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introduction  

2011年 01月 01日

    創価の森の小さな家

当ブログへようこそ!
菊川広幸と申します。茨城県在住の創価学会員です。
壮年部で活動しています。本当に書きたいことを書くために、創価学会系ブログを立ち上げました!^^
過去の記事は、右欄の『カテゴリ』をご利用ください。
今後とも、宜しくお願いいたします!^^
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# by sokanomori | 2011-01-01 01:01 | 挨 拶 | Trackback(3)

戦争の是非(下)  

2010年 12月 09日

◇正当防衛の戦争は容認されるのか。

私は、黄海での米韓軍事演習の終了時点で、「防衛戦争容認論」なるものを書きました。
この記事の主要な部分を以下に抜粋します。
-----------------------------------------------
私は、防衛のための戦争は肯定します。
私たちの生活を守ることは当然の権利だからです。
凶悪な侵略行為には、十分な対抗処置を施し、初動作を迅速にして、損害を小さくするために何にも優先して努力する必要があります。
私たちが正当に働き、正当に生活をしている国を搾取し、傷つけるなら、断固として戦うこと。それは、仏法の哲理に照らしても、間違いではないと信じます。(中略)
ただし、戦争をするなら条件があります。
1つに、今の日本であるということ。
2つに、粘り強い対話交渉、あるいは関係諸国、国連など、打つべき全ての手を打ち、それらが全て効果を出せないという条件での戦争です。(中略)
私は、理不尽な領海侵犯に対抗する海上保安庁の職員の皆様、また、有事の際に命を懸けて戦う自衛官の皆様に、心から敬意を表明し、感謝をいたします。
どうか、正義の名のもとに、適切な対応をして頂きたいと思います。
-----------------------------------------------
改めて、この文章を見ると、私自身、この内容には欠陥があることが分りました。
今、私の心には、もっと気高く尊い考えが存在しています。
過去のことを申し上げれば、私は、正当防衛上の戦争を問題視したことはありません。
創価学会が唱える「国連主義」。その国連憲章で「自衛権」は公に認められています。
以下の3つの条件が当てはまれば、正当な防衛行為であり、国際世論から非難されるものではないからです。
1.急迫不正の侵害があること。(急迫性、違法性)
2.他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと。(必要性)
3.必要な限度にとどめること。(相当性、均衡性)
この権利を、行使するかどうかは別としても、その自衛のための戦争は許される、だから、戦争は容認される、しかも、「悪」に対する戦争は、「悪に対抗するのだから正義」である」と考えていた。しかし、現実には、「正義の戦争」など存在していなかったし、さらに、「断固として戦う」という表現は、明らかに不適切な表現だったと感じております。
今、私は、
-------------------------------------------------
「正義の戦争」はないのであり、「最後の最後まで、対話と誠意で解決をする」こと。
「それでも戦争になったらどうするのか」という気持ちを一切持たないこと。
戦争状態にある敵すら、味方に変えるという「平和への決意と行動」こそが、創価学会の根本思想であり、「戦争をしないで解決する」思想こそ宣揚されるべきことである。
-------------------------------------------------
という考えに変わりました。
仏法、なかんずく創価学会の高度な視点から見れば、私の見方は小さく浅いものでした。
今後は、池田先生の弟子の一人として、創価思想の観点から歩んでまいります。
さて、私は、長々と「戦争の是非」シリーズを書きました。
その理由は、私が、この考えに至るまでのプロセスを明らかにすることで、「正義の戦争」を訴える人々の心理が決して戦争を好んでの発言でもないし、むしろ、戦争を極端に嫌うが故に、「指一本、触らせないぞ!」との意志表示もあることを知っていただきたかったからです。そして、その心理を理解した上で、どのように接してあげるべきかを考える材料にしていただきたかった。
私の今回の意識の変化は、祈りだけも、読者の皆様のコメントだけでも得られなかったし、本部指導だけでも、池田先生の著作物だけでも得られなかったと感じています。
私の意識が変わるためには、この一連のプロセスの全てが必要でした。
1人の人間の考えが変わる、あるいは変えるというのは容易ではありませんね。^^
ある人の善意の投稿で導かれた池田先生の著作には、
-----------------------------------------------
仏法を好戦的と見るのも誤りなら、非暴力・無抵抗主義とするのも正しくないといえるでしょう。
ただし、(正当防衛は)過剰になってはならない。
最善の防衛は、相手を味方にすることです。
「法華経の兵法」の真髄は、ここにあるのです。
次善の策として、相手の攻撃力を、こちらの危険のない程度にまで弱めることです。
-----------------------------------------------
と書かれてありました。
私は、この言葉に巡り合えなければ、最終的な今の納得には至らなかったと感じています。
危険な北朝鮮に対してすら、「味方に変える」努力をすること。「攻撃力を弱める」にはどうするのかを考え手を打つこと。この目を見張るような具体的な思想と方策によって、私は心から納得いたしました。
読者の中には、「今さらなんだ。そんなことも知らないのか!」と思う人がいるかも知れない。
けれど、私のような分からず屋は、世の中に沢山います。否、一般的に見れば、私の過去の意見は、奇異なものではないと思います。
むしろ、創価思想は、理解に苦しむ高度な内容を秘めているのではないでしょうか。
尚、「自衛権の行使」、「防衛のための戦争」を「間違った考え」と指摘する人がいますが、私は、「間違い」というのはいささか極端と感じます。この創価思想から見れば浅い考えと定義すべきことでしょう。
以上で、「戦争の是非」シリーズを終了します。
このシリーズの最初の記事は、→ここをクリック!

