|
「新しい年を迎えるにあたり」 |
☆★☆★2010年12月10日付 |
|
小紙と親交のある地方紙に、気仙沼圏を中心とした「三陸新報」がある。気仙地方とはお隣同士とあって経済文化など、さまざまな情報交流をしている。過日、その紙面に興味深い広告が載っていた。 それは、「新しい年を迎えるにあたり〜お正月と服喪」と題して、宮城県神社庁気仙沼支部が掲載したものだ。新年を迎える前に、お正月の意味を再確認するとともに、服喪(ふくも)とのかかわりについてわかりやすく解説しており、勉強になった。 それによると、年末を迎えるこの時期、各神社には「ことし身内に不幸があったが、お正月はどのように迎えたらよいか」という問い合わせが多く寄せられるという。 例えば「欠礼はがき」を出し、年賀状を控える。しめ飾りや初詣、年始あいさつなども慎まなければならない。ごく当たり前に思われているしきたりだが、その期間や範囲など、難しいところも少なくない。 これもよく耳にすることだが、町内の式年大祭で「身内の不幸で祭りへの参加は辞退する」ということがある。期間や範囲もあるが、忌み払いをして参加したり、中にはまったく気にしない人もいる。 昔から人が亡くなるとその死を悼み、霊魂が安らかに鎮まることを祈って、親族は一定期間喪に服す。これを忌服(きふく)といったり、服喪といったりする。古くは門戸を閉じ、酒肉を断ち、音曲をなさず、嫁取りをせず、財を分かたず、というようなしきたりが暮らしの中に息づいて、それが今日も部分的に受け継がれている。 神社庁の広告によると、親しい人との死別を悼むこの「喪」の期間は、きわめて個人的な心情の発露のように思われるが、喪に服すという行為は、基本的には「社会からの要求」なのだという。 そのわけは、死は死者の家族親族のみならず、その社会にとって忌むべき尋常ならざる出来事であり、死に伴うケガレ(きたなさではなく畏れはばかること)は家の外には広げてはならぬものとされてきた。 それゆえ、一定の親族だけが知らせを受けて、その死のケガレを分かち合いながら謹慎し、別火精進(べっかしょうじん)をして、死者の霊魂の安定浄化をはかる。これが本来の「忌みごもり」の意味という。 「忌み」の期間中は日常の社会生活を慎み、葬儀と故人のみたまへの追悼に専念する。一方、「服喪」は「忌み」の期間が明けて日常生活に復帰しながらも、死者を追慕し、そのみたまの安らかなることを願っている状態をさす。 前者の「忌み」の期間は、長くても10日とされ、後者の「服喪」の期間は忌中を含んで最長50日とされている。神道では、忌み明け、喪明けには氏神様の神社の神職に家のお祓いをしてもらう。お祓いは喪家の台所の火(死火)をとくに祓い清め、元の清らかな火に戻すのだという。 この考え方に基づくならば、本来、服喪を終えた時点で家庭での神棚のお祭りや神社への参拝は再開してよいことになる。つまり、お正月前に最長でも50日の服喪期間を過ぎれば、お正月を平常通りに迎えることができるということだ、と理解した。 お正月とは、福をもたらす歳神様を迎えてお祭りし、トシ(年齢)をいただく儀式。古来、日本人は月ごとに歳をとってきた。したがって、お正月をしないと歳をいただくことができない。どんな場合でもお正月をしなければならないのは1年の幸福を祈るためだが、この歳をとらなければならないためでもある。 「過剰に喪に服することは、かえって日常生活に支障をきたすことになり、亡くなった人も喜ばないばかりか、神祭りを軽んずる行為ともいえる。今年、ご不幸にあわれた人こそ、お正月には新しい気持ちで新年を迎えてほしい」。神社庁の広告はそう結んでいる。(孝) |
|
「白熊」が伝えるもの |
☆★☆★2010年12月09日付 |
|
先ごろ、住田町農林会館で5日間にわたって開かれた「いわての宝をみよう」展を見学してきた。県立埋蔵文化財センター、県立博物館、㈶県文化振興事業団による合同展で、岩手の優れた自然や文化について紹介しようと各地で開いており、今回で4回目。住田では初の開催になった。 地質、考古、歴史、民俗、生物の各分野で、同町にちなむお宝≠フ数々がズラリと並んだ。この中で、機会があればぜひ見てみたいとかねて思っていた「住田の白熊」のはく製を目にすることができた。 ホッキョクグマではなく、毛も爪も鼻も、全身が真っ白なツキノワグマ。その子という黒い子グマと一緒に並んでいた。 