姿を見つめているだけだった。
 心なしか表情が柔らかいようにも思える。なぜだろうか。
 そしてクッキーの皿がほとんど空っぽになったころ。とたとたと、パラソルに近づく軽い足音が中庭に木霊するではないか。

「兄上。イザベラさんから習ったお菓子をわたしも作ってみましたの」

 現れたのはベアトリスだった。その手の中には小さなバスケットがあり、なにやら甘い香りが漂ってくる。
 テーブルにそれが置かれると……中から現れたのはクッキーだった。
 先ほど出てきたものに比べると遥かに出来が悪い。見るからに形が悪く、ところどころ焦げていたり欠けていたりして大いに不安感を煽ってくる。
 しかし、である。
 本人が意図してのことかはわからないが。妹が目を輝かせて「さぁ召し上がれ」と言いたげな様子で自作のお菓子を差し出してきたら、食べないわけにはいかないのだ。
 なのでヴェンツェルは手を伸ばし、山になったクッキーを一つ掴んだ。

「……どう?」

 口に含んでもぐもぐと租借していると。不安げな様子でベアトリスが問いかけてくる。
 味は特にひどいわけではない。ただ、ちょっと過剰に甘く粉っぽい気がする。焼きすぎで固かったりもして正直なところ微妙だと言わざるを得ない。
 しかし、そんな感想を素直に口にすることははばかられる。
 せっかく、あの高飛車な性格の妹がわざわざ自分にお菓子を作ってきてくれたのだ。ここは「美味しい」と言って―――

「甘すぎますね。粉を食べてるみたいですし、それでいて外側が固いです。保存食にはいいかもしれません」

 横からひょいと体を乗り出したアリスがクッキーを口に含み、そんな感想を述べた。

「な、なんですって! ていうかメイド! あんたに食べていいなんて言ってない!」
「坊っちゃまだと正直な感想を言わないでしょうから、わたしが代弁して差し上げただけです」
「兄上?」

 まさに図星を突かれたヴェンツェルは、だらだらと冷や汗を流し始めた。
 ベアトリスは先程ほどまでの、どこか小動物的な雰囲気から一変。まさに高飛車お嬢様然とした態度へと変貌。
 アリスはただそれを冷ややかな視線で見つめるだけ。どこか余裕の、勝者の風格が漂っている。
 そんなメイドの様子と、テーブルに置かれたわずかなクッキーの置かれた皿に、ベアトリスの大きな青い目が向いた。
 彼女はなにかに気がついたらしい。眼光鋭くアリスを睨みつけた。

「……ははぁ、そういうことね。この女狐が」
「どちらかというとあなたの方が狐に見えますけど。狐の尻尾ですか」

 どうやら、ベアトリスの二つくくりにした金色の髪を揶揄しているらしい。ぴきっとなにかがひきつる音がする。
 邪険になる空気を察知したヴェンツェルは脱出を決意。睨み合う二人を放置して逃走―――出来なかった。
 二人にがっちりとシャツの裾を掴まれたからだ。

「兄上! 美味しいのかそうでないのか、どちらなんですかの! まあ不味いわけないですけど」
「はっきり言った方がいいんですよ。だいたい、あなたはいつも……」

 ……なにやら耳の両側からあれこれ言われつつも聞き流し、ヴェンツェルは諦めたように新聞へと手を伸ばすのであった。


 その後。当初の予定通り、大公妃はブラバント公爵位を継承した。

 一部を没収されてなお巨大な領地は、クルデンホルフ大公国とは統合せず、トリステインへ帰属したままになるそうである。
 今回の件に関する懸案事項としては、大公妃の姉妹が嫁いだ先のフランドル伯が、血縁関係を理由に公爵位を主張する可能性があることだという。
 もっとも、かの家はクルデンホルフに債務を負っているので、そう強硬な手段には出ないだろうということだ。









 ●第十一話「海辺でのひととき」









 ―――夏真っ盛りのこの日。

 トリスタニアから海へ向かって伸びるヴェル・エル街道を、七台ほどの馬車がゆっくりとした速度で通り抜けていった。
 中央を行く馬車はどこかの大金持ちが所有しているようである。しかし、それがいったいどこの誰なのかを示すような紋章の類は一切ない。
 ただ、それを引いている馬の毛並みの良さと品種を見ればわかる人間はわかるのかもしれない。

「オーステンデ……と言いますと。確か、トリステイン王室御用達のリゾート地でしたか?」
「はい、そうですわ。良い港があって、その近くの浜辺一帯が王領になっているのです。とても綺麗な砂浜ですよ」

 馬車の車内。豪勢な内装の施された革張りの座席に腰かけつつ。ヴェンツェルは、向かい側に座るトリステイン王女アンリエッタとそんなことを話していた。
 アンリエッタの隣では、ちょっとだけ不満そうな顔をした桃髪の少女―――ルイズが腰かけている。
 残りの馬車には各家の使用人や護衛が搭乗している。どうやら、この一団は海へバカンスに向かっているらしい。


 オーステンデはトリステイン中部の海に面した港町だった。かつてはただの寒村であったが、現在では王族の保養地の一つとして愛好されていたりする。
 馬車の一団は町を迂回し、西の方角へ向かう。うっそうと茂った森を向ければ……岩の肌に包まれた入り江が出現するのである。
 イメージとしては鎌倉の町を想像するとわかりやすいだろう。その縮図といえばいいのかもしれない。

 馬車はひっそりと建てられた白亜の壁の建物の前に止まった。
 まず使用人の馬車から人が出てきて、王都から運んできた荷物を運び出していく。結構な大荷物だ。
 次に、アンリエッタらが搭乗する馬車の扉がうやうやしく開かれた。まず王女が。次にルイズが。そして、最後にヴェンツェルが馬車から降りた。
 さんさんと降り注ぐ太陽の熱が、じりじりと体力を奪っていく。たまらなくなって、ヴェンツェルは『シュヴァリエ』の刺繍が施されたマントを脱いだ。
 マントを腕にぶら下げたまま歩いていると……、ひょいとそれが持ち上げられる。

「アリス」

 マントを取り上げたのは、ヴェンツェル付きの召使いとして同行しているアリスだった。この暑さのせいか、今日は薄着だった。
 そのか細い指には相も変わらず『風のルビー』がはめられている。それを見たアンリエッタが一瞬だけ怪訝な顔になったが、すぐに前を向いた。

 別荘はコの字形に並んだ三棟の建物で構成されている。中央のもっとも大きな建物に王族や貴賓の滞在し、右側の建物に使用人や護衛の部屋が配置されている。

 ヴェンツェルは自分に宛がわれた部屋のベッドに腰かけた。この物件は、年に一度利用されるかされないかなのだそうだが、管理はしっかり行き届いている。
 ようやく一人になって、息を吐きながら、どうして自分がこの地を訪れることになったのか。それを思い起こす。

 ―――それは、とある池へ釣りに出かけた一日の終わりのこと。
 城へ帰ると、彼を出迎えた大公妃がなにやら書簡を持っていたのだ。受け取って読んでみると。それは、アンリエッタからバカンスのお誘いだったのだ。
 そういえば、王城への誘いを断ったときにそんなことを言われた気もする。どうせならどこかへ旅行でもしようと思っていたところだと思い、それを受けたのだ。

 さて。保養地に来たのはいいが……。いったい何をするのだろう? もしかして泳いだりするのだろうか。しかし、あの水着ではなぁと思うのである。
 しばらくぼうっとしていると。扉が軽く叩かれた。

「坊ちゃま。王女殿下がお呼びです」
「ああ。わかった、行くよ」

 扉の向こうから聞こえて来たのは、アリスの声である。ヴェンツェルはそれに答えて廊下へと向かうのであった。


「殿下……」
「な、なんでしょう?」

 砂浜には少数の人影があるだけだった。アンリエッタ、ルイズ、ヴェンツェルに、メイドたちだ。他の者たちは王族のくつろぐ空間には足を踏み入れていない。
 熱された砂の上で立ち尽くすヴェンツェルは、ただ己の目をひたすらに疑っていた。
 なぜならば。彼の目の前で、露出した体を腕で恥らいながら隠しているのは。この国の王女の姿だったのだから。
 あまりの光景に、ごく普通の全身を覆う水着を着用しているルイズは目を見開いている。

「それは……、いったいどうしたのですか?」
「ええと……。これしかなくて」

 そう。アンリエッタが身に着けているのは―――いわゆる『ビキニ』スタイルの真っ白な水着だった。それも極端に布地が少ないタイプのものだ。
 なんでも自分の水着がなく、他のものを探していたら見つけたらしい。なぜか荷物に潜り込んでいたというのだ。仕方なくそれを着用に及んだのだという。

「ひ、姫さま! だ、駄目ですわ! そんなもの着てはいけません!」
「で、でも……。他にないんですもの」

 ルイズが駆け寄り、アンリエッタに翻意を促そうとする。それはそうだ。なにせ今の王女さまと来たら、それはもう扇情的な恰好をしているのだから。
 若干水着のサイズが小さいせいなのか、ふくよかなバストの大部分がはみ出してしまっているし、白い肌に布地が食い込んでしまっている。
 下も下ですごいことになっている。それはもう目を逸らすことが出来ないほどに。眼福である。
 ヴェンツェルは見ていることを隠しもせずに凝視する。脳裏に焼き付けるかのように目を見張るので、アンリエッタが頬を赤らめて体を隠してしまった。

「なに見てんのよっ!」

 刹那。ルイズの飛び蹴りが、不躾な視線を飛ばすヴェンツェルの顔面を捉えた。
 いったい、これを食らうのは何度目だろう。そう考えつつ、彼は海に向かって吹っ飛ばされた。大きな水しぶきが上がる。

「姫さま。やんごとなき身分のあなたが、そんなはしたない恰好をしていてはいけません。とりあえずこれを」

 そう言って、ルイズは侍女から受け取った大きなタオルを差し出した。アンリエッタは渋ったが、ルイズが押し通したので渋々それを体に巻くのである。
 水を吸って重くなった服に苦戦しつつ、ヴェンツェルはなんとか泳いで浜辺まで上がった。
 ぽたぽたと水が滴り落ちる。このままでは風でも引いてしまいかねないので、シャツとズボンを脱ぎ、それを手で搾る。

「なにいきなり脱いでんのよ。あんた露出狂なわけ?」
「きみが海に突き飛ばしたんだろうよ」

 ルイズの言葉に憮然としつつ。そう答え、ヴェンツェルはなおシャツを手で搾ろうとして……アンリエッタの視線が自分の胸部を捉えていることに気がついた。
 胸には決して消えることのない『リーヴスラシル』のルーンが存在感を主張するように刻まれている。
 それは、アルビオンの女王となって以来、何をしているのかすらわからないハーフエルフのティファニアとの唯一の繋がりだ。
 このルーンの意味や刻まれた経緯からして、あまり他人に見られたいものではない。ルイズに気づかれないうちに、大慌てでシャツを着込む。

 そして、なにか言いたげなアンリエッタが口を開く前に。ヴェンツェルは水着に着替えると言ってその場を離れた。


 首から下を覆うタイプのしましま模様の水着に身を包み、ヴェンツェルは浜辺のパラソルの下で座り込んでいた。
 目の前の海岸線では、アンリエッタとルイズが楽しげに水を掛け合って遊んでいる。アンリエッタはタオルを身に付けているせいか、少々動き難そうに見える。
 美少女が戯れる場面というものは実に眺めのいい光景である。目の保養という意味では、これ以上のものはなかなかない。

「暇そうですね」

 頭上から声がかけられる。見ると、なにやらトレーにグラスをのせたアリスがやって来ていた。汗をかいているから、冷たい飲み物なのだろう。
 彼女はそれをヴェンツェルに差し出してくる。礼を言ってそれを受け取ると、アリスは主から少し離れた位置に腰を下ろす。

「平和なものですね。頭上の大陸では内乱が収まっていないというのに……」

 依然として海で水をかけ合ったりボールを飛ばしている少女たちを見て、アリスが小さく呟く。

 確かに、アルビオン大陸では、議会派の勝利後も未だに政権が安定していない。
 原因としては、ウェールズ・テューダー率いる『レコン・キスタ』が大陸の至るところで破壊活動を行っているからだ。治安維持が追いつかないそうである。
 トリステインとも制空権を巡って日常的に小競り合いが起きている有様である。
 現トリステイン王をアルビオンの王座へという声も少なくない。故に両国の関係は改善などされるはずもなく、悪化の一途を辿るだけでしかない。
 もしかしたら、いずれ両国間でよからぬ事態が起きるかもしれない。

 それはヴェンツェルとてよくわかっている。
 だが、そういった政の対策を行うのは大人の役目だ。子供が口を出しても受け入れられないだろうし、面子というものがある。
 もちろん考えることは悪いことではない。しかし、そんなことばかり考えているよりは今出来ることをした方が懸命だとも考える。

「ま……。事が起きれば、なるようになるさ。平和なうちはそれを楽しめばいい」
「能天気ですね」
「ポジティブなだけだよ。考えすぎはよくないからさ」
「なにも考えてないあなたがそれを言いますか」

 どの面でポジティブだなどと言いやがりますか。と、呆れ顔でアリスはヴェンツェルを睨みつける。
 すると、少年はごく真剣な表情になって口を開くのだ。

「考えているさ」
「なにを?」
「たとえば、きみの薄着のトップで微妙に浮き出ている突k……」

 馬鹿な少年の言葉は最後まで出てくることがなかった。耳も頬も真っ赤に染めたアリスが胸を手で押さえながら目潰しを食らわせてきたからだ。
 なんかちょっと前にも似たようなことがあったなぁ……。などと思いつつ、ヴェンツェルは目を押さえて砂浜に倒れこんでしまった。
 そんな間の抜けたコントを繰り広げていると……。

「少し、よろしいでしょうか?」

 目の前に、アンリエッタの姿があった。海から上がってすぐにこの場所へ来たらしい。
 屈んでいるせいか。大きな青い果実が木にぶら下がっているかのように、胸が見事なラインを描いている。ぜひもぐようにがっちりと手を触れてみたいものである。
 さらに、濡れた髪が頬に張り付いていて、若干上気している。なんだか色気があるのだ。
 彼女がなにを言いたいのかわかる気がするのだけども、もう逃げてもしょうがないだろう。

「大丈夫です」

 体を起こしたヴェンツェルがそう返答すると。アンリエッタの視線がアリスを捉えた。

「アリス」
「……はい」

 不満げな顔をしながらも。素直にアリスは立ち上がってこの場から去っていく。彼女はあくまでもメイドでしかない。この席にはいられないと判断したのだろう。
 メイドの足が遠のくのを見て、ヴェンツェルは『サイレント』を詠唱した。

「ヴェンツェル殿。その……ずっと気になっていたのですが。あなたの胸に刻まれているそれは……」
「ええ。お察しの通り、使い魔のルーンです」
「やはり、そうでしたか。でも、いったいどなたに召喚されたのですか? 人を使い魔にするメイジのお話を耳にしたことはありませんわ」
「それは……」

 やはり、言いたくはない。だからといってそれはアンリエッタが信用できないとか、そういう話ではない。
 “記すことすらはばかられる”。
 その意味を十分に吟味できないうちは。まだ、これを他人に知らせるのは時期尚早だと思うのである。

「いえ、その。どうしてもお話できないのであれば無理には聞きませぬ。ただ、いろいろと気になって……」
「すみません」

 ヴェンツェルはただ一言だけ呟く。そうして、その場には沈黙が訪れ……ふと、海の方へ視線を向けたアンリエッタの大声で音が戻ってくる。

「ルイズっ!?」

 つられて少年も海を見れば―――そこでは、巨大な“イカ”によって捕縛される、ルイズ・フランソワーズの姿があるではないか。
 とっさにヴェンツェルは杖を持って海に駆け出す。アンリエッタも侍女の制止を振り切ってそれに続いた。
 道中、やはり驚いた顔のアリスと出くわしたので、「『レーヴァテイン』を持ってきてくれ」と頼んでおく。あくまでも保険ではあるが。

 だんだんと、近づくほどに、禍々しい巨体は視界を覆いつくしていく。うねうねとした無数の触手がむやみやたらにうごめいていて気持ちが悪い。

「これは……クラーケンですわ」

 怪物を見上げながら、アンリエッタが呟いた。
 クラーケンというのは、海に出没する魔物であるといわれている。一般的には、多足類の中でも異常に巨大なタコやイカなどの総称として使われている。
 哀れ、ルイズはそんな巨大イカの足に捕らわれてしまっているではないか。体を締め付けられているせいか、苦しそうに息を乱し、頬を赤らめ……苦しそうだ。
 ヴェンツェルは『エア・ハンマー』でイカの足を吹き飛ばそうとしたが、相手はあまりにも巨大。まったく歯が立たなかった。
 と、そんなとき。
 イカの足が伸びてきたではないか。ヴェンツェルは『エア・シールド』でそれを防ぎきったものの、アンリエッタは触手の餌食となってしまう。悲鳴と共に王女が宙へと連れ去られた。
 なんとか足を切ってしまおうと『ブレイド』で切りかかるも、まったく切れない。あっさりと反撃されて弾き飛ばされてしまった。

「くそっ……。『ブレイド』でも切れないのか!」

 この頃になると、大慌てで浜辺で飛び出してきた護衛たちが魔法を放つが、それはまったく歯が立たない。
 狂ったように暴れるイカの足によって、まとめて吹き飛ばされるという有様だった。護衛の名が泣く。
 さて、どうしたものだろうか。魔法はよほど破壊力が無ければ通じないだろうし、そんな魔法は大抵一発撃ったら終わり。それすら通じるか未知数だ。
 そんな博打に打って出ることは出来ない。ならば、どうするか……。

「坊ちゃま!」

 そのときだ。後方からとたとたと走る足音。振り向けば、アリスが『レーヴァテイン』を持ってヴェンツェルの元へとやって来るではないか。

「助かる!」

 剣を受け取り、ヴェンツェルは『レビテーション』で跳躍。アンリエッタを捕らえている足に向かって一気に振り下ろした。
 すると……一瞬だけ足の表面で火花が散り、次の瞬間には足が切断されたではないか。
 これは敵からしてみれば完全に予想外だったのだろうか。どこに声帯があるのか知らないが、大きな唸り声を発する。
 ほんの刹那の間感じた“違和感”はすぐにヴェンツェルの頭から消え去った。アンリエッタを放り、飛んできたイカの足を切り飛ばす。
 王女はアリスの『レビテーション』によってゆっくりと落下し、確保された。

「この化け物がっ!」

 『レビテーション』を唱えたまま、ひたすら黄金色の剣でクラーケンの足を切り落としていく。
 そのうちにルイズのいる場所まで近づく。かなり強い力が込められているのか、本当にルイズは苦痛に耐えているらしかった。
 このままではよろしくないだろう。浮かび続けたまま、ヴェンツェルはまた一本足を切り落とす。

 そして、通算で二十本ほどになるであろう頃。ついにルイズを捕縛していた足を切断することに成功した。
 本体から切り離されて力を失った足からルイズを引き離して抱きかかえた。足が負ってこないうちに、『フライ』で一気に上空へと飛び上がる。

 次の瞬間、『遍在』した六人のアリスが『カッター・トルネード』を詠唱。六人分の真空の刃がイカの体を包み込んで散々に痛めつける。
 やはり、スクウェアメイジの戦闘力は、それ未満のものとは段違いであるらしいということがわかった瞬間であった。

「……ん」
「起きたかい」

 傷つき、とうとう逃げ出したイカを空中で眺めていると……。ルイズが目を覚ましたらしい。ぼうっとした表情で見つめてくる。
 しかし。やがて、自分の置かれた状況に気がついたらしい。見る見るうちに顔が真っ赤に染まっていく。

「あ、あんた! どこ触ってるのよ!」
「いや、空だし。仕方ないだろう」
「し、ししし仕方ないってなによ! こらっ、肘をどかしなさい!」

 じたばたと暴れ出すルイズを、ヴェンツェルはなんとかして支えようとする。しかし、杖と剣を持った状態ではなかなかにきついものがある。
 地上へ向かう間、ヴェンツェルはさんざんに顔を引っ掻かれるわ、腕に噛み付かれるわでとても痛い思いをする羽目となった。

 そして、やっと地上へついたと思ったとき―――彼には、杖を持った桃色悪魔による、もっと過酷な運命が待ち受けているのであった。



 *



 無数に輝く星空の下。体中傷だらけのヴェンツェルは、トリステイン王家の別荘の屋上で天を仰いでいた。

 この場所へ来たのは、実はもう二日前のことである。

 クラーケンとの戦いのあと、それはもう般若のような形相を浮かべて切れまくったルイズに追い掛け回され、最後に爆発させられたあとのことはまったく覚えていない。
 おかげで、今までほとんど寝たきりという散々なバカンスとなってしまった。

 今日も今日とて双月は大きく明るい。そろそろ寝るか……とヴェンツェルが屋上のベンチから立ち去ろうとすると。背後からルイズがやって来た。

「おや」
「……」

 彼女は黙ったまま少し離れた場所に腰かける。やっぱり憮然とした表情のまま、しばらくそのまま座り込み続けた。

「すっかり頭から飛んでたけど。あんたにはあのお化けイカから助けてもらったのよね。礼を言うわ」

 ずいぶんと長い沈黙のあと、ルイズはついに口を開く。しかし、相変わらず憮然とした顔である。

「まあ……。いいよ。戦いでなく、そのあとに怪我したけど」
「……な! そ、それは、あんたが悪いんじゃない! いやらしいことをするから!」
「あれは人命救助だ。そんなことを気にしていたら始まらないよ」
「なによ。人命救助で、ひ、人の、ま、まま股の辺りを触る必要があるの?」
「……」

 無言である。ヴェンツェル、そろそろと逃げ出す準備をする。そのときのことを思い出したのか。ぴくぴくと頬を引きつらせつつ、ルイズは杖を構える。

「神に誓って故意ではない。だが、言い訳もしない。それが僕の生きる道だ」

 背中を丸めて逃走を図ろうとしているにも関わらず。少年は実にきりっとした精悍な表情で言い放った。
 もちろん、そんな方便が目の前の少女に通じるわけもなく―――

 それが、彼が最期に発した言葉となった。





[17375] 第十二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:83faa7a9
Date: 2010/11/10 11:18
 夏の終わり。

 トリステイン王国内陸部、ラ・ロシェール。
 その市街地は、かつて土のスクウェアメイジたちが石を切り出して作られた。その中心部には巨大な世界樹の遺骸が存在し、それは港として利用されている。

 内陸部であるこの町がなぜ港として利用されているのか。それは、この世界の船が空を飛ぶことが出来るからだ。
 『風石』という浮力を生み出すことの出来る魔法石がそれを可能としている。
 風石の力により浮かび上がる空中大陸アルビオンなどの存在によって、この世界の通運は地球のそれとはまた違った方向で発展している。
 もっとも、それによって陸運や海運が廃れたわけではない。あくまでも双方の手段が併用されているのであった。

 市街地の中央―――世界樹の枯れ木は、中身をくりぬかれ、大きな枝にはたくさんの空飛ぶ船が係留されている。
 見上げると首が痛くなりそうなほどの高さのある木の根元。とあるがたいの良い金髪の男が滑車で荷物を運んでいた。

「おーい、クロード! どうだい? 進んでるか」
「ああ、まあまあだな。これを運び終えたら今日の分は終わりだ」

 男たちは声を掛け合いながら、世界樹の入り口へ向かって歩いて行く。
 相も変わらず巨大な木ではあったが、それは見慣れた男たちにとってはもう飽き飽きとした光景とも言える。なんの変化もなく、なんの感傷もない。
 だが、その日は違った。
 男は、枯れ果てた命の陰も姿も無い木の幹に、一つの新芽……新しい命を見つけたのである。

「見てみろよ。ここに新しい芽が生えてるぜ!」
「お、本当だな」

 男たちの眼前には。干からびた木の肌から、懸命に芽を伸ばす小さな若葉があった。

「本当に珍しい。もうここは十年になるが……。この木に葉っぱが生えてるのなんて初めてみたぜ」
「“ユグドラシル”だなんて言っても、今じゃただの枯れ木だもんなぁ。中もすっからかんだしよ」

 男たちは特に気にしたふうでもなく、ただ己の仕事をまっとうするために歩き出した。彼らにとっては、枯れ木の新芽よりも自分の仕事の方が大事なのだ。
 もちろんそれは当然である。
 ただ、それがこの世界にとってどんな意味を持っているのかということは……去り行く彼らの背中を見送る、小さなリスだけが知るのかもしれない。



 さて。そんなラ・ロシェールを訪れるとある二人組みがいた。

 一人は黒いマントを羽織った金髪の少年。端整な顔立ちの中に、空に浮かぶ双月と同じ青と赤の両目が光っている。見る人が見れば不吉がる“月目”だ。
 もう一人は街娘が着るような軽装の少女。膝の近くまである長い桃色の髪が、歩くたびにぶらぶらと揺れている。道行く者が思わず振り返るほどの、とても見目麗しい少女だ。
 彼らはゆっくりと、時おり会話を交わしつつ石造りの町を抜けていく。

 そして、街の外れにある小洒落たレストラン……『石の兄弟団』亭へと足を踏み入れる。落ち着いた雰囲気の、よく清掃が行き届いた店だ。
 店名は、かつて多くの城や他の建築物に携わった土のメイジ、『偉大な石工』ことマイスター・ストランゼンの所属していたギルドが由来なのだと店の入り口に記載されていた。
 とりあえず、二人はあまり目立たない奥の席へ腰掛けた。そして、注文を取りにきたボーイへと一言二言伝える。

「いい雰囲気のお店ですね。ヴェンツェル」

 桃髪の少女……ラ・ヴァリエール公爵夫人カリーヌは店内を見回しながら呟く。それに、ヴェンツェルと呼ばれた少年は頷いた。
 カリーヌは夫であるラ・ヴァリエール公爵には適当な理由を告げてこの場に来ている。
 ちなみに。カリーヌは重病ということにして、もうしばらく社交の場へは出ておらず、今後も出る予定はないそうだった。

 しばらく待っていると料理が運ばれてくる。トリュフやフォアグラといった高級食材をふんだんに使った、なかなか値が張る一品だ。平民ではまったく手が出ない代物だろう。
 貿易都市であるラ・ロシェールは、それこそ様々な地方から様々な物品が船に乗って運ばれてくる。そうした珍味の大半は、ほとんどすべてが貴族たちの胃袋に消えるが……。
 二人で食事を取りつつ。ヴェンツェルは窓から見える天へと突き出さんと伸びる巨木へ視線を向けていた。
 すると……、目の前の席に座るカリーヌが、機嫌を損ねたとでも言いたげに、目を半眼にし、頬をぷくっと膨らませる。なんだか怒っているようだった。

「せっかくのお食事なのです。木ばかり見ていないで、きちんと食べましょう?」
「……あ、うん。ごめん」

 特に意味もなくぼうっとしていたヴェンツェルは、その言葉を受けて反省したかのようにばつの悪そうな表情となる。
そして、食事を再開するのであった。









 ●第十二話「夏の終わりに」









 『石の兄弟団』亭での食事を終えた二人は、しばらく市街地を回ったあと、近隣のタルブ村へ足を運んでみることにした。
 ワインの名産地だからとか、綺麗な草原があるからだとか―――理由はいくらかあったが、一番はかつてヘスティアが告げてきた一言だった。
 「タルブで珍しいものを見つけたわ」という、なんだか胡散臭い言葉である。
 もっとも、その言葉を聞かずしても、ヴェンツェルはタルブになにがあるのかくらい知っている。なんとなく、二人でゆっくりと田舎を回るコースに含めただけなのだ。

 タルブの村そのものは、どこにでもあるような田舎の集落といった第一印象であった。
 カリーヌはもともと田舎育ちだからなのか、それほど違和感を持っているわけではないらしい。ただ、なぜこのような場所に来たのか疑問には思っているようだ。

「おや。これはこれは、貴族の方々がこんな田舎の村を訪れるとは珍しい」

 勝手に村へ入って歩いていると。黒髪の中年親父がヴェンツェルたちの前に進み出てくる。どこか『魅惑の妖精』亭のスカロンを彷彿とさせる風貌だった。
 正直に身分を告げるべきか迷ったが……カリーヌと一緒である以上、万が一ということも考えて身分は明かさないでおくべきだと考える。

「……ああ、ちょっとした小旅行の道中でね。風の噂でなにやら珍しいものがあると聞いて、たまたま立ち寄らせてもらった」
「それはそれは。珍しいもの……それはひょっとすると『竜の羽衣』ですか?」
「ああ、そんなところだ。よかったら、誰か案内を頼める人はいるかな」

 なんだか胡散臭そうなものを見るような視線ではあるが。相手が貴族であることは疑いようがないのだろう。
 男性は頷いたあと会釈し、二人を置いてどこかへと去っていく。よく見れば、彼の向かう先にはそこそこの大きさの家屋がある。
 彼の一家は村でそれなりの地位にいるのだろうか?
 カリーヌは、こんな辺鄙な村になにがあるのか考えているようだ。思案顔も可愛らしい。

 しばらくの後。男性がやがて戻って来たときには、隣に一人の少女を連れてきていた。きっと、彼の娘なのだろう。
 黒い髪におかっぱ頭。顔にそばかすが浮いた彼女は、魔法学院でも見たような気がする。たしか……。

「わたしの娘のシエスタです」
「ええと……、ミスタ・クルデンホルフ、でしたよね? お噂は兼がね伺っております」

 やはりというか、予想通りというか。少女は魔法学院でたまに見かけるメイド、シエスタだった。
 しかしながら、夏の休暇中であるためか、今日は質素な服に身を包んでいる。
 肩口で切り揃えられたまっすぐな黒い髪といい、若干低めな鼻といい、そばかすのある顔といい。どこか日本人的な要素を窺わせているような気がする。
 顔の作りそのものは根本部分で違っているので、それは気のせいなのだろうが。
 ちなみに。学院では『貴族様』として振る舞っているヴェンツェルは、この人物ともまったく接点がなかった。
 それはそうかもしれない。せいぜい、食事のときや暇でぶらぶらしているときに、少し姿を見かけるくらいであったか。
 しかし、噂とはいったいなんだろう。あまり良いものではないということはすぐわかるが……。
 今は特に気にすることでもない。そう結論付ける。

「この子に『竜の羽衣』までご案内させます。……頼むぞ、粗相のないように」
「は、はい」

 若干緊張気味なのか。
 父の言葉に、シエスタは大げさな仕草で頷くと、ヴェンツェルとカリーヌを連れて『竜の羽衣』のあるであろう場所を目指して歩き始めるのであった。
 ふとヴェンツェルは周囲から視線を感じる。なので、辺りを見回してみると……。
 あっという間に、村中へ貴族がやって来たことが広まったらしい。物珍しげに子供たちが遠巻きに視線を飛ばしてきていた。
 そして、その中には何人か黒髪の子供がいる。きっとシエスタの家族なのだろう。


「ミスタ・クルデンホルフと……ええと」
「マイヤールです」
「あ、はい。ありがとうございます。その、お二人は『竜の羽衣』をご覧になるためにこの村へお越しになられたのですか?」

 しばらく歩いたころ。前を向いたままシエスタはそんなことを尋ねてみる、
 彼女は、奉公先のトリステイン魔法学院でヴェンツェルの姿を目撃したことがある。
 なんでも彼は幼少の身ながら、先のガリアとの戦争で敵の大元帥を捕縛するという戦果を挙げ、『シュヴァリエ』を拝領したそうだ。
 そのことを知ったのは、学院で働き始めた四ヶ月ほど前のことで、それ以前は知る由もなかった。
 そんな人物が、どうしたのかわからないけども、綺麗な少女を連れてこのタルブを訪れている。なんだか不思議なものである。
 しかし、あの少女は誰なのだろう?
 ラ・ヴァリエール公爵家のご令嬢かとも思ったが、どうにも雰囲気が違う。シエスタが学院でよく目撃するあの人間とは別人のようだった。
 だが、そう他人のことを詮索しても仕方がないだろう。特に彼らは貴族なのだ。と、シエスタはそこで思考を打ち切る。

「そうだ。昔、知り合いがこの村を訪れたことがあったらしくてね。なかなか面白いものを見つけた、と言っていたのを思い出したんだ」
「なるほど。そうだったんですね。でも、面白いかどうかは……」
「こう言っちゃなんだけど、結構な変わり者だったからね。紅い髪の女の子なんだけど、見覚えはあるかい?」
「あ、はい。そういえば……。弟や近所の子供たちがよくなついていましたよ。ミスタ・クルデンホルフのお知り合いだったのですね」
「知り合い、か……。ああ、そんなところかな」

 問いに答え、そのまま少しシエスタと話していると……。
 ぎゅう。
 その瞬間、ヴェンツェルは己の太ももが何者かによってつねられる感覚を覚えた。
 見れば……隣で並んで歩くカリーヌが、頬を膨らませて睨んでくる。ただ、それはまったく恐怖感を覚えるようなものではない。拗ねた子供のようにどこか微笑ましいという類いのものだ。
 先ほどから放っておいたまま、彼女にかまってやらなかったせいなのだろう。
 解決策がこれといって思いつかないので、とりあえず頭を撫でてみる。ふんわりとしていて、それでいてさらさらの感触が手に伝わってくる。
 ……それで機嫌がすぐに直るということはなかったが、彼女がそれ以上不満を表すことはなかった。

 『竜の羽衣』は、村の外れに建てられた大きな木造の倉庫のような建物の内部に鎮座していた。
 予想通りにそれは旧日本海軍が使用していた『零式艦上戦闘機』ことゼロ戦であるようだった。しかし、その細かい仕様まではヴェンツェルにわかるはずもない。
 機体に『五二乙』と書かれているようだが……。今さらながら、そういった軍事に関する知識がほしいものだと思うわけである。

「また変わったものですね。なんなのでしょう?」

 カリーヌは眼前に鎮座する飛行機をに手を触れながら、とても奇妙なものを見る目で呟く。
 一方で、ヴェンツェルは機体の周囲を見回している。もう半世紀以上昔の飛行機であるのだが、機体にかけられた『固定化』のおかげで、まったく劣化した様子がない。
 そんなふうに、熱心な眼差しで観察していると。少し気後れしつつも、シエスタが口を開いた。

「それは曾祖父の持ち物だったんです。『竜の羽衣』だなんて言ってますけど、なにも出来はしないんです。燃料さえあれば、絶対に飛べるんだって本人は言い張ってましたけど……」
「飛ぶ? これがですか?」
「はい。なんでも曾祖父はこれに乗って『東方』から来たとか。おかしな話ですよね、これで砂漠を越えてきたなんて。そんなことが出来るわけもないのに……」

 カリーヌの問いに、自嘲染みた笑顔で答えるシエスタ。彼女自身、この物体が空を飛ぶ光景をなど見たことがないのだろう。
 飛行機を空へ飛ばすためには、当然ながらエンジンを動かすための燃料が必要となる。
 原油はハルケギニアでも古来から存在を確認されてはいるのであるが、近代的な精製技術はまだない。恐らくは需要がないからだろう。
 技術がなければ金もない。トリステインの片田舎で、平民として生活することを余儀なくされたこの機体のパイロットは、ついぞ燃料を手にすることが出来なかったのだ。
 そして……。
 今生では手を伸ばしても届くことのないはずだった、日本の飛行機が目の前に存在する事実。興味があるといえばあるにはある。
 しかし、飛行機の操縦など、訓練を受けていなければ『ガンダールヴ』ですらないヴェンツェルには、土台無理な話なのである。諦める他ない。

 実際の話、この場所に来たのはゼロ戦を見るのとは別の意味もあったが―――これといって変わったところも見受けられないので、それは特に気にする必要もなかった。

 ―――しばらくの後。
 建物の外へ出てみると。ずいぶんと長居していたらしく、既に太陽がかなり高度を下げている。もうそう遠くなく日が暮れそうだった。

「もう、ラ・ロシェールで宿を探している暇は無さそうだな」
「困りましたね」

 うっかりである。本来ならば寝床くらい事前に用意するべきなのだが、今日に限っては完全に失念していたのだ。完全にヴェンツェルの失態だと言えるだろう。
 まったく情けないことに、二人して困ったふうに顔を見合わせていると……。
 そんな様子を見かねたのか、シエスタがヴェンツェルとカリーヌへ声をかけてくる。

「あの……もし宿がないのなら、この村に一泊されていかれてはいかがですか?」
「それはありがたいけど……。いいのか?」
「はい。父と話してみます」
「……そっか。じゃあ、お願いするよ」

 考えてもみない提案だった。今まで話したことはなかったのだけれど、彼女は親切ないい子じゃないかと思うのだ。
 ふと、カリーヌの反応を見てみる。平民の家に泊めてもらうなど、反対するかもしれないと感じたが……。彼女は嫌な顔の一つもしなかった。
 ハルケギニア、とりわけこの国の貴族はプライドがやたらと高いのだが。いったいどうしてだろう。

「いいのかい? こう言っちゃなんだけど、平民の家だ」
「ええ。場所は気にしません。だって……」

 これから吐き出す台詞のためか。カリーヌは己の雪原のような頬を朱に染めて、もじもじと指を突き合わせながら囁いてくるのである。

「久々に、こうしてあなたと一緒にいられるんですもの……」

 上目使いで、全身で羞じらいを見せながら、そんなことを告げてくるのである。これはたまらない。砂糖より甘い人工甘味料のアスパルテームを鼻から噴き出しそうになった。
 今すぐ押し倒したくなったが……。青空の下では避けるべきだろう。シエスタだけでなく、他人の視線があるからだ。
 断じて外でそういうことをする趣味があるといかではないのである。信じてもいない始祖に誓ってそうなのである。



 ―――あの後、シエスタに掛け合ってもらい、二人は無事に彼女の家へ泊めてもらえることとなった。

 家長であるシエスタの父は、ヴェンツェルが己がクルデンホルフの人間であることを告げると、大層驚いていた。危うく失神しかけるところだったそうだ。
 そして……。しばらく他愛のない談笑に興じた後、彼は少々気になることを口にした。
 「昔、きっとあなたの祖父に当たる方だろうか。この村を訪れて、わたしの祖父となにやら話していました。『竜の羽衣』も見に行っていたようです」と。
 なんと。もう何年も前に、ヴェンツェルの祖父が、一ヶ月ほどこの村に滞在していたのだというのである。
 それは果たしてなにを意味するのか。……いや、単に勝手気ままに放浪している最中に立ち寄ったのだろう。そういう人なのだ。
 思わぬ縁の連続に、少年はただ「偶然ってあるのだなぁ」とため息を吐くのであった。

 夕食は、タルブ村の村長が招いてくれた。タルブの領主であるアストン伯爵の領地外から貴族が訪れるのは、もう先代のクルデンホルフ大公以来だそうなのだ。ちょっとしたお祭り騒ぎであった。

 そして、もう日がすっかり暮れたころ。

 村の外れ―――青く柔らかな草原の上に、ヴェンツェルとカリーヌは腰を下ろしていた。
 かつてのような、自分が生んだ娘のような細い体つきのカリーヌは、そっと自らの体を隣の少年に預ける。月明かりに照らされた彼女の姿はどこか神秘的だ。

 今回、二人はトリステイン国内でちょっとした小旅行を行っていたのである。
 なんだかんだ言って、なかなか会うタイミングを逸していたので、そろそろ魔法学院が始まってしまう、このタイミングを選ぶ他なかったのだ。
 だからなのか。
 カリーヌはより濃密な時間を求めた。あるいは、それは麻薬のように厄介な中毒症状なのかもしれない。
 今となってはもう、隣の少年に抱き締められるだけで心がとろけそうになる。
 こうなったきっかけを再考してみれば、もう彼女の頭のなかはめちゃくちゃになってしまう。思い出せば、それだけで体が火照ってしまうくらい、あまりに鮮明で強烈な記憶だ。
 なんと表現すべきであろうか。とにかく、“相性”がいいのだ。それは夫と肌を重ね合わせるよりもずっと、である。
 今の姿になってから、何度夫に求められたことであろうか。厄介なことにあの中年は、娘たちには厳格な態度を取り繕っておきながら、その実下半身はまだまだやんちゃ坊主なのだ。
 しかしながら、彼女はその幾度もの夜の中で、一度として達することはなかった。
 ただただ耐えるだけ。不愉快なだけだったのである。娘たちには申し訳ないと思うのだが、もうあの夫は見捨てるべきかもしれない。
 そう思うほど、それほどまでにカリーヌはヴェンツェルへ依存することとなっていたのである。
 あえて言うならば、こうした依存心をさらに加速させた要因は、半ば強引に望まない関係を迫った夫にもあるのかもしれない。
 いずれにせよ、こうして身を寄せる少年と共にいることが出来るこの時間は、彼女にとって非常に重要なものだった。

 そんな悩める人妻の気持ちを知ってか知らずか。ヴェンツェルはぼうっと地平線へ沈み行く太陽ばかり眺めている。
 なにかを思い出しているらしい。直感的に、それが他の女のことであることを見抜いたカリーヌは、やや刺々しい口調で少年に問いかける。

「……アンリエッタ姫? それともルイズ? 先日、三人でオーステンデへ出掛けたのですよね」

 そう。ヴェンツェルは先日、アンリエッタ発案のバカンスに同行していたのである。
 妙なイカに襲われるわ、ルイズに暴行を受けるわと散々なバカンスであった。もっとも、アンリエッタ姫のビキニ姿を見られるという収穫があった。
 更には二度目の『爆発』で自分の服まで吹っ飛ばしてしまったルイズの……いや、思い出すべきではない。そう思わざるを得ないほどの制裁を受けたのである。
 なんにせよ、カリーヌの言葉でヴェンツェルはそういった記憶を呼び起こされたのである。
 ただ、直前まで彼が考えていたのはその二人のことではなかった。無論、カリーヌでもない。それがわかるから、カリーヌは嫉妬心を剥き出しにしているのだ。

「いや。ヘスティアって子のことさ」
「……誰ですか?」
「そうだな。彼女は、あえて言えなら僕の家族“だった”。きみに修行をしてもらうことになったきっかけが……」

 そこまで話したところで、唐突にヴェンツェルの口が塞がってしまう。視線を微動だにしないまま、彼はただ沈黙した。
 カリーヌはそこまで鈍感ではない。「家族だった」という言葉に秘められた意味を、すぐに理解する。
 きっと、自分とヴェンツェルがこういった関係に堕ちる理由の発端となった出来事が、そのヘスティアという見たことのない人物に関連して起きたのだろう。
 しばらく、お互いに黙りこくる。しかしカリーヌの視線は目の前の少年を捉えて放さない。
 ……やがて、彼女が口を開いた。

「寂しいのですね」

 一瞬の間。しかし、それはかえって無限の長さを持った時間のようにも感じられる。……やがて、ヴェンツェルが口を開いた。

「……そうかも、しれない」

 ヘスティアという存在を失ったことの大きさは、ヴェンツェル自身が考えていたよりもずっと大きいようだった。
 それがどうしてなのか。わからない。ただ、彼の心の奥底にある『なにか』がひたすらに、抑えがたいほどに悲しみを増幅させているのである。
 まるで、かつて味わった苦しみと悲しみが再来したかのように。“それ”を知っている、己のどこかの部分が悲痛な叫びを上げるかのように。
 今まで考えないようにしてきたというのに、今になって雪崩をうったように感情が染み出してくるのだ。

 そんなヴェンツェルの様子を見て。カリーヌはどうしようもなく物悲しくなり、そして己の行動を恥じた。
 確かに自分の精神状態はずっと不安定だったかもしれない。しかし、だからといって親子ほども歳の離れた子供に一方的に依存する関係は、果たして正しかったのだろうか?
 表面上、何事もないような―――自分を受け止めてくれていた存在は、その実、大きな“ひび割れ”を抱えていたのである。
 それに気がついてあげられなかった。きっと、誰かに甘えたいだろうに。きっと、誰か心を許せる人間の元で弱さを見せたかっただろうに。
 そう考えるのと同時。彼を受け止めることが出来るのは、自分だけなのだという想いが湧き出してくる。

 ―――求めるだけでは駄目だわ。受け止めてあげないと……。あの子には、それが出来ていたはず。……負けたくない。

 感情によって、今にも崩れ落ちそうな少年を見て。カリーヌは迷いを断ち切って、ただ一つの決心をした。

「ヴェンツェル。もう我慢しなくてもいのです。ここにはわたしだけ―――わたしが全部受け止めてあげます……。だから……」

 そう告げ、力の無くなった少年の体を抱き寄せる。小さくなった身体では、年頃の男性の体はなかなかに圧迫感がある。しかし、それでもやめることはない。
 どうしようもなく貧しい胸で抱え込む。少年が会う度にそうしてくれるように、頭を撫でてやる。ゆっくりと、かつて己の娘たちにしたように。
 端から見ていれば、どうしようもなくちぐはぐな光景だった。
 なにせ、いい歳の少年が明らかに年下であろう少女の胸に顔を埋め、背中や頭を撫でられながら慰められているようにしか見えないのだから。

 それでも、外聞などもうどうでもよかった。

 『落ち着ける場所』を得たヴェンツェルは、そのまましばらくカリーヌに抱かれ……。その胸元を、涙で濡らすのだった。



 *



 タルブの村で、ヴェンツェルがカリーヌの腕に抱かれているころ。トリスタニアの王城はアンリエッタの私室。

 椅子に腰掛け、この部屋の主がとある書類に目を通している。それは、つい先日のバカンスの後、家臣に命じて調べさせたものだった。

「……やはり、クラーケンは『先住魔法』を使う……。海の魔物と言われるだけはありますね」

 己の予感が的中したことに若干の戦慄を覚えつつも。王女は報告書へ再び視線を落とす。
 先住魔法。それは、貴族たちが使う系統魔法とは違い、主に亜人―――エルフや翼人、吸血鬼などが使う不可思議な魔法のことである。
 一説には、先住魔法と系統魔法は、発動する際の力の行使に関わる事象に大きな差違が存在しているらしいのだが。まだ詳しくはわからない、とのことだ。
 ただ一つ確実なのは……。先住魔法は、メイジたちの系統魔法よりも圧倒的に強力である場合が多い、ということだった。

 事実、先日遭遇したクラーケンは何かの先住魔法を使っていたらしく、こちらの魔法がまったく通じなかった。
 仮にも王族と大貴族の護衛を務めるメイジだ。トライアングルクラスは当たり前だし、スクウェアクラスのメイジとて少なくない数が動員されていた。
 それらがまるで戦力にならなかったというのに。
 どういうわけか、ヴェンツェルの剣によるー攻撃だけが先住魔法を貫通し、クラーケンの足を切断したのである。

「わかりませんわ……」

 おかしい。ヴェンツェルは少々変わっていて、風と土の系統が得意であるらしいのだが、なぜかあの剣は炎をまとっていた。
 あまつさえ、それがたった一瞬だけ火花を起こしただけで、降り下ろしただけで先住魔法を破壊したのだ。
 もしかしたら、あの剣には先住魔法が付加されていて、その効果なのかもしれない。
 なにせ、ヴェンツェル自身の系統魔法はまったく効いていなかったのだから。

 そこまで考えたところで、彼女は猛烈に眠くなった。訳のわからないことを考えていれば、それは体力を消耗するのだろう。
 アンリエッタは報告書を机の引き出しにしまい、自らのベッドへ身を横たえる。

 思い出されるのは。先日、クラーケンに囚われた自分やルイズを助けるために突撃してきてくれた少年の姿だった。
 ギーシュも似たようなことはしていたが……。相手が違う。
 聞けば、トリスタニアに迫るガリア艦隊の旗艦に乗り込み、敵を撤退させるきっかけの一部を担っていたのはヴェンツェルだというではないか。
 自分だけではない。何万という命が何度救われたか。
 そして先住魔法を使う怪物との戦いに打ち勝ち、見事に自分たちを取り戻す活躍。

 それだけのことをギーシュに出来ただろうか?
 ……否。不可能だろう。

 アンリエッタに見る目が無かったといえばそれだけだろう。ただ、あの肥満児がこれだけ成長するなどとは、誰も思うはずがなかった。
 ハルケギニアにはまだまだ戦乱の火種が燻っている。それが一気に大きな燃え盛る炎となったとき、彼はどうするのだろうか。
 ……いや、今はまだそんなことを考える必要もない。
 どこかに嫁ぐか、あるいは適当な婿を取らされるか。それまでのわずかな、与えられた自由な時間を精一杯楽しめばいい。

 もうすぐ再開される魔法学院での生活に心踊らせながら。鳥籠の姫は、ゆっくりと眠りにつくのであった。





[17375] 第十三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fa3c80ef
Date: 2010/11/11 19:08
 長かった夏期休暇も終わり、トリステイン魔法学院では授業が再開されていた。

 休暇明けということもあってか。
 一時期はかなりたるんだ様子の生徒が多くみられたものの。新学期が始まってから一週間も経つと、それは随分と解消されるようになっていた。
 もっとも、様子が変わったのはただ学院の雰囲気に慣れてきたというだけの事ではあるのだが。

 その日、ヴェンツェルは休み明け最初となるミスタ・コルベールの授業を受けていた。
 彼は『火』の教科を受け持つ教員で、本人も火のトライアングルメイジである。
 教室の黒板の前でいつも一生懸命に『火』の系統魔法の素晴らしさを入念に伝えようと奮闘している。しかしながら、その情熱はやや空回り気味ではあるが……。
 なにが彼を突き動かすのだろう。それは今一わからないが、きっと彼なりのポリシーに沿って行動しているのであろう。

 授業が終わると、隣で退屈そうに頬杖をついていたギムリが大きく体を伸ばした。それと同時に大あくびをかます。
 ギムリは結構ガタいが良い。どちらかといえば肉体派といえる存在で、座学はほとんどの科目でこんな有り様だった。
 例外があるとすれば、それは若い女性が担任の授業である。
 彼を現金だなどとは言ってはいけない。禿頭のおっさんと美人な若い女性なら後者を取るのが当たり前なのである。