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追伸:私は、考えた末に、「防衛戦争容認論」なる記事を、全消去することにいたしました。
きっと、数日後には消えていることでしょう。ですから、今のうちに、私の低い境涯が書かせた記事を、しっかりご覧になっていただき、一笑に付していただければと思います。
皆さん、ご意見、ご忠告、誠にありがとうございました。
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# by sokanomori | 2010-12-09 22:58 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(0)

正当防衛と生命の尊厳  

2010年 12月 08日

             ◇書籍「現代文明と宗教」の一文を転記します。
「問い」(抜粋)
正当防衛は、刑法上も認められています。
しかし、他の生命を傷つけたり奪うという結果については同じです。仏法においては、正当防衛という問題を、どのように考えているのでしょうか。

「答え」(ほぼ全文)
このように考えなければならないと規定した教えは、仏法にはないようです。
どう考え、どう行動するかは、各人の自由に任せ、その基盤となる哲学を打ちたてたのが仏法ではないでしょうか。
同じ仏教でも、小乗教は殺生をするなと、具体的な行動を規制しています。
大乗経になると、そういうことにはこだわらず、正法を護るためには殺生も許されるという説き方が、強く表に出てきます。
たとえば、仙予(せんよ)国王は、大乗を謗ったバラモンの命根を断つことによって、以来、地獄に堕ちなかったとさえ説かれています。また、有徳(うとく)王は、正法をもった覚徳比丘(かくとくびく)を守るために戦ったとされている。大聖人御在世のときも、小松原法難では、武器をもった在家の弟子が、大聖人を守るために戦っていますし、日興上人の遺誡には、仏法守護のために刀杖をもつことを許すとされている。
こうしてみると、大乗仏教は、いかにも好戦的に映るかもしれませんが、小乗の不殺生戒を否定しているのではなく、それは当然の前提として、その上で論じられているのです。
武力を使うのは、武力をもって侵害してきた場合、法を護るというための防衛としてであって、積極的に侵害することは、断じてあってはならないと考えるべきでしょう。
むしろ、仏法が偉大であるがゆえに、仏法を守ることがいかに尊いかを教えるために、そうした説き方がされたと思います。
生命を大事にする、暴力や武力を誡めるという点では、仏法ほど明快に徹底して強調している宗教は他に例をみないくらいです。
とくに、正法を誹謗する者に対して、「命根を断つ」ということについては、あくまで、釈迦以前の過去のことで、釈迦以後は、「其の施を断つ」ことだと明示されています。
これは、宗教上の対立は、教義論争で解決すべきだということです。
事実、東洋の仏教国においては、西欧のキリスト教国のような宗教戦争を行った例は、歴史上、一つとしてないのです。
先に私は、仏法を守るために武器をとった例、あるいは武器をもつことを許された例をあげましたが、仏教には、その逆の例、つまり、あくまで武力によらず、すすんで命を捨てた例も多く説かれています。
したがって、そうしたことは、各人の自主的な判断に任せられていると考えるのが妥当であり、仏法を好戦的とみるのも誤りなら、非暴力・無抵抗主義とするのも正しくないといえましょう。
大事なことは、あくまで法を護ることです。
戦わざるを得ないときは戦った例もありますが、反対にわが生命を捧げることが法を宣揚することになるときは、戦わないで敢然と命をなげだしていったのです。
そういう意味から、結論的には正当防衛は認められていると考えてよいと思います。
ただし、過剰になってはならない。最善の防衛は敵を味方にすることです。「法華経に勝る兵法なし」の真髄は、ここにあるのです。
次善の策として、相手の攻撃力を、こちらの危険がない程度にまで弱めることです。相手を死に至らしめるのは、下の下策というべきです。

以上、「答え」は、当時の池田会長のお考えになります。書籍は、1970年代当時、大白蓮華に掲載された質問対談がまとめられたものです。
次回は、今回の一連の出来事から、「最終的にどのように受け止めたのか」について申し上げ、このシリーズの結論にしたいと思います。
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# by sokanomori | 2010-12-08 23:45 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(8)

戦争の是非(中)  

2010年 12月 08日

 ◇創価学会の反戦主義のスタンス。

創価学会は、様々な感情を所有した人間の集団である。
原点は、日蓮大聖人の御書であるが、その哲理を、ビジネスや政治として語ろうとすると、意見は当然分かれてくる。
その原因は、境涯であったり、置かれている立場の違いであったり、好みの問題だったりする。
その中で、「正当防衛の戦争の是非」の認識も別々だと私は考えていた。
私は、このテーマを何としても知りたかった。否、これを乗り越えなければならないのである。読者の皆様には、この事件的状況を一笑いただければと思う。
さて、お約束である。
私は、学会本部で他の質問に交えて、「正当防衛の戦争の是非」を問うた。
以下に、その概要を記す。Aを私、Bを担当者にします。
------------------------------------------------
A「朝鮮半島は過去になく危険な状態です。仏法という視点から、防衛のための戦争は容認されるのでしょうか」
B「創価学会は、戦争にはいかなる理由があっても反対です。戦争は絶対に避けなければなりません。池田先生が、ソ連や中国など、反戦平和の対話を繰り広げられましたが、その行動が示すことは、戦争は絶対にしてはならないということです」
A「はい。それは承知しております。ただし、今の北朝鮮は、ニセ札を作り、麻薬を売り、原爆を沢山作ると公言している国です。対話もできないような国が攻めてきても、戦えないのですか?」
B「これは、私の見解ですが、戦う、戦わないという前提そのものがないのだと思います。戦争を起こさせないということに全力を尽くすということです」
A「そうですか‥。自衛隊にも学会員がいるし、韓国の軍人にもSGIの人もいるでしょう。彼らは、戦争が発生したとき、戦えないのですか?」
B「そのことは、その時に、考えるしかないでしょう」
------------------------------------------------
これが、防衛上の戦争の是非について、私が個人指導で伺った内容である。
私は三度質問をし、いずれも「容認する」という言葉を聴けなかった。
私は、これ以上の質問は控えた。後は、この答に、どれだけ自分を近づけられるかが課題になるからである。いずれにしても、戦争絶対反対の創価思想とは、最後の最後まで、「戦争回避を諦めない」という強固な意志をもつことと感じた。
私は、その究極の答えにいかにすれば到達できるのかを考えた。そして、「その時に考える」という言葉を何度も思い浮かべた。
これは一体、何を意味するのか。
私は、帰宅途中の電車の中で様々思索した。
------------------------------------------------
そのとき、銃の引き金を引くか、引かないかは、その人の考えなのだろうか。
泣きながら、お題目を唱えながら、引き金を引くのだろうか。
その人たちが、勇者でもなく、勝者でもないという立場で、
命を懸けたのに、日陰者で、誰にも誉められず、死んでいくのだろうか。
実際に、そんなことで、戦火をはね返すことなどできるのだろうか。
池田先生も同じ答えなんだろうか?
------------------------------------------------
その日の夜のこと。
ブログのコメント欄を見ると、非公開コメントに、「正当防衛について池田先生が語られている書籍がある」と教えてくれた人がいた。
私は、示された書籍が1972年に発刊された「現代文明と宗教」という本で、その中に、「正当防衛と生命の尊厳」と題された文章があることを知った。
翌日、私は、国立国会図書館に出向き、その書籍の一部をコピーに取った。
そして、その文章を何度も読み返したのです。
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# by sokanomori | 2010-12-08 22:51 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(2)