いまから20年ほど前、世田米北西の通称「朴の木山」(ほおのきやま)の民家近くにしばしば出没していたといい、周辺の住民の間では「誰が山さブダ放した奴いるんでねえが?」と話題になっていたとか。牛舎のえさを目当てに連日現れるとあって有害駆除の対象となり、平成3年11月22日に地元のハンターによって仕留められた。 その翌日、当紙でも世にも珍しい白熊捕獲のニュースを報じており、 「仕留められた白毛のクマは、体長1・2b、体高70aほどのメスで、推定5〜6歳。親グマと一緒に子グマ2頭も仕留められた。子グマはどちらも黒いツキノワグマだった」 「最初に発見した町民は『はじめはカモシカかと思ったが、歩き方がおかしいし、後ろから黒い子グマがついてきたのでビックリした』と興奮ぎみ。さっそく地元の住田銃猟クラブに連絡し、牛舎からわずか50bほどの所で仕留めた」 「われわれにとっては初めてのことで、何万頭に一頭いるかどうかの珍しいクマでは』と話している」 ──などとある。 あえなくお縄となったクマ親子はこのあと、県立博物館に運ばれはく製化された。貴重な所蔵品の一つとなっており、普段は収蔵庫に保管されているという。今回の移動展の目玉として多くの来場者の注目を集め、凱旋≠果たしたのだった。 会場での学芸員の方の解説によると、胸の月マーク以外も白くなってしまったのは、メラニン色素を作ることができなかったがゆえ。こうした個体はアルビノといわれ、目玉が赤いのも、その特徴という。 野生のツキノワグマにアルビノが出現する確率は2万分の1と非常に珍しいというが、北上山系ではこれまでに10例ほども確認例があるとか。このうちの一つに、昭和59年、同じく住田の上有住で一頭が捕獲されており、はく製がいまも町農林会館ロビーに展示されている。 アルビノ個体は目立つことから攻撃される側になるなど短命なケースが多いが、岩手の森の王者であり天敵なしといってもいいツキノワグマにおいては、この公式はあてはまらず、生きて人の目に触れることも増えたのだろうと推測できる。 県内に生息するツキノワグマは奥羽山系で「面長」、北上山系で「丸顔」という特徴が見られるらしい。こうした特徴の表れや北上山系に「白熊」が多いことには、人間が造った道路や森林伐採などによってすみかが分断された結果、近親交配が進んだことも大きな要素とされている。 神々しさを覚えるほどの「白熊」の姿。単にもの珍しさだけでなく、「豊か」の一言でまとめられがちな岩手の生態系や自然環境について、より掘り下げて考える機会をも提供してくれているのだと受け取った。(弘) |
|
「天の倉」に積む友 |
☆★☆★2010年12月08日付 |
|
「『天の倉』に毎日、善行を積んでいる」我が友の1人がある時、そう話 してくれた。 なんでも、1日に必ず一つ以上は人のために善い行いをするのだという。 どんなことでもいい。例えば、取引先の方が来れば昼食をごちそうする。それも善行の一つなのだとか。だからといって、そのお返しを求めているわけではない。 その話を聞き、我が友ながらすごいものだな、と心底感心した。 彼は社交性に富み、人当たりが柔らかい。見た目にも、実際も温厚そのもので、決して偉ぶらず、人との付き合いをとても大切にする。人のネットワークは私の何十倍も持っている。 しかも、行動力がある。こうと決めたことは善行だけでなく、必ず実行する。所属する会の「百日実践」と取り組むため独学で絵手紙を学び、100日休まずに書いて知人に送り続けたこともある。 そんな人物だから同級生の誰からも信頼され、常にリーダーを務めている。 彼はまた非常に勉強家で、さまざまなセミナーや勉強会にも積極的に参加する。近場だけでなく、遠くまでもよく出かけていく。ともかく学ぶことをいとわない。 「天の倉」の教えもきっとどこかのセミナーで出合ったのではなかったか。そこまで詳しく聞くことはできなかったが、いずれ、いいと思ったことはすぐに実践する。これも彼のすごいところである。 まあ、なんにつけて、私とは対極にいる人物といえる。 さて、その私である。 我が友の話を聞き、とても心を動かされた。私もみならって善行を積みたいとまで思った。 改めて今、我が身を振り返ってみた。 果たして友と同様、「天の倉」に善行を積んできただろうか。 いくら考えても、思い浮かぶ善行がない。心に余裕がなく、自分のことに精いっぱいで日々を送ってきている。 だいたい、毎日一つは善い行いをしようという意識さえ、私は持っていなかった。やはり、我が友は偉いと思わずにいられない。 