「まったく、あの人は火の魔法のことがよっぽど好きなんだな」
「ああ。禿げてるしな。あれで妻子持ちってのが信じられないぜ」
「禿げてるのは関……なんだって?」

 何気なく呟かれた一言に、ヴェンツェルは思わず自分の耳を疑ってしまう。
 たしか思い出せる限り、ジャン・コルベールという人物は独身であったはずではないのか。
 当年とって四十二歳という年齢を鑑みれば、とっくに結婚していても決しておかしくはない。
 ……おかしくはないのだが、あの人に限ってそれはないという考えが。

 コルベールは研究ばかりしていて、異臭騒ぎで教員寮を追い出されるくらいの変人ではないか。いったいどこの変わり者がと思うわけである。

「おれも直接見た訳じゃないんだが……。なんでも、奥さんはかなりの美人さんらしいぜ」
「むむ……」

 これはいよいよ気になる。気になるからには確かめてみたい。ヴェンツェルはそう思い立った。

「よし。さっそく確かめに行こう」
「そうこなくっちゃ」

 ギムリも同意し、二人は勢いよく教室を飛び出そうとする。神速の勢いである。彼らは美人と聞けば目がない、立派な思春期男児なのであった。
 だが。そんな彼らの襟首が、何者かによってがっちりと掴まれた。首が絞まり、二人は情けないうめき声を上げる。
 殺す気か。怒りに身を任せ、後ろを振り向けば……そこでは、呆れ顔のレイナールが困った様子で立ち尽くしているではないか。

「なに言ってるんだ。今日はまだこれから『水』系統の授業があるだろう」
「ミス・リジューはなかなか美人ではあるが、残念ながら性格がキツすぎる。おれの好みではないな」
「そうだな。水魔法は苦手だし。という訳で、探索に出よう」
「二人とも真面目にやれよ! 特にヴェンツェル! 苦手なんだったらなおさら出ないとまずいだろ!」

 ヴェンツェルとギムリがあまりにふざけた態度を見せるので、ついにレイナールが切れた。杖を取り出すと、風のロープで二人を拘束してしまったではないか。

「やめろレイナール! おれは男に縛られて喜ぶ趣味はない!」
「そりゃぼくだってそうだ。冗談じゃないよ。いいから、さっさと次の教室に行こう」

 ギムリの抗議も空しく、レイナールは杖を持ったままずるずるとヴェンツェルたちを引きずっていく。
 当然抵抗はするのだが、それはまったくと言っていいほど効果がなかった。

 哀れ、彼らのまだ見ぬ美人をお目にかけるという野望は決して実らなくなってしまったのである。
 そして、そんな光景を、栗毛と赤髪の少女たち―――アンリエッタとキュルケが並んで眺めていた。どちらもかなり呆れているようだ。

「まるで、出来の悪い喜劇でも見ているようだわ」

 長い髪をかきあげながら、ぼそっとキュルケが呟いた一言に、アンリエッタは苦笑いを浮かべながら頷くしかないのであった。









 ●第十三話「秋の知らせ」









 魔法学院での授業が再開されてから随分と経った、ラドの月はエオローの週。

 この頃になると、季節はいよいよ冬へと向かい始める。少し前までの暑さは成りを潜め、深夜早朝がわりかし冷えるようになってきていた。
 それでも、昼間はまだ暖かいときもあったりするのではあるが。
 入学早々にいくらか揉め事はあったものの。今ではこれといったトラブルも起きず、生徒たちは各々で学生生活を楽しんでいた。
 刻一刻と艦隊の再建が進むアルビオン共和国のことなど、今の彼らにとってはまったく埒外の事でしかなかったのである。

 そんな中。

 ヴェンツェルは、急遽授業を担当したミスタ・オスマンの『土』の授業で例によってひたすら穴掘りをさせられ、なんだか疲れた様子で学院の渡り廊下をとぼとぼと歩いていた。
 それは隣のレイナールとギムリも同様である。彼らは一様にくたびれ果てているのだ。
 いい加減、穴ばかり掘るのも飽き飽きとするはず。
 本来の担任であったはずのミスタ・セダンは夏の間に体調を崩していたらしい。すっかり痩せ衰えていた彼は、もう今年度の終了を待たずして引退してしまったのだ。
 と、いうことは。
 それは来年度から担当教員が代わるはずの『土』の授業の教員が今年度中に代わることを意味している。
 ただ、それが誰になるのかといえば……。恐らくは、あのミセス・シュヴルーズなのだろう。

「はぁ。疲れたなぁ」
「風呂にでも入りたい気分だね」

 ぽつりと呟いたギムリの言葉に、レイナールがそんな言葉を返す。
 風呂。魔法学院には、きちんと湯の張られた浴槽付きの風呂が存在している。残念なことに男女別で完全に風呂が分けられているのだが……。
 先達の中には、果敢にも女風呂を覗こうとした者が数多くいたらしい。
 しかし、そのいずれもが風呂を警護するガーゴイルによって非業の殉職を遂げている。
 半地下の構造の浴場へ侵入することは、事実上不可能だと言われていた。難攻不落の要塞のごとき堅牢さを誇っているのである。
 学院長であるオスマン氏すら立ち入ることは許されない聖域なのだ。

 とまあ。そんな無駄なことを考えつつも、三人は男子風呂へと向かうのであった。


 そして夜。すっかり冷え込むようになったこの季節、この時間帯にはなるべく外へ出たくなくなるものだ。
 ヴェンツェルが、いつものように黄金色の剣『レーヴァテイン』を磨きながら自室でのんびりとしていると。
 こつこつと、何者かがへやの窓を叩く音がするではないか。いったいなんだろうか。

「誰だ?」

 恐らく相手は学院の人間なのであろうが……。
 そう思っていても、警戒を怠ることは出来ない。杖を手にしたままのヴェンツェルは、窓の向こうにいるであろう人物へ問いかける。

「遅くにすみません。わたしです」
「……アンリエッタ殿下?」

 すると聞こえてくるのは。よく聞き慣れた川澄声……ならぬアンリエッタ王女ことヘンリエッタ・ステュアートの御声である。
 カーテンを開けると。そこでは、『レビテーション』で寮塔の窓の高さまで上って来たであろう栗毛の少女が困ったような顔をしていた。
 どうして男子寮などに一人で、しかも魔法など使って来たのか―――それを考える間もなく、ヴェンツェルは恐るべきことに気がついてしまった。
 なんとアンリエッタ、魔法学院の短いスカートをご着用になられているのである。
 貴族の子女の通う学院の制服。それがどうして、こんなに短いプリーツのついたスカートなのかと疑問に思うほど短い。まずオスマン氏の趣味ではないかと疑うレベルだ。
 何が言いたいのかと言えば。
 それだけ短いスカートで押さえもしていないのならば、下から見上げれば下着が丸見えになるだろう、ということであった。
 そのことを指摘すると、

「え? ……きゃあ!」

 と今まで気がつきもしなかった驚愕の事実に慌て、魔法の制御に支障をきたしてしまったらしい。ふらふらと動きが蛇行し始め―――

「うおっ!」

 無理に姿勢を落ち着かせようとしたのがまずかったのか。そのまま、アンリエッタの体は目の前にあった部屋……ヴェンツェルの元へと突っ込んでしまったのである。
 急接近する顔と顔。これはまずい。少年は大慌てで魔法を唱えようとするが、それはどうも間に合わないと直感的に判断。
 どうにか体をずらそうとしたところにアンリエッタが突っ込んできて、二人は慣性に従ってごろごろと転がる羽目になった。

 まったく災難である。とりあえず起き上がろう。床に仰向けで倒れてしまっていたヴェンツェルは、まず首から上だけを起こそうとして……。
 なにやら、とても柔らかいものに顔がうずまった。

「……んっ」

 いったいなんだこれは。そう思案する暇もなく、なにやら自らの下半身の方から艶かしい声が聞こえてくるのだ。
 そこで、彼はようやく自分の上に何かが覆いかぶさっていることに気がつく。でそれが何なのか確かめるために、伸ばした手を適当なところでさまよわせる。
 すると……その手が、なにやら柔らかいくせに妙に弾力のある、暖かい物体に触れたではないか。

「あっ……」

 再びため息のような、どこか熱っぽい声。そこでようやく、ヴェンツェルは自分がなにを鷲づかみにしているのか気がつく。それは……。
 大慌てで彼は飛び上がるようにして、アンリエッタの体に触れぬようにしながら自らの体を引き抜いた。

「……」

 お互いに無言だった。
 頬をぽりぽりとかきながら、困った表情で視線をそらすヴェンツェル。
 床でへたれ込んでしまって、体を腕で押さえながら上気した顔を見せるアンリエッタ。
 そんな気まずい状態がしばらく続くかと思われた、その刹那。急に思い出したという風に、アンリエッタが口を開いたではないか。

「あ、その。ルイズが魔法学院の外へ行ってしまったようなので……。その、捜しに行くので、護衛をお願いしようと思ったのですが……」
「……わかりました」

 真っ白な肌は、朱に染まっていると本当に赤く見えるものだ。それは月明かりと小さなランプに照らされたこの部屋の内部でもよくわかる。
 指を合わせてもじもじとしてい仕草などは、本当に様になる。
 しかし、相手が相手なので、可愛いからと言って手出しなどしようものなら。縛り首のまま市中引き回しで、火あぶりの後は首を野晒しにされるだろう。

 なんだか妙な雰囲気のまま、二人はどこかへ消えたというルイズを捜すために、寮塔の窓から部屋を出ることにしたのであった。



 ―――魔法学院の周囲を覆う城壁の外には、見渡す限りの大草原が広がっていた。

 秋の夜風が吹き流れる。草むらに悠然と立つ、少女の長いストロベリー・ブロンドの髪を巻き上げながら、風は世界の彼方へと消えていく。
 彼女は『ゼロ』だった。
 優秀な一族に生まれながら。この国でもっとも力のある公爵家に生まれながら、彼女は『コモン・マジック』一つ満足に扱えずにいた。
 今までどれだけ努力しようとも、彼女の魔法はただ暴発するだけ。それはトリステイン魔法学院に入学し、夏季休暇を経て大分過ぎても同じ。

 自分は本当に才能がないのだろうか?

 そんな考えばかりが脳裏を過ぎる。しかし、そこで諦めていては話にならないのだ。
 ルイズの姉―――カトレアはいつも彼女を励ましてくれていた。たとえお世辞のようなものでも。その期待に答えなくてはならない。
 だから、今日も彼女は美しい草原に巨大な破壊痕を穿つのである。


「こんなところにいたのか」

 幾度も幾度も爆発を繰り返し、ルイズがふらふらと後ろに倒れこもうとしたとき。彼女の細い肩に手を置き、支える人物がいた。

「……なによ、あんた」
「なによとはずいぶんと冷たいもんだな。王女殿下が心配して捜しに来てくれたんだぜ」

 振り向いた先にいたのは。いつもの月目野郎ことヴェンツェルだった。
 その後方では、彼の言葉通りアンリエッタが風に髪をなびかせながら歩み寄って来ている。形の良い眉が下がっていた。

「ルイズ。最近、いつも一人で学院の外まで出ていますよね。一人では危ないですよ。この付近はそれほど治安は悪くありませんが、何が起きるのかはわかりませんから……」
「ごめんなさい、姫さま。でも……わたしの魔法は学院の中で使うと、周りの人に迷惑をかけてしまいます。だから……」

 ルイズの手を取り、アンリエッタは静かに告げる。桃髪の少女はごく素直な態度で謝罪するのだが、ここに来ることはやめたくないらしい。

「……そうやって人の迷惑を考えられるのに、僕は平気で爆破するんだよな。ゲルマニアの成り上がりとやらにはお構いなしなのか?」

 二人の少女のそばで立つヴェンツェルが余計な一言を放つ。
 どこかあざ笑うような言い方だったためか、それを聞いたルイズの顔が途端に怒りで染まる。
 しかし、アンリエッタはそれを制すと、背後で口笛など吹き出した少年を叱咤したではないか。

「ヴェンツェル殿。そのようにからかってはいけませんわ」

 と、真剣な表情で告げてくるのではあるが。ヴェンツェルとしては真実を述べたに過ぎないのだ。
 ルイズは昔からそうである。
 自分の感情が高ぶると、お構いなしにヴェンツェルを爆破してくれるのである。それは初めて出会ったときからまったく変わらない。
 さて。
 そこでふと、目の前のアンリエッタの顔を見つめると。先ほどの出来事を思い出したのか、彼女は顔を赤くして俯いてしまった。
 さすがに直視されると恥ずかしくなってくるらしい。

「……とにかく、今度から夜に出かけるときは、事前にアンリエッタ殿下へ知らせてからにしておくべきだな」
「なんであんたに命令されないといけないのよ」
「命令というか、忠告だな。きみは仮にも公爵家の令嬢だろうよ。もし賊にでもさらわれたら大騒ぎになるぞ。少し考えればわかるだろう」
「わ、わかってるわよ。そんなこと。でも、しょうがないじゃない。他に練習する場所なんてないんだから」

 ルイズはそう言うのであるが。果たして『虚無』の系統に練習は必要なのか。はなはだ疑問である。

 『虚無』の系統の場合、覚醒する条件―――始祖のルビーを身に着けた状態で秘宝に触れねばならないはずだった。
 トリステインの場合は水のルビーと始祖の祈祷書である。しかし、そのいずれもこの場にはない。火のルビーならば存在しているものの……。
 そういえば、アリスが風のルビーらしき宝石を保持していたことを思い出す。どうもアルビオン王から貰ったらしいが、本物かは疑わしいところ。

 ……いずれにせよ。

 まだルイズは覚醒するタイミングではないのだろう。本当に『四の四』が必要ならば、必然的に目覚めがやってくるはずだから。
 だから、ヴェンツェルはいちいち口を出すことでもないと思っていたのである。
 単に説明するのが面倒だとか、色々と疑われたら面倒だとか、そういう理由では決してない。きっとそうなのである。

「……とにかく、だ。何かあってからでは遅い。もしきみの身に何かあったら……お姉さんも悲しむだろう」
「むぅ……」

 カトレアのことだろう。姉のことをを持ち出されては適わない。とうとうルイズは黙って下を向いてしまった。
 一方のアンリエッタはアンリエッタで、何やら考え込むそぶりを見せている。
 やがて、彼女は顔を上げたなにやら思いついたらしく。その美貌が月明かりを受けて、妖しげな雰囲気を醸し出した。

「そうですわ。せっかくですから、ルイズの魔法の練習にはヴェンツェル殿が護衛としてついてはどうでしょう?」

 とまあ、王女殿下は自信満々といった表情で告げてくるのであるが。当の本人たちは一様に嫌な顔をする。

「姫さま。冗談はやめてください。なんでこんなのと」
「そうだね。やるだけ無駄なことに付き合って、貴重な睡眠時間を磨り減らしたくないな。お断りしたい」
「なんですって! わたしだって、あんたなんかお断りよ!」

 また余計な一言を放った少年に向かってついにルイズが切れた。しかし、今回は魔法を使わない。
 夏季休暇の際……。彼女はヴェンツェルを追い掛け回しているときに、失敗魔法で自分の服をばらばらに吹き飛ばしてしまったことがあったのである。
 服がなくなってじろじろ裸を見られるわ、使用人たちが飛んできてもっと恥ずかしい思いをしたとか、ヴェンツェルのマントを奪わなければどうなっていたとか。
 そういうことが思い出されるのである。

 ルイズは黒いニーソックスに包まれた長い脚を思い切り振り上げる。それが向かう先は―――

 男としての命の危険を感じ取ったヴェンツェルはそれをとっさに回避。
 唖然とするアンリエッタの目の前で、クルデンホルフ大公家のまだ見ぬ子供たちの命をかけた追いかけあいが始まった。

 そんな二人の様子を見て。アンリエッタは、小さく呟く。

「……まあ、これなら問題ないでしょう」



 ―――その翌日は虚無の日だった。

 結局のところ。

 ヴェンツェルはアンリエッタの頼みで、朝からルイズの魔法の練習に付き合うことになってしまった。
 これは大変まずい。
 なにせ、今日はカリーヌと会う予定だったのだから。それがお釈迦になってしまったのである。
 急ぎ、トリスタニアには向かうことが出来ない主旨をしたためた手紙を伝書鳩で飛ばしたが……。それで、本当に良かったのか疑問が残る。
 実際には断ることも出来たのだろうが、なんだかアンリエッタの表情が怖かったのだ。

 昨夜の地点よりも魔法学院から離れた場所で、ルイズは魔法の練習を行っている。

 彼女の背後には、地面に横たわって桃髪少女の風で翻るスカートとその中身を鑑賞しているヴェンツェルと、その隣でお茶を飲んでいるアンリエッタの姿があった。
 こうしていると……なんだか、ただピクニックにでも来ているようにしか思えないのである。
 なにせヴェンツェルには虚無の担い手に教えることなんてなかったし、それはアンリエッタもまったく同じことでしかないのだ。
 おかげで、ルイズは二人に観察されながら魔法の練習を行う羽目になってしまったのである。

 昼食はメイドに頼んで用意してもらったものを持ってきていた。パンにさまざまな具材を挟み込んだサンドウィッチのようなものである。
 シートを草むらに敷いて三人は腰掛ける。かなりの量を持ってきたのであるが、それは勢いよく食べていくヴェンツェルによってどんどん消耗されていく。

「あんた……。そんなに食べたら、また太るんじゃないの?」

 両手でパンを抱えたまま、呆れ顔で目を半眼にしつつルイズは言う。一方でアンリエッタは、ただ目を細めたまま無言で見つめるだけだった。

 

 *



 一方、こちらはラ・ヴァリエール公爵の屋敷。

 暖かな陽光が差し込む中庭で、桃髪の少女―――ラ・ヴァリエール公爵夫人であるカリーヌが、不機嫌な様子でベンチに腰掛けている。

 彼女の手の中に握られていた手紙には、ヴェンツェルから「今日は行くことが出来ない」という主旨の文章が綴られていた。
 下ろした長い髪を指でもてあそびながら、彼女は「はぁ」っとため息を吐く。
 脳裏を、なんだか嫌な予感が駆け抜けていく。なんだか最近、ヴェンツェルの態度が冷たい気がするのだ。
 魔法学院の生徒たちとの付き合いに圧迫され、カリーヌと会う日がどんどん減っているのである。
 いつか彼の母親に言われた「中身の腐ったおばさん」という台詞が頭を過ぎる。
 体は若い。自分でも不思議だが、魔法衛士隊の見習いとして駆けていたころと、ほぼまったく変わらない若さがあると自負してはいる。

 しかし……。

 トリステイン魔法学院には、それこそ娘のルイズと同じ若々しい少女たちがわんさか溢れている。
 ヴェンツェルは『シュヴァリエ』だし、なによりクルデンホルフ大公家の嫡男だ。あんなところにいれば、放っておいても女は寄ってくる。
 もし太ったままなら怪しいところではあったが……、なにせ、今の容姿はカリーヌも惚れ惚れとするほどのもの。
 それに、なんだかんだ言って“あの”クルデンホルフ大公の息子だ。そういうところは間違いなく似ているだろう。
 このまま遠距離でたまに会うだけの生活などしていたら。
 もしかしたら、自分は……。

「悩みますね……」

 なんともなしに、カリーヌは呟いた。そして処理を忘れていた手紙を放り、風の魔法でばらばらの細かい紙片まで切り裂いてしまう。
 それを少し繰り返せば。あっという間に紙は散り散りになってしまうのであった。

「お母さま。少し相談したいことがあるのですが……」

 そんなナイーブな様子のカリーヌの元に、彼女の二番目の娘―――カトレアが現れた。
 手にはなにやら仰々しい書類を持っていて、母と同じく悩ましい表情をしている。
 今となっては、もう自分の姉のようになってしまったこの娘ではあるのだが。カトレアは今までとなんら変わることなく接してきてくれていた。

「どうしたのですか?」
「ええ。その……。魔法学院のオスマン氏から、こういう書類が来まして」

 そう言いつつ、カトレアは一枚の紙切れをカリーヌへ手渡した。その文面を読むにつれ、彼女の顔がじょじょに強張っていく。

「『第二秘書兼土の担当教員』……なんですか、これは? ふざけているのでしょうか、ミスタ・オスマンは……」
「ええ、まあ。前半部分は無視するとして。どうでしょう? エレオノール姉さまのようにアカデミーへ行くことも考えたのだけれど、こちらもなかなか……」

 なぜか健康になって以来、カトレアは嫁に行くわけでもなく、ただ旅行をしたり領地で調べ物をする生活を送っていた。
 ずっと屋敷にこもりきりだったので、ここしばらくは外に出るのが楽しみでしょうがなかったのである。
 ただ、いつまでもそういう生活を続けるのはよくないと思っている。
 そこへ飛び込んできた、オスマン氏からの誘い。ちょうど土の担当教員に欠員が出たので、カトレアを招きたいとのことだった。
 なぜオスマン氏がカトレアのことを知っているのか。ほとんど素人である彼女を呼びたい理由など、わかるはずもない。

「そうですね……。あなたが教員をやってみたいのなら、挑戦してみるのも悪くないかもしれませんね」

 ただ、受けるのなら絶対に途中で投げ出してはいけない、と付け加えておく。
 しかし、世の中妙なものである。ほんの数年前まで、病気のせいで屋敷を出ることすら満足に出来なかったカトレアが、魔法学院の教員……。

 教員?

 ふと、カリーヌの脳裏で“何か”が閃く。まるで閃光のようにその考えが浮かび上がり、彼女は思わず笑みを浮かべる。

「お、お母さま?」

 若くなってからも、どちらかといえば厳格な態度を取り繕ってきたカリーヌだ。
 そんな母が見せた思わぬ表情に、カトレアはただ困惑するだけである。

「……カトレア。魔法学院へ向かいますよ。出発の準備をしなさい」
「え? あ、あの?」

 完全に訳がわからない。突然ベンチから飛び出したカリーヌは、見てわかるほどにうきうきとした様子で屋敷の中に駆けて行く。

 カトレアはと言えば、そんなカリーヌの背中をただ見送ることしか出来ずにいるのであった。





[17375] 第十四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:bfa99977
Date: 2010/11/15 21:26
 ケンの月は初頭。この日、トリステイン魔法学院へ新しい教員が赴任することが決まった。

 そんなこととは露知らず。ヴェンツェルは、いつものように渋々とオスマン氏の授業へと足を運んでいた。
 隣には、レイナールやギムリの姿もある。
 というより、レイナールに他の二人が強引に引っ張られているような気もするのである。

 この学院の長であるオスマン氏の授業は、思っていたよりはずっとまともな内容ではあったのだが。いかんせん、授業内容が少々キツいのである。
 それまでの楽な授業からは考えられないほどに面倒な内容を扱うことが多くなっていたのだ。
 なんだかんだといっても。
 やはりあの白髪の老人は、ある程度の尊敬を集める事だけはあったのだと、ヴェンツェルは今さらながらに実感するのであった。

 さて。三人がいつものように教室の席で腰かけて待っていると……、教室の前方にあるドアが開いた。いったい今日は何をやらされるのか。
 そんなことを考えていたというのに。
 実際に現れたのは、オスマン氏ではなかった。

 特徴的な長い桃髪に、思わず凝視せずにはいられない胸部。大人のそれでありながら、どこか子供のような表情……。
 そう。新しい『土』系統の担当教員は、ラ・ヴァリエール公爵家は次女であるカトレアだった。

「な、なんだ……。あの美人は!」

 驚きのあまりなのか。
 目を見開いたままのギムリが呟く。それは周囲の生徒たちもご同様であったらしく、教室はざわざわと喧騒が渦巻いている。
 ほぼ全ての生徒にとって、彼女の特徴的な頭髪は、今や学院で知らぬ者はいないほどの有名人であるルイズを彷彿とさせたのだ。
 衆目の監視の中。新しい担任たる女性が、自分を興味津々な眼差しで見つめる生徒たちに向かって口を開いた。

「はじめまして、皆さん。今日からミスタ・セダンに代わって『土』の教科を担当することになりました、カトレア・ド・ラ・ヴァリエールです」

 彼女が名前を告げた、その瞬間……。教室の誰もが思い浮かべた人物は……。



 *



 カトレアの授業はこれといって滞りもなく、比較的好調な滑り出しだった。

 ヴェンツェルはと言えば、久しぶりに目にした彼女に話しかけたい気持ちでいっぱいだったのだが。
 数多の生徒が彼女に殺到し、そのまま次の授業の始業時間となってしまったので、ついに声をかけることは叶わなかったのである。

 果たして、一体どんな理由でカトレアは魔法学院に赴任して来たのであろうか。
 確実なのは。『土』の担当教員が欠員となっていたのに託つけ、オスマン氏が呼び寄せたのだろうということ。
 そして、それをカトレアが受けたということ。
 まったく訳がわからないことばかりだ。
 本来やって来るはずのあの人が、とうとうお役目御免であることだけが、ただ漠然とした思考の中で残されるのであった。

 そして、次の時間は『風』の授業。

 風こそが最強であると信じて疑わない、ミスタ・ギトーという男性教諭が担当の科目だ。
 いつもいつも風賛美を繰り返す変人で、そのうち風賛歌でも作詞・作曲しそうな勢いである。

「しっかし驚いたな。ミス・ヴァリエールの姉上が教員としてやって来るとは」
「とても綺麗な人だったねえ……」

 ギムリはもうカトレアに夢中なようだった。どちらかと言えば生真面目なレイナールですら、あの美貌には心奪われてしまっていたようだった。
 しかし一方で。
 本来ならばもっとも喜ぶであろう人物のヴェンツェルは、なぜか怪訝な顔になっている。なにか考えているようだった。

「殿下? どうしたんだ」

 さっきから黙りこくっている事が気になったのか。ギムリが問いかけてくる。

「……いや。ほら、彼女はルイズのお姉さんだろ。嫌な噂でも立てられやしないかと……」

 人一倍、いやそれ以上にカトレアを大切に思っているルイズだ。もし、いらぬ噂でもばら蒔かれたらと思うわけである。
 ここまで、自分のことをどれだけ悪く言われてもへこたれないで来られたが。もし姉の悪口を耳にしたら……。

「なるほどな。確かに、いきなりあれだけ注目を浴びたら、それにいらん嫉妬をするヤツも出てくるだろう」
「そうだねえ。なんとかしないといけないかも……」

 ギムリとレイナールはそんなことを互いに呟きあう。
 と、そのとき。急に、ギムリの表情が大きく変わった。なにか思い浮かんだらしく、その顔が強面なものとなる。

「そうだ。良いことを思いついたぞ」
「その顔で良いことって言われてもなぁ……」

 凶悪な表情を浮かべるギムリにレイナールが眼鏡を拭きつつ苦言を呈してると……。
 教室の扉が開けられ、いつもの黒い髪が見え……なかった。現れたのは、白髪の長い髭の老人、オールド・オスマン学院長ではないか。
 そして。
 彼の隣に、なにやら小さな人影があるのが見える。一体誰なのだろう。

「……? ルイズ?」

 そして。
 その姿を見たアンリエッタは、小さいながらも声を出してしまっていた。勘違いしてしまっても、それは仕方がないことなのかもしれない。

 なぜならば、オスマン氏の隣でちょこんと立つその少女は。
 どこからどう見ても、アンリエッタの親友たるルイズ・フランソワーズであったわけで。
 しかし、ヴェンツェルが見れば、その人物は紛れもないカリーヌ・デジレであったわけで……。

「ええい、静まるのじゃ」

 ざわざわと騒ぎだした生徒たちに手を差し出して制しつつ。オスマン氏が珍しく大きな声で言い放った。
 よくよく見れば、彼の顔には至るところに擦り傷や切り傷が刻まれ、顔中に包帯やら絆創膏のようなものが貼られているのだが……。
 いったい何があったのだろうか。……いや、なんとなく予想がついてしまうことが恐ろしい。

「本日より『風』の授業を担当することになられた、ミス・マイヤールじゃ」
「ご紹介に預かりましたマイヤールです。皆さん、よろしくお願いしますわ」

 その一言に、教室中が騒然となった。
 いったいどういう事なのか、なぜ欠員も出ていない『風』の科目で担当教諭が入れ替わるなどという事態が起きるのか。
 そもそも、あのような小さな少女に教員など勤まるとは思えない? というより、ミスタ・ギトーはどうなってしまったのであろうか。
 いつまでも経っても誰も尋ねる気配がないので、意を決してヴェンツェルは手を挙げた。そんな彼をカリーヌが目に留め、視線だけを送ってくる。
 しかし、今はそれに構っている場合ではないのだ。

「ミスタ・オスマン。質問があります」
「おお、ミスタ・クルデンホルフ。どうしたのかね?」

 ふぉっふぉっふぉと髭を撫でつつ、オスマン氏は質問を受けることを了承した。
 アイコンタクトを無視された形となったカリーヌではあるものの。状況的にやむを得ないとでも思っているのか。それは大して気にも留めていないらしい。
 すぐに、関心をヴェンツェルの後方にいるキュルケやアンリエッタに移していた。

「ええと……。その。ミスタ・ギトーは……」

 この場にいる全ての生徒が問いたかったであろう事柄が、ついに一人の少年の口から放たれたではないか。
 さて、一体どんな返答をしてくるのだろうか。皆が、思わず固唾を飲んで見守っている。
 そして。しばし、白髪の老人は沈黙したあと……、ついに口を開く。どこか重々しく、そして強い威厳を感じさせる深い声であった。

「ギトーくんか。彼は……。風になったのじゃ。永遠にハルケギニアの地を駆け抜ける“疾風”になったんじゃよ……」

 どこまでも真剣なようで、どこまでもふざけているような声音だった。

 これはカリーヌ本人に問い質さなくてはならないだろう。
 別にギトーがどうなろうと知ったことではないが、カリーヌがこの学院へ乗り込んできた理由を鑑みれば……決して他人事とは言えないからである。









 ●第十四話「来てしまった」









 すっかりと日が暮れたころ。

 桃髪の少女ルイズは、学院の教諭達が寝泊まりをする教員宿舎を訪れていた。
 目的はといえば、彼女の姉や母親と会って話をすることである。

「まったく、信じられないわ。わたしに黙って、二人とも学院へ来てしまうなんて。大変じゃない……」

 今日は、ルイズの所属するイルのクラスでは風も土も授業はなかったのだが……。

 ソーンのクラスの生徒や、噂を聞き付けた他のクラスの連中が、一斉に彼女の元へ殺到したのである。
 ああだこうだぎゃあぎゃあ騒がれるので、事情を知らないルイズはすっかり耳が痛くなってしまっていた。

 ただでさえ、学院内は大騒ぎである。
 ルイズが学院で中傷を受けていることを話したから、姉が乗り込んできたのだとか、いや単にオスマン氏が呼んだだけだろう、など。
 いずれにせよ、これだけ騒ぎになったのでは……。
 それに、どうも母のカリーヌまで『マイヤール』と名のってやって来ているらしいことがどうにも引っ掛かった。
 やれ彼女はルイズの双子の姉妹だの、ただの他人だの好き勝手言われている。

 なぜ、母は実家の家名など使っているのか。どうして魔法学院なんぞに出てきたのか、それがルイズにはまったくわからない。
 とにかく一度、話を聞いてみないと。

 そんなルイズがたどり着いたのは、女子教員宿舎の二階に存在するとある一室だった。

 規則正しくノックをし、「ルイズです」と呼び掛けると……。部屋の中から「どうぞ」という耳慣れたおっとり声が聞こえてくる。
 若干の緊張を滲ませつつ、少女は「失礼します」と言って姉がいるであろう部屋のドアを開けた。
 そして、そこでは事前の予想通り、自らのすぐ上の姉であるカトレアが椅子に腰かけていた。
 どうやら、荷物の片付けはもう終わったらしい。

「ちい姉さま」

 たとえこんな状況下であろうとも、自分の大好きな姉と声を聞き、会うことが出来たのだという事実は決して変わらない。
 思わずルイズは笑顔になる。
 しかし、その姉はと言えば。お堅い表情で、ただ憮然と返してくるだけではないか。

「あら、ルイズ。……一応言っておくと、今のわたしはこの学院の教員よ」
「……し、失礼しました、ミス・ヴァリエール」

 がっかりしたような、それでいて当たり前であったような。しょんぼりと項垂れる妹を見て、カトレアは「ちょっとお茶目が過ぎたかしら」などと考える。

「……なんて、ね。冗談よ。今は授業中ってわけでもないし……きっと神さまもお見逃しになってくださるわ」
「ち、ちい姉さま」

 などと笑いながら、カトレアはルイズを抱き寄せる。
 姉の体はどこまでもどこまでも柔らかくて、軽く抱き締められただけでもルイズは幸せな気持ちとなってしまうのだ。

 ―――しかし。

 今は、その事に気を取られてしまってはいけない。まず早急に尋ねなければならない事柄が、いくつもあるのだから。

「……そうですわ。どうして、ちい姉さまはこの学院に?」
「先月の事かしらね。ミスタ・オスマンから突然書簡が送られてきて『秘書兼教員にならないか』なんて来たものだから……。せっかくだし、受けてみたの」
「え? じゃ、じゃあミスタ・オスマンの秘書に?」
「いいえ、そっちは受けなかったわ」
「そ、そうよね……」

 カトレアの言葉を受け、ルイズはほっと安堵のため息を漏らす。なんとなく、本当になんとなくだが嫌な感覚があったからだった。
 と。
 まだ教えて貰っていないことがあるではないか。思いだし、彼女は再び問いを発する。

「あの……。わたしは噂で聞いただけなんだけど、どうもわたしにそっくりな人が教員としてやって来たって……」
「……」

 すると。
 カトレアは沈黙し、悩ましげに眉を歪めた。そんな彼女の仕草を見ていると、ルイズは、自分がどうしようもなく悪いことをしてしまったのかと思わされてしまう。
 しかし。カトレアはすぐに己の胸に妹を抱き寄せながら、少しばかり言いにくそうに口を開く。

「ええと。あなたもおおよそ想像はついてると思うのだけれど……。その人は、お母さまよ。でも、実家の家名を名乗ってるわ」

 自分と同じ桃色髪の少女など、このトリステインでもまったく見かけることなどない。本当に稀有な髪の色なのだ。
 それが自分と同年代で、なおかつ顔も見間違えるほどに似ているとくれば……。
 予想していなかった訳ではない。
 しかし、いささか理解に苦しむというか、理解しようにも出来ない事案であることは間違いなかった。
 母はわざわざ自分を重病だということにして、今まで表舞台からずっと遠ざかっていたというのに。

「お母さまは一体なにがしたいのでしょう?」
「……わからないわ。でも……」

 そこでふと、カトレアの脳裏にとある少年の顔が浮かぶ。
 どうにもここのところの母は様子がおかしい。それがわからぬほどカトレアは鈍感ではなかった。
 そして、どうやらその原因が何であるのか、ということも……。ただ、確証はない。証拠などなにも有りはしないのだから。

「どうしたのですか、ちい姉さま。体の具合が優れないの?」
「……ううん。なんでもないわ。ちょっと考え事をしていただけ」

 心配そうな表情で自分を気遣ってくる妹の頭を撫でながら、カトレアはごまかしの言葉を口にした。

 “その”可能性は十分にある。

 だが、果たしてそれを、恐らくはもっとも隠したいであろう事柄を、いたずらに暴いてしまって良いのだろうか。
 そ知らぬ振りをして、ただ気がついていないように振る舞った方がいいのではないか。

 このとき。カトレアの心の中では、多くの複雑な想いが絡み合い、どうしようもないほど彼女を困惑させていた。


 ―――ほぼ、同時刻。

 やはりというか、カリーヌが真っ先に向かったのはヴェンツェルの元であった。
 彼女はひっそりと、誰にも見つからぬように男子寮の壁に沿って浮上していく。

 あっという間に、それほど行かぬうちに目的の部屋へとたどり着いたようだった。うきうきとしながら、彼女はこつこつと部屋の窓を叩く。
 すると……、窓が内側から開かれる。
 そこでは、困惑した顔の少年がカリーヌを見つめていた。月明かりを受けて、彼の月目がきらきらと輝く。まるで宝石のような光だった。
 『レビテーション』を解除し、軽い音と共にカリーヌは部屋の内部に着地。勢い余って、そのままヴェンツェルの胸元へと飛び込んでしまう。

「……来てしまいました」

 そう告げつつ。まるで、膝の上でごろごろと喉を鳴らす飼い猫のように。目を細目ながら、少年の胸板に頬を擦り付ける。
 なにせ、この日のためにカリーヌはずっと準備を進めてきたのだ。渋る夫をなんとか宥め、教員の椅子にしがみつこうとする黒髪の男をド・ゼッサールの元へ飛ばし……。
 それは焦りから出てきた行為なのだろうか。いずれにせよ、かなり強引な手法であった。

「どうしてここに? それと、ミスタ・ギトーはどうなったんだ?」

 密着してくるカリーヌを引き離し、ヴェンツェルは彼女の肩を掴んで問いかける。
 しかし。カリーヌはするりと両手の拘束から逃れ、再びぴたっとくっついて来た。上目遣いで、どこか狂気すら感じさせる瞳で語りかけてくる。

「あの方には“栄転”してもらったの。でも、そんなことどうでもいいでしょう? それとも、あなたはわたしの事なんてどうでもいいのかしら。昼間も無視されましたし……」
「い、いや。そんなことはないよ。ただ、どうしても気になって。カトレアさんも来ているし……」
「カトレア……そう。あの子も来ていますわ。わたしはあの子に便乗させていただいた形になりますね。……それとも、あの子の方が気になると?」

 ぎろり。

 カリーヌの目が大きく吊り上がる。それと共に襲いかかる。猛烈な威圧感。ぎゅっと、シャツを握る細い指に力が加わるのがわかる。
 これはたまらない。とっさに首を振って否定に走る他ないのだ。

「……まさか。そんなわけないじゃないか」

 そう弁明しつつ、少年は胸元のカリーヌを抱き締める。
 耳元へ唇を近づけると、それまでの剣呑な雰囲気から一変、彼女は乙女のように、恥ずかしげに赤らめた顔をそらすのである。
 つい今までの険しい表情からすれば、これはまったく信じがたい変貌のしようだった。それはもう幸せそうな顔で、細腕を背中に絡めてくるではないか。

 なんだか、彼女のこういう様子を見ていると……、やっぱりルイズとは親子なのだなぁ、と思わされるものなのであった。



 *



 深夜。自室のベッドで盛大に寝息を立てているヴェンツェルの頭を、何者かがこつこつと叩き出した。
 しかし、眠たいものは眠たいのである。わざわざ確認するのも億劫なのだ。
 そういうわけで、しばらく無視していると……次第に、その頻度と威力が猛烈に増し始める。音もどんどんと濁音が混ざるようになる。
 これはたまらなかった。飛び起き、自分の頭にダメージを与えている者がなんなのか確かめようとすると……。

「……鳥?」
「くぇっ」

 そこにいたのは鳥だった。ただ、どうも見たことがない種類のものらしい。
 やけに丸い、アーモンドをチョコレートで包んだ菓子のような形の体。血塗られたクチバシは鋭く、こんなものを受け続けたらそれは血も出るというものだ。
 見れば、鳥はどうも伝書の仕事をしているようだった。足に、小さな紙切れが紐でくくり付けられている。
 それを取ってやると、鳥はもう一度鳴いた。そして、開け放されていた窓から飛び出していく。
 ……羽根もないのに飛んでいた気がしたが、きっと目の錯覚だろう。

「……そうか。窓を開けっぱなしにしていたんだ」

 今さらながら、彼はそんなことに気がつく。見事に窓は開け広げられていたので、それをパタンと閉める。
 この部屋には風と火の魔法を使った暖房が設置されている。多少冷気が流れ込んだところで、気温に大した影響はないのである。
 続いて止血と簡単な手当てをして、包帯の筒をベッド脇の小物入れに戻す。

 そういえば、手紙とはなんだろう。気になったので、とある魔法をかけて開けてみると……それは、ガリアにいるクロエ・ド・コタンタンからのものだった。
 近況報告を兼ねているのだろう。流暢な字体で、ここ最近の出来事や妹のことなどが綴られていた。
 彼女は時折、こうして手紙を送ってきてくれるのだ。中には外国の人間では知りえないガリアの内情など、結構まずいものもあったりする。
 一応は魔法の便箋なので、特定の人物以外の人間が開けるのは至難の業だった。
 最後まで手紙を読み進めると……、最後の方に、なにやら気になる一文が添えられていた。

「『数ヶ月前のことですが、トリステインとの国境に近いガリアの港に、アルビオンからかなりの数の人々が渡ったようです。くれぐれも注意してください』……か」

 ガリアは未だにアルビオンと国交を保っている。断絶状態のトリステイン。蜜月のゲルマニア。やや剣呑なロマリア。どちらでもないガリア。
 ゲルマニアからは豊富な物資がアルビオンに流れているし、ガリアもそれはほとんど変わらない。
 トリステインはアルビオン共和国との国交を完全に断っているが、ガリアとは関係を維持したままだ。ガリア経由でアルビオンの人間が入ってくることも十分に考えられる。

 だが、それを成そうとする人間がいるとしたら。いったい何のために?

 アルビオンはゲルマニアとの関係が持続する限り、ほぼ資源難に陥る可能性はない。風石という最大の取引材料があれば、恐らくガリアも……。
 個人的な感情と、国同士の関係は相容れないし、そうしてはいけないものだ。ガリアを非難することなどできはしない。

 なにかよからぬ予感がするといえばそうだった。アンリエッタを通して、国王に西部国境地帯の警備を強化するように進言した方が良いかもしれない。
 普段ならば、絶対にそんなことに口を出すことはしないのだが……。どうにも胸騒ぎを覚えて仕方がない。
 とりあえず手紙を仕舞おう。
 そう考え、ヴェンツェルが便箋を机の引き出しにしまった瞬間の出来事だった。

「……ヴェンツェル?」

 もぞもぞとベッドの上で何かがうごめく。そして上から半分だけ見える、カリーヌの顔。指の先を毛布から出して、こちらの様子を窺っているようだった。

「ああ、ちょっと起きてしまって」
「……そう」

 少年の問いに短く呟き、カリーヌは毛布を体に巻いたままベッドから降りる。
 そのままとてとてとヴェンツェルの立つ窓際までやって来て、透明なガラスの向こう側に見える漆黒の夜空を見上げた。
 そのうちガラスに息を当てて、うっすらと白く曇ったガラスに華奢な指で何かを書き始める。

「……それは?」
「秘密です」

 いったい何を書いているのやら。
 カリーヌの横から覗き込もうとしたヴェンツェルだったが、その文字の正体を知る前に、彼の首は強引に毛布の中に引き込まれ……。



 *



 トリステイン北西部、アングル地方。

 かつては寒村ばかりが点在する地域であり、一度住民が『疫病』によって消滅したその土地は、アルビオンから逃れてきた亡命政府の拠点となっていた。
 現在では内戦から逃れてきたアルビオンの人々が流入し、人口は一万人規模に膨れ上がっている。

 しかしながら、その住民たちを監督する貴族たちの絶対数は大いに不足している。
 アルビオンの貴族たちの大半が、前王ジェームズ一世の強圧的な中央集権化や、対外的には有無を言わさずモード大公を粛清したことに反発して、議会派に参加していたからだ。
 更には、敗戦を重ねたこともあり。
 実質的には、王党派の貴族など、もう本当に数えるだけとなってしまっていたのである。

 そして。
 亡命したアルビオンの貴族たちが本国から持ち出すことが出来たのは、自らの家族やわずかばかりの金品、それに王立艦隊の空船ばかりであった。
 船の乗務員の大半は平民か、良くてジェントリである。船を動かすことは出来ても、それ以外は単純労働や農業を担わせるのが精一杯。
 おまけに、そういった乗員たちを船から降ろしてしまうと、訓練すらままならなくなる。艦隊は練度の低下という危機に直面していた。
 近頃はトリステイン王から積極的な支援を受けられ、風石だけは確保出来るようになったものの。
 肝心要の戦闘力が低くては、まったく話にならない。

 二年ほど経っても課題は山積みのまま。亡命政府の長であるエディンバラ公爵はいつも頭を悩ませて、白髪が増量されるという始末である。

 そして、そんな悩める紳士の娘であるシャレイリア・オブ・エディンバラ嬢は……。
 苦労の多い父のことなど気にも留めず、来年に迫ったトリステイン魔法学院への入学に身を弾ませていた。

 ―――そして。ヴェンツェルがクロエからの手紙を受け取る、その前日。

 王立艦隊が係留されている港からほど近い丘の上。シャレイリアは侍女を連れて、父の派閥にいる貴族の娘たちとお茶を嗜んでいた。
 話題に出るのは、もっぱらトリスタニアで流行のお菓子やファッションなどばかり。祖国の内情やトリステインの時事問題など、ほとんど話には上がらない。
 しかし、このときは珍しくそれが話題となった。

「それにしても。いつになったら、わたしたちはアルビオンへ帰ることが出来るのでしょう?」
「あの野蛮な男……クロムウェルでしたか? きっと強面の怖いお方なのでしょうね。ああ、嫌ですわ」

 この少女たちは実際にクロムウェルの容貌など一度も目にしたことがないので、完全に憶測でものを語っていた。

「近頃、あの男は『聖地』の奪回を掲げて艦隊の増強を行っているというではありませんか。ま、それでも王立艦隊の敵ではないでしょうけど」

 嘲るような口調で、少女の一人が言う。確かに、数の上では王立艦隊は共和国艦隊を上回っていた。実際に稼動できるかどうかはともかく…。

「東部の田舎者がしゃしゃり出てきて。本当に許せませんわ! わたしのお祖父さまが購入なされたオックスフォードの別邸が、あの男の野蛮軍に壊されてしまいましたもの!」
「まあ……」
「本当に不愉快ですわ。あの平民は」

 少女たちは日ごろの鬱憤を見たこともないクロムウェルにぶつけ、なんとか怒りを晴らそうとしている。どうにも恐ろしい光景だった。
 しかし一方で、先ほどからまったくその話題に参加しない少女もいた。シャレイリアだ。

「ミス・シャレイリア。どうされたのですか?」

 なんだか悩んでいるらしいシャレイリアを見かねたのか。少女の一人が、物憂げな淡い金髪の少女へと話しかける。

「ええ……。なんだか、胸騒ぎがするの」
「胸騒ぎ?」
「そう。なんだか、とってもよからぬことが起きるというか……」

 どうしたのだろう。つい昨日まで、自分は魔法学院への羨望で明るい気持ちでいたというのに。
 なんとも言えない、どうしようもない胸騒ぎを覚えた。かつて母を失う前にも、これと似たような感が出てきたような気がするのだ。

 彼女の大きな青い瞳が捉える先―――港では。
 アルビオンの護国卿クロムウェルからの命を受けた精鋭たちが、次々と港へと潜伏し……着々と『計画』の準備を推し進めている最中であったが……。

 それを知る者は、この地の亡命貴族の誰にもいないのだった。





[17375] 第十五話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:e6761366
Date: 2010/11/17 19:49
 『アルビオン王立艦隊が襲撃を受けた』―――その報がトリスタニアの王城へ届いたのは、ケンの月は第二週のことだった。

 アルビオンからの亡命者を騙る工作員の手によって、艦隊の一部、三隻の船が奪取された。
 更には十隻の船が中破、あるいは炎上したが為に、艦隊は大損害を受けてしまったのだ。
 港湾施設が破壊されて死傷者も多数出たために、アングル地方の現場は大混乱に陥っているという。

 弱体のトリステイン艦隊に代わり、同国北部の領空を監視していた艦隊の壊滅。それは、書類上の数だけでは判断しきれないほどに大きな意味を持つのである。

 使者からその報せを聞き受けたトリステイン王ヘンリーは、思わず苦い顔になってしまった。
 なぜならば、彼は魔法学院の王女アンリエッタから『西部国境の警備を強化してはいかがでしょう?』という内容の手紙を貰い受けたばかりだったからだ。

 ガリアから割譲を受けた西部地帯は、非常に大きな人口を抱えている。
 住民がトリステインの統治に反発して暴動を起こすこともあり、王軍は大いに手を焼かされていた。
 都市部の鎮圧を優先したがために、西部の国境が手透きになっていたのは否定しようのない事実ではあったが……。
 小国にとって、いたずらに身の丈を越えた領土を得てしまうのは、実際のところあまり良い事ではないのかもしれない。

 謁見室から執務室に戻ったヘンリーは、椅子に腰を下ろして大きくため息を吐く。
 二年前の王党派壊滅から長らく、アルビオンの新政府は内向の秩序を建て直すことに忙殺されていた。
 故に、この国へ破壊工作をかけている余裕などなかったはずだというのに……。

 それが現実の問題として立ちはだかってしまった。
 あの平民上がりの男、クロムウェルが何を考えているかなどヘンリーの知る所ではない。
 ただわかる事と言えば。
 トリステインとアルビオンの両国は敵対関係にあり、今までは水面下での小競り合いであったものがとうとう表へ浮かび上がってしまった、ということだ。

 今回の件は、王宮に燻り続けている『アルビオンの偽王権を打倒し、我が王を白の国の王位に』という、主戦派連中の執拗な主張を再燃させてしまうだろう。
 なにせ、兄のジェームズ一世はクロムウェルに討ち取られ、弟のモード大公はその兄に粛清され、甥のうち一人は戦死。一人は行方不明なのだから。
 今となっては。王家の直系で、ヘンリー以外にアルビオンの正当な王位を継承出来る者は、もう残っていないのだ。

「枢機卿。亡命政府のエディンバラ公と連絡は?」
「生存との確認は取れました。しかしながら、現地は混乱の極みに陥っております。今はまともに連絡を取れておりませぬ」
「そうか……」

 そこでヘンリーは一旦会話を打ち切った。しばらく、悩むように眉間にしわを寄せて……また、口を開く。

「卿。アルビオンが、近日中に仕掛けてくる可能性はどのくらいかね」
「半々でしょうな。このタイミングでこのような行動に出たということは、もしや我が国を打倒する算段を得たのかもしれませぬ」

 淡々とした口調で、冷静な声音でマザリーニは答える。彼が冷静になっていなければ、王の突飛な行動を止められる者がいないからであった。
 すると、やはり王は悩ましい表情となる。どうしても腑に落ちない、といった様子言う。

「わからぬ。クロムウェルが何を考えているのか。あの男は、自分で王座に座す訳でもないではないか」
「それはトリステイン……。いえ、恐らくはあの政権の内部でもご同様でしょうな」

 王の言葉にマザリーニも同調し、どこからともなくため息が漏れる。

 そして、その直後。トリステイン王は財務卿に命じて軍事費の増額を行うことを決定。前回の戦争以後、再編を進めていた王軍の強化を実行することにしたのだ。

 徐々に、戦争の足音が近づき始めるのであった。



 *



 一方で。

 アングルの艦隊を襲撃させたその張本人は、首都ロンディニウムはハヴィランド宮殿の執務室で、成果の記された報告書に目を通していた。
 予想外の収穫ではある。単に王立空軍の弱体化を狙った作戦であったのだが、その想定以上に大きな効果が上がったのだから。

 だが。それを目にしても、アルビオン共和国の護国卿であるサー・オリヴァー・クロムウェルの表情は決して優れなかった。
 まだアルビオンの国内情勢は混迷を極めており、こんなことをしても、どれだけ時間稼ぎになるかわからなかったからである。
 もし敵の侵攻を受ければ……、国内に潜む反共和国勢力が呼応するだろう。徹底的な摘発を続けても、それらを根絶やしにすることは容易ではない。

 さらに、数ある反抗勢力のリーダー的な存在であるウェールズである。彼の捜索は難航を極めており、依然として行方を掴めずにいる。
 そのくせ、向こうからはティファニアを襲撃するなど……、まさに神出鬼没の存在だった。
 どうせならば、さっさとトリステインへ逃亡して欲しい。切にそう願わざるを得ないのが実情であった。

 そんなクロムウェルの手元には、ロマリアやゲルマニアの諜報機関が収集した『聖地』の情報が記された書類がある。

 始祖ブリミルが最初に降臨した土地だと言われている、砂漠の土地。
 『聖地』を目指すことは、このハルケギニアに生まれたすべての貴族たちに、生まれながらに課された使命だ。
 もちろん、それを忠実に実行しようなどと未だに考えているのは、ロマリアの狂信者くらいであろうが。

 あるときから、クロムウェルは『聖地』を目指そうと考えている。

 なぜ彼が『聖地』を目指そうと考えるのか。彼がその事に想いを馳せようとしたとき。
 彼の数十年来の付き合いである少女が、部屋の扉を開けてやってくる。名をルサリィといい、長い白銀の髪が特徴的な容姿をしていた。

 彼女はなぜか歳を取らず、故に出会った頃は少年であったクロムウェルも、今では壮年の男性へと変貌を遂げているのである。
 彼女の変わらない容姿が原因で、居住していた町を追われたことすらある。
 しかし、それはクロムウェルにとってはさして重要な問題ではなく、決して彼女との関係が変わることもない。

「どうしたんだ、ルサリィ」

 やって来た少女に、クロムウェルは極力笑顔を取り繕って声をかける。だがそんな表情を受けて、かえってルサリィは彼を心配する始末である。

「うん、ええと……。ティファニアの体調が優れないみたいで。明日のホーキンス将軍たちとの会食は延期出来ないかって」
「……そうか。まあ、仕方ないだろう。将軍には私から伝えておくよ」
「うん。お願いね」
「ああ」

 そんなやり取りのあと、ルサリィはクロムウェルの執務室を出るのであるが……。彼女の顔色は優れなかった。
 未だに混迷を極めるこの国の内情にあって、彼女の愛しの男性は何かにとりつかれたようにひたすら『聖地』のことばかり考えるようになっていたのである。
 それを面と向かって聞いた事はないのだけれども……。寝室にある無数の『聖地』に関わる文献や、様々な書類を目にすれば嫌でも気がつくようになる。

 いったいどこが転機だったのだろう。
 ルサリィは悩み考えるが、彼女が今現在の持っている記憶では、決してその答えにたどり着くことは出来なかった。









 ●第十五話「図書館の戦い」









 さて。そんな国の北方で起きた出来事ではあるが……。

 トリステイン魔法学院では、最初の頃こそ話題に上ったものの。
 二週間経っても続報がなんら続報が入らなくなった頃には、もうすっかり生徒たちは飽き始めていた。

 このハルケギニアでは、いつもどこかの地方で何らかの戦いが起きている。
 今回の件も、あくまでアルビオン共和国と王党派の残党の間で起きた、大した意味のない小競り合いだと受け止められていたのである。
 それを真剣に、本当の意味で真剣に考える者など、本当に微々たる数だったのだ。


 十一月―――ギューフの月はエオローの週、ダエグの曜日。

 この時期ともなると、いよいよ気温は下がり、本格的に冷えるようになる。セーターやコートは必須だ。

 暖炉やマジック・アイテムの温度管理によって、常に暖かい気温が維持される男子寮の談話室には、暖かさを求める男子生徒たちが訪れている。
 一年生では、ヴェンツェルにレイナール、ギムリ、ギーシュ、更にはマリコルヌやヴィリエ……。
 彼らは特に何の前触れもなく現れ、談話室を掃除するメイドさんたちの手を煩わせるのである。

 ちなみに。
 メイドといえばシエスタである。彼女はカリーヌを見て驚いてこそいたようだが、特に周囲へ何か言いふらすということはしていないようだった。
 タルブ村を訪れていたときの雰囲気を察したのかもしれない。
 どちらにせよ、そういう情報をむやみに話してはいけないということは、理解しているようであった。

「……はぁ。この部屋は暖かくていいねえ。今年は寒い日が続くから、こういう場所があると助かるよ」

 暖炉の前で温めたミルクをすすりながら呟くマリコルヌ。彼は寒さに弱いらしい。脂肪があっても寒さに強くはなれないようだ。

「ギーシュ。定期集会についてだが……」
「ああ。もうそろそろ会員も増えてきたからね。なんとか収容出来る場所を探してみるよ」

 部屋の中央に設置されていたテーブルに肘を付き、ギムリとギーシュが何やら話し合っている。
 彼らは非公認組織『カトレアさんを愛でる会』の会長と会長代理である。カトレアが赴任して来た当初から設立され、一説には会員数が二桁を数えるという。
 ギムリが凶悪な顔で言い放った『良いこと』とは、つまりこういうことなのであった。
 ちなみに、ヴェンツェルは会員No.1である。会長らを差し置いて一番なのである。ごねてごねてごねまくったのだ。まさにごね得である。

 こうしてなんとなく男共で集まり、ぐだぐだだらだらのん気にやるのは嫌いではない。
 そう思う連中が少なからずいるから、談話室はいつも誰かしらの姿があるのだろう。まあ、単純に暖かいからかもしれないが。

「平和だねえ」
「そうだな。一度は戦争になるかもしれないと思ったが……。そんなこともなかったし」

 アングル地方での事件以降、トリステイン国内は確実にキナ臭くなってきている。
 ただ、王政府も今の国力でアルビオンとの全面戦争に踏み切るのは不可能だと考えているようで、他国との同盟や連合を視野に入れて対策を練っているらしい。
 その相手とくれば……、もうガリアしかないのではあるが。戦争をしたばかりだというのに、果たしてそれが可能なのだろうか?

