21世紀フォーラム

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第96回例会「千古の杜に息づく春日の信仰」 春日大社宮司・花山院弘匡氏

 ◇環境問題、道を示す神道

春日大社宮司の花山院弘匡氏=大阪市中央区で2010年10月6日、小関勉撮影
春日大社宮司の花山院弘匡氏=大阪市中央区で2010年10月6日、小関勉撮影

 異業種交流組織「毎日21世紀フォーラム」の第96回例会が6日、大阪市中央区のホテルニューオータニ大阪であり、春日大社(奈良市)の花山院弘匡宮司が「千古の杜(もり)に息づく春日の信仰」と題し、森と信仰のかかわりについて約190人に講演した。花山院氏は「山は水の源。山がいのちを支えていることを昔の人はよく知っていた」と話し、森が信仰対象であることを説明した。続いて、「(神社の敷地にある)御蓋(みかさ)山が青々としていないと、神さまは(春日大社から)帰られると考えられていた」と自然と密接に結びついた神道の基本を説明した。【田畑知之、写真・小関勉】

 春日大社は平城京の守り神として創建され、藤原氏が政務をつかさどっていたため、お迎えした藤原氏の氏神でもありました。そのため戦後、藤原氏の直系の者が宮司になってお社をお守りしていくこととなりました。

 父は学徒動員により出征し、戦後は東京から佐賀へ行き、教師を勤め、70(昭和45)年から春日大社の宮司となりました。私も教師を勤めていましたが、先代の宮司が引退され、宮司を拝命いたしました。花山院家は、始祖の家忠が花山法皇のお屋敷をいただき、この家名となりました。

 春日大社には特定の氏子はおりません。国の平和と国民の幸せをずっと祈ってまいりましたので、すべての人々が氏子のようなものです。

 ◇能舞台の松が示す芸能と大社の歴史

 さて、能舞台の後ろには必ず松の木が描かれています。これは春日大社の松の木なんです。春日大社の御本社は四柱の神様をおまつりしています。第四殿の比売(ひめ)神さまは女神で、平安時代にお子様をお産みになられます。その若宮さまのお祭り「春日若宮おん祭」では50頭もの馬も出る日本最古といわれる大行列があり、平安朝以来の芸能が数多く演じられます。この行列は途中、参道にある神様の現れられた「影向(ようごう)の松」の前で、一節だけ芸能を奉納し、この中に猿楽座もいます。猿楽にストーリー性が付いたものが、能楽であり、猿楽が変化して能となった最古の記録がおん祭だと言われています。このことから能舞台の鏡板に「影向の松」が描かれるようになりました。

 今年で875回目の若宮おん祭には、摂関家の使いも参りました。これを日使(ひのつかい)と言います。このお役を昨年はシャープの町田勝彦会長に、今年は関西電力の森詳介会長にご奉仕いただく予定です。

 ◇山から下りた神が人間と稲作を守る

 さて、本題です。春日大社は御蓋山が神様のお山、すなわち神奈備(かむなび)です。国学者の折口信夫は神道の起源を祖先崇拝と述べています。祖先は亡くなり山に帰り、家族を守っていくとの考えです。時代と共に、稲作の季節になると神様が山から下りてこられ、収穫が終わると山に帰られる。神様が山におられるのは、理にかなっています。山は大切な水源であります。人間の体の大半が水分であり、水がないと人間は生きていけませんし、稲作も成り立ちません。

 安倍仲麻呂は753(天平勝宝5)年、唐の揚州の港で、日本のある東から上がる月を見て

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

 と歌いました。「これから奈良に帰れるんだ。また御蓋山にかかる月がみられるのだな」との叙情的な歌に思いがちです。続日本紀によると、717(養老元)年に御蓋山の南でおまつりをしたとの記録があり、これは安倍仲麻呂ら遣唐使の無事な渡航と役目の遂行を願った祈願祭でした。帰国にあたり御蓋山の歌を詠んだのは「出発の時に守ってくださった御蓋山の神様よ、この度もご加護を」との思いもあったのです。

 平城京ができた708(和銅元)年、元明天皇は詔で「平城の地、……三山鎮めを作し」と申されました。三つの山のうちの一つが御蓋山で、平城京を造る時のポイントの一つでした。御蓋山の頂上から尾根づたいに春日大社の御本殿があり、さらに西に行くと平城京の中心にあたります。

 ◇狩猟伐採を禁止し動物と原生林今に

 続日本紀に、750(天平勝宝2)年に春日の酒殿に天皇が行幸された記録がありますが、その時は御社殿はなく、創建されたのは768(神護景雲2)年でした。一般的に神社は、第一殿は中央、第二殿が右側、第三殿が左側との並びになりますが、春日大社は頂上に近い方から第一殿となり順に第四殿となります。御社殿は階段状に建っており、当時の土木技術でも簡単に山を削ることはできましたが、なるべく神様のお山を傷つけることなく造られています。そして841(承和8)年に神様の聖域ということで狩猟伐採が禁止となり、シカなどの動物と原生林が今まで守られてきました。

花山院弘匡さんの講演に拍手する例会の参加者ら=大阪市中央区で2010年10月6日、小関勉撮影
花山院弘匡さんの講演に拍手する例会の参加者ら=大阪市中央区で2010年10月6日、小関勉撮影

 ◇生命の基盤となる自然、神の力を感じた日本人

 強い神様に平城京を守っていただくために、武神の鹿島神宮(茨城県)と香取神宮(千葉県)、文神の枚岡神社(大阪府)の神様をお迎えしていたので、もしご意志に反すると御蓋山の木々が枯れ、神様が帰られる、と考えられていました。春日から神様がおられなくなると、国や国民を守る力が落ちるということです。ですから朝廷は春日へ楽人を招いて七日七夜、御神楽を奉納させました。御蓋山の木々は常に青々としていなければならないのです。

 日本は八百万(やおよろず)の神ですから、一つの神様だけではなく、多くの神様がおられます。私たちにそれぞれ個性があるように、神様にもそれぞれお力があります。このことは日本人の寛容性の表れです。日本の神道と仏教は重なり合っていると思います。中国から仏教が伝わったとき、神仏の対立はほとんどありませんでした。新しい神様が一人お増えになられたということです。神道のベースの上に仏教は伝わったのではないでしょうか。

 日本人は神様の強いお力を生命の基盤となる自然の中に感じ、命を紡いできました。世界中で環境問題が注目されている今、神道の考え方が人類に道を示していると考えます。

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 ■人物略歴

 ◇かさんのいん・ひろただ

 1962年生まれ。花山院家の第33代当主。87年に國學院大文学部神道学科を卒業し、奈良県立高教員になる。08年3月まで、同県立奈良高で地理を教え、同年4月から春日大社宮司に。花山院家は藤原道長の孫、関白師実(もろざね)の次男家忠が11世紀末に創立した。五摂家に次ぐ九清華家(せいがけ)の一つで旧侯爵家。

2010年11月1日

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