そういえば、我が家で何かあると、親族らが集まって何かと私たちを助けてくれる。ありがたいことだといつも感謝している。 集まれば決まって、あの時はこうだった、ああだったと祖父や両親に助けてもらった思い出を語り出す。その中には私の知らないことも多い。 祖父や両親から、自分たちのしたことを具体的に聞いたことがない。きっと人に語ることも、誇ることもなく、「天の倉」に善行を積んできたのだろう。 その財産を今になって報恩という形で、私たちが受けている気がしてならない。 この文章を書きながら思い出した言葉がある。 「おらどが人に尽くすのは自分たちのためではない。子や孫のためだ」 亡くなった母の言葉だ。 私に限ってみれば、先祖や両親の財産をただただ食いつぶしてきたように思えてならない。 我が家の「天の倉」には今、先祖や両親が残した財産がどれだけあるだろうか。まだまだたくさんあるのか、それともあと少しで尽きるのか。それは分からない。 ただ言えるのは、私の代で使い切ってしまっては子どもたちに申し訳がないということ。そのためには心を入れ替えねばならない。 とはいえ、私にできる善行などたかが知れている。大金持ちなら多額の寄付もできよう。特別な技能や資格があるならそれを生かしもできよう。しかし、いずれも私には無縁である。友のように「一日一善」以上ともいくまい。 私の場合、人目につかぬよう、自分に似合ったささやかな善行を一つでも二つでも「天の倉」に積み重ねていければと思う。 (下) |
|
取り憑かれています |
☆★☆★2010年12月07日付 |
|
今度の正月、33歳の厄災解除(年祝い)がある。 早くも、当日着るもののことで頭がいっぱい。なんと言っても綺麗な晴れ着を着るチャーンス!美しいものを身に着けられると考えただけで「るんたった」と踊り出しそうである。 週末、「どんなのがあったかな〜」と、母子2代の着物が収められた桐箪笥をひっくり返し、畳紙を一枚ずつ開く作業に没頭した。 幸い、筋金入りの着道楽である母とは体格差がないため、あるものは全部着られる。が、数ある訪問着、柄も色も好みなのに、なんか…顔色がくすんで見えるような。「これはいいな」と思うと単衣だったりして、季節に合わない。 同窓会のような場とはいえ神事がある以上改まった席?…小紋や紬じゃそぐわないよなぁ。と、夜通しでとっかえひっかえ…(気付くと朝になりかけていた)。残念ながら一番相談に乗ってほしい母は病に伏せっており、自力でなんとかしなくてはならない。 それにしても、正絹の手触りのなんと血が騒ぐことか!「絹には女を狂わせる魔性がある…」とかなんとか、どこぞの誰かが格言を残していてもおかしくない。悩みつつも、テンションは上がる一方だ。そしてひねり出した結論。「…とりあえず呉服屋へ行ってみようかなっ」。 …いやいや、手持ちはあるんだから、呉服屋へ行く必要はないのである。ピンとこないだけで、決して似合わないわけではない。 第一、着物は店先でひょっと選んで「くださいな」と言えるような代物じゃない(言ってみたいが!)。本物をあつらえようと思ったら、数カ月飲まず食わずでいるくらいの覚悟が必要だ。 そう、別に買おうというわけではないのだ…うん、参考にするだけ…眼福をもらいに来ただけです…と誰への言い訳とも知れぬセリフを独りごち、フラフラ暖簾をくぐってしまう私。これぞ着物の魔性!絹の精≠ノ魅入られたら最後、深みにはまってゆくしかないのである。 さて、話は飛ぶが、この夏仙台のデパートにある着物屋で散々な目に遭った。若者向けのチェーン店で、化繊のプレタポルテしかないような店だ。それでもデザインが斬新で面白いので、目の保養にと入ったのだが。 その接客のおぞましさたるや、絶句ものであった。似合いもしない品を強引に勧め、こちらの言うことはすべて無視し、終始「いいから買え!」という態度。穏和で名高い(?)私も、憤懣やるかたない気持ちで店を後にした。 そこへいくと、自分が馴染みにさせてもらっている(と言っても冷やかしばかりで申し訳ないのだが…)大船渡市内のお店2軒は本当に素敵だ。先日訪れた先では「自分の訪問着が欲しくて(←結局買う気があったわけだ…)」と切り出したところ、「お母さんの着物を着てあげたら」「そのほうが喜んでもらえるよ」と親身に勧めていただいたのである。 ご主人たちの商売っ気抜きのお心遣いに、思わず涙しそうになったことは言うまでもない。こちらも、もう一方のお店も万事このように良くしてくださるので、私もますます着物を好きになっていくのだ。