「そうだなぁ。暇だし、図書館で本でも借りてこようかな」
「よしとけよ。寒いぜ」

 ソファーに腰掛けて新聞を読んでいたレイナールが、唐突にそんなことを言い出した。
 まったく正気の沙汰ではない。わざわざ冷たい空気で満たされた図書館へ出向くなど、自らの命を削る行為に等しいではないかとヴェンツェルは思う訳である。

「うーん。そうだけど、部屋にある本は全部読んじゃったし。でも、やっぱり寒いかなぁ」
「そうだな、頑張れ。春になって暖かくなったら、骨は拾っておくよ」
「ヴェンツェル。確か、きみには貸しがあったね。今まで全教科の課題を手伝って来たという貸しが」
「……う」

 だらけ切ったヴェンツェルに向かって、死刑宣告を行う裁判官のように、レイナールが眼鏡を指で押し上げながら言う。

「どうかな。今回は課題の合格ラインが結構高めで、次回もそんなに変わらないと思うけど―――自分だけでやるかい?」
「今すぐ借りてきます」

 閃光のごとく。ヴェンツェルは立ち上がり、レイナールから借りる本のリストが記された紙を受け取り、大慌てで談話室を飛び出す。
 生真面目なレイナールはいつもさっさと課題を終えてしまう。
 提出期限ギリギリまでだらけ、彼に助けを請うのが日常茶飯事なヴェンツェルとしては、眼鏡の彼こそが学院生活における生命線ともいえる存在なのである。

 座学といえば、ルイズはかなりの好成績を納めているものの……、彼女に教えを請おうなどという発想には至らなかった。


 寮塔を出ると、冷たい北風が情け容赦なく少年の体温を奪っていく。これは堪らないと、彼は小走りで本塔を目指した。

 やはりというか、図書館はものすごく寒い。司書の女性は暖房でぬくぬくとしているが、カウンターから一歩離れればそこは極寒の地である。

 手を伸ばしただけでは到底届かないような、とても背の高い本棚の数々は見るだけで圧巻の一言である。この学院の長い歴史を象徴するかのようだ。
 ヴェンツェルは『レビテーション』を使い、天井近くまで上って目当ての本を引っ張り出した。
 『“海の民”の記述 ――彼らはどこからやって来て、なぜ我々と敵対したのか――』という、やけに長ったらしいタイトルの古ぼけた本だ。
 レイナールも妙なものを読むのだなと、特に気にすることもなくそれを脇に挟む。そして、魔法を解除して床へ着地した。
 すると。

「あら、ヴェンツェルくん……」

 声の主は、『土』の授業を担当する教員である、カトレア・ド・ラ・ヴァリエールだった。厚着の上にカーディガンをまとっている。

「ミス・カトレアも本をお探しで?」
「……え、ええ。そうなの」

 少しの間のあと、カトレアは両手で持っていた一冊の分厚い本の表紙を見せてくる。革張りに金箔で、『精霊石の研究』と記されていた。

 ヴェンツェルはどうにも気にかかることがあった。このカトレアの反応だ。
 どうにもよそよそしいというか、決して自分と目を合わせようとしないのである。時折話すことがあっても、いつもそんな感じである。
 何か、彼女に嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
 そんな間の抜けたことを考えていると……。

「……そ、そうだわ。来年の授業の準備をしないと。これで失礼するわね」

 いきなりカトレアが大きな声でそんな奇妙なことを言い出して、その場から慌てて走り出そうとする。
 なぜ彼女がそんな行動に出ているのかも気が付かず、ヴェンツェルは「今から来年の準備をするなんてマメだなぁ」などとのん気に思うだけである。
 だが。
 彼女は急ぐあまり、まったく周囲の光景に気を配っていなかった。背後の本棚の存在も忘れてしまっていたのである。
 本棚の角に足を引っ掛けたカトレアは、盛大に姿勢を崩した。それはもう見事なくらいに、アイススケートの回転のような優美さすら感じさせる。
 しかし、そんな馬鹿なことを考え続ける暇はないと、ヴェンツェルは一瞬で考える。無意識に杖を取り出そうとして、詠唱が間に合わないことに気がつく。
 やむなく彼は猛然と突進。とうとう倒れこみそうになるカトレアのクッションになるようにと、冷たい床との間へ割り込んだ。

 次の瞬間。

 どすん、と鈍い音が図書館に響き渡る。このとき司書の女性は不自然なほどに寝入っており、その音に気がつくことがなかった。

「いてて……。大丈夫ですか?」
「……」

 なんとか受け止められたであろうカトレアの体の重みを感じながら、ヴェンツェルは彼女に声をかける。しかし、反応がない。
 すると……不意に、柔らかな桃色の髪が鼻を撫でる。とても良い香りがして、それだけで少年は幸せになれた。
 右の手のひらで感じる不思議な心地よさと、左の手のひらで感じる、二つの適度に柔らかい物体でぎゅっと締め付けられるような感触……かんしょく。
 そう。例によって、彼はラッキースケベ野郎になっていた。本家の、黒髪で赤目で巨大ロボットのパイロットな少年もびっくりのラッキーである。

「んっ……。ええと、その。手をどかしてくれない、かしら……」

 恥ずかしそうな声音で、カトレアがついに口を開いた。かなりの至近距離なので、彼女の口が開くのと同時に白い吐息が出るのがわかるほどである。
 薄い桜色の唇は健康的な様相を示していて、それはもう柔らかそうだった。意識するなというほうが無理だった。
 結果として、わずかな時間で“それ”は自己の存在を猛烈に主張し始める。
 カトレアは自らの尻の下で急速に“それ”が存在を知覚出来るほどのものになるのを感じ、火が出そうになるほどに顔へ熱を帯びさせる。
 立ち上がろうとしても、足をくじいてしまったらしく叶わない。それでも無理に立ち上がろうとするので、かえって刺激を与える羽目に陥っていた。

 これはひどい。ジリ貧とはこのことであろうか。もがけばもがくほど、カトレアにとっては悪い方向へ進むのである。
 彼女はそれに思い至って、ようやく立ち上がることを諦めたが、今度は体を浮かすことが出来ないがために直に“それ”が命中する羽目となってしまった。

「ひぅっ」

 カトレアが妙な声を上げる。ヴェンツェルもヴェンツェルで、もうどうすればいいのやらわからずに硬直している。“それ”だけでなく、体全体がである。
 決してわざとやっているわけではない。そうに決まっている。

 ……とまあ、なんだかこのままでは終わりそうもない、意味不明な時間が続くのかと思われたが……。唐突に、それは終わりを迎えた。
 カトレアの体が『レビテーション』によって持ち上げられたのである。

「まったく。どこに行ったのかと思えば……」

 魔法を使ったのは、カリーヌであった。彼女は杖を手にし、呆れたような表情を見せている。
 しかし。よく見れば、その大きな瞳では……猛烈な闇が、なにもかも破壊してしまいそうなほどの、暗黒物質が深く渦を巻いていた。
 カトレアの前だから自重しているのであろうが、彼女が猛烈な嫉妬と怒りの感情を抱いているのは明白だった。

「ミス・ヴァリエール? なにをしているのですか」

 そして、また闖入者が現れた。『水』の担当教員であるミス・リジューだ。
 彼女はカリーヌや、なんとか立ち上がったカトレアと視線を移し……。最後に、床に倒れこんでテントを張っていたヴェンツェルに目をつける。
 その途端、彼女の顔が耳まで真っ赤に染まった。湯気でも出そうなほどに上気し、今にも倒れてしまいそうなほど狼狽する。

「み、ミスタ・クルデンホルフ……! あ、ああなたは、こ、ここ、こんな場所でなにをしているんですかっ!!」
「……いえ、ちょっと本を借りに……」
「なんの本ですかっ! なんのっ!」

 窮地である。
 ミス・リジューは間違いなくこれを問題にするだろう。そうすればヴェンツェルはお縄にかかり、きっとチェリノボーグへブチ込まれる。
 だらだらとした学院生活を含め、これから訪れるであろう全ての出来事が灰燼と帰し、豚箱で青春を過ごさねばならない。
 そんなのはご免である。しかし、逃げ場がなかった。

 寒いせいなのか、カトレアは微量ながら本当に湯気を出して俯いてしまっているし、一部始終を見たであろうカリーヌは鬼のようなオーラを放っていた。
 それでも、カリーヌへ必死に視線で訴えかける。「助けてくれ」と。
 決死の訴えに対し、冷たい反応が返ってくるとばかり思っていたが……、以外にもカリーヌは声を出さずに口を動かして、少年に自分の『条件』を伝えてくる。
 なんだかわからないが、ヴェンツェルは思い切り頷いた。それはもう必死の形相であった。
 すると、急にカリーヌは明るい笑顔になった。恐ろしいほどににこやかな笑みである。そして、ミス・リジューに歩み寄って行ったではないか。

「ミス・リジュー。この生徒はわたしから注意しておきますので……」
「い、いえ。しかし。貴女もご存知でしょうが、ミスタ・クルデンホルフはかなりの問題児です。特にわたしの授業ではそれがひどいのです。だから、ここはわたしが罰を与えます」
「? なにを仰っているのかわかりませんが……。もしや、彼の弱みに付け込もうとか、そういうなにか良からぬことを企んでいたりしませんか?」

 ギンとカリーヌの眼光が鋭くなった。彼女はとにかく鋭い。目の前の女性教諭が何を考えているのか、ほぼその結論に達したようだった。

「ま、まさか。貴女こそ、なにを仰っているかわかりませんわ」
「リジュー家は莫大な借金を抱えているそうですね。そして、その債権はクルデンホルフのもの……。
 あなたはどうにも彼を気にかけているようですが……。まさか、“何かをきっかけにして責任を取らせよう”なんてことは考えていませんよね?」

 迫力である。あまりの威圧感に、自分よりも一回り以上見た目が小さいカリーヌを前にして、ミス・リジューはじりじりと後ずさった。
 それは言われたことが見事に図星だったとか、実は虎視眈々と機会を窺っていたからだとか、それだけではない。
 あまりの“格の違い”を本能的に感じ取ったのである。

 こうなるともうどうしようもない。ミス・リジュー……リシェル・ド・リジューは、「なにを言っているのですか」とだけ言い残して、その場から逃げ出した。
 かつてのように、大声を上げて涙ながらに逃走するということはもう無いらしい。
 ミス・リジューに続き、カトレアもふらふらとした足取りで図書館を去っていく。とにかく色々と考えることが多すぎてオーバーヒートを起こしそうなようだ。

 ……そして、残されたのは。

 相変わらず床に尻餅をついたままのヴェンツェルと、そんな彼に覆いかぶさるようにして体を寄せるカリーヌだけだった。

「カトレアはダメだと言いましたよね?」
「ごめんなさい」
「謝ってもダメなものはダメです。ふ、ふふ……。そんなに無駄な元気があるようでしたら、今この場で力尽きさせてあげます」
「い、いや、しかし。僕はこの本をレイナールに」

 細腕の先の手元でかちゃかちゃと、何か金属の擦れるような音を立てるカリーヌに対し、ヴェンツェルは先ほどの古びた本を持ち出した。

「そんなもの後で良いじゃないですか。司書の方には眠っていただいていますし―――」

 しかし、何を言おうがカリーヌはまったく意に介した様子がない。場所が場所だと訴えても、彼女は「誰も来ない」の一点張りである。
 もうどうしようもなくなってしまった。


 そして残念ながら。ヴェンツェルは、これからの課題を自力でやらなければならなくなってしまったのだった。




 *



 しばらくの後。

 栗毛の少女、アンリエッタが野暮用で本塔の廊下を歩いていると……。前方の図書館の入り口から、二人の人物が顔を出した。

 一人はヴェンツェル。もう一人は、ミスタ・ギトーに代わって『風』の教員となったカリーヌである。
 前者はやたらと憔悴しきった様子で、対照的に後者はかなり元気がある。肌にやたらとツヤがあるように見えるのは、決して気のせいではないだろう。

 アンリエッタは鋭かった。前方にいる二人の様子を見て、とっさに何が起きていたのか見抜いたである。
 どうして、隠居していた『烈風』が突然この学院に現れたのか。どうして、ヴェンツェルが朝ぼうっとしていることが多くなったのか。
 それらを全てを理解したのである。

 誰もいないと、誰も見ていないと判断しているのだろう。カリーヌの表情は柔らかく、至福の時を得ているのだと即座に感じさせられた。

 理由などわからない。わからないが、実際に目の前でそのような光景が繰り広げられているのである。
 これは一大事かもしれない。あのクルデンホルフの嫡子と、国を代表する貴族の奥方が……。
 もう訳がわからない。どうにも両名の魔法学院での様子がおかしいと感じてはいたのだが、まさかこんな原因が潜んでいたとは。

 ……いや。これは見なかったことにして、そっとこの場を立ち去るべきだろう。あの二人の関係を公のものにするなど、とんでもない。
 アルビオンとの対決を目前に控えているトリステインにとって、どちらの貴族も国のために必要な家であり、力なのだ。
 それを不仲にさせ、政治の混乱を招いてしまうわけにはいかない。

 だから。アンリエッタは、自分の内心にある“しこり”を強引に押さえ込み、何も見なかったことにしてその場を去るのだ。
 それは懸命な判断だっただろう。

 ただ、それが本当に正しいことなのか。それは彼女自身、とても悩ましいことではあったのである。

 そして……。それから間もなく。彼女はとある件で、父であるトリステイン国王に呼び出される事となるのであった。





[17375] 第十六話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:fea3710f
Date: 2010/11/17 20:47
 ウィンの月―――年末のこの時期になると、始祖の降臨祭に向けた準備がハルケギニア各地で行われ始める。

 トリステイン東部はラ・ヴァリエール公爵領。その屋敷。

 この家の長女であるエレオノール・アルベルティーヌが、久しぶりに王都トリスタニアにある『アカデミー』の宿舎から戻ると……。
 そこには……すっかり疲弊した姿の、父であるラ・ヴァリエール公爵の姿があった。
 彼は、革張りの椅子に背を押し付けながら、ただぼうっと沈黙するのみであった。数ヶ月ぶりに再会した、自分のいとおしい娘の姿を見ても、まるで反応を返さない。
 代わりに公爵の顔に付けられたモノクルがずり落ち、それが唯一の動きとなってしまった。

「……お父さま」

 エレオノールはなんだか物悲しくなった。ここ数年の父は、どんどんと日増しに衰弱していくように見える。
 妻はいつもふらっとどこかへ消えるようになり、末の娘は魔法学院へ。二番目の娘はやはり魔法学院へ。挙句、妻まで魔法学院へ行ってしまった。
 なんだかんだと言って、家族を大事にしたいという気持ちが強い公爵は、色々と疲弊しているらしい。
 このままでは、この人はどうなってしまうのだろう?
 そんな感傷を抱きつつ。エレオノールは己の美しい金色の髪を揺らしながら、眼前にいる父の元へ歩み寄る。

 椅子の背後から公爵の肩に手を添えると。さすがに気がついたようで、公爵は後ろを振り返って娘の姿を認めた。

「……おお、エレオノールか。久しいな」
「ええ。もう、ずいぶんと研究に没頭していましたから……。あ、そうですわ。ゴンドラン卿から、書簡を預かって来ましたの」
「ゴンドラン卿から?」

 公爵は、そこでようやく気を取り直したらしい。エレオノールの手から手紙を受け取ると、さっそくそれを読み始めた。
 ゴンドラン卿はエレオノールが勤めている『王立魔法研究所』、『アカデミー』の評議会議長だ。
 なかなかに歴史のある古い貴族の末裔である。容貌は銀髪の大人しそうな紳士で、公爵も何度か顔を合わせたことがある。
 決して大器ではないが、これといって失点を抱えている訳でもない。平均的なトリステインの貴族だった。

「……ふむ」

 手紙を最後まで読み終えた公爵は、彼の隣で立ち尽くすエレオノールを方を向く。内容までは知らされていない娘に向かって、公爵は口を開いた。

「エレオノール。私は少し、トリスタニアへ行ってくる。お前はここでゆっくりと休んでいなさい」
「え、でも……」

 父の、有無を言わせぬ口調。それを見てエレオノールは、ただ幼い少女のように困惑の表情を浮かべるだけ。
 彼の覇気の無かった瞳には、鋭い眼光が蘇っている。まるでかつての現役時代を思わせる、悠然とした足取りで公爵は自室を後にする。

 そうして、後には困惑を隠せない表情のエレオノールだけがただ一人残されるのだった。



 *



 その翌日のトリスタニア。

 王城に存在する父の執務室を後にしつつ。アンリエッタは、己の憂鬱な気持ちを抱える内面を隠しもせず、侍女たちに取り囲まれながら廊下を歩いていく。

 先ほど彼女が父から告げられたのは。

 鳥籠の中を自由に飛びまわれるという自由が、そう遠くなく終わりを告げるという事実であった。
 現在、王政府は東西に存在する巨大国家の双方と交渉を行っているらしい。言うまでもなく、それは軍事同盟の締結に向けた話し合いである。

 要約してしまえば、アンリエッタは交渉の“ダシ”になっているらしい。
 それに大きく興味を示しているのは、ゲルマニアのアルブレヒト三世。
 かの国はアルビオンに多額の支援を行っているが、何かの公的な条約を結んでいるわけではない。
 つまりは、あの皇帝が欲している『始祖の血』と引き換えに、トリステインは二カ国を引き離し、更には軍事的な後ろ盾を得ようとしていたのである。

 どうもアルブレヒトは、少し前にクロムウェルに対してティファニア女王との婚約を打診して、見事に跳ね除けられていたらしい。
 間抜けにも、そこへのこのこ飛び込んできたのが隣国トリステインだったというわけだ。

 ガリアとの交渉は難航しているとのことで、ほぼアンリエッタの嫁ぎ先はゲルマニアで決まっているらしい。
 来年初頭の始祖の降臨祭を利用し、ウィンドボナへ親善訪問をせよということである。

 あまりに突然の出来事だった。国家の生き残りをかける為とはいえ、こうもあっさりと自分が売り飛ばされるとは。

 ……だが、それも仕方がないことなのかもしれない。
 王族の子女として生まれた以上。最初から、自分の体は自分の自由に出来るはずなどなかったのだから。



 さて。そんな風に王女が軽く絶望している頃―――『アカデミー』が存在する建物の最上階に、ラ・ヴァリエール公爵の姿があった。

 彼の眼前では、呼びつけた張本人であるゴンドラン卿が、人の良さそうな笑みを浮かべて目の前のソファーを勧めている。
 爵位も実権も大きく自分を上回っている男に対して、ゴンドランはどこまでも腰が低かった。政治的な派閥は異なるにせよ、別に敵対しているわけではない。

 公爵は挨拶もそこそこに本題を切り出した。彼はどうしても、直接目の前の人間に尋ねたいことがあったからである。

「ゴンドラン卿。私の妻が、カリーヌが不貞を働いているという情報……。間違いはないだろうな。もし、それが嘘でまかせの類であるなら……」
「ええ。間違いありません。魔法学院には、私の息子が在学しておりまして。その息子が言うのですよ」
「……相手は?」

 公爵の問いに、ゴンドランはただ黙って、壁に貼られたトリステインの地図を指し示す。その地点は……。南方の、小さな半独立国だった。

「クルデンホルフ……? いや、だが。しかし……」

 思い当たるところがあるのか。公爵は長く伸ばした白ひげに手を沿え、大きく悩むようなそぶりを見せる。
 そういえば。ところどころ、おかしいと思うような気配はあった。ただ、自分が相手を……その人物を子供だと思って、まったく真剣に考えていなかっただけだ。
 自分としていても、どこか不満げな表情をすることが多く……。年には勝てないか、などと考えていたのは大間違いだったのか。
 気が付いていなかったのは、自分だけなのだろうか。
 ふつふつと、公爵の心の奥底から怒りが、煮えたぎるような衝動が湧き起こる。

「公爵殿の奥方が“奇妙な薬”によってずいぶんと容貌が変わり果てた、というお話は伺っております。私の息子はそれを覚えていたのでしょう」

 ちなみに。『アカデミー』所属で、公爵の娘―――エレオノールは最初、母を研究しようとしたらしいのだが。
 それは本人の強い拒絶によって阻まれてしまったらしい。

「……それで。卿は私にそれを伝えて、いったい何がしたいのだ? こうやって、腸が煮えくり返るような想いをさせるのが目的だと言うのならば、それは大成功だろうな」
「まさか。私はただ許せないのですよ。他人の妻と不貞を働くような男が」
「卿?」
「私の前妻も―――王の、フィリップ三世の愛人となっていたのです。どうも自分の出征中に関係を持ったらしく……。それに気が付くまで、私はずっと王宮の笑い者でした。
 真実を知る法衣貴族共に、陰で後ろ指を差されているとも気が付かず。何も知らぬまま妻の愛を信じていたのです。まったく、どこまでも滑稽な話だ。息子に示しが付かない」

 そう話すゴンドランの瞳は、どこまでも真剣極まりないものだった。ああ、この男は真実を語っているのだと。公爵は直感的に理解したのである。
 事実、彼の記憶の片隅にはそんな噂を聞いた覚えが残っていたのだから。

「ですが、公爵殿の奥方は違うでしょう。きっと……あのクルデンホルフの成り上がりの息子に騙されているのです。私の前妻と違い、あなた方はとても仲睦ましい様子でしたから」

 どこまでも悔しさを滲ませながら、ゴンドランは言葉を続ける。

「雪辱を果たしたいとは思いませんか? 成り上がりの分際で他人の女に手をつける。そんな外道は、たとえ子供であったとしても排除すべきです」
「ゴンドラン卿。だが、どうするというのだ。相手は、私もよくさせてもらっている家ではないか。その嫡子を手にかけるなど―――」
「大丈夫ですよ。なんの問題もない。その道のプロが、ここにいますから」

 そんな銀髪紳士の言葉と共に。部屋の隅から……それまで何もなかったようにしか見えなかった空間から、一人の少年が現れる。
 年のころは十歳ほどだろうか。短い金髪の少年であった。どうも悪戯坊主のようにしか見えず、とてもこの場には似つかわしくない存在だった。

「初めまして、ラ・ヴァリエール公爵。『元素の兄弟』の長兄、ダミアンと申します」

 少年は見かけによらず、落ち着いた声音で挨拶をすると、深々と公爵に向かって頭を下げた。その動作からは、見た目から予想していた幼さはまったく感じ取れない。
 子供ではないか、という公爵の言葉は、口から出る前に自然と喉の奥へと飲み込まれる。それほどにダミアンの発する気配が異常だったのだ。
 経験からして。公爵は、眼前の少年がまともな人間ではないとすぐに気が付いた。

「こう見えて、この少年とその兄弟たちは腕利きの傭兵です。少々、値は張りますが。なにせ元『北花壇騎士』ですから」

 北花壇騎士。

 ガリア王国の、闇に葬られた第四の王立騎士団の名だった。その名はトリステインでも知らぬ者はほとんどおらず、かといってその実態を知る者はいない。
 全てがあやふやで、全てが陽炎のように痕跡を残さないのだ。
 前回のライン戦争後に団長が不審な死を遂げて以来、崩壊状態のままであったと伝えられているものの。
 団員はこうして生き延びていたのである。

 公爵は悩んだ。このような手を使うのは、どうも心のどこかで引っかかりを覚えるが……。
 だが、自分の愛する妻に手を出されたのだ。自分の預かり知らぬところで妻の心を惑わし、その身を汚した……許すべきではない。
 クルデンホルフ家に対してどうという感情はない。悪いのは、あの男一人なのだ。

 そんな公爵の決意を感じ取ったのか。ダミアンはどこまでも落ち着いたまま、どこまでも見た目らしからぬ口調で言った。

「相手が相手なので……お代は三十万エキューですね。それでお受けいたしましょう。いかがいたしますか?」

 無茶苦茶な金額だった。そんな大金を出す余裕は、普通の貴族ならば、絶対にあるはずがない。
 ダミアンとて値切ってくることは想定の範囲内である。この額全てを最初から払わせることが出来るなどとは、決して考えていなかった。
 だが、ラ・ヴァリエールは違う。
 伊達に公爵家として存続してきたわけではない。クルデンホルフほどではないが、財政はトリステインではもっとも豊かな方なのだ。

「……わかった。支払いは近日中に必ず行おう」

 もう迷わずに公爵は首を縦に振る。それを見て、ゴンドランも静かに頷いた。ダミアンは少しばかり驚くも、すぐに契約書を取り出す。

 この密室でのやり取りを知る者は、彼らだけである。いかなる部外者も、この契約を止める術は持っていない。

 果たして、ヴェンツェルの命運や如何に。









 ●第十六話「悪夢」









 同月、フレイヤの週はエオーの曜日。

 なぜか、前日のユルの曜日に授業を欠席していたアンリエッタが、今日は学院に戻って来ていた。その顔は浮かない。 
 ルイズはそんな親友のことが心配になって、一生懸命に声をかけていた。だが、それでもやっぱりアンリエッタの顔色は悪いままである。
 どこか白百合のような可憐さを持ち合わせ、男性生徒たちの目を潤わせていた少女の変貌ぶり。
 それは、誰もが気になるところではあった。

 ヴェンツェルも当然、それを気にかけてはいたのだが……。
 実家に問い合わせてみたところ。どうにも、アンリエッタがゲルマニア皇帝に嫁ぐなどという噂があるという返答が戻ってきた。
 それはつまり、彼女の『ヘンリエッタ・ステュアート』としての生活が終わりを迎えることを意味している。まったく驚きの事態だった。
 たとえヘンリー王が生きていようと、トリステイン一国でアルビオンに対抗することは、不可能であったらしい。
 だが、アルビオンにとって最大の援助国であるゲルマニアを切り崩せるのなら……。それは、決して悪い話ではない。

 個人的に思うところは、少なくないが。ただの学生であるヴェンツェルに、外交問題すら孕んでいる懸案事項に口を挟む権利などないのである。


 その晩は、この冬で初めて雪が降った。
 雪が降るほどなのだから、外の気温は氷点下に近くなっているだろう。積り始めているのを見れば、もしかしたら氷点下であるかもしれない。

 寮塔の暖房が利いた部屋で、ヴェンツェルは今年最後となる課題に手を付けていた。
 不義理を働いたにも関わらず、レイナールはなんだかんだ言って課題を手伝ってくれたのだ。なので、後は今手を付けている風魔法に関するレポートだけだった。

 そんな彼の机のすぐそばに置かれたベッドの上では、なぜかセーターを一枚しか着ていないカリーヌがぺたりと座り込んで、何やら毛糸を編んでいる。
 ルイズにも教えた事がある編み物をしているのだった。
 それでいて途中で手を止めては、時々頬を染めて自らのお腹の辺りを手でさすっている。無論、そんな仕草は背を向けている少年が気が付くはずもない。

 ―――それから一時間ほど経った頃だろうか。ようやく課題を終えたヴェンツェルは、大きく伸びをした。ずっと椅子に座っていると疲れるものである。

 カリーヌは、編み物をしているうちに眠ってしまったようだ。口の端から涎を出して眠りこける顔の横には、ここ数ヶ月で腕を上げた彼女の作品がある。
 あまりに無防備な姿だ。心配になる。まあ、それはそれで彼女から信頼して貰えているのだろうが……。
 風邪を引いてしまわないように、毛布をかけてやる。しばらく、どこまでもあどけない寝顔を見つめていたが。
 そのうち、部屋のドアを開けて外へ出た。

 少し、気分転換がしたかったのだ。

 傘を差し、マントを羽織る。そしてわずかな光しかない魔法学院の中庭へ出た。
 吐く息は白く、身を刺すような冷たさが彼の体を襲う。
 ふとなんとなく……炎が出る剣『レーヴァテイン』があれば暖かいかもしれない、と思ったのではあるが。ついぞ、彼はそれを取りに戻ることはなかった。

 しゃくしゃくと雪を踏み鳴らし、しばらく歩いた頃。雪に埋もれた魔法学院の正門が見えた。
 衛兵はいないようだった。それはそうだろう。こんな雪の晩に外へ出ていては、寒さで凍えてしまうだろうから。

 そのとき……。風メイジの特長である耳のよさが役に立った。
 門の向こうから、何かが近づいてくるような音がした。馬車かなにかだろうか? こんな雪の日に、何をしているのだろう。
 だが、その音はすぐにやんでしまう。代わりに聞こえてきたのは、二人ほどの話し声だった。

 いったいどうしたのだろう。ヴェンツェルは気になって、『レビテーション』を使って正門を乗り越えて行く。


「だから言ったじゃない。日を改めようって。ドゥドゥー兄さまは本当にグズでしょうがないわ」

 屋根の無い荷馬車の上で、真っ黒な傘を差した少女が言う。紫色の髪に、どこか人形そのもののような美貌の人物だった。
 どこか底の見えない冷たさと危うさを放っており、不気味さを醸し出している。
 そんな彼女に、雪を被ったまま手綱を引こうとしている若い男性が、唇を尖らせながら反論を述べる。

「いや、だがなジャネット。兄さんがさっさとやれと言うんだから仕方ないじゃないか。代金は前金で全額払ってもらったって話だし」
「まあ。このご時勢にずいぶんと豪勢なお方もいるのねえ」
「そうだ。だからまぁ、さっさと仕事を片付けてしまおうじゃないか」

 しかし、そうは言うものの。車輪に雪が挟まってしまっているらしく、馬車はなかなか前進出来ないでいる。
 そんな二人組の前に……。金髪の少年、ヴェンツェルが現れた。彼は『フライ』で浮きながら、ドゥドゥーとジャネットの前にやって来る。
 ドゥドゥーが貴族の格好をしていることに気が付いたらしい。訝しげな表情で、少年は問いかけてくる。

「どうしたんだ? こんな日に馬車でこんなところをうろつくなんて……、自殺行為だぞ?」
「ええ、ちょっと野暮用で……。あら。あなた、魔法学院の生徒さん?」
「……そうだが」

 ヴェンツェルの問いかけに、ずいっと顔を前へ出してきたのは。どこか妖しげな雰囲気を放つ少女だった。
 そうして、じっと眼前の少年の左右非対称の眼を覗き込んでくる。

「あなた……。もしかして、月目?」
「月目といえば、今回の標的と同じだな。ええと、名前は……ああ、あった。ヴェンセラス・シャルル……クーデンホーフ?」

 ふと、馬車の手綱を引いた若い貴族が懐から紙切れを取り出し、そんなことを呟く。意味としては間違っていないが、発音が微妙に違う。
 というより、なぜこいつらは自分のことを知っているのか。
 それはひとまず置いておいて、憮然とした顔をしながらヴェンツェルは答える。

「ヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフだ。知ってるなら名前なんか間違えるなよ。で、いったい僕になんの用だ。きみたちは誰だ」

 ヴェンツェルがそう名乗ると、ドゥードゥーとジャネットは顔を見合わせる。そして、ほっとしたように口を開いた。

「まあ。これは運が良いわねえ」
「まったくだ! いくらぼくでも、魔法学院にいる全てのメイジを相手にするのは、さすがに骨が折れるからね」
「……なんのことだ?」

 なおも眉をひそめながら問いかけると……。若い貴族は「しまった」という表情になった。

「ああ、すまない。名乗り遅れた。ぼくはドゥドゥー。こっちは妹のジャネット。その界隈では『元素の兄弟』って呼ばれてるよ」
「近ごろ『原子の兄弟』って紛い物が出てるけど、本家はわたしたちの方よ」

 元素の兄弟? どこかで見たような気がするその名前に、ヴェンツェルは思わず考え込み……ふと、結論に至る。
 そうだ。こいつらは『史実』で才人の命を狙う、元北花壇騎士じゃないか。つまり、そんな連中が自分を知っているということは……!
 背中に嫌なものを感じて、咄嗟にヴェンツェルは飛び退く。
 すると。ドゥドゥーは驚いた顔になって声をかけてくるではないか。

「おや! どうして逃げるんだい」
「兄さまがグズだから、わたしたちの目的に気づかれたんじゃない?」
「それはまずいな。それなら、学院に逃げ込まれる前になんとかしないと。依頼の範疇を越えた殺しはしたくないしね」

 そんなやり取りのあと、ドゥドゥーは手綱を放して馬車から降りる。よく見れば、彼の体はとてもよく鍛えられているということがわかった。
 おぼろげな記憶を探る。確かあのドゥドゥーという男は、自分の体に『硬化』をかける事が可能なはず。それでデルフリンガーを弾いたはずだ。
 デルフリンガー。いつの間にやら城から姿を消していた剣のことを思い出すも……、今はそのことに気を取られている場合ではない。

「なるべくなら大人しくしていて欲しいな。もう代金は貰っているからね。早く終わらせたいから、抵抗はしないでくれよ? 無駄だからさ」

 それには答えず。ヴェンツェルは、いきなり『クリエイト・ゴーレム』を詠唱した。
 すると即座に、鈍い輝きを放つ一体のゴーレムが出現し、それが猛烈な勢いで目の前の男……敵へ飛び掛る。
 ギーシュの『ワルキューレ』ほどの数は出せないものの、ヴェンツェルのゴーレムは単体の戦闘力で『ワルキューレ』を凌駕していた。
 生身の人間ではまったく歯が立たない相手であるし、それは目の前の相手とて同様であったはずだった。

 しかし。
 次の瞬間、ドゥドゥーが抜き放った極太の青白い『ブレイド』によって、ゴーレムはいとも容易く両断されてしまう。

 驚く暇もなかった。急加速した敵の魔法刃は、瞬く間にヴェンツェル目掛けて突進してくる。
 それを受け止めようとして……。今の自分の力ではそれが不可能なことに気が付かされる。とっさに身を捩って、無理やり回避した。
 だがそれでも、彼の『シュヴァリエ』のマントは切り裂かれてしまったのだが。

「おや! 驚いたな。今のをかわせたのはきみで二人目だよ」

 そう喋る男の『ブレイド』は地を穿ち、雪を吹き飛ばしてその下にあった土を抉り取っている。
 あれをまともに受ければ、人間の体など一撃で粉々になってしまうだろう。そう思わずにはいられなかった。

「くそっ、誰だ! 誰がお前たちを雇った!」
「あら。そんなこと言えるわけないじゃない。おばかさぁん」

 この寒さの中で、額に汗を浮かべながらヴェンツェルは叫んだ。しかし。当然ながら、それにまともな答えなど返ってくるはずもない。
 やむなく自分も虹色の『ブレイド』を杖先に展開する。かつての物に比べればずいぶんと出力が増していたが、ドゥドゥーに比べるとやはり小さい。
 それでも無いよりはマシだという判断をして、彼は杖を突き出す。

「おや! チャンバラかい! それも悪くは無いな」

 そう言うなり、ドゥドゥーは再び切りかかってくる。
 振り下ろされた青白い『ブレイド』を、自らの『ブレイド』で片手で受け止めながら。ヴェンツェルは懐のナイフを取り出し、空いた右手で敵に突きたてようとする。
 しかし。それは『キン』という高い音と共に防がれてしまう。
 『硬化』発動前に一撃を与えようとした攻撃だったが、それは失敗したようだった。

「メイジらしからぬ戦い方だねえ。悪くない。だけど、ちょっと遅いかな?」
「っ!」

 ナイフを弾いたドゥドゥーが『ブレイド』を横なぎに振るう。近距離ゆえに、それを回避することは叶わなかった。

 刹那。

 何かが、自分の体の横で宙を舞うことを感じて、自分の左腕に視線を移せば……。

 ―――ない。

 つい今宙を舞ったのは、どうもヴェンツェルの左腕であったらしい。二の腕から下を切り落とされたそれは、杖を握ったまま雪原を赤く染める。
 メイジは、杖が無ければ魔法を使うことも出来ない。まして、目の前の驚異的な戦闘力を持った人間に勝つことが出来るはずもない。
 守るべき者もおらず、圧倒的な実力差を見せ付けられ、戦意を喪失してしまったヴェンツェルには……もう抵抗する術が無い。

「だから言っただろう? 抵抗するだけ無駄だって。きみじゃあぼくには……。いや、ぼくたちの誰にも勝てないよ。まあ、お疲れさんだね」

 子供のような、どこまでも歪んだ笑みを浮かべながら。
 ドゥドゥーはなんのためらいもなく、目の前の“標的”の心臓目掛けて『ブレイド』を静かに突き立てる。


 そして……。


 真っ白な雪の原を。ヴェンツェルの血液が、赤い染みのように、次々と染めていった。





 *




 あいにくの降雪に見舞われたトリステインと違い、浮遊大陸であるアルビオンは晴天に恵まれている。

 ハヴィランド宮殿でティファニアが“その感覚”を覚えたのは、もう食事も入浴も終えて、寝ることを残すばかりとなったときの事だった。
 彼女はその得体の知れない感覚に数分襲われ……、しばらく経つ頃には、その感覚は消えうせていた。
 それと同時に、それまでは微弱ながら常に感じていた“使い魔”との繋がりを急に失ったような、そんな奇妙な感覚が押し寄せてくる。
 
 “神の心臓 リーヴスラシル”。それがティファニアの得た使い魔であり、そしてそのルーンが刻まれているのは……。

 言い知れぬ不安に、彼女は思わず杖を懐から取り出す。

「まさか、思い過ごしよね。きっとそうに決まっているわ……」

 誰にも聞こえないほどの声で、ティファニアは呟いた。その美貌には焦りの色が見え、表情は硬い。とにかく、思い過ごしであって欲しいと思わざるを得なかったのだ。
 だから、彼女は『サモン・サーヴァント』の呪文を唱えたのであったが……。

「うそ……」

 彼女の目の前には、ちょうど自分の身長ほどもある大きな『鏡』が出現しているではないか。
 それはつまり……。ティファニアの使い魔が何らかの事情で命を落としたことを、彼女の“お友だち”がこの世を去ったということを意味していた。
 訳がわからない。
 あの奇妙な感覚は、本当に使い魔との繋がりが切れてしまったことを知らせたというのか。

 思わず、ティファニアは冷たい大理石の床にへたり込んでしまう。長い耳が垂れ、彼女を混沌の底へと突き落とした。






[17375] 第十七話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:cd780691
Date: 2010/11/20 01:48
 どこだろう、ここは。

 立ったまま気を失っていたらしい。俺が目を覚ますと、そこは異様な光景の空間が広がっていた。

 見た限りでは大まかな時間すらもわからない。周囲は薄暗く、あまり視界が良くない。おまけになんだかキナ臭さが漂ってくる。
 空はよくわからないが真っ黒な物体で覆われ、太陽があったとしてもここまでその光を通すことは出来ないだろう。
 地面には草一本生えていないし、たまに木があっても、それには葉っぱの一つも付いていやしない。沼はやたらと毒々しい色をしている。
 この場所で動くものといえば、せいぜいが俺だけだ。

 ふと、切り落とされたはずの左腕を見る。なぜかくっついていて、引っ張っても取れるということはなかった。
 そりゃ片腕でいたくはないけどさ。不思議なものだ。てっきりどこかへ行ってしまったと思っていたのに。
 さて。
 自分はどうしてこんなところにいるのだろう。思い出すと―――確か、ドゥドゥーとかいう元『北花壇騎士』と戦ったんだった。
 そして負けたんだ。心臓を狙われて、『ブレイド』が迫って来たところで意識を失って……。

 恐らく、俺は死んだ。

 まあ、別に驚くことじゃない。
 今までだって何度も死にそうな目に遭ってきたんだ。そろそろヴァルハラへ送られても……。
 いや、ここがヴァルハラであるようには見えない。どちらかと言えば、地獄だろう。どの地獄なのかはわからないが。

 これが報いってやつか。
 あれが駄目なことだってのはわかってたけどさ。でも……。仕方ないじゃないか。いろいろあったんだ。

 ……それは置いておくとして。

 しばらく、宛てもなく不毛な大地を歩いていくと。時おり吹いてくる北風がやけに肌を刺してきた。これはたまったものじゃない。
 かといって視界に映るのは、やっぱり何もない荒涼とした世界なわけで……。雨風もしのげないのは困るな。
 せめて廃屋か洞穴があれば……。いや、そんなものはあるわけもないか。

 生まれ変わるまでか。あるいは未来永劫。このわけのわからない空間をさまようことになるのだろうか。
 どちらにせよ、もう俺がハルケギニアへ戻れる可能性はなさそうだ。
 そう思うと、なんだか向こうのことばかり思い出す。
 家族のこと。レイナールに手伝って貰った課題が無駄になったこと。ゲルマニアのおっさんへ嫁がされるアンリエッタ、覚醒するのか怪しいルイズ。
 恐らくはルーンが消滅してしまった、ティファニアとの契約。そして、魔法学院に残したままのカリーヌ。
 みんなどうなってしまうのだろう。

 そんなことを考えた時のことだった。

「ヴェンツェル」

 俺の背後から、どこか懐かしい声が聞こえてきて―――慌てて後ろを振り返ると。
 いつかぶりの紅い髪。驚くほどに真っ白い肌。そこそこに背が高く、大きな瞳の女の人が俺をしっかりと見据えている。
 この人には見覚えがあった。見間違えようもない。そんなことは絶対にあるはずがない。

 そう、彼女は。

「ヘスティア……」

 このときの俺に出来たことはといえば。ただ間抜けな面を浮かべて、目の前に立つ女性の名前を呟くことだけだったのである。



 *



 夜が明けたばかりの、トリステイン魔法学院。

 朝のこの時間では、まだ学院の生徒たちは起きていない。早起きの使用人たちが、白い息を吐きながら学院の廊下を早足に過ぎていく。
 そんな人々に混じって……。
 この学院で『風』系統の授業を受け持っているカリーヌは、忽然と姿を消してしまったヴェンツェルを探して白い雪を踏み鳴らしていた。
 彼女はどこか不安げな表情をしている。どうにも、自分の中で胸騒ぎを覚えているらしかったのだ。

「いない……」

 もう何週と学院の敷地内を回ったのだろう。どこを捜しても、ヴェンツェルの姿はなかった。
 自分になにも言わず、いったいどこへ消えてしまったのか。
 すっかり冷えてしまった手を擦り合わせながら、自らの細い体が冷え切っていることに気がつく。これ以上はよくないだろう。
 ひとまず、教員寮にある自室へ戻ることにした。


 それから一日が過ぎても、ついにヴェンツェルは戻って来なかった。

 これはいよいよおかしい。
 そう考えたカリーヌは、その日の授業が終わったあとに、オスマン氏に捜索隊の編成を依頼しようと学院長室を訪れた。
 ノックをして、内側から返答があったことを確認すると。彼女は飛び込むようにして、部屋の中に入り込んだのだが……。
 そこでは、まったく予想外の人物が待ち構えていた。

「あなた……」

 椅子に腰掛け、どうにも困り果てた顔をしているオスマン氏の向かい側。つまりは出入り口側には。
 カリーヌの夫であるラ・ヴァリエール公爵が、なんの感情も窺えない表情で立ち尽くしていた。
 どうしてこの人がここにいるのか。なぜやって来たのか。そんなことを考えている暇もなく、公爵は嘆かわしいといった様子で口を開く。