戦争の是非(上)  

2010年 12月 07日

                ◇工藤吉隆の殉死と日興遺誡置文。
以下に、戦争の是非について、個人見解を述べる。
「正義の戦争」はあるのか。「正当防衛の戦争」は容認されるのか。
その答えの一端を、私は知る必要があった。
日蓮大聖人は、生涯、難を受けられた。何度も命を狙われた。大聖人は一度として、武器を使用されていない。さらに言えば、大聖人は、道を歩かれるとき、蟻すら踏まないように気を配られていた。
しかし、弟子には武士もいた。その武士は、当然のことであるが帯刀している。
小松原の法難のときのこと。
日蓮大聖人は地頭の東条景信が率いる念仏者らに襲撃を受けた。
この時、大聖人の随行は10人程度であった。
襲撃により、大聖人は頭を切られ、腕を折る重症を負われている。この絶体絶命の事態の中で、鏡忍房は即死、工藤吉隆は戦いの末に致命傷を受けて殉死した。
襲撃から大聖人は生還されたのであるが、当時のことは、「うつたち(討つ太刀)はいなづまのごとし(中略)・うちもらされて・いままでいきてはべり」(御書1498頁)と述べられているように、凄惨を極めた事件であった。
工藤吉隆は武士であるから、当然、刀を抜き、大聖人をお守りするために戦った。
私は殉死した工藤吉隆を過去から尊敬していた。
次に、日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきぶみ)を拝してみる。
この日興遺誡置文は、日興上人が死の直前に、末法万年の私たちのために書き残されたもので、遺誡として二十六箇条が述べられている。
この中に、次の御文がある。
「刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す・但し出仕の時節は帯す可からざるか・若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事」
この意味は何か。堀日亨著「富士日興上人詳伝」に見てみよう。
以下に、その一部を抜粋する。
--------------------------------------------------
(刀杖とは)戦国時代物騒騒然たる時の自衛のための武器である。
進んで人を切る殺人の剣ではなく、退いて身を守る活人剣である。
旅行または平常は帯刀随意だが、正服にて法座に登る時は、自ら携えてはならぬ。
下輩の大衆等は、自衛のため、また上級僧を護衛するためにさしつかえない。
--------------------------------------------------
単純に拝せば、「自衛のため」であるなら、剣を使うことは「護衛するためにさしつかえない」と読める。私は、この部分は、過去に何度も読んでいたことである。
私は、「正当防衛」は、当然のことと考えていた。
戦争は国家と国家の間に行われる戦闘行為である。今、朝鮮半島の緊張は極限に達している。韓国にも創価学会員はいる。対馬、九州の創価の友も、緊張の中にある。
もし、戦争になったら‥。当然、防衛のために行動する権利はあるのだから、それは「正義」になるであろう。私は、そのように考えたし、私の心の発露として、「防衛戦争は容認されると思う」とブログで発言した。
すると、読者から、私の個人的意見を嫌悪し、その間違いを指摘する数々のコメントが寄せられた。批判はあると予測していたが、その数は予想を上回るものであった。
鈍感な私も、さすがに、ただならぬものを感じた。私はオカシイのであろうか?
私は、御本尊に祈りつつ、戦争の是非を考えた。
最終的に、学会本部で個人指導を受けようと思い立った。
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# by sokanomori | 2010-12-07 22:50 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(10)

不適切な記事のお詫び  

2010年 12月 06日

◇「防衛戦争容認論」を撤回します。

大変お騒がせいたしました。
私は、「防衛戦争容認論」なる記事を書きました。
この記事の意味は、「正当防衛は許される」という、私にとっては何の違和感もない内容のものでした。
しかし、読者の皆様から沢山の苦情をいただきました。
今回の問題を大きくした原因は、文章の書き方(過激な文章表現)にもありますが、焦点は「正当防衛の戦争」の是非についてのことと受け止めています。
コメント欄には、「戦争はいかなる理由があっても許されない」とのご意見が多く寄せられました。私は当初、この意見には同意できませんでした。
ある意味、現実的でないと思ったのです。
誰しも、暴漢に家族が襲われたら、当然、抵抗することでしょう。むしろ、抵抗しないという考えは存在しないのであり、それが国家においては戦争状態であると認識していました。
まして、防衛を職務とする人々にとって、「戦争が絶対悪」だと定めるなら、その人たちはまったく浮かばれないことになります。
防衛上の行為は正当との認識の方が、むしろ自然だと私は思っていました。私は、反戦平和とは、戦争の発生する以前の話と考えていました。ひとたび戦火となれば、勝利に向かって動くことは当然と考えていたのです。
私は、御書を読み、御本尊に祈りつつ、私のどこが悪いのかを考えました。生まれてこのかた、「戦争は是か非か」を祈り、問い、考えたことはありませんでした。
私は熟慮の中、一応の答えを得ましたが、より納得のいく方法として、学会本部で個人指導を受けました。さらに、ブログのコメント欄からも、ご意見としてしっかりと受け止めました。
結果として、私の発言は不適切であったとの結論に至りました。
「正義の戦争はない」ということが、ほぼ、納得できたのです。
この認識は、かなり高度な内容です。
単純に「無抵抗」とも意味が異なりますので、今後のためにも、改めて、私の何が間違いであったかを、しっかりとお伝えしたいと存じます。
まずは、お騒がせしたことを正式にお詫びすると同時に、先日作成した記事の全面的な改訂をお約束いたします。誠に申し訳ございませんでした。
尚、私の不適切な発言に対し、愛情を持って、ご意見、ご忠告を下さいました沢山の同志の方々に、心より御礼と感謝を申し上げます。ありがとうございました。
明日以降、「戦争の是非」について記事にいたします。
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# by sokanomori | 2010-12-06 23:30 | Trackback | Comments(28)