結局、何枚か合わせさせてもらい、「買うときはここで…!」と決意を固めた次第である。 着物って本当に不思議だ。洋服では絶対着ない色が似合ったり、似合うはずの色が合わなかったり。ぱっと見には「う〜ん?」と思う柄でも、着てみたら「何コレ素敵!」となることは多い。いつも、魔法のような衣類だと思う。 安い買い物ではないから、「これがいい、絶対これ!娘や孫にまで譲りたい!」と惚れ込んだものしか欲しくないし、それゆえに、お気に入りの一枚を手にしたときの喜びは絶大である。 「着物を着る幸せ」がお正月に待っているのだとしたら、今は「着物に思いを馳せる幸せ」で胸いっぱいの私。…ああ、やっぱりもう取り憑かれてしまってるんだなあ。(里) |
|
20年ぶりの初対面 |
☆★☆★2010年12月05日付 |
|
新聞記者の道を歩み初めて2年ほど経った20年前の平成2年10月、陸前高田市の広田小学校と広田中学校へある取材のために出掛けたことが、ついきのうのことのようだ。取材の内容は、匿名の「一老社長」という人から、両校へ高価なビデオのハンディカメラが一式ずつ贈られてきたというものだった。 ビデオカメラはワープロで打たれた手紙3枚と一緒に贈られてきた。手紙には、その年の5月に列車で仙台から気仙地方を訪れた際、車中で同席した女性から車窓を通して名所や旧跡、郷土史などの説明を受け、「その親切に感動した」という内容。「あの時の女性のように、親切な心を持つ児童、生徒が1人でも多く育つように願いを込め、ビデオカメラを贈ります」とプレゼントしたいきさつが書かれていた。 到着後、両校は小包を発送してくれた会社(東京)に問い合わせてみたところ、「本人が匿名を希望している」と言われ、「広島県に住んでいる人」ということだけ教えてもらった。その翌春には、広田小学校の卒業生一人ひとりに「進学祝い」として小型カメラが贈られてきた内容などを記事にしたことをよく覚えている。 当時、一老社長からさまざまなものが贈られてくるたびに取材していて、常に疑問に思っていたのが「この社長は果たしてどのような人物なのか?」ということだった。経済的に裕福な人なのか、それとも何か後ろめたいことがあって「罪滅ぼしのつもりなのか」など、いろいろ連想したが、分かることなくあっという間に20年が過ぎた。 そして今年10月、思いもよらずこの社長と巡り会うことができた。 というのも、この社長がわざわざ広島県から1泊2日の日程で初めて同市を訪れ、広田町内観光したことを取材する機会に恵まれた。もちろん初対面だったが、失礼ながら古い友人にようやく会えたような、とても懐かしい思いでいっぱいになった。 それまでは、「名前を明らかにできないような事情のある人なのだろう」と少々疑いを抱いていたが、話をしてみてそれが全くの誤解だったことが分かりホッとした。 そのご仁は、広島県福山市でビルメンテナンス業務を中心に、温泉の健康レジャーランド、福祉のグループホーム、防火設備やエレベーターなどの管理業務、警備員などのセキュリティー業務、人材派遣業務、駐車場機器販売や管理業務、トルマリン原石の卸小売り業務、不動産業務などを営んでいる潟Pンセイ舎の代表取締役会長を務める定藤克己さん(87)。米国フロリダにはゴルフ場を所有しているほどの人だった。 話を聞くと、定藤さんは小中学校にビデオカメラを贈ってちょうど20年が過ぎた節目に同市を訪れたという。この日は日曜日ということもあり、「小中学校を訪問することができなかったのが残念。当時の子どもたちに会うこともできなかったが、すでに30歳を過ぎ、それぞれ社会人として一生懸命働いてくれていると思う」と笑顔を見せたのがとても印象的だった。 その上で、当時の報道をとても喜んでもらうことができてうれしかった。別れ際、「年齢が年齢なだけに、もう二度と陸前高田市を訪れることができないと思う」と少々寂しげな表情を浮かべた定藤さん。「広島はとても温暖な地。いつか遊びに来てください」と声をかけてもらった。社交辞令だということは分かっているが、ぜひ家族を連れて出掛ける機会をつくりたいと思っている。 先日、特産の広島ミカンを頂いたお礼に米崎リンゴを贈らせてもらった。そろそろ届くころだと思うが、三陸の潮風を受けて育った陸前高田市の味を少しでも楽しんでいただけたらと思う。(鵜) |
|
次への1200年 |
☆★☆★2010年12月04日付 |
|