「カリーヌ。そろそろ戯言は終わりにしよう。お前はラ・ヴァリエールの公爵夫人なのだ。いつまでもこんなところで遊んでいるな」
「……遊んでいる? なんのことですか。わたしは―――」
「ミスタ・オスマン。申し訳ないが、少し席を外してはいただけないだろうか。ここから先は、他人の耳に入れるのはあまりに醜聞に過ぎると思うので」

 何か言おうとするカリーヌの言葉を遮り、公爵はオスマン氏に向かって声をかける。
 それを受けた白髪の老人は、やれやれ面倒事になったもんじゃと呟き、自らが主であるこの部屋を後にしていく。
 彼が部屋を出て、ぱたんとドアの閉じる音がしたあと。部屋の外周一帯に『サイレント』をかけ、公爵はまた口を開いた。

「なに、私はお前を責めるつもりは毛頭ない。ただ、少し療養が必要だとは思っている。……そうだな、静養地にラ・フォンティーヌはどうだろう。良い森がある」
「……どういうことですか」
「良いのだよ。カリーヌ。私は不躾なことはなにも尋ねない。ただ、きみの心が落ち着くことを待っているよ」

 明確な言葉は吐き出して来ない。だが、そうであったとしても。なぜ夫がこのような行動に出たのか、それがわからぬカリーヌではない。
 嫌な予感が脳裏で渦を巻いたまま、どんどんと肥大化していく。それはもうどうしようもないほどに、止めようがないほどに膨れ上がる。
 行方知れずのヴェンツェル。このタイミングでの、自分を連れ戻そうとする公爵の来訪。
 それはつまり……。

「あなた……。何をしたのですか。いったい、彼になにを……」
「私はなにもしていないよ。ただ、きみを迎えに来ただけだ。“目障りな蝿がいなくなったからな”。」
「……っ!」

 公爵の飄々とした答え。そしてその刹那、カリーヌの全身から猛烈な『風』の力が巻き起こった。
 全盛期そのままの強大なエネルギーは、魔法も使わずに学院長室の内装を次々と破壊する。
 重い本棚の本が宙を乱舞し、観葉植物が根元から引き裂かれる。風圧で窓枠が吹き飛び、ガラスが砕け散った。書類が乱舞し、瞬く間に千切れて吹き飛ぶ。
 だが、それでも。
 冷静なまま、公爵は身じろぎもせず。ただ指をぱちんと鳴らすにとどまったのだ。

「ジャネット……と言ったかな。仕事はきっちりと頼むぞ」
「ええ。追加のお代の分はきっちりと働きますわ」

 公爵の合図と共に、広い部屋の暗がりから現れたのは。
 『元素の兄弟』の一人、ジャネットだった。彼女はただ静かな眼差しでカリーヌを見据える。熟した苺のように赤い舌で、自らの唇を拭う。

「ふふ、可愛い子だわ。……でも、あなたは今回の“標的”だから。残念だけど、お仕事をさせてもらうの」

 少し残念そうに眉を下げ、しかしどこまでも妖しげな瞳をきらめかせながら。
 杖を手にしたジャネットは、果てしなく妖艶な笑みを浮かべる。

「……っ!」

 目の前の少女がなにか魔法を使おうとしていることは、すぐにわかった。
 それを察知したカリーヌの動きは素早い。咄嗟に後ずさり、自分に杖を向けている少女目掛けて『エア・ハンマー』を詠唱。
 豪速の風の槌が、悠々と立ち尽くしているジャネットを吹き飛ばそうとする。
 だが。その攻撃は、公爵の『ウォーター・シールド』によって無力化されてしまった。
 彼とて水のスクウェアメイジである。カリーヌほどの魔力はないが、だからといって致命的に遅れをとっているわけではない。

 それを見たカリーヌは、今度は接近戦に出ることにした。
 今度は風の魔法で前進。勢いを維持したまま、『ブレイド』を展開させた杖をジャネット目掛けて振り下ろす。
 しかし。その斬撃が目の前の少女に届くことはなかった。
 なぜなら……公爵が、カリーヌとジャネットの間に立ちふさがったからだ。それもまったくの丸腰で。

「そこを……!」
「退かぬよ。ただ、安心はしたさ。ためらいもなく私を切り捨てるほど、情を忘れたわけではなかったのだな」
「……っ!」

 公爵が見せたのは笑顔だった。動揺し、ほんの一瞬の間、カリーヌは攻撃することも引くことも出来ずにいたのである。
 そして、それが致命的なミスとなってしまう。ジャネットが風の魔法で、硬直したカリーヌの手から杖を弾いたのだ。
 からからと音を立て、杖が学院長室の床を転がっていく。

「あの月目の子も、杖を落とされて呆然としてたわねぇ」
「腕ごと切り落としたのだろう? まったく、きみたちは趣味が悪い」
「あら。卿ほどではありませんわ」

 ただ世間話をするかのように。二人は、なんの感慨もなくただ会話を行う。それはどこまでも空々しく、どこまでも不気味さが漂うものであった。

「あ、あなたたちは……そんな……」

 杖を失った挙句、ジャネットの言葉を聞いて茫然自失となるカリーヌ。そんな彼女を見据えたまま……。紫髪の少女は、己の魔法を詠唱した。



 ―――それから少ししたころ。

 学院長室の前で、オスマン氏が水キセルを吹かしていると。唐突に、部屋のドアが開かれた。
 そしてぞろぞろと、三人ばかりの男女が姿を現す。ラ・ヴァリエール公爵に、カリーヌ。そして見慣れぬ少女であった。

「……お話は終わりましたかな?」
「はい。この度は、私の妻がご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。この償いは必ず、近いうちに」
「う、うむ……。まあ、ワシとしては問題はなかったんじゃが……」

 頭を下げる公爵。その後ろでは、虚ろな目をしたカリーヌが一言も発さずに立ち尽くし……。見慣れぬ少女が熱心に観察している。
 オスマン氏とて高名なメイジである。あの名も知れぬ少女が放つ得体の知れない空気は察知した。だが、それに言及することはしない。
 ただ彼は、去り行く公爵たちの背中を見送った。


「あ! なんですか、これは!」

 ふと、気の抜けるような声が学院長室の入り口からする。誰かと思えば。それは、オスマン氏の秘書のリディアだった。
 眼鏡を盛大にずらし、大きな胸をやたらと揺らして老人の目を楽しませつつ。彼女は駆け寄ってくる。

「大変ですよ! 学院長室の中がめちゃくちゃに……」
「なんじゃと!?」

 秘書の言葉を受けたオスマンは、大慌てで自らの部屋へと駆け込み…………そして、そのまま失神するのであった。









 ●第十七話「死者の国」









 どうも、ここは本当に死後の世界であるらしい。

 ヴェンツェルの目の前に現れたのは、二年ほど前にアーヘンで起きたデメテルとの戦いで散ったはずのヘスティアであった。
 彼女は一瞬だけ悲しげな顔に崩しかけながらも、すぐに硬い表情を取り繕った。そして、ヴェンツェルの手を取って歩き出す。

「ヘスティア……きみは、本物だよな? それに、ここはいったい……」
「わたしはわたしよ。そして、ここは『ヘルヘイム』。そうね、死者の国……とでも言えばいいのかしら」

 死者の国? それはまた奇妙なものがあるというものだ。死人が国を作っているなどとは、聞いたこともない。
 しかしいったい、なぜ自分がこんなところにいるのか。なぜヘスティアが現れたのか。まったくわからず、ただ混乱するしかない。
 そんな、次々と押し寄せる疑問に押しつぶされそうになっているヴェンツェルに向かって、手を引く女性はただ強く手を握り締める。

「大丈夫。あなたはまだここへ来るべきじゃない。今回はちゃんと帰らせてもらえるはずよ」

 再会したというのに、浮かれない顔のヘスティアに手を引かれたまま。やはり、未だにヴェンツェルの疑問は晴れないのであった。



 導かれるまま、ヴェンツェルが荒地をしばらく歩くと……目の前に巨大な垣根と門が出現した。驚くほどに巨大な構造物である。

 下部の方を見れば、その近くには何やら門番のような人間が立っている。ようやく人らしいものを見つけた……と思ったのではあるが。
 腐っている。
 まるで映画や何かのゲームソフトに登場するゾンビのように醜悪で、思わず嫌悪感を覚える奇怪な物体でしかなかった。
 「あれは罪人の成れの果てよ」とはヘスティアの弁だった。それを聞いたヴェンツェルは、己もああなってしまうのだろうか、と戦々恐々の思いである。

 門は、しばらくしてから大きな引き摺るような音と共に内側に向かって開き始めた。
 ヘスティアはためらうことなく、再びヴェンツェルの手を取ってその内側へと歩みだした。

 敷地内と思われる場所には、外部とは違って、比較的にまともな光景が広がっているのが見えた。
 とはいえ、手付かずの森が無造作に広がっているので、なにをどう進めば目的地に着くのかすらわかったものではない。
 それがヴェンツェルの感想であったのだが。ヘスティアはまったく迷うこともせずに、堂々と一歩を踏み出した。
 そしてゆっくりと、足元に気をつけながら、木の根が地面まではみ出した道なき道を進んでいく。

「気をつけてね。もしガルムに出会ったら、時間を稼ぐから逃げて。あの子は懐いた相手じゃないとすぐに噛み砕いちゃうの」
「ガルム? 噛み砕く?」
「ええ。大きな犬なんだけど……。ちょっと凶暴なのよ」

 犬に噛み砕かれるとは尋常ではない。それにそれは“ちょっと”どころではないのではないか。どれだけ凶悪な犬なのだ。
 死んでからまた殺されたのでは、それはまったくたまったものではない。
 だが、今の時間のガルムは昼寝をしているらしい。よほどのことがなければ出歩いてはこないだろう、とのことだった。

「もうすぐよ。お屋敷の入り口には落とし穴があるから、気をつけてね」
「なんでそんなものが……」
「これから会う、そのお屋敷の持ち主の趣味なのよ。わたしはそこでお世話になってるの」

 どんだけ趣味が悪いというか捻じ曲がっているんだ……。という言葉は飲み込む。
 ヘスティアがお世話になっているというのに、悪口は言えないだろう。

 それからすぐ、手を引く女性の言葉通りにヴェンツェルは『お屋敷』にたどり着いた。
 どこか邪悪な雰囲気を放つ、西洋風の屋敷だ。苔やら木やらに表面をぐるりと覆われていて、内部はとても湿っていそうである。

「……大丈夫なのか、あれ」
「問題ないわよ。外観は彼女の趣味だから。中は綺麗で快適なの」

 やっぱり趣味が悪い。残念ながら、ヴェンツェルはそう思わずにはいられなかった。
 目の前のホラーハウスのような物件と、自分の住まいを意図的にそうしてしまう人物の趣味など、到底理解できぬものであったのだから。


 なんとか玄関の巨大落とし穴を回避したヴェンツェルとヘスティアは、屋敷の応接間にやって来ていた。

 なるほど、確かに屋敷の内部は外観からは想像も出来ないほどに綺麗で、まるで貴族の屋敷のように手入れが行き届いていたのである。
 何かの偉人なのだろうか。丸っこいルーン文字で『お母さま』と書かれた石の台座に、見事な金色の彫刻が鎮座していた。
 よく見れば、似たような人物を表現したらしい絵画が、部屋の壁の至る所に設置されている。
 それら額縁に納められた絵の中には、どう見ても男にしか見えない物もあったが……。

「ようこそいらっしゃいませ。下人のガングレストと申します。お茶をどうぞ」

 まるで気配を感じさせずに現れたのは。灰色の髪の、どこかおっとりした雰囲気を放つ女性だった。それに美人である。
 身にまとっているメイド服は、魔法学院のメイドたちが着ているものよりもずっと露出が多い代物だった。豊満な胸部が一部露出するほどである。
 あまりにヴェンツェルが凝視するので、ガングレストは恥ずかしそうに頭を下げて退出してしまった。
 そんな少年の頭を、ヘスティアが無言で引っぱたく。そして忠告する。

「ヴェンツェル。あの子にはガングラティって旦那さまがいるの。迂闊なことをしちゃだめ」
「……ご、ごめん」

 そう諭され、ヴェンツェルは素直に謝罪の弁を述べた。
 それがあんまりにもしょぼくれた様子だったので、それまで硬い表情を崩さなかったヘスティアが小さく微笑んだではないか。

「まったく。どこまでも、あなたはあなたのままなのね」
「それはどういう意味だい?」
「さあ?」

 ひゅうとおどけたような口調でヘスティアはヴェンツェルをからかった。
 内心では、ようやく彼女がそういった表情を見せてくれたことを嬉しく思いつつも。からかうときの表情があんまりなので、一応は怒ったような態度を取り繕う。
 それからは、今までの若干しこりを残した空気が徐々に薄れていく。
 お茶の注がれたカップに口を付けてから――その味の良さに驚きつつ――ヴェンツェルは口を開いた。

「ヘスティア。僕は死んだんだよな」
「ええ。ここは死者が送られてくる場所ですもの。もっとも、今となってはごく一部の人しかここには来られないけど」

 ごく一部の人。そこ言葉がどうにも引っかかっているものの、大して重要ではないと判断する。
 なぜならば、ほぼ間違いなくヴェンツェルはその“ごく一部”に含まれているのだから。訊くだけしょうがないというもの。

「で、さっき“彼女”って言ってたよな? ここの主ってのは女の人なのかい?」
「ええ、そうよ。あの子は―――」

 ヘスティアが、そう口を開こうとしたとき。唐突に応接間の扉が開けられ、何者かが姿を現した。

 思わず振り返ると……そこにいたのは。妙に背の低い小さな女の子だった。年の頃は、十代になりたてといったところだろうか?
 それこそ夜空のような真っ黒い髪を長く伸ばしていて、それとは対照的な白い服を身にまとっている。漆黒の瞳は大きく、やたらとくりくりと動いていた。
 この屋敷の主の娘かなにかだろうか。やけに既視感を覚えるのは、気のせいであるのか。
 いずれにせよ、少し不思議な容貌の少女だ。
 そして、彼女はヴェンツェルを一瞥すると、その隣のヘスティアに向かって声をかけた。

「シンモラ、ありがとう。ご苦労だったな。……まったく、よりによってこんな時期に堕ちてくるとは。どうしようもないザコだな、お前は」

 いつか聞いたヘスティアの本名―――シンモラの名を呼び、そしてすぐさまヴェンツェルを罵倒してくる。

「……なに? 誰がザコだって?」
「なんだ、自分のこともわからぬほどに愚かだったのか。お前はお母さまの計画の肝心要なんだぞ。なのに、ただの人ごときにおめおめと負けおってからに。恥曝しもいいところだ」
「……」

 意味不明である。なぜ、この少女に出会い頭から罵倒を受けなくてはならないのだろう。
 それに『元素の兄弟』のどこがただの人なのだ。下手をせずとも、あいつらは怪物ではないか。

「まあまあ。そのくらいにしておきなさいよ。ヴェンツェルがこの間までやっていた行動は、わたしとしても酷く許せないけど。噛み付きたいけど」

 そう言い、腰掛けていたソファーから立ち上がったヘスティアは、少女の頭をなだめるように撫で始めた。
 すると……、あっという間に黒髪の少女はきっと結んでいた唇をだらけさせ、紅髪の女性の胸元に顔を埋めこんだではないか。
 このときの、あの生意気な少女の表情は、見た目の年相応のあどけないものとなっていた。
 やはり大きな胸には母性を感じるのであろうか?

「……訳がわからない。誰だ、お前は」
「わたしか? ……なんだシンモラ。まだ話していなかったのか」
「あ、うん。ごめんさいね」

 しまった、というふうにヘスティアは舌をほんの少し出した。その顔には反省の色はあまり見えない。
 黒髪の少女は一度ヘスティアの体から離れ、向かい側のソファーに腰掛ける。長く真っ白な足を組み、えらそうに踏ん反りかえる。
 どこまでも偉そうだった。ちょっと頭の可哀想な子なのだろうか。
 そんな憐憫の視線を向けられていると気が付いているのか、それともいないのだろうか。
 もったいぶった口調で、少女は小さな口を開くのであった。

「わたしはヘル! この死者の国ことヘルヘイムの女王であり、数ある神の中で唯一、死者を生者とする力を与えられた存在だ!」

 どうだ参ったか! と言いたげなドヤ顔になる少女。しかし、ヴェンツェルの行動は彼女の思った通りとはいかなかった。
 突然立ち上がると、ヴェンツェルはヘルの額に自分の額を押し付けたのである。
 急に異性の顔が近づいたせいか。真っ赤になる少女のことなど気にもせず、すぐに顔を離した少年は呟くのである。

「うーん。熱はないよなぁ。悪いのは頭の出来か?」

 その瞬間。ぶちっと、何かが切れる音がした。
 耳まで赤く染めたヘルの背後から、何やら大きな音が上がり始める。巨大な地響きのようなそれはだんだんと近づき、豪快に屋敷全体を振動させた。

「こっ、のっ……無礼者がっ! ガルム!!」
「バゥッ!」

 怒り狂ったヘルが『ガルム』の名を呼んだ瞬間。応接間の窓が外側から盛大にぶち割られ、一匹の巨大な犬が飛び込んできたではないか。
 応接間の床へ飛び散ったガラス片をじゃりじゃりと踏みしめて、怪犬は低いうなり声を上げる。

「ちょ、ちょっと、ヘル。それはやりすぎよ」
「う、うるさいっ! こいつが悪いんだ!」

 なんてことをしてくれたんだ、こいつは。やはり頭がおかしいのか。
 と、ヴェンツェルは自分よりも大きな犬を目前にして、焦りを交えつつも考える他なかった。この犬は何か異様な雰囲気を放っているのである。

「くそっ、なんだよ熱測ったくらいで。自称女王なら、せめてそれらしく振舞って見せろよ」
「なんだと! ガルム、この腐った性根を叩き直してやれ! …………ただし、殺しはするな!」
「バゥッ、バゥ!」

 万事休す。

 ガルムという犬は猛烈な勢いで飛び掛ってくる。ヴェンツェルはどうしたものかと考えたが。とにかく、逃げることにした。
 あの犬が破って来た窓枠を乗り越え、追撃を逃れるために走り出す。
 背後から襲ってくるプレッシャーは、双頭のオルトロスの比ではなかった。止まれば殺される。それが如実に感じられたのである。
 こうして、ヴェンツェルはヘルの邸宅の敷地内を逃走する羽目となってしまったのであった。

 苦笑しつつ、ヘスティアが窓から走り去るヴェンツェルの後姿を眺めていると……。ついと、彼女の着ていた服の袖が引っ張られた。

「ねえシンモラ。……本当に、あれが本物なのかしら?」
「ええ、間違いないわ。彼はわたしが今までで唯一愛した存在―――それを間違えようがないもの」
「じゃあ……」

 気遣わしげに、ヘルは自分よりもずっと身長の高いヘスティアを見つめる。

「いいのよ。前回のときのように、彼の足枷にはなりたくないから……」
「そう……わかったわ」

 ほんの少しばかり寂しそうに呟くヘスティア。ヘルはそんな彼女をただ見守ることしか出来ずにいた。



 *



「よし。さっさとお前を“上”へ送り返すぞ」

 ヴェンツェルがガルムに追い掛け回され、ずたぼろにされ、口にくわえられて応接間に戻って来たとき。
 ヘスティアと並んでソファーに腰掛け、ガングレストの出した紅茶をすすっていたヘルが、突然そんなことを言い出した。
 いきなり帰れと言われても、それはまったく意味がわからない。
 犬のよだれまみれになった体を拭きつつ、ヴェンツェルは困惑気味の表情で問いかける。

「なんでだよ。まだ来たばっかりじゃないか」
「はぁ。お前は生きて帰りたくないのか?」
「そりゃあ、帰りたいけどさ。無理だろ。死んでるんだから」

 お前は何を言っているんだ。とでも言いたげな仕草で、ヴェンツェルは首を振る。

「無理? さっき言っただろう。わたしは唯一“死者を生者とする力”があると」

 と平坦な胸を張って答えてくれるのだが……。いまいち信用性がない。それはそうだ。まだ出会ってほとんど経っていないだから。 
 だがそれよりも、ヴェンツェルにとっては耳に引っかかる言葉があったのである。

「……ん? じゃあ、ヘスティアも僕と一緒に生き返らせることができるのか?」
「それは……」

 その問いかけに。ほんの一瞬だけヘルは言葉に詰まり、ヘスティアを見ようとしたが……。すぐに、先ほどまでの強気な口ぶりに戻った。

「無理だ。今のわたしの力では、せいぜいお前一人を上の世界へ送るのが精一杯なのさ」
「自称神さまのくせに、ずいぶんとやれることがしょぼいんだな」
「……っ! 止めるなシンモラ!」
「ま、まあ。落ち着きなさいよ」

 ヴェンツェルに掴みかかろうとするヘルを強引に押さえ込みながら、ヘスティアは言葉を続けた。

「ヴェンツェル。わたしのことはいいから、あなたはハルケギニアへ戻って」
「だけど、せっかくまた会えたんだ。僕一人だけ戻るなんて……」

 当然といえばそうなのか。少年は自分だけで帰ることはしたくないらしい。だが、それはヘスティアとて同じ想いであることは間違いない。
 後々のことをいろいろと考えれば、迂闊にはそれができないというだけである。

「あなたには、あなたを待ってくれている人がたくさんいるわ。だからお願い。……あなたはハルケギニアにいなくてはならないの」
「よくわからないけど、それは……」
「ヴェンツェル」

 ヘスティアは己の真紅の瞳で目の前の少年を見つめる。真剣な表情で、がんとして譲らないという想いが透けて見えた。
 それがしばらく続いたころ……。ついに、ヴェンツェルが根負けする。

「…………わかったよ」

 ぷいと横を向いて、彼はただ押し黙ってしまう。
 それを見たヘルが、ようやくかとでも言いたげな顔で、何かの呪文を詠唱し始めた。
 徐々に、ヴェンツェルの体の周囲で何か黒い物体が“発光”を始める。どうにも、それは魔法の類ではあるようだった。しかし、根本的な部分で何かが違う。
 “先住”とも明確に異なっているようだ。精霊の力ではなく、まるで、ヘルそのものが力を生み出しているように見え……。
 暗黒の光が目を覆い隠したくなるほどに強まったとき。ヘスティアが、ヴェンツェルに歩み寄ってくる。
 そして、耳元で、ほんの少しの小さな声で告げた。

「ヴェンツェル。あなたはいつか“狡賢い者”を名乗る人と出会うと思うわ。そして、きっと『彼』はあなたに協力を求めてくる」
「……誰だい、それは」
「ろくでなしよ。どうしようもない人なの。今は封印されているけど……。『彼』が存在するだけで、ハルケギニアにはいずれ災厄が訪れる。だから、あなたはその人と出会ったら、すぐに殺して」
「殺す、って……」
「ヘルの手前、あまり言えないのだけど……。わたしはもう、あなたを……、世界を、あの人の思い通りにさせたくないの。だから、お願い」

 とても苦しそうな表情のまま、ヘスティアは……シンモラは言うのだ。だが、それがどういった意味を持っているのか。
 それは少年にはまったくわかりえないことであった。
 困惑したまま、ヴェンツェルは首を縦に振る。

「シンモラ! そろそろ離れて!」
「わかったわ。……じゃあね、ヴェンツェル」
「ああ。いつか、必ず迎えにくるよ」

 ヘルの怒鳴り声を受けて別れを告げるヘスティアに、ヴェンツェルは短く告げる。
 そして轟音が鳴り響き、それが少年の鼓膜を満たしつつあるなか―――彼女は、小さく呟いた。

「……わたしは、あなたの“女神さま”でいられたのかしら?」

 だが、その言葉はついヴェンツェルの耳には届くことがなかったのである。
 このとき、既に視界は“真っ黒な光”に覆い尽くされ、もう眼前のヘスティアの姿を認めることすら出来ない。
 最後に、ヴェンツェルの唇になにか温かいものが触れたように感じ……。

 彼の意識は、そこで途切れる。

 その直前。その最後に、彼はヘルの声を聞いた気がした。

 ―――「お母さまの計画に支障をきたしかねない“邪魔な記憶”があるわ。ついでに消しておきましょうか」と。





[17375] 第十八話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:8be960a9
Date: 2010/11/23 23:54
 まだ雪の残る、トリステイン魔法学院の正面に広がる大草原。

 三日ほど前に行方をくらませたヴェンツェルの消息は依然として知れず、事態をただ静観するに留めていたオスマン氏もそろそろ焦り始めた頃のこと。

 ここのところ毎日のように、トリステイン王国の王女であるアンリエッタは学院の正門から外の景色を眺めていた。
 そんな彼女に付き添うのは……桃髪の少女、ルイズ・フランソワーズである。
 既にトリステイン・ゲルマニアの両者が、皇帝と王女の婚姻に同意しているこの状況下において、アンリエッタに残された時間はほんの僅かであった。
 ルイズは幼い頃からの親友といえる少女と、出来る限り同じ時間を過ごしたかったのである。

 なのに。

 あの、クルデンホルフの馬鹿息子が行方をくらませて以来、アンリエッタはそのことばかり気にしているのだ。
 ルイズとてまったく気にならないわけではない。
 だがそれよりも、自分の母が突然教職を辞し、実家へ帰ってしまったという事実の方がよほど重要な事案であったのだ。
 どうも父がその一件に絡んでいるらしい、ということではあったのだが。それがどこまで信憑性を持っているのかまではわからない。

 とにかく、一度寮へ戻った方がいい。雪は止んでこそいるが気温はまだまだ低いのだから。
 
「ヘンリエッタ。そろそろ戻らない? いい加減体に悪いわよ」
「……もう少し。もう少しですわ」

 思いつめたような表情で、アンリエッタはルイズの言葉に従おうとする。
 なぜ彼女がそんな態度を取っているのかといえば……。
 それは、学院の門を出て少しのところで発見された、『シュヴァリエ』のマントのことを知っていたからだった。
 何か鋭利な物体―――恐らくは『ブレイド』か何かで切り裂かれたマントは、間違いなくヴェンツェルのものである。
 この学院で他に『シュヴァリエ』を保有しているのは一人しかおらず、その人物は魔法学院の敷地内からは出ていないと証言している。
 ことがことなので、オスマン氏は緘口令を布いていたのである。

 学院の衛兵で構成された捜索隊は出ているものの、未だにヴェンツェルの消息は掴めないでいたのだ。
 さすがに、オスマン氏のこの対応にはアンリエッタは大いに不満であった。
 しかし、ヴェンツェルが時おり、誰にも行く先を知らせずにどこかへ消えるということは今までに幾度もあったのである。
 下手に大事にして、その直後にでも帰ってきてしまえば……そう考えてしまうことも無理からぬことではあった。

 しかし。それでいて、なおアンリエッタは妙な胸騒ぎを覚えていたのである。

「……本当に、そろそろ戻りましょう?」
「ルイズ……」

 わかってはいるのだ。この、桃髪の少女が自分を案じてくれていることは。わがままを言っているのが己であることも。
 ……仕方がない。今日はもう帰ることにしよう。

 そう、考えたときだった。

「あれ。アン……ヘンリエッタに、ルイズじゃないか。こんなところでなにをしているんだ?」

 耳に届くのは、聞き慣れたどこか間の抜けた声。アンリエッタたちがそれに驚き、正門へ視線を移動させると。

 この数日の間姿を消していた少年が、その姿を現したのである。

 しかし。どうにもその服装がおかしい。
 なぜなら彼は、血染めの穴が空いた左袖の無いシャツに、下から半分が切り裂かれたマントを見に付けていたのだから。
 そんな光景を目の当たりにして。
 アンリエッタは、先日目撃したヴェンツェルとカリーヌの邂逅、そして突然のラ・ヴァリエール公爵の訪問を思い出したのではあるが。

 それらを結びつける前に、ルイズの怒鳴り声が飛んだ。

「あ、あんた! なんて格好してるのよ!」

 だが、当のヴェンツェルは特に気にした様子もなく、ただ淡々と言葉を吐き出す。

「ん? ……ああ、これか。ちょっと、通りすがりの賊にやられて。気にすることはないよ」
「通りすがりの賊?」
「そうだよ。なかなかに手ごわいやつらでね……。おかげで杖をなくしてしまったよ」

 そう答えるのではあるが。どうにも、その言葉は今取り繕ったような気配が感じられた。栗毛の少女はただちにそれを見抜いてしまう。

「ルイズ。オスマン学院長にこのことを伝えて、あなたは先に戻っていなさい」
「え、でも」
「ルイズ」
「……は、はい。わかりましたわ」

 王族故のカリスマ性というものであろうか。まったく有無を言わせぬ口調で、アンリエッタはルイズをこの場から追い払ってしまう。
 そんな珍奇な光景を目の当たりにしたまま立ち尽くすヴェンツェルに向かって、この国の王女はごく真剣な表情で“お願い”をするのである。

「ヴェンツェル殿。この数日なにをしていたのか、詳しくお聞かせくださいね?」

 なんだか妙な迫力を感じさせられ、少年はただ首を縦に振るほかなかった。 



 ……そして、魔法学院の男子寮はヴェンツェルに割り当てられた部屋。
 まだ、彼が帰ってきたことはオスマン氏以外は知るところではなかったので、誰かがやって来るということはない。

 アンリエッタはヴェンツェルに要求し、この部屋へとやって来たのである。

 この部屋の主が着替えをしている間。手持ち無沙汰な王女は、つい部屋の中を眺めてしまう。なんとなく気になったのだった。
 すると案の定、女性のものらしい匂いや、生活の跡が残されていて……。自然と、表情が険しくなる。
 彼女は、ベッドの上に脱ぎ捨てられたままの“それ”を見て、震える声で問いかけた。

「その、どうしてあなたの部屋に女性物の、し、下着があるのでしょう?」
「……さぁ?」

 しかし。
 なぜか、この部屋の主である少年はそれらの物品を目にしても、ただ困惑の色を浮かべるだけであった。
 とぼけているのか。そういった態度を問い詰めることも、後でしなくてはならないのではあるが。

「そのことは保留としましょう。まずは、なにがあったのか説明してください」

 とにかく、今は事情の説明を求めることが先だと断じ、アンリエッタはことの詳細を尋ねてみる。ルイズに行ったのと同じ、有無を言わせぬ口調であった。
 そんな相手の真剣な表情を見て。

 仕方ない、といった表情でヴェンツェルは自分の身に起きた事態を語ったのである。



 *



「……なるほど。あの雪の日に外へ出て、あなたは『元素の兄弟』なる人たちと戦って負け、そこで意識を失ったと?」
「はい。勉強を終えたあと、気分転換にと思いまして。そうしたら、馬車に乗った彼らが……」

 そう語るヴェンツェルの口ぶりからは、まったく怪しげな雰囲気は見えてこない。本当のことを言っているようにしか思えないのである。
 アンリエッタは突如としてカリーヌが姿を消した理由を、ヴェンツェルが知っているものとばかり思っていたが……。

「そうでしたか……。お体の方はなんともないのでしょうか?」
「今のところは。一応自分でも確認したんですけど、どういうわけか傷が完治していて……。確かに心臓を突かれたはずなんですが。夢ではないと思います」

 そう言い、彼は自分の胸に手を触れる。
 先ほどかすかに見えた限りでは、確かに心臓を突かれたという言葉とは矛盾し、傷一つなかったようにしか見えない。
 とりあえず診てみよう。水のトライアングルメイジであるアンリエッタは、ある程度の医学の心得がある。簡単な診断くらいだったら出来るかもしれない。
 もし何か、彼の体に異常があったら大変だから診なくてはいけない。それは純粋な気持ちであって、他意はないのだ。

「……ヴェンツェル殿。シャツを脱いでください」
「え?」

 いきなりの発言である。これにはヴェンツェルも狼狽した。王女の前で裸を晒すことなど出来ようがない。
 もし誰かに見られでもすれば、それこそ厳罰どころの話ではないだろう。それこそ実家にも責が及ぶはず。
 そんな気持ちを察したのだろうか。アンリエッタは、あたふたと慌てながら弁明の言葉を述べ始める。

「あ、い、いえ。ただ大事に至らないか、確認したいだけですわ。ほ、ほら。わたくしは水のトライアングルですし」
「な、なるほど。それなら仕方ない」

 そんな奇妙な雰囲気のやり取りを交わしたあと、ヴェンツェルは身に付けたばかりのシャツを脱いだ。
 なるほど、一見傷も無いように見えないこともないが……、そこは『水』のトライアングルメイジだった。
 か細い一指し指で心臓の辺りを撫で、小さく呟く。

「……微かに……微かですが、この辺りに傷跡がありますわ。でも、おかしいです。前に見たときは、こんな……」

 そこまで言ってから、「わたくしったら、なんてはしたないのでしょう」とアンリエッタは頬を染めてしまう。
 もっとも、指を触れていた体から離すことはしなかったが……。

「もういいでしょうか?」
「あ、はい。一応、これといって異常はありませんから、恐らくは……」

 そこまで言いかけたとき。
 アンリエッタは、思わず目の前に広がる胸板を凝視してしまう。目を大きく見開き、驚きを露にして思わず開いた口を手で覆った。
 なぜならば。そこにあった、ヴェンツェルの胸に刻まれているはずの“古代文字”が―――

「使い魔のルーンが……消えていますわ」

 そう。

 “使い魔のルーンは、使い魔が命を落とさねば消えることがない”のである。

 だが、彼女が触れている肉体は温かく、また体内の“水”の流れも正常そのものである。到底死人などとは思えない。
 では、いったいどういうことなのか。
 本人からは『元素の兄弟』を名乗る連中にやられた、とは聞いていたものの。
 アンリエッタは決してそれを本気にはしていなかった。心臓を貫かれて生きている人間など生きているはずがないからである。
 しかし。
 目の前の人物には、確かに心臓を突かれたような傷跡がある。色からして、まだかなり新しいものであるはずだ。古傷の可能性はない。
 そして、霞のように消失した『ルーン』。生きてさえいれば、絶対に消えることなどない、契約の証……。

 訳がわからなくなって、アンリエッタは呆然とした表情でヴェンツェルを見上げるほかなかった。









 ●第十八話「取り返しがつかない」









 
 突然の生還の翌日。その日は太陽の光が降り注ぎ、そこそこに気温が上がった一日であった。

 ヴェンツェルがとある理由で『水』の授業をふけて図書館で雲隠れしていると……。

 そこを、いつかのように見知った顔が訪れた。カトレアだ。
 彼女は木製のテーブルにつっぷしている少年を見て、動揺を隠し切れなかった。
 この図書館で恥ずかしい思いをしたとか、どうも自分の母親と懇ろになっているかもしれないではないか……と、複雑な心境なのである。

 ルイズは知らないようだったが、どうもカリーヌを連れ戻したのは父のラ・ヴァリエール公爵であったらしい。
 彼の出現とヴェンツェルが行方不明になった時期はほとんど密接しており、もしかしたら、この少年は……。いや、それは考えすぎだろうか。
 とにかく。
 羞恥心が訴えてくる部分はあるものの。なんとかそれを押さえ込んで、カトレアはヴェンツェルの隣にある席へ腰掛けた。

「ソーンのクラスは『水』の授業中のはずだけど……?」

 その言葉を受けたヴェンツェルがぴくりと動き、上体を起こした。すると驚くべきことに、彼の目の下には大きな“クマ”が出来ているではないか。

「これは、ええと……」
「ど、どうしたの? そんなに目の下を真っ黒にしてしまって」

 受け答えはどこか曖昧で、意識が朦朧としているらしい。カトレアの名前すら、ようやく頭からひねり出したようだったのである。

「思い出せない。何か、大切なことがあったはずなのに。いくら考えても……一晩中思い出そうとしても、それがなんであったかすら思い出せないんですよ……」

 頭を抱え、ヴェンツェルはとぼとぼと言葉を続ける。

「とある人に言われたんです。『お前はさる貴族の夫人と関係を持っていたのではないか』って。……でも、僕にはそんな記憶がない。
 それに、それだけじゃない。ヘスティアと……あの子とどこかで会えたはずなのに。それがどこだったのかすら思い出せない……」

 自分はいったいどこをうろついていたのか。ヴェンツェルはそんな台詞を延々と吐き出すばかりである。

 一方で、何気ない一言に、カトレアは自分の頭をがつんと殴られたような衝撃を受ける。
 薄々、自分の母親が不貞を働いていたのではないかという考えに至るようになっていたが……、まさか、その相手であろう人物から直接聞かされるとは。
 明言こそ避けているものの、彼が言わんとしている人物が誰であるのかはすぐにわかった。

 それはつまり、公爵がカリーヌを連れ戻したということが大きな意味を持ってくる。
 きっと、父は不貞に気が付いたのだ。
 なぜこの少年が一時的にとはいえ、行方不明になってしまったのか。その理由すら、想像は容易い。
 記憶を失ったというのも……、その事象が関係しているのではないか? 下手をすれば、いや。恐らく父は命を狙うつもりだったに違いない。
 恐らく、それが何らかの理由で失敗したからこそ、この人物はここにいるのだろう。

 自らの背筋をぞくぞくと悪寒が駆け上る感覚に、カトレアは思わず身震いをした。

 『元素の兄弟』に負けて以来、それからの記憶がすっぽりと抜け落ちているヴェンツェルの身に何があったのか。

 それは、神のみぞ知ることであった。


 ―――その日の夜。ヴェンツェルは学友たちに捕まって、寮塔の談話室に無理やり連れ去られていた。

 帰ってきてもろくに顔を見せなかったので、気になったらしいギムリとレイナールが彼と話をしようとしたのである。
 ソファーに無理やり座らせれたままぼうっとするヴェンツェルに、二人はワイン瓶を差し出しながら尋ねた。

「どこに行っていたんだい? 無断欠席なんてして、先生方はかんかんに怒ってるよ」
「ミス・マイヤールがいきなり消えたのと関係があるのか?」
「……ミス・マイヤール?」

 呆けた顔で問いかけるヴェンツェルを見て、ギムリとレイナールは顔を見合わせながら、不思議そうに問いかける。

「ほら、あのヴァリエールそっくりの。カリンって男みたいな名前だったろ」
「……ああ」

 そういえば、そんな人物がいた気もする。しかしながらヴェンツェルはその人物に対して、これといって特に思い当たる節が―――
 何かを思い出そうとしたとき。彼は猛烈な頭痛を覚えてうずくまってしまった。

「どうしたんだ!?」
「……いや。なんでも、ない」
「なんでもないってことはないだろ! いったいどうしちゃったんだよ」

 あくまでも取り繕った態度を取ろうとするので、レイナールが珍しく語尾を荒げた。ギムリもなにも言いこそしないが、その表情は険しい。 
 そんなふうに真剣に問われるとは思っていなかったのか。ヴェンツェルはしばし呆然としていたが……。すぐに口を開いた。

「とにかく、そのマイヤールって人のことはよくわからないよ。ここ数日はちょっと用事があって出かけていただけなんだ。心配はいらないよ」

 ありがとう、とだけ呟き。ヴェンツェルは談話室から早足に出て行く。
 そんな彼の背中を、レイナールとギムリはただ見送ることしか出来ずにいた。



 *



 談話室から自室に戻ったヴェンツェルは、そのまま自分のベッドに背中から飛び込んだ。

 昨夜、部屋を出る際にアンリエッタが告げてきた『ラ・ヴァリエール公爵夫人』の話。
 公爵夫人といえばカリーヌ・デジレであることは間違いなく、それと『カリン・ド・マイヤール』はまったくの同一人物だった。
 しかし。どうして自分が、そんな大層な人間と関係を持ったなどと疑われたのか。
 そもそも、なぜ夫人がこの学院に教員としてやって来たのかすら自分は知らないというのに。

 まったくわからないことだらけだ。憮然とした表情のまま、彼は寝返りを打ち……毛布の上に置かれた“それに気がつく”。

「……なんだ、これ?」

 そこに畳んで置かれていたのは、一着のセーターだった。どうも手作りのようで、黒に近い灰色に白地でヴェンツェルの名が記されている。
 昨日の女性用下着といい、妙に残る“誰か”の生活感。
 自分は何か、とても大事なことを忘れているのではないか。ヴェンツェルはセーターを眺めつつ、そんなことを考える。
 と、そのときだった。

「失礼しますわ」

 こんなときに、例によってアンリエッタが部屋に乗り込んできたのである。

「殿下。あまり男子寮にはお越しなられないほうが……」
「お話があるのです。込み入った内容になりますから、ここで二人きりの方がよいでしょう」

 そう言い、アンリエッタは『サイレント』を詠唱。音を遮断する、この魔法の利便性は非常に高いといつも思わされるものである。

「……それで、お話とは?」

 こうなっては、いくら言ってもこの王女さまには完全に無駄である。いい加減ヴェンツェルもそれを学んでいた。
 ここは大人しく話を聞いておくしかないのである。

「わたくしが帝政ゲルマニアの皇帝と婚約したことは、既にご存知かと思います」
「はい」
「挙式は来年のティールの月に、ウィンドボナで行われることが決まっています。既に、ルイズには詔を述べる巫女をお願いしました」
「そうですか……」

 あまり興味が無いとも取れるヴェンツェルの態度に、思わずアンリエッタはむっとしたような表情となる。

「どうしたのですか? 今日のあなたは、まるで魂が抜け落ちてしまったように覇気がないではありませんか。お話は聞いていたのですか?」
「はい。しっかりと」
「ならば、わたくしの言葉を一言一句、一言も間違えずに暗唱してみなさいな。しっかりと聞いていたのでしょう?」
「……すみません」

 詰め寄ってくるアンリエッタに向かって、ヴェンツェルはどうにもさまにならない返事をするばかりである。
 そんな少年に……とうとう、王女は失望を露にする。

「……なにがあったのかわかりませんが。わたくしは、あなたを少々買いかぶりすぎていたようです。騎士号は少々早かったようですね。
 あなたに与えられた『シュヴァリエ』はまるで分不相応のものですわ。お父さまにお願いして剥奪してもらいましょう。ええ、そうしますとも」

 見下し、挑発するような視線を浴びせながら、詰るような口調でアンリエッタはベッドに腰掛けたままのヴェンツェルを見据える。
 だが、それでも。彼のあやふやな視線は、ただ困惑を伝えてくるだけであった。
 こうなってはもう仕方ない。失望の色を隠しもせず、栗毛の少女は入ってきた窓から再び外へ出ようと背を向けた。

「残念です。あなたがガリア軍との戦いで立てた武功も……いいえ。もう良いでしょう。いつまでも、そうやって部屋の隅で拗ねていれば良いではありませんか」
「……待ってください」

 いよいよアンリエッタが窓に手をかけようとした、そのとき。ようやく押し黙っていたヴェンツェルが口を開いた。

「まだ、話は終わっていないじゃないですか」
「いいえ。もう終わりです。あなたがまともに聞く意思がない以上、もうなにを言っても無駄になるだけですから」

 つん、と顔を背けたまま王女は突き放す。とはいえ、それでもまだ部屋を出て行かないのであるが……。
 もういろいろとフラストレーションが溜まってきたヴェンツェルは段々と目の前の少女の言動に腹が立ってくる。
 いきなり押しかけてきてきておいて、それが自分の思い通りにならないからと、いったいなんなのだ。この人間は。
 誰だって悩むときはあるのだ。それを……。

「話があるから来たんじゃないですか? わざわざ女性のあなたが男子寮まで足を運んで。だったら話したらどうですか。いや、話せよ」
「……ヴェンツェル殿?」

 唖然とするアンリエッタに、ベッドから腰を上げたヴェンツェルはなおも吐き捨てるように怒鳴りつけた。

「さっきから黙って聞いていれば、アンタは一体なんなんだ! 俺は自分の記憶が欠落していることがどうしようもなく不安で、それで悩んでるって! そのくらいわかってくれよ!」
「あ、あなた! わたくしはこの国の王族なのですよ! そ、そんな無礼な口を利いていいと思っているのですか!」
「構わないさ! 王族だから偉いのかよ! 単に祭り上げられているだけのくせに! その地位は自分の実力で得たものなのか、よく考えてみろ!」

 とんでもない一言だった。よりによって、王族の権威を否定しにかかる者が出てくるとは。

「あ、あなたこそ、大公家の生まれではありませんか! 自分のことは棚に上げるなんて、本当に見損ないました! 貴族失格ですわ!」
「ふざけるな! これは俺が自分で得たものじゃない。だから必要に迫られたとき以外は、これを使ってどうこうなんてしてこなかったし、そんなことは考えもしなかった!
 いつもなんでも、生まれが貴族であることだけをかさに着るトリステインの馬鹿野郎共は、俺がこの手で全員ぶん殴ってやりたいくらいだ!」
「……あ、あなたという人は……!」

 激昂してまくし立てる目の前の少年に、もうアンリエッタは呆然とするばかりである。
 こんなふうにヴェンツェルが己の感情を露にして怒り、嘆くことなど、彼女は今までに一度たりとも見たことはなかったのだから。
 ものすごい剣幕を滲ませる眼前の人物の迫力といったら、なかった。怒りのせいか彼の背後には赤い光が滲み出してしまっているではないか。
 本気で怒っている。その事実を認識すると共に、アンリエッタの中でどうしようもなく悲しい気持ちが湧き起こってくる。

「……うっ、ひぐっ」

 とうとう、彼女は泣き出してしまった。ぽたぽたと、大粒の涙が床に敷かれたカーペットを濡らしていく。
 『涙は女性の最大の武器だからね』と、どこかの元首相が言い残した言葉があったが、それはまさに真理である。
 先ほどまで、般若のような表情を浮かべて激怒していたヴェンツェルの怒りが、あっという間にどこかへ吹き飛んでしまったからだ。

「王族とて悩むのです。わたくしだって、不安になるのですよ。籠の中の鳥は見知らぬ東方の土地へ送られる。意中にない男性の妻となりに行かねばならないのです。
 それを不安に思ってはいけないのですか? ただ、近しい人に頼ることはいけないのですか? この人ならば頼りに出来ると、そう思った殿方に助けを請うことがいけないのですか?」
「……いや、それは……」
「わたくしの態度にも問題があったかもしれません。ですが、頼ろうとした人にまで突き放されてしまったら、もう自分がどうすればよいのかわからないのです。
 漠然とした不安を抱えたまま、誰も頼りに出来ない状況で……。確かに、ルイズは良い子です。ですが、彼女はあくまでも大事に育てられた箱入りの娘にすぎません。
 頼りにはならないし、そうしてはいけないのですよ」

 不安を隠さず、涙を浮かべたままアンリエッタは言うのだ。
 『王族』という言葉ばかり意識してしまったが、それ以前に彼女は一人の人間だった。ヴェンツェルが悩むのと同じように、アンリエッタも悩みを抱え、苦悩するのだ。
 そんな簡単なことすら気が付けなかった。
 自分のことばかりに手一杯で、周囲の重圧に押しつぶされそうな少女のことを気遣うことが出来なかったのである。
 どうしようもなく自分が情けなくなって、ヴェンツェルはうなだれる。
 そうすると、目も鼻も真っ赤にしたアンリエッタの姿が視界に入ってきて……、とりあえず、自分の持っていたハンカチを手渡した。
 素直にハンカチを受け取り、アンリエッタは涙を拭う。

「すみません。自分のことばかり考えていて」
「……いえ。よいのです。わたくしも少々言い過ぎました。お互いさま、ということにしておきましょう」

 そうは言うのであるが……どうにも、二人の間ではぎくしゃくとした空気が漂い続ける。
 どちらも、なんとか言葉を紡ぎだそうとするのではあるが。どうにも、どうやってそれを行えばいいのか忘れてしまっているらしい。
 普段は絶対に見せない態度で二人は罵り合ってしまったのだ。
 今回のように自分を抑えなかったのは、せいぜいルイズくらいであったというのに。

 そんな、長い沈黙のあと……。
 ベッドに腰を下ろしていたアンリエッタは、眉を下げ、己の身をか細い腕で抱いた。

「……どうすれば良いのでしょう。たとえ父の命令であったとしても……。わたしはゲルマニアなんて行きたくないのに」

 ぽつりと、少女は呟く。

「この学院での生活が、とても大切なものになりました。出来るなら、ずっとこの学院に通っていたい。三年を終えて、学友の全員と共に卒業したい。そう思うのです。
 これはいけないことなのですか? 王族のわたしがそのような夢を抱くことは……間違った、相応しくない行いなのでしょうか?」

 必死の形相で、アンリエッタは問いかけてくる。体を寄せ、お互いの吐息すら感じられる距離で、ただ問うのだ。
 しばらく、氷のように硬直を続けた後。ヴェンツェルは口を開く。

「いや。間違ってなんかいない。それが間違っているなんて、誰にも言わせはしないさ」

 こと、この封建制によって支配されているハルケギニアで、そのような考え方は間違っているのかもしれない。
 しかし、ヴェンツェルはその思想だけで生きているわけではない。あくまでも“下地”があるのだ。

 彼の言葉を受けたアンリエッタは、しばし瞳を閉じて何事か考えていたようだが……。不意に呟く。

「そう言っていただけただけで、嬉しく思います。……今日は、もう遅くなってしまいましたね。お話はまた明日。もう自分の部屋へ戻りますわ」

 ―――このまま、彼女を行かせて良いのだろうか? 