現状のご報告  

2010年 12月 05日

◇この記事は、後日消去します。

本日は、私の「防衛戦争を容認する」という発言に、多くの方々から大変なお叱りと、ご忠告を頂戴いたしました。
批判があることは分かっていましたが、予想以上でした。
私が今回述べた「戦争容認論」、題名も問題で、かなり多くの読者の方が「ど~したの!!」という反応だったのではないかと反省しております。
まず、問題は、「文章の書き方が悪い」半分、もう半分は「自衛のための戦争も不可、もしくはその発言そのものがタブー」ということと感じています。
文章の書き方の問題は、全ての私の考えがまとまり次第、記事を修正しますが、題名はそもそも問題で、先ほど、「防衛戦争容認論」に変更しました。
勿論、このことで、何の問題解決にもなっていないことは分かっています。
内容は、今すぐにでも変えたいのですが、あえて、「このような文章を書くと、読者が黙っていませんよ!」という戒めのために、あるいは「反面教師的価値もある」と考え、まだ変えないようにしております。

さて、私は、私の納得の上でしか、文章の変更はいたしません。
「皆から言われたから、仕方なく変えた」、あるいは、「心は裏腹で、非難されるのがイヤだから変えた」ということは、読者への冒涜であり裏切りと考えるからです。
過去から、私は、このブログを全て本音で語ってきました。
私は、私の意見をブログに述べているのであって、学会の新聞記事や指導を、コピーペーストしている訳ではありません。
私の未熟は、当然、露呈することになります。
ですから、私の思い込みでの失言や勘違いは今後もあるでしょう。
その時は、今回のように、ど~んとご批判をいただければ、私の新しい知識、新しい決意、反省や人間革命の糧にしますので、ご遠慮なくお申し付けください。
ただ、ご批判の中で、バカモノとか死ねとかというコメントは、公開いたしません。
その点は、ご了承下さい。

さて、私は、「防衛のための戦争」は過去から今まで、それが「問題」と考えたことはありませんでした。中に、「戦争は絶対におかしい!」という人は、周囲におりました。それは、少数だと思っていました。
「侵略戦争はオカシイ」「軍国主義はオカシイ」、さらに、「過度な反撃はオカシイ」、これは100%当然です。けれど、「防衛戦争はオカシイ」のでしょうか?
創価学会は、戦争を完全否定しているのでしょうか?
公明党はどうでしょうか?
自衛隊の中にも学会員がいますが、その人たちは戦争ができないのでしょうか?
戦争には一切、正義は存在しないのでしょうか?
私は、この答えの一端を知りたいと思います。
そこで、私は、次の記事で、「何故、私が防衛戦争を容認するに至ったか」を語ります。次に、「その考え方は正しいのか、間違っているのか」の検証をしたいと思います。
今しばらく、お時間をください。

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# by sokanomori | 2010-12-05 22:09 | Trackback | Comments(26)

記事は変更したいと思います。  

2010年 12月 04日

◇この記事は、後日消去します。

昨日の記事で、複数の方から「発言に問題がある」とのご指摘を頂きました。
ご批判は当然あるだろうと思っていましたが、デリケートな内容であり、表現も誤解を招くところがあったと感じています。
ただ、今回の一連の内容は、お遊びで書いたものではありません。大変憂慮すべき事態を悩んでのことでした。
韓国には、私の知り合いの家族も生活していますし、韓国人の友人も数人おります。沢山の同志の方々もいる。
到底、他人事には思えない訳です。
私としては、過去、韓国の国境線や北朝鮮軍の掘った攻撃用のトンネルの視察もしています。国境線の警備状態も、この目で見ております。加えて、外国での紛争地で、私自身、危ない目に遭ったこともあります。その時は、日本人の危機感の浅さを思い知らされました。
いろいろな私の経験が、朝鮮半島の緊張に対して、あのような記事を書かせたのです。
ともかく、ご批判の内容は分りましたし、問題点も分りましたが、どこを、どのように修正し、私の意見として残すかは、まだ見えません。
私は、反戦主義です。戦争は心から嫌っております。しかし、北朝鮮の軍国主義を断じて許せないという気持ちと、韓国の人々への思いもあります。
平凡な学会員として、私は素直に記事を修正し、1つの私の意志として、もう一度文章を組み立てます。

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# by sokanomori | 2010-12-04 22:58 | Trackback | Comments(18)

補足説明  

2010年 12月 03日

◇この記事は、後日消去します。

ご気分を害された人もいらっしゃることでしょう。
その点は、お許しください。
これは、当然のことながら、私の個人的意見です。個々、戦争に関する受け止め方は違うでしょう。
私のこの記事が切っ掛けとなり、日頃考える事が少ない戦争を考える機会にしていただければと存じます。
最後に、戦争に関する記事を紹介して、終了します。

◇終わらない戦争(アフガニスタン戦争)
◇イラクの自爆テロ
◇イランの宗教対立紛争
◇9.11同時多発テロ
◇神国日本の崩壊

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# by sokanomori | 2010-12-03 22:57 | Trackback | Comments(4)