「オサ」という発音を聞いて、どんな地名を連想するだろう。すぐにはピンと来ないが、気仙沼市唐桑町の大沢(おおさわ)のこと。漁業の盛んな地で気仙沿岸との交流も活発。年配者の言う「オサさ行ぐ」は「大沢へ行く」の意味になるが、筆者自身もオサが大沢だとは大人になるまで知らなかった。 問題は次の地名にある。「長者洞」を何と読むか。単純にチョウジャホラと読む人が多いと思われるが、実は、それで正解=Bそれだけなら「な〜んだ」となるが、少しややこしい事情もある。 過日、実施した「気仙まるごとものしり検定」。その中に、長者洞の読みがショウジャホラかどうかを問う内容の出題もあった。ところが検定当日、「検定テキストで長者洞をショウジャホラと読ませているが、住田町上有住の長者洞はチョウジャボラと読むのが正しい」とのご指摘を頂いた。 2級受検者も加わっているだけに、さすがに造詣(ぞうけい)の深さを実感させられたが、検定テキストの出典はゼンリン地図。それはまた、日本市区町村総覧を参考にしているが、総覧ではチョウジャホラとなっているという。 住田町役場によると、「長者洞はチョウジャボラの読みが正しいが、昔の人はショウジャホラと発音した人もあるかもしれません」との説明。 ケセン語では、寿司をススと発音する。話の流れで意味を解釈するので、間違っても「煤」と勘違いすることはない。シとス、シとチは兄弟の仲≠ナあり、ましてホラとボラは表裏一体。末崎町の大豆沢は標準語ではオオマメザワだが、地元ではマメサと濁らない発音が一般的とか。 しかし検定の地名問題では、一つの地名に一つの表記を前提としたため、清音と濁音どちらでも通用する場合、解答が複数成立する可能性があった。 要害(ようがい)が両替(りょうがえ)に、新沢(さらさわ)が猿沢(さるさわ)に、あるいは「総領の順録(じゅんろく)」(長男は苦労しないでも順に録=財産を受け継ぐ意)が「総領の甚六(じんろく)」に転じたように、多数が間違うとむしろそっちが市民権を得る例は多い。 いずれ検定に関しては、複数回答が成立するようでは好ましくないので、そうした問題が含まれる場合は全員正解とさせていただくが、この地名問題でも分かるように、地元学というのは本当に奥が深い。 昨年度検定の中で、「平成22年11月には気仙郡名の正史初出から節目の1200年になるなあ」と気づかされ、それを意識してもらう問題を選んでいたが、気仙3市町と多くの関連催事で「気仙誕生1200年祭」や「気仙登場1200年展」などが盛況開催された意味は大きい。 自分の住む市町という視点だけでなく、長い歴史を持つ気仙の視点が加わったと思うからだ。同時に、歴史的な節目がいつやってくるかのヒントは地元学の中にはたくさんあり、今後の再発見にも期待したい。 地域活性化や新商品の開発、ネーミングを考える場合にも、地元学はオンリーワン素材の宝庫。年末年始の贈答品などには地域色がほしい。その時、楽しいケセン語や民話のパンフ、あるいは東海新報が1部入っただけでも(我田引水です)、受け取る側には「ふるさと」を感じてもらえるのではなかろうか。 話が戻り、地名の読み一つでも原典や現地確認が必要で、気仙には有史以前の地層にも全国的に特徴的なものがある。それら出題範囲の拡大も考える時、次なるテキスト作成や検定実施にはかなりの時間が求められそう。 ともかく、検定は参加することに意義がある。受検に向けて知ったこと、テキスト購入で関心を深めたことは、その人の生涯の宝となるのだから…。(谷) |
|
気仙を思うライフワーク |
☆★☆★2010年12月03日付 |
|
持つべきは先輩である。ただし先輩というだけでは不可で、あくまで志操高きことが何よりもの前提である。 その先輩とは大船渡市盛町出身の梅内拓生氏その人。小生の2級先輩で、国鉄大船渡線がまだSLだった頃、気仙沼駅まで1年間だけ同じ列車で通学した。ただし言葉を交わしたことはほとんどなかった。あちらは校内でも1、2を争う秀才なのに対し、こちらは「伝統ある汽車通(通学生)の歴史を汚した」と、先輩たちを嘆かせた身。とても同じ土俵で話などできるわけがない。だからこちらから近づくことも、あちらが近寄ってくることもなかったというのがその真相である。 氏は東北大学の医学部に進み、感染予防医学を専攻、その道の泰斗となる。後に出向したWHO(世界保健機関)ジュネーブ本部感染対策次長として、大規模伝染病対策の第一人者となった実績が買われて東京大学大学院に創設された国際計画学講座の教授に招聘され、退官後は吉備国際大学学長などを歴任、現在も複数の大学で客員教授を務めるなど、いまなお引く手あまたな存在である。 