 静かに歩き出したアンリエッタの背中を眺めていて。ふと、そんな感情が芽生えてくる。
 ゲルマニアとの軍事同盟は、今のトリステインにとっては絶対に必要なことだ。それがアルビオンへの資源供給を切り崩す、という意味でも。
 だが、個人的な感情としてはどうだろう。
 アルブレヒトなどに彼女が嫁ぐ。それは、どうも納得がいかないように思えた。

 “この人ならば頼りに出来ると、そう思った殿方に助けを請うことがいけないのですか?”という先ほどの台詞が頭の中で反芻される。

 少なくとも、アンリエッタは自分のことをそう認識しているらしい。だからこそ、彼女は年頃の異性の部屋へと足を運ぶのだ。
 目の前には、小さな背中があった。触れれば、抱きしめてしまえば、簡単に折れてしまいそうなほどにか弱い背中が。
 刹那。
 どうしようもない衝動が胸の奥底から湧き上がってくる。どうにかしたいと、そんな王に知られれば死罪だけでは済まない感情が湧き出てくる。
 まるで、それは失ってしまった……あるいは、奪われたものを求めるかのような感情。
 無言で彼は立ち上がる。今にも窓を開け放とうとしていたアンリエッタに、背後から近づいていく。

「……ヴェ、ヴェンツェル殿? な、なにを……」

 突然背後から抱きしめられ、アンリエッタは慌てふためく。それは無理からぬことだ。
 彼女は、自分が狙ってやったのでなければ、ほぼ異性と接触することなどなかったのだから。
 
 背中に感じる、いつの間にか自分の背丈を越えてしまっていた身体。服越しに体温が伝わってくるようにすら感じられる。
 言葉すら無いが、背後の人物からは明確な意思が発せられているようにも思う。

 『そうだ。どうせこのまま行っても、ゲルマニアの皇帝に操を奪われるだけではないか』

 そんな、刹那的な感情に脳が支配されていく。
 それがよからぬことだとわかっていても。決して食することが許されぬ、禁断の果実だったとしても。一度火がついてしまえば、もう止まることは出来ない。
 無意識の行動なのか、アンリエッタは己の体を抱く腕に手を添えた。

 そして。小さく、赤く色づいた唇で、“その”言葉を発するのであった。



 *



 ラ・ヴァリエール公爵領のとある一角、ラ・フォンティーヌ。

 本来であればこの地は、病弱な娘を慮った公爵によって、カトレアへ与えられる仮初の領地となるべき土地のはずだった。
 だが。
 この世界で、カトレアはラ・ヴァリエールから分家を行うことはなく、今でもラ・ヴァリエール家の次女として生活を送っている。
 ただ森ばかりが広がり、小さな集落が点在するだけの、このそれほど広くもない地域には他に利用価値もなかったのである。

 しかし。今となっては、この土地は公爵にとって非常に重要な土地となっている。
 なぜならば、この地に建設された小さな屋敷には……、人知れず、自らの妻が軟禁状態に置かれているからであった。

 いつ建てられたのかすらわからない、中規模の古びた屋敷。周囲は木々で覆われているので、一見脱出は容易いようにも見える。
 だが、それは実際にはまったく容易なことなどではない。至る所で監視用のゴーレムが常に目を光らせているからだ。
 恐らく、この場所には小鳥一匹出入り出来ないだろう。
 それはメイジの力を持ってしても恐らくは変わらない。それが“烈風”であったとしても。もっとも、当の本人は杖を取り上げられているのだが。

 そして、この地で監視下に置かれている人間といえば。カリーヌ・デジレである。
 日当たりの良い屋敷の中庭で、彼女はしずかに椅子へ腰掛けていた。特になにをするでもなく、ただぼうっと晴天の空を眺めるだけであった。
 彼女は“待っている”のである。

 カリーヌがこの地に連れられてきたのは、一週間ほど日をさかのぼったばかりの頃である。
 彼女の夫であるラ・ヴァリエール公爵は、妻が『反省』するまでは、彼女をこの地に閉じ込めておくつもりであるのだという。
 元々、カリーヌは重病であるとして表舞台から姿を消していた。なので、外から見て公爵家に大きな変化が起きているようには感じられなかった。
 唯一、偶然居合わせた長女のエレオノールだけが何事かと姿を見せたものの。
 厳格な父である公爵に一喝され、意外なほどに大人しく引き下がってしまうのであった。

 そんなわけで、数名の女性使用人と共に、カリーヌはただすることもなくこの屋敷で日がな過ごしているのだ。
 ただ、それが完全に悪いことであるとは言えないかもしれない。
 彼女はこれから、なるべく安静にしていなくてはならない時期へ向かうのだから。

「奥さま。お茶ですわ」
「……ありがとう」

 そんなカリーヌの元へ現れたメイドが、ほのかに湯気を漂わせる紅茶のカップを差し出してくる。
 そのメイドはといえば。いつかヴェンツェルが、カトレアやルイズと馬車で出かけた際に襲ってきたうちの一人である。
 彼女は眼下の公爵夫人が、己の腹へいたわるように手を置いていることを見逃さなかった。
 そして、彼女だけが知る情報も。それをどう利用するのか。独占的な情報の価値というものは非常に大きく、利用価値があるのだ。 
 だが。
 そんな使用人の不躾な視線などまったく気にもせず。カリーヌは、ただ暖かな紅茶を味わいつつ嚥下するのである。

 彼女がどうしてそれほどに余裕を持っているのか。
 それは、彼がいつか自分を迎えにくるという、確信めいた予感があったからなのかもしれない。そして、それは……。





[17375] 第十九話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:3331e988
Date: 2010/11/27 22:34
 鶏の鳴き声がする朝。カーテンの隙間から差し込んでくる、ほんのわずかな光が部屋の一角を照らし出している。

 ヴェンツェルがいつものようにベッドからもそもそと起き上がると……。彼の隣に、なんだか肌色の物体が見えた。
 部屋は暖房をつけているのであるが、それでも服の一つでも着ていなければ寒くて仕方がない。毛布をかけてやると、彼はのそのそと歩き出した。
 向かう先には、水差しが置かれたテーブルが存在している。

 今日はティールの月はヘイムダルの週、その中ごろである。

 ここ三ヶ月で起きた出来事といえば。
 まず、アンリエッタの婚姻が延期となった。原因は定かではないが、どうもゲルマニアの内情が関係しているらしい。
 おかげで、アンリエッタの婚姻を憂え、ついでに詔をまったく考えられなかったルイズはほっと一息をついているところだそうだ。
 彼女がトリステイン王家に伝わる秘宝『始祖の祈祷書』を持ち歩いている姿は、ここ最近よく見られた。
 ルイズが虚無として目覚めるには『水のルビー』が必要であるのだが、残念ながらそれはヘンリー王が所持している。

 次に、どうもベアトリスが予定を前倒しして魔法学院へ入学するつもりであるらしい。これは冬季休暇の際にされた発言である。
 冬の休暇は、始祖の降臨祭を含む、わずかな期間の休みではあったが。ヴェンツェルは一応実家へと戻っていたのだ。
 そうなると……彼女と共に『空中装甲騎士団』も派遣されてしまうのだろうか。
 だが、世界がどんどんキナ臭くなっている現状下において、虎の子の戦力を本国から動かすことがあるのかは疑問である。

 簡単に言えば、この期間で起きた出来事といえばそのくらいだった。
 アルビオンはアングルでの破壊工作以来まったく動きを見せないし、それはトリステインも同じだった。
 結婚式の延期の原因であるゲルマニアの内情というものが、どうも東部国境外にいる異民族の襲撃だという情報もあったが、それは真相が定かでない。
 恐らくは宮廷か、あるいは諸侯との間で何かがあったのだろう。

 いずれにせよ、まだアンリエッタはこの学院で授業を受けられるようだ。
 年始めにウィンドボナで顔合わせをした、アルブレヒトの第一印象はあまり芳しくないらしい。それはそうかもしれない。
 彼女にしては珍しく。ヴェンツェルに向かって、ひたすら皇帝の悪口を吐き出すほどにである。相当心証が悪かったのだろうか。
 これはなんとかしなくてはいけないだろう。

 と、そんなことを考えつつ。ヴェンツェルがコップに注いだ水を飲み干し、昨夜届いたらしい手紙を開封していると……。
 それと同時に、アンリエッタも目を覚ましたらしい。もぞもぞとベッドから這い出てくる。

「そのお手紙はどなたから?」

 開口一番、アンリエッタは少年が手にしている手紙の差出人を尋ねてくる。
 少し前にコタンタンのクロエから届いた手紙を目にして以来、なんだか敏感になっているようなのである。

「『空中装甲騎士団』のモーリス・ド・サックスから。ちょっとした用事があって」
「ミスタ・サックスですか。優秀な竜騎士だとお伺いしていますね」
「ああ。僕の贔屓目かもしればいけど、このハルケギニアで彼に敵う竜騎士はいないとさえ思うよ」

 そんなやり取りのあと。アンリエッタはあらかじめ用意された温水で顔を洗い、学院の制服に着替えを行った。
 こうして見ると、本当に彼女は学生として適齢期なのだと改めて感じさせられる。
 入学当初はかけていた伊達眼鏡も最近ではあまり姿を見せず、もっぱらファンやそうでもない男子生徒たちの間で評判となっている。
 そしてアンリエッタに遅れること二十分。無駄に主張するものを沈静化させてもらったあと、ヴェンツェルは着替えを済ませた。

 時間を食ったおかげでちょうど朝食の時間に命中したらしい。ぼちぼちと、『アルヴィーズの食堂』に生徒たちが集まり始めていた。

「どこに行ってたのよ。捜しちゃったわ」
「あら、ごめんなさい」

 すると案の定、ルイズがやって来てアンリエッタに声をかける。小脇には相変わらず『始祖の祈祷書』を挟んでいた。
 ぼろぼろの見た目ながら、再度『固定化』の魔法がかけられているため、少し持ち運ぶ程度でどうにかなるということはない。
 とはいえ、見ているとなんだかひやひやさせられてしまうのも、また性である。

「……あんた。最近というか、ここのところ姫さまとよく一緒にいるわね」
「そうか?」

 小声で半眼になりながら睨みつけてくるルイズもなんのその。ヴェンツェルは疑り深い視線をスルーし、いつもの席に腰掛けた。
 そうすれば、すぐにギムリとレイナールもやって来るのである。
 彼らは、一時期おかしな状態にあったヴェンツェルを心配していたが、今となってはすっかり安定したのを見て深くは追求してこない。
 ちなみに。
 ここのところ、キュルケはあまり近寄ってこない。
 『わたしは“一番”には手を出さないの』との弁が忠実に実行されていたせいかもしれないし、カリーヌやらアンリエッタやらが次々と周囲を固めるからかもしれない。
 個人間ではそれほど邪険な仲ではなかったが、色恋が絡むとそうは言っていられなくなるのである。

「もうすぐ進級かぁ。新入生が入ってくるし、使い魔召喚の儀式もある。今から楽しみでしょうがないぜ」
「ギムリはなにを呼び出すのかね」
「まったくわからん」
「ヴェンツェルは風竜でも呼び出しそうだね」
「風竜? とんでもない。せいぜい鶏くらいじゃないかな」
「鶏……鶏かぁ。そういえば、鶏は飛べないけど『風』系統の使い魔なのかな?」
「それはなかなか興味深い議題だな」

 パンにバターを塗りたくりながら、レイナールがヴェンツェルに話を振ってくるので、ギムリと共に適当に駄弁る。

 ……そう。
 もうすぐ使い魔召喚の時期なのだ。ルイズが『虚無』に目覚める第一段階ともいえるイベントであり、もうすぐ現れるのが……。

 それがいよいよ現実味を帯びてくるとなると、どうも腑に落ちない点が浮かび上がってくる。
 疑問点としては、以前クルデンホルフ市で出会った、ジュリオとジョゼットのことがまず挙げられるだろう。
 彼らは『ヴィンダールヴ』と、予備の虚無の担い手として共に重要な位置を占めるはずだった。だがなんの縁かはわからないが、なぜかあの場にいたのである。
 教皇とジュリオがジョゼットに接触を図ったのは、ジョゼフ王排除後にガリアにおける虚無の担い手を手中に収めるという目的があったからだ。
 この世界ではそれが―――ジュリオは『ヴィンダールヴ』の適正を持たず、ジョゼットが虚無の器である必要がない。故に放逐されているのだろうか?
 それがまったくわからない。

 世界はどんな方向へ向かっていくのだろう。
 少なくとも数が少なく、スクウェアなどであっても、これといって特別な能力を持たない転生者共にどうにか出来る状況ではないはずだ。

 そんなふうに、難しい顔をしてパンをかじっていると……。

「あら。頬にソースがついていますよ」

 そう言いつつ、優しい目をしたアンリエッタがヴェンツェルの顔についた食べかすをナプキンで拭ってやる。
 まるで仲の良い恋人のようにも、あるいは母親のようにも見える彼女を目にし、さすがのルイズは暴発寸前になりそうである。

 ……なによ! やっぱり姫さまと何かあったんじゃない! 絶対隠してるだけだわ!

 そうは思うのであるが、延期こそされどいずれはゲルマニアに嫁がねばならない王女の心証を思うと、あまり易々と糾弾することは出来ないのである。
 隣から見ているとアンリエッタはなんだか幸せそうな顔をしている。それを壊すことなどしたくはない。
 それが今だけで―――いずれは壊れてしまうものであっても。相手がいけ好かないアホ野郎であったとしても。
 ルイズは籠の鳥のささやかな幸福にケチをつけるわけにはいかないのだ。


 朝食が終わると、『風』の授業となる。

 ミスタ・ギトーは未だに復帰しておらず、急遽オスマン氏が呼び寄せた貴族に教鞭を取ることをお願いしているのである。
 果たして、『疾風』は今どこにいるのであろうか。果てしなく疑問であった。









 ●第十九話「襲来、新年度」









 年度末の休暇を挟むと、いよいよ新入生たちがトリステイン魔法学院へとやって来る。

 彼らは皆、一様に茶色いマントを着用するように義務付けられていた。
 ゆっくりと、ぞろぞろと新入生の一団が『アルヴィーズの食堂』へと吸い込まれていく。それはちょうど、一年前にヴェンツェルたち二年生全員が通った道でもある。
 誰もが緊張の色を浮かべているのはある意味で当然だ。だが、それもすぐに解れるのだろうけども。
 今年も学院長の秘書を勤めるリディアが旗を振り、そんな新入生たちを誘導していた。

 一方、ヴェンツェルはといえば。
 在校生なので特にやることもなく、ヴェストリの広場でアンリエッタに膝枕をしてもらいながらぼやっとするばかりであった。

 昨年末の一件以来、二人はこうした付き合いを続けている。
 学院でのアンリエッタの身辺警護をすることがヴェンツェルの裏の仕事である。
 なので、そういう意味ではこういう状況は返って好ましいと言えるかもしれない。
 ただ、ルイズはやっぱり気に入らないようだった。何かあるごとにヴェンツェルを爆破しようとし、それをアンリエッタに諌められる有様だった。

 そして、気になることもある。
 ルイズ曰く『お父さまがとても不機嫌だわ。何かの仕事に失敗した傭兵を捜してるって』とのことである。

 閑話休題。

 使い魔召喚は来週のユルの曜日に実施される。結局、アンリエッタとアルブレヒトの婚姻は先延ばしになったまま一ヶ月が過ぎようとしているのである。
 それは良いことだと言えるし、またどうにも不安なことだといわざるを得ない。
 『ゲルマニアはトリステインとの同盟を放棄しようとしているのではないか』。そんな噂が王都で流れているという話もある。

 どちらにせよ、トリステインとアルビオンの緊張状態は変わらない。
 クルデンホルフ大公は、嫡男であるヴェンツェルにいくつかの忠告と、ベアトリスの安全に気を遣うようにと伝えている。
 『空中装甲騎士団』は学院へは派遣されず、ベアトリスには一名の護衛が付けられているだけだという。ただ、なぜか父はその名を明かさなかった。
 例によって学院へ乗り込もうとした大公妃は、またも阻止されたらしい。
 らしいというのは、アンリエッタの求めに応じてヴェンツェルが休暇を早々に切り上げてしまったからだった。

「いい天気だなぁ」
「そうですね。雲一つなくて、とても温かいですわ」

 アンリエッタの太ももの心地よさといったらなかった。まるでヴァルハラの戦乙女にして貰っているかのような極上の膝枕である。
 このまま放っておいたら、ヴェンツェルはあっという間に天に召されてしまうかもしれない。
 空気は春の暖かさをまとい、蝶が花を求めて舞う。どこまでもアンニュイな午後である。

 だが。


 そんな仮初の平穏は、確実に崩壊へと近づいていた。


 なぜなら、このとき―――


「へえ。さすが女垂らしのヴェンツェルさまですこと。王女殿下に膝枕していただけるなんて。まったくうらやましいものです」
「兄上。どういうことですの?」

 ヴェンツェルの目の前に、『シスターズ』が出現したからである。

「…………へ? ベアトリス……あ、アリス?」

 アンリエッタの脚に頬を埋めたまま、呆然とした表情でヴェンツェルはその名を呼ぶ。信じられない、といった色を浮かべているのがすぐにわかった。
 一人は金色の髪を頭の両側で結った学院の制服を身にまとった少女。幼くも丹精な造詣の顔を不機嫌そうに膨らませ、眼下の兄を睨みつけている。
 ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフ。クルデンホルフ大公家の正式な長女に当たる人物である。
 もう一人。薄い紫色の髪を後頭部でまとめ、白い肌に濃紺の瞳が浮き出ている。彼女は本来ならば絶対に着用を許されないであろう、茶色い貴族のマントを羽織っていた。
 見ればわかる。『風のルビー』を己の指嵌めた、目の前の人物は。間違いなく、自分の従者や城のメイドを勤めていた少女である。

 だが、そんな彼女がなぜ?
 そんな疑問に答えるかのように。少女―――アリスが、得意げに口を開く。

「わたしはアリスであってアリスではありません。アデライード・ド・ヴェクサン。この学院の生徒として入学しました」

 目の前の少女がなにを言っているのか。ヴェンツェルもアンリエッタも、ただ呆然とその言葉を受け入れるしかなかった。




 ―――夕刻。男子寮はヴェンツェルの私室。

 この場には三人の人物が集まっていた。ヴェンツェルに、ベアトリス。そしてアデライードを名乗るアリスだった。
 どうもベアトリスは事前にこのことを知らされていたらしい(同時に現れたので、それは当然であったのだが)。辟易とした表情でベッドに腰を下ろしている。

「……というわけで、旦那さまはお嬢さまの護衛としてわたしを派遣したのです」

 アリスはごく淡々とした表情で、目の前の事実のみを並べ立てていく。
 曰く、大公はベアトリスの護衛に『空中装甲騎士団』を派遣するつもりでいたが、それは情勢の緊迫化が許さなかった。
 そこで、かつてヴェンツェルの従者を務め、見事身柄を守りきった実績のあるアリスを護衛として採用したのだという。
 ……なんだか、特に最初の頃はまったく守られていなかった気がするのは、決して気のせいではないはず。

「話はわかる。わかるよ。だからって、なんで貴族になってるんだよ」
「これはカムフラージュの一環です。貴族のほうがお嬢さまを守りやすいと思いますし。
 名前は、アリスだとあまりにも有り触れ過ぎているので、ちょっとそれっぽくしました。あ、坊ちゃまは今まで通りに呼んでいただいて結構ですよ」
「……わかったよ」

 まったくの予想外である。
 ベアトリスが一年早く来るというのは事前に聞いていたが、まさかアリスまでついて来てしまうとは。大公妃が来なかっただけマシだろうか。
 さっきから蚊帳の外で憮然としているベアトリスは、ベッドの毛布を身体に巻きつけて不貞寝を決め込む有様である。
 あまり居座られても邪魔になるので、とりあえず毛布を剥いでおく。

「きゃっ」
「なにをふざけてるんだ。服がしわくちゃになるだろ」

 ベアトリスから容赦なく毛布を取り上げ、それを畳むヴェンツェルを見つめつつ。アリスは思案を巡らせる。

 彼が一緒にいたのは、間違いなくこの国の王女だった。しかし今は名をヘンリエッタ・スチュアートと偽っているらしい。
 それまでのラ・ヴァリエール公爵夫人の存在は一切確認できず。実家でははぐらかされたが、関係は自然消滅状態と断定。
 ……もう女を乗り換えたらしい。あの太っていて、肉親を除く周囲のほぼ全ての女性から嫌われていた人間だとは思えない。

「まったく。ここ最近大人しいと思ったら、こんなことを企んでいたなんてな。なにが目的なんだ?」
「……さあ? 旦那さまのご意向ですので」

 口笛でも吹きそうな顔でアリスはそっぽを向いてしまう。挑発するようなふざけた態度である。

「もし貴族でないとばれたらどうするんだ。ここは貴族の巣窟なんだぞ」
「そうですか? 先ほど寮でお隣になるミス・ロッタに挨拶申し上げましたが、彼女はなんの疑問も抱かなかったようですが」
「だけどな。普段の生活で……」

 なおも食い下がろうとするヴェンツェルに、アリスは諭すような口調で言うのである。

「ですが、坊ちゃま。お嬢さまはクルデンホルフ大公家の長女で在らせられます。大公家と関係を持つことを望み、ちょっかいをかけてくる殿方も多いでしょう。
 そういった人々からお嬢さまを守るのも、自分の仕事です。『空中装甲騎士団』を出せない以上、わたしくらいしか適任者がいないのですよ」
「……兄上。わたしがどうなってもいいのですか? 悪い殿方に引っ掛けられてもいいのですか?」

 二人して、なんだかやたら怖い視線を送ってくる。
 ベアトリスはベアトリスで不機嫌だ。ヴェンツェルが護衛などいらない、と言っているように見えるからだろうか。

「いや。きみがどの男子生徒と懇意にしようが、それは自由だろ。この学院はそういう側面もあるんだし」

 トリステイン魔法学院といえば、家格としてそこそこ程度の貴族の子女が、ずっと格上の貴族の子弟と交流を持つことが出来る、ほとんど唯一の場である。
 大人になるまでの人脈を築くも良し、婚約者との婚姻まで自分の思い思いに過ごすも良し。
 面倒なのは、ここで関わった連中にはそれなりに心象を良くしておかないと、将来的に困るという辺りだろうか。

「……むぅ……」

 ベアトリスはヴェンツェルの言葉を受け、また更に気を悪くしたらしい。頬が膨らんだ。じっと無言で睨みつけてくる。
 そして、そんな様子を見ていて……不意に、アリスが言う。

「とにかく。この件に関しては旦那さまの決定した事案です。異論があるならば、それは旦那さまへ申し出てください」
「……ああ、そうするよ」

 アリスが自分の意思で来ているわけでない、というのは火を見るよりも明らかである。そういう意味では、これ以上話を続けても無駄だろう。

 新入生がやって来たこの日。また厄介ごとが増える有様であった。



 *



「ケティ。きみはまるで……そうだ! きみの髪の色は『土のルビー』にも劣らない輝きを放っているよ。本当に綺麗だ。どうだい、ぼくと遠乗りでもしないか?」
「ギーシュさま……」

 虚無の曜日である。

 ヴェンツェルがアウストリの広場を訪れると……。さっそく、ギーシュが下級生をナンパしていた。
 田舎から出てきたばかりなのだろうか。ケティという少女は、かなりあっさりとギーシュの誘いに乗っている。
 そこそこ以上に可愛らしい子だ。

「……ん? ケティ? ケティって、どこかで聞いたことがあるような……」

 そう呟きつつ、金髪気障男が近い将来に迎えるであろう苦難を想像しながら歩いていると。

 やっとお目当ての人物たちが視界に入る。
 芝の上に置かれた真っ白なテーブルセットと、そこでお茶をしているアンリエッタとルイズだ。傍らにはメイドの姿があった。
 ルイズは『始祖の祈祷書』を開き、さっきからずっと唸りっぱなしである。
 なんとなく気になって、祈祷書を覗き込んでみるのだが……。やっぱり、白紙である。
 贋作というのか。偽造品というのか。ハルケギニア中に存在する『始祖の祈祷書』は数あれど、白紙のものはこれ一つしかないだろう。
 もっとも、実はそれこそが本物なのであったが。

「……あによ」
「いや、さっきから真っ白なページを眺めてどうしたのかと。虫でも付いてるのか?」
「うるさいわね。良い詔が思いつきそうなんだから、口を出さないでよ」
「ほう。良い詔って?」

 そこで珍しく、興味を持ったというふうにヴェンツェルが声をかけると……。ルイズは少しばかり得意げな顔になる。
 「へぇ? 知りたいんだ。ふぅん。しょうがないわねぇ。そこまで聞きたいっていうなら特別に教えてあげる」と言い、手にしたメモを開いた。
 詔は、結婚式に当たって、巫女役の人物が四系統の精霊たちに感謝を述べる。それを考えるのはもっぱら巫女本人だ。

「まずは火。『火は微熱などと言い出して色狂いになるので注意すること』。次に風。『風は風のように流されやすく移り気なのでしっかりと束縛すること』。次に土……」
「それのどこが詔だよ。思いっきりただの悪口じゃないか」
「……う、うるさいわねっ! だったら、あんたが考えなさいよ!」
「それは断る」

 言うや否や、ヴェンツェルは猛ダッシュでその場から逃げ出した。
 特に目的があってこの場所へ来たわけでもなく、単にアンリエッタと無駄話をしようとしていただけなのだ。
 そんな少年に向かってルイズが杖を振り上げようとして……、咄嗟に、アンリエッタに押し留められる。

「ルイズ。そうやってむやみに魔法を使ってはいけません。相手が彼ですから良いのですけれど、もし他の方に当たったらどうなるかわかりませんよ?」
「で、でも。あいつ……」
「ヴェンツェルは頑丈ですから。しかし、それでも痛いものは痛いのですよ。寝たきりになると時間やお薬を浪費しますし」
「……うう。わかりました」
「それで良いのですよ。ルイズ」

 しゅんとうなだれてしまったルイズの頭を撫でながら、アンリエッタはにっこりと微笑む。
 このとき、ルイズは目の前の少女が“アホ”のことを呼び捨てにしたことに気がつき、なんだか余計に心中が穏やかではなくなるのであった。



 さて。

 アウストリの広場を脱したヴェンツェルはといえば……。ヴェストリの広場の近辺で、数人の上級生が塊になっているのを見つけた。
 現三年生は紫色のマントを身に付けている。感覚としては、学年ごとに帽子の色を変えるなどといったことに近い。
 どうも、囲まれているのは小さな少女であるらしい。というより明らかに見覚えがある。
 とりあえず何かが起きているのだろう、とヴェンツェルは足を運ぶことにした。

「なあ。ちょっと付き合うくらいなら良いじゃないか」
「お断りします。わたしはあなた方に付き合っている暇なんてありません」
「そう言わないでさ。まだ来たばっかりで、この学院のこともよく知らないだろ? ぼくたちが案内してあげるよ」
「余計なお世話です。わたしたちは用事があるので、これで失礼……!?」

 案の定というのか。絡まれているのはアリスとベアトリスだった。男たちを無理に振り切ろうとして、肩を掴まれてしまっている。
 名前を言えばすぐに逃げ出すのではないのか。なぜか、ベアトリスはそれをしていないようだ。
 学院内で下手に手を出すことは出来ないのだろう。アリスでさえ、なす術もなく捕まってしまうという有様であった。

「余計なお世話って言い方はないよねえ。きみたち、どこの田舎者だい? 淑女としての礼儀作法はあまり身についていないと見えた」
「可愛いだけじゃ社交は出来ないぜ。どうだ、ぼくたちが手取り足取り……」
「……あ、兄上!」

 無言で歩み寄るヴェンツェルに気が付いたらしい。
 ベアトリスもアリスも無理やり上級生たちを振り切り、ヴェンツェルの背後に隠れてしまった。

「おや。そのお嬢さんの兄上か? ずいぶんと好かれてるなぁ。でも、しつけはしっかりした方がいいぜ? 紳士に対する態度がなってない」

 あまり見かけない上級生が尊大な態度で声をかけてくる。しかし、そんな彼のシャツの袖を、隣にいた青年がくいと引っ張った。

「……おい、よせよ。こいつ、クルデンホルフだ」
「なに? ……っち、まじかよ」

 この時期となると、上級生たちもいい加減にヴェンツェルのことを耳に挟んだりしているらしい。
 苦々しい顔になって、新入生にちょっかいをかけていた上級生はこの場からさって行く。

「クルデンホルフってだけでずいぶんな言い草だな」
「仕方ないですよ。トリステインでは成金で通ってますし」

 とまあ。ヴェンツェルの肩に両手を添え、事の成り行きを見守っていたアリスが口を開いた。
 彼女は顔の半分だけ出して、去り行く生徒たちの背中を睨みつけている。やはり囲まれたのが相当頭に来ているようだ。
 それでも、彼女が実力行使に出なかったのは幸いであるかもしれない。
 もしそうなっていたら、恐らくはあの上級生たちは病棟送りとなり、大きな揉め事になっていただろうからだ。

「兄上を捜していたら、あの方たちが絡んできましたの。失礼な人たちだわ。大の男ばかりでわたしたちを威圧するんですもの」
「ああいう輩は注意するように、オスマン氏に伝えておくよ。それでももし何かされたら、すぐに僕へ伝えるんだ。アリスも、次は容赦しなくていいぞ」
「わかりました」

 依然として抱きついたままのベアトリスの頭を撫でながら。ヴェンツェルとアリスがそんなやり取りをしていると……。
 褐色髪の少女と、濃緑の長髪の少女がこちらへやって来た。
 よく見れば、彼女たちはクルデンホルフでよくベアトリスとつるんでいた連中の一部だ。

「ベアトリス殿下。こんなところにいらしたのですね。アデライードさんも」
「ヴェンツェルさまもご一緒されているのですか」
「……ん? ああ。きみたちは?」
「ベルナデットさんと、エステルさん。わたくしの親友ですわ」

 いつの間にかヴェンツェルのそばから離れていたベアトリスが、腰に手を添えて尊大な態度で口を開いた。
 そんなベアトリスの言葉を受けた二人の少女は、軽くお辞儀をして自分の名前を述べる。
 褐色髪でふわふわと髪をカールさせているのがベルナデット。濃緑の髪をややぼさぼさのつんつんにしているのがエステルらしい。

 ……それは置いておき、とりあえずヴェンツェルも一応名乗っておく。

「ああ。もう知っているとは思うけど。ヴェンツェルだ」
「ええ。お噂はかねがね……」
「このあと、わたしたちでお茶会をしようと思っているのですけれど。ヴェンツェルさまもお出になりませんか?」

 突然、褐色髪のベルナデットがそんなことを言い出した。
 どうすべきだろうか? 年下の下級生に混じってお茶を飲む……案外と悪くなさそうだ。決して下心はない。おそらく。

「……そうだな。きみたちがそう言ってくれるなら、お言葉に甘えて」
「ありがとうございます。では参りましょうか」

 そんなわけで、彼は四人の新入生と共に広場のテーブルセットへと向かうのであった。






[17375] 第二十話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:ef4c5a99
Date: 2010/12/08 20:19
 ハルケギニアの遥か東方―――『サハラ』の海岸部に、エルフたちの本拠地ともいえるアディール市は存在していた。

 荒涼とした砂漠の中にあって、その“都市”はその創造主が持ちえる高度な技術力により、ハルケギニアのそれとはまったく別次元の威容を誇示している。

 そんな市街地の外れ。海に面した一角で、一人のエルフの少女が楽しげな表情を浮かべながら、波が高く上がる海を眺めていた。
 さらさらと風に揺れる、金糸のように細く滑らかな長い髪は、多くのエルフが持ち合わせるものの中でも、一際上等な部類に入るものだと言える。
 どこか理知的な作りの小さな顔では“蛮人”のものとはやや異なる、澄んだ青い瞳が眼前の水面のようにきらきらと輝いていた。

 白い石造りの階段で、彼女がそうやってぼうっと海で起きている惨状を眺めていると……。後ろから、何者かがやって来る気配がした。

「ルクシャナ。どうしたんだ、こんな場所で」
「ビダーシャル叔父さま!」

 現れたのは、少女と同じように髪を長く伸ばした青年であった。ただ、エルフは人間の二倍ほどの寿命を持っているので、実際は中年である。
 ビダーシャルと呼ばれたエルフは、突然飛びついてきたルクシャナという姪の頭を撫でてやりながら、彼女が先ほどまで目にしていた海へ視線を向けた。
 すると……、己の胸の中で目を閉じている“変わり者”の姪の婚約者である青年が、自分が飼っている水竜に襲われているではなか。
 半ば呆れ顔で、ビダーシャルはルクシャナに問う。

「なんだあれは。アリィはまだシャッラールを手懐けられていないのか?」
「ええ。そうなの。『今日こそは婚約者であるきみに見せてあげよう。ぼくが華麗にシャッラールを乗りこなす様を!』って大口叩いて“あれ”よ」

 ため息を吐きながら、ルクシャナは海で死闘を繰り広げる婚約者を顎でしゃくる。
 そんな一連の出来事を見て、ビダーシャルはただその端正な顔立ちに、困ったような苦笑を浮かべるだけだった。

「……あ! そうだわ! 叔父さまは蛮人の国へ出向いていらっしゃったのよね。何か面白い物はあったのかしら?」

 今思い出した、とでも言いたげな口調でルクシャナは眼前にある叔父の顔を見上げる。
 彼女が“変わり者”と呼ばれる所以の一つに、エルフたちが「野蛮だ」と見下している人間の物品を集めて研究するという趣味があるからなのは、割と有名な話だ。

「さあな。蛮人の作るものに価値はあまり見出せないよ。……まあ、蛮人の中にも『悪魔』の復活を憂える勢力があるとわかっただけで、大収穫だろう」
「あら。今まで、何かにつけて『シャイターンの門』を奪おうと、勝てもしない軍を差し向けて来るばっかりだったのに?」
「そうだな。『シャイターンの門』と『ナリの束縛』の活性化と同時に、その連中の住処でも精霊の力の暴走が始まっているらしい」

 『シャイターンの門』とはエルフたちが守っている、人間側の『聖地』である。その詳細は、あまり公のものとはなっていない。
 一方で、『ナリの束縛』については、エルフたちもごく一部の者を除いては詳細を知らず、ただその存在の言い伝えばかりが残るだけである。
 そうなれば当然、人間の大部分はそれを知らなかった。

 そこでふと、ビダーシャルは海を見やる。すると、アリィが水竜の口の中に飲み込まれそうになっているのが見えた。だが、気にしない。
 同じように、背後の海で起きていることなどまるで気にも留めず、今度はルクシャナが問いかけてくる。

「ふぅん。で、その憂えている人たちはどうするって?」
「必要があれば、我々と協力することも辞さないそうだ。蛮人たちが再びこの『サハラ』へ攻め込むことが無いよう、工作をするとも語っていた」
「そうなの。変わり者ね。わたしが言えた義理じゃないけど」
「まったくだな」
「……もう! 少しはフォローしてくれたっていいじゃない! 叔父さまのいじわる!」

 ぽかぽかと叔父の胸板を叩き出すルクシャナ。そんな彼女の背後では、婚約者がいよいよ水竜に丸呑みにされていたのだが―――やっぱり忘れられていた。

 ……そして、その直後、アディール市を小さな地震が襲った。だが、それはこの世界のエルフたちにしてみれば日常茶飯事の出来事だ。

 彼らは皆、それが地殻運動によるものだと信じ込んでいた。
 まさか、その震源が『ナリの束縛』そのものであることなど、微塵も考えはしなかったのである。










 ●第二十話「使い魔召喚」










 そしてハルケギニア中部はトリステイン王国。トリステイン魔法学院。

 ぞろぞろと、黒いマントを身に着けた二年生たちが学院の正門から近隣の小高い丘目掛けて歩いていく。
 その誰もが皆、緊張や期待感をその顔に滲ませていた。もっとも、中には自信に満ち溢れた者もいた。

 なぜ彼らが移動しているのかといえば。
 それは『サモン・サーヴァント』を始めとするする一連の使い魔召喚の儀式が、なぜか学院外で行われるのである。
 考えられる理由はさまざまだ。大型の幻獣を呼び出した場合に中庭では狭いかもしれないだとか、施設の損壊を免れるためだとか、原作の演出上の都合だとか……。
 いずれにせよ、一生徒でしかないヴェンツェルはその理由を知らない。
 それよりも、いったいなにを呼び出すのか。犬か猫か、あるいは昨日冗談交じりに言った鶏か。そのことの方が気になった。

「『ゼロ』のルイズはなにを呼び出すんだろうなぁ?」
「魔法がろくに使えないんだし、その辺歩いてる平民でも連れてくるんじゃない? 『ゼロ』のルイズだから」
「はっはっはっ! そりゃ傑作だ!」

 もうすぐ現れるであろう、己の使い魔に思いを馳せていると。
 なにやら、同行する生徒たちの一部からそんな笑い声が上がる。彼らは大体が男爵や子爵の子息女である。だが、こうやって堂々とルイズの悪口を言う有様だった。
 彼らの大きな声は、当然本人の耳にも届いている訳で―――恥辱に耐え、ぷるぷると震えるルイズに、アンリエッタは囁くのだ。

「ルイズ。こんなの、気にしても仕方のないことではありませんか。立派な使い魔を召喚して、あの方たちを見返せば良いのですよ」
「うう……」

 いつものように侮辱を受けたルイズは悔しそうに俯き、しかしアンリエッタの言葉を受けてすぐに顔を上げる。
 この一年でそれなりに鍛えられたせいか、立ち直りは早いらしい。だが、その表情は決して明るいものとはいえない。
 生来持っているはずの、せっかくの愛らしさもなりを潜めてしまっている。

 ヴェンツェルは、栗毛の少女と桃髪の少女のそんなやり取りを遠目に眺めている。
 なにを思ったのか。彼は腰の辺りに差し込んでいた杖を取り出して、悪口を叩いていたアベック共の足元に『アースハンド』を出現させる。
 通過途中だった中庭の地面から、土気色の“人の手”が出現。標的の足首目掛けて一気に伸びた。
 次の瞬間。
 盛大な音と共にその生徒たちはずっこけ、彼らはみっともなく、折り重なるようにして倒れこんでしまった。
 一部始終を目撃していた生徒たちの中から、そっと忍び笑いが起こる。
 まだなにが起きたのかまだわかっていないらしい。悪口を言っていた生徒たちは、目を瞬かせてきょろきょろと周囲を見回していた。
 
「よくやったぜ、殿下。さすがだ」
「……ヴェンツェル。まあ、そういういたずらもいいけどさ。ほどほどにしておきなよ?」
「ははっ。わかってるさ」

 ヴェンツェルが腰の辺りに杖を戻す場面を見たギムリが軽く肩を叩いてくる。褒めるのはいいが、無駄に白い歯を見せ付けてくるのはやめてもらいたい。
 一方で、レイナールは小さな声で注意してくるのであるが……、どこかすかっとしたような表情であった。眼鏡が一瞬きらりと輝く。
 彼はこの学年で横行していたルイズいびりがあまり好きでなかったのである。それは、この場の三人衆に共通の感情かもしれないが。

 しばらくの後。学院から少し離れた丘の上で、生徒たちは監督の教員であるミスタ・コルベールを中心にして輪の形に並んでいた。
 見ようによってはバットにも見える杖を手に、禿頭の男性教諭は大きく声を張り上げる。

「これより『使い魔召喚』の儀式を始めます。それでは、名前を呼んだ順に前へ出て来るのですぞ」

 最初に呼ばれた生徒は、いつかのヴィリエ・ド・ロレーヌだった。彼は緊張の面持ちで『コントラクト・サーヴァント』の呪文を唱えている。
 そして、次々と滞りなく生徒たちは順調に使い魔を呼び出していった。
 あっという間に順番が過ぎ去り、そのうちにルイズやヴェンツェルたちと召喚を見物していたアンリエッタの番となる。

「ヘンリエッタ。頑張ってね」
「緊張しますけれど、なんとかやってみます」

 すれ違い際にかけられたルイズの励ましに頷きつつ、栗毛の少女は悠々と歩を進めていく。

 確か、本来ならばアンリエッタは使い魔は召喚していないはずだった。魔法学院に通っていないのだから、当然といえばそうかもしれないが。
 同じ水系統のメイジであるモンモランシーは早々に蛙の使い魔を召喚している。他にも、両生類や魚介類などが散見される。
 魚介類を呼び出した生徒は、ただちに学院へ戻って対策を講じなければならない。でなければ、出会ったばかりの使い魔と早々に死に別れなければならないのだ。 

 ……と、そんなことを考えているうちに『サモン・サーヴァント』は成功したようだった。
 ラインメイジと申告しているアンリエッタでは、それほど大物は出せないだろうという大方の予想を裏切って、アンリエッタの目の前には大きな水竜が出現していた。
 銀色の鱗で、恐らくはまだ幼体であろうそれは……。既にマリコルヌが風竜を呼び出していたが、それに比べても異常な巨体である。
 
「わあ! すごいわヘンリエッタ! 水竜を呼び出すなんて!」

 ルイズの大きな声が上がる。それはそうだろう。風竜、火竜、土竜と存在する中でもっとも巨大で強力な竜が水竜なのだから。
 巨大土竜を呼び出し、さっそくヴェルダンディと名づけていたギーシュもこれには驚いていた。
 モンモランシーは己の使い魔を気に入ってはいるようだが。さすがに、あまりにも格上の使い魔を呼び出したアンリエッタに嫉妬の眼差しを向けている。
 羨望と嫉妬の眼差し。がやがやと生徒たちからざわめきが上がる。

「へぇ。彼女は水竜か……」
「さっきマリコルヌが風竜を出したときも驚いたけど、それ以上だね。あれは」

 より騒然となるその場を尻目に、アンリエッタはさっさと『コントラクト・サーヴァント』を行おうとした。
 実のところ、アンリエッタの身長はルイズとそれほど差がない。百五十サント台後半なのである。
 だからなのか。彼女は必死に背を伸ばし、遥か高みにある水竜の口になんとか接吻しようとするのだ。脚をまっすぐに伸ばす仕草がやけにそそる。
 すぐに水竜側が首を下げてくれたので、契約は無事に終了した。
 そして、興奮冷めやらぬ生徒たちの視線を背中に受けつつ、ルイズやヴェンツェルたちの元へと戻ってくるのだ。
 当然、使い魔となった水竜も彼女の後を追ってくる。一歩踏み出すごとに、巨大な足音が大地を揺るがす地響きのように辺りに鳴り響いた。

「……こいつはすごいな」
「まったくだ。実物を見るのは初めてだけど、ここまでとはね」

 そう呟き合うギムリとヴェンツェルの眼前では。己の背丈の何倍もある巨大な竜が、こちらをじっと見つめてきている。
 太陽の光を受けてきらきらと輝く銀色の鱗がやけにまぶしい。某世界的カードゲームの攻撃力三千なモンスターを思い出す見た目だった。
 さっそくルイズがアンリエッタに駆け寄って、何事か話しかけている。名前をどうするのか尋ねているようだ。

「それで、名前はどうするの?」
「ううん……。どうしましょう。こんなにすごい子を呼び出すなんて思っていなかったから……。ヴェンツェル殿はどう思いますか?」

 とても悩ましげな表情で、アンリエッタが問いかけてくる。ちなみに、公の場では彼女はヴェンツェルを“殿”付けで呼んでくるのである。
 プライベートな空間ではもう呼び捨てが基本であったが……。稀にボロが出てしまうこともある。

「名前か。そうだな……」

 名前。簡単なようで意外難しい。下手な名前を付けてしまうと、後々に響いてくるかもしれないのだ。慎重に進めるべきだろう。
 そうやって悩んでいると……。とここで、レイナールと行っていた図書館通いが役に立つ。
 おとぎ話などの蔵書を無駄に読んでいた彼は、そこそこに名前のボキャブラリーを思いつくことが出来たのだった。

「うーん。……じゃあ、『エーギル』なんてどうだろう? 海の神様の名前だけどさ」
「『エーギル』。どうですか?」

 ヴェンツェルの言葉を受けたアンリエッタが、頭上高くにある水竜の方を見てそう問いかけるのであるが。
 なんと、次の瞬間。
 水竜は「名前が気に入らない」とでも言いたげな勢いで口を大きく開き、ヴェンツェルを丸呑みにしてしまったではないか。
 そしていやいやと首を振る。どうにもその名前が気に入らないようだった。これはかなり難しい問題らしい。
 使い魔とはいえ、水竜に人間が丸呑みされそうなのであるのに、周囲の人間は誰もそのことを気に留めていない。水竜の影になっているのが問題なのだろうか?
 いったいどうしたものかと思えば。レイナールは呆れた顔になっている。ギムリといえば、もう別の使い魔召喚の場に夢中になるという薄情さ。
 まるで助ける気がない。

「どうやらその名前は駄目なようです。困りましたね。なにか良い名前はないでしょうか」

 はむはむと、水竜がヴェンツェルを咀嚼するような仕草をしているにも関わらず、アンリエッタは平然とした様子で悩むだけである。
 そのうち口からぺっと吐き出されたので、その対応は結果的には正しかったのだろうが。もし噛み砕かれていたらスプラッタは免れなかっただろう。
 地面に落ちて涎まみれになったヴェンツェルは、新しい『シュヴァリエ』のマントで顔を拭いながら、懲りずに再び提案する。

「……じゃ、じゃあ。『フロン』っていうのはどうかな? 女性名だけど」
「まあ。それは良いお名前ですわ。……どうでしょう?」

 すると。今度は水竜も嫌がらず、静かに頷いた。それを受けて、アンリエッタは喜びの表情を浮かべて微笑む。
 ……頷くということは人語を理解しているということではないのか。そう冷静に考えたのはレイナールだけだった。
 とまあ、そういうわけで、アンリエッタの使い魔はフロンという名前に落ち着いたのである。その名前の意味するところは……。

 この水竜はかなり頭が良いらしい。名前をすぐに理解して、主であるアンリエッタの手に鼻先をすりすりと摺り寄せていた。

「いいな……。わたしも、姫さまのような使い魔が欲しいわ。こう、ばーん! ってやつ」
「大丈夫だろ。きみにもきっと、素敵な使い魔が来るさ」
「は? なにそれ? 嫌味?」
「……いや。なんでもない」

 ルイズがなにやら羨ましそうに水竜のフロンを見つめているので、ヴェンツェルが仮にも励まそうとしたのであるが……。
 どうにも逆効果であったようだ。靴でぐりぐりと足を踏みつけられるのだが、そこまで気に障ってしまったのだろうか。痛いのである。

「次! ミスタ・クルデンホルフ!」
「はい」

 そうこうしているうちにミスタ・コルベールの呼ぶ声が聞こえた。風の魔法で、水竜の唾液まみれの服を乾かしながら前へ進み出る。

 周囲は九十名あまりの二年生たちがぐるりと囲み、ヴェンツェルがなにを呼び出すのか注視している。
 きっと、あまり大したことがないものを呼び出すことを期待しているのだろう。そういう視線を浴びているがすぐにわかる。
 だが、ざわざわそういった連中の期待に答えてやる義理はないのだ。……もっとも、なにが呼ばれるのかは本人ですらわからないが。

 周囲で渦巻く雑音を無視して、ヴェンツェルは杖を構えた。精神を杖先に集中し、生涯初となるその魔法を詠唱する。

「我が名はヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフ。五つの力を司るペンタゴン。我の運命に従いし使い魔を召還せよ」

 そうして、一気に杖を振り下ろす。それなりに綺麗な軌道で、杖が一瞬の残像を描く。

 すると、目の前に“銀色の鏡”が現れるのと同時に……まるで全てを吹き飛ばしてしまうような、とてつもない突風が吹き荒れた。
 体重の軽い使い魔は宙を舞い、女子生徒のスカートが盛大に捲れあがる。それを凝視するギムリの鼻の下は盛大に伸びる。直後、そんな彼の頭に石が命中する。
 周囲はまさに阿鼻叫喚の様相である。

 そんな突風地獄は一分ほど続き……。
 全てが終わった頃には、すっかりぼろぼろになった魔法学院の生徒たちとコルベール、そしてなぜか無傷のヴェンツェルと巨大な“鷲”が存在するばかりである。

 呼び出されたのは巨大な鷲である。だが、鷲とはいうものの、その大きさは成体の風竜とほとんど変わらないほどである。
 最初はヴェンツェルに向かって怒号を飛ばしていた生徒たちも、そのあまりの奇怪な生き物を見て、思わず口をつぐんでしまう。
 グリフォンのような幻獣でもない、ただの鳥が風竜と同等以上の大きさを持っているはずがないのだ。

「……今年は大物が続きますなぁ」

 現れた鷲を見つめながら……。そんなふうに、尻餅をついたミスタ・コルベールがぼやっと呟いた。どこか嬉しそうなのは気のせいだろうか。

「鷲か。意外だな」

 目の前でじっと自分を見つめる巨大な鳥類を眺めつつ、ヴェンツェルは手元の杖をじっと握り締めた。
 この巨大さといい、妙なオーラといい、もしかしたらこの鷹は幻獣の類かもしれない。不用意に近づいて餌にされてはたまったものではない。
 だが、その心配は杞憂であるらしい。襲ってくるばかりか、どういうわけか鷹は恭順の意思を見せたのである。
 頭を下げ、まるで敵対する意思がないとでも言いたげな視線で見つめてくる。その瞳に敵対の色はまったく見えない。
 これなら大丈夫だろう。
 そう考え、ヴェンツェルは『コントラクト・サーヴァント』のために鷹に近づいた。対象に近づけば、その大きさがより実感出来た。

「我が名はヴェンツェル・カール・フォン・クルデンホルフ。五つの力を司るペンタゴン。この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」

 一度深呼吸をして。先ほどと似たような呪文を詠唱し、鷲のとにかく巨大なくちばしに唇を重ね合わせる。
 しっかりと契約は履行されたのか不安だったが、すぐに近寄ってきたコルベールが鷲の足に刻まれたルーンを見つけたので、その心配はなくなった。
 
「ふむ。しかし、これはすごいですなぁ。これほどの大きさの鷲は私も見たことがない。きっと図鑑にも載っていないでしょう」
「やや。新種でしょうか?」
「その可能性は大いにありますぞ。いやしかし、今日はすごい。ミスタ・グランドプレの風竜といい、王女でn……ミス・ステュアートの水竜といい……」

 さすがに、竜相手に馬鹿でかい鷲では分が悪いのではないか。そう思わないこともないのだが、これだけのものを呼べたのは誇って良いのだろう。

「……ああ、そうだ。名前はどうしようかな」

 鷲を見上げながら。ふと、この使い魔の名前を決めていないことに気がついた。完全に失態である。
 当初はあまり期待はしていなかったので、小さな動物が呼ばれたときのための『ジョン』だの『ポチ』だのとろくな名前を考えていなかったのであるが……。
 どうしたものかと悩んでいると。突然、頭の中に耳慣れない声が鳴り響く。それはまるで、頭の中に直接響くような声音だった。