防衛戦争容認論  

2010年 12月 03日

               ◇専守防衛の戦争は認められると思います。

以下の文章には、いくつかの不適切な文章が含まれています。
問題の箇所は削除し、改定する予定です。
---------------------------------------
一昨日、米韓両国の軍事演習が終了しました。
北朝鮮の砲撃に対抗するため、戦争も辞さない過激な軍事演習でした。
しかし、今後も、軍事演習は継続される模様。
非常に危険な日々が続きそうです。
いつの日か、この対立が平和裡に終わることを祈らざるを得ません。
戦争でなく解決できたらと心から願ってます。
さて、私たちは長く戦争の緊張から遠ざかってきました。
そこで、考えなければならないのは、戦争は絶対悪かどうかの認識です。先般、民主党の議員が、「自衛隊は暴力装置」と発言し、非難されました。個々、思いは異なるでしょう。
そもそも、軍事力とは何でしょうか。
有事の際に、私たちはどうすればいいのでしょうか。
日本の国防費は、年々削減されてきました。これに対し、周辺諸国の軍事費は拡大を続けています。私は素人なのでその点は分かりませんが、少なくとも、北朝鮮に対する備えは十分にして欲しいと思います。
以下に、私の個人的意見を申し上げます。
-----------------------------------------------
私たちが住む国土に、他国が砲弾やミサイルを撃ち込み、私たちの飛行機を撃墜し、艦船を破壊する行為があった場合、私たちは防衛上、攻撃してきた対象に反撃をします。これが、過度に繰り返されると、国家間の戦争になります。
私は、防衛のための戦争は肯定します。私たちの生活を守ることは当然の権利だからです。
凶悪な侵略行為には、十分な対抗処置を施し、初動作を迅速にして、損害を小さくするために何にも優先して努力する必要があります。
私たちが正当に働き、正当に生活をしている国を搾取し、傷つけるなら、断固として戦うこと。それは、仏法の哲理に照らしても、間違いではないと信じます。
もし、それで、腕を失い、あるいは足を失い、場合によって命を失うことがあっても、私たちは私たちの国土と自由を守るために戦うことでしょう。私は日本人の一人として、正しい戦争なら積極的に協力したいと思う。
中に、仏法の哲理の上から、人を殺したり、殺されたりすることを嫌悪する人もいることでしょう。それはそれで良いと私は思います。戦いたくない人は戦わない道もある。
けれど、守りたい人は、当然、立ち上がり戦う。私は、世界に冠たる平和憲法を持ち、宗教と言論、あるいは表現の自由を保障してくれている、この日本という国を守りたい。私の大事な友人、知人、そして創価の幾百万の同志のために、何ができるかを考え、行動します。
ただし、戦争をするなら条件があります。
1つに、今の日本であるということ。2つに、粘り強い対話交渉、あるいは関係諸国、国連など、打つべき全ての手を打ち、それらが全て効果を出せないという条件での戦争です。
(尚、侵略戦争の場合は、殺されてもやりません)
-----------------------------------------------
私は、理不尽な領海侵犯に対抗する海上保安庁の職員の皆様、また、有事の際に命を懸けて戦う自衛官の皆様に、心から敬意を表明し、感謝をいたします。
どうか、正義の名のもとに、適切な対応をして頂きたいと思います。
以上で、今回のシリーズを終了します。
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# by sokanomori | 2010-12-03 21:42 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(23)

続・靖国神社  

2010年 12月 02日

            ◇私は、靖国神社について次のように考えます。
皆さんは、国家神道を知っていますか。
国家神道について、どう思いますか。
私は、戦争末期の悲惨な思想弾圧によって、善良な人々が投獄された事実を忘れることができません。国家神道を旗印として、軍国主義を押し付け、幾百万の人々を殺害した政治家と宗教を許すことができません。
靖国神社と戦争博物館を見学したのは、そういう意志が背景にありました。
宗教の研究書である「日本の宗教」(出版社「大明堂」・著者「堀一郎」元東大教授他)によると、宗教の歴史は、戦前と戦後に大別できるといいます。
戦前においては、国家神道(神社)は他の宗教の上に存在していました。
当時、国家が公認した宗教だけが、国家の監督のもとで一定の保護が与えられました。
戦前に公認・統合された宗教は、神道が13派、仏教が13宗28派、キリスト教教会2教団のみです。国家は、このように、公認したものだけを宗教と定義しました。しかし、社会的な事実として、新しい宗教が発生することを妨ぐことはできませんでした。
この思想統制の時代に、初期の創価学会は存在していました。初代会長牧口常三郎先生は、この国家神道の時代に投獄され、獄死しました。
暗黒の時代は、戦争の終結と共に180度変わりました。
天皇の人間宣言、軍国日本の崩壊の後、日本国憲法の制定と共に、信教の自由は無条件に保証されました。政教分離が実施され、国家に宗教的枠組みをはめていた国家神道が解体されました。神社も一宗教として、存亡を民衆の支持にゆだねたのです。
このとき、靖国神社も過去の特別待遇を失いました。
しかし、この神社を国家管理に戻そうとする「国家護持運動」が繰り広げられました。
1969年、当時の政権与党は、国家管理化を目指す「靖国神社法案」を国会に提出しました。その後も、与党は、合計5回も同法案を提出しました。これらは、野党の猛烈な反発を受けて廃案。次に問題となったのは閣僚の公式参拝です。
このように、靖国を国家の公認にしようとする人々と、阻止しようとする人々とが争っていました。今となっては、この神社が国の管理になることはないし、それは、絶対にあってはならないことだと思います。
国家の慰霊施設は、兵士だけでなく、民間人も平等に取り扱うべきであると私は主張したい。
できれば日本人だけでなく、中国人、朝鮮人、あるいはアメリカ人やその他の関係諸国の被害者の全てを対象とし、特定の宗教ではなく、むしろ宗教色を取り払い、国家行事として憂いのないものにしてほしいと思っています。
現在、靖国神社は、単なる一宗教です。
今回の記事は、戦前の靖国と国家神道に対してのものです。
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# by sokanomori | 2010-12-02 21:40 | 他宗教・他思想 | Trackback | Comments(12)

遊就館(ゆうしゅうかん)  

2010年 12月 01日

               ◇靖国神社の宗教の現証がここにあります。

靖国神社の遊就館。
私は800円の入場料を支払い、2階に向うエスカレーターに乗った。
この博物館の入り口には、日本兵の銅像がある。戦場を駈ける若者の像である。
銃弾が飛び交う戦場で、倒れ、死んでいった人々の人生とは何であったのか。
私は、この入り口の向こうに、その答えがあるような気がした。
展示会場は、写真撮影が禁止されている。よって、以下に文章のみでお伝えします。
------------------------------------------------
博物館の入り口には、シアターが2ヶ所あり、私はその一室に入った。
暗がりに映し出されたのは、日露戦争や日中戦争の映像であった。
過去の日本軍の戦争が、正当化された内容に作られていた。ナレーターは、「日本軍の中国侵攻は、アジアの平和をもたらすために行われた正当な行為だ」との内容のコメントをしていた。私は、腹立たしくなった。
「ここは、軍国主義の養成学校なのだろうか‥」
私は途中で席を立ち、次の展示会場に向った。
博物館は、最初、幕末から明治維新にかけての、長州藩の展示物で飾られている。
やがて、日露戦争、さらに日中戦争から太平洋戦争に続く内容になっている。
衝撃的だったのは、人間爆弾「桜花」と人間魚雷「回天」であった。
TVや写真で見たことがあったが、実物を見たのは初めてである。
「この爆弾に人が乗り込み、片道切符の特攻をする‥」
私は博物館の天井に吊るされている桜花を茫然と見上げた。桜花は、想像以上に小さな乗り物だった。搭乗した人間の気持ちを想像して息が詰まった。
次に、人間魚雷「回天」を見た。私には、真っ黒の鉄の棺おけに見えた。
「この鉄の塊に乗って、海水の中を進む‥。思いを遂げられず、海底に沈んだ若者も多かったのではないか‥」
搭乗した人々の恐怖と苦悩が伝わってきた。辛かった。悲しくなった。
展示会場をさらに進んだ。
やがて、戦死した人々の遺影や遺書のコーナーになった。
そこには、まるでホロコーストの展示室のように、顔写真が数え切れないほど貼られていた。
おびただしい数の遺書。砲弾が貫通したヘルメット。さらに軍服や様々な遺品が積み重なっていた。展示室には、汗臭い独特なニオイが漂っていた。
当時の人々の声なき声が聞えてくるようだった。
こうして私は、当時の人々の気配を身近に感じ、憔悴した心で見学を終えたのです。
------------------------------------------------
私には、靖国神社の一部始終が、巨大な戦争博物館に思えました。
そう考えれば、この神社の存在意義もあるのだと思います。
靖国神社と遊就館。見学することは、あながち無意味なことではありません。
ご覧になれば、きっと、決意にも似た何かが生まれることでしょう。
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# by sokanomori | 2010-12-01 22:10 | 他宗教・他思想 | Trackback | Comments(6)