小社が昨年秋開催した「気仙応援団フォーラム」のパネリストに氏をお願いしたのは、むろんその豊富な学殖と世界に広がっているネットワークに期待してのことだけでなく「郷土のために一肌も二肌も脱ぎたい」という意向を以前にもらしていたのを知っていたからで、そこには先輩と後輩の関係という気安さをちゃっかりと利用する魂胆があったことも否定できない。 その「一肌も」が、決して外交辞令でも美辞麗句でもないことは、直後ただちに始まった氏の直情径行的行動から証明された。連日に及ぶ電話、メール、データ調査依頼などは序の口。わざわざ「現地調査」に身銭を切って出かけてきても「当然のこと」と意に介さず、時には「お前も出てこい」と促され、普段は晩酌をしないというのに、最後までこちらの鯨飲に付き合ってくれたりするのも、これ義勇奉公≠フ意もだしがたき結果である。 氏は、世界を股にかけて歩いたその体験からだけでなく、元々身についているのであろう宇宙観からか、気仙人の知らない気仙の良さを見抜いており、その根底には縄文文化の持つ茫漠とした包容力が現在までも大事に受け継がれていると指摘する。そしてその連綿と続いてきた精神文化の大切さを、若者や子どもたちに伝えるのが自分の使命だとして、この仕事をライフワークと定めたのである。それ以後、ご当人自身がどんどん若返って、とても古希とは思われぬほとばしるような情熱を燃やしているのである。 半端でないのは、毎日何度かかかってくる電話からも推して知るべしで、梅内番≠ニいうか現地秘書*の当社U君は「電話代だけでとんでもない金額になんでねぇべが?」と心配しているが、確かに奥さんは毎月の電話代に目を丸くしているにちがいない。それによって夫婦仲が悪くなるようなことはあるまいが、他人事ながら気に掛かるところである。 氏はWHOでの実務で鍛えたのであろう。決して「学者バカ」ではない。よってこのライフワークも、協力者にボランティアだけを求めるわけにはいかない、それでは長続きしないとして、活動、運営資金の確保が前提と説いている。そのため、こうした活動に対して助成補助するある制度の申請資格を取得するため、炎暑の今年8月、1カ月間電車で1時間かかるその講座に通いつめた。「いやぁへとへとだ」という悲鳴も聞いたが、しかしそれでもへこたれない根性には脱帽した。これだけでも氏の本気度≠ェうかがわれるだろう。大学ではボート部に籍を置いてあの激しい運動に耐え抜いた強い意志と、気力とがいまなお温存されているのだろうか。 氏はすでに何度か帰郷して中学や高校で出前講座≠開いている。朝から夕までのハードスケジュールをこなす元気さには驚くばかりだが、この一念は必ずや結実し、気仙の未来に明るい希望をもたらすであろうことと、今後の展開に期待している。(英) |
|
「かぶりもの大作戦」の顛末 |
☆★☆★2010年12月02日付 |
|
その昔、筆者は目立ちたがり屋な子どもだった。学習発表会の劇では重要な役になりたがり、ろくに弾けもしないのに合唱のピアノ伴奏に立候補していた。 大人になった今、いざとなれば前に出ようというふてぶてしさはある。でも、どちらかというと人前に出るのが恥ずかしくなった。 とはいえ、一社会人は宴会芸も身に付けねばならない。入社して早10年近く、忘年会や同僚の結婚式などで何度かステージに立ち、歌や踊りを披露してきた。 そうするうちに日々は経ち、今年の春にはフレッシュな新人3人が加わった。4月の歓迎会で後輩たちのステージを見て、引退し、あとは衣装係に専念しよう≠ニ決めたのだった。 それから半年余りが過ぎたこのほど、ひと足早く忘年会が開かれた。その1週間前、若手社員間でアトラクションを披露するという話がまとまった。 今年の出し物は、人気絶頂のアイドルグループ・AKB48が歌う「ポニーテールとシュシュ」。それを聞いて心が揺らいだ。「ポニーテールとシュシュ」は個人的に今年のベストソングトップ10に入れたいほど好きな曲なのだ。 しかし、あのハードなダンスに挑む体力と気力はない。しかも、前に出るのは気が引ける。衣装係兼ボーカルで参加する方向になり、ダンサー陣にはおそろいのリボンとシュシュをあつらえた。 衣装係としての役目は果たしたものの、一員として舞台に出たいような気持ちがあった。でも前には出たくない…そんな葛藤の中、「着ぐるみでもあればいいのに」という考えがひらめいた。 だが、着ぐるみなんぞ簡単に作れるものではない。