 ―――フレースヴェルグ。

 はっとなって、思わずヴェンツェルは周囲を見回した。しかし、彼の周囲には誰もいない。ちょうど反対側の集団から出てきた生徒が向かって来るだけだ。
 となれば、他にあの声を発したのはこの鷲だけということになる。だが、そんな馬鹿なことがあるのか。
 鷲が人語を解すなどという話は聞いたことがない。ルーンの力で猫や犬が喋りだした、という話は耳にするのではあるのだが。

「なぁ、おい」

 と鷲の方を向き、体を指で突きながら声をかけてみても……。巨大猛禽類はまともな反応を返してこなかった。ただじっとこちらを見つめるだけである。
 これではやるだけ無駄だろう。後がつっかえたら迷惑だ。そう考え。仕方なく、ヴェンツェルは鷲を連れたまま集団の中に戻ることにした。

「大きな鷲ですわ」
「まったくだよ。そこいらの風竜くらいはあるよ。どうすんだこれ」
「あんたが自分で考えなさいよ。お金はあるんでしょ?」

 アンリエッタが水竜より若干背が低いだけの鷲を興味津々といった様子で観察している。
 一方で、困ったような表情を見せるヴェンツェルが気に食わないのか、またもルイズが足をぐりぐりと踏みつけてきた。

「それで、名前はどうするんだい?」

 じっと鷲の毛並みを観察していたレイナールが、そこで口を開く。ちなみに、彼の頭に上には『極楽鳥』がきらびやかな羽根を広げて鎮座している。
 彼も鳥類を呼び出していたのである。それも、火竜山脈に生息するという貴重な種類の鳥なのだ。その卵は非常に貴重なものらしい。
 ちなみに、名前は『グリンカムビ』というそうだ。前々から考えていたいくつかの候補から、鳥類用のものを選んだという。

「そうだな。さっきなんとなく『フレースヴェルグ』ってのが思いついたから、それにするよ」
「『フレースヴェルグ』?」
「ん? どうしたんだ、ミス・ヴァリエール」
「……いいえ。なんでもないわ」

 ルイズが疑問の声を上げると、それにギムリが食いついた。しかしルイズはすぐに首を振って思案に没頭し始める。
 『フレースヴェルグ』。古語で“死体をのみこむ者”を意味する言葉で、あまり縁起がいい名前とはいえない。
 それを知っていてヴェンツェルは名づけたのだろうか? いや、あまりそういう様子ではなかった。「なんとなく」というのは本当の話だろう。
 そもそも、座学の成績がレイナール無しではまったく維持すら出来ないヴェンツェルが古代の名称など知るはずがない。
 だが、どうしてか。このとき、ルイズはやけに胸元がもやもやするのを感じた。なんだか不安な気持ちに陥りそうだったからだ。

「いよいよ最後ですぞ。ミス・ヴァリエール!」
「は、はい!」

 しかし、最後までその意味を考えることもなく。ルイズを呼ぶミスタ・コルベールの声がした。呼びかけに応じ、つかつかと彼女は歩き始める。
 彼女が最後なのは、恐らくは使い魔召喚にもっとも時間がかかるという可能性を配慮してのことらしい。
 よりによって一番目立つタイミングである。もっとも、順番如何に関わらず目だっただろうが……。

「『ゼロ』のルイズ! 召喚に失敗しても泣くなよ!」
「あんたのせいで次の授業に遅れたら許さないよ!」

 さっそく野次馬が騒ぎ始めていた。残念ながら、彼らの人間性は、地に落ちるほどに酷いものだと言わざるを得ないだろう。

「ルイズ。頑張ってくださいね」
「なに、きみは出来るよ。大丈夫さ。落ち着いてやれば問題ない」
「そうだな。胸は無いが、夢は無限大さ」
「そこの筋肉ばか。あとで覚えてなさい、わたしが呼び出すであろう、立派な使い魔の餌にしてやるわ」

 せっかくアンリエッタやレイナールが励ましているというのに、最後の最後に軽口を叩くのがギムリである。白い歯を見せながら馬鹿をやるのだから、始末に終えない。
 もっとも、それは見るからにガチガチに固まっているルイズの緊張をほぐしてやろうという、粋な計らいではあったのだが……。
 一方のヴェンツェルはといえば、不用意な発言をしないようにと口をつぐんでいる。真一文字に口を閉じる有様だった。

「……なによ。なんで黙ってるわけ。なんか言ったらどうよ」
「そうか。では、お言葉に甘えて。『コントラクト・サーヴァント』をする前に、口臭対策はしておけよ? 相手が不kt……」

 ……よりによって今言うことがそれなの。どこまで空気が読めないのかしら。だからアホなのよ。

 例によって間抜けな発言をしたヴェンツェルは、例によってルイズの長い脚が顔面に食い込んでダウンする羽目となった。
 その光景は、マリコルヌだけが羨ましそうな視線で見つめていたが……。桃色ブロンドの少女は、そのことにまったく気がつかない。

「ミス・ヴァリエール。落ち着いて魔法を唱えるのですぞ。焦りは失敗を生み出す。明鏡止水の心で挑むんだ」
「明鏡止水、ですか?」

 ルイズにはコルベールの言った言葉の意味はわからないが、まあ要は「落ち着いてやれ」ということなのだろう。そう解釈し、少女は杖を振り上げる。

 ……大丈夫。きっと使い魔は自分の呼びかけに答えてくれるわ。来て、わたしの使い魔。

 目を閉じ、己の願いをそよそよと流れ行く風に乗せて。ルイズは、一気に杖を振り下ろす。感じるのは確かな手ごたえ。

 そして。

 次の瞬間、彼女を基点とする大爆発が起きた。耳をつんざくような爆音と、吸い込んだら不味そうな煙がもわもわと浮かんでいる。
 地面の土が抉り取られたらしく、若草のなきがらを巻き込んでぱらぱらと降り注いだ。各所から不満の声が上がる。

「……ふぁっ。また派手に……、あら? ヴェンツェル?」

 爆発の余韻も消え去ったころ、アンリエッタは己の隣にいたであろうはずの少年の名を呼ぶ。だが、なぜかその姿は見えなかった。

 このとき、彼の姿は―――

「な、ななな……」

 わなわなと声を震わせながら、ルイズは目の前で尻餅をつく少年に指を突き立てる。

「な、なんで、なんであんたが現れるのよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」

 なぜか、ヴェンツェルの姿は。目の前で絶叫する少女、ルイズ・フランソワーズの眼前にあったのだ。

「……ん?」

 呆けた表情で、ヴェンツェルは己の状況を確認する。前方。ルイズがいる。今日も下着は代わり映えのしない白だ。だが、それがいい。
 少し冷静になってみると、何かがおかしい。先ほどまで、自分はアンリエッタの隣で立っていたはず。それがどうして……。
 とまあ、実際はそこまで考えなくてもわかる。要は、ヴェンツェルはルイズの使い魔として召喚されたのである。

 予想外の事態である。ルイズは、大慌てで監督をする立場にあるコルベールに詰め寄った。彼女の口から出るのは、お決まりの言葉である。

「み、ミスタ・コルベール! 人間が呼び出されるなんて、これは非常事態です! このままでは契約出来ません! やり直しさせてください!」
「う、うむ。いや、だが。『サモン・サーヴァント』で呼び出した以上、契約しないわけにはいかない。こう言ってはなんだが、ミスタ・クルデンホルフが生きている限りは他の使い魔は召喚されないだろう」
「……うっ、ぐぅ……だったら……」

 俯いて“よからぬ考え”を一瞬だけ脳裏に思い浮かべたルイズ。そんな彼女に釘をさすように、ミスタ・コルベールが口を開く。

「殺人はいけませぬぞ。きみが大公家の嫡子を殺害したなどとなれば。まず間違いなく戦争沙汰ですな。そうなれば、ご実家が火の海になるでしょう。きみの気持ちはわかるが……」
「わ、わかってます! ですが、このままというわけにはいきません!」

 コルベール的には、ラ・ヴァリエールとクルデンホルフが戦争をすれば前者が惨敗するという結論が出ているらしい。
 まあ、それはごくごく当たり前の結論なのかもしれないが。

「いや、これには自分も困っているが……。原則的に、呼び出した生物とは契約しなくてはいけない決まりだ。それはわかっているだろう?」

 コルベールは頭髪の少ない頭をぽりぽりとかきながら、心底困ったという表情で告げた。
 しかし、ルイズは思うのである。
 コルベールの言い分はもっともだ。だからといって、貴族を使い魔にするなどということは前例がないではないか。そんなことがまかり通るものか。
 だいたい、なんで自分がこいつと契約しなくてはならないのだ! こんなどうしようもないのを使い魔にするなんて、考えただけでもおぞましい。
 これはラ・ヴァリエールとクルデンホルフ両家に関わる重大な問題だ。ここは実家に相談する他にない。
 ……と。ルイズが思案を巡らせていると。

「……通常は召喚されるはずのない、人間が使い魔として召喚された。これは意外と重大なことかもしれませんわ」

 それまで事態を静観していたアンリエッタが、二人のいる場所まで歩み寄ってくる。
 既に周囲では困惑とルイズへのからかいと非難が、一部の生徒によるヴェンツェルへの罵倒が巻き起こっていた。
 だが、この場にはそんな喧騒などまったく入り込みはしない。アンリエッタが『サイレント』を詠唱したからだ。
 ちなみに、コルベールはアンリエッタの担当教員である。既にオスマン氏からその正体を告げられていたので、凛とした王女の態度に思わず背筋が伸びる。

「ミスタ・コルベール。この件はわたしが預かります。どうぞ、この場は解散なさってください」
「いや、しかし。ですが、自分には監督責任が……」
「ミスタ? これは、場合によっては国の中枢に関わる事案かもしれませぬ。その責任をあなたは負えるのですか?」
「……い、いえ。はい。わかりました。皆! 儀式はここで終わりだ! 帰りますぞ!」

 『サイレント』が解除されると、すぐにコルベールが生徒たちに向かって大きな声を張り上げた。
 そうして、未だに渋るコルベールを半ば無理やりに追い払い……。訝しげな顔をする、他の生徒たちが『フライ』でこの場から去ったのを見届けると。

 アンリエッタはいよいよ、怪訝な顔のままこの場に残ったルイズとヴェンツェルに向き直った。

「ルイズ。わたしは思うのです。『使い魔』こそが、あなたが魔法を使うことが出来るようになる“鍵”ではないのかと」
「で、でも。わたしは……」

 栗毛を風になびかせながら。アンリエッタは言う。だが、それをルイズは受け入れない。頑なな意思が彼女の瞳からは読み取れる。

 ―――実は、このときの王女の内心では、どうにもラ・ヴァリエール公爵への不信感が募っていた。

 ヴェンツェルが行方をくらませたのと、カリーヌが魔法学院から姿を消したのは、ほぼ同時だった。タイミングが異様に近いのである。
 そして、魔法学院のすぐそばで発見された、半分に切り裂かれた『シュヴァリエ』のマント。どうも凶器は『ブレイド』である可能性が高いという。
 ルイズがこぼした「お父さまがとても不機嫌だわ。何かの仕事に失敗した傭兵を捜してるって」という言葉の意味。

 仕事とは?

 “失敗”したとは?

 偶然にしては、あまりにも出来すぎているとしか思えなかった。

 そしてヴェンツェルを襲ったという『元素の兄弟』。調べてみれば、ここ最近のトリステインでも名前の挙がるプロの傭兵だった。
 それが、ここ数ヶ月は行方をくらませていて、まったくといっていいほどに足取りが掴めない。
 ……つまり、ヴェンツェルの暗殺に失敗し、その咎を受けることを恐れた彼らは国外に脱出するか、あるいは潜伏したのではないか。
 そう考える他にないのだ。

 もし、暗殺を命令した疑いのある人物に、自分の娘が殺そうとしていた人間を召喚した、などと伝えたらどうなるだろう。
 まず間違いなく、もう一度命を狙いに来るはずだ。傭兵に頼れないとなれば、あるいは自分で来るかもしれない。
 肝心のヴェンツェルはその事実にまったく気が付いていない。カリーヌ絡みの記憶がないと言っているのだから、ある意味それは当然だろう。
 カリーヌ関係でなければ、彼が公爵に狙われることなどありえないのだから。
 だが。
 先ほどアンリエッタが放った一言は嘘偽りのない本心である。ルイズの使い魔は恐らく、一般的なメイジのそれよりも遥かに重大な意味を持っている。
 そういうふうに、自分の中にある何かが伝えてくるのだ。だが、安易に契約などさせて良いのだろうか。答えは出ない。 

「……そうですね。無理に契約する必要はないかもしれません。ですが、本件はわたしが預かります。ご実家への連絡は控えるように」
「は、はい。わかりました。そうします」

 アンリエッタの言葉を受けて、ルイズは静かに頷いた。そして、少し怖い顔になった王女がヴェンツェルに声をかけてくる。

「ヴェンツェル殿も。一応、ミスタ・オスマンを通して緘口令を布くように言い伝えておきますが……。わたしの知らないところで、勝手に契約したりしてはいけませんよ?」
「え、ええ。もちろん。そんなことはしないです」
「そうです。……駄目ですよ? ルイズは……」

 どうしてだろう。笑顔なのに、妙な恐怖感をヴェンツェルは覚えた。そして、この笑顔はどこかで見覚えがあるような、そんな微かな記憶が呼び起こされる。
 一通り告げた後は、アンリエッタはルイズを引き連れて帰ると歩き始める。それに少年も従った。

 どうしても、ヴェンツェルは思うところがあるのである。アンリエッタはああ言っているのであるが……。人の口に蓋など出来るのであろうか。

 結果だけ言えば、当然ながらそれは無理な話であったのだが。それが表面化するのは、もう少し先のことだった。






[17375] 第二十一話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:0509cb26
Date: 2010/12/06 19:57
 使い魔召喚の翌日―――ルイズがヴェンツェルを召喚したという事実は、既に学院中の人間の間で大きな話題となっていた。

 昼食の席へ向かう生徒たちで溢れる、本塔への渡り廊下。どうにもがやがやひそひそと人の声が立っているではないか。

 由緒あるラ・ヴァリエールの令嬢が、新興の成金貴族とも評されるクルデンホルフの嫡男を使い魔とする。
 それが娯楽の少ない学院の生徒たちの話の種にならぬはずがない。
 腰の辺りまで揺れるストロベリー・ブロンドの頭髪を見れば、誰もかもが隣り合った人間とひそひそ話を始めるという有様であった。
 そんな連中に対するルイズに反応はお決まりのものである。
 腰に手を当て、眼光鋭くぎろりと不躾な奴らを睨みつけてやるのだ。そうすれば、大抵の生徒たちは恐れおののいて早足に去っていく。
 だが。
 いくらそれをしようとも、まるで気にせずに後をつけてくる者もいた。燃えるような赤毛に褐色の肌が特徴的な女性、キュルケだった。
 彼女は先ほどから、やけに学院の廊下をうろうろとするルイズの後をつけているのである。その美貌には、どこかわくわくとするような、変ににやにやとした笑みが浮かんでいる。
 
「ねぇ。あなた本当にヴェンツェルを召喚したの? どうしても魔法がうまくいかないから泣きついたんでなくて?」
「うるさいわねぇ。何度も言ってるでしょ。わたしだって不本意なんだから! こっちだっていい迷惑なの!」

 ぷん、と不機嫌であることを隠しもせずにルイズは言い放つ。首を振る際に、ふわふわの桃髪がふわりと舞った。
 するとキュルケは「そうよねぇ」と特に気にしたふうでもなく、ただ淡々と呟く。どうにも、そんな様子がルイズは気に食わない。
 しかし、相手をすると余計に付け上がるのでここは黙っておく。

「……で、あんたはなんでわたしの後を付回すのよ」
「あ、そうそう。見てよこの子。すごいでしょう? きっと火竜山脈で生まれたたんだわ。そこいらのとは格が違うの」

 そう言ってキュルケが指し示すのは……立派な赤い鱗に覆われた、火トカゲことサラマンダーである。この個体は特に色・艶に優れているのが一目でわかる。
 しかし、今さらそんなものを見せられたところでルイズは動じない。
 彼女の親友は水竜を呼び出しているし、なにより彼女本人がとんでもないものを呼び出したのだから。
 それがわかっているのか。芳しい反応を得られなかったためか、ほんの少しばかり落胆した様子でキュルケは口を開く。

「そうよねぇ。ヘンリエッタさんは水竜、あなたはヴェンツェルだものね。今さらサラマンダーなんて見ても驚かないか……」

 もっと言えば、レイナールは希少種の極楽鳥を召喚していた。それでは、いかにキュルケのサラマンダーが優れた個体だろうと、元が勝負にならないのである。
 微妙に落ち込んだ様子のキュルケを見て、ルイズは何かしら言いたいことがあるのだろう。唇を動かそうとするのだが……。

「ま、それはいいわ。それより、ヴェンツェルたちがどこに行ったのか知らない? わたしってば、元々それを尋ねようと思ってただけなのよ」

 とあっけらかんとした口調で言うので、ルイズは脳内の言葉を吐き出すよりも、まず呆れて物も言えなくなってしまうのだった。


 さて。その頃のヴェンツェルはといえば……。

 トリステイン魔法学院の正門を出て、少し歩いたところにある森にアンリエッタと共に訪れている最中である。
 彼らの目の前には、そこそこの大きさと深さがある池が、ひっそりと水面を風に揺らしていた。
 ここは比較的学院に近いのだが、誰からも見向きもされない池だった。故に、静かな場所でもある。

 そんな池に浮かぶのは、アンリエッタの使い魔の水竜フロン。
 水竜はあまりにも大きい。故に学院で面倒を見ることは出来ず、こうして外で住まわせることが出来る場所を探すしかなかったのだ。
 ちなみに。池のすぐ横にある巨木の天辺では、ヴェンツェルの使い魔であるフレースヴェルグが巣を作って休んでいる。
 世にも珍しい怪鳥もまた、学院で面倒を見ることは出来なかったのだ。
 また、フレースヴェルグは呼べばすぐに寮塔まで来るので、無理に敷地内に入れておく必要もなかった。

「学院の近くにこのような場所があるなんて、思いもよりませんでしたわ」
「灯台下暗し、というやつですかね。僕たちも必要に迫られるまではまるで気が付きませんでしたし」

 春の少しばかり肌寒さを残した朝の陽気。それをものともせず、池のすぐそばの草地に腰を下ろしたアンリエッタが背伸びをする。
 なんというのだろうか。あえてわざとらしい言葉を使うのならば、彼女は春の草原に咲き誇る真っ白な花というべきだろうか。
 かつては立派な花壇に咲く白百合だったことを考えると。その変化は良いのだろうか、あるいは悪いのかわからなくなる。

「……あまり、こういうタイミングで耳に入れたいことではないのでしょうけども。式の予定はどうなっているのですか?」

 言いにくそうに、しかしはっきりとした口調でヴェンツェルは問いかける。すると、アンリエッタは首だけ彼の方を向いて口を開いた。

「ええ。ゲルマニアの方がずいぶんと落ち着いたらしく、いよいよ来月の初頭にも挙式を行うと通告してきたそうです。もうすぐ、迎えの者が来るでしょう」
「そうですか……」

 この学院に、亡命アルビオン貴族を騙って入学したトリステインの王女は、これといって感慨もないという声音で告げる。
 一方で、その言葉を受けた少年はというと。どうにもばつの悪そうな顔で、気まずそうに顔を背けるだけだった。

「なにを迷っているのです。あなたは無謀にも一国の、それも嫁入り前の女を大胆不敵にも抱いたのです。今さらくよくよすることがありましょうか?」
「ええ。まあ、そうなんですが」
「……いいですか? わたしはあなたを責めるつもりなど毛頭ありません。どれだけ感情を重ねようとも、決して変えられぬ事象は存在するのです。それはやむを得ぬことだとわかっていますから」

 それだけ言ったあと、アンリエッタは不機嫌そうに眉を歪めて水面に映るゆらゆらとした幻影に見入る。
 これはサインだ。突き放すようなことを言っておいて、その実自分の方はもっと構ってほしい。そういう願望が現われた行動である。
 仕方なく、ヴェンツェルは眼下の少女と同じように草地へ腰を下ろした。
 ふと視線を上に上げると、池に映る、真っ白な雲と自分たちの姿が見える。水面の自分が自分を見返していて、その情けない表情に思わず腹が立った。

「……この学院での生活も、あとほんの少し。どうしてでしょう。楽しいときばかり、時間の過ぎるのが早いのは……」

 そう呟きつつ、この国の王女は栗毛に包まれた頭をヴェンツェルの肩へと乗せてくる。ふわりと花のような香りが鼻腔に飛び込んできた。
 横を見やれば、そこにはアンリエッタの小さな顔があった。大きな青い瞳は潤み、じっと見つめてくるのである。
 そんな彼女を見ていると……、どうしてそうして、少年はどうしようもなく切ない感情に支配されるのであった。



 *



 ヴェンツェルとアンリエッタが学院へ戻り、食堂へやって来ると。既に食事は開始されてしまっていた。

 そそくさと、こっそりと二人は自分たちの席に戻る。当然、ここまででヴェンツェルには相当数の視線が浴びせられていた。
 ルイズの使い魔として召喚されたことに対する悪意。アンリエッタのような、どこかそこいらの貴族とはまた違った、高貴な雰囲気をまとった少女と一緒にいることへの憎悪。
 表だってクルデンホルフを非難できなくとも、彼らの心中は顔を見ずとも察せるほどに殺気立っていた。

「まったく。殿下は敵が多いな」

 周囲の猛烈な殺気を感じ取ったのだろうか。ギムリがそんなことを呟く。とはいえ、彼自身はこういう状況下にあっても離反したりする気はないらしい。
 「まあ、任せておきな。ギムリ・ド・アグラロンドの誇りにかけて、殿下を守り通してやるぜ」とまで言うのである。
 なぜそこまで彼が自分から離れないのか―――まあ、なんとなく理由の想像はつく。それでもありがたいことはありがたいのだが。

「マリコルヌ! それはぼくのフォアグラじゃないか!」
「おや? そうだったのかい。それはすまないね。でもごめん、もう胃袋の中なんだ。はっはっは」
「き、きみってやつは……」

 近くの席でそんなやり取りをしているのは、金髪気障男のギーシュと金髪豚野……マリコルヌだった。彼らとは、今年は同じクラスになったらしい。
 マリコルヌはちゃっかりとルイズの隣に腰掛けている。まったく要領のいいとしかいえないやつであった。


 食事が終わると、メイドたちがデザートを運んでくる。ケーキらしく、食べたくないらしい生徒はさっさと退出を始めていた。
 女子生徒も体重やら体型やらを気にする生徒は多いので、実はあまり人気のない時間帯だったりする。メイドたちもどこか楽そうに見える。

 だが、事件はそういうときに限って起きるのだ。

 まさか、決闘イベントがないのだからギーシュの二股がこの場でばれることはないだろう―――そう考えたのが大きな間違いだった。
 律儀にもギーシュはモンモランシーから贈られた香水を落とし、それをよりによってメイドのシエスタが拾ってしまったのだからさあ大変。

「ギーシュさま! これはどういうことですか!」
「説明してください!」
「あ、いや。なんていうか……」

 偶然居合わせたケティ・ド・ラ・ロッタや、他二名ほどの一年生の女子生徒にギーシュは言い寄られていた。
 女子生徒たちが猛烈な剣幕であるのが、かなり離れた遠くの席からでもわかる。二股どころか四股だったのた。怒りの威力もその数に比例する。

「くそっ……ギーシュの野郎……。羨ましすぎるぜ……」
「そうかなぁ。ぼくはそうは思わないなぁ」

 ギムリとレイナールが遠くからぼうっと見つめるなか。

「ねえ、ギーシュ。最初に言ったわよね。浮気すんなって」
「は、ははは……。いや、これは違うんだ、モンモランシー! ぼくの心の中にいるのは常に……」
「嘘おっしゃい。昔はわたしを放って、やんごとなき身分のお方と親密にしていたって言うじゃない! あんたってばいつもそうなのよ! もう付き合ってられないわ、さよなら!」

 颯爽と修羅場へはせ参じたモンモランシーによって、ギーシュは引導を渡されることとなった。衆目の下での絶交宣言を受けたのである。
 モンモランシーの剣幕に、そこへ集まっていた他の女子生徒たちもさっさとギーシュの元を去って行った。

「……」

 全ての女子生徒が立ち去ったあとも、モンモランシーに頭からワインをぶっ掛けられたギーシュはしばし呆然としていたが。
 すぐに、困り顔で立ち尽くすシエスタに憔悴した様子で声をかけた。

「……いや、すまないね。出来の悪い寸劇を見せてしまったようだ。ははっ……」

 ギーシュはシエスタにいちゃもんをつけることなく香水の瓶を受け取る。そして、ふらふらとした足取りで『アルヴィーズの食堂』を出て行った。
 相手が女性、それも平民にしてはかなりの美少女だったからなのだろうか。いずれにせよ、予期された問題は起きないらしい。
 まあ、下手に煽ったりしなければ、平民である学院のメイドに逆上するようなこともないのであろう。
 そんなことを考えていると……。唐突に、耳慣れた声が響いてくる。

「へぇ。意外ね。てっきりいちゃもんつけるかと思ったのに。『よくも恥をかかせてくれたね。あとで部屋に来い』くらい、言いそうだと思いませんこと?」
「そうだなぁ。彼はなかなか……って、ベアトリス」
「こんにちは。兄上」

 なんと。いつの間にか、アンリエッタとルイズが腰掛けていた席を、ベアトリスが占拠しているではないか。
 頭の両脇で二つくくりにした、繊細な金色の髪がさらさらと揺れる。母親から受け継がれた髪色は、クルデンホルフの血統のものよりも輝きが洗練されているようにも思えた。
 大きな青い瞳は、ヴェンツェルの右目とまったく同じ色をしていて、顔立ちと合わせて二人が兄妹なのだと感じさせる。
 一体いつ現れたのだろうか。いや、それ以前になぜ一年生のこの少女がこんなところにいるのか。どうして微妙に嬉しそうな顔をしているのか。
 とりあえず、それを訊いてみることにした。

「ベアトリス。いつの間にここへ。ここにいた二人は?」
「さあ? さっきわたしが来たころには、もうお姿は見えませんでしたわ」

 ちなみに、当然ながらベアトリスはアンリエッタの正体を知っている。
 ヴェンツェルは彼女に王女の秘密入学の件をまったく伝えていなかったが、彼女は彼女なりに頭を働かせているらしい。誰かに話すつもりはないようだった。
 突然の出現に驚いたのはギムリとレイナールも同じだった。いきなり見目麗しいロ……幼げな美少女が現れたので、前者はえらく興奮している。

「き、きみは……」
「ベアトリス・フォン・クルデンホルフですわ。以後、お見知りおきを。あ、ミスタ・ブリュージュとは以前にお会いしていましたよね」
「うん。よろしくね」

 そうやってベアトリスが席を立って挨拶すると、ギムリも同じように立ち上がって名乗り始める。なにもそこまで硬くならなくても、とヴェンツェルは思うのだが……。
 挨拶のあと、ベアトリスはケーキを食べ始める。真っ白なショートケーキだ。
 なんとなく、ケーキを口に運ぶ彼女を眺めていると……ギムリが、体をこちらに寄せて耳元で何か囁いてくる。

「殿下。妹君を、ぜひともアグラロンド家の時期当主たるわたくしめの正妻として迎えたいと思います。なに、谷ばかりの難儀な土地だが、住むに適した平坦な土地だってある」
「……それは、彼女か父上と直接話し合ってくれ。ぼくにどうこう決められる話じゃない」
「そんな殺生な! 後生だ!」

 無茶苦茶な言い分だった。そんなことをヴェンツェルが決める権利などない。
 ちなみに、ギムリの実家の領地は、トリステイン国内では数少ない風石の産地を要しているので、それなりに財政は潤沢である。
 問題は、その土地は深い谷ばかりが存在する地域だということだった。だからこそ、地中に埋まっている風石まで比較的簡単に到達出来るのだが……。
 クルデンホルフでの生活に慣れたベアトリスが、そんなところで暮らすのはまず無理だろう。
 というより、あのハルケギニアでは最高水準の生活環境から一気に突き落とされるのは、それは堪えるだろうと思う訳である。
 一方の、ベアトリス本人はといえば、そんな男たちのやり取りなどまったく気にも留めていない様子なのであった。

「そういえば、アリスは? あと、ベルナデットにエステルっていったっけ。彼女たちも」
「彼女たちは用事があるとかで、三人だけでどこかへ行ってしまいましたの。まったく、わたしを置いていくなんて許せませんわ」

 ケーキを口に運びながら、不愉快そうな声音でベアトリスは言う。ちまちまと切り分けているせいか、まだまだケーキは大半が残っていた。

「……兄上。そうじろじろと見られていると、食べにくいのですが」
「ん? あ、ああ。ごめん」

 ぼうっと妹の食事風景を眺めていると、居心地悪そうな顔で告げてくる。これは失敬したと、ヴェンツェルは視線を別の方向へ避けるのであった。









 ●第二十一話「迫り来る時限」









「では、今日は前学年のおさらいからやってみましょう。まずは『錬金』です。誰かお願いできますか?」

 使い魔召喚から数日後の、とある日。

 『土』の担当教員であるカトレア・ド・ラ・ヴァリエールが、ほんわかとした笑みを浮かべながら生徒たちを見回す。
 『錬金』は土系統では初等レベルの魔法である。今さらそれをやりたがる人間などいない……のだが、カトレアに近づきたい男子生徒たちは一斉に手を挙げた。
 誰もかれも必死である。特に非公認組織『カトレアさんを愛でる会』に所属している連中は必死すぎる形相を見せている。

「ギーシュのやつ……、四股をかけていたと思ったら、今度はミス・ヴァリエールって……。なんなのよ、あいつ……」

 アンリエッタのすぐ後ろの席で。ぶつぶつと、モンモランシーが何事か呟いている。小さい声だったが、独り言の内容は嫌でも聞こえてきてしまうのだ。
 「なによ、すぐに土下座しに来るとかすればいいのに」「でも許さないけど」「あのばか……なんで来ないのよ」と延々と垂れ流している。
 ルイズにもそれが届くようで、眉を歪めていらいらとした様子で教卓と黒板を見つめていた。

「じゃ、じゃあ。ミスタ・グラモンにお願いしようかしら」

 思っていたよりもずっと多くの手が挙がったことに戸惑いつつも、カトレアはギーシュを指名。意気揚々と、金髪気障男は教卓へと向かって歩いていく。
 ギーシュが教卓にたどり着くと、カトレアはなにやらこぶし大の石を取り出した。

「では、ミスタ・グラモン。この石灰岩をなにか金属に変えてみてくださいな」
「はい。では、ぼくの十八番である青銅に変えたいと思います」

 颯爽とギーシュは杖を振り上げる。『錬金』を詠唱すると、みるみるうちに、白っぽい灰色の石が鈍い輝きが放つ青銅に変わったではないか。
 自身で『青銅』などと言い放つくらいのことある。この程度、どうということはないようだった。

「よく出来ましたね、ミスタ。さすがですわ」
「いやぁ、それほどでも……」

 カトレアに褒められたせいか。ギーシュときたら、デレデレと鼻の下を伸ばしまくっている。なんとも、どこまでも美人に目がない男である。
 ついこの間にも、盛大にフラれたとは思えないやらかしっぷりだ。
 そうなるといよいよ、モンモランシーの機嫌は悪くなる一方だ。もわもわとどす黒いオーラが湧き出てくる始末。ここまでご執心だとは予想外だ。
 使い魔のオレンジ色のカエル、ロビンはそんな主の猛烈な殺気に恐れをなして腰の袋から出てこない。

「……平和だねぇ」
「まったくだ」

 のん気に頬杖などつきながら、レイナールとヴェンツェルはそんなことを言い合っていた。

 ―――そう。

 彼らは知らなかった。そんな平和な日常など、たった杖を一振りするだけで容易く崩壊してしまうことを。だが、それは仕方のないことかもしれない。

「……ええと。次は女子の方にお願いしましょうかしら。誰かこの青銅に『錬金』をかけてみてくれますか?」

 次に、カトレアは女子生徒に前へ進み出るようにと言い出した。しかし誰も手を挙げない。男子の人気を得すぎるカトレアは、完全に嫉妬の対象となっていたのだ。
 一度でもきちんと本人と対話をすれば、そういった偏見はなくなるが。残念ながら、このクラスではまだあまり話せていないらしい。
 どうしたものかと彼女が悩んでいると……、唐突に、女子生徒の一人が手を挙げたではないか。

「ミス。ミスの妹君であらせられるルイズ・フランソワーズ殿に『錬金』を行わせてみては?」

 その発言の瞬間、先ほどまで静けさに包まれていた教室が一気に騒がしくなる。
 「お前は一体なにを言っているんだ」「『ゼロ』のルイズにやらせたら爆発するだろ!」「俺……この授業が終わったら、あの子に告白するんだ」と、なんだかわからない台詞が舞う。
 ルイズの性分を言えば、こうやって馬鹿にされると意地でも反抗したくなるのである。発言を行った女子生徒を一瞥したあと、まっすぐに手を挙げる。

「先生。ぜひともわたしにやらせてください」

 ああ、これはもう意地でも譲らないだろう。そう考えた大部分の生徒たちは、そそくさと机の下に避難していく。皆、命は惜しいのである。
 堂々と宣言されたカトレアはと言えば。しばし困惑の表情を浮かべていたが、一旦目を閉じ……覚悟を決めたように頷いた。

「ええ。わかりました。お願いします」

 確かにルイズとは姉妹ではあるが、だからといって特別な扱いをするわけにはいかない。
 この場合はルイズを特別な例として扱った方が良いのだろうが、若干テンパっていたカトレアはそういう冷静な判断が出来ずにいたのだ。
 ルイズは、緊張の面持ちでカトレアのいる教卓にまで足を運ぶ。見れば、アンリエッタは自主的に机の下へ退避している。
 何の備えもしていないカトレアは、失敗魔法の影響をもろに受けてしまうだろう。そう考えたヴェンツェルはカトレアの周囲に『エア・シールド』を展開した。

「で、では。いきます」

 小さくそう宣言し、ルイズは手にした杖を振り上げる。目の前の青銅目掛けて『錬金』の魔法を詠唱し―――

 案の定。教卓の周囲で、耳をつんざくような爆音と共に、目を覆いたくなるほどの光と爆風が発生した。
 閃光のあとはもわもわと沸き立つ煙ばかりが視界を支配した。机の下から這い出てきた数人の風メイジが、そんな煙や埃を吹き飛ばすと……。

「けふっ……」

 やはりというのか。全身ズタボロのルイズが、ぷすぷすと煙を立ち上らせながら立ち尽くしている。
 自慢の髪はドライヤーを当てすぎたかのようになっているし、せっかくのシャツはところどころに穴が空いている。スカートもびりびりで下着が一部露出するという有様だった。
 それに気が付いたのか、彼女はすぐにマントで身を隠した。
 見れば、カトレアは『エア・シールド』が張られていたにも関わらず、黒板に体を打ち付けて失神してしまっているではないか。

「やっぱり『ゼロ』は『ゼロ』だったな!」

 机の下から顔を出した生徒たちから、お決まりの野次が飛ぶ。まあ、結果は予想出来ていたのだから仕方ない。

「ルイズに『錬金』を唱えさせたのは……あいつか。確かド・ドゥーエ男爵だったな……。うちに借金があったはずだ……」
「ヴぇ、ヴェンツェル?」

 小さく不穏なことを呟くヴェンツェル。それを耳に入れたレイナールが、訝しげにその名を呼んだ。しかし、それも意に介さない。
 誰も彼もが動けない中。ただ一人席を立ってヴェンツェルは教卓へと向かった。彼が向かう先には、倒れこんだカトレアと、寄り添うルイズの姿がある。

「目は覚めないのか?」
「あ、う、うん……。どうしよう。打ち所が悪かったら……」
「とにかく、こうしていたら危ないだろう。とりあえず医務室へ運ぼう。……よっと」

 言うが早く、ヴェンツェルは気絶したままのカトレアを背中におぶってしまった。重いといえばそうだが、大して苦にはならない。
 すると、なんだかいい匂いや、柔らかい太ももや豊満な胸の感触が手や背中に伝わってくるのだが……。決して他意はないのだ。そうに決まっているのである。

「ちょ、ちょっと! ちぃ……先生をどうするのよ」
「今言ったばっかりだろ。医務室で診てもらうんだよ。きみは教室の後片付けを早くした方がいいぞ」
「うっ……」

 ルイズの失敗魔法のせいで、教卓の周囲は悲惨な様相を呈していた。飛散した青銅がばらばらになっているし、煤けた黒板やら備品やらはこのまま放置は出来ない。
 授業は実質的に中断となってしまったのである。おまけに、ルイズは片付けをしなくてはならないのだ。
 どうしたものかと立ち尽くしていると、そこへアンリエッタがやって来る。いつの間にか、手には雑巾を手にしていた。

「ルイズ。とりあえず、わたしも手伝いますから。片付けてしまいましょう?」
「ヘンリエッタ。でも、先生が……」
「医務室へ運ぶというのですから、きっと大丈夫でしょう。さ、次の授業でこの教室を使う方々に迷惑がかからないうちに……」

 そう言いつつ、二人は煤けた教卓の掃除を始める。
 やがて、不慣れなルイズとアンリエッタを見かねたギムリとレイナールも合流して、四人は貴族らしからぬ清掃作業に明け暮れることとなるのであった。


 ―――少しの後。魔法学院は医務室。

 薄い茶髪の女性医師が、ベッドに寝かされたカトレアの体に『治癒』をかけていた。ちなみに彼女は水のスクウェアメイジであるらしい。
 彼女曰く、カトレアは黒板にぶつかったショックで意識を失ってしまっただけとのこと。
 体内、体外とこれといって異常は見られず、すぐに目を覚ますだろうと告げて、医師はカーテンで囲まれたベッドから離れて行った。
 その言葉の通り、カトレアはすぐに目を覚ました。上半身を起こし、きょろきょろと辺りを見回して……ヴェンツェルの存在に気が付いたらしい。

「あら、ヴェンツェルくん。ここは……」
「本塔の医務室です。結構強く黒板に体を打ち付けていたと思ったので、ここまで運んできました」
「そう……。ありがとう」

 運んできた、と聞いたカトレアはなぜか微妙に俯いた。もしや、自分に運ばれるのは嫌だったのだろうか。ヴェンツェルはそんなことを考える。

「少しの間、大事を取って安静にしていた方がいいみたいです。教室は恐らくルイズたちが片付けていますから、問題はないでしょう」
「ええ。わかったわ。とりあえず、横になってみます」

 そう言い、カトレアは再びベッドで横になる。重力に負けた胸がぺったりと潰れる様子は……げふんげふん。
 ここのところ、明確でないにしろ、よく彼女に避けられていたヴェンツェルである。これ以上嫌われたくないので、彼はそっと立ち去ろうとする。
 しかし。彼は、避けていると思っていた張本人の声によって呼び止められた。

「……少し、待ってくれないかしら」

 カトレアはそう言い、去り行くヴェンツェルを呼び止めた。
 思えば、こうして二人きりになるのは昨年の暮れ以来だった。大抵はルイズがいて、ヴェンツェルがちょっかいを出さないように牽制しているのである。
 ここのところ、アンリエッタと同行することが多いヴェンツェル。カリーヌのことはどうなってしまったのか、カトレアはそれが知りたかった。

 実家に帰ったときも、母はいることにはいたのだが……。どうにも、カトレアにはあの母が本物ではないように思えた。まるで人形のような無機質さを感じるのである。
 だから、会話もほとんどしなかった。どうにも不気味だったからだ。
 ……実のところ、この彼女の読みは当たっていた。今ラ・ヴァリエール公爵の屋敷にいるカリーヌは、マジック・アイテムの『スキルニル』だったのだ。
 血を吸わせた人間に擬態し、あたかも本人であるかのように振舞う……。かなり高度で希少な代物である。

 面と向かって尋ねることもはばかられたが、非常に重要な事柄だ。いつまでもしり込みしている場合ではない。
 ルイズがそのことを知ったらどう思うのか。それがわかるからこそ、ただうやむやにして放置するわけにはいかないのである。

「ヴェンツェルくん。あなた、うちの母と懇意にしていたみたいだけれど……。その後はどうなったのかしら?」

 “どうなったのか”。ただ単純な質問だった。しかし、当のヴェンツェルは苦悩に顔を歪ませる。

「わかりません。こんな事を言っても信じては貰えないでしょうが、僕にはそのときの記憶がないんです。その……公爵夫人と、というのも」
「……記憶が、ない?」
「ええ。昨年、僕が行方をくらませたときがあったでしょう。あれ以来、そのときに自分が何をしていたのか、それすらわからないんですよ。ただ一つ確かなのは……」

 不確かな記憶の中で、確かなのはただ一つ。

「僕が『元素の兄弟』という傭兵と戦って、負けたということだけ。ミセス・カリーヌのことはなにもわかりません。……では、次の授業があるので、これで失礼します」

 居心地が悪そうに、あまり大きくない声でそれだけ言って、ヴェンツェルはカーテンを押しのけて出て行った。

「傭兵……。お母さまが連れ戻された時期……」

 それを見送るカトレアの脳裏には、アンリエッタと同じような思考が渦巻く。結論に至るまでには、そう時間がかからなかった。



 *



 トリステイン北部、アングル地方。アルビオンの内戦で敗北し、逃れてきた王党派が拠点を築いている地域である。
 制空権は亡命政府の王立艦隊が掌握しており、ときおり偵察に来る共和国の艦艇と、大事にはならない小競り合いを繰り広げることもしばしばの事だった。

 この地に樹立された亡命政府の最終目標はアルビオンの奪還である。しかし、現実的にはそれはほぼ不可能だった。
 彼らが依存しているトリステインの国力では、空の大陸であるアルビオンを武力で奪い返すことなど出来るはずがなかったのである。
 船が足りない。兵員が足りない。補給線も維持できない。予算もない。ないない尽くしである。
 国内にはトリステイン王ヘンリーをアルビオンの王に、という声も少なからず存在するのは周知の事実であったが、実力がそれに追いついていなかった。

 『ロイヤル・ソヴリン』号を失って久しい王立艦隊も損耗が著しく、再建が急激に進み増強した共和国艦隊とは一戦を交えたくない。
 そういう思いがあるから、アルビオンがこちらに攻め込むような口実を与えることは、絶対にできなかったのである。

 だが、状況はそう思い通りには進んでくれなかった。

 ―――フェオの月も半ばを過ぎたころ。

 その日は、アルビオン王立空軍大将、グリーン・オブ・ワイアット伯爵指揮下の、十隻程度の小規模艦隊がアングルの北部海域で演習を行っていた。
 旗艦『ベルファスト』を先頭に、想定しうる環境下での艦列編成などの調整をしていたのである。
 演習は順調に内容の消化が進み、いよいよ終わりを迎えようとしていた。
 だが。そんな中、優雅に自らの椅子に腰掛けて紅茶を楽しむナイスミドルの元に、焦った様子の部下が駆け寄ってきたではないか。

「し、司令!」
「騒がしいな。一体どうしたのだね」
「そ、それが! 北東五リーグほどの距離に、賊軍らしき艦艇が数隻現れたと……」

 アルビオン亡命政府では、今現在アルビオン共和国政府の軍を“賊軍”と称している。あくまでも正統性は自分たちにあるとしているのだ。

「なに? 近いな。なぜ気が付かなかったのだ」

 報告を受けても、ワイアット伯爵は無表情に紅茶を飲み干すだけだった。空になったカップに、同乗しているメイドがそそくさと紅茶を注いでいく。
 蛇足であるが、彼は成り行きで王党派についている。そのせいか、他の亡命貴族と比べるとそれほど王家に忠誠を誓っているわけでもなかった。

「そ、それが……。やつらは大きな雲の中から現れたので……。どうやら、ゲルマニアの方角へ向けて移動している最中かと思われますが……」

 ゲルマニア。その単語を耳にした瞬間、ワイアットはふんと鼻を鳴らした。

「ふん。くだらんな。放っておくがよい」
「よろしいので?」
「構わんよ。こちらへ来る意思がないのなら、わざわざ絡む必要もあるまい。我々の戦力は限られているのだからな」

 そう告げ、ワイアットは再びカップを手に取った。アルビオン紳士である彼は紅茶が大の好物である。
 内戦前は自前で農園を営もうとしたほどだった。彼は戦争よりも、田舎で紅茶の品種改良でもしていたかったのだ。ある意味では平和主義者だとも言える。
 状況が状況なので任務はこなしているが、やはり士気は大いに低い。

「ですが……。進路を変更する可能性もあります。ここは……」

 日和見主義よも言える発言に、部下の空軍仕官が渋った、そのときだった。
 高度を下げて飛行していた王立艦隊からそれほど離れていない場所―――海面に、巨大な水柱が上がった。
 それは命中こそしなかったが、砲弾の着水によって噴き上げられた水が、ワイアットの紅茶の中に入り込む。
 ぷるぷると彼の右腕が震える。せっかくの高級茶葉が台無しになってしまったからだ。だが、それで切れているようではアルビオン紳士の名折れである。

「て、敵が攻撃してきました!」
「……落ち着け。大方、奴らも我々がこれほど近くにいるなどとは思っていなかったのだろう。こちらに交戦の意思はないと、停戦信号を送れ」

 きわめて落ち着いた声で、ワイアットは部下に指示を飛ばす。そんな様子を横で眺めるメイドは、この老伯爵が見せる意外な一面に驚いているようだった。
 しかし。
 『交戦の意思はない』という手旗信号に対する向こうの返答はといえば。一発の砲弾だった。
 今度は『ベルファスト』の近くに砲弾が着弾し、ワイアットのお気に入りの軍服が海水で水浸しになる。こうなっては、もう彼も黙ってはいない。

「……ふ、こちらが大人しくしていれば。盛りおって、猿共が!」

 老紳士は椅子から立ち上がる。まっすぐに腕を伸ばし、唖然となる部下に向かって次のように告げた。

「直ちに反撃を開始せよ。矮小なる奴らに、白の国アルビオンを手にする資格などないと教えてやろうではないか」

 彼の放った一言で、ついにこのアングル北部海域で戦端が開かれることとなる。

 この一戦は、これからの展開にどのような影響を及ぼすのか。それは当事者であるワイアット自身、まだわかりえぬことだった。





[17375] 第二十二話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:d629567b
Date: 2010/12/06 20:00
 トリステイン王国アングル沖での戦闘から数日。

 アルビオン共和国の首都ロンディニウムはハヴィランド宮殿。壮大な白亜の建物の一角で、この国の実質的な最高権力者はため息をついていた。

 先日突発的に発生した戦闘によって、護国卿であるクロムウェルがひそかにゲルマニアに派遣していた艦隊が全滅した、という報せが届いたのは数日前の事。
 そのうちの一隻には、秘密裏にウィンドボナへ向かう使命を帯びた、クロムウェル配下のロレンス男爵が搭乗していたのである。
 無論、ロレンスの消息はまったく掴めなかった。空に浮かんでいた乗艦ごと撃破されてしまったのだから、ほぼ生存は絶望的であったが……。
 トリステインには抗議の使者を送ったが、相手はこの国そのものの存在を認めていない。まともに取り合ってくるか怪しいところがあったのである。

 そして、事態は彼のその予想すら超えた展開を見せたのである。
 慌しくクロムウェルがいる執務室の扉を開けたのは、外務部に所属する一人の若き下級貴族だった。
 彼は、どうにも焦ったような、心底困惑しているのがありありと感じ取れる表情で入室してくる。その手には、一枚の書簡が握られているではないか。

「か、閣下。わ、我が国の抗議に対し、トリステインからこのような回答が……」
「……」

 少しばかり声を震わせる青年の手から、クロムウェルは無言で書簡を受け取る。力が込められていたせいか、若干くしゃくしゃになってしまっていた。
 それでも彼は慌てずに、ゆっくりと白い紙をほぐしてまっすぐに直す。その作業が終わると、静かに仰々しい文面に目を通していく。
 しばらく目を通した後……。クロムウェルは眉を顰めた。記されている内容が、あまりにもお粗末な代物だったからだ。
 外交をする気などないのではないか。そう思わずにはいられないほど、末期的な文面である。

「……まさか、予想外だったな。これほど酷い返答をしてくるとは」
「閣下。その書簡をこちらへ送ったのを最後に、使者の消息が途絶えました。トリスタニアへはたどり着いていたようですから……」

 青年貴族の言葉は尻切れとなった。使者が消息を絶つ―――それは言わずもがな。まず間違いなく、向こうの政府によって……。

 アングルでの戦闘では、アルビオン共和国側の関係者は全滅している。
 どちらに非があるのか。その証拠となるのは王立艦隊側の証言だけで、確かに証言に基づけば、先に発砲したのは共和国側であった。
 しかし……。
 その一方的な証言を、はいそうですかと認めるわけにはいかない。戦時下でも無いのに、共和国が亡命政府の王立艦隊との戦闘で、貴重な艦船と人員を失った事実があるからだ。
 そして、その抗議のために送った人間が、事実上抹殺されたも同然の事態。
 事実を知った共和国議会の強硬派貴族が、諸手を振って大騒ぎを始めるのもそれほど遠くはないだろう。


 ―――そして、その翌日に行われた共和国議会は、予想以上に早くから紛糾した。タカ派の貴族たちがトリステインとの開戦を声高に主張したのだ。
 どういう訳か、使者が行方不明になったという事実までもが彼らの元に流出していて、それが余計に声を大きくさせていたのである。

 しかし。現状、何の算段も無しにトリステインへ宣戦など出来るはずもないのだ。彼の国を攻めても、アルビオンにはまったくメリットがなかった。
 むしろデメリットの方が遥かに大きいだろう。アルビオンに、あんな場所を欲しがる酔狂な人間はいない。

 いずれにせよ、内患を抱えたままのアルビオンには兵力的な問題で戦争は出来ない。しかし、それでは強硬派の貴族たちが収まらない。
 そこで、クロムウェルは妥協策に乗り出すことにした。今出来る精一杯の軍事行動を行うことにしたのである。