靖国神社  

2010年 11月 30日

              ◇軍国日本の象徴的宗教施設を見学しました。

先月のこと。東京九段下に用事で出向いた。
そこに、かの有名な靖国神社があった。その巨大な鳥居が見えた。私にとって、もっとも嫌いな宗教が靖国神社である。意を決し、東京メトロ半蔵門線の九段下駅から坂を上り、ついに私は靖国神社に足を踏み入れた。以下に、見学した際の感想を述べる。

       靖国神社の大鳥居(第一鳥居)。私は、鉄製の鳥居を睨みつけた。
       長州藩の大村益次郎の銅像。日本陸軍の創始者の一人である。
       靖国神社の拝殿。建物内を撮影しようとしたら警備員に止められた。
       境内にある戦争博物館「遊就館」(ゆうしゅうかん)。展示物のゼロ戦。
       展示物の野砲。この建物の2階が、博物館の入り口になってる。
       見学を終えてて帰路につく人々。何を見て、何を感じたのだろうか。

私は、鉄製の巨大な鳥居と広い参道に戦慄を覚えた。
この道の広さは、戦争で兵器に変えられた兵士の数の多さを物語るものである。
私は、大鳥居から真っ直ぐ拝殿に向った。その途中で、長州藩藩士の大村益次郎の銅像を仰ぎ見た。この靖国の神は、天皇家由来の神ではない。明治政府の樹立後、長州藩出身の人々が中心となり、戦没者の慰霊として建設した神社である。
靖国神社の本質は、「戦争神」である。設立の志はそうでなかったかも知れぬ。
しかし、戦争を肯定・美化し、軍国主義を尊いものとし、戦死者の家族を納得させるために利用されたことは明白である。
参道には、旧日本軍の軍服を着た若者たちがいた。外国のメディアの取材を受けていた。
質問に得意気に答えていた。私は、不愉快な気持ちを抱えながら通り過ぎた。
戦地に赴く幾百万の兵士が、国家神道という鳥居を通過した。家族が見守り、見送った。そして、兵士たちは、戦場の土となり、海底の藻屑となり果てた。
最後、兵士たちは、戦死者名簿に名前を記されて、この靖国神社に帰ってきたのである。
私は、拝殿を瞼に焼き付けた。その後、戦争博物館を見学した。
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# by sokanomori | 2010-11-30 21:13 | 他宗教・他思想 | Trackback | Comments(10)

はじめの一歩  

2010年 11月 29日

                 ◇最初の一歩は大地をたがやすこと。^^

市民農園の初日である。(^^)
上写真は、作業終了時点である。
中・下の2枚の写真は、今回使用した耕運機。
最初、操作がまったく分からず困惑した。
耕運機の操作を、市民農園の先輩に聞いてやってみた。ものの10分程度で操作をマスターした。結果、1時間で畑をたがやすことができた。
これを、人力でやったら‥きっと1日仕事でも終わらなかったであろう。(笑)
その後、雑草を取って石灰を撒き、最後、水を与えて終了した。所要時間は3時間であった。
「野菜作り」は、「土作り」である。
何でもそうだが、準備が全てを決める。
モノの本によると、①たがやす→②石灰を混ぜる→③放置する→④肥料を混ぜる、この4つが基本のようだ。
石灰と肥料は一緒に作業ができない。
まず、石灰を混ぜながら畑をたがやすところまではできた。次は肥料の混合となる。
やってみて思ったことは、「何とかやれそうだ」ということである。科学的に道理で考えれば、きっとできる。失敗しても、そこから学べばよい。
この日、知り合いが4人もできた。
その中の1人は、週1回のみで野菜を育てているという。工夫すれば、短時間にできる方法も見つけられそうだ。
今後、この作業を通じて、多くの一般の方々との交流が深まると感じた。
定年退職したら、近所に知り合いがまったくいない‥そういう人が多いと聞く。
私は、沢山の友人を持ちたい。それは、内外を問わない。この街に、私は生涯住み続ける。
その中で、この農業経験は、きっと将来、役に立つことだろう。
まずは、3年ほどやってみようと考えている。ゆっくり、のんびり学んでいきたい。
家族は私のこの行動を、まったく評価していない。
「じっとこらえて、今に見よ」だ。(^^)

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# by sokanomori | 2010-11-29 00:10 | 市民農園 | Trackback | Comments(11)

プロジェクトX  

2010年 11月 27日

               ◇家族の反対の中で農地を借りました。(^^)

