2010年12月10日 09:00 [Edit]

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東京都は青少年育成条例をを執行する能力がないことを証明する一言

もうこの件に関して言うべきことは十二分に言ったと思った私が甘かった。

青少年育成条例を改訂するか否か以前に、東京都にはそれを執行する資格も能力もなかったとは。


吉「実写や文字がOKなのは何故?」 浅「実写は業界の規制団体がうまく作用している。小説は読む人によって様々な理解がある。その点、漫画やアニメは誰が見ても読んでも同じで一つの理解しかできないから」 #hijitsuzailess than a minute ago via ついっぷる/twipple

なんとこれは。

表現の自由どころではない。漫画やアニメには解釈の自由がないと言うのだ。

これほど不健全な一言を、私は思いつくこともままならない。

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めぞん一刻 新装版(全15巻)
高橋留美子

めぞん一刻」という漫画がある。「成年向け」恋愛フィクションとしてはおそらく日本で最も親しまれた作品である。完結したのは昭和62年だが、連載中からアニメ化され、映画化され、単行本は一旦文庫に収録された後にワイド版と文庫版が出て、それでもまだ収まらず、2007年には新装版が出たという人気ぶりである。成年向けと書いた通り、同作にはセックスシーンがある。ほのめかしもごまかしもない、「誰が読んでも同じで一つの理解しかできない」、本番シーンがしっかり出てくる。

これまでのいきさつから、都が本作を不健全図書に分類することはないと私は確信できる。それどころか本作を「健全な性を描写した作品」として分類することで、都が「私どもはきちんと作品を見て判断していますよ」というアリバイ工作に使っている姿すら目に浮かぶ。

ところが、である。

世の中にはいるのである。

本作で「劣情を催す」人々が。

本作を「オカズにする」人々が。

その数はおそらく「オカズにすること」を念頭に描かれたほとんどの「不健全図書」より多いと推定できる。なにしろ母数からしてケタが違う。実際私は「響子さんでヌイた」という赤裸裸な告白を何度も聞いている。

しかし「オカズとしての利用」においては、本作ですら作者を同じくする「うる星やつら」や「らんま1/2」より少ないことは、作品をエロ化した同人誌の質量を比較すれば否定しようがない。「少年向け」作品の方が、「成年向け」作品より「不健全」という「不条理」。

しかし大事なのはそこじゃない。

もし役人がたまたま「劣情を催した」ら、誰がいつそれを読んでも劣情を催すことになってしまうということだ。

「誰が見ても読んでも同じで一つの理解しかできない」のだから。

これほど都民を、いや読者をバカにした話が他にあるだろうか?

実際のところ、作品の解釈というのは読者の数どころか、読書された数だけ存在すると言ってよい。同じ読者ですら、次に読むときには前に読んだときと「同じで一つの理解」はできないのだ。

数多のラブコメ同様、「めぞん一刻」においても、電話というのは作品の中で最も重要な小道具の一つである。同作の舞台である一刻館の電話は共用の公衆電話で、それが数々の悲喜劇を生むのであるが、連載終了当時のこの常識は、平成も20年を過ぎた今となっては「ありえない」設定であり、今改めて読むと愕然とする。あれほど「ありえた」話が、たった20年でここまで昔話になるとは…

それどころか、ずっと最近の作品である「ほしのこえ」ですらスマートフォンがある今となっては主人公たちが宇宙船の中でガラケーでメールしているところを見て思わず吹き出しそうになってしまうし、つい去年の作品である「サマーウォーズ」ですら、iPhoneが4でないことに違和感を覚えてしまう。

作品は変わらない。しかし読者も世界も、一瞬たりとて同じではいられないのだ。

断言するしかない。

そんな根本すら知らぬ都には条例を施行する以前に、作品を審査する能力すらないのだ、と。

Dan the Taxpayer


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