 ……議会終了後、階上の席でクロムウェルの発言を耳にしていたティファニアが彼を自らの元へ呼び出した。

 彼女としては、護国卿の発言がどうしても受け入れがたかったからだ。
 淡々とした様子で自分の前に腰掛ける男性を視界に納めつつ、ティファニアは珍しく憤慨を露にする。

「護国卿。あなたは先ほど、艦隊を派遣して亡命政府の王立艦隊とトリステイン空軍を壊滅させた上に、我が国への橋頭堡となりうるラ・ロシェールを占領すると仰いましたね」
「はい。間違いありません」
「あなたが一番わかっているのでしょう? この国はとても対外戦争を仕掛ける余裕などないと。新たな火種となりかねない事態を引き起こすことには賛同しかねます」
「ですが、このままではいきり立つ貴族たちを宥める方法がありません。一矢報いてやらねば、彼らは次に陛下に牙を向くかもしれないのです」

 静かな、しかし強い意志を込められたクロムウェルの言葉に、ティファニアは思わず絶句するしかなかった。
 自分の地位が薄氷の上のものであることは重々理解している。だからこそ、議会では極力発言を控えて、なるべく失点を生み出さないようにしているのだ。

「……でも。戦争だなんて。もっと、平和的に解決できないの?」
「それが出来ていればな……。しかし、彼らは聞く耳を持たない。猛獣を躾けるのには実力で思い知らせるしかないのさ」
「そんな! 猛獣だなんて、そんな言い方ないわ」
「すまない。だが、これだけ覚えておいてほしい。このままただ時間が過ぎ去れば、いずれ彼らはこの国を攻めるだろう。そうなる前に、なるべく犠牲を少なくするために敵を叩くんだ」
「……詭弁だわ」
「そうかもしれない。だが、トリステイン艦隊と王立艦隊を無力化し、ラ・ロシェールを占領すれば……。彼らの喉元に短剣を突きつけたも同義となる。迂闊な真似が出来なくなるのさ」

 ラ・ロシェールは王都からそれほど離れていない。そこにある程度の艦隊と兵員を配置すれば、トリステインに対する大きな牽制となる。
 さらに、敵航空艦隊さえいなければ、本国からの物資の輸送が安全に行えるようになるのだ。他の場所なら難しい占領地の維持も比較的容易な町である。
 全面侵攻を求める強硬派からすれば物足りないだろう。矛を交えることをよしとしない穏健派からすれば行き過ぎかも知れない。あくまでも妥協案だった。
 しかし、これ以外に国内の意見を押さえ込む方法はないのだ。

「テファ。わかって欲しい。政というものには、どこかで妥協点が必要だと。もし理想論だけで全てがうまく運べば、政治家なんて生き物は必要がないんだ」

 真剣に、じっとティファニアの瞳を見つめながらクロムウェルは告げる。彼の顔は、どこまでも疲れたような、疲弊した様相を呈していた。
 それがわからぬほどティファニアは疎い人間ではない。眼前の人物はどうにか妥協できる場所を探して、ようやく終着点を打ち出したのだと。それは理解できる。
 しかし、理解することと納得することはまったく別の問題だった。かといって、もうこれ以上抵抗はしないが……。

「……」

 無言で俯くティファニア。もう彼女が言い返さないのを見て、クロムウェルは静かにその場を離れる。かちゃり、と部屋にドアノブの音が木霊した。


 次に彼が向かったのは、女王を警護する護衛の詰めている部屋だった。しかし、部屋に居る護衛の姿はただ一人だけである。
 くすんだ色の髪を逆立たせ、右目を眼帯で覆っているその男の名は―――メンウヴィルといった。驚くことに、平時の女王の護衛は彼一人だった。
 過去に、議会派にいたはずの騎士がティファニアを襲撃するという事件が起きたのがその主な原因である。

「おや、珍しい。閣下が私の元へおいでになるとは」
「やぁメンヌヴィル。少し、きみに頼みたい任務がある」

 ひょうひょうと、紅茶の注がれたカップをソーサーに置くメンヌヴィルに、クロムウェルは挨拶もそこそこにすぐに本題を持ち出した。

「……新しい任務、ですか?」
「ああ。きみの腕を見込んで、だ。受ける気はあるか?」

 とは言うのであるが。既にメンヌヴィルはティファニアの護衛という任務を受けている。後任の問題が生じるのだ。

「ええ、まあ。女王陛下の護衛が問題がありますがね」
「それについては問題ない。一時的に、私の『鉄騎隊』が護衛を努める。既に反乱の鎮圧任務から引き上げを命令済みだ」

 『鉄騎隊』。アルビオンの内戦時にクロムウェルが組織した組織である。議会派の勝利後もそれは維持され、実質的な護国卿親衛隊と化していた。
 一時的ということは、任務の終了後は再び自分が護衛として再配置されるのだろう。メンヌヴィルはそこまで考える。

「なるほど。なら、問題はないでしょうな。何なりとご命令を」
「……うむ。きみには、トリステインのアンリエッタ王女をこのロンディニウムまでお連れしてほしい。無傷で、だ」
「ほう」

 これは面白い。今の今まで女王の護衛をしていたと思ったら、今度は他国の王女殿下を拐す任務に就く事になるとは。なんの因果だろうか。
 クロムウェル曰く、王女を連れ去ることはゲルマニアとの同盟阻止だけでなく、その他にもさまざまな重大な効果をトリステインにもたらすそうである。

「情報では、王女は王都からほど近いトリステイン魔法学院にいるらしい。場所が場所だ。出来ることなら、もう何人か上級貴族の子女を連れ去って来てもいい」
「なるほど。なかなか汚い仕事ですな。私のような薄汚い人間にはぴったりの仕事だ」

 はっはっはっ、と自嘲気味の笑みを見せる歴戦の傭兵。ここしばらくは女王陛下の護衛ということで、ぬくぬくとした生活を送っていたが……。いよいよ、である。

「そう言うな。あれこれと考えたが、任務を遂行するにはきみの手を借りるしかないという結論に至ったのだ」

 メンヌヴィルは本当の意味で歴戦の勇士である。アルビオンの内戦でも、彼の所属した部隊は湖水地方に逃げ込んだ王党派を壊滅に追い込んでいる。
 そのときの活躍と、与えられた任務に対する忠実さを買われてティファニアの護衛を命じられたのだ。
 傭兵上がりが女王の護衛など、という声も存在していたが、実際にメンヌヴィルが幾度となく賊や“身内”の襲撃を撃退しているうちに、そういった声は萎んでいった。
 ティファニア自身もメンヌヴィルを嫌ってはいない。用心棒として彼以上の人間はいないのだ。

「評価していただけるのは光栄ですな。ま、裏の仕事ですがやってみましょう」
「ああ、頼む。部下は正規軍から精鋭を付けよう。表沙汰には出来ないが、これは重要な任務だ。必ず成功させてほしい」
「わかりました。必ずや閣下のご期待に答えてみせましょう」

 壮年の護国卿の言葉に、メンヌヴィルは大げさな仕草で頷く。その瞳にはありありと自信の色が浮かんでいた。

 この日。クロムウェルによって、トリステイン侵攻艦隊と、アンリエッタ王女誘拐部隊の双方の編成が決定されたのである。









 ●第二十二話「来る者」









 空の上で権謀が渦巻く中。

 地上は魔法学院の中庭で、ふさふさとした芝の上に座り込んだヴェンツェルは、とにかく疲れていた。彼は走って逃げてきたのである。

 もう四月―――フェオの月も下旬に差し掛かっている。
 明日にもアンリエッタの元へ、王都から迎えが来ると言われていた。なので実質、今日が学院生活の最終日といっていい。
 だからなのか知らないが。結局はなんの抵抗も出来ず、ただ決められた通りにアルブレヒトの元に嫁がねばならないアンリエッタは、やたらと乱れていたのだ。
 「あの皇帝にせめてもの嫌がらせを」などといって、あれこれ耐久レースを仕掛けてくる。当然、常備していた水の秘薬も使わせてもらえない。
 かなりまずい状況という他ない。しかし、もうヴェンツェルは諦めに境地に達していた。もう誰かに殺されても仕方ないとさえ思うようになる有様である。
 実際問題、彼が殺されるだけで矛が収まるような案件ではないのだが……。その辺、かなり無責任もいいところであった。

「……なにしてるんですか。死ぬにはまだ早いですよ」

 勝手に野垂れているヴェンツェルの頬を、何者かがぺちぺちと叩いていく。ゆっくりと、しかし一発の威力が絶妙だ。痛すぎず、かといって痒くなりもせず……。
 ぼんやりとした意識の中で目を開いてみれば。目の前でしゃがんでいるのは、比較的胸の大きめな女性であることがわかった。しかし、どうにも特定が出来ない。
 ふらふらと、ヴェンツェルは腕は伸ばした。そしてむんずと、目の前にある脂肪の塊に掴みかかったではないか。
 「これは……。ふむ。なかなかに柔らかく、それでいてまだほんの少しだけ芯の残るおさな……」
 などと戯言を抜かす最中、少女の「ひゃっ!?」という甲高い声と共に、変態の体が宙を舞う。そして、豪快な音と共に学院の本塔の側壁に激突した。

 ぐちゃ、というなんだか不穏当な音が辺りに響く。見れば、ヴェンツェルがものの見事に地面へ倒れこんでいた。しかし、ひどい音のわりに外傷はない。
 すぐにむくりと起き上がった彼は、自分の目の前にいるが誰なのかすぐに視認。憤慨の口調で告げる。

「アリス、今のは久しぶりに痛かったぞ。体の至るところが悲鳴を上げているじゃないか」
「……あ、あなたが、い、いきなり胸なんか触るから……!」

 頬やら耳やら真っ赤に染めて、アリスはヴェンツェルを鋭く睨みつけた。なんだか、マリコルヌ辺りが喜びそうな強烈な眼光である。

「いや。ほら、寝ぼけてたんだよ。よくあるだろ?」
「ないですよ。とうとうボケたんですか? マンドラゴラでも食べます? 生で」

 とまあ。やはりキツい口調である。なんとなく、彼女のそういう発言を聞くのは久しぶりな気がした。懐かしいといえばそうだった。
 しかし、いきなり魔法で吹っ飛ばされるのは辛い。昔は『カッター・トルネード』で王都をかなりの長距離吹っ飛ばされたこともあったが……。
 それも今は昔だった。

「ま、それは置いておくとして。なんでこんな場所に?」
「お嬢さまが中庭でお茶を飲みたいと言うので……。ほら、やって来ました」

 アリスがそう言うのと、本塔の影からベアトリスたちの姿が見えるのは、ほぼ同時のことだった。例によってベルナデットとエステルもセットである。
 ……しかし、こうしてみるとベアトリスがあまり身長が無いのがすぐにわかる。比較的細身で高身長のエステルと比べると、頭一つ分ほど背が低い。
 ここ一年で急激に背が伸びたヴェンツェルと比較すると、まさに大人と子供のようにしか見えないこともないのである。

「兄上。今、なんだかものすごく失礼なことを考えていませんでしたか?」
「なんのことだ?」
「……いえ。なんでもないですわ」

 ヴェンツェルの顔を見るなり、ベアトリスが急に睨みつけてくる。なんとか誤魔化せたようだが、もしかしたら顔に出ていたのかもしれない。自重しなくては。
 そんなことを考えていると。隣に立つ金髪の少女よりも若干背が高いだけの、ふわふわ栗毛の少女ベルナデットが声をかけてくる。
 なにやら、彼女の手には大きめのバスケットがぶら下がっていた。一体なにが入っているのだろうか?

「ヴェンツェルさま。せっかくですから、五人でお茶にしませんか? せっかくですし。使い魔のお話とか、いろいろとお伺いしたいですわ」
「そうです」

 いつかのように、後輩たちがお誘いをかけてくる。なんだか周囲から殺気を感じる気もするが、特に断る理由もないだろう。

「ああ、じゃあよろしく頼むよ」

 二つ返事で答え、ヴェンツェルは頷いた。ちょうど喉は渇くわ腹は減るわで、夕食までの繋ぎが欲しいところだったのだ。
 その後、四人の一年生と一緒に歩いていると。どこか見たことがあるような青い風竜が中庭にいた。殺気はその風竜の背後から漂ってきているらしい。
 なにが起きているのだろうか。というか、あの風竜は……。気になって、近づこうとすると。

「兄上? どうしたんですか?」

 と、ベアトリスの声がする。それが結構不機嫌なものであったので、ヴェンツェルの頭から風竜のことなど吹っ飛んでしまう。彼は慌てて声のする方へ向かうのであった。

 中庭のテラスには大きなテーブルが設置され、真っ白なクロスがかけられている。紅茶を注ぐ陶器類には、綺麗な模様が描かれている。
 いつの間にか、どこからともなくやって来たメイドが、各々のカップに紅茶を注いでいく。沸き立つ湯気と香りが、なんともたまらない香りを放っていた。
 まったく、ワインなど飲むのならこちらの方がよほど嬉しいのである。口に含めば、その濃厚な香りで鼻腔が満たされるのだ。
 そうやってしばらく紅茶を味わっていると……。不意に、ベルナデットが先ほどのバスケットを取り出してくる。

「お茶請けにお菓子もありますの。四種類ありますわ。どうぞ召し上がれ」

 彼女がバスケットの蓋を開けると……。
 中には、四等分された囲いの中に、それぞれクッキーがそれぞれに入っていた。またクッキーか、などと思ってはいけない。なぜならそれは少年にとって特別な食べ物だから。
 どれもなかなかに美味しそうな見た目である。どうぞというで、さっそくヴェンツェルはそのうちの一つに手を出してみる。
 最初のバタークッキーのようだった。それほど捻っていない、ごくごく普通の代物である。食べてみると……普通だ。いや、美味しいのだが。

「どうですか?」
「うーん。なんだろ。美味しいよ。普通に」
「普通……。一週回ってプレーンなものにしすぎたかも……」

 ベルナデットに感想を聞かれたので答えると、なんだかやけに落ち込んでしまった。なんだろう。普通という言葉にトラウマでもあるのだろうか。
 ヴェンツェルが次に手を伸ばしたのは、やはりそれほど特長のないごく普通のクッキーである。しかし、シナモンの香りがする。
 かじってみると、思っていたよりも甘かった。というか甘すぎる。たまらず紅茶を口に含むと……その甘みが緩和された。むしろ、紅茶を飲むことが前提らしい。
 まるで、ヴェンツェルの趣向を始めから理解している人間が用意したようにすら思えた。

「ふ。彼が砂糖をほとんど入れずに紅茶を飲むことは、とっくに把握しているのです……。常識ですよ」
「あ、あんた……」

 なんだかアリスとベアトリスの間で不穏なやり取りがされている気もするが、気にせずにもう何枚か食べる。すると。

「……次はこれを」
「あ、どうも」

 今度はエステルが別の種類の物を差し出してくる。それは……なんだろうか。やけに変な色をしている。しかもそれ自体が、こぶし大もの大きさがある。
 強烈な胸騒ぎがした。しかし、せっかく彼女自身が手渡してくれたのだから、食べなければ罰が当たるというもの。覚悟を決め、一気に口に放り込んだ。
 すると、口の中に甘みとバターの香りが……と思う間もなく、急激な渋みが口内を蹂躙する。なんだこれは。戻しそうだ。だが、そこはなんとか持ちこたえる。
 あっという間に、顔色がどんどん悪くなるヴェンツェルの様子を見て察したのか。エステルが、小さく呟いていた。

「少し、変り種すぎたかしら……ハシバミ草とスッポンの生き血と顔の付いた赤いキノコは」

 決死の覚悟で“異物”を飲み込もうとしているヴェンツェルには、そんな小さな台詞などまるで聞こえなかった。

「……はぁ、はぁ……。川の向こうで、こっちへ手を振る婆ちゃんが見えたような気がする……」
「そこまで……?」

 尋常ではないヴェンツェルの様子に、さすがのアリスも眉を顰めた。彼女も味が気になるが、自分では絶対に手を出さない強かさがある。
 口直しにと、少年はまだ手を付けていない最後のクッキーを掴む。そして、慌てて咀嚼すると……。

「うまい……」

 思わず、口に出していた。直前にとんでもないゲテモノを口にしたせいだろうか。出来は上々だが、それほど特長のない代物でも、むやみに美味しいように思えたのだ。
 ばくばくとそれを放り込んでいくと。ベアトリスの表情が、やけに輝いているように見えた。普段は見せないような飛び切りの笑顔なのである。
 対してアリスは不機嫌だ。「エステルさんに助けられましたね」「順序の問題なんですよ」「さっきは無言だったのに……」とぶつぶつ呟いていた。

「……ベアトリス? なにか変な物でも食べたのか? 顔が面白いことになっているぞ」
「さぁ? どうしたのでしょうかね」

 みっともなく口の周りに食べかすを付けたヴェンツェルの不躾な台詞を受けても、今日のベアトリスの表情は揺るがなかった。なぜか天使のような笑みである。
 一方でアリスは不機嫌なままだし、ベルナデットは落ち着いてはいるもののクッキーを無言で齧っているし、エステルはなにを考えているのかわからない。
 しかし一方で、こうも思う訳である。
 アンリエッタやルイズ、男子諸君とちょっとした騒動を繰り広げるのも悪くはないが……。こう、のんびりとした生活もいいものだ。
 なんだか、昔エシュでのらりくらりとしていた時期を思い出す。やらねばならない事務作業はあったが、後半はジョゼフらとのんびりとする時間も多かったのだ。

 先日のアングル沖航空戦やら、確実に物騒なことが近づくこの世にあって、どうにもこういう時間は失いがたい……と思うのである。

 だが。

 彼は次の瞬間、自分がなにから逃げてきたのか、それを思い知らされることとなるのだ。

「ヴェンツェル……。こんなところにいたのですね」

 ぞっと背筋を駆ける悪寒。恐る恐る背後を振り返ってみれば……。そこでは、昼間なのに顔の上半分に影がかかっているアンリエッタがいた。
 そういえば、今日は授業が終わったらずっと一緒にいろと言われていたのだ。つい癖で逃げ出してしまったが……。
 今日は最後の日。いや、ゲルマニアの首都であるウィンドボナまでヴェンツェルを連れて行けば、そうでもない。が、表向きは無関係な彼が同席を許されるとは考えにくい。
 ルイズはあらかじめ巫女として同行することが決まっていたので、その使い魔として……という方法もあるにはあったのだが。

「い、いや。これは、さ。ほら、あれだよ。え、ええと……」
「そうですよね。あなたは大公家の跡取り。別に、そこら辺の女性とお茶をするくらいは普通ですわ。ええ。ちっとも気にしていませんもの」

 いや、怒っていない。口調は怒っていないはずだった。しかし、妙な威圧感を感じる。
 正体を知っているベアトリスはあっという間に縮み上がってしまっているし、知らないはずのベルナデットやエステルも小刻みに震えている。
 冷静に状況を観察しているのはアリスだけだった。否、そんな彼女でも一条の冷や汗を浮かべていたりする。相当だった。

「……とにかく、こちらに来てください」

 短くそれだけ言うと、アンリエッタはヴェンツェルのシャツの袖を引っ張り、強引に連れ去ってしまう。
 その場に置き去りとなってしまった他の四人は、ただ呆然とその光景を見つめる他なかった。

 

 *



 ―――ところ変わって、アンリエッタの私室。男子寮はなぜか外壁近くでマリコルヌとヴィリエが騒いでいたので、こちらへとやって来たのだ。

 部屋に着くなり、アンリエッタはヴェンツェルを抱きかかえると、そのままベッドに押し倒した。じっと、そのまましばらく身じろぎもしない。
 それがどのくらい続いたのだろうか? 窓から見える空の色が、だんだんと茜色を通り越して漆黒に染まり始める頃。
 それまで沈黙していたアンリエッタが、ようやく重い口を開いた。

「今日はずっと一緒にって、言ったじゃないですか」
「……ごめん」

 伏し目がちにそんなことを言われるのだから……。なんだか、たまったものではない。先ほどから押しつぶされた胸の感触が伝わっていたので、相乗効果である。
 しかし。妙に真剣な様子なので自重すべきだろう。もっとも、脳からの命令は首から上にしか伝達されなかったが。

「明日には準備のために王都へ戻らねばなりません。だから、その前に一緒にいようって。そう思ったのに。あんまりだと思いませんか?」
「本当に悪かった。約束を忘れたわけじゃないんだ」
「嘘ばっかり。さっきだって、わたしのことなんか忘れて、下級生の女の子たちと仲良くしていたじゃない」
「……半分は妹だった」

 苦し紛れの言い訳を搾り出すのであるが……。まるで効果はない。かえって墓穴を掘るばかりだ。ここは諦めた方が懸命だろう。

 何か言おうとするアンリエッタの体を抱き寄せ、強引に唇を重ねる。そのままでは味気ないので、強引に舌をねじ込む。歯がほんの少し当たるが気にしない。
 最初は抵抗するそぶりを見せていた彼女であったが、それはフェイクであるらしい。すぐに自分から押し付けてくる。
 一国の王女が、この国でもっとも高貴な存在である彼女が、自分にそんなことをしてくる。そう思うとなんだか胸が熱くなってくる。
 ただ、あまり続けていると息が苦しくなる。適当なタイミングで顔を離し、ハンカチを使って、涎でべとべとになってしまったアンリエッタの顎を拭う。

「……ひどいわ。いつもそうやって、無理やりうやむやにしてしまうんだもの。でも、わたしもわたしよね。こうしていると、嫌なことも何も、全部忘れてしまうから……」

 どこかぼうっとした瞳を向けながら、彼女は呟く。紅葉したかのような頬は熱を持ち、触れればやけどしそうなほどに熱されている。

「どうでもよくなってしまうのよ。明日のことなんて考えることもしないの。あのとき、半ば自棄になってあなたと関係を持ったけど……。それは後悔していないわ」

 腕の中の少女は、少年の胸板の顔を摺り寄せながら呟いた。こうしてみると、アンリエッタというのはあくまでも小さな少女に過ぎないのだと改めて認識させられる。
 それはそうだ。実際のところ、彼女はルイズとほとんど変わらない身長なのだから。体だって出るところ以外は華奢そのものだ。
 真っ白な胸元。力を入れれば折れてしまいそうな腕。くびれた胴。対して肉付きの良い脚。なにもかもが、今この瞬間はヴェンツェルのものだった。

 だが、それも来月にはゲルマニアの皇帝のものとなる。
 彼もまた“史実”とは違う。デメテルという戦略兵器を持ってして、ばらばらの国内を強行作で統合しようとしている。
 実際の姿を見たことはないが、アンリエッタ欲しさにそれまで半同盟関係にあったアルビオンを切るくらいだ。相当にあれな人間なのだろう。
 そんな男に、アンリエッタを盗られてしまっていいのか。……腕の中で小さくなっている彼女を。

「すぅ……」

 しばらく考え事をしていて、ふと気がつくと。
 アンリエッタが小さく寝息を立てていた。いつの間にか眠ってしまったらしい。無防備な寝顔は、どこまでも安心しきった彼女の心情を表しているようだ。

「信頼……。されているのかね。自分にそんな資格はないと思うけど……」

 そうぼそりと呟いて、栗毛の少女の体をそっとベッドに横たえさせた。毛布をかけ、自らは窓際に移動する。
 窓を開け放つと、夜独特の冷えた空気が入り込んでくる。それでも冬の頃に比べればずいぶんとマシになったものである。それでも冷たいが。
 宙に浮かぶ星の群れをじっと見つめた。この世界でも恒星があって、銀河が存在しているのだろうか。ふと、そんな思いに至る。
 双月の明るさに負けないように、とは思っていないのだろうが、小さな星からの光は途絶えることなくヴェンツェルの視界を照らしている。

 と、そのときだった。

 ヴェンツェルは左目に鋭い痛みを覚えたのだ。なにか先の尖ったもので突いたかのような……。いつかぶりに感じる、頭にも波及するとてつもない痛みだ。
 しかし。散々アリスやルイズにいたぶられたせいで耐性が出来たのか。ストラスブールときのように気絶するということはない。
 そのうちに、痛みは引いていった。荒く息を付きながら、彼は再び星空へ視線を向け―――“それ”に気がついた。
 先ほどまでは星の光があった空間に、突然ぽっかりと穴が空いていたのである。それはまるでブラックホールのように光を遮断してしまっている。
 しかし、よくよく見れば、それがブラックホールなどという代物でないとすぐにわかる。形が丸でなく、先の尖った長方形なのだ。

「あれは……。船か?」

 うっすらと見える視界の中で、真っ黒な物体から何かが降りていく。『遠見』の魔法を使うと、それらが一段とよく視認できた。
 小型の戦闘艦艇から、何人もの人員が魔法学院の付近に降り立っている。それらはいずれも完全装備という出で立ちだった。まず、賊ではない。
 それの意味するところは……。こんな時期にこんなところに部隊を送り込む国といえば。

「くそっ、もう襲撃されるなんて聞いてないぞ! アンリエッタ!」

 むにゃむにゃと眠りこける眠り姫をゆすって起こす。すぐに目を覚ました彼女は、一瞬だけ不満げな表情を浮かべていたが……。
 尋常ではないヴェンツェルの様子を見て、すぐに何か異変が起きたことに気がついたらしい。顔を引き締め、すぐに問いかけてくる。

「一体どうしたのですか?」
「敵襲だよ。アルビオンのお客さんが来たみたいだ。それも、とんでもなく厄介なのが……」

 間違いない。先ほど感じた痛みのあと、ヴェンツェルは“その”存在を知覚出来るようになっていた。
 相手は火のメイジだ。それも、並みの実力ではない。恐らくはスクウェア。その中でも最上の部類に―――あの『劫火』のミゲルすら遥かに凌駕しているだろう。
 そうなると、もはや思い当たる節は一人だけだった。だが、彼はスクウェアメイジだったのだろうか? その辺りが今いち判断に悩んだ。
 ふと自分の持っている装備を確かめる。まただ。また『レーヴァテイン』がない。取りに行く時間はもうないだろう。またしても失態だ。

「……ヴェンツェル」

 自責の念に駆られているうちに、寮塔の周囲がにわかに騒がしくなる。ここに来てとうとう気がついたのだろう。不安げな様子で、アンリエッタが袖を掴んでくる。
 学院への奇襲。ほぼ間違いなく狙いは彼女だろうし、そうでなくても王女が人質に取られるのはまずい。

「逃げるんだ。きみだけでも、フロンとフレースヴェルグのいるあの森へ。大丈夫だ、必ず脱出させる」
「……でも。それだと、あなたの妹君……ベアトリス殿はどうなるのですか? それに、ルイズだっています」
「それはわかってるけど……!」

 ルイズはアンリエッタの親友だ。彼女は助けなければならない。アリスやベアトリスも気になるが……。今はもう間に合わない。
 大丈夫だろう、アリスは優秀だ。カトレアのことも気になるが、そこまで手が回らない。なんとか無事でいてくれることを願うだけだ。
 急がなければ。仕方なくヴェンツェルは部屋のドアを開けた。すると、そこには……。

「あら?」

 ちょうど、燃えるような赤髪の女性、キュルケ・フォン・ツェルプストーが着の身着のままで飛び出してきたところだった。
 彼女は部屋から飛び出してきたヴェンツェルとアンリエッタを見て……柄にもなく、手を頬に添え、ぽっと頬を赤く染めたではないか。

「あら……。その、なんていうか。意外とお盛んなのね。もしかしたら、そういう関係かなぁって前々から思ってたけど」
「悪いけど、ボケている場合じゃないんだ」

 キュルケの反応をスルーし、ヴェンツェルは鍵のかけられたルイズの部屋に強引に押し入った。案の定、寝起きの悪いルイズはスヤスヤと寝入っている。
 少し揺さぶってみても起きないので、仕方なく背中と脚を持って抱きかかえる。それでもやっぱり、ルイズはむにゃむにゃと涎を垂らすだけであった。

「女子寮に入りびたり、あまつさえうら若き乙女の部屋に押し入る……。ヴェンツェル、あなたってば思っていたよりもずっとアグレッシブだったのね。あなたへの見方が変わったわ」
「ミス・ツェルプストー。ふざけてる場合ではありません」
「そうだ。賊が学院の敷地内に侵入した。きみだって、それを感じたから飛び起きたんだろう?」

 アンリエッタにもヴェンツェルにもそう真顔で返されるのだから、キュルケもたまったものではない。
 ただ、言われたことは当たっている。なんとなく不穏な気配を感じた彼女は、起き出して夜風でも当たろうとしていたのだ。その矢先の遭遇であった。

「……音がもう、階下まで迫ってるな。城壁伝いに隠れよう」
「あら。迎え撃たないの?」
「無茶言うなよ。トライアングルが三人いたって、向こうはそれ以上の数で来てるんだ。戦いは数だってドズル中将も言ってたろ」
「……誰かしら、その人?」

 キュルケが宇宙世紀の軍人であるドズル中将のことなど知るはずもない。それは当たり前の話である。
 と、ふざけている間にもすぐ下の階まで敵がやって来たらしい。ヴェンツェルとアンリエッタ、それもキュルケも顔を見合わせた。
 そして彼らは、学院の城壁の外側に面している部屋の窓から、『レビテーション』で脱出を図るのであった。



 三人のトライアングルと虚無の担い手の脱出とほぼ同時刻―――隔離された場所にある、コルベールの研究室。

「この感じは……。そうか。彼が来てしまったのか。まったく、気ままな傭兵家業だなどと言っていたが……。理解に苦しむな。やっていることは匪賊と変わらないじゃないか」

 魔法学院の『火』を担当する教員、ジャン・コルベール。彼もまた、夜闇に乗じた奇襲を察知したうちの一人である。服を着替え、大きな杖を構えると出発準備は整った。

 しかし、彼はなにを思ったのか。
 突然、ベッド脇に置かれた絵に見入ったではないか。
 それは彼の知り合いの画家に頼んで描いてもらった、彼とその家族が描かれた肖像画である。
 禿頭のコルベールに、彼が左手を肩に手を乗せる、金髪の女性。整った顔立ちに、ボリュームのある金糸の髪。年齢は二十台のようにも見えるが、実際には……。
 そして、気難しい顔をしてコルベールから少し離れた位置に立つ金髪の少女。顔立ちはコルベールにも女性にも似ていない。
 最後に、父の右手が肩に置かれた十歳程度の少年。髪の色は母よりも父の影響を強く受けているらしい。

 コルベールの三人の家族は皆、少しばかり離れた王都で、とある強大な権力を持った貴族の庇護下で暮らしている。
 “あのとき”―――コルベールと、彼の家族の全ての始まりとなったあの事件。そのとき現れた一人の人物の行いによって、この肖像画が生まれた。
 それは世界に良い結果をもたらすのか。あるいは、破滅をもたらすのか。それはコルベールにはわからない。

 ただ、ひょんな縁からあの女性や少女とは家族になった。本来ならば起こりうる事態は起きず、既に彼の世界は大きく変貌を遂げている。
 しかし、それでも。
 今の彼が魔法学院の教員となった事実は動かない。今襲撃を受けているのは、その守らねばならない生徒たちだ。

 たとえ相手が何であろうとも、彼は立ち上がる他ないのである。

 ジャン・コルベール。彼が向かう先には、恐らくは現代で最強ともいえる火の使い手が待ち受けているのだった。





[17375] 第二十三話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:d629567b
Date: 2010/12/09 19:21
 トリステイン魔法学院が襲撃を受けてから、半刻。

 このわずかな時間で、学院にいる貴族の大部分が“賊”によって鎮圧されてしまっていた。寝込みを襲われたがために、抵抗する時間すら無かったのだ。
 襲撃部隊の隊長は体格の良い大柄な男である。彼が、巨大な魔法学院の本塔を見上げていると……。
 部下である一人の男が駆け寄ってくる。なぜか、その顔には傷がある。彼は女子生徒の捕縛に参加していたはずだ。となると、その最中に引っかかれでもしたのだろうか?

「メンヌヴィル隊長。本塔、寮塔及び、教員宿舎の制圧を完了しました。捕縛した教員と生徒たちは食堂へ集めてあります」
「ふむ。ご苦労だったな。怪我人は……貴官は言わずもがなだな。生徒たちに傷はつけていないだろうな? 誰に価値があるのかわからないのだからな」
「はい。その点は抜かりなく」

 部下とそんなやり取りをしながら、メンヌヴィルは本塔の『アルヴィーズの食堂』へと足を踏み入れる。
 すると。彼の視界に、三百名ほどの学院関係者が縄で縛られ、食堂の床に座らされている様子が映った。
 制圧部隊には、幻獣のマンティコアを使い魔とするメイジが参加している。生徒数に比べて圧倒的に少ない兵員で見張りをするためだ。そして、その効果は非常に大きい。
 メンヌヴィルがやって来たのを見て、すぐに一人の若い男が近づいてきた。

「ワシントンか」

 男の年齢はだいたい二十を少し過ぎたころだろうか。精悍な顔立ちの元モード大公派の貴族である。優秀なメイジで、この作戦ではメンヌヴィルの副官を務めていた。
 ちなみに。この食堂で生徒たちを見張っているマンティコアは、彼の使い魔であった。

「ご報告申し上げます。学院にいるほぼ全ての生徒を捕縛しましたが、王族と一部の教員、生徒の行方がわからなくなっています」
「逃走したか」
「恐らくは」

 まあ、これは予想通りだ。王が自分の娘をこんな学院へと放り込むのだから、それなりの対策はしてあって当然だ。きっと優秀な護衛がついているのだろう。
 だが、こちらとてその可能性は把握している。学院外には、少数だが精鋭の部隊を残してあるのだ。
 メンヌヴィルは、集められた教員や生徒たちをざっと眺め―――ふと、桃髪の女性の姿がその視界に入った。

「ストロベリー・ブロンドの髪とはまた珍しい。ワシントン、あのお嬢さんは?」
「教員のカトレア・ド・ラ・ヴァリエール……ラ・ヴァリエール公爵家の次女であるようです。行方が知れない生徒の一人は、彼女の妹です」
「ほう」

 そう呟くと。メンヌヴィルは、食堂にぽつんと置かれた椅子に腰を下ろす。そして、眼前で怯えた様子で自分の出方を窺う生徒たちを一瞥し、言い放った。

「私はこの集団の隊長だ。無駄な抵抗さえ試みなければ、きみたちに危害を加えることはないと約束しよう。なに、我々の目的は王族と一握りの大貴族だけだからね」

 突然放たれた一言に、その場の生徒たちは騒然となる。最前列に座っていたミスタ・オスマンは、その言葉を受けて顔が一気に青ざめた。
 この学院に王族がいるという情報は、本当にわずかな人間しか知らぬこと。それをどうして、恐らくはアルビオンの軍人である彼らが知っているのだ。
 もしアルビオンがそれを掴んでいたとしたら……。他の国とて同じ情報を持っている可能性は高い。それを利用する価値があるのは彼の国だけだが……。
 そんな白髪の老人の心中を察したのだろうか。メンヌヴィルが静かに口を開いた。

「オールド・オスマン……高名な魔法使いである貴殿に対する無礼はお許し願いたい。それよりも、どこから情報が漏れたのだ、というお顔をなさっておりますな」
「……おっと。そんな顔をしておったかのう。どういうことかのぉ」
「なに、簡単な話です。我が国に情報をもたらしてくれたのは、このトリステインの王宮にいるさるお方だそうだ」
「……なんじゃと?」
「言ったままですな。私が知るのはそこまでだが……。ガリアやゲルマニア、ロマリアには漏れてはいないでしょう。おっと、少し喋りすぎましたか。これは失態だ」

 会話を打ち切って、メンヌヴィルは部下が差し出した水に口をつける。ちょうどマンティコアが吼えたので、二人の会話は他の誰にも聞こえていなかった。
 そんなこんなで、しばらく食堂には重い空気が流れる。この間も、行方をくらませた生徒の消息は知れない。

「隊長。生徒たちの特定が終わりました。クルデンホルフ大公家のベアトリス、ラ・ヴァリエールのカトレア辺りが人質に最適かと……」
「ふむ。では、彼女たちは先に船に乗せておこう。私も外へ出ることにするよ」
「了解しました。王族の捜索はいかがいたしますか?」
「見つからぬのならば仕方ない。恐らく、もう学院内にはいないのだろう。ならば、外のマンショたちが見つけているかもしれないからな。撤収を始めるぞ」

 メンヌヴィルは立ち上がり、部下に何事か指示を飛ばす。すると……、数名の隊員たちが、ベアトリスとカトレアの元へ駆け寄ったではないか。
 そして彼女たちを立ち上がらせると、そのまま食堂の入り口を出て行った。縄で縛られた二人は、まったく抵抗できずに大人しく連れられるだけだ。
 友人が連れ去られるのを見て、ベルナデットとエステルが食堂の入り口を不安げに見つめる。しかし、彼女たちにはもうどうしようもなかった。

「くそっ。カトレアさんが連れて行かれるのを、黙って見ているしかないなんて」
「無理はするなよ。迂闊なことをすると……」

 縄を解こうとじたばたとするギムリをレイナールが諌めていると……。自分たちに向けられた、黒光りする銃口がきらりと輝き、思わず息を呑む。
 魔法が無ければこんなものなのだ。平民の持っている銃にすら、刃物にすら抵抗出来ない。それが彼らの実力だった。
 悔しさを滲ませて抵抗を諦めるギムリ。周囲の生徒にも絶望感が広まっていく。

「ヴェンツェル……。どこ行ったんだよ。大丈夫かなぁ……」

 窓から見える星空を眺めながら、レイナールはぽつりと呟いた。



 *



「この辺りはもう捜したのか?」
「もう捜したはずだが……。念のために見ておくか」

 二人の特務隊員が、本塔の影になっている箇所へとやって来る。人員の大半が食堂内に集められているため、彼らはたった二人で捜索を続けていたのである。
 すると……。彼らの目の前に、一人の少女が現れた。薄紫の髪の、青い瞳の少女だ。怯えた表情を見せ、隊員たちを見るや否や後ずさる。
 まだ捕まっていない生徒が残っていたとは。隊員の一人が「やれやれ」とため息をついた。

「おいおい、あれだけ捜したのに見つからなかったのかよ?」
「きっとどこかに隠れていたんだろうな。ま、仕方ない。来て貰おう。きみ、抵抗さえしなければ痛くはしないよ」

 縄を持って、隊員のうち一人が歩いていく。もう一人は念のために銃を構えていた。怯えた少女などに使う必要はないが、万一のためだ。
 近寄ってくる男と同じペースで少女は後ずさり続け……。そのうちに本塔の壁に背を付けてしまった。
 もう下がることが出来ない。それがわかっているのに、少女はなおも後ろに下がろうとして……ついに、しゃがみ込んでしまう。

「おいおい、俺ってそんなに怖い顔をしているのか?」
「さあな」
「ま、この方がいいだろう。悪いけど、捕まえさせてもら……」

 隊員の男がしゃがみ込もうとした、その瞬間だった。突然近くの植え込みから人影が飛び出し、男の鳩尾に強烈な一撃を叩き込んだのである。
 一瞬の早業だった。しかし、もう一人の隊員は同僚を倒されたと咄嗟に判断。銃を撃とうとするのだが……。
 次の瞬間には、彼は“後ろにいるはずのない人間”に背後から首筋を思い切り打たれ、昏倒する羽目となったのである。

「……すごいですね。失礼ですが、先生の授業を受けているときにはただの物好きなおじさんだと思っていました」
「はは……。いやぁ、実際そんなものだよ。アデライードくんだってすごいじゃないか。『遍在』が使えるということは、風のスクウェアなのだろう?」

 禿頭の人物が言うのと同時。本塔の壁の辺りで蹲っていた少女の姿がふっと消えた。まるで、溶けて煙にでもなってしまったかのように。
 先ほどまでその場にいたはずの少女は『遍在』によって生み出された、ただの幻影でしかなかったのである。つまりは囮であった。

「……申告はドットですけどね。あまり、他の教員の方や生徒たちには広めないでいただけると助かるのですが」
「わかっているよ。みだりに吹聴したりはしないさ」
「お願いします。コルベール先生」

 メンヌヴィルの部下二人を倒したのは、禿頭のコルベールと、アデライードことアリスだった。
 アリスがヴェンツェルたちとは別ルートで寮塔から脱出したとき、たまたまコルベール遭遇。今まで行動を共にしていたのである。

「……さて。これからどうしようかと思ったが。もうやって来てしまったようだね」
「そのようです」

 頷きつつ、二人は物陰に身を潜ませる。すると、本塔の出入り口から数名の男たちが出てきた。彼らは桃髪の女性と金髪の少女を連れている。
 目を凝らせば、連れ去られようとしているのがカトレアとベアトリスであることがすぐにわかった。
 賊の襲撃の目的は要人の拉致にあるのだろうか。だとすれば、彼らの装備の画一性、統率の取れた行動を行って寮塔を制圧した点にも納得がいく。
 隣を見れば、コルベールも同じ考えに至っているらしい。ただ、その表情はアリスよりもずっと深刻なものである。

「……どうしますか? 『遍在』で突撃をかけますか?」
「いや。駄目だ。迂闊に出てしまえば、きっと消し炭にされてしまう」
「……それほどのメイジが?」

 アリスは呟き、次の瞬間にはコルベールの言った意味を理解する。感じるのだ。本塔の入り口付近から、強大な存在の気配が漏れ出てくるのを。

「“彼”は私が食い止める。その隙にきみがミス・ヴァリエールとミス・クルデンホルフを救出してほしい」
「わかりました」

 アリスが隠密に移動を始めるのと同時に、コルベールは前へ進み出る。学院の正門へ向かって歩く一団は、すぐにその存在に気が付いた。
 一番前を歩いていた、長身のがっちりとした体つきの男……メンヌヴィルは、コルベールを見るなり目を丸くする。どうやら、二人は知り合いのようである。
 ついで部下たちを先行させ、自分はその場に留まる。そして、大げさな身振りで呼びかけてくるのだ。

「……おや、その姿は。我らが隊長殿ではないか。学院で教員をやっていたのですか。すっかり頭頂部が寂しくなってしまったようですが」
「はは、そうかもな。久しぶりだというのに、なかなか痛いことを言ってくれる。だが。今の私には家族がいる。大切な生徒、同僚たちもいる。心は寂しくないよ」
「なるほど。良き心の拠り所を得たのですな」

 コルベールの言葉を受けたメンヌヴィルは、顎に手を添えて微笑む。それは微笑みというには、少々凶悪すぎたが……。
 なるほど、最後に会ったときは干物のような顔をしていたが……。今では瞳に生気が戻り、人間らしい顔をしているではないか。
 これもあの人物のおかげなのだろうか。自分が多少なりとも変わったのも、コルベールが変わったのも。恐らくはそうなのだろう。
 だが、そんな懐かしい感情に想いを馳せるメンヌヴィルとは対照的に。禿頭の教員は険しい顔をして、杖を突き出してくる。

「ああ。だから、その生徒と同僚を返してくれないかね。このやり方はどうかと思うぞ」
「それは出来ない相談でしょう。私も任務でね。上司の期待を裏切るわけにはいかないのですよ」
「……どうしても、か?」
「二言はありませぬな」

 手を肩の辺りまで上げ、メンヌヴィルは困ったような顔をした。
 ―――その刹那。コルベールが素早く詠唱した『ファイヤー・ボール』が襲いかかる。だが、それはいとも容易く弾き落とされたではないか。
 
「やはりか。もっとも、この程度で倒せる相手だなどとは思っていないがね」
「弱りましたな。隊長殿と戦いという気持ちもあるが、今の自分は任務の遂行が第一なのです。またの機会というわけにはいきませんか?」
「ふざけないでもらおう! 私は本気だ!」
「こちらも遊びでやっているわけではないのだが……。そう言うのならば仕方ない。ワシントン、マンティコアを出せ!」

 メンヌヴィルの叫びが辺りに響き渡ると同時に、本塔の内部から巨大なマンティコアが飛び出した。
 そして、軽快な動作と共に地へ降り立つ。背の高さは優にコルベールを越えている。まだ若い個体であはあるようだが、間違いなく難敵であった。
 その後から、十数名の特務隊員らが走ってくる。彼らの半数は杖を持ったメイジだ。

「食堂の内部は?」
「『眠りの鐘』で全員を眠らせました。しばらくは目覚めないでしょう」
「そうか、よくやった。全員撤収するぞ。ワシントン、殿を頼む。シャーマンとリーは援護してやれ」
「了解しました!」

 そう命令を下したあと、メンヌヴィルは少し移動して巨大な火の壁を生み出した。高さは十メイルはあるだろうか。真っ白な灼熱の火壁である。
 大きさも半端なものではない。正門前が火で埋め尽くされるほどの効果範囲だ。コルベールではここまでのものを生み出せないだろう。
 持続時間も恐ろしい。これだけの物を生み出す力をこんなことにしか使わないとは。まったく、ひどくもったいない。

「っく! なんて『ファイヤー・ウォール』だ! 仲間が巻き添えになるぞ!」
「ご心配なく。我々は風と水のメイジです。対策の取りようはありますよ。それよりも、ご自身の心配をなさったらどうですか?」

 ワシントンがそう言うのと同時に、彼の背後にいたマンティコアが動き出した。うなり声を上げ、コルベールを牽制する。

「周囲は火の壁。相手は三人、それに幻獣のおまけつきか。……まったく、こんなに不利な戦いをするのはいつかぶりだろうか!」

 叫びつつ。コルベールは、自らが手にした杖を大きく振りかぶるのであった。









 ●第二十三話「強襲、メンヌヴィル」









 時間はほんの少しばかり遡る。

 寮塔から脱出したヴェンツェルたちは、まず水竜のフロンと巨大鷲のフレースヴェルグがいる森を目指して、草原をぞろぞろと歩いていた。

「敵の襲撃って……。こんな時期にやって来るのはアルビオンしかいないじゃない」

 列の最後列を行く、ネグリジェを身にまとったままの桃髪の少女が、寝ぼけ眼を擦りつつ答えた。なぜか頬が少し赤い。
 それはそうである。彼女はつい先ほど、ヴェンツェルに抱きかかえられた状態で目を覚ましたのだから。
 自室のベッドで眠っていたはずなのだ。それが起きたら他人の腕の中という、わけのわからない状況になれば誰だって混乱するだろう。
 だから、滅茶苦茶に暴れて顔を引っ掻くのも仕方のないことだったのである。

「そうだろうな。だから、なんとしても王都へきみを送り届けなくちゃならない。婚姻の妨害をされたらトリステインは終わりだ」
「……そうですね」

 ヴェンツェルが隣を行くアンリエッタに声をかける。だが、当のアンリエッタはといえば……。どうにも浮かない表情をしている。
 そんな王女を励ますかのように、ぽんとキュルケが肩を叩いた。

「そんなに落ち込むことないわよ。ゲルマニアはそこまで悪い国じゃないわよ? なんせわたしの実家がある国だし。最近は皇帝が調子に乗ってるけど」
「あのねぇ。あんたの生まれた国が悪くないわけが……って、え? ちょっと! なんで、あんた!」
「……ふぅん。やっぱりねぇ」

 あからさまに動揺したルイズを見て、キュルケがにやりと微笑む。どうも、カマをかけられたらしい。ヘンリエッタという少女の正体がばれているらしいのだ。
 一体全体どうしたものか。そんな様子を見ていたヴェンツェルは、頭を抑えながら問いかける。

「いつから気が付いていたんだ?」
「最初から『この子は少し違う』って思ってたの。なんとなくだけどね。そして、一緒に学院で暮らすうちに、段々と確信に近づいていったのだけど……。今のやり取りを見て確定したわ」
「……きみは聡い女だよな、本当に」
「そうかしら? だったら、今ならわたしはフォン・ツェルプストーの当主になれる権利とセットでお買い得よ? 兄さんが下級貴族の子と駆け落ちしそうだから。あ、駆け落ちってのもいいわね」

 こんな状況だというのに、アンリエッタが心ここに在らずの状態であるからといって、キュルケがヴェンツェルにしな垂れかかる。
 ……というか、彼女に兄がいたとは初耳だった。もっとも、だからこそかなり好き勝手にやっているのかもしれない。
 もちろん、そんなキュルケの横暴に横槍が入らないわけがない。もっとも、それを入れたのはアンリエッタではなかったのだが。

「はぁ? なに言ってんのよ。このアホはわたしの使い魔なの。つまりこいつはわたしのしもべも同然。勝手に結婚だとか盛ってんじゃないわよ」
「あら。まだ契約してないじゃない。権利を主張するならやっちゃいなさいよ。契約」
「うっさいわね。わたしが呼び出したんだから、もうこいつはわたしの使い魔なの。つまりはラ・ヴァリエールの持ち物。わかった?」
「あなたが、とんでもなく滅茶苦茶なことを言っているというのは、よくわかったわ……」

 入った横槍はもっと横暴だった。これにはさすがのヴェンツェルも呆れるしかない。同時に、自分は物でしかないのかと悲しくなる。
 すると……。キュルケが何かしようとして手を伸ばしたが、すぐに諦めたらしい。

「入学したときってわたしよりも身長低かったわよねぇ……。いつの間にか追い抜かれてるんだけど……」
「そうだっけか?」

 キュルケは女性としてはかなりの高身長である。マリコルヌ辺りだと彼女よりも低くなってしまうくらいだ。おまけに脚が長いのだからたまらない。
 が、今のヴェンツェルの身長はギーシュをほんの少し抜かすくらいであるので、確かに入学時に比べて急激に伸びたのである。
 先ほどは自分の胸に抱き込もうとしたのだろう。それが身長差で出来なかったようであった。

「気が付いたらあんたの顔がかなり上の方にあったのって、そういうことなのね……」
「いや、それは元々な気が……」
「なんですって?」
「うん、なんでもないです」

 とまあ、アンリエッタを放って路上でコントを繰り広げていると……。不意に“嫌な気配”がして、ヴェンツェルは振り返り様に後方へ魔法の槍を放った。
 驚くルイズやキュルケを尻目に、後ろにいるであろう誰かに向かって怒鳴りつける。