過日、仕事で東京都内の市民農園の見学をした。今まで、農業に興味などなかった私であったが、忽然と「農業をやりたい」という憧れが生まれてしまった。
調べてみると、私の家から歩いて5分のところに市民農園があることを知った。
家族に「市民農園を借りようと思う」と話をしたら、猛反対を受けた。
庭もやらない私である。「できる訳がない。雑草だらけになるのがオチ」というのである。時間もないサラリーマンが、日曜菜園でできる訳がないと考えるのは当然である。しかし、歩いて5分なら、朝早く動けば不可能ではない。
私は、家族の反対を押し切り、ついに、市民農園の2区画を借り受けた。
契約は、12月から5年間有効である。
年、2万4000円の賃料。これに、肥料や道具類のお金がかかる。投資分の作物の収穫が得られない場合、さらなる家族からの反発が予測される。(笑)
上図は、私の考えた畑の利用計画である。私の作地面積は60㎡である。
農作物には連作障害というものがあるらしい。そこで、敷地を「田の字」状に区切ることにした。4つに区切って、1年ごとに作物をローテーションしようという作戦なのだ。
農業をまったく知らない素人が、チンケな作戦を立てたところでお笑いぐさなのであろう。家族はまったく興味を示さなかった。信用ゼロである。(^^)
下写真のキャベツの向こうの空き地が、私の借り受けた農地である。この市民農園には、自由に使える農具がある。特に嬉しいのは耕運機があることだ。
市役所から、「契約は12月だが、使用は開始しても良い」ということなので、ついに明日、農園デビューをするつもり。何だか、遠足前の子供のようにウキウキしている。
と、いうことで、創価の森ブログに「市民農園」というカテゴリが増えました。
さて、この孤独なプロジェクトX。どうなることでしょう。(^^)

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# by sokanomori | 2010-11-27 23:59 | 市民農園 | Trackback | Comments(10)

見えてきた百万遍唱題  

2010年 11月 26日

                  ◇残り14万5000遍になりました。
今年も残り少なくなってきましたネ。
本日、やっと、唱題表を大きな節目まで塗ることができました。
夏バテ壮年部員の祈りから、少し、シャキッとしてきました!(^^)
残りは、「の年」の2文字。今のペースなら、年内達成は可能でしょう。
先日、聖教新聞社の展示室を見学しました。そのとき、池田先生のビデオ鑑賞をしたのですが、ビデオの中で寝たきりになってしまった壮年部員の言葉が紹介されていました。「御本尊の前に端座し、勤行、唱題をできるということが、どれほど幸せなことか」との内容でした。
年老いて、いつか私も寝たきりになることでしょう。今、この瞬間を大事にしたい。悔いを残さないよう、しっかりお題目を唱えたい。
過去、私は百万遍には6回チャレンジして5回達成しています。1度は、大きな魔が出現して、65万遍で挫折してしまいました。でも、残りの35万遍をあげて、そのお題目も、いつか100万遍に加えたいと考えています。
今年の百万遍が達成できれば600万遍になります。今後、コツコツ積み上げていきたい。
100周年までに3000万遍にできたらいいな!(^^)
ともあれ、残りを唱え切って、80周年を勝ち飾ります。頑張ります!
過去の記事は、→ここをクリック!

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# by sokanomori | 2010-11-26 21:23 | 祈 り | Trackback | Comments(28)

続・緊迫の朝鮮半島  

2010年 11月 25日

               ◇原子力空母派遣の決定について思うこと。

一昨日の北朝鮮の砲撃。一歩間違えば、全面戦争に発展する可能性があった。
過去、400万人もの尊い人命が失われた朝鮮戦争。日頃、戦争のことなど考えない日本人の一人であったが、今回の出来事は、深刻な朝鮮半島の悩みが伝わってきた。
当事国の李明博(イ・ミョンバク)大統領(写真上)は、私たちの数百倍のプレッシャーだったのではないか。
今、韓国では、北朝鮮に対する報復攻撃が手ぬるかったということで、国防相の辞任があったという。けれど、激しい反撃をしていたら‥。判断は難しいのではないか。
新聞報道で、今回の戦闘で死亡した兵士の家族(写真中)を見たが、胸が締め付けられる悲しみを覚えた。
私たちのすぐ横に、恐ろしい国家がある。
ニセ札を作り、麻薬を売り、今度は核大国になると公言している暗黒国家だ。いつか、北朝鮮は、核爆弾を長距離ミサイルに載せるだろう。さらに、核爆弾を商品として売り始めるかも知れない。
今の北朝鮮は、まるで火薬の倉庫で、火遊びをしている子供のようだ。
北朝鮮は、今回の戦闘となった海岸一帯に1000門もの長距離砲(写真下)で武装しているという。隣接する韓国の島は、これらの火力で攻撃されたらひとたまりもない。今回の事件は、私たちの平和が、脆弱な基盤の上にあることを知らしめる出来事ではなかったか。
米国は、この事件が発生した黄海に原子力空母を派遣し、軍事演習を行うことを決定した。
その日程は、11月28日~12月1日の4日間である。
派遣する空母は、世界最大級の原子力空母である。
アメリカの主力空母1隻は、小・中の国家レベルの空軍に匹敵するといわれる。その空母が、北朝鮮の目と鼻の先で韓国海軍との合同演習を行うというのである。これは、戦争も辞さない威嚇行為であり、極めて危険な演習である。本年3月、韓国の哨戒艦が撃沈されたこともあり、引くに引けない情勢なのであろうか。
日本は、原子力空母の演習日程に合わせ、十分な備えをして欲しい。
熟慮し、迅速に行動することを政治に求めたい。
黄海の演習は、3日後に迫っている。
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# by sokanomori | 2010-11-25 22:01 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(4)

緊迫の朝鮮半島  

2010年 11月 24日

             ◇日本は、緊急に十分な防衛上の手を打つべきだ。
驚いた。
北朝鮮が韓国に砲撃を行い、民間人にも被害者がでたという。
私は、仕事の関係でニュースを見ていなかったのであるが、これは大変なことだ。
23日午後2時半(日本時間同)ごろ、北朝鮮軍が韓国西方沖の延坪(ヨンピョン)島に砲弾を撃ち込んだとの報道である。
韓国軍も反撃し、砲撃戦となり、韓国軍海兵隊員2人が死亡した他、民間人を含む18人が重軽傷を負ったとされる。北朝鮮側は2時間にわたり砲弾を発射、一部は住居地にも着弾し、民家60~70軒が炎上したとのこと。北朝鮮側の砲台の一部は破壊されたようだ。
戦闘は、本当に収まったのだろうか?
全面戦争になる危険はないのだろうか?
日本は、日本海側の防衛処置を急ぐべきだ。
おそらく、公明党は、夜を徹して対抗手段を検討していることだろう。
今の民主党政権は、何をするにも動きが遅い。信用できない。
こういう事態は、甘く見てはいけない。何にも増して、注力するべきだ。
韓国の人たちに、被害者がこれ以上出ないことを祈りたい。
韓国政府は、対応に苦慮するだろう。日本は、隣国の問題を傍観すべきでない。
ボヤボヤしていたら、大変なことになるぞ!
まず、今すぐやらなければならないことは、安全の確保だ。有事の際には、動くという姿勢を見せることだ。次に、韓国やアメリカと力を合わせて、この事態の収拾に何ができるかを真剣に考え、具体的かつ有効な行動をするべきだ。
短期、中長期に渡る問題の解決策も十分に検討する必要がある。
今回の事態は、悪しき瑞相だ。この黄色信号は限りなく赤信号に近い。
過去、民主党は、野党時代に国防上の重要案件をボイコットしたことがある。
民主党の怠慢体質が、大きな問題を発生させなければよいが‥。
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# by sokanomori | 2010-11-24 00:48 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(16)