代替品も探したが、これというものが見つからない。「じゃあ、せめて顔を隠せるかぶりものならどうだろう?」という結論に達し、パンダのかぶりものを作ることにした。 かぶりものに挑戦するのは人生初だ(わざわざ自前でやろうとする人も少ないと思うが)。材料には、100円ショップで入手した白と黒の大判フェルトを用意。パンダのぬいぐるみを参考に、頭部の高さや幅、頭囲などを測定。自らの頭も同様に測って完成型の大きさを出し、型紙を作った。 型紙通りに布を裁断し、あとは刺しゅう糸で一針一針縫い付け。フェルト生地なので作業はスムーズだったが、折々でミスもあり、直しながら2日間縫い進めた。 完成したのは、本番前日。どうしても目の部分に穴が開けられず、鼻の下に切れ目を入れて隙間を作ったが、かぶってしまうとほとんど前は見えなかった。 そして本番。新人3人とトーカイ女子部の同級生コンビからなる5人のダンスは、質も高くて大ウケだった。「アンコールになったら女子部3人で出ます」の打ち合わせ通り、パンダをかぶって舞台へ。でも、案の定前が見えない。 さらに、緊張でうろ覚えの歌詞がさらにかすんでいく…。歌い始めたものの、時には間違え、分からなくなると「ニャーニャニャー♪」と叫ぶ始末となった(そこは大熊猫だから許してほしい…)。 何とか2番まで終わり、さぁ、これから一番いいところ…と思っていた矢先、ブチッと音楽が切れた。のど自慢でサビに入る前に鐘が「カーン」と鳴ってしまう…あの光景が頭をよぎった。 そのまま手を引かれ、そそくさと撤収。後輩たち渾身のステージを中途半端に終えてしまって申し訳ないのと、力を出し切れなかった脱力感とでやるせなかった。どうしようもないオチである。 これで、人前に出るのがさらに怖くなってしまったのは、言うまでもない。「パンダが最初、誰だか分からなかったよ」との声があったことだけが救いだ。かぶりもの作りはたぶん、今後もひっそり続けるだろう。でも、完成しても隅の方でかぶっていよう、と心に決めた出来事だった。(佳) |
|
もう師走になりました |
☆★☆★2010年12月01日付 |
|
早いものできょうから師走。日を追うごとに北風が冷たくなり、街ではイルミネーションが飾り付けられ、クリスマスムードも漂う。大型スーパーや商店街は歳末商戦で活気づく季節を迎えた。 といっても、ことしは記録的な猛暑で、秋も暖かかったからすぐには師走気分になれないが、先月29日は県都・盛岡も白銀の世界。翌朝、五葉山も雪化粧をしていた。冬将軍のお出ましに、今年も残りわずかになったと実感している。 「50歳を過ぎたら月日がたつのは早いよ」と先輩から言われる。そのたびに「ふぅん〜」とシラけた気分になっていたが、この1年は、早いのなんの。ついこの間、お盆だと思っていたのに、もう12月になってしまった。 師走は、「廊下は走るな」と注意する学校の先生さえ走り出すほど忙しい季節の意味と思いきや、師は教師にあらず、本来はお坊さんのことだった。辞書には「平安時代から『師馳(しは)す』という言葉が使われたとある。 年末を意味する『年果(としは)つ』が師走になったという説も有力だが、語源はさておき、「しわす」という言葉の響きは、どこか「せかせか」「そわそわ」、気ぜわしさを感じさせる。 1年の締めくくりの月として、その年にやり残したことは年内に片づけなければならないという長年の風習が身に染みついているからだろうか。 師走は、この1年を急ぎ足で振り返る月でもある。 昨晩、記者クラブの飲み会があった。「ことし一番印象深い出来事は何か」という話になり、誰もが口にしたのが2月28日に本県沿岸に襲来したチリ地震津波だった。南米チリ近海で発生した大地震の影響で本県初の大津波警報が発令。大船渡、陸前高田で避難指示が出された。 本当に大津波が来るのか。その日は日曜日だったこともあり、会社には誰1人出社していない。見えない恐怖におびえながら新聞を出すことに決め、全員出社。そして長い一日が始まった。 小刻みに押し寄せる津波。幸い最大潮位は大船渡で40aにとどまったが、養殖施設に甚大な被害をもたらした。昭和35年に襲来したチリ地震津波からことしで50年。半世紀ぶりに再来した遠地地震の恐怖に、沿岸住民はまんじりともしない不安な一日を過ごした。 新聞各紙では、そろそろ「ことしの10大ニュース」をノミネートする時期でもあるが、本紙にとっては、あとにも先にもあの4nだてのチリ津波新聞≠ェ間違いなくことしのトップニュースだった。 