「誰だ!」
「……お取り込み中だったようで、観察だけしていたんだけどね。まったく、人が粋な計らいをしたっていうのに」

 『マジック・アロー』を弾いたのは、鈍い輝きを放つ金属の板である。そして、それはよく見ると……ゴーレムの構えた盾であるのが見て取れた。
 声はそのゴーレムの背後から聞こえた。ゆっくりと、その声の主が姿を現す。なんの変哲もない、ただの気の弱そうな青年である。
 しかし、そんな彼が生み出したゴーレムといえば。禍々しい意匠の施された、まるで魔物のような厳しい雰囲気を放つ存在であった。

「仕方ない。ミス・ツェルプストー。ルイズとアンリエッタを頼む。なんとか王都まで守ってあげてほしい」
「もう。しょうがないわねえ。でも、一つ条件があるわ」
「なんだい」
「そのミス・ツェルプストーってのはやめてよ。クラスメイトはほとんど名前で呼んでるじゃない。結構付き合いも長くなってきたし。わたしも名前で呼んで」

 この非常時になにを言い出すのかと思えば、名前で呼べとは。これには呆れるほかない。しかし緊急時だ。ここは一秒でも時間が惜しい。

「わかった。キュルケ、彼女たちを頼む」
「ふふ。任せなさい! わたしは「そうはいかないな」

 そのとき、誰かがキュルケの台詞に被せてくる。青年とは違う、もっと低い声だ。そう、それはまるで……。
 せっかく胸を張って颯爽と行こうとしていたのを妨害されたキュルケは、そうはもう怒っている。彼女は怒れば怒るほど冷静になるのであった。

「……なにかしら。いま取り込み中なのだけど?」
「ふ、悪いな。だが、王女を連れてこいという命令を下されたのでね。もう少しすると港の問題も出てくる。あまり悠長にしている暇はないのだよ」
「メンヌヴィル隊長!」

 メンヌヴィル。二つ名は“白炎”。
 青年の放った一言が、現れた人物の全てを物語っていた。傷だらけの顔も、よく鍛えられたがたいのよい体も……彼が歴戦の勇士であることを物語っている。

「急ぐぞ。途中で薄紫髪の少女に足止めを食ったからな。あまり時間がない」
「……薄紫色? どういうことだ?」

 そんなメンヌヴィルが放った一言に、ヴェンツェルは思わず耳を疑う。握り締められた杖がしなって悲鳴を上げた。
 薄紫色。ルイズやカトレアと同じく、その髪の色は非常に珍しいものだった。学院でも同じ髪の色をした生徒はほぼいない。
 そして、メンヌヴィルを足止めすることが出来るほどのメイジといえば……。この学院ではたった一人しかいないし、ハルケギニア全体でもそうだろう。

「おや? 先ほど正門で待ち伏せをしていたのは、きみの知り合いだったのかね。ならばすまない。彼女は見た目に反して強かったから、少しばかり本気でやってしまった」

 手を顎に添えながら、メンヌヴィルは済まなさそうな口調で言う。しかし、もうその言葉はヴェンツェルの耳には届いていない。
 本気。メンヌヴィルほどの男だ。アリスを突破したということは、ほぼ間違いなくスクウェア。そして、突破されたということは……。
 アリスが無事である可能性は限りなく低い。下手をすれば……。

「とにかく、だ。そちらが王女と公爵令嬢さえ引き渡せば、無駄な殺生はしなくて済む。本当はクルデンホルフの嫡子くんにもご同行願いたいが……。きみは危険人物だと伺っている。断念しよう」

 ヴェンツェルの身体的な特徴をなぜか知っているらしい。メンヌヴィルはやや警戒するかのような台詞を口にする。
 「アンリエッタとルイズさえ引き渡せば身の安全は保障する」。そう、目の前の人物は言うのであるが……。この場にいる少女たちはそう思わないらしい。

「駄目よ、ヴェンツェル。この人が約束を守るなんて保障はないわ」
「こればかりはツェルプストーに同意するわ」
「……わたしたちを連れ去るおつもりなのですか?」

 最後のアンリエッタだけは、やや違う主旨の問いかけをした。メンヌヴィルは大きく頷き、質問ともいえる言葉に答える。

「そうだ。既に二名、ラ・ヴァリエール家の上のご令嬢とクルデンホルフ家の姫君の身柄を『チャレンジャー』号で確保させてもらっている」
「ちぃ姉さま!? あんた、ちぃ姉さまをどうしたのよっ!」
「聞いての通りだ。なに、きみたちが要求に従えば身の安全は保障するよ。大事なお客さんだからな」

 ちぃ姉さま。カトレアのことだ。クルデンホルフの姫君。ベアトリスのことだ。血縁上の妹……。そうか。二人が連れ去られてしまったのか。
 やはり、あそこで脱出を優先したのは間違いだったのだろうか。ちゃんと、アリスもベアトリスも連れ出すべきだったのか。
 どうしようもない後悔の念が、自責の念が胸の奥から吹き出し始める。それがどんどんと、ぐるぐると渦巻いていく。

「くそっ……。またこのザマだ……。いつだって俺は、守るべきときに守れやしない。なにも出来ずに……」
「ヴェンツェル?」

 隣に立つ少年の様子がおかしくなったなったことを察知した、アンリエッタが問いかけてくる。しかし、その言葉は今の彼には届かない。

「……とにかく、だ。アンリエッタ殿下。こちらへお越し願いたい」
「わ……わたくしは……」

 じりじりと後ずさるアンリエッタ。険しい表情のルイズも同様に下がり、キュルケは杖を構える。一方で、ヴェンツェルはなにもせず、ただ俯くばかりだった。
 そのうち、彼はゆっくりとメンヌヴィルへ向かって歩き始めた。キュルケの静止も聞かず、彼はそのまま前進する。
 そして、杖を地面に放り捨てた捨てた。メイジにとっての命ともいえる杖をだ。

「投降するのか? それは懸命な判断だな」

 歴戦の勇士ともいえど。まさか、杖を捨てたメイジが、自分に対抗できるなどとはまるで考えていなかった。故に油断があったのだ。

「……投降? 冗談じゃない。俺は投降なんかしない。お前を倒して、あの二人を助ける!」

 精一杯叫んだ、次の瞬間。

 ヴェンツェルの左手から片手剣ほどの大きさの“炎”が現れた。それはただの炎の塊のようにも、あるいは剣であるようにも見える。
 その炎を見て、ただ一つわかることはといえば。それがどこか禍々しい、猛烈な威圧感を放っているということだった。

「なんとぉっ!?」

 ほんの一瞬の差だった。ヴェンツェルが横なぎに振った炎を、メンヌヴィルはすんでのところで回避。しかし、杖をやられた。手にした大型の杖の先がない。
 その炎を目の当たりにした気弱そうな青年―――マンショの脳裏を、どうにも嫌な予感が駆け巡った。再度の攻撃を仕掛けようとするヴェンツェルにゴーレムを突進させる。
 ものすごく派手な音と共に、ヴェンツェルの体が宙を舞う。彼の体はすぐに柔らかい草原の上に落下した。

「……なるほど、危険人物とはこういうことか! 閣下も人が悪い、ここまでだとわかっていれば……真っ先に排除していたものを!」
「起き上がる前に、ゴーレムで潰します!」

 そう言い、マンショのゴーレムが今度は本気でヴェンツェルを潰しにかかろうとしたのだが……。金属の兵士が剣を振り上げたとき、その背中から光る物体が飛び出してくる。
 光る物体は“炎”だった。一瞬でゴーレムの体を構成する金属が融解し、瞬く間に原型を留めないどろどろの物体へと変貌してしまった。
 そんな馬鹿な。
 あのゴーレムの金属は並みの融点ではないというのに、それすらあっさりと溶かしてしまうなんて。マンショはただ呆然とするしかない。
 再度前進を始めるヴェンツェル。炎の大きさはより一段と増し、一般的な両手剣を越えるほどの物となっている。
 今度は歩かなかった。駆け出し、目の前で対峙するメンヌヴィルへ襲い掛かる。

「ええい、ウル・カーノ……」

 瞬間、真っ白な光を放つ巨大な『フレイム・ボール』が駆ける少年を襲う。だが、その特大の一撃は左手の炎をかかげただけで無力化されてしまった。
 自分の魔法があっさりと無力化される。これにはさすがのメンヌヴィルも焦った。目の前で起きた摩訶不思議な現象に対し、声を張り上げる。

「まったくこれは予想外だ! 先住魔法を使うメイジだと? 馬鹿げている、エルフ以上にふざけた存在じゃないか!」
「隊長! 援護します!」

 炎を槍のように構えて突進してくるヴェンツェルの足元に、マンショが『アース・ハンド』を繰り出した。足首を掴まれたために、体勢を崩し―――
 次の瞬間には、メンヌヴィルが突進していた。硬く握り締めた拳をヴェンツェルの鳩尾に叩き込む。
 さすがの鍛えられた体だ。彼の拳から繰り出される威力は生半可なものなどではなく、ヴェンツェルは意識を刈り取られつつ後方に吹っ飛ぶ。
 ごろごろと地面を転がり、それが止まる頃には……。もうすっかり、手の中の炎は消失していた。立ち上がる気配もない。

「ヴぇ、ヴェンツェル……」

 呆然としつつ、アンリエッタとキュルケがその名を呟く。倒れてしまった少年の下へ歩み寄ることも出来ず、ただ目の前で起きた信じがたい光景に息を呑む。
 だが、そうしている暇など元よりなかった。メンヌヴィルが、彼女たちの姿を再び視界に収めたからだった。
 先ほどまでの焦りはとうに消えうせ、今はただ冷静に問いかけてくる。

「……さて。どうするかね? そこの赤毛のきみでは、私の部下であるマンショは倒せないぞ」
「っぐ……」

 眼前のゴーレムは圧倒的な存在感を放っている。気おされ、じりじりと後退する。だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
 どうしたものか。そう悩んでいると、突然、アンリエッタが前へと進み出て来たではないか。

「メンヌヴィル……殿と仰いましたか。どうでしょう。わたくしと、トリステイン王国王女であるこのアンリエッタと取引をしませんか?」
「ほう。殿下自らお出になられますか。伺いましょう」

 メンヌヴィルはすぐにアンリエッタの提案を受け入れ、臨戦態勢のままの部下を手で制す。その瞳には好奇心の色が浮かんでいた。
 草原を吹き抜ける風に、栗毛の王女はしばし目を閉じていたが……。すぐに、意を決したかのように口を開く。

「わたしが抵抗せず投降する見返りに、どうか他の方を見逃してはいただけないでしょうか?」
「……断れば?」
「自決します」

 そう言うと、アンリエッタは自らの杖を自分の喉下に押し付けた。これには敵味方双方が慌て始める。どちらの陣営も、アンリエッタの命は絶対に必要なものなのだ。
 重要人物であり、今回の作戦のそもそもの目的である王女に、自ら命を絶たれてはたまったものではない。メンヌヴィルは条件を呑むことにした。

「……わかった。そちらの条件を呑もう」
「ありがとうございます。ですが、杖はこの場を離れるまではこのままです。あなたが約束を守るか確信がないので」
「……そうだろうな。好きにしてくれ」

 もうなんだか投げやりなメンヌヴィル。あまりにも予想外の事態に、部下のマンショも疲れ果ててしまっているようだった。

「では、ルイズ。行ってまいります」
「……ひ、姫さま! そんな、だって、姫さまは……」
「わかっています。ですが、今は行かねばなりません。敵はわたくしが狙いのようです。自分は、なにがあっても命を奪われることはないでしょう。だから心配しないで」
「……うっ、ぐす……でもぉ……」

 緊張状態が続いためか……。ルイズ、とうとう泣き出してしまった。そんな親友の頭を撫でてやりながら、アンリエッタはささやく。

「ヴェンツェルのこと、よろしくお願いしますよ? 彼はあなたの使い魔となるべくして召喚されたのだから。……キュルケさんも、よろしくお願いしますわ」

 それだけ言って、アンリエッタはメンヌヴィルたちの元へと歩いていってしまう。
 もはやルイズにも、キュルケにも止める術はなかった。最後に一度だけ振り返り、アンリエッタは悲しげに微笑む。
 そうして彼女は、かなり低空まで降りてきたアルビオン共和国の『チャレンジャー』号へと『レビテーション』で運ばれていく。

 桃髪の少女と赤髪の女性たちは、ただその光景を呆然としたまま見送ることしか出来ないのであった。



 *




 メンヌヴィルの特務隊のトリステイン魔法学院襲撃から数時間後。

 トリステイン中部、ラ・ロシェール。奇しくも、この日はアルビオン大陸がハルケギニアへ再接近する日でもあった。
 そして。
 既にこの町の大部分と港が、夜闇に乗じてアルビオンから侵攻してきた艦隊戦力の占領下に置かれていた。駐留するトリステイン軍は瞬く間に蹴散らされ、既に全滅している。
 それはこの『世界樹』を拠点としていたトリステイン王立艦隊も同様である。艦隊の半数以上が駐屯していたために、奇襲攻撃によってほとんどが奪われるか撃沈していた。

 この侵攻艦隊の指揮官は、クロムウェルの派閥に属するフランシス・ドレーク提督という。
 元々は没落貴族で、空賊まで身をやつしていたところをクロムウェルに拾われて登用されたのだった。故に、護国卿に対する忠誠心は非常に高い。
 長い空賊生活で培った実戦経験も積んでいる。現状、侵攻艦隊の指令を務めるのに、彼以上の適材は存在してしなかったのである。

「トリステインは未だこの事態を知らず……か。いや、いい加減気が付いているかな?」

 そう呟きつつ、ドレークは魔法学院を襲ったはずの『チャレンジャー』号の帰還を待っていた。
 うまくことが進めば、もうすぐ彼の船はこのラ・ロシェールまでやって来るはずだった。内戦中に王党派を震撼させた“白炎”の名は伊達ではない。
 誘拐程度の任務などさっさとこなしてしまうはずだ。少なくとも、ドレークはメンヌヴィルをそう評価していた。

「提督! 『チャレンジャー』号が任務を終えたようです!」
「そうか。相手は王族なんだから、きちんとした礼装で出迎えなくちゃならんね。おれは男爵風情だからさ、余計に」
「そうですな。アンリエッタ王女は我がアルビオンの血筋を引く……いえ、これは失礼しました」

 ドレークの副官は失言をしそうになった。アンリエッタが引くアルビオンの血とは―――つまりは、“敵”であるトリステイン王ヘンリーのものなのである。
 たとえ元が同じだろうと、共和国にとっての敵の血筋を褒めるなどという行為を許さない貴族もいるだろう。
 だが、この艦隊の提督は特に気にも留めない。彼は王家に思うところはない。ただ、とんでもない美人のティファニアには忠誠を誓っていた。
 ひょんなことから女王がエルフだと知ってしまったが。彼は、美人ならエルフだろうが翼人だろうが気にしないという、異端一直線な性格をしていたのだ。

「構わんよ。まあ、べっぴんさんなら嬉しいね。だいたいどこの王族も美系ばっかりだけどさ」
「はっ! ありがとうございます。……小生が聞き及ぶところによりますと、かなりの美人であると」
「……ほう! そいつは良い。枯れ木の上の待ちぼうけも報われるってもんだ」

 どうにか、敵軍にラ・ロシェールを包囲される前にアルビオンへ王女たちを送れそうだ。ドレーク提督はほっと一息をつくのであった。





[17375] 第二十四話
Name: マカロン◆9e9ae527 ID:d629567b
Date: 2010/12/10 21:14
 メンヌヴィルの一撃を食らい、気を失ったヴェンツェルが目を覚ましたとき。

 その場所は、学院外の草原ではなく、魔法学院の医務室であった。鼻をつくような医薬品の臭いがどっと押し寄せる。
 彼が先ほどまで眠りについていたベッドは、周囲をカーテンで覆われていた。真っ白な布が、窓から吹き込むそよ風に揺れている。
 外は夕焼けに染まっているから、きっと夕刻なのだろう。ずいぶんと寝っぱなしだったようだ。
 体を起こそうとすると、全身に酷い倦怠感があることに気がつく。しばらくぶりに“炎”を出した影響だろうか。あれはヘスティアからも止められていたものなのだ。
 頭もガンガンと痛む。この状況では動くこともままならない。仕方なく、ヴェンツェルは移動を諦めた。そして呟く。

「そうか。メンヌヴィルに負けて……。みんな、どうしたんだろう」

 自分が負けてしまったということは、恐らくアンリエッタは連れ去られてしまっただろう。ルイズの身柄も危ない。キュルケとてそうだ。
 カトレアとベアトリスも誘拐されてしまったようだし、なにより“白炎”と交戦したというアリスの安否が気になる。だが、今の彼にはそれすら知る術がない。
 やはり、ここは無理にでもベッドから這い出て、情報を得なければならないだろう。そう考える。
 だが、その必要はないらしい。カーテンがすっと開かれ、何人かが内側に入って来た。桃髪、赤髪、そして……薄紫の髪。

「アリス……無事だったのか」

 現れた少女の姿を見て、ヴェンツェルは呆然としつつも呟いた。見たところアリスには目立った外傷もない。あのメンヌヴィルと戦ってこれで済んだとは。

「ええ、おかげさまで。あれは本当に恐ろしい敵……ひゃっ!? にゃ、なにをっ!?」

 努めて冷静な口調で話すアリスだったが、次の瞬間には、ベッドから飛び出したヴェンツェルが彼女を抱きしめていた。
 そのせいか、口調が大きく乱れる。
 ルイズはただ驚いているし、キュルケは目を細めてにやにやとしている。アリスが助けを求めようにも。両名とも、まったく動く気配がない。
 こんな風に抱かれることなどまるで初めてだったので、アリスは耳まで真っ赤に染めてじたばたと暴れた。かなり必死である。
 それでも、元々の腕力が違いすぎるので勝負にならなかった。実際には本気で抵抗していない、という事実もあったのだが……。
 しばらくそうした後、急にヴェンツェルは体の痛みを訴えてベッドに突っ伏してしまった。

「痛い……。体が、軋む……」
「……ふ、ふんっ。無理に動くからそういうことになるんです」
「あらあら。……それはいいとして、動くのは本当にやめた方がいいわ。ここに運び込んだとき、骨が何本か折れていたらしいから」

 アリスはそっぽを向いてしまった。そんな彼女の様子を横目で眺めめつつ、そうキュルケが告げてくる。どうも彼女がここまで運んできてくれたらしい。
 やはりというか、アンリエッタの姿は見えない。きっとメンヌヴィルたちに拐されてしまったのだろう。

「……賊たちは?」
「あんたが負けたあと、姫さまを連れて船で立ち去ったわ。行く先は……」
「恐らく、ラ・ロシェールね。さっき学院に情報が入ったのだけれど、昨晩にアルビオンが夜襲をかけて『世界樹』を奪取したらしいの。いよいよ戦争かって大騒ぎになってるわ」
「今回の作戦とラ・ロシェールの占領はセットだったのでしょうね。まったく、小賢しい連中です」

 ヴェンツェルの問いに三人が順繰りに答えてくれる。
 キュルケ曰く、昨晩に突如としてラ・ロシェールにアルビオン共和国の艦隊が襲来。電撃戦で駐屯していたトリステイン王立艦隊を撃破したとのこと。
 ラ・ロシェールの市街地も占領され、上陸したアルビオン兵の手で市街地の周囲に陣地が構築されている。その周囲を、急行したトリステイン軍が包囲していた。
 残存しているトリステイン艦隊もいるらしい。もっとも、アルビオン側が『世界樹』を盾にしているので、文字通り手も足も出ない状況であるが。

「……そうか。『世界樹』は重要な港湾施設だもんな。迂闊に攻撃することなんて出来ないのか」

 ヴェンツェルも過去にガリアからトリステインへ戻る際に利用したことがあったので、枯れてなお健在のその威容はきっちりと頭に残っている。
 すると……どうしてだろうか。ふと、どうにも妙な違和感があることに気がつく。あの大木が、まだ葉を宿していた頃の姿が見えるような気がしたのである。
 いや。思い過ごしだろう。きっと本か何かの挿絵で見たのだ。なにせ『世界樹』が枯れたのは、彼が生まれる遥か古の時代のことなのだから。

 そんな風に考え事をしていると。どうにも不安げな様子で、ルイズが呟いた。

「姫さまとちぃ姉さまも連れて行かれてしまったわ。どうすればいいのかしら……」

 親友と家族が誘拐されてしまったのである。ルイズの心配はもっともなものといえた。そして、それはヴェンツェルも同じである。
 高飛車なようでいて、実際は変に気が弱いところがあるベアトリスが心配である。アンリエッタやカトレアが一緒にいれば、まだ大丈夫なのだろうが……。
 身の安全については恐らく問題ないだろう。なにせ大貴族の子女だ。利用価値があるうちは大事に扱われるはず。そして、実行部隊が正規軍であればなおさら。
 あれが傭兵や匪賊を集めた部隊だと、危険性は一気に跳ね上がるのであるが。

「助け出すって言っても、いろいろと動くのは厳しそうねぇ」
「……王女殿下の身の安全を考慮すれば、迂闊な真似は絶対に出来ませんからね」
「ミス・ヴァリエール、ミス・ツェルプストー、ミス・ヴェクサン。オスマン学院長がお呼びだぞ」

 思案顔のキュルケの弁にアリスが同意する。二人ともやけに難しい顔をしていた。ただ……ゲルマニア出身のキュルケが、どうしてそういう顔をするのだろうか。
 そういう疑問を思い浮かべるのであるが。その前に、三人にはオスマン氏から呼び出しがかかってしまったらしい。
 カーテンの隙間から顔を突き出す女性医師に愛想笑いを返しつつ、キュルケはヴェンツェルに告げた。

「どちらにせよ、今はゆっくりと休みなさい。そんな体じゃ、のこのこ出て行ってもかえって的になるだけよ」
「……ていうか。使い魔になるあんたが、わたしに黙って勝手にどっか行ったら、ただじゃ済まさないから」

 とまあ、キュルケとルイズに思い切り釘を刺された。アリスも半眼で睨んでくる。彼女たちはまずヴェンツェルが飛び出すと考えたのだろう。
 もっとも、今の体の状態では歩くことはおろか立つことも出来ない。見た目以上に体がダメージを受けているようなのだ。
 去り行く少女たちを、ヴェンツェルはベッドの上から見送るのであった。


 ―――それから、しばらく。

 すっかりと日が暮れた頃になって、ヴェンツェルの元へとある人物が訪れた。
 それは禿頭の教員ジャン・コルベール氏である。彼の顔はランプの灯りに半分を照らされ、半分が漆黒の闇に包まれていた。少し怖い。
 カーテンごしに声をかけてくるので、ヴェンツェルはすぐに白い布を開けることを了承したのであった。

「……いや、すまない。本来ならば、わたしがメンヌヴィルを足止めするはずだったのだ。それがアデライードくんに負担を押し付ける形となってしまって……」

 開口一番、コルベールの口から飛び出したのは謝罪めいた言葉であった。そして、ヴェンツェルに一部始終を話して聞かせる。
 コルベールがメンヌヴィルの部下を撃退したとき、既にメンヌヴィル本人は学院外へと出てしまっていた。そして、彼の通り道ではアリスが倒れていたという。
 幸いにもそれほど傷は深くなかったが、わき腹に一撃をもらってしまったらしく、出血していたそうなのだ。

「ちょっと待ってください。じゃあ、あの子は無理やり……」
「いや、傷は癒してもらったらしいのだがね。最初のうちは気を失っていたせいか……その、うわ言できみの名前ばかり呼んでいたんだ」
「……ああ、だから。いや、あの子は親戚の娘さんなんですよ」

 話の腰を折ったヴェンツェルに不快感は示さず、ただコルベールは事実を告げる。この場に彼が来たのは、アリスの言葉を聞いたかららしい。
 ヴェンツェルは適当にでっち上げた台詞を口にする。嘘といえばそうだが、真実を告げるのはいささか問題がある。なにせ、彼女の正体は……。

「そうだったのか」

 親戚という言葉に、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべるも。コルベールは、それ以上追及はしなかった。すぐに咳払いをする。

「……ごほん。なんというか、その、だ。本当に申し分けなかった。生徒を守るべき立場にある私が、きっちりと職責を果たせなかった。その責任は大きい」
「いえ、先生に責任はありません。悪いのは攻めて来た……あのメンヌヴィルという男です」

 メンヌヴィル。ヴェンツェルのうろ覚えの記憶では、確か火力だけはある戦闘狂のはずであった。
 先日の彼は、恐らくはクロムウェル辺りに与えられたであろう任務を、ひどく忠実に実行したようだった。コルベールの話を聞く限りでは、戦わずに撤退を選んだそうである。
 本来ならばコルベールの炎でメンヌヴィルは失明しているはずなのに、昨日対峙した本人の目には輝きがあった。行動からしても、恐らく目は見えているのだろう。
 それが意味するところは―――二十年前にダングルテールで起きた事件に、何らかの変化があったということ。
 もっとも、ヴェンツェルからその話をすることははばかられた。彼が事情を知るはずなどなかったからだ。

「そう言ってもらえると助かるな。では、待ち人がいるようだから私はこれで失礼するよ」

 それだけ告げて、コルベールはカーテンから出て行った。

 そうなるともう静寂が訪れるかと思ったが、また何者かがやって来たらしい。
 誰かと思えば、それはアリスだった。軽食が入っているらしいバスケットと、飲み物が入れられたポットを手に持っている。どうやら、食事を持ってきてくれたようだ。

「体は大丈夫なのですか?」
「ん、上半身を動かすくらいなら、なんとかなるよ。立ち上がるのは無理だけど」
「そうですか」

 ベッド脇の台にバスケットを置いたアリスは、ポットからカップに飲み物を注いでいく。湯気が出ていることから察するに、温かい紅茶なのだろう。
 カップを受け取ると、ヴェンツェルはゆっくりと飲んでいく。いつになく体の調子がおかしく、腕も微妙に引きつっているので、こぼさぬよう注意が必要だ。
 紅茶を一杯飲み終えると、アリスがまたカップを紅茶で満たす。そして、バスケットの中からハムやチーズなどをパンに挟んだ軽食を取り出した。
 そして、ヴェンツェルはそれを受け取ろうとするのだが……。なにを思ったのか、アリスはそれを渡してくれないではないか。
 いったいなんの意地悪だろうか。ちょうどお腹も減っていることだし、ありがたく頂戴したいのだが。
 などと考えていると。微かに震える声で、アリスは言うのだ。

「ぼ、坊ちゃまは手が使えないでしょうから……。わ、わたしが食べさせてあげます」
「……いや、手くらいnむぐっ」

 何か言う前に、ヴェンツェルの口へ軽食が押し当てられる。かなり強引なやり方であった。
 しかし、先ほど紅茶を飲んでいたのだから、手が使えることくらいわかっているのではないか。そういう抗議は口から出る前に封殺されてしまう。
 仕方なくパンを咀嚼していく。アリスはといえば、脚をベッドに乗せ、体ごと乗り出しているではないか。
 世話をしてくれるのはありがたいことではある。しかし、これは少しやり方に問題がある。そう感じるのだ。

 なんとかパンを飲み込むと、先ほどコルベールから聞いていたことを尋ねることにした。怪我をしたという話だ。

「アリス。わき腹に怪我をしたって聞いたけど……大丈夫なのか?」
「え、ええ。治療はしていただきましたから。もうなんともないです」
「……それならいいんだけどさ。気になって。ほら、女の子の体だしさ」

 気にはなるのだが、相手は年頃の少女である。無理に腹を見せろなどと言えるはずもないし、水メイジでもないヴェンツェルが見てもまるで意味がない。
 しかし……なにを思ったのかまったく謎だが。ヴェンツェルの言葉を受け、耳がぴくりと動いたアリスは突然シャツをめくった。
 次の瞬間には。少年のすぐ目の前で、真っ白な柔肌と、スリット状のへそが露出する。くびれ始めた細い腰周りや、成長を続ける胸の脂肪の塊の下部分が……。

「ほ、ほら。な、なんともないでしょう?」

 なるほど、確かに彼女の言う通りだった。若干の傷跡らしきものが見えないこともないが、それほど大きい怪我をしたというわけでもないらしい。 
 思わずまじまじと、じっと見つめた後。ヴェンツェルは間抜けな顔をしながら頷いた。

「ああ。そうだな。確かに、なんともない」

 酷く間の抜けた光景だった。すぐにアリスは顔を真っ赤にして、ベッドから飛び降りる。そして、手にしたお盆でヴェンツェルの頭をガシガシと叩き始めた。
 夕食のときにワインを飲んだのがいけないのだ。自分がこんな頭の沸いたような行動を取ってしまったのは、全てワインが悪い。そうに決まっている。
 ああなんて変態みたいなことをわたしってばとうとう坊ちゃまの色狂いに当てられてしまったのかしらこんな非常時になにやってるのでしょう、と早口で吐き出し続けた。
 久しぶりの二人きりで羽目を外してしまったらしい。彼女にしては珍しい行動である。

 そして、そんなトンチキ芝居をカーテンの隙間から観察していた赤毛の女性は……。なんだか仏のような笑みを浮かべ、そっとカーテンから離れるのであった。









 ●第二十四話「出来ること」









 アルビオン共和国軍によるラ・ロシェール占領。そして、魔法学院に在籍していた王女を初めとする生徒・教員の拉致。

 突然の報せに、トリスタニアの王城はてんやわんやの大騒ぎとなっている。緊張状態が何年も続いたせいで、かえってこの頃には気が緩みだしていたのだ。
 法衣貴族の責任の押し付け合いは過熱し、とうとう魔法学院の学院長であるオールド・オスマン氏の責任問題まで取り沙汰される事態となっていた。
 さすがに王本人に文句を付けてくる者は、ただの一人としていなかったが……。

 ただ、ラ・ロシェールを占領した艦隊の総数は、二十隻に満たない中規模のものである。中にはアルビオンの艦隊がその程度しかないのか、とあざ笑う者もいた。
 しかし、それはまだ敵が全力を出していない証左ではないのか。それに、トリステイン艦隊も何隻か敵に拿捕されていたのである。

 マザリーニ枢機卿が軍務卿らとの会合を終え、自身の執務室で現地からの報告書に目を通していると……。
 突然、執務室のドアがものすごい勢いで開けられた。

「す、枢機卿! ご報告申し上げます!」

 飛び込んできたのは若いトリステイン軍の仕官である。彼は額に汗を浮かべ、敬礼も忘れて詰め寄ってくる。いぶかしみながらも、マザリーニは発言を許可した。

「なんだね」
「はっ! ラ・ロシェールへ急行すべく発進した、ワイアット伯爵指揮下の第一艦隊が敵の待ち伏せに遭いました! 旗艦と数隻の巡洋艦を残して艦隊は壊滅、伯爵も重傷を負われたとのことです!」
「待ち伏せ? 敵が潜んでいたというのか!」
「は、はい。敵の総数は三十隻に匹敵しようかという数だそうで……」

 三十隻? そんなばかな。アルビオンはわずか数年でそこまで艦隊の再編を終えていたというのか。トリステインはこの数年間、ほとんど軍を増強出来なかったというのに……。
 トリステイン攻撃に計五十隻も出して出して来たということは、もしかしたらそれが彼らの全航空戦力なのかもしれない。
 いや、あるいは。まだアルビオン共和国側は艦艇を保持していて、今回出してきた以外にも戦力があるのではないか?

「……それで、敵はどうした?」
「第一艦隊を撃破した後は、すぐに北の方角へ向かって移動を始めたということです。また、ラ・ロシェールの敵艦隊に動きはありません」
「そうか……」

 少し考え、安堵のため息を漏らす。
 すぐに引き返したということは、敵も艦隊を編成するために、本国の防衛網を切り崩したということだろう。
 とはいえ、一時的にとはいえ防衛網に空白を作る。かなり無茶な作戦であるとしか言いようがない。

 それにしても……。
 あまりに早すぎる。権限をクロムウェルが掌握しているとはいえ、まさかここまでの速度で二つの作戦を推し進めてしまうとは。
 もうこうなると、亡命政府の王立艦隊に残された艦艇はそれほど多くない。戦闘に投入するのも無理がある。
 積極的な対抗策を取れない以上、残された手は持久戦しかないだろう。残存のトリステイン艦隊で制空権を確保出来るとは思えないが……。やらせるしかないのだ。


 それから数日間の間、ラ・ロシェールを包囲するトリステイン軍はアルビオン軍をただ静観するばかりで、まったく身動きが取れなかった。
 ときおりアルビオン側から砲撃が行われ、地上部隊と残存艦艇に一隻の被害が出ていたが……、状況は完全に膠着していたのである。

 その日も慌しい中で執務を行っていると、マザリーニの部下がやって来た。彼は難しい顔をしながら、一枚の書状を手渡してくる。

「枢機卿。ゲルマニア皇帝よりの親書が届けられております。恐らくは、王女殿下との婚約に関する件かと……」
「うむ」

 まったく、こんなときに何の用だろうか。情報の伝達速度を考えれば、恐らくはまだアンリエッタが魔法学院にいると思い込んでいるのだろうが。
 しかし。その予想は大きく外れてしまう。なぜならば、そこには……。

 『我がゲルマニア帝国はアンリエッタ王女奪還のために二万の援軍と艦隊を出す準備がある』

 などと記されていたのだ。
 マザリーニは思わず「ばかな」と呟いてしまった。王女殿下の身柄と『世界樹』があるから一切の手出しが出来ないのである。兵隊がどれだけいようとそれは変わらない。
 それに、ラ・ロシェールは王都にほど近い。ゲルマニア側から移動すれば、まず間違いなく王都近郊を通る形となるのだ。
 外国の大軍を、そんな奥深くまで進入させるなどという真似は出来ない。下手をすれば、そのまま占領下に置かれてしまう可能性とてある。
 ……いや。あるいは、あのアルブレヒトは、その可能性すら視野に収めているのかもしれない。

「わかった。この件は私が預かろう。すぐに陛下や軍務卿を交えて話し合いを行わなくてはな」

 また面倒なことが起きたものだ。内心で頭を抱えたくなりつつも、マザリーニはそれが己の職務である。粛々と全うする他になかったのだ。



 *



 メンヌヴィルの襲撃から数日後。一応、学院は表向きの平静を取り戻しつつあった。

 魔法学院が襲撃されるなどという、前代未聞の事件ではあったのだが。生徒も教員も『アルヴィーズの食堂』に集められた者たちは皆無傷だった。
 一部の貴族が子供が呼び戻してはいたのだが……。王都からやって来た魔法衛士隊が赴任すると、そういった混乱は収束に向かい始めた。
 やって来た魔法衛士隊というのは、最近になって新しい隊長が着任したグリフォン隊であった。彼らは、上級貴族の子らを守るために派遣されたのである。

「……お父さまから実家に戻って来いとお手紙があったわ」
「そうか」
「そうかってなによ。今戻ったらきっと屋敷に閉じ込められるわ。冗談じゃないって話よ」
「ふむ」

 朝食の席。空席がちらほらと見える『アルヴィーズの食堂』で、ヴェンツェルとルイズはそんなやり取りをしていた。
 ルイズはなんとしてもアンリエッタを奪回したいらしい。もっとも、その方法はまるでなかったのだが。既にアンリエッタはアルビオン大陸に到着しているだろうからだ。
 おまけに、港町のラ・ロシェールにはアルビオン共和国軍が居座ったままらしい。
 ヴェンツェルは実家に手紙を送ったが、未だにその返事は届いていない。ベアトリスが連れ去られたことで、向こうも大混乱に陥っているのだろう。

「グリフォン隊が来てくれたから、もう大丈夫だろうけど……。あんなことがあったからなぁ。学院長も王都に呼び出されちゃったらしいし」
「魔法衛士隊の隊長さん、若い人だったな。ワルドというらしいが」

 レイナールとギムリがそんな会話をしている。……ふと、そこで気がついた。グリフォン隊のワルドといえば、あのワルド子爵ではないのか。
 案の定、二人の会話が耳に入っていたらしいルイズが目を見開いている。
 グリフォン隊がやって来たのは昨日のことだ。今まではカトレアやアンリエッタのことで頭が一杯だったのだろう。今知ったらしい。

「グリフォン隊かぁ……」

 ぽつりと、マリコルヌが呟いた。もっとも、それは誰の耳にも届いてはいなかったのであるが。


 ―――放課後。

 ヴェンツェルは、学院の敷地外にある森を訪れていた。本来は学院から出ることは禁止されていたが、彼は自分ともう一人の使い魔の様子を見る必要があったのだ。
 池に近づくと、水面が大きく揺れるのがわかった。そして、水の中から白銀の鱗に覆われた大型の竜が顔を覗かせる。
 アンリエッタが呼び出した使い魔、水竜のフロンである。
 フロンはしばらく主の姿を捜していたようだが……それが見えないとわかると、どうにも落ち込んだ様子になってしまう。

「悪いな。お前のご主人様はちょっとここには来られないんだ。そう遠くなく、また会わせてやるから」

 ヴェンツェルがそう声をかけると。恐らくは状況を理解しているであろう、賢い水竜は小さく鳴く。元気のない声だ。
 主人がいなくなってしまって寂しいのだろう。大きな瞳で見つめ返してくる。夕日で白銀の鱗が静かにきらめいた。

「……おや、水竜かい。それもなかなかのものだね。きみの使い魔かい? ミスタ・クルデンホルフ」

 突然、後ろから声がかけられた。誰かと思って振り返ってみれば……そこにいたのは、魔法衛士隊の制服に身を包んだ、年若い貴族だった。
 帽子の下から覗くその顔立ちは、端正な作りをしている。少しばかり伸ばした髭も見えた。どちらかといえば優男の部類だろう。
 ただ、目の前の人物が放つ気配は、彼がただ者ではないこと知らしめるには十分なものである。恐らく、かなりの使い手のはずだ。

「いえ、自分の使い魔ではありません。……僕の名前をお知りになられているのですか。ミスタ」
「ああ。今現在、魔法学院で『シュヴァリエ』を拝領しているのはきみだけだからね。……おっと、失礼した。ぼくはジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。グリフォン隊の隊長を務めている」

 現れたのは、魔法学院を警備するためにやって来たグリフォン隊のワルドだった。レイピアのような杖を構え、困ったような表情を見せる。

「いや、こっそりと学院を抜け出すきみを見つけたからね。悪いが、少しばかり後をつけさせてもらった」
「……そうですか」

 尾行とは悪趣味だ。そう思わないこともなかったが。本来ならば外出を控えるようにという通達を無視しているのは自分なので、なにか言うということはない。
 学院の生徒の身の安全を守る、という名目の任務を与えられているのだから。
 しかし……。このワルドは信用して良いのだろうか? “史実”の『レコン・キスタ』が存在していない以上、あまり心配することもないとは思うのだけども。

「とりあえず、もうそろそろ学院に戻って貰いたいな。また賊の襲撃でもあったら厄介だ。きみはクルデンホルフ家の跡取りだしね」
「わかりました。すみません」

 そう言って、ヴェンツェルは歩き出したワルドの後について行く。途中、こちらを見つめたままのフロンに手を振った。
 自分の使い魔であるフレースヴェルグには会っていないが、あれは呼びさえすれば来るので問題ないだろう。そう考える。

 学院への道中。不意に、ワルドがヴェンツェルに声をかけた。

「ミスタ・クルデンホルフ。きみは、オスマン氏の秘書をやっているリディアという女性と面識があるそうだね」
「え、ええ。ありますが」

 一体、突然なにを言い出すのだろうか、このヒゲは。まるで脈絡のない台詞ではないか。なにが目的なのだろう。

「そうか。では、彼女がアルビオンの出身で、彼の国で一、二番を争う巨大な商会の頭取の娘だということは?」
「……アルビオンの出身で商会の生まれだとは聞いています。ですが、そんなに大きいとは……」
「ふむ。して、きみは彼女をどう思う?」
「どうって……」

 どうと言われても。
 昔から面識のある、胸の大きなお姉さんだ。会えば挨拶をするし、茶を交えつつ長々と話すことだってある。しかし、商会の規模のことは知らなかった。
 人柄は、普通の気のいい女性という感じだ。どこか抜けているが、それがまた愛嬌に繋がっている。男子生徒には興味を持っている者もいるらしい。
 ヴェンツェルが困惑の色を浮かべていると。ワルドは少し真剣な顔になって、こう告げてくる。

「実を言うとね。我々は、彼女がアルビオンに王女殿下の所在を密告したのではないかと疑っている」
「……彼女が?」
「学院長の秘書という立場上、そういった機密情報を知ることは十分に可能だ。ましてや彼女はアルビオン人。残念だが、その可能性は考慮しなくてはならない」

 考慮しなくてはというが、もうほとんど決め付けているのではないか。確かに彼女はアルビオン出身だが、とてもそのようなことをする人間だとは思えない。
 それに、彼女の実家の商会は、あくまでも中立の立場で商いをすると言っていたのではないか。ここに来て方針転換したとでも言うのか。
 ……その可能性が無いことはない。ロンディニウムに睨まれて商売が出来るとも思えないからだ。
 いずれにせよ。ワルドの言う事はとにかく、後で王都からオスマン氏が戻って来たときに、確認を取る必要があるだろう。

「ミスタ。申し訳ありませんが、その件で僕から言えることはありません」
「……そうか。いや、こんなことを訊いてしまってすまないね」
「いえ……」

 初対面であるためか、どうにもぎこちないやり取りをしながら学院の正門を目指す。
 ワルドが自分に接触を図ってきた真の意図は恐らく、リディアが間諜であるかもしれないという証拠を、少しでも掴みだそうとしてのことなのだろう。
 恐らく、彼は『情報漏洩の疑いのある魔法学院関係者の秘密逮捕』を命じられている。
 そうでなければ。いくら先日襲撃されたからといって、虎の子の戦力である魔法衛士隊をこんなところまで出すわけがない。今は半分戦争状態なのだから。
 そのくらいは、今のやり取りを経たヴェンツェルにもわかる。
 もしこの件で問題があるとすれば……、リディアが本当に間諜だった場合だ。こればかりはどうしようもない。

 しかし、直感的にそうではないと思う。
 アンリエッタが、王女が魔法学院にいるという事実を知ることが出来る立場の人間。それは、かなりの高位にいても不可能に近いはずだ。
 ふと……。そのとき、彼の脳裏にとある人物の名が思い浮かぶ。しかしである。未だ王が存命であり、本来の『レコン・キスタ』が存在しない状況で、そんなことが起こり得るのか。
 この世界の彼もまた、祖国を裏切っているのだろうか。決め付けるのは早計だが……。

「おや……。あそこにいるのは?」

 ワルドの声で、意識が現実に引き戻される。
 前へ視線を向けると。魔法学院の正門の前で、桃髪の少女が立ち尽くしていた。向こうもこちらに気が付いたらしく、少々唖然としたような顔になっている。
 しばし迷いを見せた後……。何かを決心するかのように、ルイズはその場に留まった。

「……ワルドさま」
「久しぶりだね。そうか。きみはもう、魔法学院に通っていたんだな」
「はい。子爵さまも、グリフォン隊の隊長にまでなられたとお伺いしております」

 おや、なんだか妙な雰囲気である。ルイズ、頬を染めて俯いてしまっているではないか。ヴェンツェルに対する態度とは百八十度違う。おしとやかな少女にしか見えない。

「……隊長といっても、前任者が引退したから繰り上がったに過ぎないよ。それでも、ぼくは今まで一番を目指して鍛えてきたけどね」
「いえ。本当にご立派だと思いますわ」
「ぼくはそれほどじゃあない。いや、それにしてもきみは美しくなったね。かつての母君の面影がある。まるでプリンセスのようだ」

 なんだなんだ。
 このヒゲ、婚約者だかなんだか知らないが、いきなりルイズを口説きだしたではないか。ぜひとも、天下の往来でそういう真似はやめてもらいたいものである。
 関わるのも面倒だといえばそうだ。ヴェンツェルは、今日こそ実家から手紙の返事が来ていないか確かめるために、そうっと歩き出す。
 しかし。そうは問屋が卸さない。

「あ、そうでしたわ。ミスタ・クルデンホルフ。わたしたちはミスタ・コルベールに呼び出されていましたよね。行きましょう」
「は? 僕はそん……」

 突然ルイズが意味不明なことを言い出したので、思わず怪訝な顔になるが……。ワルドから見えないように一睨みされたので、とりあえず歩調を合わせる。

「……そ、そうだったね。今思い出したよ、まったく僕ときたら」
「申し訳ありませんが、わたしたちは用事がありますので……。またの機会にお話しましょう、ワルドさま」
「ん、そうだね。じゃあ、また。ぼくはも任務に戻るとするよ」

 別れの挨拶をして、さっさとルイズは歩いて行ってしまった。ただでさえ長い脚ですたすたと歩くものだから、やたらと速い。
 しばらく歩き、ワルドが完全に見えなくなったころ。本塔入り口の大広間で、ルイズはふぅとため息をついた。

「なんで逃げたんだ? きみの婚約者だろう」
「馬鹿言わないでよ。ていうかなんであんたが知ってるのよ」
「有名な話なんだよ」

 有名というか、それは基本的な知識なのだろう。ヴェンツェルのような存在にとっては。

「……そう。まあ、いいわ。婚約者と言っても、お互いの父親がお酒の席で勢い混じりにした口約束よ。だいたい、何年も放っておいて婚約者もなにもないわ」
「その割には、ずいぶんと頬っぺたが赤くなってたけどなぁ」

 そうヴェンツェルが茶化すと。鬼のような瞳の形になったルイズが、彼の靴を思い切り踏みつけた。足に激痛が走る。

「うっさいわね。使い魔のくせにごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ。わたしにはわたしの事情があるの!」
「いやあ、僕はまだきみの使い魔じゃないぜ。それに、使い魔以前にぼくは貴族だ。言いなりにはなれない。平民でも呼び出していれば、きみの奴隷に出来たろうけど」
「……なによそれ。使い魔は奴隷なんかじゃないわ。……とにかく、今から図書館に行くわよ。姫さまたちをどうやって助けるか話し合うの」
「本気か?」

 思わず、尋ねる。アンリエッタ、カトレア、ベアトリス。いずれも浅からぬ関係を持った人物だ。ヴェンツェルとしてもなんとか助け出したいのだが……。
 方法が無いのだ。彼も幾度と無く悩んだが、そもそもラ・ロシェールが押さえられている状況ではどうしようもない。
 フレースヴェルグに乗っていくという方法も考えたが、果たしてアルビオンまでの長距離を行ける確証がなかった。

「本気ってなによ。あんたはなにもしないの? そうやってすぐに出来ないって諦めていたら、前回のガリアとの戦争でトリステインは滅んでいたわよ」
「例が極端だな……。わかった。だが、少し待ってくれ」

 このまま二人で物を考えても仕方ない。ヴェンツェルは、何人か人を呼ぶことにした。


 ―――数刻の後。魔法学院の本塔にある図書館に、数名の生徒たちが集まっていた。

 ヴェンツェルにルイズ、そしてレイナール、キュルケ、アリスの五人である。ギムリは女子風呂をどうやって覗くか考えるのに忙しいようなので、放っておいた。
 慎重かつ冷静なレイナール、何気に判断力のあるキュルケ、シビアな考え方をするアリス。いずれもヴェンツェルとは対極の存在である。
 そして今はちょうど、三人に対する会合の説明を終えたところであった。

「とまあ、そういうわけでどうやって人質を助けるか考えたいと思う」

 そうヴェンツェルが呼びかけると。真っ先にレイナールが手を挙げた。

「ここは、政府に任せるしかないと思う。ぼくたちは所詮子供だ。出来ることは限られているし。アルビオンへ行くためには、最低でも三千メイルの高さまで行かなくちゃならない。そんなのは無理さ。
 ……まあ、仮にアルビオンへたどり着いたとして、現地の組織の協力無しじゃ御用になるだけだよ。良くて投獄か、最悪縛り首にされちゃうだろうね。ぼくらはそれで済むけど、女性だともっと悲惨だろう」

 議論終了である。レイナールの台詞だけでこの会合は終わってしまったのだった。しかし、あくまでもルイズは抵抗する。

「レイナール。あなた、もう少し希望ってものを残してくれないの?」
「いや、ぼくは現状出来る最善の策を述べただけだよ。確かに、攫われた人たちの安否は心配だ。でも、だからって、ぼくたちが独断で動いて同じ目に遭っても仕方ないだろう?」
「むうう……」

 言い返す術が無い。それがわかっているからこそ、ルイズは俯いてしまった。それを見たレイナールは言い過ぎたと感じたらしい。必死に宥めようとしている。
 一方のキュルケとアリスはといえば。自分たちが発言する意味がまるで無くなってしまったので、ただやり取りを眺めるしかなかったのである。

「そうよねぇ。こうして集まったのはいいのだけれど、国と国の問題だとどうしようもないわね。わたしはゲルマニアの人間だし」
「……かといって、王宮の方々にも期待は出来ませんけど」

 そこなのである。トリスタニアはろくに動けないだろうし、かといって自分たちもなにも満足に出来はしない……。悩みどころである。

「何かしたいって思ったときに限って、自分じゃどうにもならないんだよなぁ。何か良い方法はないものか……」

 ぼやきつつ、ヴェンツェルは額を押さえた。特に効果はないであろうが、そうするしかないのである。
 そこでふと……アリスの細い指で何かがきらめくのが見えた。それはアルビオンの王族だけが持っているはずの『風のルビー』だ。
 どういうわけか、彼女はそれを持っていたのである。……つまり、その指輪と『始祖の祈祷書』があれば、ルイズは虚無に目覚めるのではないか?
 『水のルビー』以外で目覚めることが出来るのかはわからないが、可能性はある。
 特大の『爆発』が使えれば、ラ・ロシェールに居座っている敵艦隊の風石だけを消し去ることが可能だろう。そうすれば……。

「……そうだな。とりあえず、今日はもう遅いし、一度話を終わりにしよう。……ルイズとアリスには後で話がある」

 出来ることはやってみよう。それがどう転ぶのかはわからないが、ヴェンツェルにはそれ以外に道がなかったのだ。




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