健康ジョギング  

2010年 11月 23日

                ◇100周年を元気に迎えるために。(^^)

妻と一緒にジョギングをした。
秋晴れの遊歩道。黄金色に輝くイチョウに惚れ惚れしながら走った。
猛暑だった夏の影響か、今年は秋が長い。
例年の今頃は、こんなにも樹木が葉をつけていなかったように思う。
多くのランナーが走っていた。元気な人が多い。かなり本格的な走りをしている人たちを横目で見ながら、重い体でペタペタ走った。(笑)
健康はあるものではなく作るものである。
今はヨボヨボであるが、来年2月のハーフマラソ大会の時には、それなりの健康と体力を作るつもり。1年を通じて運動できればいいのだが、レースが近くならなければやらないというのが、情けないところである。(^^)
ジョギング途中、道の向こうから手を振る2人の小学生がいた。S地区部長の子供たちだった。
私が手を振ると、2人の未来っ子は、笑顔でさらに大きく手を振ってくれた。この子供たちには、先日の地区座談会で会ったばかり。
御書講義をしたオッチャンとその奥さんが、仲良くランニングをしている姿を見て何を思うのだろう。些細な光景であるが、きっと何かを吸収してることだろう。
未来部は、壮婦男女の人々と頻繁に交流しながら成長していく。
子供たちにとって、創価学会は最高の教育環境だ。私も、創価の様々な人々に笑顔で励まされて育った。子供というのは、小さなことでも鮮明に覚えているものである。何気ない触れ合いの蓄積が刺激となり、栄養となる。。20年後、彼らは大変に立派な創価の後継者になっていることだろう。そう思うと、嬉しくてたまらない。
さあ、100周年に向けて、すでにスタートラインは越えている。
共々に、元気に楽しく、栄光のゴールを迎えたいものである。
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# by sokanomori | 2010-11-23 21:59 | 健康作り | Trackback | Comments(8)

信濃町での仏法対話  

2010年 11月 21日

◇信濃町学会本部のご案内と仏法対話の一事例。

先日、私は、外部の友人と1年ぶりに信濃町で再会した。本部は花々に荘厳され、同志の笑顔に満ちていた。
私は友人を、主要な会館(外観)と聖教新聞社の展示室、さらに民音博物館に案内した。その後、喫茶店で仏法対話をした。
「先ほど見ていただいた様々なものが創価学会です。理屈でもウワサでもない。ここに、私自身を含め、本当の創価学会がある。
これが、50年前、貧乏人と病人の集まりと馬鹿にされた学会です。世の中で、三流週刊誌に書かれている内容はウソです」
友人は、新聞社の展示室のビデオや、民音博物館のオルゴールについて、「感心した」と述べ、私に幾つかの質問をしてきた。
「学会が、『戦う』、あるいは『勝利する』と言っているが、一体、何と戦っているのか」
友人は、学会の「戦い」や「勝利」という言葉が過激に思えるのであろう。私は答えた。
「己心と世間の魔と戦い、そして、魔に勝利するということです。魔とは、人を不幸にする働きのことです。悪と戦い、悪を取り除き、善を作るということです。それは、本当に悪人と戦うということもあるし、不幸な現象、例えば、病気や人間関係のトラブルなども含まれます。要するに、幸福を掴むために挑戦し、果報を得るということです」
友はさらに質問してきた。
「学会は、生まれ変わるということを信じているのか」
私は、経本を開き、寿量品の一節を示しながら回答した。
「ここに、無量百千万・億載阿僧祇(むりょうひゃくせんまん・おくさいあそぎ)とあります。これは途方もない時間の単位で、無量、すなわち人智を超えた太古の昔から私たちは存在していることを述べています。善く生きるものは善く生まれ、悪く生きるものは悪く生まれると説いています。生命は永遠であると、私たちは信じています」
友は、経本を興味深く観察しながら、さらに質問をしてきた。
「学会の言う、『広宣流布』は、どこまでを目標にするのか。全員か」
私は、紙に「六難九易(ろくなんくい)」と書き、解説した。
「この仏法を信じ、実践するとは大変に難しいことです。火の中に入っても焼けないとか、ヒマラヤ山脈を手にとって投げることより難しいと経文には書かれています。昔の人は、理解不能だったに違いありません。しかし、今なら理解できる。防火服を着れば、火の中でも平気です。潜水艦に乗れば、海底にも行ける。原爆を使えば、ヒマラヤすら吹き飛ばすこともできる。しかし、この仏法を信じ、実践することは難しい‥」
私は再び経本を開いた。
「ここに、難解難入・一切声聞・辟支仏・所不能知(なんげなんにゅう・いっさいしょうもん・ひゃくしぶつ・しょふのうち)とあります。頭がいいから理解できるというものではありません。さらに、唯仏與仏・乃能究尽(ゆいぶつよぶつ・ないのうくじん) とあるように、仏と仏のみが極め尽くす‥究極の人々がこの偉大な仏法を悟ることができるとある。そのぐらい難しいということなんです。ですから、全員が全員、学会員になるということは無理でしょう」
この後、私が「一眼の亀」の話をすると、友人は、「それ、菊川さんのブログで見た」と言って笑った。本部見学と対談とで、3時間は、あっという間に過ぎ去った。
私は、持参した大白蓮華と新聞を手渡し、最後に申し上げた。
「学会の本当の姿は、座談会にあります。我が家で座談会があるときにお誘いします。見ていただきたいのですが、いかがでしょう」
友は、うなずいた。再開を約束して、信濃町駅で別れた。
これが、先日の仏法対話です。^^

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# by sokanomori | 2010-11-21 22:51 | 仏法対話 | Trackback | Comments(21)

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