それにしても、公私ともに仕事の多い師走である。家の中と外のすす払い、ガラス拭き、障子の張り替え、納戸の掃除と、追いかけ回されるように雑事が待っている。今年の垢は何が何でも来年まで残すまいという風習というか、習慣が毎年の師走模様と重なる。 懸命に掃除をして、風呂に入って、身を清めて新年を迎えるのは神仏に祈る信心に近いものなのかもしれない。「せめて、来年はいやなことは見聞きせず、友と飲んで語らい、家族とのんびり旅行したり、人間らしく行きたいもの」などと、師走気分に浸っている場合ではない。 これから本紙では、「元日号づくり」という、最も過酷な時期に突入する。その日、その日の紙面作りのかたわら、1月1日付の新聞のため記者1人平均5n分のノルマが課されることになる。 ことしの干支は寅。まさに千里をかける虎のように、平成22年は駆け足で過ぎていく。来年は卯年。師走の足音を感じながら、ウサギのように飛躍する年になることを願い、明るい話題をつくりたいものだ。(孝) |
|
移民ブームの裏に潜むもの |
☆★☆★2010年11月30日付 |
|
中国ではいま中華人民共和国史上3度目の「移民ブーム」が起こっているという。移民とは、祖国が貧しいため新天地を求めて海外に移住するというのがほぼ「定義」だが、中国のそれは中国経済が繁栄の様相を呈している中、いまこそわが世の春を謳歌しているはずのエリートや富裕層が群れをなして、米、加、豪などの先進国に「逃亡」しているというのだから、これは異常というほかはない。 以上は、中国から日本に帰化した評論家、石平氏が産経新聞に寄せたリポートから拾ったものだが、改革開放政策によって生まれた「中国版資本主義」の寵児たちが、さらなる地位向上と財貨蓄積の可能性の高い祖国を捨てて、リスクも伴うであろう海外になぜ移り住むのか?そこが日本からはうかがい知れない深層の謎なのである。 中国の国内紙がこれら移住者に対して行った取材の結果、その原因が像を結び始めた。いわく、環境汚染や食品・医薬品の安全問題、公共サービスの悪さや社会的不平等さ、法体制の不整備と権力の横暴を原因とする「不安感」、投資・ビジネス環境の悪化──等々によって、極端にいえば「祖国不信」が自らを「棄民」に仕立てたのである。 「第1次移民ブーム」は、ほかならぬとう小平の改革開放路線によって海外の情報がどっと流入したことから、多くが先進国との彼我の経済格差に衝撃を受けたことが原因として起こった。 「第2次」は、天安門事件の「後遺症」でもある社会の強い閉塞感が招いたものだという。そして第3次の今回となったわけだが、過去10年間中国から海外への移民数は平均して年間45万人にも達し、外国へ「移動」した資産は2500億jにも上るという。この金額は、中国の政府と国内企業が今まで行った海外への直接投資の2倍であると石氏は紹介しているが、中国政府にとっては国内資産のなんとも手痛い、そして悔しい海外流出であろう。 それだけでなく、ノーベル賞ものの人材も相当失ったであろうことは想像に難くない。春秋に富むあたら人材をこのように外へ追い立てている損失を中国政府はどう考えているのだろうか。まさか「厄介払い」などと考えてはいまいが、少なくとも現在の政治体制がいかに欠陥を宿したものであるかということを自覚せず、改めないまま現状維持を図っていけば、中国は思わぬ「少人高齢化」という亡国の道をたどることになりかねない。 世界のどんな奥地にも中国人は入り込んでいるといわれる。いわゆる「華僑」とよばれる在外居留者、移住者だが、華僑という存在を生むに至った主因は歴史的につきまとってきた政治の不安定さである。だが、GDP(国内総生産)ではいまや日本を追い抜いて世界第2位、少なくとも経済的安定性と将来性を増したこの国から移民する必然性は過去のものとなったように思われるが、このように大量移民が発生する現状は、パンのみで生きるわけではない人間の尊厳性というものを別の価値観から捉える必要があるように思われる。 さて、振り返ってわが国はどうだろうか?むろんさまざまな欠点も問題も抱えている。だが、中国の「ブーム」は遠い将来はともかく、近未来に起こることはまず考えられない。それだけわれわれは恵まれた国に住んでいるということである。GDPでは確かに中国の後塵を拝したが、1人当たりのGDPは中国の10倍以上ある。ものづくりの面でも韓国や台湾の攻勢にさらされているが、依然底力は秘めている。ありがたいことである。(英) |
|